暑い。苦しい。呼吸をしようにも、その空気がやたら重いのである。
開け放してある窓辺では、外の暗さと店内の明るさが接している。今ならば一筋の風でも、この二つをまだらに掻き混ぜる力を持つのだろうが、あいにくとそんな風はなく、二色は穏やかな鍔迫り合いを続けるばかりである。
僕は、風の神の怠惰を呪った。
もっとも、今夜に限ってはこの純粋で重い空気こそがひと時の舞台を演出したのは間違いない。暦の上でも、感覚の上でも夏を迎えた幻想郷。その大事な風物の一つ、蛍である。
夕方、僕はいつものようにお茶うけを奪いにやってきた霊夢と、蛍について話していた。
「それで、今日のような日は蛍が飛ぶの?」
「ああ。きっとね。蛍が飛ぶためには二つの条件があるが、今日はその条件を両方とも満たしている」
「へぇ。こんな暑苦しい日に、よくもまあ動き回る気になるわね、蛍も」
霊夢は、さも呆れたといった顔をした。だが蛍にとって、自身を飛ばすためにはこの二つの条件が不可欠なのだ。
「君も知っている通り、蛍というのはとても儚く、軽い生き物だ。だから、彼らが自在に飛び回るためには、さっき言ったようにある条件が揃うことが必要になる。
それが、無風であること、そして、空気が出来るだけ重苦しいことさ」
僕は霊夢に、なぜそれが必要となるかについて教えた。
「蛍の羽根の力というのはとても弱いんだ。だから当然、蛍は風に向かって飛ぶような芸当は出来ない。いきおい、空を縦横に飛び回ることが出来るのは無風の日に限られることになる。
それにもう一つ、今言ったように、蛍の力はとても弱くて儚いから、自分自身の力だけでは長く飛び続けることが出来ない。そこで蛍は、空気が重くなって、自分の体を浮かせてくれるような日を待つのさ。空気が重ければ重いほど、蛍の体は相対的に軽くなる。そして、ついに空気が蛍より重くなったとき、蛍は何もせずとも宙に浮くことが出来るようになるんだ。だから、今日のように風がなくて空気が重い日は絶好の蛍日和だと言えるね」
外の世界では、蛍が利用しているような力を、浮力と呼ぶのだそうだ。かつて読んだ書物には、それを利用して人間を運ぶ巨大な機械が描かれていた。この技術も、おそらくは蛍から着想を得たのだろう。だが、一寸の虫から生まれたにしては随分と大きな応用である。まったくもって視野の広い発想だと言えた。
僕が説明している間、霊夢は目で適当に相槌を打っていた。相変わらず、ちゃんと考えて聞いているのか疑わしい。
ただ、暑くて問いただす気も起きなかったので、何か言おうと動き出した彼女の口に、この場を任せることにした。
「それで、霖之助さんは蛍を見に行くわけ?」
さて、その点はどうしたものか。
確かに、蛍は桜同様、わずかな期間しか見られない。だから、普通の人間なら蛍を見る回数など多くても百に達しないほどだろう。その上、山にある幻想郷では無風の日というのがそもそも少ない。蛍が舞うのに都合の良い日、というのはそれ自体がとても珍しいのである。僕は軽く目を閉じて、舞い踊る光の粒を思い描いた。
だが、外出がいささか面倒なのも事実である。僕は蛍ではないので、こんな日の夜に元気よく飛び出せるわけでもない。
結局、僕は常人には貴重な蛍の舞いを、拝みに行くかどうか思案していた。
「いや、今夜は」
――カラカラカラン。
「蛍狩りなら私も行くぜ」
魔理沙がいつもの帽子を団扇代わりに入ってきた。店の空気が動いていないことをあらためて実感させられる。
「おいおい、香霖もこんなところにいると黴が生えるぜ。どうせじっとしていても暑いんだから、せめて面白いものでも見ないと損じゃないか。それにあれだ。小人閑居して不善をなす、だっけか」
「こんなところとは随分だね」
店を構えている商売人に向かって、閑居して不善をなすとは相変わらず失礼な奴だ。
ただ、魔理沙の言い分自体はなかなか理にかなっていた。確かに、暑苦しい夜とはいえそれを楽しまなければ一夜分の損であるし、そもそもじっとしていても暑いというのは、じっとしているから暑いということの責任の転嫁とも言える。風の神が世界を掻き回すのを渋るなら、自分達が動けばよいのだ。
緩んでいた姿勢を立て直すと、顔にかすかに風を受けることができた。
「蛍狩りか。行ってもいいが、しかし蛍を捕まえるのはご法度だよ」
僕は二人の蛍見物に、目付役として同行することを決めた。
そして、予想通りの見事な蛍を経て、今に至る。
僕はそこで今日一日を終えたつもりだったのだが、魔理沙も霊夢も、帰宅せず店に戻ってしまっていた。
「それにしても霖之助さんの言った通りだったわね。幻想郷にあんなに蛍がいるなんて知らなかったわ」
「確かにな。地上の流星なんて言い出す奴がいるのもわかるってもんだ」
二人は今、奥の部屋に寝転がっている。ちょっとやそっとでは動く気配がないところをみると、今夜は泊っていくのだろうか。
「それにしても、これちょっと狭くないか?小うるさい虫が来ないのはいいが、霊夢と足がぶつかりそうだぜ」
「だからってそうじたばた動かすことないでしょ。確かに狭いのは事実だけど」
「狭くて悪かったね」
二人がいるのは、虫除け用の簡素な結界、蚊帳の中だ。まあ、一人分の蚊帳に二人で入れば、それは狭いだろう。
というより、そもそもそこは僕の寝床である。その萌黄色の蚊帳はここを出る前に僕が吊っておいたものだ。
だが、寝るなら別に布団を出してくれと言おうとして、僕は開きかけていた口を閉じた。
狭い狭いと言いながらはしゃいでいる彼女達に、僕の説教を聞く耳があるようには見えなかったからである。僕は文字通り、蚊帳の外というわけだった。
「でも、あんなに蛍が綺麗なら、願い事の一つや二つ考えておくんだったわ。あれだけ飛んでいれば、本物の流星じゃなくても叶えられたかもしれないじゃない」
「そうだぜ。まったく、私が捕まえようとしたときに香霖が邪魔しなければ」
魔理沙はそう言って、うつ伏せから顔だけを起こして、頬杖をついた。見れば霊夢も同じような格好をしている。
「ねえ霖之助さん。私達が蛍を捕まえようとしたときに止めたの、あれも何か理由があったんでしょう?」
「もちろんだよ。自由に飛び回る蛍を捕まえてしまうのは、僕達にとって損でしかない」
蛍は、自由に飛び交っていなければならない。それに、そもそも彼女達が話している光の要素は、蛍に宿る性質のほんの一部に過ぎないのだ。僕はそのことを教えるため、読んでいた本を机に置いた。
「君達は光のことばかり話しているけど、それだけでは蛍の本質を捉えているとは言えないね。さっき魔理沙が言っていた、蛍の星への見立ても、かなり近づいてはいるが正解じゃない」
暗闇に光る蛍に、夜空に浮かぶ星を見る。これ自体は古くから伝わる有名な見立てだ。しかしこれは、元々あった正解が、人々に伝わるうちに変質してしまった結果だと、僕はみている。
「ん?一応言っとくが地上の流星云々は私じゃないぜ。それに、星と流星じゃあ結構違うじゃないか。動くところとか」
「よく見ているね。確かに、星よりは流星の方が近いかもしれない。その理由はもちろん、蛍が動くからだ。だけど、流星の動きはまっすぐだろう。流星は蛍のようにあちこち動き回ったりしない」
流星の動きには迷いがない。それは、流星が天龍の鱗のはがれ落ちたものであり、既に思考する存在ではないからだ。だが、蛍の場合は違う。
僕はそう言って、二人がいる部屋のふすまを閉めた。灯は店の方にしか点けていないので、彼女達の周りは真っ暗なはずである。これから二人には、蛍のなんたるかを仮想体験してもらうとしよう。
「あれ?ちょっと、霖之助さん、まさか今ので終わりってことはないでしょう?」
拍子抜けしたのか、霊夢が不満の声を上げた。もちろん、ここでやめるつもりなどない。僕は一呼吸分目を瞑ってから、ふすまの奥に向けて口を開いた。
「さて、では続きを始めようか。まずは、今真っ暗闇になっている部屋の中に一匹の蛍がいると想像してほしい。これから話すことは、蛍を思い描いていないとちょっと分かりにくいからね。
まあでも、さっき見た本物の光を、その幻想の蛍に重ねながら聞けばきっと簡単に理解出来るさ」
想像することに専念したのか、部屋の方では先程より物音が減ったようである。おそらく、今、二人の目にはそれぞれに幻想の蛍が映っているはずだ。
「さて、その蛍は、君達の目の前を自由に飛んでいるだろう?
そこでだ。もしその蛍が一瞬光を消して、次の瞬間にまた光り始めたとする。そういう場面は、想像できるね」
「ああ」
魔理沙が短く返事をする。どうやらちゃんと、幻想の蛍を目で追っているようだ。
僕は二人がついてきていることを確認して、次の説明に入った。
「今の場面で、幻想の蛍はある場所で突然見えなくなり、また突然別の場所に現れたと思う。けれど、それは君達が一瞬目を瞑っただけでも同じことになるんじゃないかい?」
返事はない。だが、その沈黙が気づきによるものならば、それでもう蛍の本質は見抜けたも同然である。
「気付いたと思うが、蛍の光がまたたくのと、僕らの目がまばたきするのは実は同じことなんだよ。このことは、またたきとまばたきの両方が同じ漢字で書くことからも言える。そして、これから分かるのは、蛍が本来は我々の視点、つまり目で見ている対象という概念そのものを表す存在だということさ」
「あー、相変わらず何を言ってるのか分からないぜ」
「いや、このことはちょっと想像すればすぐにわかる。例えば今、君達は幻想の蛍を目で追っていただろう?それは、君達の視点が蛍にあった、ということだ。そして、その蛍の動きが、君達の目の動き、視点の動きだったんだよ。
他にもだ。大量の蛍は、よく天の川に見立てられるが、それも本質は同じさ。普通、我々は天の川を見てもあまりに星が多すぎてどこか一点を見つめ続けることが出来ない。もちろんまばたきもするだろうね。それは乱舞する蛍の群れを見ても同じと言える。やっぱり、ただどこかを注視することはできなくて、視点は空間を動き回ってしまうはずだ。そして、この二つの場面に共通する、自然に泳ぎ出してしまう目の動きを表しているのが、一匹の蛍の動きなんだよ」
すなわち、蛍の本質というのは、その光ではなくて動きにあるのである。光はあくまで、見えていることを示すだけの目印に過ぎない。そして、僕が蛍を無碍に捕まえさせないのもそれが理由だ。
「蛍の動きは僕達の視点の動きなのだから、蛍が動き回れる空間が広ければ広いほど、僕達の視野も広いことになる。逆に、もし蛍を捕まえてしまったら、僕達はその目を自分の手の中にしか向けられなくなるわけだ。それはとても大きな損失だよ。そう思わないかい?」
人間とは言え、二人はまだそれなりの時間を生きる。だから、視野は広く持っていなければならない。幻想の蛍が飛ぶ世界を、蚊帳やこの店のような、狭い世界で閉じさせてはならないのである。僕はそう心の中で諭しつつ、店と部屋をつなぐふすまを開いた。
奥の部屋に光が差し込むと同時に、まるで待っていたかのように、風が一息で吹き抜けていった。
「あら。風が出てきたわ。きっとあの蛍の宴もこれで終わりね」
霊夢が、波打つ網目の奥でつぶやいている。どうやら、ようやく風の神が仕事を始めたらしい。僕は、風が服や肌から暑さをめくり取るのに任せて、しばしの間弛緩していた。
――あれから蛍は、住処に帰り着くことが出来ただろうか。それともこの風に攫われ、どこかへ舞い上がってしまっただろうか。もしも吹き飛ばされてしまっていたら、今日が今年の蛍の見納めだったことになるんだが……
そんなことを考えているうちに、何故か店内のほこりを思い出してしまった。そう、ここ数日暑かったので、掃除をしていなかったのである。
折角じっとしていても涼しいのだから、できればここから動きたくないが、このまま風を通しっぱなしではほこりが舞い上がってしまう。僕は静かに席を立つと、二人がいる結界の脇を抜け、奥の小窓を閉めに向かった。
そうして目的を果たして、後ろに向き直った。
今は店の方でしか灯を点けていないため、部屋は小窓のある奥に行くほど薄暗い。それゆえ、光は明るさの傾斜を辿って部屋の奥へと流れてきていた。床には椅子が長い影を垂らし、蚊帳はその背もたれだけを吸い込んで、薄暗い萌黄色の上で揉みほぐしている。
それは、いつもと同じ、香霖堂の夜のはずだった。
だが、僕は見てしまったのだ。
目の前に吊られた一張りの蚊帳。
そこには、あるはずのない模様、空間の揺らめきが広がっていた。波とも、玉とも、縞ともとれるその不思議な模様は、細く絞られた風によってゆるやかに靡く蚊帳とともに、刻々とその形を変えている。こんなものが、この部屋のどこかにあっただろうか。この蚊帳にこんな模様があっただろうか。僕は驚きを隠せず、椅子への歩みを止めていた。
「ん、香霖どうした」
すっかり静かになった蚊帳の中から、魔理沙が声をかけてきた。どうやら彼女には、この景色が見えていないらしい。また、よく見ると、この不思議な模様は蚊帳の網が二重になったところにだけ、すなわち、視線が結界を超えて、更にもう一度結界を超えたところにだけ現れている。
僕は、自分の視野の狭さに気づき、軽いショックを受けた。
僕がかねてから願っていることは、いつかこの幻想郷を包む結界を越えて、外の世界を見ることである。そうすれば、今よりもはるかに長いものに巻かれ、自分を鍛えることが出来るだろうと思うからだ。だが、ひょっとすると、その考えは片手落ちだったのかもしれない。確かに、外の世界は幻想郷よりずっと広く、文明の進み方もずっと速い。けれど、ただ単にその世界に憧れるだけで、外の世界を見聞するだけで、はたして十分と言えるだろうか。本当は、幻想郷と外の世界の両方を理解することが必要なのではないか。つまり、自分を外の世界に置きながら、幻想郷を通してもう一度、広い外の世界に目を向けることが必要なのではないか。そうしたときに初めて、かつては見えなかったものが見えてくるのではないか。
蚊帳に映る景色は、その中から外を眺めるだけでは決して見ることは出来ない。だが、それは外から中を見ても、やはり見ることが出来ないものだ。ゆらゆらとうごめく幻想のような真実は、結界の外から、中を通してあらためて外を見ることによって、初めて現れてくれるのである。僕は先程まで、自分が広い視野の持ち主であると思い込んでいた。だが実は、僕の幻想の蛍も、せいぜい結界を一つ超えた世界までしか飛んではいなかったのだ。それに気づけただけでも、今夜、寝床を追い出された価値があったというものだろう。僕は改めて足を踏み出しながら、魔理沙に返事をすることにした。
「大丈夫だよ。結界の中にいるだけでは見えないものがある、ということに改めて気付いただけさ」
「――――」
いつもならすぐにやってくる合いの手は、既に寝息に変わっていた。どうやら二人は、一足先に世界を幻視しに向かったらしい。
体は狭い結界にいても、夢の世界までが狭いとは限らない。蛍に学んだ彼女達の夢は、きっと、昨晩より広がっていることだろう。そして、それは僕だって同じだ。
そう思うと、少しだけわくわくしてくる。僕は、椅子に戻るとそっと灯を消し、まだ見ぬ世界を幻視するべく、目を閉じた。
幻想郷の自然環境は古き良き郷って感じなので蛍も鮮やかに舞い踊っているでしょうね。
視点を変えれば世界も変わる、単純なようで意味深い話を堪能させてもらいました。
昨今の日本では蛍が戻ってくるような自然にしようとする筈が、蛍にのみ
焦点を置くようになり、いつしか蛍の繁殖というよくわからない行為に
踏み切るようになりました。環境再生医の一人ですが、そういった依頼に
うんざりしています。一つの視点からだと時に盲目です、人間というのは。
でも面白かったです。
楽しめましたよ
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