嫌な音がした。
骨の砕ける感触があった。
紅魔館の庭に咲夜さんが転がっていた。
今日は久しぶりに組み手に付き合ってもらえたから、嬉しかったし、張り切った。
咲夜さんは相変わらず強く、昔どおりの実力者であることが窺えた。
咲夜さんなら、これぐらいは避けると思った。軽く受けると思った。
油断。
怠慢。
甘え。
紅魔館の紅美鈴といえば武術の達人として知られた存在だと自負している。ただでさえ、妖怪である私の膂力は人間のそれを大きくこえる。
そんな私の手加減なしの膝蹴りに対して、咲夜さんは反応が遅れた。その咲夜さんに対して、私は判断が遅れた。
その結果、寸止めも威力を減ずる処置もできないまま無防備な脇腹を打ち、咲夜さんの体が崩れ落ちた。
殺した。
そう、直感した。
私は殺す事に愉悦を覚えるほど悪趣味ではない。また、人間が好き。
でもそれは、人間が他の人間に対して想うようなものではないと思う。
だから、大抵の人間が相手なら、手合わせ中の事故で殺したとしても取り乱したりはしない。
相手がただの人間なら。
しかし、目の前に倒れているのは咲夜さんだ。
三十年ほど一つ屋根の下で暮らしてきた咲夜さんなのだ。
私は平静ではいられなかった。
状況を正確に把握する――という武術家として当たり前のことを失念してしまうくらいに。
呆然と立ち尽くす。
そんな私の目の前で。咲夜さんは立ち上がっていた――平然と。
何事もなかったかのように。若い頃と変らない凛とした立ち姿で。
「はぁ、四十も越えるともうおばさんねぇ。美鈴の打撃をまともに喰らうなんて」
そういって、脇腹のあたりをさする。
メイド服についていたはずの血の染みは消えていた。
多分、時を止めて着替えてきたのだと思う。シャワーすら浴びてきたのかもしれない。
怪物。
私が紅魔館に来たとき、お嬢様はまだあどけなさの残る咲夜さんをそう評していた。
そのときは冗談だと思って聞いていたけれど、翌日にはそれがまったく誇張されていない表現だと理解した。
そして、いま、改めて思う。
ほんと、怪物だ。怪物でよかった……。
しかし、だからといって無事であるはずもない。
幾ら咲夜さんが規格外な存在であっても、肉体はただの人間だし、私の感じた手応えは本物だった。
人間なら生きているはずがない、と思えるほどに確かな手応えだった。
咲夜さんといえどもアバラが何本か砕けているはず。
「あの、咲夜さん。無理はしないほうがいいと思いますよ。アバラが砕けてちゃ、呼吸だって苦しいでしょうに」
「そうねぇ」咲夜さんは至極呑気に答える。
「さっきから息を吸うたびに変な音と痛みがするわ。さすがにきついわねぇ。ちょっと永琳に診てもらってくるから、悪いけれど、お嬢様に伝えておいて貰えるかしら?」
「それは構いませんけど。あの、連れていってあげましょうか?」
心配する私に、優しく微笑んで。
「大丈夫よ。これぐらい」
いつもとなんら変らず湖上へと飛び出していった。
やっぱり、人間じゃない――そう思った。
咲夜さんが飛んでいくのをしばらく眺めたあと、「緊急」と判断した私は、寝ていたお嬢様を起し報告をした。
パジャマのままベッドに腰掛けたお嬢様は、一通り私の話を聞くと、目を細め宙の一点を凝視する。
お嬢様の口角が徐々に上がっていく。
「わかった。報告ご苦労さん」
言い終わるやいなやお嬢様はついに笑い始めた。
楽しくて楽しくてしかたがない、そんな笑い方。
お嬢様の様子を怪訝に思いながら、私は門番に戻った。
紅魔館の外はまだ陽も高く雲ひとつない晴天で、本来なら鼻歌の一つもでそうなぐらいに心地よいお天気だけど、私の気分は沈んでいた。
しかし、門番という職務を全うするためにもいつまでも沈んではいられない。
いくら平和な幻想郷といったって、いついかなる危急が紅魔館を襲ってくるのかわからないのだから。
昔、誓った。紅魔館を、幻想郷を、私が護る。そのために強くなる。
その誓いは単なる妄想ではない。
手にぐっと力をいれ、背筋をピンと伸ばし、自分のふがいなさを追い出しにかかる。丹田に気を集めていく。
でも結局、体からは力が抜け、気が抜けていった。
どうも、ビッとすることができなかった。
結果として、咲夜さんは怪我で済んだけれど、殺していても不思議はなかったから。
その動揺が邪魔をしていた。
もう一度、丹田に気を集めようと大きく息を吸おうとしたそのとき、着替えの済んだお嬢様が声をかけてきた。
「咲夜の様子を見てくるから、留守番を宜しくね」
そういって、お嬢様はメイドを三人連れて永遠亭へと飛び立つ。
わくわくした様子を隠しもしないお嬢様だけれど、なんだかんだと言っても咲夜さんが心配らしい。
そこに安心感を覚えつつ、楽しげに飛んでいくお嬢様を見送った。
そして、もう一度、自分自身の心を整える。足を踏ん張り、腹に意識を集中して、ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。
心身一如。心の乱れは体の崩れとして出る。動作のブレとして出る。その逆も真。体を整え、動作のブレをなくせば、心は平常心を取り戻す。
私は、何度も何度も自分の心が整うまで、呼吸をし、気合を入れ、型を確かめていた。
そして、陽が沈みかけ空が赤く染まってきたころ、ようやく私も平常心を取り戻した。
落ち着いてみれば、動揺していた自分が恥ずかしくなる。
ようやく門番業務に意識を集中させると、湖の向こうに大きな羽をばたつかせて帰ってくるお嬢様が見えた。
お供のメイドは一人になっていたから、あとの二人は咲夜さんの世話においてきたのだろう。
お嬢様の影はどんどん私に近づいてくる。
そして、私の前に降り立つと――言った。
「咲夜をクビにしたから」
なんともあっさりと……髪切った? とか、夕食はハンバーグよ、とか言うような軽い口調だった。
私は理解できず数瞬固まっていたけれど、やっとのことで聞き返す。
「今なんと……」
「だ~か~ら~。さ、く、や、を、く、び、に、し、た、っていったのよ」
「はぁ……」
「そういうわけだから、咲夜の退職パーティーの準備を宜しくね。そうね……開催は咲夜の怪我が完治したとき。咲夜と知己のあった奴、少なくとも、幻想郷にいる奴は全部呼んでちょうだい。妖怪も人間も、あと冥界にいるやつらもね」
お嬢様は早口に指示をすると、鼻歌まじりで館に入っていく。
私はその後ろ姿をただ見送っていた。
お嬢様の言葉によって、平常心に戻した私の努力は一瞬にして台無し。
咲夜さんを、クビに? お嬢様が? ありえない。
いくら理不尽でわがままで自分勝手で気まぐれで、とにかく行き当たりばったりなお嬢様でもそれだけは考えられない。
それとも、やはり、咲夜さんは重症なのだろうか? あるいは何か後遺症が残るのだろうか?
お嬢様は咲夜さんを信頼しているはずだ。
少なくとも、紅魔館の昼、吸血鬼の苦手な昼を任せるぐらいには。
私が紅魔館に来たときには、すでに咲夜さんがメイド長をやっていたから、どういう経緯で紅魔館に来たのか知らない。
けれども、お嬢様に望まれたからこそ、紅魔館にいるということは間違いのないこと。
なのに、何故? 何故、お嬢様は咲夜さんをクビに?
考えても答えは出そうにない。ならば考えても仕方がない。
普段なら、そうやって思考を打ち切り、目の前のことに意識を戻すことができるけれど……。
納得がいかなければ先に進めない気もする。
お嬢様に直接聞けばいいのかもしれない。
でも……その前に。
ケアすべき人がいる。
私は門番という職務を放棄することに決めた。
もう日が暮れかかっているけれど永遠亭に向かった。
完全に日の暮れた永遠亭では、竹に囲まれた庭園で焚いた明かりに照らされ、咲夜さんが逆さ吊りにされていた。逆さ吊りになっていた。
お嬢様の考えていることは私にはよくわからないけれど、咲夜さんはもっとわからない。
人間との付き合いは昔から多かった私だけれど、咲夜さんほどの奇人を私は知らない。
霊夢も変っているし、魔理沙も変っている。早苗は――最初普通の人かと思ったけれど、気のせいだった。
そんな彼女らの数十倍、咲夜さんは変な人。
その奇人ぶりに説明はいらないと思う。
アバラが砕けていながら腹筋鍛えてるのを見れば、誰が見ても明らかなことなんじゃないかな。
そんな咲夜さんのそばに控え、ハラハラしながら見守っているメイドに声をかける。
「咲夜さんの怪我は?」
「あ、美鈴さん。実は、絶対安静だって永琳さんに言われてるのですけど……。メイド長……いえ、えと、咲夜さんが聞かなくって……」
咲夜さんがお嬢様以外の命令をまともに聞くはずもないけれど、医者の言う事くらいは聞いて欲しい。
そう思いながら詳しい状況をメイドから聞く。
アバラが砕けていて、再生は不可能。砕けた骨は既に永琳が除去した。幸いな事に内蔵には全く損傷がなかったため、傷そのものは大人しくさえしていればすぐに塞がる。何らかの後遺症が残る可能性は極めて低いということ。
あの状態からどうやって致命傷を防いだのか。その術には興味があるけれど、それはそのうち本人に聞いてみよう。詳しく説明してもらったところで、多分、単なる武術家の私には出来ない可能性が高いけれど。能力に依存しているかもしれないし、そうでなくても、極めて特殊で高度な技巧じゃないかと思うから。例えば、体の中に瞬時に結界を発動させるとか、内臓単位で防御するとか。霊夢でもできるかどうかわからないようなことをやりかねない人だし。
格闘の技巧において、咲夜さんと比することができるのは、紅魔館にはお嬢様しかいない。
お嬢さまは真正面から殴りあうような戦いを好むけれど、トリッキーな戦い方も好きで、意外と小細工もする。小細工といっても派手なものに限られるけれど、その技巧のレベルは非常に高く、強大な妖力を持たない私には盗めないような技も多い。そういった難度の高いことを自覚してやっているのかどうかは不明なんだけど。
そんなことより。
咲夜さんが重症でもなく、後遺症も残らないのなら、お嬢様が咲夜さんをクビにした理由が全く見当つかなくなってしまった。
お嬢様の考えをなんとか理解しようとつとめながら、咲夜さんの腹筋運動を眺める。
止めたいけれど、どうせやめないのだから。黙って見守る。
咲夜さんは一心不乱に運動を繰り返していた。
そんな咲夜さんの姿からは、短いスカートを器用に太ももに括りつけ下着が見えないようにしていることぐらいしか、人間の女性らしい部分は感じられない。
そんな人間っぽくない、女性っぽくない咲夜さんを、結局、半刻ほど縁側に座って眺めていた。
「美鈴、来てたの」
ようやく鍛錬を終えた咲夜さんが私の隣に座る。
「そんなことしてたら、治りが遅くなりますよ?」
咲夜さんの能力はご自身の治療にも有効なのかもしれないけれど。
「ん~、そうは言ってもねぇ。ほら、いつ戦闘になるかわかんないじゃない。だから、最低限の運動はしておかないと不安なのよ。それにね、永琳がアバラの人工骨を入れてくれるそうなんだけれど、作るのに一ヵ月はかかるんだって。だから、それまではアバラの代わりに、ね」
いいたいことはわかるような、わからないような、って、なんで腹筋がアバラの代わりになるのかよくわからないけれど、とりあえずこれだけはわかった。
咲夜さんは、バカ、だ。大バカだ。今さらって気もするけれど。特に紅霧異変前は過激だったからなぁ、この人。
あの頃の咲夜さんは凄く尖った人だった。決して冷たい人というわけではなかったけれど、必要以上に完璧であろうとしていた。
当時の私は、それが咲夜さんの天性だと、単にそういう人なんだと思っていた。
でも、今になってみれば、そうじゃなかったとわかる。
必死――だったのだ。
例えば、こんなことがあった。
当時は毎日のように二人で稽古をやっていたけれど、或る日、咲夜さんはかなづちをもって稽古にきた。
そして、組み手を始めようとしたとき、咲夜さんは自分の両脛をそのかなづちで叩き折った。
その折れた足で組み手をした。
不利な状況を作って、それを跳ね返す。
そういう訓練は、武術としては必要なこと。日本の居合い術なんかはその典型だと思う。相手が既に剣を抜き、構え、今にも斬りかからんとするそのとき、自分はまだ剣を抜いてもいない。そんな死地を逆転するべく練られた術。それが居合い。
だから、咲夜さんの場合も、武術の発想としては間違ってはいないのだけど。
ただ、度を越していた。
出血した両脛を意識せず、庇いもせず、闘う咲夜さんの姿には鬼気迫るものがあった。
あれは、多分、試していたのだと思う。
いざというとき、どんな状況にあろうと、全力でお嬢様方を守り抜く。
それだけの覚悟が自分にはあるということを。
人間の弱い体でお嬢様方のように無尽蔵な体力を持つ吸血鬼に仕えるというのは、やはり、尋常なことではないようで。
人間離れした才覚を持った咲夜さんにしても、余裕がなかったのだろう。
そして、今。骨折をものともせずに鍛錬をしていた咲夜さん。
やっぱり、お嬢様のためにやっているのだと思う。
あるいは、骨折で解雇を言い渡されたことに対する、反骨なのかもしれない。
年を重ねるにつれて丸くなった。そう言われる咲夜さんも、その心の奥底には若い頃と変わらない情熱を持ち続けているのだろう。
でも、そんな激しい行動に反して、咲夜さんの気は低調な流れを見せていた。
気落ちしている、というわけではないけれど、なんだろう? よくわからない。
困惑している、という感じかもしれない。
「それで、あの、咲夜さん。お嬢様から聞いたのですが……」
聞きづらい。
躊躇いながら聞く私に咲夜さんが少し語気を強める。
「今日は止めてくれるかしら」
聞けなかった。
「それより美鈴、お願いがあるのだけれど」
「なんでしょう?」
「着替えを何着か買ってきてくれないかしら。もうずっと私服なんて買ってなかったから……」
咲夜さんのセリフは後半が弱弱しかったけれど、なんとか聞き取れた。
動けるのなら、自分で買いに行く。そのほうが咲夜さんらしい気もするけれど、多分、紅魔館をクビになった自分が、紅魔館のメイド服で買い物に行く事は憚られると考えているのだろう。
お嬢様は頓着しないだろうけど、そんなことが気になるのは咲夜さんらしい。
「わかりました。明日、持ってきますね」
「よろしくね」
それだけいうと咲夜さんは奥へ入っていった。
咲夜さんのことは気になったけれど、紅魔館に戻ってきた。
門前にはメイドが立っていた。私が代わりに立っている様に頼んだ子だ。
「お嬢様が帰ってきたら顔を出すように、と仰っていました」
「あちゃー、怒ってた?」
「不機嫌ではないと思いますけれど、どうやって虐めてやろうか? ってぶつぶつ仰ってました」
「そう。んー、まぁ、仕方ないかぁ」
私は早速、お嬢様の部屋へ行きドアをノックする。
「入れ」
ドアをそっと開けながら、お嬢様を探す。お嬢様はご自身のベッドに腰掛けていた。
「ただいま帰ってまいりました」
「さて、美鈴。まずは言い分けをいいねぇ」
お嬢様の口からべらんめぇ調が飛び出すときは、ご機嫌なときだ。
安堵の溜息を堪えて質問に答える。
「咲夜さんが心配だったものですから」
「そう。それで、美鈴。この際はっきり聞いておくけれど。そのほうがお互いの為にだから。……不満?」
「いえ、その、不満とかそういうわけではないのですが……」
「じゃぁ、なに?」
困った。
「不安……でしょうか? 咲夜さんがいなくなれば館の業務にも差支えがでてくるでしょうし」
嘘ではないけれど、本当でもない――そんな答えに対して、お嬢様は小さく息を吐く。
「そう。……ねぇ、美鈴。お前は私の何?」
「はい。従者です」
「そうよね。それで、私のやることに文句があるの?」
「いえ、そのようなことは……」
「なら、黙ってみていねぇ」
お嬢様に黙ってみてろと言われれば、そうするしかない。けれど。
「あぁ、それと、門番よりもパーティーの準備を優先してくれていいから。門を離れるのに報告もいらない。好きにしてくれていい。あと、言い忘れていたけど、料理の準備はいらない。招待客の手配だけしっかりやってちょうだい」
言いたい事を一気に話してしまうと、お嬢様は、さがれ、と合図をした。
私は一礼して部屋を出てドアを閉める。
ベッドの上で跳ね回っているかのような音がドアの向こうから聞こえてきた。
翌日。
咲夜さんの服を人里で購入し届けに行く。
永遠亭に着くと、兎に混じって咲夜さんが掃除をしていた。廊下を雑巾がけしていた。
絶対安静――この言葉の意味を今一度考え直してもらいたい。
諦めてるけど。
その咲夜さんに声をかけると、掃除をやめて和室へと連れて行かれた。
畳の上に座り、服を渡す。
「ありがとう」
咲夜さんは包みを受け取るとすぐに服を取り出しサイズなんかを確かめていた。
私はそんな咲夜さんの様子を見ながら、気の流れを観測する。
ゆうべに比べると随分落ち着いているみたい。
そう思い、早速本題に入ろうと思って口を開きかけたとき、咲夜さんに先手を取られた。
「ねぇ、美鈴。輝夜が貸してくれたのだけど、この小説面白いのよ」
といって、卓袱台に置いてあった赤い表装の本を手に取り、私に見せてくる。
怪談っぽいタイトルの小説。
「特にこのヒロインが面白いわ」
そういって開いたページには、たくさんの筆記具らしきものと一緒に黒髪の少女の挿絵があった。
いけない。
咲夜さんのペースに最初から嵌ってる。咲夜さんは故意に話題をそらしてる。
なら、無理に話を聞くこともないけれど、でも、相談くらいには乗らせて欲しい。
咲夜さんは一通りそのヒロインと主人公の印象的なやりとりを語ると、また別の登場人物について語り始める。
「これ、吸血鬼も出てくるのよ。なかなか可愛らしいわよ?」
装丁を見る限り外の本みたいだけれど、輝夜はどうやって手に入れてるのだろう?
まぁ、うちの図書館にも外の本が流れてくるし、香霖堂でも売っていたりするし、早苗みたいな外来人が持ち込んできたのもあるけど。
そうだ、早苗に借りっ放しになってる漫画、返しにいかなきゃ。
……いまは全く関係ない。
そんなどうでもいいことを考えている間にも、咲夜さんは、とてもおぼえる気になんてなれない長ったらしい名前の吸血鬼と主人公のエピソードを語っていく。
咲夜さんが、どんなときでも本に夢中になれるタイプの人だ、ということを私は始めて知ったけれど、それも今は関係ない。
いや、それ以前に……。
卓袱台にはその赤い装丁の本が五冊積まれている。
そこそこ分厚い小説が五冊。
全部読んだのかな?
一晩で。
そうだとしたら。
そうだとしたら、つまりは、眠れなかったということか。
「お嬢様方以上に愛らしい吸血鬼なんていないけどね……」
間が、出来た。
その隙を逃さずに本題を切り出す。
「それで、咲夜さん。これからどうなさるのですか?」
話してくれればいいけれど。
もし、お嬢様に直訴するつもりなら、私も協力は惜しまないつもりでいるのだから。
「そうねぇ。まだこれから考えるけれど、とりあえずお嬢様には出て行けとは言われてないのよね。居座っちゃおうかしら」
「そういえば、クビにしたとしか私も聞いていないですね」
「でしょう? なら、今まで通り紅魔館に居ればいいんじゃないかって思うのよね。もちろん、お嬢様が出て行けと仰るのなら出て行くしかないのだけれど。今のところは出て行くつもりはないわ」
そういう咲夜さんの目は少し危ない気がした。流れている気からは過度な執着心すら感じとれた。
漫画で読んだヤンデレというやつかもしれない。
でも、それも仕方が無いと思う。
三十年以上もお嬢様のお傍に仕え、情熱の全てをお嬢様に注いできた。それが咲夜さんだから。
「でも、咲夜さん。解雇には抗議なさらなかったのですか?」
「だって、ねぇ。あんなに嬉しそうに解雇通知されたら、何も言えないわ」
お嬢様には不思議な魔力がある。
言うとおりにしてあげたいと思ってしまう。そういう魔力。魅力。その魅惑な雰囲気をカリスマと言ってしまうと、また違う気がするけれど。
満面の笑みで無邪気に、悪魔のくせに何の悪意もなく、裏もなく、打算もなく、真っ直ぐに命令されると、どんな理不尽な要求でも呑んであげたくなる。
私もそれを知っているから、咲夜さんがそういうのも理解は出来る。理解は出来るけど。
だからといって解雇通知に異論を唱えるぐらいはしてもいいと思う。
もちろん、お嬢様に絶対的な権限のあることだけど、それでも紅魔館は意見ひとつまともに言えないような主従関係ではないのだから。
私達は使い魔ではないのだから。
「それでね、まずは大人しくお嬢様の気が変るのを待つことにしたのよ。いつでも復帰できるように準備だけはしておくつもり。……話を戻すけれど」
気が変るのを待つ。
現実的な解決策だと思った。
お嬢様のことだから、下手に騒ぐとヘソをまげて余計に頑なになってしまうかもしれない。
なら、お嬢様の気まぐれに任せて暫く様子を見る、というのは正しい判断なのだろう。
咲夜さんは、どうやら私が思っていたよりも、冷静に状況を見極めていたみたい。
その咲夜さんは小説の話を自分勝手に続けていく。
読んだ事もない作品をそんなに語られても困るのだけれど、咲夜さんの気がまぎれるのなら別にいいと思った。
だから私は余計な口を挟まずに、ただ、それを聞いていた。
そして、くだらないことばかりを話して、紅魔館に帰った。
咲夜さんが怪我をしてから二週間がたった。
パーティーの準備を優先しろといわれても、日が決まらないと招待状も送れないので、ほぼ門番と庭弄りで過ごしていた。
毎日でも咲夜さんの見舞いに行きたいけど、メイドを二人も置いてきている以上、私が頻繁に顔を出しても迷惑だろう。
時々様子を見に行くだけに留めていた。
あそこには兎もいれば姫もいる。話し相手にも不自由しないはず。
それに、咲夜さんは十分に落ち着いたようにみえた。
なら、私がでしゃばらないほうが、いろいろ考えられていいんじゃないかとも思う。
気の変る気配を全くみせないお嬢様は、あれからずっと機嫌がいい。
昨日もこけたメイドに頭から紅茶をぶっかけられていたけど、お嬢様は怒らずノリ突っ込みを披露していた。
私も見たわけじゃなくて別のメイドに聞いただけだから、その状況でどんなノリ突っ込みをしたのかまではわからないけれど。
また、何度かご機嫌の理由をそれとなく伺ってみたけれど、にやにやするだけで教えてもらえなかった。
それならば、とパチュリー様にも話を聞きにいったけれど、あまり関心がないように見えた。
レミィのやりたいようにさせときゃいいのよ、とだけ言うと後は全く話を聞いてくれなかった。
そのとき、咲夜さんの小説話の中に出てきた『駿河問い』について質問してみたら、こっちは興味があったようで、実演を交えてじっくりと解説してくださった。
妹様は、お姉さまに「咲夜いらないんだったらちょうだい」って言ったけど「ダメ」って言われた、と仰っていた。
お嬢様は咲夜さんを手放すつもりはないのかもしれない。私はそう思うことにした。
今日も門の前に立つ。
ここのところ天気のいい日が多く、今日も湖の対岸がくっきりと浮かび上がっていた。湖の上では陽気にさそわれた妖精達が賑やかに飛び回っている。
そんな妖精達を眺めていると、一体の飛行魔法使いがこちらに向かってくるのが見えた。
侵入者? そう思い、身構えて待つ。
「いい天気ね」
目の前に降り立った侵入者は、愛想よく声をかけてきた。
愛想よく声をかけてきている時点で侵入者じゃないのかもしれないけれど、そんなことは知らない。
「アリスさん、いらっしゃい。侵入ですよね? それじゃ、いきます!」
「……訪問よ」
弾幕ごっこには付き合ってくれないらしい。憂さ晴らしに丁度いいと思ったのに。
「そうですか……残念! それで、御用は図書館のほうで?」
本当に残念だと大げさなジェスチャーで目一杯アピールすると、ほんの少し申しわけなさそうな、大部分は呆れちゃってるような、そんな顔をアリスが見せた。
弾幕ごっこに付き合ってくれないときは、多分、真面目な用件のとき。
「ん、今日はレミリアにね。咲夜が家を探してるっていうから、何があったのかと思って。ちょっと話でも聞こうかと」
「咲夜さんがですか?」
「そうよ。喧嘩でもしたのでしょうけれど。まぁ、何があったにせよ、このまま引越しに協力していいものかどうか……。咲夜に聞いてもよくわからなかったし」
「いえ、別に喧嘩したりはしてないのですが……」
「とりあえず、レミリアの言い分を聞きたいのよ。通してもらえるかしら?」
「そういうことでしたら。そこらのメイドに声をかけてくださればお嬢様につないでくれると思います」
「そう。ありがとう」
アリスが館内へと入っていった。
咲夜さんが家を探している?
私は、ほんとうに紅魔館に居候するつもりだろうと思っていたから、ちょっと意外だった。
咲夜さんといえば、お嬢様至上主義。
そんなことは、寺子屋でも「あいうえお」より先に教わるほどの常識で、もう病的にお嬢様の世話をしたがる人、だったはず。
それが、メイド長をクビになったとはいえ、お嬢様の世話をする権利を自ら放棄するなんて、私の想像を越えている。
少なくともこの間話したとき、咲夜さん自身は今後もお嬢様のそばにいるつもりだといっていた。
お嬢様がそれを認めるなら――という前提はあるけれど。
それに、お嬢様だって咲夜さんを追い出すつもりではなく、引退させるだけのおつもりかもしれない。
そうだとすれば、結局は今までと変らないのではないか、とも思っていたのだ。
なのに、今度は咲夜さんのほうが出て行くというのだからわからない。
なんだか眩しい太陽が疎ましい。
どうも今までの価値観だとかイメージだとかを否定されているような気持ちになる。
誰よりも重宝していたはずの従者を解雇にしたお嬢様。
誰よりも傍に居たがっていたはずの主の下を離れるという咲夜さん。
どちらも私にはありえない存在。
そんなことを考えながら湖上で戯れる妖精達を眺めていると、アリスが戻ってきた。
「はぁ……疲れるわ。レミリアのテンション、高すぎね。ルナサを常駐させるべきだわ」
そんなアリスの表情には、うんざりといった表現がぴったりくる。
とことん付き合ってきたんだろうなぁ、この人。ハイテンションすぎるお嬢様は、私達でも付き合いきれないのに……。
アリスが何をやらされてきたのかも気になるけど、それはあとでメイドにでも聞いておこう。
「すいません。お嬢様はここのところずっとあんな調子なんです。それで、あの、お嬢様はどういってました?」
「ん? あぁ、宜しくだって。レミリアも少しは大人になったのかしらねぇ? それとも咲夜のほうかしらね、大人になったのは。どっちにしてもトラブルではないみたいだし、安心して咲夜に協力してあげられるわ」
それだけいうとアリスは永遠亭に向かって飛んでいった。
咲夜さんが紅魔館を出て行くことをお嬢様も了承された。
解雇だから、出て行くのは当たり前のことかもしれないけれど。
お嬢様と咲夜さんの間にどのような変化が起きているのか私には全く想像がつかない。
想像が追いつかない、といったほうがいいかもしれない。
アリスの言うように、お嬢様や咲夜さんが大人になったということなら、私はまだ子供のまま、ということ?
ともかく、結局は今までどおりなんじゃないか? っていう私の楽観的な予測は外れていたみたい。
ただ、お嬢様は相変わらずご機嫌だし、咲夜さんもこないだ様子を見た限りでは問題ない。
私が心配するようなことではないのかもしれない。
今さらながらこの件に関しては傍観者以上になりえないことを悟った。
お嬢様や咲夜さんの考えている事がわからない以上、首をつっこんじゃいけない気がする。
きっかけを作ったのは私の不注意だったけど、どうやらそれは関係のないことみたいだし……。
まぁ、当分の間、私はすっきりしないまま過ごすことになるのだろうけど。
そして、さらに二週間ほど経過し、咲夜さんの怪我が治ると、咲夜さん退職パーティーが開かれた。
お嬢様は舞台に立ち挨拶をすると、新しいメイド長の紹介を始める。
お嬢様に呼ばれ舞台にあがったのは、真新しいメイド服を着た白狼天狗だった。
私はその白狼天狗に見覚えがあった。あのときの白狼天狗だった。
★★
お嬢様は日傘を投げ捨てた。
今は真昼間。晴天。
太陽が容赦なくお嬢様の肌を羽を焼いていく。
今日はお嬢様と妖怪の山に来ていた。お嬢様の戯れだった。
霊夢と魔理沙が新しい神様に殴りこみをかけたという記事を、お嬢様は読んだのだ。
そして、私に殴りこみをさせて、ご自身は高見の見物を決め込むつもりだったのだ。
私は順調に道中の妖精達を蹴散らし、秋の神様や厄神様を倒した。
霊夢たちは川にそって妖怪の山に向かったらしいけれど、当然、私たちは川から離れたルートを辿っていたから、河童には出くわさなかった。
山の麓に差し掛かり、飛び出してきた白狼天狗と戦い始めようとしたそのとき、お嬢様の「待った」が入った。
そして、白狼天狗とお嬢様がスペルカードを用いない決闘をすることになったのだ。
なんのことはない、白狼天狗もお嬢様と同じく戦闘バカだっただけのこと。
戦闘バカ同士が出会えば決闘になる。漫画でおなじみの展開。
白狼天狗が、ただの私闘とはいえ組織としてトラブルになっても困るというから、双方立会人を用意することになった。
お嬢様の立会人は私。白狼天狗の立会人は、私達もよく知っているからという理由で、射命丸文が呼ばれた。
そして、闘いを前に、お嬢様が日傘を投げ捨てたのだ。
二人は地上で対峙する。
自然体のまま立つお嬢様の体に闘気が漲っていく。
白狼天狗は腰を落とし、大陸風の盾と剣を構える。
「さぁ、はじめようか。すぐに終わらせてあげるよ」
「ふん、吸血鬼ふぜいがナマいうんじゃないよ」
白狼天狗の声は少し震えていた。重心もわずか踵のほうにズレている。腰がひけている。
その様子から、勝負は一瞬でつくということがはたで見ている私にもわかった。
経験の差が明らかだった。
まだ若いであろうその白狼天狗に、数々の死闘を乗り越えてきたお嬢様の相手は荷が重い。
だから、お嬢様が日傘を投げ捨てたときには度肝を抜かれたけれど、安心して見ていられた。
私は、勝負がつけばすぐに日傘を渡せばいいだけだった。
白狼天狗が、もし、ズルい奴だったら勝機もあったかもしれない。
しかし、白狼天狗は正直な奴で、時間稼ぎもせずに真っ直ぐ突っ込んできた。
その直線的な攻撃はそのまま致命的なミスとなった。
お嬢様はその素直な太刀筋を読み、振り下ろされた一の太刀を後ろにかわす。
反転、地を蹴り、白狼天狗の懐に潜りこむ。
一発目の蹴りで盾をはじくと、二発目の蹴りをこめかみに叩き込んだ。
二の太刀を繰り出す間を与えられず直撃を喰らった白狼天狗はその場に倒れ込んだ。
勝負あった。
そう思って駆け寄ろうとした私を、お嬢様が目で制止する。
まだ、終わっていない。そう告げていた。
地に伏したままの白狼天狗に跨ると、お嬢様は容赦なく拳を叩きつける。
白狼天狗は抵抗することもできず、殴られるままになっていた。
そんな一方的な、もはや決闘とはいえない純粋な暴力を立会人の文は静かに見つめている。
その目は、日頃折り合いの悪い白狼天狗に対していい気味だと嘲っているものなのか、それともお嬢様の無粋な暴虐に呆れているのかわからなかったけれど、少なくとも、取り乱してはいない。
狡猾な鴉天狗らしく、自分の為すべき対応を計算しているようにも見えた。
そんな私と文の視線を無視して、お嬢様は喜々として殴り続ける。
白狼天狗の頭を潰さんばかりに繰り返し殴りつけると、次第に白狼天狗の体から力が抜けていった。
気を失ったのだろう。白狼天狗の首がぐたりとなる。
お嬢様は殴るのをやめ、私のほうを見た。
私は日傘を差し出しながら、天狗の気を探った。
死んではいない。死んではいないが、生きているとも言いがたい。いわゆる、瀕死の状態であとほんの少しダメージを与えれば簡単に死へと転がるだろう。
私の目にはどうみてもやりすぎに見えた。
お嬢様は不敵に笑っていた。
動かない白狼天狗を見下ろしながら、やっと文が口を開いた。
「あぁ、ああ。ずいぶん、やってくれちゃったねぇ。まぁ、個人的な決闘であることは私が証言するけど、組織ってのは面倒臭いところだからねぇ。体面というものがあるから、どういう判断を上層部が下すのかまでは、責任もてないよ」
さすがにいつもの礼儀正しい彼女とは異なる態度を見せていて、その声は明確に批難の色を帯びていた。
それは立場上のポーズではないことは明らかだった。
個人の決闘だから黙って見守ってはいた文も、同胞をいたぶられたことに対する怒りを持っているのだろう。
無理もないことだと思う。
そんな文に対してお嬢様は、少しも悪びれた様子を見せずに答える。
「わかっているよ。明日、挨拶にいくと伝えておいてちょうだい。ちゃんとケジメはつける」
「そう願いたいよね。私も取材活動に専念したいからさ。まぁ、あんたたちと戦争状態になったらなったで、それも記事にできるからいいけどね」
「そうそう。今日のことは記事にしちゃだめよ。その代わり、他の件でならいつでも紅魔館に取材きていいから」
「これを記事にすると私が上に怒られるからしないけどね」
文は白狼天狗を抱えると山へ帰っていった。
お嬢様はそれを見届けると館へ向かって飛び始める。私は慌ててお嬢様の横に並ぶ。
「お嬢様。何故、日傘を投げ捨てたんですか?」
「運命よ」
「はぁ」
「より強力な運命を引き寄せるためには、より大きなリスクをとらないといけない。運命を操るというのは、悪魔と神の取引だから。神は覚悟のないものにより望む運命など渡さないものよ」
お得意の運命論。
なんでもかんでも運命で片付けてしまうのがお嬢様の悪い癖だと思う。
お嬢様にとっては自明のことなのかもしれないけれど、他の者には伝わらないのだから。
「それじゃ、なんであそこまで天狗を痛めつけたのですか?」
「あぁ、それは。――未練を断ってやるためよ」
考え込む私に顔を向けて、お嬢様はにっと笑う。
「まぁ、みていねぇ。私の創る運命って奴をさ」
お嬢様はすこぶるご機嫌だった。
★★
咲夜さん退職パーティーのステージ上で挨拶しているのは、そのときの白狼天狗だった。
いつのまにかお嬢様の従者になっていた。
そういえば。
あのあとお嬢様が時々一人で出かけていたから、そのときに天狗達と話をつけて従者にしてしまったのかもしれない。
お嬢様は強い奴、特にこれからさらに強くなりそうな奴が好きだから、それ自体は不思議でもなんでもないけれど。
それよりも、どうやって丸く治めたのかが気になる。
紹介が終わるとそのメイド長が調理した料理の数々が各テーブルに運ばれた。
和、洋、中。豪勢な料理がテーブルを彩る。
いつのまに紅魔館にきて準備していたのか私はしらないけれど、きっと、お嬢様が意図的に隠していたのだろう。
最近、ずっと機嫌がよかったのは、あるいは、このサプライズイベントが原因だったのかもしれない。
そんなお嬢様がワインの注がれたグラスを掲げ乾杯の音頭をとると、来賓客が一斉に料理へと手をだす。
立食形式。みんな競って料理を皿に盛っていく。
そんな様子を私は、手が空いて待機しているメイド達と一緒に、会場の端で眺めていた。
お嬢様は、子供が新しく手に入れた玩具を見せびらかすかのように、誇らしげな顔で新メイド長を連れまわす。
このパーティーは咲夜さんの門出をお祝いし、長年の忠勤を労うためのパーティーだったはず。
でも、結果として。新メイド長のお披露目パーティーとしての意味合いが強くなっていた。
当の咲夜さんは真ん中のテーブル辺りで、次々に挨拶にくる客の相手をしていた。
グラスに溢れるまでアルコールを注がれるたびに、それを律儀に飲み干し、返杯をする。
相変わらず飲んでも飲んでも酔った素振りを全く見せない。
寂しそうな顔も全く見せない。
可愛いくない人だ。
夜も深くなり、パーティーは十分に乱れ始め、私もメイド達も輪の中に入っていった。
メイド達は一斉に咲夜さんの周りに集まっていく。
ついに泣き出しちゃう子。咲夜さんのスカートを掴んで離さない子。咲夜さんにひとりよがりに話しかけ続ける子。
私はそんな様子を少しはなれて眺めながら静かに飲んでいた。
新しいメイド長の料理は咲夜さんに引けをとらないほどにおいしかった。
そんなパーティー会場の片隅では、
「霊夢ぅ~」
お嬢様が酔っ払ってさらにテンションを上げていた。
その勢いのまま霊夢に絡む。
「え~い、うっとうしい! 陰陽玉? お札? 針? どれか選べ!」
「霊夢! 霊夢を選ぶよ!」
「抱きつくな牙を立てるな全部喰らえ!」
霊夢がお嬢様を突き飛ばすと、それを合図に、陰陽玉、お札、針、人形、天井、ゾンビフェアリー、蛇、蛙、妹様、妹様、妹様、妹様、藍が一斉にお嬢様へと襲い掛かる。
いまだ現役で巫女をやっている霊夢と他数名から飛んできた自機狙い弾の全てにお嬢様は被弾していた。
チョン避けが無理なほどに出来上がっていた。
それでもお嬢様の暴走は止まりそうにない。
本日の主役である咲夜さんに絡まないだけ、まぁ、多分、マシなんだと思うけれど……。
そんなお嬢様は新メイド長に任せておいて、私は咲夜さんのそばにいき、「お疲れさまでした」とワインを注ぐ。
「ありがとう、美鈴。ひとまずこれでのんびりできるわね。新しい子も十分に勤まりそうだし、安心したわ」
「咲夜さんの目にかなうなんて大したもんですね」
「そうでないと私も紅魔館を出ていけないわ。でも、さすがにお嬢様ね。あんないい子を見つけてくるなんて」
咲夜さんは心の底から感心し、新しいメイド長を歓迎しているようだった。
これも、凄く意外だった。
「何か、おかしいかしら?」
一瞬、思案顔になった私に咲夜さんが問いかける。
「え? えーと……」
今、ここで言っていいことかどうかわからない。でも今言っておかないとずっと聞けない気がした。
「意外なんです。咲夜さんがあっさりと身を引いちゃうことが」
「そう。そうよね……やっぱり。私も死ぬまでお嬢様の傍にいるものと思っていたし、それが当たり前だと思っていたわ。昔、お嬢様にそう申し上げたこともある。だから、お嬢様にクビだといわれたときはショックだったし、何がなんでも離れてやるもんかって思ったわよ。でもね、凄く意外なことに、いつのまにか受け入れちゃったのよね。ほんと、驚いたわ。でも……気付いたの。満足してるのよ、私は。すでに。もう十分お嬢様にお仕えしてきたって。お嬢様のためにとことんやってきたって。それに……私もそんなに長くないからね……。もちろん、人間としては十分に長い時間が残されているのかもしれないけど、お嬢様を基準にすれば短いわ。だからね、いいタイミングなのよ。私にとっても。お嬢様にとっても。だから、ね――老兵は去るのみ、よ」
「そういうものですか」
「貴方はわからなくていいのよ。まだ若いのだから」
若い、と言われても咲夜さんよりはちょっとばかし長く生きているのだけど。
でも、人間と妖怪じゃ同じ数十年でもやっぱり密度が違うのか、それとも残された時間の短さからなのか、咲夜さんは私よりもずっと先を歩いていたみたい。
ちょっとだけ、咲夜さんをずるいと思った。
「それにね、美鈴。お嬢様があれだけわくわくされているのだから、きっと何かいいことがあるのよ」
なんの曇りもない笑顔で咲夜さんが言った。
咲夜さんの視線の先には暴れるお嬢様がいた。
私なんかよりもずっとお嬢様を理解している。信頼している。想っている。
そんな咲夜さんが、とても、ずるいと思った。
私は咲夜さんからの返杯を飲み干すと、また一人はなれて手酌することにした。
そして、夜が明けた。
はしゃぐお嬢様を中心に乱痴気騒ぎだったパーティーも終わり、咲夜さんは新しいメイド長と簡単に引き継ぎをすると荷物をまとめにかかる。
私は咲夜さんの手伝いをしようかと思ったけれど、咲夜さんの私物は少なく、手伝うこともなかった。
荷物をさっとまとめると、咲夜さんは紅魔館を――去った。
咲夜さんが引越してから三日、紅魔館はそれでも今までと変わりない日常を繰り返す。
新しいメイド長はそつなく業務をこなし、メイド達もすでに馴染んでいた。
天狗達と話をつけたのはお嬢様みたいだけれど、新メイド長がお嬢様の従者になったのは本人の希望らしい。
お嬢様がいうところのカリスマに魅入られたのか、それとも強さに惚れたというやつなのか。
そのへんの詳しい事情はそのうち聞いてみたいと思う。
そういえば、あのときもお嬢様が大見得をきっていたような記憶もある。
昼下がりの門前で今日も一人稽古に励んでいると、お嬢様がメイドを連れて出てきた。
「おでかけですかぁ?」
「美鈴、ついてきねぇ」
「はぁ、どこにいくのでしょうか?」
私の質問には答えずに、お嬢様はメイドを門番において、さっさと飛んでいった。私はあわてて追いかける。
お嬢様は湖を越え神社の方向、つまり、東へと向かっていき、魔法の森へと近づいていった。
そして、咲夜さんの新居が見えてきた。
咲夜さんの新居は魔法の森でもかなり浅い部分、香霖堂にも近いところにある。
瘴気も少なく日当たりのいい場所。
古い小屋だけど、手入れの行き届いた奇麗な小屋だった。
アリスが修繕しておいてくれたのかもしれない。
そんな小屋の裏には草を毟ったあとがある。
これはきっと咲夜さんが畑にでもするつもりなのだろう。
咲夜さんの新居の前に立つと、お嬢様はノックもせずに力任せにドアを開ける。
そして――叫んだ。
「さくにゃん!」
…………。
「あら、お嬢様。遊びに来てくださったのですか? 今、紅茶を淹れますので、汚い部屋ですが座って待っててください」
のんびり読書をしていたらしい咲夜さんは、突然のお嬢様の訪問に驚きながらも、さっと席を立ち、紅魔館にいた時となんら変らない調子で返事をしていた。
奇妙な呼ばれ方をしたことには、何の反応も見せなかった。
「何言ってんのよ。さくにゃんはもう私の従者じゃないんだからね。お嬢様なんて言っちゃだめじゃない」
「それではどのようにお呼びすればよろしいので」
咲夜さんは少し困ったように首を傾げる。
「決まってるじゃない――親友なんだから、レミィでしょ? レミィ! あと、敬語も禁止だからね!」
「はぁ……」
しばらく戸惑いをみせていた咲夜さんだったけど、納得したように小さく頷く。
「それでは……」咳払いをして続ける。
「レミィ、紅茶を淹れるからちょっと待ってて」
気恥ずかしそうにする咲夜さんに、テーブルについたお嬢様は、にっと笑う。
紅茶はすでに置かれていた――――ということはなく、咲夜さんは普通にお湯を沸かしていた。
そんな咲夜さんの背中ごしにお嬢様が話しかける。
「さくにゃん、新居はどう?」
「そうねぇ。裏に畑をつくって何か植えようかと思っているのよ。レミィ、ミルクティーでいいかしら?」
「それでいいよ。じゃぁさぁ、苺とか植えてよ」
「いいわよ、レミィ。苺なら早苗と魔理沙が共同開発した温室シートを張ればなんとかつくれるわ」
「あいつらそんなもの作ってたのか」
「あら、館にもありますよ? 美鈴が季節感に拘るのであんまり使ってなかったのですが」
「もう! さくにゃん、また戻ってる!」
二人の間に今まで以上に親密な空気が流れていた。
今までも近しい二人だったけど、やっぱりそこには主従の壁だかけじめだかがあったんだなぁ、と今さら思う。
咲夜さんのほうはまだ従者気質が完全に抜けてはいないみたいだけど、それが消えるのも時間の問題じゃないかなぁ。
そんな私の感慨をよそに二人だけで会話が弾んでいく。二人はとても楽しそう。
私はそっと小屋を出た。
小屋の外で待機している私の耳には始終上機嫌なお嬢様の声が聞こえてくる。
お嬢様の目的をようやく理解した私は、久々に晴れやかな気分。澄み切った青空を素直に喜ぶことが出来た。
その青空が夕焼けに染まり、お嬢様が小屋から出てきた。
「あれ、お嬢様。夕食は食べていかれないのですか?」
「さくにゃんも引越してきたばかりだからね。今日のところは帰る」
「そうですか」
「さくにゃん」で押し通すつもりらしい。
四十を越えた人間の女性に「さくにゃん」はどうかと思うけれど……。
「それに、これからは心置きなくさくにゃんと遊べるから。今まではあくまで主従だったけど、これからは友人だからね」
キラキラ。
漫画だったらそんな感じの星がお嬢様の目に描かれているんじゃないかと思う。
お嬢様の目に表情に希望が満ち溢れていた。
「それでしたら最初から、従者ではなく友人としてお付き合いされていればよかったんじゃないでしょうか?」
当然の疑問に、お嬢様は得意気に答える。
「わかってないね、美鈴。咲夜は従者なのよ。もちろん、それは従者として極めて優秀だっとということだけど、それだけじゃない。従者であることが運命だったの。だから、ちゃんと従者をさせて、しっかりと全うさせてあげないといけなかったの。つまり、従者という運命をきちんと終わらせてあげて、初めて友人として付き合える運命が開けてくる。そういうもんなんだ」
さらに、お嬢様はつけたした。
「古いドアをきちんと閉めないと、新しいドアは開かないものなのよ」
お嬢様は時々格好よさげな言葉を使う。多分、なんかの本に書いてあったものを引用してるんだと思うけれど。
でも、そういう言葉は大抵私にはピンとこない。
お嬢様だって意味がわかって言っているのかどうか怪しい。
あるいは、私も数百年生きればわかるのかもしれない。
そして、ふと思う。
ひょっとしたらお嬢様は三十年もの間、「さくにゃん」というニックネームをあたためていたのかもしれない。
そんな未来に対してずっと一人でわくわくしながら、咲夜さんに従者をさせていたのかもしれない。
もちろん、単なる気まぐれに適当な説明をつけているだけ、という可能性もあるけれど。
どのみち、若輩者の私にはお嬢様のお考えを全て理解する事なんてできない。
四百年以上。その時間の差はやっぱり大きいと思う。
「漫画ばっかり読んでるお前にはわからないか。美鈴もちゃんと勉強しねぇ」
そういうとお嬢様は私から日傘を奪い取り、夕陽に向かって全速力で飛び出した。
ぐんぐん離れていく羽を追いかけながら私は思った。
わがままで気まぐれで運命とやらは全くもって意味不明だけれど、お嬢様はやっぱり可愛らしい。
この強く愛らしいお嬢様を御護りできるこの門番というポジション。
私はまだまだ手放したくない。
わがままのようで高尚なことを考えている、けどやっぱり単なるゴーイングマイウェイな気がしないでもない。
よくわからんカリスマをもつお嬢様がとても魅力的。
そんなレミリアとお嬢様の親友になった咲夜さん、そして若輩者美鈴と新生紅魔館のこれからが楽しみです。いいお話でした。
人間のままでレミリアの従者になるには
それだけの覚悟が必要条件なのか。
そりゃ、笑顔で解雇を言い渡す訳だ。
椛のメイド服・・・
対等に触れ合うって少しふしぎ
それがなんかとても心地好い
しかし駿河問いの実演はマズイだろw
主従ではなく、対等な友人として。
いいお話でした。これからも頑張ってください。
レミリアのべらんめぇ口調と咲夜の忠臣っぷり、後さくにゃんw
おぜうもキスショットも可愛すぎて選べないよう
奇才だ、あんたは
そりゃあご機嫌で解雇しますわな。
でもさくにゃんってのはどうなんだ……ww
とにかくお見事
今までなかった、新しい作品で面白かったです。あとレミリアの口調がなんかかわいかったwww
さくにゃんww
破綻なくメイド長を代替わりさせて、あまつさえ友人としての新しい付き合い。
一番意外で、あぁ、コレはありだな、と思ったのが椛のメイド長就任でした。
全体に美鈴が語ることでサプライズも活きてると思います。
それにしてもお嬢様のネーミングセンス...さくにゃんとかwww
それでもまた新しい物語を魅せてくれる紅魔館は素敵。
そして、そうやって新しい物語を作り出してくれる作者さんは、
もっと素敵。
咲夜さんがメイド長をやめない限り、どうしても友人としての関係にはなれませんからね
にしても…友人として話せる日を待ちわびて上機嫌なレミリアが凄くかわいいw
咲夜と友人になることを心待ちにしていたレミリアの心境を想像すると心温まりますね
しかしさくにゃんww
これは実に新しい。
どうにも私自身に二人の繋がりがどんな濃さになっても主従がベストという固定観念があったらしく、この作品は見事にそれを打ち壊してくれました。
読んでいて、そして読み終わっても非常に心地よくなりました。本当にありがとうございます。
「あばら骨が折れてるのに腹筋する咲夜」などの奇妙なシチュエーションが飽きさせない。
いやー、楽しかった。
こういう自由な作風は好きだ。
まぁ、レミリアのネーミングセンスに関しては、今に始まったことじゃ…ん?誰か来たようだ
マジでかwww
これからの関係にわくわくできます
友人に対してはあだ名で呼び合いたいおぜう様が、終始ワクワクしてたのを想像すると、なんだかほっこりします。
素晴らしい出来栄えの作品でしたw
さくにゃん呼びのレミリアにニヤニヤしてしまいました。
不思議だ
さくにゃん、40でそのスカート丈は……いえ、なんでもないですわ
何となく、原作の会話から、咲夜さんは死ぬまでメイド長やってそうなイメージがありますが、
こういう終わり方もいいのかもしれない。
レミリアにとって、親友=あだ名で呼び合うものなんでしょうね。でもさくにゃんって……。
だが、それが良い。
いやほんとすごい!
奇才ですわあなた。
新たな可能性を見た。
咲夜さんもレミリアも幸せそうでいいですね。