「ねえ、お姉様。私はカレーというものが食べたいのだけれど」
フランドール・スカーレットは姉の顔を見るなり、カレーが食べたいと要求する。
すると、それを聞いた紅魔館の主にして高貴なる吸血鬼レミリア・スカーレットは、飲んでいた紅茶を華麗に噴き出した。
「お姉様、汚い」
「……ゴホッ! ゴホッ、ご、ごめんなさいねフラン。い、いま、あなたが『カレーが食べたい』と言ったような気がして……」
「そう言ったけど」
「」
フランドールの、清々しい肯定にレミリア・スカーレットは言葉を失った。
そして、藪から出てきたスティックを見るような目でフランを見つめる。
「な、なかなかフランは大胆な事を言うのね」
「そうかしら?」
汗を拭きながら、レミリアは『さすが吸血鬼だ! 何ともないぜ!』と自己暗示をかけて、平静を装った。
「でででで、でも、なんでカレーを食べたいなんて言うのかしら?」
そして、レミリアは動揺を露わにしながら、フランに尋ねる。
やはり、大丈夫では無かったらしい。
「だってさあ。カレーって美味しいんでしょう?」
「だ、誰に聞いたのかしら、そんな戯言。カレーなんて辛いだけで美味くもなんともないわ!」
「えー、でも美鈴は美味しいって言ったよ」
フランの言葉にレミリアは驚愕する。
「そ、そんな馬鹿な! 我が紅魔館にはカレー粉の一粒すら、侵入を許していないハズよ!」
「でも、先週食べたって言ったもん」
レミリアが否定すると、フランが頬をぷくーと膨らませて抗議をした。
しかし、美鈴がカレーを食べたという情報に、紅魔館の当主は動揺して、『ウン』とも『スン』とも言えないでいる。
「むー。良いよ、咲夜に頼んで今夜はカレーにしてもらうもん」
「ま、待ちなさいフラン!」
ようやく言葉を捻りだしたレミリアを置いて、フランはどこかへ行ってしまった。
恐らく、その言葉通りにメイド長の咲夜に、カレーを作ってもらうのだろう。
「そんな、どうすれば……」
フランドールが消えた方向を眺めながら、レミリアは呆然と呟くのだった。
※
その日は天気が良かった。
空は底抜けに青く、風が吹くと上空を雲と毛玉が流れていく。
そこでは霧の湖を住処とする妖精たちが舞い踊り、たまにピチュンと弾幕に当たって落ちてしまう。
素晴らしき、午睡にぴったりの天気だ。
「すかー」
そんな昼寝日和の空の下で、紅魔館の門番は惰眠を貪っている。
帽子を目深にかぶり、門柱に体重を預けて、器用に立ったまま熟睡モードだ。
そんな昼寝をしている妖怪に、丸い影が忍び寄った。
「……人の危機に、良い身分じゃないか」
それは日傘を差したレミリア・スカーレットの影である。
彼女は、カレー禁止令を敷いた紅魔館において、カレー持ち込み罪の嫌疑がかかった紅美鈴を尋問する為に、ここに来たのだ。
普段であれば、門番への聞き取りなど、メイド長に任せておけばいい仕事。しかし、カレー禁止令に関してだけは、レミリア自らの手で、違反者にお仕置きをしなければ気が済まない。
嗚呼、この吸血鬼とカレーの間には、どのような因縁があるというのだろうか?
「おーい。起きろー」
「うーん。あと一時間……ムニャムニャ」
起こそうとしたレミリアの手を美鈴は払ってしまう。
手を払われて吸血鬼はムッとしたので、少しばかり乱暴で門番を起こす事にした。
吸血鬼が、ポケットから取り出したるは、一粒の南京豆。
レミリアは豆を掌に乗せると、寝ている門番の顔に狙いを付ける。吸血鬼は、それをぶつけて紅美鈴を起こそうという腹づもりなのだ。
「それっ」
吸血鬼の怪力を持って指で弾いた南京豆は、半ば粉砕されながら門番の方に向かって飛んでいく。
――その刹那、美鈴は殺気を感じて目を見開いた。
そして帽子を跳ね上げると、迫りくる南京豆に視線を向ける。
「……よけきれない!?」
砕けた南京豆は散弾のように広範囲に撒き散らされながら、美鈴に襲いかかって来ているのだ。
回避不能と判断した美鈴は、南京豆の散弾を撃ち落とす事を決断する。
この間、僅か0.07秒。
「はあああああっ!」
呼吸一つ。その僅かな時間で、美鈴は飛んでくる南京豆の散弾を全て叩きおとした。
打ち漏らしは一つも無い。
「例えいかなる弾幕でも、この紅魔館門番、紅美鈴は落とせません!」
まるで演武の終わりのように、美鈴は構えをとって高らかに宣言する。
そして、目の前で「おー」と拍手をしているレミリアを見て、目をパチクリさせた。
「え、ええと。お嬢様?」
「昼寝から目覚めたかしら、この寝ぼすけめ」
「は、はい」
美鈴は、混乱をしながらも構えを解く。そんな門番に対し、レミリアはテクテクと近づいていった。
「ところで、美鈴は先週、何を食べたか覚えている?」
「へ? せ、先週ですか?」
レミリアに言われて、美鈴は先週の食事を必死に思いだした。
朝はパンだったり、おコゲ入りの中華粥だったり、おにぎりだったり、割と普通だったはずだ。
昼も、似た様なもの。
ごく稀にメイド長におつかいを頼まれ、里に買い物に行った時はついでに里で飯を食べる。だいたい、そんなところだ。
夜は屋敷で普通にご飯と、レミリア・スカーレットに問い詰められるような事は何もしていない筈である。
(あれ? そう言えば……)
そこで美鈴は思い出す。
先週の金曜日に、彼女は命蓮寺におつかいに出た。漬物をお裾わけに貰ったので、そのお礼を渡しに行ったのだ。
すると、美鈴はキャプテン・ムラサに誘われて、命蓮寺で晩御飯を御相伴に預かったのである。
村紗船長曰く。
『海軍は金曜にカレーを食べるんだよ!』
という事で、美鈴はカレーをたっぷりと御馳走になったのだ。
小麦粉をしっかりと炒る村紗流海軍カレーは、とても香ばしくスパイシーで極上に美味しかった。
「それでですね。そのカレーがあまりに美味しかったので、咲夜さんや妹様にもお話したんですよ。いやあ、妹様なんか『私、カレーという食べ物を食べた事が無かったから食べてみたい』などと言って……」
「それよ」
「はい?」
不機嫌そうなレミリアに美鈴は首を傾げて聞き返した。
「スカーレット家家訓! カレーは持たない、作らない、持ち込ませない! 紅魔館には非カレー三原則があるでしょうが!」
「えーと、でも外でカレーを食べただけで持ち込んでいませんよ?」
「だったら、カレーの話も駄目! これからはカレーの話をした者は強制収容所に更迭(一週間トイレ掃除の意)よ!」
「なにその閉鎖社会」
美鈴は、ボソリと呟いた。
「ああ、うるさいうるさいうるさーい!」
すると、その呟きをレミリアイヤーで拾ったレミリアは、更にエキサイトをしてしまう。
その激しさたるや、日傘を差している事も忘れて、肌が焼けそうになるほどだ。
しばらくすると、チリチリと焦げくさい臭いが漂ってきたので、本格的に発火する前に、美鈴は慌てて主人を日から遮った。
「私は、カレーが嫌いなのよ!」
そんな焦げ臭い臭いが立ち込める中で、レミリアは叫ぶように宣言する。
その目じりには興奮した所為か、僅かに涙さえ浮かんでいた。
「……ええと、なんでカレーが嫌いですか?」
その主人の尋常ではない様子に美鈴が日を遮りながら、おずおずと尋ねる。
「それは……」
美鈴の質問にレミリアは言葉を濁す。
そして、しばらく考え込むと深い溜息を吐いて、吸血鬼は『理由』を語り始めた。
※
「ねえ、咲夜! 今夜はカレーにして!」
フランドール・スカーレットは、台所で水仕事をしている咲夜を見つけると、早々に『カレーが食べたい』とお願いした。
「あら、カレーですか?」
「うん!」
「フランス北部にある上陸に適した場所ですか?」
「ドーバー海峡のフランス側の方じゃないよ。辛くて香ばしくてトロリとした美味しいカレーの方よ」
「ああ、なるほど」
フランの提案を聞いて、咲夜は上品に笑った。
フランもつられて笑ってしまう。
ひとしきり笑った後、咲夜は笑顔でこう言った。
「駄目です」
「なんで?」
「この紅魔館には当主の制定された非カレー三原則があります。カレーは、持たず、作らず、持ち込まず。ですから、私がカレーを作るわけにはいきません」
「そ、そうなの……?」
そんな咲夜の言葉に、フランは黙り込んでしまう。
パタパタと動いていた七色の羽根は垂れさがり、目も心なしか潤み、さっきまで溢れていた元気は失われて、しょんぼりとしてしまっている。
そんなフランを見て、咲夜はこう続けた。
「だから、今日は外食をしましょうか」
「わーい!」
次の瞬間、フランは飛びあがって喜んだ。
それはそれはすごい喜びようで、咲夜が慌てて抑えなければ、天井を突き破って外に出てしまいそうな程である。
「妹様は、まだ日傘が使えませんから、日が沈んだら里の洋食屋に行きましょうね。お嬢様には、私の方から話しておきます」
そう言って、咲夜は笑う。
「流石は咲夜だね! はなしがわかる!」
そんな事を言いながら抱きつくフランに、咲夜は少しだけ困ったような、しかし、どこか嬉しそうな顔をするのだった。
それからしばらくして、咲夜は外食の許可を得るために、レミリアの部屋の前に居た。
「お嬢様?」
ノックをすると、入れという声がする。
その声は少し硬い。もしかして、レミリアは咲夜の意図を既に知っているのだろう。
だが、それも不思議なことではない。
運命を操るという事は、因果の糸に触れるという事、それはつまり全ての因果律を知る事に等しい。
万物の運命は流転し、全ては因果律の流れの中にある。
すなわち、レミリア・スカーレットという存在は、その因果律を掌握する生き物なのかもしれない。
(お嬢様……恐ろしいお方)
主人への畏怖の念を抱きながら、十六夜咲夜は部屋に入った。
部屋の中は暗い。
暗闇に慣れた咲夜の目でも、中を見通せない程だ。
「う、うう……」
そんな闇の中で呻き声がする。
主人のものではない、だが聞き覚えのある声だ。
「……お嬢様?」
咲夜が声を上げると、こっちだという声がした。
しかし、あまりに暗いので咲夜は許可を得て、部屋の明かりをつける。
「うう……」
部屋のかなにいたのは、レミリアだけではなかった。
門番の美鈴も部屋の中に居た。部屋から聞こえてくる呻き声は彼女の発していたものだったのだ。
「め、美鈴?」
咲夜が声を上げる。
それはあまりに奇妙な光景だからだ。
――美鈴は、涙を流していた。
涙で顔がぐしゃぐしゃになるほど、彼女はずっと泣き続けていたのである。さっきから聞こえていた呻き声は、彼女の泣き声だったのだろう。
そうして泣いている美鈴の向かいでは、レミリアがつまらなそうな顔で座っている。
「お、お嬢様」
泣き続ける美鈴に駆け寄るべきか、それとも自分の主人に問いただすべきか、咲夜が迷っていると美鈴が口を開いた。
「お、お嬢様がかわいそうすぎますよぉ」
「はい?」
そう言って顔をぐしゃぐしゃにして泣き続ける美鈴に、咲夜は首を傾げた。
そんな二人をレミリアは、なんとも言えない顔で眺めていたが、説明を求める咲夜の視線に渋々と口を開く。
「あー、少し昔話をしたのよ。そしたら、美鈴が泣いちゃって……」
「そんな事があったのなら、カレーを憎むのも当然です! 私が間違ってしましたあああ!」
泣きながら美鈴が、レミリアの手を握る。
涙とか色々なモノでびしょびしょになった手で握られて、吸血鬼は少しだけ嫌そうな顔をした。
「ま、まあ、なんだ。分かってくれればいいのよ」
「はい! うう……」
困ったような顔をしたレミリアに、美鈴は大きく頷くと再び泣きだすのだった。
※
「あの、お嬢様。美鈴にどのような説明を? お嬢様がカレーを嫌いになった理由って、凄いスットコドッコイな理由でしたよね?」
「うるさいわね。言うに事欠いてスットコドッコイとは何事よ」
「申し訳ございません。ただ、どうしてもスットコドッコイとしか言いようが無い事件でしたので……」
そう言うと咲夜は、レミリアに深々と頭を下げた。
そして、二人はレミリアがカレー嫌いになった事件の事を思い出す。
……それは、既にモノクロオムとなり色を失ってしまうほど古い、とても古い昔話だった。
レミリア・スカーレットはある時期、イギリスに住んでいた。
彼女は、魔人ドラキュラの人生を踏襲するように、ヨーロッパの片田舎であるルーマニアから、日の沈まぬ帝国と謳われた世界の中心たる大英帝国へと引っ越してきたのである。
そんな吸血鬼が住んだ英国の不名誉な特徴の一つとして、飯が不味いというものがある。
基本的に、英国人と言うのは伝統を(無駄に)大事にする民族性を持っている所為で、生活習慣を変化させる事が嫌いなのだ(その一方で新しいものや斬新なモノ、エキセントリックなモノは好き)。
だから、日々の食事を美味くするという考えが薄く、どうにも飯が不味くても、伝統だからの一言で済ませて、改良しようとしないのである。
おかげで、英国の飯は色合いが地味で、味付けも単調。美味い飯にありつくのも一苦労。
その所為で、英国で美味い飯を食べたければ、朝飯を三度食えと言われる始末だ。
そんな英国の不味い飯だが、例外はあった。
それがカレーだ。
英国がインドを植民地化していた事から、かの国には数多くのインド人が移住していた。
そのおかげでイギリスのインド料理は、本場のインド人によって作られていたのである。だから、飯が不味い英国でも、インド料理――すなわちカレーだけは美味かったのだ。
そんなカレー大国イギリスに住んでいたレミリア・スカーレットが、カレーに注目するのは自然な流れだろう。
「ふむ、偶にはカレーと云ふものを食べてみよう」
そんな事を呟きながら、若き日のレミリア・スカーレットは高級インド料理店に入った。
「此れは此れは、お客樣。お一人ですか?」
現れたのはでっぷり肥ったインド人の支配人だ。
彼は、シーク教徒なのかターバンを頭に巻いている。
「うん、一人だ。今日はとびつきり美味しいカレーを食べに來たぞ」
「其れはお目が高い。當店は英吉利最高の印度料理店を自稱してゐます故に」
「こやつめ、ハハハ」
レミリア・スカーレットは上機嫌で案内をされて、席に座る。
そして、小粋なブリテッシュジョークを利かせる支配人にカレーを注文した。
「どんなカレーにゐたしませう」
「此の店で一番高い奴を持つてきてくれ」
レミリアの言葉に支配人は、困ったような顔をする。
「なんだ?」
「いえ、大した事ではないのですけれどもね」
「うん?」
「當店で一番高いカレーは、當店で一番辛いカレーなのですよ」
「だからなんだ?」
「お客樣には少々嚴しいかと……ああ、此のお子樣向けマイルドカレーなどは如何ですか? 此れならば、お客樣でも問題なく食べられると思ひます」
そういうと、支配人はメニューの隅っこに記述されている『お子様カレー』を指差した。
だが、支配人の意見を受けて、レミリアはほんの少しだけ不機嫌そうにする。
彼女は、こう言った。
『此の店で一番高い奴を持つてきてくれ』
もう注文(オーダー)はしたのだ。
それなのに、支配人は注文を覆そうとする。
「私に二度も注文をさせるな」
レミリアの怒りによって、支配人の抵抗は終わった。
彼は、了承しましたと言うと、厨房へとオーダーを伝えに行く。
「ああ、あと珈琲もだ」
「は、はい? 珈琲ですか? その……ホットで?」
「當然だらう。温かくない珈琲があるか」
最近の英国は、コーヒーストールというコーヒーの屋台が流行るほど、コーヒー人気が凄い。
レミリアも、オランダ商船がヨーロッパに紅茶を持ちこんで以来の紅茶党ではあるものの、最近は流行りもあって、コーヒーもよく飲む。
もっとも、最近ではチコリなどの混ぜ物入れた粗悪なコーヒーも増えてきたので、信頼できる店でしか飲んだりはしないが。
「では、頼むぞ」
吸血鬼のオーダーを受けた支配人は、何か言いたそうな顔をしながら、厨房にコーヒーのオーダーを伝えた。
しばらくして、レミリア・スカーレットのテーブルにカレーとコーヒーが配膳される。
「ふむ。なかなかスパイシーな良い香りぢやないか」
ニコニコとしながらレミリアは、カレーをスプーンで掬うと口に運んだ。
ぱくり。
「――――――――ッ!!」
ぶわっ、とレミリア・スカーレットの顔全体から汗が噴き出した。
そして、吸血鬼は後悔する。
戦いにおいて、最も基本的な要素である戦力の見極め、これを完全に失敗してしまった事を。
(――ここまで凄まじいのかッ)
通常、辛いものを食べた場合、滝のような汗が流れる。
それは辛いものに含まれるカプサイシン等の成分が発汗を促すからだ。
しかし、レミリアが安易に口に運んでしまったインドの料理カレー。これによって流れ出る汗は、単なる発汗作用によるモノだけではなかった。
脂汗、油汗、あぶら汗。
極度の苦痛によって流れ出るそれも、レミリアの流す汗には含まれていたのである。
なぜなら、辛さとは痛覚に分類される。
激辛とは、激痛に通じる。
レミリアが垂らすあぶら汗も、カレーがもたらす痛みゆえに。
だが、それにしてもこの辛さはどうだろう。
レミリア・スカーレットは苦痛には強いつもりだった。
だから、カレーの辛さなど容易いと踏んでいた。
しかし、この辛さは想定外ッ。
インド人は、こんな辛さを日常的に味わっているのだろうか。
そうであるとしたら、レミリア・スカーレットも認めなくてはならない。
……インド人、恐るべしと。
流石は、ガンジスは母なる流れにして、数字のゼロを発見した国。英国に植民地化されたとしても、カレーに込められた魂は、灼熱のパトスを放っている。
(スフィンクスもビックリというところかしら……)
それはエジプトだという突っ込みも無いまま、レミリアは口内に留まっていたカレーを飲み込もうとする。
「……ぐッ、ひっく……う、うう……ん」
吸血鬼は、じんわりと涙を浮かべながら、カレーを少しずつ飲み込んだ。
本当は、一気に口の中を楽にしたいのだけれども、口が、舌が、何もかもが思い通りに動いてくれないのだ。
ほんの僅かなカレーが喉を通る。
それはひどく絡んで、咳き込みたくなったのを、レミリアはどうにか耐えた。
そして、しばらくすると腹の中が燃え始める。
灼熱の如きカレーが、胃の中でも暴れ始めたのだ。
この調子では、今夜は眠れないに違いない。
ついでに、しばらく後ろの方も大変そうだ。
「うう、ひっく……」
それでもレミリアは、吸血鬼のプライドにかけて、紅魔館当主の誇りにかけて、そしてスカーレットの名にかけて、口に入れたカレーを全て飲み込んだ。
だが、その代償は大きかった。
店に入った時は、すましていたレミリアの顔は、汗や涙で大変なことになっている。
彼女は、持っていたバッグからハンカチを取り出すと、それで顔を拭いて綺麗にした。
「はー、はー」
口の中が灼けている。
苦しさから、レミリアは首をブンブン回しながら、犬のように舌を出して「ハヒハヒ」と息を吐く。
しかし、口の中に生れてしまった地獄は、いかんともしがたい。
こういう時は飲み物だと、レミリアは脇にあるコーヒーに手を伸ばす。
ズズッ。
「ピ――――――――ッ!!」
一説によれば、レミリア・スカーレットのけったいな絶叫は、ロンドン市街全域に響き渡ったという。
※
「スットコドッコイですよねぇ」
咲夜が呆れたように呟く。
「だって仕方が無いじゃない。あの時は、辛いものを食べた時に熱いものを飲むと大変な事になるって知らなかったんだもの」
レミリアは遺憾だとばかりに頬を膨らませた。
「でも、やっぱりスットコドッコイだよねぇ」
フランが呆れたように言った。
「……あれー? 私が聞いた話だと『父と母の命を奪ったカレーが、私は憎いッ』という事だったんですけど」
美鈴は、不思議そうに首を捻っている。
「……なんであんたらが居るのよ! というか、いつからそこに居た!」
「割と最初から」
「ええと、妹様と同じです」
その時、レミリアの灰色の脳細胞はフルスロットルで回転を始めた。
ずっと昔にやらかした失敗談、カレーが嫌いになった間抜け極まりない切っ掛け、それが一番知られたくないフランに知られてしまったのだ。
これは拙い。
このままでは、姉の威厳はストップ安。ブラックサーズディの日に、空を舞った紙切れのような有様になってしまう。
思い起こすのは426歳の秋。
新聞で、海の向こうで起きた株価大暴落のニュースを知ったレミリアは、友人のパチュリーにこう言った。
『ねえ、パチェ。カブの価格が大暴落ってことは、しばらくすればカブが大安売りされるって事よね? 私、大きな赤カブが食べたいわ』
吸血鬼の言葉に若い魔法使いはこう言った。
『……そうだと良いわね』
その時のパチュリー・ノーレッジは、それはそれは優しい目をしていたものだ。
あの時のような大暴落を二度とさせない。
レミリア・スカーレットはそう決めたのだ。
「我々は二度と悲劇を繰り返さない! ……だから、スペルカードで決着を付けるわよ!」
そして、いい切り抜け方を思いつかなかったレミリアは、スペカに頼った。
困った時の弾幕ごっこ、それで、この場をいなしてしまえば、カリスマ的な被害は最小限に止められるという判断である。
こうすれば、例えどちらが勝ったとしても、
『いい勝負だったわね。フラン……』
『お姉様も流石だわ』
『こやつめ、ハハハ』
などと、穏便に収まるだろう。
それでいい感じに暴れさせた後で、美鈴辺りに頼んで、外にカレーを食べさせに行かせれば、フランの気も済むに違いない。
まさにパーフェクトプランだ。
「いや、意味分かんないよそれ」
「あっれー?」
しかし、弾幕ごっこを拒否されて、思惑が外れたレミリアは首を捻った。
なにかあったら、弾幕ごっこ。
それが幻想郷のルールではなかったか。
そうだ。
何は無くとも、とりあえず、弾幕で問題が解決するのが幻想郷ではないか。
にもかかわらず、フランは弾幕を拒否すると言う。
「いや、ここで弾幕になる流れじゃないわ。普通にお姉様のカレースットコドッコイトークをしているだけなんだからさ」
「そうですね。ここでお嬢様が『キー! 私はそんなスットコドッコイじゃないわよ!』とか言って、怒るなら弾幕ごっこの流れですけど……」
「もう少し、しっかりとした前口上を付けくわえてみたらどうでしょうか?」
レミリアはトリプルで駄目出しをされた。
フランが最初に駄目出しをして、美鈴が続き、咲夜は改善案を言う。
弾幕ごっこもなかなか大変だ。
こうして、レミリア・スカーレットはしばしの間、妹や従者の指導の下、弾幕ごっこに前口上の練習をしたのだった。
※
カレーライスの歌を歌おう
コップの中に銀のスプーン
ニンジンにジャガイモ
スパイスがルーに溶け込んだ
スパイスの香りを嗅いだら
思わず笑みがこぼれ出す
王様にだってお出しできる
素敵なお料理?
ライスにルーをかけたら
スプーンを持って掬い取る
パクリと一口食べれば
美味しくて「ハヒハヒ」言ってしまう
王様もお妃様も
夢中になって食べている
お代わりをしようとしたら
みんな同時にお皿を出していた
フランドール・スカーレットはそんな歌を歌いながら、楽しげに足をブラブラさせている。
「……6ペンスの歌の替え歌かしら」
そんなフランを見ながら、パチュリー・ノーレッジがボソリと呟いた。
「まったく韻を踏んでないじゃない」
不機嫌そうにレミリア・スカーレットがぼやく。
そんなレミリアを見て、美鈴は「まあまあ」と宥めるように言い、小悪魔は水とスプーンの入ったコップを配り、配膳の手伝いをしている。
本日の紅魔館の夕食は『カレーライス』だ。
レミリアVSフランの弾幕ごっこは、あわやのところでフランドール・スカーレットが勝利した。
『それじゃ、今晩はカレーね』
そんな勝者の言葉通りに、紅魔館では非カレー三原則は一時撤回され、カレーの宴が催されることになったのである。
「……あそこでストレッチが当たっていれば」
とは、レミリア・スカーレットの言葉である。
しかし、起きあがりに重ねたりせず、ただタイミングを合わせた程度でレミリアストレッチを当てようというのは、ふてぇ考えだと言わざるを得ない。
「お待たせしました」
そうして、レミリアが後悔をしている所に、咲夜がカレーの入った鍋を持って現れた。
とたんに部屋の中に溢れかえるスパイスの濃厚な香り、思わず人外達は「おおっ」と声を上げる。
「凄い、これがカレー臭」
フランは恍惚とした顔で呟いた。
「良い香りですねぇ」
「ホント、これはかなり本格派じゃない」
人々が口々に咲夜のカレーを褒め称える中、一人レミリアだけが難しい顔をしている。
恐らく、その本格派の香りが、忘れたい、しかし忘れ難い過去を思い出させるからだろう。
そんなレミリアを見て、咲夜は優しく笑った。
「大丈夫ですよお嬢様。今宵のカレーはマイルドに仕上げていますから」
「べ、別にそんな事は心配してないわよ!」
顔を真っ赤にして叫ぶレミリアに、咲夜は「あら、そうでしたか」と、とぼけてみせる。
そんなやりとりをしながらも、各人の前にカレーが並んでいく。
「本当はソースポットの用意をしたかったんですけどね」
そうしてテーブルの上に並んだカレーライスを眺めながら、咲夜はしみじみと言う。
ともあれ、後は食べるのみ。
「い、いただきます」
レミリアの号令と共に「いただきます」の合唱が起こり、紅魔館の面々はカレーライスを食べ始めた。
「グゥレイト!」
最初に賛辞の声を上げたのは、紅美鈴だった。
彼女は、体育会系らしく豪快なスプーン遣いでカレーを平らげていく。そんな様を見ていると、昔の人が述べた名言『カレーは飲み物である』が真実ではないかと錯覚してしまうだろう。
だが、それも当然なのかもしれない。
今宵の十六夜咲夜のカレーは、粘度の低いサラサラ系。一気に食べるのに適したカレーなのだ。
「うん。これはチョットしたものよ」
大図書館の魔法使いパチュリー・ノーレッジは計画的にカレーを食べていた。
それはカレーライスのルーとご飯の中央付近から少しずつ食べていくという『伊○家の食卓』的な食べ方で、こうしてご飯を少しずつルーの方に詰めながら食べる事で、お皿がカレーのルーで汚れるのを防ぐのだ。
「美味しいですけど、もうちょっと辛い方が好みかも……」
食べながら、そんな事を言うのは小悪魔だ。
流石は『小』が付いていても悪魔だけあって、マイルドカレー程度の辛さでは、物足りないのだと言う。
「だったら、これを使う?」
そんな小悪魔に、咲夜は真っ赤な粉の入った小瓶を渡す。
小悪魔は、首を捻りながら真っ赤な粉をふりかけてカレーを食べると、咲夜に向かってサムズアップをした。
その額に、うっすらと汗が浮かんでいるあたり、なかなか強力な特製スパイスだったのだろう。
「これがカレーか……サラサラしててピリッと辛くて、スパイスの刺激が鼻を通って、口当たりはマイルドだけど、しばらくすると口がピリピリして、ほんの少しの苦みやまろやかな甘みが辛さの中に隠れていて、凄い美味しいね!」
様々な香辛料を組み合わせる事が、カレーの美味さに通じる。
カレーは、ただ辛いから美味いというものではないのだ。
フランは、その複雑な味を確かめながら、咲夜のカレーに舌鼓を打つ。
そんな念願のカレーを食べたフランの顔は、とてもご機嫌なモノで、例えるならば、おろし立てのドロワを履いた正月元旦の朝のような、清々しいものだった。
これで、スプーンをつけていないのはレミリア・スカーレット一人だけだ。
「うう……」
カレーを見て、思い出すのはイギリスでの失態。
激辛カレーを食べて、その食後に熱いコーヒーを飲んで地獄を見た忘れたい記憶。
だが、目の前にあるのは、十六夜咲夜のカレーだ。
不味いはずが無いし、食べられないほど辛い事などありえない。
それでも、レミリアにはスプーンを動かす事ができない。
「う、うう……」
レミリアは認めたくなかった。
だが、こうなっては認めるしかない。
怖いのだ、カレーが。
カレーが恐ろしくてたまらない。
食べた瞬間に、口の中で爆発するかもしれないし、突然噛みつくかもしれない。
嗚呼、なぜ天はこの世に、レミリア・スカーレットとカレーライスを同時に誕生させたのだろうか。
カレーなどというものがこの世になければ、このような恐怖を味わう事は無かったのに。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
カレーを前に恐怖しているレミリアを心配して、咲夜が声をかけてきた。
周りを見回してみれば、他の面々もレミリアを見ている。
「は、はは……」
そこで、レミリア・スカーレットは気が付く。
自分が本来庇護しなければならない者達を心配させていた事に。
「心配をかけた。もう、大丈夫だ」
一人であれば、きっとレミリアはカレーへの恐怖に立ち向かえなかっただろう。
けれども、彼女は自分の背に、妹が、従者が、友人がいる事を思い出したのだ。
ならば、レミリア・スカーレットは何処までも戦える。
なぜなら彼女は、貴族だから。
剣無き人々の為に剣を持ち、率先して血を流す高貴な魂を持つ存在であるが故に。
「いくぞ!」
ひょいぱく。
レミリア・スカーレットは、ついに百年以上の時を経て、再びカレーを口にしたのだった。
※
「……カレーって、美味しかったのね」
ポツリとレミリアが呟く。
その前には、空になったお皿とスプーンが置かれている。
そしてレミリアは考える。
一体、自分の人生は何だったのだろう。
あれほどまでにカレーを憎み続けたのは、何のためだったのだろうか。
今では、カレーへの憎しみは消えている。ただ、やるせない虚しさが残るのみだ。
自分は間違っていた。
カレーが悪かったのではない、ただ自分が愚かだっただけなのだ。
その事実が、小さな吸血鬼の身体にずっしりと圧し掛かってくる。
「……それなら良かったじゃない」
そんなレミリアの肩にパチュリーが手を置く。
「きっと、誰も彼もが何かしら間違っていて、それでも生きているのよ。でも、今日、レミリアはその間違いの一つに気が付く事ができた。それで良いのよ」
その言葉を受けて、レミリアは肩にかかったパチュリーの手を握る。
「でも、私はカレーに……」
「お嬢様は、カレーを食べて美味しいと感じたんでしょう?」
美鈴がレミリアに尋ねる。
レミリアは小さく頷いた。
「なら、それで良いんですよ。カレーはお嬢様を恨んだりなんかしてません。むしろ、自分を好きになってくれて喜んでます!」
友人や従者に諭され、レミリアはのろのろと顔を上げる。
「……私が、カレーを好きになっていいの?」
「ウンイイヨ」
「!」
レミリア・スカーレットが振り向くと、そこにはよそい立てのカレーが湯気を立てて鎮座していた。
「ダカラ、タップリタベテホシイナ」
カレーは妙に甲高い声でレミリアに、お代わりである自分を食べるように促す。
「……ごめん、もう食べられないわ」
しかし、レミリアは小食なので、お代わりは無理と断った。
すると、『ズコー』という音と共に、十六夜咲夜がテーブルの下から滑り出してきたのであった。
了
フランドール・スカーレットは姉の顔を見るなり、カレーが食べたいと要求する。
すると、それを聞いた紅魔館の主にして高貴なる吸血鬼レミリア・スカーレットは、飲んでいた紅茶を華麗に噴き出した。
「お姉様、汚い」
「……ゴホッ! ゴホッ、ご、ごめんなさいねフラン。い、いま、あなたが『カレーが食べたい』と言ったような気がして……」
「そう言ったけど」
「」
フランドールの、清々しい肯定にレミリア・スカーレットは言葉を失った。
そして、藪から出てきたスティックを見るような目でフランを見つめる。
「な、なかなかフランは大胆な事を言うのね」
「そうかしら?」
汗を拭きながら、レミリアは『さすが吸血鬼だ! 何ともないぜ!』と自己暗示をかけて、平静を装った。
「でででで、でも、なんでカレーを食べたいなんて言うのかしら?」
そして、レミリアは動揺を露わにしながら、フランに尋ねる。
やはり、大丈夫では無かったらしい。
「だってさあ。カレーって美味しいんでしょう?」
「だ、誰に聞いたのかしら、そんな戯言。カレーなんて辛いだけで美味くもなんともないわ!」
「えー、でも美鈴は美味しいって言ったよ」
フランの言葉にレミリアは驚愕する。
「そ、そんな馬鹿な! 我が紅魔館にはカレー粉の一粒すら、侵入を許していないハズよ!」
「でも、先週食べたって言ったもん」
レミリアが否定すると、フランが頬をぷくーと膨らませて抗議をした。
しかし、美鈴がカレーを食べたという情報に、紅魔館の当主は動揺して、『ウン』とも『スン』とも言えないでいる。
「むー。良いよ、咲夜に頼んで今夜はカレーにしてもらうもん」
「ま、待ちなさいフラン!」
ようやく言葉を捻りだしたレミリアを置いて、フランはどこかへ行ってしまった。
恐らく、その言葉通りにメイド長の咲夜に、カレーを作ってもらうのだろう。
「そんな、どうすれば……」
フランドールが消えた方向を眺めながら、レミリアは呆然と呟くのだった。
※
その日は天気が良かった。
空は底抜けに青く、風が吹くと上空を雲と毛玉が流れていく。
そこでは霧の湖を住処とする妖精たちが舞い踊り、たまにピチュンと弾幕に当たって落ちてしまう。
素晴らしき、午睡にぴったりの天気だ。
「すかー」
そんな昼寝日和の空の下で、紅魔館の門番は惰眠を貪っている。
帽子を目深にかぶり、門柱に体重を預けて、器用に立ったまま熟睡モードだ。
そんな昼寝をしている妖怪に、丸い影が忍び寄った。
「……人の危機に、良い身分じゃないか」
それは日傘を差したレミリア・スカーレットの影である。
彼女は、カレー禁止令を敷いた紅魔館において、カレー持ち込み罪の嫌疑がかかった紅美鈴を尋問する為に、ここに来たのだ。
普段であれば、門番への聞き取りなど、メイド長に任せておけばいい仕事。しかし、カレー禁止令に関してだけは、レミリア自らの手で、違反者にお仕置きをしなければ気が済まない。
嗚呼、この吸血鬼とカレーの間には、どのような因縁があるというのだろうか?
「おーい。起きろー」
「うーん。あと一時間……ムニャムニャ」
起こそうとしたレミリアの手を美鈴は払ってしまう。
手を払われて吸血鬼はムッとしたので、少しばかり乱暴で門番を起こす事にした。
吸血鬼が、ポケットから取り出したるは、一粒の南京豆。
レミリアは豆を掌に乗せると、寝ている門番の顔に狙いを付ける。吸血鬼は、それをぶつけて紅美鈴を起こそうという腹づもりなのだ。
「それっ」
吸血鬼の怪力を持って指で弾いた南京豆は、半ば粉砕されながら門番の方に向かって飛んでいく。
――その刹那、美鈴は殺気を感じて目を見開いた。
そして帽子を跳ね上げると、迫りくる南京豆に視線を向ける。
「……よけきれない!?」
砕けた南京豆は散弾のように広範囲に撒き散らされながら、美鈴に襲いかかって来ているのだ。
回避不能と判断した美鈴は、南京豆の散弾を撃ち落とす事を決断する。
この間、僅か0.07秒。
「はあああああっ!」
呼吸一つ。その僅かな時間で、美鈴は飛んでくる南京豆の散弾を全て叩きおとした。
打ち漏らしは一つも無い。
「例えいかなる弾幕でも、この紅魔館門番、紅美鈴は落とせません!」
まるで演武の終わりのように、美鈴は構えをとって高らかに宣言する。
そして、目の前で「おー」と拍手をしているレミリアを見て、目をパチクリさせた。
「え、ええと。お嬢様?」
「昼寝から目覚めたかしら、この寝ぼすけめ」
「は、はい」
美鈴は、混乱をしながらも構えを解く。そんな門番に対し、レミリアはテクテクと近づいていった。
「ところで、美鈴は先週、何を食べたか覚えている?」
「へ? せ、先週ですか?」
レミリアに言われて、美鈴は先週の食事を必死に思いだした。
朝はパンだったり、おコゲ入りの中華粥だったり、おにぎりだったり、割と普通だったはずだ。
昼も、似た様なもの。
ごく稀にメイド長におつかいを頼まれ、里に買い物に行った時はついでに里で飯を食べる。だいたい、そんなところだ。
夜は屋敷で普通にご飯と、レミリア・スカーレットに問い詰められるような事は何もしていない筈である。
(あれ? そう言えば……)
そこで美鈴は思い出す。
先週の金曜日に、彼女は命蓮寺におつかいに出た。漬物をお裾わけに貰ったので、そのお礼を渡しに行ったのだ。
すると、美鈴はキャプテン・ムラサに誘われて、命蓮寺で晩御飯を御相伴に預かったのである。
村紗船長曰く。
『海軍は金曜にカレーを食べるんだよ!』
という事で、美鈴はカレーをたっぷりと御馳走になったのだ。
小麦粉をしっかりと炒る村紗流海軍カレーは、とても香ばしくスパイシーで極上に美味しかった。
「それでですね。そのカレーがあまりに美味しかったので、咲夜さんや妹様にもお話したんですよ。いやあ、妹様なんか『私、カレーという食べ物を食べた事が無かったから食べてみたい』などと言って……」
「それよ」
「はい?」
不機嫌そうなレミリアに美鈴は首を傾げて聞き返した。
「スカーレット家家訓! カレーは持たない、作らない、持ち込ませない! 紅魔館には非カレー三原則があるでしょうが!」
「えーと、でも外でカレーを食べただけで持ち込んでいませんよ?」
「だったら、カレーの話も駄目! これからはカレーの話をした者は強制収容所に更迭(一週間トイレ掃除の意)よ!」
「なにその閉鎖社会」
美鈴は、ボソリと呟いた。
「ああ、うるさいうるさいうるさーい!」
すると、その呟きをレミリアイヤーで拾ったレミリアは、更にエキサイトをしてしまう。
その激しさたるや、日傘を差している事も忘れて、肌が焼けそうになるほどだ。
しばらくすると、チリチリと焦げくさい臭いが漂ってきたので、本格的に発火する前に、美鈴は慌てて主人を日から遮った。
「私は、カレーが嫌いなのよ!」
そんな焦げ臭い臭いが立ち込める中で、レミリアは叫ぶように宣言する。
その目じりには興奮した所為か、僅かに涙さえ浮かんでいた。
「……ええと、なんでカレーが嫌いですか?」
その主人の尋常ではない様子に美鈴が日を遮りながら、おずおずと尋ねる。
「それは……」
美鈴の質問にレミリアは言葉を濁す。
そして、しばらく考え込むと深い溜息を吐いて、吸血鬼は『理由』を語り始めた。
※
「ねえ、咲夜! 今夜はカレーにして!」
フランドール・スカーレットは、台所で水仕事をしている咲夜を見つけると、早々に『カレーが食べたい』とお願いした。
「あら、カレーですか?」
「うん!」
「フランス北部にある上陸に適した場所ですか?」
「ドーバー海峡のフランス側の方じゃないよ。辛くて香ばしくてトロリとした美味しいカレーの方よ」
「ああ、なるほど」
フランの提案を聞いて、咲夜は上品に笑った。
フランもつられて笑ってしまう。
ひとしきり笑った後、咲夜は笑顔でこう言った。
「駄目です」
「なんで?」
「この紅魔館には当主の制定された非カレー三原則があります。カレーは、持たず、作らず、持ち込まず。ですから、私がカレーを作るわけにはいきません」
「そ、そうなの……?」
そんな咲夜の言葉に、フランは黙り込んでしまう。
パタパタと動いていた七色の羽根は垂れさがり、目も心なしか潤み、さっきまで溢れていた元気は失われて、しょんぼりとしてしまっている。
そんなフランを見て、咲夜はこう続けた。
「だから、今日は外食をしましょうか」
「わーい!」
次の瞬間、フランは飛びあがって喜んだ。
それはそれはすごい喜びようで、咲夜が慌てて抑えなければ、天井を突き破って外に出てしまいそうな程である。
「妹様は、まだ日傘が使えませんから、日が沈んだら里の洋食屋に行きましょうね。お嬢様には、私の方から話しておきます」
そう言って、咲夜は笑う。
「流石は咲夜だね! はなしがわかる!」
そんな事を言いながら抱きつくフランに、咲夜は少しだけ困ったような、しかし、どこか嬉しそうな顔をするのだった。
それからしばらくして、咲夜は外食の許可を得るために、レミリアの部屋の前に居た。
「お嬢様?」
ノックをすると、入れという声がする。
その声は少し硬い。もしかして、レミリアは咲夜の意図を既に知っているのだろう。
だが、それも不思議なことではない。
運命を操るという事は、因果の糸に触れるという事、それはつまり全ての因果律を知る事に等しい。
万物の運命は流転し、全ては因果律の流れの中にある。
すなわち、レミリア・スカーレットという存在は、その因果律を掌握する生き物なのかもしれない。
(お嬢様……恐ろしいお方)
主人への畏怖の念を抱きながら、十六夜咲夜は部屋に入った。
部屋の中は暗い。
暗闇に慣れた咲夜の目でも、中を見通せない程だ。
「う、うう……」
そんな闇の中で呻き声がする。
主人のものではない、だが聞き覚えのある声だ。
「……お嬢様?」
咲夜が声を上げると、こっちだという声がした。
しかし、あまりに暗いので咲夜は許可を得て、部屋の明かりをつける。
「うう……」
部屋のかなにいたのは、レミリアだけではなかった。
門番の美鈴も部屋の中に居た。部屋から聞こえてくる呻き声は彼女の発していたものだったのだ。
「め、美鈴?」
咲夜が声を上げる。
それはあまりに奇妙な光景だからだ。
――美鈴は、涙を流していた。
涙で顔がぐしゃぐしゃになるほど、彼女はずっと泣き続けていたのである。さっきから聞こえていた呻き声は、彼女の泣き声だったのだろう。
そうして泣いている美鈴の向かいでは、レミリアがつまらなそうな顔で座っている。
「お、お嬢様」
泣き続ける美鈴に駆け寄るべきか、それとも自分の主人に問いただすべきか、咲夜が迷っていると美鈴が口を開いた。
「お、お嬢様がかわいそうすぎますよぉ」
「はい?」
そう言って顔をぐしゃぐしゃにして泣き続ける美鈴に、咲夜は首を傾げた。
そんな二人をレミリアは、なんとも言えない顔で眺めていたが、説明を求める咲夜の視線に渋々と口を開く。
「あー、少し昔話をしたのよ。そしたら、美鈴が泣いちゃって……」
「そんな事があったのなら、カレーを憎むのも当然です! 私が間違ってしましたあああ!」
泣きながら美鈴が、レミリアの手を握る。
涙とか色々なモノでびしょびしょになった手で握られて、吸血鬼は少しだけ嫌そうな顔をした。
「ま、まあ、なんだ。分かってくれればいいのよ」
「はい! うう……」
困ったような顔をしたレミリアに、美鈴は大きく頷くと再び泣きだすのだった。
※
「あの、お嬢様。美鈴にどのような説明を? お嬢様がカレーを嫌いになった理由って、凄いスットコドッコイな理由でしたよね?」
「うるさいわね。言うに事欠いてスットコドッコイとは何事よ」
「申し訳ございません。ただ、どうしてもスットコドッコイとしか言いようが無い事件でしたので……」
そう言うと咲夜は、レミリアに深々と頭を下げた。
そして、二人はレミリアがカレー嫌いになった事件の事を思い出す。
……それは、既にモノクロオムとなり色を失ってしまうほど古い、とても古い昔話だった。
レミリア・スカーレットはある時期、イギリスに住んでいた。
彼女は、魔人ドラキュラの人生を踏襲するように、ヨーロッパの片田舎であるルーマニアから、日の沈まぬ帝国と謳われた世界の中心たる大英帝国へと引っ越してきたのである。
そんな吸血鬼が住んだ英国の不名誉な特徴の一つとして、飯が不味いというものがある。
基本的に、英国人と言うのは伝統を(無駄に)大事にする民族性を持っている所為で、生活習慣を変化させる事が嫌いなのだ(その一方で新しいものや斬新なモノ、エキセントリックなモノは好き)。
だから、日々の食事を美味くするという考えが薄く、どうにも飯が不味くても、伝統だからの一言で済ませて、改良しようとしないのである。
おかげで、英国の飯は色合いが地味で、味付けも単調。美味い飯にありつくのも一苦労。
その所為で、英国で美味い飯を食べたければ、朝飯を三度食えと言われる始末だ。
そんな英国の不味い飯だが、例外はあった。
それがカレーだ。
英国がインドを植民地化していた事から、かの国には数多くのインド人が移住していた。
そのおかげでイギリスのインド料理は、本場のインド人によって作られていたのである。だから、飯が不味い英国でも、インド料理――すなわちカレーだけは美味かったのだ。
そんなカレー大国イギリスに住んでいたレミリア・スカーレットが、カレーに注目するのは自然な流れだろう。
「ふむ、偶にはカレーと云ふものを食べてみよう」
そんな事を呟きながら、若き日のレミリア・スカーレットは高級インド料理店に入った。
「此れは此れは、お客樣。お一人ですか?」
現れたのはでっぷり肥ったインド人の支配人だ。
彼は、シーク教徒なのかターバンを頭に巻いている。
「うん、一人だ。今日はとびつきり美味しいカレーを食べに來たぞ」
「其れはお目が高い。當店は英吉利最高の印度料理店を自稱してゐます故に」
「こやつめ、ハハハ」
レミリア・スカーレットは上機嫌で案内をされて、席に座る。
そして、小粋なブリテッシュジョークを利かせる支配人にカレーを注文した。
「どんなカレーにゐたしませう」
「此の店で一番高い奴を持つてきてくれ」
レミリアの言葉に支配人は、困ったような顔をする。
「なんだ?」
「いえ、大した事ではないのですけれどもね」
「うん?」
「當店で一番高いカレーは、當店で一番辛いカレーなのですよ」
「だからなんだ?」
「お客樣には少々嚴しいかと……ああ、此のお子樣向けマイルドカレーなどは如何ですか? 此れならば、お客樣でも問題なく食べられると思ひます」
そういうと、支配人はメニューの隅っこに記述されている『お子様カレー』を指差した。
だが、支配人の意見を受けて、レミリアはほんの少しだけ不機嫌そうにする。
彼女は、こう言った。
『此の店で一番高い奴を持つてきてくれ』
もう注文(オーダー)はしたのだ。
それなのに、支配人は注文を覆そうとする。
「私に二度も注文をさせるな」
レミリアの怒りによって、支配人の抵抗は終わった。
彼は、了承しましたと言うと、厨房へとオーダーを伝えに行く。
「ああ、あと珈琲もだ」
「は、はい? 珈琲ですか? その……ホットで?」
「當然だらう。温かくない珈琲があるか」
最近の英国は、コーヒーストールというコーヒーの屋台が流行るほど、コーヒー人気が凄い。
レミリアも、オランダ商船がヨーロッパに紅茶を持ちこんで以来の紅茶党ではあるものの、最近は流行りもあって、コーヒーもよく飲む。
もっとも、最近ではチコリなどの混ぜ物入れた粗悪なコーヒーも増えてきたので、信頼できる店でしか飲んだりはしないが。
「では、頼むぞ」
吸血鬼のオーダーを受けた支配人は、何か言いたそうな顔をしながら、厨房にコーヒーのオーダーを伝えた。
しばらくして、レミリア・スカーレットのテーブルにカレーとコーヒーが配膳される。
「ふむ。なかなかスパイシーな良い香りぢやないか」
ニコニコとしながらレミリアは、カレーをスプーンで掬うと口に運んだ。
ぱくり。
「――――――――ッ!!」
ぶわっ、とレミリア・スカーレットの顔全体から汗が噴き出した。
そして、吸血鬼は後悔する。
戦いにおいて、最も基本的な要素である戦力の見極め、これを完全に失敗してしまった事を。
(――ここまで凄まじいのかッ)
通常、辛いものを食べた場合、滝のような汗が流れる。
それは辛いものに含まれるカプサイシン等の成分が発汗を促すからだ。
しかし、レミリアが安易に口に運んでしまったインドの料理カレー。これによって流れ出る汗は、単なる発汗作用によるモノだけではなかった。
脂汗、油汗、あぶら汗。
極度の苦痛によって流れ出るそれも、レミリアの流す汗には含まれていたのである。
なぜなら、辛さとは痛覚に分類される。
激辛とは、激痛に通じる。
レミリアが垂らすあぶら汗も、カレーがもたらす痛みゆえに。
だが、それにしてもこの辛さはどうだろう。
レミリア・スカーレットは苦痛には強いつもりだった。
だから、カレーの辛さなど容易いと踏んでいた。
しかし、この辛さは想定外ッ。
インド人は、こんな辛さを日常的に味わっているのだろうか。
そうであるとしたら、レミリア・スカーレットも認めなくてはならない。
……インド人、恐るべしと。
流石は、ガンジスは母なる流れにして、数字のゼロを発見した国。英国に植民地化されたとしても、カレーに込められた魂は、灼熱のパトスを放っている。
(スフィンクスもビックリというところかしら……)
それはエジプトだという突っ込みも無いまま、レミリアは口内に留まっていたカレーを飲み込もうとする。
「……ぐッ、ひっく……う、うう……ん」
吸血鬼は、じんわりと涙を浮かべながら、カレーを少しずつ飲み込んだ。
本当は、一気に口の中を楽にしたいのだけれども、口が、舌が、何もかもが思い通りに動いてくれないのだ。
ほんの僅かなカレーが喉を通る。
それはひどく絡んで、咳き込みたくなったのを、レミリアはどうにか耐えた。
そして、しばらくすると腹の中が燃え始める。
灼熱の如きカレーが、胃の中でも暴れ始めたのだ。
この調子では、今夜は眠れないに違いない。
ついでに、しばらく後ろの方も大変そうだ。
「うう、ひっく……」
それでもレミリアは、吸血鬼のプライドにかけて、紅魔館当主の誇りにかけて、そしてスカーレットの名にかけて、口に入れたカレーを全て飲み込んだ。
だが、その代償は大きかった。
店に入った時は、すましていたレミリアの顔は、汗や涙で大変なことになっている。
彼女は、持っていたバッグからハンカチを取り出すと、それで顔を拭いて綺麗にした。
「はー、はー」
口の中が灼けている。
苦しさから、レミリアは首をブンブン回しながら、犬のように舌を出して「ハヒハヒ」と息を吐く。
しかし、口の中に生れてしまった地獄は、いかんともしがたい。
こういう時は飲み物だと、レミリアは脇にあるコーヒーに手を伸ばす。
ズズッ。
「ピ――――――――ッ!!」
一説によれば、レミリア・スカーレットのけったいな絶叫は、ロンドン市街全域に響き渡ったという。
※
「スットコドッコイですよねぇ」
咲夜が呆れたように呟く。
「だって仕方が無いじゃない。あの時は、辛いものを食べた時に熱いものを飲むと大変な事になるって知らなかったんだもの」
レミリアは遺憾だとばかりに頬を膨らませた。
「でも、やっぱりスットコドッコイだよねぇ」
フランが呆れたように言った。
「……あれー? 私が聞いた話だと『父と母の命を奪ったカレーが、私は憎いッ』という事だったんですけど」
美鈴は、不思議そうに首を捻っている。
「……なんであんたらが居るのよ! というか、いつからそこに居た!」
「割と最初から」
「ええと、妹様と同じです」
その時、レミリアの灰色の脳細胞はフルスロットルで回転を始めた。
ずっと昔にやらかした失敗談、カレーが嫌いになった間抜け極まりない切っ掛け、それが一番知られたくないフランに知られてしまったのだ。
これは拙い。
このままでは、姉の威厳はストップ安。ブラックサーズディの日に、空を舞った紙切れのような有様になってしまう。
思い起こすのは426歳の秋。
新聞で、海の向こうで起きた株価大暴落のニュースを知ったレミリアは、友人のパチュリーにこう言った。
『ねえ、パチェ。カブの価格が大暴落ってことは、しばらくすればカブが大安売りされるって事よね? 私、大きな赤カブが食べたいわ』
吸血鬼の言葉に若い魔法使いはこう言った。
『……そうだと良いわね』
その時のパチュリー・ノーレッジは、それはそれは優しい目をしていたものだ。
あの時のような大暴落を二度とさせない。
レミリア・スカーレットはそう決めたのだ。
「我々は二度と悲劇を繰り返さない! ……だから、スペルカードで決着を付けるわよ!」
そして、いい切り抜け方を思いつかなかったレミリアは、スペカに頼った。
困った時の弾幕ごっこ、それで、この場をいなしてしまえば、カリスマ的な被害は最小限に止められるという判断である。
こうすれば、例えどちらが勝ったとしても、
『いい勝負だったわね。フラン……』
『お姉様も流石だわ』
『こやつめ、ハハハ』
などと、穏便に収まるだろう。
それでいい感じに暴れさせた後で、美鈴辺りに頼んで、外にカレーを食べさせに行かせれば、フランの気も済むに違いない。
まさにパーフェクトプランだ。
「いや、意味分かんないよそれ」
「あっれー?」
しかし、弾幕ごっこを拒否されて、思惑が外れたレミリアは首を捻った。
なにかあったら、弾幕ごっこ。
それが幻想郷のルールではなかったか。
そうだ。
何は無くとも、とりあえず、弾幕で問題が解決するのが幻想郷ではないか。
にもかかわらず、フランは弾幕を拒否すると言う。
「いや、ここで弾幕になる流れじゃないわ。普通にお姉様のカレースットコドッコイトークをしているだけなんだからさ」
「そうですね。ここでお嬢様が『キー! 私はそんなスットコドッコイじゃないわよ!』とか言って、怒るなら弾幕ごっこの流れですけど……」
「もう少し、しっかりとした前口上を付けくわえてみたらどうでしょうか?」
レミリアはトリプルで駄目出しをされた。
フランが最初に駄目出しをして、美鈴が続き、咲夜は改善案を言う。
弾幕ごっこもなかなか大変だ。
こうして、レミリア・スカーレットはしばしの間、妹や従者の指導の下、弾幕ごっこに前口上の練習をしたのだった。
※
カレーライスの歌を歌おう
コップの中に銀のスプーン
ニンジンにジャガイモ
スパイスがルーに溶け込んだ
スパイスの香りを嗅いだら
思わず笑みがこぼれ出す
王様にだってお出しできる
素敵なお料理?
ライスにルーをかけたら
スプーンを持って掬い取る
パクリと一口食べれば
美味しくて「ハヒハヒ」言ってしまう
王様もお妃様も
夢中になって食べている
お代わりをしようとしたら
みんな同時にお皿を出していた
フランドール・スカーレットはそんな歌を歌いながら、楽しげに足をブラブラさせている。
「……6ペンスの歌の替え歌かしら」
そんなフランを見ながら、パチュリー・ノーレッジがボソリと呟いた。
「まったく韻を踏んでないじゃない」
不機嫌そうにレミリア・スカーレットがぼやく。
そんなレミリアを見て、美鈴は「まあまあ」と宥めるように言い、小悪魔は水とスプーンの入ったコップを配り、配膳の手伝いをしている。
本日の紅魔館の夕食は『カレーライス』だ。
レミリアVSフランの弾幕ごっこは、あわやのところでフランドール・スカーレットが勝利した。
『それじゃ、今晩はカレーね』
そんな勝者の言葉通りに、紅魔館では非カレー三原則は一時撤回され、カレーの宴が催されることになったのである。
「……あそこでストレッチが当たっていれば」
とは、レミリア・スカーレットの言葉である。
しかし、起きあがりに重ねたりせず、ただタイミングを合わせた程度でレミリアストレッチを当てようというのは、ふてぇ考えだと言わざるを得ない。
「お待たせしました」
そうして、レミリアが後悔をしている所に、咲夜がカレーの入った鍋を持って現れた。
とたんに部屋の中に溢れかえるスパイスの濃厚な香り、思わず人外達は「おおっ」と声を上げる。
「凄い、これがカレー臭」
フランは恍惚とした顔で呟いた。
「良い香りですねぇ」
「ホント、これはかなり本格派じゃない」
人々が口々に咲夜のカレーを褒め称える中、一人レミリアだけが難しい顔をしている。
恐らく、その本格派の香りが、忘れたい、しかし忘れ難い過去を思い出させるからだろう。
そんなレミリアを見て、咲夜は優しく笑った。
「大丈夫ですよお嬢様。今宵のカレーはマイルドに仕上げていますから」
「べ、別にそんな事は心配してないわよ!」
顔を真っ赤にして叫ぶレミリアに、咲夜は「あら、そうでしたか」と、とぼけてみせる。
そんなやりとりをしながらも、各人の前にカレーが並んでいく。
「本当はソースポットの用意をしたかったんですけどね」
そうしてテーブルの上に並んだカレーライスを眺めながら、咲夜はしみじみと言う。
ともあれ、後は食べるのみ。
「い、いただきます」
レミリアの号令と共に「いただきます」の合唱が起こり、紅魔館の面々はカレーライスを食べ始めた。
「グゥレイト!」
最初に賛辞の声を上げたのは、紅美鈴だった。
彼女は、体育会系らしく豪快なスプーン遣いでカレーを平らげていく。そんな様を見ていると、昔の人が述べた名言『カレーは飲み物である』が真実ではないかと錯覚してしまうだろう。
だが、それも当然なのかもしれない。
今宵の十六夜咲夜のカレーは、粘度の低いサラサラ系。一気に食べるのに適したカレーなのだ。
「うん。これはチョットしたものよ」
大図書館の魔法使いパチュリー・ノーレッジは計画的にカレーを食べていた。
それはカレーライスのルーとご飯の中央付近から少しずつ食べていくという『伊○家の食卓』的な食べ方で、こうしてご飯を少しずつルーの方に詰めながら食べる事で、お皿がカレーのルーで汚れるのを防ぐのだ。
「美味しいですけど、もうちょっと辛い方が好みかも……」
食べながら、そんな事を言うのは小悪魔だ。
流石は『小』が付いていても悪魔だけあって、マイルドカレー程度の辛さでは、物足りないのだと言う。
「だったら、これを使う?」
そんな小悪魔に、咲夜は真っ赤な粉の入った小瓶を渡す。
小悪魔は、首を捻りながら真っ赤な粉をふりかけてカレーを食べると、咲夜に向かってサムズアップをした。
その額に、うっすらと汗が浮かんでいるあたり、なかなか強力な特製スパイスだったのだろう。
「これがカレーか……サラサラしててピリッと辛くて、スパイスの刺激が鼻を通って、口当たりはマイルドだけど、しばらくすると口がピリピリして、ほんの少しの苦みやまろやかな甘みが辛さの中に隠れていて、凄い美味しいね!」
様々な香辛料を組み合わせる事が、カレーの美味さに通じる。
カレーは、ただ辛いから美味いというものではないのだ。
フランは、その複雑な味を確かめながら、咲夜のカレーに舌鼓を打つ。
そんな念願のカレーを食べたフランの顔は、とてもご機嫌なモノで、例えるならば、おろし立てのドロワを履いた正月元旦の朝のような、清々しいものだった。
これで、スプーンをつけていないのはレミリア・スカーレット一人だけだ。
「うう……」
カレーを見て、思い出すのはイギリスでの失態。
激辛カレーを食べて、その食後に熱いコーヒーを飲んで地獄を見た忘れたい記憶。
だが、目の前にあるのは、十六夜咲夜のカレーだ。
不味いはずが無いし、食べられないほど辛い事などありえない。
それでも、レミリアにはスプーンを動かす事ができない。
「う、うう……」
レミリアは認めたくなかった。
だが、こうなっては認めるしかない。
怖いのだ、カレーが。
カレーが恐ろしくてたまらない。
食べた瞬間に、口の中で爆発するかもしれないし、突然噛みつくかもしれない。
嗚呼、なぜ天はこの世に、レミリア・スカーレットとカレーライスを同時に誕生させたのだろうか。
カレーなどというものがこの世になければ、このような恐怖を味わう事は無かったのに。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
カレーを前に恐怖しているレミリアを心配して、咲夜が声をかけてきた。
周りを見回してみれば、他の面々もレミリアを見ている。
「は、はは……」
そこで、レミリア・スカーレットは気が付く。
自分が本来庇護しなければならない者達を心配させていた事に。
「心配をかけた。もう、大丈夫だ」
一人であれば、きっとレミリアはカレーへの恐怖に立ち向かえなかっただろう。
けれども、彼女は自分の背に、妹が、従者が、友人がいる事を思い出したのだ。
ならば、レミリア・スカーレットは何処までも戦える。
なぜなら彼女は、貴族だから。
剣無き人々の為に剣を持ち、率先して血を流す高貴な魂を持つ存在であるが故に。
「いくぞ!」
ひょいぱく。
レミリア・スカーレットは、ついに百年以上の時を経て、再びカレーを口にしたのだった。
※
「……カレーって、美味しかったのね」
ポツリとレミリアが呟く。
その前には、空になったお皿とスプーンが置かれている。
そしてレミリアは考える。
一体、自分の人生は何だったのだろう。
あれほどまでにカレーを憎み続けたのは、何のためだったのだろうか。
今では、カレーへの憎しみは消えている。ただ、やるせない虚しさが残るのみだ。
自分は間違っていた。
カレーが悪かったのではない、ただ自分が愚かだっただけなのだ。
その事実が、小さな吸血鬼の身体にずっしりと圧し掛かってくる。
「……それなら良かったじゃない」
そんなレミリアの肩にパチュリーが手を置く。
「きっと、誰も彼もが何かしら間違っていて、それでも生きているのよ。でも、今日、レミリアはその間違いの一つに気が付く事ができた。それで良いのよ」
その言葉を受けて、レミリアは肩にかかったパチュリーの手を握る。
「でも、私はカレーに……」
「お嬢様は、カレーを食べて美味しいと感じたんでしょう?」
美鈴がレミリアに尋ねる。
レミリアは小さく頷いた。
「なら、それで良いんですよ。カレーはお嬢様を恨んだりなんかしてません。むしろ、自分を好きになってくれて喜んでます!」
友人や従者に諭され、レミリアはのろのろと顔を上げる。
「……私が、カレーを好きになっていいの?」
「ウンイイヨ」
「!」
レミリア・スカーレットが振り向くと、そこにはよそい立てのカレーが湯気を立てて鎮座していた。
「ダカラ、タップリタベテホシイナ」
カレーは妙に甲高い声でレミリアに、お代わりである自分を食べるように促す。
「……ごめん、もう食べられないわ」
しかし、レミリアは小食なので、お代わりは無理と断った。
すると、『ズコー』という音と共に、十六夜咲夜がテーブルの下から滑り出してきたのであった。
了
ほのぼの紅魔館よいですね!
東方フランドール……二重で上手いですね!
髪型を貶されたらキレそうだ。
あと突然かみつくって、まさかサンドウィッチのことか?
みんな気に入るかな?
咲夜さん自重してw
それで周囲から変わってると言われてる。
でもさっきゅんの手作りカレーなら食べてみたい!
特別美味いとも思わんし・・・
だが、この話は良いな
オチといい、何もかも恐ろしいほどのセンスを感じました。
ところで、イギリスは米食じゃなかったような気がするから、レミリアが食べたものはカレー”ライス”ではなくカレーシチューかナンにつけて食べるものだと思ったけど、調べてみるとイギリスに導入されたカレーのレシピは米が主食のところを参考にしたから、イギリスではカレーは米とともに食べていたみたいなんですね。
ちょっとココイチ行ってきます。
私には小ネタが良い不意打ちでした
東方に東方ネタが入ってて思わずニヤリ
まぁカレーは二日目の方が美味しいなんて話もあるしいいんではないだらうか
「カレーソフトクリーム」や「カレーマドレーヌ」って、なんやねん…
美鈴を泣かすほどのカレーの話ができるお嬢様の話術に
感服です!
と思ったら咲夜さんw
ともかく、おぜう様の若い頃の設定のとことか新鮮な感じですばらしい話でした。
オチ大好きです。
それにしても激辛カレーに珈琲ですか。
なかなか熱いですな。
カレーが喋りだした時は、まあサンドイッチが生きている世界だしそんな事もあるか
などと思ったのですが、咲夜さんのアフレコだと知り、自分は常識をどこかに捨て去っていたのだと気付きました