茜色に染まった、放課後の教室。
紅く染められた、彼女たちの笑顔。笑い声。
そのときが一番幸せだったかどうかなんて。
今になってもまだ、わからないけれど。
『Calling, Calling.』
かしゃん。
はっとして、早苗は足下を見る。
そこに音を立てて落ちたのは、桃色をした物体だ。お札くらいの、ポケットにすっぽり入ってしまうサイズ。
「ケータイだ」
ケータイ――携帯電話と、外の世界で言われていたそれが、早苗の足下に落ちていた。
古くなった服を処分しようと、タンスの奥から着ていない服を引っ張りだしたときである。
どうやら向こうで着ていた服のポケットに入ったまま、忘れられていたと見える。
出しかけた服をタンスにまた仕舞い込み直し、早苗は落ちたそれを拾う。お昼をすぎて傾きかけた日が、窓から差し込んでいる。綺麗な薄いサーモンピンクが、光を反射している。
◇ ◇ ◇
居間のテーブルにつき、先ほど見つけたケータイをまじまじと見る。
よく見てみれば、ピンク色にコーティングされた表面は、ところどころ傷つき銀色の地の部分が顔を出している。そんなに粗雑に扱った覚えはないのだが、昔の自分は思っていたよりもずっとがさつだったと見える。早苗は思わず苦笑した。
手に取ってみる。端に結わえられた蛇と蛙のストラップが、じゃらりと音を立ててぶら下がった。
「懐かしいなあ」
そうつぶやいてみる。
実際のところ、早苗にはケータイを使わなくなってから――幻想郷に来てから、そんなに時間がたっている実感など湧いていなかったが、とりあえずそうつぶやいてみた。
しかし、つぶやいてみても、やっぱり実感が湧いてくることはなかった。吐き出された言葉は、早苗の気持ちの上を滑って、午後の静寂に霧散していく。
――どうして今まで忘れていたんだろう。
確か、他の同年代の子たちがそうであるように、早苗にとってもそれは、生活必需品だったはずだ。肌身はなさず持ち歩き、起きている間中、かちかちとボタンをせわしなく押す。周りの人たちと同じように、それは自分のステータスであり、自分の一部だった。
それなのに何故。
早苗は、何とはなしにストラップをいじって思索に耽っていたが、思い立って開いてみる。しかし、画面は真っ暗だった。
バッテリー切れ。
当然だ。最後に充電したのはいつだったと思っている。少なくとも年単位の間、このケータイはタンスの中で眠っていたのだ。
念のため、電源ボタンを長押ししてみる。久しぶりといえどもさすがにそれなりに長い間親しんできただけあって、その操作は親指が覚えていた。昔とった杵柄という奴だ。
数秒間、早苗はボタンを押す。しかし、どれだけ待っても、ディスプレイには何も浮かんでこない。ただ、自分の顔が、闇の中から見返してきただけだった。
◇ ◇ ◇
別段欲しくもなかったものが、手に入らないとわかった瞬間欲しくなるのは、何故だろう。
ケータイに未練があるつもりはない。しかし、気付けば自室の机の引き出しをあさっていた。充電器を探すために。
しかし、なかなか見つからない。
ケータイという奴は、とにかくエネルギー消費が早かったと記憶している。だから、充電器だって、肌身はなさずとは言わないまでも、どこか目に付くところにいつも置いておいたはずだ。
もしかして、「向こう側」に置いてきたのだろうか。
考えながら、今度は押し入れの中を探そうと振り返り――
「何をがさごそやってるの?」
――いつの間にか目の前に立っていた人物に話しかけられ、仰天した。
それこそ飛び上がりそうになったくらいだ。いや、比喩ではなく、ここが屋外なら驚いて天高く飛翔していた。
「いきなり声をかけないでください、諏訪子様」
早苗は、自分を驚かせた相手に少しむくれて見せる。
ごめんごめん。悪びれた風もなく、諏訪子は笑った。
「何をそんなに真剣に探しているのかな、と思ってさ」
言って、興味津々とばかりに目を光らせる諏訪子。
その姿は、見た目の幼さと相まって、童女という言い方がしっくりくる。ぎょろりと二つの目を剥く奇怪な帽子が、それを台無しにしていたが。
「ああ、いえ、ちょっと――」
「あ、なにそれ。ケータイ?」
早苗が適当にはぐらかす前に、諏訪子は机の上に置いてあるケータイに目を付ける。目ざとい。帽子の目玉は伊達じゃないらしい。
「んー? 何だ、電源が入ってないじゃないの」
とてとてと小走りに机へ駆け寄り、勝手にぱかりと開けて、しげしげと眺める。
プライバシーも何もあったもんじゃない、と不満を言いたくもなったが、そもそもこの神様たちと同居している時点で、個人情報の保護だとかそういうものとは無縁に近かったので、今さらのことである。早苗は黙っていた。
「あー、そもそもここからじゃ、向こうに電波とどかないんだっけ」
「え? そうなんですか?」
きょとんとして、早苗が聞き返した。
何言ってんの。諏訪子は、呆れ顔で肩をすくめた。
「そう早苗が言ってたんじゃない。こっちに来てすぐ、ケータイかちかちやりながら、あれ、ここ圏外ですね、って」
そうだっただろうか。
曖昧な記憶の糸を、手繰り寄せる。確か、そんなことを、言ったような。
「それで、早苗はケータイのエネルギーを補充する機器みたいなのを、探してたわけ?」
「充電器のことですね。――ええ、でも、電源が入っても、電波が届かないのでは意味がないですね……」
携帯電話なんてものは、所詮コミュニケーションのツールの一種だ。同じものを共有している他者と通じ合うことで、初めて意味を成す。
早苗は寂しげに目を伏せた。そして、そのときになってやっと自分の気持ちに気付く。
――何だ、結局自分は、ケータイに未練があったんじゃないか。
早苗自身は、幻想郷での暮らしに慣れた気がしていたのだが、自分でも気付かないうちに自分の気持ちを押し込めていたのだろうか。
ふとしたことで心の綻びを見つけ、苦笑いを浮かべた。
諏訪子は、早苗の表情を見て何を思ったのだろうか。こちらもこちらで、少し気まずそうな顔をして、目をきょろきょろ泳がせていた。
「あー、うー……そうだねぇ。充電器ぐらいなら、河童に頼めば作ってくれるんじゃない? その差し込み口に合うようにプラグ作って、電気流し込めばいいわけでしょ?」
ぐっと両手で握り拳を作って、諏訪子は励ますように言う。一瞬、早苗は目を丸くしたが、次の瞬間、噴き出していた。
どうやら、早苗が軽いホームシックに似た望郷の念に囚われていると思ったらしい。
別に、そこまで感傷的になっているつもりじゃないんだけどなあ、と早苗は思いながらも、その気遣いは素直に嬉しく感じた。
「ええ、そうですね。じゃあ、にとりさんにでもお願いしてみましょうか」
◇ ◇ ◇
「やけに騒がしいと思ったら、何やってんだい」
「あ、神奈子様」
だんだんと日が傾き、西日が強く差し込み始めた居間。
そこに、のっそりと襖を開けて顔を出したのは、早苗の仕える二柱の片割れ、神奈子だった。
ゆっくりとした動作でテーブルについてあぐらをかき、大きくあくびをする。眠そうな眼を、乱暴にがしがしと擦った。
その姿はまるで寝起きそのものだ。今の今まで惰眠を貪っていたのだろうか。まさか、どっかのスキマ妖怪じゃあるまいし。
寝ぼけ眼で居間を見渡す。
「おやぁ、谷河童のにとりじゃないか」
隅の方で何やら作業しているにとりを見つけて、神奈子は鷹揚な態度で声をかける。
導線らしきものを弄っていたにとりは、いったん手を止め、神奈子の方へ向き直ると、
「へぇ。ちょっと、あがらせてもらってます」
固い表情でぺこりと頭を下げた。それから、また黙々と作業を再開する。
神奈子はその様子に、肩をすくめた。あまり畏まられてしまうと息苦しくてかなわないよ、神奈子は小声で言う。全くだ、と諏訪子も同意した。
どうにも妖怪の山の妖怪たちは、いきなり現れたフランクな神様に対してどういう態度をとったらいいのか決めかねているようにも見える。単に、にとり自身が人見知りというだけかもしれないが。
どうもこの子は堅苦しくていけないねえ、つぶやきながら、神奈子は首をこきこき鳴らした。
「で、何やってんの」
にとりの背中を横目で見ながら、神奈子は早苗に訊いた。
早苗は事のあらましを述べる。
神奈子は、へえ、とか、ふうん、とか適当な相づちを打ちながら、頬杖をついて、作業に没頭するにとりの背中を眺めていた。
早苗が一通り話し終えると、神奈子は、そうか、と頷き、目の前に置いてある湯呑を掴んでずずっと飲み干した。――「それはにとりさんのです」と早苗が止める暇もないくらいの早業だった。
神奈子は早苗の非難の視線にも気付かずに、またにとりの背中を眺める。早苗は、気付かれないように、そっと溜息を吐いた。
もっとも――。
早苗は、話している間も変わらずに作業を続けるにとりの背中を見やる。彼女はあの調子でずっと手を動かし続けていたから、とうにお茶も冷めていた。どうせ淹れなおさねばならないのだから、気にすることはない。
早苗は、お盆に空になった湯呑を載せ立ち上がった。
襖を開けて出ていこうとする早苗の背中に、神奈子の声がかかる。
「あ、私もうお茶いらない」
早苗はそれを笑顔で受け流した。
◇ ◇ ◇
台所で新しくお茶を淹れ直し、居間に戻る途中。
「や」
「あれ、諏訪子様?」
早苗は諏訪子と鉢合わせした。
てっきり居間で待っているものだと思っていたので、早苗は驚いて目を丸くした。
「いやね」諏訪子は、困ったように頬をかく。「あの子、私らが居たら作業しにくいかなあ、なんてね」
あの子――にとりか。
仏頂面したまま、むっつりと仕事をこなすにとりと、それをぼんやり見つめる二柱の様子を思い浮かべ、早苗は苦笑する。
おそらく、その場に居づらいのは諏訪子たちの方であろう。神様とは名ばかりの、堅苦しいことが苦手な二柱である。にとりだけが淡々と手を動かし続けるあの空間の何とも言えない重圧に、耐えきれなかったに違いない。
「ま、そういうわけだから、退散するねー」
早口にそれだけ告げると、諏訪子は回れ右して逃げるようにして小走りに去っていってしまった。あの様子では、おそらく、神奈子もすでに居間にいないだろう。
神様らしくないその姿を見送りながら、早苗はもう一度苦笑した。
◇ ◇ ◇
いつの間にか一段と強くなってきた西日に照らされて、居間が紅く滲む。
眩しくて、早苗は思わず目を強くつぶる。
数瞬してから、おそるおそる目を開けた。
紅く染められた見慣れた部屋の中、作業に没頭する背中はやはり変わらずあった。
夕日に照らされた背中が、その輪郭を不思議なほどにくっきりと浮かび上がらせている。その癖、早苗が目を細めている所為か、どこか全体像はぼやけている。
不思議な光景だった。幻影を見ているようだった。
その所為だろうか。――何故か、その光景を、いつかどこかで見たことがある、なんて思ってしまったのは。
その既視感を振り払うように、早苗は目を閉じて顔を伏せ、ゆっくりと首を振った。忘れた過去。無くした記憶。どうしてそんなものを思い出すのだろう。いまさら。
昔の私は、よっぽど粗雑だったと見える。ちゃんと縫い付けたはずなのに、こんなにまだ綻びが残っているではないか。
早苗は苦笑しようとしたが、上手く出来なかった。
「早苗」
目を開ける。
いつの間にか、目の前にはにとりが立っていた。どこか心配そうに、早苗の顔を覗きこんでいる。
伏せていた顔を上げると、彼女と目がかち合った。
可愛らしい、くりくりした大きな目。河底を映したような、澄んだ蒼い瞳。首を傾げた拍子に、頭の上の方で括られた二本のお下げが、元気に揺れた。
「すみません、ぼうっとしてしまって」
「大丈夫? 体調でも悪いの?」
「大丈夫です。何ともありませんよ」
早苗の言葉を聞くと、にとりは「よかったー」と大げさに胸を撫で下ろすと、満面の笑みを浮かべてみせた。踊るようなステップで早苗から離れてゆく。
陽気なその姿は、先ほどまでの彼女とは似ても似つかない。早苗は思わず笑みをこぼした。
にとりは、何かコードのようなものを手に取ると、軽い足取りで早苗の元に戻ってきた。
「お待ちどうさま。ほら、約束のもの」
手に持っているものを差し出される。
早苗は持っていたお盆をテーブルに置くと、それを恭しく受け取った。
だらんとぶら下がったコードの両端には、それぞれ形の異なる端子がくっついている。コンセントに差し込む端子とケータイに接続する端子だろう。早苗の記憶しているそれとは大分違う形状をしているが、急ごしらえとは思えないほどしっかり出来ている。上出来すぎるほど上出来だった。
「すごいですね、にとりさんは。こんなに簡単に作れてしまうんですね」
「いやあ、それほどでも……」
早苗としては、ごく素直な感想を述べたつもりだったが、にとりはこそばゆそうに頬をかいた。
「あの、まあ、ね。最近、似たような仕事を頼まれることがあってね。その所為で携帯電話周りの機器の取り扱いにはそれなりに慣れてきたんだよ」
取り繕うように、まくし立てる。
似たような仕事? はて、幻想郷にもケータイを所有する者が居るのだろうか。それなら是非ともあってみたいものだ。
「まあとにかく使ってみてよ。きっと上手く行くと思うんだ」
照れ隠しのように、にとりが続けて言った。
早苗は急かされるままに、受け取ったコードを、壁のコンセント(核融合による電力供給の実験のために試験的に設置されたものだが、今のところは特に問題なく使用できる)に差し込む。
そしてポケットからケータイを取り出すと、もう一方のプラグをその差し込み口へとあてがう。
なるほど、問題なく接続できそうだ。
少し力を強めて、差し込む。
そして、
――カチリと。
まるで、欠けていたパズルのピースがはまるような音がして、差し込み口にプラグが収まった。
早苗は、電源ボタンを押す。
数秒して、ケータイがゆっくりと起動する。光が溢れ出す。ケータイの機種が書かれたロゴが、画面に踊る――。
――やっほー。まだ起きてる? 寝てた?
――試験勉強進んでるー?
――明日の数学って、なんか宿題出てたっけ?
――聞いてよー。ユイの奴がさー。
――夏休みになったら、どっか遠く行きたいねー。
――あ、もうこんな時間。じゃあね。
――また明日ね、早苗。
ああ、覚えている。
覚えている。
着信履歴もメールフォルダも、そんなもの見なくたって、覚えている。
忘れてなんか居なかった。忘れた振りして、タンスの中に放り込んでいただけだった。
タンスの中で眠らせていただけだった。
早苗は、ボタンを押す。指が震えている。
どのボタンを押せばいいかは、指が覚えていた。震える指で、それでも迷うことなく入力する。
画面に表示される、11桁の数字。確認する。――間違いはない。間違えるはずが、ない。
胸に手を当てて、小さく深呼吸。
最後に通話ボタンを押して、静かに右耳に押しつけた。
即座に電子音が鳴る。プープーと、耳障りな音で、ここが圏外であることを伝える。ここが、あの時自分が生きていた世界とは違うことを、早苗に教えている。
それでも耳の奥には、いつかのコール音が聞こえたような気がして。
相手と繋がる感触を、確かに感じたような気がして。
早苗は、静かに目を閉じる。
息を吸い込んで、そして、
「じゃあね」
綺麗に笑って。
早苗は、優しくケータイを閉じた。
◇ ◇ ◇
「どんなもんよ。注文通りだったでしょ」
にとりが誇らしげに胸を張った。
「ええバッチリです」
早苗が素直に賞賛すると、にとりはまた、照れたように頬をかいた。実際、ちゃんと充電できたのだからすごいものである。
――もしかしたら、二度と使わないかもしれないけど。
つい、そう言ってしまいそうになったが、黙っていることにした。言わぬが花、知らぬが仏。世の中には知らない方がいいことも、往々にしてあるものだ。
「いやあ、それにしても疲れたよ。ぶっ続けで働いたもん。喉乾いちゃった」
「それなら、お茶をどうぞ。淹れてきたばかりですよ」
「お、ありがたい。それじゃいただこうかな」
にとりは、テーブルの上に置いたままになっていた湯呑みを手に取ると、ずずっと啜った。
ふと、早苗は気になって尋ねる。
「もしかして、気付いてなかったんですか?」
「ん、何が?」
「お茶」
「え? だから、今淹れてきてくれたんでしょ?」
呆れた。
作業に集中していたあまり、最初に出したお茶のことなど全く眼中になかった、ということか。
なんとも、まあ、集中力があるというか、猪突猛進というか。
もしかしたら、あの二柱が押し黙った重圧すら、作業に没頭するあまり全く気にしていなかったのだろうか。早苗は思わず笑ってしまった。
この人は、なんて自分勝手な人なんだろう。
なんて、可愛い人なんだろう。
「え、何? 何がおかしいの?」
「ふふふ……。いえ、おかしくなんてありませんよ。ただ、――うん。にとりさんは面白い人ですね」
「ぅえっ? うん……よく解らないけど、ありがとう?」
「どういたしまして」
奇妙な会話だった。
しかし、早苗にはそれがちょっと心地いい。また笑いだしてしまいそうになって、すんでのところでこらえた。
「もうそろそろ夕餉の時間ですね。にとりさんもよろしかったらご一緒していきませんか?」
「え、いいの?」
「いいんですよ。今日は頑張っていただきましたし、それに」
――神奈子様と諏訪子様に、新しい友達を紹介したいですし。
そう言おうとしたけれども、飲み込んだ。
まだ、その言葉は早い。いつか胸を張って言いたいけれど、ここは我慢だ。
代わりに、
「大勢で食べた方が楽しいですし、ね」
そう言って、早苗はおどけたようにウィンクしてみせた。
外での思い出を大切に思ってる早苗さんはすごく素敵だと思います。
朝から良いものを読ませていただきました。
スラスラ読めて面白かったです
それともいつか幻想郷でもメル友とか出来たりするのかしら。
いずれにせよ、携帯に残った思い出は消えない。素敵なお話でした。
読みやすいテンポの作品でした。
我々も近いものを感じられますよね。
幻想郷にはきっとこれから携帯電話が普及するはず……頑張れにとり!