偶には、足を止めたくなることもあるだろう。
時には、何もせずに座りたくなることもあるだろう。
そして、誰かと一緒に居たくなることもある。
けれども、そこに言葉は必要ない。
そういう心地良い距離を私は探していた。
――誰だろう?
人の気配を感じて目が覚めた。瞼を開けるのは面倒くさいことこの上なかったが、無視する訳にはいかないだろう。
人肌に温められた布団の中、私は右手で目を擦る。左手は軽く握って天井に突き出す。
すると、左の手のひらから脇腹にかけての筋が伸ばされ、生じる僅かな痛みが気持ち良い。
息を胸の奥まで溜め込んむ。
そして、まだまだ眠りたいと、微かな痛みを訴える眼球に辟易しながら、嫌がる身体を無理矢理に起こす。
布団を退けて、足を斜めに逸らしてみたり、身体を捻ってみたり、固まった筋肉を解す。
起きたばかりだと、どうにも力が入らない。
身体を呑み込もうとする倦怠感をなんとか抑える。
四つん這いにずるずると畳の上を移動して、障子を指が何本か入る程度にずらす。
僅かな隙間から吹き込む風が少しだけ眠気を連れて行った。
片目で外を伺うが、辺りはまだ暗く遠くの方は闇に溶け込んでいる。
遠目に見える山の頂上は空と溶け合い、どこからが空で、どこからが山なのか分からなくなっている。
風に揺れる木々は黒に染まっていて、影が踊っているように見える。
小さく溜息を吐く。
思い切って障子を大きく開くと、日の昇らない時間の空気は肌に寒く、寝床から出たばかりの身体は身震いを抑えられない。
脇を締めて、両の手で身体を掻き抱きながら縁側へと身を乗り出す。
足の裏から伝わる冷たさが身体から熱をほんの少しずつ奪う。
踵を浮かせるようにして、私は歩き出した。
――角を曲がる。
人が見える。
それは縁側に腰を預けており、足はぴったりと揃えて地面へと斜めに投げ出している。
薄暗い世界の中に在っても、その姿を見失わせる事のない白銀の糸。
そして、混じり気のない白純な肌。
それから、その身に纏った洋式の奉公服が目に留まった。
わざわざ、名前を確認するまでもない見知った顔だ。
だが、今までこんな時間に訪ねて来ることはなかった。
それに一人でやって来るのも、片手で数えられる程しかない。
「……こんな時間に何か用?」
私の問い掛けに反応して彼女は顔だけを此方に向ける。
「特に用事はないわ……あなたにも、神社にも」
「なら、何しに来たのよ?」
彼女は私の言葉に答えない。
変わりに、脇に置いてあった湯呑みに手を伸ばす。
白い筋を生み出すそれは、二つ。
白い指が彼女のすぐ横の床を、静かに撫でるように叩く。
「お嬢さん、お茶でも一杯いかが?」
夜明け前の寒々とした風が体温を削り落として行く。
私はゆっくりと彼女の横に座り、差し出された湯呑みを両の手で包むのだった。
――徐々に空が白んで行く。
とは言っても、まだ日が昇るには早いだろう。
冷え始めた身体に熱を帯びた緑茶が染み込む。
黒く染まっていた木々もその姿を薄っすらとだが取り戻し、遠くに聳える山の頂上付近は空との境界を生み、僅かにだが、朱色を帯びているように見えなくもない。
空に浮かぶ雲は疎らで、空を覆い隠すには程遠い大きさだ。
きっと、この手に掴めたら握りつぶせてしまうだろう。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
時刻を知る術のないこの場では、時が歩くのを躊躇っているのか。
とても時間が経つのが長く感じるのだった。
「それで、何しに来たの?」
沈黙を打ち破るために改めて問う。
湯呑みは両手に包んで胸の前。こうすると、立ち上る湯気が顔にかかり温かいのだ。
白い靄の向こうに見える彼女は身体を丸めて、親指と人差し指でこめかみを押さえる。
結構な力が込められているのか、爪の薄紅色に白い色が加わっているのが見て取れた。
「……ちょっと休憩に寄らせてもらっただけよ」
「ふーん」
普段見せない彼女の意外な姿は確かに興味を引かれる。
けれどもそれ以上に、私には、なんだかその姿がとても頼りなく見えて……
無碍に追い返すのは躊躇われるのだった。まあ、相手をしてやる義理もないので、構ってやるつもりはさらさらないが。
「……お茶、もう一杯淹れてあげる」
私がそう言うと、彼女は小さく、お礼の言葉を呟く。
そして、すっと、湯呑みを差し出す彼女の腕はいつも以上に青白く思えた。
――空が白んで行く。
空気は大分暖かくなり、風も身を刺すような冷たさではなくなってきた。
木々も本来の色に染まり始め、鳥たちの声もどこからか聞こてくる。
空に掛かる雲はいつの間にかどこかへ消え去り、一点の曇りもない空だ。
きっと今日はいい天気になることだろう。
普段見ることのない風景は新鮮で、何もせずに眺めていても十分に楽しめるものだ。
そんなことを思いながら、お茶を口へと流す。
視界の隅に映り込む彼女は私と同じ景色を見つめながら何を思っているのだろうか。
きっと、同じ場所に居ても、彼女の感じる世界は私とは大きく違うのだろうな。
そう思う。ただ、その世界が美しいものでありますようにと祈ってやるくらいはしてもいいだろう。
湯呑みへと口をつける。中の茶に熱された縁は人肌より僅かに温かいくらいの温度を保っていた。
横に座る彼女はゆっくりと虚空へと手を伸ばしたかと思えば、湯呑みを中身が揺れないように、お盆の上へと置く。
それから、ふっと息を吐いて、ぽつりと言葉を漏らした。
――疲れた
そんな彼女の言葉は、私に口元へと運んでいた湯呑みを下ろさせるのに十分なものだった。
「……なんかあったの?」
「何にもないわ……掃除、洗濯に料理やら、いつもと同じよ」
彼女を横目で伺うと、身体を縮めて無理矢理頬杖をつきながら空を仰ぎ見ていた。
でも
と彼女は言葉を続ける。
――とても疲れたの
そこに、どれだけの思いが込められているのか?
それを推し量る事は私には到底できそうもない。
ただ、その声のなんとも痛ましい音色な事か……
甘えるような、縋るような色を含んだ声。
しかし、どこか突き放すような、拒絶するような物も感じさせる。
そんな相反する感情の混ざり合った、微かな声は何処までも不安定で……
風が吹く。
彼女の下から私の下へと髪が靡く。
木々が騒ぎ立てる。そして、眼前を緑の葉が一枚、転がるように通り過ぎていった。
顔を風の吹いて来た方へと向ける。
鼻からゆっくりと息を吸えば、私の心の奥の更に深い場所にまで冷たい風が入り込む。
ふっ、と息を吐く音が聞こえる。それは私のすぐ横から……
陰鬱なその調べは木々の擦れ合う音の合い間に確かに響いた。
耳に妙な感触を残したその音は、脳内で私の意志とは関係なく勝手に繰り返し流れるのだった。
このままでは、きっと私まで毒されてしまうだろう。
それは、私の望むところではない。
これ以上彼女の好き勝手させる訳にはいかない。そう考えた。
だから、私はそっと彼女の頭を撫でてやった。
身長差のせいで多少不格好なものに見えるだろう。
だから自分と彼女の二人だけ、他に以外に誰もいないのは幸いだった。
こんなことで彼女の疲れが癒されるのか……
全く自信はない。
けれども私にしてあげられることなど、せいぜいこの程度の物だろう。
彼女は私の手を払うことはせず黙ってされるがままに任せていた。
銀の髪に手のひらが埋もれる。
一見、癖が強く硬そうに見える髪は、その実、とても柔らかで流れるような繊細な手触りであった。
そう、見た目の印象と中身が違うなんてよくあることだろう。
何の言葉もない二人だけの空間。
空が木々が私達を静かに見守る。鳥の声も風の音も聞こえない。
きっと、世界でさえも彼女に何の言葉を投げかけることができないのだろう。
なんとなくだが、そう思った。
彼女が僅かに身じろぎをするのを合図に手を退ける。
無音に世界が染まる。結局、私自身も何一つ掛ける言葉など思いつきはしないのだ。
むしろ、彼女は言葉など求めてはいないのだろう。
薄暗い空を眺める横顔とその瞳を見て、そう悟った。
沈黙が訪ねて来るが、それは決して不快ではない。
それは冷め始めた湯水のような感じで、一度入ると抜け出すのが躊躇われるような感覚だった。
それでも、それを振り切って彼女に言葉を向ける。
「お茶、もう一杯いる?」
私のその言葉を切欠に再び世界が息づき始める。
ふわりと緩やかに流れる風が私の、彼女の髪を梳く。
「お気遣いなく」
返してきた言葉には意識しなければ気付かない程に僅かだが、いつもの彼女を見つけたのだった。
そうして、二人同時にぬるくなったお茶を口に運んだ。
――空が白む。夜明けの朱色が混じるのも、そう遠くはないだろう。
山を染める緑に白が上塗りされる光景はなんとも幻想的だ。
近くの木に止まった鳥が羽を突いている。
いつも私が過ごすこの場所でも時間が違えば、こんなにも様相を変えているのだ。
その時々によって、その有様を変える自然。それはまた、人も同じだろう。
横で彼女が、ふーっ、と深呼吸した。
吐かれた息は、気合いか、諦めか?
「そろそろ、帰るわ」
独り言かと疑うほどに淡白な声色。
でも、それはやはり私に向けられたものなのだろう。
彼女は立ち上がり、外へと三歩踏み出す。
すると、私の位置からすれば、視界に彼女が風景の中に入り込む。
白みがかった世界を背負って立つその身もまた、白く儚く見えた。
けれども、この中には硬い芯を見つけることは容易い。
手元に視線を落とすと視界に映るのは湯呑み。
中身のお茶は、ゆっくり味わうには足りない量だ。
ふっ、と短く一つ息を落として、喉に全てのお茶を運んだ。
それと同時に木から鳥が虚空へと飛び去って行った。
私たちはそれを無言で見つめていた。
「あら、見送ってくれるの?」
腰を上げた私に彼女はそんなことを言ってくる。
その言葉の裏にほんの少しの甘えを私の勘は見抜いたのだった。
「湯呑み片付けるついでくらいには送り出すわよ」
私の言葉に
不器用なのね
と返す彼女の表情に嬉々とした感情を見透かすことは、そう難しくはないだろう。
――黒と白の溶け合う空を彼女が背負う。
全てを染めるにはあまりに頼りない黒。
それを晴らすにはあまりに脆弱な白。
静まり返った寂寞の夜。
生き物の騒ぎ出す爽快な朝。
闇と光
夜明けの空を見ている者はどれ程いるのだろう……
そう、妖と人の狭間の、この時間はきっと彼女のもの。
銀に染まる地平線へと飛び立つ彼女の行く道は、どこへ続いているのだろうか。
地平線から昇る太陽は真っ直ぐに目に飛び込む。
その目を射抜く光を遮らずにいられる者などいないだろうに。
霞ゆく後ろ姿に胸元で、そっと手を振った。
彼女に少なからぬ幸せが訪れるようにと祈りながら。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
顔を出した太陽に挨拶をしながら私は歩く。
帰るべき場所は既に目の前にある。
此処に入れば「いつも」が始まる。
私だって別段不満がある訳でもない。
なぜなら、それは普段やっていることだからだ。
誰しも、初めは不満を持っていたとしても、やがてそれは消える。
それが、いつもと同じ、と言うことだ。
ただ、時たま、ほんのごくごく稀にそれが辛くなる。
私の今していることは何かを残せるのだろうか?
炊事、洗濯、掃除……
それのどれもが当たり前のこと。
やって然るべきこと。
それでは何も残せない。
焦りにも似た感情に追われて、何かを残そうと異変解決に挑んだこともあったが、結局私の活躍が日の目を見ることなどなかった。
つまる所、適材適所と言う奴なのだろう。
結局私に残るのは「いつも」だけ。
私は「いつも」が苦痛だ。
そう、気楽な巫女と違って、私には、私が仕事をするのが「いつも」の人々がいる。
その人々がいる限り私は「いつも」から逃れられない。
私はきっとこれからもその「いつも」を歩むのだろう。
それはとても疲れる。きっと。
だから、偶に本音を零すくらい許して欲しい。
そんな私のせめてもの願いは、明け行く空へと消えてしまうのだった。
――足を一歩進める。左右には門扉。
ここからはいつもの私だ。背筋に芯を入れて、薄い微笑みを貼り付けて……
そうやって、自分を着飾って、それから目元を手の甲で軽く擦る。
肌に感じる風は、もう身に滲みる冷たさはない。
努めて軽やかな歩みを意識して足を踏み出す。
雲一つない空はもう青く表情を変えている。
……私はきっと何も残せない。
ならばせめて思い出にと思う。
けれども、忘却は誰も避けられない。それは全てのものに与えられた定めなのだ。
だから、いつかは、きっと……
光に満ちた空は、雲など在りはしないのに、いつもより白く霞んで見えた。
頬を二、三回軽く叩いて思考を無にする。
小さくジャンプするように再び足を進める。
そうして私はいつもの私になった。
描写された景色が次々と映像になって頭の中を流れてゆく。
物語のラストまで途切れることなく。
素晴らしいお話、ありがとうございました。
風景が鮮明に浮かんでくるようです。それどころか、肌寒さや風の音まで。これはすごいと思います。
表現は若干しつこいというか、もう少しひとつの表現に使う文章を減らしてもいいと思います。「それはもうわかったから」ってなっちゃいますw