地底旧都の飲み屋街は、今日も多くの妖怪達であふれかっている。
ヒト型が十人横並びになって歩けるほどの道幅と、50件を超える飲み屋賭博場遊郭。
宵の口となった今、ここは地底で最も賑やかな場所になっていた。
そこに、パルスィは立っている。
「やばい気持ち悪い」
目の前を行き交う多種多様な妖怪達の流れと洪水のように押し寄せるざわめきに、軽い目眩を覚える。
住み慣れた橋から二、三十分歩いただけなのに、この変わりようである。
「やっぱり帰ろうかな…」
パルスィは勇儀を訪ねて街にやってきた。
少し前にお互い遠慮の要らない仲になってから、一度は街に勇儀を訪ねてみたいと思っていたのである。
いつも勇儀が橋を訪ねてくれるのだから、たまにはこちらから出向きたい、と思ったのだ。
それを聞いた勇儀は、律儀だね、と笑いながらも喜んでいた。
「まぁでも、せっかくここまで来たんだし…」
パルスィはヨシと気合を入れて、人の流れに飛び込んだ。
勇儀の居場所については事前に話を聞いていた。
自宅か、鬼のたまり場となっている飲み屋か、旧都自警団詰所、この三つである。
この時間帯は飲み屋にいることが多いというので、今はそこに向かっている。
もっと時間ずらせば人ごみに苦しまずにすんだかもしれないが、パルスィは出発前に結構な時間をグズグズとすごしてしまっていた。
行くとは言ったものの、照れくささと、街へ行くことに思った以上に抵抗があったのである。
えいや、とやっと橋を離れた時には、いい時間になってしまっていた。
自業自得と諦めて、パルスィは勇儀に聞いた店を探していた。
「おー…い…パル…ちゃ」
「ん?」
パルスィは自分の名前を呼ぶ声に気づいた。
あたりを見回すと道の端でヤマメが手を降っていた。
人の波をかきわけなんとかたどり着くと、少し驚いた顔のヤマメと、そのヤマメの手にはキスメの入った桶がぶら下げられている。
それほど親密ではなかったが、ヤマメもキスメもかなり以前からのパルスィの知り合いである。
「ほらほらやっぱり、パルちゃんだよ」
と、ヤマメがキスメに言う。
キスメは不思議そうな顔をしてパルスィを見つめていた。
「やぁ。こんばんわ」
「どもども。やー、こんな所でパルちゃんと会うなんてびっくりした。ねえキスメ」
キスメはヤマメの言葉を受けてコクコクと頷く。
パルスィはキスメが口を聞いている所を見たことがないが、ヤマメにだけは時折口を聞くらしい。
「パルちゃん、今まで絶対街には入らなかったのに、どうしたの?」
ヤマメは少し首を傾けるようにして、キスメに目配せをしながら、「ねぇ」と言った。
ヤマメは一言毎に必ずキスメに目配せをして、キスメの意思確認をするようだ。
「ちょっと、人に会いにね。あー…勇儀、なんだけど」
パルスィがためらいがちに言うと、案の定ヤマメは嬉しそうに目をキラキラと光らせた。
その手元ではキスメも目を輝かせている。
「ちょっと、ええ!?何それ!なんだか二人とも仲良しだなあと思ってたけど、パルちゃんがそこまでするなんて!」
往来のザワメキに負けないくらいのハシャギ様である。
パルスィと勇儀が橋の上で会っていた所に、ヤマメは何度か出くわしているのである。
けれどあれから更に近しい間柄になったことは、まだ伝えていない。
そういう事を報告する関係をヤマメとの間に持っているのか、パルスィは自信がなかったのだ。
「勇儀さんと仲良くなってから、パルちゃん、少し明るくなった。ねぇ」
ヤマメが、キスメに微笑むと、キスメも嬉しそうにクリコクリと頷く。
「そうかな」
「そうだよ。パルちゃん、前は私が話しかけてもいつもムッスリしてたのに…今はちゃんと私の目を見て話をしてくれる」
そうだろうか、と考えてパルスィはふと気づいた。
ヤマメとキスメとは、勇儀と知り合う随分前からの顔見知りである。
けれど、ヤマメが言葉の最後にいつもキスメに目線を送っていた事には、今まで知らなかったかもしれない。
ヤマメの言うとおりかもしれない、とパルスィは思えた。
「私と勇儀…良い仲になったよ」
パルスィは少し言葉足らずに、ヤマメに言った。
ヤマメとキスメはびっくりした様子で、お互いに何度か目を合わせた。
むずがゆい気持ちになっているパルスィの手の平を、ヤマメが両手で握り、上下にぶんぶんと振る。
「おっめでとー!」
「ちょ、ちょ」
ヤマメはキスメの桶を握ったまま、パルスィの手を握っている。
パルスィとヤマメの間で、キスメが激しいピストンを繰り返していた。
けれどその表情は、ヤマメと同じくにっこりと笑っている。
自然とパルスィも笑っていた。
「ありがとう」
二人と別れた後、パルスィはあらためて自分の変化を感じていた。
恋人を怨んで自殺してから、行動も心の在り方も、ずっと陰にかたよって時を過ごしてきた。
けれど今はどうだ。
ほんの少しずつ、明の有り様を自分は持ち始めている。
自然に笑うことなんて、以前では考えられなかった。
勇儀がその明るさを運んできてくれたのだ。
これから自分の道は、少しずつ明るい方向に向かうのかもしれない。
パルスィはとても晴れやかな気分で、明るく賑わう夜の街を行く。
パルスィは程なくして勇儀から聞いた飲み屋を見つけた。
通りの他の店に比べてかなり大きめな二階建ての飲み屋である。
ドアはなく入り口は開放されている。
その入うちもまた妙に大きく、背の高い勇儀がパルスィを肩車してもゆうゆうくぐれそうな高さがあった。
赤い立派な暖簾が垂らされているが、パルスィでは手を伸ばしても手が届かない。
鬼達の集まる場所と言うことだから、体格の大きい彼らに合わせているのかもしれなかった。
入り口から中を除くと、店内はかなり広く、たくさん並べられたテーブルにはそれぞれ鬼たちが陣取って、外の通りに負けない程に騒がしい。
「勇儀は………いた」
勇儀は、壁際の席に3人の仲間と陣取っていた。
ちょうど入り口の方を向いて座っているが、パルスィにはまだ気付いていないようだった。
勇儀の向かいでパルスィに背を向けて座っている二人の鬼は、体格的にみて男型と女型のようである。
勇儀の隣に座っている鬼は、少し小柄な童顔の鬼娘で、頭の両側にはくねくねと木のつたのように歪曲した奇妙な角をはやしていた。
友達が多くて妬ましいわね、などと思っていた時である。
勇儀が盃をかかげて何事か言いながら、楽しそうに隣の鬼の肩を抱きよせて頬ずりをした。
「ちょっとっ…」
パルパルパルッ…と、脳髄が疼きだす。
しかしながら肩を抱くだけならまだ我慢できる。
何かとスキンシップ過多で大げさな勇儀の性格は理解している。
けれど次に見たものは許せなかった。
勇儀にだき寄せられている鬼が、はしゃいだ様子で勇儀に接吻を行ったのだ。
「なっ!!」
隠れてハッキリとは見えないがたぶん唇と唇に違いない。
おまけに勇儀はそれに対して嫌そうな顔もせず、そのまま小鬼を少し乱暴に抱きよせた。
ブツりと、いつの間にか噛みしめていた己の下唇の皮膚を、犬歯が刺した。
痛みと怒りが、電流となって全身を駆け抜ける。
パルスィはこのような場面を、まだ人間であった頃に一度、そして妖怪になってからは数えきれないほど見てきた。
明るくなっていた感情は、一瞬にして陰に変わり、そしてなお変化は終りではなかった。
激しい怒りは、パルスィが地底世界での静かな暮らしの中で長く忘れていた、怨の気質を、心に蘇らせた。
サァっと、店内に一陣の風が駆け抜ける。
嫉妬心によって増幅し飽和したパルスィの妖気が、体から溢れでて風になったのである。
勇儀を含め、何人かの鬼は、奇妙にじっとりとしたその風にきづいて、あたりを見回す。
勇儀が、パルスィに気づいた。
驚いて罰の悪い顔をしたり、おろおろと視線をさ迷わせたり、あるいは面倒くさそうな顔をしたり…パルスィの見て来た浮気者は、決まってそのような顔をする。
勇儀もきっとそうするに違いない。
勇儀のそんな表情を想像すると、パルスィは心を刺されるような、激しい痛みを感じた。
しかし。
しかしである。
勇儀は、パルスィの姿を確認して、未だに止まらない小鬼女の口づけを今度は頬をくらいながら、何の後ろめたさも無い笑顔で、パルスィに手を降っているのである。
少し遅れてパルスィに気付いた隣のその小鬼のほうが、むしろシマッタという顔をしていた。
パルスィは困惑した。
勇儀は早くこっちにおいでと言うふうに手招きをしている。
パルスィはいくらか冷静になった頭でハッとした。
今の自分はどんな姿をしているのだろう。
怨の気質に満ちた、暗く醜い顔をしているのではないか。
そう思いあたった時、パルスィは居ても立ってもいられなくなって、その場から走り去った。
そんな顔を勇儀に見られたくなかったのである。
道に溢れる妖怪を押し分けながら、パルスィは逃げる。
「パルちゃん!?」
そう叫ぶヤマメの声を聞いたが、パルスィは止まる事はできなかった。
パルスィがようやく足を止めたのは、住み慣れた橋にたどりついてからであった。
「…ワケわかんない」
そうつぶやいてパルスィは橋の手すりに顔を突っ伏した。
最初は勇儀が浮気をしているのだと思ったのだが、その後パルスィに気付いた時の反応は、パルスィが見てきた数多くの浮気現場のどれにも当てはまらない。
勇儀は全くいつも通りの勇儀だった。
「どうしよ」
問いただしたい、という気持ちはある。
だがパルスィは怖いのだ。
もし本当に浮気だったら…。
この後どうなるかは、これまでに嫌というほど見てきた。
中には信頼を取り戻して復縁した者達もいる。
だが自分の嫉妬深さは、それを許さないだろう。
一度裏切られたら、もう二度と心からは信用できない。
その現実に直面するのが怖かった。
妖怪になってから、誰かと親しくした事は一度足りともない。 むしろ親しい者達を引き裂くのが自分という妖怪なのだ。
今初めて手にした此の暖かい繋がりを断たれたら、橋姫がまたしても裏切られたとしたら、もう二度と今の自分には戻れないだろうという恐怖が、パルスィにはあった。
橋姫が恋をするのはそういう事なのだと、パルスィは今さらながらに理解した。
誰かを好きになるのは当たり前の感情だと、そう思っていた。
けれどそれは自分にとっては大間違いなのだ。
橋姫が誰かを好きになるのも、誰かが橋姫を好きになるのも、それは異常な事なのだ。
「どうしよ…」
呟いてみても、答えは返って来ない。
顔を上げたパルスィの目に、果て無い地底の暗黒が映った。
その時である。
「パルスィ」
勇儀の声。
パルスィが振り向くと、息を切らした勇儀が、トタトタと橋を渡ってくる。
「ゆう…ぎ…?」
言うと同時にパルスィは気づいた。
「…な、なんでよ」
勇儀の後ろには、ヤマメと、ヤマメにぶら下げられたキスメ、そしてさっきの小鬼がついてきている。
パルスィは余計に混乱した。
そうしているうちに、4人はパルスィの直ぐ側までやってきていた。
「パルスィどうした?何でどっかいっちゃうんだい」
そう言う勇儀のスネを、突然小鬼が蹴った。
「なんだ。痛いじゃないか」
「馬鹿だねえ勇儀、何にもわかってないじゃないの」
パルスィは、勇儀と気さくに話す小鬼を憎々しく睨む。
そして、それがどれだけ使い古された言葉だとわかっても、パルスィはそう口にせざるを得なかった。
「勇儀…この女誰よ!」
きょとんとしている勇儀に変わりに、小鬼が答えた。
「伊吹萃香だ。あんたは橋姫のパルスィだろ?」
パルスィは、睨み返すばかりで答えない。
「言っとくけど、あんたが考えてるような事は一切ないから、安心しなよ。…一切ってのは、いいすぎかな?」
そう言って、萃香は手に持っている瓢箪をあおった。
ごくりごくりと細い喉が音を鳴らす。
パルスィは、まだ睨んでいる。
「何なのよあんた」
完全に喧嘩腰である。
「怖い怖い。私が勇儀のコレだって思ってんだろ?」
萃香は小指をピンと立ててみせた。
「えっ」
側でみていたヤマメが、勇儀と萃香を交互に見て目を白黒させていた。
勇儀と萃香がそういう関係なのかと、思ったのだろう。
「そういうのじゃないから。まぁでも…私と勇儀はお前さんよりはるかに随分と長い付き合いだし、大事な相棒ではあるけどねぇ」
萃香は幼い容姿に似あわない挑発するような笑みを見せた。
パルスィは、目の前の相手が敵なのかどうか未だ判断しかねていた。
二人の間のピリピリとした空気がにわかに鋭さを増し始めた時、それまで黙ってやり取りを見ていた勇儀が、突然叫んだ。
「そうか、わかった」
あん?と、萃香とパルスィが眉を寄せる。
「話を遮ってすまないが、あたしもやっと話が見えた。接吻だ。あたしが萃香と接吻したから、パルスィは怒ってるんだな?」
「あ、当たり前でしょ!」
思い出すのも嫌だという風に、パルスィの顔が怒りと嫌悪で歪んだ。
しかしヤマメだけは、首をかしげていた。
「私よく分からないんだけど…」
「なにがだい?」
と、萃香が聞いた。
「接吻て、人間が時々やってる、口と口をくっつけるやつよね。勇儀さんと萃香さんが接吻して、なんでパルちゃんが怒るの?」
「いやなんでって。ああ、土蜘蛛のあんたにはそういう習慣はないんだね」
「何か意味があるの?…え、なあにキスメ?」
キスメが、顔を赤くしながらちょいちょいと指でヤマメをついていた。
「どうしたの?」
ヤマメがキスメの桶を持ち上げて顔を寄せると、キスメはヤマメの耳に口を当てて、小さな声で何事か耳打ちをした。
「おお、釣瓶落しとが口開いてるところを初めて見たよ」
「あたしも」
萃香と勇儀である。
パルスィはそんな事には興味はなく、勇儀と仲よさげにしている萃香を妬んでいた。
ヤマメは、うんうんと頷きながら、キスメの小さな声を聞いていた。
「え…ちゅうは好きな人とだけする特別な事…?そうなの?」
こくこくと、キスメが頷く。
「そうなんだー。キスメは物知りだねぇ。え、じゃあ、勇儀さんと萃香さんは、好き、なの?」
「ぶっ」
萃香が口に含んでいた酒を吹いた。
パルッ!
と、音を感じる程の圧力を伴って、パルスィから妖気が噴出した。
慌てて勇儀が、憤怒に顔を染めるパルスィをなだめた。
「パルスィ、パルスィ、そうじゃないんだ落ち着いて!」
「この馬鹿蜘蛛!余計なこと言うんじゃないよ!」
「え、え!?ご、ごめんなさい」
勇儀は左手でパルスィの肩を抱きよせ右手で固く握られたパルスィの拳を摩ってやりながら、自分の唇を震えるこめかみにあててやった。
「触らないでよっ裏切り者っ」
「落ち着いて、落ち着いて、全くの誤解なんだから」
何度も勇儀がそう言って、ようやくパルスィの気は少しづつ収まっていった。
「余計なこと言うんじゃないよスカポンタン」
「はぁい…」
ヤマメは萃香に釘をさされて、シュンとしていた。
「…じゃあ、何よ。一体さっきのは何だったの。説明してよ」
勇儀に肩を抱かれながら、パルスィが震える声で言う。
パルスィがようやく一応は話を聞く姿勢になったので、勇儀はたいそうホッとした。
「少しややこしい話なんだが…聞いておくれ。いいかい?」
と、勇儀が優しい声で語りかけた。
勇儀の腕の中で、パルスィのクセッ毛が二度、三度揺れた。
「アタシら鬼にとって、接吻は別の意味があったんだよ。戦いで瀕死になった仲間を助けるために、口移しで水を飲ませたり、一旦自分で咀嚼した者を仲間にやったりする事がある。アタシらは、命を預けられる相棒や信頼している相手への感謝として、接吻をする習慣があるんだよ。あたしの説明、分かる?」
パルスィは、いくらか憮然としながらも、黙って勇儀の言葉に耳をかたむけていた。
「人間達が、あたしらのとは、少し違う意味で接吻をしているのは知っていたよ。で、あたしらは総じて人間が好きでな、いつの事かしらんが、誰かが人間の真似をして…仲の良い連中に軽い接吻をしたんだ。そしたらその…それが流行っちまってな。今では死にかけるほどの怪我をする事は少なくなったし…挨拶代わりに軽い気持ちで接吻をするんだ。そんなもんだから、あたしも、ついやっちまうことがある」
「さっきのが、それだと?」
「あれは、少し違うんだ」
「はぁ?」
「仲良しとやる接吻は、本当に軽いもんさ。少し触れるくらいのね。飲み屋で萃香としたみたいな、ガッツリいくやつは、冗談でも普通しない」
「…どういう事よ。じゃあやっぱりさっきのは…」
「私にとっては、パルスィも萃香も特別な相手だ」
「なによそれ」
「萃香とは、血生臭い時代からの知り合いさ。何度も萃香の命を助けられたし、あたしも何度となく萃香の命を助けた。他にも何人かそういう相手がいる。その中の誰か一人でも欠けていたら、結果的にはあたしも萃香も、今まで生きてはいなかったろう。私らは、命の絆で結ばれた特別な仲間なんだ」
「ちょっと、待ってよ。全然分からない。今あんたが私にそれを話して、私にどうして欲しいの…?」
「萃香は大事な仲間だから、接吻をした。でもそれは、パルスィとする接吻とは違う。パルスィとする接吻は、人間がやる接吻と同じ意味を持つ、唯一の接吻で、あたしは他の誰ともそんな事はしない。。だから…決してパルスィを裏切ったわけじゃない。許してもらえないだろうか」
「…まだよく分からないけど、勇儀が私を裏切ってないのは…わかった、信じる」
「そうか。よかった」
勇儀は安堵するが、それは長続きしなかった。
「でも、ねえ勇儀」
と、パルスィが言う。
「ん?」
「私とその仲間…どっちが大事なの」
「パルスィ」
勇儀は悲しい顔をした。
「そう事は、言ってほしくない。どっちも大切だ。分かるだろう…?」
「分からないよ」
パルスィの顔にうっすらと笑みが浮かんでいた。
その場にいる誰もが尋常でないと感じる、奇妙に歪んだ笑みだった。
「勇儀は、私が想うただ一人の相手になりたいって言ったよね…?なったよ。そうなったよ?今私の心には勇儀しかいないのに。あんたの心には私意外にも大事な誰かがいるの?それって、ずっこいよね?」
パルスィの顔には醜い笑みが浮かんでいた。
それは、パルスィ本来の、嫉妬深い橋姫としての顔である。
顔の皺一本一本がウジ虫で構成されているかのようなその笑みを、勇儀は顔を強ばらせながらも、けして目をそらしてはいなかった。
「どうするの?私とそこの萃香、どちらか一人の命しか救えないとしたら…見捨てた方は…死ぬよ?」
勇儀は悲しくも苦い皺を眉間に寄せ、少しの間目を瞑って考え、それから答えた。
「どちらだろうが、同じだよ。どちらを見捨てても、あたしはもう生きてはいられない。だから…そうだねパルスィ、もしお前が満足するなら、あたしはお前を見殺しにして萃香を助け、その後、あたしも一緒に死んでやる。お前さんと一緒に彼岸にいけるなら、いい」
「…ぐ…」
ドロドロによどんだパルスィの心には、勇儀の真っ直ぐな言葉は不快感として受け入れられた。
しかし不快の本当の元は、今の自分の行いが勇儀の心を裏切ていると感じる、パルスィの純情である。
だがそれでも自分と同列の存在が勇儀の心のなかにいるというのは、橋姫たるパルスィには受け入れがたい事実だった。
「割り込んで悪いがね、橋姫さんや」
と、萃香が口を開く。
「知り合いの賢しい妖怪から聞いたんだが…。鬼ってやつは、人間ほど、友情と愛情の区分けが明確でないんだとさ。生涯の大半が闘いに当てあられて、心の発達がどうの…ちょいと細かい事はもう忘れちまったけど…。だから私は、勇儀があんたに惚れたと聞いたときは、絶対に無理だと思ったよ…。変な言い方だが、あんたらは一度に一人しか愛せない。けれど私ら鬼は、それと同じ強さの想いを同時にたくさんの相手にもてるんだよ、きっと。多夫多妻っていうぐらいなんだから…。たぶん、鬼と橋姫ってのは最悪の組み合わせなんじゃないかい。けれどパルスィ、私は地上の博麗神社ってぇところに寝そべりながら、いくつかの色恋を見てきた。だから分かるよ、勇儀があんたに向ける想いは、少しばかり他とは違う。少なくともだ、あんたが勇儀に感じている想いと同じ物を、勇儀もあんたに感じてる。それを信じてやってくれないかい…?」
萃香の言葉は、いくらかだけはパルスィの心をうった。
けれど、すべてを受け入れるのは難しい。
「私には…勇儀一人しか、いないのに…」
勇儀に愛される者への嫉妬と、自分以外にも愛する者がいる勇儀への嫉妬である。
それは、今まで抱いたどの嫉妬よりも、深く、暗く、重い。
「あの…パルちゃんちょっといい?」
おずおずと手をあげながら一歩前にでたのは、ヤマメである。
萃香がギロリとそれを睨んだ。
「余計な事を言うんじゃないよ」
「は、はい…。あのね、私はパルちゃんの事地底に住む仲間だと思ってるんだけど…パルちゃんがどう思ってるか分からないからまぁそれはいい、か。あはは…。こほん、私は思うんだけど、いつかパルちゃんにも勇儀さんの気持ち、分かると思うの。だってね、私は勇儀さんの気持ちよく分かるよ。子蜘蛛を産んだとき、そんな気持ちだったもん」
「子蜘蛛?」
「えへへーそうだよ。随分前の事だけどね。子供達は皆とっても可愛くて、一人一人が他の誰よりも大切だったよ。だから、少し違うけど、萃香さんや勇儀さんの言う、色んな人を同時一番大切に想うっていう感覚、ちょっと分かるんだ。そういうのって、あると思うよ」
ヤマメの手のぶら下げられながら、キスメも必死に頷いていた。
「…でも…」
それでもパルスィの葛藤は、簡単には収まらない。
パルスィは、嫉妬深い妖怪なのである。
「パルスィや、どれだけ嫉妬してくれても構わない。怨んでくれても構わない。でもこれだけは信じておくれ」
そう言ってパルスィの頬を両手で包み込むのは、勇儀である。
「お前さんはあたしにとって唯一無二のかけがえのない相手だ。閻魔様だって誓えるよ」
えふっ、と、パルスィが餌付くように笑った。
泣き笑いをするとこうなる、という事を皆知っていたので、その様子をじっと見ていた。
「こんな私にそんな事を言ってくれるあんたって…いったい何なのさ…?」
「そういう事で悩んでるあんたを、やっぱり可愛いと思ってしまうのが、私だよ」
「あんたを怨み殺すかもしれなくても?」
「腕っ節には自信があるから、簡単には死なない。怨み殺すぐらいに好いておくれ。…前にも、言ったかな」
勇儀の言葉がパルスィの頬をなでる度に、少しづつパルスィの表情から険しさが消えていった。
瓢箪を煽りながら萃香が笑う。
「最悪の組み合わせかと思ったけど…。刀と鞘の良い組み合わせなのかもね。勇儀が鞘になるとは、思わなかったけど」
「パルちゃん、幸せになれるといいね。ねぇキスメ」
うんうん、とキスメが頷いた。
「勇儀は色恋には絶対に縁がないと思ってたんだけどなぁ。うー、私も霊夢にせまってみようかなぁー」
ヤケ気味に酒をかっくらいながら、萃香は旧都へ足を向けた。
「え、帰るんですか」
と、ヤマメ。
「揉め事がすんだなら、私らはもう邪魔者さね。どっかで飲み直すよ。あんたらもくるかい」
「あ、あーそうねぇ。キスメいこっか」
キスメはこくりこくりとうなづく。
ヤマメは萃香の後を追い掛けようとしたが、ふと、立ち止まった。
ヤマメは首をかしげているキスメを持ち上げ、自分の顔と向かい合わせた。
「えへへー」
そして、キスメの小さな唇に、ちゅっ、と自分の唇をあてた。
「!」
「んふふ」
にやりと笑うヤマメの目の前で、キスメの顔はみるみる赤くなり、最後はヤドカリのようにしゅぽんと桶の中に隠れてしまった。
ヤマメはその桶を胸に抱いて、ふるふると震えるキスメの頭頂部を眺めながら、萃香の後を追いかけていった。
橋は、再び静かになった。
暗闇に浮かぶ橋には、肩を寄せ合う二人だけがいる。
「なぁパルスィ」
「ん…」
「これからは、接吻をするのは、パルスィだけにするよ」
穏やかな声で、勇儀が言った。
「勇儀…」
「他の仲間とはもうしない。他にも、そうして欲しいことがあったらいっておくれ」
だがパルスィは、首を縦にふった。
「パルスィ?」
「いいよ。勇儀は今のままでいい」
それはパルスィの心からの言葉である。
「いいの?」
「今の私を好きになってくれた勇儀が、私も好きよ。だから、私に我慢させて」
「そうか。そっか」
嬉しそうな響きが、声にある。
「でも、一つだけ我侭を聞いてくれる?」
「何さ」
「たくさん、嫉妬させて欲しい」
「そりゃ。いくらでもかまわないよ」
と、勇儀は笑ったが、パルスィはそうじゃない、と首をふった。
「勇儀が誰かと口づけしてたり、とっても仲良くしてたのを見たら、私はきっと嫉妬して腹を立てるわ」
「お、おう?」
パルスィの話を理解しようと、勇儀は最後まで口を挟まない。
「そして私は、今日みたいに怒ってどこかへ行ってしまうの」
「うん」
「そうしたら勇儀は、必ず私を追いかけて、私の気が済むまで慰めてくれる?」
「あー」
勇儀は頭上を仰ぎながらポリポリと頬をかいた。
「本当にそれでいいのかい?言ってくれれば、パルスィの嫌な事は辞めるのに…」
「いいのよ。私は橋姫、嫉妬の妖怪なんだから。いつも嫉妬させてほしい。でも、もちろん本当に浮気したら嫌よ。勇儀を信頼してるから、安心して嫉妬できるんだから」
「よくわからないが、お姫さんの頼みだ。承知したよ」
今の勇儀は、何を言っても首を縦に振りそうな調子だった。
「じゃあ早速だけど」
と、勇儀の肩に頭を預けながら、パルスィが言った。
「私以外に、何人の相手と口づけしてるの。現役の相手。軽いのはいらないわ。大事なお仲間とする、重ーいやつのほう」
「え゛…」
勇儀の顔が固まる。
「い、いきなりその話は…やめないかい」
「いいの。知っておきたい事でもあるし」
勇儀は顔に冷や汗を流しながらも、指を立て、一、二と律儀に数を数えていった。
片手だけで収まりきらなくなった時、勇儀は自分のとなりで膨れ上がる妖気を感じた。
だが幸いにも、両手では数が足りないという恐ろしい自体は避ける事ができた。
「…な、七人。萃香をいれて」
恐る恐る、勇儀は言った。
「…そうかー…」
パルスィは怒っては以内が奇妙に無感情な声をしていた。
だがその妖気は、まだ強まっている。
「パ、パルスィ?」
勇儀が恐る恐る聞く。
パルスィは、何度か深呼吸をした後、すぅっと深く息を吸い込んだ。
そして、暗闇に向かって叫んだのだ。
「妬ましいぃぃぃぃよおおおおおおお!!馬鹿ぁぁああああああぁぁ!!」
妖力によって増幅されたその声は、隣にいた勇儀が振動を肌に感じるほどの大音量であった。
恐る恐る、話しかける。
「あの…パルスィ?」
勇儀はパルスィが怒り狂っているのかと思ったが、その顔は意外に爽やかにすっきりとしていた。
「脅かしてごめん。でも今ので少しイライラが抜けて、いい感じに妬ましさだけが残ってる。くそう、妬ましいなあ…!」
「そ、そう」
勇儀にはどういう感覚なのかよく分からなかったが、またパルスィが怒ると怖いので深くは触れない事にした。
パルスィは己の体に満ちていく妬ましさを感じていた。
その時である。
パルスィの妖気に、変化が起こった。
フワリと、先の飲み屋と同じ様に、パルスィを中心に風が吹く。
「およ」
自分では全く意識していない力である。
飲み屋の時の様に、激情にかられてもいない。
その後も風は止まらず、徐々に強くなっていった。
勇儀も異変に気づく。
「おいおい、どうしたんだい?」
バタバタと勇儀のスカートが揺れ、長い金髪が風に流れて横向きにたなびく。
「な、なんだろ…体から力が溢れて…」
パルスィは自分の体から尋常ではない量の妖気が溢れ出している事に気付いた。
慌ててなんとかそれを抑えようとした時、次の変化が怒った。
ブゥゥン、とハチが耳元を飛ぶような音が鳴ると同時に、パルスィの体の表面を、緑色に輝く淡い光がおおったのである。
「わ、なんだパルスィ!?」
「こ、これって」
パルスィは、増えすぎて飽和した己の妖気がこの光に変化したのだと感じていた。
妖気が視覚化するほどの密度というのは、尋常ではない。
勇儀もおくれて、その光の正体に気付いた。
過去になんどか、そういう光を見たことがあるのだ。
いずれも、伝説や民話に残るほどの、力のある妖怪によるものであった。
「こりゃ驚いた」
今やパルスィは、大妖怪並の妖力をまとっていたのである。
「パルスィ、だ、大丈夫かい?」
拳を握ったり、四肢を動かしてみながら、パルスィは答える。
「うん、平気。むしろ気持ちいいくらい…」
「ど、どうしてこうなったんだ?」
「分からないけど…体中から力が溢れてくる」
ゴクリと、勇儀の喉がなった。
「な、なぁパルスィ」
「何?」
勇儀の表情に好戦的な色が見え隠れしていた。
「い、いっぺん私と手合わせしてみないか?」
にわかに勇儀の拳に妖気が集まり始めていた。
パルスィはぎょっとする。
「えぇ?い、嫌よ。力であんたにかなうわけないじゃない」
「いやでもお前さん、すごい妖力じゃないか。ち、血が疼くねぇ」
パルスィは思わず身を引くが、勇儀は犬歯を尖らせながら、そのパルスィにせまる。
その顔は、いつもの優しい勇儀ではなく、好戦的な鬼の顔である。
「ええー…へ、変態」
「変態だなんてひどい!あたしが力比べを好きなの知ってるだろ!」
「知ってるけど…な、なんで恋人と力比べしなきゃいけないのさ!」
「たくさん嫉妬させてくれっていう橋姫さんの我侭を聞いてあげたろ!?だから鬼さんの我侭も聞いてほしいな!お願い!」
「そ、そんな」
そう言われると、断り切れないのがパルスィなのである。
「ううう…わ、わかったわよ」
「やった!」
「い、痛くしないでよ?」
「もちろんだ。相手が止めてといったら、すぐに止めるのがルールだ」
「ううう」
二人は四手を組んだ。
互いの手の平を合わせ、相手の指と指の間に自分の指をいれ、双方そのまま拳を固めがっちりと連結させる。
そこから指の力と手首の力を使って、相手の手首を後方にへし折るのである。
二人の様子は熊と熊が、ガチンコで真正面から掴みあっているかのようである。
「手を繋ぐって、もっと浪漫な事だと思ってたのに…」
パルスィは泣いた。
勇儀は犬歯を輝かせながら、笑った。
「すまない。こんな私を愛しておくれ。パルスィ」
「ううう…。もう!こうなったら本気でいくからね…」
「その調子だ。じゃあ、せーので行くよ」
ギンと獰猛な目つきで、互いの顔を見合う。
パルスィの妖気がなお強くなり、風は、嵐に変わっていく。
金髪をなびかせながら、勇儀は開始の合図を切った。
「せーのォ…!」
ドンッ………
二人の妖気がぶつかり合い、大砲の発射音に似た、太く破壊的な音が、地底を揺るがせた。
結果から言うと橋が倒壊した。
そうして力比べは無効試合になった。
強い妖怪が本気になった時に放出される力は、周辺の大地を揺るがすほどの強さになる。
おまけにそれが二人分である。
朽ち果てかけた木造の橋が、直下でその力にさらされて耐え切れるはずが無かったのだ。
妖力に守られた二人は橋の崩壊に巻き込まれてなお無傷であったが、橋の下に立てられていたパルスィのあばら屋もまた、崩れてきた橋に潰され、その中にあったほんのいくつかの家具もろとも、藻屑となった。
それを知ったパルスィは、勇儀を呪いながら泣いた。
勇儀との思いである橋やあばら屋、それにあばら屋にあった勇儀からの贈り物全てがゴミクズと化した事に、ひどい衝撃を受けていた。
勇儀は泣きじゃくるパルスィを旧都の自宅に連れてゆき、一晩中慰め謝り続けなければならなかった。
困り果てた顔をした星熊勇儀がその背中に子供のように泣きじゃくる女をしょって走る、という珍妙な姿をその晩多くの妖怪が目撃した。
それから、一つだけ季節が過ぎた。
一番混み合う時間帯の飲み屋街にも関わらず、往来にいる妖怪達の誰しもがその痴話喧嘩を耳にしていた。
とにかくそれほど大きな声だったのである。
「なぁ違うんだよ、頼むから聞いてくれ!あの娘は、最近連れに振られて気が滅入ってたんだよ。可哀想だろう?だからちょいと酒で慰めてあげてたのさ。それだけなんだよ!お前さんが考えているような事は何もないんだ。誓うよ。ねぇ、お願いだから立ち止まってこっちを向いてくれ」
「ついてこないでって何度言わせるの。いい加減にしてよ、大声で恥ずかしい。何でもないならさっさとあの可愛い娘さんの所に戻って一緒にお酒を飲んでくればいいじゃない。慰めてあげてたんでしょ?ほっておいたら可哀想じゃない。まぁ、ただ慰めるだけのクセになんでうなじにチューするのかは、妖怪づき合いの少ない私にはちょっと分からないけれど、それがあなた流の慰めかたなんでしょ?ほら、さっさと戻りなさいよ。ついてこないで!」
「あぁ…いやぁ…あれは…ちょいと調子にのってしまったのは認めるよ!ごめん!ほんとに、私はまったく馬鹿なんだから。いやしかしだ、本当にそれだけで何もないんだよ!でも、そんな所を見てしまったお前さんがどんな気持ちになるかは、あたしみたいな馬鹿にも分かるってもんだよ。だから謝りたいんだ。ね、だから、そんなにさっさと歩かないで、立ち止まって、こっちを向いておくれよ」
「へぇ、私の気持ちが分かってるのなら、なおさらほっといてくれればいいじゃない?勘違いしているようだけど、別に私は怒っちゃいないのよ。あんたはちょいとお馬鹿さんでついでに言うと手の早いお調子者かもしれないけれど、それも、まぁ、あんたのいい所よ。別にそれを攻める気はない。ただ…私は気に入らないだけよ!」
往来に響き渡る痴話げんかに、今日も賑やかだねぇと誰もが笑っていた。
どこぞのマヌケが、浮気相手と楽しくやってる所を、連れに見つかりでもしたんだろうさ…。
「これぞドヤ街、オツだね」などと風流を感じる者もいれば、「お前さん笑ってるけど、明日ああやってカカァに許しをこうのはてめぇ自身かもしれんぜ」、とゲラゲラ笑う者達もまたいる。
痴話ゲンカの一つや二つ、当人達以外にとっては見世物の一つでしかない。
時折は酒に飲まれてい暴れだす迷惑者もいるのだが、そういう時には文字通り怖い鬼達がやってきて、酔いもすっかり吹き飛ぶおっかない折檻をくれる。
なかでも星熊勇義と言えば旧都を取り締まる鬼達の中でも飛びぬけた腕っ節を持っており、この飲み屋街ではちょっとした顔である。
ついこの間も、酒乱達十数人からならる乱闘を一人で治めてみせ、その怪力乱神ぶりは通りの店主達から守護神扱いされている。
行き過ぎたゴンタをする者がいれば鬼達が諌めてくれる、そういう安心感があるから、この通りの大抵の騒動は、無害な酒の摘みになってしまうのだ。
「気に入らないって、ねぇ、それは怒ってるってことなんだろう? ほら、こんなに額に皺を寄せちゃって、どうみても怒ってるじゃないか。そんな顔をしないでおくれよ。私はお前さんの笑っている顔がとっても大好きなんだよ。それなのに、私はお前さんをこんなに怒らせてしまった。本当に御免よ。お前さんは私の性分をほめてくれたけれど、その性分がお前さんをこんなに怒らせている。ああまったく、私はどうしたらいいのかな。私が馬鹿じゃなかったら、何かいい方法を思いつけるかもしれないのに。ちくしょう、なんだか悲しくなってきた。自分の不甲斐なさに泣いてしまいそうだ。ねぇ、お前さんがちょっと私に微笑んでくれたら少しは私も笑顔になれるかもしれない。一つこちらを向いてもらえないかなぁ」
「ああもう!どうしてこんな人の多いところでそんな恥ずかしい事を言えるのさ。あんたのそういうアケスケな所はとっても妬ましいけれど、今はちょいと勘弁してちょうだいな!だいたい、そんな言い方されたら笑ってあげないと私が悪者みたいじゃない。ちょっとやり方がやらしいよ!」
おや、お騒がせ連中がこっちにやってくる、どれ、どんな面か拝んでやろうじゃないか。
そのやり取りが近寄ってくるのに気づいた妖怪達は、皆それぞれ興味本位に瞳の色を染めて、そちらにチラと目をやった。
だが注意力の在るものならば、二人のそのやり取りとともに、無数の悲鳴が一緒に近づいてくる事に気付いたかもしれない。
誰かが、叫んだ。
「やべえ!ありゃあ、姉御と姫さんだ!」
近づいてくる痴話喧嘩を呑気に待ち受けていた連中の顔が、皆一様に引きつった。
「なんだと!」
「チクショウまたかよ!」
「どけどけ!道の端によれ!」
口々に罵りながら、皆、道の両端や店の軒先に逃げ込んだ。
まるでモーセの海渡りの様に、通りに溢れていた妖怪達が二つに割れていく。
そしてまだ全員が移動し終わらないうちに、緑色の光に包まれたパルスィが通りのド真ん中を突進してきた。
緑色の発光はパルスィの荒れ狂う妖気が実体化したものだ。
並の妖怪がそれに触れると、電気ショックを受けたように弾き飛ばされるのである。
先程から時折聞こえる悲鳴は、逃げ遅れた哀れな妖怪のものである。
「こえー…なんだよあの妖気…」
誰かがそう呻いた。
八雲紫や風見幽香を知っている者ならば、それと同等ではないかと思うほどの力である。
勇儀はそのパルスィの直ぐ側を、不器用なオプションビットのように右往左往していた。
情けない様ではあるが、パルスィの側にいられるとうだけで勇儀の強さをある程度あらわしている。
通りを爆進していく二人を眺める野次馬―というより被害者―の中には、呆れた顔をしている萃香がいた。
「飽きずにようやる」
ほとんどいつも地上にいる萃香は、二人の喧嘩を毎回見物しているわけではないが、これまでに五回は同じような喧嘩をしたと勇儀からは聞いていた。
今回で六回目である。
これがパルスィにとっての幸せなのさ、と言って笑う勇儀の事を萃香はさっぱり理解できなかった。
それが色恋ってやつなんだろうか、などと適当に理由をつけて、萃香は肩をすくめた。
二人が見えなくると、通りはいつもの雰囲気を取り戻していった。
適当な店に入ろうと萃香が歩を進めたときである。
側を歩いていた男型二人の会話が、ふと耳に入った。
「あれだけ何度も喧嘩してるのに、なんであの二人は別れんのかね」
「喧嘩するほど…ってやつじゃないのか」
「そういやお前さんのとこは、どうだ」
「悪いがうちは、今のところ順調だよ」
「へ、喧嘩してやるほどお前に興味がないんじゃないのか」
「…なんだって?自分にゃあ連れ添いがいないからって、嫉妬してんのか」
「馬鹿言うな、お前の嫁のどこに嫉妬すればいいんだ?」
「おい…いい加減にしろよ。彼女の一人も作れないお前が、どの面さげて人の嫁を馬鹿にするんだ?人の嫁に文句いう前にてめぇの腐った性格をなんとかしろよ!」
「てめぇ…久々に切れちまったぜ…ちょっとこっちこいや!」
おいおい、なんだいそりゃ…。
萃香は冗談を聞いているような気分になった。
酔っぱらいか?とは思ったが、見かけ上は二人ともそうは見えない。
それまで仲よさげに話していたのに、突然二人とも言い争いを始めたのだ。
二人はお互いを睨みつけながら、大通りからハズレて小道に入っていった。
「…なんだ今の」
やりたい喧嘩はさせておけばいい、というのが萃香であるが、何か釈然としないものがある。
後を追うべきかどうか萃香が迷っていたとき、直ぐ側の空間に亀裂が入り、摩訶不思議な音をたてて、裂けた。
萃香はそれに驚く事なく、裂けた空間の隙間から現れるであろう妖怪を待っていた。
「よろしくない状況ねぇ」
「このタイミングでお前さんが登場したということは、やっぱり何かあるのかい。ねぇ紫」
「うふ」
八雲紫である。
胡散臭い笑みを浮かべた紫は、隙間の縁に腰掛けながら、男たちが入っていった路地を見ていた。
「厄介事かい」
「いずれ、そうなるでしょうね」
「ふぅん…」
萃香は、紫との話し方をそれなりに心得ているつもりである。
「何で私の前に現れた?」
「ひょっとしたら私、あなたのお友達と喧嘩する事になるかもしれないけれど、訳ありなので勘弁してもらえないかしら?」
「鬼は仲間意識が強いからねえ…。できる事なら穏便にすませてほしいねぇ」
「頑張りますわ」
うふふ…と反響する笑い声を残して、紫は隙間に消えていった。
「便りが無いのが良い便り…ってか」
萃香は紫と違って幻想郷の管理者を気取るつもりもないのだから、裏で何が起こっていようと首をつっこむ気はないが、友人の事はもちろん心配である。
「まぁ、もしもの時は自分の思った通りに動くだけさね。何事も起こらん事を祈ろう」
萃香はそう呟いて、飲み街の雑踏に消えていった。
「パルスィ…まだ怒ってるのかい?」
木の椅子に腰掛けた勇儀は、努めて優しい声で言った。
パルスィはその隣に座り、ガジガジと爪を噛みながら前を睨んでいる。
「六回よ、同じようなことが間をおかずもう六回目なのよ…。こんなに立て続けに嫉妬させられるとは思ってなかった…ああ、妬ましいっ」
「むぅ」
勇儀は空の見えない天を仰いで、呻いた。
今二人がいるのは、倒壊した橋の跡地に新たに建てられた、新造の木造橋である。
旧都の住人からもほとんど忘れられた橋ではあったが、無くても誰も困らない、というわけではない。
パルスィを慰めるためにも、勇儀は持てる人望をフル活用し、大急ぎで橋を再建させた。
外観は以前と変わらないが、鬼達の匠の技が結集された、頑丈な橋である。
橋の下にあったパルスィのあばら屋は、再建されなかった。
その変わりに旧都にある勇儀の古屋敷が、少しだけ改築されてパルスィの部屋ができた。
けれど、同じ屋根のしたに暮らすようになっても、今でもこの橋は勇儀とパルスィの逢い引きの場所である。
二人とも家に帰るという習慣があまり無いせいでもある。
勇儀は多くの時間を旧都の治安維持のために費やし、パルスィは橋や竪穴で番人を気取っている。
旧都の屋敷はほとんどいつも、もぬけの殻である。
「妬ましい妬ましい」
一旦は収まっていたのに、またパルスィの発光が始まる。
隣りに座っていた勇儀は、直接その光に触れてしまう。
並の妖怪のように弾き飛ばされはしないが、皮膚が焼ける。
「あちちち。熱いよパルスィ」
「ごめん、抑えきれなくて。パルパルパルパル」
「大妖怪になっちまったなぁ」
勇儀は自分も妖気を放射してパルスィの妖気を防ぎながら、パルスィの肩を抱いた。
「その力の源があたしへのヤキモチだと言うんだから、嬉しいねぇ」
「…ん…」
「嫉妬深い大妖怪の目が光ってるんだ。もう誰もあたしにゃ唾つけられんさ。あたしだって、あんた意外の唾はいらない」
勇儀がそういうことを言うと、パルスィの発光は収まっていくのである。
経験則ではあるが、パルスィの勇儀に対する独占欲が満たされると、妖気の噴出は収まるらしかった。
単純に、勇儀を独り占めしたいのである。
勇儀はそれがまた可愛くて、やたらめったらに自分の頬をパルスィの頭にこすりつけた。
「そのうち勇儀がうんざりするんじゃないかって、少し不安だわ」
「まさか。パルスィが怒る度に、あんたがあたしを好いてるのが伝わってくるよ。なぜそれにうんざりするんだい」
「ほんと?」
「嘘はつかんよ」
人間には受け止め続けられないような愛情表現でも、鬼ならば平気だ。
いつの間にかパルスィの心は平静に戻って、たくましい勇儀の肩に頭を預けていた。
「しかし、ちょいと妙だ」
勇儀は眉を寄せた。
「何が?」
「立て続けに六回、全部喧嘩別れや揉め事の愚痴を聞いてやってた」
「勇儀は慕われてるのね、妬ましい」
「そうじゃあないんだ。短い期間にそんなことが続くなんて、今までなかったんだ。妖怪達の気が荒くなってるんだろうか」
長く地底の妖怪達の暮らしを見つめてきた勇儀は、小さな違和感を感じていた。
どうも、いざこざや揉め事が増えている気がする。
勇儀はその違和感の事に気をとられていた。
だから、パルスィの方が先に、近づいてくる敵意に気付いた。
「勇儀。何かくるよ」
「む」
勇儀はパルスィの向いている方に目をこらした。
地上へ続く道の方から、圧迫感を感じる何かが二人の方に飛んでくる。
すぐにその姿が見えるようになった。
それが誰かが分かると、二人の緊張は消えた。
「ありゃあ、博麗の赤巫女じゃないか」
「あかみこ…赤味噌みたい」
「緑の巫女もいたかな」
「うどんね」
二人とも、博麗霊夢は強力な人間だが凶悪な人間ではないと知っている。
霊夢は橋の少し上で止まり、二人見下ろした。
機嫌が悪そうだな、と二人霊夢を見て思った。
目は半分座り、眉間には皺がよっている。
勇儀が挨拶をしようと手を上げたところに、
「黒幕はどっちよ」
挨拶も無しに、ぶっきらぼうな声で霊夢が言い放った。
「は?」
パルスィが、不愉快そうに眉を寄せる。
だが霊夢は問答無用である。
「ちゃっちゃと答えなさい」
パルスィは霊夢を睨み、それから旧都の方角を指さした。
「さぁね、あっちじゃない?」
機嫌の悪そうな霊夢の顔が、とっても機嫌の悪そうな顔になった。
「あー、めんどくさい。もういいや。射てばわかるでしょ」
そう言い捨てた霊夢は、突然陰陽玉を展開し始めた。
「ちょっと!一体なんなのよ!」
「まぁまぁパルスィ」
立ち上がって文句を言うパルスィを、勇儀が制した。
ニヤリと獣の笑みを見せながら、空に飛び立ち霊夢の前に立ちふさがる。
どこから取り出したのか、いつの間にかその左手には酒の入った盃があった。
「ち、ちょっと勇儀」
止めようとするパルスィの声など、もはや勇儀はほとんど聞いいなかった。
「暴れる奴には暴れて迎えるのが礼儀さ!」
「いや、暴れたくないけど…」
いつにもましてやる気の無い霊夢の言葉を皮切りに、二人は猛烈な数の弾幕を展開していった。
~少女弾幕中~
~Get Spell Card Bonus!!~
勇儀がドスンと音を立てて、橋の上に落下した。
慌ててパルスィがその勇儀の側に駆け寄る。
「勇儀!」
汗で濡れた勇儀の頭を抱き上げ、自分の膝に寝かせる
弾幕によって服と肌が何箇所か焦げてはいるが、致命傷は無いようだ。
意識もハッキリしているようで、勇儀は中に浮かんでいる霊夢を睨んで言った。
「おい…貫通装備パワー3高速移動は卑怯だろ…第一お前の弾幕じゃあないはずだ…」
霊夢はそんな文句はどこ吹く風に、肩をコキコキとならしていた。
無傷である。
「怨むなら紫を恨んで頂戴。あいつに仕事を押し付けられたんだから。ああまったく、面倒くさい面倒くさい地底臭い」
「なんだそりゃ…」
勇儀は呻いた後、自分を抱くパルスィの手をとって、言った。
「パルスィ頼む、敵をとってくれ」
「え!?」
無茶な頼みをされて、パルスィは目を白黒させた。
「無理よ、あんたが勝てない相手にどうして私が勝てるのさ」
「大丈夫、今のパルスィなら。なぁ耳を貸しておくれパルスィ」
「な、何?」
パルスィは体を曲げて、勇儀の口元に耳を近づけた。
勇儀がそっと囁く。
「霊夢は妙に妖怪連中に好かれていてなぁ。申し訳ないがいが正直…あたしもあいつの事は結構気に入ってるよ。何度か宴会の最中に抱きついてやったし、一緒に温泉に入ったこともある」
「なっ…」
ブバォオオオオオオオ!!
パルスィの体から緑色に輝く妖気が噴出した。
おかげで膝枕をされていた勇儀は、弱っていた所へもろにその直噴を浴びた。
「ぎゃああパルスィ熱いい!」
「ああ!ご、ごめん勇儀」
パルスィは慌てて勇儀の頭を橋に寝かせ、離れる。
そして空中に飛び上がり、霊夢の前に対峙した。
自身から吹き出す嵐によって金髪のクセッ毛は逆立ち、猫のように釣り上がったその瞳は、まさしく鬼である。
「妬ましい!」
「へぇ…」
パルスィから吹き出す暴風に煽られながら、先程まで霊夢がまとっていた呑気さが消えていく。
その表情からは感情が一切抜け落ち、見開かれた黒いその瞳だけがギョロリと意思を持ってパルスィを捉えていた。
過去に数えるほどしかみせたことのない、全神経を霊力の行使に集中させた、博麗霊夢の本気を出した顔である。
「…あんたがエクストラ?ただの2ボス風情だと思ってたら…。何食ったらそうなるの?」
無感情な霊夢の言葉に、橋の上に横たわる勇儀が叫んだ。
「決まってるだろ。愛以外にありえない」
「ば、ばか…!」
パルスィが衝動的に放ったクナイ弾は、勇儀の右側頭部を直撃した。
「ITEッ!!」
勇儀は奇妙な悲鳴を上げて悶絶した。
その勇儀を足元に眺めながら、緑色の輝きの中で真っ赤になったパルスィの顔は、はたから見ると金色に輝いているように見えて非常にシュールである。
だがそれを見つめる霊夢の顔には、やはり何の感情も見えない。
「何?あんたらできてるの?」
「うるさい!とっとと地上に帰れ!」
「あんたが返してくれないのさ」
先の倍以上の密度の弾幕が二人の周りに展開され、ほんの僅かな時間、暗闇の地底に輝く太陽が現出した。
~少女弾幕中~
~Get Spell Card Bonus!!~
パルスィがドサリと音をたてて、勇儀の腕の中に落下した。
橋に落ちる前に、すでに全快していた勇儀が受け止めたのだ。
「パルスィ、大丈夫か」
パルスィは疲弊しているが、目立った傷は無い。
スペルカードルールはそのためにあるのだ。
勇儀に抱かれながら、パルスィは顔を起こして、霊夢を睨む。
「夢想封印256連射とか…常時無敵状態の相手にどうやって勝てというの…」
「まったくだ。あのド外道」
この時地底の多くの妖怪が、地底の空に広がる凄まじい光景を見ていた。
その様子は、虹色に輝く数多の龍が、体をくねらせながら緑の太陽に喰らいついているようだったと言う。
「あんたが無駄に張り切るからよ。ああ、余計に疲れちゃった」
霊夢は橋に落りて、手すりに持たれながら迷惑そうな顔をしていた。
さきほどまであった、不気味な無機質さは、もうない。
いつもの霊夢である。
「やめてよね、もう」
そう言って、プリプリと被害者ヅラして頬を膨らませた。
勇儀はパルスィを椅子に座らせながら、霊夢に文句を言う。
「負けた喧嘩にケチを付ける気は無いがね、お前さん何しにきたんだ」
霊夢が反則的な手段をとったので勇儀の気分はあまりよくない。
霊夢はそんな事知るもんかと無責任に肩をすくめた。
「紫が異変だ異変だって騒ぐから、仕方なく幻想郷をあちこちさまよっていてたんだけどね。私の感によるとあんたらが元凶っぽいんだけど、これで収まってくれるのかねぇ。ああ、早く帰ってお茶を飲みたい」
そう言ってため息を吐く霊夢の姿は、とても異変解決の立役者には見えなかった。
せいぜいで、一日の農作業を終えて一息をつく村娘といった程度である。
「自分でもよく分からない理由で私達をぶっ飛ばしたの?ああもう妬ましい」
「でも立派な異変だったじゃない。あんたのあの力、尋常じゃなかったよ。何あれ?どうやったの?まさかほんとに愛の力だと言うんじゃないでしょうね?魔理沙じゃないんだから…」
「ふん、そんな事知らないね」
と、パルスィが恥ずかしそうにそっぽを向いたが、霊夢にはどうでもいいことだ。
「なぁ霊夢」
と、勇儀が珍しく真面目な口調で言った。
「何よ」
「八雲紫が、異変だと言っていたのか」
「そうよ」
「それでお前さんは、私達が原因だと言うのか」
「パルスィが原因なんじゃないの? まぁどういう異変なのか、私にはよく分からないんだけど。なんにせよいつも通りなら、これで解決なんだけどねぇ」
「ふぅむ」
と頷いて勇儀は考え込んだ。
霊夢は特に興味もなさそうに、明後日の方を向いていた。
勇儀は、自分の感じている地底の住人達への違和感が、やはり間違いないという確信を強めていた。
霊夢の言うようにこれで解決したのならばいいのだが、何か違うと勇儀は思っていた。
そして、それを裏付けるように、三人のすぐ側の空間がぬるりと裂けた。
霊夢と勇儀はそこから誰が現れるか分かっていたが、パルスィは目をむいた。
八雲紫は隙間から上半身だけを出して、隙間の縁に頬杖をついた。
「な、なんだこいつ」
パルスィは紫と顔を合したことが無いのである。
紫は、扇を口にあててわざとらしい微笑を見せながら、名乗った。
「八雲紫よ」
「あんたが」
幻想郷を管理する大妖怪の一人である、という程度の知識はあった。
「ふぅん…」
と、紫は算段するような目つきで、パルスィの全身を流し見た。
パルスィにとっては、気持ちの良いものではない。
「な、なにさ」
紫はまた嘘くさい微笑を見せた。
「お幸せそうで何より」
「あん?」
と、眉を寄せるパルスィをほって、紫は霊夢に顔を向けた。
「霊夢」
「何さ」
「ごめんなさい。あなた無駄骨だった」
「へ?」
「まったく何も解決していないわ。霊夢に任せればもしや、と思ったけれど、やっぱりいつもの手順ではダメみたい。異変の解決ではなく、異変の発生防止だものね」
「…おい」
霊夢の目が座った。
「人が気持ちよくお茶を飲んでたのを邪魔して、異変だなんだと騒いだあげくにそれか…で、落とし前はどう付けるつもりかしら…」
いつの間にか霊夢の拳には退魔針が鋭く輝いている。
紫は慌てず動じず、ただ少し困った顔で笑った。
「どうしても対処が必要なのだと説明したでしょうに。なんにせよ、ごめんなさいね。今の私にはあまり余裕がないの。落とし前をつけるのは少し待ってくれないかしら」
「な、何よ、イヤに素直じゃない」
「こう見えても私、少し焦っているのよ?」
霊夢はそういう発言をする紫を、ほとんど見たことが無い。
いつもと違う様子に、つい気をそがれてしまった。
「八雲紫よ」
と、勇儀。
「近頃私は何かがおかしいと思っているのだが、お前さんがその答えを教えてくれるのかな」
「そうね」
紫が頷く。
「答えを与えて思考の機会を奪ってしまうの好きではないのだけれど、今回は特別。単刀直入にお話しますわ」
関心の高さに程度はあれ、その場にいた誰もが、賢者の言葉に耳をすませた。
「水橋パルスィ」
「え」
名指しで呼ばれて驚くパルスィとは対称に、勇儀はある程度予想していたように、ふむ、と小さく息を吐いた。
「あなたのバラまいている嫉妬心が、幻想郷全体に良くない影響を及ぼしはじめているわ。今はまだ影響は小さい。けれどこれが異変と呼べるほどに蔓延すると、とてもマズイ事になるの。早急に止める必要がある。異変は誰かが目的を持って起こすものだけれど…これは災厄と言うべきね」
そう言われても、パルスィには全くの寝耳に水、さっぱり心当たりが無い話なのである。
紫は心底困ったと言う顔で、ため息を吐いた。
「あなたは無意識にやっているのだから、こうやってお願いしても仕方ないのだけれどね。そういう意味でも、制御されていない異変はとても恐ろしいのよ」
「いやでも私、そんな力持っていないけど」
「以前はそうだったのでしょうけれど、近頃のあなたには、その力があるのよ。心あたり、あるでしょう?」
「…まぁ、あるけど」
「何より、緑の発光、あれは非常にいただけませんわ。あの状態にある時、あなたの嫉妬心が急速に幻想郷全体に拡散している。風に載った胞子のようにね」
とは言え、パルスィにしてみれば突然お前は犯罪者だと告知を受けるようなものである。
「ど、どうしろと言うのよ」
「それはね」
と、紫が指を立てる。
「…私が教えて欲しい」
嘆きながら、紫は立てた指で眉間を抑えた。
「あなたの強い嫉妬心が今回の原因だと言うのはおおよそ想像がつくでしょうけど、どうしたら貴方から嫉妬心を無くせるかしら?無くすまではいかなくても、今より抑える事ができれば、拡散は止まるのだけれど」
「そんなの、私だってわからないよ」
パルスィは嫉妬が能力の妖怪なのである。
そのパルスィから嫉妬心を奪うのは、紫から隙間を操る能力を奪うようなもので、それは当然簡単ではない。
可能なのかどうかも、分からない。
「ねぇ」
と、それまで興味な下げに話を聞いていた霊夢が、前にでる。
「こいつは昔から嫉妬深い妖怪だったんでしょ?これまではなんともなかったのに、なぜ今」
「それはね」
と、紫が答える。
「彼女は嫉妬心を糧に生きていく妖怪なのだけど、誰かさんのおかげでその心が満たされたからよ。橋姫が誰かとつがいになるなんて、外の世界ではありえないのだけれどね」
「はは、照れるね」
と、笑う勇儀を、パルスィが肘でどついた。
「その事自体は、私としても嬉しいのだけれどね。妖怪の楽園たる私の幻想郷がよく機能している証拠ですわ。でもその結果、彼女にとって嫉妬心は余剰なエネルギー源となったのよ。それが彼女の能力を過度に強めている」
「けど、洒落にならない妖力だったわよ?大げさじゃなくあんたと同じぐらいの力を感じた。嫉妬心だけでそうなるもんなの?」
「嫉妬心とはただ表現。その本質は、彼女という妖怪を物理的に存在させているエネルギーそのものよ。E=mc2二乗、ご存知?」
「いーいこーる、なに?知らん」
「なんとか穏便にあなたの嫉妬心を抑えることができればいいのだけれど」
勇儀が少し険しい顔をしながら、紫に問う。
「八雲紫よ、今お前は「穏便に」と言ったが、そうでない手段ならあるのか?」
「まぁ、ね」
紫は罰が悪い顔をして顔を伏せた。
「教えてくれないか」
「怒らないできいてくださる?境界を弄って、彼女から妖怪としての能力を奪ってただ人間にしてしまうとか。パルスィから勇儀に関する記憶を消し去ってしまうとか」
「ちょ、ええ!?」
一番驚いたのは、もちろんパルスィ本人である。
文句を言われる前に、紫は釘をした。
「私もそんな事はしたくない。そもそも、妖怪が自身の能力によってその在り方を拒否されてしまうなどという事になっては、この幻想郷の意味が無くなる。けれど…」
紫は、三人を見据えた。
「あなたか幻想郷か、そのどちらかを選ぶならば、私は自分の無力さを呪いながら幻想郷を選ぶ。これだけは揺るがない」
「……」
そうだろうな、と納得させられてしまう決意の強さが、紫の瞳にはあった。
「私は、お互いを良く知る貴方達なら、解決方法を見つけられるのではないかと思っているの。それに…そうあるべきだわ」
パルスィと勇儀は、互いに顔を見合わせた。
「…人間になったら、勇儀と一緒に長生きできないじゃないの。そんなの嫌」
「ああ、その通りだ」
頷く二人を、紫はどこか優しい目で見ていた。
霊夢は呑気に、そんな紫の事を気持ち悪いなぁと思っていた。
「私はギリギリまでこの異変の発現を食い止め、何か策がないか、考える。お二人も良い案が浮かんだら、いつでも私を呼んでちょうだい」
そう言って紫は、隙間の中へ消えようとした。
だが、それを勇儀が止めた。
「待て、八雲紫」
「…何かしら」
勇儀は一度ちらりとパルスィに目をやり、それから紫に言った。
「策は、ある。…かもしれない」
幾分、自信無さげに勇儀が言う。
紫は興味深そうに目を細め、パルスィは少し驚きながら、勇儀に顔を向けた。
霊夢は、関心があるのか無いのか、ただ三人の様子を眺めている。
「聞かせてちょうだい」
「あー」
そう言って鼻をかく勇儀は、誰の目から見ても照れくさそうに見えた。
「今回の件抜きにしてさ、どうやったらパルスィが幸せになれるかって事を、あたしはよく考えるんだが…」
「勇儀、そんな」
パルスィは少し怒った様に言う。
「私は今でも十分に幸せよ。あんたのおかげ。何よ、そんな事もわかってなかったの?」
「もちろん分かっているけれどパルスィ、あたしはお前さんのただ一人の想い人なんだから、これくらい考えてもいいだろう」
「待って二人とも」
と、紫がイラついた声で言った。
「そういうのは二人きりの時にやって頂戴。ああ妬ましい」
「む、影響が八雲紫にまで?」
「お馬鹿さん、今のはごく正常な反応。とにかく!前置きとかはいいから、手短に、簡潔に」
ぴっ、と扇で勇儀を指す紫は、喧嘩する生徒達をいさめる教師の様である。
「む…わかったよ。この方法なら、パルスィも幸せになれるかもしれないし、嫉妬心も収まるかもしれない、とあたしは思ってる」
「ふむ、つまり?」
「パルスィよ」
勇儀はがしりとパルスィの肩を掴んだ。
パルスィは少し驚きながらもじっと勇儀の言葉を待ち、勇儀は一瞬、唇をもごつかせた。
これから自分が言う事が己の未来にどれだけ重大な影響がある事なのか、その大きさが、さすがの勇儀をも一瞬怖気付かせた。
だが、目の前にはパルスィがいる。
勇儀は、無理やりに肺から空気を搾り出して、そして言った。
「…こ…子供を作らないかい」
「短絡的、だったかな」
「え?」
二人は橋の上にいる。
出会って少したった頃から、そして今も、一緒に肩を並べている。
地底の闇にわずかに浮かび上がる橋と、肩を寄せ合う二人と、それ以外には、もう誰もいない。
「子供を作ればパルスィは幸せになる。今思うと…なんだか急にマヌケな考えた方に思えてさ。…パルスィが喜んでくれて、本当にホッとしてる」
パルスィは眼前の闇を見据えた。
「そうね…それで必ず幸せになれるかどうかは、もちろん分からないけれど…でも私は、勇儀がそう言ってくれた事が本当に嬉しかった」
「そうか、よかった」
「その後に言ってくれた事は、もっと嬉しかった。本当にどうしていいかわからないくらいだった。今でもまだ、どうしていいのかわからないもの」
そう言って、パルスィは勇儀にぎゅっと抱きついた。
その肩に手を回し、勇儀がパルスィを包む。
「あたしが子を作る相手は生涯パルスィだけだ、か。それが一番言いたかった事なんだ」
「勇儀っ…」
パルスィは、感極まった声を上げた。
星熊勇儀という妖怪の将来において、少なくともある面においては、自分が決定的に唯一無二の存在になれたのだ。
体の奥から、嫉妬とはまったく違う、言いようの無い感情が突き上ってくるのだ。
「あたしのこれからの未来の半分。これがあたしにできる、一番の贈り物だな。お互いにお互いの半分を背負う、とも言えるのかなぁ。いやぁとにかく、受け取ってもらえなかったらどうしようかと」
「勇儀っ、勇儀っ、勇儀っ…」
「八雲紫にはえらいくクギを刺さされたがね」
八雲紫は、勇儀に言った。
貴方の言うとおり、これで彼女の独占欲が満たされて嫉妬の想いも小さくなるのかもしれない。けれどその代わりに、貴方は一生その想いを証明し続けなければならなくなった。もしそれを怠ってどんな形であれパルスィを裏切れば、その時は、幻想郷の破滅。
「あたしらはただお互いに恋愛をやっているだけだというのに、周りがうるさくて迷惑だねぇ。まぁでも簡単な話だ。あたしが一生、正直でいればいい。それだけのことさね」
「勇儀、私は」
パルスィが、切なげに顔を上げた。
「いったい私は、あんたに何をあげればいい?」
勇儀は、パルスィの額に唇を寄せて言った。
「もうもらったよ。最初に贈り物を貰ったのは、あたしのほうだ」
「え?」
「この世でただ一人しか得ることのできない、あんたの恋心。それを貰った。パルスィは、パルスィを私にくれた。それ以上の贈り物なんて、ありはしないよ」
「私、一生あんたにとりついてやるんだから…」
嫉妬異変は終わった。
幻想郷縁起にも、文々。新聞にも、もちろん花果子念報にも、その記述は一切登場しない。
八雲紫と数名達の手によって、歴史の日の目を浴びる前に、こっそりと地底の闇に沈められたのだ。
パルスィは能力を失い、普通の妖気を持つ程度の妖怪になった。
けれどその変わりに一番欲しかったものを手にする事ができた。
だからパルスィは、何かを失ったとは、一切思っていない。
「ああ妬ましい」
今でもパルスィは時々そんな事を口にするが、実のところもう、彼女は何も妬ましくないのだ。
それから、100の季節が過ぎた。
時間とともに変わっていくものと変わらないものがあるが、地底旧都の飲み屋街は、明らかに後者であった。
今日も今日とてここは地底で一番騒がしい場所だ。
閉鎖された地底世界では、一度安定した在り方はそれからはほとんど変化しない。
その飲み屋街の一角で、二人の妖怪が前後不覚になるほど酔っぱらい、通りで意味のない言葉を叫んでいた。
「おい、お前ら!」
その妖怪達を、甲高く鋭い怒声が叩いた。
「あぁん?」
妖怪がへべれけになったその顔で振り向くと、そこにいたのはまだ幼い男型の小鬼。
背の丈は二人の股下に届くかどうかという程度で、鬼にしてはまだ随分と小さい。
短く刈りそろえられた金髪から飛び出た、頭のてっぺんの1本の角だけが、なんとか潜在的な力の強さを表していた。
「なんだぁ坊主?」
「なんだじゃない!」
自分の3倍は身長のある二人を前にしながら、小鬼はまったく物怖じせず幼子特有の高い声で怒鳴った。
だがそう凄んでみても、あまりに外見幼いためにどうしても、幼稚園児の演劇をみているようなそんな可愛らしさが残ってしまう。
「酒を飲むのはお前らの自由だが、周りに迷惑をかけるんじゃない!」
妖怪達は、お互いに目を合わせたあと、小鬼を指さしながら酔っぱらい特有の馬鹿笑いをする。
「驚いた!こんなちっこいお巡りさんは初めて見たぞ!鬼共は人手不足なのか?」
「坊主!悪いことは言わねぇからもう少し大きくなってから出直してきな!」
小鬼は、目に涙をためて悔しそうに歯を食いしばった。
「うぅぅぅぅ、笑うな!ちょっと体がデカイからって…妬ましい!」
その言葉を聞いて、妖怪の片割れがはたと笑うのをやめた。
「…お、おい」
未だに馬鹿笑いをしている相方の腕を叩きながら、その妖怪は目の前にいる小鬼の特徴をあらためて目で追った。
その瞳は、黒色だと思っていたがよく見るとかすかに緑の色を持っているように見えた。
その耳は、平均的な形にくらべるとわずかに尖った形をしている気がする。
そして、金髪、角…。
「げ!」
その妖怪の顔色が、一瞬で赤から青に変わった。
「おい、やべえよ!」
「あん…?どした?」
相方の様子がおかしいことに、馬鹿笑いをしていた妖怪もようやく気づく。
顔に脂汗を浮かべながら、その妖怪は言った。
「こ、こいつ、『十人男女』じゃ」
「へ?」
絶望的な顔と、マヌケな顔が、そろって小鬼に向けられた時である。
「おい、お前ら」
妖怪二人の背後から、先程の小鬼と同じ言葉が、今度は、太く厚く重い声で叩きつけられた。
驚いた二人が振り向くと、そこに、二人の頭一つ以上の背丈の、背の高い女型の鬼が腕を組んで二人を見下ろしていた。
「ひ!あ、あんたは」
今度こそ二人の顔が揃って青色に染まった。
「あたしを呼んだか?」
鬼は、腰まである長い髪をかきあげながら言った。
少しウェーブのかかった、美しいな金髪の髪である。
力強い瞳は鮮やかな緑に染まり、耳はエルフの様に尖っている。
そして額突き出た三本の赤い角は、その自信に満ちあふれた表情と共に、隠れ秘められし天手力を悠然と誇示していた。
「姉様!」
二人の背後にいた小鬼が嬉しそうに叫ぶ。
それを聞いた酔っぱらいは、そろって呻いた。
「やぱっりこの坊主、星熊一家の『十人男女』か」
十人男女。
星熊一家―正確には星熊・水橋一家―の子ら、長女から末弟の十名からなる、旧都治安維持を標榜する私兵集団である。
彼らは普通の鬼子とは違い、兄弟姉妹の全員が同じ両親を持つという、特殊な継りを持っていた。
十という数は、鬼が残す子供の数としてはまだ少ないと言えるものだが、両方の親が全く同じということは、鬼の歴史上ほとんど無い。
「弟が、世話になったか?」
その姉弟に前後から睨まれては、二人の妖怪にはもはやどうしようもなかった。
素直に頭を下げるのが最良である。
「い、いや、その、すまん。少し酔いすぎたんだ。悪かった!」
そう言って二人は、人ごみに逃げこもうしたが、二人とも後ろからヒョイと襟首を持ち上げられて、捕まってしまった。
片腕で軽々と、妖怪一人を持ち上げているのである。
「ひ!は、離せ!」
「まぁそう言うな。世話になった礼をしないとな」
お礼、という言葉に反応して、二人の顔から冷や汗が流れ落ちる。
「ぎゃあ!助けて!帰してくれぇ!」
「別にどうこうしようというわけじゃない。我が家の酒を奢ってやろうというだけだ」
「勘弁してくれ!あんたらの飲む酒じゃあ俺たちの喉が燃え尽きちまう!」
「今日は勇儀母様も家にいる。朝まで飲んでいけ。安心しな、倒れた時はパルスィ母様が介抱してくれる。さぁ、お前も行くよ」
「はい、姉様」
「助けてぇ!」
「いやだぁ!」
旧都の空に、今日も変わらぬ悲鳴が響いた。
その悲鳴は、地底の空の闇に紛れて浮かぶ、八雲紫にまで届いていた。
隙間から生えたその顔は、以前とまったく変わらずに若々しい。
「おやおや、相変わらず御元気ですこと」
開いた扇で口元を隠し、その目だけが妖しく笑っている。
「でも」
と、紫は首をかしげて思案顔になる。
「もし一家総出で異変を起こされたら、もう霊夢には荷が重いかしらねぇ。オバサンになっちゃって、足腰が弱ってきたものねぇ。ああ可哀想」
パチリと、扇を閉じる。
「代替り、そろそろ真剣に考えないと」
そういって紫は隙間の中に消えた。
すぐに残っていた隙間も消えて、後には、地底の闇だけが広がっていた。
幻想郷は、今日も平和に保たれている。
10人も子どもがいるとは…面白かったです
期待以上に楽しませてもらいました。
やっぱ恋愛ごとだとパルスィが強いw
>>そして額突き出た三本の赤い角は
「額から」じゃないでしょうか。
これ以上のものとなるとそうそうあるまい
勇パルがお互いに対して非常に真摯に向き合う様子に感動です。
ただ最後の霊夢に関する台詞は蛇足じゃないかなと思いました。
物語めっちゃよかったです!俺もこういう大作書けたらいいなぁ…