「開けなさい! こいしッ! こいしィッ!」
地霊殿の最深部。
金属製の扉の向こう側に居るのであろうこいしに向けて、私は叫んでいた。
声だけじゃない。両の腕を、拳と一緒にして扉に叩きつける。
もはや叫ぶなんて生易しい物じゃない。絶叫だ。私らしくもない恫喝じみた声が廊下中に響き渡っているのだから。
喉が張り裂けそうになるのを気にも留めず、扉を殴りつける手の皮がめくれ、爪が割れるのも気にせずに、ただひたすらに妹の名を呼び続ける。
それでも、扉は微動だにしない。
内側から施錠された扉。
妖怪の住む屋敷の扉なのだ。鬼が殴るならまだしも、私の様な貧弱な妖怪が殴った程度でどうにかなる物ではない存在。
それでも、私には手を――喉を止める事は出来なかった。
「こいし! お願いだから……この扉を開けて! こいしッ!」
◇ ◆ ◇
妹が初めて命を奪った日。
私は何時もの様にお部屋でお茶を飲み、ペットの猫と戯れていた。
緩やかに揺れる安楽椅子の上でペット達と他愛も無い会話をしていたかつての私。
平和だった。
和やかで、安穏としていて、心地良い眠気がゆっくりと私の瞼を押し下げてくれる……そんな光景。
そんな光景を乱したのは、妹の乱入だった。
萌黄色のスカート。山吹色のブラウス。黒い帽子にワンポイントのリボン。
そして胸元には閉ざされた第三の瞳。
「あら、こい――」
「えへへっ。ねえ、お姉ちゃん。これ、何だと思う?」
「……え……?」
絶句。
言葉を失うとはまさにこの事だろう。私の脳は目の前で起きている事を理解するのを拒んでいた。
頬を赤黒い液体で染めた妹――こいしは、その手に大きな肉の塊を抱えていたのだ。
ぽたりぽたりと床に滴る紅の液体。
肉塊の所々に見える、乳白色の骨の欠片。
引き裂かれた皮と毛皮。
「ねえ、お姉ちゃん。この子の中身って、こんな風になってたんだよ」
こいしが手の中の肉塊をぐいとこちらに傾けた瞬間、ボトリと、まるで花を落とした椿の如く、肉の中から一つのビー玉が零れ落ちる。
否。ビー玉ではない。
ビー玉ならば、床に転がったそれと私の目が合うはずも無いのだから。
「……こい……し……?」
「なぁに? お姉ちゃん?」
満面の笑顔で私に肉塊を向けるこいし。
何が何だか分からない私。
膝の上で幸せそうにしていたペットの子猫が、突然上げた心の絶叫。
それがただの肉ではなく、惨殺されたペットの成れの果てだと理解するまでには、あまり時間は掛からなかった。
◇ ◆ ◇
「さとり様ぁ! 鍵、カギです! かぎ、持って来ました!」
「――!! 貸しなさい!」
「は、はい!」
何時の間にか、私の背後に居たペットの一羽――空が居た。
その手の中には地霊殿のマスターキーが握られていて、それを見た瞬間には私は反射的にそれをひったくっていた。
錆付いた鍵の凹凸が手の平に爪が食い込んだ傷に触れた瞬間、ずきりと鋭い痛みが迸ったが……そんな事は、もうどうだって良かった。
今はとにかく、この扉を開かなければならないのだから。
震える指先で鍵を鍵穴に挿入する。
だが……錆付いて膨らんだせいだろうか。
鍵が鍵穴に収まらない。
「……っ! ああ、もうっ!」
◇ ◆ ◇
その日から、こいしの奇行はその過激さを増す一方だった。
ペットを惨殺し、肉と骨の混合物に変えるだけでは物足りなかったのだろう。
こいしは何時しか、当たり前の様に人を殺し、その死体を地霊殿へと運び込む様になっていたのだ。
胸を開きにされ、心臓を引きずり出された子供の死体。
顔を破壊され、性器を八つ裂きにされた大人の死体。
胎内の赤子と共に腹部をひき肉にされた妊婦の死体。
互いの内蔵を滅茶苦茶に絡み合わされた兄弟の死体。
妹が人間を殺すペースは日に日に増していて、死体の損壊具合もまたそれと同じ様に激しさを増していた。
「えへへっ。今日はね、こんな感じで殺してみたの」
「……どうして殺したの?」
「んっとね。お散歩をしていたら、いきなり乱暴をされたの。だから、殺しちゃった」
どうしてそんな嘘を吐くのだろうか。
胸の瞳を見れば、誰もが私達姉妹を避けて通ると言うのに。
悪びれる様子もなく、こいしは堂々と嘘を吐く。
それも、満面の笑顔でだ。
それは、さぞかしこいしにとって愉快な行為なのだろう。
人間を殺す。
残酷な方法で殺す。
原型が無くなるまで殺す。
もう何百回目になるのかは覚えていない。
今日は喉の肉を刃物で抉られ、胸の皮を剥がされ、両手を力任せに捻り切られた死体だ。
肋骨の隙間からは艶を失いかけた臓器が見え隠れしていて、手足が付いていた場所には砕かれた骨の黒っぽい断面が見えている。
「えへへっ。ここを、こうするともっと面白いかな?」
半紙をナイフで切り裂いているのかと錯覚する程に鮮やかな手際で、こいしの指先――鋭い爪が死体の背中の皮に切れ目を入れていた。
中から露出した赤黒い筋肉を指で掻き分けると、その下からごつごつとした骨が見える様になる。
「血は抜いてあるから、お洋服は汚れないんだよ」
能天気な事を口走りながら、こいしは死体の解体を着実に進めていた。
皮を乱暴に引っぺがして死体の顔面を破壊する。
胸部に開かれた穴の中に手を突っ込んで、一対の臓器――恐らくは、肺を摘出し、元々は口だった場所に強引に捻り込む。
太い血管を口に咥えると、うどんでも啜り上げる様にして一気に引きずりだし、自分の首に巻きつけて満足げな表情で笑う。
死体の足を180度の角度になるまで強引に開き、下腹部の肉ごと男性器を切り取り、それを腹部の穴に突き刺す。
猟奇的な芸術活動作業。
異様な程に手馴れた手際。
一度や二度ではなく、何回も……あるいは何十回も練習と実践を重ねたのだろう。
もはや原型を留めてはいない
それが生前にどの様な形をしていたのかは、もはや判別がつかない。
もはや死体ですらなかった。
ただの、醜い肉塊だ。
「じゃーん! 完成でーっす!」
満足げに笑うこいしの足元には、ぐちゃぐちゃになった肉の塊が一つ。
気持ち悪い。
死体はもう腐りかけているのだろうか?
周囲に腐った肉の臭いが漂い始めている。
一刻も早く、この場を立ち去りたい状態だ。
だから、私は、
「……そう」
気だるそうにそう呟くと、私は逃げる様にしてその場から立ち去った。
ただ一言だけ、「廊下のお掃除はこいしがしなさいよ」と言い残して。
◇ ◆ ◇
構わず、力ずくで鍵を差し込む。
鍵を引き抜く時間すら惜しかった。
指が折れようが、爪が剥がれ落ちようが、そんなのはどうだって良い事だ。
今はただ、鍵がこの扉を開いてくれれば、それで良いのだから。
「……ぐっ、んんッ、こ、のっぉ…………!! ぐッ、んんッ!!」
◇ ◆ ◇
私は……こいしが、怖かった。
笑顔で命を奪い、それを見せびらかす私の妹。
自分よりも大きな身体をした人間の男をたやすく殺し、その肉を鼻歌交じりで削ぎ落とし、原型を破壊する。
その神経が理解出来なかった。
こいしは、自らの腕の中に収めた心臓を見せびらかしながら、それをどうやって取り出したのかを自慢げに語るのだ。
抵抗されたから目を潰してやった。
瞼を引きちぎって、目玉に針を突き刺した。
頭蓋骨を力いっぱいに踏み砕いて、頭の皮越しに脳を掴んだ。
お腹を開いたら赤ちゃんが居たから、空っぽになった心臓の部分に詰め込んであげた。
道端で詰んだ花の鮮やかさや香りを語るのと同じ感覚で、こいしはどうやって人間を殺したかを私に教えてくれる。
私は、こいしが怖かった。
恐ろしいと思っていた――正確には、私はこいしをおぞましいと思っていた。
何故なら、こいしへと向けられるのは得体の知れない化け物に対して抱く感情と同じだったのだから。
何時しか、私はこいしをおぞましいと思い、そして拒絶していた。
叱る事なんて出来ない。
だって、恐ろしいのだから。
もはや私の妹は野放しの獣だった。
人間を無残な肉へと変える、恐ろしい妖怪。
◇ ◆ ◇
半ば神に祈る様な気持ちになりながら、鍵に体重を掛ける。
こんなにも必死な気持ちになったのは何十――否、何百年ぶりだろうか?
握り締めた拳からはダクダクと朱の液体が流れ落ち、鍵に擦れて削ぎ落とされた肉の欠片がその上にポタリと落ちた。
構わない。私の肉なら好きなだけ持って行けば良い。
この扉を開くのと引き換えにして、私の全身の皮が失われても構わない。
肉に食い込む鉄の棒はガリガリと私の肉を削り落とし、皮を引っぺがしながらも蝸牛の如き速度で鍵穴の中へと潜り込む。
鍵の表面からは砂を踏んだ様な音を立てながら幾重にも重なった錆の層が削り落とされ、やがて鍵は鍵穴の最深部へと納まってくれた。
カチリ――小さな金属音は、閉ざされていた扉が開いた証。
◇ ◆ ◇
何時しか、私はふと恐ろしい事を考えていた。
『私も、こいしに殺されるのではないだろうか?』
まさか。ありえない。
首を横に振って予感を否定するも、胸の奥からは湧き上がる汚泥の如く嫌な思考が漏れ出していた。
こいしは妖怪だから人間を殺したんだ。
じゃあ、どうしてペットを殺したの? 動物なのに。
人間を殺す練習の為にだよ。いきなり人間を相手にするのは危ないから。
それなら、子供か老人を襲えば良いじゃないか。そいつらよりもペットの動物の方がきっと強いだろうし。
それは――……
嫌な予感を否定しては、その否定に対する反論が湧き出す堂々巡り。
こいしの殺戮は終わりを迎える事はなく、その過激さばかりが際立つ様になるばかり。
私はと言えば思考する事が憂鬱になってしまい、趣味の読書に没頭する毎日だ。
そして、ある日の事。
書庫で見つけた一冊の本が、私の脳裏に嫌な火花を散らしたのだ。
悪寒が走った、とでも言うべきだろうか。
背中の皮の下を、無数の足を生やした巨大な百足が走り抜けるのにも似た感覚だ。
それは、幼年期の人間の子供の性質に関する物だった。
子供は親の機を引こうとして――ありていに言ってしまうのならば、構って欲しくて悪い事だと知っていながらも、悪戯をする事がある。
例えば、買ってもらったばかりの玩具を親の目の前で破壊する。
例えば、親に構ってもらいたい一心で、わざとばれる様な嘘を吐く。
それでも構ってもらえない場合、子供はより一層激しい破壊や悪質な嘘を繰り返すと言う事も書いていた。
そして、それらの項目の最後に載っていた、奇怪な一文。
自らの肉体をわざと傷つける事で親の庇護――愛情を享受しようとした事例もある。
◇ ◆ ◇
そこから先は、もはや反射的な行動だった。
刹那の内に開かれた扉。
部屋の中から漏れたのは、生臭い空気。
腐った血と肉の臭い。
そして――私が目を逸らし続けた罪の形が、転がっていた。
こいしが己の体をどれ程までに破壊したのかを考えたら壮絶なのが浮かびました
でも心を直に読むことのできるさとり、読むことのできたこいしには、分からないことへの恐怖、伝わらないことへの苛立ちが先行してしまい、その両方を拒否してしまったんですね…。だからといって責めたりは出来ませんが。
何やら色々と考えさせられる作品でした。
この1文がなんかすごく好きです