「おはようございます、紫様」
いつものように、主人の寝室に向かい声をかける。
「おはよう、藍」
いつものように、数秒と待たずに障子が開く。
そこには、いつものように薄く微笑む主人の姿が。
「今日の朝食はなにかしら?」
「ご飯と、焼き魚と、煮物と、お味噌汁です」
「また油揚げの?」
「ええ、まあ」
「主人への朝食に自分の好物を使うのはどうなのかしらね」
「それくらいの融通は利かせてくれてもいいでしょう?」
「毎日三食はいくらなんでもねぇ……」
「すみません。やはり、三日に一度くらいにしたほうが……」
「冗談よ、言ってるだけなんだから気にしないで。好きにするといいわ」
「はあ、そうですか」
「そうよ。じゃあ、今日も結界の修復、お願いね」
「はい、わかりました」
そう言って、屋敷をあとにする。
いつもどおり、結界の修復にむかう。
八雲藍には悩みがある。
自分という存在に対してだ。
いつから八雲紫の式として過ごしてきたかわからない。
覚えていないのではなく、わからない。
気づいたときには、すでに八雲藍として八雲紫に従っていた。
なぜ従っているのかは、わからない。
特に何か習ったわけでもないのに、なにをすべきかわかっていた。
たとえば、今やっている結界の修復とか。
「これは酷いな」
今日は特別大きな結界の綻びを見つけた。
この綻びの修復はちょっとやそっとじゃ済まないだろう。
今から取り掛かる作業の労力を考えると、自然を溜息が漏れる。
紫様に頼めば、力を貸してくれるかもしれない。だが、この綻びをこんなに大きくなるまで放っておいたのは私の責任だ。
紫様に迷惑は掛けられない。私は八雲の式なのだから。
本当は見なかった振りでもしたいところだが、やむを得ず修復に取り掛かることにした。
「…ぐっ、くぅ」
結界の修復は、予想以上に難しかった。
妖力のすべてが結界に持っていかれる。
腹の底から妖力を搾り出し、修復を進める。
(……紫様なら、この綻びを、もっと前から気づいていたのではないだろうか)
大きな綻びを修復するたびに、こんなことを考える。
この結界は、紫の能力に頼る面が多い。
ならば、結界の綻びも、紫にはわかるのでは。
神にも匹敵する力だ。
それくらい、できても不思議ではない。
(だいたい、何故私はこんなことをやっている……)
綻びを見つけて修復する。
紫の世話をする。
たまに紫から妙な指示を出されるが、その行動に潜む意味はわからない。
自分にとって有益なものなど何一つ無い。
それでも従っている理由はなんだ?
(それは、紫様を尊敬していて、少しでも力になりたいから……)
だがそれは本当なのか?
紫の能力は知っての通り、『境界を操る程度の能力』。
全貌は知れないが、意識をいじることもできるだろう。
ならば、この感情も、この理由も、
もしかしたら自我でさえ――
「ぐうぅぅうぅうぉおおぉおぉおおおおッ!!」
余計なことを考え始めた自分を振り払うかのように、叫ぶ。
力を振り絞り、結界の修復に集中する。
(いかんな…、どうにも嫌なことを考える)
これ以上深く考えぬよう、集中力を研ぎ澄ます。
それでも、考えは止まらない。
自分という存在がなんなのか、いよいよわからなくなってきた。
(駄目だろう……、こんなことを考えては。もっと集中しなければ)
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと……
考えることをやめたのは、意識を失ってからだった。
気づくとあたりは暗くなっていた。
自分が意識を失っていたのだと理解するのにしばらくかかった。
(結界が…、直っている……)
自分が修復していた結界の綻びは、跡形も無くなっていた。
(私がやったのだろうか……。いや、考えにくい。そうなるとやはり……)
自然と頭に主人の顔が浮かぶ。
と同時に、憂鬱な気持ちになる。
任されていた結界の修復を果たせなかった。そのうえ、主人の手を煩わさせてしまった。
何よりも気分が悪いのは、この情けなさが自分のものだと信じられないことだ。
自分の黒い感情だけしか、自分を信じることができなかった。
(紫様は……)
なぜ自分など使役しているのだろう。
「遅かったじゃない、藍。心配したのよ」
屋敷へ帰ると、玄関で紫が出迎えた。
扇で口元を覆っているため、表情はよくわからない。
だが、結界の修復は紫がやったのだろうから、事の顛末は既知のことだろう。
「すみません、結界の修復に手間取りまして」
先ほどまであんなことを考えていたこともあり、自然と目をそらす。
せめて笑っておこうかと思ったが、上手くできない気がしてやめた。
「ほら、夕食の準備をして頂戴。おなかペコペコよ」
自分の顔を覗きこむように首を傾げてくる紫に、今度は首を動かし顔を背ける。
自分が酷く子供っぽいことをしているような気がしたが、かまわないと思った。
「……どうしたの? 藍」
「……いえ、なんでもありません」
紫の目元が悲しそうに歪むのを見て、胸の奥がギチリと締め付けられる。
しかし、これも偽者かもしれないと思うと、今度はその考えが悲しくなった。
もうなにがなんだかわからない。
気持ちが悪い。
消えてしまいたい。
「……藍、なにがあったのか、話なさい」
主人からの命令が来た。命令は守らなければ。何故って私は八雲の式なのだから。
「……紫様は、どうして私を使役なさっているのでしょうか?」
「え?」
全て話さなければならない。
そういう指示が出されたのだから。
顔が熱い。のどが焼ける。上手く声が出ない。それでも言葉を搾り出す。
「……私は、自分がわかりません。自分が、どういう存在なのか。私は式です。あなたに、使役される存在です。ですが、私には、感情もありますし、自我もあります。これは私のものなのでしょうか!?」
「……藍」
「私は、あなたを尊敬しています! あなたの力になりたいです! ですが、この感情が私のものなのか、式神のものなのか、わからないのです!」
「……藍、もういいわ」
「そんなことを考えて、あなたを悲しませています! それが嫌なのに、とてつもなく嫌なことなのに、この感情が私のものだと信じられないのです! そんな自分も嫌だ! なのに信じられない! もう、私は――」
「藍ッ!」
ふと視界が暗くなる。
一瞬なにが起こったのかわからなかった。
頭を抱きしめられているのに気づくのに、数秒かかった。
「藍、あなた、なんで泣いてるの?」
そう言われて気が付いた。
涙が紫の胸元を濡らしていた。
「す、すみませんッ。まさか泣いているなんて……」
涙を止めようとするが、全く止まってくれない。どころか、気づいたことで堰を切ったのか、ボロボロと零れ落ちる。
「すみませんッ。濡れますから、離れてッ――」
「いいのよ、そんなことは」
いっそう強く抱きしめられ、言葉が途中で切れる。
「その涙は誰が流してるのかしら?」
「……私です」
「じゃあ何故泣いているのかしら?」
「……私が、紫様を悲しませたから」
「それは誰の感情?」
「……私の、もの?」
「あなた以外に誰がいるのよ」
抱きしめられたまま、優しく語られる言葉に、自分がどれだけ不甲斐無いかを思い知った。
「式神に人格なんてあるわけ無いじゃない。式神はあなたを制御するためのものだけど、感情までは制御できないわ。せいぜい、逆らわないようにする程度。だから、安心しなさい」
「……でもッ」
「油揚げは好きかしら?」
「……大好きです」
「じゃあ、私のことは?」
「……結界の綻びを黙ってるところは嫌いです」
「あはは」
ジトリと睨みつけてくる藍に、紫は楽しそうに笑った。
「それが全部、つくりものなの?」
「違います」
「なんでわかるのかしら?」
「理由はありません。
でも、違うと信じたいです。
自分のものだと信じたいです」
以前のように、ただ従っていたときには無い、強い意志を瞳に宿して、藍は紫を見つめた。
それを見て紫は優しく微笑む。
「じゃあもう大丈夫ね、藍?」
頭を撫で、十分に藍が落ち着いたことを確認する紫。
藍は、顔をうずめたまま、もうひとつ言わなければならないことを思い出した。
自分の感情は、本物なのだと自信を持って。
「……紫様、もうひとつだけ、いいですか」
「何かしら」
藍はそう言って、膝から崩れ落ちた。
紫は思わず膝を折ったため、以前藍を抱き締めた状態だ。
何事かと紫が身構えていると、藍がなにやら呻いているようだ。
「ど、どうしたの、藍?」
「……くて、…とう……た…」
「な、なに?」
「けッ…、けっかいの、…ッ修復、できなくて、本と、に、すいませんでしたッ。……うぐっ、ひ…っ」
ボロボロと、先ほど以上の涙を流しながら、藍は自分の思いを口にした。
「あなたも式を持ってみたらどうかしら?」
夕食後、紫は藍にそう告げた。
「私が、式、ですか?」
藍は目の周りは赤いものの、以前よりも感情を持って紫に接している気がする。
「そうよ、あなたならできるわ」
「しかし、一介の式の身でありながら、式を使役するなど――」
「持ちたいの? 持ちたくないの? どっち?」
「ええっ?」
藍は考える素振りを見せたが、心の中では決まっていた。
「……私は、紫様が式を使役する理由が知りたいので」
その答えを聞いて、紫は満足げに答える。
「好きにするといいわ。あなたの思うままに、ね」
綻びをわざと放置してから知らせたのは藍に力を付けさせる為の紫様の親心でFA
合ってる?
びっくりするほどゆからんとぴあ!
こんなものは言葉を借りるなら支持せざるを得ない