神を賽銭箱のおまけ扱いしたり。永遠を生きる咎を負ったり。人間と使命のために、転生を繰り返したり。神社ごと移住して世のパワーバランスを乱したり。無知ゆえに第二の太陽となったり。復活した途端、自己の理想に突き進んだり。
幻想郷の住民は、皆罪を抱えている。人も妖も。没して私の世話になる者も、ならない者も。彼らの生と死を思って、私は定期的に説教をして回っている。黒い悪行を悟らせ、白い善行を示している。より善い死後の世界へ人々を導くことが、私の救いであり喜びだ。口うるさいと言われても、暴力やスペルカードで反発されてもいい。私は率先して、苦い標になる。
私が一番悔悟の棒を振り下ろしたい相手は、なかなか姿を現さない。私の気配を察知して、境目に逃亡する。閻魔の瞳にも発見の難しい、狭間の屋敷に潜んでいる。数百年間続行中の鬼ごっこだ。私が常に追う側、彼女が常に逃げる側。彼女が亡くなるか、私がヤマザナドゥを辞めるか、幻想郷が滅びるまで続くだろう。
しかし、休戦する日もある。彼女は時折、気まぐれに私と会いたがる。狐の式神を使役して、面会の希望日時や場所を伝えてくる。小町が案内状を持ってくることもある。初めのうちは警戒していたが、危険な事態にはならなかった。棒や鏡や戦闘抜きで、二人で話した。堅苦しいことも、そうではないことも。次第に、彼女との約束の日付を待ち望むようになっていった。説諭と、純粋な会話の機会として。
話をしたくて、私は今日も決められた場へ向かう。白の長袖ボウタイブラウスと、紺無地の三段の膝丈ティアードスカートに着替えて。後方にリボン飾りのついた、黒のパンプスを履いて。
私は裁判官、彼女は罪人。私は彼岸、彼女は此岸。私は秩序、彼女は混沌。私と彼女は大いに違い、ほんの少しだけ、深い部分で似通っていた。
「いらっしゃいませ、一名様で」
「すみません、後でもう一人来ます」
「かしこまりました。こちらのお好きなお席へどうぞ」
煙草を吸うか否か、問われることなく左手の禁煙席へ通された。外見年齢的には、私に煙と灰は合わないらしい。
人の入りはまばら、空いていたので窓際のソファ席に腰を下ろした。
外は夜闇に覆われていた。日没から大分過ぎている。一部は幻想郷よりも目映くて、瞬きをしても円や線の残像が消えなかった。手提げ鞄につけた八角形のキーホルダー時計で、時刻を確認した。午後九時五分。こんな時間に眩しくしているのは、夜間営業の商店や飲食店だろう。ここと同じだ。人工的な照明で、帰宅民や放浪者を引き寄せる。一定間隔で設置されている、街灯の科学の光も激しい。自動車のライトもきつい。この地の人間はもう、日暮れも妖も恐れない。月影の仄明るさを、心強く思うこともない。
年かさの男性店員が、フォークやスプーンの箱と紙おしぼりの袋を運んできた。ご注文が決まりましたら、卓上のボタンでお知らせくださいとのこと。前に行った店と同様のシステムだ。私の髪や瞳の色には、驚きを見せない。黒と捉えるように、簡単な術をかけてある。混乱回避の策だ。客の外見など、いちいち気にしていないのかもしれないけれど。
六月のお勧め品が、壁の額ポスターで紹介されていた。ソフトクリームで梅雨の湿った空気に対抗するらしい。まだ入梅前なのに。せっかちだ。
表面を透明なシートで加工された、折り畳みのメニュー表をめくった。ハンバーグ、スパゲッティ、ドリア、ピザ。イタリア寄りの料理の写真が並んでいた。幻想郷にはない、海の幸の品が豊富に用意されている。最後尾は、デザートと子供向けメニュー。彼女は直に来る。主となる食事のタイミングは揃えたい。無難なグリーンサラダとドリンクバーだけ先に頼んで、飲み物のコーナーに歩いていった。
現在地、博麗大結界の外。市街地近郊のファミリーレストラン。
私と彼女は、いつも夜に外の世界で対面している。日中は審判で忙しいでしょう、私は昼寝で忙しいわ。私は貴方の土地を訪れられないし、貴方を住居に招きたくもない。中有の道や里の店では迷惑になる。貴方は閻魔様、いるだけで周囲の妖怪を畏縮させてしまう。担当地では羽目も外せない。だから外にしましょう。私は自由にここを出られる。幻想郷に属さない神様の貴方は、外界でも大丈夫。新地獄には転移門もあるでしょう。そのように勧められて、承諾した。任地を離れても、泥酔や大騒ぎはしないけれど。他の妖への害は、避けたかった。
かつては、外側の博麗神社や寂れた仏閣、無人の山や海辺を会場にしていた。闇市を見学した晩もある。最近は、夜遅くまで開いている施設が増えた。様々なところに連れて行かれた。若者の街の華美な服飾店(着せ替え人形にされた)、百貨店、週末の美術館、猫のいる喫茶店(式の式に触ればいいだろうに)、夢と魔法の遊園地(あの大型船は三途の河に欲しい)、歌劇場、個室の和風居酒屋、ファーストフード店、天文台、教育機関、ここのようなファミリーレストラン(ファミリーと銘打っているのに家族連れが少ないのが不思議だ)。彼女のおかげで、私の視野は幾らか広くなった。彼女の裁きを甘くするつもりは、全くないけれど。
一杯目は冷たいものにしようか。細長いコップに氷を満杯にして、飲料機械の表示と睨めっこした。どれも飲めそうで失敗がなさそうだ。当たり外れ、白黒がないと、私は迷う性質のようだ。悩みに悩んで、アイスココアと抹茶ミルクの二択になった。裁判という頭脳労働の後には、糖分補給が欠かせない。ココアのどっしり感も、抹茶の和の香りも捨て難く、
「えい」
「あ」
白手袋の指が、第三の選択のスイッチを押していた。柚子かりんジュースが降ってきた。
「勝手にやらないでください、私は真剣に決着をつけようと」
「ビタミンたっぷりで喉に優しいそうよ? 貴方は声の商売じゃない。私って親切ね」
是非曲直庁の字引を進呈してやりたい。親切と邪魔を勘違いしている。キッチンからさっきの年配給仕がお盆を片手に登場し、
「いらっしゃいませ、何名様で」
「二名様になりました。この子を待たせていましたの」
八雲紫は、私の首に両腕をかけた。馴染み深い、名と同色のあでやかなドレスに身を包んで。金髪やひだ帽子、要所要所の紅いリボンも幻想郷内と一緒だった。紫眼を隠す術など、使っていない。声は果汁入りなのか怪しい、毒々しいぶどうスカッシュのよう。胡散臭く絡みついた。
一見、どこも私と似ていない。
テーブルを挟んで正面に着席した紫の第一声は、
「相変わらず真面目で泣けてくるわ」
私のよそ行き服も、グリーンサラダのオーダーもきっちりしていて物足りないそうだ。水菜やトマトを取り分けながら、彼女はあれこれぼやいた。私も言い返した。
「法服じゃないのはいいとして、お決まりの白、紺、黒。色付きの夢が見られなくなるわよ。私の買ってあげたベビーピンクの変則フリルワンピースは箪笥の眠り姫?」
「元々私の夢はモノクロです。あれを着て屋外に出る勇気はないですし一生欲しくありません。貴方じゃあるまいし。小町がショックを受けます。今夜はこれでも冒険しました」
「可愛い上司は部下の活力剤よ。眼福。冒険を気取るならブラウスのタイを解いて、ボタンの上三つ外してご覧なさい。上目遣いに『小町、私の舟を漕いで』。やればできるわ」
「式神任せの貴方に言われたくありません。大体何ですかその提案と物真似。私のことを何だと思って」
「私より年下の癖にお姉さんぶる閻魔様の映姫ちゃん。んー、小海老マヨネーズのサラダが食べたかった。七種類くらいあったでしょう、どうしてこれなのかしら。自宅で入手できないものを選びなさい、外食なのだから」
「貴方が年長者らしく遅刻癖を直せばいいのです。舌に合わなかったら大変でしょう、残しては申し訳ないですし」
「ゆとりっていい言葉だと思うわ」
角度のずれた文句が返ってくる。毎度のことだ。突っ込みにも慣れてきた。呆れるが、決してつまらなくはない。日頃、口のない幽霊を一方的に叱っているからだろうか。返事があると嬉しい。
「どうぞ、存分に刺激的な品を吟味なさい。食べられる範囲で」
「そうさせていただきますわ」
紫は巨大なメニュー表を広げた。色ピーマンをかじりつつ。トッピングのさいの目切りトーストパンが転がった。
私もお酢の利いたドレッシングにレタスをくぐらせて、口を動かしていた。紫の悪戯の柚子かりんジュースは、さっぱりしていて意外と飲みやすかった。私の視界にないものを、彼女は見ている。
裏面のデザート欄が私の側にあった。アイスやティラミスやレアチーズケーキ。本格的な夕食の始まる前の今は、かなり惹かれるものがある。特に白一色のパフェは素敵だ。いざ食後となると、満腹で辛いのだけれど。
「ライスコロッケと五色ソーセージ、どちらがお好み?」
前菜のページを向けられた。トマトソースのかかった真ん丸のコロッケを指すと、
「じゃあソーセージで」
「野菜や穀物も摂りなさい」
「摂ってるじゃない。妖怪の主食は肉ですわ」
メインも肉類にするそうだ。量のありそうな一皿を人差し指で叩いていた。不摂生。私は寄越された表から、健康そうなものを見繕った。
店員を呼ぶボタンの、電子音が響く。駆けつけたスタッフに、紫は料理名を連ねて告げた。生ハム、五色のバラエティソーセージ、魚介のカルパッチョ、ハンバーグとチキンとビーフのミックスグリル。卓に載り切るか不安になった。私は茸と緑のクリームグラタンに、ほうれん草のソテー。ドリンクバーを一人分付け足して、紫が帰した。
「少食ね」
「貴方の注文数を考慮してのことです。調子に乗ってまた大量に」
「のんびり楽しめばいいのよ」
彼女は紫の裾を蝶の羽のように舞わせ、コップをメロンソーダで満たして戻ってきた。本物の果実の面影のない、食用色素の色をしていた。ストローは二本。予備かと思いきや押しつけられ、
「布団はひとつ枕はふたつ、グラスはひとつストローはふたつ。これ死語でカップル飲みって言って」
「やりませんよ」
「藍は乗ってくれるのに。映姫は私のどこが不満なのかしら」
「悪いことばかりするところです」
口付けのような舌打ちの音をさせて、紫は角氷を混ぜた。炭酸の泡が上がった。幼いものを愛でるように、笑っていた。彼女は閻魔の私に不可避の判決を言い渡されても、微笑で応じるのだろう。いつか。
「私の罪はそこまで重くて?」
「限りなく黒に近いです。誇張はしていませんよ」
ピザ生地の小パンを添えた塩漬け肉や、洋風の海鮮のお刺身が運ばれてきた。紫所望の、マヨネーズのかかった海老も盛り込まれている。
生ハムでパンを巻いて、紫は私の皿に載せた。この程度でなくなる罪悪ではない。しょっぱくて口が渇いた。サラダの大皿を空にした。ジュースも空けて、席を立った。
二杯目は、素性の知れないアイスティーにした。紫用に烏龍茶も注いだ。
テーブルで、ほうれん草のバター炒めとソーセージ五種が待っていた。ファミリーレストランは配膳が速過ぎる。紅魔館よりも大衆的で、地霊殿よりも手間をかけていない。
紫は未使用のナイフとフォークで、肉を小さく切り分けた。味をランダムにばらけさせた。私は青野菜の山を作ってやった。
「食べられるけれど食べたくないものってあるわよね、気分的に」
「養生も善行です。少しでも善いことをしないと、酷い未来になりますよ」
赤っぽいソーセージと葉菜を刺して、紫は唇を尖らせた。渋々口に入れて、唐辛子味と一言。カルパッチョの小海老を根こそぎさらっていった。私のは普通の豚肉味だった。他三本は黒胡椒味、にんにく味、レバー味だそうだ。順番に彼女が味わっていた。
「清く生を全うする術も、解っているでしょうに。その能力で、幻想郷全体を度々揺るがして」
「はあい。有難いお話ありがとうございます。幻と実体の境界の創造、博麗大結界の生成、冥界と顕界の境の操作。私の行為はひとつひとつが、地獄の刑罰に相当するのでしょう。力ある者は責任を持てと、貴方はかんかん」
幾度も諭してきたことだ。紫が悪事を為した直後から、重ねて。悔悟の棒や苦言を突きつけた。大昔の私は、彼女の気侭な振る舞いにとにかく怒っていた。何としても彼女を更生させねばと、必死になっていた。でも、追い詰められた彼女は悠然と笑うのだ。今も、透紫の夏扇で口元を隠して。
「やらなくてもいいことを、進んでやる。悪の自覚はあるわ。けれども、私が力を尽くさなければ、生きられない子達がいた。放っておけなかったのよ。私一人の愚行で誰かが助かる。幻想郷も保たれる。その結果が奈落なら、安い犯罪じゃない?」
最初にこう聞かされたときは、何て言い種かといきり立った。しかし立腹しながら、奇妙な共感も覚えていた。種族や手段こそ違えど、私と彼女は等しいのではないかと。私の説教も、閻魔王様に強いられてやっていることではない。自発的な活動だ。道を外れる者を、放置できずに始めた。私の言で誰かが正され、穏やかに旅立てる。それが私の与えられる救済だった。愚痴や傷は厭わなかった。彼女の想いと、差があるだろうか。
大罪を犯す紫の心を、私は理解してしまった。二回三回と衝突する毎に、強く。
もちろん、紫が幻想郷にした行いは許されることではない。滅びるものは、自然に滅びるのが定めだ。無理な延命は後々歪みになるかもしれない。彼女はそれを承知で、境界線を引いた。大結界を完成させ、港町の坂で彼女は私に抱きついた。ああよかった。何故かしらね、これでよかったって叫べるの。貴方はすこぶるお怒りでしょうし、きっとこれから妖怪間での乱戦になる。それでも浮き浮きしているの。映姫、貴方がヤマザナドゥを辞するのは当分先になりそうよ。私は苛立っていた。息苦しくて。立場上、温かい声をかけてやれなくて。閻魔として、公明正大に彼女を救いたいと考えた。幻想郷と、そこで育まれる命を愛し過ぎる彼女を。
「ミックスグリルとグラタンです。鉄板が熱いのでご注意ください」
食卓に二皿追加された。私には白い食器、紫には黒い鉄の器。木の土台はお揃いだった。会計の伝票がプラスチックの筒にはめられた。
熱々のクリームを吹いて冷ます私に、フォークが突き出された。玉ねぎソースのかかったステーキを、
「映姫、あーん」
「そういうことは式神とやりなさい」
「堅いわねぇ。貴方には色気が足りないわ、ひとを離さないための」
閻魔が誘惑の技を学んで、どうすると言うのだろう。皿に埋もれたアスパラガスやしめじを掬った。健全な味がした。オリーブオイルの塗られた生たこや、ペッパーソーセージも摘んだ。ほうれん草のソテーはほとんど私の胃に収まった。紫は器用なナイフ捌きで、牛肉も豚肉も鶏肉も受け入れていた。
緑白赤、国旗と店名のロゴ入りのプレートが数枚綺麗になった。一箇所にまとめた。四人用のテーブルに、隙間ができていった。アイスティーは氷が融けて薄まっていた。水にも紅茶にも見える。
「幻と実体の境や、博麗大結界を生んだ動機はわかりました。冥界とこの世との間を曖昧にしたのには、どのような訳があるのですか」
「あぁ、あれ」
付け合わせのブロッコリーに肉汁をまぶして、紫は一口でぱくりとやった。唸って咀嚼して、烏龍茶を飲み干した。
「結界で幻想郷を封鎖した、私の罪滅ぼしかしらね」
私はあの子達を生かす代わりに、大地を狭めてしまった。ストローの先で、紫はカップの底に円を描いた。
「幻想郷の若い人妖は、海を知らない。富士の峰に登ったことも、虹の根元に辿り着いたこともない。私や貴方と違って、外のデパートや展望塔に出かけられない。まあ、外の世界のようになられても困るのだけれど」
子を想う母や、妹を想う姉のような眼差しだった。睫毛が揺れた。
「私の力で、少しでも内側を広くしたいと思ったの。新たな行き先と、出会いと縁を贈って」
ゆかり。繋がりは、無限の広大さを生む。
紫は店の中に視線をやった。親密そうな男女。若者の集団。一心不乱に外の式神・コンピュータの文字盤を打つスーツの青年。私達。各々が、各々の領域に籠もっていた。私達の幻想郷の話題に、興味を持つ人間はいなかった。
「彼らは他所の卓の客の名も、事情も解さない。店を出れば、皆忘れるでしょうね。私は幻想郷の子に、そうなって欲しくないの。依存とは別物よ。世界は開かれているって、心のどこかで覚えていて欲しい。ひとと関われる環境をつくりたい。幽々子達の冥界は、その第一歩だったの」
二歩目以降は要らなかったけれどもね。紫はフォークを咥えて苦笑した。紅魔館、冥界と白玉楼、永遠亭、三途一帯、妖怪の山と守矢神社、月の都、天界、地底と旧都と地霊殿、命蓮寺。博麗の巫女達の開拓区域を、挙げていった。
「スペルカードルールと、異変の普及で幻想郷は面白くなった。霊夢や魔理沙が、自力で未知の絆を紡いでいった。私の手助けはごく僅か。あの子達は、きっとどこにでも行けるわ。貴方の部下の勤めも、楽になるかもしれないわね。知人の多い霊が増えれば」
「そうなるといいのですが」
誰かのために悪さをする。紫は、
「貴方は本当に、罪深い。贖罪で、また罪を犯して。いつから、今からでも遅くはない。精一杯、善行を積みなさい」
「適当に頑張りますわ。飲み物のお代わりはいかが? アセロラジュースのコーラとオレンジジュース割りにします?」
「混ぜないでください。温かいものをお願いします」
善い方向に進む気が、あるのだかないのだか。紫は紅いヒール靴をカーペットに埋めていった。白髪混じりの給仕が、食器を下げに来た。私のグラタン皿ひとつが残された。キッチンへの途中、ドリンクコーナーで紫と何やらやり取りをしていた。
お腹が苦しかった。明日は節制しなければ。最後の一匙を食べ終えて、手を合わせた。
お湯のカップとソーサー、カモミールのティーバッグの包装が置かれた。紫は薄いエスプレッソにしたそうだ。コーヒーの渋い匂いが漂ってきた。平たいお茶の袋を、私は湯気に沈めた。胸の落ち着く、林檎のような香りがした。
「デザートの追加注文は?」
「結構です。入っても数口でしょう」
伝票を取ろうとしたら、あと一品頼んだからと止められた。店員との話はそれか。紫の胃はどうなっているのだろう。中に隙間を飼っているのだろうか。
夏の衣服や傘選び、生活の近況、幻想郷の出来事等のお喋りをした。まるで友人といるかのようだった。向こう岸の、数少ない友達。追いかけっこの休憩中というだけなのに。紫にも、いずれ小町の舟に乗る日がやってくる。
「そのスカートは上げてベルトで締めるべきね。映姫は脚を見せなさい、船頭さんのやる気を引き出せるわ」
「むしろ丈を伸ばしたいくらいなのですが。紫こそ少々上げてみては。暑くなりますよ」
「見えない方が欲をそそることもあるのよ」
「誰の。もっと慎ましやかな言動を心掛けなさい」
「お待たせしました、ホワイトチョコバナナパフェです」
紫のデザートが議論を中断させた。あ、と小声が漏れた。彼女のメニュー決めの最中に惹かれた、真っ白いパフェだった。彼女は私の反応を聞き逃さなかった。やたらと私の顔を眺めてにやけ、
「映姫ちゃん、あーんしましょうか」
バナナとソフトクリームとチョコソースを柄の長いスプーンに盛って、私の唇を突いた。からかわれている。そんなに私の悔しがる様は痛快なのだろうか。むきになって抗議するのも子供っぽい。一瞬の恥、一思いに食べてやった。いい子いい子と頭を撫でられた。ホワイトチョコレートのソースが、牛乳風味で舌を幸せにしてくれた。一杯パフェを完食したような満足感があった。味見で十分だった。
「もういいの?」
「紫のものでしょう。白いものを食べて、内から白くなりなさい」
「ココアも黒チョコも白チョコも姉妹よ。使う部分で色が変わるの」
「なら一層貴方のものにするべきです。黒も努力で白になります。裁きはずっと後です」
ひとには寿命がある。彼岸の民は、生者の長生きを望んではいけない。ただ、四季映姫個人としては、紫に遅く死んで欲しかった。ありったけの善行をこなさせてから。
閻魔の私が、彼女に授けたい救いは単純。普段通り。地獄行きを免れさせて、速やかに冥界に送ることだった。そのために、彼女を追いかける。現在以上の悪行を阻止する。数十年、数百年先、幽霊の彼女と法廷で再会して。私の裁判の基準と照らし合わせて、公明正大に冥界への判決を下せたらと願う。清々しく、凛と見送れるだろう。
結審後の彼女が、どうするのかはわからない。幽々子の傍にいるか、薄れた境を越えてこの世を訪ねるか。できることなら、早く転生して欲しい。記憶を失って、肉体を得て、再び幻想郷に。自動車も街灯もファーストフードの店も、ファミリーレストランもない狭い世界。誰かが愛して、守り抜いた四季と縁の園。生まれ変わった彼女がそこに立って、
「んー、生きててよかったぁ」
今のような笑顔を、見せてくれたら。私は八雲紫の生涯を、誇りに思えるはずだ。
単四電池を買いたいと言う紫と、コンビニエンスストアに寄った。電池以外に、マニキュアやストッキングやお菓子の物色もしていた。緑色の籠に、戦国武将の入浴剤や夕陽と樹木柄のペットボトル飲料を放り込んだ。不味かったら式神か霊夢に渡すそうだ。漫画雑誌やファッション誌の立ち読みは止めさせた。少女漫画の描写について際どく話し出した。レジに押して行った。
お土産に、アイスの大福や抹茶ミルクの粉末のスティックを貰った。小町が喜びそうだ。
「じゃあね、映姫。また今度」
「ええ。さようなら、紫」
遅い夜灯の下で別れた。
次は幻想郷の中で。休戦はお終い。私は人妖のために、過ちを裁く。私に似た彼女を、捕まえてみせる。逃がさない。
皆の歩む先が、純白の未来であるように。祈って、私は彼の岸に帰還した。
幻想郷の住民は、皆罪を抱えている。人も妖も。没して私の世話になる者も、ならない者も。彼らの生と死を思って、私は定期的に説教をして回っている。黒い悪行を悟らせ、白い善行を示している。より善い死後の世界へ人々を導くことが、私の救いであり喜びだ。口うるさいと言われても、暴力やスペルカードで反発されてもいい。私は率先して、苦い標になる。
私が一番悔悟の棒を振り下ろしたい相手は、なかなか姿を現さない。私の気配を察知して、境目に逃亡する。閻魔の瞳にも発見の難しい、狭間の屋敷に潜んでいる。数百年間続行中の鬼ごっこだ。私が常に追う側、彼女が常に逃げる側。彼女が亡くなるか、私がヤマザナドゥを辞めるか、幻想郷が滅びるまで続くだろう。
しかし、休戦する日もある。彼女は時折、気まぐれに私と会いたがる。狐の式神を使役して、面会の希望日時や場所を伝えてくる。小町が案内状を持ってくることもある。初めのうちは警戒していたが、危険な事態にはならなかった。棒や鏡や戦闘抜きで、二人で話した。堅苦しいことも、そうではないことも。次第に、彼女との約束の日付を待ち望むようになっていった。説諭と、純粋な会話の機会として。
話をしたくて、私は今日も決められた場へ向かう。白の長袖ボウタイブラウスと、紺無地の三段の膝丈ティアードスカートに着替えて。後方にリボン飾りのついた、黒のパンプスを履いて。
私は裁判官、彼女は罪人。私は彼岸、彼女は此岸。私は秩序、彼女は混沌。私と彼女は大いに違い、ほんの少しだけ、深い部分で似通っていた。
「いらっしゃいませ、一名様で」
「すみません、後でもう一人来ます」
「かしこまりました。こちらのお好きなお席へどうぞ」
煙草を吸うか否か、問われることなく左手の禁煙席へ通された。外見年齢的には、私に煙と灰は合わないらしい。
人の入りはまばら、空いていたので窓際のソファ席に腰を下ろした。
外は夜闇に覆われていた。日没から大分過ぎている。一部は幻想郷よりも目映くて、瞬きをしても円や線の残像が消えなかった。手提げ鞄につけた八角形のキーホルダー時計で、時刻を確認した。午後九時五分。こんな時間に眩しくしているのは、夜間営業の商店や飲食店だろう。ここと同じだ。人工的な照明で、帰宅民や放浪者を引き寄せる。一定間隔で設置されている、街灯の科学の光も激しい。自動車のライトもきつい。この地の人間はもう、日暮れも妖も恐れない。月影の仄明るさを、心強く思うこともない。
年かさの男性店員が、フォークやスプーンの箱と紙おしぼりの袋を運んできた。ご注文が決まりましたら、卓上のボタンでお知らせくださいとのこと。前に行った店と同様のシステムだ。私の髪や瞳の色には、驚きを見せない。黒と捉えるように、簡単な術をかけてある。混乱回避の策だ。客の外見など、いちいち気にしていないのかもしれないけれど。
六月のお勧め品が、壁の額ポスターで紹介されていた。ソフトクリームで梅雨の湿った空気に対抗するらしい。まだ入梅前なのに。せっかちだ。
表面を透明なシートで加工された、折り畳みのメニュー表をめくった。ハンバーグ、スパゲッティ、ドリア、ピザ。イタリア寄りの料理の写真が並んでいた。幻想郷にはない、海の幸の品が豊富に用意されている。最後尾は、デザートと子供向けメニュー。彼女は直に来る。主となる食事のタイミングは揃えたい。無難なグリーンサラダとドリンクバーだけ先に頼んで、飲み物のコーナーに歩いていった。
現在地、博麗大結界の外。市街地近郊のファミリーレストラン。
私と彼女は、いつも夜に外の世界で対面している。日中は審判で忙しいでしょう、私は昼寝で忙しいわ。私は貴方の土地を訪れられないし、貴方を住居に招きたくもない。中有の道や里の店では迷惑になる。貴方は閻魔様、いるだけで周囲の妖怪を畏縮させてしまう。担当地では羽目も外せない。だから外にしましょう。私は自由にここを出られる。幻想郷に属さない神様の貴方は、外界でも大丈夫。新地獄には転移門もあるでしょう。そのように勧められて、承諾した。任地を離れても、泥酔や大騒ぎはしないけれど。他の妖への害は、避けたかった。
かつては、外側の博麗神社や寂れた仏閣、無人の山や海辺を会場にしていた。闇市を見学した晩もある。最近は、夜遅くまで開いている施設が増えた。様々なところに連れて行かれた。若者の街の華美な服飾店(着せ替え人形にされた)、百貨店、週末の美術館、猫のいる喫茶店(式の式に触ればいいだろうに)、夢と魔法の遊園地(あの大型船は三途の河に欲しい)、歌劇場、個室の和風居酒屋、ファーストフード店、天文台、教育機関、ここのようなファミリーレストラン(ファミリーと銘打っているのに家族連れが少ないのが不思議だ)。彼女のおかげで、私の視野は幾らか広くなった。彼女の裁きを甘くするつもりは、全くないけれど。
一杯目は冷たいものにしようか。細長いコップに氷を満杯にして、飲料機械の表示と睨めっこした。どれも飲めそうで失敗がなさそうだ。当たり外れ、白黒がないと、私は迷う性質のようだ。悩みに悩んで、アイスココアと抹茶ミルクの二択になった。裁判という頭脳労働の後には、糖分補給が欠かせない。ココアのどっしり感も、抹茶の和の香りも捨て難く、
「えい」
「あ」
白手袋の指が、第三の選択のスイッチを押していた。柚子かりんジュースが降ってきた。
「勝手にやらないでください、私は真剣に決着をつけようと」
「ビタミンたっぷりで喉に優しいそうよ? 貴方は声の商売じゃない。私って親切ね」
是非曲直庁の字引を進呈してやりたい。親切と邪魔を勘違いしている。キッチンからさっきの年配給仕がお盆を片手に登場し、
「いらっしゃいませ、何名様で」
「二名様になりました。この子を待たせていましたの」
八雲紫は、私の首に両腕をかけた。馴染み深い、名と同色のあでやかなドレスに身を包んで。金髪やひだ帽子、要所要所の紅いリボンも幻想郷内と一緒だった。紫眼を隠す術など、使っていない。声は果汁入りなのか怪しい、毒々しいぶどうスカッシュのよう。胡散臭く絡みついた。
一見、どこも私と似ていない。
テーブルを挟んで正面に着席した紫の第一声は、
「相変わらず真面目で泣けてくるわ」
私のよそ行き服も、グリーンサラダのオーダーもきっちりしていて物足りないそうだ。水菜やトマトを取り分けながら、彼女はあれこれぼやいた。私も言い返した。
「法服じゃないのはいいとして、お決まりの白、紺、黒。色付きの夢が見られなくなるわよ。私の買ってあげたベビーピンクの変則フリルワンピースは箪笥の眠り姫?」
「元々私の夢はモノクロです。あれを着て屋外に出る勇気はないですし一生欲しくありません。貴方じゃあるまいし。小町がショックを受けます。今夜はこれでも冒険しました」
「可愛い上司は部下の活力剤よ。眼福。冒険を気取るならブラウスのタイを解いて、ボタンの上三つ外してご覧なさい。上目遣いに『小町、私の舟を漕いで』。やればできるわ」
「式神任せの貴方に言われたくありません。大体何ですかその提案と物真似。私のことを何だと思って」
「私より年下の癖にお姉さんぶる閻魔様の映姫ちゃん。んー、小海老マヨネーズのサラダが食べたかった。七種類くらいあったでしょう、どうしてこれなのかしら。自宅で入手できないものを選びなさい、外食なのだから」
「貴方が年長者らしく遅刻癖を直せばいいのです。舌に合わなかったら大変でしょう、残しては申し訳ないですし」
「ゆとりっていい言葉だと思うわ」
角度のずれた文句が返ってくる。毎度のことだ。突っ込みにも慣れてきた。呆れるが、決してつまらなくはない。日頃、口のない幽霊を一方的に叱っているからだろうか。返事があると嬉しい。
「どうぞ、存分に刺激的な品を吟味なさい。食べられる範囲で」
「そうさせていただきますわ」
紫は巨大なメニュー表を広げた。色ピーマンをかじりつつ。トッピングのさいの目切りトーストパンが転がった。
私もお酢の利いたドレッシングにレタスをくぐらせて、口を動かしていた。紫の悪戯の柚子かりんジュースは、さっぱりしていて意外と飲みやすかった。私の視界にないものを、彼女は見ている。
裏面のデザート欄が私の側にあった。アイスやティラミスやレアチーズケーキ。本格的な夕食の始まる前の今は、かなり惹かれるものがある。特に白一色のパフェは素敵だ。いざ食後となると、満腹で辛いのだけれど。
「ライスコロッケと五色ソーセージ、どちらがお好み?」
前菜のページを向けられた。トマトソースのかかった真ん丸のコロッケを指すと、
「じゃあソーセージで」
「野菜や穀物も摂りなさい」
「摂ってるじゃない。妖怪の主食は肉ですわ」
メインも肉類にするそうだ。量のありそうな一皿を人差し指で叩いていた。不摂生。私は寄越された表から、健康そうなものを見繕った。
店員を呼ぶボタンの、電子音が響く。駆けつけたスタッフに、紫は料理名を連ねて告げた。生ハム、五色のバラエティソーセージ、魚介のカルパッチョ、ハンバーグとチキンとビーフのミックスグリル。卓に載り切るか不安になった。私は茸と緑のクリームグラタンに、ほうれん草のソテー。ドリンクバーを一人分付け足して、紫が帰した。
「少食ね」
「貴方の注文数を考慮してのことです。調子に乗ってまた大量に」
「のんびり楽しめばいいのよ」
彼女は紫の裾を蝶の羽のように舞わせ、コップをメロンソーダで満たして戻ってきた。本物の果実の面影のない、食用色素の色をしていた。ストローは二本。予備かと思いきや押しつけられ、
「布団はひとつ枕はふたつ、グラスはひとつストローはふたつ。これ死語でカップル飲みって言って」
「やりませんよ」
「藍は乗ってくれるのに。映姫は私のどこが不満なのかしら」
「悪いことばかりするところです」
口付けのような舌打ちの音をさせて、紫は角氷を混ぜた。炭酸の泡が上がった。幼いものを愛でるように、笑っていた。彼女は閻魔の私に不可避の判決を言い渡されても、微笑で応じるのだろう。いつか。
「私の罪はそこまで重くて?」
「限りなく黒に近いです。誇張はしていませんよ」
ピザ生地の小パンを添えた塩漬け肉や、洋風の海鮮のお刺身が運ばれてきた。紫所望の、マヨネーズのかかった海老も盛り込まれている。
生ハムでパンを巻いて、紫は私の皿に載せた。この程度でなくなる罪悪ではない。しょっぱくて口が渇いた。サラダの大皿を空にした。ジュースも空けて、席を立った。
二杯目は、素性の知れないアイスティーにした。紫用に烏龍茶も注いだ。
テーブルで、ほうれん草のバター炒めとソーセージ五種が待っていた。ファミリーレストランは配膳が速過ぎる。紅魔館よりも大衆的で、地霊殿よりも手間をかけていない。
紫は未使用のナイフとフォークで、肉を小さく切り分けた。味をランダムにばらけさせた。私は青野菜の山を作ってやった。
「食べられるけれど食べたくないものってあるわよね、気分的に」
「養生も善行です。少しでも善いことをしないと、酷い未来になりますよ」
赤っぽいソーセージと葉菜を刺して、紫は唇を尖らせた。渋々口に入れて、唐辛子味と一言。カルパッチョの小海老を根こそぎさらっていった。私のは普通の豚肉味だった。他三本は黒胡椒味、にんにく味、レバー味だそうだ。順番に彼女が味わっていた。
「清く生を全うする術も、解っているでしょうに。その能力で、幻想郷全体を度々揺るがして」
「はあい。有難いお話ありがとうございます。幻と実体の境界の創造、博麗大結界の生成、冥界と顕界の境の操作。私の行為はひとつひとつが、地獄の刑罰に相当するのでしょう。力ある者は責任を持てと、貴方はかんかん」
幾度も諭してきたことだ。紫が悪事を為した直後から、重ねて。悔悟の棒や苦言を突きつけた。大昔の私は、彼女の気侭な振る舞いにとにかく怒っていた。何としても彼女を更生させねばと、必死になっていた。でも、追い詰められた彼女は悠然と笑うのだ。今も、透紫の夏扇で口元を隠して。
「やらなくてもいいことを、進んでやる。悪の自覚はあるわ。けれども、私が力を尽くさなければ、生きられない子達がいた。放っておけなかったのよ。私一人の愚行で誰かが助かる。幻想郷も保たれる。その結果が奈落なら、安い犯罪じゃない?」
最初にこう聞かされたときは、何て言い種かといきり立った。しかし立腹しながら、奇妙な共感も覚えていた。種族や手段こそ違えど、私と彼女は等しいのではないかと。私の説教も、閻魔王様に強いられてやっていることではない。自発的な活動だ。道を外れる者を、放置できずに始めた。私の言で誰かが正され、穏やかに旅立てる。それが私の与えられる救済だった。愚痴や傷は厭わなかった。彼女の想いと、差があるだろうか。
大罪を犯す紫の心を、私は理解してしまった。二回三回と衝突する毎に、強く。
もちろん、紫が幻想郷にした行いは許されることではない。滅びるものは、自然に滅びるのが定めだ。無理な延命は後々歪みになるかもしれない。彼女はそれを承知で、境界線を引いた。大結界を完成させ、港町の坂で彼女は私に抱きついた。ああよかった。何故かしらね、これでよかったって叫べるの。貴方はすこぶるお怒りでしょうし、きっとこれから妖怪間での乱戦になる。それでも浮き浮きしているの。映姫、貴方がヤマザナドゥを辞するのは当分先になりそうよ。私は苛立っていた。息苦しくて。立場上、温かい声をかけてやれなくて。閻魔として、公明正大に彼女を救いたいと考えた。幻想郷と、そこで育まれる命を愛し過ぎる彼女を。
「ミックスグリルとグラタンです。鉄板が熱いのでご注意ください」
食卓に二皿追加された。私には白い食器、紫には黒い鉄の器。木の土台はお揃いだった。会計の伝票がプラスチックの筒にはめられた。
熱々のクリームを吹いて冷ます私に、フォークが突き出された。玉ねぎソースのかかったステーキを、
「映姫、あーん」
「そういうことは式神とやりなさい」
「堅いわねぇ。貴方には色気が足りないわ、ひとを離さないための」
閻魔が誘惑の技を学んで、どうすると言うのだろう。皿に埋もれたアスパラガスやしめじを掬った。健全な味がした。オリーブオイルの塗られた生たこや、ペッパーソーセージも摘んだ。ほうれん草のソテーはほとんど私の胃に収まった。紫は器用なナイフ捌きで、牛肉も豚肉も鶏肉も受け入れていた。
緑白赤、国旗と店名のロゴ入りのプレートが数枚綺麗になった。一箇所にまとめた。四人用のテーブルに、隙間ができていった。アイスティーは氷が融けて薄まっていた。水にも紅茶にも見える。
「幻と実体の境や、博麗大結界を生んだ動機はわかりました。冥界とこの世との間を曖昧にしたのには、どのような訳があるのですか」
「あぁ、あれ」
付け合わせのブロッコリーに肉汁をまぶして、紫は一口でぱくりとやった。唸って咀嚼して、烏龍茶を飲み干した。
「結界で幻想郷を封鎖した、私の罪滅ぼしかしらね」
私はあの子達を生かす代わりに、大地を狭めてしまった。ストローの先で、紫はカップの底に円を描いた。
「幻想郷の若い人妖は、海を知らない。富士の峰に登ったことも、虹の根元に辿り着いたこともない。私や貴方と違って、外のデパートや展望塔に出かけられない。まあ、外の世界のようになられても困るのだけれど」
子を想う母や、妹を想う姉のような眼差しだった。睫毛が揺れた。
「私の力で、少しでも内側を広くしたいと思ったの。新たな行き先と、出会いと縁を贈って」
ゆかり。繋がりは、無限の広大さを生む。
紫は店の中に視線をやった。親密そうな男女。若者の集団。一心不乱に外の式神・コンピュータの文字盤を打つスーツの青年。私達。各々が、各々の領域に籠もっていた。私達の幻想郷の話題に、興味を持つ人間はいなかった。
「彼らは他所の卓の客の名も、事情も解さない。店を出れば、皆忘れるでしょうね。私は幻想郷の子に、そうなって欲しくないの。依存とは別物よ。世界は開かれているって、心のどこかで覚えていて欲しい。ひとと関われる環境をつくりたい。幽々子達の冥界は、その第一歩だったの」
二歩目以降は要らなかったけれどもね。紫はフォークを咥えて苦笑した。紅魔館、冥界と白玉楼、永遠亭、三途一帯、妖怪の山と守矢神社、月の都、天界、地底と旧都と地霊殿、命蓮寺。博麗の巫女達の開拓区域を、挙げていった。
「スペルカードルールと、異変の普及で幻想郷は面白くなった。霊夢や魔理沙が、自力で未知の絆を紡いでいった。私の手助けはごく僅か。あの子達は、きっとどこにでも行けるわ。貴方の部下の勤めも、楽になるかもしれないわね。知人の多い霊が増えれば」
「そうなるといいのですが」
誰かのために悪さをする。紫は、
「貴方は本当に、罪深い。贖罪で、また罪を犯して。いつから、今からでも遅くはない。精一杯、善行を積みなさい」
「適当に頑張りますわ。飲み物のお代わりはいかが? アセロラジュースのコーラとオレンジジュース割りにします?」
「混ぜないでください。温かいものをお願いします」
善い方向に進む気が、あるのだかないのだか。紫は紅いヒール靴をカーペットに埋めていった。白髪混じりの給仕が、食器を下げに来た。私のグラタン皿ひとつが残された。キッチンへの途中、ドリンクコーナーで紫と何やらやり取りをしていた。
お腹が苦しかった。明日は節制しなければ。最後の一匙を食べ終えて、手を合わせた。
お湯のカップとソーサー、カモミールのティーバッグの包装が置かれた。紫は薄いエスプレッソにしたそうだ。コーヒーの渋い匂いが漂ってきた。平たいお茶の袋を、私は湯気に沈めた。胸の落ち着く、林檎のような香りがした。
「デザートの追加注文は?」
「結構です。入っても数口でしょう」
伝票を取ろうとしたら、あと一品頼んだからと止められた。店員との話はそれか。紫の胃はどうなっているのだろう。中に隙間を飼っているのだろうか。
夏の衣服や傘選び、生活の近況、幻想郷の出来事等のお喋りをした。まるで友人といるかのようだった。向こう岸の、数少ない友達。追いかけっこの休憩中というだけなのに。紫にも、いずれ小町の舟に乗る日がやってくる。
「そのスカートは上げてベルトで締めるべきね。映姫は脚を見せなさい、船頭さんのやる気を引き出せるわ」
「むしろ丈を伸ばしたいくらいなのですが。紫こそ少々上げてみては。暑くなりますよ」
「見えない方が欲をそそることもあるのよ」
「誰の。もっと慎ましやかな言動を心掛けなさい」
「お待たせしました、ホワイトチョコバナナパフェです」
紫のデザートが議論を中断させた。あ、と小声が漏れた。彼女のメニュー決めの最中に惹かれた、真っ白いパフェだった。彼女は私の反応を聞き逃さなかった。やたらと私の顔を眺めてにやけ、
「映姫ちゃん、あーんしましょうか」
バナナとソフトクリームとチョコソースを柄の長いスプーンに盛って、私の唇を突いた。からかわれている。そんなに私の悔しがる様は痛快なのだろうか。むきになって抗議するのも子供っぽい。一瞬の恥、一思いに食べてやった。いい子いい子と頭を撫でられた。ホワイトチョコレートのソースが、牛乳風味で舌を幸せにしてくれた。一杯パフェを完食したような満足感があった。味見で十分だった。
「もういいの?」
「紫のものでしょう。白いものを食べて、内から白くなりなさい」
「ココアも黒チョコも白チョコも姉妹よ。使う部分で色が変わるの」
「なら一層貴方のものにするべきです。黒も努力で白になります。裁きはずっと後です」
ひとには寿命がある。彼岸の民は、生者の長生きを望んではいけない。ただ、四季映姫個人としては、紫に遅く死んで欲しかった。ありったけの善行をこなさせてから。
閻魔の私が、彼女に授けたい救いは単純。普段通り。地獄行きを免れさせて、速やかに冥界に送ることだった。そのために、彼女を追いかける。現在以上の悪行を阻止する。数十年、数百年先、幽霊の彼女と法廷で再会して。私の裁判の基準と照らし合わせて、公明正大に冥界への判決を下せたらと願う。清々しく、凛と見送れるだろう。
結審後の彼女が、どうするのかはわからない。幽々子の傍にいるか、薄れた境を越えてこの世を訪ねるか。できることなら、早く転生して欲しい。記憶を失って、肉体を得て、再び幻想郷に。自動車も街灯もファーストフードの店も、ファミリーレストランもない狭い世界。誰かが愛して、守り抜いた四季と縁の園。生まれ変わった彼女がそこに立って、
「んー、生きててよかったぁ」
今のような笑顔を、見せてくれたら。私は八雲紫の生涯を、誇りに思えるはずだ。
単四電池を買いたいと言う紫と、コンビニエンスストアに寄った。電池以外に、マニキュアやストッキングやお菓子の物色もしていた。緑色の籠に、戦国武将の入浴剤や夕陽と樹木柄のペットボトル飲料を放り込んだ。不味かったら式神か霊夢に渡すそうだ。漫画雑誌やファッション誌の立ち読みは止めさせた。少女漫画の描写について際どく話し出した。レジに押して行った。
お土産に、アイスの大福や抹茶ミルクの粉末のスティックを貰った。小町が喜びそうだ。
「じゃあね、映姫。また今度」
「ええ。さようなら、紫」
遅い夜灯の下で別れた。
次は幻想郷の中で。休戦はお終い。私は人妖のために、過ちを裁く。私に似た彼女を、捕まえてみせる。逃がさない。
皆の歩む先が、純白の未来であるように。祈って、私は彼の岸に帰還した。
相変わらずの流れるような会話や、お腹のすく飲食物の描写が素晴らしい。
あとメロンソーダのくだりを読んで、
「このワザとらしいメロン味!」と言う映姫様を想像してしまったw
会話の雰囲気が凄く好きです。
映姫様と紫がファミレスで一緒に食事してるssだなんて誰が思いつくだろうか。
幻想の地に縛られていない二人だからこそ出来る所業だし思いついた作者は偉い。
映姫さまが可愛いかったです。
お昼時に読んでおなかが空いてしまいました。
えいゆか、アリだ!
この淡々とした、けれども思いの篭った会話がとても良いです。
イイハナシダナー
ただただ感服です。
さりげなくペプシバオバブ味を買ってるじゃないか・・・!
紫の幻想郷への愛と映姫さまの紫への想いが素敵でした
最近はカリスマだだ下がりな傾向の紫ですが、やっぱり、最高の困ったちゃんで
いつでも余裕たっぷりな紫が好きなんですよ。
そんな紫を見ることができて幸せです。
互いのことがあまりに良く分かるからこそ芽生える感情があって
相容れないことも多い、だけど認め合っている。そんな感じなんでしょうか。
二人のやりとりがとても「らしく」て味わいがある素晴らしい作品でした
小さな善行を内包する、大きな悪行。
つまり、紫!俺だ結婚s(ry
短くも密な時間を堪能しました。ありがとうございます。
ファミレスは、ついつい長居してだらだらとくっちゃべってしまう不思議な魅力がありますねー。
本当に、羨ましくなるくらいの。良い、ご友人もいらっしゃる。
そして幻想の郷は続いて行く。
>83
よし、一緒に行こうか。俺らも一人より二人だ!!
>二人の関係の解釈
>表は別物でも根底では似ている二人
>紫、映姫の立ち位置、関係
>映姫様と紫の絆
>素敵な関係
『紫香花』の小説を読んで、映姫と紫について考えました。似ていないようで、水脈は同じなのではないかと。ひとのために、ひとの嫌がることをする。二人に絆があったらいいなと思って、お話にしました。
>会話の雰囲気
>淡々とした、けれども思いの篭った会話
ありがとうございます。たまに会う友人との会話は、どのようになるか。想像して書きました。二人らしく描けていれば、幸いです。
>映姫様と紫がファミレスで一緒に食事してるss
二人が会うなら外だと、何となく思いました。のんびりお喋りできそうなので、ファミレスにしました。世界に違和感を抱いた方も、いらっしゃるかもしれません。東方の枠に、収まっているといいのですが。
>これ普通にデートじゃないですか!
『ナイトホワイトチョコデイト』というタイトル案もありました。「遅い」とかけられるので、lateを選びました。
>自然に魅力的な映姫
血の通ったキャラクターを描けると、嬉しいです。作品の中で、生きていますように。
>ペプシバオバブ味
お気付きになりましたか、ありがとうございます。面白がって買いそうなので、籠に入れてみました。
>若干、冗長かと思える部分もあった
ご指摘ありがとうございます。すっと読めるお話を書けるよう、頑張りたいです。
作者様の過去作を拝見しているところだったので、新作に歓喜しました!
舞台が外界のファミレスという発想といい、2人の関係の描写のすばらしさといい、なんとも暖かいお話。
こまっちゃんをだしに映姫様をからかうゆかりんのほほえましいこと。
普段とはちがう、2人の関係が見られてとても良かったです。
作者様の映姫もの、地霊殿ものは大好物です。
これからもぜひ作品を読ませていただけると嬉しいです。
想像というものの可能性を感じました。
あとあじすっきりババロアティーってかんじです
今回だと映姫の説教くささという
抑圧みたいな息苦しさの中にいますね。
そのなかで、紫みたいに魅力的に生きているのが面白くていつも作品をよませていただきます。
舞台がファミレスってのも面白い。私服の映姫様見てみたいぞ。
ファミレスで映姫様とゆかりん見かけたら
ホワイトチョコバナナパフェをおごってあげよう
俺が、あーんさせるんだ、俺が!
どちらも好きなキャラクターなのですが、二人揃ってると奇妙な感じ
だと思っていたのですが、これはいい解釈ですね 最高
貴殿の作品は折々拝読していますが、本当に素敵です。
日本の言の葉の深みを味わえる気がします。
語りの速度を変えながら、ちょっとした洒落っ気を保ちながら、
時に気怠げな息抜きを保ちながら、またまじめに戻りながら、
色んな角度で物語が展開されていく。魅了されたまま読み終えてしまいました。
映姫のお説教(?)、紫ののらりくらりとした性格、あまつさえ現実世界のファミレスという舞台を描きながら、
これほど自然に物語をお送りくださって言葉がありません。敬服です。
無二の作品を読ませていただきました。
これ好きなそれだ