むかしむかし、ある山に土蜘蛛と河童がいました。
土蜘蛛は山のあなぐらに住んでいたので、山でとれる金や鉄をたくさん持っていました。
河童は谷川に住んでいたので、魚とりの道具をはじめ、工作がたいへんとくいでした。
彼らはおたがいの持ちものを交換しあい、なかよく暮らしていました。
◇◇◇◇◇◇
静かな暗闇へと堕ちていく。以前にもその感覚を味わった事があるが、それはいつの事だったろう。
そんな思いも束の間、背と後ろ頭をしたたかに撲つけて、意識が暗闇へ放り出される。
とつ、とつと雫の滴る音がする。まだ瞼は開かない。五感が働かない。ただ背中からぴりぴりと電気が走って、体のそこかしこを静かに灼くような感じだけがする。
身をよじると、意識がのらくらと体を抜ける。体はきっと動いていない。虫が脱皮をするように、魂だけがその身を脱いで起き上がろうとする──そんな風だ。
死んでしまったのだろうか。それは何というか、御愁傷様だ。実感は湧かないけれど、大変だ。何故って、体を置いて行かなければならないんだから、不便──違うなあ。それは別に大変じゃあない。
そうだ、どうして良いのか解らない。大変だ。何処へ行けば良いんだ。これといって行きたい場所も無いのだけれど──これも違うなあ。だいいち真っ暗で何も見えない。何処へ行っても大差無かろう。
静かだ。
何もない。誰も居ない。
けれど、寂しくもないものだな。私の中身に何もないのだから、そうなのだろう。中身だけではない。私の体も見えない。
あの人間も、この静かな場所に居るだろうか。そうしたら私は、彼に
容赦なくぶち撒かれた水の冷たさと、天地の逆転する心地を覚えた。実際引っ繰り返っているのだから堪らない。鼓動のように跳ね起きた私の体は、岩の上を滑り、頭の天辺から地に落ちた。
首が縮んだと思った。実際、間近に自分の胸元が見えて吃驚した。手も足も地面を触っているのには、なお驚愕した。まず頭に浮かんだのが、蟾蜍(ひきがえる)の無惨な姿である。あれは食うには美味いけれど、ああなるのは御免だ。居もしない神様に泣きすがりたい気持ちで無茶苦茶に手足をばたつかせると、上手いはずみで尻が地面に落ち着いた。
何の事は無い、いつもの長さの手足である。首は少々痛むが、いつもの手で覆える程度の長さである。私はいつもの風穴に居て、いつものキスメが居る。
「アッ、何だ驚いた。居たのだねえ、キスメ」
目の前には、あわあわと慌てた顔のキスメがぶら下がって居た。私が声をかけると、小動物のように頭を引っ込めて、またそろそろとこちらを覗いた。
とつ、とつと雫の滴る音がする。彼女の桶の縁で、滴る水が冷たい光を反射していた。彼女が私を黄泉返らせたものらしい。もう少し手段を選べないものかと思う。
キスメは少し大仰に額を拭うと、さも安心したように嘆息した。そうしてやおら立ち上がろうとする私の肩を両の手で押さえ付け、頭の天辺を掌でぐりぐり撫でてきた。しばらく座っていろ、と言いたいらしい。
成程、再三頭を撲つけたせいか、黙って座っていたら頭が昏々としてきた。この調子でねぐらへ戻るには、風穴はいささか危険な場所である。ぬるぬるした岩肌ばかりで、次こそ滑って脳天をかち割るに違いない。
ゾッとした。あの静かなところへ行くくらいなら、彼女の示す通りここで休むのが正しい。あんな、何もかも亡いようなところへなど行きたくない。
私が寒がっていると勘違いしたのか、キスメが鬼火を灯し始めた。少しも暖かくはならないし、むしろ見ていて寒気がする程の寂しさを覚える。けれど私の周りで一生懸命に鬼火を操る彼女を見れば、とても温かな気持ちになれた。
しばらく、ぢくぢくとした微熱に浮かされるような心地で座っていた。キスメなのか鬼火なのか、それとも他の何かなのか判然しないものが周りを漂って、可笑しいような気持ち悪いような感じがした。事によると、やはり私はそのまま死ぬのではなかろうか。私は怖くなり、判然したものにすがりたくなった。そうして疲れて眠いような、疲れを越して冴えたような頭を無理に揺すった。
ぽつ、ぽつと頭に浮かぶのは、生きてきた軌跡であった。胡乱な私の脳味噌は、どうやら生きている判然とした証立てに、生きてきた私をよすがとしたらしい。
私は土蜘蛛と呼ばれた。まつろわぬ者であり、妖怪である。
山に棲んでいた。かの山では、鉱物がよく採れた。赤茶けた鉄鋼だの、こびり付いた金だのは、そこいら中にごろごろとあった。ほとんどは砕いて精錬しなければどう仕様も無い屑石ばかりだったけれど、たまに塊もあった。そういうのはしばしば祭壇に捧げられ、お祈りをした。
穴蔵に居た。採掘の場でもあり、住処でもあった。男は皆、狩りに出掛けた。だから採掘は、女の仕事だった。私もよくそうして、ごちごちと穴を掘った。そうしてくたびれた頃に、男達は帰ってきた。けれどよく、怪我をして戻った。父が怪我をした時は、赤黒く汚れた麻の服を見て大泣きした。小さな頃である。それから私は虫一匹、自分の手では殺せない。
穴蔵の外には、川が流れていた。けれどよく泳いで遊んだのは、もっと上流の方だったか。近場の川は、生活用水だったろうか、釣り場──いや、近場の川では、誰も見かけなかった。ただ、入ってはいけないと言われていた。
下流にずっと行くと、滝になっていた。一度探検して足を滑らせ、落ちた覚えがある。その時、ああその時だったろうか。青い空に、森の緑と岩の土色がぐるぐると混じり、終いに鼓膜を破るような音がして、いくら掻いても戻れないところに落ちたと思えば、暗く暗く、静かになっていった。
土蜘蛛以外に、妖怪を見たのは初めてだった。変な妖怪が水辺に棲んでいた。私を助けてくれたのだ。懐かしいなあ。そうだ、さっき聞いたのは彼女の声だったじゃあないか。元気そうだったな。まだ何か妙なものを作っていたりするのかしらん。
いつからか人間も居た、ひとり。よく三人で居た。楽しかった。何でもできると思った。私が集めて、彼が考えて、あいつが作って。いつまでも、いつまでもそうして……
血の気が引いた。そうして私はハッキリと、現実に戻った。
気分が悪かった。キスメにかけられた水で、体が冷えたのもある。けれどそれよりも、心持ちが悪かった。胸につかえたものが、そのまま腐れていくような気持ち悪さがした。ぞろりとした悪寒が走る、冷や汗が頬を伝う、瞼の裏がじわりとする。口元を抑えるが、細く、けれど荒い息ばかり出る。
ふと鬼火が消え、ことりと音がした。かたわらに居るキスメが、不安そうに私を見ていた。
私はそんなに危うかったろうか。ともあれこれ以上彼女を不安にさせては申し訳無いので、ぐっと奥歯を噛んだ。胸にあるものが、ぐるりと音を立てて腹に落ちた気がした。そうして精一杯明るい声で、旧都で酒でも飲もうか、と彼女を誘った。実際体は凍えていたから、熱燗でも引っ掛けなければ参ってしまう。介抱して貰ったので、勿論奢るつもりだった。
けれど彼女は、気まずいような、何かに耐えるような顔をして首を振り、風穴の出口のほうへ逃げてしまった。
「……あれ。嫌われてしまったかしらん」
苦笑しいしい、私は体を起こして旧都へと向かった。まだ少し、体が重い。だからキスメを追うのは、少し難しいと思って──仕方無く、本当に仕方無く、橋姫でも誘おうと思った。
◇◇◇◇◇◇
土蜘蛛と河童には、なやみがありました。それは、いつも食べものが足りないことでした。
彼らの食べものは、山川の恵みでした。けれどそれでは、いつも十分な食事にありつけるとはかぎりません。
それに狩りには危険がつきものです。妖怪と恐れられる彼らでさえ、大きな熊や猪にはかないません。
それでも彼らはどうにかして食べものをあつめ、細々と暮らすのでした。
◇◇◇◇◇◇
幻想風穴のずっと奥、幾つもの小さな横穴を横目に過ぎると、一際大きな縦穴に至る。光の差さない深き常闇が、嫌われ者を呑むために、ぽっかりと口を開けている。
地獄の深道は、縦穴というより急坂のような印象である。岩肌は刺々しいまでに荒く、硬い。まるで骨ばかりになった大蛇(おろち)にでも呑まれた心地がして、私でさえあまり寄付きたくない処だ。
特に今居るここいらは、尖頭の岩が縦横無尽に突き出ている。飢えた大蛇が、呑んだ獲物を剥き出しの肋骨でめりめりと絞め潰すように、薄気味悪く胎動していやしまいか、とさえ錯覚する。こんな場所に好んで棲む奴も居ないものだが──一人、居るのである。
「おやおや。今日の貴方は随分とまあ妬ましい面構えね」
満面の薄ら笑いというものを、こいつ以外に見た例は無い。うっすらと覗く緑眼は、決して親しみなど映さない。橋姫が、荊(いばら)で首筋を絡めるような、ぎすぎすした視線を私に向けていた。
彼女は、橋の欄干に背を預けていた。といっても、こんな縦穴に川も流れていなければ、橋など架けられているはずもない。幻影とでも言おうか、つまりそれは彼女の病んだ心が映し出す、まやかしである。無茶苦茶に突き出た岩が、橋桁であったり、欄干であったり、丸木の橋脚のように思われた。上も下も、前も後もばらばらな橋。耐え難い悪夢のようなその上に、橋姫──水橋パルスィは、悠々として居た。
どうにも声をかけ難い。はっきり言って嫌いなのだ、こいつ。いつも会う度に、厭な事を言う。それでさも向こうが厭がるような素振りをするものだから、こっちは益々厭になるのだ。何という天邪鬼か。橋姫なのだが。しかし彼女も鬼女などと呼ばれる。鬼の称号を冠したものは、いずれ天邪鬼に違い無いと思う。
「やあ橋姫。あんたもやられたかい」
それでも声をかけるあたり、私も好い加減天邪鬼である。土蜘蛛とて鬼と大差は無いのだから、いずれそうなのである。
「ああ、人間が来たよ。独り言が多かったが、金色の髪をした綺麗な娘だったねえ。黒白の服を着ていたものだから、首が一際よく映えた。この欄干にでも首級を晒せば、さぞ良い絵になったろうと思うのだけれど、惜しい事をしたよ」
「そうかい、そいつは良かったね。どう、惨敗を記念して旧都で一杯やろう」
「酒、ねえ」
そう言うと、橋姫は私のことを無遠慮にじろじろと見た。とりわけ彼女は、私の顔を見つめた。顔に何か付いているだろうか。けれど何事か尋ねても、彼女は何も言わずに私を見つめるばかりであった。
そういう状況が、私には全くこたえた。別に悪さをしたわけでもないが、見世物小屋の木戸でもあるまいに、わけもなくじろじろとされては堪らない。といって猛然と突撃してくるわけでもなく、だから怒鳴って殴りつけも出来ない。もどかしくて、もじもじとする。それがまた、もどかしい。笑えば良いやら、怒れば良いやら。
彼女はまた真向かいに私を見ると、少しばかり胸を反らせて、悠々と鼻で嗤った。
「止しておくわ。今の貴方なんぞと飲めば、折角の妬ましい気分が台無しになるもの」
「ああ、そうかい」
だから私は、こいつが嫌いなのだ。
莫迦橋姫の居るところからすぐ、あばら屋の軒が並んだ場所に出た。旧地獄街道と呼ばれる。少しばかり右に傾いだ街道は、酔った蛇のようにのたくたと続いている。
地底にしては、ここは随分と賑やかな場所である。毎日のように怨霊だの死霊共がたむろして、博打をしたり酒を飲んだり騒いでいる。それでいて治安も好い。喧嘩なぞ起きようものなら、我先と鬼だの畜生がむらがって、手を叩いて囃したり、賭けに興じて喧嘩が大きくなったりするのだから、全く好い具合である。
私は街境にある、半分潰れて隣家にしなだれた酒屋に入った。腐ったような暖簾を分けると、酒粕の甘ったるい匂いが、どろりと流れてきた。そこそこ繁盛はしているようだったが、席は幾らでも空いていた。
土間を過ぎて板敷に腰を下ろすと、奥座敷で囲炉裏を囲んだ連中が、げたげたと嗤った。自分が嗤われたような気もしたが、連中は髑髏のような頭をしていたので、さて正確には判らない。けれど少し疲れたような気がして、私は俯きがちのまま店主が来るのを待った。
そうして現れたのは、店主ではなく鬼──星熊勇儀であった。見て呉れからして元気極まりない彼女は、席は幾らでも空いているのに、わざわざ私の隣に座り、片膝を組んで杯を呷った。
「不景気な顔をしているじゃないか」
「あんたはまた随分と景気の良い顔をしているね、勇儀。けれど飲み比べは御免だ」
「つれないねえ」
それからしばらくは、鬼も黙って酒を飲んでいた。別に私は彼女が苦手というわけではなかったが、どうにも針の筵に座っているような心地がしてならなかった。店主もなかなか来ないので、いっそう落ち着かず、足を組んだり膝頭を指で叩いたり、頬杖を突いて彼女と反対方向に顔を向けたりした。
店主が泡立つ濁酒(どぶろく)を持って来た頃には、もう私は頭にきていて、欠け茶碗を引っ手繰るようにして一杯を呷った。酒精が口から直接頭に入ったものか、側頭を殴り付けられるような酔いが回った。そうして店主を半眼で睨め付け、持って来た盆にそのまま欠け茶碗だけを叩き返した。
一部始終を、鬼は飲みながら黙って見ていたらしい。何杯目ともつかない杯を呷った後、全く素面の顔をして、大きな溜息を吐いた。
「全く、あんたと良い橋姫と良い。見ていられないね」
「何さ」
「あんたは、河童が気になるのだろう」
また、冷水を打っ掛けられた気がした。ひやりとした気持ちが、回り始めた酔いを一気に流し去ってしまった。何故、こいつが知っているのだろう。こいつはどこまでを、知っているのだろう。
鬼はまた、素面の顔をして語り始めた。彼女も河童の取り憑いた人間に出会ったのだという。尋常に勝負して負けたから、地霊殿へと送ってやった帰りなのだそうだ。彼女は河童とは旧知の仲であった。また彼女は、私がかつて河童の居る山に棲んでいたことも知っていたから、旧友に何か言われたのだろう、と推察したらしい。
彼女の知るところは、その程度であった。けれど私はずっと、あの懐かしい谷カッパの事を考えていたに違いなかったので、彼女の推察に恐怖にも似た感情を覚えたのである。
「いいか、酒は楽しむモンだ。逃げ込むモンじゃない」
「逃げ込む……って、誰が」
「あんただ。つまらなさそうに飲みやがって。何だいその眉間の皺は」
私ははっとして、額を両手で隠した。成程、両の眉根は大きく山を作り、互いに深い皺を刻んで、触れる指先に弾力を返した。まるで気が付かなかった。私は余程、酷い顔をしていたらしい。それだからキスメも、橋姫も相手にしなかったのだろうか。それ程までに私は、あの河童の声に惑わされていたのだろうか。
「そんな顔で飲まれたら、酒が可哀相だ。谷川にでも行って顔洗ってきな」
鬼はそう言い残し、また一杯を呷ると、不機嫌そうに店を去った。私はまだ魂の抜けたようにぼんやりとしていたが、一組、二組と店内に客が増えてきたので、抜け殻のような心地のまま店を出た。
風穴のねぐらに戻る途中、また橋姫に会った。旧都の出入りにはそこを通らなければならないので、仕方無いといえばそうであった。
「ハ、なあにその面。酒飲んだのかい。それとも飲まれたのかい」
ゆらゆらと重い足取りの私に絡むように、橋姫が覗いてきた。虚ろな私の胸の内に、真っ赤で毒々しい色の火が灯ったような気がした。極力気にしないようにして、私は糸伝いにするすると深道を登った。けれど橋姫は少しばかり離れた位置で、私に合わせるように、ゆるゆると付きまとった。
「一段と妬ましい面になったじゃあない。貴方もこちら側に来るかい」
私は、平たく突き出た橋桁(実際は一際大きな尖頭の岩なのだろう)に降り立った。すると橋姫もまた、同じ橋桁に降り立った。私の胸の内に灯った火は、ぽつ、ぽつと増えて、溶岩のようにうねった。そうして騰上(とうじょう)する一塊の泡が、醜く弾けたのを覚えて──振り向き様、橋姫の頬を叩いた。
心地良い音がした。そうしてしばらくの、沈黙があった。
「……威勢だけは良いのね。けれど」
ぼくり、という心地悪い音がして、私はその場にもんどり打った。
「私に威勢を張るのは、御門違いね」
右頬に鈍痛がした。拳骨で撲たれたらしい鈍痛だった。だから私は、こいつが嫌いなのだ……
こつ、こつと岩場を踏む音が近付く。頬の痛みに顔をしかめてうずくまる私の襟首を、橋姫は無慈悲に掴み上げて顔を寄せた。
満面のせせら笑いというものも、こいつ以外に見た例は無い。先刻とどう違うかと問われれば困るのだが、どうあれこんなに憎たらしく、惨たらしく、恐ろしい笑顔も無いものだと思う。頬から口元から、全く嗜虐的で恍惚とした愉悦を浮かべて──緑眼の双眸には、凍えるような光を湛えて私を見据えた。
「無様な面。そんな面は私だけで十分なのよ。貴方はへらへらと笑うのがお似合い」
橋姫は私を強く突き放して、旧都の方へと行ってしまった。私は少しばかり震える肩を押さえ、またするすると、風穴のねぐらへ戻った。
風穴は、しんとしていた。私のねぐらとしている横穴あたりには、もうキスメも怨霊共も居ない。しんとした音と、吸い込まれそうな暗闇だけがあった。莫迦莫迦しい感情を覚えたせいで、いつものねぐらが少しばかり怖く見えてしまった。
痛む右頬を擦りつつ、吊り床に寝転がった。ぼんやりとした時間を過ごしたかったが、そうさせない何かがあるような気がした。旧都の喧騒を持ち込んでしまったように、気持ちがざわついた。こんな光の届かない穴蔵でさえ、まるで日の下にでも居るような眩しさを感じて、片腕で目を覆った。
──やい土蜘蛛、これからお前をぎったんぎたんにしてやるっ
久々に声を聞いたと思えば、河童は怒り心頭であった。まだ根に持っているのか、とも思うし、仕方無かろうな、とも思う。元気な奴だな、とも思い、やってやろうじゃない、とも思えた。けれどいずれも、胸に浮かぶものは、懐かしい河童の元気に笑う顔だった。
それは私の胸の内だけなのだから、罪は無い。それに彼女はもう、きっとそんな表情は見せない事も、理解したくない程に判っている。だから私は今ここに居るのだ。ああ、懐かしい声を聞いたものだから、恋しくなる事ばかりが頭に浮かぶ。
かつて私は……土蜘蛛は山で生活をしていた。彼の山は休火山であったから、そこかしこに洞穴があって、珍しい石や鉱物が沢山採れた。土蜘蛛はそれらが道具作りに有用なことを早くから識っていたので、以来そこを拠点にして栄えた。けれど採掘ばかり得手で無骨な道具ばかり扱ったので、細工は不得手であった。
川下は渓谷になっていて、そこには河童が居た。彼らは泳ぎが得意で、魚なんかは素手でよく捕まえるようだった。のみならず、彼らは魚捕りの様々な道具を木だの竹で拵えるのが得意で、手先の器用さは土蜘蛛など目ではなかった。当時は互いにまつろわぬ民であったから、よく助け合った。双方の利害も一致していたとはいえ、当時の村社会を考えれば、全く特殊であったと思う。
ともあれ、そうした基盤もあって私は彼女──河城にとりと、友達になった。出会いは随分と悲惨というか、格好悪いというか、ではあったけれど。
当時私は、採掘の腕は大人顔負けだと言われた。勘が良いとも言われて褒められたし、何より精錬した後の綺麗な鉱物が大好きで、自分から進んでよく覚えた。光り物が好きなど、祖先に鴉でも居たのかも知れない。
またにとりは、当時から工作技術において天才肌であった。思ったものは、思った通りに何でも作った。思い通りにならないと、そうなるまで何度でも作り直すような奴だった。それがためか河童のうちでも、少しばかり疎まれていたらしい。
そんなのが、出会ってしまったのだ。興味を持つのも仕方無かろう。それから随分と長い間つるんでいたと思う。
今思い返せば、楽しい事ばかりだった気がする。絶対壊れない釣竿と釣り糸を作っては、急流で流木に引っ掛けてそのまま一緒に川下へ流されたり。採掘が簡単になるからと、火薬量のおかしい発破をかけて坑道を一つ潰したり。二人内緒で猪狩りに行った時は、狩りよりも罠ばかり夢中に作って、自分達さえ立ち入れない危険地帯にしてしまったり。よく莫迦をした。
それもこれも、ずっと続くと思った。私達土蜘蛛の犯した、過ちさえ無ければ。
「谷川にでも行って顔洗え、か。そうしようかしらん」
何とはなしに、旧都で言われた鬼の台詞をつぶやいた。と、私は無性に、にとりの顔を見たくなった。
ここへ来てから幾星霜、少しもそんな気になった覚えはなかった。けれどまた、こうして別れ別れになった理由というのが、ずっと私の頭の片隅でもやもやと燻り続けていたのも事実であった。彼女の方では、どうか知らない。けれど私は別に、好んでこの地底へ逃げ隠れたわけではなかった。
今ではここでの生活も慣れたものだ。だから、また地上に帰りたいと思うわけではない。ただそれならそれで、清々しい気分で居たいと思う。明るく楽しい気持ちで、闇の中を這いずり回りたいと思うばかりである。
過ちは、過ちである。けれどそれを悔やみ続け、うじうじとしたところで得になる事など無い。だから私は、明日にでも山へ行こうと思った。
◇◇◇◇◇◇
ある日、谷川にひとりの人間が流れてきました。
腕のよい大工の彼は「河原者」と呼ばれ、はるか向こうの里からきた人間でした。
工作のとくいな河童は、彼をこころよく迎えました。そして土蜘蛛もまた、彼を河童の仲間として迎えました。
彼はへんくつでしたが、土蜘蛛と河童によくしてもらった恩返しに、彼の持つ土木工事の技術を教えました。
これに土蜘蛛と河童は喜びました。彼の技術で畑ができ、好きな時に好きなだけ食べものが得られるようになったのです。
大工の人間がやってきて、河童の技術はめざましく発展しました。そうしてまた、土蜘蛛の掘りだす金や鉄も、日に日にふえていきました。
土蜘蛛と河童と人間のふしぎな関係は、それからしばらく続きました。
◇◇◇◇◇◇
「できた。新作」
私の手には、今出来上がったばかりの発明品が乗っている。両掌に乗る程の箱型をしたそれは、手前側に鉛筆の入る大きさの穴と、削り滓を溜める引き出し、向こう側に押さえのつまみの付いた大きめの穴がある。側面には小さな手回し式のハンドルが付属している。
完成したら即実験が、私の信条である。恐らくこのような発明、誰もした事は無いだろう。箱型のそれを床に置き、大きめの穴のほうに、そこいらに落ちている材木を差し込んでハンドルを回す。ごりごりと小気味良い音がして、引き出しの中に細かな削り滓が溜まっていく。そうしてしばらく回していると、やがて材木は六角柱状の棒になって、小さな穴から出てきた。
「名付けて、鉛筆削り出し器」
削り終えた材木が、支えを失ってぽとりと落ちた。芯は無い。ただの六角柱状の棒である。長さも元の材木と同じだから、やたらと長い棒である。
「……いや、解っていて作ったのだけれどもさ。何をやっているのかね、私は」
確かにこんな下らない発明、誰もした事は無かろう。そもそも鉛筆になっていないが、最初からここまでしか考えず作ったのだから、これで正しい。改修の余地など全く無い。だからこの道具の実験も、成功の冠を授けて終いである。
こればかりではない、私の周りのそこかしこに、実に下らない玩具が散在している。
燃料と燃芯を改良した、ホヤを外せばバーナー代わりになるカンテラとか。炎調整は無いから、天井まで火が上がる。
罠の部分を円くした、全方位型の鼠挟みとか。支点が無いから挟む力も無い。
二〇六ある骨格の動きを忠実に再現できる、糸吊り人形とか。勿論糸も数百本ある。
歯車の噛み合わせで、風力の五段階変速を実現した吹子(ふいご)とか。蛇腹の吹子だから、送風にかかる力が増すのに従い、風力は五段階に弱くなる。
全て、実験成功の品である。つまりこれらが何なのかというと、手慰みの結果だ。急ぎの用事がある時に、つい掃除をしてしまうような。
勿論そんな玩具ばかりでなく、目的を持って以前から開発を続けているものもある。けれど、今はどうにも気分が乗らなかった。
こんな事は、今までだって数え切れない程あった。しかし、ここまで酷い出来のものを作るようなことは無かった。ひらめきを得るどころか、ともすれば発明家の暗部にでも呑まれそうな予感さえする。
それもこれも皆、昨日地底で見かけた、厭な奴のせいに違いない。
くさくさする。そんな気持ちも、久し振りだ。いつもは色々と工作をしていれば、気分もすっとしたものだ。けれど今は、まるで手が付かない。考えれば考えただけ、余計な事ばかりがちらついてしまう。またそれが、本来胸で思うべき事だのに、ともすると私の脳内にずかずかと入り込んで、記憶の中の私と現在の私をぐちゃぐちゃに掘り返すのだから、堪ったものではない。
もう二言三言、言ってやれば良かったか、あの土蜘蛛に。
仰向けに大の字になって、わざとらしく溜息を吐いてみた。幾つかの我楽駄が手に当たって転がり、がらがらいう音が随分と反響した。今居るここは、冬場の私の生活場所の一つでもあり、工房でもある。谷川の深みから横穴を抜けて入れる、妖怪の山の穴蔵の一つだ。数居る河童の内でも、ここまでの工房を持つものはそうは居ない。そのうえここは昔起きた事故のため、未だ誰にも知られた事はなかった。
それにしても、いつも居る工房だというのに、今日は何だか息が詰まってならない。少し外に出れば気も晴れるだろうか、と思ったが、すぐに目を閉じて否定した。今は冬なのだ。寒い。理系の私が外に出ようものなら、きっと凍えて死んでしまう。気は晴れるか知れないけれど、脳も心臓もすっきり静かになるのに違いない。だからそういうのは、体育会系の魔理沙あたりにでも任せておけば良いのだ。
(おいにとり、今私の事を何か言いやしなかったか)
「言いやしないよ。何だい、私が呼ぶまで通信は切っておけと言っておいたじゃあないか」
(お前がいつまでも待たせるから悪いんだぜ。目的の宝はどうしたよ。分けてくれるのじゃあなかったか)
「ああ、まだ手に入れられていないよ。それにしばらくは、きっと地底に行き来しなけりゃあならないのだから。その時はまた頼むよ魔理沙」
私から一方的に通信球を切ってやった。昨日の今日だというのに、全く忙しない奴だ。
魔理沙には昨日地底の調査をして貰ったのだが、話を聞いた限り究極のエネルギイというのは、どうもそう簡単に手に入るものでもないらしかった。少なくとも先のカンテラみたく、燃料をどうこうすれば良いような代物ではなさそうだ。けれどそのエネルギイがあれば、河童の技術は革命的に進化する。今私が開発しているものも、実稼働には莫大なエネルギイが要るのだ──それこそ、妖怪の山全てを網羅する程に。
そうなると、いずれ私も地底には行かなければならない。取引を円滑に進めるには、面と向かって直接談判するのが一番早いのだ。魔理沙を通してやりとりしたり、通信球を通すのでは間怠っこい。あすこには鬼が棲んでいるから、出来る事なら避けたいけれど……多分、そうも言っていられないだろう。
取引だって、大掛かりなものになるに違いないのだ。それだけのエネルギイを得て、更にそれを細かく制御するとなれば、あの鈍そうな地獄鴉だけでは心許ない。いずれは大規模なセントラルを建てなければいけないだろう。あの強かな山の神様の事、その下地から私が関わらなければ、きっとエネルギイを自由に使わせてはくれないだろう──
どたり、と一際大きな音がしたので、私ははっとして上体を起こし、音の方を見た。
そこには私の全く予想しなかった来訪者が居た。あの地底で燻っているはずの、土蜘蛛が居たのである。
「アッ、痛いなあ。すり剥いてしまった。片付けもしないだなんて、危なくって仕方が無い。やあ、やはりここに居たね、にとり」
向こうの瓦礫の山から、のそのそと這い出て落っこちたらしい。片腕を捲ってさすりつつ、立ち上がってこちらへ来ようとした。泥まみれの和やかな表情は、むしろ胡散臭く顔に貼り付いて見えた。
「谷川に居ないから、ここだろうと思った。懐かしいね、ここはいつか採掘のために発破をかけた所だねえ。けれどにとりはここに随分と執心なようだったから。まさか住処にしているとは思わなかったけれども」
「今忙しいんだ。帰れ」
私は土蜘蛛を一瞥したのち、すぐ座り直して彼女に背を向けた。そうしてまた、先の完成した鉛筆削り出し器を分解したり、組み直したりした。莫迦でも判る、あからさまな態度である。彼女にも通じたのだろう、こちらへ来ようとする足音が、こつ、とひとつ響いたぎり静かになった。背後からは、見えない壁に立ち往生でもしている気配がした。
ああ、堪らなく厭な奴だ。それ以上こちらには来て欲しくない。
けれど何が土蜘蛛をそうさせるものか、足音のする代わりに、たどたどしい声をこちらへ届かせた。
「その御免。邪魔しに来たのじゃあなくって。いや、ま、用事で来たのでもないのだけれど。久しく会わなくって、久々に声を聞いたから、どうしているかな、って。それにしても、崩れたところ片付けないのだね。出入りが不便だし、だいいち危ないよ。何なら私が片付けてしまおうか」
「うるさいなあ、帰れよ」
ぼつ、ぼつと、もたついた声色が私の心を逆撫でるように響いた。その苛々するねとついた逆撫で方が、土蜘蛛のふやけた顔と重なり、私は胸焼けのような心地を一層酷くした。
全く、煩い。よくも恥知らずに、べらべらと私に喋りかける。何をしにきたのか、まるで理解できない。理解できないのは、むかむかする。だから私は、わざと手許の玩具を乱暴に分解し組み直しては、がちゃがちゃとしたノイズを響かせた。
「その、何か忙しかったかい。つんつんしているよ。邪魔をしてしまったのなら、御免よ。ただ来たかったんだ。懐かしかったから。嫌われているのは解っているよ、昔の事は消えやしないからね。うんまあ、だから懐かしかったのさ。はは、楽しかったからなあ。にとりは今でも工作をしているね。私は今じゃあその日暮らしで、どうにもお気楽なものさ。
以前から色々作っていたよねえ。私が鉱物を精錬して、にとりが工作したんだ。二人居ればどんな事も出来たっけ、随分危ない目にも遭ったものだけれど。そういえばここの瓦礫もそうだっけ、にとりのこさえた発破を、二人してしこたまかけてさ。吃驚したねえ。少し逃げ遅れていれば、揃って瓦礫の下。それでも次の坑道じゃあ上手くやれて、採掘も大成功だ」
「違う──、黙れっ」
かっとして、土蜘蛛を怒鳴り付けた。びくり、とした気配と、からからと小石の崩れる音が響く。
「あんたに昔の事を話す資格なんか無いんだ。どれもこれも、あんたが……あんたら土蜘蛛が、壊してしまったのじゃあないか。忘れたとは言わせないぞ。あんたらが、谷川の水を汚したんだ。あんたらが、奇妙な病を流行らせたんだ。あんたらが、あの人間を殺したんだ。だから私は、許せない。絶対に許せやしないんだ」
「……あ、うん。そう、だったよねえ」
そうして、痛々しい沈黙が続いた。工房には、僅かな音を立てるものも居ない。だから私の土蜘蛛に向ける視線は、ちりちりと音を立てていたに違いない。
「……だからさ、一言、謝りに来たんだ。逃げた時は大慌てだったから、謝り損ねてしまって。ここへ来てはいけなかったかも知れないけれど、でも来なきゃ謝れないんだもの。あの人間にも、済まない事をしたよ。彼のお陰で、私らは今こうして居られるようなものだ。凄い技術を持っていたから、にとりと仲良かったねえ。私は度々蚊帳の外みたいで」
「帰れっ」
手にしていた鉛筆削り出し器を、思い切り投げ付けた。それは土蜘蛛を僅かに逸れて瓦礫の岩の角に当たり、ぐしゃん、と一際大きな音を立てた。
そしてまた静寂が戻った。互いの息遣いだけが聞こえた。私は肩を怒らせて、かりかりと荒々しく。彼女は目を丸くして、おろおろと弱々しく。その差が、全く今の私と彼女を隔てる差なのであった。互いにもう、話の通じる筈も無い。
「今更、何だよ。遅いんだよ。出て行け、ここから出て行けっ」
「わ、わああ」
今度はカンテラを掴んで、立ち上がりしな大きく振りかざした。土蜘蛛は元来た瓦礫の山を、崩し崩し大慌てで逃げて行った。
それで良い。私は、おまえなんて見たくなかったんだ。
私は瓦礫のひとつに腰掛け、ばらばらに砕けた鉛筆削り出し器をゆっくりと組み直した。別にこの子に罪は無いというのに、一時の感情で駄目にしてしまったものだから、少しばかり罪悪感がした。
岩の角に当たって砕けたその子は、色々な箇所に、がたと歪みがあった。私はたまに携帯バーナーで部品を焙り、金槌でこちこちと調整したりして、なるべく元通りにしてやることにした。
ふと、この子はあの人間と同じなのだと思った。
掌に乗るような道具だもの、当然見た目の話ではない。この子もあの人間も、誰が悪いわけでもないのに、その時の流れに翻弄されて、壊されてしまった。あの時は土蜘蛛に。そうして今は、私に。
莫迦な事とは思う。人間と道具では、同列に扱える筈もない。道具ならこうして直せば、また動く。だからこそ、これからはこの道具を大事に扱って、謝ることだって出来る。けれどあの人間はもう、土塊になってしまった。動かなくなれば、それで終いだった。本当にもう、今更な事なのだ。
私と黒谷ヤマメが出会って数季を経てから、谷川に一人の人間が棲み着いた。見窄らしいぼろを着て、薄汚れた小屋を建てて寝泊まりする彼は、齢四十そこそこの若造──私ら妖怪から見れば──であった。
河童らはこぞって彼を警戒したが、彼はただ諾々と流れる月日を、谷川の片隅で茫々と過ごすだけのようであった。だから河童も次第に、彼の事を気にしなくなった。
そうした中、私は他の河童と何処か違ったのか、つい彼に声をかけた。彼は至って偏屈な質であったから、やはり漠然とそこに居るだけのようだった。けれど私がお近付きのしるしにと、谷川で捕れた鮎を二尾渡したら、小屋の裏に回って、もぎ立ての胡瓜を五本もくれた。こんな水捌けの良い河原で、そんな太った美味そうな胡瓜が自生している筈は無いのだが。実際その胡瓜はヤマメと二人で食ったが、実に美味かった。最後の一本は取り合いになった。
それが私ら二人と、その人間との出会いであった。
私とヤマメと偏屈な人間との関係は、それから長く続いた。私でさえ彼と親しく話せるようになったのは、出会って一季ばかり経とうとした頃であったから、彼が河童らの輪に入るような事は一度も無かった。
彼は所謂「河原者」であったらしい。私はそれがどういった種族なのか知らなかったが、何でもよく河原あたりに棲み、屠畜だの井戸掘りをしているというので、私ら河童と同じようなものなのだろうと思った。
彼の場合は、特に井戸掘りだの灌漑といった土木の技術をよく識っていた。またそれ以外にも、私ら河童の見た事も無いような築城技術だの炭鉱技術、架橋技術など幾らでも識っていた。求めさえすれば裕福に成れそうな技術を持つ彼は、しかし何故今の境遇に甘んじているかの理由だけは、決して言わなかった。そして私も、そんな事はどうでも良かった。私は目を爛々と輝かせて、彼の技術話に食い付いた。ヤマメは特に、採掘の事を相談するようだった。
そうして私とヤマメは、妖怪の山を実験場にして、色んな事をした。失敗して山の住民に大目玉を食らう事もしばしばあったが、成功すれば山の住民にも大変役立つ技術ばかりであった。そうした技術の功労者として、私ら二人はいつも谷川の人間の事を触れた。それがせめてもの恩返しになると考えていた。
次第に彼の小屋には、他の河童だの土蜘蛛が、何事か相談を持ち掛けるようになった。彼はやはり偏屈だったから、まるで相手にしない素振りをして、後で私にこっそりと解決する手立てを示した。そうしてしょっちゅう難儀な顔をしては、全く迷惑な風に文句を垂れた。けれど終いには必ず口元に笑みを浮かべて和やかな顔をするので、また私達も山で実験を繰り返し、成功したら彼の功績を触れ回るのだった。
いつしか彼は、河童とも土蜘蛛とも打ち解けられたのではないか、と思う。それでも彼は偏屈だったので、ずっと谷川の薄汚れた小屋で茫々と過ごしていた。
ある夏の夕暮れ、その偏屈な人間は奇妙な病に冒されて死んだ。
住処の小屋で私に看取られ、もう永い事聞いていなかった嗄れ声を一つ遺して、蝋燭の火が消えるように静かになった。
外ではもう秋蜩(ひぐらし)が鳴いていた。下流に向かい開けた河原は、日没の最後の一瞬、山吹色に輝いた。木々はゆらゆらとして、長く、長く影法師を伸ばした。
彼は、木の枯れるように死んだのである。
「うん、直った」
鉛筆削り出し器は、壊れる前と同じように箱型をして私の掌に乗せられていた。ハンドルを回せばからからと空回る音がしたし、押さえのつまみを摘めば穴の中のストツパがふにふにと開閉した。
この子は、もうすっきりと直ってしまった。今更な、手遅れな事なんて何も無いように、すっきりと直ってしまった。
人間も同じなら。土蜘蛛との関係も同じなら、どんなに。
私は自嘲して首を振った。無い物ねだりだ。それに直るのと、元通りになるのは違う。やはりこの鉛筆削り出し器だって、引き出しの欠けた所は元通りではない。筐体の穴の開いた所だってそうだ。今更な事だって、ちゃんとあるじゃあないか。
あの人間の事は、もう取り返しが付かないし、土蜘蛛との関係も、もう取り返しは付かない。
もう誰も居ない工房を見渡して、随分と広いなと思った。元々は土蜘蛛の穴蔵の一つであった。この広さだから、ひと家族が棲める程度の穴蔵である。こんな場所に一人は、寂しい。
うろうろと視線を巡らせて、私は最後に通信球と、その傍らに置かれた開発中の機械に目をやった。円筒型の機械と銀色をした分厚い蛇腹、そして幾つかの空瓶の仕舞われた大型の箱である。
それは試作機だが、完成までもう一息であった。そうしてそれは私が、絶対に許せやしないから、開発し続けているようなものであった。
許せない。逃げてしまった土蜘蛛が、許せない。追い出してしまった河童が、許せない。私はあの黒谷ヤマメが、許せない。あの人間が死んだ原因が、許せない。
そうして。私は私が一番、許せない。絶対に許せやしない。だから。
とことこと、靴を鳴らせて作業場に戻り、鉛筆削り出し器をそこいらに置いた。そうして試作機の前に胡坐を組み、螺子(ねじ)回しだの溶接器だのを取り出して、開発を再開することにした。
◇◇◇◇◇◇
ある時、河童の里で奇妙な病が見つかりました。それにかかると手足の先からまひしていき、だんだん体が動かなくなってしまうのです。
それでも河童は妖怪なので、病気はすぐに気づきませんでした。けれど大工の人間だけは、その病にかかってしまいました。
彼はみるみる動けなくなり、どうする事もできないまま死んでしまいました。
河童は彼の死をかなしみました。そうしてこの奇妙な病を、何としても絶やしてしまいたいと思いました。
河童のお医者さまは、ずいぶんとがんばりました。くる日もくる日もがんばって、ついに病の原因を見つけました。
その病の原因は、土蜘蛛のあなぐらから流れ出していたのです。
◇◇◇◇◇◇
ただもう、樹海を無茶苦茶に走った。どんどんと、心臓が胸を叩いて、飛び出しそうだった。吸い込む息は、胸一杯になっても全然足りなかった。踏み込む足が、まるで耐えられずに震えた。けれど、ただ動く限り走った。
そうして幻想風穴に至るずっと手前で、木の根に足を取られて、ごろんごろんと転がった。
腕も震えた。起き上がろうとしても、俯せた状態から右肘で体を反らすのが精一杯で、左手は肩から上がらない程震えた。もう頭から顔から体中、びっしょりと汗をかいていた。冬だというのに、ぼろぼろと汗が滴り落ちた。
胸が痛い。喉が苦しい。息を吸わなけりゃいけないと思って、ぜいぜいと喘いでみるが、まるで上手く呼吸できない。だから。だから不安で、涙が出るのだ。右目から、左目から、ぽろぽろと、交互に涙が出るのだ。
もう一度体を起こそうとして、何とか上体は起きた。けれど片足を立てて力を入れると、まるで足が嫌がってしまい、横倒しに転んだ。
荒ぐ息が、ぢんとする耳鳴りにかき消された。そうしてただ前後する自分の胸が、蠢く芋虫の腹のようで気持ち悪かった。喉はもうすっかり麻痺して、すうすうと喉を通る空気も、空気なのか水なのか、はたまた得体の知れないどろどろした何かなのか判然しなかった。
目に映る景色が、ちりちりと周りから燃やされて、白い灰になっていくのを見た。灰色の景色は、また次第に輪郭を失って、網目のような赤と穴蔵のような黒に塗り潰されていった。そうして寒さも感じられなくなって、頭がすっとして。
私は、多分夢の中に落ちた。
小さな頃の私が居た。
泥だらけになって、坑道の小さな穴から、ころころした石ころを幾らも抱えて出てきた。多くは芯が石塊だったけれど、二、三回に一粒は、芯まで鉱物で出来た塊を掘り出した。大人はそれを見て喜んだ。
けれどそれは、目の前の一部の大人だけだった。向こうには、鬱陶しいものでも見るような目つきをした大人が、舌打ちをしていた。
要石で鉱石を砕くのは大人がやった。私は他の大人と砕けた砂礫を水に浸してふるいにかけ、それを鉛と焼いては灰を取り替えたりした。危ない作業だとは承知だったし、私からやりたくて手伝った。初めこそおっかなびっくりだったけれど、子供だから呑み込みも早いものか、いつしか誰よりも手早く効率的に精錬するこつを掴んだ。
影で舌打ちをする大人は、一層増えた。同輩の子供にさえ、鬱陶しがられた。
少しばかり育った私が居た。
周りには、私を贔屓にする大人しか居なかった。それはとても詰まらない事だったので、採掘ばかりした。遊ぶことは、あまりしなかった。一人で遊んでも、面白い事なんて何も無かった。
今とそう違わない顔立ちの私が居た。
採掘場でさえ、多くは一人で居た。任されたなんて、態の良い言葉だ。私には任せられる他者など居なかった。けれどもう坑道の状態さえ簡単に掴めたので、一人での採掘も危険は無かった。ただ、私はもう、採掘すら詰まらないと感じた。
そうして私は一度、詰まらない土蜘蛛の里から、逃げようとしたのだった。そうして滝壷に落ちた。探検──そんな筈は、無い。だって、一人で遊んで、面白い事なんて何も無いから。
だから、そのまま私は、滝壷に呑まれたままでも良いとさえ思ったんだ。
そこは静かで、暗かった。けれど、堕ちていくような感覚は、無かった。水の揺れる感触や、魚の泳ぐ姿が見えたから。ずっと遠くの水面には、きらきらと日の光が見えたから。寂しさの無い、静かな暗闇なんだと思った。
そうして目が覚めたら、にとりが居たんだ。
にとりは覆い被さるようにして、私の顔を覗いていた。目が合うと、いそいそと棒状のものを取り出して、私に咥えさせた。しばらくそうして、棒の目盛とにらめっこをし、もう後はゆっくり休んでご飯を食べれば死なない筈だ、なんて声を明るくして言ったんだ。
変なやつだなあ。目が覚めたんだから、死にはしないよ。そう言うと彼女は、目が覚めても、寒けりゃあ死んじまうよ。私ならもう、すぐに死んじまうんだから。そう答えた。
それで、友達になったんだ。
私は山に戻って、また採掘に専念した。里ではやはり、私は独りぼっちだった。私が居なくなっても、特に騒ぎは無かった。母でさえ、ずっと採掘ばかりして体は壊さないのかい、と的外れな事を言う始末だった。
けれどもう、そんな境遇さえ都合良かった。殆ど独りで採掘をしたから、いつでも幾らでも採掘場ににとりを呼べた。普通なら絶対に呼べやしない。河童と土蜘蛛に交流があるからって、そう大きな顔をして好きな所に立ち入れるものじゃあなかったから。土蜘蛛にとって採掘場は不可侵な場所で、河童にとって工房はきっと不可侵な場所だったんだ。でも、私達は自由だった。
彼女も殆ど独りで居たから、よく私の採掘場へ来たし、私もよく彼女の工房へ訪れた。私達は、よく似ていたのじゃないかしらん。
にとりの棲む谷川に、人間がやって来た。彼もまた独りだった。
独りで居る事がどういう事なのか、私はよく知っていた。にとりだって、よく知っていた。だから私達三人は、友達になれた。
木々が新緑に萌えて、しとしと雨で山が潤って、川面が日の光を強く反射して、からからと枯葉が舞って、滝の流れさえびっしりと凍て付いて、そうしてまた木々が新緑に萌えて。
繰り返し繰り返す月日を経て、とうとう人間は死んでしまった。私は彼の、死に目に立会えなかった。その時私は、河童の医者の所に居た。
河童は土蜘蛛よりも、ずっと細工が得意だったから、体を弄くる医者なんかは殆ど河童がやっていた。だから私は、彼をどうしても助けたくて、にとりと交代で医者の手伝いをしたんだ。どうして彼は病気に罹ったのか。彼の病気は何なのか。何が原因で病気になるのか。病気の彼をどうしたら救えるのか──それはもう、河童の医者のほうがノイロオゼにでもなってしまうくらい。
それは、悲運としか言えないのじゃないかしらん。人間が死んでしまってから、私は彼の病気が何なのかを知ったんだ。
河童の若者達の、デモンストレイシヨン活動で。
人間の病気の原因は、土蜘蛛が鉱物の精錬をした時に出る、鉱毒が原因だった。私達は昔から、川を鉱毒で汚していたんだ。
ああ、思い出した。だからだ──私の棲む穴蔵の近場の川に、入っちゃあいけないと言われていたのは。土蜘蛛は、昔から知っていたんだ。私達の川に流す鉱毒が、彼を殺してしまうような毒だっていう事を。
静かな暗闇へと堕ちていく感覚。
あの人間を殺したのは、私なんだ。
「それだから、地底に居るの。妬ましいくらいの自虐思考ねえ。莫迦莫迦しいったら」
声がして、それに反応して、あれ、と思った。寒くない。息苦しくない。そんな風に、考えることだって出来る。私、生きている。
両手を握ったり広げたりして見ていると、また同じ方から声がした。
「どうでも良いけれど貴方、私を煩わせないでくれる。全く、死んだ蜘蛛みたく地面で縮こまって。そのまま埋めっちまおうか、と思ったわ」
橋姫が、いつもの悪夢のような橋に居て、欄干に肘を突き向こうを見ていた。ぎくりとして思わず辺りを見れば、そこは地獄の深道の只中、橋姫の棲む場所なのであった。
何がどうしてこんな所に居るのかしらんと思い、起き上がろうとする。と、体の節々がぎしりとして、こめかみ辺りに、つんとする痛みが走った。
「鬱陶しいわね、ばたばたと。黙って寝ていれば良いのよ。まあ死にたければ、止めやしないけれど。鬱陶しいのが居なくなって私も清々するし」
「え、私どうして」
「キスメよ。貴方の帰りが遅いからって、ぶらぶらと地上に出て死に損ないの貴方を見つけたの。全く、だからって何で私を巻き込むのよ。重ったい貴方を持たされて、息吹き返すまで面倒見てやれって。そうしたらあいつまた何処か行ってしまうし、貴方は貴方で涎垂らして鼻提灯で、三日三晩寝通しって。ああもう苛々するわね、さっさと起きて何処か行ってしまいなさいよ」
「やあ、だってさっき黙って寝ていれば良いって」
「む……言葉のあや、よ。だいいち貴方なんか殺したって死にはしないわ。ふいと起きざま、私の揚げ足を取れるくらいの図太い神経なんですもの。ああ妬ましい。図太い神経が妬ましい」
「ううん、いちいち突っ掛かるなあ。解った、起きるよう」
起き上がろうとして、ふと毛布が二枚かけられている事に気付いた。道理で、温かい。
橋姫が……パルスィが、かけてくれたのだろうか。
「橋姫、これ」
「面倒見てやれ、と念を押すんだから。本っ当、愛されているわねえ。妬ましい」
「そうなの」
「もう少し寝ていなさいよ」
「あれ、心配してくれているの」
「フン、莫迦。今の弱った貴方なんか、嫉妬するに値しないのよ。それに煩いったら無いのだから、黙って寝ていろというの」
「うん、そうかあ」
少し嬉しかった。いつもは厭な奴で、あんなに毛嫌いしているというのに。今は何だかんだと言いながら、結局は優しくしてくれている。支離滅裂なのも、少し可笑しい。和ませてくれているのだろうか。この少しの優しさが、私には甘く胸に広がって心地良かった。
もう少し、こうして居たい。それで何か文句を言われたら、この毛布が温かいからいけないのだ、という事にしよう。
そうしてしばらく二人で居た。私は寝ていて、傍らにはパルスィが居て──ふと、頭をよぎる光景があった。静かで暗い、水底。そこから目覚めたような、淡い淡い、既視感。
そういえば彼女は、何故目覚めた私にあんな事を言ったのだろう。
「橋姫。私が眠っていた時、私は何か喋ったのかい」
「……ぶつぶつと、恨み言」
「そう、かあ」
橋姫であるパルスィの答える、恨み言。実際そうなのかも知れない、と思った。
私は私を恨んでいるのかも知れない。もし私がこんなでなければ、にとりにも会わず、あの人間にも会わず。例えあの人間が死んでしまうのが避けられないとしても、にとりはそんなに、悲しむ事は無かったかも知れない。あの人間は孤独のままかも知れないけれど、土蜘蛛と河童の仲がこうまで確執することも無かったかも知れない。
そうして私は私のまま。にとりも、にとりのまま。あの人間も、あの人間のまま。互いに交わる事の無い、平行線上のまま。
──そんな過去が、楽しかったと、言えるものか。
「辛気臭いね。そんな面は私だけで沢山だっていうのに」
隣にパルスィが居た。上半身だけを起こした私の背丈には合わせようともせず、仁王立ちで腕組みをして、ぐっとこちらを見下していた。
「……それとも、貴方もこちら側に来る気になったかい……」
「うん。……それも、良いかも知れないねえ」
何かが、酷い音を立てて壊れてしまう気がした。それを私は内側から、必死になって支えている。少しでも気を抜けば、私も、もう戻れなくなるのかも知れない。
私は決して、優れた妖怪などではない。少しばかり採掘が得意だからって、それが何だ。妬みの感情で私を見る他人の方が、余程妖怪として出来ていたのではないか。私は私の技能に嫉妬して、だから他人を遠ざけたのではあるまいか。
ああ、自分の境遇を誰かのせいにしてしまう事が、こんなに甘い響きがするだなんて知らなかった。彼女に出会ってしまったから。彼に出会ってしまったから。彼女に出会うきっかけを、彼に出会うきっかけを、同族に与えられてしまったから。私が私を恨む、その裏側がつまり、こんなに甘い嫉妬の連鎖だったなんて。恨みが恨みを、妬みが妬みを呼ぶ連鎖だったなんて。
ああ、嫉妬の連鎖の果てにあるのが、なお私の心を強く掴むような、甘美な甘美な嫉妬だったなんて。私は知りたくなかった。
「冗談。貴方なんか、こちらから願い下げだわ。地底の妖怪達の人気者さん」
ふ、と気が楽になった。肉離れを起こしそうなくらい必死になって支える私の心を、誰かが見えない大きな手で、優しく支えてくれるような。そんな心地がして、私はすうと息を吐いた。
今の、毒々しい嫉妬の感情だけではない。私の中に巣喰っていた、自分に対する恨み言。川を鉱毒で汚したのも、あの人間の死んだのも、にとりに嫌われてしまったのも、河童と土蜘蛛が確執したのも、もう何もかもを自分に対する嫉妬のように考えて……それがそのまま、丸呑みにされてしまったような。
罪悪感や過去の厭な事が無くなったわけではないけれど、諸々の出来事に区切りが付いたような。それ以上苦しむ事は無いのだと赦されて、そっと抱き締められたような。そんな安堵を与えられた気がした。
少しばかり呆として、私はパルスィの顔を見上げた。彼女はどこか観察するような目で私を見て、また呆れたような顔をして欄干の方へ戻ってしまった。
「ハ、女々しいったら。ああ厭だ厭だ、地底の妖怪も弱くなったものね」
「え、あれ」
「……フン、せいぜいそこで泣いていなさい。女々しい貴方なんか、誰も見やしないわ」
落ち着いたから、だろうか。それともまた、意識を失う前の不安がぶり返したのだろうか。……いいや、あと一つ。悲しい事ならあと一つ、私には残っている。
にとりに嫌われている事。それだけが今は、悲しい。知らず涙を零してしまう程、堪らなく悲しい。
その場でうずくまり、さめざめと涙を流した。こんな風に泣いたのは、初めてかも知れない。彼が死んでしまった時だって、私はこうも泣く事は無かった。悲しくなかった訳ではないし、だいいちその頃私は山から逃げなければならなかった。けれど落ち着いた後もやはり、悲しいと思うばかりであった。
何となく気恥ずかしくて、私は顔を毛布に埋めて、声を殺して泣き濡れた。けれどどうしたって、ひくり、ひくりと咽ぶ声が漏れてしまう。それくらいは、まあ許して貰おう。ああ、あと毛布を汚してしまう事も。今はどうかして、この溢れる感情を流してしまいたい。
パルスィは、そんな私の傍からついに離れようとはしなかった。いつまでも欄干に肘を突いた格好で、凝と向こうを向いて佇んでいた。
そうしてゆるやかに、落ち着いた調子の口笛を吹き始めた。静かで、澄み渡った、心安らぐような調べであった。
◇◇◇◇◇◇
地底は妬ましい所である。
地底は嫌われ者共を追い込む終の地獄なのだという。そうして私は地底に来た。
男を見れば妬ましく。女を見れば妬ましく。生者を見れば妬ましく。死者を見れば妬ましく。
だからこそ地底に潜ることにした。
地底は鼻摘まみ共の遊惰な楽園であった。私は地底に安寧の灯火を見た。
酒を呷れば妬ましい。煙管を呑めば妬ましい。賭博に興ずれば妬ましい。喧嘩に咲けば妬ましい。
だからこそ地獄の深道で働くことにした。
ああ、妬ましい。
目の前に寄居虫(やどかり)が居る。変わった寄居虫である。
寄居虫なのに桶を借りている。そうして自身は、ふさふさした緑色の毛を生やしている。人であれば、高級毛皮のコオトを羽織り、洒落た西洋のリヴイングにでも居る態である。
見よ、胴から生える二対の螯(はさみ)さえ、しっとりした緑毛で覆われている。何と付け根には薄緑の小洒落た飾りさえ付けて。それは貴婦人のするミツトなのかも知れぬ。
ぢつと手を見る。皺の克明に刻まれた我が手。寄居虫のごとき小癪なブルジヨアばかり肥え太り、かくて戻橋のプロレタリアは悲嘆に暮れるのである。あわれマルクス旧地獄に死す。
ああ、妬ましい。
「あれ、キスメ。どうしたのさ慌てて」
……まあ、解ってはいたのだけれど。暇なのだ。よく解らない難しげな事だって言いたくもなる。
口笛を吹いてぼんやりと過ごすひと時を無遠慮に引き裂いて、上から釣瓶落としが降ってきたのである。傍らでべそべそ泣く土蜘蛛を押し付けて何処かへ行った、紛う方なきあいつである。
彼女は、どたん、とけたたましい音を鳴らせて落ちてきて、もんどり打って橋桁に接吻した。次から次へと喧しい事この上無い。
ひとつ頭でも踏ん付けてやろうかと近寄ると、やにわに起き上がって目を瞠り、あわあわと小さな両手を大振りにして何かを伝えようとした。何だこの面白可笑しい生き物は。
「……え、嘘。どうしてにとりが」
背後の土蜘蛛が青醒めた顔をする。釣瓶落としの無茶苦茶な身振り手振りで、何事かを悟ったようである。この愉快な踊りで話が通じるなど、どれだけ……いやそんなに妬ましくもない。
ずっと上では、何やらごうごうと音がしている。そうしてかすかな呼び声がする。成程、これなのか。
私は逃げようとする土蜘蛛の腕を掴んだ。振り向く彼女の顔には、焦燥の色が浮かんでいる。滔々と流れる冷や汗は、まだ体調が万全でないのか、それともここへ来る河童のせいか。
少し、そそる顔をしていたので、私は思わず口元を綻ばせてしまった。すると彼女は、もう悲壮極まる絶望の瞳で私を見た。
だからもうこいつ絶対に逃がしてやらない。
「丁度良い。貴方の妬ましい面にはうんざりしていたの。河童に引き渡してやろうではない」
「わ、やめて。私これから旧都に逃げるんだよう」
「旧都に行くのは感心しないわ。何故って、貴方が居ると酒が不味くなるのだもの」
顔中に皺を寄せ、うんと力を込めて逃げようとする土蜘蛛を、私は悠々と片手で掴んで放さない。こちとら貴船大明神に授かった鬼女の身である。土蜘蛛の腕力など、たかが知れている。
「つちぐもぉーっ、居るかぁーっ」
「そうら来た。大人しく捕まっちまいなさい」
「や、厭だよ、莫迦、橋姫の莫迦。やああ」
ごう、と背中の機械をひと唸りさせて、猛進から一転、河童がゆるゆると橋桁に降り立つ。水色の作業着に若緑の帽子を被った彼女はこちらを見て、憮然とした面持ちで歩み寄った。
対して土蜘蛛はといえば、観念しないものの全く大人しい。もう私の手を振り解くのは諦めて、代わりに私の影に潜んできゅうと目を瞑り、小動物のようにふるふると怯えている。
ああ、私はこの厭がる小娘に今一番厭がる事をするのだ。そう思うと、地上に居た頃の、橋姫としての心がもたげてきた。
「河童、約束が違うね。地上の妖怪は、地下は不可侵でしょうに」
「地底だって約束を破った、お互い様さ。まあ今後来る時は妖怪の賢者に許可を貰ってやるよ。土蜘蛛を出せ」
「フン、本当なら殴って追い返すところだけれど」
土蜘蛛を引っ張り上げて、突き出した。よたつく彼女の左手を、今度は河童が確りと握る。
その刹那の、土蜘蛛のはっとする表情が。妬ましい。
「居たな。来い」
「うええ、ちょ、どこへ連れて行く気なのにとり」
「うるさいなあ、来れば解るから来い。こっちは急いでいるんだ」
苛々した口調の河童の瞳に、私は彼女の感情を見た。複雑で、不安定な、寄る辺なき者の翳りの色。けれどこれから居場所を探す。土蜘蛛と二人で、見付けに行く。そうした決心のある、瞳であった。
河童は土蜘蛛を握る手をついと上げて体を寄せ、立ち所に肩を組ませて上を向いた。そうして。
まず光が一切を呑み込み、猛々しい爆音が気配すら潰した。風圧と煙幕に体が踊り、立つことすら危ういところへ、桶が──
……もうもうと煙る橋に、河童と土蜘蛛の姿は無い。
「っ、えほ。何、迷惑な河童ね……妬まし、っえほ」
遥か彼方に、ちらちらと燃料の光るのだけが見える。彼女達は遠くへ行ってしまった。もう妬む事も出来ないくらい、遠くへ。
これで良いのだろうか。
「やあ、首尾良く行ったものだね。ご苦労」
「全く、ご苦労極まるわ。貴方がやれば良いのに」
いつの間にやら、鬼が欄干に腰掛けて酒を呷っていた。ぐい、ぐいと喉の動くのが無性に妬ましくて、つい腹の上で目を回している釣瓶落としを引っ掴み、大振りに投げ付けてしまった。
まあ、解ってはいたのだけれど。鬼は造作も無く空の杯で桶を受け、半回転した釣瓶落としをいとも容易く持ち抱えてしまう。ぶうらぶうらと片手で桶を揺すると、釣瓶落としもじきに目を覚ました。
「いやいや、私じゃあ駄目さ。同じ境遇の者同士慰め合ったところで、傷の舐め合いになっちまうもの」
「傷の舐め合いだって、鬼と土蜘蛛が。おお寒い、もう少しまともな冗談が言えないものかしらん」
「冗談なんかじゃあない。いささか広義だがね、我等まつろわぬ民はいつでも、日の下を歩くことを赦されないのだ。我等は我等の闇を持っている。だから鬼と土蜘蛛とでは、精神面では同じものにしか成れない。相対は出来ないのさ。どころか、そういう意味では土蜘蛛の方が先輩なのだ。どうして私のごとき一介の鬼風情が意見なぞ言えるものか」
鬼はいささか手持ち無沙汰のように、釣瓶落としの桶を指一本に乗せてくるくると回している。何というはた迷惑であることか、釣瓶落としはあわあわと……何だか楽しそうにしていらっしゃる。妬ましい。
「莫迦な事言っている。そうしたら私なんて、全くの新参者も良いところだわ。あんな意見して、よくまあ殺されなかったな、という話ではないの」
「いいや、全く違う。私に比べて橋姫、あんたにはヤマメを任せられる点が二つ……いや三つかな。あると思ったから任せた」
「何なのそれ」
「一つはね、あんたは昔公家の人間だった事。しろしめす国の民から、まつろわぬ民に加わったろう。もう一つ、あんたは一族ではなく一人だって事だ。さっき話したみたく、私は鬼と土蜘蛛という立場でしか考えない。四天王なんて役職に居たものでね。だからヤマメ個人と向き合うのには、どうにも合わない。あんたなら、天狗から仕入れた河童と土蜘蛛の確執も理解した上で、ヤマメ個人に相対してくれるだろうと思った」
「何それ、屁理屈ではないの。……ああもう、済んだ事だけれど。本っ当、厭らしい事。三つ目は何」
「ううん、これは言って良いのかな」
ほいと指先を弾いて、鬼は胸元に釣瓶落としを抱えた。きゃいきゃいと喜ぶ釣瓶落とし。何がそんなに嬉しいか。
「あんたが優しい奴だって事」
「ふうん」
手放しで喜ぶ釣瓶落としを見ていた。こいつは今、楽しいとしか考えて居ないな。そんな風に見て、さてこいつを妬ましがってもあまり面白く無いなと思って。
「やさっ……莫っ迦この鬼、だだ誰に向かってそんな、空っ惚けた巫山戯た事をっ」
この鬼、今すぐ呪いたい。
「おやおや、解っているだろうに。感情は表裏一体、さて妬みの感情はどこから来るのだろうね。土蜘蛛が妬ましくなければ、あんたはどうする」
「ぐ。っこの、減らず口ばかり……ハ、もう良い解った。妬ましいったらないわこの鬼。でも御生憎様、私は憎まれ口ばかり叩いてやったわ」
「莫迦だねえ。そうでなければあんたに頼むものかい。まつろわぬ民は誇り高いのさ。べたべたな慰めなぞされた日にゃ、そいつぶん殴って終いだよ」
ああ、もう判った。もう、何も答えたく、ない。
久々だ。久々に、あの頃の純粋な嫉妬心が湧くのを感じる。めらめら、めらめらと心に灯る嫉妬心が、私の血潮を熱く滾らせるのを感じる。決して顔が火照っているのではない。ないといったら、ない。ないったら。
「ハハハ、まあ良いじゃあないか。私らはあいつの背中を押しただけ、後はあいつら次第さ。あんたもこれですっきりしたろう。さてひと仕事終えた後は宴会だ。とびきり旨い酒と肴を用意してやるから、また後日。ハハハ」
噎せ返るくらいに思い切り私の背中を叩いて、全く愉快そうに、鬼は旧都へと帰った。
畜生、莫迦鬼め。この私が、まんまと踊らされてしまった。いつかこの借りは返して貰わなければならない。うんと深く妬んで妬んで、妬み殺してやる。
ぐしゃぐしゃと頭を掻き、不貞寝でもしてやろうと振り返ると、目と鼻の先に釣瓶落としが居た。ぶうらぶうらと天井から揺れて、悪戯の成功した悪餓鬼のように、にたにたしている。
「アッ、何にやにやしてる。お前も早く帰っちまえ、莫迦っ」
かっとなって手当たり次第に石礫を拾い投げた。石礫は見当違いの方へばかり飛んで、あわあわと逃げて行く釣瓶落としの桶に二、三個しか撲つけられなかった。
もう疲れた。肩で息をして、その場にどっかと座り込む。背中を欄干に預け、ふてぶてしく足を組む。全く、ここの奴等ときたら。もう完全に、私を小馬鹿にしているに違いないのだ。
誰も居なくなった橋梁。私の内の、戻橋。
寂しいとは思う。何故って、誰も居なければ、妬むことが出来ないじゃあないか。
だからって、ちっとも好戦的でない、覇気の無いがっかりした奴が居ても、妬んで面白い事が無い。
それだけだ。
あの鬼。言うに事欠いて、その、や、優しい、なんて。全く巫山戯ている。私を何だと思っている。
元は水神信仰、土地神の一柱だ。土地神は嫉妬深いし、祟りだってある。優しさなんて、あるか。
畜生、知ったか振って。何がすっきりしたろう、だ。
がっかりしたろう、の間違いだ。
ばれていたのだろうな。土蜘蛛に能力を使った事。あの鬼、鋭いから。
だからといって、優しいなどと何を言う。私はあの時、土蜘蛛を嫉妬心で煽って、本当に引き込んでやろうとしたのだ。
ただ、あまりに美味そうな嫉妬心だったから、食ってしまっただけだ。あまり美味くなかったけれど。
それだけだ。
誰も居なくなった橋梁。私の内の、戻橋。
静かになって、ほっとする。今は誰も、私を見ていない。私の顔を見ていない。
ああ、全く、地底は妬ましい所である。
ああ、妬ましい。
◇◇◇◇◇◇
すごい技術をもつ人間が、河童の里にいるのを悔しく思ったのにちがいない。そうして土蜘蛛はあなぐらから、谷川に毒を流したのにちがいない。
河童は土蜘蛛が許せませんでした。ついに河童は、悪い土蜘蛛を山からおい出してしまいました。
今はもう、山に土蜘蛛はいません。土蜘蛛のあなぐら近くには河童が移りすみ、今でも金や鉄をほり出して色々な道具をつくっています。
河童はけっして谷川の水をよごしません。今は谷川の水もきれいになり、奇妙な病もなくなりました。
むかしむかしのお話。
──『河童の谷のわらべ話』より『土蜘蛛と河童』
編纂:稗田阿求
◇◇◇◇◇◇
妖怪の山山中。冬場の山とはいえ、風も無い樹海の中というのは、意外に暖かなものである。木の温もりであろうか、土のほてりであろうか。森の深みでは積雪さえ僅かで、時折遠くの方で、積雪が枝葉を滑るざざという音に、今が冬の盛りであるのを思い出される程度である。
殊に今日はからりと晴れた、雲一つ無い蒼空の日である。木々の隙間を抜けて燦々と注ぐ陽光も、遠く小さい天道のものにしては、随分と暖かみを含んでいる。
いやむしろ暑い。特に鉛の塊みたいな謎の道具を背中に担ぎ、いずれ直角にでもなりそうな急斜面を一歩、また一歩と汗水垂らして歩く私は、焦熱地獄の獄卒にでもなった気分である。
私の少し前には、にとりが私よりも大きな機材を、がちゃがちゃ言わせながら担いでいる。機材は鋼鉄の箱で出来ているし、透けて見える箇所には厚手の硝子瓶が何本も入っている。私の担ぐ用途不明な円柱と蛇腹の機材よりも重そうである。
「……にとり、重く、ないかい」
「う、る、さい」
重いのである。にとりの方は、もう完全に這い蹲って、木を登る守宮(やもり)よろしく、ぺたぺたと登っている。見ていて気の毒でならないが、もう少しもすれば私とて他人事ではない。暑いし、重い。
休み休み行ければ少しは違うのだが、開けた場所は雪が積もり、きらきらと輝いて冷たそうである。そしていずれ急斜面であるので、荷物を下ろせない。そうでなくとも少し滑れば最初からやり直しな斜面である。登り直しで済めば良いが、機材が打ち壊れてしまえば一から作り直しである。それならば休むよりは、とにかく一歩一歩慎重に、着実に進むしか無い。
と、言うか。
「あのう、私何で、こんな事して、いるのかな」
「いいから、黙って、運べ。後で、教えて、やる、よっ……」
突如地底に来訪して、有無を言わさず谷川に拉致されて、説明も無く機材を担がされて、妖怪の山の急斜面を登らされている。新しい拷問か何かかと思ったが、にとりまで付き合っているのだから、そうではないのだろう。
これは実験だ。かつて私とにとりがこの山で繰り広げた、数々の実験のうちの一つなのだ。そう思うと私は、もううきうきとして堪らなかった。けれどにとりは、至極真面目な顔で私を睨め付けるのだった。
実際のところ、私は多分まだにとりに嫌われているのである。だから、ここで諸手を挙げて喜ぶような真似は、してはいけないのだと悟った。でも。だけれど。
「ねえ、何だか、懐かしい、ねえ。昔は、こうして、よく色々、実験したねえ」
「……」
にとりは、何も言わなかった。
斜面をしばらく登ると、ようやく樹海を抜けて平地になった。ここはよく覚えている。滝の流れる音の方へ少しばかり行けば、にとりの棲む谷川の真上である。昔私が足を滑らせて落ちた場所だ。
このあたりは岩場で、大岩が風除けになる。おまけに今日はこの日照りだ、まるで春のような陽気で寒くはない。にとりは無言のまま、ある積雪の無い岩陰にようよう腰を下ろしてひと息吐いた。隣には、もう一人分の空間があった。私も腰を下ろしてひと息吐いた。それでも、にとりは無言のままであった。勧められはしなかったけれど、拒絶もされなかった。それが少し、嬉しかった。
高く遠く、何処までも続く空に、ひょうひょうと風の鳴く音がした。この見晴らしの良い場所では、音を返すようなものが周りに無いので、しんという音さえしない。するのはただ、寂しく鳴く冬風の音と、私の息遣いの音、にとりの息遣いの音。
何かを目指して精一杯に挑むような、荒々しくも頼もしい息遣い。それがゆっくり、ゆっくりと規則正しくなり、すうすうと小気味良い呼気に変わった頃、にとりが私に語りかけた。
「……土蜘蛛。私の居る穴蔵だけどな。この前はお前、二人で発破かけたって言ったろう」
「う、うん」
「違う。あれは三人でやったんだ。発破は、あの人間に作り方を教えて貰った。だから三人だ」
「うん」
「あれは三人でやった実験の、初めての成功例なんだ。坑道は使い物にならなくなったけれど、発破としてはあれで成功だった。だから私は、あすこに好きでずっと居るんだ」
「そうなの。解った、もう瓦礫を片付けるだなんて言わないよ」
「うん」
それだけの、他愛無い話であった。きらきらと、眩しく輝く滝飛沫の似合うような。私の胸にじんわりと沁みる、他愛無い話なのであった。
そうしてまた私達は先へ進んだ。立ち上がりしな、私はよろけるにとりを支えた。にとりは首だけを振り向いて私を見、ふと笑った、ように見えた。それだけで私は、幾らでも力が湧くように感じた。
先刻の斜面よりは緩やかながら、岩場の険しい道を川伝いに上流へと進む。そこはかつて私達土蜘蛛の棲む場所の近くであったから、勝手はよく知っていた。大岩の在処から苔生した飛び石まで、まるで昔と違わない景色を山は見せていた。だから今度は私が先導して、にとりに注意を促しながら進んだ。それもまた、懐かしき思い出の風景のように感じられた。
ただ一つ、違和感があるとすれば。川の水が、少しばかり茶色に濁っていることであろう。
「着いた。土蜘蛛、その機材は小川の付近にでも置いてくれ」
私達の到着した場所、それは紛う方なき、土蜘蛛の穴蔵であった。穴蔵はまるで以前と変わらない雰囲気であった。そう、依然──坑道は使われ続け、採掘場には誰かが居たとしか思えない、活きた表情をしているのである。
そうして近場の小川は、以前よりも赤茶けて、濁った色をしている気がする。魚どころか、もう沢蟹さえ居ない。冬場だから、だろうか。
「……にとり、聞いて良いかい」
「少し待て」
にとりは砂利を均して担いできた機材を据え、何やらぽちぽちと操作を始めた。そうして私の担いできた円柱の機材を蛇腹で繋げ、接続口をきりきりと絞め直した。
何だか、……何だろう、これは。猪の、鼻の長くなったようなの、というか。いや、首長で、寸胴の馬かしらん。
「何だいこれ」
「まあ、良いから水辺を見ていろ」
そうしてにとりは、かちりと音を立てて、機械のスイツチを入れた。途端あの円柱の機材から、蟹のような足がにゅうと出て、さかさかと川へ入って行った。
余りの突飛な動きに吃驚して、私はその場に腰を落とした。
ごとごとと、水辺で妙な音がした。恐る恐る近付いてみると、円柱の蟹が一生懸命に石ころを食べていた。わさわさとした足を器用に使って、筒の右側からどんどん石を飲み込み、筒の左側から次々に吐き出した。足の付け根では絶えず何かがちかちかと光って、まるで美味そうな石ころを選って食べるようであった。
よく見ると、吐き出された石ころは、赤茶けた色が無くなっていた。青白くつるんとした、綺麗な石ころが、次々に吐き出された。
「石ころ食べているよ」
「上手くいっているようだ。次はこれ」
にとりが別のスイツチを入れると、円柱の蟹がひとつ、ぶるる、と震えて凄い勢いで水を飲み始めた。これも先の石みたく、右から飲んで左から吐いている。ただ、とにかく勢いが強くて、まるで小川とは思えない渦を巻き、飛沫を上げた。
「水飲んでる」
「綺麗な水になったろう」
「わ。本当だ、凄い」
吹き出す水は、確かに小川の水と比べて透明に輝いていた。その水が濁った水と混じり、それをまた円柱の蟹が飲んで、より綺麗な水にして……ややもすると、近場の小川の水は透き通るようになった。
「鉱毒を除去する機械だよ。まだ試作品だがね──よし、成功だ。きちんと分離もできているよ。ああ何だ、精錬用の廃液も分解次第で再利用できそうだな……まあ、分析は後で良いか」
そうしてにとりは機械を止めて、円柱の蟹を引き揚げた。もう円柱は足を引っ込めて、黙ってしまっていた。
小川はまだ完全に綺麗にはなっていなかった。私の居る周りの石ころは、玉砂利のように綺麗になったけれど、少し下流を見ればやはり赤茶けて淀んだ色をしていた。透明になった水も、また周りの濁った水に侵食されて、元と変わらない淀んだ色に戻った。
この機械は、やたらとエネルギイを食うのだ、とにとりは言った。今日この実験をするだけで、ひと月くらい谷川の水車を回さなければならない程大食らいなのだそうだ。まあ冥界の亡霊のお嬢様みたいなものだ、と彼女はよく解らない事を言って、また元の通りに機械を分解してしまった。
来た時のように荷造りを終え、谷川へ戻ろうかという時である。荷物を担ごうとした私を、にとりは真面目な顔をして呼び止めた。
「土蜘蛛」
「へ、え、はいっ」
「……その、そのな」
少し俯きがちになり、指を絡めてもじもじとしている。そうして左足でのの字を書いたりして、ちらちらと上目遣いでこちらを見た。
こんなにとりを、私は初めて見たような気がした。記憶の中にだって無い。何か、企んでいるのだろうか。それにしては困っているような。いや、けれど。私はどう反応すべきか逡巡した。
耐え難い沈黙が続き、もう降参しようとばかりに私から声を発しようとした刹那。
にとりは、私に向かって深く頭を下げた。
「これまで、御免」
「えっ……へえっ」
ぴしりと、綺麗な直角でにとりは頭を下げ続けた。想像だにしなかった行動に、私の思考はもうまるで混乱した。何か言葉を返そうと思うのだが、どうにも上手い言葉が見付からず、何とも上手く声を出せない。
仕方が無いからキスメのやるように、私はあわあわとして手振りで何事か伝えようと頑張った。けれど何を伝えれば良いのか解らないので、結果よく解らない変梃な踊りになった。
ちらちらと、盗み見るようなにとりの視線を感じて、顔から火が出る思いをした。
◇◇◇◇◇◇
私達は一旦荷物を置き、今は誰も居ない穴蔵の生活空間で少し休んで帰る事にした。以前私が母と棲んでいた所であったが、今はもう様子も違い、小さな椅子と机がぽつんと置かれた休憩所みたくなっていた。石炭ストオヴだけは残されていたので、それで暖を取ることにした。
「排気は大丈夫なのかい」
「これ昔使っていたやつだから大丈夫だよ。管が出入口まで伸びているの」
こんこんと、出口へ伸びる管を叩いた。くぐもった音がしなかったので、今も生きていると考えて間違いは無さそうであった。
少しばかり落ち着いてから、にとりは荷物から水筒を取り出して二人分のコップに中身を注いだ。爽やかな土の息吹がほのかに香る、生姜湯である。汗で冷えた体には有り難い。底に沈んだ胡瓜の輪切りは見なかった事にした。
そうして彼女は、これまでの山の事を教えてくれた。
谷川の人間が死んで、私達土蜘蛛が河童に追われてちりぢりになった後。デモンストレイシヨン活動を決行した若年層の河童を中心に、土蜘蛛の穴蔵の有効活用が行なわれたという。といっても結局は土蜘蛛が居た頃と変わらず、鉱物資源の採掘を目的とした。
様々な道具を作ることの出来る河童達であれば、土蜘蛛よりももっと上手く、効率的に採掘が出来るに違いない。成程それは確かだったようで、鉱物の流通は土蜘蛛が居なくなっても変わらず、河童の技術を十分満たすだけの資源が得られた。そればかりか深山に棲む天狗にも流通できる程に採掘技術は発達し、鉱山成金のような輩まで出始めて、多くの河童がこの辺りに棲むようになったという。
にとりは、相変わらず谷川に棲んでいたらしい。成金なぞ趣味ではなかったし、それより様々な工作をして実験するのが、充実した河童的生活なのだとか。技術莫迦の彼女らしい考え方である。
ともあれ、そうして谷川にも滝向こうにも河童の領地が広がって間も無く。まずにとりを始めとする谷川の河童が、その異常に気付いた。
谷川の水が、少しばかり「からい」のだという。水質は河童よりも、そこに棲む魚の方がよく解るようで、昔に比べて川魚も元気が無くなり、捕れたての奴でさえ新鮮な感じがしない。そうして見れば、灌漑して広げた胡瓜畑も、以前に比べて少しばかり妙な臭いがして、育ちも悪くなった。
上流から何か流れてきている。そう考えたにとりは、一人で調査に向かい、ここの惨状を知ったのだそうだ。
まるで見境無しに掘り崩された採掘場。鉱石を磨ぐ泥水で薄汚れた小川。引っ切り無しにもうもうと吐き出される排煙。打ち捨てられた廃液だの精錬灰。
酷いものであったらしい。谷川に至るまでに、廃液などは河原の砂で幾らか濾過されたから、にとりの住処あたりではまだ「からい」程度に薄まってくれたのだろう。けれどこのあたりの川は、もう完全に毒だったという。
ここいらに移り棲んだ河童達は、そんな毒水を平気で生活用水に使っていた。そうして皆虚ろな目をして、採掘ばかりに精を出す、亡者のごとき廃妖怪ばかりになっていた。
既にもう、若年層の河童の幾人もが、毒にやられて命を落としていた。それでも採掘は閉鎖される事無く続けられた。ここの河童達には、そんな単純な誤ちにさえ気付かない程、冒されているらしかった。
にとりは大いに責任を感じ、谷川の連中に訳を伝えて、鉱物利用の規制をした。そうしてまた谷川の河童の重鎮を二、三人連れて、大天狗と会談の場を設けたりもした。それもこれも皆、鉱物の流通規制から採掘規制を促し、これ以上谷川が荒らされるのを防ぐためであった。
実際はそんな程度で採掘が止む事など無いのが道理だが、技術しか知らない河童には、そうして天狗にでもすがるしかない程恐るべき状況であった。
幸いにも天狗は事情通だし、大妖怪たる天魔は聡明であったから、もうずっと以前から穴蔵に移り棲んだ河童に対し、より直接的な規制をかけていた。採掘をする河童は、資源の豊富な鉱脈を求めて妖怪の山山中を得手勝手に掘り返したため、そちらから優先して対処していたそうだ。ただ彼女の見た滝向こうの採掘場は、かつて土蜘蛛の穴蔵であり、採掘のルウツでもあったため、規制に一番手間取る場所なのであった。
しかしそれだけで谷川の河童の重鎮達は安堵し、住処へと帰った──これが、つい二、三季前の話である。
けれどにとりは、それから幾月もの間、川魚も畑の胡瓜も食えなくなってしまった。食はずっと細くなり、たまにふらりと山奥に入っては、硬い団栗だの酸っぱい木の実を食った。思考も虚ろになって、工作もまるで出来なくなってしまった。
その幾月かの間中、ずっと彼女は苦しめられた。減退した食欲ばかりに苦しめられたのではない。これでは、何の理由で土蜘蛛を追い出してしまったのか。まるで彼らと同じ──いや、彼らよりもなお、悪辣ではないか。そうした悲痛な思いにこそ、彼女の心は苦しめられたのである。
しばらくすると、滝向こうの採掘場も、数人の河童が出稼ぎに採掘をする程度まで規制された。だからそれまでのように、汚染が異常に広がるような事は無くなった。けれども汚染された川も、土壌も、まるで変わらず放置されていた。もう土蜘蛛の穴蔵付近にある小川には、長い事生物は棲んでいなかった。
それに出稼ぎの河童のする採掘が、前に増して酷いらしかった。鉱山成金の夢が潰えたためか、手広くやらなくなった代わりに、まるで鼻糞でも穿りながら片手間にするように、毒を垂れ流して採掘するのだ。汚染の広がりは小規模なものの、土蜘蛛の穴蔵あたりの毒成分は日増しに強くなるようだった。川や、土壌ばかりではない。大気さえもそこを中心として汚染された。
どうにかして、元の谷川を戻す事は出来ないか。土蜘蛛の穴蔵を、元に戻す事は出来ないか。にとりは、寝ても覚めても、ずっとそればかりを考えていた。
そうして考えて考えて、今日ようやく──鉱毒を除去する機械の試作機を完成させたのであった。
「私はあの人間の死を、ずっとあんたら土蜘蛛のせいにしていた。だけれどこれではっきりした。何も土蜘蛛のせいばかりじゃあない。私も、私ら河童も悪かったんだ。あんたらには済まない事をした」
にとりは机に肘を突き指を絡めて、伏し目がちにそう話した。私は、随分色々な事があったものだと思い、言葉には直さず深い溜息を吐いた。
「呆れただろうね。あんたらの土地を掠め取ったうえに、この為体だ。今にして思えば、むしろ土蜘蛛の方が余程大事に鉱山を扱っていたろうと思う」
「ああいや。土地の事はもう、どうでも良いんだ。それよりもにとりの、壮絶な暮らしに吃驚して。だってそうじゃない。今がどうだって、人間を殺してしまったのは、私達なのに変わりは無いんだ。それだのに、何故にとりはそうまで苦しんだの。それににとりなら、何処にだって移り棲めるではない。何故にとりはそんな苦境に居続けるの」
むしろにとりは、感謝されるべきだ。ずうっと、より良い山の生活を求めて工作と実験をしていた。あの人間が死んだ時に、死に水を取ってやったのも彼女だ。河童のデモンストレイシヨン活動にだって、彼女は参加していなかった。土蜘蛛の穴蔵だって荒らしていない。どころか、現状を憂えて天狗と会談したり、鉱毒を除去する機械まで作ったり。そんな彼女が、苦しんだり恨まれたりして良いものか。
私なんて、逃げてばかりだ。あの時は地底に逃げた。彼女が苦しんでいた頃、私は山での思い出から逃れて、地底でのうのうとしていた。彼女がこうして私を誘ってくれた時だって、逃げようとしたんだ。まあだからといって、私も苦しんだり恨まれたりするのは厭なのだけれど。しかし、にとりがその肩代わりをして、私にさえ謝るのなんて間違っている、気がする。まあだからといって、にとりに嫌われたままなのはとても悲しいのだけれど。
にとりは頭を振って、続けた。
「違う。違うよ、そうじゃあないんだ。彼を殺してしまったのは、やはり河童のせいでもなければならない。そうでないと、私の仮説が崩れてしまうよ。
つまりね、こうなんだ。彼が谷川へやって来て、土木を中心に私達河童や土蜘蛛へ技術提供をしてくれた。それから私達は、釣り具だの採鉱道具といった細工から、発破だの灌漑耕作といった大工が出来るまでに技術が進歩した。道具だって大掛かりなものをどんどん作った。鉱物資源さえもまるで湯か水のようにじゃぶじゃぶ使った。あんたら土蜘蛛はそれに、十分応えてくれた。それまでの二倍も三倍も多くの鉱物資源を提供してくれたじゃあないか。
それでもあの頃、少なくとも私は谷川の水がからい、だなんて気付きもしなかった。あんたらは最大限、山や谷川に優しい方法で採掘をしてくれていたんだと思う。全く不幸な事には、それでもひ弱な人間には耐えられなくて、死んでしまったんだ。原因は鉱毒による中毒死。元凶は土蜘蛛の穴蔵。理由は土蜘蛛の出す廃液だの廃材からの流出。だから悪いのは土蜘蛛──けれどそれには大前提として、河童が土蜘蛛に無茶を促したというのがあって然るべきなんだ。それが私の仮説だ」
そうして渇いた喉を潤すように、にとりは生姜湯を飲み干した。胡瓜は食べないところを見ると、飾り付けのようなものかも知れない。
「あんたらが居なくなってから、先刻の通り採掘は河童が継いだ。仕組みさえ判っていれば、何とかなるものだったみたいだ。けれどそれからすぐ、谷川の水はからくなったんだ。天狗にも流通させたから多少は手広くやっていたけれど、それでも土蜘蛛の使っていた分を流した程度だし、採掘の場だって山中に広がったのに、だ。
こと採掘に関しては、元から金掘り衆であった土蜘蛛に、河童は遠く及ばなかったんだよ。あの人間が死んでからは、真新しい技術も無かったから、技術開発は少しばかり緩やかになって、鉱物資源を浪費するような事は無くなった。それでも見ての通り山は荒れた。彼の死んだ時の比じゃあない。実際あんたらは、よくやってくれていたのだと思う。それなのに私らは、技術の進歩にかまけて、少しばかり良い気になっていたんだ。
今日やった実験も、ある意味でそれを証明するためのものさ。今このあたりの小川は、妖怪さえ死んでしまう程の鉱毒に汚染されている。これは私ら河童がやったんだ。……皮肉なもんさ。より良い山の生活を求める技術開発が、間接的に住処を汚すなんてね。私ら河童は、こんな罪深い事をしていたんだ。そうして私らは、土蜘蛛にこんな事をさせるよう間接的に働きかけていたんだと、はっきり証明された」
また二人分の生姜湯をとくとく注ぎ、にとりは話を続けた。
「けれどもね、そんな事はここ二、三季で考えて行動した事さ。人間が死んでしばらくは、彼の事ばかりずっと納得できずに居たものだから。何故彼が死ななければいけなかったのか、まるで理解出来ないのだもの。死んだ理由は道理さ。けれど死ななければいけない理由なんて、道理じゃ全く説明付かないんだ。今でもやはり説明は付かない。だから私は、ずっと許せないで居るんだ、色々な事に。
でも、でもね。あんたら土蜘蛛に八つ当りしちゃあ、いけなかった。いけない事をしたなら、謝るのが正しいんだ。だから、だから。今まで悪い事をして、御免なさい」
席を立ち、またもぴしりと綺麗な直角で頭を下げるにとり。
「──許しちゃ、くれないよね。だからこれは、私がしたくて謝るんだ。御免。本当に御免」
「そんな、そんな事」
何だろう。にとりは私の気持ちを違う、と言って丁寧に答えてくれた。そうしてまた謝ったのだけれど──それこそ、違う。私はそんな事に疑問を抱いたのではない。もっと、もっと単純な事なのだ。
土地の事なんて、もうどうでも良い。それは勿論、彼女にとっては死活問題なのだろうけれど。薄情かも知れないけれど、私にはもう、過去の事である。同じように土蜘蛛の事だってそうだ。そもそも私は母とすら希薄であったから、自分が土蜘蛛である事さえ、他者から言われて、ああそうだったな、と思う程度なのだ。私はもう既に、土蜘蛛に仲間意識さえ持っていなかった。
私にあったのは、あの人間と、にとりだったのだから。
「違う、違うんだよにとり。にとりが謝る事なんて、何も無いんだ。その、うまく言えないのだけれど、土蜘蛛がよくやってくれたと言うのなら、にとりもよくやってくれたんだから。石ころや水を食べて綺麗にする掃除道具なんて、そりゃあもう本当に凄いよ。にとりばかりが悪くないのに、にとりは山を元通りにしようとしているんだ。もういけない事なんて何も無いじゃないか」
思わず私はにとりの肩を掴んで、必死に説明をした。今自分の姿は、彼女にどう映っているのだろう。きっともう大慌てで、阿呆の子よろしくがちがちとして見えるに違いない。彼女の顔に唾が飛んでいないかだけが心配である。
「今の荒れてしまった山が悲しくて、ずっと苦しんでいたのだよね。にとりが何とかしなけりゃあいけないって、それで谷川を離れずに、頑張っていたのだろう。もうそれで良いんだ、きっと正しいんだよ。正しいにとりが謝る事なんて何も無いんだ。だから、ええと、にとりはもっと明るく楽しく、堂々と居れば良いと思うよ。先刻の道具も、もう少しもすれば完成なんだろう。そうしたらもう、にとりは色々な事を許せるようになるのじゃあないか。だから谷川にずっと居たのじゃあないか」
「ああ──うん、そうかも知れない。そうして私は全て背負い込んだ、のかも知れないな。全く自分では実感が湧かないけれどね。そうしたらもう、全てを許せるのだろうか」
少しばかり遠い目をするにとりに、私は何だか無性に悲しさを覚えた。彼女の今までしてきた苦労は、一体どれ程であったろう。私と同じように孤独であった彼女を、今は何が支えているのだろう。そうして生きて生きて、ここまで来た彼女の心は、どれ程疲弊してしまったろう。私が逃げてばかりいたが為に、彼女のその苦衷の片鱗にさえ気付いてやれなかった事が悔まれてならず、ただ悲しかった。
「……けれども、私がここに居るのは、そればかりではないよ」
「そう、なの。家族でも出来たのかい」
「はは、莫迦言っちゃあいけない。けれどそうだねえ、もっと莫迦な話だねえ。無い物ねだりさ。私はもうずっと──元通りにしたかったんだ。あの人間と、あんたと居た頃に」
何気ない一言だったろうと思う。その言葉は私の胸を、いとも容易く突き通して流れた。凛とした、心地良い涙色の風のようであった。
「アッ、土蜘──ヤマメ、大丈夫かい」
言われて気付くと、私はその場にへたり込んでしまっていた。立とうにも腰が砕けて、足が動かない。けれどそんな事、今の私には全く些細な事であった。
私と、にとりと、人間。今私の頭には、あの頃の記憶が、音も無く湧き立つ青雲のように、爽やかに甦るのであった。
「あ。あは、御免。何だか嬉しいんだよ。嬉しくてつい、腰が抜けちゃって。……あはは、おかしい。おかしいなあ。御免、涙、止まらないや」
「嬉しいのにかい。難儀だねえ。けれどまあ、何だか私も嬉しいね、こうしてヤマメの顔を見ていると。いや恥ずかしいかしらん。」
「何恥ずかしいって」
「怒っちゃあいけないよ、つい夢物語を語っちまったっていう、こっちの話さ。本当はね、嬉しいのが半分で、悲しいのが半分だ。嬉しいのは今言っちゃったからもう言わない。悲しいのは、あの人間が居ない事だ」
にとりは屈んで私の肩に手を置いた。嬉しい表情と、悲しい表情。それが混じると、顔というのはこうも、優しくなるのだろうか。
「そういえばこれも謝らなければいけないなあ……私はヤマメに、あの人間の死に目に会わせてやれなかった。あの時はヤマメだって、河童の医者と調べてくれていたっていうのに。それから結局、そのまま離れ離れになっちまって。話してやるのも、もうずっと遅くなってしまった」
「謝る事なんて何も無いよ。それよりも、聞かせておくれよ。あの人間、最期はどうだったのかな。苦しみはしなかったかい」
「うん……彼は偏屈だったけれど、妙に印象に残る人間だったからね、最期だってよく覚えている。遺言もした。少しばかり長い話だから、また座って話そう」
そうして私はにとりに肩を借り、椅子に座り直した。生姜湯はもう冷めてしまっていたから、一息に飲み干して、三杯目を注いで貰った。
冷めた生姜湯は、慎しい香りを鼻に残して、胸にじんわりと沁み渡った。
◇◇◇◇◇◇
幻想風穴。
山での実験から数日後、にとりは私を尋ねて風穴に来た。キスメは丁度何処かに行ってしまったようで、私は危うく彼女のおっかなびっくり呼ぶ声を聞き漏らすところであった。
「そんな声じゃ聞こえないよう。もっとハッキリ呼んでくれなければいけないよ」
「やあ、だって鬼が居たら厭じゃん」
にとりは灼熱地獄の地獄鴉に用事があるらしく、私に案内を依頼した。山の神様を通して、隙間の大妖怪にも地底への侵入許可を得たらしいので、私としても断る理由は全く無かった。
どうでも良いが訪問許可ではなく侵入許可というところ、隙間の大妖怪というのは大変悪意に満ちた奴なのかも知れない。けれど何か視線を感じる気がして怖いので、黙っておいた。
「この前見せた河川用の浄水装置は試作機だったからね、運用機はもう少し大きくて数も多いんだ。まだ材料集めをしている段階だけれど、それを実稼働させるには、かなり膨大なエネルギイが必要だ」
妖怪の山での一件の後、私とにとりは無事に谷川へ戻った。彼女はこれからもずっと谷川で暮らして、山や川を綺麗にするのだという。件の浄水装置とやらが完成すれば、それも夢ではなかろう。きっと彼女は成し遂げるのに違いない、と私は思った。
にとりは戻るとすぐ、装置で得られた鉱毒の分析に取り掛かり、何やら難しい事を呟きながら設計図を引き直した。そうなった彼女には、もう私ですら口を挟めないのを重々承知していたので、生姜湯の礼を述べて風穴へと帰ることにした。帰りしな、にとりは私に、近々また地底を訪ねると約束した。
それが今日の事とは思っていなかったから、私には寝耳に水も良いところであった。何しろ私の知るところの技術莫迦となったにとりは、数日くらい平気で寝食を忘れるのだ。酷い時には、真白い設計図を掴んで干乾しみたくなった彼女を私が見付け、大慌てで看病した明くる朝、元気に目覚めていきなり道具を完成させもした。夢の中で完璧な理論を構築したとか言うものだから、感心する反面、もうこの子は色々と駄目だな、としみじみ思ったものである。
今日は健康的な顔をしていた。聞けばきちんと実験の解析を済ませたうえで、朝夕の食事もしたのだという。逆だろう、とは突っ込まない。むしろ大いなる第一歩と言えよう。妖怪は変わらぬものと思っていたが、私が地底で人気者などと称される程度に人付き合いをしているのと同じく、彼女も少しは変わったのかも知れない。
「それで噂の鴉かい。この前黒白の魔法使いを遣わせていたのは、それなんだね」
「うん、下調べに。石橋は叩いて渡るものさ。でもここからは私の仕事だ。虎穴に入らずんば虎子を得ず、てね」
噂では現在、地底のずっと奥の火焔地獄に棲む地獄鴉が、神様を飲み込んだらしい。何でも天道さえ造り出せるという話で、最近の旧都はもうずっとその話題で持ち切りなのであった。
全くの嘘っ八だからなのか、それとも面倒事になるのが厭なのか、鬼も地霊殿の主も口を閉ざしていた。山から帰ってこちら、旧都には行かなかったから私も事の次第はよく知らなかった。何故か時折様子を見に来たパルスィの、世間話に聞いた話である。
きっとまた莫迦にされているのだろうと思い、私は俄かにその噂を信用しなかった。けれどにとりがこうして来るぐらいである、噂は本当の事なのに違いない。
そういえばキスメに限らず、パルスィも今日は様子を見に来なかった。まあ、その方が気楽で良いのだけれど。
「これからは土壌や大気の浄化装置も作らなければいけない。水車で得られるエネルギイなんかじゃあ焼け石に水なんだ。だからまずは実際に地獄鴉に会って手懐けて、それから改めて山の神様に報告をね」
「面倒な話なんだねえ。鬼に頼めば一発じゃないかしらん」
「鬼はいけないよ。あいつら……あの方達には、まだ山に居た頃に散々弄られ……お世話になったものだから。出来れば二度と顔を見たく……ほら、何ていうかその、お互い昔の事は気まずいというか」
論理的でないにとりというのは、少し珍しい。まあしかし、彼女の気持ちも解る気はするのだ。もうずっと昔の事だが、鬼は一時期妖怪の山に君臨していた事がある。私も幼い頃に山で見かけたけれど、まあ横暴であった。といって暴力的な事を頻繁にやらかすのではなかったが、とにかく何かとはた迷惑な奴等には違い無かった。
地底に居る鬼の勇儀あたりは比較的付き合い易いと私は思うけれど、確かにそうでない鬼も居るには居るので、人付き合い……いや、鬼付き合いの久しい彼女からすれば、いずれ同じにしか見えないかも知れない。
「いやまあ。でも、じゃあ旧都を通るのはいけないね。鬼は大抵あすこに棲んでいるよ。地獄の深道の入口あたりに地霊殿へ迂回できる横穴があるから、少し遠回りだけれどそっち通ろう」
「おお、盟友っ」
「あは、調子の良いこと」
満面の笑顔で、がばと抱き付かれたものだから。少しばかり、心地良くて目頭がじいんとした。
それから地獄の深道に至るまで、私とにとりはしばらく他愛無い話をして歩いた。
風穴の地質は良質で、肌に塗って一刻もすればもちもちになるとか。旧都の方の土はもっと良くて、鉱物も意外と採れるとか。旧都で以前拳固ほどの金剛石を見つけて、さてこれを鬼が割れるか博打をしたら、勇儀が粉になるまで握り潰して大損だったとか。
泥化粧も良いけれど、胡瓜も肌がすべすべになって、後で美味しく食べられるとか。最適な胡瓜美容にと全自動胡瓜切り機を作ったら、近所の河童の爺さんが買っていって婿養子にわざとらしく褒められたとか。後で聞いたら調理器具だと思われていたとか。
そんな、割り方どうでも良い話をしては、面白可笑しく二人で笑った。私はやはり私で、にとりはやはりにとりで。時を経てなお、二人共そう変わらない事に、不思議な懐かしみを感じた。
他愛無い話はなお続いた。最近の面白い話が無くなれば、昔の話が語られた。
滝壷に落ちた私への看病は、全くの適当で暇潰しのお医者ごっこだったとか。流木と一緒に流された絶対に壊れない釣竿は、成程今なお壊れずに、巡り巡って何故か香霖堂という店で売られているとか。
この前案内し忘れたが、あの人間の胡瓜畑は今もまだ残っていて、今年もよく太った胡瓜が採れたとか。猪狩りそっちのけで作った罠場もまだ生きていて、この前河童の里に侵入した泥棒が全部の罠を総浚いしてぎったんぎたんにされたとか。
にとりの工房の瓦礫から、一本だけ不発の発破が見付かって、懐かしいから瓶詰めにしてあるとか。そういえばあの河童の医者は結局ノイロオゼになったけれど、果物籠ならぬ胡瓜籠を持って行ったら俄然元気になったとか。
やはり内容は割り方どうでも良いものであった。けれどそれは、それこそどうでも良いのである。私達は、昔の私達のことを覚えている。そうして私達は今、それを笑って話せる。それだけで私は、もう十分であった。
にとりは、ふいに呟いた。
「なあヤマメ。もし良かったらだけれど、山へ戻る気はないかい」
それはとても嬉しい提案であった。私も、もうずっと以前から思っている事だけれど、好んでこの地底へ逃げ隠れたわけではなかった。けれど。
「……うん。けれど私はもうここでの生活があるよ。棲めば都というけれど。私の居場所は、もうここなんだ」
「そう、か。御免、私らのせいで」
「ああ違う。そうネガチヴに取られては困るよ。ここには面白い奴が沢山居るんだ。生活にも困らない。むしろ、にとりもここに棲まないか勧めたいくらい」
「やあ、鬼が居るからな。私はちょっと」
苦い顔をして、にとりは笑った。ひくひくと笑って、言葉を失くした。
沈黙は、にとりからの言葉であった。それに私は、沈黙で答えた。こつ、こつと歩む足音は、二人の行く先まで響いた。
今度は私が、ぽつりと呟く番だと思った。
「とても嬉しいんだよ」
「何がだい」
「こうしてにとりと歩いて居られるのが」
「……恥ずかしい奴だなあ、もう」
向こうを向いたにとりの横顔には、朱が差して見えた。
「だって、私達は自由だよ」
「自由、って何がだい」
「こうしてにとりと歩いて居られるのが」
「ううん、漠然とした答えだから、まだ私には解らないね」
問答に答えられない子供みたく、にとりは腕組みをして難しそうにした。
「今だってこうして、地底で話をしながらぽつぽつ歩いているよ。これまでちっとも会わなかったのにさ。だから嬉しいよ」
「嬉しい、か。ヤマメはこうして私と居るのを、嬉しがってくれるんだな」
「そりゃあそうさ。それにこれから、いつだって会えるんだ。あの頃と一緒だ。にとりと仲直りしたんだもの、私はこれからも山へ遊びに行くよ。にとりも地底侵入の許可を貰ったんだろう、また昔みたく私のところへ遊びに来てよ」
「過去の確執にも縛られず、不可侵の約束事にも縛られない。成程、それで自由なんだな」
納得したように立ち止まるにとり。これだからこの子はもう。
私は二、三歩前に出て、にとりへ振り返った。
「また、今度谷川へ行っても良いかい」
「ああ──勿論、歓迎する。大歓迎さ」
「浄化装置とやらも作るのを手伝って良いかい」
「いつでも来ておくれ。いつだって待っているもの。──ああ、そうなんだ。今やっと、ヤマメの言った事が解った」
そんな割り方どうでも良いような、他愛無い話。
だけれど、心から嬉しそうな笑顔を、私に向けるものだから。とてもとても濃密な嬉しさが、胸にじいんと沁み渡った。
地獄の深道。
洞窟は次第に開けて、そこかしこに横穴と思しき岩陰が見られるようになった。すぐ向こうは旧都へ抜ける地獄の深道が、常闇の色をしてぽっかりと口を開けている。
「そら着いたよ。大きな縦穴の縁に沿って、あすこに三角の岩が見えるだろう。少し狭いけれど、そこの隙間をくぐれば別の地下洞窟に入るから、ずっと下って行けば地霊殿の横に出られる」
「やあ助かるね。けれど随分と狭そうだ。鞄は通るかしらん」
「ううん、用心しないと穴が開いてしまうかも知れないねえ」
「何、そんなら私が隙間を広げてやろう。そんなものは朝飯前の事だ」
「やあ助かるよ、勇……儀……」
鬼の両腕で、真裏からがっしりと抱え上げられたにとりは、ひゅい、と珍妙な声を上げて仰け反った。
「ハハハこやつめ、待ちくたびれる所だ。さあ河童、あんたも一緒に宴会をしよう」
「やややややや」
鬼の両腕の中で、にとりは手足を体ごと大振りにして、巨大魚よろしくぴちんぴちんとくねらせている。少し面白い。
鬼はもうほろ酔いなのか、ふやけた顔でよちよちと後ずさり、両腕をするりと解いて尻もちを突いた。にとりは顔からべしゃりと落ちると、もうそのまま手足をばたつかせ、瞬く間もなく私の後ろにぴったりと隠れた。
「ややや、やま、ヤマメ、こらこの嘘吐き。鬼居るじゃんかあ」
鼻水混じりのべたついた声をして、にとりが私に抗議した。随分と大人しい抗議だったので、思わずぷすり、と変な息を漏らしてしまった。
「や、ちが、違うんだよにとり、嘘なんかじゃあないよ。え、でも嘘。何でこんな所で飲んだくれているの勇儀」
「ハハハ。やあ負けた負けた。負けたら飲むんだ。おい河童、そうしたらまたひと勝負だ。ハハハ」
口の端からぱたぱたと酒を垂らしながら、鬼は杯をぐいと呷った。全く陽気に出来上がっていて、私の話なぞ聞きやしない。
「……こんな所で悪うござんしたあね土蜘蛛。さあっぱりした面してまあ、妬ましいったらっ」
突如こめかみに、ごりごりとした痛みが走って吃驚した。
「うひ、いやそういう意味じゃないたたたたたたた。こめかみに拳固は痛い」
「のったくったとまあ、どれだけ私を待たせるつもりよう。酒の肴も冷えっちまったわ。あんたも一緒に飲んで食って、片しなさいっ」
「ややっ、何だい橋姫も居るじゃあないか、待ち伏せだなええい畜生──ひゅいぃ」
「まあまあまあまあ河童よ河童、どっこ行こうってのさ、ええ。昔のよしみじゃあないかい、ほらお前も飲めハハハ」
やや遅れて深道から、寿司桶一杯の肴と一緒にキスメがぶうらぶうらと──何だ、これ。どうしてこうなった。
いやもう本当に訳が解らない。理解不能なまま、鬼はやたらとにとりに飲ませて、私はやたらとパルスィに呑まれて、四人の周りをキスメは楽しげにぶうらぶうらと揺れ回って。
そうして五人、いつしか腹の底から笑い合ったりなんかして。
私達は何て、嬉しくて自由なんだろう。
当初の目的も取り敢えず、そんな風にして私達は明けない宵を過ごしたのである。
◇◇◇◇◇◇
外ではもう秋蜩(ひぐらし)が鳴いていた。下流に向かい開けた河原は、日没の最後の一瞬、山吹色に輝いた。木々はゆらゆらとして、長く、長く影法師を伸ばした。
夏の夕暮れ。夜の帳の下りる前、落陽の刹那の輝きを見せたくて、ほの暗い小屋の戸を開けた。
見えているだろうか。聞こえているだろうか。通っているだろうか。薫っているだろうか。感じているだろうか。
貴方は、ここに光を灯してくれた。
やがて谷川の灯が消える。一つ。河原の石が色褪せて眠る。また一つ。
また、一つ。
蝋の最期のひとしずくまで燃やし尽くした人間は、いずれ鮮やかに彩られるべき言葉を遺して、その灯を静かに消した。
──にとり坊。ヤマメ坊と、いつまでも仲良くな。
物語を書かれますよね、貴方は。
それに失礼ながら、文体からは想像出来ないほど可愛らしいキャラ造形も良いなぁ。
とにかくヤマメとにとりが仲直り出来て良かった。本当に良かったです。
あと、パルスィのひねくれた優しさもグッドでした。
洞窟の中なのに眩しすぎて見えねえ……
土蜘蛛と河童の関係をよくぞここまで膨らませたものだなぁ、と感服する思いです。
あとは、やはりキャラ同士の会話が良かったですかね。
最後に誤字報告を。
>「守備良く」→「首尾良く」
>「彼岸の幽霊のお嬢様」→「冥界の亡霊のお嬢様」の方が誤解が少ないかと。
誤字報告有難う御座います。大変助かります。取り急ぎ修正させて頂きました。
珍味。。。美味いと良いなぁ。
会話、楽しんで頂けたようで良かったです。筆者が少々悪ノリはじめました。
洞窟は浪漫ですね。
映画。あまり映画鑑賞しない質なのでピンと来ませんが、もし楽しめて頂けたようであれば嬉しいです。
。。。核融合炉深部床面に張り巡らされた金網の発想はなかった。むしろ感服。
にとりがあれ程地下のエネルギーに拘った理由とか、
ヤマメとのわずかな掛け合いからこれだけの作品を仕上げられるとは