I love you...
我君ヲ愛ス――?
1
日中の麗らかな日差しを障子越しに感じながら、私は呼び鈴の音に目を覚ました。
座ったまま、顔を伏せて眠っていた。
顔を上げる。
さぞかし呆けた顔をしているだろう。
短針の傾きを見ると小一時間ほど経ってしまったようだ。
この姿を面倒な奴に見られようものなら、博麗の巫女はなんたる体たらくかと笑われるに違いない。
ちゃぶ台の上には今さっきまでそこに身体を預けていた私の熱と、一方で冷え切った湯呑が置かれている。
夢を見ていた気がする。
何も覚えてはいないが、ぼんやりとした温もりが私の膝元に横たわっていた。対して私の心はひどく冷えている。
未だぼんやりとした視界は眩い日差しのせいで、なのに妙に温かさを伴わない空気が気持ち悪い。
もう一度ちゃぶ台に伏せ、再び目を閉じてしまおうかとも思ったが、目覚めの肌寒さと微かに感じる空気の湿り気がそれを邪魔した。
雨が降るのなら、洗濯物は取り込まないと――。
まだ辛うじてだけど梅雨ではないのに、むしろだからなのか、博麗神社を取り巻く気配は妙に湿っぽかった。
それがは部屋の中にまで滑り込み、私の心にまで滑り込む。
誘起されてなのか自分でも分かるくらいに情緒が不安定だった。
誰かといる時はそうでもないのだが、一人っきりになると必要以上の事を何もしたくなくなる。
色んな事に対しての愚痴が頭に浮かぶ。
そんな自分に嫌気が差し、逃げ出す。
逃げ先が夢の中であるのは言うまでもない。
再び呼び鈴が鳴った。
不思議とその音色は私を急かすようなものではなかった。
どうしてそう思うのか。
「こんにちは、霊夢さん。早苗です」
疑問は続いて耳に飛び込んできた鈴の音によって氷解した。
穏やかだけれどはっきりとした語調で私の名前を呼ばれ、早苗の名を聞いた。
すかさず洗面台へ行き、鏡を見つめ、その顔を確かめる。
火照った顔に恥ずかしくなって、手早く顔を洗い、拭う。
手ぬぐいが湿った代わりに私の心がいくらか澄んだのは間違いなかった。
あくまで落ち着いた素振りで玄関へと向かおう。
そう思うのに、知らず知らずのうちに足が忙しなく動く。
どうしてだか動悸が昂ってきた頃、私は手に掛けた戸を引く。
「こんにちは」
「……やっほ、早苗」
柔らかい笑みを目にして、ほっとした私の口をついたのは素っ気ない一言だけだった。
もっと気の利いた事を、せめて待たせて悪かっただとか、そういう事くらい言ったって良いというのに。
こうして後悔するのも、もはや慣れそうになっている。
「あら? 霊夢さん、前髪が濡れている」
早苗の細い指先が私の前髪をなぞる。
ふわり、払われた房が雫を落として視界の隅でぼんやり揺れる。
それを見て早苗は再び穏やかに……それこそふわりと笑った。
釣られて私も笑みを零す。
「ちょっと顔洗ったから、さ」
照れ臭くなり、俯きながら言う。
「そうでしたか。ひょっとして、急かしてしまいましたか?」
「そ、そんな事無いって! 大丈夫大丈夫」
早苗があんまり申し訳そうな顔をするものだから、私は慌てて身振り交えて首を振る。
むしろ謝らなきゃいけないのはもたもたしていた私なのだし。そう口に出して言えるようになるのは、いつなんだろうかな。
ここには――早苗の前にはひどく矮小な、小心者の私が立っている。
果たして本当に、私で彼女と釣り合うのだろうか。
時折不安になる。
それが近頃の情緒不安定の理由なのかもしれない。
理由が分かったところで、解決しようにもうまい具合に口は動いてくれなかった。
言葉にしなくちゃ、伝わらないのにね。
「えと、それで、なにか用事が……あるんだよね」
「あ、はい。そうです。ブルーベリーを、一緒につみにいきませんか?」
その誘いは驚くくらい意外なもの、というか予想外のものだった。
ブルーベリーが私にとってあまり馴染みの無い果物なだけあって咄嗟に返事ができなかった。
「守矢の社の少し離れた所に……これはこちらに来る前からの事で、神奈子さまがお育てになっているのです。もしよろしければ、ご一緒しませんか?」
私の様子を見かねてか、早苗が補足してくれる。
「ブルーベリー、か」
「はい」
ぼんやりと思い浮かべる小さな果物の姿は分かれど、どんな味なのかを私は知らなかった。
本で見たのだろう、あるいは紫か誰かの話に聞いたのだろう。
しかしそういえば触れた事や、口にした事もない。
一体どんな味なのだろうか。
ふと、その味を私以外の皆は知っているのに私だけが知らないのではないかという気がしてしまう。
誰も教えてくれなかった、そんな事を一瞬だけ思った。
ただの思い込みだけれど、私がそういうものに関心がないように見えたりするのだろうか。
――そんな事はないのに。
もしくは、皆は私にブルーベリーなど小洒落た果物なんて滑稽だとか、そんな事を思うのだろうか。
「そうね、どうしようかしら」
早苗は首を傾げて私を見つめる。
乗り気であるとは言い難かった。
なんとなく、私にとって早苗の家っていうのは眩しすぎる。
そりゃ神様がいるのだから、そんなものかもしれないけどさ。
でも神様というかそうじゃなくて、なんて言うんだっけ、こういうの――。
「来て下さったら、きっとお二方も喜ぶと思うのです」
「お二方……諏訪子と神奈子?」
「はい」
「喜ぶの? 私が行って、だよ?」
悪戯心から顔に狡猾な笑みを張りつける。
ニヤりと口角を上げてみせると、早苗がほんの少しだけムッとした。
「霊夢さんったら、分かっていません」
そっぽを向かれてしまう。
「二人の事なら、私、早苗よりは分からないわ」
「ち、が、い、ま、す」
「それじゃなんの事よ」
早苗があんまりかたくなで、思わず語気を強めてしまって咄嗟にバツが悪くなる。
僅かに首を竦めた早苗は、すぐに背筋を伸ばすと、風にたなびく前髪を手で押さえながら、私の目を見た。
「霊夢さんご自身の事です」
風が止むまでのちょっとした間があってから早苗が言った。
そよ風にさらわれてしまいそうな囁き声で。
私自身の事なんて言われても。
どうしたらいいのか、余計に分からないわ。
私なんて、ついさっきの夢だって全く覚えていられないような人間なんだから――。
「もう! それで、一緒に来てくれないのなら、私は一人で家まで帰らなくちゃけないんですよ?」
打って変わって明るい調子で、悪戯っぽい瞳が私を射抜く。
射抜かれてしまったのは事実だから、
「ふふ、分かったわよ。私が責任もって家まで送ってあげるから、ブルーベリーでもなんでも、一緒に摘みましょ?」
そう口にして、自然と生まれた笑みも事実のものだった。
「ありがとうございます。私、今日はどうしても霊夢さんと一緒にいたくて」
「な、何よそれ。恥ずかしい、じゃん」
でも、ありがとう……って、どうして口に出すのを躊躇うのだろう。
・
早苗と並んで歩く晩春の山道は、私が思っていたよりも味気なかった。
彩りがないというわけではない。
けれども、どこか素っ気ない。
他人事のように思える。
野花を、野草を見るの飽きた私は、かといって早苗をじろじろ眺める事などできず、視界の隅に揺れる新緑の如き深緑の髪の毛にぼんやりと見とれていた。
無言でいればいるほど焦りが募る。
落ち着いた早苗の、無言の横顔を見ると私は落ち着かなくなる。
傍に早苗がいるという実感がどこか薄れてしまうのだ。
「どうかしましたか? 霊夢さん」
「え、いや、静かだな、って思って」
風が吹けば草木は揺れるし、虫が飛べば花が揺れる。
小鳥のさえずりと共にそよ風が通り抜けて私の髪の毛を揺らす音だって聞こえるけど、そういう意味じゃない。
私にとって実感ある音が、早苗の言葉以外に存在しなかった。
「静かなのは、お嫌いですか?」
「そんなんじゃないよ。なんていうかさ、静かだから落ち着かない」
「静かなのに落ち着かない……不思議ですね」
不思議だろうか。
私にとってはある意味当然のように思える。静かな時というのは、私しかいない時だったのだから。
世界に一人だけって気がして、どうしようもなく不安になる。
「ははは。そういう言い方だと、早苗は静かな方が好き?」
「ふふ、そう聞かれてしまうと困ってしまいます。でも静かな方が素敵な事って、多いと思うんです」
「素敵、かぁ。よく分かんない」
そもそも素敵という言葉が抽象的すぎる。
少なくとも、今の私には早苗の言う「素敵」を他の言葉に置き換えられるだけの感性が欠けていた。
恐らく妙な表情をしていたのだろう。早苗が身体をかがめて私の顔を覗き込んでいた。
尋ね返すようにその瞳を見つめる。
早苗はにっこり笑うと、唐突に私の手を取った。
吃驚して声が出なかった。
二人して見つめ合って、手を繋いで、木々の隙間から差し込む日差しを「無言で」浴びた。
――これが素敵だって言いたいのなら、なるほどって思えるけれど。
そのまま歩いていくと空気が冷ややかになり、また花が多く見かけられたお陰で視界が明るくなった。
湖が近づいたのが分かる。
「こっちです」
早苗に手を引かれ、守矢の社ではなく、湖畔の方へと連れていかれる。
同時に強い花の匂いに気がつく。
この甘い香りには覚えがある。
覚えがあるも何も、この香りは早苗の香りだ。
私にの記憶する限り彼女が傍にいた時、いつも私の鼻腔を心をくすぐった香り。
変な気持ちになって、早苗との距離を一歩詰めると、風にそよぐ早苗の装束から漂うその匂いを確かめた。
違いない。
ラベンダーの香りは早苗の匂いで、湖畔から漂う香りもラベンダーだった。
「早苗? この香り」
「ここのラベンダーは早咲きなのです。だから梅雨になって、その合間に陽が差すとむせ返るような香りがするんですよ。私の母が育てていたもので、だから私にとっては懐かしくて、こちらでもずっと育て続けているんです」
「へぇ、いいね、そういうの。手入れは早苗がやっているの? この香りだと、決して数が少ないようには思えないけれど」
「それは、ちょっとだけ大変ですよ。……でも諏訪子さまが手伝ってくれたりするし、なにより好きですから。ラベンダーの花が、香りが」
「仲良いよね、諏訪子や神奈子と」
「ひょっとして、妬いちゃいましたか?」
そんな事を言いながら、早苗は繋いだままの手に、指をからませてくる。
私を絡め取ろうとする指先はとても細いというのに、温かくて、柔らかかった。
「そう見える?」
「だって、可愛いんですもの」
思わず硬直する。
早苗の指の蠢きと、早苗の掌の熱しか感じられなかった。
指先が熱い。
指先に脈動を感じる。
肌の下で、血が流れているのが聞こえそうだった。
「もう! 返事になってない、し」
「ふふ、そうですね」
早苗が舌先を出して片目を瞑ってみせる。
私なんかよりも、どう考えたって早苗の方が可愛いに決まっている。
そんな早苗に可愛いと言われると、からかわれているような気がしてしまう。
可愛いって、そう言われて嬉しいのは嘘偽りない本心だけど。
晴れない心でいると、いきなり視界が開けた。
私と早苗は湖畔に立っていた。
湖の深い青と、向こう側の湖畔にラベンダーの紫色を見た。
なぜか私はこの景色がとても現実的には見えなかった。
水の中には魚が泳いでいるのだろう。
水際には私が名を知らないような花が咲いているだろう。
私たちを覆うように枝を伸ばした木々には小鳥が身を隠しているかもしれない。
この視界には数多の生命があるというのに、現実的たる所以であるところの、俗っぽさであったり穢れを見つける事ができなかった。
見て取れないのは、あるいはそれが私自身であるからかもしれないと思うと、握った早苗の手を思わず離してしまった。
早苗から見れば私がこの景色に見とれているように思えるかもしれないが、その心象は少しばかり複雑だった。
・
ラベンダーの花を対岸に眺めながら、早苗に連れられてブルーベリー畑に向かう。
早苗が言うにはブルーベリーは水場の近くで育てるのが良いらしい。
しばらく歩いていくと、ラベンダーの香りとはまた違った甘く、丸みのおびた香りが漂ってきた。
「あそこから並んでいるのがブルーベリーの木です」
「木っていうけど、ちっさくて生垣みたいね」
「実も小さいですから」
「そりゃそうか」
ブルーベリーの実って随分小さいんだっけ。
そんな小さなものを、うんと背伸びして取ろうなんてしたら大変だろう。
山に守矢神社が現れて随分と経っているけれど、私にはまだまだ知らない事が沢山あるみたいだ。
なんだか不思議な気分になる。
早苗の世界というものが、私の知る以上に広大なのだと気がつかされる。
「お、帰ってきたね。殆どつみ終えちゃったよ?」
少し先の木のかげから神奈子が顔を覗かせた。
籠を手にしている。
その様子に随分所帯じみた生活感を感じて、彼女にどこか親近感を覚えた。
「お待たせしました。優しい日差しに、少しのんびりしちゃって」
「はは、まぁ良いよ。霊夢も来てくれたみたいだしね」
私が来たからなんだというのか。
既に殆どつんでしまったなら、まるで無駄足じゃない。
口には出さずに心で呟く。
「まァまァ、そう詰まらなさそうな顔しないでって」
顔に出てしまっていたのか、神奈子が笑いながら私に言う。
その笑みを見るとどうしてかすごく悪い事をしてしまったような心地になる。
私は弁解するように苦笑して、頭を掻いた。
「神奈子さま? まだつみ終えていないのはどちらですか」
「奥の方は早苗たちの為にそのままにしてあるよ」
早苗の弾けるような笑みに答え、神奈子はきりりとした所作でラベンダーの花が咲く方を指差した。
水辺よりそれなりに離れた所から弧を描くようにブルーベリーの木々は連なり、弧の突端はそのままラベンダーの群生する辺りにまで続いていた。
「それで、この籠使っていいから。私は日陰でちょっと休んでるわ」
早苗の受け取った籠を覗くと、籠に対してだいぶ小さな実が身を寄せ合って蹲っていた。
一つ一つが矮小なそれは、おぼろげにイメージする人間そのもののような気がした。あるいは私自身。
そしてどうしても早苗がその中の一つには思えなくて、そうして彼女が現人神であると思い出す。
目の前のブルーベリーの実には、あるいは桃や柿であったり、そういった果物らしさがないように感じた。
それは取るに足らない妄想ではあったけれど私の主観からしては間違っていないのかもしれない。
早苗を例えるならブルーベリーではなくて瑞々しい林檎の実かな、なんて、そんな事をぼんやり思う。
「ありがとうございます。神奈子さま……それじゃ、霊夢さん。行きましょう?」
「う、うん。でもよく分かんないから、教えてよね」
「もちろんですよ」
日差しを跳ね返す早苗の頬が、艶やかな、若く熟した林檎のように綺麗な色をしていた。
・
「実にしっかりと色のついている、完熟したのを一つずつ取って下さいね。すぐ取れてしまうのが、美味しい実です」
早苗は言いながら、早速一つ、二つと実をつまんでいく。
見れば確かにまだ色の薄い実がそこらにある。一つ一つというのはまどろっこしいが、熟れていない実を取るのも気が引けた。
私も早苗の真似をするように、色濃い一つに指を伸ばした。
その感触がなんともいえなくて、小さなブルーベリーの実をまじまじと眺めてしまう。
「ふふ、どうかしましたか? 霊夢さん」
「え、いや、なんでもないよ。なんかこうしてみると食べ物っぽくないね」
「そうですか? 美味しいですよ」
丁度手にしていた一つを口に放り込み、早苗が私に微笑みかける。
私は苦笑を浮かべて、それを返事にした。
「また後でもらうよ。つまみ食いっていうのもなんだかね」
「あら、こういうつまみ食いが醍醐味なのに」
らしくない事を言いながらも、早苗は手を止めずに一つ一つ丁寧に実をつまんでいる。
手際良い様子を見ていると、ますます私の価値が煤けてしまうような気がした。
気圧のせいかは分からないけど、どんよりとした気持ちのまま、早苗の方は見ずに私も再び手を動かす事にした。
・
しばらくすると粗方の実をつみ終えてしまう。
思ったよりも早く、思ったよりも味気ない作業だった。
「ふぅ……終わったね。これってさ、また改めてつみにくるの?」
早苗には悪かったが、もしそうであっても同伴はしたくない。
そんな事を思ってしまう。
確かに早苗と一緒にいると落ち着く。
ブルーベリーつみが早苗と一緒にいる口実になり得るのは理解しているが、しかしなにもこんな事でなくても、と思ってしまう。
我ながら潤いのない心をしている。それを理解しているから、なんとなく悶々とした気持ちを振り払えないでいた。
「いいえ。まだ熟れていない実はこのままにしておきます」
「ふぅん。熟れても取りに来ないの? あ、これから梅雨だしね。雨の中、ってのはめんどくさいか」
「ふふ、そうですね。梅雨になってしまう、というのもあるのですが、なにもそれだけじゃないですよ?」
「それだけじゃない?」
「はい。分かりますか?」
「うーん……」
いずれ熟れるであろう実をそのままにしておく事になにか意味があるのだろうか。
考えれば思いつきそうな気もするけれど、日差しが雲に覆われ虫がそわそわと飛び始め、草のにおいと急な冷え込みに雨の気配を感じたら、それどころじゃなくなっていた。
ポツリと雫が土を濡らす。
「って雨、降ってきちゃったね」
「わ、そうですね。早く部屋に戻りましょう」
「そうね」
早苗と並んで緑を走り抜ける。
右を見れば早苗の抱えた籠の中でブルーベリーの実が跳ねていて、左を見たら低木にブルーベリーの実がなっていた。
右には熟れた果実が、左にはまだ熟れぬ果実があった。
熟れぬ果実たちはなにを思ってそこにいるのだろう。
私は何を思ってここにいるのだろう。
雨が降ると難解な――もとい意味も分からないような事を考えて、勝手に陰鬱な気分に浸ってしまう。
雨水に浸されて侵されて、飛び跳ねた土がふくらはぎを汚すのを感じながら私は走っていた。
・
「お、おかえり二人とも」
「ただいま帰りました!」
「お邪魔します……」
早苗の家まで来て、玄関を潜ると諏訪子に迎えられた。
おかえり、とは言われたもののなんと返していいのか分からず、ぎこちない声しか出なかった。
「濡れちゃったでしょ。今手ぬぐいもってくる」
「ありがとうございます、諏訪子さま。えぇっと、お洗濯物は」
洗濯物!
すっかり忘れていた。面倒だけど今から引き返さないと……。
本当に、ついていない。
「洗濯物は神奈子がさっき取りこんでたわ」
「そうでしたか。良かった……」
「よっし、それじゃちょっと待ってて」
「あ、あー。それなんだけど、ちょっと用事があるの、私」
「およ、ホント?」
諏訪子が驚いた顔でこちらを見つめる。
「う、うん。いや、今の今まで忘れててさ。だから急いで帰るから、手ぬぐいとかいいよ」
洗濯物を取り込み忘れていただなんて言ったら、早苗にも迷惑かけちゃうし、諏訪子とか神奈子にからかわれちゃいそう。そんな事を思った。
籠を置いた早苗はなにも言わずに、申し訳なさそうに縮こまっていた。
「そっか、じゃ傘を貸そうか?」
「傘かぁ、ううん。大丈夫。空飛んだらさ、あんまり関係ないじゃん?」
諏訪子が気を聞かせてくれるが、それに甘えるのは違う気がして、強がってみせる。
そんな安っぽいプライドというか、見栄に意味が無い事は分かっている。
それでも思わず口にしてしまった。
「あ、あの、私の傘で良ければ使ってください」
「ふふ、ありがとう早苗。でも平気だって」
「でも……」
「言ったでしょう? 空飛びながら傘差したら、壊しちゃうかもしれないし」
早苗の心配そうな顔を見て、温かい部屋の空気に包まれているとどこにも行きたくなくなってしまう。
好意に甘え切るのは図々しいとも思ったし、なによりその好意に慣れていない私は、自然とたどたどしい応対をしてしまう。
「それはそうですけど」
「良いの良いの。どうせ帰ったらすぐにお風呂入るからさ」
「ふーん、そっか。残念だけど、用事があるのなら無理は言えないか。良いから、手ぬぐいくらいはかぶって行きなって」
いつの間に取ってきたのか、諏訪子が白い綿の手ぬぐいを投げて寄越してくれた。
「あ、ありがとう」
「はは、気にしない気にしない。これくらいしかできないけどさ。本当なら暖かいお茶の一杯でも用意してやるところだけど」
「労働の後だしね。それくらいはもらいたいところよ、っと、でも行かないと。それじゃあね、早苗」
「は、はい。今日は無理に誘っちゃって……ごめんなさい」
「なんで謝るのよ。気にしないで。んじゃ、今度こそ」
「ばいばーい」
早苗が見送りの声を返してくれないのが少し残念だったけれど、私は努めて明るい振りをして二人に手を振った。
戸を開けると雨粒が容赦なく私を濡らす。せめて、と思い、すぐさま戸を閉めた。
雨脚が強まっていた。
まだ日が沈むような時間でもないというのに、あたりはすっかり寂しくなっている。
戸を隔てた外の世界は、室内の温もりや明るさが微塵もなくて、妙に静かに無色で佇んでいた。
どうしてだか口から漏れた溜息を見送って、諏訪子に与えてもらった手ぬぐいを頭に乗せると、地面を蹴った。
早苗と一緒に歩いて来た道のりは空中から見てもなんら変わりは無かった。
なのに重力に引かれて歩いていた先程よりも、今は心も身体もずいぶんと重い。
もう一度溜息が漏れる。
これは全部梅雨のせいだ。
そう思う事にした。
事実、今日が春と梅雨の境目であったのは明らかだった。
2
「……えーっと、とりあえず早苗も身体拭きなよ」
「そうですね。ありがとうございます」
霊夢さんを見送って、ほんの少し放心状態でいた私に、諏訪子さまが手ぬぐいを差し出してくれる。
その手ぬぐいの肌触りが柔らかく温かく、ふと霊夢さんの手を思い浮かべた。
「霊夢をうちに呼びたい! って意気込んでたからさ、何かあるのかなって思ってたんだけど」
「へへ……そうですね。何かは、あるつもりだったんですが」
どきどきのせいで浮足立っていたのかもしれない。
本当は沢山お話ししたい事も、やりたい事もあったんだけれど。
ちょっと自分勝手だったのかな。
いきなりブルーベリーつみだなんて、やっぱり楽しくはないか。
籠を見下ろす。
今年もしっかり収穫できたけど、取りこぼしてしまったのは一番大きな何かの気がした。
「うぅん、なにか様子も変だったしね、霊夢の。まぁそう落ち込まないでさ」
「落ち込んでなんていませんよ。あ、お夕飯の用意もそろそろ始めた方がいいですよね。部屋に戻っちゃいますね。ありがとうございます、諏訪子さま」
「う、うん」
ぽんぽんぽんと言葉を並べて、諏訪子さまに頭を下げて廊下を小走りで駆けていく。
まだまだ夕飯の準備なんかには早すぎるけど、でも言い訳をしたかった。
靴下の水がひたひたと足跡を残しているようで、言い訳の余韻を噛みしめながら、私は廊下を進んだ。
・
部屋の戸を閉める。
ある意味で、こうして私は一人っきりになる。
雨粒が窓を叩く音以外聞こえない。
静かだ。
なのに。
――落ち着かない。
さっき霊夢さんが言っていた事を思い出す。
静かなのに落ち着かないって、こういう事なのだろうか。
こういう事だとしてもどうしてそう思うのかは分からなかった。
靴下を、装束を脱ぎ捨て身体を拭う。
上等な綿の心地が、やっぱり霊夢さんの肌を思い起こさせる。
霊夢さんという比較対象のおかげで綿の肌触りが霞んでしまう気もした。
どう考えたって、霊夢さんのきめ細かい肌の方が優しく温かいのだから。
私は何をしたかったのだろう。
霊夢さんを傍に感じたかったというのはそれだけでなくて、霊夢さんが私にとってどれだけ大切なのかを、それを再認識したかった。
だから私は、諏訪子さまと神奈子さまに聞いたのだ。
『大切な人を、連れてきてもいいですか』
無論、二人がそれを否認する事はなかった。
そしてこれは公然に霊夢さんが私にとって大切な人だと宣言した事にあたって、つまり私と霊夢さんの関係を二人だけのものではなしに、やはり私にとって大切な「家族」に認めてもらいたかったのだ。
子供じみた自尊心からの行いだったとは思うけれど、決して意味がない事ではない。
霊夢さんに私の事をもっと知って欲しかった。
だからブルーベリーつみの事だって、ラベンダーの事だって知ってもらいたかった。
それが霊夢さんにとって取るに足らず、面白味のない事だったとしても――。
やはり私は身勝手である事を辞められないようだ。
思わず苦笑する。
だってこんな事を思いながら、今も覚えている事といえば掌に残る霊夢さんの感触ばかりなのだから。
そんな身体の繋がりばかりが何かを生むわけではないというのに。
ふと考えながら自分が下着のままであったと思い出す。
妙に恥ずかしくなってしまい、箪笥から服を取り出す。
そんな瞬間に思い至る。
幻想郷という夢見心地の世界の中で、私はやはり俗なのだろうか。
不器用である自覚はある。
それでも私は、霊夢さんの事を想わずにはいられないのだ。
3
洗濯物は取り込んだし、着替えも済ませた。
風呂も沸いた。
洗い直す事になった洗濯物と一緒に、諏訪子の手ぬぐいを桶に放った。
その手ぬぐいは紫陽花柄だった。
梅雨が幻想郷の頭上に鎮座しているのを感じた。
無防備な格好で、硝子越しに湯けむりを眺める。
首筋を襲う寒気に身を縮めて、たぶん風邪をひいたな、とぼんやり考える。
戸を引くと白い蒸気が脱場に溢れ出て私を包んだ。
その湯けむりさえ優しくはなかった。
肌を差すような熱気は、しかし私の欲しているものなのだけど。
浴室の空気を吸い込むと身体が内側から熱せられるの感じる。
手早く身体を洗い、浴槽に身を沈める。
そして思い返す。
早苗に、一杯悪い事しちゃったかな。
表面だけは取り繕って明るい振りをできていたと思うけど。
でもそれが既に悪い事だって、そんな気がして。
どうしてこんなに悶々としているのだろう。
あのまま早苗の家にいたらどうなっただろう。
もしかしたら、
『雨が降ってきちゃったから、よろしければ泊まっていきませんか?』
そんな言葉をかけてもらえたかもしれない。
それだけ考えたらどんなに素敵な事だろうかと思うけれど、そうして近づいてしまったら私がいかに彼女に釣り合わないかって、それが浮き彫りになってしまう気もするのだ。
それが怖い。
しかも諏訪子や神奈子の前で、だ。
心と、やっている事と、その矛盾は承知している。
だけど怖い。
元より私に失うものはほとんどなかったけれど、だからこそ早苗との関係を失いたくなかった。
身体の芯が暖まっていき、少しずつ意識がぼんやりとしていく。
やっぱり、早苗の家は眩しかったなぁ。
おぼろに思う。
諏訪子と神奈子と、二人がいるってだけでそんなに変わるのだろうか。
――それが「家族」っていうのなら、私が不明瞭にしか理解できないのは当然なのかもしれない。
・
太陽が幾度か東から顔をのぞかせても、未だに雨が降っている。
もとより雨のせいで太陽は拝めなかったし、戸を引いた部屋の中からなら尚更だ。
部屋干しで乾かした手ぬぐいを眺めては、いつ返しに行こうかと逡巡する。
もう数日間か雨が続いていて、その機会はなかなか訪れない。
雨の中早苗の家に行けば話は済むけど、またなにか早苗を謝らせてしまう事があったら嫌だ。そんな事も思う。
そんな事ないように努めればいいけれど、上手くできる自信がなかった。
……というか身体がそう主張しているのかのように重く、やっぱり私は風邪をひいていた。
本当にしょうがない。
布団の中で蹲って食事の時だけそこから抜け出す。
二三日そんな生活である。
だけどこれといって不便もない。
いつもの生活に実がない事の表れである、なんて笑えないわ。
実といえば、私たちがそのままにしておいたまだ熟れていないブルーベリーは今頃どうしているだろう。
あの実がどうなるのか、そういえば結局聞けなかった。
なんとなく、それだけでも聞きたい気がした。
でも身体の方はそれどころじゃないんだよね。
結局私はもう一度目を閉じる事にした。
なにか不明瞭な夢を見る事よりも、早苗の顔を見たいのだけど。
4
「早苗ー、早苗―! ちょっとビン取ってくるからお鍋見ててくれないー?」
「はーい、お待ちください神奈子さま」
台所から香る煮込まれたブルーベリーの香りを追いかけながら、私は胸を躍らせていた。
この香りは心地良い。
ラベンダーの香りだって素敵だけれど、ブルーベリージャムを作る時の、ぐつぐつと煮込むその匂いも格別だった。
台所に立つ神奈子さまの背中がちょっとだけ乙女に見える。
「今年のブルーベリーはいかがですか?」
「そうだねー、ジャム向きじゃなかったかもね。そのまま食べるのが一番だったかも」
「そうですか。ふふっ、でも神奈子さまのジャムが美味しくなかった試しがありません」
「はいはい、褒めても何も出ないよ。それじゃ、ちょっと様子見ててね」
「分かりました」
神奈子さまはにこやかに言って台所を後にした。
ブルーベリーの実は、収穫してしまったらそれほど持たない。ちょっとばかり腐りやすいのだ。
本当は霊夢さんに取れたての実を食べてもらいたかったけれど……タイミングが悪かった。
「ありがとう。ちょっと多いかな。これで収まるといいけど」
五つのビンを流し台に置きながら神奈子さまが笑う。
「そうですね……でもこれなら大丈夫でしょう」
「早苗って自信があっていいよね、うん」
「え、なんですか? いきなり」
「いや、別に大したことじゃないんだけどさ、そういうのって大切だなって思って」
口を動かしながらも神奈子さまはビンの蓋を開けて、そこにどんどんジャムを流し込んで行く。
「あ、とりあえず蓋をのっけといて」
「は、はい」
「閉めないで良いよ。熱いから私がやる」
「はい。えと、あの」
「そうだ、早苗もやる?」
「え?」
先程の話がどういう事だったのかと聞こうと思ったら、神奈子さまが私におたまを差し出していた。
「霊夢、手伝ってくれたんでしょ。持ってってやりなよ」
「は、はい」
おたまを受け取り、鍋の前に立つ。
熱気は思ったよりも強かだった。
ジャムを流し込むと、ビン越しにも相当な熱さを感じる。
涼しい顔をして、でもちょっぴり苦しい。
鍋の残りを全て流し込むと、ビンの八分目くらいだった。
「はは、やっぱりぴったりだったか」
「さすがですね、神奈子さま」
ビンに蓋をのせ、やけどしそうになった左手を濡れ布巾でさすっていると神奈子さまが笑ってみせた。
「さすがなのは早苗でしょ」
「そんな、私は何も」
「でも早苗の言った通り、大丈夫だったじゃん」
「もうそれはそれ、ですよ」
「うーん、なんていうか早苗って自信がある事に自信がない……って感じ?」
「はい?」
「ごめん、言ってみたけど私もよく分からない」
けらけらと笑いながら神奈子さまが言う。
「でもね、早苗はもうちょっと胸張って良いんじゃない。勘の良さは間違いないんだから」
「そうでしょうか」
「うんうん。変なところで引っ込んじゃうのは勿体ない」
「えっと、どういう事です?」
「んー、そうだねぇ」
神奈子さまは少し視線を泳がせた後、頬を書きながら首を傾げた。
「この前の、霊夢の事とか……かな」
「この前の……」
「だって、早苗ってばすごく残念そうに私に話してくれた割に、詰めは甘かったんじゃない?」
詰めが甘い?
意味が分からなくて、疑問符が頭に浮かぶ。
「あの日もう少しできた事があったんじゃないかなー、とか他人事なりに思うのよね。例えば家まで送って行ってあげるとか、付き添ってあげるとか……あと折角なんだからって、ブルーベリー押し付けてあげるとか」
「で、でも、無理にしても申し訳ないと思って」
「そうねー、でもそれくらいが早苗らしくて丁度いい気もするけどなぁ」
「私らしいって、ふふ。ちょっとひどいです」
「ははは、別にそういう意味じゃないよ。でもさ、早苗たちって、そういう遠慮とかしちゃうような間柄なのかなぁとかね、思うわけよ」
遠慮、なのか。
それとも単純に私が無知なのか。不器用なのか。
「ま、そりゃあたしがどうこう言う事じゃないとして、お手伝い御苦労さま。はい、これ」
神奈子さまはさっき私がジャムを入れたビンの蓋をぎゅっと締めて、私に差しだした。
それを受け取る。
ビンの熱は先程よりも落ち着いていたけれど、まだはっきりと感ぜられる火照りを帯びている。
5
「霊夢、貴方は何をやっているのかしら?」
「……紫には何をしているように見えるのかしら?」
布団越しに、背中の方から声が聞こえる。
透き通った声は不躾に私の耳に飛び込み、頭に響く。
「芋虫ごっこかしら」
「遠からずだわね」
「あら、素直ね」
「素直じゃないわ」
「そう?」
「そう」
素直な人間が、どうして懸想の相手に会いに行きたいという心に正直になれないのだろうか。
私は素直ではない。
ひねくれ者だ。
紫ほどではないけれど。
「ひねくれているのね」
「分かってるじゃない」
「どうでもいいんだけれど、今日は晴れたわ。梅雨の中休みかしら」
「私も中休み中なの。邪魔しないで」
「折角だから、傘を買いに行こうと思ったの」
「へぇ」
「それでね」
「他を当たって頂戴」
言葉が続く前に、釘を刺しておく。
「いけず」
本物の釘でも用意すべきだったかしら。
「折角梅雨なのだから、似合う傘が欲しいじゃない?」
私が無言でいると紫は独り言のように言葉を続けた。
「そういうのは藍とかで良いじゃない。なんでよりにもよって私なのよ」
「だって藍は、素直な意見をくれないわ」
「躾がなってないのよ」
「そこで私は、素直な霊夢に頼んじゃおうと思って」
布団越しに肩を揺さぶられる。
毛布を隔てた反対側に、紫の手があり私に触れている。
その事実にどうしてか怖くなった。
その感触に、温もりに怖くなった。
私は布団を放りだすように、思ったよりも大きな所作で身体を起こした。
「だから! 私は素直じゃないっての!」
「あらあら、その真っ赤な顔が、素直な証拠でしょう」
「これは熱のせい!」
「うふふ、私が来た事が、そんなにドキドキかしら?」
「うっさいわよ。体調悪いんだって」
「でしょうね」
「えっ……?」
紫の方を見ると、信じられない光景があった。
「えっと、何してんの?」
「霊夢には、何をしようとしていると思う?」
さっき紫がしたような問い掛けを私がして、さっき私がしたような返事を紫がした。
「何って、それって、まるで……」
看病じゃない。
なんで桶に氷水を張って、濡らした手拭いを持っているのよ。
どうして机の上にはお粥が用意されているのよ。
「まるで?」
そしてこの顔だ。
この上なく意地の悪い笑み。
裏に何かがあるのを、わざとらしく隠している、そんな笑み。
「家政婦のおば様みたいだわ」
「恥ずかしいのよね、分かるわ」
「あーもう五月蠅い」
「だって、ねぇ」
紫が、ほんの少しだけ感情を露わにして苦笑を浮かべてみせる。
「私ね、梅雨になってから何度も貴方を訪ねているの。ずっと具合が悪そうにしていたから、放っておいたのだけど」
「なかなか息絶えなくてとどめを刺しに来た、と」
「そうなのよ。霊夢の五月病にとどめを刺しに来たの」
「……五月病、か」
言い得て妙だった。ま、もう五月じゃないんだけど。
でも、それほど分かりやすいものでもない気がする。
「ほら、お粥にするの? 濡れ手ぬぐい? それとも、わ・た・し?」
「あんたさぁ……まぁ良っか。ごめん、お粥頂戴」
一言多いのよ。今更だけど。
それよりお粥。朝からなんにも食べてないし、ね。
時計を見ると、短針と長針がてっぺんで重なり合っていた。
「コレ、紫が作ったの?」
「藍が作ったのを持ってきたわ」
「ほうほう」
「できたてほやほやよ。あっ、あーんする?」
「いただきます」
紫にかまわず蓮華を取って、お粥をすくった。
「ふむふむ」
「美味しいでしょ?」
「ん? まぁね」
質素な白粥に美味しいも何もない気がするけど……と思ったら、ひょっとして、なんて考えてしまった。
それは、ないか。
「これ、本当に藍が作ったの?」
「あら、どうして?」
「いや、藍がお粥に塩の代わりに砂糖入れたりなんて、しないと思って」
「お、お砂糖?」
「特盛りだわ。じゃりじゃりする」
目をぱちぱちさせて珍しく動揺してる。
まさか?
「これって、紫が作ったり?」
「い、いやいや、そんな事はないわよ? すると思うの? 私が、そんな事。ましてやそんな間違い、するわけないでしょう?」
「でも藍だったら味見くらいするだろうし……あぁ、そういう嫌がらせなのかしら」
「ま、まぁ! 藍ったら、ちゃんと躾けておくわ! ごめんなさいね、霊夢」
その慌て方が妙におかしかった。
紫のこんな姿だなんて本当に貴重。
というか砂糖の特盛りは間違いってレベルじゃない。
紫は私を糖尿にしたいのだろうか。
悪気のないような顔をしてみせて、その裏が分からないから紫って不便ね。
「ぷっ。素直じゃないのね、紫」
「……ひねくれているわ、貴方くらいね」
紫が、穏やかに微笑んだ。
・
「もう一度、横になっていなさい」
手ぬぐいを私の額に乗せながら紫が言う。
「どうしちゃったのあんた」
「私がやるべきではないと思っていたけれど、私以外にやってくれる人がいないのよ、今のところ」
「いない……」
「ふふ、可哀そうな霊夢」
早苗は?
違うの?
期待なんてしてはいなかったけど、でも……!
紫に尋ねる事もできずに、想いが胸の中で反響した。
「どうしたの? まるで世界が終ってしまうかのような顔をして」
「そうしたらきっと、私は笑っているわ」
「あら、奇遇ね。私もよ」
そんな同意の言葉を耳にすると、紫が傍に来てしまう気がした。
反して早苗の影が薄くなる。
長らくその顔を見れていなかったからかもしれない。
期間としては決して長くないのかもしれないが、でも早苗が遠くにいる気がした。
これは私のエゴだったけれど、天秤のように、紫と早苗が揺れていた。
認めたくはないけれど、そう感ぜられてしまった。
「ねえ、紫」
「なに?」
「手を貸して」
「湯浴みでもしたい?」
「どうしてそんなのに手を借りるのよ。文字通り、あんたは手を貸せばいいのよ」
例えば紫と手を重ねてみて、私がどう思うのか、知ってみたい。
果たして早苗の時のように心が熱くなるだろうか。
それとも紫の手は、何も生まない、無機質の陶磁器なのだろうか。
「――嫌よ」
風邪に絆された私には、その拒絶が予想外で気が抜けてしまう。
「だって、下心が丸見えだもの」
その言葉に冷や水を浴びせられたかのような感覚を覚える。
何も言えなかった。
しばらくそのままでいると、無言が苦しくなって、口が開いた。
「紫には言われたくない」
「うふふ」
紫は笑いながら扇子を翻した。
香りが舞う。
何の香りかは知れなかったけれど、それは妙に生々しく艶やかで妖しく熱っぽくて、気が狂いそうだった。
紫の流し目に釘付けになっていた事を私は否定しない。
それができるだけの自我すら欠けていた。
「紫」
自分の口から出た声が思っていた以上に掠れて、風邪のせいか色っぽくて、私自身が戸惑った。
「物欲しそうな目をして、どうしたの?」
「つっ! なんでも、ない、っつーかこっちも体調悪いのよ!」
視線を逸らす。
窓の外、晴れていた。
「ほら、馬鹿な事をやっていないで、もう一度寝てしまいなさい」
「……うん」
「私はそろそろお暇しようかしら」
「あ、あのさ、紫」
「ん? どうかした?」
「傘、買いに行くんでしょう」
「そうね。買いに行くでしょう」
「仕方ないから、着いて行ってあげるわ」
「……ふぅん」
「仕方なく、よ。明日も晴れたら、一緒に言ってあげるけど、仕方なくだから」
紫は嬉しいのか困っているのか、恥ずかしいのか、よく分からない笑みを浮かべた。
ただなんとなく、私の言葉を一歩引いたところで聞いているかのように見えた。
「そうね。明日晴れたら、また来るわ。晴れたら、ね」
まるで期待しない様子で言うと、紫はスキマに消えた。
翌日、太陽はその姿を露わにしなかった。
そして紫も私を訪ねては来なかった。
雨であったから。
私はなんともいえない気持ちで、蛙の鳴き声に耳を傾けた。
昨日までとは打って変わって頭は冷めていた。
こんな日にこそ、誰かに訪ねて来て欲しかった。
もう誰でも良かった。
本当は、早苗が良いけれど……。
そんなのはエゴでしかないって気がついてしまった。
6
昨日私は胸に誓った。
明日も晴れたら、きっと霊夢さんのところに行って、ブルーベリージャムを手渡すんだ――と。
なのに、晴れたのは昨日だけだった。
縁側から雨に濡れた境内を眺める。
穏やかに降り注ぐ雨粒を見ているとこれで良かったような気がしてしまう。
晴れていたとして、霊夢さんのところに行ったとして、どうしたら良いのか分からなかったのだ。
「早苗ー、ちょっと暇ある?」
「はい、いかがしましたか、諏訪子さま」
「傘、買いに行こ」
「傘、ですか」
雨の中、傘を買いに行く。
なんだか不思議で、思わず笑ってしまった。
「うん。なんか新しいの欲しくなった」
「化け傘でも探してきましょうか?」
「ははは! 茄子は遠慮しておくよ」
「ふふ、そうですね。それでは午後にでも、一緒に行きましょう。里ですか?」
「里だね。ちょっとね、気になる事があるんだ」
「気になる事……」
「そそ」
何か意味ありげに頷いて、諏訪子さまは部屋の奥へと行ってしまった。
諏訪子さまは雨が好きだ。
それは単なる好みだとかそういうのとは違って、もっと確固たる思いに基づいているように思える。
元より雨は恵みであるのだし、それを快く思う人間も多い。
その逆も然りだけれど。
雨の恵みという言葉に神の御心も気まぐれも全てが詰め込まれているような気がして、ふと変な気持ちになる。
私にとっては雨という一般的に馴染みのある事象よりも神様の方が近しかった。
それが私が周りと「ズレている」理由なのかもしれない。ふと思った。
世界といくらズレていても、それを許容するためには多くを必要としなかった。
しないと思うのだ。
世界が小さくなってしまえば良い。
言ってみれば傘の下みたいに。
傘の下に、欲しい物だけ詰め込んでしまえば、そうして私の世界ができあがるのなら――。
そんな事を思うと私も傘が欲しくなった。
今よりも少しだけ大きくて、決して大きすぎない傘が。
・
「そういえばさ、三人で出かけたりってめっきりなくなったね」
「確かに……そうですね」
「なんでだろうねぇ」
畦道を歩く。
雨粒が跳ね、蛙の合唱が跳ねていた。
ひなげしは花びらを落とし、代わりに露草が咲き始めている。
傘を差している分、私と諏訪子さまの間の距離はいつもよりも広かった。
それこそその間に、もう一人が悠々といられるくらい。
「どうしてでしょうね。決して昔と何かが変わったという事はないはずですが」
「いやいや、そんな事はないよ。早苗は変わった」
「私が?」
そんな自覚はあまりない。
それは確かに、紫陽花の色が移り変わるみたいにちょっとした心変りはするかもしれないけれど、でも変わってない事の方が多いに決まってる。
だって、私の霊夢さんを想う気持ちは変わっていないもの。
畦道を抜けると路肩にドクダミが群生していた。
梅雨の静かに灰色がかった空間に見つけた白い姿にハッとして、目を奪われる。
晴れた日に、日差しの下で真っ白のシャツを目にした時みたいな、そんな風に目がくらむ。
普段なら踏みつぶすのにさほど躊躇しないだろう花に心奪われる。
「そうだよ。なんかね、大人っぽくなった」
「ふふっ、どういう意味ですか、それ」
「からかい甲斐がなくなってきちゃったね、うん」
諏訪子さまの笑い声が蛙の鳴き声に混ざって、雨粒に溶け込んで、それが地面を跳ねる音は不思議なくらい揺れていた。
揺れていたのは私かもしれない。
大人になって、からかい甲斐がなくなって、詰まらない人間になってしまうんじゃないかと、そんな事を思った。
――あぁ、だからなのかもしれない。
白いドクダミに心奪われたのは、自分が落としてしまった何かが、そこに見える気がしたからなのかも。
「……ごめんなさい」
私は曖昧に笑う事しかできなかった。
「ん? 謝る事はないって。喜んだって良いくらいなんだから」
「でも」
「これってさ……」
諏訪子さまの細い髪の毛が、雨露のせいで波を打っていた。
それがとても愛らしくて、私は遣る瀬無くなり、視界に揺れる自分の髪の毛を撫でつけた。
私の髪の毛が湿気に波打つ様が、諏訪子さまのそれのように可憐であるとは思えなかったから。
むしろ好き勝手動く髪の毛が意地らしくもあった。
そんな些細な事から雨が嫌いになる。
明日はどうかは知れないけれど、梅雨は色々な事を考えてしまう。
「なんだろ、こういう事言うのってすっごい恥ずかしいんだけど?」
「こういう事……?」
面白がるように語尾を上げ、諏訪子さまが私を見上げる。
「親心みたいなものかね」
その微笑と言葉が私を包み込んだ。
どういうものなのか、親になった事のない私には想像もつかないが、それでもどうしてだか嬉しかった。
しばらく歩いていくと人がちらほらと見られるようになってくる。
里が近づいてくる。
雨だというのに畑仕事に勤しむ老人の姿は強かだった。
私はそれをぼんやり眺めて、あの畑には何ができるのだろうと想像していた。
老婆は曲がったままで固まっているかのような腰を伸ばすと、農事の手を休め、こちらを振り向いた。
その顔に見覚えがなかったが、彼女の会釈に合わせ私も頭を下げる。
ひょっとしたら彼女は私でなく諏訪子さまに頭を下げたのかもしれなかったが、霧雨のカーテン越しにはそんな事もうっすらとぼやけてしまう気がしていた。
人に賑わう里は雨も何も関係なく機能している。
皆が傘を差しているせいかいつもよりも窮屈な印象を受ける。
「こっちこっち。こっちに傘屋があるんだ」
「こっちって……こんな路地、ありましたっけ」
諏訪子さまの後を追う。
紫陽花の花をかき分けると、私の記憶にない路地が伸びていた。
紫陽花が私たちを囲んでいた。
まるで紫陽花の中を歩いているようだった。
辺りは薄暗くなり、玄妙な趣に気圧される。
諏訪子さまは気にした様子もなく、ひょこひょこと歩いて行ってしまう。
ただなんとなく感ぜられる妖気は、人間の里のものというより妖怪の山のものに近いと思った。
馴染みの空気。
だけれど、どうしてこんな所にという疑問と、歩いていくとどうしてだか次第に数を増してゆく花々に気を取られて胸騒ぎを覚える。
横町、というほどは栄えておらず、かといって野道でもなかった。
しばらく進むと、大きくもなく小さくもない商店がぽつりとあった。
花屋だ。
看板があった。
風見生花店……?
「諏訪子さま、お花屋さん……ですよね?」
「そうだね。花屋だけど」
「えっと、傘を買いに来たのでは」
「そうだよ」
飄々と言われてしまう。
店の軒先に、二人の女性がいた。
緑色の髪をした目つきの悪い女性と視線が合った。
思わず固まってしまう。
その傍らの……八雲紫がニヤニヤと私たちを眺めていた。
「あら、いらっしゃい」
口を開いたのは賢者の方であった。
「貴方のお店じゃないでしょう」
「良いじゃない、細かい事は。大体幽香も、商売をする気がないのなら看板を下げる事だわ」
「私の勝手でしょう」
なにやら不穏な空気をまとって二人が対峙している。
私と諏訪子さまは、少し離れた所からそれを見守っていた。
「で、何か御用?」
店の者らしからぬ口調で幽香という女性が言う。
「傘が欲しいんだ」
「あら幽香、意外と客が来るものね」
「いや、なんで花屋で傘なのよ」
もっともだ。
私に疑問をそのまま口にしてくれたのが、店員さんであるから謎だけど。
「だって幻想郷で傘の似合う乙女といったら、私と、おまけで貴方でしょう?」
「乙女じゃない紫がおまけ。私一人で十分だわ」
「そもそも私のは日傘だから勝負にならないわ」
「いや、それ私のもだし。なんにせよ傘を売る道理にはならないでしょう」
「それでも、売るのでしょう?」
八雲紫の問い掛けに、幽香さんは黙ってしまった。
「たまたまよ。というか、私は別にそういうつもりがあるわけじゃない」
「たまたま、ねぇ。随分な商売のようだけれど」
「五月蠅いわねぇ。屠るわよ」
「怖い怖い……と、良いから早く私のも作って頂戴」
「嫌よ。めんどくさいわ」
「貴方は別に面倒ではないんじゃない?」
「あんたとお話しする事自体が面倒なのよ。……で、何か用事かしら」
どうにも禍々しい空気に包まれる花屋の店先。
とんでもない場所に迷いこんでしまったのではないかという気がする。
「いやさぁ、なんか大きな蓮の葉があるんでしょ? ちょっと見せてもいたくって」
「……なによ、普通の傘を持っているのに、そんなのが良いの?」
幽香さんは愚痴りながらも店の奥に消えて、今度は子供一人すっぽりを覆えそうな蓮の葉を持って戻ってきた。
奥に、花柄が描かれた傘を飾ってあるのが見えた。
他にも何本か立てかけて置いてある。
幽香さんが傘売りをしているのはどうやら本当のようだ。
諏訪子さまが雨も気にせずに傘を閉じ、それを壁に立てかけると、幽香さんから蓮の葉を受け取った。
「おぉ、コイツはすごいね。どんなに妖気の強い土地でも、こんなにはならないだろう」
「普通と比べれば、だけど。なんにせよもっと大きくならないと私たちでは使えないわ。こんなので良ければ別にあげるわよ」
「これは随分と太っ腹だね」
「うちは傘屋じゃないもの」
「するとこれは傘なのかい?」
「傘なんでしょう? 貴方一番最初に傘が欲しい、って言ったじゃない」
「ははは、そうだったかな」
「で、それだけ?」
不機嫌なのか癖なのか、指で柱をトントンと打ちながら幽香さんが言う。
「どう、早苗?」
「どう、と言われましても……」
「あら、守矢の巫女も傘をご所望なのかしら?」
戸惑う私に、更に追い打ちをかけるように紫さんが口を開いた。
「い、いえ。私は諏訪子さまの付き添いです」
「そう。うふふ、晴れなくって残念だったわ」
「晴れなくて、残念?」
晴れていたら何かあったのだろうか。
私はたぶん、霊夢さんのところへ行っていたけれど――。
「晴れていたら、デートの予定だったの、私」
「デート?」
ふわふわと現実味のない口調で、妖しい目つきで紫さんが笑う。
「なんか言ってたわね。晴れたら霊夢を連れてくるの、とかなんとか。まさか貴方、うちでイチャイチャしようとしていたの? というか何よ、デートって」
「霊夢さん……を?」
幽香さんの言葉に思わず目を丸くする。
隣で、諏訪子さまも同じようにきょとんとしていた。
「あら、どうしたの? そんなに驚いたような顔をして」
「な、なんでもないです」
「本当に? そうは見えないわ。今にも逃げ出したいっていうような、そんな顔よ?」
言っている事が分からない。
私がどうして、逃げ出したいだなんて思うのだ。
あぁ――でも、でも。
もう少し私の決心が強かったら?
私が雨でも霊夢さんに会いに行こうと思っていたら?
いや、それでは何も変わらないんじゃないか?
霊夢さんが、紫さんとそんな約束を……?
俄かには信じられなかった。
信じたくはなかった。
紫さんの言葉が信頼に足るものであるという実証はなかったが、それでも私の耳に飛び込んだ紫さんの言葉は、降りしきる雨の音と同じく事実であるのだ。
「ふふ、ねぇ? どうしたのかしら。何か言って御覧なさいよ」
「あー、ちょっと紫。あんた黙りなさい。不愉快よ。人が来たから、用事の無い人は帰って頂戴」
幽香さんの視線を追うと、杖を持った少女がいた。
普通の人間の子に思える。
不思議な様子だった。恐らくは幽香さんに用事があるのだろうけれど、様相からそれが窺えない。
というのも、私では少女の瞑った目からは何も読み取れないから。
無論、彼女もその瞳から何かを読み取る事ができるのか分からないが。
彼女は一人で、どうやってここまで来たのだろうか。そんな事を考えた。
「ふふ、そうね。眠くなってきたから、私は帰るわ」
紫さんがスキマに消えて、私たちも幽香さんに一礼するとそのまま来た道を引き返す事とした。
「早苗、私たちも帰ろっか。蓮の葉、ありがとう」
「気にしないでいいわ。いくらでもあるし、大したものじゃないから」
幽香さんは相変わらずの目つきで、それに似合わない語調で言う。
帰りの道すがら、私はといえばほとんど放心状態だった。
・
「あ、あのさぁ早苗?」
「……どうかしましたか、諏訪子さま」
笑顔を繕いながら、蓮の葉の下の諏訪子さまと目を合わせる。
山道は、どうしてこんなに物悲しいのだろう。
諏訪子さまは困ったような、申し訳なさそうな、そんな顔をしていた。
「ごめんね、これだけの事にわざわざ付き合わせて。……でも、紫も、ねぇ? 早苗と霊夢って――」
「気にしないでください! 平気ですよ。紫さんと霊夢さんは、お友達でしょう? それくらいの事、気にしてもしょうがないじゃないですか」
紫さんの「デート」って言葉が脳裏で揺れる。
戯れだったのか、それとも本当の事だったのか。
それが分からないから、口からは前向きな言葉しか出したくなかった。
ちょっとでもネガティブな事を言ってしまったら、そういう事になってしまう気がしてしまう。
「気にしてもしょうがないって、それを気にしなかったら、何を気にするのよ」
「それは」
「良いんだよ? 早苗は、いつだって霊夢の事を考えていたって。そういう事なんでしょう? 大切って、そういう事じゃないの?」
諏訪子さまが立ち止まって、私に静かに語りかける。
さっきまで賑やかだった蛙たちの鳴き声は、諏訪子さまの鶴の一声とでもいうように、ぴたりと止んでしまった。
『大切な人を、連れてきてもいいですか』
確かに私は、諏訪子さまと神奈子さまにそう言った。
でもそれは"私にとって"の大切で――
「なんなら私から、霊夢に言ってあげようか? うちの早苗をないがしろにして! なんて」
「……ふふっ、もう」
「はは、それは冗談だけどさ」
「大丈夫、ですよ」
本当に、大丈夫だから――
諏訪子さまの悪戯っぽい微笑みと、再び聞こえるようになった蛙と虫の鳴き声が私に落ち着きを与えてくれた。
静かでないから、落ち着くのだ。
はっきりとそれが分かった。
静かで、何もなかったら、私はどうかしてしまうだろう。
「それにしても、大きな蓮の葉ですよね」
大丈夫だから、わざとらしくても話題を変える。
そうでもしないといつまでたっても踏ん切りがつかない。
その気持ちが伝わったのか、諏訪子さまは頭を掻くと、また歩きだした。
「……うん。お花の妖怪が、花屋をやり始めたって聞いたから行ってみたかったんだ。最近ではなんでか知らないけど、傘も売ってるっていうから、ついでに」
「お花の妖怪……幽香さんですか」
「そうだね。見たところ随分力を持っているし、何より本人があまり接客とか好きそうじゃない。なんであんな事やってるのかは、よく分からないんだけどね。って、そうだ!」
諏訪子さまが急に声を上げる。
どうしたのかとその姿を眺めると、私にも察しがついた。
「傘忘れてきちゃったよ」
「お店、ですね。……明日にでも、私が取ってきますよ」
どうしてそんな事を口走ったのか、自分でもよく分からなった。
でも、もう一度あそこに行かなきゃって、そんな事を思った。
――傘が欲しいと、思ったのだ。
今私の差している傘よりも少し大きくて、だけど大きすぎない、そんな傘が欲しい。
「いや、いいって。自分で取りに行くよ」
「いえいえ、ちょっと私も、傘が欲しくなってしまって」
「……そうなの?」
「そうなのです」
笑ってみせる。
雨模様に似合わぬ、随分と乾いた笑みだったかもしれない。
7
体調が良くなった途端に暇になる。
我ながら意味が分からない。
風邪をひいている間は寝ている、ってする事があったけど、その必要もなくなった。
皮肉にも紫の看病が利いたみたいで無性に腹が立った。
頬杖ついて窓の外を眺める。
何かする事、あるだろうか。
「謝りに行く……とか?」
口にしてみて、実感が募る。
早苗に謝らなきゃ。
何を?
そんなの……たくさん。
直接的に悪い事は、していないかもしれないけど……。
でも例えば、紫の事とか。
だって、早苗にあんな態度とっておきながら、紫とはあんな約束するなんて、違うじゃない。
第一紫がそんな事、思っているのかだって。
いつもみたいにからかい半分だったのだろうし。
昨日が雨だった事は、間違いない。それが正解だった。
紫がどんなつもりだったのかは分からないけれど、私も熱にうなされていたのだ。
傍から見たらひょっとして早苗から見ても何でもない事かもしれないけど、私の自責の念が私を縛る。
謝って何か済む事ではないのかもしれないけど。
でも謝らなきゃって思うのは、どうしてだろう。
今まで言いそびれたごめんなさいと、ふとした瞬間に口から出るのを拒んだありがとうとか、伝えたい事はたくさんあるのに。
それで早苗だけにじゃない。
諏訪子と神奈子にも。ちょっと恥ずかしいけど、私が早苗をどう思っているのか、とか――。
それを伝えて何になるの?
自分自身が問いかける。
分かんない。
でも、そうしないと私の気が済まない。
五月は終わってしまったというのに、私はまだ五月病の振りをして、呆れてしまう。
この数日でなんとなく分かってきたのは、私はただ人が恋しいのかもしれない。
人恋し梅雨の始まり。
って、雨音が私を生き急がせる。
「……行くか」
随分と引きこもっていたから、散歩がてらに悪くないかもしれない。
歩いていこう。
山道を。
雨が降っているけど、傘はいらない。
梅雨の花は、紫陽花は雨に打たれて強かに咲くのだ。
それに山の木々が雨を避けてくれるだろうし。
何より、単純に雨に打たれたいって、そんな気分なんだ。
そうしたら少しはすっきりするんじゃないかって。
被り笠だけ手にして、私は窓を眺めた。
耳に飛び込む雨音が、楽しげな楽器の音色に思えた。
8
昨日の道順を思い出しながらゆっくり歩いて行く。
もとよりのんびりと歩いているせいもあるが、昨日と比べてだいぶ時間が掛かってしまっているように思える。
誰かと話しながら、誰かを傍に感じながらだとあっという間に時間は過ぎてしまう。
それを感じる。
仙人になるために俗世から離れなくてはいけないというのは、どうやらこの辺りに理由がありそうな気がする。
一生という時間があっという間に過ぎてしまうとしても、誰かと話しながら、誰かを傍に感じていたい。
欲張れば私は大切な人と一緒にいたいのだ。
巾着の中にはビンを入れて、今日こそ霊夢さんに渡すんだ。
それで紫さんの事を問い詰めて、何もなかったんだって安心して……。
大妖怪だって怖くはない。
怖いのは霊夢さんの心だ。
霊夢さんの心が、紫さんの元にあるのだとしたら?
そうしたら、私は笑うんだろうな、きっと。
作り笑いは決して苦手じゃないから。
思い出せば六月になって少し経つけど、ひょっとしてどこか悶々としていたのは五月病のせい?
なんて考えたらおかしくなって、水たまりも避けずに真っすぐ歩けた。
お花屋さんは、今日も昨日と変わりなく営業していた。
幽香さんは眠そうな顔で軒下の長椅子にかけていた。
彼女のウェーブ掛かった緑の髪の毛が新緑を想わせる。
それだけ辺りの雰囲気にぴったりであった。
幽香さんは私に気がつくと顔にニッコリとした笑みを張りつけて、脇に立てかけてあった傘を差しだした。
「ありがとうございます」
「忘れていかないでよね、紛らわしいから」
商品じゃないんだからさ、と小さく続けた。
「すみません。あのそれでお願いがあるのですが」
「お願い?」
「私も傘が欲しいんです」
「ふぅん」
幽香さんは頷くと、店の中に入って行った。
少し進んでから彼女が振り向いたので、私も後を着けて店内に踏み入れる。
一見すると普通の花屋なのだが、奥には傘が並べてある。昨日覗き見た通りであった。
傘に描かれた花は、黒一色であるというのに生き生きとしていて、まるで彩色されているかのような錯覚を覚えた。
「すごい……傘に描かれている花の絵は、幽香さんが描いているんですか?」
「まさか、私にはそんな事はできないわ」
「でも、これとかは描きかけ、ですよね?」
「んー、まぁそうね」
私は幽香さんの目尻が穏やかに緩んだのを見逃さなかった。
「……それで、どんな傘が欲しいの?」
「そう、ですね。一人には大きくて、二人には窮屈な、そんな傘ってありますか?」
「そんな都合よく帯に短くて襷に長いような傘、無いわよ」
幽香さんが笑いながら、一つの傘を選んでくれた。
それは薄い青色をした傘だった。
「紫陽花が描いてあるわ。詰まらない梅雨にぴったりの、そんな傘でしょう?」
「綺麗な絵、ですね」
「そうねぇ」
「えぇ。本物よりも、綺麗かもしれません」
私が思った通りの事を言うと、幽香さんが目を丸くした。
「そうでしょうね。その絵を描いたののは、本物を見た事のない人間なんですから」
「本物を見た事のない?」
「あら、噂をすれば」
幽香さんの言葉に振り返る。
昨日帰り際に見た、杖を持った少女がいた。
「こんにちは幽香さん。お客様?」
「そんなところよ。今貴方の事を話していたの。貴方の描いた絵が綺麗だって、そういう話を」
本物を見た事がないというのは……目が見えないから?
信じられなかった。
魔法としか思えない。
優しく閉じられた瞳で何も見えないとして、どうしてこんな絵が描けるのだろう。
私には想像もつかなかった。
「はい、綺麗な紫陽花の花です。私の見てきた、どの花よりも綺麗な」
しばらく物を言えなかった私が口にしたのは、ありきたりな褒め言葉だけだった。
それでも少女は嬉しそうに頬を綻ばせる。
見たところ私と同じくらいの歳だと思うけど、はにかむ姿はどこか大人びている。
上品な仕草がその身なりに相応しかった。
「私、奥でまた描いてますね」
「分かったわ。私もあとで手伝うから」
幽香さんも幽香さんで特に手を貸す事はせずに、少女が廊下を歩いて行くのを見送った。
「……私も分からない事だらけだわ」
少女の後ろ姿がすっかり部屋に吸い込まれてから、幽香さんがため息と共にポツリと呟いた。
「だって貴方、目が見えない人間にあんな絵を描かれて御覧なさい? どうしていいのか、分からなくなってしまうわ。そもそも、なんであんな人間に、私が構ってあげないといけないのかも分からない」
「ひょっとして、傘を売るようになったきっかけって……」
「まぁねぇ。貴方は人が良さそうな人間だし、話してあげようかしら」
言いながら幽香さんは私に腰掛けるように促した。
傍に置かれていた椅子に座る。
幽香さんは座らずに、壁に寄りかかって店内の花を見回していた。
「ざっくり話すわ。私、本当に気まぐれで花屋を始めたの。気紛れだから、見つからないような所に店を置いたわ。要するにこんな所」
幽香さんは壁から背中を離して、生けてある梔子の花を優しく撫でた。
「そうしたらある日、誰かが訪ねて来たのよ。それまではここに来るといえば紫くらいだったから、それが人間だと見て吃驚したわ。雨の中、傘も差さないで、杖を持って。挙句目が見えないですって。余りに不憫で、呆れてしまうわ」
「それが……彼女?」
「そうよ。それで傘を貸して下さいませんか、だと。ここは花屋だって言ったら、それならお花の事を聞かせて下さい、って。思い返せば、この時点で色々おかしいのよね。普通だったら追い返すようなものだけど、私もどこか憐れんでいたのかも知れない。目の見えない彼女を。……しょうがないから、部屋に上げて、丁度手入れをしていた花の事を話してやったわ。それでその日は傘を貸して、彼女は帰った」
独白を続けながら、幽香さんは花から花へと歩いていた。
蝶みたいだな、なんて思った。
何かを思い出すかのような瞳で、一つ一つの花を見つめながら。
「それでしばらく経った晴れの日。傘を持った彼女はもう一度ここに来たの。それで、その傘には、私の話した花の絵が描かれていたわ。
お礼です、って。普通借りた物に絵なんて描かないじゃない。私も訳分かんなかったんだけど、でもそれが」
――それこそ見た事のないくらい綺麗な花だと、この私が思えるくらいの絵だったから――
口にした幽香さんの手元に、山茶花が咲いていた。
それを愛おしそうに見つめる幽香さんの瞳が、まつ毛の一本一本が光って見えた。
「……この時期に、咲いているものですか?」
「これくらい私には造作ない事よ。なんとなく思い入れができちゃったから、こうして咲かせてあるの。なんかぴったりだと思っちゃったのよね、花言葉」
「山茶花の花言葉、ですか。」
「そこまで考えて話をしたわけじゃないんだけどねぇ。困難に打ち勝つ、ひたむきさ、そんな花言葉」
「素敵、です」
そんな陳腐な言葉でどうにかできないくらいに、素敵。
「さすが私といったところね。――で、その傘を飾っておいたの、店先に。そうしたらまばらだけど人が来るようになって、傘を売ってくれって。だからうちは花屋だっていうのに」
幽香さんの苦笑いは、本当に困っているのか楽しんでいるのか、いまいち分かりかねる色合いだった。
「それからね。無地の傘を仕入れてさ、彼女が絵を描くの。なんだか知らないけど、商売になっているわ。人間って不思議よね、本当に。私には理解できないわ。理解したくもない」
「どうして、なんでしょうね」
「そんなの、私は人間じゃないから想像もつかないわ。生まれつき目の見えない人間に、どうしたら花が綺麗に咲く様を教えられる? 空の青色を、どうやって教える?」
私には答えられない。
一生かかっても、答えられないだろう。
「でも彼女って、目が、見えないだけなのよね。何も見えない訳じゃないのよ」
「それこそ、心の目とか、そういう事でしょうか」
目を閉じれば、視界がもたらす世界がどれほど大きかったかを知る。
耳を塞げば、何も聞こえないのがどれほど落ち着かないのかを知る。
それでも、そう感じる心はずっと、私を見ていた。
心は見ていた。
そういう事?
「さァ? 実際どうかまでは私には分からないわね」
幽香さんが首を竦めてお手上げといった顔をする。
そして奥の廊下を見やって、目を細める。
その横顔が誰かに似ていた気がする。
本当は全然違うんだけど、話し方や素振りがどこか重なる。……霊夢さんと。
さばさばとした様子とか、あんまり関心ない風に装っても、本当はたくさん気遣いをしてくれるところや――。
「でもどんな拍子にかは知らないけど、私の心が彼女に通じちゃってるのは、どうやら事実らしいけど。そうでなくちゃ説明できないもの」
幽香さんがそっと囁いた。
「心が、通じている」
「そうでもないと、どうして私が人間なんかの相手をしているの、ってなっちゃうわ。ま、それはたった今もか」
そう言って、彼女は茶目っけのある瞳で私を見た。
「そんなところね。これで少しは気が紛れたかしら?」
「えっ……?」
どうしてそんな事を尋ねられたのか、一瞬考えあぐねて、でもすぐに察しがついた。
「貴方、ちょっと紫に目付けられてるんじゃないの? アレはいつも暇してるから、誰かをからかったりするのが好きなのよ。気にしない方がいいわ。紫は今度私が躾けておくから」
「もしかして、それで、ですか? お話ししてくれたの」
「暇つぶしみたいなものよ。私にとっても、貴方にとっても」
妖怪の暇つぶしというのは、いまいち分からない事が多い。
それでも、幽香さんの好意と話が嬉しかった。
心が通じている。
私がもしも盲目だったなら、この心はしっかり霊夢さんと繋がっていて欲しい。
ふと、恋は盲目だなんて、そんな言葉を思い出した。
だったら私は、そうなのかな……?
「それで、傘はどうするの」
「私、この傘が良いです」
「そう。お代はしっかり貰うわよ」
「はい。おいくらですか?」
「そうねぇ……貴方と霊夢の、相合傘でいいわ」
「ちょ、ちょっと幽香さん!」
「何よ、相合傘をするための傘なんじゃないの? 一人には大きいけど、二人だと窮屈って」
「そ、それは」
顔が熱くなるのを嫌というほど感じた。
梅雨のじめじめとした湿気と相まって、ボーっとしてしまう。
「まァとりあえずツケといてあげるわ。私も紫と同じくらい暇な妖怪だから」
「は、はい」
「それじゃ、とっとと行きなさいよ。雨が止んじゃう前に」
「……はい」
窓から移り気な梅雨空が窺えた。
空を覆い尽くした灰色が木々の隅から見えたけど、雨がずっと続くわけでもないから。
そう思った途端に、晴れと同じくらい雨が恋しくなった。
9
雨具も持たずに、雨の中。
山道を歩いて行くと後悔の念が募ってきた。
せめて外套くらい羽織ってくれば良かった。
「……病み上がりで、どうしてこんな事を考えたのかしら」
我ながらはしゃぎ過ぎだと思った。
沈み込む気持ちを一生懸命引き上げる振りをして歩幅を広げる。
……足に跳ねる水や泥が、増えた気がする。
雨が草木を香らせ晴れの日と全く違った世界を作り出す。
翳った空は下に広がる世界の色彩を、どんな思いで眺めるのだろうか。
私には想像もつかない。
私自身空を飛んで試してみれば良いのかもしれないが、私に空の気持ちは分からない。
同じように私には早苗の気持ちが分からないのかもしれないけど、ひょっとしたら早苗もそうで、だったら私だけ悩んでいるのも違うと思った。
だったら、私が早苗の気持ちが分かるようになるのは奇跡的な事なのかもしれない。
それでも望まずにはいられなかった。
お互いの気持ちが通じ合うって、もしかしたら奇跡みたいに尊い事なのかもしれない。
価値が、じゃなくて、それ自体が、とっても素敵で――。
ふと思った。
もし、完全に心が通じ合っていたら、言葉なんていらなくなるんじゃないかって。
そうしたら、二人を繋ぐのが静寂になって。
静かなのが、素敵なんだって――。
山道、雨が似たり寄ったりの視界を広げる中、私は匂いで自分の場所を知った。
湖が近い。
ラベンダーの香りがする。
すぐにでも早苗に会いたかったけど、少し遠回りするくらいなんでもないだろう。
私は以前早苗に連れられて歩いた道を、一人で進んだ。
空気が一段と冷え込んだ。
雨のせいではなくて、湖のせいで。
蛙の鳴き声は私を囃し立てるように木々の間を木霊していた。
いくらか歩き進んで、弓なりのブルーベリーの木立に対面して、辺りを見回しながらゆっくり歩を進める。
「あれ、実が、なくなっちゃってる」
立ち並ぶ木を眺めながら歩いて行く。
実がなかった。
確か早苗は、取ったりはしないと言っていたはずだけど。
熟れた実も、青い実も見当たらないブルーベリーの木立は、それなのに清らな雨粒を浴びて煌めいていた。
葉が濡れて、その様子が言葉に思い浮かばないくらいに美しかった。
どうしてなのだろう。
これほどまでに煌めいているのは、どうしてなんだろうか。
深い緑の色が、雨に濡れた早苗の髪の毛の色を思い浮かべさせるからだろうか。
立ち並ぶ木の端まで来て、ようやく幾つか実がなっているのが見られた。
ラベンダー畑が近いせいで、その香りが一層際立つ。
これで太陽が出れば、香を焚いたような匂いがするのだろう。
香りに気を取られていると、雨音に混ざり、小鳥のさえずりが耳に飛び込む。
被り笠の端から垂れた水滴が肩を濡らして、身震いしながら首を竦める。
目を瞑って小鳥のさえずりに耳を傾けて、ラベンダーの香に心奪われて。
多分だけど、早苗が未熟だったブルーベリーを残しておいた理由、分かった気がする。
なんだか心が暖かくなった。
こんな自然の中じゃ、何もかもが取るに足らないんじゃないかって気がして、そうしたら、どうしてだか晴々としてきた。
わざわざ雨に打たれるっていう馬鹿みたいな真似も、たまには悪くないって、そう思った。
10
「むむむ……」
諏訪子さまの傘と、私が今差している傘、幽香さんから購入(?)した傘。三本の傘を持った私は博麗神社を訪れていた。
先程までと比べて雲が幽かに薄くなっただけで、雨脚も大して変わらず、相変わらずのどんよりとした雰囲気が梅雨の空気そのものだった。
「霊夢さん、いないのかな」
呼び鈴を鳴らしても、縁側から呼びかけても、返事がない。
というか、そもそも気配がない。
「あら、今日はどうしたのかしら。傘を三本も持って」
背中に声を投げかけられる。
振り向くと紫さんがいた。
縁側沿いに、私と紫さんが向き合って立っていた。
「私は、霊夢さんを訪ねに来たのです」
「そんな怖そうな顔しなくっても」
傘の下でにやにやと笑う、紫さんの顔の方が怖かった。
「あの、紫さんは!」
意を決して口を開くと、紫さんは僅かに眉をひそめ、その私の思いよらない大声を無言で咎めた。
「紫さんは、霊夢さんの、なんなんですか」
それでも続ける。
今しかないと思ったからだ。
今を逃したら、その隙がないと思ったから。
「ふふ、なんだと思う?」
「それは……」
紫さんがなんと言えば私は満足するのだろう。
私でも予想がつかない。
「恋人、とか?」
私が知りごんでいると紫さんがそんな事を言う。
「な、何を言っているんですか。そんなの」
そんなの――駄目。
「あら、私が霊夢の恋人だったら駄目かしら?」
「駄目です!」
「あらあら。それでは何にしましょうか」
冗談混じりと言った調子に拍子抜けしてしまう。
でも、あの時確かに「デート」って……。
「もしかして、紫さんも霊夢さんの事が」
「それは好きよ」
身体を巡る血液が、一遍に凍りついてしまった錯覚を覚える。
横殴りに降る雨が、冷ややかに私を苛む。
その様子を見てか、紫さんが目を丸くしてから、今度は穏やかに微笑んだ。
「もう、ふふっ。ちょっと勘違いしているといけないから言っておくけれど、例えば、よ?」
傘を持っていない方の手の人差し指を立てて、紫さんが話し始める。
「例えば貴方の家にいる神様が、貴方の事を嫌いだなんて言うと思って?」
「え……」
「好きだと聞かれて、好き、以外の答えが生まれると思うの?」
「それは」
「それとも、それで構わないというのかしら? 別に好きではない、なんて言われて、貴方は良いのかしら?」
「そんな事は、ないです」
「でしょう? だから私が霊夢を好きって言うのは、言ってみればそうでなくちゃいけない事なのよ」
「でも、納得いきません」
口にしておいてなんだけど、何に納得いっていないのか、私自身がいまいち分かっていなかった。
霊夢さんの事を好きなのは、世界で私一人でないといけないとでも言うのだろうか。そんな事を考えているのだろうか。
「それでは尋ねるけれど、それが貴方の立場でも同じことを許容できる?」
「どういう意味です?」
「神様が貴方の事を好きというのを霊夢が納得いかないと言って、それを許容できる?」
痛い所を突かれちゃったと、ぼんやり思う。
「やられて嫌な事は人にしない、というのは、人間世界の決まりではないのかしら? ふふ、もっとも、私も神様も人間ではないけれど」
私が黙っていると、紫さんが私に歩み寄ってきた。
紫さんが思ったよりも小さい事に驚きながら、その迫力に気圧される。
「それにね、好きにも色々あるの。人間の好きっていうのと、妖怪の好きっていうのは、きっと違うのでしょう」
紫さんは心を見透かすような瞳で私を見つめながら、掌をポンと、私の頭に乗せた。
「何より、私にとって蜻蛉のような人間の一生は短すぎるわ」
意味深に笑ってから、彼女は身を翻した。
「命短し恋せよ乙女、ですわ。私も乙女だから、恋をしなくちゃね、ふふふ」
背を向けたままそう言って歩いて行って……途中、彼女が振り向いた。
「ってそんな事じゃないのよ、私が伝えたかったのは。忘れるところでしたわ。霊夢なら、きっと守矢の神社よ。それじゃあね」
紫さんが精一杯の可愛らしいウィンクをして、そのまま歩いて行ってしまった。
……つくづく、妖怪とは意味の分からないものに思えてくる。
それでも、私の気持ちの整理が彼女のお陰でできたのは否定できない。
私にとっての諏訪子さまや神奈子さまという存在が、霊夢さんにとっては紫さん、なんだろうか。
諏訪子さまがポツリと呟いた言葉を思い出す。
――これってさ、親心みたいなものかね。
・
すれ違いになってしまうかもしれないと思ったが、私はすぐに守矢神社を、自宅を目指した。
走り出しそうになるのを堪え、しっかりと土を踏みしめて。
期待と不安との両方の折混ざった心地は、梅雨の空に似ていると思った。
梅雨はただ雨を降らすだけなのに、私たちはその雨粒を見て、色んな事を思う。
全部私たちの身勝手で、自然は私たちなんか気にせずに動いてる。
それでも気にせずにはいられない。
人の心も似たようなものなんじゃないかって、そう思う。
あっという間に山道を過ぎていき、馴染んだ境内に踏み入れる。
社の裏にまわって、戸を引いた。
「ただいま帰りました」
「おかえりー。遅かったね。ようやくジャムでも渡してきたの?」
少しの間があってから、神奈子さまが出迎えてくれた。
しかしその口ぶりだと、霊夢さんは来ていないのだろうか……?
まさか、紫さんのででまかせだったのか?
そんな事はないはずと首を振って、神奈子さまに尋ねる事にする。
「いえ、行ったのですが、霊夢さんはいらっしゃらなくて……うちに訪ねてきたり、って事はなかったですよね?」
「うん。ずっとうちにいたけど、霊夢も誰も訪ねてこなかったよ。あ、それで傘買ったんだ」
「あ、はい。綺麗な紫陽花の花の傘です」
「ふーん、昨日諏訪子もでっかい蓮の葉持ってきたよね。アレって傘としては優秀なんだろうけど、折りたためないからかさばる」
そう言って神奈子さまが笑う。
「神奈子さまも今度、買いに行きましょう?」
諏訪子さまと私と三人でお出かけ、できたらいいな。
あ、そこに霊夢さんも加えて四人で、なんて。
「ふふ、そうだねぇ。でも、蓮の葉じゃなくていいや」
「もう、神奈子さまったら」
「ははは。でも、ちょっと大きくない? その傘」
「あ、それは……」
傘立てに傘を差そうとすると、神奈子さまが私の手元を見ながら口を開いた。
「まぁなんとなく想像つくけどね。二人用?」
「そ、そんなところ、です……」
「いいね、ふふふ。何もそんなに真っ赤にならなくてもいいと思うんだけど」
「い、いえ。あ、そうだ。ちょっと私、外行ってきますね」
「ん、良いけど、どうして?」
「ちょ、ちょっと傘を使ってみたくって」
「もう、小学生じゃないんだから」
そういえば買ったばかりの傘や長靴が使いたくて、雨の中わざわざお散歩に出かけた事、あったなぁ。
「いいじゃないですか、嬉しいんですもの」
霊夢さんがいれば、もっと嬉しいけれど。
「分かった分かった。夕食までには帰ってくるんだよ」
「はーい」
そんなやり取りもどこか懐かしくて、私は弾んだ心で再び戸を引いた。
雨の音が聞こえていた。
戸が軋む音が聞こえた。
遠くの西日が眩しかったのは、雨の止む予兆だろうか。
土を踏む音がした。
二つ。
一つは私の、もう一つは――。
顔を上げると、彼女が立っていた。
「霊夢さん……」
「あー。やっほ、早苗」
ちょっとだけはにかみながら、どうしてだか被り笠をした霊夢さんがいた。
「もう、どうして傘を差していないんですか? まだ、雨ですよ」
「それは」
霊夢さんが頬を赤くして、俯いてしまう。
「なくっても、平気かな、って思って」
「ふふ、そうですね」
知らず知らずにお互いの希望が絡み合って、おかしくなってしまう。
霊夢さんの隣まで行って、傘を広げた。
見上げると傘の薄い青色が、青空を思い起こさせる。
傘の下、紫陽花の花の下、見つめ合う。
「奇跡みたい」
霊夢さんが小さく呟いた。
「奇跡、ですか?」
「うん。傘を持たずに家を出た瞬間、私、こうなったら良いなって、ほんの少し思ってた」
「本当ですか? 私も、ですよ……この傘、霊夢さんと相合傘がしたいなって、それで買ったんですから」
「なんだか、心が通じているみたいね」
「はい。でも、奇跡なんかじゃないです」
私は盲目だったから、心の目で貴方の心を見たいのです。
それは容易な事ではないかもしれないけれど、決して奇跡というほど大それたものではなくて。
奇跡があるのだとしたら、それはもっと大切な時に取っておきたい。
もっと大切な時に、叶えてみせるから。
「もう、それは早苗だからでしょう。奇跡を起こすって、そんなの私には」
「私と、霊夢さんだからですよ、きっと。ふふ」
「……そういう事にしておくわ」
同じ傘の下、肩がぶつかり合うくらい寄り添って。
なんだか、ようやく近付けた気がする。
間近で見るその顔が、今まで見てきたどの霊夢さんの表情よりも愛おしかった。
11
相合傘は少しぎこちなくて、でもすごく落ち着いた。
そのままちょっとした散歩をして、そのまま早苗の家で夕飯を御馳走になる事になった。
散歩といっても正直なところどこを歩いたのか何を見たのか覚えていない。
早苗の横顔ばっかり見ていた気がする。
それで知らず知らずのうちに、食卓にお呼ばれする事になったという訳。
「ただいま帰りました!」
「お邪魔、します」
「霊夢さんもただいま、ですよ」
早苗がわくわくといった顔で私に言う。
「……ただいま」
少し戸惑ってから、思いきって口にしてみた。
ちょっと恥ずかしかったけど、お邪魔します、よりもしっくりきた。
「ね、いきなりで大丈夫なの? 普段三人でしょう?」
「大丈夫ですよ、霊夢さんですもの」
「良く分かんないわよ」
「良いんです良いんです」
諏訪子と神奈子のおかえり、という声が部屋の奥の方から聞こえる。
二人が夕飯の準備をしているのだろうか。
早苗は私を自分の部屋に通すと、台所の方へ行くと再び出て行ってしまった。
今までに言いそびれたありがとうと、ごめんなさいを伝えないと。
それからブルーベリーの事とか、話したい。
しゃがんでしまって、そこで気がついた。
「いけない、びしょ濡れじゃん」
少しは乾いてきているとはいえ、無茶をやったせいで随分と部屋を濡らしてしまった。
着替えとか……どうしよう。
あ! というか借りてた手ぬぐい、忘れちゃった。
戸惑っていると早苗が部屋に戻ってきた。
丁寧に畳まれた服を手にして。
「ごめんなさい、服を探していたらちょっと遅くなっちゃって」
「あ、ありがとう。あと……ごめんね」
「ふふ、大丈夫ですよ。でも、ちょっと前の服なので小さいかもしれないです」
「い、いいの。折角貸してくれるんだから、文句なんて言わないわ」
早苗から服を受け取る。
ベージュと茶色の質素な色合いだったけど、ひらひらとしていて、なんだかちょっと恥ずかしい。
「ワンピース、ね」
「はい。えと、下着とかは……」
「し、下着? えっと、そうね」
確かにちょっと気持ち悪いけど……。
「もし必要だったら貸しますよ……?」
「だ、大丈夫。大丈夫よ、そこまでは気を使わなくっても」
早苗の下着……特に上は借りたら切なくなる気がするわ。
少し湿っているけど、さらしのまま我慢する。
「それじゃ借りるわね。ありがとう、早苗」
「はい」
服に手をかける。
そこで一旦手を止める。
「どうしましたか? 霊夢さん」
「えっと、まぁさ、見られても困らないんだけどさ。そんなにジッと見られると……」
「ご、ごめんなさい」
パッと後ろを向いてしまった早苗が可愛らしい。
「ふふ、そんなに極端にならなくても……それにしても、この服、可愛いわね。私には勿体ないくらい」
両手で広げて、マジマジと見つめてみる。
むしろ、これを着た早苗の姿を見たかった。
「そんな事ないですよ。霊夢さんに似合うと思って、それを選んだんですから」
「そ、そうかな」
「そうですよ。だから早く、見せてください」
「ふふ、分かったわよ」
縁を彩るように模様が広がっている。
花柄のそれが、やっぱり私には少し違うような気がした。
でも早苗がこれだけ言ってくれるのだからと、服を脱いで、袖に腕を通す。
部屋の奥にあった姿見に、いつもと違った私が映っていた。
赤色のリボンと髪止めがどうにも浮いて見えたから、それも外してしまう。
私も外の世界に生まれていたら、こんな恰好をしていたんだろうか。
ぼんやり思った。
「着替えて……みたよ」
私の声に早苗が振り向く。
振り向いて、目を輝かせていた。
「やっぱり! 思っていたよりも、ずっと似合ってます」
「そ、そう? 私が着ても、地味じゃない?」
「そんな事ないですよ。清楚で、綺麗で、素敵ですもの」
「ありがとう……なんか照れる」
そういえばさっきから私、普通にありがとうって、ごめんって言えてるよね。
どうしてこの前は、あんなにぎこちなかったんだろう。
「そうだ。この前取ったブルーベリー、神奈子さまがジャムにして下さったんです」
「ジャムに?」
「えぇ。なので一ビン、よろしければ受け取って下さい」
「もちろんよ、ありがとう。あ、あのさ。私さ、あの日は、ごめん」
「そんな、謝らなきゃいけないのは私ですよ」
「ううん、私考え事しちゃって。早苗がさ、すっごい素敵だから、私じゃ釣り合わないんじゃないかとか、そんな事考えちゃって」
言わないと、伝えないと、分かってはもらえないから。
たどたどしくても、口にする。
「でもそういう事考えるの、もう止めにした。なんだか早苗に見つめられると、全部伝わっちゃう気がしたから」
私の言葉を聞いて、早苗が考え込むように目を瞑った。
「私も、色んな人に教わりました。紫さんや幽香さんや」
「紫……そうだ! あの、私」
「ふふ、平気ですよ。私、ちゃんと紫さんとお話ししましたもの」
「でも」
「紫さんも、霊夢さんの事が好きなんですよ。それこそ、本当に」
好き、という言葉にビクリとする。
でも、好きって、そういうのなんだろうか。
「私、ちょっと風邪ひいてて。それで紫がさ、看病してくれてさ……」
「紫さんにとって、霊夢さんも家族みたいなものなんだと思います。私にとっての、諏訪子さまや神奈子さまみたいに」
「家族?」
「そうですよ」
「そうかなぁ、私には分からない」
家族、か。
きっと私が眩しいって思っていたのも、家族なのかも。
思い返していたらドアを叩く音がした。
「二人とも―、ご飯できたよー」
諏訪子の声だ。
早苗はにっこり笑って、私の手を取った。
「分からなくっても、きっとすぐ分かりますよ。私たちと一緒にご飯を食べれば」
・
ご飯の立てる湯気が、おみそ汁の香りが、いつもと大差ないはずなのにすっごく新鮮に思えた。
ちゃぶ台を囲むのは四人。
宴会なんかより全然少ないし、質素だ。
でも、なんだか心地いい。
「それにしても、あれだね。服だけで随分雰囲気変わるもんだ」
箸を動かしながら神奈子が言う。
隣で諏訪子も頷いていた。
「そ、そう? でも、別に変じゃないでしょう?」
「うん。似合ってる。ずっと前に早苗が着ていたのよりも似合ってるんじゃない?」
「もう、神奈子さま。ふふっ、でも、そうですよね。霊夢さんにぴったりです」
二人してさらりと恥ずかしい事を言う。
「ちょっと、二人ともからかわないでよ」
「いやいや、別にからかっちゃいないよ。可愛い女の子に、可愛いって言うのは礼儀ってもんでしょ」
「ねぇ早苗、神奈子っていっつもこんななの?」
「ふふ、そうですねぇ。今日はちょっとはしゃいじゃってるのかもしれません」
「ははは! 霊夢が来てるから、だね、やっぱりこういうちゃぶ台ってさ、四人が一番しっくりくる人数だよね」
諏訪子が言う。私が来てるからって、そんなに大した事じゃないと思うんだけどな。
何か面白い事を言えるわけでも、何でもないし。
「そうですね。あ、おかわりいりますか?」
「うん、ありがと早苗」
私は三人のやり取りを眺めながら、ちょっと縮こまってしまう。
「それにしても、なんか安心したわ。ちゃんと霊夢が来てくれて」
「私は早苗の誘いを断ったりしないわ」
「あら、ホント?」
「本当よ」
「はは、お熱いね」
「うん」
私が答えると、神奈子が目を丸くしてしまった。
「うん、って、霊夢さんったら」
「そうだ……でさ、ちょっと神奈子と諏訪子に、聞きたい事があるんだった」
こうして話していたら、少しずついつもの調子を思い出してきた。
まだちょっと服が気になっちゃうけど。
「ん? どうしたの?」
「娘さんをお嫁に下さい! って?」
「なるほど、どうする? 神奈子」
「ちょ、ちょっとお二人とも」
早苗の慌てる様子を見て、諏訪子と神奈子がケラケラと笑っていた。
「さすがにお嫁っていうのは……いや、でも、うんと」
「霊夢さんも何を言ってるんですか!」
「い、いや、ちょっと考えだしたらよく分からなくなっちゃって」
頭を掻きながら早苗を見つめる。
「その、私が早苗の事が好きだって言ったら、二人はどう思う?」
早苗の顔が真っ赤になるのが分かって、諏訪子と神奈子も固まってしまうのが見えた。
私自身頭に血が上ってしまって、ぼんやりとしか目の前を認識できない。
「どう思うっていっても、ねぇ諏訪子」
「そうだねぇ神奈子」
二人がにやにやしながら視線を交わしている。
「だってさ、早苗にとって、霊夢は大切な人なんでしょ?」
「それで霊夢も早苗の事を大切に思っているなら」
神奈子と諏訪子が続けて言う。
食事の手を休め、四人とも固まっていた。
そして、
「それは良い事だね」
「素晴らしい事だ」
再び二人が言う。
早苗の頬が赤いのを見て、私自身の頬も熱くなっている事に気がつく。
こんな事を尋ねておいてしょうがないが、なんて言っていいのか分からなかった。
分からなかったから……、
「ありがと」
小さく、口にしておいた。
・
「二人とも、先に入っちゃっていいよ」
食後、諏訪子に言われた。
お風呂の事だ。
でも、この言い方って……いや、ちょっと変な事を考え過ぎ、かな。
「そ、それじゃ、霊夢さん、行きましょう?」
考えすぎじゃなかった。
「え、うん。あの、一緒に入る……んだよね?」
「嫌、ですか?」
「いやいや嫌とかじゃなくて、ちょっと恥ずかしいというか、嬉しいというか」
そんな紆余曲折を経て、私たちは脱衣所にいた。
背後で衣擦れが聞こえて、早苗が服を脱いでるんだなってドキドキしてしまう。
私も服を脱ごうとするけど、後ろが気になるのと服に慣れないせいもあってぎこちない動きになる。
「ちょっと待ってね、早苗」
「大丈夫ですよ。ゆっくり待ってます」
「ゆっくりって……もう、じろじろ見ないで!」
「ふふ、ごめんなさい。あ、脱がしてあげましょうか?」
「い、いいって! そこまでは、まだ、大丈夫だって」
振り向いて顔を赤くしたのは、私の方だった。
咄嗟に目を逸らしてしまったけど、橙色の電球に照らされた早苗の白い肌が、頭の中にしっかりと投射されている。
やっぱり私より胸が……。
なんて考えを、首を振って霧散させる。
いや、でも、早苗が私よりも体形が良いのは否定できない。
「入ろっか」
「はーい」
早苗はどこかうきうきとした様子で返事をした。
浴槽の戸を開けると、湯気が立ちこみ、私たちを包み込む。
これで少しは早苗の視線を気にせずになるとホッとする半面、残念でもあった。
もっと早苗に見てもらいたかったとか、早苗を見ていたかったとか、理由は色々。
湯気のベールを透かして髪の毛を上げている早苗のうなじが見えた。
真っ白で、どうしてか胸が苦しくなった。
「背中、流しっこしましょ」
「う、うん。なんかさ、ちょっと恥ずかしいね」
「そうですか?」
「そうよ。だって、さ」
「ふふ、私も本当は恥ずかしいけど、舞い上がっちゃって、それどころじゃないのかもしれません」
「何よ、それ」
「一緒にお風呂に入れるから、とかじゃなくて、一緒の時間を共有できるって事が、とても嬉しいなって」
「ははは、早苗はやっぱり大人っぽいや」
石鹸の香りが立ち込める。
そういえば、知らないうちに雨の音が止んでいる。
晴れたら、月でも見たいな。
「そんな事ないですって。はい、霊夢さんあっち向いて」
「ひゃっ! ちょ、いきなりくっ付いてこないでよ」
背中にぴったりと早苗が寄り添っていて、思わず声が出てしまう。
「ご、ごめんなさい。そんなに広くないですから、ここ……」
「も、もう」
背中が焼けるように熱くて、早苗のその柔らかさが、肌の上をリフレインしていた。
「あ、あのさ、早苗」
「どうしましたか?」
しゃがみ込んで背中を流し合う。
その最中、思い出した。
「あのブルーベリー、私分かったの」
「ブルーベリー……ですか?」
「あら、早苗、覚えてない? まだ熟してない実をどうするかって」
「あ、はい。あの事ですね」
「あれって、小鳥たちの為に残しているんでしょう?」
小鳥のさえずりを聞いて、欠けた実を見て気がついた。
「はい。小鳥さんたちが、喜んでいるかは分からないですけど。大した理由では、ないんです」
「そんな事ないよ。私、なんだか暖かくなった」
「暖かく……」
「うん。私の思ってた以上に、みんな暖かいんだって」
知らないうちは何にも思わない些細な事だけど、気がついたら私にとっても意味のある事になるんだ。
「ちょ、ちょっと早苗、どうしたの?」
私の背中に早苗が寄りかかって、私の前に手を垂らす。
ぴったりと寄り添っているというのに、動悸が速まる事もなく、むしろ落ち着いてくる。
「こういう気持ちを、一緒にする事ができるって、嬉しくて」
「もう、大袈裟」
「気持ちが共有できるって、通じるって事じゃないですか。ね? 奇跡なんかじゃない」
「……ま、そうかな」
囁き声が、息が掛かって耳元がくすぐったい。
ふと、ちょっと悪戯じみた事を尋ねたくなった。
「それじゃ、私が早苗の事どう思ってるか、分かるでしょ?」
「あら、そんな簡単な問題で良いんですか?」
早苗の愉快そうな笑い声が私をくすぐる。
「簡単とか、難しいとか、そういう事じゃないのよ」
「ふふ、そうかもしれないです。答えは――私が霊夢さんの事をどう思っているのかと一緒ですよ」
その答えが私の予想していたものと違っていて、だけど正解で、私は何も言えなかった。
早苗の腕を掴み、目を瞑った。
今この瞬間、確かに身体だけでなくて心が繋がっているって、実感できた。
12
部屋は真っ暗で、静かだった。
雨の音もしなくて、遠くで聞こえる蛙の鳴き声と、虫の鳴き声が幽かに聞こえるだけ。
静かだけど落ち着いた心地でいられるのは、寝息を立てる霊夢さんが目の前にいて、その手を、私が握っているからだ。
落ち着いてしまうのにどうしてだか寝付けなかった。
霊夢さんの寝顔を、もっと見ていたい。
欲を言えば、もっと色んな霊夢さんを見てみたかった。
今日のチュニックワンピースの似合う霊夢さん、本当に可愛かったなぁ、なんて。
雲が捌けたのか、障子から差し込む灯りが眩しくなった。
月が出ているのだろう。
名残惜しかったけれど、霊夢さんの手を離すと、障子を開け、縁側に出た。
「綺麗……」
久しぶりに見る月は、少し欠けていて、儚くて。
それは雨の日も、雲の裏側に佇んでいた。
清艶な佇まいは私の存在が小さく翳ってしまう程度に確固としていた。
「早苗?」
振り向くと、霊夢さんが目をこすりながら状態を起こしていた。
「霊夢さん。ごめんなさい、起してしまいましたか」
「勝手にてぇ、離さないで」
寝起きのせいか、舌ったらずなのが堪らなく愛おしい。
「ふふ、ごめんなさい。月が、出ていたので」
「ん……うん」
はっきりしない調子で霊夢さんは言うと、もぞもぞと布団を抜け出してきた。
そして私の隣まで来て、左の手を取った。
「あ、そういえばね、手ぬぐい、借りてた手ぬぐい、忘れちゃったの」
「そういえば、ふふ。でも、それも良いじゃないですか」
「……どうして?」
寝ぼけた調子なのか、どこか子供っぽい仕草の霊夢さんにきゅんとする。
「また、会うための口実になるのです」
「……もう、そんなのなくったって、会えるじゃん」
霊夢さんがぎゅっと私の手を握りしめて、囁いた。
「あのね、早苗。私、夢を見る事があるの」
「夢?」
「うん、なんの夢だったか、いつもは良く覚えていないんだけど」
そこで区切って、霊夢さんは私と同じように月を見上げた。
「今日はね、はっきり分かったの」
にっこり微笑みながら、私を見つめる霊夢さんの双瞳に月が浮かんでいた。
「家族の夢、見てたんだなって」
「家族の、ですか」
「うん。今まではぼんやりとしていたけど、今日は、ちゃんと分かった。きっと早苗や、二人のおかげ。……あと、ほんの少しだけ、紫のおかげ」
そう言って、霊夢さんは私に寄りかかってきた。
石鹸の香りが、ふわりと舞った。
それは当然だけれど私と同じ香り。
湿り気のある梅雨の空気がそれを漂わせる。
霊夢さんの横顔が色っぽくて、ずっと眺めていたかったけど変な気持ちになってしまいそうだったから、目を逸らして、月を見上げた。
――月が、光っている。
「月が……」
――綺麗。
知らずのうちに口が開いた。
綺麗、月が綺麗。
貴方といると月が綺麗。
貴方のその横顔が堪らなく美しい。
こういう時なんていえば良かったっけ。
I love you.
って、なんて言うんだっけ。
考えなくっても、すぐに分かる。
見た通りなのだ。
それが事実なのだ。
「月が、綺麗ですね」
霊夢さんが顔を上げた。
彼女も月を見上げると、頬を染めた。
「……わたし、死んでもいいわ」
まるで台本があるかのように、そんなやり取りをする。
愛してるって、恥ずかしげも無く言い合った後、顔を見合わせて笑うんだ。
霊夢さんの事を見ると、まるで他のものが見えなくなるのが分かった。
月が綺麗なのは事実だけど、それよりも霊夢さんを見ていたかった。
肩に寄りかかる霊夢さんが、目を瞑って私を見上げていた。
恋に盲目な私は、例え目が見えなくなっても、霊夢さんを見続ける事ができる自身がある。
繋がっているんだもの。
口にしなくても……伝わっているのなら。
私も目を瞑る。
そっと顔を寄せた。
唇と唇が触れ合って、ふとラベンダーの香が流れてくるのを感じた。
心が、唇が灼けるような思いがした。
手持無沙汰だった両腕は、私の隣で弱々しくも強かに佇む乙女の身体を、しっかりと抱きしめた。
この柔らかな感触も、匂いも、時折漏れる吐息の音も、その全てを私に灼き付けるつもりで、霊夢さんを抱きしめる。
いつか、本当の「家族」になれたらな、なんて思った。
綺麗な月の下、私は瞼の裏側に、二人結ばれる日を夢見た。
結ばれる日を、一緒になれる日を。
甘美な夢を思い浮かべるだけでは満たされない。
奇跡を、いつか起こしてみたい。
二人が永遠に結ばれるような、そんな奇跡を――
私と霊夢さんが、永遠に結ばれるような、そんな奇跡――
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どうして懸想の相手に合いに行きたいという
合いに→会いに
なので思わずはじめてのコメントをば
紫にとって霊夢が家族のようなものだったとしても、
常に一緒にいるわけでもないから、霊夢が家族を求めるのも当然なのかな。
ここまで綺麗な霊夢と幽香は久しぶりに見たかもしれませんw
早苗さんには能力を使ってでも、霊夢と幸せに過ごして貰いたいですね。
青春っていいなぁ…。
梅雨時のメランコリーな感じは出ていたと思います
暖かい話をありがとう。
最後の締め、二人の一言ずつのやりとりがもう美しすぎて。
そしてこれをこっそり隙間から眺めている紫を幻視した。
その表情は他でもない、愛娘を見守る母親の微笑みだった…
良い雰囲気の話でした