――好かない
目の前で柔和な笑みを浮かべている顔を見て、そう思った。
穏やかな笑みはきっと見る人の心を安らがせるに違いない。
私も初めはそう思った。
けれど、今はどうにも疑問を抱かずにはいられない。
この表情の裏には何の思惑もないのか?
いや、きっと……
彼女の細められた目の奥に鈍い光を見た気がした。
ぐらぐらと不安定に揺れる心を落ち着かせようと目を閉じる。
瞼の裏に疎らな星が点滅を繰り返す。
普段は不快極まりないそれも、今は大して気にはならない。
深呼吸をして身体の空気を全て入れ替える。
澱んでいた肺の中が新たな空気によって浄化される。
そのまま息を止めてみれば、体中を新鮮な空気が駆け巡るのが確かに感じられた。
ほうっ、と軽く溜息を出す。
そんな私に、彼女は再び語り掛けてくる。
それを聞くとせっかくの落ち着くための努力も無駄になるというのに……
人の気も知らずに彼女は口を開く。
唇が形を変えるのが、やけにゆっくり見えた。
ゆっくりとした速度で、けれども、弾むような調子で。
その奇妙な声色に私の心は動揺する。
「人でいるのは、そんなに大事ですか」
――彼女が訪れたのは、ほんの数日程前のこと。
青い空に白い雲。
使い古された定型文そのままの陽気な日だった。
何の前触れもなしに突然やってきた彼女。
彼女と面識のなかった私が、家に何の用かと聞けば曰く、
新しくここらに越すことになったので挨拶に来た
らしい。
まさか此処にそんな殊勝な輩がいるとは思っていなかった私は、非常に訝しんだ。
しかし、結局彼女は幾つかの挨拶の言葉と沢山の土産を置いて帰って行ったのだった。
そして先日の挨拶に来た彼女が手土産にとくれたお茶菓子。
それがとても美味しくて、お嬢様がとても気に入られたのだった。
だからお礼に、と高級な茶葉を届ける。
そういう予定だった。
そう、それで終わりのはずだった。
それなのに、見慣れない様式の建物に好奇心を擽られ、勧められるがままに邪魔をしたのが間違いだったのだろう。
――案内されるままに行けば、畳の敷かれた六畳程の書院造りの部屋へと通される。
畳のどことなく残る青臭さと、日に焼けていない緑色が印象的で、毛布が無くてもきっと気持ち良く寝れるだろうと思った。
中央に置かれた背の低い机。
部屋の床の面積を結構な割合で占めるそれは、深い茶色で表面に浮かぶ木目の味わいを強めている。
あまり和物に詳しくない私だが、これが寂びと言うものなのかと納得できる代物だった。
目についた、机の側に敷いてあった座布団に座る。
障子越しに差す光が紙を白く輝かせる。
その柔らかな輝きは部屋全体を明るくする。
仄かな光に照らされた室内は、照明器具を使わなくても、十分な明るさを保つ。
そんな趣ある光景に私は一人感嘆するのだった。
それにしても……始めは、どうにも慣れない和室に違和感を感じたが、いざ、腰を落ち着けてみると、案外快適なんだなと思う。
これからは和室に対しての評価を改めねばなるまい。
――程なくして、彼女がやって来た。
障子を開く彼女の長く伸びた髪が、日の明かりに照らされて輝いて見えた。
私の髪も伸ばせばあんな風な艶やかで輝く髪になるのだろうか。
つまらぬ考えだと一蹴する。
静かに彼女が部屋へと入ってくる。
衣が擦れる音が聞こえる。
流れるような動作で彼女が座布団へと腰を下ろそうとした。
その時、ドン、という鈍い音と机が軽く持ち上がる程の衝撃があった。
何事だろうかと内心動揺する私。
そんな私を尻目に、彼女は何もなかったかのように席に着く。
ただ、本人はこっそりやっているつもりなのだろうが、私は気づいていた。
彼女が正座をした脚の脛の辺りをしきりに撫でているのを。
――お茶で口を潤し一息ついたところで、改めて先日のお礼を言う。
すると向こうも、丁寧にお礼を述べるのだった。
二人して頭を下げあう。
そのやり取りがどうにも可笑しくて、どっちと言わず、笑いが漏れるのだった。
――淹れたての緑茶が食道を流れる。
口内よりも僅かに温かい温度のそれは、胃に辿り着くと、しばらく留まった後、何の前触れもなくふわりと霧散する。
渋みによって仄かな甘みが引き立てられている。なかなかに味わい深いものだ。
続いて、湯呑みの隣に置かれた菓子に手を伸ばす。
透明感のある黒い色の四角い羊羹だ。
茶の湯気に暖められた甘い香り。
それを嗅いでいれば、口にせずとも頬が落ちそうだ。
爪楊枝を使って持ち上げれる。
澄んだ色を宿したそれは、向こう側が今にも透けて見えそうだ。
適当に当たり障りのない世間話をする。
里に新しい店ができただとか。
何処そこのお菓子が美味いだとか。
そんな話しだ。
けれど、私には普段からそういったことを話す相手がいなかったので、随分と新鮮に感じられた。
後になって考えれば、何も面白くもない話だったと思うが、それでも彼女はとても楽しそうに相槌を打ちながら話を聞いてくれた。
私は自分でこんなにも饒舌だったのかと驚く程に、様々な話が飛び出していく。
彼女が知りたがるので、ついつい調子に乗って今までの異変の話をしたりもした。
そんな話しをしながらゆっくりと湯呑みの中を減らしていく。
湯呑みを軽く揺らせば、中で砂粒程の茶葉が踊る。
右へ左へ、はたまた上へと予想もできない動きをする。
何が面白いのかと聞かれれば、答えに窮する。
だが、なんとなく見ている分には案外、飽きが来ないものだ。
会話は途切れ途切れで、無音の時間の方が長い。
けれど、そんな空間でさえ、居心地の悪さを覚えることや、緊張することがないのは、偏に彼女の持つ穏やかな雰囲気の成せる技だろう。
立って居るだけで、恐いと言われることがある私には、一生かかっても、真似はできそうもない。
はあ、と長く息を吐く。
その後で、人前でするのは流石に失礼だったな、と慌てて謝る。
気が弛むのもきっと彼女のせいなのだろう。
しかし、彼女は礼儀がどうこうよりも、私の溜息に興味があるようだった。
しつこく理由を聞いてくる彼女に多少うんざりする。
だがまあ、そういうお節介なところも彼女の性格なのだろう。
私はやれやれ、といった感情と共に軽く頬を掻く。
お茶を喉へ届ける。
口から食道、そして胃へと温かな塊が落ちていく。
もう一度、溜息をつきそうになって、慌てて抑える。
眉尻を下げた彼女の顔が目に映る。
私のことを心配しているとでも言うのだろうか?
本当にお節介な性格なのだな、と思わずにはいられない。
仕方ないな。
そう、心の中で溜息をついた。
でも、きっと、この世話焼きの性格が、彼女の下に沢山の者達か集う一因なのだろう。
そう考えれば、やはり、私が彼女のようになれるはずがない。
「私は人間なのに皆から恐がられる。あなたは人間じゃないのに多くの者に慕われる。この違いは何だろうな、と思ってね」
まあ、誰に言っても仕方のないことなのだけれども……
どうしてか、言葉はまるで湧き出る源泉のごとく流れ出たのだった。
彼女の顔を見るのがなんだか気恥ずかしくて横を向く。
障子の隙間に一筋の線ができている。
彼女が入って来たときに、閉まりきらなかったのだろう。
光の筋は床で折れ曲がり室内へと続く。
それから、霞んで、消えていく。
「あなたはずるいわね」
愚痴だなんて私らしくないと、適当に流そうと思って言った言葉。
多少のイヤミが混ざってしまうのは、私の本心もそう思っている節があるからだろう。
けれども、彼女は深い意味を持った物と捉えたらしかった。
「確かに卑怯かもしれない。だけど、人でなくなったからこそ、分かることも沢山ありますよ」
これは多分、元人間でないと分からないでしょうけど。
半ば独白のような感じで語り続けた彼女。
その顔に僅かばかりの陰りを見た気がした。
きっと外では太陽が雲にでも覆われてしまっているのだろう。
障子越しに差し込んでいた明かりは鈍り、部屋の中は薄暗くなった。
「それに、あなたも相当ずるいでしょう。」
彼女の言葉に首を傾げる。
心当たりがないかと色々思い返して見るが全く思い当たらない。
冴えない顔の私に対して彼女は眉と眉を少しばかり近付けて言う。
――だって、あなたは人間でしょう。
風の音がする。
障子の隙間から吹き込む風が、湯呑みから立ち上る湯気を揺らす。
私と彼女しかいない部屋の中で、もう一つ小さな部屋でも在るのでは、と思ってしまうほどに息苦しさを覚えた。
「あなたは死んでしまうでしょう。周りより早く。確実に。」
――残された者は、どう思うのでしょう
訊ねるように少し身を乗り出してくる。
本当に少しだけなのに、まるで触れる程に近寄られたような鬱陶しさと圧迫感を覚えた。
目を閉じる。
腕を組んで耳を澄ます。
隙間風の音と私の呼吸が聞こえる。
しばらくそれを意識していると、少しだけ余裕ができた気がした。
そうして、彼女の言葉を私の中でゆっくり吟味する。
もちろん、私だってそのくらい考えたことはある。
赤の他人に指摘されるまでもない。
しかし、そんなことは分かるはずが無いではないか。
それぞれがそれぞれに心を持っている。
それを推し量ろうというのが、そもそも、おかしいのだ。
私が死んだら悲しむ?
何とも思わない?
そんなことは、きっと、その時にならないと本人にも分からないだろう。
だから、私は彼女の言葉に返事はしない。
口の中が酷く渇く。
舌の上に粘度の高い唾液が僅かばかり溜まって、とても不快だ。
しっかりと両手で湯呑みを持ってお茶を飲む。
水分を求めていたはずの口内は、何故だかお茶を受け入れないつもりらしい。
先程までと違ってお茶の旨味は感じられず、随分と淡白な味気なさしか感じなかった。
「人でいることはそんなに大切なことですか」
今までと同じ穏やかな声。
けれど、今までとは異質な物を内包している。
どこか、背中に悪寒を走らせる冷たさを持っている。
見知らぬ誰かに撫でられるような感覚。
心がぞわり、とどよめき立つ。
だが、聞く者を安心させる温かさも含んでいる。
その相反する二つを混在させることができるのは、やはり彼女の力なのだろう。
なるほど、魔性とはこういうことを言うのか、と私は一人納得した。
彼女の声を聞くと無性に胸の奥が疼いた。
人に触れて欲しくない物に触られたような不快感。
きっと、瞼の向こう側では、いけ好かない笑みを浮かべているに違いない。
「当たり前よ。人間でなくなれば、私は私でなくなるわよ」
目を開いて相手の瞳を見つめる。射抜く程に力を込めて。
再び部屋に光が満ちる。
雲が通り過ぎたのだろうか。
「そうですか」
彼女は何かを噛みしめるように一呼吸を置いて、再び言葉を紡ぐ。
「私も昔は人間でした」
まるで私に説法でも垂れるかのような態度に諭すような口調。
本人に自覚は無いのだろうが、私は見下されているように感じてしまう。
本当は、私がひねくれ者なのが悪いのだけれど……
黙りを決め込む私に彼女は目で何かを訴えてくる。
何を伝えたいのかは全く分からないが……
とりあえず首肯してみれば、彼女は、また口を開いた。
「人から人でない身になっても、中身は大して変わりませんよ」
脚の上に置いた拳を握る力が自然と強まる。
彼女の言葉を聞けば聞くほどに私の心が彼女を拒否する。
そう、こいつと話せば話す程、私は私を見失ってしまう。
とでも言いたげに……
真っ直ぐに彼女を見ていられなくなって、机へと視線を流す。
ぐるぐると渦を描く木目。
それは、蜷局を巻く蛇のようにも、こちらを見つめる眼球のようにも見える。
「だから、あなたの言う心配、はありません」
私は下を向いているはずなのに……
彼女と向き合っている感覚が消えることはなかった。
――私が私でなくなる。
大切な人の誘いさえ断った理由ですら、いとも簡単に無くしてしまう。
徐々に自分を崩されてしまう感覚に身体の芯が冷めてくる。
心の蝋燭が燃え上がる。
人の防衛本能というやつなのだろうか?
彼女を危険だ、と排除しようとする心がある。
しかし、何故だか、彼女ともっと話をしたいという気持ちもある。
相反する感覚に戸惑う。
そして、心が叫ぶ。
――理解できない
と。
こいつのことは私には何一つ理解できない。
もしかしたら理解したくないのかもしれない。
そう、こいつは以前、人々から慕われていたと聞く。
そして、それをわざわざ裏切るような真似をして、追いやられたとも聞く。
何故そんなことをしたのか……
人の冷たさをよく知っている私には、そんな行動は理解不能だ。
棘に覆われた私の敵意。
それすら包み込むような穏やかな笑みが鼻につく。
黙り込んでいる私に声が掛かる。
人を落ち着かせるであろうゆったりとした声も、今の私には逆効果でしかない。
「あなたが人で在りたいのは、人に成りたいから」
違いますか
そう念を押される。
私は喉の奥で呻く。
心臓を鷲掴みにされているとでも表現すればいいのだろうか。
胸の奥に鈍い痛みを感じる。
「人として恵まれなかったから、人として、幸せを得たい……そんなところでしょう」
どうしようもなく心が荒れる。
私の隠して置きたい物が次々に暴かれていく。
これ以上、踏み込ませまいと心が今までより更に、深く大きく唸り声をあげる。
そんな不穏な空気を察したのか、彼女は
余計な詮索でしたね
と頭を掻くのだった。
――私は彼女を怖ろしいと思う。
短時間の内に心に入り込むその才能。
そして、人だったが故に人の弱さを理解している。
そう思えば、彼女は私よりもよっぽど悪魔と呼ばれるに相応しいだろう。
人の面をした悪魔
とは良く言ったものだ。
押し付けられるようにして渡された土産を入れた袋が揺れる。
私としては土産なんて遠慮をしたかったのだが、向こうはどんなに言っても聞いてくれず、結果的には押し切られてしまった。
溜め息が出そうだ。
こういうのに変なこだわりがあるお嬢様が見れば、きっとまた、何かを持って行けと言うだろう。
もう一度あそこに行くのは勘弁願いたい。
彼女の顔を思い出しながらそう思った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
――障子を開く。
日の傾きのせいか、今はこの部屋に明かりが差すことはない。
風が私の髪を攫いながら部屋へと吹き込む。
そして、澱んだ空気を絡め取って行く。
たっぷりと息を吸う。
暖かで爽やかな空気が肺を満たす。
身体に力が漲りまるで生まれ変わったような錯覚。
ゆっくり息を吐く。
身体の中の悪いもの全てを乗せるつもりで。
私の息が空へ溶けていく。
それを見届けて、障子を中程まで閉める。
座布団に座り、急須から新たなお茶を注ぐ。
時間が経ったせいか、湯気は昇らないが湯呑み越しに伝わる温度は高い。
湯呑みを揺らして、中のお茶を一回転させる。
そうして口に流す。
程良く飲みやすい熱さだ。
一息ついて、あの子のことを思う。
あの子の噂を聞いた時、会いたいと思った。
人外の暮らす館で、ただ一人の人間。
これほど、私の興味を引く人物は、そういないだろう。
妖怪を偏見なしに見る。
そう、それは人でなくなった私には不可能なこと。
だから、彼女こそ私の理想に最も近い人間。
また遊びにでも来てくれればいいな。
そう思うのだった。
人間をやめたから気付くこと、人間をやめたから捨ててしまったもの。
二つの対比が見事で、思わず考えさせられます。
咲夜さんと違い、白蓮さんの方には「また来てほしい」と言える余裕があるのは、
偏に老成された気質ゆえでしょうか、とか言ったら怒られるかな。
この咲夜さんは人里の男とでも恋をして、しっかり人間と付き合って、一度はヒトとしての赦しを得るべきだよ。
そうじゃないとこの蟠りは消えやしない。人間として死にたいのなら今の儘じゃきっと駄目。
というか、創想話には確かそんな話もあった気がする。
次はもっと楽しいお茶会になったらいいなと思ったり。
白蓮さんに悪気が無いだけに、咲夜さんも対処に困るんだろうなぁ。
まぁ、結論を急ぐ必要はないと思いますよ。まだまだ時間はあるんだから、ね、咲夜さん?
話は変わるというか、ぜんぜん関係ないというかなんですけど、作者様のお名前地味に好きです。
貴方のHNを見る度に、スカーレット姉妹が万歳の恰好で「「もえて、ドーン!!」」と叫んでる
情景が何故か頭に浮かんでくるんですよねぇ……
白蓮がいい。
そして私も名前好きです。
おもしろかったです。
何にも心に残らないまま話が終わってるんだけど