気がつくと、私は見知らぬ場所にいた。
ここは、どこだろうか。周囲をきょろきょろと見渡して、現状の把握に努めるが。
目を凝らしても凝らしても、夜の闇に木々が薄く浮かぶばかり。鬱蒼とした森林。人気などあろうはずもなく。
耐え難い倦怠感に苛まれ、どかり、とその場に腰を下ろす。
そうして、ふと考える。
あるいは此処こそが、地獄だか天国だか云われる死後の世界なのだろうか。それとも、今際に現れた幻なのだろうか。
数瞬前、世界のつまらなさに嫌気が射した私は、確かに命を絶ったのだ。
えらく滲んだ街のネオンを眼下にして、現世の淵というのもこんなものか、とひどく落胆しながら足を踏み出したのをはっきりと覚えている。
だとするならば。
存外、死というのもつまらないものだ。こんな暗闇に放り込まれたところで、何を恐れようものか。
ひゅるひゅる。
座り込んだ私の頭上を、風切り音を伴った何かが射抜いた気がした。
光射さぬ暗闇の中、一層黒く塗り潰された何かが。
気だるさのあまり軋みをあげる首を無理矢理に動かし、頭上を望んでみると、木々の隙間からやけに沢山の星が輝いているのが見えた。
その優しい光りようといったら、ぎらぎらと目に悪そうな光を放つイルミネーションなんかとは比べものにならない。
「はぁ」
暫し、心を奪われる。
こんなにも近く、明るく、輝く、星。かくも美しいものだったのか。
見たことがなかった。都会のヘドロのように薄汚く濁った空気の中では、見えなかった。
どれほどの間、星を眺めていただろうか。
「あなたも、星に呼ばれたの?」
不意に、背後から声がかけられた。鈴を鳴らしたような、可愛らしい声だった。
振り返ってみると、そこには声の調子に違わぬ容姿の可憐な少女。
「星に、呼ばれた?」
「うん。暗くなってくると、星が私を呼ぶんだ。お前たちの時間が来たぞー、って。だから、あなたもそうなのかなって思った」
言いながら、少女は私の隣に座り込んで、目線を上に向ける。
私も倣って、再び天蓋に散りばめられた宝石を見る。
ざわざわと風に揺られる枝さえも、その美しさを引き立てているように思えた。
「そうか。うん、そうかも知れないね」
「そーなのかー。変な人間。夜が怖くないの?」
「まるで自分が人間じゃないみたいな言い草だね」
「いいから。怖くないの?」
「怖かったよ。子供の時にはね。今は怖くないけど」
そう。怖かった。
夜の闇の中から、得体の知れない何かが、こちらを覗いているようで。
だが、身体が大人に近づくにつれ、気付き始めた。今や、夜すらも我々の世界へと成り果てたのだ。
人間によって、夜は昼へと変えられた。同時に人の心からは、暗闇への恐怖が忘れ去られた。
故に。深遠に潜む何者かの居場所など、胸躍る未知など、もうどこにも存在し得ない。
思えば、そう気付いたころから、私の世界は輝きを失い始めたのかもしれない。
「ふぅん。お腹空いてたのになー」
さも残念そうに、少女は呟く。幼い少女特有の、ぽっこりと膨らんだ下腹を撫でさすりながら。
「道理でおいしそうな匂いがしないと思ったよ。生きながら死んでるんだね、あなたは。腐肉なんて食べたら、お腹を壊しちゃうよ」
「死にながら死んでると、自分では思ってるんだけどね。まぁ、死に際の夢に過ぎないとしても、少しは良いものが見られた」
天を仰ぐ。
私のつまらない人生の締め括りが、この満天の星空だというならば。
なかなかどうして、上等な話じゃないか。私如きにはもったいないくらいだ。
「私が、あなたをおいしくしてあげようか?」
「え?」
磔られた聖者のように。両手を広げて、少女は宵闇に踊る。藍染の夜をその身に纏って。
真赤に染まった髪飾りが、風に吹かれてゆらゆら揺れる。――まるで、ほおずきみたいだった。
「私が一番好きなものを見せてあげるよ。ここには、星にも負けないくらいきれいなものがいっぱいあるんだよ」
言いながら、私に背を向ける少女。
誘われるまま、私はふらふらと歩きだした。
そうして辿り着いたのは、古臭い木造の家屋が建ち並ぶ集落。
たまに時代物の映画で見るような、現代の住居とはあまりにかけ離れた建造物群。
「これが、君の」
振り返りながら言いかけて、口をつぐむ。
その言葉の矛先だった少女の姿は、いつの間にか消え去っていたから。
「私が何よりも好きなのは、日々を精一杯生きる人間の、魂の輝き。……おいしくなったら、またおいで」
そんな声が、夜のひんやりとした風に運ばれて、どこからか聞こえた気がした。
◆ ◆ ◆
かたり、と筆を置く。
凝り固まった目頭を、二指で以て揉みほぐした。
先ほどまで書いていたのは、星座や星の名前が描かれた図。我ながら満足の行く出来だ。
この人里へと流れついて暫く経った後、私は里の長に乞われ、外の知識を広めることとなった。
何か皆に伝えたいことはあるかと問われ、真っ先に脳裏に浮かんだのは、あの星々だった。
無数に浮かぶ星たちにも名前があるということを伝えたい。心ゆくまでそれらを眺めることができるのは、それはそれは幸福なことだと伝えたい。
かくして私は、星詠み人と相成ったのである。
部屋に射しこむ陽光に、赤みが混じり始めたことに気づく。
傍らで大口を開ける窓から身を乗り出せば、太陽は半ばまでその顔を地に沈めていた。
夜の訪れが近いと知り、私はあの妖怪の少女を思い出した。
彼女がいなければ、私の心が輝きを取り戻すことはなかっただろう。
この、ひどく暢気でありながら刺激的な生活を送ることはなかっただろう。
今の私は、彼女の食欲をそそる香りを放っているだろうか。
そんなことを考えて、苦笑する。感謝こそしているが、この命をくれてやるつもりなど毛頭ないのだ。
茜色と群青色が綯い交ぜになった空には、気の早い一番星が顔を出している。
私は此処で、星を詠む。
彼女は何処で、宵を待つのだろうか。