「では霊夢さん、私はここで」
博麗神社の境内前。
私こと東風谷早苗は其処で、目の前の人間――霊夢さんに向かってぺこり、とお辞儀をした。
「もっとゆっくりして行けばいいのに」
「風祝の務めを疎かにする訳にはいきませんので」
「分かってるわよ、私だって巫女の端くれだもの。……それでも、そう思っちゃうんだからしょうがないでしょ」
ぷう、と頬を膨らませる霊夢さん。子供みたいだ。
これが人も妖も恐れをなす博麗の巫女と言うのだから。笑ってしまいそうになる一方で、嬉しさと、ちょっぴりの気恥ずかしさが心に広がっていく。
私は言葉を続ける。
「……明日になったら、また一緒に居られますよ」
「ん」
小さな頷きが返ってくる。その頬が緩んだように見えたのは、気のせいじゃないと思う。
そして、霊夢さんは一歩、私へと近づく。私も一歩、霊夢さんへと近づく。
――『またね』のキス。
それが、私と霊夢さんとの、別れ際の恒例行事だった。
外の世界では良く耳にする行為だったけれど、まさか私がする事になるなんて。しかも相手は女性ときたものだ。
あの頃の私が聞いたら、どんな顔をするだろう……なんて考えを巡らせていたら、霊夢さんの顔がもう、すぐ近くにあった。
私も瞳を閉じて、その時を待つ。もう指じゃ足りないほどに繰り返してきた事だけれど、今でもまだ、この瞬間は緊張してしまう。
霊夢さんの顔が近づいてくる気配がする。鼓動の音が霊夢さんにまで聞こえてしまうんじゃないかと思って、一層どきどきするけれど、私はその時をただ、静かに待って……
・
「……むう」
守矢神社の一角に設けられたお風呂に肩まで浸かりながら、私は唸り声を上げた。
「やっぱり今日も、だったなぁ」
そのまま口まで潜ってしまう。ぶくぶくと水面に泡が立つ。
神奈子様にでも見られた日には、お咎めものだったかもしれない。
……考えていたのは、霊夢さんとのキスの事。
と言っても、決して色めいた思考に耽っていた訳では無い。ただ、少し。ほんの少し、気になっている事があって。
『ここ数回、キスする直前、霊夢さんが躊躇している』
初めは気のせいかとも思ったけれど、今日のでほぼ確信に変わった。
慣れが出て、躊躇が無くなる事はもしかしたらあるかもしれない(慣れられたなんて言われたら、それはそれでショックだけれど)。けれども、それとは逆で。
「気にする程の事じゃないんだろうけれど、一旦気付いちゃうと、気にしないようにするのも難しいのよね……。よし」
私はある小さな決意をして、湯船から身体を持ち上げるのだった。
・
翌日、日も傾きかけた頃。
私は昨日と全く同じように、博麗神社の境内前で霊夢さんと向かい合っていて。
お互いに一歩近づいて、私が目を閉じて……
そして今日もやはり、昨日と同じように、僅かな時のスキマが開く。
私はそれが来るのを見計らって、ちらりと薄目を開けてみる――
「っ」
……私の瞼に飛び込んできたのは、霊夢さんの、矢鱈と構えた表情だった。
まるで、何かに挑みかかっていくような、勇気を振り絞っているような。
「(……そんなに身構えないと、キス出来ない人だっただろうか?)」
――頭の中で、カチリ、と変なスイッチが入る。
「(違う、筈。でも、だとしたら)」
――思考がぐるぐると回り始める。
「(もしかして、私とキスするのがちょっと嫌になって)」
――ぐるぐる、ぐるぐる。
「霊夢、さん」
「わわっ?……ど、どうしたの、早苗」
「あの、キス、嫌になったんでしたら、私は別に」
――いつしか私の口は、そのぐるぐるしたものをそのまま紡いでしまっていて。
「へ?」
「そんな、我慢させてしまうような事、私、霊夢さんにさせたくありませんから。だから」
――嫌だ。どうしよう、止まらない。
「ちょ、ちょっと」
「私は霊夢さんと一緒に居られたら、それだけで」
「早苗!」
私の肩を掴んだ霊夢さんの手の感触と、大きくなった霊夢さんの声に、私ははっと我に返る。
「……どうしたの、早苗」
「ふえっ」
「早苗」
優しく、私の名前を繰り返し呼んでくれる霊夢さん。
その呼び声は、私の結界をいとも容易く突き崩してしまって。
私はもう、私の瞼がぽろぽろと水を流すのを、とどめる事が出来なかった。
「ふえぇぇ~……」
そんな私に、霊夢さんはほんの少し背伸びをして、頭を撫でてくれて。
それが暖かくて、申し訳なくて、暫くの間泣き止む事が出来なくて――
・
「成る程、そーいう事、ね」
こくん、と頷く。鼻をすすったら、ずずっ、と音が響いてしまった。格好悪い。
あれから博麗神社の縁側まで手を引かれて、霊夢さんと隣り合って座って……漸く落ち着いた私は、溜め込んでいたものを全部白状した。
ここの所、キスする直前に霊夢さんが躊躇をしていたように思えたこと。
どうしても気になって確かめてみたら、その実、霊夢さんが構えた表情をしていたこと。
それに気づいてしまったら、不安がどんどん湧いてきて、堪え切れなくなってしまったこと。
「まさか気付かれてたなんてね……。早苗の鋭さを甘く見てたわ」
ま、私ほどじゃないにしろね。
そんな言葉を平然と付け足してくる辺りは霊夢さんらしいけれど……今の発言は、つまり、私の不安を肯定されたという事だ。
「理由、知りたい?」
私の言いたい事を読み取ったのだろう、霊夢さんが訊ねてくる。
私は再度、こくん、と頷く。
「はぁ……ごめんね。大した事じゃない、ほんっとーに大した事じゃないの」
自分の艶やかな黒髪をわしゃわしゃと乱暴に弄くりながら、謝ってくる霊夢さん。
私は霊夢さんが何を言おうとしているのか掴みかねて、きょとんとしてしまう。
すると霊夢さんは、私に向かって、おもむろに片手を持ち上げて――ぴしっ、と、私が着けている、蛇と蛙を模った髪飾りを指差した。
「理由は、それ」
「……これですか?」
髪にとぐろを巻く白蛇を示すと、霊夢さんはん、と頷いて、ぽつりぽつりと呟き始めた。
「……何時からだったか、その髪飾りがすぐ目の前にあると、どーも早苗んとこの神様に睨まれている気がしてね」
「神奈子様と、諏訪子様に……?」
「そ。だから、ちょっとばかり思い切りが必要になっちゃっただけ。……早苗とのキスが嫌になっただなんて、思って無いから。これっぽっちも」
霊夢さんの語気がちょっと強まる。
私はと言うと、ぱちくりと目を見開いて、霊夢さんを見つめていた。
……やがて、霊夢さんがふい、と視線をあらぬ方へと飛ばす。
耳が真っ赤に染まっている。照れているのだろうか。
私は、私の中の不安がかき消されていくのを感じるのと同時に……そんな霊夢さんを可愛らしい、と思ってしまった。
こちらのそんな感情を感じ取ったのか、霊夢さんは続く言葉を矢継ぎ早に飛ばし始める。
「全く、情けない話よね、私ともあろうものが。気にする程の事じゃ無いのに、一旦気付いちゃったら、気にしないようにするのも難しくってさ」
あれ?
その台詞、何処かで――
「……ふふっ」
思わずこぼした笑いに、霊夢さんの顔が再び、此方を向いた。
「何よ、泣いてたかと思ったら今度は急に笑い出して。気持ち悪いわね」
「ああ、いえ。……昨日の私と同じこと言ってるなぁ、って思いまして」
「そうなの?」
「はい」
我ながら現金なものだ。
霊夢さんとのそんな小さな共通点を見つけただけで、ついさっきまで澱んでいた筈の私の心は、嬉しさで一杯になってしまったのだから。
……改めて、私はこの人が大好きなのだなぁと、認識する。
「許して、くださいますか?」
私の神様達に、小さくぽそりと問いかけて。
私は霊夢さんに向き直る。
「じゃあ、今度から外して来ます。髪飾り」
「えっ」
霊夢さんが固まってしまった。よっぽど突拍子もない発言に聞こえたのか。
「そ、そんなあっさり決めちゃっていいの? 早苗、あいつ等からもらった宝物なんですって、嬉しそうに話してたじゃない」
「それはそうですけど。……私は、霊夢さんがしたい時に、したいように、私にキスして欲しいですから」
正直な気持ちだった。
勿論、お二人の事を蔑ろにするつもりは毛頭無い。
でも、大好きな霊夢さんとのキスは、私にとってやっぱり、本当に本当に大事なものなのだ。
「…………」
見ると、霊夢さんは口をぱくぱくさせている。真っ赤なのがほっぺたにまで広がっていた。
きっと私も、同じぐらい赤くなっているに違いなかった。
「……あーもう」
「きゃ!?」
突然、身体が圧迫感と温もりに包まれる。……霊夢さんに抱きしめられたと分かるまで、数瞬を要した。
「れ、霊夢さん……?」
「ありがと、早苗。踏ん切りがついたわ」
「ふえ?」
間近で霊夢さんに見つめられて、また間抜けな声を出してしまう私。
霊夢さんは私の背中に強く腕を回して、更に距離を詰めてくる。
私の顔と霊夢さんの顔、その間僅かに三センチ。
「これ、外して来なくてもいいから」
「え、でも」
「いいの。私、もう、あの神様達に遠慮なんてしてあげない」
霊夢さんの手が私の髪へと伸びて、髪飾りに触れる。
残り、二センチ。
「たとえ本当に見ていたって構わない。寧ろ、嫌って程に見せ付けてやる」
私は、その深い黒の瞳に射抜かれて、動けなくなって。
一センチ。
「それで怒鳴り込んできたら、退治してやるわ」
「や、幾らなんでもそれは――んっ」
ゼロ。
・
その日以降。
私と霊夢さんとの『またね』のキスは、それまでより少し、長く、深いものになりました。
早苗さんの前ではただの女の子になっちゃう霊夢が可愛いです。
やっぱり女の子同士のちゅっちゅはいいものだ。心が洗われる。
これが初投稿でちゅっちゅとは。やるな! 後書きには物凄く同意します。
気にするほどじゃないだろうけど~、っていう事、よくありますよね。
髪飾りの蛙と蛇が気になって、というのが良いなぁ。
些細な事が青春っぽくて、二人にぴったりでした。
そしてあとがきに猛烈同意です。
うん、素敵。
後書きには全俺が同意した。
いい関係ですホント。
ちゅっちゅちゅっちゅ!
やっぱりレイサナは最高ですね!
良い作品をありがとうございました!
甘い話をごちそうさまです