里の外れ。繁みの中の獣道。
「まいごのまいごのおくうちゃん~。あなたのおうちはうにゅにゅにゅにゅ~?」
こいしが歩いていた。なにかまた、妙な歌を口ずさんでいる。
あいかわらず、気まぐれかつエレガントな足どりで、獣道を進んでいく。
「なまえ~をきいてもうにゅにゅにゅにゅ~? おうち~をきいてもうにゅにゅにゅにゅ~?」
藪の中の道には、虫か獣くらいしか見あたらない。そういう者たちは、こいしが近づいても、少しも気にしないようだった。
こいしは、気楽に歌を歌いながら、ふらふらと歩いていく。
「おりんりんりりーん。おりんりんりりーん。つーいになきだしたおくうちゃんー。やーまーのーたたりがみーは、えーその後、本当にお燐を呼んで、おくうを引き取りに来て貰ったんだとかいうのは、いや、さすがに冗談ですけどね。正解はですね……ん?」
こいしは、ふと立ち止まった。ある一点に目を止める。
こいしの視線の先には、どこかの寺の境内があった。じっと、大きめの目が、そのなかの一点を見つめている。
「……」
ことん、と、不意に瞳が揺れた。こいしは、正気に返ったように、ちょっと目をまたたいた。
「……――はっ!!」
こいしは、唐突に叫んだ。思わず、近くの繁みに飛びこむ。
「はあっ……はあっ……ああ……ふぅ」
こいしは、木にもたれかかって、苦しい息を吐いた。なにやら、急に息が荒くなっているようだ。
「はあ……はあ……」
どうにか、胸に手を添えて、息をおちつかせる。
「……」
繁みから、そうっと顔を覗かせる。さきほどの、寺の境内が目に入る。
その境内のただ中の、少し向こうのほうに、一人の娘が立っているのが見えている。こいしの視線をとらえたのは、その姿だった。
たしかに少し離れてはいたが、こいしの視力をもってすれば、その輪郭まで読み取れた。
娘、というか、その娘は確かに若いが、面立ちには妙に成熟したものを漂わせていた。女性、とあらわした方がしっくりくるようだ。
向かい側の。男物の僧服姿を着た娘と、なにやら立ち話をしている。その瞳が、ふっとこちらに向くのが見えた。
「……。はっ!」
こいしは、あわてて繁みの中へと引っ込んだ。木の裏に隠れて、へたり込む。
熱くなる頬を、両手で包む。どうも、頬は、勝手に熱を帯びているようだった。
「やだ……なにこれ……!」
どうしたことか、こいしの中に、なにか押さえきれない衝動が生まれていた。あの女性をひと目見た途端、自分の中で、何かが動くのが感じられたのだ。
こいしは、激しく動悸をつのらせた。控えめな胸の膨らみに、手を当てる。心臓が、ごとごとと鳴っていのが分かる。頬が、勝手に火照ってくる。
「……なに、なんなの、この、感じ……! はっ、まさか……」
こいしは言った。脳裏に、てぃんと閃くものがあった。
「そうか……これが……これが……」
こいしは思わず立ち上がっていた。
「これが……これが、恋っ? 恋なのっ!? 恋なのね1? ああっ……! 胸が、苦しい……!」
こいしはぎゅっと胸を押さえた。ごとごととした心臓は鳴りやまない。胸がきゅうと締めつけられるようだ。
「ああ、あれは……あの方は……そうか、白薔薇様……! 白薔薇様だわ! あれは、あれは、あの方は私の! 私の、白い薔薇! 清楚にして、熱き情熱の花! ああ! そう、なんて、なんて高貴で、気品に溢れたお顔立ち……! はあぐれいすふる……! まさにワンダフル・ロータス……! お綺麗で、濃厚で、まったりとしていて……それでいて、少しもしつこくない……! むしろなにか、老成した魅力すら感じさせる……! ああ、まるで、澄みきった池に咲く白蓮の花のようだわ……ああ、ギガンティア……!!」
こしいはうっとりと叫んだ。確信を得た瞳が、光を放っている。
「そうか!! あの方こそが、私の……私の白い薔薇! 私は、私は白い鳥だったのね! あの方を捜し求め、愛に彷徨う白い小鳥だったのね! やっと分かったわ、今!!」
こいしは叫んだ。そのときにはもう、足は駆けだしていた。
繁みを抜け、境内を抜け、一気にその女性の元へと走り寄る。愛しい姿へと。輝かしい姿へと。
駆けよって、はし、とその手を握った。女性がふり返る。
「え――?」
あっけにとられたような目が、一瞬こいしをとらえる。
「――白薔薇様ッ!!」
こいしは構わずに、叫んでいた。繊細な手を握り。熱く、激しく、囁くように。
見た目よりも大きく、そして柔らかい手だった。女性は、きょとんとしていた。
「ああ、白薔薇様……! ああお会いしとうございました……!」
「……? あなた、今、どこから……?」
「ああ……お美しい……まるで、花の蕾のような……その、少し薄く膨らんだ唇……なにか不可思議な色を帯びた、繊細で流れるような御髪……ああ、つま弾くような、匂い立つような指先、かすかに覗く、暗いうなじ……ああ、あなたはかぐや姫なのでしょうか……それとも、茨姫? 白雪姫というには、あなたの姿は、あまりに儚げで悲壮に満ちているわ……」
こいしは、うっとりと呟いた。向かいの女性は、訳も分からず、こいしを見下ろしている。
こいしは女性を見上げてため息をついた。見れば見るほど美しい。
間近で見ると、女性は、やはり女性、と評するのが、相応しいようだった。不可思議色の眉と、長い髪。こいしが今まで目にしたこともないような色だ。
全体的に、その身体は、若々しく、生命にみち溢れていて、こいしの脳裏にさえ食欲以外のものを伝えてくる。ビューティフル。まさにビューティフル。
「あの、あの、よろしければ、あなたのお名前をお聞かせ下さい……」
「はあ……ああ、はい。わたくしは、白蓮と申します。……あなたは、どちら?」
女性が聞いてくる。こいしは、少し目をふせて、答えた。
「わたくしは、古明地こいしと申します。ああ、ですが、どうそ、こいし、と呼び捨てになさってください……ああ、白蓮様、とおっしゃるのですか……なんという、美しい響きのある、お名前でしょう……まるで、まるで、御名がそのまま、あなた様の態を表すかのような……」
「はあ、ありがとう」
「おい、こら! あなた!」
横から声が割り込んだ。やばい、取り巻きだ。
見やると、白蓮の横にいた僧服姿の娘が、険しい顔で睨んでくる。
「どこから入ったのよ、まったく……ここは、無断での立ち入りは禁止ですよ。それに、軽々しく聖に手を触れて何ですか。その方は、尊い方なのよ。今すぐに離しなさい」
娘が言う。表情どおり、ずいぶんと問答無用できつい様子だ。
「まあ、ちょっと待って頂戴、一輪……こいしさんと言いましたか? 見たところ、あなたは妖怪ですね? それも、どうやら結構古い人ですね……」
白蓮が言う。こいしは畏まって答えた。
「はい。そうです。私は、さとり妖怪という種族の妖怪です。かつては地上に暮らした者ですが、今は、地底の預かった館に引っ込んで、一人の姉とともに、住まっております」
こいしが言うのを聞いて、一輪と呼ばれた娘が眉をひそめた。
「……覚りですって? 地底の妖怪の中でも、最悪の輩じゃないの……ちょっと、あなた。今すぐにその手を離しなさい。あなたのような危険な輩が、馴れ馴れしく聖に近づいてはいけません。それ以上しているようなら、捨て置きませんよ」
「一輪。いいから。少し待って頂戴」
「いいえ。姐さん。控えてください。そいつだけはいけません。さとり妖怪というやつらはね、本当に危険な連中なんです。そいつらは人の心を読んで、そこに付けいってくる恐ろしい輩です。あの物騒な地底の中でさえも、そいつらには、同じ妖怪や鬼でさえ恐ろしがって近づきたがりやしません。そういう連中なんですよ。もともとが、地上に逃げてきた理由って言うのが、あまりにもそのタチが悪いんで、徒党を組んだ人間たちに追いやられてきたような話で――」
「そうですか。それなら、私が拒むような理由は何もありませんね。はじめまして。命蓮寺へようこそ、こいしさん。歓迎しますわ」
「本当ですか? やった!」
こいしは喜んだ。しかし、一輪はしつこく食い下がった。
「姐さん! だから、ちょっと待ってください!」
一輪が言う。が、白蓮は首を横にふった。
「一輪。駄目ですよ。私は、仮にも、人妖の平等という理想を声高に語っている身なのですから。仮に、彼女がどこの誰彼で、その性情が何々だからという理由で、他と差別をはかるようなことがあったとしたら、それはいけないことなのです。分かりますね?」
白蓮は言う。一輪は強情に食い下がった。
「それはわかりますよ! ですが、実際の話は別ですよ! 封獣のやつの時にも、言ったでしょう。本当に危険な妖怪という奴には、人間は絶対に近づくべきじゃあないんですよ。相手が、こっちに対して友好の気でもわきまえていれば、まだましですが、万が一取りつかれでもしたら、そいつは言葉に言い表せないほどのひどいことになるんですよ。それはもう、人間の想像なんかとても及びがつかないほどにね。ですから――」
が、白蓮はすでに聞いていないようだった。
「こいしさん、でいいですか。よろしかったら、寄っていかれますか? お茶菓子でよければ、ありますけれど……」
「はははい! 寄ります! よりよりで寄って行かせてください、お姉様! あ、お、お姉様ってお呼びしてよろしいですか?」
「? ……ええ。まあ。どうぞ。それでは、こちらへどうぞ。ああ、一輪。すまないけれど、お茶の用意をお願いします」
「あ。ちょ。ちょっと! 姐さん!」
一輪は言いつつ、慌てて後を追ってくる。白蓮はこいしをともなって、寺の方へと入っていった。
ややあって、寺の一室。縁側に面した、客間。
部屋に通されたこいしは、白蓮に差し向かいで座っていた。こいしの前には、お茶と茶菓子が用意されている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
こいしは,
白蓮に丁重に礼をすると、そーっと菓子に手をのばした。手で掴んで食べれる類の饅頭である。それが三つも積まれている。
「人間のものですから、お口に合うかどうか分かりませんが」
「あ。大丈夫ですよ。私は人間も食べ物も美味しく食べられます。人間が一番美味しいですけどね。でも、甘いお菓子も大好きですよ! 脂っこくないし、身体が血なまぐさくならないし」
「そう。それはよかった」
白蓮は、穏やかに笑った。年経た者のような落ち着きと、独特の品のある所作である。
「やだ、ドキドキしらう……お姉様ったらマジプリティ。むしろお菓子よりもむしろお姉様を食べたいな。なんちゃって」
こいしは、ちょっと顔を赤らめて、白蓮の笑顔に魅入った。白蓮は、それを怪訝そうに、小首をかしげる風にして、見ている。
同室の外。縁側。
「……」
「……」
「……」
「……」
一輪は、ふとちらりと目を動かした。視界のはしに、村紗の姿が見える。
「……」
「やっほ」
「あんた、いつからそこにいたのよ」
「少なくとも、一輪がさっきからそこで、いやらしくのぞき見しているのは、しっかり見ていましたよ。だから別に恥ずかしがらなくてもいいわよ。うん。続けて」
「……」
一輪は黙りこんだ。その横から、被さるようにして、村紗が中をのぞきこんでくる。
「ちょっと……」
「なによ。何かと思ったら、ただのお客さんじゃないの。あれがなにか気になるんですか?」
村紗が言う。一輪は少し黙りこんだ。
やがて言う。
「……ねえ、向かいのあいつ、なんだと思う?」
「妖怪ね」
「覚りよ、覚り妖怪」
一輪が言うと、村紗はもの珍しげな顔をした。
「へえ……覚りですか? いまどき、珍しいですね。まだ地上に残っていたのかしら。なんだか、聞くところだと、地上にいる覚りの連中は、徒党を組んだ人間に虐殺されちゃったとか」
「あれは、そのあとで地底にひっこんだやつよ。古明地って名前と、あいつの話からして、あれはたぶん、地霊殿の……ああ、そういえば、あんたはあんまり知らないんだったっけ」
「まあ地底のことはあんまりね。私の魂は艦とともにある感じなので、ほとんど一緒に眠って過ごしていましたしね」
村紗は言いつつ、覚り妖怪の挙動を眺めた。あまり興味なさげに見て、それから、ちらり、と白蓮のほうを見る。
「……しかし、なにかしらね。聖も、次から次へとよくやりますよね。まあ、半分趣味も入ってるみたいなもんだから、仕方ないんでしょうけど……ほら、彼女も、一応お年寄りですからねえ。きっと話し相手が欲しいんでしょうね」
「なに失礼なこと言っているのよ……」
「いやあ、だって聖は言ってることは立派ですけども、昔からあれでけっこうね……」
「あら……一輪、白蓮は?」
ふと後ろから声がかかった。そちらを見上げると、いつのまにか、寅丸が立っていた。
一輪は答えた。
「ああ、今来客中よ」
「あ。そうなの……ねえ、どうかしたの? 二人とも、そんな」
「いや、なんだか一輪が焼き餅焼いてるみたいなんですよ」
「うん?」
「ああ?」
一輪が唸る。村紗は、しれっとした顔で目を逸らした。
その二人の横から、寅丸が障子の中をのぞきこんだ。中の様子を目にして言う。
「……ああ、また新しい子を連れてきたのね……。なんだか、変わった子ね」
「それが、なんと覚り妖怪なんだそうですよ。星さん、見たことある?」
「いいえ……覚り? 珍しいわねえ……」
寅丸が暢気に言った。障子の中では、向かいの覚り妖怪が、顔を赤らめて白蓮の顔を見ているところだ。
白蓮の話への受け答えを見ていると、どうやら、覚り妖怪は、活発な気性の者のようだ。ときどきすっとんきょうなことを言って、白蓮の首をかしげさせているが、まあ、妖怪なら、少しぶっ飛んでいてもおかしくはない。
「ふむ……なんだか元気が良いのね。覚りって言ったら、もっと暗くて陰険で、そろって性根のねじ曲がったようなのが多いと聞いていたんだけど……」
星が言う。村紗が、それに暢気に答えた。
「いろんなのがいるって事じゃないかしらねえ。噂に聞いてた、どこかの封獣とやらも、実際に見ればあんなもんでしたし。人の噂ほど当てにならない者はないですよね、まったく」
「あいつは、噂どおりのとことん性根のねじ曲がった奴だったでしょ……封印されたのも分かるわ」
横から一輪が言う。村紗は半眼になった。
「まあたそういうこと言う。一輪は本当頭固いですよね」
「うるさいな」
「そういえば、心を読めるって言うけど、あれ、本当なのかしらね?」
「あいつの胸の所に、目玉があるでしょう。あれが第三の目って言ってね。連中は、あそこで人の思考を覗くんですよ」
「ふうん。あら、でも閉じてるわね?」
「あら本当。紳士的な子なのかしら」
村紗が言う。一輪は、いぶかしげに眉をひそめた。
「普通は、閉じることなんてできないはずじゃなかったかしら……おかしいな……」
「うん? あんたたち、何やってるの? ちょっと、邪魔」
と、そこへまた、後ろから声がした。ふりむくと、いつのまにか、ぬえが後ろにきていた。
ぬえは、そのまま構わず、障子の前にいた一輪たちをまたぎ越すと、あっさりと戸を開けて中に入った。
「あ、こら」
一輪が言ったが、ぬえは聞かない。障子を閉めて入室した。
「聖ー、来たよー。遊びましょうー」
「ああ。ぬえ、いらっしゃい。悪いけれど、待っていて。今、来客中だから……」
「えー? なによ、冷たいわねえ」
ぬえは、ちょっとむくれた顔をした。脇の黒帽子をちらっと見下ろす。
「へえ~。お客さんねえ。……ふーん」
言うと、てっきりそのまま出ていくかと思われたが、ふと急に、こいしの周りを歩き始めた。目が良くない光を帯びている。
「ぬえ。駄目よ」
白蓮は軽くたしなめた。が、ぬえは聞いた様子もない。
「うーん? はいはい」
適当な返事を返す。いかにも企んだ風で、口元に、ちょっと悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
白蓮が眉をひそめた。この様子は非常に危ない。
ぬえは、見ためこそ大したことはしなさそうに見えるが、その実、とんでもないことも平気でやるところがある。見ているほうは、気が気でない。
「大丈夫ですよー。なんにもしませんからねー」
ぬえは笑って言った。言いつつも、すでにこいしの後ろに座り込んで、興味ありげにちらちらと見ている。
一方のこいしは、そんな後ろの娘が一向に気にならないのか、もむもむと口を動かしている。ぬえは、菓子を食べる妖怪を、物珍しげにじろじろと見ている。
白蓮は、やや不安げな眼差しをしながらも、様子を見ていた。
「……ん?」
やがて、ぬえが言った。ちょっと小首をかしげる。
ふと、何を思ったか、いきなりこいしの帽子を持ち上げた。
「ぬえ!」
白蓮が叱る風な顔になって言う。が、ぬえは帽子を持ち上げて、なにか考える目つきをした。
「ふーん」
ふと、不意にすとんと帽子を下ろす。こいしは一切気にした様子がない。
「……」
ぬえは、目の前の妖怪髪をいじりつつ、考えこんで、眉をひそめた。なにか、反応を見ている風でもある。やがて、目をしばたく。
「……あれ?? ……あ。あ!」
ふと言った。ぽん、と手を叩く。
「あーあ! なんだ! あんた、こいしじゃない! うわあ、ひさしぶり! ちょっと、こいし! ほら、私よ、わたし!」
後ろから抱きつかれて、こいしはやっと反応した。頭のうえにあるぬえの顔を見上げる。
「? ん? あなた誰?」
「あら。なんだ、また顔忘れたの? 本当覚えないわよね、あんた。ほらほら、尻尾尻尾」
「ほう、ふむ……これは……なかなかいやらしい……なんかすごい尻尾ですな、色といい張りといい……ん? いやらしい……形……。あれ、あなたぬえじゃない? どうしてこんなところにいるのよ?」
「やっと思いだしたか。あっはっは。ひさしぶりー。いえー」
「はっはっは。ひさしぶりー。いえー」
「いえー。はっはっは」
ぬえは言った。仲良さげに、後ろから腕を回して、こいしと手を打ちつけあっている。
白蓮は妙な成り行きに、目を瞬かせた。ふと聞く。
「あら。二人とも、友達なの?」
「ああ、うん。そう。あーいえね。まあ、友達というか、ライバルというか、そんなかな。とにかく知り合いよ、知り合い」
「そうね。わたしたちライバルというか知り合いね! なにせかつては凄絶に殺しあった仲だし」
「はあ。つまり、喧嘩友達のようなものということ?」
「まあ、そういうのかしらねー。ねえー」
「ぬえー」
ぬえが上から見下ろすのに、こいしは腕を絡めつつにっこりと笑っている。
「最初は、ぬえがいきなり因縁つけてきたのよね。なんであんた私の悪戯にびびらないわけ? それならもう死ね! とか言っててね。殺しにかかってきて。それが血で血を洗うタイマンの幕開けに発展したのよね」
「そうそう。いやーあのときのこいしのあれは痛かったー。私、思わず腕と太ももと耳がちぎれとんでたし。まったく、あんたはちょっとやりすぎなのよねー。私だって殺しにかかったのは大概だけどさ、本当は冗談で襲いかかったのにさー」
「なによ! 私だって、途中からすでに、耳と鼻と左目と指とか色々なところ
が無かったわ! あとでなんでこんな怪我してきたのって、お姉ちゃんにすごい怒られたんだからね!」
「だから、あとでおわびに人肉おごってあげたじゃない。耳も拾ってきてあげたしさ。まあ私なりのお茶目でちょっと痺れ薬とかは混じってたりしたけど」
「動けなくなったところを炉に放り込んで掛け金下ろされたときは、さすがの私もほんのちょっとどうしようかと思ったわ。ぬえったらいけない子だわ」
「いえー」
「いえー」
「はあ。仲が良いのね」
縁側。
「……」
「……なんだあ、ぬえの友達ですかぁ。じゃあ、やっぱり悪い子じゃないんじゃないですか。あれでもぬえは、根は良い子ですからね」
村紗が言った。一輪は眉をひそめた。
「あんた、今の会話聞いてたの?」
「はあ? あれくらい昔じゃ普通のことですし。最近の妖怪は、逆にどうも軟弱すぎていけませんよね。もっとこう、外から攫ってきた人間監禁して、たっぷり時間かけて責め殺してわあいとか喜んでるとかじゃなくてさあ、たまには妖怪同士で血みどろの争いとかしないと。だから変な方向にフラストレーションが溜まるのよね。歪んだ欲望っていうのは、歪んだ方向でしか晴らせなくなるものなんだし、いや文明社会のぬるま湯って怖いわ、ほんと」
「なにいきなり熱心に語ってるのよ」
「でも、なんだか、ちょっとうらやましいわ……私なんて、いまだにぬえに話しかけても結構無視されるのに……あんなに仲が良いなんて……妬ましい」
「まあ、ぬえは自分に正直なやつですからね。星サンみたいなタイプは、ちょっと相手にされづらいんじゃないですかね」
「うう……なんで私ってこう蔑ろにされるのかしら……」
寅丸はさめざめと言った。ちょっと鬱陶しい。
「あれ、そういえば、なにか用事があったんじゃないんですか?」
村紗が言う。寅丸は、気を取り直した様子で、一輪を見た。
「ああ……そうそう。ちょっと白蓮に相談したいことがあったんだけど……まあ、後でいいかしら。ああ、それより一輪。ちょっと手伝ってくれない」
「え? 私が?」
一輪は言われて、眼をぱちくりとさせた。
「そうよ。ほら、最近、急に仕事が増えてしまったでしょう。色々溜まっているのよ。私もお寺の仕事なんかするのは久しぶりだし、慣れなくて……」
寅丸が言うのを、横から村紗が茶化す。
「あー。でも、それって一輪があんまりにも手伝わないからじゃないですか? まったく日がな一日、何かというと、聖にくっついちゃってて本当見てられないわよね」
「……あんたなんか何にもしないで日がな一日ごろごろして、たまに船飛ばしてるだけじゃないの。たまには働けよ」
「船乗りは船乗るのがお仕事なんで。私は寺のことはわかりませんしね」
「とにかく一輪、来て頂戴。白蓮なら放っておいても大丈夫よ。さ。来て」
「え。ちょ。ちょっと、ちょっと、星さん待ってよ……」
一輪は、そのまま襟首を捕らえられて、引きずられていった。
ややあって、本堂。
客間を辞したこいしは、白蓮に連れられて寺の中を見て回っていた。いくらか見回ったところで、今は本堂にやってきたところだ。
「――?」
入る前に、白蓮が立ち止まって、合掌をした。こいしは、その仕草を見て、首をかしげながらも、自分も真似をした。
白蓮が頭を下げるのを見て、真似をして頭を下げる。
ふとこいしは思いついたように聞いた。
「お姉様は、インドの方なんですか?」
「いんど?」
白蓮が、怪訝な目を向けてくる。こいしは笑って白蓮を見た。
「ええ、なにかの本で読んだことあるわ。インドの人っていうのはみんな、よくこうやるんだって。あれ? うーん。でも、お姉様は洗ってないカレーの匂いしないわね。インドの人は、みんな、身体からそういう匂いがするものらしいのに……おかしいわね」
こいしは言った。小さな鼻をうごめかして、白蓮の匂いを嗅ぐ。
「はあ。鰈……」
白蓮は呟いた。が、あまり気にしないことにしたのか、微笑んできた。
「これは、合掌というんですよ。仏法の、一番基本的な姿勢ですね。そうね、お祈りの姿勢みたいなものです。こうして、手と手を合わせ、頭を垂れることによって、人は、自然と仏の教えと、また、先人を尊ぶ心を、自らに思い出させることができるのです」
「ふうん。心ですかー」
こいしはぼんやりと呟いた。白蓮が、もう一度礼をするのに合わせて、とりあえず頭を下げる。
本堂に立ち入ると、こいしは物珍しげに見回した。ここは、抹香の匂いがひときわ濃い。
天井を見上げると綺麗な装飾がしてあるが、あまりこいしの目を引かなかった。正面に、仏の像が並んでいる。
白蓮が口を開いた。
「こちらに本尊様を祀っています。普段は、仏前での読経などが主ですが、座禅などの修行も、ここで行われることはありますね」
「どきょう? ざぜん? なんですか? それ」
こいしは聞いた。白蓮は丁寧な口調で答えた。
「読経とは、ひたすら仏教のこころえを書いた経を読み、唱えることです。幾度も繰りかえして唱えることで、仏の教えを心にとどめるようにします。座禅、というのは、目を閉じて座り、己の心を見つめる行いですね。たんに座り、心穏やかにすることを指して、座禅を組む、と言います。むずかしい作法を必要としないので、仏の道に入らない方でもわりかし気軽にできる修行ですね」
「ほう……」
こいしは、さもわかったふうにうなずいた。もちろん、実はそれほどわかっていないが。
「……よろしければ、こいしさんもやってみますか?」
「え? いいんですか? 私、お姉様と二人きりで……それって大丈夫なんでしょうか? 色々と」
「? ええ、もちろんです」
「はい! それじゃあやる! やります! お願いします!」
こいしは元気よく言った。白蓮は、微笑み返して言った。
「では、そこへ。足を崩して、楽な風に座ってください。――ああ、いえ。そうではなくあぐらは分かりますか? ええ。そうです。それで、こうして……身体の正面で、手を組んで……」
白蓮は言いつつ、こいしの手を取って、座り方を教えた。白蓮に教えられる間、こいしは、ちょっと手足を緊張気味にして、言われるとおりに身体を動かしていた。
やがて、やや窮屈そうだが、こいしはあぐらをかいた姿勢を取った。ちらりと、少し慌てた風な様子で、上目づかいに白蓮を見る。
「……えっと。こうですか?」
こいしは、なぜかやや顔をあからめたまま聞いた。白蓮は頷いた。
「ええ。そうです。――慣れるまでは、ちょっと窮屈に感じるかもしれないけど、少しの間、我慢してくださいね。それでは、そのまま目を閉じて。気持ちを楽にしてください。己の中を見つめるようにして、心を無にするのです」
「むに?」
「ええ。無に」
「はあ。むに……」
「あまり意識しなくても良いですよ。最初は、肩の力を抜いて、気を落ち着けるよう心がけてください」
「ふーむ……」
こいしは唸った。そのまま、ちょっと考えるような目をしてから、目を閉じる。
「……」
やがて、こいしは完全に静かになった。呼吸が鼻孔を出入りする音が聞こえてくるほどに、静かになる。
「……」
白蓮は、そっと立って、灸に火を指した。灸が、静かに燃えはじめる。
それから白蓮は、棒を手にとって立ち上がった。小さな衣擦れの音を立てて歩き、こいしの後ろへと立つ。
じっと、その背中を見下ろして佇む。静寂。
「……」
沈黙が流れる。
灸の燃えていく音さえも、かすかに聞こえてくるほど、部屋は静かだった。
「……」
やがて、白蓮は眉をひそめた。こいしの背中を見下ろす。
「……」
白蓮は、こいしの背中を見た。
目の前の妖怪少女の背中は、静かだった。異様なほどに。
白蓮は、思わず目を眇めた。じっと目をこらして、少女の背中を見おろす。
「……」
しかし、やはり同じだった。まったく同じだった。
(……)
そこには、何もない。
そこには、何もなかった。ほんの少しの揺らぎでさえも。
ほんのかすかなさざ波でさえもない。風が止み、静止した湖面のように、それはぴたりと止まっていた。
意識も何もない。それは、すなわち、無の境地。
(これは……)
白蓮は呟いた。それは、白蓮でさえ、今までに目にしたことのないものだった。
そう。静かで。どこまでも広く、どこまでも大きな。
(……宇宙……?)
これは、まさか。
(……)
悟り。
「……」
白蓮は、息を止めるようにして魅入っていた。かるく瞠目して、こいしを見ていた。
すでに完全に引き込まれるようにして、こいしの背中を見つめていた。
灸の燃える音が、じりじりと耳に届いてくる。
そのとき、こいしがかすかに微笑んだように、不意に横顔を緩ませた。
白蓮は、はっとした。戦きを持ってそれを見た。
沈黙が流れる。
「……」
はたと。
白蓮は、何かを聞いたように、灸を見た。灸は、もう黒ずんでいた。
すでに燃えつきていた。
「……」
白蓮は、ようやく我に返った。閉じていた口を開く。
「……。ああ、すみません。終わりです」
「……あ。はーい」
こいしはすっと立ち上がった。先ほどと、何一つ変わらない様子だった。
白蓮は、まじまじとその顔を見つめた。ふと口を開く。
「ねえ、あなた……」
「はい?」
こいしは首をかしげる。白蓮は、気づいて口を噤んだ。
「……いいえ。何でもありません」
やがて、夕暮れ。
「あ。それじゃあ、そろそろ帰ります。たまには家に帰らないと、うちのお姉ちゃんが寂しくてむせび泣いて死んでしまうので」
「そうですか」
こいしが言い出したので、白蓮は、見送りに出た。こいしは境内に出ると、ふと丁寧に頭を下げた。
「それでは、お姉様、今日の所はお暇を致します」
「ええ。ご丁寧にありがとう。お姉さんにも、どうぞよろしく」
「はい! 伝えときます! また来てもいいですか?」
「はい。もちろんですよ。まどうぞ、遊びに来てください」
「許しが出た! やった! それじゃまた!」
こいしは言うと、境内を駆けていった。細い背中が、境内を抜けてだんだんと見えなくなる。
長い影が、夕陽の中を伸びて、縮んでいくのが見える。白蓮は、それを見送りながら、ふと小さく息をついた。
隣に来ていた村紗が、それを怪訝な顔で見た。
「……どうかしました? 聖」
「ん? ああ、いえ」
白蓮は言った。もう一度、小さくため息をついた。首を横にふる。
「……まったく、妖怪の中にも、ああいう者がいるのね……私も、まだまだ修行が足りないわ……」
「へ?」
村紗は聞きかえした。何を言っているのかわからなかったのだろう。
白蓮は、首をふって、続けた。
「いえ……まあ、ね。なんでもないわ。ただ、私が錯覚しただけの話ですよ。彼女のあれを見たときに、、私は一瞬、それを悟りの境地に見てしまったのです。でも、本当はそうでははない。よく似てはいるのだけれどね、実はまったく違うもの。私は、それに気づけなかったのです。それどころか、あの子の様を見て、一瞬なりと、嫉妬を感じてしまったのですよ。そのために、一瞬、息まで止まってしまうほど、魅入ってしまったくらいで……浅はかなことだわ。あれも、答えの一つという意味では、正しいのかも知れないけれど、心ひかれてはいけないものなのに……」
白蓮は、どこか落ち込んだように言ってまたため息をついた。村紗は、それを見つつも、よくわからなげに頬を掻いた。
「……はあ」
「それはこの世を心のままに生きられたなら、どんなにか幸福でしょう。あるいは、それは、無上の喜びと言っても良いのです。しかし、心を捨ててまでして、それを得るとしたら、の幸福は、なんの意味もなさない。もし幸福であったとしても、そもそも、それを感じとる心というのが、どこにもないのですから。つまりそれは、無為ということでしょう」
「……はあ」
「だから、人はあの子の様子に、心を引かれてはならないのです。決して。あの子の様というのは、妖怪としての確固とした形を持っていながら、それから、全く外れている。だから許されないし、業が深いのですよ」
「……聖の言うことは、なんだか難しいですね。私にはよく分かりませんけども」
村紗は言った。白蓮は微笑んだ。
「いえ。ごめんなさい。実は全部、ただの独り言なのよ。さあ。夕食にしましょう」
白蓮は、言うと、寺の方へと歩きだした。村紗も、首をかしげつつもそれに続いた。
その夜。
地霊殿。居間。
こいしは、じっと姉を見つめていた。
「……」
姉は、居間のソファに座っている。なにかの本を読んでいるようだ。
「……」
こいしは、ソファに仰向けに寝そべり、顔を逆さまにして姉を見ている。ちょっと前から、ときおり足をぱたぱたさせながら、これを続けている。
姉は少しも気にした様子がない。まあ、もともとひと目をはばかってどうこう、という性格ではないが。
「ふーむ」
こいしは唸った。姉が、ちらりとこちらを見る。
「ふーむ」
「なに?」
「いえ。お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんよね。お姉様とかいう感じではない」
「は?」
「やっぱり厚みが足りないと思うのよね。全体的に貧しい感じ。ふくよかさ……ボリューム……何故ここまで差がついたのか……意識? 環境の違い?……」
こいしは、逆さまになったまま言った。ふむふむと顎に手を当てている。
姉は、よくわからなげに、眉をひそめた。
「……なにかしらないけど、ひょっとして馬鹿にしている?」
言ってくる。やや不機嫌そうだ。
こいしは、指をふった。
「いいえ、馬鹿になんかしていないわ。ただ、お姉ちゃんははお姉ちゃんでありお姉ちゃん以外のお姉ちゃんではないということね。いお姉様は私だけのお姉様であって、お姉ちゃんは私だけのお姉ちゃんだ。お姉ちゃんの他に私のお姉ちゃんはいないし、お姉様の他にお姉様はいないわね。むしろいたら困るし」
「……また、地上で何かしてきたんじゃないでしょうね? やめてよ、こっちに迷惑がかかるんだから」
「シテマセンヨ? なにも。だって私はいつも恋してるだけだし女はいくつもの愛を持っていてしかるべきだしただし恋はひとつだけだけど」
「ねえ、なんだか、あなた、最近ますます言葉がひどくなってきたように感じるんだけど……もう少し分かるように喋る気はないの?」
姉は窘めるように言った。しかし、こいしは構わずぽんと手を叩いた。
「いよーし! それじゃあ、今日はひさしぶりにお姉ちゃんのワンダーランドにのりこんじゃおうかな! ワンダーランドは俗に言うベッドのことで別に深い意味はないんだからね?」
「なんで丁寧に説明するのよ」
「それじゃあね。あとでお姉ちゃんのスキをついて、いやらしく潜り込むからね! 鍵かけても壊すから無駄だからね! それじゃおやすみー」
こいしは、言うと開けていた扉を閉じた。さとりはしかめ面をしていたが、もちろんそんなものは見ていない。こいしは鼻歌を歌いながら、廊下を歩いていった。
「まいごのまいごのおくうちゃん~。あなたのおうちはうにゅにゅにゅにゅ~?」
こいしが歩いていた。なにかまた、妙な歌を口ずさんでいる。
あいかわらず、気まぐれかつエレガントな足どりで、獣道を進んでいく。
「なまえ~をきいてもうにゅにゅにゅにゅ~? おうち~をきいてもうにゅにゅにゅにゅ~?」
藪の中の道には、虫か獣くらいしか見あたらない。そういう者たちは、こいしが近づいても、少しも気にしないようだった。
こいしは、気楽に歌を歌いながら、ふらふらと歩いていく。
「おりんりんりりーん。おりんりんりりーん。つーいになきだしたおくうちゃんー。やーまーのーたたりがみーは、えーその後、本当にお燐を呼んで、おくうを引き取りに来て貰ったんだとかいうのは、いや、さすがに冗談ですけどね。正解はですね……ん?」
こいしは、ふと立ち止まった。ある一点に目を止める。
こいしの視線の先には、どこかの寺の境内があった。じっと、大きめの目が、そのなかの一点を見つめている。
「……」
ことん、と、不意に瞳が揺れた。こいしは、正気に返ったように、ちょっと目をまたたいた。
「……――はっ!!」
こいしは、唐突に叫んだ。思わず、近くの繁みに飛びこむ。
「はあっ……はあっ……ああ……ふぅ」
こいしは、木にもたれかかって、苦しい息を吐いた。なにやら、急に息が荒くなっているようだ。
「はあ……はあ……」
どうにか、胸に手を添えて、息をおちつかせる。
「……」
繁みから、そうっと顔を覗かせる。さきほどの、寺の境内が目に入る。
その境内のただ中の、少し向こうのほうに、一人の娘が立っているのが見えている。こいしの視線をとらえたのは、その姿だった。
たしかに少し離れてはいたが、こいしの視力をもってすれば、その輪郭まで読み取れた。
娘、というか、その娘は確かに若いが、面立ちには妙に成熟したものを漂わせていた。女性、とあらわした方がしっくりくるようだ。
向かい側の。男物の僧服姿を着た娘と、なにやら立ち話をしている。その瞳が、ふっとこちらに向くのが見えた。
「……。はっ!」
こいしは、あわてて繁みの中へと引っ込んだ。木の裏に隠れて、へたり込む。
熱くなる頬を、両手で包む。どうも、頬は、勝手に熱を帯びているようだった。
「やだ……なにこれ……!」
どうしたことか、こいしの中に、なにか押さえきれない衝動が生まれていた。あの女性をひと目見た途端、自分の中で、何かが動くのが感じられたのだ。
こいしは、激しく動悸をつのらせた。控えめな胸の膨らみに、手を当てる。心臓が、ごとごとと鳴っていのが分かる。頬が、勝手に火照ってくる。
「……なに、なんなの、この、感じ……! はっ、まさか……」
こいしは言った。脳裏に、てぃんと閃くものがあった。
「そうか……これが……これが……」
こいしは思わず立ち上がっていた。
「これが……これが、恋っ? 恋なのっ!? 恋なのね1? ああっ……! 胸が、苦しい……!」
こいしはぎゅっと胸を押さえた。ごとごととした心臓は鳴りやまない。胸がきゅうと締めつけられるようだ。
「ああ、あれは……あの方は……そうか、白薔薇様……! 白薔薇様だわ! あれは、あれは、あの方は私の! 私の、白い薔薇! 清楚にして、熱き情熱の花! ああ! そう、なんて、なんて高貴で、気品に溢れたお顔立ち……! はあぐれいすふる……! まさにワンダフル・ロータス……! お綺麗で、濃厚で、まったりとしていて……それでいて、少しもしつこくない……! むしろなにか、老成した魅力すら感じさせる……! ああ、まるで、澄みきった池に咲く白蓮の花のようだわ……ああ、ギガンティア……!!」
こしいはうっとりと叫んだ。確信を得た瞳が、光を放っている。
「そうか!! あの方こそが、私の……私の白い薔薇! 私は、私は白い鳥だったのね! あの方を捜し求め、愛に彷徨う白い小鳥だったのね! やっと分かったわ、今!!」
こいしは叫んだ。そのときにはもう、足は駆けだしていた。
繁みを抜け、境内を抜け、一気にその女性の元へと走り寄る。愛しい姿へと。輝かしい姿へと。
駆けよって、はし、とその手を握った。女性がふり返る。
「え――?」
あっけにとられたような目が、一瞬こいしをとらえる。
「――白薔薇様ッ!!」
こいしは構わずに、叫んでいた。繊細な手を握り。熱く、激しく、囁くように。
見た目よりも大きく、そして柔らかい手だった。女性は、きょとんとしていた。
「ああ、白薔薇様……! ああお会いしとうございました……!」
「……? あなた、今、どこから……?」
「ああ……お美しい……まるで、花の蕾のような……その、少し薄く膨らんだ唇……なにか不可思議な色を帯びた、繊細で流れるような御髪……ああ、つま弾くような、匂い立つような指先、かすかに覗く、暗いうなじ……ああ、あなたはかぐや姫なのでしょうか……それとも、茨姫? 白雪姫というには、あなたの姿は、あまりに儚げで悲壮に満ちているわ……」
こいしは、うっとりと呟いた。向かいの女性は、訳も分からず、こいしを見下ろしている。
こいしは女性を見上げてため息をついた。見れば見るほど美しい。
間近で見ると、女性は、やはり女性、と評するのが、相応しいようだった。不可思議色の眉と、長い髪。こいしが今まで目にしたこともないような色だ。
全体的に、その身体は、若々しく、生命にみち溢れていて、こいしの脳裏にさえ食欲以外のものを伝えてくる。ビューティフル。まさにビューティフル。
「あの、あの、よろしければ、あなたのお名前をお聞かせ下さい……」
「はあ……ああ、はい。わたくしは、白蓮と申します。……あなたは、どちら?」
女性が聞いてくる。こいしは、少し目をふせて、答えた。
「わたくしは、古明地こいしと申します。ああ、ですが、どうそ、こいし、と呼び捨てになさってください……ああ、白蓮様、とおっしゃるのですか……なんという、美しい響きのある、お名前でしょう……まるで、まるで、御名がそのまま、あなた様の態を表すかのような……」
「はあ、ありがとう」
「おい、こら! あなた!」
横から声が割り込んだ。やばい、取り巻きだ。
見やると、白蓮の横にいた僧服姿の娘が、険しい顔で睨んでくる。
「どこから入ったのよ、まったく……ここは、無断での立ち入りは禁止ですよ。それに、軽々しく聖に手を触れて何ですか。その方は、尊い方なのよ。今すぐに離しなさい」
娘が言う。表情どおり、ずいぶんと問答無用できつい様子だ。
「まあ、ちょっと待って頂戴、一輪……こいしさんと言いましたか? 見たところ、あなたは妖怪ですね? それも、どうやら結構古い人ですね……」
白蓮が言う。こいしは畏まって答えた。
「はい。そうです。私は、さとり妖怪という種族の妖怪です。かつては地上に暮らした者ですが、今は、地底の預かった館に引っ込んで、一人の姉とともに、住まっております」
こいしが言うのを聞いて、一輪と呼ばれた娘が眉をひそめた。
「……覚りですって? 地底の妖怪の中でも、最悪の輩じゃないの……ちょっと、あなた。今すぐにその手を離しなさい。あなたのような危険な輩が、馴れ馴れしく聖に近づいてはいけません。それ以上しているようなら、捨て置きませんよ」
「一輪。いいから。少し待って頂戴」
「いいえ。姐さん。控えてください。そいつだけはいけません。さとり妖怪というやつらはね、本当に危険な連中なんです。そいつらは人の心を読んで、そこに付けいってくる恐ろしい輩です。あの物騒な地底の中でさえも、そいつらには、同じ妖怪や鬼でさえ恐ろしがって近づきたがりやしません。そういう連中なんですよ。もともとが、地上に逃げてきた理由って言うのが、あまりにもそのタチが悪いんで、徒党を組んだ人間たちに追いやられてきたような話で――」
「そうですか。それなら、私が拒むような理由は何もありませんね。はじめまして。命蓮寺へようこそ、こいしさん。歓迎しますわ」
「本当ですか? やった!」
こいしは喜んだ。しかし、一輪はしつこく食い下がった。
「姐さん! だから、ちょっと待ってください!」
一輪が言う。が、白蓮は首を横にふった。
「一輪。駄目ですよ。私は、仮にも、人妖の平等という理想を声高に語っている身なのですから。仮に、彼女がどこの誰彼で、その性情が何々だからという理由で、他と差別をはかるようなことがあったとしたら、それはいけないことなのです。分かりますね?」
白蓮は言う。一輪は強情に食い下がった。
「それはわかりますよ! ですが、実際の話は別ですよ! 封獣のやつの時にも、言ったでしょう。本当に危険な妖怪という奴には、人間は絶対に近づくべきじゃあないんですよ。相手が、こっちに対して友好の気でもわきまえていれば、まだましですが、万が一取りつかれでもしたら、そいつは言葉に言い表せないほどのひどいことになるんですよ。それはもう、人間の想像なんかとても及びがつかないほどにね。ですから――」
が、白蓮はすでに聞いていないようだった。
「こいしさん、でいいですか。よろしかったら、寄っていかれますか? お茶菓子でよければ、ありますけれど……」
「はははい! 寄ります! よりよりで寄って行かせてください、お姉様! あ、お、お姉様ってお呼びしてよろしいですか?」
「? ……ええ。まあ。どうぞ。それでは、こちらへどうぞ。ああ、一輪。すまないけれど、お茶の用意をお願いします」
「あ。ちょ。ちょっと! 姐さん!」
一輪は言いつつ、慌てて後を追ってくる。白蓮はこいしをともなって、寺の方へと入っていった。
ややあって、寺の一室。縁側に面した、客間。
部屋に通されたこいしは、白蓮に差し向かいで座っていた。こいしの前には、お茶と茶菓子が用意されている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
こいしは,
白蓮に丁重に礼をすると、そーっと菓子に手をのばした。手で掴んで食べれる類の饅頭である。それが三つも積まれている。
「人間のものですから、お口に合うかどうか分かりませんが」
「あ。大丈夫ですよ。私は人間も食べ物も美味しく食べられます。人間が一番美味しいですけどね。でも、甘いお菓子も大好きですよ! 脂っこくないし、身体が血なまぐさくならないし」
「そう。それはよかった」
白蓮は、穏やかに笑った。年経た者のような落ち着きと、独特の品のある所作である。
「やだ、ドキドキしらう……お姉様ったらマジプリティ。むしろお菓子よりもむしろお姉様を食べたいな。なんちゃって」
こいしは、ちょっと顔を赤らめて、白蓮の笑顔に魅入った。白蓮は、それを怪訝そうに、小首をかしげる風にして、見ている。
同室の外。縁側。
「……」
「……」
「……」
「……」
一輪は、ふとちらりと目を動かした。視界のはしに、村紗の姿が見える。
「……」
「やっほ」
「あんた、いつからそこにいたのよ」
「少なくとも、一輪がさっきからそこで、いやらしくのぞき見しているのは、しっかり見ていましたよ。だから別に恥ずかしがらなくてもいいわよ。うん。続けて」
「……」
一輪は黙りこんだ。その横から、被さるようにして、村紗が中をのぞきこんでくる。
「ちょっと……」
「なによ。何かと思ったら、ただのお客さんじゃないの。あれがなにか気になるんですか?」
村紗が言う。一輪は少し黙りこんだ。
やがて言う。
「……ねえ、向かいのあいつ、なんだと思う?」
「妖怪ね」
「覚りよ、覚り妖怪」
一輪が言うと、村紗はもの珍しげな顔をした。
「へえ……覚りですか? いまどき、珍しいですね。まだ地上に残っていたのかしら。なんだか、聞くところだと、地上にいる覚りの連中は、徒党を組んだ人間に虐殺されちゃったとか」
「あれは、そのあとで地底にひっこんだやつよ。古明地って名前と、あいつの話からして、あれはたぶん、地霊殿の……ああ、そういえば、あんたはあんまり知らないんだったっけ」
「まあ地底のことはあんまりね。私の魂は艦とともにある感じなので、ほとんど一緒に眠って過ごしていましたしね」
村紗は言いつつ、覚り妖怪の挙動を眺めた。あまり興味なさげに見て、それから、ちらり、と白蓮のほうを見る。
「……しかし、なにかしらね。聖も、次から次へとよくやりますよね。まあ、半分趣味も入ってるみたいなもんだから、仕方ないんでしょうけど……ほら、彼女も、一応お年寄りですからねえ。きっと話し相手が欲しいんでしょうね」
「なに失礼なこと言っているのよ……」
「いやあ、だって聖は言ってることは立派ですけども、昔からあれでけっこうね……」
「あら……一輪、白蓮は?」
ふと後ろから声がかかった。そちらを見上げると、いつのまにか、寅丸が立っていた。
一輪は答えた。
「ああ、今来客中よ」
「あ。そうなの……ねえ、どうかしたの? 二人とも、そんな」
「いや、なんだか一輪が焼き餅焼いてるみたいなんですよ」
「うん?」
「ああ?」
一輪が唸る。村紗は、しれっとした顔で目を逸らした。
その二人の横から、寅丸が障子の中をのぞきこんだ。中の様子を目にして言う。
「……ああ、また新しい子を連れてきたのね……。なんだか、変わった子ね」
「それが、なんと覚り妖怪なんだそうですよ。星さん、見たことある?」
「いいえ……覚り? 珍しいわねえ……」
寅丸が暢気に言った。障子の中では、向かいの覚り妖怪が、顔を赤らめて白蓮の顔を見ているところだ。
白蓮の話への受け答えを見ていると、どうやら、覚り妖怪は、活発な気性の者のようだ。ときどきすっとんきょうなことを言って、白蓮の首をかしげさせているが、まあ、妖怪なら、少しぶっ飛んでいてもおかしくはない。
「ふむ……なんだか元気が良いのね。覚りって言ったら、もっと暗くて陰険で、そろって性根のねじ曲がったようなのが多いと聞いていたんだけど……」
星が言う。村紗が、それに暢気に答えた。
「いろんなのがいるって事じゃないかしらねえ。噂に聞いてた、どこかの封獣とやらも、実際に見ればあんなもんでしたし。人の噂ほど当てにならない者はないですよね、まったく」
「あいつは、噂どおりのとことん性根のねじ曲がった奴だったでしょ……封印されたのも分かるわ」
横から一輪が言う。村紗は半眼になった。
「まあたそういうこと言う。一輪は本当頭固いですよね」
「うるさいな」
「そういえば、心を読めるって言うけど、あれ、本当なのかしらね?」
「あいつの胸の所に、目玉があるでしょう。あれが第三の目って言ってね。連中は、あそこで人の思考を覗くんですよ」
「ふうん。あら、でも閉じてるわね?」
「あら本当。紳士的な子なのかしら」
村紗が言う。一輪は、いぶかしげに眉をひそめた。
「普通は、閉じることなんてできないはずじゃなかったかしら……おかしいな……」
「うん? あんたたち、何やってるの? ちょっと、邪魔」
と、そこへまた、後ろから声がした。ふりむくと、いつのまにか、ぬえが後ろにきていた。
ぬえは、そのまま構わず、障子の前にいた一輪たちをまたぎ越すと、あっさりと戸を開けて中に入った。
「あ、こら」
一輪が言ったが、ぬえは聞かない。障子を閉めて入室した。
「聖ー、来たよー。遊びましょうー」
「ああ。ぬえ、いらっしゃい。悪いけれど、待っていて。今、来客中だから……」
「えー? なによ、冷たいわねえ」
ぬえは、ちょっとむくれた顔をした。脇の黒帽子をちらっと見下ろす。
「へえ~。お客さんねえ。……ふーん」
言うと、てっきりそのまま出ていくかと思われたが、ふと急に、こいしの周りを歩き始めた。目が良くない光を帯びている。
「ぬえ。駄目よ」
白蓮は軽くたしなめた。が、ぬえは聞いた様子もない。
「うーん? はいはい」
適当な返事を返す。いかにも企んだ風で、口元に、ちょっと悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
白蓮が眉をひそめた。この様子は非常に危ない。
ぬえは、見ためこそ大したことはしなさそうに見えるが、その実、とんでもないことも平気でやるところがある。見ているほうは、気が気でない。
「大丈夫ですよー。なんにもしませんからねー」
ぬえは笑って言った。言いつつも、すでにこいしの後ろに座り込んで、興味ありげにちらちらと見ている。
一方のこいしは、そんな後ろの娘が一向に気にならないのか、もむもむと口を動かしている。ぬえは、菓子を食べる妖怪を、物珍しげにじろじろと見ている。
白蓮は、やや不安げな眼差しをしながらも、様子を見ていた。
「……ん?」
やがて、ぬえが言った。ちょっと小首をかしげる。
ふと、何を思ったか、いきなりこいしの帽子を持ち上げた。
「ぬえ!」
白蓮が叱る風な顔になって言う。が、ぬえは帽子を持ち上げて、なにか考える目つきをした。
「ふーん」
ふと、不意にすとんと帽子を下ろす。こいしは一切気にした様子がない。
「……」
ぬえは、目の前の妖怪髪をいじりつつ、考えこんで、眉をひそめた。なにか、反応を見ている風でもある。やがて、目をしばたく。
「……あれ?? ……あ。あ!」
ふと言った。ぽん、と手を叩く。
「あーあ! なんだ! あんた、こいしじゃない! うわあ、ひさしぶり! ちょっと、こいし! ほら、私よ、わたし!」
後ろから抱きつかれて、こいしはやっと反応した。頭のうえにあるぬえの顔を見上げる。
「? ん? あなた誰?」
「あら。なんだ、また顔忘れたの? 本当覚えないわよね、あんた。ほらほら、尻尾尻尾」
「ほう、ふむ……これは……なかなかいやらしい……なんかすごい尻尾ですな、色といい張りといい……ん? いやらしい……形……。あれ、あなたぬえじゃない? どうしてこんなところにいるのよ?」
「やっと思いだしたか。あっはっは。ひさしぶりー。いえー」
「はっはっは。ひさしぶりー。いえー」
「いえー。はっはっは」
ぬえは言った。仲良さげに、後ろから腕を回して、こいしと手を打ちつけあっている。
白蓮は妙な成り行きに、目を瞬かせた。ふと聞く。
「あら。二人とも、友達なの?」
「ああ、うん。そう。あーいえね。まあ、友達というか、ライバルというか、そんなかな。とにかく知り合いよ、知り合い」
「そうね。わたしたちライバルというか知り合いね! なにせかつては凄絶に殺しあった仲だし」
「はあ。つまり、喧嘩友達のようなものということ?」
「まあ、そういうのかしらねー。ねえー」
「ぬえー」
ぬえが上から見下ろすのに、こいしは腕を絡めつつにっこりと笑っている。
「最初は、ぬえがいきなり因縁つけてきたのよね。なんであんた私の悪戯にびびらないわけ? それならもう死ね! とか言っててね。殺しにかかってきて。それが血で血を洗うタイマンの幕開けに発展したのよね」
「そうそう。いやーあのときのこいしのあれは痛かったー。私、思わず腕と太ももと耳がちぎれとんでたし。まったく、あんたはちょっとやりすぎなのよねー。私だって殺しにかかったのは大概だけどさ、本当は冗談で襲いかかったのにさー」
「なによ! 私だって、途中からすでに、耳と鼻と左目と指とか色々なところ
が無かったわ! あとでなんでこんな怪我してきたのって、お姉ちゃんにすごい怒られたんだからね!」
「だから、あとでおわびに人肉おごってあげたじゃない。耳も拾ってきてあげたしさ。まあ私なりのお茶目でちょっと痺れ薬とかは混じってたりしたけど」
「動けなくなったところを炉に放り込んで掛け金下ろされたときは、さすがの私もほんのちょっとどうしようかと思ったわ。ぬえったらいけない子だわ」
「いえー」
「いえー」
「はあ。仲が良いのね」
縁側。
「……」
「……なんだあ、ぬえの友達ですかぁ。じゃあ、やっぱり悪い子じゃないんじゃないですか。あれでもぬえは、根は良い子ですからね」
村紗が言った。一輪は眉をひそめた。
「あんた、今の会話聞いてたの?」
「はあ? あれくらい昔じゃ普通のことですし。最近の妖怪は、逆にどうも軟弱すぎていけませんよね。もっとこう、外から攫ってきた人間監禁して、たっぷり時間かけて責め殺してわあいとか喜んでるとかじゃなくてさあ、たまには妖怪同士で血みどろの争いとかしないと。だから変な方向にフラストレーションが溜まるのよね。歪んだ欲望っていうのは、歪んだ方向でしか晴らせなくなるものなんだし、いや文明社会のぬるま湯って怖いわ、ほんと」
「なにいきなり熱心に語ってるのよ」
「でも、なんだか、ちょっとうらやましいわ……私なんて、いまだにぬえに話しかけても結構無視されるのに……あんなに仲が良いなんて……妬ましい」
「まあ、ぬえは自分に正直なやつですからね。星サンみたいなタイプは、ちょっと相手にされづらいんじゃないですかね」
「うう……なんで私ってこう蔑ろにされるのかしら……」
寅丸はさめざめと言った。ちょっと鬱陶しい。
「あれ、そういえば、なにか用事があったんじゃないんですか?」
村紗が言う。寅丸は、気を取り直した様子で、一輪を見た。
「ああ……そうそう。ちょっと白蓮に相談したいことがあったんだけど……まあ、後でいいかしら。ああ、それより一輪。ちょっと手伝ってくれない」
「え? 私が?」
一輪は言われて、眼をぱちくりとさせた。
「そうよ。ほら、最近、急に仕事が増えてしまったでしょう。色々溜まっているのよ。私もお寺の仕事なんかするのは久しぶりだし、慣れなくて……」
寅丸が言うのを、横から村紗が茶化す。
「あー。でも、それって一輪があんまりにも手伝わないからじゃないですか? まったく日がな一日、何かというと、聖にくっついちゃってて本当見てられないわよね」
「……あんたなんか何にもしないで日がな一日ごろごろして、たまに船飛ばしてるだけじゃないの。たまには働けよ」
「船乗りは船乗るのがお仕事なんで。私は寺のことはわかりませんしね」
「とにかく一輪、来て頂戴。白蓮なら放っておいても大丈夫よ。さ。来て」
「え。ちょ。ちょっと、ちょっと、星さん待ってよ……」
一輪は、そのまま襟首を捕らえられて、引きずられていった。
ややあって、本堂。
客間を辞したこいしは、白蓮に連れられて寺の中を見て回っていた。いくらか見回ったところで、今は本堂にやってきたところだ。
「――?」
入る前に、白蓮が立ち止まって、合掌をした。こいしは、その仕草を見て、首をかしげながらも、自分も真似をした。
白蓮が頭を下げるのを見て、真似をして頭を下げる。
ふとこいしは思いついたように聞いた。
「お姉様は、インドの方なんですか?」
「いんど?」
白蓮が、怪訝な目を向けてくる。こいしは笑って白蓮を見た。
「ええ、なにかの本で読んだことあるわ。インドの人っていうのはみんな、よくこうやるんだって。あれ? うーん。でも、お姉様は洗ってないカレーの匂いしないわね。インドの人は、みんな、身体からそういう匂いがするものらしいのに……おかしいわね」
こいしは言った。小さな鼻をうごめかして、白蓮の匂いを嗅ぐ。
「はあ。鰈……」
白蓮は呟いた。が、あまり気にしないことにしたのか、微笑んできた。
「これは、合掌というんですよ。仏法の、一番基本的な姿勢ですね。そうね、お祈りの姿勢みたいなものです。こうして、手と手を合わせ、頭を垂れることによって、人は、自然と仏の教えと、また、先人を尊ぶ心を、自らに思い出させることができるのです」
「ふうん。心ですかー」
こいしはぼんやりと呟いた。白蓮が、もう一度礼をするのに合わせて、とりあえず頭を下げる。
本堂に立ち入ると、こいしは物珍しげに見回した。ここは、抹香の匂いがひときわ濃い。
天井を見上げると綺麗な装飾がしてあるが、あまりこいしの目を引かなかった。正面に、仏の像が並んでいる。
白蓮が口を開いた。
「こちらに本尊様を祀っています。普段は、仏前での読経などが主ですが、座禅などの修行も、ここで行われることはありますね」
「どきょう? ざぜん? なんですか? それ」
こいしは聞いた。白蓮は丁寧な口調で答えた。
「読経とは、ひたすら仏教のこころえを書いた経を読み、唱えることです。幾度も繰りかえして唱えることで、仏の教えを心にとどめるようにします。座禅、というのは、目を閉じて座り、己の心を見つめる行いですね。たんに座り、心穏やかにすることを指して、座禅を組む、と言います。むずかしい作法を必要としないので、仏の道に入らない方でもわりかし気軽にできる修行ですね」
「ほう……」
こいしは、さもわかったふうにうなずいた。もちろん、実はそれほどわかっていないが。
「……よろしければ、こいしさんもやってみますか?」
「え? いいんですか? 私、お姉様と二人きりで……それって大丈夫なんでしょうか? 色々と」
「? ええ、もちろんです」
「はい! それじゃあやる! やります! お願いします!」
こいしは元気よく言った。白蓮は、微笑み返して言った。
「では、そこへ。足を崩して、楽な風に座ってください。――ああ、いえ。そうではなくあぐらは分かりますか? ええ。そうです。それで、こうして……身体の正面で、手を組んで……」
白蓮は言いつつ、こいしの手を取って、座り方を教えた。白蓮に教えられる間、こいしは、ちょっと手足を緊張気味にして、言われるとおりに身体を動かしていた。
やがて、やや窮屈そうだが、こいしはあぐらをかいた姿勢を取った。ちらりと、少し慌てた風な様子で、上目づかいに白蓮を見る。
「……えっと。こうですか?」
こいしは、なぜかやや顔をあからめたまま聞いた。白蓮は頷いた。
「ええ。そうです。――慣れるまでは、ちょっと窮屈に感じるかもしれないけど、少しの間、我慢してくださいね。それでは、そのまま目を閉じて。気持ちを楽にしてください。己の中を見つめるようにして、心を無にするのです」
「むに?」
「ええ。無に」
「はあ。むに……」
「あまり意識しなくても良いですよ。最初は、肩の力を抜いて、気を落ち着けるよう心がけてください」
「ふーむ……」
こいしは唸った。そのまま、ちょっと考えるような目をしてから、目を閉じる。
「……」
やがて、こいしは完全に静かになった。呼吸が鼻孔を出入りする音が聞こえてくるほどに、静かになる。
「……」
白蓮は、そっと立って、灸に火を指した。灸が、静かに燃えはじめる。
それから白蓮は、棒を手にとって立ち上がった。小さな衣擦れの音を立てて歩き、こいしの後ろへと立つ。
じっと、その背中を見下ろして佇む。静寂。
「……」
沈黙が流れる。
灸の燃えていく音さえも、かすかに聞こえてくるほど、部屋は静かだった。
「……」
やがて、白蓮は眉をひそめた。こいしの背中を見下ろす。
「……」
白蓮は、こいしの背中を見た。
目の前の妖怪少女の背中は、静かだった。異様なほどに。
白蓮は、思わず目を眇めた。じっと目をこらして、少女の背中を見おろす。
「……」
しかし、やはり同じだった。まったく同じだった。
(……)
そこには、何もない。
そこには、何もなかった。ほんの少しの揺らぎでさえも。
ほんのかすかなさざ波でさえもない。風が止み、静止した湖面のように、それはぴたりと止まっていた。
意識も何もない。それは、すなわち、無の境地。
(これは……)
白蓮は呟いた。それは、白蓮でさえ、今までに目にしたことのないものだった。
そう。静かで。どこまでも広く、どこまでも大きな。
(……宇宙……?)
これは、まさか。
(……)
悟り。
「……」
白蓮は、息を止めるようにして魅入っていた。かるく瞠目して、こいしを見ていた。
すでに完全に引き込まれるようにして、こいしの背中を見つめていた。
灸の燃える音が、じりじりと耳に届いてくる。
そのとき、こいしがかすかに微笑んだように、不意に横顔を緩ませた。
白蓮は、はっとした。戦きを持ってそれを見た。
沈黙が流れる。
「……」
はたと。
白蓮は、何かを聞いたように、灸を見た。灸は、もう黒ずんでいた。
すでに燃えつきていた。
「……」
白蓮は、ようやく我に返った。閉じていた口を開く。
「……。ああ、すみません。終わりです」
「……あ。はーい」
こいしはすっと立ち上がった。先ほどと、何一つ変わらない様子だった。
白蓮は、まじまじとその顔を見つめた。ふと口を開く。
「ねえ、あなた……」
「はい?」
こいしは首をかしげる。白蓮は、気づいて口を噤んだ。
「……いいえ。何でもありません」
やがて、夕暮れ。
「あ。それじゃあ、そろそろ帰ります。たまには家に帰らないと、うちのお姉ちゃんが寂しくてむせび泣いて死んでしまうので」
「そうですか」
こいしが言い出したので、白蓮は、見送りに出た。こいしは境内に出ると、ふと丁寧に頭を下げた。
「それでは、お姉様、今日の所はお暇を致します」
「ええ。ご丁寧にありがとう。お姉さんにも、どうぞよろしく」
「はい! 伝えときます! また来てもいいですか?」
「はい。もちろんですよ。まどうぞ、遊びに来てください」
「許しが出た! やった! それじゃまた!」
こいしは言うと、境内を駆けていった。細い背中が、境内を抜けてだんだんと見えなくなる。
長い影が、夕陽の中を伸びて、縮んでいくのが見える。白蓮は、それを見送りながら、ふと小さく息をついた。
隣に来ていた村紗が、それを怪訝な顔で見た。
「……どうかしました? 聖」
「ん? ああ、いえ」
白蓮は言った。もう一度、小さくため息をついた。首を横にふる。
「……まったく、妖怪の中にも、ああいう者がいるのね……私も、まだまだ修行が足りないわ……」
「へ?」
村紗は聞きかえした。何を言っているのかわからなかったのだろう。
白蓮は、首をふって、続けた。
「いえ……まあ、ね。なんでもないわ。ただ、私が錯覚しただけの話ですよ。彼女のあれを見たときに、、私は一瞬、それを悟りの境地に見てしまったのです。でも、本当はそうでははない。よく似てはいるのだけれどね、実はまったく違うもの。私は、それに気づけなかったのです。それどころか、あの子の様を見て、一瞬なりと、嫉妬を感じてしまったのですよ。そのために、一瞬、息まで止まってしまうほど、魅入ってしまったくらいで……浅はかなことだわ。あれも、答えの一つという意味では、正しいのかも知れないけれど、心ひかれてはいけないものなのに……」
白蓮は、どこか落ち込んだように言ってまたため息をついた。村紗は、それを見つつも、よくわからなげに頬を掻いた。
「……はあ」
「それはこの世を心のままに生きられたなら、どんなにか幸福でしょう。あるいは、それは、無上の喜びと言っても良いのです。しかし、心を捨ててまでして、それを得るとしたら、の幸福は、なんの意味もなさない。もし幸福であったとしても、そもそも、それを感じとる心というのが、どこにもないのですから。つまりそれは、無為ということでしょう」
「……はあ」
「だから、人はあの子の様子に、心を引かれてはならないのです。決して。あの子の様というのは、妖怪としての確固とした形を持っていながら、それから、全く外れている。だから許されないし、業が深いのですよ」
「……聖の言うことは、なんだか難しいですね。私にはよく分かりませんけども」
村紗は言った。白蓮は微笑んだ。
「いえ。ごめんなさい。実は全部、ただの独り言なのよ。さあ。夕食にしましょう」
白蓮は、言うと、寺の方へと歩きだした。村紗も、首をかしげつつもそれに続いた。
その夜。
地霊殿。居間。
こいしは、じっと姉を見つめていた。
「……」
姉は、居間のソファに座っている。なにかの本を読んでいるようだ。
「……」
こいしは、ソファに仰向けに寝そべり、顔を逆さまにして姉を見ている。ちょっと前から、ときおり足をぱたぱたさせながら、これを続けている。
姉は少しも気にした様子がない。まあ、もともとひと目をはばかってどうこう、という性格ではないが。
「ふーむ」
こいしは唸った。姉が、ちらりとこちらを見る。
「ふーむ」
「なに?」
「いえ。お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんよね。お姉様とかいう感じではない」
「は?」
「やっぱり厚みが足りないと思うのよね。全体的に貧しい感じ。ふくよかさ……ボリューム……何故ここまで差がついたのか……意識? 環境の違い?……」
こいしは、逆さまになったまま言った。ふむふむと顎に手を当てている。
姉は、よくわからなげに、眉をひそめた。
「……なにかしらないけど、ひょっとして馬鹿にしている?」
言ってくる。やや不機嫌そうだ。
こいしは、指をふった。
「いいえ、馬鹿になんかしていないわ。ただ、お姉ちゃんははお姉ちゃんでありお姉ちゃん以外のお姉ちゃんではないということね。いお姉様は私だけのお姉様であって、お姉ちゃんは私だけのお姉ちゃんだ。お姉ちゃんの他に私のお姉ちゃんはいないし、お姉様の他にお姉様はいないわね。むしろいたら困るし」
「……また、地上で何かしてきたんじゃないでしょうね? やめてよ、こっちに迷惑がかかるんだから」
「シテマセンヨ? なにも。だって私はいつも恋してるだけだし女はいくつもの愛を持っていてしかるべきだしただし恋はひとつだけだけど」
「ねえ、なんだか、あなた、最近ますます言葉がひどくなってきたように感じるんだけど……もう少し分かるように喋る気はないの?」
姉は窘めるように言った。しかし、こいしは構わずぽんと手を叩いた。
「いよーし! それじゃあ、今日はひさしぶりにお姉ちゃんのワンダーランドにのりこんじゃおうかな! ワンダーランドは俗に言うベッドのことで別に深い意味はないんだからね?」
「なんで丁寧に説明するのよ」
「それじゃあね。あとでお姉ちゃんのスキをついて、いやらしく潜り込むからね! 鍵かけても壊すから無駄だからね! それじゃおやすみー」
こいしは、言うと開けていた扉を閉じた。さとりはしかめ面をしていたが、もちろんそんなものは見ていない。こいしは鼻歌を歌いながら、廊下を歩いていった。
餅を焼く一輪もマジプリティ
こいしちゃんとぬえちゃんの壮絶な友情が面白いです
毎度無言坂さんの書く世界はたまらない
誤字報告
>恋なのね1? →恋なのね!?
>彼女のあれを見たときに、、 →読点の重複
>いお姉様は私だけのお姉様であって →お姉様は私だけのお姉様であって
かな
こいしたんまじぷりてぃ
こいしちゃんマジキューティー。
こいし、白蓮、白薔薇様【ロサ・ギガンティア】だと……!?
……あなたとは良い酒が交わせそうだ。
取りあえずスールになる後日談をkwsk
てっきり悟り妖怪として話を落すのかと思いきやこいしはこいしであり無為シキという話だった。
こいしほど綺麗な生き物は居ない。思惟は恣意でありそれが無いというのは赤ん坊以上に純粋ということ。
こいしは精巧な自動人形なのでしょう。
そんな人形遊びの背徳感を彷彿とさせる危うさを孕んだ姿こそが、きっとカワイイのでしょう。
ああマジプリティだよ……
気づいたら読み終わっていました。
白蓮さん、私はもう手遅れです。
マジプリティーだもの。
紅薔薇編と黄薔薇編はまだで……黄色担当がいないなぁ。
まったりとさせてもらいました。座禅ぷりてい
かなり重い話ですよね
その落差がたまりません
彼女が座禅をすればそれは限りなく無なんだろうけど、悟りを開くこととは根本的に違うんだろうね
すなわち、プリティ。
さとりんのワンダーランドにのりこめー^^
こいしちゃんと白蓮さんもさることながら、その他の星面子も良い感じ。
どうしても…認めたくなくて…ううっ…
>やだ、ドキドキしらう……
危険なネタで同時攻撃(ダブルアタック)するんじゃぬえ!!
今回の登場人物の魅力といったらもう。
面白いけど、どうやって言い表せばいいのやら……
とりあえず、こいしちゃんマジプリティ。
そのいやらしい形の尻尾でなn(うにゅにゅにゅにゅ~
面白い作品でした。
まぁこいしちゃんの可愛さはまさに鬼の力と言ったところかな。