紅魔館の庭園には、今の時期、花を眺めるのにちょうど良い、私だけの特等席がある。
背もたれが緩くカーブした、四人掛けくらいの真っ白なベンチがそれだ。
と言っても、私が勝手に「自分だけの」と思っているだけだけど。
庭園の、色とりどりの薔薇が植えられた薔薇園の向こう側、芝生を背にした白いベンチからは、盛りを迎えた薔薇の花がよく見える。芝生の端に植えられたプラタナスがベンチを覆うようにぐっと枝葉を伸ばし、初夏のじりじりとした日差しから守ってくれる。その葉が揺れ動くたびにきらきらと木漏れ日が揺れて、ベンチに座って見上げると、重なり合った葉の隙間から白くちかちかと輝く日の光が見える。初夏の季節、この場所は庭園の中で最も贅沢な場所だった。
この季節になると、毎年私は白いベンチのペンキを塗り直す。
汚れもくすみもなく綺麗に塗り直した真っ白なベンチに座って、咲き誇る薔薇を眺めたいから。
庭師の特権で、そのベンチに一番初めに座るのは私だ。
塗り直したペンキがしっかり乾ききった頃、今年も一番にベンチに座った。
ペンキを塗った後は、乾いているのが分かっていても、何故かいつも恐る恐る座ってしまう。
その結果、ベンチの真ん中を陣取りながらも、妙に姿勢が良くなる。
膝に手を置いて、背筋をぴんと伸ばしたまま、目の前の薔薇園を眺めた。
薔薇の色は、お嬢様の好みに合わせて赤系統の深い色合いのものが多いけれど、私の趣味で橙や黄色や白、淡いピンクや薄紫の薔薇も植えている。この薔薇の配置を考えるのが一番楽しい。
薔薇園全体の色合いを考えて、毎年少しずつ違った色合いのものを植え足している。
薔薇の配置を考えるのは、新しいスペルカードを考えるときの感覚と似ている。
どちらも、互いに引き立て合う、鮮やかで美しい色合いを追求する点では一緒だ。
ぐぐっと腕を伸ばして、青空に向かって万歳をした。
よく晴れた日に、色とりどりの薔薇が咲く様を見るのは気分が良い。
自分が手塩にかけて咲かせたものだから、なおさらだ。
このままここで薔薇を眺めていたら、新しいスペルカードの案が浮かぶかもしれない。
鮮やかで艶やかで、良い香りがして、赤橙黄色白ピンク様々な色合いの薔薇が花開くイメージなんてどうだろう。このままイメージを膨らませて、形にしたい。こういうのは閃いたときにがっと作りこむのが肝心だ。今が仕事中じゃなければ、このまま没頭出来るのに……。
でも、照りつける西日が遮られたここは他より涼しくて、吹き抜ける風が気持ち良くて、このまま座り続けていたら、いつの間にか眠ってしまうかもしれない。そうしたら咲夜さんに怒られる。そうでなければ、庭園を飛び回る悪戯好きの妖精に良いように悪戯される。
もう少しだけゆっくりしたら、庭園の草むしりを再開しよう、そうしよう。
……と言いつつ、そのもう少しが長いのが、私の悪い癖だと自覚している。
少しペンキのにおいの残るベンチの背もたれに寄りかかって、時計台を眺めた。
16時20分を指している。良し、後10分だけ。と呟いて、目を閉じた。
美しい薔薇を目の前にして目を閉じる、というのもなかなかに贅沢なことだと思う。
背もたれに深く背中を預けて、ぐっと足を伸ばして俯いた。
頭の上からさわさわと葉の擦れる音が響いてくる。枝葉がゆったりと揺れ動く気配がする。
何だか気持ちが良いなぁと思ったら、自然と身体が傾いて、ベンチに寝そべった。
足を上げないのは、このまま寝ないぞ、という意思表示だ。
溢れ出る欲望を堰き止める最後の防波堤。靴を脱いで足を上げてしまったら、私は確実に寝る。
さわさわと揺れ動く葉や、軽やかな野鳥の鳴き声に交じって、子供の笑い声が聞こえてきた。
妖精の声。このまま目を閉じていたら、群れをなして悪戯されてしまうだろう。
それは困る、と高く澄んだ声に意識を集中していると、突然、ふつりと妖精の笑い声が消えた。
あれ? と思って薄く目を開けると、薔薇園の向こうから歩いてくる咲夜さんの姿が見えた。
まずい、と思って反射的に身体を起こしたけれど、起きて何が変わるわけでもなく、咲夜さんの表情は能面のように涼しいままで、すっと背筋が冷えた。
この強い日差しの中、咲夜さんの周りだけ確実に気温が下がっているに違いない。
冬の気配すら漂わせる冷え冷えとした双眸と目が合って、うっと喉の奥で呻いた。
「あ、あの! ちょっと待ってください」
「何」
とりあえず静止の言葉をかけると、咲夜さんは不機嫌そうな声を上げながらも立ち止まった。
良かった。止まってくれた。……けど、これからどうしよう?
何だかどうしようもない感じがひしひしするけど、だからといってここで怒られたくはない。
「えっと、あの」
「何よ」
「そ、そうだ! あのですね、ここは私のテリトリーなので、そこより先には来ちゃ駄目ですよ」
「は?」
ここ、とベンチの周りをぐるりと指差しながら口走った途端、盛大にしかめっ面をされた。
「何よそれ」
「え、えーと、このベンチは薔薇園を見渡せる特等席なんです。だから私だけの特別な場所って言うか、まぁ、私がそう思ってるだけなんですけど……」
「……ふぅん」
しかめっ面のままそう言うと、咲夜さんはこちらへつかつかと歩み寄り、私が、ひゃああ! と全身の毛を逆立てたところで太股に忍ばせたナイフを抜き取った。――まさか投げられる? と身構えた瞬間、すっと音もなく腕が動き、小気味良い音を立てて足元にナイフが突き刺さった。
「これでここは私の領地」
驚きと恐怖で身体が竦んでいる私に声高に宣言すると、咲夜さんは制止する間もなくずんずん大股で歩いてきて、私の隣に腰を下ろした。
「……確かに、ここからの眺めは良いわね」
「え? え、えぇ」
何? 普通に話しかけられたけど、咲夜さん、怒ってない?
でもナイフ投げられたし……って言うか私の領地ってどういうこと?
何これ、私、侵略されたの? ベンチを略奪されたの?
地面にナイフは刺さったまんまだし。抜き取る気配もないし。
って言うか本当に怒ってないの? それとも怒ってるの……?
あぁ、もう、どっち? と、動揺している中で言われて、つい生返事をしてしまった。
「良いわね、ここ。薔薇も良く見えるし、木陰だから涼しいし」
「あ……ですよね。だから毎年この季節はここでゆっくりするんですよ」
「そうなの。まぁ、だからと言って勤務中に眠るのは如何なものかと思うけどね?」
「すいません。それについては謝ります……」
少し意地悪な口調で窘めてきた咲夜さんから視線を外しつつ謝ると、微かに笑う気配があった。
その気配にはっとして視線を戻すと、咲夜さんはちょうど立ち上がるところだった。
「あれ? もう行っちゃうんですか」
怒られる、と身構えていた分、やや拍子抜けしてしまって、つい尋ねてしまった。
「このまま座ってると何だか長居しそうだしね。館に飾る花が欲しいの。適当に選ぶから、後は貴女が見繕ってくれる?」
「あ、はい! 分かりました」
そうか、花か。と私も立ち上がり、歩き出した咲夜さんの後を追う。
立ち上がる瞬間、地面に深々と刺さったナイフが目に入った。
このままにしておくのはもったいない、よく磨かれた銀のナイフ。
「あの、咲夜さん、ナイフは?」
「あぁ、言ったでしょ? ここはこれから私の領地って」
「え……じゃあ、あのまま?」
「えぇ、そのうちまた来るから。ま、そのときはお菓子くらいは持参してあげるわよ」
「お菓子ですか? え、うーん……それなら、まぁ、そのままでも良いかなぁ、なんて」
「現金ねぇ」
「いきなり侵略する人には言われたくないですよ」
木陰から日向に戻ると、強い日差しが肌を焼く。黄金色の輝きを強めた西日が暑い。
途端にベンチが恋しくなって振り返ると、不自然に突き刺さったナイフが木漏れ日に光っていた。
秘密の、私だけの特等席に傷をつけたものにも関わらず、何故か不快感はない。
くるりと前に向き直って、
「お菓子は冷たいババロアが良いです」
と咲夜さんの背中へ声をかけると、咲夜さんはちらりと振り返って、
「考えとく」
と短く答えた。私は満足して微笑む。
滑らかでひんやりとしたババロアを想像すると、自然と足取りが軽くなる。
普段、手を抜いているわけじゃないけど、今日はいつもより、じっくり丁寧に花を選ぼう。
せっかくだし、盛りのうちに薔薇も何本か持って行ってもらおうかな。
花の量も、少しくらいなら奮発しても良いかもしれない。
きっと、明日のおやつは、特製のババロアに違いないから――。
次作を期待しております。
鎌倉文学館の薔薇、もし写真に収めているのなら、あなたの感性だとどのような
アングルで撮られるのか気になるところです。
最後に、瀟洒なんだか不器用なんだか、はたまた単に子供じみているのか判別し難い
愛情表現をする咲夜さんが、私は好きだ。
森の中に秘密基地を作って枯葉を大量に集めてソファーとか作ってました。
後日森林管理の人に片付けられていて涙目でしたw