ちりーん、と懐かしい音が鳴った。
山の匂いを孕んだ、夏色の音。
風の匂いを孕んだ、夏色の音。
ちりーん、と涼しげな音が鳴った。
優しい音。
どこへ行こうと、それは変わらずに。
▼
ある夏の日の午後。
冷えた畳が心地よさを感じさせる。そんな午後。
東風谷 早苗は、座布団を布団の代わりにして、寝転がって、空けた障子の向こうを見ていた。ぼうっとした表情で、何をするでもなく、ただ見ていた。緑がかった髪が、苔のように広がっていた。
うだるような暑さ。と、いっても林に囲われたここは、案外真夏でも暑くはない。それでも三十度は超えるくらいなのだが。
相変わらずの天気。
晴れ晴れとして、鬱陶しくなるほどの陽気。
目に痛いほど眩しい青空。
雨なんて降ることもないのだろう、と断言できるほどの天気。
つけっぱなしのテレビからは、本日の最高気温が三十度を超えるだろう、とか聞こえてくる。ついでに天気は、少なくとも一週間は晴れているらしい。きっとその先も晴れるのだろう。
テレビの声に混じって、蝉の鳴き声。ミンミンと。
風が吹いて、部屋の空気をかき混ぜる。
部屋の隅で首を振る扇風機も協力して。
早苗の頬をつっと汗が伝う。
ふぅ、と熱っぽい息を吐く
ちゃぶ台に置かれた麦茶の中の氷が、カラン、と小さな音をたてた。
「――――」
暑いなぁ。
汗で張り付いた服が気持ち悪い。
着ていた服をはだけ気味にして、変わらずに外を眺める。視線を落すと、林が見える。
風に揺れる林。木々があっちへ揺れたりこっちへ揺れたり。葉っぱが擦れあって、ざわざわと音をたてた。まるで誰かが話しているような、そんな音。その度に早苗の額に風があたり、心地よさに目を細めた。
テレビからは今週の降水確率がどうのこうの、そんな面白みのない言葉が流れた。
蚊取り線香の匂い。
立ち上る煙。
蚊の羽音。
早苗の目の前で、ぽとりと落ちた。
ミーンミーンミーン、と蝉が鳴く。
――――ああ、夏だなぁ。
早苗は改めて認識し足元に落ちていたうちわを手に取った。表面にはポップな字体で書かれた謳い文句。オレンジ色の半被を着て踊っている人たちの写真。
それを見やって思い出す。
今日は夏祭りだっけ……
そうだ、今日は、夏祭りがあるんだ。
よく考えてみればそうだった。だからあの二人の神様もいないのだ。お祭りの準備でも見に行っているのだろうか。そしてそのまま参加もするのだろう。
神様なのに。
人間に混じって。
このお祭りに、うちの神社は関係ないのになぁ。
そのうちわをひょいと投げ捨てた。
「…………」
ごろん、と寝返りをうった。
外の日差しから、身を避けるように。
または、外を見ないように。
そうして、目をつぶった。
寝て起きたら、夜だったらいいのになぁ。
そんなことを思った。
ちゃぶ台の上の麦茶の氷が、カラン、と小さな音をたてた。
▼
「おぅい、早苗ー! 早苗ー?」
呼び声。玄関で靴を脱ぐ音が聞こえる。遠くで祭囃子が聞こえる。
「早苗ー! 早苗ったらぁ!」
小さな足音。
とんとん、と廊下を歩く小さな音。
大きくなる呼び声。
早苗は薄っすらと目を開けた。そして手を目の前に出して、日差しを遮った。空はもう夕焼け色だった。けれどその日差しは、寝起きの目には少々痛かった。汗ばんだ額に扇風機の風。
テレビの音。バラエティが始まっていた。芸人の笑い声。早苗は半開きの目のまま、リモコンを探し出して、テレビの電源を落した。静。
がら、と襖が開き、汗でぺったりと額に髪を貼り付けた洩谷 諏訪子が入ってくる。
入って、とたんに諏訪子は呆れたような表情をした。
一息ため息。
早苗はそれに気がつかずに目をゆっくり擦っている。
「はぁ……早苗ぇ、暑いのは分かるけどさ、いくらなんでもそれはどうよ?」
わしゃわしゃと髪をかき混ぜながら、早苗の格好を指差す。
はだけたブラウスの隙間から、へそがちらりと見えた。上の方のボタンは閉まっているからか、胸などは見えていない。
早苗は自分の服装を見下ろして、そのボタンをきちんと閉めた。捲くれあがったスカートも直す。
湿った生地と肌が擦れて、少し気持ちが悪かった。
そうしてから、ようやく半身を起こして諏訪子を見た。
まだ半開きの目で、
「……おかえりなさい、諏訪子さまー」
目を擦りながら、ふにゃふにゃした調子で言った。
もう一度ため息。
「あのさぁ、早苗さ、障子開けっ放しでそんなカッコするもんじゃないと思うんだよ、私は」
ひらひらと袖を振りながら、早苗は答える。
ようやく目も覚めてきたようで、ぱっちりと目も開いている。
「いいじゃないですか、どうせ誰も見ませんし」
「そりゃまぁそうだけどさぁ」
諏訪子は早苗に近づいて、開けっ放しの障子を閉めた。
電灯なんかつけていない部屋が薄暗くなる。
それでも、障子からは夕日の赤が透けて見える。
「ところで諏訪子様」
「うん?」
「もう準備は終わったのですか?」
「ああ、もう終わったよ」
「……それならば、どうして?」
ああ、と手を打ち、ごそごそと広がった袖の中に手を突っ込んだ。
しばらくまさぐってから、ひょいっと小さなガラス細工を取り出した。
膨らんだガラスには小さな花の模様が、いくつも描かれていた。
赤い花。
青い花。
黄色い花。
緑の花。
紫の花。
その下に、紐のようなものが垂れ、その先に錘代わりのガラスの札がついていた。それは――
「――風鈴ですか?」
そう答えると、諏訪子は嬉しそうに微笑んで、
「うん、おじさんに貰ったのよ。きれーでしょ? 早苗に早く見せたかったんだ」
そう言って、手の中で、くるくると回す。花の彩る風鈴がくるくる回る。
その度に、ちりちりと小さな音が鳴った。
「さっそくつけようか、と思ってね」
早く持って帰りたかったんだ、と言って上部から伸びた、輪になっている紐を持ち、ふぅっと息を吹き付ける。
ちりんちりん、と涼しげな音が鳴った。
「いい音でしょ?」
と、笑顔で聞いてくる。
早苗は確かにいい音だと思った。
きれいな音だと思った。
けれど、何か違うとも思った。
「諏訪子様」
「うぃ?」
「ちょっと」
「?」
手を差し出しながら、早苗は言った。
「吊るすのでは、ないのですか?」
もう片方の手で、障子の上の方、打たれた小さな釘を指差したを指差した。
「あ、うん。お願い」
と、諏訪子はそれを差し出した。受け取った早苗は爪先立ちになって、両手をいっぱいに伸ばして、その釘の先っちょに輪を通す。その様子を諏訪子はじっと見ていた。
釘の頭が落ちるのを抑え、風鈴は吊るされた。
ぱっと手を離して、小さな残響音。
ちりっと、動きを止める。
早苗は、先ほど閉められた障子を思いっきり開けた。
紫色の混ざった夕焼け空が見えた。夕日はもうそろそろ沈んでいってしまうだろう。
風が吹く。
ざぁ、と林の中を駆け抜ける。
神が吹かせた風ではない、自然の風。
ひょう、と吹いて、風鈴を鳴らす。
――ちりーん
小さな音色。
揺れる。
夕日に照らされて、きらきらと。
きらきらと。
花が咲いたように見えた。
澄んだ音色。
透明な音。
花が開くような音。
小さくて、安らかな音。
柔らかく、暑さを和らげる音。
――――ちりーん
「諏訪子様」
「ん?」
「きれいな音ですね」
「だろう」
そう言って、諏訪子はにっと笑った。
早苗は風鈴を見ていた。
じっと。ずっと。
水滴の浮いたガラスコップが小さな水溜りをちゃぶ台に作っていた。
――――ちりーん
▼
ちりーん――
風鈴が鳴った。
ざぁ、と風が駆けて行く。
早苗はうちわを膝の上に乗せて、縁側に座ってそれを聞いていた。目をつぶって、耳を澄まして。
小さく鼻歌を歌いながら、聞いていた。
自然のままの風に任せて。
空はもう夕焼けだった。そろそろお祭りが始まるんじゃないだろうか。里で開催される、夏祭りだ。
額から汗が流れて、早苗はそれを指で拭った。垂れた髪をヘアピンで留める。後ろの髪をゴムで縛った。
早苗の服装は、いつもと違った。
青色に、花火の柄の着物。
今日は、夏祭りなのだから。
――――ちりーん
ああ、それにしても。
「風は――」
小さく呟く。
「風は――変わらないのですね」
なにもかもが違うはずなのに、なに一つ違わない。風鈴の音も、なにもかもが違わない。
場所が違っていても変わらないものだ、と早苗は思った。
流れていく風も、留まっている風も、違わない。
風の匂いも。
目を開ければ、夕日が沈んでいくのが遠くに見えた。空は薄紫色。
見上げた先に、小さく輝く星が一つ。一番星だ、と妙に嬉しくなった。指差して、小さく星の軌跡を描く。手の平サイズの星が、空中に生まれた。早苗はそれを放り投げた。屋根ほどまで上ってゆっくり落ちてくる。早苗の目の前で、ぽんっと弾けた。
もうそろそろかな、と考えて、隣に置いてあった麦茶を一息に飲み干した。大粒の氷が五つ、小さく音をたてた。ことんと音をたててガラスコップを置く。
「おぉい、早苗ー!」
玄関の方から諏訪子の声がする。小さく靴を脱ぐ音。
早苗は口元に、小さく笑みを浮かべた。
「――――」
よっこいしょ、と立ち上がる。
襖が開く。
小さな身体。
額に髪の毛を張り付かせた諏訪子だ。くるんと後ろでお団子にした髪を揺らしながら入ってくる。いつもの服装ではなく、着物を着ていた。桃色に様々な色の花を散らしたものだ。袖を揺らしながら、早苗の前にやってくる。
「およ?」
諏訪子は首を傾げた。
「風鈴じゃないか。懐かしいねぇ。いいねぇ。夏っぽくて」
「夏ですよ」
と、早苗は笑いながら返した。
そこで、ふと思いついて、先ほど考えていたことを尋ねた。
「諏訪子様」
「なんだい?」
「風は、変わりませんか?」
「――――」
一瞬考えるように、顎に指を添えて、瞬間に答えた。
「そうだよ」
「そうですか」
ひょう、と風が風鈴を揺らした。
音が鳴る。
小さな、きれいな。
――――ちりーん
「早苗」
手を差し出す。
早苗が目をぱちぱちとさせると、諏訪子は言った。
「早く! 始まっちゃうよ?」
ああ、と早苗は手を、その小さな手に重ねた。
その瞬間に、花火が上がった。
紫色の空に、開催の知らせを告げる花火が、大輪を咲かせた。
光を透かした風鈴が、小さく音をたてた。
――ちりん
「ほら、急ぐよ! 神奈子も待ってんだからね」
「――――はい」
そう答えて、二人は駆け出した。
ゆったりとした駆け足で、ふわりと浮かび上がった二人は、里へと降りていく。
花火を透かした風鈴が、小さく音をたてた。
同じように、花火を反射させるコップの中で、溶けた氷が、からん、と小さく音をたてた。
[了]
山の匂いを孕んだ、夏色の音。
風の匂いを孕んだ、夏色の音。
ちりーん、と涼しげな音が鳴った。
優しい音。
どこへ行こうと、それは変わらずに。
▼
ある夏の日の午後。
冷えた畳が心地よさを感じさせる。そんな午後。
東風谷 早苗は、座布団を布団の代わりにして、寝転がって、空けた障子の向こうを見ていた。ぼうっとした表情で、何をするでもなく、ただ見ていた。緑がかった髪が、苔のように広がっていた。
うだるような暑さ。と、いっても林に囲われたここは、案外真夏でも暑くはない。それでも三十度は超えるくらいなのだが。
相変わらずの天気。
晴れ晴れとして、鬱陶しくなるほどの陽気。
目に痛いほど眩しい青空。
雨なんて降ることもないのだろう、と断言できるほどの天気。
つけっぱなしのテレビからは、本日の最高気温が三十度を超えるだろう、とか聞こえてくる。ついでに天気は、少なくとも一週間は晴れているらしい。きっとその先も晴れるのだろう。
テレビの声に混じって、蝉の鳴き声。ミンミンと。
風が吹いて、部屋の空気をかき混ぜる。
部屋の隅で首を振る扇風機も協力して。
早苗の頬をつっと汗が伝う。
ふぅ、と熱っぽい息を吐く
ちゃぶ台に置かれた麦茶の中の氷が、カラン、と小さな音をたてた。
「――――」
暑いなぁ。
汗で張り付いた服が気持ち悪い。
着ていた服をはだけ気味にして、変わらずに外を眺める。視線を落すと、林が見える。
風に揺れる林。木々があっちへ揺れたりこっちへ揺れたり。葉っぱが擦れあって、ざわざわと音をたてた。まるで誰かが話しているような、そんな音。その度に早苗の額に風があたり、心地よさに目を細めた。
テレビからは今週の降水確率がどうのこうの、そんな面白みのない言葉が流れた。
蚊取り線香の匂い。
立ち上る煙。
蚊の羽音。
早苗の目の前で、ぽとりと落ちた。
ミーンミーンミーン、と蝉が鳴く。
――――ああ、夏だなぁ。
早苗は改めて認識し足元に落ちていたうちわを手に取った。表面にはポップな字体で書かれた謳い文句。オレンジ色の半被を着て踊っている人たちの写真。
それを見やって思い出す。
今日は夏祭りだっけ……
そうだ、今日は、夏祭りがあるんだ。
よく考えてみればそうだった。だからあの二人の神様もいないのだ。お祭りの準備でも見に行っているのだろうか。そしてそのまま参加もするのだろう。
神様なのに。
人間に混じって。
このお祭りに、うちの神社は関係ないのになぁ。
そのうちわをひょいと投げ捨てた。
「…………」
ごろん、と寝返りをうった。
外の日差しから、身を避けるように。
または、外を見ないように。
そうして、目をつぶった。
寝て起きたら、夜だったらいいのになぁ。
そんなことを思った。
ちゃぶ台の上の麦茶の氷が、カラン、と小さな音をたてた。
▼
「おぅい、早苗ー! 早苗ー?」
呼び声。玄関で靴を脱ぐ音が聞こえる。遠くで祭囃子が聞こえる。
「早苗ー! 早苗ったらぁ!」
小さな足音。
とんとん、と廊下を歩く小さな音。
大きくなる呼び声。
早苗は薄っすらと目を開けた。そして手を目の前に出して、日差しを遮った。空はもう夕焼け色だった。けれどその日差しは、寝起きの目には少々痛かった。汗ばんだ額に扇風機の風。
テレビの音。バラエティが始まっていた。芸人の笑い声。早苗は半開きの目のまま、リモコンを探し出して、テレビの電源を落した。静。
がら、と襖が開き、汗でぺったりと額に髪を貼り付けた洩谷 諏訪子が入ってくる。
入って、とたんに諏訪子は呆れたような表情をした。
一息ため息。
早苗はそれに気がつかずに目をゆっくり擦っている。
「はぁ……早苗ぇ、暑いのは分かるけどさ、いくらなんでもそれはどうよ?」
わしゃわしゃと髪をかき混ぜながら、早苗の格好を指差す。
はだけたブラウスの隙間から、へそがちらりと見えた。上の方のボタンは閉まっているからか、胸などは見えていない。
早苗は自分の服装を見下ろして、そのボタンをきちんと閉めた。捲くれあがったスカートも直す。
湿った生地と肌が擦れて、少し気持ちが悪かった。
そうしてから、ようやく半身を起こして諏訪子を見た。
まだ半開きの目で、
「……おかえりなさい、諏訪子さまー」
目を擦りながら、ふにゃふにゃした調子で言った。
もう一度ため息。
「あのさぁ、早苗さ、障子開けっ放しでそんなカッコするもんじゃないと思うんだよ、私は」
ひらひらと袖を振りながら、早苗は答える。
ようやく目も覚めてきたようで、ぱっちりと目も開いている。
「いいじゃないですか、どうせ誰も見ませんし」
「そりゃまぁそうだけどさぁ」
諏訪子は早苗に近づいて、開けっ放しの障子を閉めた。
電灯なんかつけていない部屋が薄暗くなる。
それでも、障子からは夕日の赤が透けて見える。
「ところで諏訪子様」
「うん?」
「もう準備は終わったのですか?」
「ああ、もう終わったよ」
「……それならば、どうして?」
ああ、と手を打ち、ごそごそと広がった袖の中に手を突っ込んだ。
しばらくまさぐってから、ひょいっと小さなガラス細工を取り出した。
膨らんだガラスには小さな花の模様が、いくつも描かれていた。
赤い花。
青い花。
黄色い花。
緑の花。
紫の花。
その下に、紐のようなものが垂れ、その先に錘代わりのガラスの札がついていた。それは――
「――風鈴ですか?」
そう答えると、諏訪子は嬉しそうに微笑んで、
「うん、おじさんに貰ったのよ。きれーでしょ? 早苗に早く見せたかったんだ」
そう言って、手の中で、くるくると回す。花の彩る風鈴がくるくる回る。
その度に、ちりちりと小さな音が鳴った。
「さっそくつけようか、と思ってね」
早く持って帰りたかったんだ、と言って上部から伸びた、輪になっている紐を持ち、ふぅっと息を吹き付ける。
ちりんちりん、と涼しげな音が鳴った。
「いい音でしょ?」
と、笑顔で聞いてくる。
早苗は確かにいい音だと思った。
きれいな音だと思った。
けれど、何か違うとも思った。
「諏訪子様」
「うぃ?」
「ちょっと」
「?」
手を差し出しながら、早苗は言った。
「吊るすのでは、ないのですか?」
もう片方の手で、障子の上の方、打たれた小さな釘を指差したを指差した。
「あ、うん。お願い」
と、諏訪子はそれを差し出した。受け取った早苗は爪先立ちになって、両手をいっぱいに伸ばして、その釘の先っちょに輪を通す。その様子を諏訪子はじっと見ていた。
釘の頭が落ちるのを抑え、風鈴は吊るされた。
ぱっと手を離して、小さな残響音。
ちりっと、動きを止める。
早苗は、先ほど閉められた障子を思いっきり開けた。
紫色の混ざった夕焼け空が見えた。夕日はもうそろそろ沈んでいってしまうだろう。
風が吹く。
ざぁ、と林の中を駆け抜ける。
神が吹かせた風ではない、自然の風。
ひょう、と吹いて、風鈴を鳴らす。
――ちりーん
小さな音色。
揺れる。
夕日に照らされて、きらきらと。
きらきらと。
花が咲いたように見えた。
澄んだ音色。
透明な音。
花が開くような音。
小さくて、安らかな音。
柔らかく、暑さを和らげる音。
――――ちりーん
「諏訪子様」
「ん?」
「きれいな音ですね」
「だろう」
そう言って、諏訪子はにっと笑った。
早苗は風鈴を見ていた。
じっと。ずっと。
水滴の浮いたガラスコップが小さな水溜りをちゃぶ台に作っていた。
――――ちりーん
▼
ちりーん――
風鈴が鳴った。
ざぁ、と風が駆けて行く。
早苗はうちわを膝の上に乗せて、縁側に座ってそれを聞いていた。目をつぶって、耳を澄まして。
小さく鼻歌を歌いながら、聞いていた。
自然のままの風に任せて。
空はもう夕焼けだった。そろそろお祭りが始まるんじゃないだろうか。里で開催される、夏祭りだ。
額から汗が流れて、早苗はそれを指で拭った。垂れた髪をヘアピンで留める。後ろの髪をゴムで縛った。
早苗の服装は、いつもと違った。
青色に、花火の柄の着物。
今日は、夏祭りなのだから。
――――ちりーん
ああ、それにしても。
「風は――」
小さく呟く。
「風は――変わらないのですね」
なにもかもが違うはずなのに、なに一つ違わない。風鈴の音も、なにもかもが違わない。
場所が違っていても変わらないものだ、と早苗は思った。
流れていく風も、留まっている風も、違わない。
風の匂いも。
目を開ければ、夕日が沈んでいくのが遠くに見えた。空は薄紫色。
見上げた先に、小さく輝く星が一つ。一番星だ、と妙に嬉しくなった。指差して、小さく星の軌跡を描く。手の平サイズの星が、空中に生まれた。早苗はそれを放り投げた。屋根ほどまで上ってゆっくり落ちてくる。早苗の目の前で、ぽんっと弾けた。
もうそろそろかな、と考えて、隣に置いてあった麦茶を一息に飲み干した。大粒の氷が五つ、小さく音をたてた。ことんと音をたててガラスコップを置く。
「おぉい、早苗ー!」
玄関の方から諏訪子の声がする。小さく靴を脱ぐ音。
早苗は口元に、小さく笑みを浮かべた。
「――――」
よっこいしょ、と立ち上がる。
襖が開く。
小さな身体。
額に髪の毛を張り付かせた諏訪子だ。くるんと後ろでお団子にした髪を揺らしながら入ってくる。いつもの服装ではなく、着物を着ていた。桃色に様々な色の花を散らしたものだ。袖を揺らしながら、早苗の前にやってくる。
「およ?」
諏訪子は首を傾げた。
「風鈴じゃないか。懐かしいねぇ。いいねぇ。夏っぽくて」
「夏ですよ」
と、早苗は笑いながら返した。
そこで、ふと思いついて、先ほど考えていたことを尋ねた。
「諏訪子様」
「なんだい?」
「風は、変わりませんか?」
「――――」
一瞬考えるように、顎に指を添えて、瞬間に答えた。
「そうだよ」
「そうですか」
ひょう、と風が風鈴を揺らした。
音が鳴る。
小さな、きれいな。
――――ちりーん
「早苗」
手を差し出す。
早苗が目をぱちぱちとさせると、諏訪子は言った。
「早く! 始まっちゃうよ?」
ああ、と早苗は手を、その小さな手に重ねた。
その瞬間に、花火が上がった。
紫色の空に、開催の知らせを告げる花火が、大輪を咲かせた。
光を透かした風鈴が、小さく音をたてた。
――ちりん
「ほら、急ぐよ! 神奈子も待ってんだからね」
「――――はい」
そう答えて、二人は駆け出した。
ゆったりとした駆け足で、ふわりと浮かび上がった二人は、里へと降りていく。
花火を透かした風鈴が、小さく音をたてた。
同じように、花火を反射させるコップの中で、溶けた氷が、からん、と小さく音をたてた。
[了]
素敵なお話をありがとう御座います。
昼過ぎには蝉と共にうたた寝
夕暮れには子供達が家に急ぎ
夜は祭に現と幻が混じりあう
夏とは、とても良いものですね。
空蝉や 線香花火の 香る風
読んでいてなんだか穏やかな気持ちになりました
すぐ後にもテレビから聞こえてくるのに「三十度は超える」と言っている重複が少し気になりました。
他の箇所とは違ってここは詩的なリズムを作っているわけでもないですし、一度目は何か別の言葉で埋めて欲しかったです。
……では本題へ。
息を吹きかけて鳴らしても、風鈴の音は出せるけれど何かが違う――という部分で一気に引き込まれました。
美学というものが感じられるよい遣り取りですね。屈指の名場面だと思います。
純粋な音色としては風の起こす雑音が無い方が完成されているのかもしれませんが、恐らくそれでは不完全。
協和するかは別問題として、風鈴は爽やかな風と涼しげな音が一体となって涼を生む物のはず。
自然な風で鳴らしてこそ真の美しさが引き出せる道具なのでしょう。そんな風に感じました。
早苗が答えずに作業に移ったのは、彼女の複雑な心情をうまく表現していると思いました。
相手は目上の存在であり、なおかつ早苗が感じ取った不満は言葉にできるほど固まっていない。
曖昧な違和感しかない状態では言葉は無力で、むしろ早苗の感じたものを歪めてしまう危険性さえあった。
そう考えると、沈黙を選んだ早苗は最良の選択をしたと言えるのでしょう。
もっとも、うまく言葉にできても神様である諏訪子は早苗の違和感を理解しなかったかもしれないですけどね。
風という自然現象は神様や妖怪の領分ですから。自力も他力も神様にとってはおんなじでしょう。
>神が吹かせた風ではない、自然の風。
神の業ではないと書かれていますが、神風という言葉を連想させる風ですね。自然というものの偉大さを感じられました。
人の吐息で風鈴の音色を奏でさせる事は可能でも、きっとそれは早苗の感じたように、本来の姿ではないのだと思います。
人間の域を超えた、神の息によってしか真価を発揮しない不思議な道具。風という神力を利用したもの。風鈴。
どうやっても僅かしか作り出す事のできない風などの自然現象に昔の人は神を見ていたのでしょうね。
風そのものに神格を認めたり、擬人化した存在を信仰するなどして。
木々を揺らす風で風鈴が鳴ってようやく音色を褒める事ができた時、早苗の心が開放されたような感じが伝わってきました。
本心からの言葉を言えたという喜び。齟齬の無い、同じものを「綺麗」だと感じて時間を共有できること。
言葉にならなかった不満も消えて、風鈴の音色と一緒にどこまでも心が澄んでいくような。綺麗な風が聞こえました。
話は前後しますが、風鈴を回し、取り付けた際の振動でも小さな音が鳴るなどの細かい部分も描かれていて大満足でした。
それと、これは個人的な好みもあるのですが、場面転換が素晴らしかったです。
冷やされたコップによってちゃぶ台に水溜りができている――というのは画になりますよね。
ここへ至るまでに氷の塔が崩れる音に合わせて暗転が挟まっていますが、それが効果的に利用されているのに感心しました。
氷の立てる音が風鈴の音に切り替わって締められる。それは時間の経過を表しているだけではありませんでした。
今までは暑さの象徴として氷の溶け崩れる音で終わっていた。それが涼しさのイメージで塗り替えられたのです。
風が吹いても扇風機が動いていても、常に湿気や纏わりつく汗などを感じさせていた空気があったのですが刷新されました。
映像作品だった場合でも間違いなくここで切り替えるのが最適なんでしょうね。
「何年後」というような情報は明示されませんが、現在の話に切り替わったのだと自然に伝わってきました。
もし残りの頁数に基づく先読みで配分を想像していたら当然気づいたのでしょうが、それ無しでも分かります。
自分の神社と無関係の祭りだから――といって興味なさそうにしている前半の描写もありますが、あと一つ。
先程の場面があまりにも美し過ぎて、だからこそ今を逃したらどこで切っても駄目になってしまうだろうと無意識に感じていたためだと思います。恐らくは。
さて、風鈴で幕引きがなされたのですから、当然ながら次に始まる時は風鈴による開幕ということですね。
風鈴に導かれた追憶によって、この土地でも風は同じなのだと思い、不変のものを感じる早苗……。
最初は言葉通りの意味なのだと思っていました。風鈴の記憶に触れて、郷愁に駆られているだけなのだと。
しかし……正確な回数は覚えていませんが、この場所を何度か読み直した際に「違うかもしれない」と思ったのです。
>「風は、変わりませんか?」
早苗がこのような質問をしたのは何故なのか。もしや単なる確認の他に意味があるのでは?
そう感じて深く読もうとすると、このあたりは色々と想像を巡らせる事ができる面白い会話だと気づきました。
神が人間よりも研ぎ澄まされた知覚を持っていたら、幻想郷の風は外の世界の風と違っていると感じる事もありそうですね。
早苗には同じだと感じられていた風も、諏訪子ならば差異があると否定する可能性もあった。
それを分かっていて早苗は訊ねたのかもしれない――。
諏訪子は一瞬考えてから答えていますが、もしかしたら外の世界の風とは別物だと答える事もありえたはずです。
可能性の話ばかりになってしまうのですが、過去の場面で口ごもって誤魔化していたのとは異なる感じですよね。
以前の早苗なら無意識で押さえ込んでしまって、こんな質問をしなかったように思います。
こちらの風も向こうと同じですね、と言って同意を求める事さえなかったでしょう。否定されるのを恐れて。
ところが今はこうして言葉にできた。相手に問いかける事ができた。
たとえ無邪気な肯定で返されると予想できたとしても凄い事ですよ。
言葉を発さずに疑問を内に抱え込んだ昔とは違い、早苗が成長しているような印象がありました。
もし諏訪子の回答が違っていても、不変ではなく変わってしまったと言われても、現在の早苗は受け入れられそうですね。
吐息で風鈴を鳴らす事を「何か違う」と思っていただけの彼女は既に過去の存在。
今はまだその理由を表現する言葉は見つけていなくても、全てを受け入れて許容する下地を持っているようなのです。
過去と比べて随分と精神面が育っているのは、先細りが予見される信仰について悩まずに済む環境へ移ったおかげでしょうか。
ひょっとすると、諏訪子がすぐに答えなかったのは早苗の成長を感じて感動していたのかもしれないですね。
月空様の作品は素敵な雰囲気の作品が多いのですが、その中でもこれは格別です。
ついつい冷房器具に頼ってしまう現代人が忘れかけている、風鈴という物の素晴らしさを再発見できる良いお話でした。
次回作にも期待しています。
長野の夏の描写が素晴らしいと思いました。久々に諏訪に赴いて、ガラス美術でも眺めてきたくなるくらいに。
この作品からは、忘れかけていたあの透明な音が聴こえてくるようです。
とても綺麗な雰囲気のお話でした。