多々良小傘は憤慨していた。それはもう憤慨していたのである。
なにせ彼女は、自身が唯一認めた、生涯を競い合うだろうと決めつけた永遠の『ライバル』の裏切りを知ったばかりなのだ。全く、幻滅も良いところであった。
事の始まりは昨日、夜風の心地よい人里の外れであった。厚い雲に覆われた空に、人の孤独感を煽る闇が引き立つ一時だ。小傘はほぼ日課と成りかけていた、彼女を彼女たらしめる行為をするべく、そこに赴いていた。それ即ち、人を驚かせることであった。
手に持ちたるは、高貴な紫の美しい一本の傘だ。自身の分身であるそれは、べろんと伸びた舌が見る者の背筋を凍らせ、真っ赤な一つ目が腰を抜かせる、まさしく人間を驚かせるためだけに存在するような、恐怖の権化である。
……最近では成果の怪しいところではあるが、それは単に運が悪かっただけのこと。人選を間違えていたのだ。なんでもありの幻想郷である。遺憾ながら、今さら化け傘など取るに足らないと、こともあろうに馬鹿にさえしてくる輩もいる始末だ。非常識である。
とはいえ、長い時を人の心を糧に生きてきた小傘だ。
時と場と相手が整えば、人間を驚かすことなど造作のないことである。
彼女ははっきりと、その心中で断じていた。……一人で断じるぐらいはいいだろう。
その日も小傘は、不屈の決意を胸に、そこらの茂みにでも隠れて、手頃な驚かしやすそうな人はいないかなあ、などと思っていたのだ。
あの時の彼女は期待と焦燥がない交ぜになった、不思議な高揚感に酔っていた。それは久しぶりの感覚であった。なぜかと問われれば、その答えは彼女の行動範囲にある。
幻想郷で常識のある、もとい驚かせる人間のいるような場は、彼女もそこら中を飛び回ったのだが、人里ぐらいのものであった。あと見かけたところというと、どこも妖怪の住処か、でなければ妖怪よりも恐ろしい何かの住処ぐらいのものだったのだ。それ故のことだ。小傘はここしばらくの挑戦で、たぶん案内を頼まれたら無難にこなせるぐらいに、里には詳しくなってしまっていた。
これではいけない、と小傘は思ったのだ。
無視されることに慣れてどうする。馬鹿にされることに慣れてどうする。
ここは気持ちの切り替えが必要だ。つまりは状況の転換が必要である。
いつも隠れ潜んでいるような、お決まりの立ち位置では効果は見込めない。
今回は控える場所を変えようとしたのだ。
そう思って、小傘は日の出ている間中、悩んだ末にそのポジションを選んだ。ただ無闇に寂しい、人気が本当にないところである。雰囲気は良いのだが、いかんせん相手がいなければ、その絶好の環境も活かせない。普段は通りかかるだけの場であったのだが。
まあ気分転換のつもりでもある。
小傘は辛抱強く待っていた。時折聞こえる鳥の鳴き声に空を仰ぎ、たまに傍をぶんぶんと飛ぶ羽虫を手で追い払って、無為に限りなく近い時間を過ごした。
どれほど後のことであろうか。彼女がちょうど大きな欠伸をして、もう帰ろうかと諦めかけていた頃だ。ろくに灯りもない夜である。見にくくはあったが、オッドアイをすぼめた小傘は、確かに人らしきものの姿を捉えた。
よっし!と、思わず上げそうになった声を、小傘はかろうじて引っ込めた。口元を押さえて、逸る気持ちを抑えて、冷静に事を進めようとする。
体型からして、まだ子供だろうか。微妙だ。女の人……かな。決して向こうに悟られぬよう注意を払いながら、小傘は情報を集める。目を必死に凝らす。
とぼとぼと、そのヒトはおぼつかない歩調だった。足が悪いのか、それとも行く先に不安や疑問があるのか。とにかく、やたらに緩慢である。
それにしても、とこの辺りで彼女の心中には疑念が渦巻きはじめた。
あの人間は何をしようというのだろうか。徐々にこちらの方に歩んできている。いや、小傘としてはそれで良いのだ。向こうから近付いてきてくれるのなら、そのほうが都合がよい。このまま姿を隠して、目の前を通り過ぎたときを狙って、こう、うらめしや~とでも言えば完璧である。
だがその先を行けばどうなるのか。人間の里の外に出るのである。小傘は嫌な予感にどうしても気分が落ちてしまう。こんな夜中に、ごく自然に、人里を出ようとする者。
十中八九、人間ではない。
そして、相手が妖怪の類となければ、自分に驚くことなど万に一つもないだろう。
………。
……しかし、小傘も随分と我慢をしたのだ。その結果が、そのような報われないものだとは信じたくもない。あくまで自分の運を信じて、小傘は息を潜めた。
その願いが通じたか否か。そのヒトは足を止めた。ちょうど人里とその外との境界を隔てる、背の低い柵の近くだ。ちなみに、かのヒトは女性のようだ。これぐらいの位置からならば、判断ができる。十代中頃の、年若い娘ではなかろうか。
小傘はほっと胸を撫で下ろして、改めて作戦を練る。
よし、決めた。
小傘は大した時間もかけず、決断した。標的たる彼女の周りには、障害物らしい障害物もない。隠れ潜んで、油断している時に、わっと驚かす、みたいなのは無理だ。
なれば空からというのはどうだろうか、と考えたのである。見る限り、あの娘はずっとうつむいている。上方にはまるきり気を払っていないだろう。そこを利用するのだ。ひらりふらりと音もなく彼女の頭上に忍びより、それから思いっきり急降下して娘の前に立つ。その時点でもびっくりだろうが、彼女の手には自慢のお化け傘だ。
いける。ぜったい、いける!
小傘は知らずに笑みを浮かべていた。さあ、やるぞと自身を奮起させて、だけど勢いづきすぎないように飛び立つ。ゆっくりと彼女との距離を近づけていく過程で、その容姿をより正確に認めた。
髪は短めだ。手入れが全くされていなくて、乱れに乱れている。なんだか鴉を頭に乗せているようで、小傘は少し可笑しく感じた。肌が白い。病的とも言える白さであった。
なるほど、と小傘は娘を見て思う。姿見がなかなか掴めないわけだ。服装が、闇に溶け込むような黒一色である。ワンピースに大きなリボンが……、と。小傘はようやく彼女のすぐ背後に回った時に、気付いてしまった。背に生える、奇異な翼である。赤と青のそれは、小傘の知る限りでは、一人の妖怪しか持ち得ない。
なんでこんなところに、と小傘はきょとんとした。
そして、遅れて彼女に対する反発心がむくむくと膨れ上がる。
封獣ぬえ。『正体不明』の妖怪である。
小傘は彼女を知っていた。彼女が地底から這い出てきた時から、宝船の一件が済んだ頃からの付き合いである。発端は、彼女が小傘の標的を奪ったことからだった。
あの時の敗北感と言ったらなかったものだ。小傘は今思い出しても顔をしかめる。
ちょうどこの日のような真夜中、彼女は珍しく子供を見かけたのだ。歳が二桁いくかいかないかといった程度の子供である。二人組の男の子たちで、会話を聞くに、度胸試しでもしようということらしい。あろうことか人里の外に出るつもりだったようなので、それの制止もかねて、驚かしてやろうかと小傘は考えていたのだ。
その結果が、ひどいものだったのである。驚かすどころか、笑われてしまったのだ。けらけらと指をさされて、笑われて。時代遅れだと言われてしまった。子供たちにまで馬鹿にされて、小傘もさすがに自分がみじめに思えたものだ。泣きたくもなった。
そんな時である。耳をつんざくような咆哮を聞いたのは。颯爽と空に舞い上がった、その見るもおぞましい巨躯を瞳に映したのは。
一度瞬きをすれば、それはぶくぶくと肥え太った、醜く不気味な化け狸であった。もう一度瞬きをすれば、それは大きく口を開いた、見ているだけで卒倒しかねない大蛇であった。さらに瞬きをすれば、それは猛り狂う、眼光鋭い虎であった。
わあ、と小傘は自然と声を漏らしていた。
目の前に突如として現れた妖怪は、まさしく、多々良小傘が望む『恐ろしい妖怪』の理想像であったのだ。
背後の子供たちが、鼓膜が破れるような悲鳴を上げて逃げいていくのを察した。
妖怪である自分が、恐れを喰って生きてきた自分が、『怖い』と思ったことも、小傘は認めた。すごい、と呟いた。妖怪だ、と恍惚とした表情で、小傘は零したのだ。
やがて。
茫然とする小傘の前に、見知らぬ妖怪が降り立つと、あれ?と彼女は首を傾げた。
おかしい。目の前の、自分にすら恐怖を抱かせたはずの、妖怪を見て、思う。
ただの……少女だ。小傘は口をあんぐりと開けたまま、目をぱちくりさせた。
少女はそんな小傘の様子を存分に眺めると、やがて、にひひと笑った。
それが小傘とぬえの、初めての出会いであった。
あの後。全てのタネあかしをされた小傘は、いきり立って彼女をライバル認定したものである。なにせ自分が驚かそうとしていた標的を奪われたのみならず、自分自身すら虚仮にされてしまったのだ。しかもそのやり口というのが、また狡い。
完全に能力に依るものである。正体を判らなくする程度の能力。自分というものの定義を揺らがせて、見る者の想像に任せる、その時その場の見る者にとって最も『自然な形』になり得る能力によって、ぬえは小傘たちを驚かせたのである。
あの結果も道理だろう。怖いものを求めて外を出歩いていた子供たちと、怖いものを常に目指す小傘が、人外の咆哮とともに現れたものに、何を期待するか。
つまらない真相であった。到底、負けを認めるには足らない真相だ。
妖怪の恐ろしさとは、手品で表すものではない。
私はあくまで『私』で人間を驚かせてきたのよ。
小傘は、誇りもへったくれもなく『小細工』で成果を上げるぬえを、決して認めないことを誓い、いつか絶対に打ち負かすことを心に決めたのだ。
小傘の宣戦布告に、ぬえはにっこり笑って応じたものだ。
聞けば、かつての苦い記憶から彼女はかなりの人間嫌いだという。そういうことなら喜んで受けて立つのだそうだ。
それからというもの。二人が出くわせば、一方的に小傘が喰ってかかり、ぬえがへらへらとそれをかわす。小傘が意地を張ってへまをすれば、ぬえはその失敗をさらりと補って、自分の手柄とし、大いに笑う。その様子にさらに小傘が怒る。
いかにも妖怪らしい、はた迷惑でお気楽な二人の競争は続いた。どれほど経とうとも小傘の成果は思わしくなく、むしろ悪化が進み、ぬえのほうは変わらず絶好調のようで、そろそろ博麗の巫女が出張ってくるのではないか、という噂すら流れたほどだ。
本当に、あの頃のぬえの暴走振りは、悔しいが、小傘も見ていて痛快なものがあった。
なにせ彼女はとにかく恐れない。物怖じしない。巫女の介入が囁かれた時分には、むしろかかかと笑って受けて立つと言ってのけたのである。
しかも、それどころではない。口だけでなく、ぬえは行動でまで示してしまった。
あろうことかぬえは、妖怪の賢者に保護されている人里で、堂々と暴れてしまったのである。満月の夜の下、彼女は里中を飛び回ってやんちゃの限りを尽くした。人間に危害を加えることこそなかったが、建物のいくつかは壊され燃やされ、彼女が無闇に打ち上げた魔法弾で、あの日の里の空は色鮮やかに照らされたものだ。
小傘が遠くから眺めただけでも、すごい騒ぎだったように思う。突然の妖怪の襲来に、悲鳴を上げて逃げる真っ当な人間がいたと思えば、はしゃいで回って、酔っ払いのように阿呆のようなことを叫び倒す輩もいた。と、呆れていれば、いやにぎすぎすとした雰囲気で、何事かを真剣に協議をしているらしい、物騒な雰囲気の者たちもいた。遠目ではあるが、弓を担いでいた気がする。
ところで難解なのが、それら全ての悪事を、ぬえは素の姿のままにやったことだ。
すなわち、年端もいかない少女の姿である。
あれでは自分の顔を憶えよと求めているようなものであった。
好きなように追って殺せと言っているようなものであった。
その上、彼女はこれまでの自分の『武勇伝』を、嬉々と叫んで回ったのだから、さらに意味がわからない。ようは罪の告白である。あれをやったのは私だ、これをやったのも私だ、と里中を吹聴して駆ける様は、どうもホラ吹きめいていて、滑稽でさえあった。
『私はここにいるよ! 私は、封獣ぬえはここで、好き放題暴れてるよ!』
あの時のぬえの、熱を帯びた、自分に酔いしれたような声は、今でも頭にこびりついて離れない。パフォーマンスだということは、小傘にもわかっている。悪戯に悪戯を重ねたぬえは、その成果におごりたかぶり、自分は能力に頼らずとも人々を恐怖に陥れることができることを、証明しようとしたのだ。
だが、小傘はそれでもあの時のぬえが怖かった。彼女が求める恐ろしさではない、もっと真に迫るような、確かな身の危険だ。狂気じみた歪んだものを、小傘はほんの一時だが、ぬえに感じたのだ。
『さあ、さあ、どうする? 遠慮しないで、やりたいようにやってみな! 射殺したけりゃ、やってみな! ぐっちゃぐちゃに切り刻みたいなら、やってみなよ!』
封獣ぬえの、自分の存在を誇示するような声は、あたり遠くに響いたものだ。
『それができないんなら、あんたたちの役立たずの目ん玉、私が残らずくり抜いてやる!』
きっとあの晩、里の誰もが、封獣ぬえの姿を目に焼き付けたことだろう。
現実に追い立てられ、幻想に成り果てても、高らかに笑い、闇夜に踊る鵺の姿を。
騒ぎそのものは、ほんの小一時間ほどのことだったように思う。
なにせあれほど派手にやらかしたのだ。当然、巫女が事態の収拾に現れる。
彼女たちは当然のごとく鉢合わせ、当然のごとく弾幕勝負をし、当然のごとくぬえが敗北して、それでお開きとなった。
なにか、騒動そのものが上等な見世物であったかと錯覚するような、泥臭さや血なまぐささ、みじめたらしいものを感じない幕引きであった。
大した阿呆である、と後に小傘は関心したものだ。
彼女は筋金入りの妖怪だと思った。
それが、どうしたことか。ここ最近のことだ。ぴたりとぬえの悪戯は止んだ。それを不審に思って、小傘が問い詰めたが、ぬえは結局何も語ろうとしない。彼女がそれでも喰い下がると、ぬえは小傘を避けるようになった。
やがて、小傘が人を驚かす時間には最適と信じる、夜中の人里には、彼女の姿を全く見なくなった。張り合いのないことだと、それまでの生活に慣れていた小傘は不満に思ったものだ。しかし、もともと、競い合うために人を驚かせていたわけではないことを思い出し、思い直した。
夜中、人里の外れでの再会は、その矢先のことなのである。
よくもまあ、暢気に里にいられたものだ。小傘は驚いていた。
あれから、立派なお尋ね者として目をつけられていたというのに。
姿を見るに、恐らく化けているわけでもないだろう。
退治されたいんだろうかアイツ?
小傘は思わず声をかけようとしたが、止めた。幸い彼奴は自分のことなど気付いていないようだ。このまま、どこかに隠れてあの高慢ちきの動向を眺めてやろうという腹積もりであった。
来ない待ち人に暇を持て余したように、足をぷらぷらとさせて。時折、吹く肌寒い風に腕をさすったりして。ふんと小傘は鼻を鳴らした。いかにもいじらしい仕草である。まるきり人間気どりだ。
ずるっこいアイツのことだから、また悪だくみでもしてるのかと思ってたけど……。
小傘は、彼女の様子を観察するうちに、別種の不安にさいなまれていた。
人間嫌い、なのよね……?
小傘が誰にともなく確認するように独りごちると、ぱっとぬえが顔を上げた。気付かれたか、と近くの小屋の後ろに小傘は身を隠すも、どうも彼女は見ている方向が違う。
恐る恐るといった感じで小傘は身を乗り出して、彼女の視線の先を見た。
そして、あっと声を上げる。
人間。若い男であった。それもただの男ではない。果てしなく奇怪な男であった。姿見ではない。その行動である。小傘は彼の取った行動に愕然としたものだ。まさかまさかに、あろうことかぬえのほうに笑顔を向けて、軽く手を挙げて、にこやかに彼女に駆け寄っていくではないか。なにあれ。心の底から、小傘は不可思議この上なかった。
意味がわからない。正気の沙汰ではないのではないか?
真剣に、思った。それほどに、小傘が知る限りの、ぬえの悪評は人里でもひどいものだったのだ。一時期は本当に退治云々が話し合われていたほどなのである。
それをまるで友達か恋人のように。小傘は背筋がぞっとした。
あれ、アブナイ人なんじゃないの……?
ともあれ、狂人の行く末に小傘は同情する。
なにに惑ったか知らないが、相手が相手だ。あの封獣ぬえである。いきなりに驚かされて腰を抜かしてすっ転ぶか、それともさらに意地悪くだまくらかされて本物の狂人みたくされるか。どちらにせよ、手ひどい応対が予想される。
……あんまりヒドイようなら、まあ助けてやるけど……。
小傘は二人ともが無警戒なのをいいことに、彼らのすぐ上をぷかぷかと浮かびながら、一人思った。と、小傘は男に注目する。彼はぬえの前に立つと、親しげに何事かを話し始めたようだ。さてぬえのほうはどう出るか。小傘は彼女に視線を移して、
ぱちぱちと瞬きをする。ん?
角度が悪かったのかもしれない。小傘はぬえを軸にぐるりと回って、今一度、彼女の表情をしかと捉えた。そして、今度こそ、逃れようもなく、小傘は驚愕するしかなかった。
人間の若い男と、本当に楽しげに話すぬえを、見てしまったのだ。
下手な『小細工』よりもよっぽど恐ろしい光景であった。
あの、ぬえが。
正体不明の妖怪が、無様にその身を晒して。
小傘は何をしたらいいのわからず、何を言えばいいのかわからず、何を思えばいいのかわからず、わけもわからずに無性に悔しくなって、小傘はその場から逃げ去っていた。
回想したところで、気持ちが納まるわけもない。
あらためて、小傘は憤懣やるかない気持ちだ。
妖怪の本懐を忘れて、何をしているかと思えば、あの様である。小傘は深い失望に、夜空を駆ける身も重かった。何が人間嫌いか。小傘は顔をくしゃっと歪めた。
情けない。あんたみたいな腑抜けの妖怪が溢れてるもんだから人間だって……。
小傘はようやく人里が見えてきたあたりで、ふと悩んでしまう。今日はどうしようかな。彼女の気分はどん底にまで落ち込んでいた。こんな状態で人は驚かせないだろう。いや、どうせ意気揚々と挑戦したところで……。それはいい。
小傘はふらふらと空を遊泳しながら、彼女を思う。
ぬえが言っていた人間嫌いとは、嘘だったのだろうか。確かそれにまつわる失敗談まで、彼女はなぜか自慢げに語っていたはずだが。小傘は冷静に思い返して、首を傾げた。
聞けば宝船騒ぎも、事をこじらせたのは彼女の仕業だったはずだ。人間嫌いのぬえが、自分の仲間たちが、人間のためにあれこれとあくせく悩み働く様に、ろくな事情も聞かず悪戯をしでかしたことが根幹となっていたはずである。
その後、連中とは仲直りそうだが、彼女の人間嫌いそのものは相変わらずのようで、自分が何かしたり言ったりするたびに、あいつらはうるさくてたまらない、と零していたのを思い出す。小傘はこれらの全てが演技だとは、思えなかった。
でも、人間に牙を剥くでもなく、恐怖に陥れるでもなく、きらきらといかにも純粋そうな笑顔を向けていたのも、まぎれもない封獣ぬえなのだ。
あの表情もまた、小傘には演技とは思えなかった。
心境の変化であろうか。この短期間でか。どんな劇的な体験をしたのだ。考えにくい仮説であった。
わからない。考えれば考えるほど、わからなくなる。小傘はため息を吐いた。
一つ確かなのは、お互いに人間に与せず、驚かせて恐れさせて怯えさせて競い合うこと。
あの日あの時誓った二人のライバル関係は、彼女の裏切りによって崩壊したということだ。
……み、……ってくれ。
微かに聞こえた声に、小傘はびくっと反応した。どうやら自分は相当、思索に沈んでいたらしい。ぼうっとしていて、何度も声をかけられていたというに、気がついていなかったようだ。慌てて振り返ると、いつの間にかすぐ背後にネズミが居た。
「やっと聞こえたかい。無視されてるのかと思ったよ……」
ネズミ、いや、小傘は彼女の頭の上の大きくて丸い耳から目を離した。ネズミの妖怪は苦笑する。よくよく見れば、ぬえや自分よりもよっぽど理知的な面構えをしていた。
「あんた何よ。なんか用?」
小傘の返答は、彼女自身が思っていたよりも随分と刺々しい。ほとんど喧嘩を売っているみたいで、自分で言っておいて、面倒になったらやだなあと小傘は不安に思った。
しかし、印象の通り相手方は理性的であった。小傘の失礼など歯牙にもかけず、すました顔で言う。
「私はナズーリン。命連寺の妖怪だが、ご存知でないかな?……実はちょっと故あって君に頼みたいことがあるんだ。話だけでも聞いてもらえないか」
命連寺。それだけでもう、その『話』とやらの内容はほとんどわかってしまった。
封獣ぬえめ。どれだけこちらの気を落とせば気が済むのだ。
「ああ、いや。そう構えなくていいんだよ。大したことじゃない。ほんと、君さえその気になれば、すぐにでも済むことさ」
小傘の恨めしげな顔をどう誤解したのか、ナズーリンは手をぱたぱたと振って言った。
「それでいて、君にしかできないことだ。どうか、聞いてもらいたい」
彼女は真剣な顔をして、まっすぐに小傘を見つめる。
「私のこと、知ってるの?」
「ああ、知ってるとも。ぬえから聞いてるよ」
やはり封獣ぬえの名は出るか。小傘はあまり面白くない。奴は自分のことをどう話したのだろう。彼女の性格からして、ほぼ確実に、ろくな言い様ではないはずだが。
「君のことを知っていたからこそ、君を捜してたんだ。不甲斐ないことだが、私の記憶の限りでは、これは君にしか頼めないことだと思ったんでね」
うーん。
君にしかできない。どういうことなのだろう。小傘には大それた能力などなければ、ぜひにと請われるような技術や知識もない。わざわざ頼みこまれる意味が、小傘にはわからなかった。しかし、現にナズーリンの純な期待の眼は小傘を捉えて離さない。
嫌に真摯なナズーリンの言葉に、小傘の強硬な態度も緩んでしまう。
「……とりあえず、内容を聞くわ。受ける受けないはそれからね」
ありがとう、とナズーリンは破顔した。なんとなく、『人好き』のする顔だな、と小傘は少し嫌な気持ちになった。
「それで、話というのはそのぬえのことなんだがね。君は彼女と親しいんだろう?」
やっぱりね。小傘は眉をひそめて、視線を落とした。ナズーリンがこちらの様子をじっと窺っているのがわかったが、気にしない。
いつも問題を起こして、騒がれ、人妖ともに時に笑われ時に恐れられてきたぬえである。
命連寺の連中が奔走しているのだから、どうせ理由は彼女だろうと思ってはいたが、予想は的中したようだ。小傘はぶすっと表情を曇らせたまま思う。
騒ぎの渦中にあるのが私だ、と何時だったかにぬえは言っていた。確かうまく酒屋をだまくらかして脅えさせて、安い酒をたらふくかっぱらった時だったように思う。
かんらかんらと愉快そうに、顔を朱に染めてぬえは叫んでいたのだ。
騒ぎの渦中にあるのが封獣ぬえだ、と。
人を驚かせ脅えさせ恐れさせ、泣かせ怒らせ笑わせ狂わせ歪ませ惑わせるがぬえである、と。
悔しかったら捉えてみろ。せいぜい目を凝らして捉えてみやがれ、とぬえは笑っていた。
誰にも捉えられはしないのだ、と彼女は嘲笑していたものだ。
小傘ははっきりと思う。あの時の『鵺の在り方』は、彼女には好ましかった。この奇々怪々の幻想郷の夜に映えて輝く、彼女の生き様が、内心、小傘の目には眩しく映っていたのだ。しかし、今はどうなのだろう。そんな危惧が、彼女の表情を濁らせる。
先日に見た、人並みの幸せに綻んだような、ぬえの笑顔を思う。
『あの』ぬえが起こした問題ならば、それは今までのぬえとは毛色が違ったものとなるのではないか、と小傘は考えるのだ。なんて言えばいいのかな。
つまらない。そう、つまらない騒ぎになる気がするのだ。今までのような、人間たちが慌てふためき、妖怪たちが血を滾らせて囃したてる、楽しくもはた迷惑なお祭り騒ぎにはならない気がする。
同じ阿呆なら踊らにゃ、と混ざって暴れたくなるようなあの日々は消えて失くなってしまったのではないか、と思うのだ。
小傘は黙りこくっていると、だ。
ナズーリンは小傘の沈黙を肯定の意と受け取ったようで、話を勝手に進める。
「彼女が今、何をやっているかわかるかい?」
小傘の表情がさらに歪む。
「さあね。人間と仲良くやってんじゃないの。……それが?」
駄目だな、と小傘は思う。自分は感情が言葉に滲んでしまって困る。そういえば、アイツにもあんたはわかり易すぎるって笑われたことあったっけ。
小傘の険のある声に、ナズーリンは鼻頭を掻いて、ふむ、と呟いた。
「大体はわかってるようだね。それなら、話が早い」
ナズーリンは小傘から目を離した。人里のほうを見ているらしい。
「彼女に、たまには命連寺にも顔を出すよう伝えておいてくれないか? 実は彼女、このところぱたりと来なくなっててね。私はそれでも構わないんだが、ご主人様がなんとも。あの方の心配性は筋金入りなんだ」
ナズーリンは気の利いた冗談でも言った面をして、肩をすくめた。小傘はその様子に怒りを覚えて、眉を上げて語調を強め言った。
「なによそれ」
きっと八つ当たりじみたものではあろうが、燃ゆる怒りは容赦なく胸を焦がす。
小傘はナズーリンを睨めつける。対するナズーリンは、きょとんとした顔だ。
「そんなの、誰でもできるじゃない」
いやそれは、とあたふたし出したナズーリンに、言い放つ。
「それぐらい、あんたが伝えなさいよ! 横着するのは勝手だけど、私にとばっちり食わせないでよね。ばかばかしい」
小傘はつっぱねた。本当にばかばかしい。小傘は自分の単純な思考に嫌気が差した。君にしかできないと言われて、内心で少し気を引き締めていたことが、今は恥ずかしい。
ようは、上司に厄介事を押し付けられて、面倒がっていたところに、このネズミ妖怪はさらに体の良い押し付け先を見つけたというわけだ。それだけのことである。
……真面目に取り合って損した。小傘はただでさえ落ち込んでいた気持ちを、さらに淀ませて濁らせた。もう今日は帰って寝よう。小傘はしょんぼりとナズーリンを無視して、ゆるゆると高度を落としていく。
「や、待ってくれ。それでは困るんだ。私では務まらない仕事なんだよ」
ナズーリンが小傘の前に回り込んだ。
「どういう意味?」
「私では……なんというかな。不向きなんだ。見ての通り、理に任せて物を言うタイプでね。彼女の説得には、私の言葉はきっと、余分が過ぎるように思うんだ」
「それ、答えてるの?意味わかんないままなんだけど」
小傘がくるりと向きを変えて、その場から去ろうとすると、またナズーリンが遮る。
「聞くだけでいいんじゃなかったっけ?」
「そう意地悪を言わないでくれないか。これでも私は必死なんだ」
言うナズーリンは確かに必死な顔をしていた。小傘のようにわかりやすく表情を歪めたり、声を荒げたりはしないが、まるきりの冷血というわけでもないのだろう。
時折ぴくりと動く眉や、わずかに震えた声が、それを小傘に感じさせる。
「頼むよ。私には、君にしかお願いできないんだ」
小傘は口をへの字にするも、今度はにべもなく退けたりはしなかった。
「彼女の様子を見ていれば、わかるはずだよ。日中の人里になら、彼女は必ずいるはずだ。何かのついででもいいから、一度眺めてみてくれないか」
「それで、気が向いたら、あんたの伝言を届けてやれって?」
ナズーリンは重々しく頷いた。
ふん。小傘はやはり面白くない。あの封獣ぬえが好かれたものだ。それは構わないが、その割を喰うのが自分というのは、いかにもいけすかないところがある。
しかし、と小傘は思いもする。彼女の動向を探るというのには賛成だ。アイツのことである。大した事情ではないのだろうが、それでも納得のいかないところを消化することは必要……だと、思う。
あの時見た、ぬえの笑顔。小傘の気持ちをざわつかせるあれの正体。
確かに、行動するなら今の機会かもしれない。
「わかったわ。とりあえず、覗くだけ覗いてあげる。ま、伝言のほうは忘れちゃうかもだけどね」
小傘のひねくれた返答に、しかしナズーリンは表情を明るくした。
「恩に着るよ。あれでも仲間だからね。やはり私も……いや、みな心配していたんだ」
心から安堵したようなナズーリンの表情に、小傘はついとそっぽを向いた。
別れ際、ナズーリンはくどいぐらいに言っていた。
「私たちは封獣ぬえを待ってること、伝えてくれ。頼んだよ」
だから、それはまだ約束してないってば。小傘は呆れたものだ。
それから、数分ほどしか経っていないだろう。
人里の上を悠々と飛んでいたところ、あちこちで指を差されたり、囃したてるような声をぶつけられたりと、ひどく不快だったので、里の中をこそこそと歩きまわることになった。
はあ。小傘は自然とため息が漏れてしまう。何やってんのかな私。
鬱々とした曇り空の下、肌にべたつく空気に苛立ちが募る。
何だかんだ言って、ろくな面識もない信用ならない妖怪に言いくるめられて、よりにもよってあの裏切り者を熱心に探してしまっている自分に、苦笑すらない。
しかも、アイツめ。幾ら捜しても見つからないのが余計に腹立たしい。
結構、歩いたつもりだが、やはりぬえは見当たらない。本当に人里にいるのだろうか。
長い付き合いだ。化けていたら化けていたで、気付くはずなんだが。
カランコロンと下駄を鳴らしていると、顔をうつむけて歩いていたせいだろう。誰かと肩をぶつけてしまった。風に乱れた、相手の長い銀髪が、視界に入る。
「おお、すまん」
かけられた声に、顔を上げると、知った人間ではなかった。ついでに言えば、恐らく人間でもない。
かの未確認妖怪とは対照的に、人のごとく整えられた銀色の長髪。ほつれも穴も汚れも一切ない衣服。ちょこんと頭に乗った帽子はちょっと変わっている。華奢な体つきのわりに、爛々と元気に輝く大きな目が影響してか、なんだか暑苦しい印象を、小傘は彼女に受けた。
しかし、誰だったかな。小傘は目の前の女に首を傾げる。どこかで見たような気がするが、うまく思い出せない。……まあ、どのみち知り合いではないだろう。小傘は生返事をして、適当にあしらおうとした。だらりと両手を下げたまま、彼女の傍を通り過ぎようとすると、ぐっと腕を掴まれた。振り返れば、やはり今さっきぶつかった彼女である。
「なに?」
「迷子か?」
銀髪の女は、簡潔に問う。ぶっきらぼうだが、乱暴な調子には感じない不思議な声音だった。小傘は暑さと疲れに鈍った頭をゆっくりと回して、ようやく、言った。
「それ、私のこと?」
「お前以外に誰がいるんだ?」
女は手を離すと、腕を組んで偉そうだ。
ああ、と小傘は理解した。自分は面倒な奴に絡まれている。
「私が迷子に見えるっての?」
確かに小柄な小傘だ。加えて童顔である。子供っぽいというよりは、子供そのままな彼女の容姿ではあるが、そんな上っ面のもので判断するのは、それこそ歳の百にも届かないガキぐらいである。女も見た目を若ぶっているだけかと思ったが、存外、本当に若いのかもしれない。
小傘の怒気よりも煩わしさを前面に押し出した声に、対する女は微妙な表情になった。困ったような、笑ったような、怒ったような、そんな顔だ。
「……迷子じゃ、ないのか?」
「ない!」
小傘がきっぱりと言うと、彼女は面食らったようだ。
女は頭を掻いて、ははは、と笑う。誤魔化すような乾いた笑い声だった。
「勘違いだったか。いや、悪かった。お前がしょぼくれた顔をして、ふらふらしてるもんだから、ちょっと心配になってな」
しかし、と女はぴんと指を立てると、大真面目に言う。
「迷子じゃないなら良い。……ただ、あんまりぼうっとしてるんじゃないぞ。最近、里の空気が不穏だ。これはただの勘だが、なにか妙なのが『いる』な。注意はしておけ」
「私、妖怪なんだけど」
「私もとりあえず人間じゃないが、警戒してるぞ」
女は退かない。むしろずずいと顔を近づけて、同意を迫ってくる。
小傘は一歩、後ずさってから、思う。
思い出した。小傘は彼女をじろじろと眺める。
こいつ、けーねだ。上白沢慧音。人里で寺子屋を開いている半獣である。小傘は嫌な顔をした。姿に憶えがなかったのも無理はないかもしれない。前に遭ったのは夜中である。ちょうどぬえが一番はしゃいでいた時期だった。暗闇の中を、親子と思しき二人組が歩いていたものだから、軽い気持ちで小傘は驚かそうとしたのだ。
あの時は驚いたものである。馬鹿にされたり無視されたりするどころではなかった。『ばあっ』といった具合に思いきり飛び出した時だ。まさか、大人しそうだった母親らしき人に、拳でも脚でもなく、頭突きをされるとは思わなかったのだ。
しかも、その頭突きがとびきり痛かったのだから弱ったものである。その後、頭上から、何やら説教じみたあれこれが降り注いでいた気がするが、頭がくらくらしてそれどころではなかった。後にぬえから聞いたのが上白沢慧音の名である。
人を愛し、人里を守る半獣は近頃、友人とともに夜の里の見回りをするようになったそうで、前よりも自由が利かなくなったと彼女は口をすぼめていた。
直接話をしたわけではないので、あくまで彼女の推測だが、慧音はぬえを警戒しているのだという。彼女が里で好き放題をする中、それに脅える者とそれを楽しむ者、両方を考慮して、馬鹿をやらかす者がでないように注意をしているのだそうだ。
小傘との初対面の日も、噂に惹かれて無茶をやらかそうとした子供を、見つけてひっつかまえて、家に返す帰りといったところだったのではないだろうか。
とにもかくにも、お節介焼きの人間好きの半獣。それが上白沢慧音だ。
……となると、今が彼女が言っていた『妙なの』とは、ぬえのこととなるか。
わざわざ能力に依らずに、あれほどの大事を招いたのだ。ぬえの悪行のほども、里に住む者なら知っているだろう。迂遠な言い方なのは、やはり奴の能力故だろうか。
事情を話せば省ける手間もあるかもしれないが、同時に奴の身に危険が及ぶ可能性も高い。ここは無難に対応しておくことにする。
「はい、はい。わかったわ。注意するわよ。それでいいんでしょ?」
「そうだ。気をつけておいて損はないぞ。このところ、おかしな噂も聞くからな。特に夜間は気をつけろ」
小傘は手をひらひらとさせてから、大仰そうに、閉じた化け傘を担いで、その場を後にしようとした。と、いうのに慧音はついてくる。
「ところでお前、里では見ない顔だな。何しに来た?」
「……今度は私を警戒してるの?」
「どうかな。お前の返答次第だ」
どうやら、慧音のほうは小傘を忘れているらしい。ほっとしたような、心外なような、そんな気持ちに小傘はなる。にしても、里では見ない顔とは。さんざんここらでは悪戯を働いたはずだというのに、随分な知名度である。結構、人目につく外見をしているし、それはもちろん、里に住みこんでいるわけではないけれど、まるでよそ者のように扱われる謂れはないのでは……と。ああそうか。
小傘のささやかな悪事など、恐ろしい正体不明の影にすっぽりと隠れてしまっていたというわけか。小傘は眉をひそめかけて、それもみっともないので止めた。
「どうした。なにかやましいことでもあるのか」
横から慧音が言ってくる。疑念に駆られた、と言うには緊迫感の足りない声。おちょくったような、冗談でも言ってる口ぶりである。もともと、小傘が事に関わっているとは考えていないのだろう。
用があって初めて人里に来たものの、勝手がわからず右往左往している、比較的力の弱い妖怪のようだ。妖怪退治を生業とする人間も里にはいるし、なにか間違いが起こらないとも知れない。ここは一つ、協力してやるか。
そんな風情が、彼女の言動からは察せられた。
「うるさいわね。相手するのが面倒だっただけ」
「相手をしないともっと面倒だぞ、私は」
慧音はにこりと笑う。なんとなく、ナズーリンに通じるものを感じる笑みだ。
「ただの人探しよ。別に人間に危害を加えようとか、そんなじゃないわ」
「ここに住んでいる奴か?」
慧音はさらに踏み込んだ質問をする。小傘は煩わしくてたまらない。
ううむ。これ以上の漏洩はアイツにも自分にも命連寺にも、ちとまずいか。しかし、適当にごまかして話を逸らす、というのも彼女相手には無理そうである。では、と小傘は決断する。
「さあ、ね!」
小傘はいきなりに、両足を揃えて大きく跳ぶと、舌を出した。そして、今度こそ慧音から逃れようと駆けた。
「あんたに言う義理なんてないでしょ? お節介もほどほどにしないと嫌われるわよ、けーね先生!」
おい、と背中にかけられた言葉にも頓着せず、小傘は駆け続けようとした。
と、そこでだ。見つけた。見つけてしまった。よりにもよってこんな時に。目の前。寺子屋の近く。子供と一緒にいた。なんと、また『ぬえの姿』そのままだ。
得体の知れない焦燥感が、身体を奔る。
それは違和感のない光景であった。小さな女の子と、ぬえ。どちらもがどちらとも楽しそうな笑顔をして、まるで姉妹かと見紛うほどだった。
なんで、あの子ぬえを怖がらないんだろ……?
当然の疑問を抱いたのは、ほんの一瞬のことだ。小傘はその姿に気を取られて、また人にぶつかりそうになるのをかろうじて避けた。人。そうだ。小傘は自分のことのように背筋が凍った。多いとまでは言えずとも、まばらと言うには目につきすぎる人通りの中で、彼女は大丈夫なのか。
ぬえも大昔に一度、人々の手によって封印されている。正体がばれたせいで、誰にも恐れられなくなり、あっさりと捕まってしまったのだそうだ。となれば、今のぬえも相当に危険なのではないか。あんな無防備に素の表情を見せて、子供と戯れていたりして。
あのぬえが起こした大騒ぎの記憶も、里の者たちの記憶に新しいはずだ。
人間の誰もが無力でないことぐらい、彼女も身に沁みてわかってるだろうに……。
あの子は友達なのだろうか。それは、無邪気な子供は噂など気にせず、むしろ好奇心を剥き出しにして妖しいモノにだって近づくのだろう。しかし、その親はどうだ。あんな光景を見れば、女の子の親は大層、肝を冷やすに違いない。あの悪評である。彼女を危険視する声も上がっているわけだし、あのように堂々としていては、これぞ好機とばかりに、彼女に刃を向ける者が現れてもおかしくはないだろう。
……何やってんのよ。何で、平然としてられるのよ。
思った時だ。ぬえと視線が合いそうになった。
小傘は、一度立ち止まって、すぐさまに脇に逸れた。さすがにそのまま突っ切るわけにはいかない。頼まれたのは伝言であるので、それだけ伝えてやれば終いなのだが、小傘はただのお使いをしているのではない。
ナズーリンが小傘にしか伝言を頼めなくなるような、ぬえの行動の理由とは何か。
それを知らなければ。
小傘はちらとだけ見れた、ぬえの様を思い返す。小さな女の子を優しげに撫でるぬえを、小傘は確かに視界に入れていた。そして次に、かつて夜に舞い、思う様に騒ぎを起こして、その身に降りかかる罵詈雑言を一笑でもって切り捨てた彼女を思う。
歯ぎしりをする。ぜひとも理由をお聞かせ願いたいところだ。
騒ぎの渦中にいるのがあんたってんなら、今のあんたは何なのよ。
間抜け面して。脅えを糧として生きてきたはずの『鵺の在り方』はどこにいったのよ。
手頃な建物を見つけて、小傘は屋根に飛んで乗った。足場が悪く、踏んだ拍子にすっ転びそうになったが、なんとか堪えた。小傘はそこから、寺子屋の前でいつまでもじゃれあっている二人を眺める。少々、大胆にしていてもばれる心配はなさそうであった。
あの腑抜けたザマを見ればわかる。小傘は深いため息を漏らす。
小傘とて、人間が憎いわけではない。現に彼女にも、人間の知り合いはいる。友達と呼ぶには、少し冷めすぎていたり、毒舌がすぎていたり、奇天烈がすぎていたりするが、それはともかくだ。彼女が人間と交流していることに不満があるのではない。
小傘が失望しているのは、封獣ぬえの在り方だ。
なんだろう。こんな日中に、人目をはばかるでもなく、にこにことして。
あの日。小傘を確かに圧倒した、恐怖に身を震わせた、彼女の演じる『妖怪らしさ』はもう忘れてしまったのか。小傘は今なら言える。
あれは本当に恐ろしかった。憧れてしまうぐらいに、恐ろしかった。
その全てが嘘っぱちだと知った今でも、小傘は断言できる。あれこそが妖怪である。あれこそが『鵺』である。小傘は心から、彼女の在り様を認め、賛辞していたのだ。
口では馬鹿にしていても、認めてやらないと言い張っていても、封獣ぬえは小傘にとって目標であり、大切な、似通った価値観を持った友人であった。
それなのに。小傘は呻いた。
ぬえは幸せそうだった。女の子に視線を合わせて、何事かを語りかけているようだった。それに反応して、女の子も嬉しそうだ。ときおりぴょんぴょんと跳ねて楽しそうにしていたかと思えば、じいっと食い入るようにぬえの目を見て、興味深そうに彼女の話を聞きいっていたりする。そんな二人に、同じ年ぐらいの男の子が混ざってきたり、さらにその親らしき男が混ざってきたりして。それでもぬえは楽しそうに笑っている。
どうやら、小傘の心配事は、杞憂に終わったようだった。
かつての悪評などどこ吹く風か。すっかり『人間してる』ようだ。
気の抜ける思いがした。
小傘は空を仰ぐ。昨日と同じく、重苦しい曇天である。今にも泣き出しそうな天気だった。急に吹いた風に、肌が粟立つ。ほんと、もう帰ろうかなあ、と思う。
そして、そんな小傘の額に雨粒でなく、もっと大きなものが降ってきた。幸い、獣人の頭ではない。拳骨であった。
「ったあ!」
小傘は頭を押さえて、悶絶する。頭突きほどじゃないが、相当の痛みだ。
がんがんと頭が揺れて、目の前で火花が散った。
慧音は腕を組むと、小傘の前にふわりふわりと浮いている。
「人の家の屋根に登るな。それと、人の話は最後まで聞け。礼儀だぞ」
「あんたもしつこいわね……」
慧音は髪を掻きあげて、若干、機嫌を損ねている調子であった。
「で、なにをやってたんだ?」
「人探しって言ってんでしょ」
「確かに聞いたが、それは屋根に登らなければできんことなのか……?」
「ここからが一番、捜しやすいのよ!」
事実だが、弁明としてはいまいちな一言。しかし、慧音にも小傘の真剣さが伝わったか、眉をぴくつかせるだけで、彼女の行為自体を否定することはなかった。
慧音は小傘にも飛ぶように顎で示してから、横に並んで、寺子屋の前に視線を移した。
あっと、小傘は気付く。ぬえが女の子と別れて離れていく。
「この中にお前の捜してる奴がいるのか?子供ばかりだが……」
傍らの慧音は目をきょろきょろとさせている。小傘も必死だったのだろう。
「あれよ、あれ! アイツ! 早く追わないと!」
小傘は言ってから、しまった、という顔だ。ご丁寧にも指まで差して言ってしまった。恐る恐る、慧音の様子を窺うと、さらに小傘は慌ててしまう。
その目に映っていたのは困惑だった。そして、拒絶だ。これはまずいと小傘は思う。長きを妖怪として生きた小傘にはわかるのだ。拒絶は妖怪を殺すのである。恐れられれば、人間は逃げるだけだ。笑われれば、人間は楽しむだけだ。しかし、拒ばまれれば、話は大きく違う。自分たちの敵たる異様にして異形の存在を、徹底的に消し去り忘れ去るために、徒党を組み、専門的な『術』を手に入れ、相手が強大であれば策を弄してでも排斥するのだ。あの『鬼』とて、人間に拒まれ、かの地を去ったのである。
それは妖怪からすれば、まさしく興醒めする行いだ。遊びが遊びでなくなる瞬間である。
小傘はぬえが何をしでかしているのか、まだわからない。でも、それはもうじき終りを告げることとなろう。小傘は、表情を硬直させる慧音を見て悟る。
彼女を追わなければ。小傘は徐々に小さくなっていくぬえの背中に、焦る。ちんたら歩いているので、まだ見失ってはいないが、すでに距離がずいぶんと開いているのだ。
小傘は物を言わない慧音の隙を見て、飛び出したつもりだが、手で制されてしまった。
「あれは何だ?」
慧音の問いに、小傘は答えあぐねる。かといって、立ちふさがる彼女を突破できる気もせず、拗ねたように黙りこくるしかない。
やがて、慧音が眉間に寄せた皺を指で揉みながら、言葉を重ねた。
「答えたら、ここを通してやる」
「ほんとに?」
小傘は縋るような声を出してしまう。慧音は苦い顔をしながらも、頷いた。
その言葉が信用に足るか否か。急きたてられた小傘にはどうでもいいことだった。
「ぬえよ。封獣ぬえ! 妖怪の『鵺』よ!」
正体など、どうせあの馬鹿は自分で宣言してしまっている。慧音が何を失念しているのか知らないが、事が明るみに出た今、彼女のようにぬえを警戒する者たちが寄り集まれば、すぐに情報は集まり、全てはばれてしまうことだろう。
隠し立ては無用だ。さっさと言っちゃっても構わないはず。
小傘は慧音の反応を待たずに、横をすり抜けて飛んで行った。
自分の言葉に、不思議と自慢するような心地が滲んていたのに驚きながら。
彼女の意識はすでにぬえ一点に集中している。そのわりに、頭の中はごちゃごちゃと乱れていてまとまりがなかった。あのネズミ妖怪め。適当なことを言う。
てんで、わからないではないか。むしろ余計に混乱した感がある。そのせいで、こちらがどう立ち回るべきかも決めかねているというのに、今さっき新たな懸案事項を生み出してしまった。慧音は彼女をどうするつもりだろう。おかしな噂がどうとか言っていたが、やはりぬえはまた問題を起こしているのだろうか。
退治、する気だろうか。
でも、里のみんなはむしろ好意的だったけどなあ。
ぬえもこんな危うい時期に、どうして人里なんかをうろちょろと……。
私はアイツを追ってどうするのだろう。他人事のように、小傘は思う。
彼女に現状を伝えてやるか、それともまだ彼女の行動を観察し続けるか、でなければ、あのネズミの伝言だけ届けてやるか。ぼやぼやと悩んでいると、
いけない。もう見えなくなってしまっている。
でも、考えてみれば彼女は徒歩で移動しているはず。近くを捜せば簡単に見つかるのではないか。小傘は気張って速度を上げた。
「なるほど、『鵺』か」
微かに、声が聞こえた。どこか哀しげな、半獣の声であった。
ようやく見つけたのは、お茶屋の前か。
しかし、今まさにその場を去ろうという時だったようで、またも得体の知れない人間、今度は腰の曲がった老婆に手を振られて、ふらふらと歩を進めていた。
小傘は眉を八の字にする。あの人とも、仲良くお話をしたというのだろうか。何時の間に、ぬえはそれほど里に溶け込んだのだろう。性格にも見た目にも一癖ある彼女だから、それはそれは大変な道のりとなるはずだが。
小傘は彼女の後を追いかけようとして、まだその場に立ったままの老婆に目を向けた。そして、足を止めて、話しかける。ちょっと、訊いてみたかったのだ。
一応、自問の答えのつもりだった。
「こんにちは、おばあちゃん」
未だにゆらりゆらりと手を振っていた老婆は、小傘の挨拶に、ようやっと顔を向けた。彼女の皺だらけの顔は、とろりと優しそうな笑顔になっていた。
こんにちは、とだけ老婆は返す。小傘は普段あまり人と話していないせいか、少し緊張に、顔を強張らせながらも言う。
「あのさ、おばあちゃん。アイツと知り合い?さっきの、黒いワンピースの」
老婆は首を傾げて、答えに困っているようだった。上手く伝わっていないらしい。小傘は顎に手を当てて、でも上手い言い様が思いつかずもどかしくなる。
「アイツよアイツ。さっきまで、話してたんじゃない?」
老婆がわずかに目を見開いて、そしてじんわりと口元に笑みを広げた。
「ああ、あの子」
喜色ばんだ、弾むような声を出す。小傘まで思わずつられて笑ってしまえそうな、本当に幸福が滲んだような表情で老婆が続けた。
「あの子は、良い子よ。とても良い子」
まるで孫娘でも自慢するような風情で、老婆はぽつぽつと零した。小傘は最初、口を挟んで、こちらの話題に切り替えようとしていたが、改めて、聞くことにした。
「こんな婆の話にいつも付き合ってくれてね。楽しいお話を聞かせてくれる。散歩のときは、あたしが転んだりしないように、手を繋いでくれるんだ」
小傘は唇を引き結んで、黙って聞く。
老婆はこっくりと頷いた。一度、なにかを思い出すように目を閉じて、また口を開く。
「あの子とのお話は、あたしの生きがいだよ。ほんと、あの子がいてくれてよかった」
小傘は瞳を揺らしながらも、訊く。
「おばあちゃんは、そんなにアイツが大事?」
老婆は目をぱちくりと瞬かせて、驚いたようだ。
「当たり前のこと、言うんじゃないよ。あたしの命より、大事だよ」
くつくつと、笑った。
「あの子だって、言ってくれたんだ。私もあなたと居られてうれしいよって。ずっと一緒にいたげるってね」
小傘は息を呑む。胸が苦しくなって、顔を背けたくなる。
「あの子は本当に良い子。だからね、あの子を大事に思ってるのは、あたしだけじゃあないんだ」
老婆は片目を閉じると、とびきりの秘密でもばらすように言った。
「あの子は友達だって多くてね。みんな、あの子が好きだし、あの子だってみんなが好きなんだ。あたしはあの子をちゃあんと見てるから、わかるんだよ」
小傘に、老婆はおふざけでも言うように、言葉を放った。
「あんたもあの子と話してごらん。きっと思うからね。なんて可愛い子なんだろうって、良い子なんだろうって」
そう言って笑う老婆に、時間をかけて、やがて小傘もくすりとだけ笑った。ちらと一瞥すると、ぬえが去った方に、もう彼女の姿は見えなかった。
小傘は、来た道を戻っていた。
ぬえの姿などもう知らない。伝言は後で良いだろう。というか、届けなくてよいのではないか。小傘は投げやりに思った。
カランコロンと、小傘は歩く。陰鬱になる気持ちがどうしようもなくて、それが解消できるでもないのに、はあ、とため息を吐く。
小傘は聞いたのだ。聞いた以上、やはり無視はできない。
老婆の幸せそうな声が頭に響く。女の子の笑顔が脳裏によぎる。男とは親しげに何を話していたのだろう。ぬえは幸せの輪の中にいた。人間たちの中で、人間のように、幸せそうだった。どれほどの時間をかけて、彼女はその立ち位置を作り上げたのだろう。どれほど前から、彼女はそんな生き方を望んでいたのだろう。
だというのに、暴れて、暴れて、とにかく暴れて、わざわざ嫌われるような真似をして、何がしたかったのだ。
小傘は今のぬえなど嫌いだ。そもそも、ぬえなどと認めたくない。
彼女自身が言っていたように、騒ぎの渦中にあるのが、小傘にとってのぬえだった。
阿鼻叫喚を肴にして、日常に満ちる安穏に唾を吐く。
それが、小傘の信じる親しむ憧れる『鵺の在り方』だった。
でも、だめだ。もう、そんな奴はいない。今には今のぬえしかいなかった。
……いや、そんな奴は最初からいなかったのかもしれない。この幻想の世には、最初から妖しく恐ろしく美しい妖怪『鵺』などおらず、ただ自分の思いを正しく表現できない、不器用な少女が一人、いただけなのかもしれない。
がっかりだ。小傘は思う。ほんとに、がっかりよ。声に出した。
それでも多々良小傘の行く先には、目的地がある。
カランコロンと、小傘は寂しく下駄を鳴らした。
ぬえの在り様を見て、ぬえの笑顔を見て、思う。
封獣ぬえは、きっと、人間のように、普通に生きたかったのだ。
小傘は結論付けるも、いや、と思い直す。そもそも彼女が真性の妖怪だったのか、小傘は知らない。もしかしたら、人間に戻りたかった、と表現した方が適当かもしれない。
そうだと思えば、ぬえのこれまでの悪行も奇行も違って見える。
封獣ぬえの妖としての本質は、未知。彼女を正体不明たらしめる『能力』こそが、彼女の『妖怪らしさ』のはずだ。実際、小傘は、闇夜に現れ出でては、めまぐるしくその姿を変化させ、人妖ともに驚嘆を攫っていくぬえに、本物の妖怪『鵺』を見ていた。
ぬえはどんな気持ちでいっぱいの悪戯に興じていたのだろう。愉快そうに顔をひくつかせて、その実、胸の内で何を思っていたのだろう。
『悔しかったら捉えてみろ。せいぜい目を凝らして捉えてみやがれ』
大勢の人々を思う様にだまくらかして、もはや里に鵺を恐れぬ者はなしといった時。その日もいとも簡単に事をしでかした、酒に酔ったぬえはヤケのように吠えたてていた。
『誰にも捉えられやしないのよ』
そう宣言したぬえの嘲笑の裏には、身をよじるような失望があったのではないか。誰も自分を見やしない。見れやしない。妖怪が人間が指を差して、あれは何だと目を丸くするたびに、ぬえは重く深い絶望に、心を摩耗させていったのではないか。
『私はここにいるよ! 私は、封獣ぬえはここで、好き放題暴れてるよ!』
ばれるものかな、と小傘は思ってしまう。
小傘が素の姿のままを晒したのは、いつも彼女自らによってのことである。小傘が初めてぬえに遭った時もそうだったし、あの人里の大騒ぎの時もそうだった。
小傘にはそれが、彼女の命がけのメッセージだったように思えてならない。まさしく、自分を捉えよ、と。封獣ぬえを見よ、と。自分の『妖』など、ただのつまらない手品とでも見抜いてみせて、お前らが相手をしてるのは、仕様のない小娘であることに笑え、と。
ぬえは大昔に、正体がばれたせいで、人間に敗北したと言った。
ばらしたの間違いだろう、と小傘は思う。それほどに、ぬえの能力は、残酷なまでに完璧だ。ともすれば正体を晒したとしても、本当にその姿が真実のものなのか。わからなくなってしまうぐらいに、耐えがたく強力である。
ぬえが大昔にも、その素の姿を自ら人間たちの前に晒していたのなら。大仰な武装をした、殺気立った男たちの前に、いかな決意を持って降り立ったものか。
矢に討たれ、斬り裂かれ叩き潰され、封印されて、ぬえは地底で長い長い時の間を、どのような思いに胸を焦がしていたものだろう。
ぬえの咆哮が、小傘の頭にはこだましている。人間を震えあがらせ、妖怪が心を昂ぶらせる、人外の咆哮だ。必ずと言っていいほど、悪戯の前に、ぬえは咆えていた。喉を潰さんばかりに、力の限りに咆えていた。
今の小傘には、それが、見果てぬ幻想に身を焼く、彼女の慟哭のように思えてならない。
適当にふらついていると、よかった。
まさか予期していたわけではないだろうが、小傘と出会った辺りからあまり離れていないようで、見つけやすかった。小傘が目的としていた人物、慧音はまだ寺子屋の前だ。傍らには子供。生徒だろうか。
小傘はむずむずとした気持ちのままに、慧音に近づいていく。納得なんてしていない。小傘は今のぬえは嫌いだし、そもそもかつてのぬえだって好きではない。
どちらか一方に不幸が起きれば、馬鹿にして笑い合うような関係だったのだ。あんな奴知らない。どうにでもなればいい。それが当然の処置だと、小傘は思う。
でも。小傘は顔をくしゃっと歪ませた。
嫌なのだ。小傘は、ぬえの、これ以上ないほど幸せそうな顔を思い浮かべて、首を振る。
彼女がきっと、血の滲むような努力の末に手に入れた、『封獣ぬえ』の幸せ。
それが壊れる様を傍観するには、小傘はぬえを知りすぎていた。
単純に、嫌だ。天の邪鬼な彼女の、あけっぴろげな姿を見て触発されてしまったかな。小傘は素直に、普段ならば恥やプライドに濁ってしまうような思いを、言葉にすらできた。
ぬえを、守りたい。
「お前、あの……ぬえか。あいつの友達だろう」
小傘は慧音の目の前にまで来て、驚いた。彼女の傍らの女の子だ。ついさっきまで、ぬえと一緒にいた子である。びっくりするあまり、少し反応を遅らせて、返事をした。
「そうよ」
小傘は気兼ねなく言った。自然と口にした言葉だった。
「ん、そうか」
慧音はこくこくと頷くばかりだ。でも、何か不満でもあるのか。眉根を寄せて、その表情は苦しげであった。何時まで経っても黙ってばかりの慧音に、小傘は先手を打つことにした。訊くけど、と話し始めた小傘に、慧音は眉をぴくりと動かした。
「あんたさ、ぬえに何する気?」
小傘の強気な声に、慧音はさらに表情を難しくする。
「さっき話してたよね。注意しとけとか。妙なのがいるんだっけ?あれ、ぬえのことだったんじゃないの?」
女の子が、瞳を潤ませて、慧音に身を寄せた。小傘は脅える少女に、ちょっと悪いかな、とは思いつつも、なお続けた。
「あんたたちが前から、ぬえに目つけてんのは知ってんのよ」
異常と言えば、異常であった。慧音は何も言わないのだ。目を伏せて、時折、身体を震わせる女の子の頭をなでるくらいだ。次第に苛立って、小傘は語調を強める。
「なんで黙ってんのよ? どうなのか答えてよ!」
慧音は口を開きつつも、まだ決心がつかないとばかりにまた閉じた。
「私は! ぬえを守るんだからね。そりゃ、アイツはさんざん馬鹿やらかしたんだから、懲らしめたいって奴もいるだろうし。私も間違ってないと思うよ。でも、それはもう過去の話なの。あんたたちが信じなくたって、過去の話」
小傘は一呼吸置くと、ちょっと可笑しくなった。だって小傘は一人でしゃべっているだけだ。慧音はなにも言ってないというのに、自分だけで熱くなっている。
もしかしたら、全部私の早とちりでした、とかどうだろう。
慧音や、小傘が存在を疑わない、ぬえを危険視する者たち。そんな彼らが全て、まやかしのものだったとしたら。慧音だって、それはぬえを見て嫌そうな顔をしたものの、退治云々の話はしなかったし。第一、ぬえと親しい小傘に自由を与えた。みな、実はぬえのことなどとうに赦しているか、でなければ、忘れているかするならば。全部関係のない、小傘の独り相撲だとしたら、どうだろう。
小傘はそんな勘違いなら、してもいいと思った。
「今のぬえは違うのよ。腹立つぐらい優しくなって、腹立つぐらい良い奴になっててさ。人間の友達だって、出来てんの。そこの、その子もそうなのよ!」
小傘に指を差されて、女の子がびくりとした。
「お願いよ。アイツを放っといてやってよ。すっごい苦労したのよ、アイツ。……もう、アイツは何もしないから。人間みたいに、人間の中で、生きていくと思うから」
慧音は目を固く閉じて、眉間に深く皺を刻むと、やがて押し殺した声で言った。
「この子の、話を聞け」
え、と小傘は漏らした。慧音に背を押されて、女の子が前に出る。
小傘が怖いのか、視線をきょろきょろと彷徨わせている。小さな手をぎゅっとにぎって、心細そうだ。慧音が、女の子の名を呼んだ。
「さっき、ここで誰と話してた?」
女の子は、小傘を上目遣いで見て、わずかに震えた声で言った。
「私の、お姉ちゃん」
小傘は、
目を見開いた。喉がからからになって、咄嗟に声が出なかった。は、とようやく出た声は、かすれていて、まともに聞きとれるものではなかった。
動悸が激しい。目を瞬かせるも、目の前の女の子の姿は変わらない。声は頭の中に残って響いている。唇を思いっきり噛んでも、血が滴るぐらいに拳を固めても、眼前の現実はまやかしと消えないようだった。小傘は、ふと突然に、ぬえと女の子が楽しげに話していた姿が思い出されて、片方の、赤い目が頬を濡らした。
「お姉ちゃんだよ。帰ってきたの」
慧音は女の子にもう帰ってもいいように、伝えた。よっぽど怖かったのだろう。一目散に逃げていった。その後ろ姿を見送ってから、慧音は力なく言った。
「あの子の姉は、もう死んでる。ずっと前に」
「それって」
慧音は小傘のほうを向かない。
「おかしな噂というのは、だ」
慧音はわざとのように、淡々と言葉を紡ぐことに、徹しているようだった。
「人里で、失踪した人間、死んだ人間が帰ってきたと『言う人間』がでてきたことだ。わざわざ巫女に相談するほどじゃないが、まあ、ぼちぼち聞いていたんだ」
しかし、元来の人の良さだろう。言葉の端々に、不自然に力が籠ってしまっていた。
「最初は、ただの性質の悪い愉快犯かと思ってたんだがな。『鵺』か。さしずめ、正体を判らなくする程度の能力といったところか」
小傘は、ぞっとした。
本当に、身も心も凍ってしまいそうだった。唇が震えて、目が情けなく潤んでしまう。
なんで。私には見えていたのに。しっかり見てたのに。
ぬえの笑顔が、嘘偽りなんて一切ない、純正のものだと、小傘には見えていた。
それが、他の人間、例えば彼女を慕う者たちには、どのように見えていたというのか。
「私は奴の能力なぞ知らないが。とりあえず、ここは幻想郷でな。忘れ去られたモノたちが流れ着く場所だ。大切な誰かを欠いた者がいてもおかしくはない。自分が大切でいられた『現実』を失った者がいてもおかしくはない」
慧音は吐き捨てた。
「妖怪に身内を喰われた者だっている。事故で友達の死を見た者だっている。そういう者たちが、失った何かを見出してしまうのに、ぬえの能力は十分だったんだろう」
ぬえは、自分を求める声に、何を感じたのだろう。
笑顔で、自分とは違う誰かの名を呼んで、その目に幻想を映して駆け寄る者たちに。
ぬえは諦めたのだろうか。諦めたから、もう啼かなくなったのだろうか。
小傘はぬえを思う。彼女が、かりそめでも、今生きる世界を望むのなら。
ならば、私は。
最後に、小傘は問うた。
「あんたは、ぬえが何に見えたの?」
慧音は寂しげに笑って、首を振って。答えなかった。
雨がざあざあと降っていた。
雨粒が地面を、人間を、妖怪を打ち付ける勢いは、等しく容赦がない。
曇天は朝からのものだったが、降りだすとなると本当に一瞬だ。
小傘は豪快な雨音を耳に心地良く感じながら、わあぎゃあと走り回る人妖たちを尻目に、悠々と歩いていた。なんだこんな簡単にヒトは驚くじゃないかと不満に思いながら。
やがて辿りついたのは、人里の外れだ。
そこには、雨でびしょ濡れになりながらも、平然と一人の少女が突っ立っていた。
小傘は少女の傍らに立った。彼女大きな化け傘を、その場で一度、くるりと回した。
「やめなさいよ」
低い声が聞こえた。純粋に、不機嫌な声だった。
「なにやってんの?」
ぬえはしばらく、間を置いた。撥ねた前髪から、雨の滴がしたたって、落ちた。
「人間待ってる」
雨はまだ強くなっていく。きっと身に受ければ、痛いぐらいだろう。
「来るの?こんな天気に」
ぬえは、ふふ、と笑った。
「来ないだろうね、たぶん」
小傘がぬえを見やると、ぬえは目を瞑っていた。長い睫毛が、目を引いた。
「でも待つのね?」
ぬえは、雨に打たれたせいか、青白くなってさえいる、自分の手を見た。
「あれにとっちゃ、ここで待ってるのが『私』みたいだからね」
ああやっちゃったと、ぬえが呟いた。
「ここの『私』は、前、髪飾りをもらってたから、今日もとりあえず持ってこないと。あーまったく、寺子屋前とか、お茶屋前の『私』と違って、面倒なのよね、コイツは」
そう言って、くすくす笑うと、ぬえは自分の胸を押さえた。
小傘は、黙ってぬえに傘を差しだした。するとぬえは、目をぱちくりさせる。
「驚いたわね、あんたにそんな気遣いができるなんて」
小傘は別に心外だとも思わず、片目を閉じて舌を出した。
「私の能力、知らないとは言わせないわよ」
一拍置いてから、ぬえはまた笑った。もっと楽しそうな笑い方だった。
「あんた、私のこと尾けてたでしょ」
「うん」
小傘は何を今さら、といった顔を作った。
「なにか言いたい事は?」
小傘は悩むふりをして、じらしてから、言う。
「命連寺の連中が、封獣ぬえを待ってるって」
ぬえは空を仰ぎかけて、化け傘の、綺麗な紫しか見えないことに気付いたのだろう。そのまま小傘の顔を見た。わかったわ、と気のない返事だった。その割に、噛み締めるように、満ち足りた声であった。
「伝言、ごくろうね」
ほんとよ、と小傘は呟いた。
無為な時間が、経った。ざあざあと、雨だけがいつまでも騒がしかった。
「まだ、ここにいる気?」
そろそろ飽きてきた小傘が、ぬえに訊いた。
「あんたがいるから」
ぬえは囁くように、ぽつりと言った。
「あんたがいるから、雨が防げるからね。もう少し待ってみるよ」
小傘は口を尖らせて、しょうがないわねえ、などと返した。
そんな不可思議な後読感。
それでも分かる事。封獣ぬえを待っている者たちが確かに居る事。
ぬえほど雨にうたれる姿の似合う少女は居ないという事。
そしてそっと傘を差し出す小傘の優しさ。
良かったです。
では?
ぬえも小傘も素敵だわ
面白い、とは違うまさしく良かったとしか言いようのない感じ
しかしこの人の後はコメントし辛いな
偽りの関係でもいいから人間と仲良くしたい。でもどんなに仲良くしても相手が話しかけているのは
ぬえではなくて自分が擬体している「誰か」
それだけに、「封獣ぬえを待ってるって」という、他の誰でもないぬえ本人を見ている言葉に強く心を打たれました
読み切ってしまえば面白かったです