薄暗い闇の中、私は目を覚ます。禍々しい鴉の鳴き声と、悲しげな鹿の遠吠えが静寂の世界に響き渡っていた。
私が立っていたのは山裾にある疎らな森の中。私はそれまで、一体どこで眠っていたのだろうかと少し考え、すぐにやめた。そんなことは考えるだけ無駄だ。今までも何千回、何万回と同じことを繰り返して、答えが出たためしなどないのだから。
遠くからぎこちない足音が聞こえる。四足のものではない。恐らくは人間のものだろう。私はその足音の方向へ向かう。
「ああ、遅うなってしもうた。こんな時間にはスキマ様が出るというに」
その人間は足を引きずって歩いていた。恐らくは山道で足を挫いたのだろう。私はその人間に背後から近付くと肩に手をかける。
「ひっ! ……スキマ様スキマ様。どうかお許し下せえ。おらの住まいは、あなた様のお定め下さる宇夜 の郷 、波如 の村でごぜえます。境をば踏み越えたことどうぞお咎めなく、帰りの道行きをお守り下せえ」
私はその言葉を聞き、手を離す。そしてその人間が住処へ帰るまでの間、少し離れたところから見守った。なぜなら私は、そうしたものであるからだ。
また、遠くで小枝を踏み折る音がした。向かってみると、やはり怯えた足取りの人間が一人。私は近付き肩に手をかける。
「うわあっ! ば、化け物ぉ! に、逃げにゃあ」
私はその言葉を聞き、もう片方の手を首にかける。そしてその人間をくびり殺すと、骨の一欠片も残さず喰らい尽くした。なぜなら私は、そうしたものであるからだ。
それが私の全て。私が一体何であるのか、自分でもよくわかっていない。しかしそうしたものであることはどうやら確からしい。
何千回、何万回と同じことを繰り返してきた。そしてこれからも、きっと変わることはないのだろう。
*
目を覚ませば、いつも同じ風景が広がっている。木々のざわめき。四足の声。そして、黒い大地と紫色の空。浮かんだ月だけは少しずつ姿を変えていく。それも数十度寝て覚めれば繰り返されるものだけれど。
私は考える。私は何のために存在するのだろうか。
答えはあっさりと見つかってしまう。私は、この地に迷い込んだ人間を、時に守り、時に喰らうために存在しているのだ。そこに疑問を差し挟む余地などない。
なぜ存在しているのかはわからずとも、何のために在るのかは知っている。そこに理由などありはしないのだろう。ただ私は、そうしたものであるのだ。
目の前に立っている古木に手を触れる。この木とて、何か明確な理由があってここにいる訳ではない。それでもただ大きく、大きくなり、そして種を残す。そうして生きている。私と変わるところなど何もない。
人間だってそうだ。訳もわからぬまま生まれ、そしてただ理不尽に死んでいく。生命など悉皆 死ぬために生まれてきているのだ。私が人を守り、喰らうために生まれてきたように。
それが世界の理 。逆らっても無駄にくたびれるだけだ。考えぬほうが楽でいい。何千回目かもわからぬ結論に、私は満足する。
そうしていると、足音がまた一つ聞こえてくる。私はいつものようにそちらへ向かった。
見つけた人間は、随分としっかりとした足取りで歩いていた。珍しいな、と少しだけ思ったが、すぐに打ち消す。私がこれからすることに関係のないことは、面倒くさいから考えない。私はいつものように、その人間の背後に回り、肩に手をかける。
「おお。……えーとどうだっけな。スキマ様スキマ様。私の住まいはあなたが定める出雲の郡 は杵築 の郷。大社 に仕 る者でございます。どうか境を踏み越えしことお咎めなきよう。……合ってますかね、スキマ様?」
奇妙に落ち着いた声だった。驚きよりも、恐怖よりも、なぜか喜びの響きを孕 んだ声だった。ほんの少し不思議に思ったが、関係のないことだと切り捨てた。その言葉を聞いた以上、私はこの人間の道行きを見守るだけだ。私は肩から手を離す。
「ああっと、少々お待ちくださいスキマ様。本日はあなたにお会いしに参ったのです。振り向いてはならないということですので背中越しではございますが、ご無礼をお許しください」
すると、その人間はますます不可思議なことを言い始めた。私は狼狽する。こんなことを言われたことは今まで一度もなかったのだ。喰ってしまえばいいのだろうか。しかしこの人間は先ほど正しく呪 いを唱えたのだ。喰うわけにもいくまい。
「スキマ様。いつも私たちをお見守りくださりありがとうございます。山に分け入った者が帰ってこられるのは、ひとえにあなたのおかげでございます。本日はあなたを労えはしないかと、おこがましいとは思いながらお酒を徳利に一杯、持って参りました。ここに置いて行きますので、どうぞお召し上がりくださいませ」
そう言って、その人間は手に持った瓶を地面に置いた。そして、四度拍手 を鳴らし、背を向けたまま一礼する。
「それでは、失礼いたします。お見送りは結構でございますので、たまにはゆっくりと、体を休めてくださいますよう」
その人間はそのまま、薄闇の中を悠然と帰っていった。私は呆然と立ち尽くし、務めを果たすことも忘れていた。足元には酒の入った瓶が一本立っている。
――何だ、今の人間は。
答えの出しようがない問題を考え続けている自分がいた。そんなことは普段なら面倒だからしないはずなのに、私は一体どうしてしまったのだろう。
わからないが、ただ一つ。あの人間に感謝の言葉を告げられたそのとき、胸の辺りに何か温かいものを感じた。それが何なのかさえわからないが、ただその温かいものだけが、確かに残っていた。
*
あれから月が一巡りした頃、私はやはり変わらぬ日々を送っていた。あのときの温かいものなど、単なる錯覚に過ぎなかったのだろうと今では思う。
ただ、錯覚だとしても、何がそんな錯覚を起こさせたのだろうか。私は袖の下から空になった酒瓶を取り出し、見つめる。
あの人間からもらった酒は、美味かった。酒に酔っている間、ほんの少しだけ世界が違って見えた。寝て覚め、酔いがおさまってしまうと、また変わらない世界が広がっていたけれど。
この酒瓶を私に捨てさせないのは、一体何なのだろうか。わからない。わからないが、なぜか手元に置いておきたいという思いがあったのだ。
そのとき、遠くから人間の足音が聞こえてくる。私は少しだけ急ぎ足でそちらへ向かう。なぜだろう。いつもなら急ぐようなことなどないというのに、あの人間に出会ってからというもの、私は人間の足音に胸を高鳴らせるようになっていた。
見てみると、あのときの人間ではなかった。それを確かめると、私はいつもの私に戻る。山野に迷い込んだ人間の肩に手をかけ、正しい呪いの言葉を唱えたなら守り、そうでなければ喰らう、その私という存在に。
私の世界には二種類の人間しかいない。守るべき人間と、喰らうべき人間。しかしただの一人だけ、あの人間だけはどちらでもなかった。そう、私にはそれが不思議でならなかったのだ。いつもならば、面倒だと切り捨ててしまう思考。しかし、この私の世界の外側にいるあの人間が、酷く気になって仕方がなかった。
今夜までにも、また幾人かの人間を守り、幾人かの人間を喰らった。特に何の感慨もない。何度も何度も繰り返してきたことだ。この狭く、薄暗い世界の中で、何度も何度も。
世界の理に身を委ねるのは、とても楽だ。考える必要はない。理由もいらない。ただ務めを果たしているだけでいい。
――だけど、なぜだろう。そう思っていたはずなのに、それでは満たされなくなってしまった。あのとき、胸に湧き上がった温かなものに、何かを持っていかれてしまったのだろうか。私が満たされるために必要なものを、奪われてしまったのだろうか。
答えは出ない。思考はぐるぐると螺旋のように連なって、胸の奥に重たいものを残していく。
また、あの人間に会わなくてはならない。そして、この不可解なものの正体を確かめなくてはならない。
空は漆黒から紫色に染まっていく。もう、夜明けが近い。私は闇の中に溶けるように眠りに就いた。
*
再び、目を覚ます。変わらぬ大地に、変わらぬ空。変わらぬ、世界。いつもなら安心をくれるそれは、今の私には酷くつまらないものに映っていた。
空を見上げると、望月が浮かんでいる。以前、あの人間と出会ったのも、望月の夜だったような気がする。ならばまた、この夜に会えるだろうか。
引きずるような人間の足音が聞こえてくる。きっと違う。あのときの人間はもっと確かな足取りで歩いていた。それでもわずかな期待と、自分の存在に対する義務感からそちらへ向かう。
見てみると、やはりあの人間ではなかった。私は少々落胆する。それでもいつものように、肩に手をかけた。人間の口から出るのは、いつもと同じ呪いの言葉。繰り返し繰り返し、何千回、何万回と聞いた、私に許しを乞う言葉。私はいつものようにその人間を住処まで見送った。
それから、人間の足音が聞こえてくることはなかった。珍しいことではない。一人の人間も迷わぬ夜も多い。そんな夜も何千回、何万回と繰り返してきた。今更どうということもない。
そのはず、なのに。
私は胸に穴が空いてしまったように感じていた。今までに味わったことのない感覚だった。この感覚に、人間は何という名前をつけるのだろう。私には、わからない。
もう月は西に傾いている。空もわずかずつ白んできた。もう二度と、あの人間には会えないのだろうか。
それでも、いいかと私は思う。こんなもの、所詮は一時の気の迷いに過ぎないのだろう。今まで何千回、何万回と繰り返してきたことだ。これからもきっと、何万回、何十万回と繰り返すのだ。時が経てばこんな感覚は、きっと消えてしまうだろう。それで、いい。そうでなければ私は――耐えられない。
瞼 が重くなる。もう眠る時間だ。私は闇の中に身を横たえ、目を閉じる。
そのとき、微かに、しかししっかりと大地を踏みしめる音が聞こえてきた。再び、私の胸に温かなものが去来する。これは一体何なのだろうか。わからない、わからない。
その正体を確かめるため、私は眠気を押してその足音の――あの人間の下へと走った。
――いた。
痩せぎすな体に、超然とした佇まい。鋭くもどこか穏やかな眼――あのときの、人間だ。
聞きたいことがある。話さなければならないことがある。しかし私は、どのように接してよいのかわからず、いつもと同じように、彼の肩に手をかけた。
「! ……スキマ様スキマ様、私の住まいはあなたの定める出雲の郡は杵築の――」
「……構わないわ、こっちを向いて」
自分でも気づかぬうちに声を出していた。幾つもの言葉を聞いてきたが、自ら言葉を発するのは、初めてのことだった。私は言葉を話すようなものではなかったのだから。
「よろしいのですか? 騙して取って喰うような方ではないとは存じておりますが、決まりごとは決まりごとでしょう」
「いいの。あなたと、話がしたい」
私の言葉を聞くと、彼は少しだけためらってからこちらを向いて、一礼した。二つの目が私の目を見つめている。なぜか酷くくすぐったいような感覚を覚え、私は少しだけ目をそらした。
「スキマ様はお美しい女性だと聞いておりましたが、お噂通りで。私のような醜男 の顔を晒すのも失礼だとは存じますが」
「い、いえ。そんなことは……」
私は一体何をしているのだろう。話したいことがあったはずなのに、頭が真っ白で上手く考えがまとまらない。
私は視線を虚空に泳がせる。何か話す切っ掛けがないか。以前彼と出会ったときのことを思い出す。すると、袖の下にとってあった瓶の重みに気がついた。
「……そうだ、この前頂いたお酒、美味しかったわ。その……ありがとう。これ、お返ししておきます」
そう言って私はあの瓶を彼に差し出した。彼は破顔してそれを恭しく受け取る。
「んふふ。お口に合いましたか。それは良かった。本日は手ぶらで申し訳ございません」
彼の笑顔とその声が、私の胸に空いた穴を埋めてくれた。私の胸は、温かいもので満たされている。
私は困惑する。胸に空いた穴など、彼に出会う前は確かになかったはずなのだ。この薄暗く、小さな世界が私の全て。それで私は余すところなく満たされていたはずなのだ。
そうだ。これが何なのか、確かめなくてはならない。この人間なら答えを知っているはずだ。私は再び言葉を紡ぐ。
「この、私の胸にある温かなものは何なのですか。あなたが作ったものなのですか? これが無くなってしまったとき、私の胸には穴が空いてしまった。この世界に満たされなくなってしまった。それは、なぜ?」
私の言葉を聞くと、彼はうつむいて考え込む。しばしの沈黙のあと、彼はおもむろに話し出した。
「それは、申し訳ありませんがわかりかねます。無責任な答えを返すわけにもいきますまい。……ただ、私は嬉しいときに胸が温かくなったように感じることがあります。もしもスキマ様が私と同じように感じているのだとしたら、私は嬉しい。私があなたに、喜びを差し上げられたのですから」
嬉しい。喜び。その言葉は知っている。見送った人間たちが里にたどり着いたとき、時折口にする言葉だ。
だけど、私はその言葉を理解できなかった。私の世界にはないものだったから。今、私の胸にあるこれが、その喜びなのだろうか。この人間は、私の世界にないものを持ってきたというのだろうか。
「……ですが、あなたの胸に空いたという穴。それがもし私と同じものだとしたら、それはきっと寂しいときに空いてしまうものです。もしかすると、私は要らぬことをしてしまったのかも知れません。スキマ様に、要らぬ不安を与えてしまったのかも知れません」
寂しい。それが、この胸の穴の名前なのか。この一月の間、どこか満たされず、ずっと心細い気分だった。それが寂しさなのだろうか。それもまた、私の世界にはなかったものだ。
私は考える。彼と出会ってからのこの一月と、それまでの何万回という繰り返し。そのどちらを私は好ましく思っただろうか。答えは出ないかも知れない。それでも私は考える。
私は境を定めるものとして生まれ、長く永くこの地で生きてきた。自分の在り方に疑問を持ったことはなかった。それで私は満たされていた。ただ務めを果たし、スキマ様と呼ばれるその存在であるだけで、私の世界は完結していた。そう、今私の目の前にいる、この人間と出会うまでは。
彼の言葉に触れ、私は喜びを知り、また寂しさを知った。私は、それからずっと不安だった。この世界が酷く退屈に思えてしまった。そんなものを知りさえしなければ、私はずっと満たされたままでいられたのに。そのことを恨みがましく思ったこともある。
だけれど、だ。あのときに私の胸に湧き上がった温かなもの。それは私を、今までに満たされていたと思っていた何倍も、何十倍も満たしてくれた。ずっと彼に会いたかったのは、きっとその温もりがもう一度欲しかったからなのだ。
世界の理に身を委ねているだけよりもずっと私を満たしてくれるもの。それを知ってしまったのは不幸だったのかも知れない。それでも、あの温もりを求め続けたこの一月、私は幸せだった。胸に空いた風穴をさえ、愛おしいと思っていたのだ。
私は彼の目を見つめる。寂しげな表情だった。私はその顔を見ておれず、彼に語りかける。
「要らぬ、ものなのかも知れません。あなたからもらったこの喜びも、寂しさも、私には不要のものだった。そんなものがなくとも、私はずっと私だった。……だけれど、それに触れて、私は……そう、この世界が愛しく思えた。そのことを、感謝したい。だから、そんな顔をしないでください」
その言葉で、彼の顔は綻ぶ。その嬉しそうな笑顔を見ていると、私の胸にもまた、喜びが湧き上がる。
不思議な感覚だった。私が今まで見てきた禽獣たちは、皆何かを奪い取ることで命をつないでいた。だが、ここにあるものは違う。彼と二人、言葉を交わして共有して、初めて得られたものだった。
奪わず得られるものとは、一体何なのだろうか。ただ、確かに、ここにある。それだけが間違いのないことだった。
「スキマ様。私は幸せです。いつも私たちを見守ってくださるあなたに、こんな私がお返しできたものがあった。……覚えておいでではないでしょうか。私はずっと昔、子供の頃にあなたに守っていただいたことがあったのです。母と二人、山野に迷ったとき、あなたが救ってくださった」
そんなことは私は覚えていなかった。何万回という繰り返しのただの一回。覚えてなどいないのは道理ではある。しかし私はそのことを酷く申し訳なく思った。
「……ごめんなさい、覚えていないわ」
「いえ、もちろんそんなことは構わないのです。それに私も、先月母が死の床でその話をするまで、まるで覚えていなかった。スキマ様という名や、あの呪いを知ったのもそのときのことです」
私が正直に話すと、彼ははにかんだように笑いながら言葉を返す。
「望月の夜にスキマ様は現れると聞いておりましたので、今日また会えると思いやって参りました。無事、こうして会えた事を嬉しく思います」
「そう、だったのですか。私はもうあなたには会えないと思っていた。私が起きているのは何も望月の夜ばかりではありません。だから、この一月、ずっと寂しかった」
「何と、そうでしたか。申し訳ございません。すぐに会いに参ればよかったでしょうか」
「いえ、いいのです。その寂しさも、今となってはいい思い出ですわ」
偽らざる正直な気持ちだった。彼がくれた喜びは、今の私だけではなく過去の私までをも満たしてくれる。何と不思議なものなのだろう。私はそれを、ゆっくりと噛み締める。
けれど、まだ疑問は幾つか残っている。私は彼に問うた。
「あなたはどうして、わざわざ私に会いにきたというの? 獣に――いえ、私にも、喰われてしまうかも知れないというのに。あなたは、闇が怖くはないの?」
前の満月の夜、彼は私に会いにきたと確かにそう言った。どうして、そんな真似をしたのだろう。彼は少しだけ逡巡してから話し始める。
「……奇妙に思われるかも知れませんが、私は闇が大好きなのです。私の手が届かないものが世界にはたくさんある。それを思うだけで、胸が弾む。そして、その闇の中にあるものを私は知りたい。触れてみたいのです。……闇の中にいたあなたと出会って、私の世界はまた少し広がった。それだけで私は――違うな。私は、そうしてしか幸せを感じられないのです」
「その闇の中に、あなたに死をもたらす怪物がいたとしても?」
「……んふふ。そうですねえ。そうなったとしても私の選んだ生き方ですからね。……もちろん、死ぬのは怖ろしくはありますが」
そう話している間、彼は少しだけ悲しそうだった。彼は続ける。
「私は、私の周りにある世界だけでは満足できないのです。世界の果て、境界を越えてその向こうにある闇。そこには私の知らない世界がまだたくさん広がっている。私はそれを見てみたい。……満たされぬことが不幸なら、私は不幸な人間です。皆が満たされている世界は、私を満たしてはくれないのですから」
その言葉を聞きながら、私は自分自身を彼に重ねていた。
私は今までずっと、この狭い世界に満足していた。何千回、何万回という繰り返し。それで私は満たされていた。
だけど、彼と出会い、私にはまだ知らない世界があるのだと知った。いや、きっと知ってはいたのだ。だけれどそれは、決して私の世界と交わることのないものだと思っていた。
私は境界。どこにも属さず、何ものとも交わらない、幽 けきもの。だけれど彼は、そんな私とこうして交わって見せた。そして私に新しい世界を見せてくれた。その世界は、余りにも眩しくて目を背けてしまいそうだったけれど、私はその世界で、初めて喜びを知った。
そうだ、ようやく得心がいった。私は初めからずっとあの繰り返しを寂しく思っていたのだ。だけれど、諦めてしまっていた。それが世界の理だと信じ込んで、私は何も望まぬよう、心を閉じ込めていたのだ。
彼はその閉じ込められた私の心を連れ出してくれた。手を引いて、私に外の世界を見せてくれた。こんなものを知ってしまっては、もうあの頃には戻れない。だけれど、それが不幸かと問われれば、私は否と答えたい。
私がこの世界に生まれ落ちて初めて、心の底から何かが欲しいと思えたということ。それは絶対に切り捨ててしまいたくはなかった。
「不幸、などではありません。何かを望めること、それはとても幸せなことです。私は――私は何も望まぬよう生きてきた。この小さな、狭い世界に満足していると思い込んで。だけどそれは、きっと不幸なことでした。今だからわかる。あなたがその世界の外にあるものを見せてくれた今だから」
「……いえ、それでもやはり不幸なのでしょう。ただ、不幸なりに生きていかねばならぬのですからね。嘆くつもりはありません」
彼は少しだけ晴れやかな顔をしてそう言う。
私は、疑問だった。彼が言う、世界に満たされている皆というのは、本当に満たされているのだろうかと。
私は過去、満たされていると思っていた。しかしそうではなかったのだ。もしも、もしもその皆というのが、以前の私のように諦めてしまっているだけなのだとしたら、それは、それこそが不幸だと私は思う。本当に欲しいものを、手に入らないから、知らないから求めることもなく、ただ小さな世界の中で自分を騙して生きていく。それ以上の不幸はないと、今、私は思う。
彼は、ただ自分の望みに正直なだけなのだ。手に入らないかも知れないものでも求め続けて、死をも怖れず境界を越え、闇の向こうに手を伸ばす。私は、その姿をとても美しいと思う。
「本当に、何も望まず生きていけるのならば、それは確かに素晴らしいことなのでしょう。だけれど、何も望まず生きているものなど、きっといない。私はあなたと出会うまで、ずっと何も望んでなどいないと思っていた。だけれど違ったのです。私はずっと、ずっとこの温もりを求めていた。私は今までずっと、自分を偽っていたのです。……自分を偽らず、望みに、願いに真っ直ぐなあなたの姿は、とても素敵です」
「……ありがとうございます」
彼は照れくさそうに微笑む。そして、何度も首を小さく横に振ったり、頷いてみたりと、独特の仕草をする。きっと、彼は答えの出ない問いを、いつでも自分に問い続けているのだろう。彼は、私のように諦めてしまうことをよしとできないのだ。
私はその姿に憧れる。そして、私の望みとは何だろうかと考える。
「私も、あなたのようになりたい。だけれど、私が何を望んでいるのかがわからない。それを知るには私の世界は狭すぎた。……だから、お願いがあります。あのとき喜びをくれたように、また私の世界を広げてほしい。そして、私が望んでいるものを見せてほしい」
「私などにそのようなことができるとは……」
「あなたにしかできないことです。この何千回、何万回という繰り返しを、終わらせてくれたあなたにしか」
彼はまた、深く深く考え込む。そして、小さく頷くと、私にこう言った。
「私には、私の知っている世界しか伝えられません。そしてそれもまた酷く偏狭なものです。だから、あなたが世界を広げたいと願うなら、この大地にあるたくさんの命たちと語り合ってみてください。そしてその中に、私も入れてくださったなら、幸いです」
たくさんの、命。私にはその言葉がうまく飲み込めなかった。それは、一体どういう意味なのだろう。
「私たち人間に、獣や鳥、そして虫の一匹に木の葉の一枚に至るまで、この世界は命に満ち溢れています。そうしたものたちが、自分の知らない世界を見せてくれる。そう思って、世界を見渡してみてください」
「……私にはわかりません。私の世界は薄闇ばかりなのです。夜の帳 にさえぎられて、私にはその命を見ることが叶わない」
「そんなことはありません。……ほら」
彼はそう言うと、私の手を取って私の背後にあるものを見つめる。促されて私も後ろを振り向くと、そこには。
「朝、日……」
眩しい太陽の光が、世界を色鮮やかに染め上げていた。朽ちた葉は大地を黄色く覆って、そこからは力強い褐色の幹が天を突くように幾つも立ち上がる。そして見上げれば、美しい緑の葉の合間から、七色に移り変わる空が覗いていた。
「今日は、あなたにこれをお見せしたかったのです。闇を照らせばそこには色鮮やかな世界が広がっている。けれど、照らされずともその色は損なわれることはないのです。朝日が照らしてくれるときを待って、いつでも彼らは自分の色を忘れない」
私の頬に冷たいものが流れる。これは、知っている。人が、心を強く揺さぶられたときに流れるものだ。私は、気付かぬうちに涙を流していた。
「だから私は闇が、そして闇の中にあるものが愛おしい。命は、闇の中でも燦然と輝いている」
見えなかったのではない。見ていなかっただけだったのだ。私は自分の無知を恥じる。こんなにも美しいものたちを、見ようとしていなかったなんて。
「ありがとう。……ありがとう、こんなに美しい世界を、見せてくれて」
「そんなにも喜んでくださると、私も嬉しい。……しかし、あなたは日の光の下に長くいられるものではないのでしょう。申し訳ありません。この世界を見せたいなどという自分勝手な思いのために引き止めてしまって」
「ううん、謝らないで。今こうしていることが世界の理に背くことだとしても、私は今幸せです」
彼と二人眺める世界は、どこまでも眩く輝いていた。私は、そこにある一つの命も見逃さぬよう、しっかりと目に焼き付ける。
だが、そのとき猛烈な眠気に襲われた。私はやはり、この日の下にあってはならぬものなのだろうか。私は彼に語りかける。
「ごめん、なさい。もう、眠らねばならぬようです。……また、会えますか? また、あなたと二人、この世界を眺められますか?」
「……はい、私などでよければ勿論。今日はゆっくりとお休みになってください。……いつ、お会いしに参ればよろしいでしょう」
私は少しだけ考える。彼と会えなかった一月の間の寂しさを思い返す。答えは、決まっていた。
「また、次の望月の夜に。……会えるのを楽しみに待っていますわ。……ああ、いけ、ない。お休み、なさい」
私はその場に倒れこむ。とても幸せな気分だった。私はこの美しい世界に抱かれて、眠った。
*
とても素敵な夢を見た。彼と二人、小さな家で暮らしているのだ。私が簾をあげると、たくさんの命に彩られた世界が飛び込んでくる。そして、彼と二人、手を取り合って、その雄大な世界に向けて歩き出していくのだ。どこまでも。
どこまでも。
*
幸せな夢の余韻を味わいながら、私は目を覚ます。いつになく高揚した気分だった。眼前に広がるのはいつもと同じ――そう、いつもと同じ薄闇の世界。
だけれど今、私は知っている。その薄闇の中にも、たくさんの命が息づいているということを。そうしたものたちに今から会いに行けるのだと思うと、胸が弾んだ。彼もまた同じように感じて生きているのだろうかと思うと、少しだけ誇らしい気持ちになる。
遠くから、鴉の鳴き声が聞こえてくる。以前はただ禍々しいだけに聞こえていたそれも、今となっては愛おしい。よくよく耳を澄ませると、何やら何羽かの鴉が語り合っているように聞こえてくる。
かあ、かあと穏やかな声の鴉が何かを言う。すると甲高い、鋭い声の一羽が羽音を立てながらそれに抗議する。もう一羽の鴉は、気の弱そうな声を出して少し離れたところに移動したようだ。
どんな話をしているのだろうな、と私はあれこれ空想する。何だかとても可笑しくなってしまい、私はくすりと笑った。
そうして歩いていると、私は木の根元に咲いた一輪の小さな花を見つけた。今はその色を見ることは叶わないが、きっと日の光の下、美しい色を咲かせるのだろう。私はあのときに見た七色の空を思い出す。あのどれかの色に染まるのだろうか。
本当に、この世界にはたくさんの命が生きている。そしてそのどれもが懸命に生きていて、私の心を温かくしてくれる。
そのとき、かさり、と枯葉を踏む音が聞こえてくる。人間の足音のようだ。私はそちらへ向かう。
見てみると、酷く怯えた様子の人間が、おぼつかない足取りで歩いている。私はその人間の背後に回り、肩に手をかけた。
何千回、何万回と繰り返してきた動作だったが、今その手に乗せた想いは今までとはまるで違っていた。もはや義務感などはまるでなく、ただ人間たちの守り神としての誇りを胸に、私はその手に力を込める。
聞こえてくるのは、やはり何度も何度も聞いた呪いの言葉。しかしその言葉は、この人間が私に寄せてくれている信頼の証なのだ。私はその言葉を聞き、喜びで満たされる。
その人間はよほど信心深かったらしく、帰りの道行きでも何度も何度も呪いを唱え続けていた。しかしその途中、私は山犬が人間に襲い掛かろうとしているのを目ざとく見つける。私は、境界を司るものとしての力を振るい、その山犬がいる辺りの空間を世界から隔絶された場所と定め、閉じ込めた。
そして、その人間が無事住処へたどり着けたことを確かめると、私は守り神としての自覚を新たにする。私が一つの命を守ることができたのだということが、とても誇らしいことに思えた。
「ごめんね、怖かったでしょう? もう行っていいわよ」
閉じ込めていた山犬を逃がしてやる。食事にありつける機会を奪ってしまったことは申し訳なく思ったが、私はどうしても人間たちの信頼に応えたかったのだ。私はあの山犬が他の食料を得られることを祈った。
その夜は、それから人間の足音が聞こえてくることはなかった。私は、眠るときがやってくるまでの間、また多くの生命と触れ合った。
次の望月の夜には彼とどんなことを話そうか。私はそんなことを考えながら、また幸せな夢に溶けていった。
*
待宵の夜、私は大きな木に凭れかかり、小さな栗鼠 と戯れていた。その栗鼠に摘み上げた団栗 を差し出すと、受け取って何やらお辞儀でもするかのような動作をして、木に登っていく。私は微笑んで手を振った。
この木の下は、最近の私の気に入りの場所である。
初め、この木を見つけたときは、何と不思議な木なのだろうかと思った。根元を見れば確かに二本の木だというのに、梢に向かう途中、幹の中ほどで一つに溶け合い、一本の木になってしまっているのだ。
私は強く興味をそそられ、何度も何度も観察した。そして五日ほど前に、一つの答えを見つけられた。
きっと、この二本の木は、若き日に互いを終生の友と定めたのだ。そして支え合い生きていくうち、身も心も一つになったのだろう。
木や草花にも命が、そして心がある。この木はそのことを私に教えてくれた。
私は考える。私にもいつかそんな友ができるだろうか、と。
そう考えていると、彼の顔が脳裏に浮かび上がってくる。その途端、私はなぜかとてもこそばゆい感じを覚えた。何だか顔も熱い。私は頭を振って顔を冷やそうとする。
どうにも不思議な感覚だった。私はいつも彼に会いたいと思っているはずなのに、彼の顔を思い浮かべると、さっきのように頭に血が上ってしまうのだ。そのせいでまともにあの笑顔を思い浮かべることができず、その度に会いたい気持ちが強まっていく。
しかし、明日はいよいよ待ちに待った望月の夜である。この一月の間に、たくさん話したいことができた。私が触れてきたたくさんの命。それらに教えてもらった更にたくさんのこと。そのどれもが愛おしくて、そしてその想いを彼と分かち合えたなら、きっとまた私の胸は喜びで一杯になるだろうと、そんな予感を覚えていた。
そんなことを考えていると、遠くから人間の足音が聞こえてくる。私はまた、人間たちの信頼に応えるため、急ぎ足でそちらに向かった。
見つけた人間は、妙に目をぎょろつかせて、体を獣のように丸めて歩いていた。怖くて怖くて、虚勢を張っていなければ潰れてしまいそうなのだな、と私は思った。
私はゆっくりとその人間の肩に手をかける。すると――
「ひ、ひいぃっ! で、出やがったな化け物! 来るなら来やがれ、相手してやらあ!」
――ああ、怖れていたことが起きてしまった。
呪いの言葉を唱えなかった以上、私はこの人間をくびり殺し、喰ってしまわねばならない。しかし、この人間だって懸命に生きているのだ。必死で恐怖を押し殺し、自分が潰れてしまわぬよう、懸命に。
私は、殺したくなかった。呪いの言葉を知らなかったというただのそれだけのことで、私はこの人間を殺してしまいたくはなかったのだ。
私は、滅茶苦茶に腕を振り回すその人間の肩に手をかけたまま、考え込んでいた。本当に私は、喰ってしまわねばならぬのか?
しばらくの間――といっても、本当はほんの一二秒ばかりだったのかも知れないが――私は考え、そして、その人間の肩から手を離した。
「お、おぉ? な、何でえ、俺様に怖れをなして逃げやがったか。へ、へんっ。大したことねえな!」
そう言ってその人間は駆け出していく。私は、その人間が迷ってしまわぬよう、彼が進むべき道を定めた。
その人間は無事に住処へたどり着く。私は、この世界の理に背く行いが、どんな結果をもたらすのかとしばらくの間恐々としていたが、何のことはない、何も起こりはしないではないか。
殺さなくてもいいんだ、と、私は安堵の溜息を吐く。それと同時に、私が今まで殺してきた人間たちに対し、強い罪悪感を抱いた。何の理由もなく殺してしまった。そのことが私に重くのしかかる。
せめて、せめてこれからは殺しはすまいと、私は胸に誓う。その夜は、何度も繰り返し心の中で謝りながら過ごした。
空は少しずつ白んでくる。明日は彼が会いに来てくれる夜だ。色んな話をしなくてはな、と私は思いながら、薄闇の中で眠りに就いた。
*
あの木の下で、私は空を見上げていた。空には綺麗な望月が浮かんでいる。彼と私を、引き合わせてくれた月だ。
私は、彼が世界の美しさを教えてくれたあのときからの一月を思い返す。薄闇の中で、その色を見ることは叶わなかったけれど、それでも胸を張って生きている命たち。私が心に留められたものなどそのうちのほんの僅かなのだろうけれど、彼に私が見た世界を伝えたくてたまらなかった。
先ほどから、人間の足音がこちらに近づいてくるのが聞こえてきている。間違いようもない。この穏やかで、それでいて揺ぎ無い歩き方は、彼のものだ。
私は少しだけ彼を驚かせてやろうと、彼の進むべき道を――私のいるこの場所までの道を、境界の力でもって定めていたのだ。どんどんと、彼の足音は近づいてくる。そして――
「お久しぶりですわ――会いたかった」
「……はい、お久しぶりです」
彼は、ほんの少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに破顔して一礼する。私は、その笑顔を見ただけで、胸が温かくなった。
「いや、それにしても驚きました。いつスキマ様がいらっしゃるかと思っていたら、まさかこちらが先にあなたの下にたどり着いてしまうとは」
「うふふ。私は境界を司るものなのですよ? 道は境界。なればあなたが進むべき道を定めることなど造作もないことですわ」
「おお、これはお見逸れいたしました――」
彼はおどけたように一礼する。そして顔を上げると、興味深そうに何度も小さく頷いてみせる。そんな彼の一つ一つの仕草が可笑しくて、愛しくて、私は自然と笑みをこぼした。
「今まで、ね? あなたが言ったように、たくさんの命たちと触れ合ってきました。皆、皆、どこまでも美しくて、懸命に生きていて――ねえ、ここまであなたを導いてきたのは、この木を見せたかったからなんです。ほら」
そう言って私は、二本で一つの巨木に手を触れる。じわり、と幽かな熱が伝わってくるのは、この木に宿る命の証だ。
「何と、これは――連理の枝というものを、この目で見ることが叶うとは。ああ、やはり私にはまだまだ知らぬことがあるのだなあ。何とも――美しい」
彼はしみじみと溜息を漏らす。この木を美しいと思うこの私の心を、彼と分かち合えた。それがたまらなく嬉しくて、私は少し、涙が出てしまいそうになった。
「ええ、そうでしょう。植物にも心があるってこと、教えてくれたんです。この木――ええと、れんりの、えだ、と呼ぶのですか?」
「ああ、私も聞いた話に過ぎないのですが、大陸にはこうした木の物語が伝わっているのだそうです。何でも、その二本の木の下には、生前慈しみあった夫婦が埋まっていたのだ、とか。この木もまた、慈しみあって生きているのでしょうね」
連理の、枝。支えあい、慈しみあって生きる一対の木。この木から学んだことは間違っていなかったのだな、と私は誇らしげな気持ちになる。そしてその物語を聞き、私はより一層この木が愛しく思えた。
「そうなのですか。大陸、というと、海の向こうですよね。そんな所のお話を知っているなんて、博識ですのね」
「いえ、父が大陸から渡ってきた方でして、それで。父はいつも、私は仙人なのだ、などと嘯 いていましたが」
「せんにん、というと――」
「自然に遊び、逍遥するもの。世界と友たるもの、とでも言いましょうかねえ」
私はそれを聞いて、くすりと噴き出してしまう。それは、彼のことだ。なるほど仙人の子は仙人ということか。
「まるで、あなたのことですわね」
「いえ、私などはまだまだ。……それよりも、あなたが見てきた世界を、もっと私に教えてはくださいませんか」
私もまた、彼のような仙人になれるだろうか。私はこの一月に見てきた世界を思い返す。
「はい――」
そして私は語る。私が触れてきたたくさんの命たちの物語。
静かに根を下ろし胸を張って生い茂る草花の話を、大地に聳 えるたくましい巨樹の話を、そこに這う小さくも力強い虫たちの話を、優雅に天を舞う鳥たちの話を、雄々しく大地を駆ける獣たちの話を、そして、喰らい喰らわれあう、悲しくも美しい命の連なりの物語を。
彼は私が言葉を紡ぐ度ごとに目を輝かせ、時に小さく、時に大きく頷いて笑みを浮かべる。そして、その彼の仕草に促されるようにして、私の口からは絶えず言葉が滑り出していく。その話をしている間中、私は幸せで、満たされていて、胸は喜びで一杯で、本当に夢のような時間だった。
けれど、夢は終わりが来てしまう。話すことが尽きてしまうと、私は残念な思いに駆られる。もっともっと、色んなことを見てきたはずなのに、言葉にしてしまえば零れ落ちてしまう。そのことが寂しくて、私は歯噛みした。
「ああ、もっと話したいことはあったはずなのに、いけませんわ。あの美しさを語る言葉を、私は知らない」
「いえ――素晴らしいお話でした。本当に、この世界を愛しているのですね」
「はい。けれど、私がこの世界を愛せたのは、あなたのおかげです。あなたが手を引いてこの世界を見せてくれなければ、私はきっといつまでも退屈な日々を送っていましたわ。……本当に、ありがとう」
彼と出会って、そしてあの朝日に照らされたこの世界を見るまでの記憶を手繰っても、ただの薄闇しか残ってはいなかった。ほんの少し手を伸ばせば、そこにはこんなにも愛おしいものがあったというのに、何と勿体無い時の過ごし方をしてしまったのだろうかと、私は今更ながら後悔する。
でも、思い出はこれから作っていける。何度でも振り返り、その度に笑顔になれるような、そんな思い出を作っていきたいと、今、私はそう願う。
「んふふ、そんな素敵な話を聞かせてくれたお返し――と言っては何ですが、私のほうも、少し面白いものをお見せしましょう」
そう言うと、彼は懐から酒瓶を一つに小さな椀を二つ、そして藁で編んだ人形を一つ取り出す。そして、その人形に何かを書いた紙を貼り付けると、それらを地面に置いた。
するとどうだろう、人形がひとりでに動き出し、酒瓶を持ち上げて椀に酒を注ぎ、それを私に恭しく差し出してくるではないか。私は驚いて、しばらくの間ぼうとしていたが、人形が急かすような仕草で勧めてくるので、一言礼を言って受け取った。
「これは、一体」
「この世界に、力をほんの少し分けてもらったのです。……そうですねえ、この徳利からこのお猪口にお酒を注ぐにはどうすればいいでしょう?」
「それは――こうして」
私は手で酒瓶を持ち上げると、それを傾けてもう一つの椀に酒を注ぐ。
「そう。お酒を注ぐ、という目的を達するためには、まず徳利を持ち上げ、そしてそれをお猪口に向けて傾ける、という手段を取る必要があります。その手段こそを式と呼び、それに使う道具を式神と呼びます。あなたが今なさったのは、言ってみればご自身の手を式神にしたということですね。そして今私がしたのは、この世界の一部としての人形に語りかけ、式神となっていただいたのです。もう少し世界と仲良くなれば、この徳利をそのまま式神に、ということもできるのですが、私はまだ未熟ですからねえ」
人形はなおもとてとてと可愛らしく歩いている。私は、世界と仲良くなる、という言葉に強く惹かれていた。
「私にもできるでしょうか。この、式神を使うこと」
「勿論。これほど世界を愛しているあなたなら、きっとすぐに私などよりも上手に扱えるようになりますよ。……そうですねえ、もう少し詳しい話をいたしましょうか。世界に語りかけるには、当然世界の言葉で語らねばなりません。世界のあるがままの姿を捉え、そこにある法則を見出し――」
彼はとても熱心に教えてくれた。世界の言葉を知るために、過去多くの先人たちが自然に遊び、そして今伝えられている式があるのだと。その一つ一つを、私は夢中で聞き覚えた。
「……とまあ、私に教えられるのはこのくらいでしょうか。簡単なものから練習してみてください。それでは、この子も随分と急かしてますからね。お酒をいただきましょうか」
私ははたと、手に酒の入った椀を持っていたことを思い出す。話に没頭するあまり忘れてしまっていたらしい。なぜか少し、顔が熱くなる。
「は、はい。いただきましょう。ええと――あ」
「いかがなさいました?」
私は突然、あることに気が付く。
「考えてみれば、私はあなたの名前も知りません。何と、お呼びすればいいのでしょう」
そう。私は彼のことを何も知らない。社に仕える、というようなことを言っていたような気がするが、それ以外のことは本当に何も知らないのだ。
「ああ、いや、名乗るほどの名は……」
彼は顔を赤くして首を小さく横に振る。しかし私が訴えるように視線を送り続けていると、彼は観念したという様子で、私の耳元で自分の名前を囁いた。
力強い響き、そして真っ直ぐな意思を感じさせる名前だった。私は、彼の名前を小さく呼んでみる。
「ううん、何というか、少し恥ずかしいですねえ。実を言うと、その名はあまり呼ばれ慣れていないのです」
「と、言うと……?」
「ええ、里のものは皆、私のことを、神主、などと呼んでいます。まあ、実のところはただの禰宜 なのですが――ですから、そう呼んでくださったほうが、何というかその、ありがたい」
「うふふ、それでしたら、そう呼ばせていただきますわ、神主さん。けれど、あなたの本当のお名前も、たまには呼ばせてくださいね?」
私がそう言うと、彼――神主さんは照れたように頭を掻きながらうつむいた。私は可笑しくなって、小さく笑みを零す。
「ああ、いけません。こんなときは酔ってしまうに限る。ささ、スキマ様からどうぞ」
「はい、いただきます」
私は椀を傾け、酒を味わう。彼もそれを見て、先ほど私が注いだ酒をぐいと飲み干した。するとまた、先ほどの人形が瓶を持って酒を注ぎにくる。私が頭を撫でてやると、何やら照れくさそうな仕草を見せた。
「本当にこの子は、式で動いているだけなんですの? まるで生きているみたい」
「ええ、まあその通りなんですが……ただ、こういった生き物を模ったものを式神としてあまり長く使うと、魂が宿ってしまうこともあるのだそうです。この子はまだそんなことはないと思いますが」
「へえ……本当に博識ですのね。……ねえ、今度は神主さんの話を聞かせてくださらない? あなたがいつもどんな風に過ごしているのか、興味がありますわ」
「いえ、そんな。私の話など退屈させてしまいます。お聞かせできるような話ではありません」
「退屈かどうかは私が決めることですわ。お願い、聞かせて?」
「これは参りましたねえ――」
そして、私は彼と酒を酌み交わしながら、彼の話を聞かせてもらった。普段は里でどんな暮らしをしているのか、そして彼にはたくさんの友達がいることや、彼が仕える社に住まう神様が、いかに素晴らしいものであるのかなど、酔いが回ってきたお陰もあってか、彼は話し始めたときからは打って変わって、饒舌に語ってくれた。
「……決して争うことなく全てを受け入れてみせたという、あのお方に仕える一族の裔 として生まれたことを私は誇りに思うのです。私もいつか、あのお方のようになりたい」
大地を司り、そこに生きるものと相和する神。それが彼の仕える神様なのだという。私もまた、彼の語るその神様の物語を聞き、その生き方に惹かれていた。
「……神主さん。命たちと、相和する。そんな生き方が、私にもできるでしょうか。……私は境界。どこにも属さず誰とも交わらぬもの――そんな、私が」
「勿論ですとも、スキマ様。あなたも――」
「……いや」
「スキマ様……?」
そう呼ばれて、私は胸に針を突き立てられたように感じた。彼が先ほど、楽しそうに友達の名を呼んでいたのを聞いて、私はずっと寂しく思っていたのだ。
「私も……私も、名前が欲しい。スキマ様なんていう、守り神の名前じゃなくて――あなたに、呼んでもらうための名前が」
それは、境界の別名なのだ。私が境界である限り、きっと私がようやく望めた生き方は叶わない。彼の仕える神様のように、そして何より彼自身のように、自然に交わり、仲間たちに囲まれて生きるような、そんな生き方は。
だから私は、名前が欲しかった。守り神としての頸木にとらわれぬ、ただ一人、代わりのいない私自身としての名前が。
彼はじっと押し黙っている。何を考えているのかはその表情からは読み取れない。私は居た堪れなくなって視線をそらした。
「ごめんなさい、変なことを言ってしまって。……そろそろ、夜明けですね。空が白んできている」
「……ああ、本当だ。もうこんな時間になってしまいましたか。名残惜しいですねえ」
そして私たちはまた二人、朝日に照らされた世界を眺める。一月ぶりに見るそれは、前に見た以上に美しく、愛しかった。
眼前に広がる色、色、色。けれど私は、二度この世界を見渡し、一つの確信を得ていた。
「ねえ、神主さん。色んな色をこうして眺めて、私、ようやく気付けたんです。私はあの、私をずっと見守ってくれていた紫色の空が大好きだったんだって。……大好きな色に包まれていることにも気付かずに、ずっと退屈だなんて思っていて……私、本当に馬鹿ですね」
目の前に広がるどんな色より、私はあの静かで荘厳な色を愛していた。少し、この世界を見せてくれた彼に失礼なことを言っているだろうか、と思ったが、彼は笑って頷いた。
「ええ、自分が本当に愛せるものは何なのか、そればかりは色んなものを見て、触れて、そうしなければわかりませんからねえ。……あなたがそれを見つける、そのお手伝いができたのなら、私はそれだけで幸せです」
その笑顔は、本当に私の見つけた幸せを喜んでくれていて、どこまでも眩しかった。そして、胸に満ちた喜びは、私を幸せな夢へと誘 う。
「ああ、もう眠る時間のようです。……また、望月の夜にこの木の下で会いましょう」
私は彼に寄り添って目を閉じる。瞼の裏には、しっかりと焼き付けた世界の色が、確かに映っていた。
*
目を覚まして空を見上げると、私の愛した色が世界を包み込んでいた。どんな時も、私の目覚めと眠りを見守っていてくれた色。私は目を瞑り、静かに感謝する。
私は周囲を見渡すと、大きく丈夫な落ち葉を探した。手ごろなものが見つかると、それを爪で人の形に切っていく。
私は一つ、次の望月までの目標を立てていた。それは、自然と語り合い、新しい式を見つけることである。そのためにもまずは、彼に教わった式を習得しようと思った。
人差し指の先に歯を立て、そこから流れる血で彼に見せてもらった札と同じ紋様を木の葉で作った人形に描く。その紋様が持つ一つ一つの意味を強く念じ、私は世界に語りかけた。
すると、ひょこひょこと木の葉の人形が歩き始める。やった、と思った次の瞬間にはもう倒れて動かなくなってしまったが、ほんの一言二言だとしても、この世界が私の言葉を聞き入れてくれたのだと思うと、胸が熱くなった。
私は夢中で言葉を世界に伝える練習をした。初めは二、三歩だけだったのが、四歩歩くようになり、五歩歩くようになり、月が出る頃には十歩ばかり歩くようになった。私は嬉しくて、心の中でありがとう、ありがとうと何度も世界に感謝を告げる。
どれくらいそうしていただろうか、微かな足音が耳に届いてきた。人形を懐にしまい、私はまた、迷える人間を導くためにそちらへ足を運ぶ。
見つけた人間の肩に手をかけると、その人間は酷く驚いて飛び上がり、恐怖のあまり前後のつながらないことを喚き散らした。
私は寂寞とした思いにとらわれる。やはり、自分のことを知ってもらえていないというのは、少し寂しい。それでもいつか知ってもらえればいいと思い直し、私は肩から手を離す。
無事にその人間を住処まで見送ると、私は少しの間、遠くから薄闇の下に軒を並べる人間たちの家を眺めていた。日の光の下で、人間たちが営む生活を胸中に思い描く。
私は考える。もしも私が守り神としてではなく、人として生まれていたなら、どのように生きたのだろうかと。
両親に名前をもらい、友と笑いあい、そしていつか、愛する人と結ばれる。そんな慎ましやかな幸せがあったのだろうかと。
私は頭を振ってその考えを振り切る。たとえ不幸であろうと嘆かず生きていこうと言った彼の言葉を思い出したのだ。それに私は決して不幸などではない。信頼してくれる人間たちがいる。彼らを守れる力がある。私にしかできないことがある。そして何よりも、私はこの世界の美しさを知っている。人として生まれようと、私のような幽けきものとして生まれようと変わらぬ幸せがここにある。
私は改めて、この世界に引き合わせてくれた彼に、心の中で感謝を告げた。
それからも私は式の練習を続ける。時を忘れて興じていると、気付かぬうちに空は紫に染まっていた。
私は、どうか私の眠りを見守っていてくれと、空に願いを捧げる。そしてあの木に体を預け、私は夢を結んだ。
*
満天の星空の下、私は木の葉で作った式神たちを踊らせていた。十ばかりの人形が輪を作り、くるくると楽しげに回っている。その内の一つがつまずき、倒れてしまうと、隣のものがそっと手を差し伸べる。そして手を取り合い、再び舞い始めた。
今夜は望月である。私は彼に、自分が見つけ出した式を見せたくてうずうずしていた。
彼に教えてもらった式を、全てそれなりに使えるようになった頃、私は一つ、あることを願うようになった。
空を、飛びたい。
何ものにとらわれず、ただ己の心の赴くままに生きるための翼がほしい――それが叶わぬことだとは知っている。私にはどうしても、この生き方しかできぬのだということは知っている。
だからせめて、比喩ではなくとも空を飛びたいと願ったのだ。本当に空を飛べたなら、いつかそんな叶わぬ願いが叶う日が来るかも知れないと、そう思いたかったから。
それから私は、よく風と語り合うようになった。風の肌触り、その温度、そしてどんなときに風は吹き、また凪ぐのか、それらを細やかに観察した。どんな微かな風の音も聞き逃さず、私は起きている間中、ずっと風と戯れていた。
そんな暮らしを十日ばかり続けていると、突然、風の動きが手に取るようにわかるようになった。それはまるで風が私に語りかけてくるようで、私は風と友になれたのだと、それが嬉しくて、私は小さく歓喜の声を挙げた。
風に語りかけるための言葉も、そのうちにわかるようになった。手で扇げば風が起こるように、風が吹くときに語る声を私が語ることで、風はそれに応えてくれるようになった。
そして私は風に語りかける。どうか私をあの空へ導いてくれと、私の式神となり、願いを叶えてくれと、私は森の中に吹く微風 を集めた。
僅かずつ風は強くなり、木の葉が舞い踊る。そしてその風は私の周りに集中していき、そして――
私は、空を飛んだ。
遥か空の上から眺める世界は、大地に立って見たときよりもなお美しく、雄大だった。風にざわめく木々。月明かりの下に息づく獣たちの声。遠くには人間の住む里も見える。更に見上げれば、遮るもののない満天の星空が広がっていた。
森の外に出たのは、それが初めてだった。そのとき私は、確かに何にも縛られることなく、ただの一人、私自身として在れた。
そして今、私は夢想する。彼と二人、どこまでも遠くへ飛んでいけたら。二人空の上、全てのしがらみを離れ、ずっとこの美しい世界を眺めていられたら――
そんなことを考えていると、式神たちの踊りが終わりを迎える。
次はどんな踊りを舞わせようかなどと考えていると、遠くから、彼の足音が聞こえてきた。今夜は道を定めたわけではないが、しかし真っ直ぐにこの木の元へと歩を進めてくる。この木までの道程を知っているのは彼の他にいるまい。
鼓動が高鳴っているのがわかる。更に足音は近づき、そして、薄闇の向こうから、彼の痩せた体躯が姿を現した。
「今晩は、神主さん。ここまでの道、覚えていてくださったんですね」
「…………」
「神主さん……?」
彼はどこか沈痛な面持ちで、じっと押し黙っている。私が妙に思い、戸惑っていると、彼はゆっくりと口を開いた。
「……この前、あなたは言いましたね。あなたは境界なのだと、どこにも属さず、誰とも交わらぬものだと」
私の心がちくりと痛む。もしや私の言葉が、彼に要らぬ重荷を負わせてしまったのではないかと、そう懸念したのだ。
「いえ、あれは……その、酔いに任せて変なことを口走ってしまっただけですわ。だからそんな……そんな悲しそうな顔をしないでください」
私の言葉を聞いて、彼は小さく頷く。しかし表情を変えることはせず、言葉を続けた。
「私は、あれからずっと考えていたのです。私は、誰かと真に交わることなどできているのだろうかと。けれど、考えて考えて、それはきっと誰にも叶わぬことなのだと、そうわかった」
ぽつぽつと、漏らすように彼は話し続ける。その悲痛な表情が耐え切れず、私は目を伏せる。
「この世の誰も、他の命と交わることなどできはしない。一つ一つの命は、どうしようもなく断絶しているのだと。……ただ」
ただ、と続けた言葉に熱が篭ったのを、私は聞き逃さなかった。視線を上げると、彼は真っ直ぐに私を見つめていた。
「ただ、そんな断絶した個々の命は、触れ合うことができる。そして、触れ合えばそこには、境界が生まれます。それは、慈しみあう仲かも知れない。憎みあう関係かも知れない。けれど、そのどれもが、掛け替えのない絆だ」
境界――掛け替えのない、絆。
私は理解した。彼はこの一月、ずっと私を救うための言葉を探し続けていたのだと。私はこみ上げてくる喜びに堪えきれず、涙を流していた。
「だからあなたは、命を繋ぐ絆になればいい。たくさんの命たちの絆――そう」
彼は少しだけ間を置いて、あの穏やかな視線で私を見つめる。そして。
「八雲の――紫 」
それが――
私の、名前。
「八雲は、たくさん。紫は、縁 、絆という意味です。……この名をもしも、気に入ってくれたなら――」
「神主さんっ!」
私は思わず彼に抱きついていた。胸の奥で渦巻いているたくさんの感情を、私はどうすればいいのかわからなくて、衝動的に彼に飛びついていたのだ。
「ありがとう。あり、がとう。嬉しい――嬉しい、よお」
私はまるで子供のように泣きじゃくっていた。彼の細い腕が私を包む。微かな体温が着物越しに伝わってきた。その温度こそが私たちを繋ぐ絆なのだろうかと、私は心の一番奥の部分で思う。
「紫さん――」
彼が私の名前を呼ぶ。それは私の心に染み込んでくるようで、その声が私を、他の誰でもない、八雲紫にしてくれるのだと、私はそう思った。
それからしばらくの間、私は泣いていた。この目から溢れ出してきているのは、この胸に収まりきらなくなった喜びだ。
「夢、みたいです。私、こんな、わがままで、神主さんのこと困らせて、でも――本当に、本当に、嬉しい――」
彼は静かに泣いている私を抱きしめていてくれた。ようやく気持ちが落ち着くと、抱かれたまま彼と目を合わせる。
「ねえ、神主さん。見せたいものがあるんです。しっかりと、掴まっていて」
そして私は風を集める。彼と二人、どこまでも高いところまで運んでくれと、私を縛る鎖を解き放ってくれと、そう語りかけた。
「何と――」
ふわり、と私たちは宙に舞う。彼は驚き、目を丸くしていたが、空からこの世界を眺めると、慈しむように目を細めた。
「紫さん、これは――」
「私は、この一月、ずっと私の願いを叶えてくれる式を探していたんです。私の願い――どんなことにも縛られることなく、私としてだけ生きたい。だけどそのための式なんて、ないって思って諦めて、だからせめて、大地からだけでも解き放たれたいとそう思って、私、この式を見つけました。だけど――」
空の上から彼と二人で見渡す世界は、一人で見たときよりもずっと輝いていた。私は視線を彼の目に移して言う。
「だけど、違った。あったんです、私の願いを叶えてくれる式が。八雲紫――あなたがくれたこの名前が、きっと自由に生きるための翼になってくれる。そう、どこまでも、どこまでも、遠くに――」
これから、私はスキマ様ではなく、八雲紫として、人間たちを守っていくのだ。そしていつか、彼だけではなく、もっと多くの人間たちに、そのことを知ってもらいたい。この名前はきっと、私をその場所へ導く式になってくれる。
「ああ――何と雄大で、壮麗なのでしょう。この大地は――紫さん、私も、あなたが見つけたこの式で、自由を得られた気がします。縛られぬからこそ、力強く望むことができる。……私は大地をしっかりと踏みしめて生きていきたいのだと、その望みは空しいものではなく、心からの望みだったのだと、教えてもらいました」
私は彼の言葉を聞き、誇らしく思う。私があの紫色の空を愛していたことを教えてもらったように、彼に返せたものがあった。
「はい。だけど今はもう少し、こうして眺めていましょう? あなたと――私が愛した、この大地を」
彼は深く、深く頷く。私たちは確かにそのとき、何にも縛られてはいなかった。
*
あれから三度ばかり、月が巡った。あれからも私は、人間たちの守り神として森に住んでいる。
しかしそれは、その生き方しかできないから、ではない。私は八雲紫として、この生き方を選んでいるのだ。それは、この森に住む命たちを愛しているからであり、この連理の枝のそばにいたいからであり、月に一度の彼との逢瀬を楽しみにしているからであり、そして何より、か弱い人間たちを、この手で守りたいからだ。
人間を殺さずともいいのだと知ったあのとき、殺さないことを選び取ったあのときから、あるいは私は本当の意味で私になれたのかも知れない、などと今では思う。あの選択こそが、初めて私の意志を世界に表明した行為だったのだ。それまで私は――彼に言われたように生命と語り合っているときですら――誰かに言われるがまま、決まっていることを決まった通りに行ってきたに過ぎなかった。
自らの望みを偽ることなく世界に立ち、向かう。それこそが私の憧れた彼の姿だ。今、私はその場所に近づけただろうかと、ほんの少し自惚 れてみる。
そうしていると、また一人、迷える人間の足音が聞こえてくる。私は足早に救いを求める人間の下へ向かう。
しかしその人間は、妙に落ち着いた足取りで歩いていた。私は少し不思議に思い、首を傾げていたが、あるいはこの人間も、彼と同じように闇を愛するものなのかも知れないと、この人間とももしかしたら友になれるかも知れないとそう思って、胸を弾ませて肩に手を置いた。
「……へんっ、どうせ襲ってきやしねえんだろ。とっとと消えうせろい!」
その人間が放った拒絶の言葉に、私は胸を抉られたような心地になる。この人間が落ち着いていたのは、闇を愛しているからではなく、闇に呑まれることなどないと、そう信じていたからなのだと知り、私は落胆した。
彼は違った。闇を畏れて、それでもなお己の願いを貫くために闇に手を浸したのだ。目の前にいるこの人間に、あの美しさは見出せなかった。
それでもどうにか気を取り直し、私はその人間を住処へと送る。道すがら、私は色々のことを考えていた。
命は、どれもが違ったものの見方をする。誰かが愛するものは、他の誰かにとっては憎悪の対象になるし、誰かが喜ぶことも、他の誰かにとっては悲しみを生むばかりのことであったりする。それが、彼と出会ってから命と語り合い、私が見つけた一つの真実だった。
それでも、そのどれもが掛け替えのないこの世に一つの命なのだ。私は、愛も憎しみも、喜びも悲しみも、その全てを認め、受け入れてあげたい。
だからたとえ、私を憎むものであろうと、畏れぬものであろうと、私は守ってみせる。命の中に渦巻くその想いを、丸ごと愛してみせる。その覚悟を貫き通すことが、私が八雲紫である証明であるのだ。
その信念のもと、無事に人里へと辿り着かせることができた。しかし、去り際にその人間が呟いた言葉に、私は衝撃を受ける。
「けっ、何がスキマ様だ――」
――私のことを、知っていたのか?
その名を知っているのならば、呪いの言葉を知らぬということはあるまい。それなのになぜ、唱えることをしなかったのだろうか。
じわりと背中に冷や汗が浮く。自分が立っている場所が揺らいでしまったように感じた。もしかすると、私は何かとんでもない過ちを犯しているのかも知れない。あるいは、私が抱いていた守り神としての誇りなど、幻想に過ぎなかったのかも知れないと。
いや――違う。そうではない。私の誇りは人間たちを守ること。人間に認められるためにしているのではない。ただ掛け替えのない一つの命を、この手でもって守り抜くことが、八雲紫の誇りなのだ。
しかしそれでも、不気味な感覚は拭えなかった。くらりと軽い眩暈を覚える。まるで人間たちの信頼が、私から遠のいていくような、そんな感覚に私は戦慄し、呆然と立ち尽くしていた。
*
今夜は朔である。月のない空に浮かぶ星々はいつもよりその輝きを増して、この大地へ柔らかな光を届けていた。
あれから一人、呪いを唱えてくれる人間に出会った。私は唱えられた言葉を聞いて、大いに安堵した。
やはり、いくらそれだけを求めているわけではないとはいえ、人間たちが自分を信頼してくれているとわかるのは嬉しい。私は改めて、自分が人間たちを愛していることを確かめる。
しかし一つ、気がかりなことがある。あれから思い返してみると、人間たちが呪いの言葉を唱えることが少なくなっているように感じたのだ。それに、夜に山中に迷うものも増えているような気がする。
あのときの人間のように、闇を畏れぬものが増えているのだろうか。だとすれば、それはあまりにも悲しいことだと私は思う。
畏れぬということは、闇の向こうにあるのが日常であると信じることだ。もはや二度と日常へは帰れないかも知れない、だからこそ人間は闇を畏れる――それは彼に教えてもらったことだが、私自身もその言葉の意味を考え、自分なりに理解していた。
日常と異なる非日常。それは例えば怪我を負うことであったり、血を流すことであったり、あるいは、究極的には死んでしまうことだろう。闇に手を浸すということには、常にそのような危険が付きまとう。それ故に人は闇を畏れるのだろうと。
しかし、非日常とはそればかりではない。闇の向こうにある、自分の知らなかった世界。それが自分の知らなかった感情をくれる。今まで知らなかった喜びや楽しみや幸せをくれる何かが、闇の向こうには待っているかも知れないのだ。それは正しく、彼が不断に求め続け、そして私を救ってくれたことなのである。
闇の向こうに延々と日常が広がっているばかりなのだとすれば、確かに怖れる必要はなくなるのだろう。心の安寧を得られるのだろう。しかしそれは同時に、そんな闇の向こうの喜びを否定することでもあるのだ。
――人はそれを望むのだろうか。
もしもその喜びがあると知りながら、それでも恐怖に堪えられぬというのならば、それはそれで仕方がないのかも知れない、とも思う。しかし、しかし私は――
遠くから乱暴な足音が聞こえてくる。その足音の主もまた、きっと闇を畏れぬものなのだろう。私は悲しみに暮れながらも、恐怖に堪えられぬ、そんな弱い人間たちにせめて安心を与えてあげたいとそう思い、そちらへと足を運ぶ。
進んだ先にいたその人間は、今まで守ってきた人間たちのように怯えているわけでもなく、かといって彼のような清い諦念を持った足取りでもなく、粗野で、どこか無気力な歩き方だった。私は溜息を飲み込んで、その人間の肩に手を置く。
しかし、その人間は歩みを止めることをしなかった。どうしてしまったというのだろうか。私はもう一度、少し力を強めて肩を叩いてみる。
すると、その人間は少しの間だけ足を止めたが、やはりまた意に介さぬという様子で再び歩き始める。私はせめて迷ってしまわぬようにと、肩に手を置きながらその人間が進むべき道程を定めていた。
そのまま、どんどんとその人間は歩き続ける。そしてそのまま人里の見える場所まで辿り着いた。私はここまで来ればもう大丈夫だろうと、肩から手を離す。
「……やっぱりだ」
その人間は何か不可解なことを呟いた。私は奇妙に思い、その人間の言葉に注意を向ける。
「やっぱり嘘っ八だ。スキマ様なんてもん、この世にいやしねえ!」
*
その言葉を聞いたとたん、唐突に、私の視界は完全な闇に閉ざされた。今までの薄闇とは違う、無限に広がる果てのない深淵。あまりにも唐突な事態に、私は混乱する。
――一体、何が。
何が起きたのかと、光を求めて私は星空を見上げようとする。
しかし、体が動かない。いや――違う、そうではない。動かないというよりも、これでは、まるで――
その底知れない不安を和らげようと、私は肌に触れる風の感触を求める。しかしそれも空しく、あの柔らかな風の手触りを得ることは叶わなかった。
そして気が付いてみれば、葉擦れの音も、草木の香りも、私が愛した世界の何もかもが私の下へ届いてきてはくれていなかった。
不安は徐々に確信へと変わっていく。今、私は、世界に触れるために必要なものを、失っているのか。
私は――私の体を失ってしまったというのか?
世界の色を見るための目も、生命の叫ぶ声を聞くための耳も、愛しい手触りを伝えてくれる肌も、匂いたつ生命の香りを嗅ぎ取るための鼻も、何もかもが失われてしまっている。
触れられない、感じられない。まるで世界が遥か遠くに行ってしまったようで、私は絶対の孤独を突きつけられたように感じていた。
何故、どうして。
その問いに答えるものは誰もいない。仮にいたとしてももはやその言葉を聞くことは叶わないのだ。
できることはただ考えることだけ。考えたところで、出した答えを世界に伝えるための手段も失ってしまっているけれど。
私は怖ろしい考えに囚われる。もしやこのまま、今ここで思考している自分自身さえも、このまま消えてしまうのではないかと。
――消える。私が、いなくなる。
それは――
いやだ。怖い。消えたくない。
何故消えなければならぬのか、それすらもわからぬうちに消えてしまうわけにはいかない。
――怖いよお。誰か、助けて――
そう叫んだつもりだったが、もはや振るわせる喉もない。その声は、響くことも叶わず闇へと消えていった。
何もできないまま時ばかりが過ぎていく。いや、時が流れているのかどうかさえもはやわからない。あるのはただ心の底から湧き出る絶望ばかりである。
そうしていると、だんだんと頭が――その表現ももはや似つかわしくないが――ぼうとして、眠気のようなものを催してくる。
私は、このまま眠ってしまえばきっともう二度と目覚めはしないだろうという、絶望的な確信を覚えていた。
怖い――怖い、怖い、怖い。消えてしまいたくない――
私は必死でその眠気を振り払おうとすが、しかし睡魔は着実に私の精神を蝕んで、行ってしまえば二度とは帰れぬ闇の底に私を沈めようとする。
いやだ、何故、何故こんな。消えたくない消えたくない消えたくない――
ああ――
もう、もう。
限界だ。私は――このまま、消えて――
――神主さん。
彼のあの笑顔が、脳裏に浮かんだ。せめて、せめて最期にもう一度、会いたかった――
「紫さんッ!」
*
私の名前を呼ぶ声が聞こえたかと思うと、底知れない深淵は跡形もなく消え失せていた。私は怖る怖る、指先を動かしてみる。
動く、動く。
何度も確かめるように、繰り返し手を握り締めては開いてみる。手の動く感覚が、涼やかな空気が触れる感覚がしっかりと伝わってくる。
私は周囲を見回す。力強く咲く花に、聳える木々。空には満天の星空。そして目の前には――
「紫さん、良かった。目が覚めたのですね――本当に、良かった」
「神、主さん――」
満面に涙と安堵を湛えた彼の顔があった。彼は泣きながら私を抱きすくめる。
「あ、ああ。怖かった、怖かったよお。う、えっく。う、わあああああぁん!」
私もまた、あの底の見えぬ孤独の淵からの解放に安堵すると、感情が抑えきれなくなって号泣していた。
二人、抱き合って、涙を流して、そうできるということが嬉しくてたまらなかった。
「……落ち着いてきたみたいですね、紫さん。……大丈夫、ですか?」
「はい……ごめんなさい、見苦しいところを見せてしまって。でも……何故神主さんが。今夜はまだ、朔の――」
「何を――今夜は、望月です」
「え――」
再び顔を上げて空を見ると、確かに月は真円を描いて煌々と輝いていた。
再び、不気味な怖気が走る。
あれは――やはり夢や幻覚の類ではなかったのだ。
あれから彼が見つけてくれるまでの間――私は、八雲紫はこの世にいなかった。
ぶるりと体が震える。
「それで、いつものように、あの木の所へ行ったのですが、あなたはそこにはいなくて――そしてそのとき、嫌なことを思い出してしまったのです。近頃、妙な噂話がありまして、この森に、スキマ様――」
彼はその名前を、少し言いにくそうにしながら言葉を続ける。
「――その、守り神などいないと、そんな噂が立っていたのです。それで、不安になって、私はもう二度と、紫さんに会えないのではないかと――」
その噂話は――恐らくは正しいのだ。彼に、この世界に再び連れ戻してもらうまで、私はこの世界にいなかったのだから。
「必死で、必死で紫さんのことを捜して、もう駄目なのだろうかと諦めかけて、それでもやっぱりもう一度紫さんに会いたくて――だから、ようやくあなたを見つけたときには本当に嬉しかった。でも、ようやく見つけたあなたは、まるで糸が切れた人形のように力なく横たわっていて、それで、何度も必死で呼びかけて――ああ、本当に、良かった――」
そう彼は繰り返す。見てみれば、着物の裾には多量の血がついていた。立っているだけでも辛いのだろうに、私のために、痛みも堪 えて、森中探し回って――
「ごめん、なさい。ごめんなさい神主さん。私なんかのために、そんな酷い怪我――」
「……違います。私があなたに会いたかっただけなんです。あなたのためだなんて、そんな大それたことは考えられませんでした。だからどうか、お気に病まないでください」
「……本当に、優しいんですね。なら――ありがとう。そんなに――そんなに私のこと――」
想ってくれて――
最後のほうは嗚咽に混じって、自分でもよく聞き取れなかった。
しばらくの沈黙の後、彼が切り出す。
「一体、何があったのですか。どうしてあんな」
「……それが、私にもわからないんです。本当に、いきなりで――」
私は、どうにか冷静になって、一つ一つ記憶を手繰っていく。
「――そう、突然、目の前が真っ暗になったんです。それが、朔の夜のことでした。それで、光も、音も、香りも、何もかも、私は感じることができなくなって――」
思い出すだけでもぞっとする。あんな思いは、もう二度としたくはない。今こうしてこの世界に立っているということが、本当に幸せなことに思えた。
「それで、体も動かなくて――違う、そう、あれは――動かせる体がなくなってしまっていたんです。世界を感じて、そして私の意志を世界に伝えてくれる、私の、この体が」
彼は神妙な顔をして私の話に聞き入っている。
「それで、意識だけが残って――それもだんだん、薄れていって――でも、そのとき、あなたの声が聞こえて、それで戻ってこられたんです。本当に――怖かった」
思えば、私は今まで恐怖するということを知らなかった。あれが、人間の言うところの死だとするのならば――
――生き物は、いつもあんな恐怖に耐えているのか。
目を逸らしたがるのも道理なのかも知れない、と少しだけ思う。
「大丈夫……大丈夫です。……何故、そんなことが起こったのか、お心当たりはありませんか」
私の背を撫ぜながら、彼は柔らかな声音で私に問う。しかし、彼もまた、声の震えを隠しきれてはいなかった。
私はあのとき、あの闇に鎖 される前に何があったか、それを思い出す。
「……人が一人、迷っていたんです。私、いつものようにその人間の肩に手をかけて――でもその人間は、それを無視して歩き続けて、そのまま人里まで着いたから、肩から手を離して――」
そして。
スキマ様などこの世にいない――
「……そう、その人間はそう言ったんです。その言葉を聞いたとたんに、私は――」
彼は顔を顰 めて、何か考え事をするように視線を伏せる。何を考えているのだろうか。
「それは……いや」
彼は一瞬口を開くが、すぐに閉じてしまった。何を言おうとしたのかは、表情からも伺えなかった。
「……とにかく、今は無事にこうしていられることを喜びましょう。……大丈夫、心配要りません。きっと、何とかなる」
――本当に、そうならいいのだけれど。
私はどうしても不安が拭えない。また眠る時が来たら、もう二度とは目覚めないのではないのかと、私は――恐怖していた。
彼に宥められ、時を過ごすうち、やがて朝日が昇る。色鮮やかな世界はやはり美しくて、しかしだからこそ、もう二度とこの世界に戻れないかも知れないと思うと、不安に押し潰されそうになってしまう。
「……怖いんです、神主さん。私は、眠るのが怖い。だけど、やっぱり、起きてはいられないみたいです。眠気が――私を蝕んで、ああ――怖い、よう」
その恐怖を吐き出してしまわなければ、私は耐えられなかった。彼にその不安を押し付けて、そうして自分の安定を図っている自分が情けなくて、私は歯噛みする。
「紫さん――」
「あ――」
彼は、何も言わずに私を抱き締めてくれた。彼の胸は温かくて、私は母に抱かれる子供のように、安堵に満たされる。
「……大丈夫、何も心配しなくていい。必ずまた、会えますから――今は、お休みなさい。紫さん」
ああ――
そうだ、彼がそう言うのだから、きっと何も不安がることなどないのだ。彼の言うことなら、私は何だって信じられる。
必ずまた――会える。
私は瞼を閉じ、眠りの世界へと溶けていく。意識が途絶えるその間際まで、彼の感触を確かめながら。きっと今日もまた、素敵な夢が――待っている。
*
眠りから意識を取り戻すと、私は手に触れる風の感触を確かめる。木々の香り、空には十六夜 の月。
大丈夫、私は確かにここにいる。この世界に立っている。
彼の言うとおり、きっと不安に思うべきことなど何もなかったのだ。これからも私は、八雲紫は、人間たちを守るものとして、この森で生きていくのだ。大丈夫――
私はあの木のところまで帰ろうと、歩み始める。帰り道でも、たくさんの命と触れ合い、私がここにいることを確かめる。
暫くして辿り着くと、あの木は変わらぬ姿で私を迎えてくれた。いや、この前よりもほんの少し大きくなっているだろうか。幹の中ほどからも、新しい枝が生えている。それにしても、随分と急に大きくなったものだ――
と、そこまで考えたところで私は思い出してしまう。私は――そう、やはり半月の間この世に存在していなかったということを。
私がいなくとも世界は回り続ける。そんな当たり前のことが、今の私には怖ろしくて仕方がなかった。私が消えることが世界にいかほどの影響も与えないというのなら――
やはり、いつ消えてしまってもおかしくはないのか。
首を振ってその考えを振り切ろうとする。こんなものは、気の迷いだ。大丈夫だ、彼も言っていたではないか。心配することなど――
かさり、と枯葉を踏む音が聞こえてくる。私はその音を聞いて、一瞬だけ体が固まった。気が付けば、手が、足が、体中が震えている。
何を、怖れることがある。と私は自分に問う。答えは見つからなかった。
いや――違う。見つけてしまうのが怖くて、目を逸らしてしまった――のか。
――これでは。
これでは彼と出会う前に逆戻りではないか。自分の内側にあるものだけで自分を無理矢理成り立たせ、本当の喜びを知ることなく生きてきたあの頃に。
それは嫌だ、と私は思いを定める。恐怖に負けてしまわぬよう、必死で体の震えを押さえ込み、私は、足音のするほうへ向かった。
見つかったのは、やはりあの時のように闇に対する恐怖の色をまるで見せていない人間だった。
体の震えが大きくなる。もしや、また同じことになってしまうのではないか。そう思うと、どうしても体が戦慄 いた。
それでも、意を決して、私はその人間の肩に手をかける。その手は、やはりどうしようもなく震えていた。
すると、その人間は立ち止まる。私はあのときの繰り返しにならなかったことに、胸を撫で下ろした。
しかしやはり、その人間は呪いを唱えることはしない。いや、何か――小さな声で、口の中で何かを言っている?
私は耳を澄まし、その人間が呟く言葉を聞こうとする。すると――
「……大丈夫だ、怖くねえ。人喰いの化け物なんていねえ。この森にそんなもんいねえ……」
人喰いの――
――化け物。
私は、唐突にあることを理解した。
私は、そうしたものとしてしか、この世界にいることを許されていないのだ。
何故かはわからない。それにどういう意味があるのかもわからない。ただ私は――
そうしたものであるのだ。
「いやだ」
私は、もう片方の手をその人間の首にかける。
「いやだいやだ」
そしてその手に少しずつ力を込め。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
その人間を、くびり殺した。
「こわいよ」
捻じ切れた首からはだくだくと血が流れている。
「こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい」
そしてその死骸に歯を立てると。
「私は」
骨の一欠片も残さず。
「私はまだ」
喰らい尽くした。
消えたくない――
*
満ちかけた月の浮かぶ空の下、私は自らの肩を抱いて小さく震えていた。上手く体に力を入れることができない。目の焦点も定まらない。消えることへの恐怖と罪の意識が鬩 ぎ合って、私の心はすっかりと荒れ果てていた。
あれから、何人も殺した。もはや私の存在を信じているものなど一人としておらず、呪いを唱えることもしない。私はその度に、殺し、喰らった。
今の私は、ただ与えられた役割を果たすだけの木偶 人形だ。いや、それにも劣る。人形ならば誰かの目を楽しませることも叶うだろうが、私にできることなど、ただ人間を殺すことだけなのだ。
人形、という言葉から、私は彼に教えてもらった式神術を思い出す。定まらない思考のままに、木の葉を一枚拾って人の形に切って、呪文を書き込んでみる。しかし、もう私には世界の声は聞こえなくなってしまった。私自身が――耳を閉ざしてしまったのだろう。
もはや何の意味もない紋様が描かれた木の葉の人形は、ひらりと地に落ちていった。
――私は、どこで間違ってしまったのだろう。
そんなことを考える。私がこの世界を、愛してしまったのが間違いだったとでもいうのか?
ならば、初めから心のない人形として生まれてきた方がよかった。どんなに美しいものを見ようとも、決して心の動くことのないただの人形として。
どうして、どうして。
私は――この世界を愛してしまったのだ――
――紫さん。
彼の声がこの胸の奥から響いてくる。彼と――彼と出会ってさえいなければ――
――違う。それだけは断じて違う。彼と出会って、美しいこの世界に触れて、喜びを知って、それは幸せなことだったと、私は、今でも。
彼との出会いが――間違いでなどあってたまるか。
だけど、それでも、苦しい、辛い。どうして、何故、私だけが、こんな。嫌だ、こんなこと、巫山戯ている馬鹿げている間違っている――
ぐちゃぐちゃと纏まらない思考だけが頭の中を這い回る。そうしていると気が狂ってしまいそうで、だけど、気が狂ってしまえばいっそ何も考えずに済むだろうかなどと考えている自分がいる。
それでも、狂ってしまえない。何故、何故。こんなに苦しいのに、解放されてしまいたいのに。私は、私は。
――かさり、と。
その音に、竦 み上がる。聞き違いだ、と思い込もうとするが、それでもその音は消えてくれず、かさり、かさりと私の耳を掠めていく。
もう、無視してしまおうと考えたことも数度あった。それでももし、私が行かなかったことによって、私が存在しないということを確信されてしまったなら、そのときは――それはきっと私が消えるときなのだ。
それは――怖い。嫌だ。消えたくない。
だから私は、人喰いの化け物としてしか存在できない、私自身を憎みながら、その足音に向けて歩みを進める。それに、万に一つの、一縷の望みも確かにあるのだ。それを――信じたい。
闇を畏れぬ人間が一人。その歩き方を見る限り、やはりそんな望みは空しいものなのだと突きつけられてしまったように感じた。
それでも、それでも。
信じたい。信じさせてほしい。私のことを――人喰いの化け物ではなく、守り神として見てくれる人間がいるということを。
有り余るほどの絶望と、ほんの僅かの希望を込めて、私はその肩に手を置いた。
ぴくりとその人間は肩を震わせる。しかし――
「……気のせい、気のせいだ。そんな化け物いるはずがねえ……」
――どうして。
「どうして」
首に手をかける。私はあの、捻じ切った首から流れる血の感触を思い出し、ほんの僅か躊躇する。
「どうして信じてくれないの?」
その人間は必死でもがき、私の手から逃げ出そうとした。私は徐々に力を込める。しかし力を込めきることができない。ただ無闇に長く苦しめてしまうだけだと頭ではわかっているが、私は。
「本当は、殺したくなんてないのに」
「くぁっ……! かは」
呪いを唱えてくれれば、ただそれだけで殺さずに済むのに。どうして、どうして。
その人間は、暫くすると腕をだらりと垂らす。私は死んでしまったのかと思い、思わず首から手を離した。その人間は大地に倒れ伏す。
ところがその人間にはまだ息があった。私は確実に止めを刺すため、その人間に馬乗りになって首に手をかけようとする。
しかし、そのときその人間は、ぽつりと、こんなことを呟いた。
「……おま、え、が、正しかったよ、かん、ぬ、し」
――神主?
その人間はそのまま息絶えてしまった。その死に顔は妙に安らかで、むしろ私には不気味にさえ思われた。
――神主とは。
まさか。
「いや」
私は。
「いや」
まさかまさかまさか。
「いやあ」
私は、彼の友達を。
「いやあああ」
殺して、しまった?
「いやああああああああああああああああッ!」
他に聞くもののいない慟哭が闇にこだましているのを、自分の声だというのに、私はどこか醒めた頭で聞いていた。
*
私はあてどもなく森の中を彷徨っていた。一つの場所に留まっていると、この私の醜い姿を他の命に見られているようなそんな気がして、居た堪れなくなってしまうのだ。空に浮かぶ月だけは、どこまでも着いてきて私のことを嘲笑っている。
私はもう、疲れてしまった。もう、罪の意識に耐え切れなくなってしまったのだ。私の両手は、血に塗 れている。彼の友達を殺してまで、生きていたいとも思えなくなってしまった。
いや、違う。その私の行いの罪の重さに、今更気付いた自分自身さえも嫌になってしまったのだ。誰もが等しく掛け替えのない命だなどとのたまっていた癖に、結局はどこかで命の重さに軽重を定めてしまっていた。こんな愚か者は、もう消えてしまえばいい。
しかし私は消えることはできなかった。あれ以来、この望月になるまで、人間が迷い込んでくることがなかったのだ。
今夜は、望月である。
この日まで存 えたというのは、あるいは最期に彼と出会えるようにとの、何者かの思し召しなのだろうか。最期に彼に会えるというのなら、確かに嬉しい。けれど、こんな罪深い、血に塗れた私の姿を、彼に見てほしくはなかった。
相反する二つの感情が、また私を苛 む。この胸の痛みが、このまま私を殺してくれればいいのにと思う。
私はもう――疲れてしまった。
人間の足音が聞こえてきたのは、そのときだった。何度も聞いたあの音。穏やかで、静かで、どこか諦念を思い起こさせるような、そんな足音。
彼の、足音。
その足音は、あの木の――あの連理の枝の下へと進んでいく。私は何故か、涙が溢れ出るのを止められなかった。彼は尚も歩み続ける。
そして、彼の足音は止まった。あの木の下へ、辿り着いたのだろう。私は、恐怖と怯懦 に震えながら、あの木の――彼の下へ向かった。
この罪深い、穢らわしい一生の結末を、彼に見届けてもらうために。
「神……主、さん」
彼は酷く沈痛な面持ちで私を迎える。私は彼を一度呼んだきり、何も言えなくなってしまった。
沈黙が続く。彼は悲しそうな目をして、ゆっくりと口を開いた。
「……今宵は、スキマ様を退治しに参りました」
――もう。
名前で呼んではくれないのですね――
彼のその言葉は、私を絶望の淵に突き落とした。もう、もう。私には――何もない。
それでも、それはきっと正しいこと。この世界が正しく回るためには仕方がないこと。私はもともと、いてもいなくても同じものなのだから。
「……はい、あなたに退治されるというなら……本望です」
偽らざる本心だった。せめて最期、彼に看取ってもらえるのならば、それはこの一生の締めくくりとしては上出来すぎる。
しかし彼が次に紡いだ言葉は、私の存在を拒絶するものだった。
「……幻聴が、聞こえますね」
――幻聴。
私の存在など、幻想に過ぎぬということか。
「この森に、守り神など元から居はしなかった。迷ったものが帰ってこれたのはただ運がよかったから。帰ってこられなかったのは、山犬か何かに喰われてしまったからだ。違いない」
私は、あなたの言葉なら、何でも――信じられる。
「ならば今、私の目の前にいるのは何だ? そうだ、単なる幻覚だ。この針で、手指を刺して眠気を飛ばせば、それだけで消えてしまうものだ」
だから――それがきっと正しいことなのだ。
彼は懐から取り出した針を、ゆっくりともう片方の手に近づけていく。
「ほら――消える」
彼は指先に針を突き立てる。それを見たその瞬間、私はまた、あの絶対の暗闇に――落ちていった。
――さよう、なら。
*
何も見えない、何も聞こえない、何も――感じられない。
私の体はもはや失くなってしまった。そして今こうして考えている私自身も――そのうちに、消えてしまうのだろう。
それなのに前に感じたほどの恐怖がないのは、この深淵を覗き込むのが二度目になるからなのか、それとも、私がもう、消えることを受け入れてしまったからなのか。
私にはもう、何もない。愛する世界にいるためには、愛するものを傷つけなければならない。そんな罪深い私の在り方を、私はもう、受け入れることができなくなってしまったのだ。
心が消えうせるまでの慰みに、今までのことを思い返そうとする。不思議と、いやにはっきりと私が生きてきた一瞬一瞬が思い出せた。
初めて人を喰ったとき、初めて人を守ったとき。そんな忘却の彼方に置き忘れてきたようなことまで、鮮明に思い出された。
けれど、二度目も三度目も、四度目も五度目も、何ら変わることのない繰り返しで、私の一生は、本当に、本当に下らないものだったのだと突きつけられてしまうだけだった。
何千回、何万回。変わらぬ心で変わらぬ風景を何度も何度も見続ける。苦しみも悲しみも知らず、ただただ与えられた作業を繰り返す。
やはり、その方が幸せだったではないか。何も知らないままでいれば、こんなに苦しまなくて済んだのに。私は――
――いつも私たちをお見守りくださりありがとうございます――
過去を初めから振り返って、辿り着いた先には彼の姿があった。
何故、あなたは私の前に現れてしまったのだ。こんな苦しみを、私は、私は。
――んふふ。お口に合いましたか。それは良かった――
あなたにもらったお酒は美味しくて、だけど、その先にあるのがこんなものだと知っていたら。
――本当に、この世界を愛しているのですね――
愛している。愛しているとも。あなたが見せてくれたあの色鮮やかな世界を。そしてそこに生きるたくさんの命を。だけど、そこで生きていくためには、その愛しているものを傷つけなければならないのだ。それが、私は、辛くて。
私は――
――違う、苦しいけれど、辛いけれど、それでも、やっぱり、私は。
人間の首を絞めるその感触。流れ出る血。私が奪った命の重み。それでも、それでも。
――私は。
柔らかな風。葉擦れの音。大地に生きるたくさんの命たち。
――嫌だ。
彼の――笑顔。
違う、違う、違うんだ。私は罪深くて、穢らわしくて、たとえそうなのだとしても、私は、私は。
――紫さん――
私は――私は、生きたいんだ。生きていたいから辛いんだ。
私は、八雲紫だ。私の望みは何だ。私はまだ、それを世界に向けて叫んではいない。
「あ――」
心に湧き上がる私の願いで、疾 うに消えてしまったはずの喉を目一杯振るわせて、私は叫ぶ。
「――嫌だッ! 私は、消えたくない! もっとあなたとお話したい。もっと――生きていたい! 私は、八雲紫だッ!」
*
「紫さんッ! ……良かった。本当に……」
「あ――え?」
気が付けば、私は、彼に抱きしめられて、大地に座り込んでいた。彼は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、私を抱きしめる力を強める。
「何が――わ、私は消えてしまったのでは」
「はい――もう、この世にスキマ様はいません」
何がなんだかわからなかった。ただ彼の温もりが、私を満たしている。
「でも、私はこうしてここに」
「……先程、あなた自身も仰ったでしょう。あなたは、他の誰でもない、八雲、紫さん――そうでしょう?」
彼の言葉の意味を考えてみるが、何もわからない。まだ頭が少し惚けている。
「私は確かに、この山の守り神であり、人喰いの化け物だったスキマ様を退治しました。そして今ここにいるのは、紫さん。……そういうことです」
「待ってください、もしかして、私はもう、その」
そんな都合のいい話があるはずがない、と私は思う。けれど、もしかして。
「私はもう本当に――人喰いの化け物ではなくなったのですか?」
彼はただ、満面の笑みでその問いに答えた。
「う、そ。信じられません。だって、私は」
「……気付いていませんか? あなたがもはやスキマ様ではないという証は、この空が示している」
私は言われて空を見上げる。すると――
「青空が――」
どこまでも青い空に、点々と浮かぶ白い雲。そして、眩 く輝く太陽が、そこには浮かんでいた。
大地は日に照らされて、闇からの解放を喜ぶように、それぞれの色に色付く。昼の光に照らされた世界は、暁とはまた違った姿で、私の目を楽しませてくれた。
そして、私を世界のこの姿から引き離していたあの睡魔は、今や全くその形を潜めてしまっていた。私はもう、スキマ様などではないという、それがその証明だった。
「だけど、だけどどうして? あなたが――救ってくれたのですか?」
「いいえ、私がしたのは、スキマ様を退治したことだけ。紫さんが今こうしているのは、ただあなたが心から、この世界に生きたいと、そう願ったから。……そう、いつかあなたが言ったように、自分自身としてだけ……八雲紫として生きたいと」
本当に――
本当に、この名前が翼になってくれた。この名前がなければ、私はきっと、私自身を信じてあげられなかった。この世界で生きたいと願う、この私のことを。
「ありがとう、ありがとう。あなたがくれたこの名前が、私を繋ぎとめてくれた。私、私――!」
喜びに堪え切れず、私は彼の胸の中で泣きじゃくる。彼は笑顔で、私を優しく撫ぜてくれた。
一頻り泣いて、少し落ち着くと、私は何か今までに味わったことのない奇妙な感覚に襲われる。腹の辺りが、何やら物足りないというか、寂しいというか――
困惑していると、私の腹がぐうと鳴った。何が起こっているのかわからない。
「……お腹が空いたみたいですね。こうなるのではないかと思って、握り飯を用意してきました。どうぞ、召し上がってください」
「めしあがる、というと、その」
「……食べる、ということです」
食べる。
その言葉で私はまた、色々のことを思い出してしまう。そうだ、私は――
「わたし、私、神主さんの友達まで、殺して、食べて。どうして、私のこと、許してくれるんですか?」
「……私たち、いや、生きとし生けるものは皆、何かの死に寄りかかってしか生きていくことはできぬのです。生きたいと、消えたくないと願ったことを責めるわけにはいきますまい」
「だけど……」
「……そして、この握り飯も、生きていた命を殺し、奪い取ったもの。……人喰いの業からは逃れても、やはり殺すことからは逃れられないようですね」
私は差し出された握り飯を見つめる。この米の一粒一粒が――生きていたのか。
それでも、私は。
「……いただきます」
生きていたい。醜くとも、穢らわしくとも、生きていたい。たとえ幾多の命に恨まれる行いなのだとしても、私は――私を満たす喜びのために、私の願いを叫び続けるために、そして、その願いをいつか叶えるために、私は――その握り飯を、涙を流しながら、喰った。
「……私も一つ、頂きましょう。私にできるだけの、ありったけの感謝を込めて」
二人で食べる握り飯は、たっぷりと塩気が利いていて、とても美味かった。そして、空腹が満たされると、私は幸せな気分になる。
けれど、私は決して忘れはすまい。この幸せのために、幸福な生を奪われた命があったことを。幾多の死に支えられて、今私はここに在り、こうして、笑顔でいられるのだと。
食べ終わると、彼は掌を合わせて、食べ終えた命への感謝を告げる。私も真似をして、この幸せをくれたことを、目一杯感謝する。
「……さて、紫さん。あなたはこれからどうなさるのですか?」
「どう、とは……」
「もう、あなたを縛り付けていたものはなくなった。それでも、やはりここに留まり、人間たちを守りたいと、そう思いますか」
私は――誰にも信じてもらえなくても、それでも。
「私は……それでも守りたいのです。恐怖を忘れることでしか自分を立てられない、そんなか弱い人間を」
「……んふふ、あなたは優しいですからね。そう言うと思っていました」
彼は少しの間、押し黙る。そしてしばらくの後、私の目を真っ直ぐに見据えて、こう言った。
「……私は、旅に出ようと思うのです。あなたの言う通り、人間は恐怖を忘れることでしか――光に照らされていることでしか自分の姿を確かめられない、か弱い存在。しかし、この世界には、私のようにその光に馴染めぬものや、以前のあなたのように闇の中でしか生きられないものがいる。そうしたものたちが、人間たちを照らす光に苦しめられている。私は、そうしたものたちを、救いたい」
光に苦しめられる――ものたち。
人が心の安寧を得るために、あってはならないもの。
それは正しく私のことだ。そんなものが、この世界にはまだたくさんいる――のか。
「そして……その」
彼は少し顔を赤くして、視線を泳がせる。どうしてしまったのだろうと私が思っていると、彼は意を決したように、言った。
「その旅をする傍 らに、あなたにいてほしいのです。無論、この森に留まりたいと仰るなら、無理にとは言いません。ただ――そう、私とともに、連理の枝となってはくれませんか」
私は驚き、目を見開いた。彼がそんな、大胆なことを言うとは思っていなかったのだ。しかし、彼が私を求めてくれているということが、私は嬉しかった。
私は考える。闇に恐怖するか弱き人間たちが作り上げた光。それは偽りのものなのかも知れない。それでも、その光に守られて生きていくことができるのなら、その光に追われ、苦しんでいるものたちよりは、きっと幸せなのだろう。
そして、私のように苦しんでいるものたちを救う、私がその一助となれるのなら――
「はい――ずっと、傍らに居させてください――」
私は彼の名を呼ぶ。その声は、吹き抜ける風の音に紛れてしまったが、その言霊が伝わったことは、彼の笑顔が雄弁に語っていた。
*
あれから――
とても、永い時が流れた。私たちは二人、この大地を旅して、闇の中で苦しんでいるものたちと語り合い、そして、旅の道連れとした。
生まれつき、片腕を失っていた青年や、飢饉のために捨てられた子供。正気を失ったなどと蔑まれた女性に、そして私のように忘れ去られた守り神。旅を続けるにつれて、私たちの――そう、私たちの家族は増えていった。
私の生まれ持った、境界を司る力は失われてはいなかった。それはきっと、彼が境界としての在り方を込めた名を付けてくれたからなのだろう。この力は、旅を続けるに当たって、とても役に立ってくれた。そのことを思うと、私は守り神としての生まれを誇りにも思えた。
そして、今。
私たちの家族は山奥に開けた平野に、郷を作って暮らしている。誰もが蔑 ろにされず、分け隔てなく笑い合える、そんな郷を。
「……んふふ。外から皆の笑い声が聞こえてきますねえ」
「ええ……皆、心の底から笑っています。あなたの、お陰ですわ」
彼が、伏した床から私に語りかける。
彼は、老いた。それは逃れられぬ定めだとは知っていたが、それでもやはり別れが近づくのは辛い。
しかし彼は、あの頃と変わらぬ、少年のような笑顔を絶やさなかった。どんなに時が流れても、決して彼の心は老いることはなかったのだ。
私もまた、彼に微笑みかける。しかし、それが彼に届くことはないということを私は知っていた。彼の目はもう、光を失ってしまっていた。
「……私がしたことなど、大したことではありません。笑顔でいられるのは、ただ皆が歩むことをやめなかったからです」
「その歩む道を、歩みたい道があるということを示してくれたのが、あなたなのです。どんな感謝の言葉でも、伝えきることは叶いませんわ」
何となく、わかるのだ。彼は、もう間もなく、死んでしまう。
最期は二人きりでいたいとそう思って、私は他の皆に、この家に立ち入らぬように頼んでいた。
「……ねえ、聞きたいことがあったんです。あなたは、いつも誰かのためにばかり働いていて……あなた自身は、幸せでしたか?」
「……言うまでもないことでしょう? この大地を踏みしめ、そこに生きる命たちと友たり、たくさんの笑顔に囲まれて――そして、何より」
彼は、やはり遠い昔と変わらぬ笑顔を浮かべる。
「紫さんがいつでも隣にいてくれた――これが幸せでなくて何だというのでしょう」
私は感極まって、泣き出してしまった。笑顔で送ろうと、そう決めていたのに、どうしても、涙が。
「私、私も、幸せでした。あなたの隣にいられて。ずっと、いつでも、あなたは、私に笑顔をくれて」
彼は、枯れ枝のような腕を伸ばして、私を抱きしめた。その手はもうすっかり冷たくなってしまっているというのに、触れ合ったその境界からは、彼の温もりが確かに伝わってくる。
「……紫さん。――八雲、紫さん。私の、大切な――ああ、いけませんね。眠く、なってきました。私は、もう――」
彼は静かに目を瞑る。私は最期、もう一度だけ、彼の名前を呼んだ。
そして、彼は薄っすらと微笑んで――事切れた。
数刻ばかり、彼の亡骸の隣に座り続けていただろうか。私は立ち上がって、戸口にかかった簾を上げる。
――神主さん。私には、夢ができました。
すると、たくさんの命に彩られた世界が私の目に飛び込んでくる。
――まだ、闇の中で苦しんでいるものはたくさんいる。私はそれを救いたい。そして、光に照らされているものたちにも、いつかこの闇の中に広がる世界を、見せてあげたいのです。そしていつか、そんなものたちとも、家族になりたい。
そして私は、その雄大な世界に向けて歩き出していくのだ。
――あなたが見せてくれたこの世界。
どこまでも――どこまでも。
――ああ、この世界はこんなにも博 く――麗 しい。
<了>
私が立っていたのは山裾にある疎らな森の中。私はそれまで、一体どこで眠っていたのだろうかと少し考え、すぐにやめた。そんなことは考えるだけ無駄だ。今までも何千回、何万回と同じことを繰り返して、答えが出たためしなどないのだから。
遠くからぎこちない足音が聞こえる。四足のものではない。恐らくは人間のものだろう。私はその足音の方向へ向かう。
「ああ、遅うなってしもうた。こんな時間にはスキマ様が出るというに」
その人間は足を引きずって歩いていた。恐らくは山道で足を挫いたのだろう。私はその人間に背後から近付くと肩に手をかける。
「ひっ! ……スキマ様スキマ様。どうかお許し下せえ。おらの住まいは、あなた様のお定め下さる
私はその言葉を聞き、手を離す。そしてその人間が住処へ帰るまでの間、少し離れたところから見守った。なぜなら私は、そうしたものであるからだ。
また、遠くで小枝を踏み折る音がした。向かってみると、やはり怯えた足取りの人間が一人。私は近付き肩に手をかける。
「うわあっ! ば、化け物ぉ! に、逃げにゃあ」
私はその言葉を聞き、もう片方の手を首にかける。そしてその人間をくびり殺すと、骨の一欠片も残さず喰らい尽くした。なぜなら私は、そうしたものであるからだ。
それが私の全て。私が一体何であるのか、自分でもよくわかっていない。しかしそうしたものであることはどうやら確からしい。
何千回、何万回と同じことを繰り返してきた。そしてこれからも、きっと変わることはないのだろう。
*
目を覚ませば、いつも同じ風景が広がっている。木々のざわめき。四足の声。そして、黒い大地と紫色の空。浮かんだ月だけは少しずつ姿を変えていく。それも数十度寝て覚めれば繰り返されるものだけれど。
私は考える。私は何のために存在するのだろうか。
答えはあっさりと見つかってしまう。私は、この地に迷い込んだ人間を、時に守り、時に喰らうために存在しているのだ。そこに疑問を差し挟む余地などない。
なぜ存在しているのかはわからずとも、何のために在るのかは知っている。そこに理由などありはしないのだろう。ただ私は、そうしたものであるのだ。
目の前に立っている古木に手を触れる。この木とて、何か明確な理由があってここにいる訳ではない。それでもただ大きく、大きくなり、そして種を残す。そうして生きている。私と変わるところなど何もない。
人間だってそうだ。訳もわからぬまま生まれ、そしてただ理不尽に死んでいく。生命など
それが世界の
そうしていると、足音がまた一つ聞こえてくる。私はいつものようにそちらへ向かった。
見つけた人間は、随分としっかりとした足取りで歩いていた。珍しいな、と少しだけ思ったが、すぐに打ち消す。私がこれからすることに関係のないことは、面倒くさいから考えない。私はいつものように、その人間の背後に回り、肩に手をかける。
「おお。……えーとどうだっけな。スキマ様スキマ様。私の住まいはあなたが定める出雲の
奇妙に落ち着いた声だった。驚きよりも、恐怖よりも、なぜか喜びの響きを
「ああっと、少々お待ちくださいスキマ様。本日はあなたにお会いしに参ったのです。振り向いてはならないということですので背中越しではございますが、ご無礼をお許しください」
すると、その人間はますます不可思議なことを言い始めた。私は狼狽する。こんなことを言われたことは今まで一度もなかったのだ。喰ってしまえばいいのだろうか。しかしこの人間は先ほど正しく
「スキマ様。いつも私たちをお見守りくださりありがとうございます。山に分け入った者が帰ってこられるのは、ひとえにあなたのおかげでございます。本日はあなたを労えはしないかと、おこがましいとは思いながらお酒を徳利に一杯、持って参りました。ここに置いて行きますので、どうぞお召し上がりくださいませ」
そう言って、その人間は手に持った瓶を地面に置いた。そして、四度
「それでは、失礼いたします。お見送りは結構でございますので、たまにはゆっくりと、体を休めてくださいますよう」
その人間はそのまま、薄闇の中を悠然と帰っていった。私は呆然と立ち尽くし、務めを果たすことも忘れていた。足元には酒の入った瓶が一本立っている。
――何だ、今の人間は。
答えの出しようがない問題を考え続けている自分がいた。そんなことは普段なら面倒だからしないはずなのに、私は一体どうしてしまったのだろう。
わからないが、ただ一つ。あの人間に感謝の言葉を告げられたそのとき、胸の辺りに何か温かいものを感じた。それが何なのかさえわからないが、ただその温かいものだけが、確かに残っていた。
*
あれから月が一巡りした頃、私はやはり変わらぬ日々を送っていた。あのときの温かいものなど、単なる錯覚に過ぎなかったのだろうと今では思う。
ただ、錯覚だとしても、何がそんな錯覚を起こさせたのだろうか。私は袖の下から空になった酒瓶を取り出し、見つめる。
あの人間からもらった酒は、美味かった。酒に酔っている間、ほんの少しだけ世界が違って見えた。寝て覚め、酔いがおさまってしまうと、また変わらない世界が広がっていたけれど。
この酒瓶を私に捨てさせないのは、一体何なのだろうか。わからない。わからないが、なぜか手元に置いておきたいという思いがあったのだ。
そのとき、遠くから人間の足音が聞こえてくる。私は少しだけ急ぎ足でそちらへ向かう。なぜだろう。いつもなら急ぐようなことなどないというのに、あの人間に出会ってからというもの、私は人間の足音に胸を高鳴らせるようになっていた。
見てみると、あのときの人間ではなかった。それを確かめると、私はいつもの私に戻る。山野に迷い込んだ人間の肩に手をかけ、正しい呪いの言葉を唱えたなら守り、そうでなければ喰らう、その私という存在に。
私の世界には二種類の人間しかいない。守るべき人間と、喰らうべき人間。しかしただの一人だけ、あの人間だけはどちらでもなかった。そう、私にはそれが不思議でならなかったのだ。いつもならば、面倒だと切り捨ててしまう思考。しかし、この私の世界の外側にいるあの人間が、酷く気になって仕方がなかった。
今夜までにも、また幾人かの人間を守り、幾人かの人間を喰らった。特に何の感慨もない。何度も何度も繰り返してきたことだ。この狭く、薄暗い世界の中で、何度も何度も。
世界の理に身を委ねるのは、とても楽だ。考える必要はない。理由もいらない。ただ務めを果たしているだけでいい。
――だけど、なぜだろう。そう思っていたはずなのに、それでは満たされなくなってしまった。あのとき、胸に湧き上がった温かなものに、何かを持っていかれてしまったのだろうか。私が満たされるために必要なものを、奪われてしまったのだろうか。
答えは出ない。思考はぐるぐると螺旋のように連なって、胸の奥に重たいものを残していく。
また、あの人間に会わなくてはならない。そして、この不可解なものの正体を確かめなくてはならない。
空は漆黒から紫色に染まっていく。もう、夜明けが近い。私は闇の中に溶けるように眠りに就いた。
*
再び、目を覚ます。変わらぬ大地に、変わらぬ空。変わらぬ、世界。いつもなら安心をくれるそれは、今の私には酷くつまらないものに映っていた。
空を見上げると、望月が浮かんでいる。以前、あの人間と出会ったのも、望月の夜だったような気がする。ならばまた、この夜に会えるだろうか。
引きずるような人間の足音が聞こえてくる。きっと違う。あのときの人間はもっと確かな足取りで歩いていた。それでもわずかな期待と、自分の存在に対する義務感からそちらへ向かう。
見てみると、やはりあの人間ではなかった。私は少々落胆する。それでもいつものように、肩に手をかけた。人間の口から出るのは、いつもと同じ呪いの言葉。繰り返し繰り返し、何千回、何万回と聞いた、私に許しを乞う言葉。私はいつものようにその人間を住処まで見送った。
それから、人間の足音が聞こえてくることはなかった。珍しいことではない。一人の人間も迷わぬ夜も多い。そんな夜も何千回、何万回と繰り返してきた。今更どうということもない。
そのはず、なのに。
私は胸に穴が空いてしまったように感じていた。今までに味わったことのない感覚だった。この感覚に、人間は何という名前をつけるのだろう。私には、わからない。
もう月は西に傾いている。空もわずかずつ白んできた。もう二度と、あの人間には会えないのだろうか。
それでも、いいかと私は思う。こんなもの、所詮は一時の気の迷いに過ぎないのだろう。今まで何千回、何万回と繰り返してきたことだ。これからもきっと、何万回、何十万回と繰り返すのだ。時が経てばこんな感覚は、きっと消えてしまうだろう。それで、いい。そうでなければ私は――耐えられない。
そのとき、微かに、しかししっかりと大地を踏みしめる音が聞こえてきた。再び、私の胸に温かなものが去来する。これは一体何なのだろうか。わからない、わからない。
その正体を確かめるため、私は眠気を押してその足音の――あの人間の下へと走った。
――いた。
痩せぎすな体に、超然とした佇まい。鋭くもどこか穏やかな眼――あのときの、人間だ。
聞きたいことがある。話さなければならないことがある。しかし私は、どのように接してよいのかわからず、いつもと同じように、彼の肩に手をかけた。
「! ……スキマ様スキマ様、私の住まいはあなたの定める出雲の郡は杵築の――」
「……構わないわ、こっちを向いて」
自分でも気づかぬうちに声を出していた。幾つもの言葉を聞いてきたが、自ら言葉を発するのは、初めてのことだった。私は言葉を話すようなものではなかったのだから。
「よろしいのですか? 騙して取って喰うような方ではないとは存じておりますが、決まりごとは決まりごとでしょう」
「いいの。あなたと、話がしたい」
私の言葉を聞くと、彼は少しだけためらってからこちらを向いて、一礼した。二つの目が私の目を見つめている。なぜか酷くくすぐったいような感覚を覚え、私は少しだけ目をそらした。
「スキマ様はお美しい女性だと聞いておりましたが、お噂通りで。私のような
「い、いえ。そんなことは……」
私は一体何をしているのだろう。話したいことがあったはずなのに、頭が真っ白で上手く考えがまとまらない。
私は視線を虚空に泳がせる。何か話す切っ掛けがないか。以前彼と出会ったときのことを思い出す。すると、袖の下にとってあった瓶の重みに気がついた。
「……そうだ、この前頂いたお酒、美味しかったわ。その……ありがとう。これ、お返ししておきます」
そう言って私はあの瓶を彼に差し出した。彼は破顔してそれを恭しく受け取る。
「んふふ。お口に合いましたか。それは良かった。本日は手ぶらで申し訳ございません」
彼の笑顔とその声が、私の胸に空いた穴を埋めてくれた。私の胸は、温かいもので満たされている。
私は困惑する。胸に空いた穴など、彼に出会う前は確かになかったはずなのだ。この薄暗く、小さな世界が私の全て。それで私は余すところなく満たされていたはずなのだ。
そうだ。これが何なのか、確かめなくてはならない。この人間なら答えを知っているはずだ。私は再び言葉を紡ぐ。
「この、私の胸にある温かなものは何なのですか。あなたが作ったものなのですか? これが無くなってしまったとき、私の胸には穴が空いてしまった。この世界に満たされなくなってしまった。それは、なぜ?」
私の言葉を聞くと、彼はうつむいて考え込む。しばしの沈黙のあと、彼はおもむろに話し出した。
「それは、申し訳ありませんがわかりかねます。無責任な答えを返すわけにもいきますまい。……ただ、私は嬉しいときに胸が温かくなったように感じることがあります。もしもスキマ様が私と同じように感じているのだとしたら、私は嬉しい。私があなたに、喜びを差し上げられたのですから」
嬉しい。喜び。その言葉は知っている。見送った人間たちが里にたどり着いたとき、時折口にする言葉だ。
だけど、私はその言葉を理解できなかった。私の世界にはないものだったから。今、私の胸にあるこれが、その喜びなのだろうか。この人間は、私の世界にないものを持ってきたというのだろうか。
「……ですが、あなたの胸に空いたという穴。それがもし私と同じものだとしたら、それはきっと寂しいときに空いてしまうものです。もしかすると、私は要らぬことをしてしまったのかも知れません。スキマ様に、要らぬ不安を与えてしまったのかも知れません」
寂しい。それが、この胸の穴の名前なのか。この一月の間、どこか満たされず、ずっと心細い気分だった。それが寂しさなのだろうか。それもまた、私の世界にはなかったものだ。
私は考える。彼と出会ってからのこの一月と、それまでの何万回という繰り返し。そのどちらを私は好ましく思っただろうか。答えは出ないかも知れない。それでも私は考える。
私は境を定めるものとして生まれ、長く永くこの地で生きてきた。自分の在り方に疑問を持ったことはなかった。それで私は満たされていた。ただ務めを果たし、スキマ様と呼ばれるその存在であるだけで、私の世界は完結していた。そう、今私の目の前にいる、この人間と出会うまでは。
彼の言葉に触れ、私は喜びを知り、また寂しさを知った。私は、それからずっと不安だった。この世界が酷く退屈に思えてしまった。そんなものを知りさえしなければ、私はずっと満たされたままでいられたのに。そのことを恨みがましく思ったこともある。
だけれど、だ。あのときに私の胸に湧き上がった温かなもの。それは私を、今までに満たされていたと思っていた何倍も、何十倍も満たしてくれた。ずっと彼に会いたかったのは、きっとその温もりがもう一度欲しかったからなのだ。
世界の理に身を委ねているだけよりもずっと私を満たしてくれるもの。それを知ってしまったのは不幸だったのかも知れない。それでも、あの温もりを求め続けたこの一月、私は幸せだった。胸に空いた風穴をさえ、愛おしいと思っていたのだ。
私は彼の目を見つめる。寂しげな表情だった。私はその顔を見ておれず、彼に語りかける。
「要らぬ、ものなのかも知れません。あなたからもらったこの喜びも、寂しさも、私には不要のものだった。そんなものがなくとも、私はずっと私だった。……だけれど、それに触れて、私は……そう、この世界が愛しく思えた。そのことを、感謝したい。だから、そんな顔をしないでください」
その言葉で、彼の顔は綻ぶ。その嬉しそうな笑顔を見ていると、私の胸にもまた、喜びが湧き上がる。
不思議な感覚だった。私が今まで見てきた禽獣たちは、皆何かを奪い取ることで命をつないでいた。だが、ここにあるものは違う。彼と二人、言葉を交わして共有して、初めて得られたものだった。
奪わず得られるものとは、一体何なのだろうか。ただ、確かに、ここにある。それだけが間違いのないことだった。
「スキマ様。私は幸せです。いつも私たちを見守ってくださるあなたに、こんな私がお返しできたものがあった。……覚えておいでではないでしょうか。私はずっと昔、子供の頃にあなたに守っていただいたことがあったのです。母と二人、山野に迷ったとき、あなたが救ってくださった」
そんなことは私は覚えていなかった。何万回という繰り返しのただの一回。覚えてなどいないのは道理ではある。しかし私はそのことを酷く申し訳なく思った。
「……ごめんなさい、覚えていないわ」
「いえ、もちろんそんなことは構わないのです。それに私も、先月母が死の床でその話をするまで、まるで覚えていなかった。スキマ様という名や、あの呪いを知ったのもそのときのことです」
私が正直に話すと、彼ははにかんだように笑いながら言葉を返す。
「望月の夜にスキマ様は現れると聞いておりましたので、今日また会えると思いやって参りました。無事、こうして会えた事を嬉しく思います」
「そう、だったのですか。私はもうあなたには会えないと思っていた。私が起きているのは何も望月の夜ばかりではありません。だから、この一月、ずっと寂しかった」
「何と、そうでしたか。申し訳ございません。すぐに会いに参ればよかったでしょうか」
「いえ、いいのです。その寂しさも、今となってはいい思い出ですわ」
偽らざる正直な気持ちだった。彼がくれた喜びは、今の私だけではなく過去の私までをも満たしてくれる。何と不思議なものなのだろう。私はそれを、ゆっくりと噛み締める。
けれど、まだ疑問は幾つか残っている。私は彼に問うた。
「あなたはどうして、わざわざ私に会いにきたというの? 獣に――いえ、私にも、喰われてしまうかも知れないというのに。あなたは、闇が怖くはないの?」
前の満月の夜、彼は私に会いにきたと確かにそう言った。どうして、そんな真似をしたのだろう。彼は少しだけ逡巡してから話し始める。
「……奇妙に思われるかも知れませんが、私は闇が大好きなのです。私の手が届かないものが世界にはたくさんある。それを思うだけで、胸が弾む。そして、その闇の中にあるものを私は知りたい。触れてみたいのです。……闇の中にいたあなたと出会って、私の世界はまた少し広がった。それだけで私は――違うな。私は、そうしてしか幸せを感じられないのです」
「その闇の中に、あなたに死をもたらす怪物がいたとしても?」
「……んふふ。そうですねえ。そうなったとしても私の選んだ生き方ですからね。……もちろん、死ぬのは怖ろしくはありますが」
そう話している間、彼は少しだけ悲しそうだった。彼は続ける。
「私は、私の周りにある世界だけでは満足できないのです。世界の果て、境界を越えてその向こうにある闇。そこには私の知らない世界がまだたくさん広がっている。私はそれを見てみたい。……満たされぬことが不幸なら、私は不幸な人間です。皆が満たされている世界は、私を満たしてはくれないのですから」
その言葉を聞きながら、私は自分自身を彼に重ねていた。
私は今までずっと、この狭い世界に満足していた。何千回、何万回という繰り返し。それで私は満たされていた。
だけど、彼と出会い、私にはまだ知らない世界があるのだと知った。いや、きっと知ってはいたのだ。だけれどそれは、決して私の世界と交わることのないものだと思っていた。
私は境界。どこにも属さず、何ものとも交わらない、
そうだ、ようやく得心がいった。私は初めからずっとあの繰り返しを寂しく思っていたのだ。だけれど、諦めてしまっていた。それが世界の理だと信じ込んで、私は何も望まぬよう、心を閉じ込めていたのだ。
彼はその閉じ込められた私の心を連れ出してくれた。手を引いて、私に外の世界を見せてくれた。こんなものを知ってしまっては、もうあの頃には戻れない。だけれど、それが不幸かと問われれば、私は否と答えたい。
私がこの世界に生まれ落ちて初めて、心の底から何かが欲しいと思えたということ。それは絶対に切り捨ててしまいたくはなかった。
「不幸、などではありません。何かを望めること、それはとても幸せなことです。私は――私は何も望まぬよう生きてきた。この小さな、狭い世界に満足していると思い込んで。だけどそれは、きっと不幸なことでした。今だからわかる。あなたがその世界の外にあるものを見せてくれた今だから」
「……いえ、それでもやはり不幸なのでしょう。ただ、不幸なりに生きていかねばならぬのですからね。嘆くつもりはありません」
彼は少しだけ晴れやかな顔をしてそう言う。
私は、疑問だった。彼が言う、世界に満たされている皆というのは、本当に満たされているのだろうかと。
私は過去、満たされていると思っていた。しかしそうではなかったのだ。もしも、もしもその皆というのが、以前の私のように諦めてしまっているだけなのだとしたら、それは、それこそが不幸だと私は思う。本当に欲しいものを、手に入らないから、知らないから求めることもなく、ただ小さな世界の中で自分を騙して生きていく。それ以上の不幸はないと、今、私は思う。
彼は、ただ自分の望みに正直なだけなのだ。手に入らないかも知れないものでも求め続けて、死をも怖れず境界を越え、闇の向こうに手を伸ばす。私は、その姿をとても美しいと思う。
「本当に、何も望まず生きていけるのならば、それは確かに素晴らしいことなのでしょう。だけれど、何も望まず生きているものなど、きっといない。私はあなたと出会うまで、ずっと何も望んでなどいないと思っていた。だけれど違ったのです。私はずっと、ずっとこの温もりを求めていた。私は今までずっと、自分を偽っていたのです。……自分を偽らず、望みに、願いに真っ直ぐなあなたの姿は、とても素敵です」
「……ありがとうございます」
彼は照れくさそうに微笑む。そして、何度も首を小さく横に振ったり、頷いてみたりと、独特の仕草をする。きっと、彼は答えの出ない問いを、いつでも自分に問い続けているのだろう。彼は、私のように諦めてしまうことをよしとできないのだ。
私はその姿に憧れる。そして、私の望みとは何だろうかと考える。
「私も、あなたのようになりたい。だけれど、私が何を望んでいるのかがわからない。それを知るには私の世界は狭すぎた。……だから、お願いがあります。あのとき喜びをくれたように、また私の世界を広げてほしい。そして、私が望んでいるものを見せてほしい」
「私などにそのようなことができるとは……」
「あなたにしかできないことです。この何千回、何万回という繰り返しを、終わらせてくれたあなたにしか」
彼はまた、深く深く考え込む。そして、小さく頷くと、私にこう言った。
「私には、私の知っている世界しか伝えられません。そしてそれもまた酷く偏狭なものです。だから、あなたが世界を広げたいと願うなら、この大地にあるたくさんの命たちと語り合ってみてください。そしてその中に、私も入れてくださったなら、幸いです」
たくさんの、命。私にはその言葉がうまく飲み込めなかった。それは、一体どういう意味なのだろう。
「私たち人間に、獣や鳥、そして虫の一匹に木の葉の一枚に至るまで、この世界は命に満ち溢れています。そうしたものたちが、自分の知らない世界を見せてくれる。そう思って、世界を見渡してみてください」
「……私にはわかりません。私の世界は薄闇ばかりなのです。夜の
「そんなことはありません。……ほら」
彼はそう言うと、私の手を取って私の背後にあるものを見つめる。促されて私も後ろを振り向くと、そこには。
「朝、日……」
眩しい太陽の光が、世界を色鮮やかに染め上げていた。朽ちた葉は大地を黄色く覆って、そこからは力強い褐色の幹が天を突くように幾つも立ち上がる。そして見上げれば、美しい緑の葉の合間から、七色に移り変わる空が覗いていた。
「今日は、あなたにこれをお見せしたかったのです。闇を照らせばそこには色鮮やかな世界が広がっている。けれど、照らされずともその色は損なわれることはないのです。朝日が照らしてくれるときを待って、いつでも彼らは自分の色を忘れない」
私の頬に冷たいものが流れる。これは、知っている。人が、心を強く揺さぶられたときに流れるものだ。私は、気付かぬうちに涙を流していた。
「だから私は闇が、そして闇の中にあるものが愛おしい。命は、闇の中でも燦然と輝いている」
見えなかったのではない。見ていなかっただけだったのだ。私は自分の無知を恥じる。こんなにも美しいものたちを、見ようとしていなかったなんて。
「ありがとう。……ありがとう、こんなに美しい世界を、見せてくれて」
「そんなにも喜んでくださると、私も嬉しい。……しかし、あなたは日の光の下に長くいられるものではないのでしょう。申し訳ありません。この世界を見せたいなどという自分勝手な思いのために引き止めてしまって」
「ううん、謝らないで。今こうしていることが世界の理に背くことだとしても、私は今幸せです」
彼と二人眺める世界は、どこまでも眩く輝いていた。私は、そこにある一つの命も見逃さぬよう、しっかりと目に焼き付ける。
だが、そのとき猛烈な眠気に襲われた。私はやはり、この日の下にあってはならぬものなのだろうか。私は彼に語りかける。
「ごめん、なさい。もう、眠らねばならぬようです。……また、会えますか? また、あなたと二人、この世界を眺められますか?」
「……はい、私などでよければ勿論。今日はゆっくりとお休みになってください。……いつ、お会いしに参ればよろしいでしょう」
私は少しだけ考える。彼と会えなかった一月の間の寂しさを思い返す。答えは、決まっていた。
「また、次の望月の夜に。……会えるのを楽しみに待っていますわ。……ああ、いけ、ない。お休み、なさい」
私はその場に倒れこむ。とても幸せな気分だった。私はこの美しい世界に抱かれて、眠った。
*
とても素敵な夢を見た。彼と二人、小さな家で暮らしているのだ。私が簾をあげると、たくさんの命に彩られた世界が飛び込んでくる。そして、彼と二人、手を取り合って、その雄大な世界に向けて歩き出していくのだ。どこまでも。
どこまでも。
*
幸せな夢の余韻を味わいながら、私は目を覚ます。いつになく高揚した気分だった。眼前に広がるのはいつもと同じ――そう、いつもと同じ薄闇の世界。
だけれど今、私は知っている。その薄闇の中にも、たくさんの命が息づいているということを。そうしたものたちに今から会いに行けるのだと思うと、胸が弾んだ。彼もまた同じように感じて生きているのだろうかと思うと、少しだけ誇らしい気持ちになる。
遠くから、鴉の鳴き声が聞こえてくる。以前はただ禍々しいだけに聞こえていたそれも、今となっては愛おしい。よくよく耳を澄ませると、何やら何羽かの鴉が語り合っているように聞こえてくる。
かあ、かあと穏やかな声の鴉が何かを言う。すると甲高い、鋭い声の一羽が羽音を立てながらそれに抗議する。もう一羽の鴉は、気の弱そうな声を出して少し離れたところに移動したようだ。
どんな話をしているのだろうな、と私はあれこれ空想する。何だかとても可笑しくなってしまい、私はくすりと笑った。
そうして歩いていると、私は木の根元に咲いた一輪の小さな花を見つけた。今はその色を見ることは叶わないが、きっと日の光の下、美しい色を咲かせるのだろう。私はあのときに見た七色の空を思い出す。あのどれかの色に染まるのだろうか。
本当に、この世界にはたくさんの命が生きている。そしてそのどれもが懸命に生きていて、私の心を温かくしてくれる。
そのとき、かさり、と枯葉を踏む音が聞こえてくる。人間の足音のようだ。私はそちらへ向かう。
見てみると、酷く怯えた様子の人間が、おぼつかない足取りで歩いている。私はその人間の背後に回り、肩に手をかけた。
何千回、何万回と繰り返してきた動作だったが、今その手に乗せた想いは今までとはまるで違っていた。もはや義務感などはまるでなく、ただ人間たちの守り神としての誇りを胸に、私はその手に力を込める。
聞こえてくるのは、やはり何度も何度も聞いた呪いの言葉。しかしその言葉は、この人間が私に寄せてくれている信頼の証なのだ。私はその言葉を聞き、喜びで満たされる。
その人間はよほど信心深かったらしく、帰りの道行きでも何度も何度も呪いを唱え続けていた。しかしその途中、私は山犬が人間に襲い掛かろうとしているのを目ざとく見つける。私は、境界を司るものとしての力を振るい、その山犬がいる辺りの空間を世界から隔絶された場所と定め、閉じ込めた。
そして、その人間が無事住処へたどり着けたことを確かめると、私は守り神としての自覚を新たにする。私が一つの命を守ることができたのだということが、とても誇らしいことに思えた。
「ごめんね、怖かったでしょう? もう行っていいわよ」
閉じ込めていた山犬を逃がしてやる。食事にありつける機会を奪ってしまったことは申し訳なく思ったが、私はどうしても人間たちの信頼に応えたかったのだ。私はあの山犬が他の食料を得られることを祈った。
その夜は、それから人間の足音が聞こえてくることはなかった。私は、眠るときがやってくるまでの間、また多くの生命と触れ合った。
次の望月の夜には彼とどんなことを話そうか。私はそんなことを考えながら、また幸せな夢に溶けていった。
*
待宵の夜、私は大きな木に凭れかかり、小さな
この木の下は、最近の私の気に入りの場所である。
初め、この木を見つけたときは、何と不思議な木なのだろうかと思った。根元を見れば確かに二本の木だというのに、梢に向かう途中、幹の中ほどで一つに溶け合い、一本の木になってしまっているのだ。
私は強く興味をそそられ、何度も何度も観察した。そして五日ほど前に、一つの答えを見つけられた。
きっと、この二本の木は、若き日に互いを終生の友と定めたのだ。そして支え合い生きていくうち、身も心も一つになったのだろう。
木や草花にも命が、そして心がある。この木はそのことを私に教えてくれた。
私は考える。私にもいつかそんな友ができるだろうか、と。
そう考えていると、彼の顔が脳裏に浮かび上がってくる。その途端、私はなぜかとてもこそばゆい感じを覚えた。何だか顔も熱い。私は頭を振って顔を冷やそうとする。
どうにも不思議な感覚だった。私はいつも彼に会いたいと思っているはずなのに、彼の顔を思い浮かべると、さっきのように頭に血が上ってしまうのだ。そのせいでまともにあの笑顔を思い浮かべることができず、その度に会いたい気持ちが強まっていく。
しかし、明日はいよいよ待ちに待った望月の夜である。この一月の間に、たくさん話したいことができた。私が触れてきたたくさんの命。それらに教えてもらった更にたくさんのこと。そのどれもが愛おしくて、そしてその想いを彼と分かち合えたなら、きっとまた私の胸は喜びで一杯になるだろうと、そんな予感を覚えていた。
そんなことを考えていると、遠くから人間の足音が聞こえてくる。私はまた、人間たちの信頼に応えるため、急ぎ足でそちらに向かった。
見つけた人間は、妙に目をぎょろつかせて、体を獣のように丸めて歩いていた。怖くて怖くて、虚勢を張っていなければ潰れてしまいそうなのだな、と私は思った。
私はゆっくりとその人間の肩に手をかける。すると――
「ひ、ひいぃっ! で、出やがったな化け物! 来るなら来やがれ、相手してやらあ!」
――ああ、怖れていたことが起きてしまった。
呪いの言葉を唱えなかった以上、私はこの人間をくびり殺し、喰ってしまわねばならない。しかし、この人間だって懸命に生きているのだ。必死で恐怖を押し殺し、自分が潰れてしまわぬよう、懸命に。
私は、殺したくなかった。呪いの言葉を知らなかったというただのそれだけのことで、私はこの人間を殺してしまいたくはなかったのだ。
私は、滅茶苦茶に腕を振り回すその人間の肩に手をかけたまま、考え込んでいた。本当に私は、喰ってしまわねばならぬのか?
しばらくの間――といっても、本当はほんの一二秒ばかりだったのかも知れないが――私は考え、そして、その人間の肩から手を離した。
「お、おぉ? な、何でえ、俺様に怖れをなして逃げやがったか。へ、へんっ。大したことねえな!」
そう言ってその人間は駆け出していく。私は、その人間が迷ってしまわぬよう、彼が進むべき道を定めた。
その人間は無事に住処へたどり着く。私は、この世界の理に背く行いが、どんな結果をもたらすのかとしばらくの間恐々としていたが、何のことはない、何も起こりはしないではないか。
殺さなくてもいいんだ、と、私は安堵の溜息を吐く。それと同時に、私が今まで殺してきた人間たちに対し、強い罪悪感を抱いた。何の理由もなく殺してしまった。そのことが私に重くのしかかる。
せめて、せめてこれからは殺しはすまいと、私は胸に誓う。その夜は、何度も繰り返し心の中で謝りながら過ごした。
空は少しずつ白んでくる。明日は彼が会いに来てくれる夜だ。色んな話をしなくてはな、と私は思いながら、薄闇の中で眠りに就いた。
*
あの木の下で、私は空を見上げていた。空には綺麗な望月が浮かんでいる。彼と私を、引き合わせてくれた月だ。
私は、彼が世界の美しさを教えてくれたあのときからの一月を思い返す。薄闇の中で、その色を見ることは叶わなかったけれど、それでも胸を張って生きている命たち。私が心に留められたものなどそのうちのほんの僅かなのだろうけれど、彼に私が見た世界を伝えたくてたまらなかった。
先ほどから、人間の足音がこちらに近づいてくるのが聞こえてきている。間違いようもない。この穏やかで、それでいて揺ぎ無い歩き方は、彼のものだ。
私は少しだけ彼を驚かせてやろうと、彼の進むべき道を――私のいるこの場所までの道を、境界の力でもって定めていたのだ。どんどんと、彼の足音は近づいてくる。そして――
「お久しぶりですわ――会いたかった」
「……はい、お久しぶりです」
彼は、ほんの少しだけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに破顔して一礼する。私は、その笑顔を見ただけで、胸が温かくなった。
「いや、それにしても驚きました。いつスキマ様がいらっしゃるかと思っていたら、まさかこちらが先にあなたの下にたどり着いてしまうとは」
「うふふ。私は境界を司るものなのですよ? 道は境界。なればあなたが進むべき道を定めることなど造作もないことですわ」
「おお、これはお見逸れいたしました――」
彼はおどけたように一礼する。そして顔を上げると、興味深そうに何度も小さく頷いてみせる。そんな彼の一つ一つの仕草が可笑しくて、愛しくて、私は自然と笑みをこぼした。
「今まで、ね? あなたが言ったように、たくさんの命たちと触れ合ってきました。皆、皆、どこまでも美しくて、懸命に生きていて――ねえ、ここまであなたを導いてきたのは、この木を見せたかったからなんです。ほら」
そう言って私は、二本で一つの巨木に手を触れる。じわり、と幽かな熱が伝わってくるのは、この木に宿る命の証だ。
「何と、これは――連理の枝というものを、この目で見ることが叶うとは。ああ、やはり私にはまだまだ知らぬことがあるのだなあ。何とも――美しい」
彼はしみじみと溜息を漏らす。この木を美しいと思うこの私の心を、彼と分かち合えた。それがたまらなく嬉しくて、私は少し、涙が出てしまいそうになった。
「ええ、そうでしょう。植物にも心があるってこと、教えてくれたんです。この木――ええと、れんりの、えだ、と呼ぶのですか?」
「ああ、私も聞いた話に過ぎないのですが、大陸にはこうした木の物語が伝わっているのだそうです。何でも、その二本の木の下には、生前慈しみあった夫婦が埋まっていたのだ、とか。この木もまた、慈しみあって生きているのでしょうね」
連理の、枝。支えあい、慈しみあって生きる一対の木。この木から学んだことは間違っていなかったのだな、と私は誇らしげな気持ちになる。そしてその物語を聞き、私はより一層この木が愛しく思えた。
「そうなのですか。大陸、というと、海の向こうですよね。そんな所のお話を知っているなんて、博識ですのね」
「いえ、父が大陸から渡ってきた方でして、それで。父はいつも、私は仙人なのだ、などと
「せんにん、というと――」
「自然に遊び、逍遥するもの。世界と友たるもの、とでも言いましょうかねえ」
私はそれを聞いて、くすりと噴き出してしまう。それは、彼のことだ。なるほど仙人の子は仙人ということか。
「まるで、あなたのことですわね」
「いえ、私などはまだまだ。……それよりも、あなたが見てきた世界を、もっと私に教えてはくださいませんか」
私もまた、彼のような仙人になれるだろうか。私はこの一月に見てきた世界を思い返す。
「はい――」
そして私は語る。私が触れてきたたくさんの命たちの物語。
静かに根を下ろし胸を張って生い茂る草花の話を、大地に
彼は私が言葉を紡ぐ度ごとに目を輝かせ、時に小さく、時に大きく頷いて笑みを浮かべる。そして、その彼の仕草に促されるようにして、私の口からは絶えず言葉が滑り出していく。その話をしている間中、私は幸せで、満たされていて、胸は喜びで一杯で、本当に夢のような時間だった。
けれど、夢は終わりが来てしまう。話すことが尽きてしまうと、私は残念な思いに駆られる。もっともっと、色んなことを見てきたはずなのに、言葉にしてしまえば零れ落ちてしまう。そのことが寂しくて、私は歯噛みした。
「ああ、もっと話したいことはあったはずなのに、いけませんわ。あの美しさを語る言葉を、私は知らない」
「いえ――素晴らしいお話でした。本当に、この世界を愛しているのですね」
「はい。けれど、私がこの世界を愛せたのは、あなたのおかげです。あなたが手を引いてこの世界を見せてくれなければ、私はきっといつまでも退屈な日々を送っていましたわ。……本当に、ありがとう」
彼と出会って、そしてあの朝日に照らされたこの世界を見るまでの記憶を手繰っても、ただの薄闇しか残ってはいなかった。ほんの少し手を伸ばせば、そこにはこんなにも愛おしいものがあったというのに、何と勿体無い時の過ごし方をしてしまったのだろうかと、私は今更ながら後悔する。
でも、思い出はこれから作っていける。何度でも振り返り、その度に笑顔になれるような、そんな思い出を作っていきたいと、今、私はそう願う。
「んふふ、そんな素敵な話を聞かせてくれたお返し――と言っては何ですが、私のほうも、少し面白いものをお見せしましょう」
そう言うと、彼は懐から酒瓶を一つに小さな椀を二つ、そして藁で編んだ人形を一つ取り出す。そして、その人形に何かを書いた紙を貼り付けると、それらを地面に置いた。
するとどうだろう、人形がひとりでに動き出し、酒瓶を持ち上げて椀に酒を注ぎ、それを私に恭しく差し出してくるではないか。私は驚いて、しばらくの間ぼうとしていたが、人形が急かすような仕草で勧めてくるので、一言礼を言って受け取った。
「これは、一体」
「この世界に、力をほんの少し分けてもらったのです。……そうですねえ、この徳利からこのお猪口にお酒を注ぐにはどうすればいいでしょう?」
「それは――こうして」
私は手で酒瓶を持ち上げると、それを傾けてもう一つの椀に酒を注ぐ。
「そう。お酒を注ぐ、という目的を達するためには、まず徳利を持ち上げ、そしてそれをお猪口に向けて傾ける、という手段を取る必要があります。その手段こそを式と呼び、それに使う道具を式神と呼びます。あなたが今なさったのは、言ってみればご自身の手を式神にしたということですね。そして今私がしたのは、この世界の一部としての人形に語りかけ、式神となっていただいたのです。もう少し世界と仲良くなれば、この徳利をそのまま式神に、ということもできるのですが、私はまだ未熟ですからねえ」
人形はなおもとてとてと可愛らしく歩いている。私は、世界と仲良くなる、という言葉に強く惹かれていた。
「私にもできるでしょうか。この、式神を使うこと」
「勿論。これほど世界を愛しているあなたなら、きっとすぐに私などよりも上手に扱えるようになりますよ。……そうですねえ、もう少し詳しい話をいたしましょうか。世界に語りかけるには、当然世界の言葉で語らねばなりません。世界のあるがままの姿を捉え、そこにある法則を見出し――」
彼はとても熱心に教えてくれた。世界の言葉を知るために、過去多くの先人たちが自然に遊び、そして今伝えられている式があるのだと。その一つ一つを、私は夢中で聞き覚えた。
「……とまあ、私に教えられるのはこのくらいでしょうか。簡単なものから練習してみてください。それでは、この子も随分と急かしてますからね。お酒をいただきましょうか」
私ははたと、手に酒の入った椀を持っていたことを思い出す。話に没頭するあまり忘れてしまっていたらしい。なぜか少し、顔が熱くなる。
「は、はい。いただきましょう。ええと――あ」
「いかがなさいました?」
私は突然、あることに気が付く。
「考えてみれば、私はあなたの名前も知りません。何と、お呼びすればいいのでしょう」
そう。私は彼のことを何も知らない。社に仕える、というようなことを言っていたような気がするが、それ以外のことは本当に何も知らないのだ。
「ああ、いや、名乗るほどの名は……」
彼は顔を赤くして首を小さく横に振る。しかし私が訴えるように視線を送り続けていると、彼は観念したという様子で、私の耳元で自分の名前を囁いた。
力強い響き、そして真っ直ぐな意思を感じさせる名前だった。私は、彼の名前を小さく呼んでみる。
「ううん、何というか、少し恥ずかしいですねえ。実を言うと、その名はあまり呼ばれ慣れていないのです」
「と、言うと……?」
「ええ、里のものは皆、私のことを、神主、などと呼んでいます。まあ、実のところはただの
「うふふ、それでしたら、そう呼ばせていただきますわ、神主さん。けれど、あなたの本当のお名前も、たまには呼ばせてくださいね?」
私がそう言うと、彼――神主さんは照れたように頭を掻きながらうつむいた。私は可笑しくなって、小さく笑みを零す。
「ああ、いけません。こんなときは酔ってしまうに限る。ささ、スキマ様からどうぞ」
「はい、いただきます」
私は椀を傾け、酒を味わう。彼もそれを見て、先ほど私が注いだ酒をぐいと飲み干した。するとまた、先ほどの人形が瓶を持って酒を注ぎにくる。私が頭を撫でてやると、何やら照れくさそうな仕草を見せた。
「本当にこの子は、式で動いているだけなんですの? まるで生きているみたい」
「ええ、まあその通りなんですが……ただ、こういった生き物を模ったものを式神としてあまり長く使うと、魂が宿ってしまうこともあるのだそうです。この子はまだそんなことはないと思いますが」
「へえ……本当に博識ですのね。……ねえ、今度は神主さんの話を聞かせてくださらない? あなたがいつもどんな風に過ごしているのか、興味がありますわ」
「いえ、そんな。私の話など退屈させてしまいます。お聞かせできるような話ではありません」
「退屈かどうかは私が決めることですわ。お願い、聞かせて?」
「これは参りましたねえ――」
そして、私は彼と酒を酌み交わしながら、彼の話を聞かせてもらった。普段は里でどんな暮らしをしているのか、そして彼にはたくさんの友達がいることや、彼が仕える社に住まう神様が、いかに素晴らしいものであるのかなど、酔いが回ってきたお陰もあってか、彼は話し始めたときからは打って変わって、饒舌に語ってくれた。
「……決して争うことなく全てを受け入れてみせたという、あのお方に仕える一族の
大地を司り、そこに生きるものと相和する神。それが彼の仕える神様なのだという。私もまた、彼の語るその神様の物語を聞き、その生き方に惹かれていた。
「……神主さん。命たちと、相和する。そんな生き方が、私にもできるでしょうか。……私は境界。どこにも属さず誰とも交わらぬもの――そんな、私が」
「勿論ですとも、スキマ様。あなたも――」
「……いや」
「スキマ様……?」
そう呼ばれて、私は胸に針を突き立てられたように感じた。彼が先ほど、楽しそうに友達の名を呼んでいたのを聞いて、私はずっと寂しく思っていたのだ。
「私も……私も、名前が欲しい。スキマ様なんていう、守り神の名前じゃなくて――あなたに、呼んでもらうための名前が」
それは、境界の別名なのだ。私が境界である限り、きっと私がようやく望めた生き方は叶わない。彼の仕える神様のように、そして何より彼自身のように、自然に交わり、仲間たちに囲まれて生きるような、そんな生き方は。
だから私は、名前が欲しかった。守り神としての頸木にとらわれぬ、ただ一人、代わりのいない私自身としての名前が。
彼はじっと押し黙っている。何を考えているのかはその表情からは読み取れない。私は居た堪れなくなって視線をそらした。
「ごめんなさい、変なことを言ってしまって。……そろそろ、夜明けですね。空が白んできている」
「……ああ、本当だ。もうこんな時間になってしまいましたか。名残惜しいですねえ」
そして私たちはまた二人、朝日に照らされた世界を眺める。一月ぶりに見るそれは、前に見た以上に美しく、愛しかった。
眼前に広がる色、色、色。けれど私は、二度この世界を見渡し、一つの確信を得ていた。
「ねえ、神主さん。色んな色をこうして眺めて、私、ようやく気付けたんです。私はあの、私をずっと見守ってくれていた紫色の空が大好きだったんだって。……大好きな色に包まれていることにも気付かずに、ずっと退屈だなんて思っていて……私、本当に馬鹿ですね」
目の前に広がるどんな色より、私はあの静かで荘厳な色を愛していた。少し、この世界を見せてくれた彼に失礼なことを言っているだろうか、と思ったが、彼は笑って頷いた。
「ええ、自分が本当に愛せるものは何なのか、そればかりは色んなものを見て、触れて、そうしなければわかりませんからねえ。……あなたがそれを見つける、そのお手伝いができたのなら、私はそれだけで幸せです」
その笑顔は、本当に私の見つけた幸せを喜んでくれていて、どこまでも眩しかった。そして、胸に満ちた喜びは、私を幸せな夢へと
「ああ、もう眠る時間のようです。……また、望月の夜にこの木の下で会いましょう」
私は彼に寄り添って目を閉じる。瞼の裏には、しっかりと焼き付けた世界の色が、確かに映っていた。
*
目を覚まして空を見上げると、私の愛した色が世界を包み込んでいた。どんな時も、私の目覚めと眠りを見守っていてくれた色。私は目を瞑り、静かに感謝する。
私は周囲を見渡すと、大きく丈夫な落ち葉を探した。手ごろなものが見つかると、それを爪で人の形に切っていく。
私は一つ、次の望月までの目標を立てていた。それは、自然と語り合い、新しい式を見つけることである。そのためにもまずは、彼に教わった式を習得しようと思った。
人差し指の先に歯を立て、そこから流れる血で彼に見せてもらった札と同じ紋様を木の葉で作った人形に描く。その紋様が持つ一つ一つの意味を強く念じ、私は世界に語りかけた。
すると、ひょこひょこと木の葉の人形が歩き始める。やった、と思った次の瞬間にはもう倒れて動かなくなってしまったが、ほんの一言二言だとしても、この世界が私の言葉を聞き入れてくれたのだと思うと、胸が熱くなった。
私は夢中で言葉を世界に伝える練習をした。初めは二、三歩だけだったのが、四歩歩くようになり、五歩歩くようになり、月が出る頃には十歩ばかり歩くようになった。私は嬉しくて、心の中でありがとう、ありがとうと何度も世界に感謝を告げる。
どれくらいそうしていただろうか、微かな足音が耳に届いてきた。人形を懐にしまい、私はまた、迷える人間を導くためにそちらへ足を運ぶ。
見つけた人間の肩に手をかけると、その人間は酷く驚いて飛び上がり、恐怖のあまり前後のつながらないことを喚き散らした。
私は寂寞とした思いにとらわれる。やはり、自分のことを知ってもらえていないというのは、少し寂しい。それでもいつか知ってもらえればいいと思い直し、私は肩から手を離す。
無事にその人間を住処まで見送ると、私は少しの間、遠くから薄闇の下に軒を並べる人間たちの家を眺めていた。日の光の下で、人間たちが営む生活を胸中に思い描く。
私は考える。もしも私が守り神としてではなく、人として生まれていたなら、どのように生きたのだろうかと。
両親に名前をもらい、友と笑いあい、そしていつか、愛する人と結ばれる。そんな慎ましやかな幸せがあったのだろうかと。
私は頭を振ってその考えを振り切る。たとえ不幸であろうと嘆かず生きていこうと言った彼の言葉を思い出したのだ。それに私は決して不幸などではない。信頼してくれる人間たちがいる。彼らを守れる力がある。私にしかできないことがある。そして何よりも、私はこの世界の美しさを知っている。人として生まれようと、私のような幽けきものとして生まれようと変わらぬ幸せがここにある。
私は改めて、この世界に引き合わせてくれた彼に、心の中で感謝を告げた。
それからも私は式の練習を続ける。時を忘れて興じていると、気付かぬうちに空は紫に染まっていた。
私は、どうか私の眠りを見守っていてくれと、空に願いを捧げる。そしてあの木に体を預け、私は夢を結んだ。
*
満天の星空の下、私は木の葉で作った式神たちを踊らせていた。十ばかりの人形が輪を作り、くるくると楽しげに回っている。その内の一つがつまずき、倒れてしまうと、隣のものがそっと手を差し伸べる。そして手を取り合い、再び舞い始めた。
今夜は望月である。私は彼に、自分が見つけ出した式を見せたくてうずうずしていた。
彼に教えてもらった式を、全てそれなりに使えるようになった頃、私は一つ、あることを願うようになった。
空を、飛びたい。
何ものにとらわれず、ただ己の心の赴くままに生きるための翼がほしい――それが叶わぬことだとは知っている。私にはどうしても、この生き方しかできぬのだということは知っている。
だからせめて、比喩ではなくとも空を飛びたいと願ったのだ。本当に空を飛べたなら、いつかそんな叶わぬ願いが叶う日が来るかも知れないと、そう思いたかったから。
それから私は、よく風と語り合うようになった。風の肌触り、その温度、そしてどんなときに風は吹き、また凪ぐのか、それらを細やかに観察した。どんな微かな風の音も聞き逃さず、私は起きている間中、ずっと風と戯れていた。
そんな暮らしを十日ばかり続けていると、突然、風の動きが手に取るようにわかるようになった。それはまるで風が私に語りかけてくるようで、私は風と友になれたのだと、それが嬉しくて、私は小さく歓喜の声を挙げた。
風に語りかけるための言葉も、そのうちにわかるようになった。手で扇げば風が起こるように、風が吹くときに語る声を私が語ることで、風はそれに応えてくれるようになった。
そして私は風に語りかける。どうか私をあの空へ導いてくれと、私の式神となり、願いを叶えてくれと、私は森の中に吹く
僅かずつ風は強くなり、木の葉が舞い踊る。そしてその風は私の周りに集中していき、そして――
私は、空を飛んだ。
遥か空の上から眺める世界は、大地に立って見たときよりもなお美しく、雄大だった。風にざわめく木々。月明かりの下に息づく獣たちの声。遠くには人間の住む里も見える。更に見上げれば、遮るもののない満天の星空が広がっていた。
森の外に出たのは、それが初めてだった。そのとき私は、確かに何にも縛られることなく、ただの一人、私自身として在れた。
そして今、私は夢想する。彼と二人、どこまでも遠くへ飛んでいけたら。二人空の上、全てのしがらみを離れ、ずっとこの美しい世界を眺めていられたら――
そんなことを考えていると、式神たちの踊りが終わりを迎える。
次はどんな踊りを舞わせようかなどと考えていると、遠くから、彼の足音が聞こえてきた。今夜は道を定めたわけではないが、しかし真っ直ぐにこの木の元へと歩を進めてくる。この木までの道程を知っているのは彼の他にいるまい。
鼓動が高鳴っているのがわかる。更に足音は近づき、そして、薄闇の向こうから、彼の痩せた体躯が姿を現した。
「今晩は、神主さん。ここまでの道、覚えていてくださったんですね」
「…………」
「神主さん……?」
彼はどこか沈痛な面持ちで、じっと押し黙っている。私が妙に思い、戸惑っていると、彼はゆっくりと口を開いた。
「……この前、あなたは言いましたね。あなたは境界なのだと、どこにも属さず、誰とも交わらぬものだと」
私の心がちくりと痛む。もしや私の言葉が、彼に要らぬ重荷を負わせてしまったのではないかと、そう懸念したのだ。
「いえ、あれは……その、酔いに任せて変なことを口走ってしまっただけですわ。だからそんな……そんな悲しそうな顔をしないでください」
私の言葉を聞いて、彼は小さく頷く。しかし表情を変えることはせず、言葉を続けた。
「私は、あれからずっと考えていたのです。私は、誰かと真に交わることなどできているのだろうかと。けれど、考えて考えて、それはきっと誰にも叶わぬことなのだと、そうわかった」
ぽつぽつと、漏らすように彼は話し続ける。その悲痛な表情が耐え切れず、私は目を伏せる。
「この世の誰も、他の命と交わることなどできはしない。一つ一つの命は、どうしようもなく断絶しているのだと。……ただ」
ただ、と続けた言葉に熱が篭ったのを、私は聞き逃さなかった。視線を上げると、彼は真っ直ぐに私を見つめていた。
「ただ、そんな断絶した個々の命は、触れ合うことができる。そして、触れ合えばそこには、境界が生まれます。それは、慈しみあう仲かも知れない。憎みあう関係かも知れない。けれど、そのどれもが、掛け替えのない絆だ」
境界――掛け替えのない、絆。
私は理解した。彼はこの一月、ずっと私を救うための言葉を探し続けていたのだと。私はこみ上げてくる喜びに堪えきれず、涙を流していた。
「だからあなたは、命を繋ぐ絆になればいい。たくさんの命たちの絆――そう」
彼は少しだけ間を置いて、あの穏やかな視線で私を見つめる。そして。
「八雲の――
それが――
私の、名前。
「八雲は、たくさん。紫は、
「神主さんっ!」
私は思わず彼に抱きついていた。胸の奥で渦巻いているたくさんの感情を、私はどうすればいいのかわからなくて、衝動的に彼に飛びついていたのだ。
「ありがとう。あり、がとう。嬉しい――嬉しい、よお」
私はまるで子供のように泣きじゃくっていた。彼の細い腕が私を包む。微かな体温が着物越しに伝わってきた。その温度こそが私たちを繋ぐ絆なのだろうかと、私は心の一番奥の部分で思う。
「紫さん――」
彼が私の名前を呼ぶ。それは私の心に染み込んでくるようで、その声が私を、他の誰でもない、八雲紫にしてくれるのだと、私はそう思った。
それからしばらくの間、私は泣いていた。この目から溢れ出してきているのは、この胸に収まりきらなくなった喜びだ。
「夢、みたいです。私、こんな、わがままで、神主さんのこと困らせて、でも――本当に、本当に、嬉しい――」
彼は静かに泣いている私を抱きしめていてくれた。ようやく気持ちが落ち着くと、抱かれたまま彼と目を合わせる。
「ねえ、神主さん。見せたいものがあるんです。しっかりと、掴まっていて」
そして私は風を集める。彼と二人、どこまでも高いところまで運んでくれと、私を縛る鎖を解き放ってくれと、そう語りかけた。
「何と――」
ふわり、と私たちは宙に舞う。彼は驚き、目を丸くしていたが、空からこの世界を眺めると、慈しむように目を細めた。
「紫さん、これは――」
「私は、この一月、ずっと私の願いを叶えてくれる式を探していたんです。私の願い――どんなことにも縛られることなく、私としてだけ生きたい。だけどそのための式なんて、ないって思って諦めて、だからせめて、大地からだけでも解き放たれたいとそう思って、私、この式を見つけました。だけど――」
空の上から彼と二人で見渡す世界は、一人で見たときよりもずっと輝いていた。私は視線を彼の目に移して言う。
「だけど、違った。あったんです、私の願いを叶えてくれる式が。八雲紫――あなたがくれたこの名前が、きっと自由に生きるための翼になってくれる。そう、どこまでも、どこまでも、遠くに――」
これから、私はスキマ様ではなく、八雲紫として、人間たちを守っていくのだ。そしていつか、彼だけではなく、もっと多くの人間たちに、そのことを知ってもらいたい。この名前はきっと、私をその場所へ導く式になってくれる。
「ああ――何と雄大で、壮麗なのでしょう。この大地は――紫さん、私も、あなたが見つけたこの式で、自由を得られた気がします。縛られぬからこそ、力強く望むことができる。……私は大地をしっかりと踏みしめて生きていきたいのだと、その望みは空しいものではなく、心からの望みだったのだと、教えてもらいました」
私は彼の言葉を聞き、誇らしく思う。私があの紫色の空を愛していたことを教えてもらったように、彼に返せたものがあった。
「はい。だけど今はもう少し、こうして眺めていましょう? あなたと――私が愛した、この大地を」
彼は深く、深く頷く。私たちは確かにそのとき、何にも縛られてはいなかった。
*
あれから三度ばかり、月が巡った。あれからも私は、人間たちの守り神として森に住んでいる。
しかしそれは、その生き方しかできないから、ではない。私は八雲紫として、この生き方を選んでいるのだ。それは、この森に住む命たちを愛しているからであり、この連理の枝のそばにいたいからであり、月に一度の彼との逢瀬を楽しみにしているからであり、そして何より、か弱い人間たちを、この手で守りたいからだ。
人間を殺さずともいいのだと知ったあのとき、殺さないことを選び取ったあのときから、あるいは私は本当の意味で私になれたのかも知れない、などと今では思う。あの選択こそが、初めて私の意志を世界に表明した行為だったのだ。それまで私は――彼に言われたように生命と語り合っているときですら――誰かに言われるがまま、決まっていることを決まった通りに行ってきたに過ぎなかった。
自らの望みを偽ることなく世界に立ち、向かう。それこそが私の憧れた彼の姿だ。今、私はその場所に近づけただろうかと、ほんの少し
そうしていると、また一人、迷える人間の足音が聞こえてくる。私は足早に救いを求める人間の下へ向かう。
しかしその人間は、妙に落ち着いた足取りで歩いていた。私は少し不思議に思い、首を傾げていたが、あるいはこの人間も、彼と同じように闇を愛するものなのかも知れないと、この人間とももしかしたら友になれるかも知れないとそう思って、胸を弾ませて肩に手を置いた。
「……へんっ、どうせ襲ってきやしねえんだろ。とっとと消えうせろい!」
その人間が放った拒絶の言葉に、私は胸を抉られたような心地になる。この人間が落ち着いていたのは、闇を愛しているからではなく、闇に呑まれることなどないと、そう信じていたからなのだと知り、私は落胆した。
彼は違った。闇を畏れて、それでもなお己の願いを貫くために闇に手を浸したのだ。目の前にいるこの人間に、あの美しさは見出せなかった。
それでもどうにか気を取り直し、私はその人間を住処へと送る。道すがら、私は色々のことを考えていた。
命は、どれもが違ったものの見方をする。誰かが愛するものは、他の誰かにとっては憎悪の対象になるし、誰かが喜ぶことも、他の誰かにとっては悲しみを生むばかりのことであったりする。それが、彼と出会ってから命と語り合い、私が見つけた一つの真実だった。
それでも、そのどれもが掛け替えのないこの世に一つの命なのだ。私は、愛も憎しみも、喜びも悲しみも、その全てを認め、受け入れてあげたい。
だからたとえ、私を憎むものであろうと、畏れぬものであろうと、私は守ってみせる。命の中に渦巻くその想いを、丸ごと愛してみせる。その覚悟を貫き通すことが、私が八雲紫である証明であるのだ。
その信念のもと、無事に人里へと辿り着かせることができた。しかし、去り際にその人間が呟いた言葉に、私は衝撃を受ける。
「けっ、何がスキマ様だ――」
――私のことを、知っていたのか?
その名を知っているのならば、呪いの言葉を知らぬということはあるまい。それなのになぜ、唱えることをしなかったのだろうか。
じわりと背中に冷や汗が浮く。自分が立っている場所が揺らいでしまったように感じた。もしかすると、私は何かとんでもない過ちを犯しているのかも知れない。あるいは、私が抱いていた守り神としての誇りなど、幻想に過ぎなかったのかも知れないと。
いや――違う。そうではない。私の誇りは人間たちを守ること。人間に認められるためにしているのではない。ただ掛け替えのない一つの命を、この手でもって守り抜くことが、八雲紫の誇りなのだ。
しかしそれでも、不気味な感覚は拭えなかった。くらりと軽い眩暈を覚える。まるで人間たちの信頼が、私から遠のいていくような、そんな感覚に私は戦慄し、呆然と立ち尽くしていた。
*
今夜は朔である。月のない空に浮かぶ星々はいつもよりその輝きを増して、この大地へ柔らかな光を届けていた。
あれから一人、呪いを唱えてくれる人間に出会った。私は唱えられた言葉を聞いて、大いに安堵した。
やはり、いくらそれだけを求めているわけではないとはいえ、人間たちが自分を信頼してくれているとわかるのは嬉しい。私は改めて、自分が人間たちを愛していることを確かめる。
しかし一つ、気がかりなことがある。あれから思い返してみると、人間たちが呪いの言葉を唱えることが少なくなっているように感じたのだ。それに、夜に山中に迷うものも増えているような気がする。
あのときの人間のように、闇を畏れぬものが増えているのだろうか。だとすれば、それはあまりにも悲しいことだと私は思う。
畏れぬということは、闇の向こうにあるのが日常であると信じることだ。もはや二度と日常へは帰れないかも知れない、だからこそ人間は闇を畏れる――それは彼に教えてもらったことだが、私自身もその言葉の意味を考え、自分なりに理解していた。
日常と異なる非日常。それは例えば怪我を負うことであったり、血を流すことであったり、あるいは、究極的には死んでしまうことだろう。闇に手を浸すということには、常にそのような危険が付きまとう。それ故に人は闇を畏れるのだろうと。
しかし、非日常とはそればかりではない。闇の向こうにある、自分の知らなかった世界。それが自分の知らなかった感情をくれる。今まで知らなかった喜びや楽しみや幸せをくれる何かが、闇の向こうには待っているかも知れないのだ。それは正しく、彼が不断に求め続け、そして私を救ってくれたことなのである。
闇の向こうに延々と日常が広がっているばかりなのだとすれば、確かに怖れる必要はなくなるのだろう。心の安寧を得られるのだろう。しかしそれは同時に、そんな闇の向こうの喜びを否定することでもあるのだ。
――人はそれを望むのだろうか。
もしもその喜びがあると知りながら、それでも恐怖に堪えられぬというのならば、それはそれで仕方がないのかも知れない、とも思う。しかし、しかし私は――
遠くから乱暴な足音が聞こえてくる。その足音の主もまた、きっと闇を畏れぬものなのだろう。私は悲しみに暮れながらも、恐怖に堪えられぬ、そんな弱い人間たちにせめて安心を与えてあげたいとそう思い、そちらへと足を運ぶ。
進んだ先にいたその人間は、今まで守ってきた人間たちのように怯えているわけでもなく、かといって彼のような清い諦念を持った足取りでもなく、粗野で、どこか無気力な歩き方だった。私は溜息を飲み込んで、その人間の肩に手を置く。
しかし、その人間は歩みを止めることをしなかった。どうしてしまったというのだろうか。私はもう一度、少し力を強めて肩を叩いてみる。
すると、その人間は少しの間だけ足を止めたが、やはりまた意に介さぬという様子で再び歩き始める。私はせめて迷ってしまわぬようにと、肩に手を置きながらその人間が進むべき道程を定めていた。
そのまま、どんどんとその人間は歩き続ける。そしてそのまま人里の見える場所まで辿り着いた。私はここまで来ればもう大丈夫だろうと、肩から手を離す。
「……やっぱりだ」
その人間は何か不可解なことを呟いた。私は奇妙に思い、その人間の言葉に注意を向ける。
「やっぱり嘘っ八だ。スキマ様なんてもん、この世にいやしねえ!」
*
その言葉を聞いたとたん、唐突に、私の視界は完全な闇に閉ざされた。今までの薄闇とは違う、無限に広がる果てのない深淵。あまりにも唐突な事態に、私は混乱する。
――一体、何が。
何が起きたのかと、光を求めて私は星空を見上げようとする。
しかし、体が動かない。いや――違う、そうではない。動かないというよりも、これでは、まるで――
その底知れない不安を和らげようと、私は肌に触れる風の感触を求める。しかしそれも空しく、あの柔らかな風の手触りを得ることは叶わなかった。
そして気が付いてみれば、葉擦れの音も、草木の香りも、私が愛した世界の何もかもが私の下へ届いてきてはくれていなかった。
不安は徐々に確信へと変わっていく。今、私は、世界に触れるために必要なものを、失っているのか。
私は――私の体を失ってしまったというのか?
世界の色を見るための目も、生命の叫ぶ声を聞くための耳も、愛しい手触りを伝えてくれる肌も、匂いたつ生命の香りを嗅ぎ取るための鼻も、何もかもが失われてしまっている。
触れられない、感じられない。まるで世界が遥か遠くに行ってしまったようで、私は絶対の孤独を突きつけられたように感じていた。
何故、どうして。
その問いに答えるものは誰もいない。仮にいたとしてももはやその言葉を聞くことは叶わないのだ。
できることはただ考えることだけ。考えたところで、出した答えを世界に伝えるための手段も失ってしまっているけれど。
私は怖ろしい考えに囚われる。もしやこのまま、今ここで思考している自分自身さえも、このまま消えてしまうのではないかと。
――消える。私が、いなくなる。
それは――
いやだ。怖い。消えたくない。
何故消えなければならぬのか、それすらもわからぬうちに消えてしまうわけにはいかない。
――怖いよお。誰か、助けて――
そう叫んだつもりだったが、もはや振るわせる喉もない。その声は、響くことも叶わず闇へと消えていった。
何もできないまま時ばかりが過ぎていく。いや、時が流れているのかどうかさえもはやわからない。あるのはただ心の底から湧き出る絶望ばかりである。
そうしていると、だんだんと頭が――その表現ももはや似つかわしくないが――ぼうとして、眠気のようなものを催してくる。
私は、このまま眠ってしまえばきっともう二度と目覚めはしないだろうという、絶望的な確信を覚えていた。
怖い――怖い、怖い、怖い。消えてしまいたくない――
私は必死でその眠気を振り払おうとすが、しかし睡魔は着実に私の精神を蝕んで、行ってしまえば二度とは帰れぬ闇の底に私を沈めようとする。
いやだ、何故、何故こんな。消えたくない消えたくない消えたくない――
ああ――
もう、もう。
限界だ。私は――このまま、消えて――
――神主さん。
彼のあの笑顔が、脳裏に浮かんだ。せめて、せめて最期にもう一度、会いたかった――
「紫さんッ!」
*
私の名前を呼ぶ声が聞こえたかと思うと、底知れない深淵は跡形もなく消え失せていた。私は怖る怖る、指先を動かしてみる。
動く、動く。
何度も確かめるように、繰り返し手を握り締めては開いてみる。手の動く感覚が、涼やかな空気が触れる感覚がしっかりと伝わってくる。
私は周囲を見回す。力強く咲く花に、聳える木々。空には満天の星空。そして目の前には――
「紫さん、良かった。目が覚めたのですね――本当に、良かった」
「神、主さん――」
満面に涙と安堵を湛えた彼の顔があった。彼は泣きながら私を抱きすくめる。
「あ、ああ。怖かった、怖かったよお。う、えっく。う、わあああああぁん!」
私もまた、あの底の見えぬ孤独の淵からの解放に安堵すると、感情が抑えきれなくなって号泣していた。
二人、抱き合って、涙を流して、そうできるということが嬉しくてたまらなかった。
「……落ち着いてきたみたいですね、紫さん。……大丈夫、ですか?」
「はい……ごめんなさい、見苦しいところを見せてしまって。でも……何故神主さんが。今夜はまだ、朔の――」
「何を――今夜は、望月です」
「え――」
再び顔を上げて空を見ると、確かに月は真円を描いて煌々と輝いていた。
再び、不気味な怖気が走る。
あれは――やはり夢や幻覚の類ではなかったのだ。
あれから彼が見つけてくれるまでの間――私は、八雲紫はこの世にいなかった。
ぶるりと体が震える。
「それで、いつものように、あの木の所へ行ったのですが、あなたはそこにはいなくて――そしてそのとき、嫌なことを思い出してしまったのです。近頃、妙な噂話がありまして、この森に、スキマ様――」
彼はその名前を、少し言いにくそうにしながら言葉を続ける。
「――その、守り神などいないと、そんな噂が立っていたのです。それで、不安になって、私はもう二度と、紫さんに会えないのではないかと――」
その噂話は――恐らくは正しいのだ。彼に、この世界に再び連れ戻してもらうまで、私はこの世界にいなかったのだから。
「必死で、必死で紫さんのことを捜して、もう駄目なのだろうかと諦めかけて、それでもやっぱりもう一度紫さんに会いたくて――だから、ようやくあなたを見つけたときには本当に嬉しかった。でも、ようやく見つけたあなたは、まるで糸が切れた人形のように力なく横たわっていて、それで、何度も必死で呼びかけて――ああ、本当に、良かった――」
そう彼は繰り返す。見てみれば、着物の裾には多量の血がついていた。立っているだけでも辛いのだろうに、私のために、痛みも
「ごめん、なさい。ごめんなさい神主さん。私なんかのために、そんな酷い怪我――」
「……違います。私があなたに会いたかっただけなんです。あなたのためだなんて、そんな大それたことは考えられませんでした。だからどうか、お気に病まないでください」
「……本当に、優しいんですね。なら――ありがとう。そんなに――そんなに私のこと――」
想ってくれて――
最後のほうは嗚咽に混じって、自分でもよく聞き取れなかった。
しばらくの沈黙の後、彼が切り出す。
「一体、何があったのですか。どうしてあんな」
「……それが、私にもわからないんです。本当に、いきなりで――」
私は、どうにか冷静になって、一つ一つ記憶を手繰っていく。
「――そう、突然、目の前が真っ暗になったんです。それが、朔の夜のことでした。それで、光も、音も、香りも、何もかも、私は感じることができなくなって――」
思い出すだけでもぞっとする。あんな思いは、もう二度としたくはない。今こうしてこの世界に立っているということが、本当に幸せなことに思えた。
「それで、体も動かなくて――違う、そう、あれは――動かせる体がなくなってしまっていたんです。世界を感じて、そして私の意志を世界に伝えてくれる、私の、この体が」
彼は神妙な顔をして私の話に聞き入っている。
「それで、意識だけが残って――それもだんだん、薄れていって――でも、そのとき、あなたの声が聞こえて、それで戻ってこられたんです。本当に――怖かった」
思えば、私は今まで恐怖するということを知らなかった。あれが、人間の言うところの死だとするのならば――
――生き物は、いつもあんな恐怖に耐えているのか。
目を逸らしたがるのも道理なのかも知れない、と少しだけ思う。
「大丈夫……大丈夫です。……何故、そんなことが起こったのか、お心当たりはありませんか」
私の背を撫ぜながら、彼は柔らかな声音で私に問う。しかし、彼もまた、声の震えを隠しきれてはいなかった。
私はあのとき、あの闇に
「……人が一人、迷っていたんです。私、いつものようにその人間の肩に手をかけて――でもその人間は、それを無視して歩き続けて、そのまま人里まで着いたから、肩から手を離して――」
そして。
スキマ様などこの世にいない――
「……そう、その人間はそう言ったんです。その言葉を聞いたとたんに、私は――」
彼は顔を
「それは……いや」
彼は一瞬口を開くが、すぐに閉じてしまった。何を言おうとしたのかは、表情からも伺えなかった。
「……とにかく、今は無事にこうしていられることを喜びましょう。……大丈夫、心配要りません。きっと、何とかなる」
――本当に、そうならいいのだけれど。
私はどうしても不安が拭えない。また眠る時が来たら、もう二度とは目覚めないのではないのかと、私は――恐怖していた。
彼に宥められ、時を過ごすうち、やがて朝日が昇る。色鮮やかな世界はやはり美しくて、しかしだからこそ、もう二度とこの世界に戻れないかも知れないと思うと、不安に押し潰されそうになってしまう。
「……怖いんです、神主さん。私は、眠るのが怖い。だけど、やっぱり、起きてはいられないみたいです。眠気が――私を蝕んで、ああ――怖い、よう」
その恐怖を吐き出してしまわなければ、私は耐えられなかった。彼にその不安を押し付けて、そうして自分の安定を図っている自分が情けなくて、私は歯噛みする。
「紫さん――」
「あ――」
彼は、何も言わずに私を抱き締めてくれた。彼の胸は温かくて、私は母に抱かれる子供のように、安堵に満たされる。
「……大丈夫、何も心配しなくていい。必ずまた、会えますから――今は、お休みなさい。紫さん」
ああ――
そうだ、彼がそう言うのだから、きっと何も不安がることなどないのだ。彼の言うことなら、私は何だって信じられる。
必ずまた――会える。
私は瞼を閉じ、眠りの世界へと溶けていく。意識が途絶えるその間際まで、彼の感触を確かめながら。きっと今日もまた、素敵な夢が――待っている。
*
眠りから意識を取り戻すと、私は手に触れる風の感触を確かめる。木々の香り、空には
大丈夫、私は確かにここにいる。この世界に立っている。
彼の言うとおり、きっと不安に思うべきことなど何もなかったのだ。これからも私は、八雲紫は、人間たちを守るものとして、この森で生きていくのだ。大丈夫――
私はあの木のところまで帰ろうと、歩み始める。帰り道でも、たくさんの命と触れ合い、私がここにいることを確かめる。
暫くして辿り着くと、あの木は変わらぬ姿で私を迎えてくれた。いや、この前よりもほんの少し大きくなっているだろうか。幹の中ほどからも、新しい枝が生えている。それにしても、随分と急に大きくなったものだ――
と、そこまで考えたところで私は思い出してしまう。私は――そう、やはり半月の間この世に存在していなかったということを。
私がいなくとも世界は回り続ける。そんな当たり前のことが、今の私には怖ろしくて仕方がなかった。私が消えることが世界にいかほどの影響も与えないというのなら――
やはり、いつ消えてしまってもおかしくはないのか。
首を振ってその考えを振り切ろうとする。こんなものは、気の迷いだ。大丈夫だ、彼も言っていたではないか。心配することなど――
かさり、と枯葉を踏む音が聞こえてくる。私はその音を聞いて、一瞬だけ体が固まった。気が付けば、手が、足が、体中が震えている。
何を、怖れることがある。と私は自分に問う。答えは見つからなかった。
いや――違う。見つけてしまうのが怖くて、目を逸らしてしまった――のか。
――これでは。
これでは彼と出会う前に逆戻りではないか。自分の内側にあるものだけで自分を無理矢理成り立たせ、本当の喜びを知ることなく生きてきたあの頃に。
それは嫌だ、と私は思いを定める。恐怖に負けてしまわぬよう、必死で体の震えを押さえ込み、私は、足音のするほうへ向かった。
見つかったのは、やはりあの時のように闇に対する恐怖の色をまるで見せていない人間だった。
体の震えが大きくなる。もしや、また同じことになってしまうのではないか。そう思うと、どうしても体が
それでも、意を決して、私はその人間の肩に手をかける。その手は、やはりどうしようもなく震えていた。
すると、その人間は立ち止まる。私はあのときの繰り返しにならなかったことに、胸を撫で下ろした。
しかしやはり、その人間は呪いを唱えることはしない。いや、何か――小さな声で、口の中で何かを言っている?
私は耳を澄まし、その人間が呟く言葉を聞こうとする。すると――
「……大丈夫だ、怖くねえ。人喰いの化け物なんていねえ。この森にそんなもんいねえ……」
人喰いの――
――化け物。
私は、唐突にあることを理解した。
私は、そうしたものとしてしか、この世界にいることを許されていないのだ。
何故かはわからない。それにどういう意味があるのかもわからない。ただ私は――
そうしたものであるのだ。
「いやだ」
私は、もう片方の手をその人間の首にかける。
「いやだいやだ」
そしてその手に少しずつ力を込め。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ」
その人間を、くびり殺した。
「こわいよ」
捻じ切れた首からはだくだくと血が流れている。
「こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい」
そしてその死骸に歯を立てると。
「私は」
骨の一欠片も残さず。
「私はまだ」
喰らい尽くした。
消えたくない――
*
満ちかけた月の浮かぶ空の下、私は自らの肩を抱いて小さく震えていた。上手く体に力を入れることができない。目の焦点も定まらない。消えることへの恐怖と罪の意識が
あれから、何人も殺した。もはや私の存在を信じているものなど一人としておらず、呪いを唱えることもしない。私はその度に、殺し、喰らった。
今の私は、ただ与えられた役割を果たすだけの
人形、という言葉から、私は彼に教えてもらった式神術を思い出す。定まらない思考のままに、木の葉を一枚拾って人の形に切って、呪文を書き込んでみる。しかし、もう私には世界の声は聞こえなくなってしまった。私自身が――耳を閉ざしてしまったのだろう。
もはや何の意味もない紋様が描かれた木の葉の人形は、ひらりと地に落ちていった。
――私は、どこで間違ってしまったのだろう。
そんなことを考える。私がこの世界を、愛してしまったのが間違いだったとでもいうのか?
ならば、初めから心のない人形として生まれてきた方がよかった。どんなに美しいものを見ようとも、決して心の動くことのないただの人形として。
どうして、どうして。
私は――この世界を愛してしまったのだ――
――紫さん。
彼の声がこの胸の奥から響いてくる。彼と――彼と出会ってさえいなければ――
――違う。それだけは断じて違う。彼と出会って、美しいこの世界に触れて、喜びを知って、それは幸せなことだったと、私は、今でも。
彼との出会いが――間違いでなどあってたまるか。
だけど、それでも、苦しい、辛い。どうして、何故、私だけが、こんな。嫌だ、こんなこと、巫山戯ている馬鹿げている間違っている――
ぐちゃぐちゃと纏まらない思考だけが頭の中を這い回る。そうしていると気が狂ってしまいそうで、だけど、気が狂ってしまえばいっそ何も考えずに済むだろうかなどと考えている自分がいる。
それでも、狂ってしまえない。何故、何故。こんなに苦しいのに、解放されてしまいたいのに。私は、私は。
――かさり、と。
その音に、
もう、無視してしまおうと考えたことも数度あった。それでももし、私が行かなかったことによって、私が存在しないということを確信されてしまったなら、そのときは――それはきっと私が消えるときなのだ。
それは――怖い。嫌だ。消えたくない。
だから私は、人喰いの化け物としてしか存在できない、私自身を憎みながら、その足音に向けて歩みを進める。それに、万に一つの、一縷の望みも確かにあるのだ。それを――信じたい。
闇を畏れぬ人間が一人。その歩き方を見る限り、やはりそんな望みは空しいものなのだと突きつけられてしまったように感じた。
それでも、それでも。
信じたい。信じさせてほしい。私のことを――人喰いの化け物ではなく、守り神として見てくれる人間がいるということを。
有り余るほどの絶望と、ほんの僅かの希望を込めて、私はその肩に手を置いた。
ぴくりとその人間は肩を震わせる。しかし――
「……気のせい、気のせいだ。そんな化け物いるはずがねえ……」
――どうして。
「どうして」
首に手をかける。私はあの、捻じ切った首から流れる血の感触を思い出し、ほんの僅か躊躇する。
「どうして信じてくれないの?」
その人間は必死でもがき、私の手から逃げ出そうとした。私は徐々に力を込める。しかし力を込めきることができない。ただ無闇に長く苦しめてしまうだけだと頭ではわかっているが、私は。
「本当は、殺したくなんてないのに」
「くぁっ……! かは」
呪いを唱えてくれれば、ただそれだけで殺さずに済むのに。どうして、どうして。
その人間は、暫くすると腕をだらりと垂らす。私は死んでしまったのかと思い、思わず首から手を離した。その人間は大地に倒れ伏す。
ところがその人間にはまだ息があった。私は確実に止めを刺すため、その人間に馬乗りになって首に手をかけようとする。
しかし、そのときその人間は、ぽつりと、こんなことを呟いた。
「……おま、え、が、正しかったよ、かん、ぬ、し」
――神主?
その人間はそのまま息絶えてしまった。その死に顔は妙に安らかで、むしろ私には不気味にさえ思われた。
――神主とは。
まさか。
「いや」
私は。
「いや」
まさかまさかまさか。
「いやあ」
私は、彼の友達を。
「いやあああ」
殺して、しまった?
「いやああああああああああああああああッ!」
他に聞くもののいない慟哭が闇にこだましているのを、自分の声だというのに、私はどこか醒めた頭で聞いていた。
*
私はあてどもなく森の中を彷徨っていた。一つの場所に留まっていると、この私の醜い姿を他の命に見られているようなそんな気がして、居た堪れなくなってしまうのだ。空に浮かぶ月だけは、どこまでも着いてきて私のことを嘲笑っている。
私はもう、疲れてしまった。もう、罪の意識に耐え切れなくなってしまったのだ。私の両手は、血に
いや、違う。その私の行いの罪の重さに、今更気付いた自分自身さえも嫌になってしまったのだ。誰もが等しく掛け替えのない命だなどとのたまっていた癖に、結局はどこかで命の重さに軽重を定めてしまっていた。こんな愚か者は、もう消えてしまえばいい。
しかし私は消えることはできなかった。あれ以来、この望月になるまで、人間が迷い込んでくることがなかったのだ。
今夜は、望月である。
この日まで
相反する二つの感情が、また私を
私はもう――疲れてしまった。
人間の足音が聞こえてきたのは、そのときだった。何度も聞いたあの音。穏やかで、静かで、どこか諦念を思い起こさせるような、そんな足音。
彼の、足音。
その足音は、あの木の――あの連理の枝の下へと進んでいく。私は何故か、涙が溢れ出るのを止められなかった。彼は尚も歩み続ける。
そして、彼の足音は止まった。あの木の下へ、辿り着いたのだろう。私は、恐怖と
この罪深い、穢らわしい一生の結末を、彼に見届けてもらうために。
「神……主、さん」
彼は酷く沈痛な面持ちで私を迎える。私は彼を一度呼んだきり、何も言えなくなってしまった。
沈黙が続く。彼は悲しそうな目をして、ゆっくりと口を開いた。
「……今宵は、スキマ様を退治しに参りました」
――もう。
名前で呼んではくれないのですね――
彼のその言葉は、私を絶望の淵に突き落とした。もう、もう。私には――何もない。
それでも、それはきっと正しいこと。この世界が正しく回るためには仕方がないこと。私はもともと、いてもいなくても同じものなのだから。
「……はい、あなたに退治されるというなら……本望です」
偽らざる本心だった。せめて最期、彼に看取ってもらえるのならば、それはこの一生の締めくくりとしては上出来すぎる。
しかし彼が次に紡いだ言葉は、私の存在を拒絶するものだった。
「……幻聴が、聞こえますね」
――幻聴。
私の存在など、幻想に過ぎぬということか。
「この森に、守り神など元から居はしなかった。迷ったものが帰ってこれたのはただ運がよかったから。帰ってこられなかったのは、山犬か何かに喰われてしまったからだ。違いない」
私は、あなたの言葉なら、何でも――信じられる。
「ならば今、私の目の前にいるのは何だ? そうだ、単なる幻覚だ。この針で、手指を刺して眠気を飛ばせば、それだけで消えてしまうものだ」
だから――それがきっと正しいことなのだ。
彼は懐から取り出した針を、ゆっくりともう片方の手に近づけていく。
「ほら――消える」
彼は指先に針を突き立てる。それを見たその瞬間、私はまた、あの絶対の暗闇に――落ちていった。
――さよう、なら。
*
何も見えない、何も聞こえない、何も――感じられない。
私の体はもはや失くなってしまった。そして今こうして考えている私自身も――そのうちに、消えてしまうのだろう。
それなのに前に感じたほどの恐怖がないのは、この深淵を覗き込むのが二度目になるからなのか、それとも、私がもう、消えることを受け入れてしまったからなのか。
私にはもう、何もない。愛する世界にいるためには、愛するものを傷つけなければならない。そんな罪深い私の在り方を、私はもう、受け入れることができなくなってしまったのだ。
心が消えうせるまでの慰みに、今までのことを思い返そうとする。不思議と、いやにはっきりと私が生きてきた一瞬一瞬が思い出せた。
初めて人を喰ったとき、初めて人を守ったとき。そんな忘却の彼方に置き忘れてきたようなことまで、鮮明に思い出された。
けれど、二度目も三度目も、四度目も五度目も、何ら変わることのない繰り返しで、私の一生は、本当に、本当に下らないものだったのだと突きつけられてしまうだけだった。
何千回、何万回。変わらぬ心で変わらぬ風景を何度も何度も見続ける。苦しみも悲しみも知らず、ただただ与えられた作業を繰り返す。
やはり、その方が幸せだったではないか。何も知らないままでいれば、こんなに苦しまなくて済んだのに。私は――
――いつも私たちをお見守りくださりありがとうございます――
過去を初めから振り返って、辿り着いた先には彼の姿があった。
何故、あなたは私の前に現れてしまったのだ。こんな苦しみを、私は、私は。
――んふふ。お口に合いましたか。それは良かった――
あなたにもらったお酒は美味しくて、だけど、その先にあるのがこんなものだと知っていたら。
――本当に、この世界を愛しているのですね――
愛している。愛しているとも。あなたが見せてくれたあの色鮮やかな世界を。そしてそこに生きるたくさんの命を。だけど、そこで生きていくためには、その愛しているものを傷つけなければならないのだ。それが、私は、辛くて。
私は――
――違う、苦しいけれど、辛いけれど、それでも、やっぱり、私は。
人間の首を絞めるその感触。流れ出る血。私が奪った命の重み。それでも、それでも。
――私は。
柔らかな風。葉擦れの音。大地に生きるたくさんの命たち。
――嫌だ。
彼の――笑顔。
違う、違う、違うんだ。私は罪深くて、穢らわしくて、たとえそうなのだとしても、私は、私は。
――紫さん――
私は――私は、生きたいんだ。生きていたいから辛いんだ。
私は、八雲紫だ。私の望みは何だ。私はまだ、それを世界に向けて叫んではいない。
「あ――」
心に湧き上がる私の願いで、
「――嫌だッ! 私は、消えたくない! もっとあなたとお話したい。もっと――生きていたい! 私は、八雲紫だッ!」
*
「紫さんッ! ……良かった。本当に……」
「あ――え?」
気が付けば、私は、彼に抱きしめられて、大地に座り込んでいた。彼は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、私を抱きしめる力を強める。
「何が――わ、私は消えてしまったのでは」
「はい――もう、この世にスキマ様はいません」
何がなんだかわからなかった。ただ彼の温もりが、私を満たしている。
「でも、私はこうしてここに」
「……先程、あなた自身も仰ったでしょう。あなたは、他の誰でもない、八雲、紫さん――そうでしょう?」
彼の言葉の意味を考えてみるが、何もわからない。まだ頭が少し惚けている。
「私は確かに、この山の守り神であり、人喰いの化け物だったスキマ様を退治しました。そして今ここにいるのは、紫さん。……そういうことです」
「待ってください、もしかして、私はもう、その」
そんな都合のいい話があるはずがない、と私は思う。けれど、もしかして。
「私はもう本当に――人喰いの化け物ではなくなったのですか?」
彼はただ、満面の笑みでその問いに答えた。
「う、そ。信じられません。だって、私は」
「……気付いていませんか? あなたがもはやスキマ様ではないという証は、この空が示している」
私は言われて空を見上げる。すると――
「青空が――」
どこまでも青い空に、点々と浮かぶ白い雲。そして、
大地は日に照らされて、闇からの解放を喜ぶように、それぞれの色に色付く。昼の光に照らされた世界は、暁とはまた違った姿で、私の目を楽しませてくれた。
そして、私を世界のこの姿から引き離していたあの睡魔は、今や全くその形を潜めてしまっていた。私はもう、スキマ様などではないという、それがその証明だった。
「だけど、だけどどうして? あなたが――救ってくれたのですか?」
「いいえ、私がしたのは、スキマ様を退治したことだけ。紫さんが今こうしているのは、ただあなたが心から、この世界に生きたいと、そう願ったから。……そう、いつかあなたが言ったように、自分自身としてだけ……八雲紫として生きたいと」
本当に――
本当に、この名前が翼になってくれた。この名前がなければ、私はきっと、私自身を信じてあげられなかった。この世界で生きたいと願う、この私のことを。
「ありがとう、ありがとう。あなたがくれたこの名前が、私を繋ぎとめてくれた。私、私――!」
喜びに堪え切れず、私は彼の胸の中で泣きじゃくる。彼は笑顔で、私を優しく撫ぜてくれた。
一頻り泣いて、少し落ち着くと、私は何か今までに味わったことのない奇妙な感覚に襲われる。腹の辺りが、何やら物足りないというか、寂しいというか――
困惑していると、私の腹がぐうと鳴った。何が起こっているのかわからない。
「……お腹が空いたみたいですね。こうなるのではないかと思って、握り飯を用意してきました。どうぞ、召し上がってください」
「めしあがる、というと、その」
「……食べる、ということです」
食べる。
その言葉で私はまた、色々のことを思い出してしまう。そうだ、私は――
「わたし、私、神主さんの友達まで、殺して、食べて。どうして、私のこと、許してくれるんですか?」
「……私たち、いや、生きとし生けるものは皆、何かの死に寄りかかってしか生きていくことはできぬのです。生きたいと、消えたくないと願ったことを責めるわけにはいきますまい」
「だけど……」
「……そして、この握り飯も、生きていた命を殺し、奪い取ったもの。……人喰いの業からは逃れても、やはり殺すことからは逃れられないようですね」
私は差し出された握り飯を見つめる。この米の一粒一粒が――生きていたのか。
それでも、私は。
「……いただきます」
生きていたい。醜くとも、穢らわしくとも、生きていたい。たとえ幾多の命に恨まれる行いなのだとしても、私は――私を満たす喜びのために、私の願いを叫び続けるために、そして、その願いをいつか叶えるために、私は――その握り飯を、涙を流しながら、喰った。
「……私も一つ、頂きましょう。私にできるだけの、ありったけの感謝を込めて」
二人で食べる握り飯は、たっぷりと塩気が利いていて、とても美味かった。そして、空腹が満たされると、私は幸せな気分になる。
けれど、私は決して忘れはすまい。この幸せのために、幸福な生を奪われた命があったことを。幾多の死に支えられて、今私はここに在り、こうして、笑顔でいられるのだと。
食べ終わると、彼は掌を合わせて、食べ終えた命への感謝を告げる。私も真似をして、この幸せをくれたことを、目一杯感謝する。
「……さて、紫さん。あなたはこれからどうなさるのですか?」
「どう、とは……」
「もう、あなたを縛り付けていたものはなくなった。それでも、やはりここに留まり、人間たちを守りたいと、そう思いますか」
私は――誰にも信じてもらえなくても、それでも。
「私は……それでも守りたいのです。恐怖を忘れることでしか自分を立てられない、そんなか弱い人間を」
「……んふふ、あなたは優しいですからね。そう言うと思っていました」
彼は少しの間、押し黙る。そしてしばらくの後、私の目を真っ直ぐに見据えて、こう言った。
「……私は、旅に出ようと思うのです。あなたの言う通り、人間は恐怖を忘れることでしか――光に照らされていることでしか自分の姿を確かめられない、か弱い存在。しかし、この世界には、私のようにその光に馴染めぬものや、以前のあなたのように闇の中でしか生きられないものがいる。そうしたものたちが、人間たちを照らす光に苦しめられている。私は、そうしたものたちを、救いたい」
光に苦しめられる――ものたち。
人が心の安寧を得るために、あってはならないもの。
それは正しく私のことだ。そんなものが、この世界にはまだたくさんいる――のか。
「そして……その」
彼は少し顔を赤くして、視線を泳がせる。どうしてしまったのだろうと私が思っていると、彼は意を決したように、言った。
「その旅をする
私は驚き、目を見開いた。彼がそんな、大胆なことを言うとは思っていなかったのだ。しかし、彼が私を求めてくれているということが、私は嬉しかった。
私は考える。闇に恐怖するか弱き人間たちが作り上げた光。それは偽りのものなのかも知れない。それでも、その光に守られて生きていくことができるのなら、その光に追われ、苦しんでいるものたちよりは、きっと幸せなのだろう。
そして、私のように苦しんでいるものたちを救う、私がその一助となれるのなら――
「はい――ずっと、傍らに居させてください――」
私は彼の名を呼ぶ。その声は、吹き抜ける風の音に紛れてしまったが、その言霊が伝わったことは、彼の笑顔が雄弁に語っていた。
*
あれから――
とても、永い時が流れた。私たちは二人、この大地を旅して、闇の中で苦しんでいるものたちと語り合い、そして、旅の道連れとした。
生まれつき、片腕を失っていた青年や、飢饉のために捨てられた子供。正気を失ったなどと蔑まれた女性に、そして私のように忘れ去られた守り神。旅を続けるにつれて、私たちの――そう、私たちの家族は増えていった。
私の生まれ持った、境界を司る力は失われてはいなかった。それはきっと、彼が境界としての在り方を込めた名を付けてくれたからなのだろう。この力は、旅を続けるに当たって、とても役に立ってくれた。そのことを思うと、私は守り神としての生まれを誇りにも思えた。
そして、今。
私たちの家族は山奥に開けた平野に、郷を作って暮らしている。誰もが
「……んふふ。外から皆の笑い声が聞こえてきますねえ」
「ええ……皆、心の底から笑っています。あなたの、お陰ですわ」
彼が、伏した床から私に語りかける。
彼は、老いた。それは逃れられぬ定めだとは知っていたが、それでもやはり別れが近づくのは辛い。
しかし彼は、あの頃と変わらぬ、少年のような笑顔を絶やさなかった。どんなに時が流れても、決して彼の心は老いることはなかったのだ。
私もまた、彼に微笑みかける。しかし、それが彼に届くことはないということを私は知っていた。彼の目はもう、光を失ってしまっていた。
「……私がしたことなど、大したことではありません。笑顔でいられるのは、ただ皆が歩むことをやめなかったからです」
「その歩む道を、歩みたい道があるということを示してくれたのが、あなたなのです。どんな感謝の言葉でも、伝えきることは叶いませんわ」
何となく、わかるのだ。彼は、もう間もなく、死んでしまう。
最期は二人きりでいたいとそう思って、私は他の皆に、この家に立ち入らぬように頼んでいた。
「……ねえ、聞きたいことがあったんです。あなたは、いつも誰かのためにばかり働いていて……あなた自身は、幸せでしたか?」
「……言うまでもないことでしょう? この大地を踏みしめ、そこに生きる命たちと友たり、たくさんの笑顔に囲まれて――そして、何より」
彼は、やはり遠い昔と変わらぬ笑顔を浮かべる。
「紫さんがいつでも隣にいてくれた――これが幸せでなくて何だというのでしょう」
私は感極まって、泣き出してしまった。笑顔で送ろうと、そう決めていたのに、どうしても、涙が。
「私、私も、幸せでした。あなたの隣にいられて。ずっと、いつでも、あなたは、私に笑顔をくれて」
彼は、枯れ枝のような腕を伸ばして、私を抱きしめた。その手はもうすっかり冷たくなってしまっているというのに、触れ合ったその境界からは、彼の温もりが確かに伝わってくる。
「……紫さん。――八雲、紫さん。私の、大切な――ああ、いけませんね。眠く、なってきました。私は、もう――」
彼は静かに目を瞑る。私は最期、もう一度だけ、彼の名前を呼んだ。
そして、彼は薄っすらと微笑んで――事切れた。
数刻ばかり、彼の亡骸の隣に座り続けていただろうか。私は立ち上がって、戸口にかかった簾を上げる。
――神主さん。私には、夢ができました。
すると、たくさんの命に彩られた世界が私の目に飛び込んでくる。
――まだ、闇の中で苦しんでいるものはたくさんいる。私はそれを救いたい。そして、光に照らされているものたちにも、いつかこの闇の中に広がる世界を、見せてあげたいのです。そしていつか、そんなものたちとも、家族になりたい。
そして私は、その雄大な世界に向けて歩き出していくのだ。
――あなたが見せてくれたこの世界。
どこまでも――どこまでも。
――ああ、この世界はこんなにも
<了>
次回作も期待して待ってます!
ごちそうさまでした~。
こちらこそ書いてくださってありがとうございました。
釣られて本当に良かったです。
心情や風景の描写が綺麗で、非常に良い読後感がありました。
良い話を読ませていただきありがとうございました
……最後の一行に、心地よいほどの戦慄を覚えます。
この作品に会えたことに感謝。
死んだキャラはたまったもんじゃない。
でもパラレル物と考えたら1万点あげたっていい
それぐらい感動したし面白く読めたよ……地雷踏んで良かったと思えたのはこれが初めて
あぁ美しく残酷な世界に光在れ(只今絶賛暴走中
良き物語をありがとうございます。
これで今日も働け(戦え)る!
まさか同志が…!
あとゆかりんかわいい。
私たち矮小な人間は紫みたいに永遠に守り人ではいられないけれどもそれでも誰かの役に立てるような人生をおくりたいものです
言葉とは、モノゴトを紙の上に縛る呪。
文とは、言葉を組み合わせて意味を成す式。
ならば、物語とは世界を再構築するための呪文。
それが本物の陰のようなものだとしても、式は式、呪は呪。
あなたの式は、しっかりと効いているようですよ。
・・・なんてことを言いたくなるくらい妖怪らしい作品でした。
良かったです!
素晴らしい作品でした
これはもっと博く麗しく評価されるべき
でも悪くない
続編を見てみたい怖さもある