ちょきん、ちょきんと。
鋏の切り捨てる音が部屋に響く。
ちょきん、ちょきん、ちょきん、ちょきん。
ちょき、ちょき、ちょき、ちょき、
ちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきちょきん。
はい、上手に切れました。
「……あれ? お姉ちゃん、髪切ってるの?」
「そうよ。最近ちょっと伸ばし過ぎたからね」
洗面台に向かい、鏡を見ながらじょきじょきと鋏を振るうさとり。成程、いつもよりかはもっさりとしていて若干暑苦しい感じがする。伸びたと言っているのはつまりそういうことなのだろう。
何回か切り、櫛ですき、また何回か無造作に切る。ぱらぱらと落ちる髪の毛は洗面台の底へ。最後に水で流せば、綺麗さっぱりというわけなのである。お手軽散髪法であった。
「ふーん……珍しいこともあるのね。お姉ちゃんが髪のお手入れをするなんて」
「それはあなたがあまりお家にいないから見ないだけでしょうに……私は長くなる前に、ちょくちょくこうして切っているのよ。ちゃんと髪のお手入れをするのは女性の嗜みですもの。ここ最近はさぼっていたけれどね」
「え? その割には髪の毛、結構傷んでるような……」
「……生まれつきの髪質です。仕方ないじゃない」
「別に責めてないけどさ」
こいしの指摘にさとりはいきなり不機嫌そうに答える。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。変なところでプライド高いんだから、と思いつつ、こいしはもう既に半分程度掘り返された地雷を恐る恐る回避した。
そうして改めて己が姉の動作をじっと見る。人が髪の毛を切るのはそれ程見ることのない光景だ。いや、実際には注視することのない、と言った方が正しいか。そんな日常風景の一つを、いちいち凝視したりなんかしないものである。
白磁気のような透明感のある指先が忙しく動き、髪の毛を一つまみ、ちょきん、一つまみ、ちょきん。単調な動作だが、その慣れた手つきは年季が入っていることを思わせる。これ程までに素早く淡々と作業をこなしていく様は、枯れ枝のようにやせ細った弱弱しい指と相まってグロテスクとすら思えてしまった。
「……何見てるのよ。そんなに珍しいの?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ……なんか、こう、面白いなって」
「全然面白いことなんてないじゃない……別に構わないけど」
ぶすっとした乱暴な物言いだが、それが照れ隠しだということは重々承知。単純に自分が見られているということが恥ずかしいのである。人の目を気にしないさとりだからこそ注目されると逆に弱くなる、さとりの数ある弱点の内の一つだった。
それを見ながらにやにやとするこいし。いつもどこかふわふわとして同じ目線に立っていない姉を、コントロールしているような優越感。実に楽しいものである。これがいわゆるギャップ萌えという奴か。
しかしあんまりからかっても怒られてしまうので、程々にしてこいしはふとそうだ、と思いついたことを口にした。
「お姉ちゃん、それが終わったら今度は私の髪も切ってくれない?」
「こいしの? ……えぇ、構わないけれど……それこそ珍しいわね。自分から切ってほしいとなんて頼むだなんて」
「まぁ、たまにはね。そろそろ切らなきゃって思ってたところだったし、ちょうどいいじゃない」
こいしの突然の提案にさとりはいまいち真意が掴めないまま、妹の体全体を上から下、下から上へとじろじろ見る。成程、最後に切った時は肩口辺りでばっさりした記憶があるが、今はもう腰の辺りまで伸びてしまっている。流石にこれは伸ばし過ぎだろう。ちょうどいいからと切りたいと言うのも分からないでもない。
まぁこいしのことだから、何かしら考えがあってのことなのだろうけれど。頼まれた以上、やらないわけにはいかないわ。さとりは頭の中で決断して――最初から答えは決まっていたのだが――渋々、というポーズをとりつつ頷いたのであった。
「はい、それじゃあそこに座って」
「うん……分かったけどさ、なんでお風呂場で切るの?」
「本当は私がお風呂に入ってからにしたかったけど、それだと服に髪がついてしまうでしょう? だったらこうすれば服も汚れないし、すぐに頭も洗えるから一石二鳥じゃない」
「ふーん……一応考えとかあったんだ」
「どういう意味?」
「なんでもないよ」
さとりがジト目でじっと睨むと、こいしはつんと澄ました表情で顔を逸らす。
すぐにそういう発想が出てきて、尚且つそれが通じてしまう辺り、この姉妹やはり似た者同士なのかもしれない。
というわけで、ここは地霊殿の公衆浴場。ペットたちが仕事上がりの疲れを癒すために使われる憩いの場である。但し今現在はまだ全員仕事真っ最中なので、完全な貸し切り状態であるが。
白い湯気の立ちこめる広い空間の中で、姉妹たった二人きり。いつもどこかの騒がしさが聞こえてくる地霊殿には、まるで無用の静けさだった。
「さ、て、と。櫛を通しますよ。痛かったりしたらごめんね」
「ういうい。了解」
その答えを合図に、さとりは右手に持った櫛をそっとこいしの後頭部に当て、すっと柔らかな動作ですく。ところどころで引っ掛かるような感触を覚えたが、こいし自信はあまり痛がっているようには見えなかった。
「……見る度に思うけれど、あなたの髪の毛って本当綺麗よね……いったいどうしたらこんな風になるのかしら」
「何もしてないけどね。どうしたら姉妹でここまで違うようになるんだろうね」
「さて、どんな風に切ってやろうかしら」
「あはは、ごめんごめん。でも何もしてないのは本当だし……どうしてなんだろう?」
「知りませんよ。はいおしまい。前髪から切るから、ちゃんと目をつぶってなさい」
「はーい」
一通りすき終わると、次はいよいよ断髪。鋏を縦に何度もちょきちょき、櫛ですいてはちょきちょきちょき。ぱらぱらと落ちる髪の毛が、こいしの顔に降りかかる。ぎゅっと目をつぶっている姿はいつものどこかシニカルな態度とは真逆で、思わず笑いを誘ってしまうほどに愛らしいものだった。
次いで耳の裏、もみあげ、後頭部に襟足。耳付近を切る時は、どうしても鋏の金属部分が耳に当たってしまう。そのひんやりとした感触が何だか自分の耳まで切ってしまいそうで、じゃきんと音がする度に知らず知らず顔にぎゅっと力を込めてしまうのだ。見た目相応に子供らしい仕草に、さとりは笑みを柔らかくした。
両サイドを処理し終えると、次はいよいよ大詰めの後ろ髪。腰まで伸びた大物に、少し気押されてしまうさとり。ふむ、と頬に手を当て数秒考えた後に、さとりは改めてこう切り出した。
「ねぇ、こいし……本当に切っちゃっていいの? このまま伸ばしておくっていう手も――」
「いやぁよ。お散歩する時に邪魔で邪魔で仕方がないんだもん。それに最近は暖かくなってきたしね。冬の時はちょうどいいかもしれないけど、それ以外だとやっぱり暑いわ」
「そう……綺麗な髪だし、なんだか勿体ない気がするんだけどね」
「ま、放っておけばまた伸びてくるし。今はばっさりやっちゃって構わないよ。お願い、お姉ちゃん」
「……分かりました。それなら遠慮なく。私に任せておきなさい」
さとりはにこりと笑い、今一度鋏を手に握りしめる。そして左手に一房持って、さくり、とためらいなく刃を入れた。
「はふー……なんだか頭がすっきりした気分。結構髪の毛って重たいのね」
「そりゃそうよ、あれだけの長さだったんだから……毎日毎日、洗うのも大変だったでしょう?」
「まあね。だから切ったんだけど」
きゅっ、とさとりはシャワーの栓をひねる。湯水に濡れた髪をかき分け、顔を何度か手でぬぐってからさとりもこいしと同じ湯船に肩まで浸かった。
隣でやれやれと息を吐く姉の姿を見て、こいしはぼそりと小さく呟く。
「……濡れたら普通の髪の毛になるのね。変なの」
「癖っ毛というのはそういうものなのよ。勿論、乾けばまた元に戻るのだけれど」
「切ったのに直らないんだ?」
「切った剃った程度で簡単に直るくらいなら、誰も苦労はしませんよ。……でも、なんででしょうね。ちゃんとそれらしきところは切っているのだけれども」
「あ、やっぱり気にはしてたのね」
「当り前じゃない。私だってできたらストレートの方がいいわよ」
「私は別に今のままでもいいけどなぁ。なんだかんだで、気に入ってるし」
「あなたは軽くウェーブが掛かっているだけだし、嫌がることもないでしょうよ。私みたいに寝癖の酷くなったようなのは、あんまり好ましく思わないものよ」
「ふーん……そんなものなのかな」
ぶくぶくぶく。こいしは顔を半分湯の中に沈めて、口の中に溜めた息を吐き出し泡を立たせる。
いかにも子供っぽい所作だ。その内泳ぎだしかねない。昔ならいざ知らず、そんなことはしないと分かっていても、どうしてもそんな思いを抱いてしまうさとりだった。
そして、昔、という言葉を心の内で反復する。
「……そういえば、あなたとこうして一緒にお風呂に入るのも随分と久しいわね。何年ぶりかしら?」
「んー? 何年くらいかなぁ……まぁ、今更一緒にお風呂に入るような歳でもないしね」
「何をきっかけにして、入らなくなり始めたか……ちょっと気にならない?」
「ならないよ。どうせ私の方が恥ずかしくなったとか、そういう理由でしょ。今だって恥ずかしいし」
「恥ずかしいの?」
「う……そ、そりゃあ、ちょっとくらいは」
のぼせたのか、それとも他の理由か。こいしはやや顔を赤らめて、再度湯船に顔を沈める。
まぁ、繊細な子だから仕方ないかな、とさとりは考える。それに人間で例えれば、まだまだ思春期真っ最中だ。同性といっても、また姉妹といっても恥ずかしい部分はあるのだろう。確かに照れる姿は可愛らしいが、これ以上続けてもかわいそうに思える。良識的な判断のもと、さとりは妹弄りをやめた。
さとりが追及するのをやめると、やはり恥ずかしかったのか。こいしは突然不自然な方向に話を転換した。
「知ってる? 女の子って、好きな相手にしか髪の毛を触らせないらしいのよ」
「それなら床屋さんはみんな好きな人なのかしら」
「ん、あれ? そっか、そう言えばそうだね。変なの」
突然何を言い出すのか、といぶかしがるさとり。しかしこれもいつものことだ。気にするだけ時間の無駄か、と一人で勝手に納得してしまった。
そして、会話が、途切れる。
久しぶりの、本当に久しぶりの姉妹だけの時間。今までの会話なんて、ほんの照れ隠しみたいなものに過ぎなかった。だからこうして話すことも尽きてしまえば、慣れてしまえば。言葉がなくなってしまうのも、自然なことと言えた。
だからそれから紡がれる言葉は、照れ隠しやごまかしなんかじゃなく。
きっと、素直な本音だったのだろう。
時折身を動かした結果鳴るちゃぷちゃぷという水の音以外に、浴場には音はない。
息が詰まるような閉塞感に包まれた静寂ではない。ただ、心が穏やかになるような、そんな心地の良い静けさ。
その静けさに溶けるような声で、こいしは呟くように口にした。
「私は、お姉ちゃんの髪の毛好きだよ」
「そう。ありがとう」
「お姉ちゃんは?」
「勿論こいしのも大好きよ。羨ましいくらいにね」
「そっか。ならいいじゃん」
「え?」
さとりが聞き返すと、こいしはやんわりとした笑みを口元に浮かべて言った。
「両想いなんだからさ。自分のを嫌うことも、ないんじゃないかなって」
「そうかしら。……えぇ、そうかもしれないわね。私自身は気に入らないけれど、どこぞの誰かさんが好きだって言ってくれてるし。なら、これでいいのかもしれない」
「どこぞの誰かさんって誰のこと?」
「とっても可愛らしい、私の大事な人のことですよ」
「へぇ。そんな人がいるんだ。嫉妬しちゃうな」
こいしのいたずらめいた返し。その言葉にさとりはくすくすと笑いだす。それにつられるようにして、こいしもまたけらけらと笑う。
けらけらと、くすくすと。閉じられた二人だけの空間の中で、笑い声だけがこだまする。
それはまるで数年前の、まだ疎遠になり切っていなかった姉妹をそのまま映し出しているかのような光景だった。
面白かったです~
まさに私のストライクじゃないかっ…!
いいえ、こいしちゃんの髪は私がおいしくいただきました。
さとり様は寝癖ヘアーだからいいんじゃないか
あとロングでウェーブなこいしちゃんはなんか大物っぽく見える