初夏に差し掛かり夜の人里は寒くもなく暑くもない生温い気温に包まれている。
時折開け放たれた障子から入り込む風もまた温く、軽く汗ばんだ首筋に触れると気持ちの悪さにゾッと背筋が震えた。
庭から差し込む月明かりと行灯の火があるおかげで部屋の中はもう夜も大分遅いというのに結構な明るさがあるが、どことなく暗い感じがするのは気分のせいだろうか。
薄暗がりに照らされた天井に蚊取り線香の煙が上がる、おもむろに眼前に来た煙を手で払うとゆらりと消えていく。
――――ああ、腹が減ったなぁ
外から聞こえる蛙の合唱に耳を傾けながら、ぼんやりと畳に寝転び藤原妹紅は空腹感を感じていた。
襖の向こうからは、カリカリと規則的に走るペンの音。
月が出始めた頃から始めた上白沢慧音の歴史の編纂作業は、たまに聞こえる悩むような声からするとまだ終わる様子は無いように思える。
白沢との半獣である彼女は満月の夜、その姿を変え夜遅くまで作業に追われている。
普段ならこの時間帯には落ち着きを見せ、夕食がてら愚痴聞き程度の雑談に花を咲かせているのだが……。
ガサゴソと、今度は何かを探す音、多分昼頃に稗田家から持ってきた資料を探しているのだろう。
ここ最近立て続けに起きた異変は思いのほか厄介な事情があるのか、この調子だと朝までかかりそうな勢いだった。
くぅ、と腹が鳴る、最後に何かを口にしたのは資料の整理の手伝いを始める少し前の昼過ぎからで、いかに不死と言えども否応なしに訪れるこの空の胃の何ともいえない感じには、千年以上生きていても慣れないものがある。
夕飯の食材は用意してあるので先に食事を済ませても良かったのだが、作業に勤しむ彼女もまた同じように空腹を抱えている筈だ。
そんな所に白米やら味噌汁やらの匂いを漂わせるのは少々酷だと思うし。何より二人で食事がしたいという思いが妹紅にはあった。
いっその事寝てしまおうと目を瞑るが、眠気よりも空腹が勝ってしまい寝付く事もままならない。
さぁっ、と、波打つように外の蛙達の声が大きくなる。
数匹の合唱に呼応するかのように鳴き始める他の蛙達はたちまち大合唱となり部屋の中まで響きゲロゲロと喧しくする。
空腹だろうがなかろうがこの合唱の中で寝られそうには無い、竹林にいる早起きな蝉が可愛く思える位だ。
ここに住む連中はよくこんな中で寝れるもんだと思うが、慣れという奴なのだろうか。
カリカリと、またペンの走る音、どうやら探し物は見つかったらしい。
もしかしたらもうすぐ一区切りついて出てくるんじゃないかと待っていたが、このままじっと大合唱を聞き続けていたらイライラしてしまいそうだった。
「慧音」
耐え切れなくなり体を起こして襖の向こうに呼びかける、ややあって。
『どうした?』
ペンを走らせたまま、慧音の声が返ってくる。
「散歩してくる、退屈すぎて死にそうだ」
『そうか、ついでに適当に飯を済ませてくるといい、飲み屋はこの時間でもやってるんだろう?』
「……いいのか? 折角夕飯は肉じゃがにしようって張り切ってたのに」
『いいさ、肉じゃがは朝ご飯にして二人でゆっくり食べよう』
「そうか、悪いな」
『こちらこそすまん、思いのほか量が多くて……全く稗田はどんどん事を進めるから困る』
「まあそう言うなよ、仕事なんだろ……それじゃ、行って来る」
『行ってらっしゃい』
立ち上がり、凝った体を腕を伸ばしてほぐす。
出来れば慧音と一緒がよかったのだけれど、彼女の言葉に甘えてそうさせてもらおう。
庭先に置いてある靴を履き、一歩外へ出ると部屋の中とは違った生暖かさが肌に触れる。
いっそのこと、思い切り寒いか暑いかのどちらかになれば良いのにと思うが、自然相手にそんな事を言ってもどうしようもない。
空を見上げる、雲一つ無くそこには満月がぽつりと浮かんでいる。
降り注ぐ月光は太陽のように熱を持つことも、その眩しさで目を細めたくなることもなく、ただ淡く自身を照らしている。
いい夜とは言えないが、月が丸いだけでも随分と感じ方は違うものだ。
そんな事を思いながら、妹紅はふらりと家を出た。
里の中心にあたる広く伸びた道は相変わらず蛙の声でうるさく、しかし並ぶ家々はどれも暗く静かで、出歩く者など勿論いない。
昼頃は人で賑わいごった返しているだろう往来の真ん中を我が物顔で歩けるというのは夜の散歩の特権か。
なんとはなしに浮き足立たせ、誰も見ていない事に少し良い気になりながら妹紅はまだやっているだろう飲み屋通りを目指した。
魚屋を過ぎ。
豆腐屋を過ぎ。
八百屋を過ぎて角を曲がる。
幾つかの家を通り過ぎれば花屋が見えて。
カフェを過ぎ。
金物屋を過ぎ。
古着屋を過ぎ。
少し進んだ所で狭い路地に入れば…………。
「おや?」
聞こえてるはずの賑わいが聞こえず、しんと里の道のように静まり返った飲み屋通りに妹紅は首を傾げた。
居酒屋やバーなど和洋入り乱れるこの場所は昼夜関係なく人妖騒ぐ所なのだが、どうした事だろうか今は人っこ一人も見当たらず。
手前の店の前を見ると店じまいの旨を告げる貼り紙があり、他の店もまた同様の貼り紙がある。
「こりゃ珍しい、軒並み閉店か」
飲む人あらばいつまでも店の明かりを灯し続けるこの飲み屋通りが、一軒二軒ばかりではなく、全滅とは。
(…………)
「……お?」
ふと、通りの奥の方から声が聞こえた気がし、妹紅は声のした方へ顔を向けた。
酔っ払いが寝転んでいるのだろうか、足をそちらに向けてみると、月明かりの差し込まない薄暗い狭い通路の壁に背を預け、寄り添うようにして一人の女性と二人の少女が眠っていた。
その内の真ん中に見知った顔を見つける、二本の角を頭に生やし、子供程の背丈に長く伸びた金髪を一つの大きなリボンでまとめ、腕と腰には分銅を鎖で繋いだ枷がある、鬼の伊吹萃香だ。
その右隣の女性は、誰だかはわからないが額に生えた一本角から見るに、萃香と同じ鬼なのだろう。
「あー……」
その光景に、なるほどと飲み屋通りが静かな理由に納得する。
ただでさえ大酒飲みの鬼が二人もいるのだ、その場にいなくても大体は想像がつく。
一升瓶を抱えた二人が一軒の酒を呑み尽くしては次へ、また呑み尽くしては次へを繰り返して……。
「んぅー……」
そんな光景を想像していると、萃香の左隣で寝ている少女が苦しそうな声を出した。
鬼ではないが、紫色の短髪に付けたヘッドドレスから伸びる幾つかの管と赤い眼のついた球体を見るに、彼女もまた人間ではないことが伺える。
大人しそうな顔は悪酔いしているのか苦しそうで、うっすらと青ざめた顔色のせいかとてもじゃないが穏やかな寝顔とは言えなかった。
山の妖怪か、それとも鬼が住む地底の妖怪か、大方この二人に連れまわされ飲みに付き合わされたのだろう。
見た目からして酒が強そうには見えない少女に、同情を覚える事くらいしか妹紅は出来なかった。
願わくば、穏やかな目覚めが少女を迎えてくれるようにと。
さて、と気を取り直し、妹紅はどうしたものかと腕を組んだ。
ここ以外に人里で開いている店はない、なにせ夜も遅い。
すっかり何か食べれると思っていたので大人しくなりかけていた空腹が飯はまだかと騒ぎ出す。
他に何かないかと考えを巡らす、人里が駄目なら……。
そういえば、夜雀の屋台があったじゃないかと妹紅はポンと手のひらを合わせた。
妖怪や迷い人相手に鰻を食わせてくれるあそこなら、夜が明けるまで年中無休でやってる筈だ。
竹林近くの獣道を進んだ所にある屋台、そこから漂う鰻のタレの香りを想像し、グゥとまた腹が鳴る。
思い立ったが吉日、早速行こうと飲み屋通りを離れ、里の入り口へ。
ここから少しばかしの距離はあるが、歩いても夜が明けるまでには着くだろう。
本当は飛んで行ってもいいのだが、せっかくこんなにも月が丸いんだし、たまには歩いていくのも悪くは無い。
里を出ると、ジャリっ、と砂を踏む感触。
適当にならされた道をしばらく歩くと、三つの分かれ道にあたる。
右を行けば別の里へ、真っ直ぐ行けば魔法の森へ、左へ行けば竹林や妖怪の山へ。
妹紅は迷わず左の道を選び、月を仰ぎながら竹林へ、細かく言えば竹林近くの夜雀の屋台へと向かう。
ふらりふらりと進む妹紅の耳に、蛙の声は遠く、代わるように数匹の蝉の声が聞こえてきた。
人の手入れが行かなくなった道を歩き、茫々と茂った草木を眺めていると、ふと月に黒い影がよぎったような気がし、妹紅は視線を空に向けた。
光る月にぽつりと浮かんだ影はせわしなく回り、まるで何かを探しているかのように見える。
飛び方からしてそれが鳥だというのは分かったが、ふくろうにしては少し大きく、またここらで見るような種類では無さそうだった。
じっと目を凝らしてはみるものの、そこそこ視力が良い訳でもなく、相変わらず鳥の形をした影しか見えない。
気がつけば歩みを止めてその鳥がなんという鳥かと知ろうと額に手をかざし、じっとそれに見入ってしまっていた。
しばらく回る様に飛んでいた鳥は、探し物が見つからなかったのか、カァと一鳴きすると人里の方へ飛んでいてしまった。
「なんだ、鴉だったのか」
影の正体が、ただの鴉だという事に妹紅はつまらなそうに呟いた。
大きさからしてどんな鳥かと思ったが、鴉なんてそこらに飛んでいる、無駄な時間を過ごしたなと、妹紅は視線を前に戻し、歩みを進めようとした。
「おっと」
動かそうとした足がそのまま止まる、戻した視線の目の前に、ぽっかりと丸い闇が浮かんでいた。
「こんばんは」
月明かりに照らされた道の真ん中に、切り取ったように浮かぶその闇の中から可愛らしい少女の声で挨拶をされる。
一瞬、挨拶を返すべきか迷ったが、他に何かの言葉を思いつく訳でもなく。
「こんばんわ」
とりあえず、同じ言葉で妹紅は挨拶を返した。
闇がくるりと回るように動いたかと思うと、擦りぬけるようにして声の主が半身だけその中から体を出す、真っ黒な服を身にまとった赤眼の少女は、月の光に眩しそうに目を細めると、妹紅に向かってにっこりと微笑んだ。
「いい夜ね、とても眩しくてたまらないけど」
「同感、別に眩しくはないけどね」
「それはあなたが人間だから、私は闇の妖怪だもの、少しの陽でも明るくてたまらないわ」
「それはもったいない、お天道様の光を一杯に浴びながらの昼寝は、たまらなく気持ちいいのに」
「確かに気持ちよさそうだけれど、眩しいのは嫌、だから私は闇の中の方がいいわ」
少女の目は、じっと妹紅の顔から、胸に、腹に、足にと移っていく。
それは興味本位というよりも、値踏みをするようにいやらしく、しかし純粋で、少女が自分を見てどう思っているのかが分かりやすいほどに妹紅に伝わっていた。
「ねぇ、こんな夜にただの人間が歩くなんて、危ないよ、夜は妖怪の時間」
靴のつま先まで移していた視線を顔まで戻し、少女が訊いた、動きに合わせて黄色い髪に付けられた奇妙なリボンがゆらりと揺れる。
「昼も夜も、妖怪と人間の時間さ、区別なんてないよ」
「あら、そうかしら」
くすくすと、少女が笑う。
「明かりがなければ怯えることしか出来ない人間が、夜に生きる私達と同等だなんて、ねぇ、あなた」
「なんだい?」
「あなたは、食べても良い人類?」
にっと、あどけない笑顔が向けられる。
少女の手が伸び、妹紅の頬に触れた。
そのまま引き寄せられると、少女の顔が間近に迫る、口から覗く牙のように尖った八重歯は今すぐにでも喉を食い破りそうだった。
「食べても良い?」
細い指が妹紅の長い白髪に絡む、逃がさないと、五指全てに纏わりつかせるように。
「ああ、食べてもいいよ」
妹紅は少女を見据えたまま、どこかおどけた調子で答えた。
「血と肉が腐りきった体で良ければいくらでも食べな、千年物の珍味だ、頬っぺた落ちても知らないぞ、お嬢ちゃん」
「お腹、壊さない?」
「さてどうだろう、まぁその前に――」
頭の中で、炎をイメージする、自身のつま先から、膝から、腰から、腹から、首から、パチパチと音をさせて燃やしていく。
瞬間、体が炎に包まれる、風も無く燃え盛り始めた妹紅の体から少女は慌てて飛び離れた。
「食べる前には美味しく焼かなきゃな」
「……ずるい!」
「ははは」
少女は憤慨し、頬を膨らませ叫んだが、幼い外見のせいかむくれているようにしか見えない。
しばらくふよふよと周りを漂っていたが、炎が収まる気配が無い事に諦めたのか、どこかへ去っていってしまった。
「……ふぅ」
完全に見えなくなったところで、体を震わせると身に燃え盛っていた炎は煙も立たずに消えていった。
後に残ったのは、苦笑いを浮かべる妹紅と、足元の焼けた草。
「悪いけど、お嬢ちゃんの何倍も夜を生きてるんだ、明かりがないなら作るまでってね」
服が焦げてない事を確認する、まぁ自分の妖術で作った炎が自分を焼く事は無いが、つい確認してしまうのは、癖というものだ。
「意地悪ね、腕の一本でもあげれば良かったのに」
不意に、背後から声をかけられ、妹紅は別の意味で体を震わせた。
おずおずと後ろを向くと、いつの間に居たのか、意地悪そうな笑みを浮かべた少女がこちらを見つめていた。
よく知っている顔だという事に気づくと、妹紅はふん、と息をついた。
「冗談、そんな事したら痛くて失神しちゃうよ」
「いいじゃないの、減るもんじゃなしに」
「他人事だと思ってまぁよくもぬけぬけと……」
呆れた表情を浮かべる妹紅がおかしいのか、蓬莱山輝夜はくすくすと笑った。
竹林の奥にある永遠亭の主、同じ時を生きた、死なないお姫様。
「こんな時間に何してるの?」
目の前で笑い続ける輝夜は、いつものごてごてとした着物ではなく、濃い緑色のジャージといったお姫様には程遠い格好をしていた。
腰まで伸びた艶やかな黒髪は後頭部の高い位置でゴムで縛り一纏めにしてある。
「買い物してたのよ、ほら」
ひとしきり笑った後、輝夜は手に持っている紙袋を見えやすいように掲げた。
薄茶色の小さな紙袋の底は角ばった形で膨らんでいる。
「ゲームボーイの電池が切れちゃったから香霖堂までね」
「……こんな時間に?」
「ええ、寝てたから叩き起こして、ついでに私に起こさせた罰としてお茶も煎れさせたわ」
得意顔になる輝夜に、あぁ、とますます呆れる。
魔法の森の入り口にある客の少ないあの店の、店主の顔を思い出し、同情を覚える。
非常識な事も、生まれた時からお姫様をやっている輝夜からすれば関係の無い事だろう。
ちなみにゲームボーイというのは、電池という燃料四本で動く外界の奇妙な電子玩具だ。
新しいもの好きな輝夜はこれをえらく気に入っていて、彼女の従者の話だと酷い時は一日中やっている程らしい。
それほどまでに熱中しているとはいえ、店が開く朝まで待てずに人に迷惑をかけてまで燃料を手に入れないといけない程、面白いものだとは妹紅は思えなかった。
「あなたは何をしているの? 妹紅」
「散歩だよ」
「あら、こんな夜に? 慧音先生は一緒じゃないの?」
「慧音は忙しいんだ、いいだろ別に」
会話を切り、離れるように妹紅はその場から早足で歩き始めた。
話しが長くなりそうだったし、何より輝夜と話しをしていると疲れる。
昔の様に出会い頭に殺し合うなんて事はなくなったが、それでも面と向かって話すのは何かと気分の悪いものがある。
しかしそんな事はお構いなしに、輝夜は少し体を浮かばせると、妹紅の横にぴったりと寄り添うように飛び始めた。
「付いてくるな」
「いいじゃないの、たまには二人で」
「お断りだ」
とはいうものの、幾ら足を速めても輝夜は飛んでいるので引き離すことが出来ず、妹紅はとうとう諦めて歩く速度を落とした。
輝夜も地に足を付け、並んで歩き始めるが、それ以上は言葉も無く、ただ土を踏み鳴らす音だけが聞こえる。
輝夜との関係が、少し変わってからやけに引っ付いてくるな、と横顔をちらと覗き見ながらふと妹紅は思った、
頻繁にとは言えないが、家に顔を出し、人里まで来て、挙句の果てには従者の一人を慧音の生徒にして、いつの間にか親しみを込めて先生と呼ぶようになっている。
まるで、憎しみ以外の繋がりを持とうとやっきになっているようだった。
それを頑なに拒まないのは、自分もまたそれを望んでいるのか、もしそうじゃないとしても、今の関係は輝夜の思い通りと言っても良い。
竹林の案内も、慧音の寺子屋や編纂作業の手伝いも、いつの間にか退屈紛れから生きがいへと変わっている。
輝夜も引きこもるだけでなく、盆栽の世話に精を出したり、持ち前の珍しい品々を博覧会と称して公開したりと。
ここ数年で、随分と自分という者が変わった気がする。
両手では数え切れない程の友人も出来た、掛け替えの無い親友も、闇に身を挺す事も無く、日の下を自由に歩ける平穏も。
口調もいつの間にか慧音のように中性的になってしまったのは、それ程彼女の事を想っていたからだろうか、まぁ。
「何? 顔になんかついてる?」
見られている事に気づき、輝夜はジャージの裾でごしごしと鼻の辺りを擦った。
「いや、付いて無い」
「そう? んー……」
擦るのを止めたが、納得とは言えない風に怪訝な表情で唸る輝夜に、つい笑みが零れる。
月夜に照らされた輝夜の目はしっかりと前を見つめ、心なしか楽しげな歩調で歩み続けている。
一番影響を受けたのは、輝夜の考え方だろうか。
何時までも何時までも、過去にしがみつく自分とは対象的な今を楽しもうとする生き方に。
人の命は短く、だからこそ今を楽しむというが、それは死なない自分達にとっても同じように思える。
それだからこそ輝夜は、今を楽しむ為に、憎しみ以外の関係を持とうとしていたのか。
どちらにしろ、流れるままに生きるしかない、そういう生き方なのだから、染めて染まられどう関係が変わろうとも、妹紅の底にあるこの千年以上も積もり積もった憎しみと罪は消える事は無い。
そうでないと、自分は、自分達は人間らしくいられないから。
迷いの竹林を外れ、獣道を少しばかし歩くと聞こえてくるのはちょっと調子の変わった歌声。
木々は暗く、人差し指に灯した火で照らしながら歩いていくとこじんまりとした屋台が見えてくる。
立ち込める煙は無く、近づくと女将のミスティア・ローレライは鼻歌まじりにのれんを片付けている所だった。
「こんばんは、女将さん」
「こんばんわー」
「あらいらっしゃい藤原さんと……ええと」
「輝夜よ、永遠亭の」
「ああ、いつもお世話になってます」
のれんを適当に置き、かしこまってミスティアは輝夜に頭を下げた。
この屋台で使われている竹炭は永遠亭の物で、定期的に従者が女将の為に切った竹を妹紅が焼く、といった形で提供されている。
木炭より燃えやすいし、長く続く事は無いが量の多さから品不足になる事は無く、大変重宝しているそうだとか。
そこそこ繁盛している屋台も、今は女将一人で、しかも片付けの最中。
「もしかして、もう店じまい?」
「え、ええ……時間も時間だし」
おずおずと訊くと、空をちらと見ながら妹紅の言葉に困ったようにミスティアは答えた。
気が付けば空はうっすらと明るみ、後少しもしないうちに朝日が昇ってしまうだろう。
思わず深いため息が零れる、うっすらと残る鰻の香りに、空腹が限界だとばかりに大きな音を出す。
「骨折り損ねぇ」
隣で輝夜が、同じように空を仰ぎながらからかうように呟くが、言葉を返す気力は無かった。
仕方ない、このまま帰れば慧音の仕事も終わってるだろう。
恐らく邪魔が入ったせいか、あの少女の赤い瞳を思い出す。
恨み言の一つも言いたくなったが、彼女もまた食事を得る為の行動なのだ、責める事はいくらでも出来るが、空しいだけだった。
「じゃあ女将さん、出直してくるよ」
諦めて踵を返し、その場から離れようと来た道をまた歩こうとする。
「あ、ちょっと待って」
それに続こうとする輝夜と妹紅を、ミスティアが呼び止めた。
「鰻とご飯の残りはあるから、食べてってよ」
「……いいの?」
「量は少ないけど、小腹位は満たせるわ、ほら座って座って」
去ろうとした二人の腕を掴み、無理矢理カウンターに座らせるとミスティアは調理台へ回り、鍋を取り出し水を入れると火にかけた。
「悪いねぇ」
「いえいえ」
お櫃(ひつ)から茶碗二つに白米をよそい、鰻のタレを全体にかけると、冷めてはいるものの米の色は良い具合にタレの色に変わり、それだけでも充分いけそうだった。
お湯が沸いてきたところで出汁を入れ、沸騰して来た所で醤油と塩が加えられる。
「おお……」
「お腹が空くわね、これは」
すでに焼いてある鰻をブツ切りにし、均等に二つの茶碗に盛る、そして醤油と塩で味付けされた出汁を少し多めに注ぐと……。
「はい、召し上がれ」
目の前に置かれたそれに、思わず妹紅と輝夜は唾を飲み込んだ。
冷めた米や鰻は熱い出汁によって暖められ、ほんわりとした湯気が立っている。
そこから香るタレの香りは暖かさで強く増し、鼻を通じて胃を染み渡るように刺激する。
「ひつまぶしって言うんですよ、はいどうぞ」
「い、いただきます」
「いただきまーす」
箸を渡され、茶碗を持つとじわりと熱さが手に伝わる。
たまらなくなりズッと啜ると、タレと醤油の味が口に広がり喉を伝い、空の胃に落ちていく。
痺れるような胃の感覚に、思わず息が出る。
そのまま米と鰻を口に入れると、独特の食感と米の柔らかさがまた良く合い、噛み締めると濃厚なようで程よく薄まった味がまた食欲をそそる。
「本当は薬味を入れるといいんですけど……」
「でも充分美味しいわ、おかわりが無いのは残念ね」
横で輝夜が贅沢な事を言う、妹紅も同じ気持ちだったが、あえてそれは口に出さなかった。
さらさらと茶漬けのように口へかきこんでいくと、茶碗一杯のひつまぶしはあっという間に胃に納まってしまった。
「ごちそうさま、いや美味かった」
「ええ、お夜食にちょうどいい量だったわ」
「どういたしまして、お気に召してなによりだわ」
空になった茶碗を渡し軽く満たされた腹をさすると、心地よい満足感が体に染み渡る。
ふぅ、と息を付き空を見ると、随分と朝日が昇ったのか、白く染まり始めた空に雲が幾つか漂っていた。
「さて、お代払わないと、幾ら?」
「いらないわ、ちょっとしか無かったんだし、満足してくれればそれで充分よ」
「いや、でも悪いし……」
手を振り断るミスティアだが、妹紅はお構いなしに代金を払おうと財布入れたポケットに手を突っ込んだ。
しかし、いくらまさぐっても硬い財布の感触は無く、さっと血の気が引くのを感じる。
もう片方のポケットと、尻のポケットも探って見るが、掴んだのは底にあった埃だけ。
財布を忘れたことに、妹紅は今更ながら気づいた。
蛙のうるささや空腹感のせいで持ってくるという意識が無かったのだ。
「か、輝夜……お金、ある?」
「無いわよ」
しれっと、お姫様は仰った。
「香霖堂で電池買うときに有り金、全部取られたわ、あの店主ったら気分次第で随分ぼったくるんですもの」
「お前、姫なんだからもっとお金持っとけよ……!」
「お金の管理はてゐに任せてるの、私は必要な時だけ持ってればいいし、というか何よその偏見!」
「ま、まぁまぁ二人共、せっかく小腹も満たしたんだし、喧嘩はよ――」
ミスティアの言葉と、口喧嘩を始めようとカウンターを立った二人が止まる。
グゥ……、と長い空腹の音が、森の中に小さく響いた。
「――しましょう、喧嘩、ダメ、ゼッタイ」
真っ赤になったミスティアはぼそりと続けた。
「あの、その、ごめんなさい」
「女将さん、飯食ってなかったのか?」
「実は、その鰻を朝ご飯にしようと思ってて……」
ぼそり、ぼそり、と恥ずかしげに、申し訳無さそうに続けるミスティアに、妹紅は呆然とした気持ちに包まれる。
なんて事だ、客というのを良いことに女将さんのご飯を奪ってしまっただなんて……。
後悔先に立たず、食べた物は吐きでもしない限り戻らない、それでも食べれた物じゃないが。
「すまん、女将さん」
「だからいいってば」
頭を下げる妹紅にどうしたものかと慌てるミスティア、それをしばらく眺めてから、輝夜がぽつりと呟いた。
「なら、家に来て食べる?」
「……へ?」
「大所帯だし、一人増えても変わらないわ、女将さんさえ良ければすぐに用意させる事も出来るし」
「用意……」
輝夜の言葉に、ある事を思い出す。
慧音の家にある、食材を、仕事を終えた慧音がそれを使って肉じゃがを作っているという事を。
「いや、女将さん、家で食ってってくれ、是非食ってってくれ」
「えと……いいの?」
「私はそれでも構わないけど」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「そうと決まれば行動だ、着く頃には出来てるだろうし、さぁ」
ミスティアの手を引いて、妹紅は歩き出す。
「その前に、片付け、を、させて」
「あ、ごめん」
置きっぱなしの茶碗や調理器具を振り返り懇願するミスティアに、やってしまったと妹紅は足を止め、頭をかいた。
一夜寝ずに過ごし、適度に空腹を満たしたせいか少々テンションがおかしな調子になってしまった。
「手伝うよ」
「ありがと、じゃあカウンター拭いてくれる?」
「わかった、ほら輝夜、お前も手伝え」
「輝夜さんはお皿を洗って頂けますか? 私は炭の片付けをしますので」
「……はーい」
輝夜が渋々と洗い物をしている内に、カウンターや調理場を拭いていく。
量がそれほど多いわけでも、特に汚れているわけでもなかったのでミスティアが灰を捨てて戻ってくる頃には、あらかた片付け終わっていた。
のれんをしまい、埃が乗らないようにカウンターや調理場に布を被せ、飛ばないように石を乗せる。
「それじゃあ、改めてご馳走になるね」
パンと手を払い、ミスティアは妹紅の方へ顔を向ける。
「うん、じゃあ行こうか」
「行きますか」
「……お前は来る必要ないだろう」
「いいじゃないの! 何か除け者にされたみたいで気に食わないの!」
「お前は帰れば飯があるだろうが!」
「だから二人共、喧嘩は駄目だって!」
朝日が昇りきり、輝くような青空に、騒ぐ声が消えていく。
土を踏む足音多く、来た道を戻り、三人は森を抜け、人里へ向けて小さく見えなくなっていった。
あぁ、おなか空いてきた・・・
3通りの食べ方をするものだったのね
>黒髪は後頭部の高い位置でゴムで縛り一纏め
姫様ポニーテール!?
妹紅の男口調の理由が個人的に目から鱗。
サラッと読みつつも情景だけでなく空気までもが感じられて。
ああ、ホントみすちーいい娘だなぁ。
最後のほうで一箇所報告です。「カウンターや調理場を吹いていく。」拭いて
いい。実にいい。
こういう妹紅は大好きだ。夜の散歩って感じがよく出てると思う。
個人的にはルーミアとのやり取りがグッド! 年の功という奴だねもこたん!