雪の降りしきる真っ白な野原を、レティ・ホワイトロックは歩いていた。
サクサクと雪を踏み付け、蛇行し、わざと多くの足跡を描いている。
足元の厚く積もった雪をものともしない、軽やかな足取りだった。表情も柔らかで、楽しげだ。この遊びを通して彼女は愛すべき冬を、最後まで実感することが出来ているからだ。
やがて丘を上がると、彼方に森が見えた。辺りの銀世界から浮き出た森は、黒いベールのように横長く広がっている。
あの森の中に寝床があった。
「探したぞ」
すると頭上から声がした。凛とした声だった。レティは顔を上げ、声の主を見る。相手には見覚えがあった。まさか再び逢えるなんて。自分は機会に恵まれていると思い、やがてレティは穏やかな笑みを浮かべた。
「確か……白玉楼の庭師さんね。また会えて嬉しいわ。でも、次は斬る相手を選びなさい。雪女に春度なんてないのよ」
「どうでも良い。お前が寝る前に、訊いておきたいことがある」
「上から見下げている相手に、答える義理は無いわぁ」
妖夢は腰に手を当て、細めた目付でレティを見降ろしている。幼い体躯だが、腰に差した二本の刀も相まって、剣士の風格と言うモノを醸し出していた。
しかし寒さに赤らんだ彼女の頬を見た時、やはり可愛らしい印象を受けてしまい、レティは小さく笑いを漏らした。
彼女はレティと向き合う位置に降り立った。笑われたことを意に介さず、態度も一切変わりが無かった。以前は、問答無用で斬りかかって来たのに。笑みを湛えながら、案外真面目な話なのかしら、とレティは思った。
妖夢は暫くの間黙って、疑うような目で相手を観察していたが、やがて口を開いた。
「―――この長かった冬は、お前がもたらしたモノではないのか? 」
白玉楼の桜は満開だった。
全ての桜は、枝いっぱいに花びらを纏い、桃色に染まっている。風が吹くと花びらが舞い、風に流され四方に飛んで行った。
だが美しい花びらも、散り落ちた後はやがて腐り、塵に成り果ててしまう。
故に妖夢は、中庭に舞い落ちた花びらを掃き集めていた。
妖夢は桜が好きだ。春になれば鮮やかに咲き誇り、最後は美しい姿のまま、その身を散らせていく。雑念も余情もなく、ただ一心不乱に。そんな桜の生き様を見ると、そのような生き様で自らも在りたい、そのような志で主人に仕えたいと想うのだった。
西行妖の辺りを掃いていた時、地面の花びらの中に一枚の札が紛れこんでいるのを見付けた。
長い冬の異変の時、乗り込んで来た博麗の巫女が使った札だ。それがまだ残っていた。札を拾い上げ、妖夢は溜息を吐く。札などどうでも良かった。あの巫女が好き放題して行った挙句、主人を救い出したことを思い出して、溜息を漏らしていた。
「どうしたの。溜息なんか吐いちゃって」
驚いて振り向くと、そこには八雲紫がいた。スキマから優雅に身を乗り出し、これまた優雅な笑みを顔に湛えていた。胡散臭いことを除けば、辺りの景色にこの上無く似合う笑顔だった。妖夢は背筋を正すと、ペコリと一礼する。
「幽々子の様子はどう? 」
「ようやく体調も安定してきまして、今はおやつを食べたので、お昼寝をされています」
「そう。やっといつも通りの幽々子になって来たのね。良かった……」
心地良い風が吹き、掃き集めた花びらが、僅かに流れて散る。紫は目を細めた。
「気が気で無かったでしょう? 主人が、黄泉帰りかけた西行妖に取り込まれかけたんだから」
「はい……悔しいことこの上ないです」
「でも貴女は悪くないわ。幽々子の指示に従って春度を集めていただけだもの」
「そう言うことではないのです」
竹箒を握る手に力が籠る。
「……私は、主人である幽々子様の危機を前に何も出来なかった。無力で手も足も出なかった。傷の痛みに喘ぎ、地面でのたうち回りながら、西行妖に立ち向かう博麗の背中を見ているだけだった。それが……悔しいのです」
妖夢の独白を、紫は扇子で口元を隠しながら聞いていた。
紫は、主人を救えなかったことが妖夢の重責にならないか心配だった。彼女は、主人を敬愛してやまないのだから。
かと言って、慰めなど意味を成さないだろう。故に信じて見守るしかないのだった。
ここに来たのも慰めや、見舞の為ではない。
「自分に苛立っても意味はありませんね」
そう言うと、愛想笑いを浮かべた。
「……ねえ。ちょっと話があるの」
「なんですか? 」
紫は扇子を閉じ、妖夢を見つめる。
「レティホワイトロックを知ってるかしら? 」
「ああ……。はい、冬の妖怪ですよね。春度を集める為に、一度斬り付けたことがあります」
「彼女が、長い冬の元凶であるのかも知れないのよ」
妖夢の表情が固まる。
こうなることは予測していた。なのに敢えて言ったのは、幻想郷の管理者として真実を伝えなければならない理由があるからだった。そこに酌量の余地は、無い。
やがて妖夢は疑うように目を細めると、恐る恐る口を開いた。
「何故、そう言い切れるのですか? 」
まるでそうであって欲しくないと言いたげな、そんな願望が焦りとして表情に色濃く表れる。
ああ、やはり言わなければ良かった事なのだと紫は思った。
「春度を集めても、それは対象に自然と蓄積した「春」の概念を奪うだけで、四季そのものの春を奪っている訳では無かったのよ。確かに影響はあるけど、それは微々たるもので、冬を長引かせることは出来ない。だから、疑問に思って藍と最近調べたの。そしたら、幻想郷の各地に冬を意図的に操作した跡が見付かったわ」
「ですが、レティホワイトロックにそんな力は無い筈です! 私は彼女を斬り付けるとき、抵抗されましたが、大した実力はなかった」
紫の言葉が信じられず、大袈裟な冗談であることを願った。真面目な表情で語り掛けた言葉か冗談だとも思えないが。
「でも、彼女は寒気を操る。どの程度の規模で、どれ程気温を下げることが出来るか、それが明確に線引きされた能力ではないのよ。故に出来るとしたら、彼女だけ」
黄泉帰りかけた西行妖から主人を救えなかっただけではない。自分が異変に対し何ら無力であったことを、その事実は示していた為、妖夢は憤った。
自分の無力さが許せない、と。
「何故、私にその話を? 」
「幽々子に伝えて欲しいの。それに貴女にも知る権利はある」
「確証は……? 」
「無いわ。でも春度を奪ったことで、冬が長引いた訳ではない。これは事実よ」
下唇を噛む。僅かな可能性に縋るだけ無駄か、と妖夢は思った。
「幽々子によろしくね」
そう言うと紫は、緩慢な動作でスキマの中に戻って行った。
紫の話は主人に伝えるべき物ではないと思ったと同時に、伝えねばならない義務を背負ったことを、妖夢は感じた。故に悩み、せめての気休めにと掃除を再開した。
夜になっても、幽々子は眠っていた。
妖夢は縁台の上に、背筋を正し静かに座して、背後の寝室を警護していた。そこに主人が眠っているから。
縁台から中庭を望めば、池に浮かぶ水月が、舞い落ちた花びらを纏い煌々と輝いていた。水月を眺める表情はどこか物憂げで、時折落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
彼女は、紫から聞かされた事実を、言うべきか、言わざるべきか未だに悩んでいた。
主人に隠し事は許されない。
しかし、主人を自分のせいで傷付けることも、同じく許されないことだと思っていた。
背後の障子がすーっと開き、白い寝巻姿の幽々子が現れた。起き抜けの、寝惚けた顔だった。はだけた胸元から、磁器のように白い肌が露われているが胸元を正そうとはしない。妖夢の前だから、気に掛ける必要も無いのだろう。
しかし当の彼女は、身体を向けることで主人の姿を見、顔を赤らめた。そして雑念を払うかのように、小さく首を横に振った。
「おはようございます」
「正確にはこんばんは、よ。何か変わったことはあった? 」
「幽々子様の様子を見る為に、紫様が来られていました。私が昼寝をしていると答えましたら、大層安心されたようでした」
「それだけ? 」
そう言うと、中庭の景色を眺めながら、口元を右手で覆い隠して小さく欠伸をした。
妖夢は言葉に詰まった。
良く考えれば、紫も同じ事実を共有しているから、異変の真相を、秘密にすることは出来なかった。そうなると、主人を欺くことは許されないと言う気持ちが勝った。
結局、選択は決まっていたのだ。
「……それと。冬の異変について、お話をされていました」
「どう言う話をしたの? 」
「春度を集めたから、冬が長引いたのではない。そうおっしゃっていました」
言葉を切り、上目遣いに幽々子を見る。彼女は無言のまま、小さく手を払う。話の続きを促していた。
「……冬が長かったのは、同時期に環境を操作したモノがいるからだそうです。その名は、レティ・ホワイトロックだと言うことも、教えてもらいました。彼女が犯人である確証は、まだないそうですが……」
「そう」
「…………」
「……そう」
幽々子は、立ったまま近くの柱に身をもたれた。妖夢は主人の無表情な横顔を、不安げな表情で見た。
不意に幽々子は笑った。自らを嘲る、渇いた笑い声だった。
「そうなの。私達のしていたことは異変ですらなかったのね」
そう言うと、月を見上げて深々と溜息を吐く。
「……結局、私達は何をしていたのかしら。異変を起こしてる気になって、勝手に満足してた。そしたら、私は惨めにも自分が黄泉帰らそうとした西行妖に取り込まれかけた。……ホント、何処のザコキャラよ。我ながら、馬鹿みたいね」
「ですが全て想定外のことでした」
「知ってるわ。……でも、そんなの今となってはそれも言い訳よ」
池で鯉が跳ねた。水面に波紋が生まれて、映り込む満月が千切れ四散した。
「外して頂戴」
「……分かりました。用がありましたら、お呼び下さい」
主人の複雑な心中を察した。
故に、それ以上は何も言わず、一礼するとその場を離れた。やがて廊下の角を曲がった後、西行妖の前で立ち止まった。
「本当に、お前と関わった者は碌な目に遭わないな」
そう西行妖を見上げて呟いた。
だが今は、冬を長くした理由を知りたいと思った。意図が合ってのことに違い無い。また、レティのしたことを何もせずに見過ごすことは、この上なく悔しく思えた。
妖夢の口から出た質問に、レティは微笑んだまま首を傾げた。
緩やかな風が吹き、二人の髪が揺れ、服が靡く。
「訊いてどうするの? 」
「冬を長くした理由が知りたいんだ」
「その事実に対して怒ったり、前みたいに斬りかかりはしないのね? 」
そう訊いた途端、ピクリと妖夢の眉が動くのを見逃さなかった。
「……これ以上、愚を重ねたくないだけだ」
「そう」
妖夢達の行為は無駄であり、異変も惨めな終り方だったことを知っていた。
それ故に、感情に任せて斬り捨てたことで、これ以上自分を惨めにしたくないのかも知れない。そう、レティは本心を推察した。
口元が、笑みに歪む。弱気な彼女が可笑しくて堪らなかった。
「貴女の言う通り、冬を長くしたのは私よ」
「どうして私達と同時期にやったのだ? 」
「時々、どうしようもなく自分を抑えられなくなるのよ。それで、貴女が春度を集めてるって知った時、良い機会だと思ったの。同時期にやれば私が疑われないから。退治されるのを楽しみにするなんて、馬鹿馬鹿しいわ」
妖夢は深く溜息を吐いた。あまりにもふざけた理由で、肩透かしを喰らった気分だった。
「虚しくならなかったのか? 」
レティは僅かに首を振ると、弾んだ声で言った。
「いいえ、とても楽しいかったわ。そして、今もね」
「……どういうことだ? 」
「可笑しいのよ。無力な貴女を見るのが。異変を起こしていると勘違いして、そして自分が無力だと思いつつも、この期に及んでプライドを守りたがってるから」
刹那、楼観剣を引き抜くと横に薙いだ。空気が低く唸りを挙げる。レティは微笑みながら後ろに跳んで避け、彼女はレティを睨んだ。
「図星だったでしょう」
「黙れ!! 」
地を蹴り疾走し、すぐさまその身に肉薄すると楼観剣を袈裟に斬る。レティは素早く跳びずさり、鼻先を切っ先が紙一重で掠めた。
冷静さを欠いていた。妖夢は立て続けに相手の懐に踏み込むと、渾身の力を込めて刀身を相手に突きだす。
刀身によって貫かれる直前、レティは身体を横に捻った。腹部を刀身が掠め、腕が前に伸び切る。その隙を逃さず、レティは彼女の片方の肩と脇腹へ腕を回し、抱き寄せて動きを止めた。
そして耳元へ顔を寄せ、囁いた。
「自分のことに関わると怒るのね。……そんなに自分のプライドが大切? 」
妖夢は、レティを睨み据えた。互いの鼻先が、今にも触れ合いそうだった。
「違う」
「いいえ、そうよ。主人の面子を台無しにした私を許そうとしたじゃない。これ以上自分の愚を重ねたくないがために」
「……違う」
「ねぇ、認めたら? 」
妖夢の唇がわなわなと震えた。否定の言葉は出ず、それが怒りだけの動作ではないことを察したレティは、くすくすと心底可笑しげに笑う。
やがて身体から腕を離して、三歩ばかり後ろに下がり向き合った。その様子からは、妖夢の本心を突いた魂胆を知ることは出来なかった。
「憐れね」
その一言に、歯を食いしばった。
自分が体面に拘っていることを。それ故に、主人を軽んじる気持ちが生まれていることを。
実直な彼女が、認められる訳がなかった。
――――ならば。
楼観剣を上から下へとゆっくり弧を描きながら降ろして行き、切っ先を背後に向け、腰の高さで構える。
自分の本心を知っているのは、レティ一人だけである。殺しはしない。レティを斬ることで、それらの気持ちを無いことにしようと考えた。
レティは、上空に向かって飛び上がった。
「貴女がやるなら、私も全力で抵抗するわ」
その顔は、この上なく楽しげだった。
妖夢は膝を曲げ、足裏に力を込めると次の瞬間には地面を蹴り上空へと跳んだ。パチパチと頬に、雪が当たった。
レティは、そんな彼女を悠々と見降ろしていた。
「舐めるなぁ!!! 」
レティに向かって吠えた。相手の眼前に到達すると、楼観剣を振りかざす。
「侮って十分よ」
レティは感情の籠っていない笑みのまま、そう言った。
楼観剣が振り下ろされる直前、目の前で突風が吹き、身体は仰け反り押し戻される。
尚も体勢を立て直すと、正面から雪風が起こった。中心を突くが、切っ先が届かない。
横殴りに突風が吹き付け、その勢いに体勢が崩れる。
妖夢は落下しながらも体勢を起こして、なんとか積雪の上に足を付いたが勢いを殺しきれず、辺りに雪を撒き散らして転倒した。
全身雪塗れ。
だが幸いにして、怪我は無い。積雪が柔らかかったのだ。
辺りの天候は吹雪に変わっていた。
遠くの山並みも、黒い森のベールも今は見えない。辺りは全て、吹雪と風に舞い上がる雪の白に覆い尽くされていた。
まるで自分一人だけ、違う世界に隔離されたような錯覚を、彼女は感じた。
これがレティの力か、と思った。これほどまでに、早く環境を変えられるのは予想外だった。際限のない理不尽な力だった。妖怪として、自由に冬を操るのだ。
(何が抵抗だ……。始めから力の差を知っていた癖に! )
「うざったい! 」
髪に纏わり付く雪を片手で払い、レティを探す為に上空へ跳んだ。
だが上空へ昇る程に吹雪は激しくなり、視界を遮る。遂には、その姿を視認することは出来なかった。
――――打てる手はない。
身体に突風が叩き付けられ、身を屈めた。相手は自分の存在を明確に察知している。このままでは一方的に嬲られてしまうだろう。故に、一時的にこの場から離れるべきだと考えた。
そして身を翻した時だった。
目の前に、レティが、いた。
咄嗟に斬りかかろうとして、指先がじかんで遅れた。
その直後、妖夢の身体は、衝撃で吹き飛ばされた。
積雪の上に強く身を叩き付けられる。腹部から湧き上がる違和感と激痛を感じて、蹴られたことを知った。それと背中の痛みが相まり、雪の上で呻き声を上げた。あばら骨の何本かは折れたと思った。
だが、いつまでも痛みに喘いでいることは出来ない。
楼観剣を地面に突き立て、身をもたれながら片膝を着く。そして痛みに顔を歪めながら、よろよろと立ち上がった。
だが、ゴウッと吹いた強風が、無抵抗だった妖夢の身体を持ち上げ、丘の下へと転げ落とした。
彼女は、うつぶせに倒れ、楼観剣は目線の先に落ちた。
視界が霞み、吹雪の音が耳にはぼやけて聞こえる。痛みも、感覚も無かった。
それ故に、自身に死が迫っていることを感じた。
春度を集めて、と頼んで来る、幽々子の無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
――――私は、お師匠様と誓った。この身と刀を、幽々子様の為に捧げることを。
――――自分に迷うあまり、それを忘れていた。
――――だが、ようやく気が付いた。
――――私は、幽々子様の為に、いるのだ。
――――だから今ここで、自分は死ぬ訳にはいかない……!!
プライドや体面など、彼女にとってはもうどうでも良かった。
それ以上に、主人の為に生を渇望した。
手と指先を必死に前に出し、ずるずると地面を這って、楼観剣の刃を掴む。握った指先と掌が切れ、傷口から垂れた血が雪を赤く染めた。
「……ッ……くっ……」
そしてゆっくりと、這いながらその場を離れ始める。
「――――何のために逃げるのかしらね」
その背後から声がして、恐る恐る振り返った。
丘の上に、レティがいる。
笑みはどこまでも凍て付いて、変わらず楽しげだった。
背後には、寒気が陽炎のように、高く、高くうねっている。
「いい加減貴女は、私がこんなことをする理由が分かったでしょう」
「…………」
「まだ分からないの…………? 」
やがてレティは、妖夢を見下ろしたまま狂ったように笑う。同情の欠片は一切見せなかった。
「貴女に気付かせる為よ。本当に大切な存在に。そして、それにより生に縋る弱々しい貴女が見たかった」
こうなることは、全て計算済みだった。
だから、レティは笑っていたのだ。
力ある妖怪の性か、はたまた憂さ晴らしなのか。いずれにしろ、それはこの上なく歪んだ悦楽だった。
「なら……もう十分だろう!! 」
悲痛な声で叫んだ。
「ダメよ。気付かせただけでは、ただの善意に成り果てるのよ? 私は、楽しみたいの」
レティの声は弾んでいて、その狂気に、妖夢は身震いした。
「貴女、本当の冬がどんなものであるか知ってる? 」
答える気力など、とうに、無い。身を横たえたまま力無くレティを見上げていた。
それを見てか、答えを待つことはなかった。
「――――冬とは、本当の冬とは、生命の眠りではない。死、そのものなのよ」
レティの背後で、寒気の深海と、雪の高波が、生まれた。
空の徒花達も、狂い舞う。
どこまでも果てしない白の情景。
それらは美しく、そして恐ろしかった。
「……止めてくれ……」
妖夢の目に、涙が浮かんだ。
「私って、ダメだから」
だが以外にも、レティが殺す相手に対して吐いた言葉は、自らを嘲けるモノだった。
間もなく轟音と地響きを立てて、丘の上から流れ落ちる寒気と雪崩。
それらは、難なく妖夢を呑みこんだ。
雪原の上をレティは、妖夢を抱き抱えて歩いていた。
雪に塗れぐったりとしてはいるが、息はある。死ななかったのは、奇跡が起こったからに違いなく、故に生きるべき運命なのだと彼女は思った。だから、酔狂にも妖夢を助けたのだった。
目の前に、一枚の桜花びらが舞い落ちた。
蒼く澄み渡った空を見上げれば、桜花びら達がひらひらと、風に吹かれて舞っている。
遠くにそびえ立つ四本の大柱の向こうから、桜花びら達が流れて出ていた。
「今なら幽明結界はなくてよ」
振り返る。
紫がスキマを開き、その縁に腰掛けて微笑していた。
「あら、随分と久しぶりね。……この子、頼める? 」
「貴女が届ければいいじゃない」
「嫌よ。この子の主人に見付かる危険を冒したくないもの」
歩み寄り妖夢の身を差し出すと、紫はその背中と腰に腕を回して、軽々と抱き抱えた。
だがレティは離れることなく、紫の袖を握り締める。そして目を細めて、斜めに見上げた。
「なぁに? 」
「私の前に現れたからには、何か他意があるのでしょう? 」
「偶然見付けたから、声を掛けただけよ」
「いいえ違うわ。私が犯人であることを、その子に教えたからでしょう」
レティは口元だけで、微かに笑った。
「惚けても無駄よ。私は完璧に証拠を秘匿した筈だった。なのにその子が気付けるとでも? 察知出来るとしたら、幻想郷の管理者である貴女以外に思い当たらないわ」
桜花びらの舞う中、二人は正面から見据え合う。不意に紫はクスリと笑い、片手を一気に降ると、袖を握り締める手を振り払った。
「そのムカつく弱者面、いい加減引き剥がしてやりたいと思ってね」
「幻想郷は全てを受け入れるのではなくて? 」
「弱者面しているのが問題では無い。こそこそと起こした異変の責任を他者に押し付けて、それを楽しむなんて卑怯な真似を、幻想郷の管理者として見逃せなかったのよ 」
「ではなんでその子に教えたの」
「それが役目だから。妖夢や幽々子が知ったら、何かしら行動を起こすでしょう。そうすれば、貴女の実力が白日の下に出来るかも知れない。妖夢が勝手に行動するのは予想外だったけど」
そこで言葉を切って、閉じた扇子で手の平を叩いた。
「でも、お陰で分かったわ。貴女の弱者面は完璧ではないようね。だから、異変を起こしたのでしょうけど。妖夢と戦った時も、弱者面を殴り捨てた。でもそれは好都合。あのまま続けてくれれば、自ら墓穴を掘ってくれるところだったから」
レティは肩を竦める。
「そこまで馬鹿じゃないわ。……と言うか、見てたのね貴女」
「えぇ、幽々子から訊いてね。妖夢に何かがあってはならないし」
その言葉を聞いて彼女は、気が付いたとばかりに手を叩いた。
「ああ。その子が死ななかったのは、貴女のお陰だったのね。……ふふっ……あっはっはっはっはっは……」
奇跡など無かった。紫や幻想郷を出し抜けなかった。そのことに気付けなかったことが、どうしようもなく可笑しくて、笑いを抑えることが出来なかった。
一方で紫は、表情を真剣なモノに変えた。
「今度は私が訊く番ね」
「貴女が? どうして」
「腑に落ちなくてね。貴女が、どうして弱者面を続けるのかって」
彼女にとって、答えにくい質問だった。
だが、自分から引き止めたのだから、答えるのが義理だと思った。
「ただの自己嫌悪よ」
「自己嫌悪? 」
「えぇ。全てを雪と氷で覆う、ありとあらゆる生の簒奪者である自分が、嫌いなの」
「だからと言って、冬の妖怪である貴女が、本質を否定し、隠すことは出来ないわ。その証拠に、弱者面が綻んでいるじゃない」
「ええ、無理は承知よ。……でも」
空を見上げ、舞い落ちる花びらを見て目を細めた。
「春に、温かさに、色に、私は憧れているの」
冬は好き。春は嫌い。
けど冬は、雪と白しかなくて、孤独だった。
春は、色に、生に満ちていて、温かくて、嫌いだけど、羨ましかった。
孤独だったから、寂しかったから。
だから、春に触れたかった。春の温かさを知りたかった。
でも、その想いは届かなかった。
自分の本質が、春に、温かさに触れることを許さなかった。
だから、彼女はずっと一人で。
そんな自分が、嫌いだった。
「だから私は本質を嫌い、隠し続けるのよ。……この先もずっと。決して、手の届かないモノを、思い続ける為に」
そう言って、微笑んだ。
微笑みは何処か寂しそうで、花びらを見る瞳には羨望の色が垣間見えた。
彼女は、自分の想いの為に苦しみ、葛藤しながら生きていた。紫は、そんな想いに意味はあるのかと、疑問に思わずにはいられなかった。
「私は、貴女の本質を否定しないわ。幻想郷は、全てを受け入れるのだから。だから、無理な想いにも区切りをつけるべきよ」
「いいえ、これで良いの」
「……苦しみ、自らを傷付けてまで想うことに意味があると言うの? 」
「えぇ。あるわ」
舞い落ちる桜花びらを、一枚、手の平で掬い取る。
それを眺めながら言った。
「苦しくてもね。想うことこそに意味があるの。……同時にそれが、私の生きる意味でもあるから」
淀みない口調で言った。
彼女の答えは、永く、心から想い続けたが故の達観であり、雪のように穢れの無い想いだった。
――――なんて、一途なのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
羨ましくはない。
だが、そんなレティが素敵と感じていた。
「……素敵ね」
つい、口に出してしまう程に。
「そう言われると、ありがたいわ」
「あら、そう? 」
「だって、私の想いを打ち明けたのは貴女が最初なのよ」
そう言ってクスクスと笑った。
久々に良い事をしたのかしらね、と紫は思った。
「そう……。叶うといいわね。貴女の想い」
ささやかなエールに、レティは笑顔で頷くと、ひらひらと手を振りながら背を向けた。
「―――ええ。ありがとう。貴女にも、良い春があらんことを」
そう言うと、元来た道を戻って行く。
その姿は、先程とは打って変わり、清々しかった。
姿は、だんだんと小さくなって行き、やがて真っ白な雪原に、溶けるように消えた。
それから程なくして、幻想郷に、今年初めての春風が吹いた。
妖夢は竹箒を手に、中庭に舞い落ちた花びらを掃き集めていた。
辺りの桜の多くは、どれも青々とした葉を、花びらの間から覗かせている。
冥界の春は、もう間もなく終わる。
だが一方で、幻想郷は春真っ盛りを迎えていた。
やがて、中庭を一通り掃き終え、集めた花びらを処分しようとした時だった。
その隣に、紫がスキマを開いて現れる。彼女は、スキマの中で座ったまま、その縁に肘を掛けてくつろいだ。
「おや。御花見ですか? 」
「遊びに来たのよ。貴女のお見舞いも兼ねてね」
「なるほど……。わざわざ、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をする妖夢。
「思った以上に、復帰が早かったわね」
「はい。まだ痛みがありますが、庭仕事にさほど差し支えが無いので」
風が吹いて、掃き集められた花びらが舞い上がる。
紫はスキマに身を持たれ、妖夢は箒を手に立ち尽くし、その光景を眺めた。二人の眼差しは穏やかだった。
「……そう言えば、幽々子に謝ったんですって? 」
不意に、口を開いた。
「はい」
「なんて謝ったの? 」
妖夢は目線を彼女に向けた。
「プライドに拘って、軽んじていました、と」
「幽々子は、その時どんな感じだった? 」
「その……。怒っておいででした」
眉を寄せ、気難しい表情で言った。
紫はその答えに驚いて、目を見開いた。
「意外ねぇ……。そんなことでは、怒りはしないと思ったけど」
「いえ、私が勝手に出掛けたこと、そして殺され掛けたことに対して、怒っておいででした。そして、心配したと言われました。……申し訳無かった。私は、肝心なことに気付いてなかったのですから」
妖夢は深くうなだれる。
相当、反省しているのだろうと、その様子を見て紫は思ったが、扇子で口元を隠すとクスクスと笑った。
叱ったのではなく、『怒った』のだ。彼女に相談してきた幽々子は、妖夢が心配で堪らなそうだった。だからこそ、無事だった時に安堵し、同時に心配させたことに対して怒ったのだ。
妖夢が主人を一心に想っているように、幽々子にとっても、妖夢は大切な存在なのだった。
だから、たとえ主従の関係でも二人は仲睦まじいと思え、故に微笑ましかった。
「それで……」
「終りです」
そう言って顔を上げた彼女は、微かに笑っていた。不満はないとばかりに。
「でも、それで構わないのです」
「どうして? 」
「私は、幽々子様の為に生きようと思いました。今その気持ちは今決心として心の中にあります。だから、これからも幽々子様の剣として、幽々子様の為に在りたいんです。伝わらなくても、決心ですから。お仕えして、それを果たせることが、私の望みです」
言葉には強い意志が現れていた。
紫は懐かしくなった。自分も、藍にそんなことを言われたな、と。
そして、ふと気になったことを聞いた。
「レティを、恨んではいないの? 」
「はい。嵌められたとは言え、彼女のお陰で大切な存在を再認識出来たのは事実ですし……。だから恨んでませんし、私が死ななかった理由も、知ろうとは思いません。……自分のプライドに拘るのは、やめましたから」
妖夢とレティは、似ている。それぞれ、かけがえのない想いを持ち、その為に生きていた。
だから、生きて想いを全う出来ることへの幸いを、妖夢は感じていた。憎悪は生まれなかった。
紫は微笑んだ。
想いを持つことが、ほんの少し、羨ましかった。
「似てるわね」
「誰とですか? 」
「ん、ひ・み・つ♪」
誤魔化す様に、悪戯っぽく言いいながら、人差し指を立てた。
妖夢は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は詮索しなかった。
「さて、と。妖夢、幽々子を呼んで来て頂戴。博麗神社に、お花見に行きましょう」
「お花見ですか……? 」
「えぇ。まだまだ春は始まったばかり。幻想郷の桜も、楽しみたいと思わない? 」
「そうですね……。お花見はまだ催していませんし」
「じゃあ決まり。お願いね、妖夢」
「はい。分かりました」
妖夢はコクリと頷くと、箒を手に屋敷の裏手へ走って行った。
「さて、藍にも準備させなきゃね」
――――レティの分まで、春を楽しもう。良い春を、祈ってもらったのだから。
そして、紫はスキマの中に消えた。
幻想郷の春は、まだ始まったばかりだ。
サクサクと雪を踏み付け、蛇行し、わざと多くの足跡を描いている。
足元の厚く積もった雪をものともしない、軽やかな足取りだった。表情も柔らかで、楽しげだ。この遊びを通して彼女は愛すべき冬を、最後まで実感することが出来ているからだ。
やがて丘を上がると、彼方に森が見えた。辺りの銀世界から浮き出た森は、黒いベールのように横長く広がっている。
あの森の中に寝床があった。
「探したぞ」
すると頭上から声がした。凛とした声だった。レティは顔を上げ、声の主を見る。相手には見覚えがあった。まさか再び逢えるなんて。自分は機会に恵まれていると思い、やがてレティは穏やかな笑みを浮かべた。
「確か……白玉楼の庭師さんね。また会えて嬉しいわ。でも、次は斬る相手を選びなさい。雪女に春度なんてないのよ」
「どうでも良い。お前が寝る前に、訊いておきたいことがある」
「上から見下げている相手に、答える義理は無いわぁ」
妖夢は腰に手を当て、細めた目付でレティを見降ろしている。幼い体躯だが、腰に差した二本の刀も相まって、剣士の風格と言うモノを醸し出していた。
しかし寒さに赤らんだ彼女の頬を見た時、やはり可愛らしい印象を受けてしまい、レティは小さく笑いを漏らした。
彼女はレティと向き合う位置に降り立った。笑われたことを意に介さず、態度も一切変わりが無かった。以前は、問答無用で斬りかかって来たのに。笑みを湛えながら、案外真面目な話なのかしら、とレティは思った。
妖夢は暫くの間黙って、疑うような目で相手を観察していたが、やがて口を開いた。
「―――この長かった冬は、お前がもたらしたモノではないのか? 」
白玉楼の桜は満開だった。
全ての桜は、枝いっぱいに花びらを纏い、桃色に染まっている。風が吹くと花びらが舞い、風に流され四方に飛んで行った。
だが美しい花びらも、散り落ちた後はやがて腐り、塵に成り果ててしまう。
故に妖夢は、中庭に舞い落ちた花びらを掃き集めていた。
妖夢は桜が好きだ。春になれば鮮やかに咲き誇り、最後は美しい姿のまま、その身を散らせていく。雑念も余情もなく、ただ一心不乱に。そんな桜の生き様を見ると、そのような生き様で自らも在りたい、そのような志で主人に仕えたいと想うのだった。
西行妖の辺りを掃いていた時、地面の花びらの中に一枚の札が紛れこんでいるのを見付けた。
長い冬の異変の時、乗り込んで来た博麗の巫女が使った札だ。それがまだ残っていた。札を拾い上げ、妖夢は溜息を吐く。札などどうでも良かった。あの巫女が好き放題して行った挙句、主人を救い出したことを思い出して、溜息を漏らしていた。
「どうしたの。溜息なんか吐いちゃって」
驚いて振り向くと、そこには八雲紫がいた。スキマから優雅に身を乗り出し、これまた優雅な笑みを顔に湛えていた。胡散臭いことを除けば、辺りの景色にこの上無く似合う笑顔だった。妖夢は背筋を正すと、ペコリと一礼する。
「幽々子の様子はどう? 」
「ようやく体調も安定してきまして、今はおやつを食べたので、お昼寝をされています」
「そう。やっといつも通りの幽々子になって来たのね。良かった……」
心地良い風が吹き、掃き集めた花びらが、僅かに流れて散る。紫は目を細めた。
「気が気で無かったでしょう? 主人が、黄泉帰りかけた西行妖に取り込まれかけたんだから」
「はい……悔しいことこの上ないです」
「でも貴女は悪くないわ。幽々子の指示に従って春度を集めていただけだもの」
「そう言うことではないのです」
竹箒を握る手に力が籠る。
「……私は、主人である幽々子様の危機を前に何も出来なかった。無力で手も足も出なかった。傷の痛みに喘ぎ、地面でのたうち回りながら、西行妖に立ち向かう博麗の背中を見ているだけだった。それが……悔しいのです」
妖夢の独白を、紫は扇子で口元を隠しながら聞いていた。
紫は、主人を救えなかったことが妖夢の重責にならないか心配だった。彼女は、主人を敬愛してやまないのだから。
かと言って、慰めなど意味を成さないだろう。故に信じて見守るしかないのだった。
ここに来たのも慰めや、見舞の為ではない。
「自分に苛立っても意味はありませんね」
そう言うと、愛想笑いを浮かべた。
「……ねえ。ちょっと話があるの」
「なんですか? 」
紫は扇子を閉じ、妖夢を見つめる。
「レティホワイトロックを知ってるかしら? 」
「ああ……。はい、冬の妖怪ですよね。春度を集める為に、一度斬り付けたことがあります」
「彼女が、長い冬の元凶であるのかも知れないのよ」
妖夢の表情が固まる。
こうなることは予測していた。なのに敢えて言ったのは、幻想郷の管理者として真実を伝えなければならない理由があるからだった。そこに酌量の余地は、無い。
やがて妖夢は疑うように目を細めると、恐る恐る口を開いた。
「何故、そう言い切れるのですか? 」
まるでそうであって欲しくないと言いたげな、そんな願望が焦りとして表情に色濃く表れる。
ああ、やはり言わなければ良かった事なのだと紫は思った。
「春度を集めても、それは対象に自然と蓄積した「春」の概念を奪うだけで、四季そのものの春を奪っている訳では無かったのよ。確かに影響はあるけど、それは微々たるもので、冬を長引かせることは出来ない。だから、疑問に思って藍と最近調べたの。そしたら、幻想郷の各地に冬を意図的に操作した跡が見付かったわ」
「ですが、レティホワイトロックにそんな力は無い筈です! 私は彼女を斬り付けるとき、抵抗されましたが、大した実力はなかった」
紫の言葉が信じられず、大袈裟な冗談であることを願った。真面目な表情で語り掛けた言葉か冗談だとも思えないが。
「でも、彼女は寒気を操る。どの程度の規模で、どれ程気温を下げることが出来るか、それが明確に線引きされた能力ではないのよ。故に出来るとしたら、彼女だけ」
黄泉帰りかけた西行妖から主人を救えなかっただけではない。自分が異変に対し何ら無力であったことを、その事実は示していた為、妖夢は憤った。
自分の無力さが許せない、と。
「何故、私にその話を? 」
「幽々子に伝えて欲しいの。それに貴女にも知る権利はある」
「確証は……? 」
「無いわ。でも春度を奪ったことで、冬が長引いた訳ではない。これは事実よ」
下唇を噛む。僅かな可能性に縋るだけ無駄か、と妖夢は思った。
「幽々子によろしくね」
そう言うと紫は、緩慢な動作でスキマの中に戻って行った。
紫の話は主人に伝えるべき物ではないと思ったと同時に、伝えねばならない義務を背負ったことを、妖夢は感じた。故に悩み、せめての気休めにと掃除を再開した。
夜になっても、幽々子は眠っていた。
妖夢は縁台の上に、背筋を正し静かに座して、背後の寝室を警護していた。そこに主人が眠っているから。
縁台から中庭を望めば、池に浮かぶ水月が、舞い落ちた花びらを纏い煌々と輝いていた。水月を眺める表情はどこか物憂げで、時折落ち着きなく視線を彷徨わせていた。
彼女は、紫から聞かされた事実を、言うべきか、言わざるべきか未だに悩んでいた。
主人に隠し事は許されない。
しかし、主人を自分のせいで傷付けることも、同じく許されないことだと思っていた。
背後の障子がすーっと開き、白い寝巻姿の幽々子が現れた。起き抜けの、寝惚けた顔だった。はだけた胸元から、磁器のように白い肌が露われているが胸元を正そうとはしない。妖夢の前だから、気に掛ける必要も無いのだろう。
しかし当の彼女は、身体を向けることで主人の姿を見、顔を赤らめた。そして雑念を払うかのように、小さく首を横に振った。
「おはようございます」
「正確にはこんばんは、よ。何か変わったことはあった? 」
「幽々子様の様子を見る為に、紫様が来られていました。私が昼寝をしていると答えましたら、大層安心されたようでした」
「それだけ? 」
そう言うと、中庭の景色を眺めながら、口元を右手で覆い隠して小さく欠伸をした。
妖夢は言葉に詰まった。
良く考えれば、紫も同じ事実を共有しているから、異変の真相を、秘密にすることは出来なかった。そうなると、主人を欺くことは許されないと言う気持ちが勝った。
結局、選択は決まっていたのだ。
「……それと。冬の異変について、お話をされていました」
「どう言う話をしたの? 」
「春度を集めたから、冬が長引いたのではない。そうおっしゃっていました」
言葉を切り、上目遣いに幽々子を見る。彼女は無言のまま、小さく手を払う。話の続きを促していた。
「……冬が長かったのは、同時期に環境を操作したモノがいるからだそうです。その名は、レティ・ホワイトロックだと言うことも、教えてもらいました。彼女が犯人である確証は、まだないそうですが……」
「そう」
「…………」
「……そう」
幽々子は、立ったまま近くの柱に身をもたれた。妖夢は主人の無表情な横顔を、不安げな表情で見た。
不意に幽々子は笑った。自らを嘲る、渇いた笑い声だった。
「そうなの。私達のしていたことは異変ですらなかったのね」
そう言うと、月を見上げて深々と溜息を吐く。
「……結局、私達は何をしていたのかしら。異変を起こしてる気になって、勝手に満足してた。そしたら、私は惨めにも自分が黄泉帰らそうとした西行妖に取り込まれかけた。……ホント、何処のザコキャラよ。我ながら、馬鹿みたいね」
「ですが全て想定外のことでした」
「知ってるわ。……でも、そんなの今となってはそれも言い訳よ」
池で鯉が跳ねた。水面に波紋が生まれて、映り込む満月が千切れ四散した。
「外して頂戴」
「……分かりました。用がありましたら、お呼び下さい」
主人の複雑な心中を察した。
故に、それ以上は何も言わず、一礼するとその場を離れた。やがて廊下の角を曲がった後、西行妖の前で立ち止まった。
「本当に、お前と関わった者は碌な目に遭わないな」
そう西行妖を見上げて呟いた。
だが今は、冬を長くした理由を知りたいと思った。意図が合ってのことに違い無い。また、レティのしたことを何もせずに見過ごすことは、この上なく悔しく思えた。
妖夢の口から出た質問に、レティは微笑んだまま首を傾げた。
緩やかな風が吹き、二人の髪が揺れ、服が靡く。
「訊いてどうするの? 」
「冬を長くした理由が知りたいんだ」
「その事実に対して怒ったり、前みたいに斬りかかりはしないのね? 」
そう訊いた途端、ピクリと妖夢の眉が動くのを見逃さなかった。
「……これ以上、愚を重ねたくないだけだ」
「そう」
妖夢達の行為は無駄であり、異変も惨めな終り方だったことを知っていた。
それ故に、感情に任せて斬り捨てたことで、これ以上自分を惨めにしたくないのかも知れない。そう、レティは本心を推察した。
口元が、笑みに歪む。弱気な彼女が可笑しくて堪らなかった。
「貴女の言う通り、冬を長くしたのは私よ」
「どうして私達と同時期にやったのだ? 」
「時々、どうしようもなく自分を抑えられなくなるのよ。それで、貴女が春度を集めてるって知った時、良い機会だと思ったの。同時期にやれば私が疑われないから。退治されるのを楽しみにするなんて、馬鹿馬鹿しいわ」
妖夢は深く溜息を吐いた。あまりにもふざけた理由で、肩透かしを喰らった気分だった。
「虚しくならなかったのか? 」
レティは僅かに首を振ると、弾んだ声で言った。
「いいえ、とても楽しいかったわ。そして、今もね」
「……どういうことだ? 」
「可笑しいのよ。無力な貴女を見るのが。異変を起こしていると勘違いして、そして自分が無力だと思いつつも、この期に及んでプライドを守りたがってるから」
刹那、楼観剣を引き抜くと横に薙いだ。空気が低く唸りを挙げる。レティは微笑みながら後ろに跳んで避け、彼女はレティを睨んだ。
「図星だったでしょう」
「黙れ!! 」
地を蹴り疾走し、すぐさまその身に肉薄すると楼観剣を袈裟に斬る。レティは素早く跳びずさり、鼻先を切っ先が紙一重で掠めた。
冷静さを欠いていた。妖夢は立て続けに相手の懐に踏み込むと、渾身の力を込めて刀身を相手に突きだす。
刀身によって貫かれる直前、レティは身体を横に捻った。腹部を刀身が掠め、腕が前に伸び切る。その隙を逃さず、レティは彼女の片方の肩と脇腹へ腕を回し、抱き寄せて動きを止めた。
そして耳元へ顔を寄せ、囁いた。
「自分のことに関わると怒るのね。……そんなに自分のプライドが大切? 」
妖夢は、レティを睨み据えた。互いの鼻先が、今にも触れ合いそうだった。
「違う」
「いいえ、そうよ。主人の面子を台無しにした私を許そうとしたじゃない。これ以上自分の愚を重ねたくないがために」
「……違う」
「ねぇ、認めたら? 」
妖夢の唇がわなわなと震えた。否定の言葉は出ず、それが怒りだけの動作ではないことを察したレティは、くすくすと心底可笑しげに笑う。
やがて身体から腕を離して、三歩ばかり後ろに下がり向き合った。その様子からは、妖夢の本心を突いた魂胆を知ることは出来なかった。
「憐れね」
その一言に、歯を食いしばった。
自分が体面に拘っていることを。それ故に、主人を軽んじる気持ちが生まれていることを。
実直な彼女が、認められる訳がなかった。
――――ならば。
楼観剣を上から下へとゆっくり弧を描きながら降ろして行き、切っ先を背後に向け、腰の高さで構える。
自分の本心を知っているのは、レティ一人だけである。殺しはしない。レティを斬ることで、それらの気持ちを無いことにしようと考えた。
レティは、上空に向かって飛び上がった。
「貴女がやるなら、私も全力で抵抗するわ」
その顔は、この上なく楽しげだった。
妖夢は膝を曲げ、足裏に力を込めると次の瞬間には地面を蹴り上空へと跳んだ。パチパチと頬に、雪が当たった。
レティは、そんな彼女を悠々と見降ろしていた。
「舐めるなぁ!!! 」
レティに向かって吠えた。相手の眼前に到達すると、楼観剣を振りかざす。
「侮って十分よ」
レティは感情の籠っていない笑みのまま、そう言った。
楼観剣が振り下ろされる直前、目の前で突風が吹き、身体は仰け反り押し戻される。
尚も体勢を立て直すと、正面から雪風が起こった。中心を突くが、切っ先が届かない。
横殴りに突風が吹き付け、その勢いに体勢が崩れる。
妖夢は落下しながらも体勢を起こして、なんとか積雪の上に足を付いたが勢いを殺しきれず、辺りに雪を撒き散らして転倒した。
全身雪塗れ。
だが幸いにして、怪我は無い。積雪が柔らかかったのだ。
辺りの天候は吹雪に変わっていた。
遠くの山並みも、黒い森のベールも今は見えない。辺りは全て、吹雪と風に舞い上がる雪の白に覆い尽くされていた。
まるで自分一人だけ、違う世界に隔離されたような錯覚を、彼女は感じた。
これがレティの力か、と思った。これほどまでに、早く環境を変えられるのは予想外だった。際限のない理不尽な力だった。妖怪として、自由に冬を操るのだ。
(何が抵抗だ……。始めから力の差を知っていた癖に! )
「うざったい! 」
髪に纏わり付く雪を片手で払い、レティを探す為に上空へ跳んだ。
だが上空へ昇る程に吹雪は激しくなり、視界を遮る。遂には、その姿を視認することは出来なかった。
――――打てる手はない。
身体に突風が叩き付けられ、身を屈めた。相手は自分の存在を明確に察知している。このままでは一方的に嬲られてしまうだろう。故に、一時的にこの場から離れるべきだと考えた。
そして身を翻した時だった。
目の前に、レティが、いた。
咄嗟に斬りかかろうとして、指先がじかんで遅れた。
その直後、妖夢の身体は、衝撃で吹き飛ばされた。
積雪の上に強く身を叩き付けられる。腹部から湧き上がる違和感と激痛を感じて、蹴られたことを知った。それと背中の痛みが相まり、雪の上で呻き声を上げた。あばら骨の何本かは折れたと思った。
だが、いつまでも痛みに喘いでいることは出来ない。
楼観剣を地面に突き立て、身をもたれながら片膝を着く。そして痛みに顔を歪めながら、よろよろと立ち上がった。
だが、ゴウッと吹いた強風が、無抵抗だった妖夢の身体を持ち上げ、丘の下へと転げ落とした。
彼女は、うつぶせに倒れ、楼観剣は目線の先に落ちた。
視界が霞み、吹雪の音が耳にはぼやけて聞こえる。痛みも、感覚も無かった。
それ故に、自身に死が迫っていることを感じた。
春度を集めて、と頼んで来る、幽々子の無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
――――私は、お師匠様と誓った。この身と刀を、幽々子様の為に捧げることを。
――――自分に迷うあまり、それを忘れていた。
――――だが、ようやく気が付いた。
――――私は、幽々子様の為に、いるのだ。
――――だから今ここで、自分は死ぬ訳にはいかない……!!
プライドや体面など、彼女にとってはもうどうでも良かった。
それ以上に、主人の為に生を渇望した。
手と指先を必死に前に出し、ずるずると地面を這って、楼観剣の刃を掴む。握った指先と掌が切れ、傷口から垂れた血が雪を赤く染めた。
「……ッ……くっ……」
そしてゆっくりと、這いながらその場を離れ始める。
「――――何のために逃げるのかしらね」
その背後から声がして、恐る恐る振り返った。
丘の上に、レティがいる。
笑みはどこまでも凍て付いて、変わらず楽しげだった。
背後には、寒気が陽炎のように、高く、高くうねっている。
「いい加減貴女は、私がこんなことをする理由が分かったでしょう」
「…………」
「まだ分からないの…………? 」
やがてレティは、妖夢を見下ろしたまま狂ったように笑う。同情の欠片は一切見せなかった。
「貴女に気付かせる為よ。本当に大切な存在に。そして、それにより生に縋る弱々しい貴女が見たかった」
こうなることは、全て計算済みだった。
だから、レティは笑っていたのだ。
力ある妖怪の性か、はたまた憂さ晴らしなのか。いずれにしろ、それはこの上なく歪んだ悦楽だった。
「なら……もう十分だろう!! 」
悲痛な声で叫んだ。
「ダメよ。気付かせただけでは、ただの善意に成り果てるのよ? 私は、楽しみたいの」
レティの声は弾んでいて、その狂気に、妖夢は身震いした。
「貴女、本当の冬がどんなものであるか知ってる? 」
答える気力など、とうに、無い。身を横たえたまま力無くレティを見上げていた。
それを見てか、答えを待つことはなかった。
「――――冬とは、本当の冬とは、生命の眠りではない。死、そのものなのよ」
レティの背後で、寒気の深海と、雪の高波が、生まれた。
空の徒花達も、狂い舞う。
どこまでも果てしない白の情景。
それらは美しく、そして恐ろしかった。
「……止めてくれ……」
妖夢の目に、涙が浮かんだ。
「私って、ダメだから」
だが以外にも、レティが殺す相手に対して吐いた言葉は、自らを嘲けるモノだった。
間もなく轟音と地響きを立てて、丘の上から流れ落ちる寒気と雪崩。
それらは、難なく妖夢を呑みこんだ。
雪原の上をレティは、妖夢を抱き抱えて歩いていた。
雪に塗れぐったりとしてはいるが、息はある。死ななかったのは、奇跡が起こったからに違いなく、故に生きるべき運命なのだと彼女は思った。だから、酔狂にも妖夢を助けたのだった。
目の前に、一枚の桜花びらが舞い落ちた。
蒼く澄み渡った空を見上げれば、桜花びら達がひらひらと、風に吹かれて舞っている。
遠くにそびえ立つ四本の大柱の向こうから、桜花びら達が流れて出ていた。
「今なら幽明結界はなくてよ」
振り返る。
紫がスキマを開き、その縁に腰掛けて微笑していた。
「あら、随分と久しぶりね。……この子、頼める? 」
「貴女が届ければいいじゃない」
「嫌よ。この子の主人に見付かる危険を冒したくないもの」
歩み寄り妖夢の身を差し出すと、紫はその背中と腰に腕を回して、軽々と抱き抱えた。
だがレティは離れることなく、紫の袖を握り締める。そして目を細めて、斜めに見上げた。
「なぁに? 」
「私の前に現れたからには、何か他意があるのでしょう? 」
「偶然見付けたから、声を掛けただけよ」
「いいえ違うわ。私が犯人であることを、その子に教えたからでしょう」
レティは口元だけで、微かに笑った。
「惚けても無駄よ。私は完璧に証拠を秘匿した筈だった。なのにその子が気付けるとでも? 察知出来るとしたら、幻想郷の管理者である貴女以外に思い当たらないわ」
桜花びらの舞う中、二人は正面から見据え合う。不意に紫はクスリと笑い、片手を一気に降ると、袖を握り締める手を振り払った。
「そのムカつく弱者面、いい加減引き剥がしてやりたいと思ってね」
「幻想郷は全てを受け入れるのではなくて? 」
「弱者面しているのが問題では無い。こそこそと起こした異変の責任を他者に押し付けて、それを楽しむなんて卑怯な真似を、幻想郷の管理者として見逃せなかったのよ 」
「ではなんでその子に教えたの」
「それが役目だから。妖夢や幽々子が知ったら、何かしら行動を起こすでしょう。そうすれば、貴女の実力が白日の下に出来るかも知れない。妖夢が勝手に行動するのは予想外だったけど」
そこで言葉を切って、閉じた扇子で手の平を叩いた。
「でも、お陰で分かったわ。貴女の弱者面は完璧ではないようね。だから、異変を起こしたのでしょうけど。妖夢と戦った時も、弱者面を殴り捨てた。でもそれは好都合。あのまま続けてくれれば、自ら墓穴を掘ってくれるところだったから」
レティは肩を竦める。
「そこまで馬鹿じゃないわ。……と言うか、見てたのね貴女」
「えぇ、幽々子から訊いてね。妖夢に何かがあってはならないし」
その言葉を聞いて彼女は、気が付いたとばかりに手を叩いた。
「ああ。その子が死ななかったのは、貴女のお陰だったのね。……ふふっ……あっはっはっはっはっは……」
奇跡など無かった。紫や幻想郷を出し抜けなかった。そのことに気付けなかったことが、どうしようもなく可笑しくて、笑いを抑えることが出来なかった。
一方で紫は、表情を真剣なモノに変えた。
「今度は私が訊く番ね」
「貴女が? どうして」
「腑に落ちなくてね。貴女が、どうして弱者面を続けるのかって」
彼女にとって、答えにくい質問だった。
だが、自分から引き止めたのだから、答えるのが義理だと思った。
「ただの自己嫌悪よ」
「自己嫌悪? 」
「えぇ。全てを雪と氷で覆う、ありとあらゆる生の簒奪者である自分が、嫌いなの」
「だからと言って、冬の妖怪である貴女が、本質を否定し、隠すことは出来ないわ。その証拠に、弱者面が綻んでいるじゃない」
「ええ、無理は承知よ。……でも」
空を見上げ、舞い落ちる花びらを見て目を細めた。
「春に、温かさに、色に、私は憧れているの」
冬は好き。春は嫌い。
けど冬は、雪と白しかなくて、孤独だった。
春は、色に、生に満ちていて、温かくて、嫌いだけど、羨ましかった。
孤独だったから、寂しかったから。
だから、春に触れたかった。春の温かさを知りたかった。
でも、その想いは届かなかった。
自分の本質が、春に、温かさに触れることを許さなかった。
だから、彼女はずっと一人で。
そんな自分が、嫌いだった。
「だから私は本質を嫌い、隠し続けるのよ。……この先もずっと。決して、手の届かないモノを、思い続ける為に」
そう言って、微笑んだ。
微笑みは何処か寂しそうで、花びらを見る瞳には羨望の色が垣間見えた。
彼女は、自分の想いの為に苦しみ、葛藤しながら生きていた。紫は、そんな想いに意味はあるのかと、疑問に思わずにはいられなかった。
「私は、貴女の本質を否定しないわ。幻想郷は、全てを受け入れるのだから。だから、無理な想いにも区切りをつけるべきよ」
「いいえ、これで良いの」
「……苦しみ、自らを傷付けてまで想うことに意味があると言うの? 」
「えぇ。あるわ」
舞い落ちる桜花びらを、一枚、手の平で掬い取る。
それを眺めながら言った。
「苦しくてもね。想うことこそに意味があるの。……同時にそれが、私の生きる意味でもあるから」
淀みない口調で言った。
彼女の答えは、永く、心から想い続けたが故の達観であり、雪のように穢れの無い想いだった。
――――なんて、一途なのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
羨ましくはない。
だが、そんなレティが素敵と感じていた。
「……素敵ね」
つい、口に出してしまう程に。
「そう言われると、ありがたいわ」
「あら、そう? 」
「だって、私の想いを打ち明けたのは貴女が最初なのよ」
そう言ってクスクスと笑った。
久々に良い事をしたのかしらね、と紫は思った。
「そう……。叶うといいわね。貴女の想い」
ささやかなエールに、レティは笑顔で頷くと、ひらひらと手を振りながら背を向けた。
「―――ええ。ありがとう。貴女にも、良い春があらんことを」
そう言うと、元来た道を戻って行く。
その姿は、先程とは打って変わり、清々しかった。
姿は、だんだんと小さくなって行き、やがて真っ白な雪原に、溶けるように消えた。
それから程なくして、幻想郷に、今年初めての春風が吹いた。
妖夢は竹箒を手に、中庭に舞い落ちた花びらを掃き集めていた。
辺りの桜の多くは、どれも青々とした葉を、花びらの間から覗かせている。
冥界の春は、もう間もなく終わる。
だが一方で、幻想郷は春真っ盛りを迎えていた。
やがて、中庭を一通り掃き終え、集めた花びらを処分しようとした時だった。
その隣に、紫がスキマを開いて現れる。彼女は、スキマの中で座ったまま、その縁に肘を掛けてくつろいだ。
「おや。御花見ですか? 」
「遊びに来たのよ。貴女のお見舞いも兼ねてね」
「なるほど……。わざわざ、ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をする妖夢。
「思った以上に、復帰が早かったわね」
「はい。まだ痛みがありますが、庭仕事にさほど差し支えが無いので」
風が吹いて、掃き集められた花びらが舞い上がる。
紫はスキマに身を持たれ、妖夢は箒を手に立ち尽くし、その光景を眺めた。二人の眼差しは穏やかだった。
「……そう言えば、幽々子に謝ったんですって? 」
不意に、口を開いた。
「はい」
「なんて謝ったの? 」
妖夢は目線を彼女に向けた。
「プライドに拘って、軽んじていました、と」
「幽々子は、その時どんな感じだった? 」
「その……。怒っておいででした」
眉を寄せ、気難しい表情で言った。
紫はその答えに驚いて、目を見開いた。
「意外ねぇ……。そんなことでは、怒りはしないと思ったけど」
「いえ、私が勝手に出掛けたこと、そして殺され掛けたことに対して、怒っておいででした。そして、心配したと言われました。……申し訳無かった。私は、肝心なことに気付いてなかったのですから」
妖夢は深くうなだれる。
相当、反省しているのだろうと、その様子を見て紫は思ったが、扇子で口元を隠すとクスクスと笑った。
叱ったのではなく、『怒った』のだ。彼女に相談してきた幽々子は、妖夢が心配で堪らなそうだった。だからこそ、無事だった時に安堵し、同時に心配させたことに対して怒ったのだ。
妖夢が主人を一心に想っているように、幽々子にとっても、妖夢は大切な存在なのだった。
だから、たとえ主従の関係でも二人は仲睦まじいと思え、故に微笑ましかった。
「それで……」
「終りです」
そう言って顔を上げた彼女は、微かに笑っていた。不満はないとばかりに。
「でも、それで構わないのです」
「どうして? 」
「私は、幽々子様の為に生きようと思いました。今その気持ちは今決心として心の中にあります。だから、これからも幽々子様の剣として、幽々子様の為に在りたいんです。伝わらなくても、決心ですから。お仕えして、それを果たせることが、私の望みです」
言葉には強い意志が現れていた。
紫は懐かしくなった。自分も、藍にそんなことを言われたな、と。
そして、ふと気になったことを聞いた。
「レティを、恨んではいないの? 」
「はい。嵌められたとは言え、彼女のお陰で大切な存在を再認識出来たのは事実ですし……。だから恨んでませんし、私が死ななかった理由も、知ろうとは思いません。……自分のプライドに拘るのは、やめましたから」
妖夢とレティは、似ている。それぞれ、かけがえのない想いを持ち、その為に生きていた。
だから、生きて想いを全う出来ることへの幸いを、妖夢は感じていた。憎悪は生まれなかった。
紫は微笑んだ。
想いを持つことが、ほんの少し、羨ましかった。
「似てるわね」
「誰とですか? 」
「ん、ひ・み・つ♪」
誤魔化す様に、悪戯っぽく言いいながら、人差し指を立てた。
妖夢は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は詮索しなかった。
「さて、と。妖夢、幽々子を呼んで来て頂戴。博麗神社に、お花見に行きましょう」
「お花見ですか……? 」
「えぇ。まだまだ春は始まったばかり。幻想郷の桜も、楽しみたいと思わない? 」
「そうですね……。お花見はまだ催していませんし」
「じゃあ決まり。お願いね、妖夢」
「はい。分かりました」
妖夢はコクリと頷くと、箒を手に屋敷の裏手へ走って行った。
「さて、藍にも準備させなきゃね」
――――レティの分まで、春を楽しもう。良い春を、祈ってもらったのだから。
そして、紫はスキマの中に消えた。
幻想郷の春は、まだ始まったばかりだ。
季節感が感じられる良い雰囲気でした。
ちゃんと雪女してるレティさんww
カリスマレティかっこいいぜ!