俺設定満載
捏造過去話
百合
タイトル元ネタ全然関係ない話
よろしければどうぞ。
※ 0.
吹き抜ける風に髪を踊らせながら、空は仕事場である灼熱地獄跡を見下ろしていた。
ごつごつした岩壁の、そこかしこにあるうちのひとつ、お気に入りのでっぱりに座って
足をぶらぶらと遊ばせながら。
真っ黒な髪に真っ黒な翼を背負った、妖怪化した地獄鴉。
普通の妖怪では肺が焼けるほどの熱気の中にいながら、空の長身は白いマントで包まれていた。
肌を守るためではない。
地獄の業火の中に棲んでいた空にとって、この温度は肌寒いくらいだった。
空の基準では温く感じる岩壁と、足元のずっと下で煮えたぎる溶岩と炎。
赤く、明るく、快適より少し肌寒くなったここが、住処兼職場に変わってから、まだあまり経っていない。
地獄が切り捨てられてから、どれだけ経ったのかは、覚えていなかった。
ぼんやりと視線を廻らせる空の頬を、灼熱地獄の残り火が巻き起こす風がじりじりと撫でていった。
責め苦に喘ぐ罪人と、嗜虐的に響く獄卒の笑い声の絶えた今、ここには妖精の笑い声と吹き抜ける風の音が響くのみ。
時折、思い出したようにごぽりと鳴る溶岩は、全盛期と比べ物にならないほど緩慢に盛り上がり、弾けていく。
ふと、小動物の死骸を啄ばんでいた地獄鴉と空の目が合った。
見つめ合っても心が読めたりはしないが、なんとなく見続ける。
やがて彼はきょろきょろと周囲を見回して、獲物を咥えて飛び去っていった。
そんなに怯えなくてもいいのに。
空は同族である地獄鴉を見送りながら、今は縁遠くなった感覚を思い出していた。
いかな鳥頭でも忘れられないほどの、強烈な飢餓感と危機感と、研ぎ澄まされるような野生の日々を。
主人に飼われる以前ならともかく、今は人化もできない同族から食料を奪うほど飢えてはいない。
視線の先で、獲物を咥えた鴉が、すいと岩棚に降り立った。
途端に空の目元がふっと和らぐ。
餌を置いた地獄鴉を迎えたのは、もう一羽の鴉。つがいだろう。
メスの鴉に餌を与えるオス鴉を視界の端に捉えたまま、空は少し離れた後姿に声をかけた。
「ねぇお燐、知ってる?」
「うんにゃ?」
ぷらぷら揺らしていた尻尾を止めて、燐が振り返った。
猫耳としっぽを生やした彼女は、妖怪火車。長袖のドレスを着て、膝から下は惜し気もない素足だ。
ふわ、と浮き上がるおさげと、ぴくりと揺れる猫耳が相変わらず可愛いと思いながら、口を開く。
「カラスって生涯伴侶を変えないんだよ。この人って決めた相手とずぅっと一緒にいるんだ。一途でしょ。」
燐は一瞬、何をいきなり、と言いたげな顔をして空を見つめたが、
空の視線を辿ってから得心がいったように耳を揺らした。
「へぇ。じゃあおくうも誰か好きな人が出来たら、その人とずっと一緒にいるんだ?」
「うん、そうだよ。」
「…即答とはねぇ。でも羨ましいねそいつ。おくうにそんなに想ってもらえるなんてさ。あたい嫉妬しちゃいそうだよ。」
「へへへ。」
ばさばさっと空の翼が揺れて、蒸れた空気がかき混ぜられた。
空には、気分が昂ぶると翼を羽ばたかせるクセがある。
地霊殿の中でやると、さとりによく注意されたが、鴉の頃から身に染み付いたクセは中々消えるものではなかった。
「そっか…おくうに恋人ねぇ。今まで話したことなかったけど、もしかしてもう居るとか言うんじゃないだろうね。」
「…うん、居るよ。心に決めた人。ずっと前に決めたんだ。」
「えぇ!?にゃに、そうなの!?だ、誰!あたいの知ってる奴?」
「ふふ、うん、知ってる。よく知ってる人だよ。」
肩をがっしりと掴まれた空は燐の手を振り払ったりせずに、そのまま揺さぶられている。
燐の顔をじっと見つめ、くすぐったそうに頬を緩ませて。
「え、え、誰。ペット仲間の誰か?それとも旧都の…。えぇー…なにそれあたい全然……。誰さーおくうー。」
「んー…内緒。まだ言えない。あ、さとり様に聞いたら駄目だからね。」
「うー…ここまで言っといてお預けって何なのさー。」
「まだ、ちょっと。」
困った顔で視線を逸らす空の様子に、燐の瞳がすっと細められる。
「…片想い中って事かい?」
「え、や、その、」
図星。呆れるほどに分かりやすい反応を示した空に燐が再び掴みかかる。
それはもう、捕食する時のように勢いよくがっつりと。
「片想い!?おくうが!?にゃー気になるじゃないさーー!!」
「あー!もう駄目!その時になったら全部言うから、もう駄目!」
「その時って告白する時!?まさか結婚報告になるんじゃないだろうねおくう!あ、こら待ちな!」
先ほどまで大人しく揺られていた空が、身をよじって燐の手を振り払った。
岩棚から飛び降りて空中に身を躍らせ、翼を広げながら息を大きく吸い込む。
「いつか言うから!絶対言うから待っててお燐!」
岩棚から身を乗り出してこちらを見据える燐の顔。
空はそれをまっすぐ見つめたまま叫んで、それから身を翻す。
ぴんと翼を張り、ごうごうと風を切りながら、空は一直線に灼熱地獄の底の底を目指して堕ちていった。
+ + +
一方、残された燐は岩棚から突き出していた顔を引っ込めて、こりこりと頬を掻いた。
追いかけようかとも思ったのだが、何となく気勢を削がれてしまい諦めたのだ。
ふわふわふわ、と燐の周りに妖精たちが集まってくる。
大方今のやり取りに興味をそそられたのだろう。
燐だって傍観者だったなら、面白がって話を聞きたがったに決まっている。
「何なんだい…もう。」
まったく、空に好いた奴がいるなんて考えたこともなかった。
バカ正直で明け透けな空が恋、それも片想いをしていただなんて。
空がする恋なら、一直線に相手にぶつかっていく、当たって砕けろ的な恋愛の方がずっと似合うのに。
意外だ意外だと思いながらも、燐の胸にもやっとした雲が広がった。
雲なんて、生まれてこのかた一度も見たことはないのだが。
「なんであたいにゃ秘密なのさー。…親友じゃんか、おくう……。」
燐も親友だからと言って、全て何もかも包み隠さず、余すところ無くお互いを知り、
また知られておくべき、などとは考えていない。
ただ、空と一番親しくしているのは自分であり、空と一番仲がいいのは自分である。
その自信が少し揺らいだだけだ。
いささか独占欲の強い燐には、恋は恋、友情は友情、とかっちり線を引いて納得することが出来なかった。
一言で言ってしまえば嫉妬。親友を取られるという不安と嫉妬が胸の奥にかりりと爪を立てるのだ。
「ぅー………。」
気付くと、自慢の二本のしっぽが岩の壁をばたばたと叩いていた。
ぐねぐねと動き回るしっぽを捕まえて、落ち着くために深呼吸をひとつ、ふたつ。
それでも景気よく回転する脳みそは止まってくれない。
空との会話の中で、繰り返し出てきた名前はどんなだったか、空と仲が良かったのはどいつだったか。
自分以外で、誰か。自分以外の、誰だ?
記憶力に多大な問題があるにしても、強く、明るく、楽しく、美しい空はアレで結構人気があるのだ。
「心当たりなんざ多すぎるって…。」
呟いて、ふぅとため息が漏れる。
耳元で囁く、ため息をつくと幸せが逃げるらしいとの妖精の声を聞いて、燐の顔に苦笑が浮かぶ。
ああ、もうこれ以上は考えても詮ないことだ。
空はいつか話すと約束した。
なら今はそれで許してやろうじゃないか。
無類の鳥頭を誇る空が覚えていてくれるかどうかは不安だが。
「よーっし!じゃあみんな、張り切って素敵な死体を探しに行きますか!」
沈んだ気分を振り払うように、どこからともなく取り出した猫車をぶんと振りながら威勢よく立ち上がる。
空と同じく、岩棚からぴょんと飛び降り、ふわ、と浮き上がって妖精たちに号令をかける。
ぞろぞろと妖精たちを引き連れ、愛用の猫車を押して、燐は上へ、地獄の釜の蓋へと飛んでいく。
※ 1.
怨々と、四方八方から響く怨嗟の声と苦痛の呻き。獄卒たちが叫ぶ呵責の怒号。
灼熱地獄はごうごうと燃え盛り、今日も罪人たちを責め苛んでいる。
ここには、近づくだけで肌が焦げ、肺を焼き、ひとたび触れれば骨の髄まで焼き尽くされる地獄の炎が満ちていた。
吹き上がる火の粉の中には、もがきうごめく影と、その周りを飛び回るいくつもの影が見える。
地獄の炎の中に棲み、死肉を漁り、糧としている地獄鴉たちだ。
彼らは毎日毎日、尽きることなく投げ込まれる死体に群がり、食糧を獲得している。
死者が溢れる地獄という場所で、他の動物たちとの生存競争の日々を生き抜く地獄鴉。
うつほ――後に空という字を与えられる――若い地獄鴉も、そんなうちの一羽だ。
その日の夕食を済ませた空は、存分に水浴びをしてさっぱりした後、いつものねぐら降り立った。
広大な灼熱地獄の岩壁に開いた、比較的大きな洞窟。
地獄鴉たちがねぐらにしているそこは、噂話で持ちきりだった。
基本的に群れでなく、二羽一組のつがいや独身者の寄せ集めで行動する鴉たちは、
こうして集まるたびにがやがやとしている。
可愛いあの子の噂話や狩りの戦果について、縄張りを広げ始めた他の獣の近況、獄卒鬼の酒をかっぱらった武勇伝。
まとまりもなく、寄せ集まった鴉たちの話題は雑多だが、よく聞くと一つの噂が全員の口から語られているのが分かる。
若い鴉も、つがいの鴉も、やもめの鴉も、皆口々に共通の話題を上らせる。
(地底が地獄から切り離されるらしい。)
(地上との行き来ができなくなるらしい。)
(灼熱地獄も、針山地獄も、地獄の施設はみんな棄てられるらしい。)
堕とされる罪人の数がだんだんと減ってきていた理由。
鬼の都がざわついている理由。
ここ最近はどこへ行ってもこの話題で持ちきりだ。
それだけこのニュースが地底の動物達に与えた衝撃は大きい。
空はくちばしを翼に差し込んで羽繕いをしながら、交わされる噂について頭を廻らせていた。
どうせ空にできることなんて、考えること以外にないのだから。
地獄のスリム化だかなんだか、細かいことはよく知らないが、とにかくこの地獄が廃棄されることは決定事項らしい。
迷惑極まりないことだが、妖怪たちの取り決めに一介の地獄鴉が口を挟めるはずもない。
そもそも鬼や妖怪たちに地獄鴉の言葉は伝わらないのだし。
空はつがう相手こそいないが、それなりに生きている。
弱いものながら怨霊や魍魎も喰らってきた。
化けることはできないが、人語を理解する程度の能力は身につけているのだ。
しかし、こちらから意思を伝えることは出来ない。それはとてももどかしいことだった。
自分たち動物と、鬼を筆頭にした妖怪たちの間には、妖獣にならなければ越えられない壁がある。
まあもっとも、空も他の動物の言葉は理解できないけれど。
軟弱な地獄鼠や、いけ好かない火焔猫がなにを考えているのか、人化できる者同士なら分かるのだろう。
と、ここまで考えた所で、空は羽繕いを中断してふと顔を上げた。
きょときょとと辺りを見回し、首をひねる。
はて、自分は元々なにについて考えていたのだったっけ?
途中でずいぶん思考が脱線したような気がするけれど。
がやがやと周りで交わされる会話を聞いて思い出す。
そう、地獄が廃棄されるとか、そのことを考えていたのだった。
思索に戻ろうとする空に、横合いから冷や水が浴びせられた。
間抜けた空の様子を見て、近くの皮肉屋な性格の鴉たちが、かぁかぁとからかってきたのだ。
(またお前は何事か忘れたのか。)
(相変わらず鴉にあるまじき鳥頭ぶり。)
(お脳の中身はカラッポなんじゃないのか?)
売られた喧嘩で勝てそうなものなら遠慮なく買う。
負けると分かっている相手とはやり合わない。
皮肉屋鴉の力量を目算した空は、とりあえず威嚇の姿勢をとって大声で鳴く。
曰く、ちょっとお前ら、表出ろ。
食後の腹ごなしも兼ねて空中で繰り広げられるドッグファイト。
黒い羽がぱっと散る。
一羽め、二羽めと硬い岩壁に思い切り叩きつけて、空は墜落していく無礼者を満足顔で見送った。
(うん、私ってばやっぱり強い。)
本日何度目かになるかは忘れてしまったが、空は再びの水浴びを終えて、悠々とねぐらに舞い戻った。
地獄という自然界で生き延びるためには、常に勝者でなくてはならないのだ。
* * *
どうやら来るべき時が来たらしい。
獄卒たちはある日を境に一切姿を見せなくなっていた。
焼かれ続ける罪人の苦悶の呻きも、日に日に少なくなっていく。
彼らの肉体を再生させる獄卒がいなくなった今、死体は灰すらも残らず、魂は怨霊になるばかりだ。
地獄の釜の蓋の上では、なにやら鬼や土蜘蛛たちが建築中であるとの噂がある。
なんでも、怨霊の管理をするために、地底で一番おっかない妖怪が住む家を建てているそうだ。
空は咥えた食糧を岩の隙間に押し込むと、再び獲物を探すために飛び立った。
これから来るであろう食糧難の時代に備えて、少しでも備蓄をしておこうと思ったのだ。
ただ如何せん恨むべきはこの鳥頭。
先日から実行している備蓄計画だが、致命的な欠陥は空自身の頭にあった。
基本的に、どこへ行っても代わり映えのしない風景が続く、この灼熱地獄の中。
これでは備蓄場所を何ヶ所も作ったって、空の頭では覚えきれないのだ。
(参ったな。私に人間の手があったら、隠し場所の地図でも作っておくのだけど。)
しかし、ないものねだりをしていても仕方が無い。
しがないいち鴉でしかない空にできるのは、精々これからどう生きていくのかを考えることだけだった。
一番の懸念は、これからの食糧についての問題だ。
地獄で焼かれ続ける罪人は、獄卒によって何度も何度も肉体を再生させられる。
そうしてまた何度も何度も、輪廻の輪から外れた場所で、赦されるまで殺され続けるのだ。
それがなくなれば、食糧は激減どころではないほどに減ってしまう。
まだ死体は山とあるけれど、供給されなければあっという間に底を尽きる。
地獄から切り離されるとはつまり、閻魔の裁きで地獄に堕とされる人間が、ここに来なくなるということだ。
地上との行き来が禁止されるとはつまり、火車が地上から人間を運んで来ることができなくなるということだ。
きゅっと縮まった内臓や、沸騰して白くにごった眼球の――人間の味を、空はきっと完全に忘れ去ってしまうだろう。
食べられるのは今のうちだけ。今や灼熱地獄跡となった場所の上空を旋回しながら、空は獲物を探していた。
燃えさしの供給がなくなっても、地獄の業火はそう簡単に衰えたりはしない。
* * *
業火の中に、最近ここらでよく見かけるようになった影が横切った。
地獄鴉と同じく火の中に棲む地獄の動物、火焔猫だ。
猫と鴉というのは基本的に相性が悪いものなので、以前は余りかち合うことはなかった。
というより空の方が火焔猫が多い場所を避けていたのだ。
危険は少ないに越したことはない。
しかし、環境の変化に伴って、猫の方も棲み家を変えているのだろう。
他の仲間がいる時ならば餌として標的にしただろうが、空単独で猫の相手をしたいとは思わない。
鴉同士ならともかく、猫相手に勝てない喧嘩はしないのだ。
負ければ即、殺される。
場所を変えようと翼をひるがえす前に、もう一度猫の方に視線を向ける。
すると、猫の方もこちらを見上げていた。
あまり大きくない、黒い毛皮に赤い腹の、まだ二股ですらない火焔猫。
得意げにしっぽを立てて揺らすその様はまるで勝ち誇っているようで、空は一発石でもぶつけてやろうかと思う。
実行しようと小石を探すが、手ごろな石を見つける前に火焔猫はどこかへ立ち去ってしまっていた。
視線を廻らすと、あちらの方では猫よりも大型の獣が、死体を引きずっている所だった。
安全な場所まで運んでから、ゆっくり食べるつもりなのだろう。
食べ残しを巣に隠されてしまったりしたら、もう空には手出しできない。
食糧危機の未来は目の前だ。
(ああ、私が人間の身体になれたら、死体を抱えて飛ぶことだってできるのに。)
人型になれるほどに力をつけたなら、食いっぱぐれることはないだろう。
今の空では、魑魅魍魎や怨霊、動物を狩る場合、力の弱いやつを狙わなければ逆にこちらが殺される。
その場の流れでチームを組むことはあっても、基本的に単独行動を好む空には危険が大きい。
その点、死体相手は楽だった。
群がるライバルたちを蹴散らす労苦はあれど、逃げも動きもしないものから肉を掠め取るだけでよかったのだから。
だからといって、地上の鬼や妖怪の都となった旧都のゴミ漁りをしたいとも思えない。
プライドの問題ではなく、地獄で狩りをするより危険なのだ。
ちっぽけな地獄鴉が鬼に追っ払われたらどうなるか。
自分の身体で試してみる気はさらさら起きない。
とりあえず今は、まだある死体を食べられるだけ食べておくべきだろうか。
怨霊も捕まえて喰らっておいた方がいいだろう。
力をつけなければ、この先の地獄で生き延びることは難しいだろうから。
* * *
あのいけ好かない火焔猫は、どうやら本格的にこの辺りを縄張りにした様子だった。
元々、空には縄張り意識などというものは持ち合わせていなかったが、食糧の少ない今は話が違う。
大きい獣を避け、他の地獄鴉と張り合い、その上火焔猫までライバルに加わる。
少ない食料を奪い合う生存競争は、以前よりも熾烈さを極めていた。
灼熱地獄の死体は喰い尽くされ、殺し殺されの死闘があちこちで展開されている。
落ちている死体はあっという間に捕食者に掻っ攫われるせいで、火車は開店休業状態だ。
怨霊や魑魅魍魎たちも、地獄の動物たちも、弱いものは喰われ、強いものだけが生き残った。
まさに、地獄の釜で行われる蠱毒(コドク)の儀式だ。
最後に生き残った者は、さぞ強い妖怪になるだろう。
(絶対に、絶対に、死んでやるものか。)
自分がどれほどやれるかは分からないが、空だって黙って喰われてやるつもりは毛頭ない。
弱いものは容赦なく殺し、喰らい、自分の力として強くなり、また殺してを繰り返した。
生存本能に突き動かされるまま、元仲間である死んだ地獄鴉の死骸だって喰らって生きてきたのだ。
他の、針山地獄などがどうなっているのか、空には分からなかったが、きっとどこも似たようなものだろう。
下を見れば、あの猫がしっぽを立ててこちらを睨み据えていた。
降りて来い、食い殺してやるから、と声が聞こえるようだ。
お互い、獲物を横取りしたり、されたりを何度も繰り返したが、格闘戦は数えるほどもない。
猫には鋭い牙と爪があるが、空には猛禽ほどの爪も、くちばしもないのだ。
空中を翔る翼は誰よりも早いと自負しているが、直接の戦闘では不利と言わざるを得ない。
様々なものを喰らってずいぶん力をつけたとはいえ、それは相手も同じこと。
いつかあいつの肉を喰らってやると思いながら、空は翼を羽ばたかせた。
* * *
地底の動物もずいぶんと数を減らした。
空がいつも帰っているねぐらに集まる地獄鴉も、以前の十分の一に満たない数しかいない。
温度の下がった灼熱地獄跡地の上空を飛びながら、空は思案していた。
生き残った他の地獄鴉から、気になるニュースを聞いたのだ。
なんでも、地獄の釜の蓋の上に建てられた館、地霊殿の主が、地底の動物を飼いだしたらしい。
だから動物の数が急速にここまで減ったのだという。
食い殺されたものと、地霊殿とやらに逃れたもの。
空は別に、他の動物を全部殺して最強の妖怪になりたいわけではない。
野生動物の本能として、死にたくないだけなのだ。
誰かに飼われ、食べるものも棲む所も心配せずに済む生活が送れるのなら、それに越したことはない。
だがしかし、と思う。
空の記憶が確かなら、地霊殿には地底一おっかない妖怪が住んでいるはずである。
そんな妖怪が、空のような地獄鴉を保護してくれるだろうか?
犬や猫ならともかく、自分のように真っ黒で、不気味な、嫌われ者の鴉なんかを?
(うーん。でも、様子を見に行くだけの価値はあるはず。)
そろそろ自分より強い敵ばかりになってきて、いつ殺されるか分からない。
高い岩壁はもとより、こうして飛んでいる今でさえ、安全とは言えない毎日。
おちおち水浴びだってしていられないせいで、身体も翼もぼろぼろだ。
(最後の望みだ。これに賭けるしかない。)
空の棲み家である灼熱地獄の底の世界からずっと上。
炎の照り返しでうす赤く光る、広い広い灼熱地獄跡をドーム状に覆う、高い高い天蓋よりももっと上。
天蓋にぽっかりと口を開けた、巨大なトンネルをはるか上まで進んだ先。
地獄が切り離されてからこちら、一度も行ったことのない地霊殿へ向けて、空は飛び立った。
* * *
(…寒い。)
地獄の蓋は、底のマグマ溜まりから、本当に、ずいぶんと離れた場所にある。
熱気は上へ昇るとはいえ、ここまで離れると地獄の炎も熱も届かない。
一般の妖怪ならば、温かくて過ごし易いくらいの温度だが、灼熱が適温の空はそうもいかなかった。
半ば妖怪化しつつある身だから我慢できるが、ただの地獄鴉だった頃では耐えられなかったかもしれない。
もし、釜の蓋が開いていなかったらどうしようか。
ぎしぎし鳴る身体は、もうあまり持ちそうにない。
道中していた心配は、どうやら杞憂に終わったらしい。
赤い光に照らされる天井に、遠く、小さく、ぽっかりとひとつ、穴が開いているのが見えた。
暗い大穴に飛び込む直前、聞きなれた猫の鳴き声が、聞こえた気がした。
* * *
「あら、お客様ね。いらっしゃい。」
大穴から飛び出して、いきなりかけられた声に驚いて、空は思い切り上空まで飛び退った。
空中でホバリングをしながら、きょろきょろと下を見回し、大穴から少し離れた芝生に座り込んだ妖怪を見つける。
紫色の髪に、水色の上着、桃色のスカートに、左胸に赤い目玉とよく分からないコード。
膝に乗せているのは、見慣れない火焔猫。
(これが地底一おっかない妖怪…?)
薄っすらと記憶に残る鬼や、他の妖怪と頭の中で背比べをしてみる。
鬼の方が圧倒的に大きい。
次に、目の前の妖怪の外見で、危険に見える部分を探す。
鬼には見るからに危ない角が生えていたけれど、こちらは柔らかそうな目玉がひとつ。
ただ、見つめられているだけなのに、なんとも言えない威圧感を感じた。
強い妖力をもった妖怪、なのだろう。でも、
「くすくす。あんまりおっかなくない、ですか。納得がいきませんか?」
そう、全然納得がいかない。
この妖怪のどこがおっかないというのだ?
まさか動物に打ち倒されることはないだろうが、鬼に敵うと思えない。
なにか、特殊な能力でも持っているのだろうか。
「特殊。そうですね、わたし個人としては、そう特別なものとは考えていませんが。なにせ生まれたときからこうなので。
――ですが、他の皆さんはこの能力を殊更に嫌います。あなたは、どうかしら?」
どうと言われても、その能力とやらが何なのか分からなければ、嫌いようがないではないか。
空は抗議の意味を込めてかぁ、と鳴いた。言葉が伝わるかどうかは分からないが。
「あら、ちゃんとした思考はあるのに…ちょっと鈍いのかしら?」
膝の猫をごろごろとあやしながら、優しげな妖怪は苦笑いを浮かべた。
空はまた馬鹿にされたかと、もう一度抗議の一声を上げる。
鴉仲間相手なら、暴力に訴えることもしただろうが、実力の分からない妖怪相手に喧嘩を売るほど、空は馬鹿ではない。
少しぐらいあのふわふわの頭を突ついても、この妖怪は即座に自分を殺したりはしなさそうだ、とも思ったけれど。
「もう、本当に分からない子ね。……ええ、殺したりなんてしませんよ。
降りておいで。怪我をしているようだから、診てあげましょう。」
妖怪は抱いていた火焔猫を芝生に下ろして、少し遠ざかるように指示を出す。
数歩歩いたその猫は、主人を振り返ってにゃお、と小さく鳴いた。
それに妖怪は答える。当てずっぽうの独り言というより、火焔猫と会話をしているような調子で。
「ごめんなさいね。……駄目よ、あの子を襲っては。……ええ、多分あの子は、あなたより力が強いわ。」
上空から眺めながら、空は妙な違和感と、既視感を感じていた。
なぜ、あの妖怪は火焔猫と会話が出来るのだろうか。
(…ってあれ?さっきも私と会話してた…?)
しかし、先ほど空が鳴き声を出したのは、抗議をした時の二回だけだ。
会話はその前からしていたはず。いや、会話と言うより、あれは…、
「やっと気付きましたか。そう、私は心を読む覚妖怪。
人でも妖でも、動物でも、心があるものは私の第三の目からは逃れられません。
……そう、あなたの心も読めますよ。
名前はあるのかしら?……そう、うつほ。素敵な名前ね。字は……ああ、鴉に字など無縁なものでしたね。」
心を読む妖怪。
地獄の外にはそんな便利な力を持った妖怪がいるのかと、空は感心しきりだった。
動物の考えていることが伝わる妖怪なんて、上等にもほどがある。
獄卒よりも、土蜘蛛よりも、鬼よりも、覚妖怪の方がずっと凄い。
空の中で決めている妖怪ランキングの堂々第一位が決定した瞬間だった。
「ふふ、ありがとう。さぁおいで。……――そう、いい子ね。
……そう、あなたは私に飼われに来たのね。……ええ歓迎するわ。
怪我は…――、あぁ、ええそうね、あまり深くないわ。これなら大丈夫。」
覚妖怪の腕に止まり、膝に乗せられ、身体をくまなく検分されている間に、ペットの申し込みまで終わってしまった。
本当なら、もっと時間がかかると思っていたのだ。
なにせ鴉は、猫と違って可愛げのない外見をしているものだから、悪意がないことを伝えるのに、きっと手間取るだろうと。
「そうね、あなたたちの考えが読めるのは、覚妖怪の特権のひとつ。だから、あなたたちは私を好いてくれるのだもの。
……あぁ、くすくす。ごめんなさい、そう、お腹が空いているのね。私としたことが。
今あっちで…――あら。またお客様ね。今日はずいぶん来客に恵まれること。」
にゃぁ、と耳慣れた猫の鳴き声がしてそちらを見やると、例のいけ好かない火焔猫が芝生を歩いて来る所だった。
もしや自分を喰おうと後をつけて来たのか、と空は主人となった妖怪の膝から飛び立とうと、翼を広げかけた。
しかし、その主人の手のひらが、優しく空の身体を押さえつける。
「大丈夫よ。あの子もあなたと同じ目的で来たようだから。……お互い顔見知りなのね。」
にゃぉう、と鳴く火焔猫の声は、しょっちゅう聞いていた声でも、調子が全く違っていた。
攻撃の意思が感じられない、媚びるような、甘えるような声。
全く、あんな声で鳴かれたら、心を読む妖怪でなくてもほいほい拾ってしまうだろう。
やはり猫はいけ好かない。鴉はいちいち不利なのだ。
むくれる空の心を読んだのか、覚妖怪が空の翼を柔らかく撫でた。
* * *
主人と火焔猫の会話は順調に進んでいる様子だった。
傍目には、主人が猫相手に独り言を呟いているようにしか見えないのだが。
「……というより、私は心が読めるの。……ええそう、あなたの来た目的も分かっていますよ。
しばらく前からウチの近くにいたでしょう?慎重派なのねあなたは。
……あら、どこまで読めるのか、ですって?……さあ、どこまででしょうね。くすくす。
……底が知れない、ですか。これくらいの方が主人らしいと思いまして。……ふふ、ありがとう。
……そう、りん、ね。……ええ、喜んで。歓迎するわ、ようこそ地霊殿へ。」
どうやら申し込み手続きはつつがなく終了したらしい。
主人の手が届く場所、つまりはすぐにでも空に飛びかかれる位置まで、猫が近づく。
空の不安を読んだのか、主人はそっと、空を猫とは反対側の肩に乗せた。
「お互い名前は知らなかったでしょう。うつほ、りん、よ。仲良くとはいかないでしょうけど、喧嘩はしないようにね。」
覚妖怪は片手で空を撫で、もう片方で猫の背を撫でる。
「……あぁ、そうだったわね。私の名前はさとり。古明地さとり、よ。……ええよろしく。
さて、あなたたちは私のペットになった訳だけれど、それであなたたちを拘束しようとは思っていないわ。
好きに遊んで、好きに食べて、好きに眠って。どこへ行ってもいいし、どこへ行かなくても構わないわ。
ただ、たまに私と遊んでちょうだい。怪我をした時も報告すること。……そうね、とりあえずはそのくらいかしら。
……さぁ、あなたたち二人ともお腹が空いているのでしょう。
丁度今はおやつの時間なの。あちらの方で皆好きに食べていると思うわ。……ええ、どうぞ、いってらっしゃい。」
空がさとりの肩から飛び立つのと、火焔猫が駆け出すのは、ほぼ同時だった。
+ + +
「うつほ、りん……空、燐にしましょうか。…まだ字を覚えるには早いかしらね。」
我先に、と競って飛び、駆ける二匹の後姿を見ながら、さとりは呟いた。
大空のように澄んだ、空っぽの心を持った地獄鴉と、燐火のように揺らめいた、激しく燃える心を持った火焔猫。
相性は悪くなさそうだけれど、しかし、とさとりの頬に苦笑が浮かんだ。
あの二匹は、お互いの反発心が強すぎるかもしれない。
* * *
この地霊殿には、とにかく沢山のペットがいるらしい。
到着した中庭の、広く小高い丘になっている場所は、猫に鴉に、さまざまな動物でごった返していた。
ただ、ここに集まっているのが全てではないらしく、離れた場所にもそこここにも、気配を感じることができる。
空は斜め下を走る火焔猫――燐にちらりと視線をやると、もう一息と速度を上げた。
餌場に到着した空は、即座に行動に移った。
すなわち、群がるライバルたちを蹴散らすこと。
(こいつらあんまり強くないのばっかだ。)
小鳥サイズのものを翼の風圧で吹き飛ばし、驚く同胞を翼で打ち据え、くちばしをお見舞いし、蹴りつける。
地表では、燐が同様に他のペットに飛び掛っている所だった。
飛び掛り、噛み付き、押さえつけ、鋭く引っかく。最後の敵は、やはりあいつだろう。
ほどなくして、飛ぶ獣は全て空に叩き落され、這う獣は全て燐に叩き伏せられた。
この場にいた連中が比較的弱いものばかりだったせいもあるが、それにしても燐と空は強かった。
灼熱地獄の最底辺で、数多の戦いに勝利し、喰らってきたおかげだった。
空は高くホバリングをしながら燐をじっと睨みつける。
火焔猫は、炎の中でなら、炎を足場にして浮いたように駆けることが出来るが、ここに炎はない。
空中は一応安全地帯と言えた。
しかし、この燐が飛ぶ能力を身に着けていたら、と思うと気を抜けない。
鬼火を飛ばして、その上を駆け上がってくる可能性もあるのだ。
灼熱地獄跡では、結局はっきりとした勝敗はつかなかった。
勝敗が決するイコール、相手を殺すか、自分が死ぬか。
決着が着いていたら、どちらかはこの場にいなかった。
今はとにかく、お腹が空いているのだ。
空はばさりと翼を広げると、突撃の体勢に移り、全身に力を、妖力になりかけの力をめぐらせる。
邪魔立てするなら押し通るまで。
燐の方もぎりぎりと力を溜め、いつでも飛び掛る準備はあると緊張を走らせる。
互いの瞬発力が爆発した、次の瞬間だった。
「グァッ!?」
「ウニ゛ャ!?」
同時に飛び掛り、激突するはずだった二匹は、突然現れた何者かに掴まれて、同時に声を上げた。
何が起こったのか分からずに、空は目を白黒させながら、取りあえず叫び、暴れた。
ガーガー、ミャーミャーの大声と、暴れる音と、静かな息遣いが辺りに響く。
ひとしきり暴れて、混乱も収まると、ようやく空も自分がどういう状態なのか見回すことが出来るようになった。
燐は一足早く回復していて、低く唸り声を上げている。
誰かに捕らえられたまま、燐と空は中庭を横切るように移動していた。
当然、その誰かがどこに向かっているのかは分からない。
空を掴む手は、さとりと同じくらいの華奢な、女の子の手。
視線を上に上げれば、橙色の上着に、白銀にも薄緑にも見えるふわふわした髪、黒い帽子が順に視界に映る。
これは一体誰だろう。一体どこから現れたのだろう。空はきょろきょろしながら考える。
いくら憎きライバルに集中していたとはいえ、人間サイズのものが視界に入って、気付かない訳がない。
そんな間抜けだったら、空はとっくにくたばっている。
にゃぁ、と燐が鳴いた。つられて視線をたどると、先ほど別れた主人、さとりが目を丸くして空たちを凝視していた。
もう一度自分を捕らえている妖怪に目をやると、胸元に青い目玉が浮いているのが見えた。
覚妖怪。さとりの血縁だろうかと空があたりを付けていると、本人の口から答えが出た。
「おねーちゃーん。この子たちなぁに?他の子みんなのしちゃってたよ。」
「……はぁ、そのようですね。ありがとう、こいし。」
「新しくペットにした子?なんかずいぶん元気がいいね。」
「ええ、ついさっき申し込まれたんだけど……そう、私の妹のこいしよ。地霊殿はもともと、この子と二人暮らしだったの。」
「あ、ちなみに私は心を読めないから、言いたいことはちゃんとお姉ちゃんに言ってね。」
さとりの目が、一瞬だけ揺らいだように、空には見えた。
が、一度瞬きをするとそれは消えうせ、呆れたような、困ったような表情がさとりの顔に浮かぶ。
「全くもう、あなたたちは…来て早々にやってくれましたね。……ええ、たしかに私は、他の子を襲うなとは言いませんでした。
私と遊ぶこと、怪我を見せること以外に言いつけはないとも言いました。あ、追加を一つ。こいしとも遊んでやってちょうだい。
……そうね。自然界の摂理なのは分かるわ。勿論。……ええ、ただ、喧嘩をしないでと言いました。
あなたたちは私のペット。少しくらい躾はしないといけないかしら?……そうね、私もあんまりとやかく言いたくないのだけど。」
「ね、お姉ちゃん。この子たちの名前はなぁに?」
さとりが二匹、主に燐と話していると、こいしが横から遮った。
話の流れなどに、こだわらない性格をしているらしい。
ついでにか、燐をさとりにひょいと手渡して、空いた手で空の身体を無造作に撫でる。
「猫の子が燐。青白く燃える燐火の燐(りん)よ。鴉の子は空。青空、星空、天空の空で、空(うつほ)。」
「ふぅん。中々丈夫そうだし、結構強い妖怪に育つかな。」
空をさとりの頭の上にぽいと置くと、こいしは帽子をくるりと回して、また被った。
先ほどから、こいしの表情はずっと笑顔で固定されたままだ。
対するさとりは、眠たげな無表情だが、少し寂しそうな目をしてこいしを見つめた。
「そうね。…――こいし、もう行くの?」
「うん。いってきます、お姉ちゃん。」
立ち去るこいしをじっと見つめていた空だが、こいしの姿が背景に溶け込むように消えたのを見て、きょとんと首を傾げた。
自分は一度も瞬きをしていなかったのに、水蒸気が空気に紛れるように消えてしまったのだ。
「あら、中々いい例えをするのね空。こいしは、あの子は無意識を操る能力を持っているの。……後天的なものだけれどね。
水蒸気…水の粒はそこにあるのに、空気に紛れて見えない。あの子が紛れるのは、人の無意識。
そこにいるのに、あの子の姿は見えないのよ。……少し、難しかったかしら?」
ぐりぐりと首を傾げる空を見て、さとりは口元を緩めた。
空はまた笑われていると思ったが、実際よく分からなかったので抗議は翼を少し羽ばたかせるのに留めた。
にゃおぅ、と鳴いた燐の声が、空の心を読んでいる訳ではないのに、呆れたように響いた。
* * *
「あ、そうそう。あなたたちは罰として、今回分の食事は抜きです。
……お腹が空いているのは分かりますが、アレはやりすぎですからね。」
二匹はさとりの言いつけを聞いて、餌場を眺めながら揃ってしょぼくれていた。
空の羽はしぼみ、燐のしっぽはうなだれている。
回復した他のペットたちは、また食事を再開してがやがやと大騒ぎをしていた。
時折こちらを見て、威嚇してくる奴らもいるが、手を出してきたりはしない。
燐は一度しっぽをふらりと振ると、立ち上がって茂みの中へ入っていった。
空も、これ以上ここにいても仕方がないので飛び立つ。
とりあえず、水浴びの出来る水場を探そうか、と。
中庭上空を滑空しながら、燐がさっきしっぽを振ったのは、もしかして挨拶だったのかと思う。
次いで中庭での殲滅戦を思い出し、燐と組んだら中々のコンビになるのでは、とも思ったが――、
その考えは、地霊殿の前庭に造られた噴水を発見した喜びで、すっぽりと空の頭から抜け落ちた。
* * *
主人は叱るときはさらりと冷血だが、それ以外では概ね優しかった。
主人の妹はほとんど見かけなかったが、たまに帰ってくると遊んでくれた。
鴉仲間は最初こそ喧嘩やら何やらとやらかしたが、基本的にはすこぶる良好な関係を築いている。
空の地霊殿ライフは実に好調だった。
火焔猫や大型の獣が近くをうろついていることはしだいに気にならなくなっていた。
ここではペット間の飲食が禁止されているので、襲われると警戒する必要がないからだ。
例外的にちょっかいをかけてくる奴も、いることにはいるのだが。
(またあの木の上にいる…)
遊びに行こうかと飛んでいる途中、空は中庭を望む比較的高い木の枝に寝そべっている燐を、何度も見かけた。
大体眠っているか、上機嫌にしっぽを揺らしながら、どこぞをぼうっと眺めていたりする。
ふと目が合う時は、にゃぉうと鳴かれる。
意味は分からないが、敵意はないので挨拶だろうかとあたりをつけている。
(そういえば私、燐だけは見分けつくなぁ。他の猫は区別つかないのに。)
だいぶ以前から見知った猫だからだろうか。
何度もやり合った相手だからだろうか。
生存競争のライバルという関係がなくなった今、空は燐に対してどういう立場をとればいいのか分からなくなっていた。
鴉と猫は相性が悪いと相場が決まっているのだ。
しかし、どこにでも例外というものはいるようで、火焔猫と仲良くしている地獄鴉も何羽かいる。
しかも一匹の猫にまとわり付いている一羽などは、その火車猫に惚れているのだという。
最初それを聞いたとき、空は耳を疑ったものだった。
火焔猫と仲のいい鴉仲間にどうして猫と仲良くするのかと聞いたことがある。
彼らの答えは至極単純だった。
曰く、『猫の中にもいいやつはいるもんだ』だそうだ。
火車猫に惚れ込んだ鴉仲間にどうして猫なのかと聞いたことがある。
彼の答えは至極単純だった。
曰く、『惚れるのに種族の違いなんぞ関係ない』だそうだ。
(猫なんかのどこがいいんだろ…)
爪も牙も、鴉より大きな身体も気に入らない。
縄張りを主張してくるくせに気まぐれで自分勝手。
愛らしい見た目と鳴き声も気に入らない。
鴉より主人に愛されているような気がするからだ。
「……拗ねないで、空。こっちにいらっしゃい。……まったく、もう。私はちゃんとあなたのことも可愛がっているでしょう?
……あのね、燐のこと、もう少しよく見てごらんなさい。あの子、あなたのこと嫌っているわけじゃないのよ?」
さとりが火焔猫全体ではなく、燐を名指ししたのは、空が燐のみを気にしているからだ。
灼熱地獄に棲んでいた時代から、空の中で『猫といえば燐』の図式が出来上がっていた。
他の猫なら見分けがつかないので、無視するか忘れるかしてしまえる。
ただ燐だけは、他の猫とはどこか違って見えるせいで、空の中では悪目立ちする存在だった。
だが、どこが違うのだと聞かれても、空は答えられない。
あるいはこいしなら、空の無意識を探って答えを教えてくれるのかもしれないが。
* * *
いつもの木の根元。今日の燐の昼寝場所は熱風がよく通り抜ける、温かい芝生の上だった。
空は丸くなってじっとしている燐の背後で、地面をトコトコピョンピョンしながら近づいて、また離れてを繰り返していた。
別に燐を狩ろうとしている訳ではない。コミュニケーションを図りたいのだ。
主の言葉がきっかけで、空も気になって仕方がなかったモヤモヤをこれで解消できると考えたのだ。
黒いビロードのような毛皮が、呼吸で柔らかく膨らんだりしぼんだり、燐に緊張は見られない。
空が舞い降りた時の羽音や、芝生を踏む軽い音が耳に入っていないはずがないので、燐は空に気付いているだろう。
ぴんと立っていると危ないしっぽは、身体の下にしまわれていて、燐の感情はよくわからない。
ただ、警戒されていないのなら、攻撃されることもないだろうと思う。
一歩、二歩三歩と丸い背中に近づき、燐が頭をふいと横に向けるたびに一歩飛び退く。
ピョンピョンしているうちに、空はなんだか楽しくなってきていた。
(燐がこっち向く前に私が突っついたら、私の勝ちね。)
その日から、燐との一人遊びが始まった。
少し離れた場所から、燐の背後をウロウロウロウロ、歩いたり飛んだりしながら距離を縮めていく。
他の猫や鴉たちの邪魔が入ったら仕切りなおし。
すぐ背後まで近づいて、いざ、とくちばしを突き出してぱっと避けられたり、鳴き声で追い払われたり、
ふらふらと揺れるしっぽのおかげで近づくことが出来なかったり。
虫の居所が悪かったのか、あまりに鬱陶しかったのか、燐が剥きだした反撃の爪をひょいとかいくぐったりもした。
空が勝手に始めた一人遊びは、いつしか二人の遊びに変わっていった。
勝率は大体四割くらいか。空は記憶力に難があるので、あまり正確ではないのだが。
「フシャーーー!!」
「カーーーー!!」
今日も今日とて、地霊殿の中庭に鴉と猫の鳴き声が響く。
しっぽをぶんぶん振って空を払った燐が、臨戦態勢に入って低く唸る。
ばさっと飛び退った空も、負けじと身体を膨らませての威嚇の姿勢。
青い芝生に黒い羽と黒い毛が飛び散る喧嘩は、命の終わりが決着ではない。
お互いに致命的な場所や、大怪我をしそうな所は避けた攻撃をしている。
燐は爪をひっこめているし、空も目玉を狙ったりはしない。
空にとって、燐は喧嘩相手であり、ライバルであり、気になる猫であり、地霊殿のペット仲間になったから。
* * *
そんな日々を過ごすうちに、空が何もしなければ、燐に追っ払われることもなくなっていた。
空がツンツン突つくのが、燐の毛皮でなく、見つけた虫だったり、光る石だったなら、
燐はふらふらしっぽを振って、にゃおと一言鳴いて、空の隣でもうずくまったままでいてくれるようになっていた。
そんな燐を見るたびに、空はご主人様の言葉の正しさを思うのだ。
――あなたのこと嫌っているわけじゃないのよ?
自分も燐は嫌いじゃない。
毎回怒らせて喧嘩をするより、平穏無事に過ごした方が仲良く出来ることもわかっている。
空がいちいちちょっかいを出さなければ、燐との時間は穏やかで何事もなく過ぎていくだろう。
だが互いに言葉を交わせない以上、コミュニケーション手段は限られてくる。
何もしゃべらず、何もせずというのは、空の性に合わないのだ。
側にいるのに何もしないなんてつまらない。
空に人間の口があったなら、喧嘩をせずに一緒にいても、退屈したりはしないだろう。
空に人間の手があったなら、主のように燐を膝に抱いて、あの柔らかそうな身体を撫でることも出来ただろう。
しかし悲しいかな、空には鴉の言葉と、くちばしと翼しかないのだ。
あのしっぽの動きを読む以外、燐の考えを察する術はなく、あの綺麗な毛皮を突つく以外に、燐に触れる術はない。
主人が顔を綻ばせるような手触りも、体温も、言葉でさえも、何にもさっぱり分からない。
あまり頭の回る方ではない空には、上手く燐と仲良くする方法が浮かばなかった。
(早く妖怪になりたい。人に化けられる妖怪に。)
そうすれば、その時こそ、燐と友達になれるだろうから。
※ 2.
さとりのペットになった動物は、様々なものを喰らって妖怪化する。
燐も空も、ペット仲間が驚くほどのスピードで力を付けていった。
人化できない動物の中では力の強い二匹は、妖怪化するのも早かった。
地獄時代では手に負えなかった強力な怨霊も、地霊殿の付近では大人しくなる。
それを捕らえて喰らうのだ。
さとりは一応の食事は用意してくれるが、如何せん数が多いので端々までは手が回らない。
力の弱いもの以外は皆好きに狩りをして、好きに食事をしている。
強い怨霊を喰らい、灼熱地獄へ続く洞窟で狩りをして遊び、長い間を過ごすうちに、空はかなりの妖力を蓄えていった。
それでも、なぜだか燐の方が一足早く人化の術を身につけた。
後年、空がなんとなしに聞いた所によると、「あたいはあんたと違って努力家なのさ。」と返された。
* * *
燐が初めて人に化けたとき、空は側にいなかった。
けれど、地霊殿の中から感じる燐の気配が別のものに変わったのを感じて、文字通り飛んで駆けつけた。
薄く開いたドアに体当たりをして空が部屋に飛び込んだ時、
赤毛で三つ編みの少女――燐は、主の腕の中で目を閉じていた。
ソファに座っているさとりの膝に乗った頭、緑色のドレスから伸びる足、ゆるく曲げられた指、薄く開いたくちびる。
見た目が全く変わっていても、空には彼女が燐であると一目で分かった。
全く説明はつかないけれど、これは燐です、と目印が付いているかのように、やはり燐はどこか違って見えるのだ。
さとりは燐の髪に手を当てて、労わるような優しい目をして、燐が目覚めるのを待っていた。
燐に先を越されたことが悔しくないといえば嘘になるが、それ以上に楽しみだった。
しばらく前から燐のしっぽは二股になっていて、人化するのも時間の問題だと思っていたからだ。
「空。…もうすぐ目が覚めるわ。……ええ、多分、燐は酷く混乱するでしょうから、側にいてやって。」
言葉通り間もなく、ん、と燐が小さく呻き、きゅっとまぶたに力が入った直後、すぅっと瞳を開いた。
最初の一言は、言葉が詰まったのか息を飲んだだけ。
驚いたように目を見開き、眼球をゆっくりと上下左右に動かす。
怯えているのか、手足を小さくちぢこめて、頭についた猫耳もぺたりと垂れている。
さとりは落ち着かせるように燐の髪を撫で、肩を撫で、頬を手のひらで包んで言った。
「落ち着いて、燐。目がおかしくなったのではなくて、見え方が変わっただけだから、大丈夫。
これがわたしたちの見ている、世界の色よ。大丈夫、すぐに慣れるわ。」
「さ、とり…さま…?」
初めて聞く燐の声はひび割れていて、絞り出すように主の名前を呼んで、そうっと目元に指を当てていた。
猫の目は青と緑しか認識できないが、人に化けると人と同じ見え方になれるのだとさとりは言った。
何度も目をしばたいて、さとりに撫でられているうちに、燐は落ち着きを取り戻していく。
強張った表情がほぐれ、嬉しくて仕方ないと言いたげな笑みが顔中に広がる。
自分の手のひらを見て、顔を触って、身体を起こして全身を眺め回す燐を、空はテーブルの上から見守っていた。
燐はさとりの首に抱きついて、人型でなければ出来ない喜びを満喫している様子だった。
自分の口で主に語りかけ、主の手を握って、照れくさそうに微笑む。
蚊帳の外感に我慢が出来なくなった空がばさばさっと翼を羽ばたかせると、燐の人型の瞳がやっと空を捉えた。
「あ、おくう。」
おくう?
聞き間違いだろうかと空は首をかしげ、主を見やる。
すると主は、手を口元に当ててくすくすと笑っていた。
「あなたのことよ、空。『うつほ』の『そら』は『くう』とも読むの。……ええ、呼んだのはあなたが初めてよ、燐。」
「やった。ありがとうございます、さとり様。」
空が事情が掴めないと心で文句を言うと、主は説明してくれた。
燐が心の中で、空のことを『おくう』と呼んでいたこと、自分が最初に呼びたいからと、さとりに口止めをしていたこと。
「あたいのことはお燐って呼んでよね、おくう。」
愛称で呼ばれるのは初めてで、空はくすぐったい気分になりながらも了解の返事をした。
かぁ、と一声鳴きながら、自分も人の口で喋れたらどんなにいいだろうと思う。
自分は彼女を『お燐』と呼んで、話しかけてあげることができないのだ。
それでも、一方通行でも意思の疎通ができるのは嬉しかった。
「……言葉がなくてもあなたたちは通じ合っているんじゃないかしら。
……燐、あなたの皮肉は通じていませんよ?言葉の裏を考えない子ですから。
まったく、言葉は素直なのに、どうして心が素直じゃないのかしら。
妙にひねくれなくてもいいんですよ。挙句通じてないなら世話もない。」
「…はぁい、さとり様。」
意味が分からずまた首をかしげている空に、主は分からないならそれでいいのだと告げた。
さとりはそのままソファから立ち上がり、開きっぱなしのドアから外に出ようとする。
どこへ行くのかと心で問いかけると、すぐそばから返事がした。
ぐぅぅ、と鳴る燐の腹の虫。
燐は誤魔化すようにぱたぱたと手を振って、こほんと咳をしてからにんまりと笑った。
「とりあえずはあたいの勝ちだね。あたいのが早く化けれるようになった。」
悔しさを挑発で簡単に煽られた空は、いつものように燐の頭上からくちばしをお見舞いする。
長い腕をぎこちなく振り回して反撃する燐は、身体こそ違うが結局はいつもと同じ。
お粥の入った盆を持ったさとりが、呆れた笑みを浮かべながら部屋に戻ってくるまで、
二匹のじゃれあいはいつもどおり展開されていた。
* * *
「おくうー?おくうってばーーー!……もう、どこまで行っちゃったのさ…。」
灼熱地獄跡に続く、広く深い洞窟に、燐の声が響いた。
空はその声を聞きながら、岩陰で見つけた、食いでのありそうな怨霊を追い掛け回していた。
ずいぶんすばしこい奴で、岩のホールを抜けてさらに深く潜った所で、やっとそいつを捕まえて喰らうことに成功した。
ここ最近、空は下手をしたら腹を下すような怨霊や、よくわからない魑魅魍魎を手当たりしだいに食い漁っていた。
燐に先を越されたこともあり、とにかく早く、もっと強い力を身につけたかったのだ。
燐が二股しっぽの化け猫になった頃には、空だって地獄鴉の妖怪には成っていた。
妖力も他の鴉仲間よりはずっと高いはずだ。
しかし要領が悪いのか、不器用なのか、何なのか。空は人型に化けることができないでいた。
こうして悪食を繰り返しているのだが、力は強くなっても相変わらず成果は上がらない。
(ごちそうさま…っと、ここまで来るのは久しぶりだなぁ…。)
暴れる怨霊を飲み込んで、一息ついてから見回すと、空はずいぶん深く降りてきていたことに気が付いた。
灼熱地獄の底は見えないけれど、もうしばらく降りていけば着くであろうことは、感じる熱気で推測できる。
地霊殿よりも熱くて快適な空気が懐かしく感じるほど、ここには来ていなかった。
「あ、見つけたよおくう!あたいを置いてくなんてひどいじゃない!」
と、燐の声と共に周りの空気がかき乱され、空は燐の腕の中に抱きかかえられていた。
顔を上げると、膨れた顔の燐がアップで飛び込んでくる。
額を突ついてやろうかと思ったが、自分を探しに来てくれた猫の、白くて滑らかな肌を傷つけるのは忍びない。
とりあえず目の前で垂れていた赤いおさげをくちばしで咥えると、
「誤魔化したって可愛くないよおくう!今日はあたいと遊ぶって約束したじゃん。まさか忘れたんじゃないだろうね。」
と、しっぽを逆立てて怒られた。
何でも忘れやすい性質とはいえ、別に燐との約束を忘れていた訳ではない。
怨霊に気を取られてすっぽ抜けていただけであって、忘れた訳では断じてないのだ。
伝えようと、翼をばっさばっさと羽ばたかせて、短く鳴く。
燐は意外と独占欲が強くて寂しがりなのだと、燐が人化して、言葉を聞いて初めて知った。
ついでに言うと、中々の世話焼き気質でなんだか猫らしくない。
今までは、もっぱら空の方が燐にまとわりついていたので気付かなかったのだ。
最近は空が狩りに出かけると、ほぼ確実に燐がついて来る。心配性なのかもしれないが。
でも、その束縛が、なんだかやけに嬉しく感じるのだ。
猫だから、鴉だから、相性が悪いから、敵だからと嫌っていたのはもはや昔の話だ。
灼熱地獄時代や、さとりに飼われ始めた頃の空が今の空を見たら、間違いなく突つき回されるだろう。
――猫なんかのどこがいいんだろ…
あの頃の自分に言って聞かせてやりたいと思う。
こんなに沢山あるじゃないかと、一晩中だって語ってやりたいと思う。
綺麗な光沢がある、つやつやの毛並みがいい。
甘えるように、にゃぅと鳴く、あの可愛らしい声がいい。
空にも分かりやすく感情を示してくれる、しっぽの動きが面白くていい。
機敏に駆ける姿勢の、すらりとした感じが格好良くていい。
じゃれるとき、空が潰れないように、怪我をしないようにしてくれる優しさがいい。
きらきらと、時々にやにやと笑う、眩しい、可愛い笑顔がいい。
何より、自分を「おくう」と呼んでくれる、その声がいい。
それから、それからもっと、もっと沢山。
空が覚えきれないくらい、溢れるくらい沢山ある、燐のいいところ。
――あのね、燐のこと、もう少しよく見てごらんなさい。
あの時そう言ってくれたご主人様に、心の底から感謝をする。
でなければ、こんなに燐を知れなかった。
ただの宿敵ではない、大切な仲間を知ることが出来た。
燐の腕に身体を摺り寄せて、空は生まれて間もないヒナ鳥並みの、ふわふわした思考に埋もれていた。
適度な運動の後、しかも食後で、熱く快適な空気と、温かい腕の中。
これを幸福と呼ばずになんというだろう。
自分を抱いてくれている燐を抱きしめて、「お燐」と呼べたなら、もっと幸福だろうと思った。
+ + +
なにやらすっかりくつろいでいる空を抱えた燐は、一人で退屈していた。
正確には、せっかく二人でいるのに退屈していた。
最近空は、あまり燐と遊んでくれない。すぐにどこかへ遊びに行ってしまうのだ。
燐が猫の姿しかとれなかった頃は、鬱陶しいくらいにまとわりついて来たというのに、この変化は何だ。
このまま空に寝られたりしたら、また一緒に遊べないじゃないか。
昨日も一昨日もその前も遊べなかったのに。
(なによぅ。あたいはもういらないって訳かいおくう。)
気に入らなくて、瞼を閉じている空の羽毛をわしゃわしゃと撫でてやる。
驚いて空がばさばさと飛び上がるけれど、謝ってはやらない。
プライドの高い猫を放ったらかして眠ろうとする空が悪いのだ。
「遊ぼ、おくう!ほらほらゴハン食べたら運動しなくちゃね!」
怒った空におさげを乱されながら、空を捕まえようと手を伸ばす。
まだ人の身体に慣れていなくて、簡単には捕らえられない。
ちくちく突ついてくるくちばしと爪がこそばゆい。じゃれ合いが楽しくて、嬉しくて仕方ない。
燐の笑い声と空の鳴き声が、風が吹き抜ける静かな洞窟に反響した。
* * *
言ってしまえば、迂闊だったの一言に尽きるだろう。
切り離された直後の灼熱地獄跡は、喰い合い殺し合いの渦巻く蠱毒(コドク)の壷だった。
燐も空も途中で抜けたが、残っているものはまだまだいた。
残った強者たちを屠って生き残った王者――蠱(コ)は、強い強い妖怪になっていて当然なのだ。
最初に昔の棲み家に行ってみようかと行動を起こしたのは、どちらだったかはもう忘れてしまった。
燐が声をかけたのかもしれないし、空がはしゃいで飛び出したのかもしれない。
どちらにしろ、記憶のおぼろげな空が燐の後ろについて飛んでいて、
敵が空の背後から現れたのだから、気付かなかった空の失態であることに変わりはないのだ。
「おくうッ!おくう大丈夫!?」
炎の海に林立する岩の向こうから、燐の必死な声が届いた。
地霊殿の柱ほどもある蠱毒の腕の一振りで、空と燐は完全に分断されてしまっていた。
空には燐の無事を知る術がなかったが、これだけ叫べるならきっと無事でいてくれているのだろう。
答えようと吐き出した息は、途中で遮られるハメになった。
ぶぅんと振られた蠱毒の尾が、空を掠めて岩を叩き割る。空を呼ぶ燐の悲鳴が聞こえる。
弾き飛ばされた空はなんとか空中で踏みとどまり、一声鳴いて無事を伝えると、改めて蠱毒の姿を睨みつけた。
地底のどの獣よりも大きい身体は、どの獣にも似ていない。
バラバラのパーツを寄せ集めたような歪な形は、噂に聞く妖怪鵺のように禍々しい。
強い妖怪なら持っていて然るべき知性が感じられないのは、燐によると怨霊に憑かれているからだという。
あまり利かない鼻にも感じるほどの強烈な血臭と、体毛が焼け焦げる臭い。
身体自体が燃えているのか、炎をまとっているだけなのか、ねじくれた身体の所々が炎を噴き上げている。
恨みと憎しみに燃えるガラス玉のような瞳が、呪い殺そうとしているような視線を投げつけてくる。
売られた喧嘩で勝てそうなものなら遠慮なく買う。
負けると分かっている相手とはやり合わない。
地獄で生き残るためには、勝てない喧嘩はしないのが鉄則。地獄時代に遵守した、空の信条。
明らかに後者である蠱毒の前では、とにかく燐と一緒に、一目散に逃げるしかない。
捕まったら死ぬ。殺される。久しく忘れていた危機感が、空の中に広がっていく。
血走った蠱毒の瞳が空に向けられ、臓物の臭いがする息を撒き散らしながら吼える。
それだけですくみ上がるほどか弱くはないが、どうしようもないほどに本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、と。
早く燐と合流しなくてはと、迫る蠱毒の腕を全速力でかわして、燐の声がした岩の裏へ飛び込んだ。
「よかった、無事だったんだねおくう。」
そういう燐は無事ではなかった。
岩の陰にしゃがみこんで、笑顔を見せているが、ぎこちないのがすぐに分かる。
左足が切り裂かれていて、赤い血がさとりにもらったリボンを濡らしているのが見えた。
蠱毒の爪にやられたのだろう。奴がまとった炎は地獄の火よりも弱いらしく、火傷は見られない。
けれど、どくどくと溢れる赤い血が、決して浅い傷ではないと知らせていた。
「っ痛ー…さとり様にもらったもんだってのにさ…あーあ。」
燐が足に巻いたリボンを外し、包帯代わりに傷口に巻いていく。
髪を結っていたリボンも解いて、ぎりぎりと縛って止血をする。
「ははは、あたいとしたことがね。やっちゃった。」
違う。かわす時に空を庇ったからだ。
謝りたい、礼を言いたい、励ましたい、鼓舞し合って、早くあいつから逃げたい。
どれも、今の空には出来ないことだった。
燐は空中に浮けるし、飛べる。足が傷ついても逃げられる。
だが、あの蠱毒の攻撃をかわしながらだと、難しいのではと思った。
燐が全速力で飛んでも、鬼火を足場にした跳躍の速度には敵わない。
猫の状態になっても、人型のほうが力が強いらしいので大したアドバンテージにならないだろう。
精々攻撃が当たりにくくなるくらいか。それでも当たった時の衝撃は何倍も強くなるから帳消しになる。
「おくう、さとり様に知らせに行ってくれるかい?」
燐を置いて、空一人で。言外に燐はそう言っていた。
ここに燐一人を置き去りにして行ける訳がないじゃないか。
憤慨した空は、翼をばさばさやって、燐の肩をどすっと突いた。
燐が逃げられないなら、自分が囮になればいい。
蠱毒を引きつけているうちに、燐が飛んで逃げればいいのだ。
作戦を伝える術はないが、燐ならきっと分かってくれるだろう。
ぐずぐずしている暇はなかった。
空は燐の目の前を三回ほどくるくると円を描いて飛ぶと、一直線に蠱毒に向かっていった。
「おくう!ダメだよおくう!戻りな!!」
がーがーと、大声で鳴きながら蠱毒の前へ躍り出る。
臓物と血の臭いがする息が吹きかけられ、真っ赤な目が空を捉えた。
すかさずに振り下ろされる腕と、すぐそばを通り過ぎる熱風と炎。
小さい身体で蠱毒の周りを飛び回りながら、空は敵の気が自分から逸れないように、
燐がいる岩陰と反対の方向へと誘導していく。
理性を失っているせいか、怨霊の狂気に取り憑かれた蠱毒の攻撃は単調で、小さな空ならギリギリかわせる。
燐が音もなく浮き上がって、そろりそろりと蠱毒から離れていくのが見える。
(よし、このままもうちょっと行けば…)
ウウウゥォォォオオオオオオオオオオァァァアアアッ!!!!!
突然、大音声で蠱毒が吼えた。
真っ赤に血走った目を見開き、でたらめに振り回した腕と尾が、それぞれ燐と空の身体を打ちのめした。
どん、めき、と、危険な音が空の身体に響く。死が脳裏に閃く。それでも、意識は失わなかった。
目を開くと、最悪の光景が飛び込んでくる。
地面に倒れ伏した燐と、それに向かって腕を振り上げる蠱毒。
空が人に化けられたなら、燐を抱えて飛ぶことも出来ただろう。
空が人に化けられたなら、燐を庇って攻撃を受けることも出来ただろう。
空が人に、化けられたなら。
ああ、今出来なくて一体何になるのだ?
燐が殺されたら、一緒に遊ぶことも出来ない。
話せないし、抱きしめられないし、毛皮の感触だって確かめられない。
口喧嘩も出来ないし、『お燐』と呼んであげられない。
まだ何にもしていないのに、もう何にも出来なくなる。
冗談じゃない。
冗談じゃない、冗談じゃない!
今やらなくて、一体全体何になる!?
燐を失う訳にはいかない。燐を助けなくてはいけない。燐を、守らないといけない!
腹の底から、胸の奥から、魂が焼けるような、頭が真っ白になるほどの力が、空の中から溢れ出る。
喉から叫び声が迸る。
鴉の声から、人の声へ。
長く長く、絶叫であり産声である叫びが、灼熱地獄跡に響く。
蠱毒が動きを止めて、空の方を振り向いた。
猛る力を推進力へ変えて、獣さながらに吼えながら、空は全力で地面を蹴った。
+ + +
飛びそうになる意識を引き戻したのは、初めて聞く声だった。
誰、とは思わなかった。これは、きっと、空の声。
力は強いくせに不器用な、あの地獄鴉の叫び声だ。
喉を壊してしまいそうなほどの咆哮が途切れ、もう一度、空が叫んだ。
「おりーーーーーーーーーーーん!!!」
(あ、ちゃんと呼んでくれてる。)
死に瀕しているというのに、空の声を聞いた燐は、暢気にもそんなことを考えていた。
朦朧とした意識を繋ぎとめる、力強い声。燐を呼ぶ声。
炎の壁を突き破って現れたのは、長い髪に白いシャツに緑のスカートの、翼を生やした女の子――空だ。
きっ、と真剣な眼差しの空と目が合って、次の瞬間には、燐は空の腕に抱きかかえられていた。
「お燐、首、つかまってて。」
横抱きにされた燐が空の首に腕を回すと、だん、と踏み切り音が響き、即座に身体が浮き上がる。
大きな翼を広げた空は、蠱毒の尾をひらひらとかわすと、ぐんぐん高度を上げた。
投げつけられる岩をかわし、炎を突っ切り、蠱毒の攻撃範囲から離れていく。
「ありがと、おくう。」
「うん。」
本当に、心底嬉しかった。同時に心底安心した。
このまま空が人型になれなかったとしたら、それはずいぶん寂しいだろうと思ったこともあったのだ。
自分一人だけが空とは離れた、遠い場所まで来てしまったような、そんな不安もあったのだ。
それが、まさか自分の危機を救うために変化してくれるなんて。
力量的に問題なかったはずの空が化けられなかった原因は、ただもう一押しの切欠がなかった、それだけだろう。
蠱毒に立ち向かうことと、友達の危機が、良い切欠になっただけなのだろう。
自分以外の誰かの危機であっても、空は変化して駆けつけたかもしれない。
理性では分かるが、それでも嬉しいものは嬉しい。自然、口元も緩むというものだ。
まだ蠱毒の追撃があるかもしれないこの状況。
それでも燐は、すっかりいつもの精神状態に戻っていることに気がついた。
恐怖も危機感も、きれいさっぱり消え去って、空の腕の中の心地よさに目を細める。
余裕がないのか、無口な性質なのか、空はあれきり黙ったままだ。
上空を見据えて飛び続ける空の肩口に顔を埋めて、燐は思わず微笑んだ。
自分の相棒は、思った以上に頼もしい。
* * *
昔、空がねぐらにしていた洞窟は、今も大口を開けて空たちを迎え入れてくれた。
鴉の時よりずっと利くようになった鼻が、懐かしい匂いを吸い込んで、空の身体から緊張が抜けていく。
「ここなら多分、大丈夫だよ。」
黒い抜け羽が散らばる中に燐を降ろして、その身体をぎゅうっと抱きしめる。
柔らかくて温かい、燐の身体。生きている、燐の心臓の音。
とても一言で言い表せないような感情が、空の中に溢れていた。
生きている、逃げられた、抱きしめられる、怖かった、名前を呼べた、助けられた、よかった。よかった。よかった。
溢れる気持ちは、そのまま涙になってぼろぼろと空の頬を流れていく。
「…っく、ッ、……ぃん……っう、…ぉりんッ…っ……ぅぅ…」
「……あんたがそんなに泣き虫だったなんて、思わなかったよ。」
ぎゅうぎゅうと力を込めて、燐の肩口に顔を押し付けて泣きじゃくる空の背中を、燐はゆっくりと撫でてくれた。
温かい手のひらの感触に安心して、涙が止まらない。
戦闘で熱くなっていた頭が、別の方向に熱くなる。
「ほら、もう大丈夫だからさ。…そんなに怖かった?」
怖かった。心底、死ぬほど怖かった。
燐を失ったかもしれないと思うと、底抜けの恐怖に突き落とされる。
こんな恐怖は、地獄の底でだって感じたことはなかったのに。
「っ、こわ、かった……うっ、く、…ッ……お燐…ッ、死んじゃうかと…思っ、ッぅ…………」
牙も爪も炎も、血走った目も、のたくる尾も、燐を失う恐怖に比べればなんてことないものだった。
抱きしめる燐の感触が、優しい手が、声が、鼓動が、温もりが、これほど必要なものだったなんて。
燐が、燐こそが、絶対に失いたくない、絶対に守りたい、大切な、大切な――。
* * *
地霊殿に戻ってさとりの手当てを受けている間、空は燐の手を離そうとしなかった。
複雑に動かせるようになった指を絡めて手を繋いでいると、さとりの膝の上に匹敵する程、安心できたからだ。
きっと燐も同じように思ってくれているだろうという想像は、間違ってはいなかったらしい。
さとりは空を注意しなかったし、空を見て優しく微笑んでくれたから。
燐は体力の限界に来たのか、傷口の縫合が終わって包帯が巻かれる頃には、まぶたが落ちかかっていた。
毛足の長いカーペットの上に敷かれた真っ白なシーツの上に、ほとんど寝そべった状態で、腕に顔を半分埋めている。
簡易の治療場になったそこは燐と空の血で汚れていたけれど、肌触りがとてもよかったせいもあるだろう。
さとりの手がそっと燐の頭を撫でて、燐は緩慢なまばたきを繰り返した。
「ん、にゃ…さとり…さま……おくー……」
「はい、おやすみなさい、燐。よくがんばりましたね。」
「お燐、おやすみ。」
「……ん………」
ぴくんと耳を揺らして寝息を立てる燐の顔はいつもよりも幼くて、どこか脆く見える。
人に化けた自分の身体はさとりやこいしより、燐よりも大きくて、だからそう感じるのだろうか。
投げ出された、包帯に包まれた足の細さや、しなやかな首の頼りなさ、繋いだ手のひらの小ささ。
(まぁ、脆さ儚さで言ったらさとり様やこいし様の方が上な気がするけど…。)
「聞こえていますよ空。…まぁいいです。もう少ししたら燐をベッドに運んであげて?……今すぐは起きてしまうから。」
「はい、わかりました。」
「あなたも、本当によくがんばりました。燐を助けてくれてありがとう、空。」
さとりの手のひらが、空の頭を優しく撫でる。
鴉の時とは違った手の重みが、少しくすぐったいような感触が、心地いい。
空はぺたりと座り込んだまま、さとりを見上げて口を開いた。
話さなくても伝わるのは十分承知だが、せっかく話せるようになったのだから、自分の声で話したかった。
「さとり様、私、上手に化けれていますか?」
「まだ鏡を見ていないのね。…ええ、すらっとしていて、とても素敵よ。」
「本当ですか?…よかった。」
「それにしても、ずいぶん大きくなったわね。……ああ、いけないんじゃないわ。素敵だって言ったでしょう?」
「えと、私、とにかくお燐を助けたくて、夢中だったので…」
どうして自分が化けられたのかも、自分がどう化けたいと思ったのかも分からない。
助けたい、守りたいと、脳が焼けるほどに強く願ったことは覚えている。
でも、化ける瞬間のことは真っ白で、記憶に残っていなかった。
「……燐のため、ね。」
「はい。大事な、ともだちですから。」
眠る燐の手を握る手に、きゅっと力を入れて、無垢な寝顔に目を向ける。
燐の側にいるだけで、胸が熱くて、温かくて、幸せな気持ちになる。
それは以前からそうだった思うけれど、前よりももっと、素直にそう思えた。
ずっと燐のそばにいたい。
この気持ちを、一体何と言ったらいいのだろうか。『好き』では足りない気がしてならないのだ。
灼熱地獄の昔のねぐらで、燐に抱きついて泣いてしまった時の気持ちが蘇ってくる。
「……それは、『愛しい』というんですよ、空。」
「――愛しい。」
口に出して言ってみると、その言葉ははすとんと空の中に落ち着いた。
握った手とは反対の手で、燐の頬を撫でてみる。
(お燐は、私の――愛しい、人。)
確かめるように胸中で呟くと、えもいわれぬ幸福感が空の心いっぱいに広がった。
自然と頬がゆるんで、にやけているのが自分でも分かる。
嬉しさに思わず翼を広げかけ、燐が眠っているのだからと思い直して、羽ばたきたくなる衝動を我慢する。
指を伸ばし、さらりと燐の猫耳を撫でて顔を上げると、主は少し頬を染めていた。
「……もう、あんまりに熱くて妬けてしまうわ。」
ここはそんなに熱くないはずだけど、と空が首を傾げると、さとりは笑って空の髪を撫でた。
熱いのはあなたの心だと言うさとりの顔は、幼いヒナを見守る親鳥のように優しかった。
* * *
蠱毒はその日のうちに退治された。
空と燐が寝入ってから、また目覚めるまでの間にカタがついたのだという。
主が呼んだ一本角の鬼が一人で地獄跡へ向かって、しばらくして満足顔で帰ってきて、それで終わってしまったらしい。
あまりにあっけないものだった。
時折たずねて来ては地霊殿のエントランスで主と話す鬼を見かけるたび、空は思った。
自分にも、鬼ほどの力があったなら、あの時燐に怪我をさせるようなことにはならなかったのに。
力が、欲しいと思った。もっと強くなりたいと思った。
大切な人たちを、愛しい人を守りきれるだけの力と、強さが欲しい。
空は一つの誓いを立てた。
※ 4.
灼熱地獄の管理を任されるようになり、地獄鴉の中で一番強くなっても、空の誓いが果たされることはなかった。
どれだけ時間がかかるかは分からない。どれだけ時間がかかったのかも分からない。
けれど、その誓いはどれだけ時が流れようとも、空の記憶から消えることはなかった。
――いつか、自分がどんなものからでも燐を守りきれるだけの強さを身につけたら、この気持ちを伝えよう。
おしまい
捏造過去話
百合
タイトル元ネタ全然関係ない話
よろしければどうぞ。
※ 0.
吹き抜ける風に髪を踊らせながら、空は仕事場である灼熱地獄跡を見下ろしていた。
ごつごつした岩壁の、そこかしこにあるうちのひとつ、お気に入りのでっぱりに座って
足をぶらぶらと遊ばせながら。
真っ黒な髪に真っ黒な翼を背負った、妖怪化した地獄鴉。
普通の妖怪では肺が焼けるほどの熱気の中にいながら、空の長身は白いマントで包まれていた。
肌を守るためではない。
地獄の業火の中に棲んでいた空にとって、この温度は肌寒いくらいだった。
空の基準では温く感じる岩壁と、足元のずっと下で煮えたぎる溶岩と炎。
赤く、明るく、快適より少し肌寒くなったここが、住処兼職場に変わってから、まだあまり経っていない。
地獄が切り捨てられてから、どれだけ経ったのかは、覚えていなかった。
ぼんやりと視線を廻らせる空の頬を、灼熱地獄の残り火が巻き起こす風がじりじりと撫でていった。
責め苦に喘ぐ罪人と、嗜虐的に響く獄卒の笑い声の絶えた今、ここには妖精の笑い声と吹き抜ける風の音が響くのみ。
時折、思い出したようにごぽりと鳴る溶岩は、全盛期と比べ物にならないほど緩慢に盛り上がり、弾けていく。
ふと、小動物の死骸を啄ばんでいた地獄鴉と空の目が合った。
見つめ合っても心が読めたりはしないが、なんとなく見続ける。
やがて彼はきょろきょろと周囲を見回して、獲物を咥えて飛び去っていった。
そんなに怯えなくてもいいのに。
空は同族である地獄鴉を見送りながら、今は縁遠くなった感覚を思い出していた。
いかな鳥頭でも忘れられないほどの、強烈な飢餓感と危機感と、研ぎ澄まされるような野生の日々を。
主人に飼われる以前ならともかく、今は人化もできない同族から食料を奪うほど飢えてはいない。
視線の先で、獲物を咥えた鴉が、すいと岩棚に降り立った。
途端に空の目元がふっと和らぐ。
餌を置いた地獄鴉を迎えたのは、もう一羽の鴉。つがいだろう。
メスの鴉に餌を与えるオス鴉を視界の端に捉えたまま、空は少し離れた後姿に声をかけた。
「ねぇお燐、知ってる?」
「うんにゃ?」
ぷらぷら揺らしていた尻尾を止めて、燐が振り返った。
猫耳としっぽを生やした彼女は、妖怪火車。長袖のドレスを着て、膝から下は惜し気もない素足だ。
ふわ、と浮き上がるおさげと、ぴくりと揺れる猫耳が相変わらず可愛いと思いながら、口を開く。
「カラスって生涯伴侶を変えないんだよ。この人って決めた相手とずぅっと一緒にいるんだ。一途でしょ。」
燐は一瞬、何をいきなり、と言いたげな顔をして空を見つめたが、
空の視線を辿ってから得心がいったように耳を揺らした。
「へぇ。じゃあおくうも誰か好きな人が出来たら、その人とずっと一緒にいるんだ?」
「うん、そうだよ。」
「…即答とはねぇ。でも羨ましいねそいつ。おくうにそんなに想ってもらえるなんてさ。あたい嫉妬しちゃいそうだよ。」
「へへへ。」
ばさばさっと空の翼が揺れて、蒸れた空気がかき混ぜられた。
空には、気分が昂ぶると翼を羽ばたかせるクセがある。
地霊殿の中でやると、さとりによく注意されたが、鴉の頃から身に染み付いたクセは中々消えるものではなかった。
「そっか…おくうに恋人ねぇ。今まで話したことなかったけど、もしかしてもう居るとか言うんじゃないだろうね。」
「…うん、居るよ。心に決めた人。ずっと前に決めたんだ。」
「えぇ!?にゃに、そうなの!?だ、誰!あたいの知ってる奴?」
「ふふ、うん、知ってる。よく知ってる人だよ。」
肩をがっしりと掴まれた空は燐の手を振り払ったりせずに、そのまま揺さぶられている。
燐の顔をじっと見つめ、くすぐったそうに頬を緩ませて。
「え、え、誰。ペット仲間の誰か?それとも旧都の…。えぇー…なにそれあたい全然……。誰さーおくうー。」
「んー…内緒。まだ言えない。あ、さとり様に聞いたら駄目だからね。」
「うー…ここまで言っといてお預けって何なのさー。」
「まだ、ちょっと。」
困った顔で視線を逸らす空の様子に、燐の瞳がすっと細められる。
「…片想い中って事かい?」
「え、や、その、」
図星。呆れるほどに分かりやすい反応を示した空に燐が再び掴みかかる。
それはもう、捕食する時のように勢いよくがっつりと。
「片想い!?おくうが!?にゃー気になるじゃないさーー!!」
「あー!もう駄目!その時になったら全部言うから、もう駄目!」
「その時って告白する時!?まさか結婚報告になるんじゃないだろうねおくう!あ、こら待ちな!」
先ほどまで大人しく揺られていた空が、身をよじって燐の手を振り払った。
岩棚から飛び降りて空中に身を躍らせ、翼を広げながら息を大きく吸い込む。
「いつか言うから!絶対言うから待っててお燐!」
岩棚から身を乗り出してこちらを見据える燐の顔。
空はそれをまっすぐ見つめたまま叫んで、それから身を翻す。
ぴんと翼を張り、ごうごうと風を切りながら、空は一直線に灼熱地獄の底の底を目指して堕ちていった。
+ + +
一方、残された燐は岩棚から突き出していた顔を引っ込めて、こりこりと頬を掻いた。
追いかけようかとも思ったのだが、何となく気勢を削がれてしまい諦めたのだ。
ふわふわふわ、と燐の周りに妖精たちが集まってくる。
大方今のやり取りに興味をそそられたのだろう。
燐だって傍観者だったなら、面白がって話を聞きたがったに決まっている。
「何なんだい…もう。」
まったく、空に好いた奴がいるなんて考えたこともなかった。
バカ正直で明け透けな空が恋、それも片想いをしていただなんて。
空がする恋なら、一直線に相手にぶつかっていく、当たって砕けろ的な恋愛の方がずっと似合うのに。
意外だ意外だと思いながらも、燐の胸にもやっとした雲が広がった。
雲なんて、生まれてこのかた一度も見たことはないのだが。
「なんであたいにゃ秘密なのさー。…親友じゃんか、おくう……。」
燐も親友だからと言って、全て何もかも包み隠さず、余すところ無くお互いを知り、
また知られておくべき、などとは考えていない。
ただ、空と一番親しくしているのは自分であり、空と一番仲がいいのは自分である。
その自信が少し揺らいだだけだ。
いささか独占欲の強い燐には、恋は恋、友情は友情、とかっちり線を引いて納得することが出来なかった。
一言で言ってしまえば嫉妬。親友を取られるという不安と嫉妬が胸の奥にかりりと爪を立てるのだ。
「ぅー………。」
気付くと、自慢の二本のしっぽが岩の壁をばたばたと叩いていた。
ぐねぐねと動き回るしっぽを捕まえて、落ち着くために深呼吸をひとつ、ふたつ。
それでも景気よく回転する脳みそは止まってくれない。
空との会話の中で、繰り返し出てきた名前はどんなだったか、空と仲が良かったのはどいつだったか。
自分以外で、誰か。自分以外の、誰だ?
記憶力に多大な問題があるにしても、強く、明るく、楽しく、美しい空はアレで結構人気があるのだ。
「心当たりなんざ多すぎるって…。」
呟いて、ふぅとため息が漏れる。
耳元で囁く、ため息をつくと幸せが逃げるらしいとの妖精の声を聞いて、燐の顔に苦笑が浮かぶ。
ああ、もうこれ以上は考えても詮ないことだ。
空はいつか話すと約束した。
なら今はそれで許してやろうじゃないか。
無類の鳥頭を誇る空が覚えていてくれるかどうかは不安だが。
「よーっし!じゃあみんな、張り切って素敵な死体を探しに行きますか!」
沈んだ気分を振り払うように、どこからともなく取り出した猫車をぶんと振りながら威勢よく立ち上がる。
空と同じく、岩棚からぴょんと飛び降り、ふわ、と浮き上がって妖精たちに号令をかける。
ぞろぞろと妖精たちを引き連れ、愛用の猫車を押して、燐は上へ、地獄の釜の蓋へと飛んでいく。
※ 1.
怨々と、四方八方から響く怨嗟の声と苦痛の呻き。獄卒たちが叫ぶ呵責の怒号。
灼熱地獄はごうごうと燃え盛り、今日も罪人たちを責め苛んでいる。
ここには、近づくだけで肌が焦げ、肺を焼き、ひとたび触れれば骨の髄まで焼き尽くされる地獄の炎が満ちていた。
吹き上がる火の粉の中には、もがきうごめく影と、その周りを飛び回るいくつもの影が見える。
地獄の炎の中に棲み、死肉を漁り、糧としている地獄鴉たちだ。
彼らは毎日毎日、尽きることなく投げ込まれる死体に群がり、食糧を獲得している。
死者が溢れる地獄という場所で、他の動物たちとの生存競争の日々を生き抜く地獄鴉。
うつほ――後に空という字を与えられる――若い地獄鴉も、そんなうちの一羽だ。
その日の夕食を済ませた空は、存分に水浴びをしてさっぱりした後、いつものねぐら降り立った。
広大な灼熱地獄の岩壁に開いた、比較的大きな洞窟。
地獄鴉たちがねぐらにしているそこは、噂話で持ちきりだった。
基本的に群れでなく、二羽一組のつがいや独身者の寄せ集めで行動する鴉たちは、
こうして集まるたびにがやがやとしている。
可愛いあの子の噂話や狩りの戦果について、縄張りを広げ始めた他の獣の近況、獄卒鬼の酒をかっぱらった武勇伝。
まとまりもなく、寄せ集まった鴉たちの話題は雑多だが、よく聞くと一つの噂が全員の口から語られているのが分かる。
若い鴉も、つがいの鴉も、やもめの鴉も、皆口々に共通の話題を上らせる。
(地底が地獄から切り離されるらしい。)
(地上との行き来ができなくなるらしい。)
(灼熱地獄も、針山地獄も、地獄の施設はみんな棄てられるらしい。)
堕とされる罪人の数がだんだんと減ってきていた理由。
鬼の都がざわついている理由。
ここ最近はどこへ行ってもこの話題で持ちきりだ。
それだけこのニュースが地底の動物達に与えた衝撃は大きい。
空はくちばしを翼に差し込んで羽繕いをしながら、交わされる噂について頭を廻らせていた。
どうせ空にできることなんて、考えること以外にないのだから。
地獄のスリム化だかなんだか、細かいことはよく知らないが、とにかくこの地獄が廃棄されることは決定事項らしい。
迷惑極まりないことだが、妖怪たちの取り決めに一介の地獄鴉が口を挟めるはずもない。
そもそも鬼や妖怪たちに地獄鴉の言葉は伝わらないのだし。
空はつがう相手こそいないが、それなりに生きている。
弱いものながら怨霊や魍魎も喰らってきた。
化けることはできないが、人語を理解する程度の能力は身につけているのだ。
しかし、こちらから意思を伝えることは出来ない。それはとてももどかしいことだった。
自分たち動物と、鬼を筆頭にした妖怪たちの間には、妖獣にならなければ越えられない壁がある。
まあもっとも、空も他の動物の言葉は理解できないけれど。
軟弱な地獄鼠や、いけ好かない火焔猫がなにを考えているのか、人化できる者同士なら分かるのだろう。
と、ここまで考えた所で、空は羽繕いを中断してふと顔を上げた。
きょときょとと辺りを見回し、首をひねる。
はて、自分は元々なにについて考えていたのだったっけ?
途中でずいぶん思考が脱線したような気がするけれど。
がやがやと周りで交わされる会話を聞いて思い出す。
そう、地獄が廃棄されるとか、そのことを考えていたのだった。
思索に戻ろうとする空に、横合いから冷や水が浴びせられた。
間抜けた空の様子を見て、近くの皮肉屋な性格の鴉たちが、かぁかぁとからかってきたのだ。
(またお前は何事か忘れたのか。)
(相変わらず鴉にあるまじき鳥頭ぶり。)
(お脳の中身はカラッポなんじゃないのか?)
売られた喧嘩で勝てそうなものなら遠慮なく買う。
負けると分かっている相手とはやり合わない。
皮肉屋鴉の力量を目算した空は、とりあえず威嚇の姿勢をとって大声で鳴く。
曰く、ちょっとお前ら、表出ろ。
食後の腹ごなしも兼ねて空中で繰り広げられるドッグファイト。
黒い羽がぱっと散る。
一羽め、二羽めと硬い岩壁に思い切り叩きつけて、空は墜落していく無礼者を満足顔で見送った。
(うん、私ってばやっぱり強い。)
本日何度目かになるかは忘れてしまったが、空は再びの水浴びを終えて、悠々とねぐらに舞い戻った。
地獄という自然界で生き延びるためには、常に勝者でなくてはならないのだ。
* * *
どうやら来るべき時が来たらしい。
獄卒たちはある日を境に一切姿を見せなくなっていた。
焼かれ続ける罪人の苦悶の呻きも、日に日に少なくなっていく。
彼らの肉体を再生させる獄卒がいなくなった今、死体は灰すらも残らず、魂は怨霊になるばかりだ。
地獄の釜の蓋の上では、なにやら鬼や土蜘蛛たちが建築中であるとの噂がある。
なんでも、怨霊の管理をするために、地底で一番おっかない妖怪が住む家を建てているそうだ。
空は咥えた食糧を岩の隙間に押し込むと、再び獲物を探すために飛び立った。
これから来るであろう食糧難の時代に備えて、少しでも備蓄をしておこうと思ったのだ。
ただ如何せん恨むべきはこの鳥頭。
先日から実行している備蓄計画だが、致命的な欠陥は空自身の頭にあった。
基本的に、どこへ行っても代わり映えのしない風景が続く、この灼熱地獄の中。
これでは備蓄場所を何ヶ所も作ったって、空の頭では覚えきれないのだ。
(参ったな。私に人間の手があったら、隠し場所の地図でも作っておくのだけど。)
しかし、ないものねだりをしていても仕方が無い。
しがないいち鴉でしかない空にできるのは、精々これからどう生きていくのかを考えることだけだった。
一番の懸念は、これからの食糧についての問題だ。
地獄で焼かれ続ける罪人は、獄卒によって何度も何度も肉体を再生させられる。
そうしてまた何度も何度も、輪廻の輪から外れた場所で、赦されるまで殺され続けるのだ。
それがなくなれば、食糧は激減どころではないほどに減ってしまう。
まだ死体は山とあるけれど、供給されなければあっという間に底を尽きる。
地獄から切り離されるとはつまり、閻魔の裁きで地獄に堕とされる人間が、ここに来なくなるということだ。
地上との行き来が禁止されるとはつまり、火車が地上から人間を運んで来ることができなくなるということだ。
きゅっと縮まった内臓や、沸騰して白くにごった眼球の――人間の味を、空はきっと完全に忘れ去ってしまうだろう。
食べられるのは今のうちだけ。今や灼熱地獄跡となった場所の上空を旋回しながら、空は獲物を探していた。
燃えさしの供給がなくなっても、地獄の業火はそう簡単に衰えたりはしない。
* * *
業火の中に、最近ここらでよく見かけるようになった影が横切った。
地獄鴉と同じく火の中に棲む地獄の動物、火焔猫だ。
猫と鴉というのは基本的に相性が悪いものなので、以前は余りかち合うことはなかった。
というより空の方が火焔猫が多い場所を避けていたのだ。
危険は少ないに越したことはない。
しかし、環境の変化に伴って、猫の方も棲み家を変えているのだろう。
他の仲間がいる時ならば餌として標的にしただろうが、空単独で猫の相手をしたいとは思わない。
鴉同士ならともかく、猫相手に勝てない喧嘩はしないのだ。
負ければ即、殺される。
場所を変えようと翼をひるがえす前に、もう一度猫の方に視線を向ける。
すると、猫の方もこちらを見上げていた。
あまり大きくない、黒い毛皮に赤い腹の、まだ二股ですらない火焔猫。
得意げにしっぽを立てて揺らすその様はまるで勝ち誇っているようで、空は一発石でもぶつけてやろうかと思う。
実行しようと小石を探すが、手ごろな石を見つける前に火焔猫はどこかへ立ち去ってしまっていた。
視線を廻らすと、あちらの方では猫よりも大型の獣が、死体を引きずっている所だった。
安全な場所まで運んでから、ゆっくり食べるつもりなのだろう。
食べ残しを巣に隠されてしまったりしたら、もう空には手出しできない。
食糧危機の未来は目の前だ。
(ああ、私が人間の身体になれたら、死体を抱えて飛ぶことだってできるのに。)
人型になれるほどに力をつけたなら、食いっぱぐれることはないだろう。
今の空では、魑魅魍魎や怨霊、動物を狩る場合、力の弱いやつを狙わなければ逆にこちらが殺される。
その場の流れでチームを組むことはあっても、基本的に単独行動を好む空には危険が大きい。
その点、死体相手は楽だった。
群がるライバルたちを蹴散らす労苦はあれど、逃げも動きもしないものから肉を掠め取るだけでよかったのだから。
だからといって、地上の鬼や妖怪の都となった旧都のゴミ漁りをしたいとも思えない。
プライドの問題ではなく、地獄で狩りをするより危険なのだ。
ちっぽけな地獄鴉が鬼に追っ払われたらどうなるか。
自分の身体で試してみる気はさらさら起きない。
とりあえず今は、まだある死体を食べられるだけ食べておくべきだろうか。
怨霊も捕まえて喰らっておいた方がいいだろう。
力をつけなければ、この先の地獄で生き延びることは難しいだろうから。
* * *
あのいけ好かない火焔猫は、どうやら本格的にこの辺りを縄張りにした様子だった。
元々、空には縄張り意識などというものは持ち合わせていなかったが、食糧の少ない今は話が違う。
大きい獣を避け、他の地獄鴉と張り合い、その上火焔猫までライバルに加わる。
少ない食料を奪い合う生存競争は、以前よりも熾烈さを極めていた。
灼熱地獄の死体は喰い尽くされ、殺し殺されの死闘があちこちで展開されている。
落ちている死体はあっという間に捕食者に掻っ攫われるせいで、火車は開店休業状態だ。
怨霊や魑魅魍魎たちも、地獄の動物たちも、弱いものは喰われ、強いものだけが生き残った。
まさに、地獄の釜で行われる蠱毒(コドク)の儀式だ。
最後に生き残った者は、さぞ強い妖怪になるだろう。
(絶対に、絶対に、死んでやるものか。)
自分がどれほどやれるかは分からないが、空だって黙って喰われてやるつもりは毛頭ない。
弱いものは容赦なく殺し、喰らい、自分の力として強くなり、また殺してを繰り返した。
生存本能に突き動かされるまま、元仲間である死んだ地獄鴉の死骸だって喰らって生きてきたのだ。
他の、針山地獄などがどうなっているのか、空には分からなかったが、きっとどこも似たようなものだろう。
下を見れば、あの猫がしっぽを立ててこちらを睨み据えていた。
降りて来い、食い殺してやるから、と声が聞こえるようだ。
お互い、獲物を横取りしたり、されたりを何度も繰り返したが、格闘戦は数えるほどもない。
猫には鋭い牙と爪があるが、空には猛禽ほどの爪も、くちばしもないのだ。
空中を翔る翼は誰よりも早いと自負しているが、直接の戦闘では不利と言わざるを得ない。
様々なものを喰らってずいぶん力をつけたとはいえ、それは相手も同じこと。
いつかあいつの肉を喰らってやると思いながら、空は翼を羽ばたかせた。
* * *
地底の動物もずいぶんと数を減らした。
空がいつも帰っているねぐらに集まる地獄鴉も、以前の十分の一に満たない数しかいない。
温度の下がった灼熱地獄跡地の上空を飛びながら、空は思案していた。
生き残った他の地獄鴉から、気になるニュースを聞いたのだ。
なんでも、地獄の釜の蓋の上に建てられた館、地霊殿の主が、地底の動物を飼いだしたらしい。
だから動物の数が急速にここまで減ったのだという。
食い殺されたものと、地霊殿とやらに逃れたもの。
空は別に、他の動物を全部殺して最強の妖怪になりたいわけではない。
野生動物の本能として、死にたくないだけなのだ。
誰かに飼われ、食べるものも棲む所も心配せずに済む生活が送れるのなら、それに越したことはない。
だがしかし、と思う。
空の記憶が確かなら、地霊殿には地底一おっかない妖怪が住んでいるはずである。
そんな妖怪が、空のような地獄鴉を保護してくれるだろうか?
犬や猫ならともかく、自分のように真っ黒で、不気味な、嫌われ者の鴉なんかを?
(うーん。でも、様子を見に行くだけの価値はあるはず。)
そろそろ自分より強い敵ばかりになってきて、いつ殺されるか分からない。
高い岩壁はもとより、こうして飛んでいる今でさえ、安全とは言えない毎日。
おちおち水浴びだってしていられないせいで、身体も翼もぼろぼろだ。
(最後の望みだ。これに賭けるしかない。)
空の棲み家である灼熱地獄の底の世界からずっと上。
炎の照り返しでうす赤く光る、広い広い灼熱地獄跡をドーム状に覆う、高い高い天蓋よりももっと上。
天蓋にぽっかりと口を開けた、巨大なトンネルをはるか上まで進んだ先。
地獄が切り離されてからこちら、一度も行ったことのない地霊殿へ向けて、空は飛び立った。
* * *
(…寒い。)
地獄の蓋は、底のマグマ溜まりから、本当に、ずいぶんと離れた場所にある。
熱気は上へ昇るとはいえ、ここまで離れると地獄の炎も熱も届かない。
一般の妖怪ならば、温かくて過ごし易いくらいの温度だが、灼熱が適温の空はそうもいかなかった。
半ば妖怪化しつつある身だから我慢できるが、ただの地獄鴉だった頃では耐えられなかったかもしれない。
もし、釜の蓋が開いていなかったらどうしようか。
ぎしぎし鳴る身体は、もうあまり持ちそうにない。
道中していた心配は、どうやら杞憂に終わったらしい。
赤い光に照らされる天井に、遠く、小さく、ぽっかりとひとつ、穴が開いているのが見えた。
暗い大穴に飛び込む直前、聞きなれた猫の鳴き声が、聞こえた気がした。
* * *
「あら、お客様ね。いらっしゃい。」
大穴から飛び出して、いきなりかけられた声に驚いて、空は思い切り上空まで飛び退った。
空中でホバリングをしながら、きょろきょろと下を見回し、大穴から少し離れた芝生に座り込んだ妖怪を見つける。
紫色の髪に、水色の上着、桃色のスカートに、左胸に赤い目玉とよく分からないコード。
膝に乗せているのは、見慣れない火焔猫。
(これが地底一おっかない妖怪…?)
薄っすらと記憶に残る鬼や、他の妖怪と頭の中で背比べをしてみる。
鬼の方が圧倒的に大きい。
次に、目の前の妖怪の外見で、危険に見える部分を探す。
鬼には見るからに危ない角が生えていたけれど、こちらは柔らかそうな目玉がひとつ。
ただ、見つめられているだけなのに、なんとも言えない威圧感を感じた。
強い妖力をもった妖怪、なのだろう。でも、
「くすくす。あんまりおっかなくない、ですか。納得がいきませんか?」
そう、全然納得がいかない。
この妖怪のどこがおっかないというのだ?
まさか動物に打ち倒されることはないだろうが、鬼に敵うと思えない。
なにか、特殊な能力でも持っているのだろうか。
「特殊。そうですね、わたし個人としては、そう特別なものとは考えていませんが。なにせ生まれたときからこうなので。
――ですが、他の皆さんはこの能力を殊更に嫌います。あなたは、どうかしら?」
どうと言われても、その能力とやらが何なのか分からなければ、嫌いようがないではないか。
空は抗議の意味を込めてかぁ、と鳴いた。言葉が伝わるかどうかは分からないが。
「あら、ちゃんとした思考はあるのに…ちょっと鈍いのかしら?」
膝の猫をごろごろとあやしながら、優しげな妖怪は苦笑いを浮かべた。
空はまた馬鹿にされたかと、もう一度抗議の一声を上げる。
鴉仲間相手なら、暴力に訴えることもしただろうが、実力の分からない妖怪相手に喧嘩を売るほど、空は馬鹿ではない。
少しぐらいあのふわふわの頭を突ついても、この妖怪は即座に自分を殺したりはしなさそうだ、とも思ったけれど。
「もう、本当に分からない子ね。……ええ、殺したりなんてしませんよ。
降りておいで。怪我をしているようだから、診てあげましょう。」
妖怪は抱いていた火焔猫を芝生に下ろして、少し遠ざかるように指示を出す。
数歩歩いたその猫は、主人を振り返ってにゃお、と小さく鳴いた。
それに妖怪は答える。当てずっぽうの独り言というより、火焔猫と会話をしているような調子で。
「ごめんなさいね。……駄目よ、あの子を襲っては。……ええ、多分あの子は、あなたより力が強いわ。」
上空から眺めながら、空は妙な違和感と、既視感を感じていた。
なぜ、あの妖怪は火焔猫と会話が出来るのだろうか。
(…ってあれ?さっきも私と会話してた…?)
しかし、先ほど空が鳴き声を出したのは、抗議をした時の二回だけだ。
会話はその前からしていたはず。いや、会話と言うより、あれは…、
「やっと気付きましたか。そう、私は心を読む覚妖怪。
人でも妖でも、動物でも、心があるものは私の第三の目からは逃れられません。
……そう、あなたの心も読めますよ。
名前はあるのかしら?……そう、うつほ。素敵な名前ね。字は……ああ、鴉に字など無縁なものでしたね。」
心を読む妖怪。
地獄の外にはそんな便利な力を持った妖怪がいるのかと、空は感心しきりだった。
動物の考えていることが伝わる妖怪なんて、上等にもほどがある。
獄卒よりも、土蜘蛛よりも、鬼よりも、覚妖怪の方がずっと凄い。
空の中で決めている妖怪ランキングの堂々第一位が決定した瞬間だった。
「ふふ、ありがとう。さぁおいで。……――そう、いい子ね。
……そう、あなたは私に飼われに来たのね。……ええ歓迎するわ。
怪我は…――、あぁ、ええそうね、あまり深くないわ。これなら大丈夫。」
覚妖怪の腕に止まり、膝に乗せられ、身体をくまなく検分されている間に、ペットの申し込みまで終わってしまった。
本当なら、もっと時間がかかると思っていたのだ。
なにせ鴉は、猫と違って可愛げのない外見をしているものだから、悪意がないことを伝えるのに、きっと手間取るだろうと。
「そうね、あなたたちの考えが読めるのは、覚妖怪の特権のひとつ。だから、あなたたちは私を好いてくれるのだもの。
……あぁ、くすくす。ごめんなさい、そう、お腹が空いているのね。私としたことが。
今あっちで…――あら。またお客様ね。今日はずいぶん来客に恵まれること。」
にゃぁ、と耳慣れた猫の鳴き声がしてそちらを見やると、例のいけ好かない火焔猫が芝生を歩いて来る所だった。
もしや自分を喰おうと後をつけて来たのか、と空は主人となった妖怪の膝から飛び立とうと、翼を広げかけた。
しかし、その主人の手のひらが、優しく空の身体を押さえつける。
「大丈夫よ。あの子もあなたと同じ目的で来たようだから。……お互い顔見知りなのね。」
にゃぉう、と鳴く火焔猫の声は、しょっちゅう聞いていた声でも、調子が全く違っていた。
攻撃の意思が感じられない、媚びるような、甘えるような声。
全く、あんな声で鳴かれたら、心を読む妖怪でなくてもほいほい拾ってしまうだろう。
やはり猫はいけ好かない。鴉はいちいち不利なのだ。
むくれる空の心を読んだのか、覚妖怪が空の翼を柔らかく撫でた。
* * *
主人と火焔猫の会話は順調に進んでいる様子だった。
傍目には、主人が猫相手に独り言を呟いているようにしか見えないのだが。
「……というより、私は心が読めるの。……ええそう、あなたの来た目的も分かっていますよ。
しばらく前からウチの近くにいたでしょう?慎重派なのねあなたは。
……あら、どこまで読めるのか、ですって?……さあ、どこまででしょうね。くすくす。
……底が知れない、ですか。これくらいの方が主人らしいと思いまして。……ふふ、ありがとう。
……そう、りん、ね。……ええ、喜んで。歓迎するわ、ようこそ地霊殿へ。」
どうやら申し込み手続きはつつがなく終了したらしい。
主人の手が届く場所、つまりはすぐにでも空に飛びかかれる位置まで、猫が近づく。
空の不安を読んだのか、主人はそっと、空を猫とは反対側の肩に乗せた。
「お互い名前は知らなかったでしょう。うつほ、りん、よ。仲良くとはいかないでしょうけど、喧嘩はしないようにね。」
覚妖怪は片手で空を撫で、もう片方で猫の背を撫でる。
「……あぁ、そうだったわね。私の名前はさとり。古明地さとり、よ。……ええよろしく。
さて、あなたたちは私のペットになった訳だけれど、それであなたたちを拘束しようとは思っていないわ。
好きに遊んで、好きに食べて、好きに眠って。どこへ行ってもいいし、どこへ行かなくても構わないわ。
ただ、たまに私と遊んでちょうだい。怪我をした時も報告すること。……そうね、とりあえずはそのくらいかしら。
……さぁ、あなたたち二人ともお腹が空いているのでしょう。
丁度今はおやつの時間なの。あちらの方で皆好きに食べていると思うわ。……ええ、どうぞ、いってらっしゃい。」
空がさとりの肩から飛び立つのと、火焔猫が駆け出すのは、ほぼ同時だった。
+ + +
「うつほ、りん……空、燐にしましょうか。…まだ字を覚えるには早いかしらね。」
我先に、と競って飛び、駆ける二匹の後姿を見ながら、さとりは呟いた。
大空のように澄んだ、空っぽの心を持った地獄鴉と、燐火のように揺らめいた、激しく燃える心を持った火焔猫。
相性は悪くなさそうだけれど、しかし、とさとりの頬に苦笑が浮かんだ。
あの二匹は、お互いの反発心が強すぎるかもしれない。
* * *
この地霊殿には、とにかく沢山のペットがいるらしい。
到着した中庭の、広く小高い丘になっている場所は、猫に鴉に、さまざまな動物でごった返していた。
ただ、ここに集まっているのが全てではないらしく、離れた場所にもそこここにも、気配を感じることができる。
空は斜め下を走る火焔猫――燐にちらりと視線をやると、もう一息と速度を上げた。
餌場に到着した空は、即座に行動に移った。
すなわち、群がるライバルたちを蹴散らすこと。
(こいつらあんまり強くないのばっかだ。)
小鳥サイズのものを翼の風圧で吹き飛ばし、驚く同胞を翼で打ち据え、くちばしをお見舞いし、蹴りつける。
地表では、燐が同様に他のペットに飛び掛っている所だった。
飛び掛り、噛み付き、押さえつけ、鋭く引っかく。最後の敵は、やはりあいつだろう。
ほどなくして、飛ぶ獣は全て空に叩き落され、這う獣は全て燐に叩き伏せられた。
この場にいた連中が比較的弱いものばかりだったせいもあるが、それにしても燐と空は強かった。
灼熱地獄の最底辺で、数多の戦いに勝利し、喰らってきたおかげだった。
空は高くホバリングをしながら燐をじっと睨みつける。
火焔猫は、炎の中でなら、炎を足場にして浮いたように駆けることが出来るが、ここに炎はない。
空中は一応安全地帯と言えた。
しかし、この燐が飛ぶ能力を身に着けていたら、と思うと気を抜けない。
鬼火を飛ばして、その上を駆け上がってくる可能性もあるのだ。
灼熱地獄跡では、結局はっきりとした勝敗はつかなかった。
勝敗が決するイコール、相手を殺すか、自分が死ぬか。
決着が着いていたら、どちらかはこの場にいなかった。
今はとにかく、お腹が空いているのだ。
空はばさりと翼を広げると、突撃の体勢に移り、全身に力を、妖力になりかけの力をめぐらせる。
邪魔立てするなら押し通るまで。
燐の方もぎりぎりと力を溜め、いつでも飛び掛る準備はあると緊張を走らせる。
互いの瞬発力が爆発した、次の瞬間だった。
「グァッ!?」
「ウニ゛ャ!?」
同時に飛び掛り、激突するはずだった二匹は、突然現れた何者かに掴まれて、同時に声を上げた。
何が起こったのか分からずに、空は目を白黒させながら、取りあえず叫び、暴れた。
ガーガー、ミャーミャーの大声と、暴れる音と、静かな息遣いが辺りに響く。
ひとしきり暴れて、混乱も収まると、ようやく空も自分がどういう状態なのか見回すことが出来るようになった。
燐は一足早く回復していて、低く唸り声を上げている。
誰かに捕らえられたまま、燐と空は中庭を横切るように移動していた。
当然、その誰かがどこに向かっているのかは分からない。
空を掴む手は、さとりと同じくらいの華奢な、女の子の手。
視線を上に上げれば、橙色の上着に、白銀にも薄緑にも見えるふわふわした髪、黒い帽子が順に視界に映る。
これは一体誰だろう。一体どこから現れたのだろう。空はきょろきょろしながら考える。
いくら憎きライバルに集中していたとはいえ、人間サイズのものが視界に入って、気付かない訳がない。
そんな間抜けだったら、空はとっくにくたばっている。
にゃぁ、と燐が鳴いた。つられて視線をたどると、先ほど別れた主人、さとりが目を丸くして空たちを凝視していた。
もう一度自分を捕らえている妖怪に目をやると、胸元に青い目玉が浮いているのが見えた。
覚妖怪。さとりの血縁だろうかと空があたりを付けていると、本人の口から答えが出た。
「おねーちゃーん。この子たちなぁに?他の子みんなのしちゃってたよ。」
「……はぁ、そのようですね。ありがとう、こいし。」
「新しくペットにした子?なんかずいぶん元気がいいね。」
「ええ、ついさっき申し込まれたんだけど……そう、私の妹のこいしよ。地霊殿はもともと、この子と二人暮らしだったの。」
「あ、ちなみに私は心を読めないから、言いたいことはちゃんとお姉ちゃんに言ってね。」
さとりの目が、一瞬だけ揺らいだように、空には見えた。
が、一度瞬きをするとそれは消えうせ、呆れたような、困ったような表情がさとりの顔に浮かぶ。
「全くもう、あなたたちは…来て早々にやってくれましたね。……ええ、たしかに私は、他の子を襲うなとは言いませんでした。
私と遊ぶこと、怪我を見せること以外に言いつけはないとも言いました。あ、追加を一つ。こいしとも遊んでやってちょうだい。
……そうね。自然界の摂理なのは分かるわ。勿論。……ええ、ただ、喧嘩をしないでと言いました。
あなたたちは私のペット。少しくらい躾はしないといけないかしら?……そうね、私もあんまりとやかく言いたくないのだけど。」
「ね、お姉ちゃん。この子たちの名前はなぁに?」
さとりが二匹、主に燐と話していると、こいしが横から遮った。
話の流れなどに、こだわらない性格をしているらしい。
ついでにか、燐をさとりにひょいと手渡して、空いた手で空の身体を無造作に撫でる。
「猫の子が燐。青白く燃える燐火の燐(りん)よ。鴉の子は空。青空、星空、天空の空で、空(うつほ)。」
「ふぅん。中々丈夫そうだし、結構強い妖怪に育つかな。」
空をさとりの頭の上にぽいと置くと、こいしは帽子をくるりと回して、また被った。
先ほどから、こいしの表情はずっと笑顔で固定されたままだ。
対するさとりは、眠たげな無表情だが、少し寂しそうな目をしてこいしを見つめた。
「そうね。…――こいし、もう行くの?」
「うん。いってきます、お姉ちゃん。」
立ち去るこいしをじっと見つめていた空だが、こいしの姿が背景に溶け込むように消えたのを見て、きょとんと首を傾げた。
自分は一度も瞬きをしていなかったのに、水蒸気が空気に紛れるように消えてしまったのだ。
「あら、中々いい例えをするのね空。こいしは、あの子は無意識を操る能力を持っているの。……後天的なものだけれどね。
水蒸気…水の粒はそこにあるのに、空気に紛れて見えない。あの子が紛れるのは、人の無意識。
そこにいるのに、あの子の姿は見えないのよ。……少し、難しかったかしら?」
ぐりぐりと首を傾げる空を見て、さとりは口元を緩めた。
空はまた笑われていると思ったが、実際よく分からなかったので抗議は翼を少し羽ばたかせるのに留めた。
にゃおぅ、と鳴いた燐の声が、空の心を読んでいる訳ではないのに、呆れたように響いた。
* * *
「あ、そうそう。あなたたちは罰として、今回分の食事は抜きです。
……お腹が空いているのは分かりますが、アレはやりすぎですからね。」
二匹はさとりの言いつけを聞いて、餌場を眺めながら揃ってしょぼくれていた。
空の羽はしぼみ、燐のしっぽはうなだれている。
回復した他のペットたちは、また食事を再開してがやがやと大騒ぎをしていた。
時折こちらを見て、威嚇してくる奴らもいるが、手を出してきたりはしない。
燐は一度しっぽをふらりと振ると、立ち上がって茂みの中へ入っていった。
空も、これ以上ここにいても仕方がないので飛び立つ。
とりあえず、水浴びの出来る水場を探そうか、と。
中庭上空を滑空しながら、燐がさっきしっぽを振ったのは、もしかして挨拶だったのかと思う。
次いで中庭での殲滅戦を思い出し、燐と組んだら中々のコンビになるのでは、とも思ったが――、
その考えは、地霊殿の前庭に造られた噴水を発見した喜びで、すっぽりと空の頭から抜け落ちた。
* * *
主人は叱るときはさらりと冷血だが、それ以外では概ね優しかった。
主人の妹はほとんど見かけなかったが、たまに帰ってくると遊んでくれた。
鴉仲間は最初こそ喧嘩やら何やらとやらかしたが、基本的にはすこぶる良好な関係を築いている。
空の地霊殿ライフは実に好調だった。
火焔猫や大型の獣が近くをうろついていることはしだいに気にならなくなっていた。
ここではペット間の飲食が禁止されているので、襲われると警戒する必要がないからだ。
例外的にちょっかいをかけてくる奴も、いることにはいるのだが。
(またあの木の上にいる…)
遊びに行こうかと飛んでいる途中、空は中庭を望む比較的高い木の枝に寝そべっている燐を、何度も見かけた。
大体眠っているか、上機嫌にしっぽを揺らしながら、どこぞをぼうっと眺めていたりする。
ふと目が合う時は、にゃぉうと鳴かれる。
意味は分からないが、敵意はないので挨拶だろうかとあたりをつけている。
(そういえば私、燐だけは見分けつくなぁ。他の猫は区別つかないのに。)
だいぶ以前から見知った猫だからだろうか。
何度もやり合った相手だからだろうか。
生存競争のライバルという関係がなくなった今、空は燐に対してどういう立場をとればいいのか分からなくなっていた。
鴉と猫は相性が悪いと相場が決まっているのだ。
しかし、どこにでも例外というものはいるようで、火焔猫と仲良くしている地獄鴉も何羽かいる。
しかも一匹の猫にまとわり付いている一羽などは、その火車猫に惚れているのだという。
最初それを聞いたとき、空は耳を疑ったものだった。
火焔猫と仲のいい鴉仲間にどうして猫と仲良くするのかと聞いたことがある。
彼らの答えは至極単純だった。
曰く、『猫の中にもいいやつはいるもんだ』だそうだ。
火車猫に惚れ込んだ鴉仲間にどうして猫なのかと聞いたことがある。
彼の答えは至極単純だった。
曰く、『惚れるのに種族の違いなんぞ関係ない』だそうだ。
(猫なんかのどこがいいんだろ…)
爪も牙も、鴉より大きな身体も気に入らない。
縄張りを主張してくるくせに気まぐれで自分勝手。
愛らしい見た目と鳴き声も気に入らない。
鴉より主人に愛されているような気がするからだ。
「……拗ねないで、空。こっちにいらっしゃい。……まったく、もう。私はちゃんとあなたのことも可愛がっているでしょう?
……あのね、燐のこと、もう少しよく見てごらんなさい。あの子、あなたのこと嫌っているわけじゃないのよ?」
さとりが火焔猫全体ではなく、燐を名指ししたのは、空が燐のみを気にしているからだ。
灼熱地獄に棲んでいた時代から、空の中で『猫といえば燐』の図式が出来上がっていた。
他の猫なら見分けがつかないので、無視するか忘れるかしてしまえる。
ただ燐だけは、他の猫とはどこか違って見えるせいで、空の中では悪目立ちする存在だった。
だが、どこが違うのだと聞かれても、空は答えられない。
あるいはこいしなら、空の無意識を探って答えを教えてくれるのかもしれないが。
* * *
いつもの木の根元。今日の燐の昼寝場所は熱風がよく通り抜ける、温かい芝生の上だった。
空は丸くなってじっとしている燐の背後で、地面をトコトコピョンピョンしながら近づいて、また離れてを繰り返していた。
別に燐を狩ろうとしている訳ではない。コミュニケーションを図りたいのだ。
主の言葉がきっかけで、空も気になって仕方がなかったモヤモヤをこれで解消できると考えたのだ。
黒いビロードのような毛皮が、呼吸で柔らかく膨らんだりしぼんだり、燐に緊張は見られない。
空が舞い降りた時の羽音や、芝生を踏む軽い音が耳に入っていないはずがないので、燐は空に気付いているだろう。
ぴんと立っていると危ないしっぽは、身体の下にしまわれていて、燐の感情はよくわからない。
ただ、警戒されていないのなら、攻撃されることもないだろうと思う。
一歩、二歩三歩と丸い背中に近づき、燐が頭をふいと横に向けるたびに一歩飛び退く。
ピョンピョンしているうちに、空はなんだか楽しくなってきていた。
(燐がこっち向く前に私が突っついたら、私の勝ちね。)
その日から、燐との一人遊びが始まった。
少し離れた場所から、燐の背後をウロウロウロウロ、歩いたり飛んだりしながら距離を縮めていく。
他の猫や鴉たちの邪魔が入ったら仕切りなおし。
すぐ背後まで近づいて、いざ、とくちばしを突き出してぱっと避けられたり、鳴き声で追い払われたり、
ふらふらと揺れるしっぽのおかげで近づくことが出来なかったり。
虫の居所が悪かったのか、あまりに鬱陶しかったのか、燐が剥きだした反撃の爪をひょいとかいくぐったりもした。
空が勝手に始めた一人遊びは、いつしか二人の遊びに変わっていった。
勝率は大体四割くらいか。空は記憶力に難があるので、あまり正確ではないのだが。
「フシャーーー!!」
「カーーーー!!」
今日も今日とて、地霊殿の中庭に鴉と猫の鳴き声が響く。
しっぽをぶんぶん振って空を払った燐が、臨戦態勢に入って低く唸る。
ばさっと飛び退った空も、負けじと身体を膨らませての威嚇の姿勢。
青い芝生に黒い羽と黒い毛が飛び散る喧嘩は、命の終わりが決着ではない。
お互いに致命的な場所や、大怪我をしそうな所は避けた攻撃をしている。
燐は爪をひっこめているし、空も目玉を狙ったりはしない。
空にとって、燐は喧嘩相手であり、ライバルであり、気になる猫であり、地霊殿のペット仲間になったから。
* * *
そんな日々を過ごすうちに、空が何もしなければ、燐に追っ払われることもなくなっていた。
空がツンツン突つくのが、燐の毛皮でなく、見つけた虫だったり、光る石だったなら、
燐はふらふらしっぽを振って、にゃおと一言鳴いて、空の隣でもうずくまったままでいてくれるようになっていた。
そんな燐を見るたびに、空はご主人様の言葉の正しさを思うのだ。
――あなたのこと嫌っているわけじゃないのよ?
自分も燐は嫌いじゃない。
毎回怒らせて喧嘩をするより、平穏無事に過ごした方が仲良く出来ることもわかっている。
空がいちいちちょっかいを出さなければ、燐との時間は穏やかで何事もなく過ぎていくだろう。
だが互いに言葉を交わせない以上、コミュニケーション手段は限られてくる。
何もしゃべらず、何もせずというのは、空の性に合わないのだ。
側にいるのに何もしないなんてつまらない。
空に人間の口があったなら、喧嘩をせずに一緒にいても、退屈したりはしないだろう。
空に人間の手があったなら、主のように燐を膝に抱いて、あの柔らかそうな身体を撫でることも出来ただろう。
しかし悲しいかな、空には鴉の言葉と、くちばしと翼しかないのだ。
あのしっぽの動きを読む以外、燐の考えを察する術はなく、あの綺麗な毛皮を突つく以外に、燐に触れる術はない。
主人が顔を綻ばせるような手触りも、体温も、言葉でさえも、何にもさっぱり分からない。
あまり頭の回る方ではない空には、上手く燐と仲良くする方法が浮かばなかった。
(早く妖怪になりたい。人に化けられる妖怪に。)
そうすれば、その時こそ、燐と友達になれるだろうから。
※ 2.
さとりのペットになった動物は、様々なものを喰らって妖怪化する。
燐も空も、ペット仲間が驚くほどのスピードで力を付けていった。
人化できない動物の中では力の強い二匹は、妖怪化するのも早かった。
地獄時代では手に負えなかった強力な怨霊も、地霊殿の付近では大人しくなる。
それを捕らえて喰らうのだ。
さとりは一応の食事は用意してくれるが、如何せん数が多いので端々までは手が回らない。
力の弱いもの以外は皆好きに狩りをして、好きに食事をしている。
強い怨霊を喰らい、灼熱地獄へ続く洞窟で狩りをして遊び、長い間を過ごすうちに、空はかなりの妖力を蓄えていった。
それでも、なぜだか燐の方が一足早く人化の術を身につけた。
後年、空がなんとなしに聞いた所によると、「あたいはあんたと違って努力家なのさ。」と返された。
* * *
燐が初めて人に化けたとき、空は側にいなかった。
けれど、地霊殿の中から感じる燐の気配が別のものに変わったのを感じて、文字通り飛んで駆けつけた。
薄く開いたドアに体当たりをして空が部屋に飛び込んだ時、
赤毛で三つ編みの少女――燐は、主の腕の中で目を閉じていた。
ソファに座っているさとりの膝に乗った頭、緑色のドレスから伸びる足、ゆるく曲げられた指、薄く開いたくちびる。
見た目が全く変わっていても、空には彼女が燐であると一目で分かった。
全く説明はつかないけれど、これは燐です、と目印が付いているかのように、やはり燐はどこか違って見えるのだ。
さとりは燐の髪に手を当てて、労わるような優しい目をして、燐が目覚めるのを待っていた。
燐に先を越されたことが悔しくないといえば嘘になるが、それ以上に楽しみだった。
しばらく前から燐のしっぽは二股になっていて、人化するのも時間の問題だと思っていたからだ。
「空。…もうすぐ目が覚めるわ。……ええ、多分、燐は酷く混乱するでしょうから、側にいてやって。」
言葉通り間もなく、ん、と燐が小さく呻き、きゅっとまぶたに力が入った直後、すぅっと瞳を開いた。
最初の一言は、言葉が詰まったのか息を飲んだだけ。
驚いたように目を見開き、眼球をゆっくりと上下左右に動かす。
怯えているのか、手足を小さくちぢこめて、頭についた猫耳もぺたりと垂れている。
さとりは落ち着かせるように燐の髪を撫で、肩を撫で、頬を手のひらで包んで言った。
「落ち着いて、燐。目がおかしくなったのではなくて、見え方が変わっただけだから、大丈夫。
これがわたしたちの見ている、世界の色よ。大丈夫、すぐに慣れるわ。」
「さ、とり…さま…?」
初めて聞く燐の声はひび割れていて、絞り出すように主の名前を呼んで、そうっと目元に指を当てていた。
猫の目は青と緑しか認識できないが、人に化けると人と同じ見え方になれるのだとさとりは言った。
何度も目をしばたいて、さとりに撫でられているうちに、燐は落ち着きを取り戻していく。
強張った表情がほぐれ、嬉しくて仕方ないと言いたげな笑みが顔中に広がる。
自分の手のひらを見て、顔を触って、身体を起こして全身を眺め回す燐を、空はテーブルの上から見守っていた。
燐はさとりの首に抱きついて、人型でなければ出来ない喜びを満喫している様子だった。
自分の口で主に語りかけ、主の手を握って、照れくさそうに微笑む。
蚊帳の外感に我慢が出来なくなった空がばさばさっと翼を羽ばたかせると、燐の人型の瞳がやっと空を捉えた。
「あ、おくう。」
おくう?
聞き間違いだろうかと空は首をかしげ、主を見やる。
すると主は、手を口元に当ててくすくすと笑っていた。
「あなたのことよ、空。『うつほ』の『そら』は『くう』とも読むの。……ええ、呼んだのはあなたが初めてよ、燐。」
「やった。ありがとうございます、さとり様。」
空が事情が掴めないと心で文句を言うと、主は説明してくれた。
燐が心の中で、空のことを『おくう』と呼んでいたこと、自分が最初に呼びたいからと、さとりに口止めをしていたこと。
「あたいのことはお燐って呼んでよね、おくう。」
愛称で呼ばれるのは初めてで、空はくすぐったい気分になりながらも了解の返事をした。
かぁ、と一声鳴きながら、自分も人の口で喋れたらどんなにいいだろうと思う。
自分は彼女を『お燐』と呼んで、話しかけてあげることができないのだ。
それでも、一方通行でも意思の疎通ができるのは嬉しかった。
「……言葉がなくてもあなたたちは通じ合っているんじゃないかしら。
……燐、あなたの皮肉は通じていませんよ?言葉の裏を考えない子ですから。
まったく、言葉は素直なのに、どうして心が素直じゃないのかしら。
妙にひねくれなくてもいいんですよ。挙句通じてないなら世話もない。」
「…はぁい、さとり様。」
意味が分からずまた首をかしげている空に、主は分からないならそれでいいのだと告げた。
さとりはそのままソファから立ち上がり、開きっぱなしのドアから外に出ようとする。
どこへ行くのかと心で問いかけると、すぐそばから返事がした。
ぐぅぅ、と鳴る燐の腹の虫。
燐は誤魔化すようにぱたぱたと手を振って、こほんと咳をしてからにんまりと笑った。
「とりあえずはあたいの勝ちだね。あたいのが早く化けれるようになった。」
悔しさを挑発で簡単に煽られた空は、いつものように燐の頭上からくちばしをお見舞いする。
長い腕をぎこちなく振り回して反撃する燐は、身体こそ違うが結局はいつもと同じ。
お粥の入った盆を持ったさとりが、呆れた笑みを浮かべながら部屋に戻ってくるまで、
二匹のじゃれあいはいつもどおり展開されていた。
* * *
「おくうー?おくうってばーーー!……もう、どこまで行っちゃったのさ…。」
灼熱地獄跡に続く、広く深い洞窟に、燐の声が響いた。
空はその声を聞きながら、岩陰で見つけた、食いでのありそうな怨霊を追い掛け回していた。
ずいぶんすばしこい奴で、岩のホールを抜けてさらに深く潜った所で、やっとそいつを捕まえて喰らうことに成功した。
ここ最近、空は下手をしたら腹を下すような怨霊や、よくわからない魑魅魍魎を手当たりしだいに食い漁っていた。
燐に先を越されたこともあり、とにかく早く、もっと強い力を身につけたかったのだ。
燐が二股しっぽの化け猫になった頃には、空だって地獄鴉の妖怪には成っていた。
妖力も他の鴉仲間よりはずっと高いはずだ。
しかし要領が悪いのか、不器用なのか、何なのか。空は人型に化けることができないでいた。
こうして悪食を繰り返しているのだが、力は強くなっても相変わらず成果は上がらない。
(ごちそうさま…っと、ここまで来るのは久しぶりだなぁ…。)
暴れる怨霊を飲み込んで、一息ついてから見回すと、空はずいぶん深く降りてきていたことに気が付いた。
灼熱地獄の底は見えないけれど、もうしばらく降りていけば着くであろうことは、感じる熱気で推測できる。
地霊殿よりも熱くて快適な空気が懐かしく感じるほど、ここには来ていなかった。
「あ、見つけたよおくう!あたいを置いてくなんてひどいじゃない!」
と、燐の声と共に周りの空気がかき乱され、空は燐の腕の中に抱きかかえられていた。
顔を上げると、膨れた顔の燐がアップで飛び込んでくる。
額を突ついてやろうかと思ったが、自分を探しに来てくれた猫の、白くて滑らかな肌を傷つけるのは忍びない。
とりあえず目の前で垂れていた赤いおさげをくちばしで咥えると、
「誤魔化したって可愛くないよおくう!今日はあたいと遊ぶって約束したじゃん。まさか忘れたんじゃないだろうね。」
と、しっぽを逆立てて怒られた。
何でも忘れやすい性質とはいえ、別に燐との約束を忘れていた訳ではない。
怨霊に気を取られてすっぽ抜けていただけであって、忘れた訳では断じてないのだ。
伝えようと、翼をばっさばっさと羽ばたかせて、短く鳴く。
燐は意外と独占欲が強くて寂しがりなのだと、燐が人化して、言葉を聞いて初めて知った。
ついでに言うと、中々の世話焼き気質でなんだか猫らしくない。
今までは、もっぱら空の方が燐にまとわりついていたので気付かなかったのだ。
最近は空が狩りに出かけると、ほぼ確実に燐がついて来る。心配性なのかもしれないが。
でも、その束縛が、なんだかやけに嬉しく感じるのだ。
猫だから、鴉だから、相性が悪いから、敵だからと嫌っていたのはもはや昔の話だ。
灼熱地獄時代や、さとりに飼われ始めた頃の空が今の空を見たら、間違いなく突つき回されるだろう。
――猫なんかのどこがいいんだろ…
あの頃の自分に言って聞かせてやりたいと思う。
こんなに沢山あるじゃないかと、一晩中だって語ってやりたいと思う。
綺麗な光沢がある、つやつやの毛並みがいい。
甘えるように、にゃぅと鳴く、あの可愛らしい声がいい。
空にも分かりやすく感情を示してくれる、しっぽの動きが面白くていい。
機敏に駆ける姿勢の、すらりとした感じが格好良くていい。
じゃれるとき、空が潰れないように、怪我をしないようにしてくれる優しさがいい。
きらきらと、時々にやにやと笑う、眩しい、可愛い笑顔がいい。
何より、自分を「おくう」と呼んでくれる、その声がいい。
それから、それからもっと、もっと沢山。
空が覚えきれないくらい、溢れるくらい沢山ある、燐のいいところ。
――あのね、燐のこと、もう少しよく見てごらんなさい。
あの時そう言ってくれたご主人様に、心の底から感謝をする。
でなければ、こんなに燐を知れなかった。
ただの宿敵ではない、大切な仲間を知ることが出来た。
燐の腕に身体を摺り寄せて、空は生まれて間もないヒナ鳥並みの、ふわふわした思考に埋もれていた。
適度な運動の後、しかも食後で、熱く快適な空気と、温かい腕の中。
これを幸福と呼ばずになんというだろう。
自分を抱いてくれている燐を抱きしめて、「お燐」と呼べたなら、もっと幸福だろうと思った。
+ + +
なにやらすっかりくつろいでいる空を抱えた燐は、一人で退屈していた。
正確には、せっかく二人でいるのに退屈していた。
最近空は、あまり燐と遊んでくれない。すぐにどこかへ遊びに行ってしまうのだ。
燐が猫の姿しかとれなかった頃は、鬱陶しいくらいにまとわりついて来たというのに、この変化は何だ。
このまま空に寝られたりしたら、また一緒に遊べないじゃないか。
昨日も一昨日もその前も遊べなかったのに。
(なによぅ。あたいはもういらないって訳かいおくう。)
気に入らなくて、瞼を閉じている空の羽毛をわしゃわしゃと撫でてやる。
驚いて空がばさばさと飛び上がるけれど、謝ってはやらない。
プライドの高い猫を放ったらかして眠ろうとする空が悪いのだ。
「遊ぼ、おくう!ほらほらゴハン食べたら運動しなくちゃね!」
怒った空におさげを乱されながら、空を捕まえようと手を伸ばす。
まだ人の身体に慣れていなくて、簡単には捕らえられない。
ちくちく突ついてくるくちばしと爪がこそばゆい。じゃれ合いが楽しくて、嬉しくて仕方ない。
燐の笑い声と空の鳴き声が、風が吹き抜ける静かな洞窟に反響した。
* * *
言ってしまえば、迂闊だったの一言に尽きるだろう。
切り離された直後の灼熱地獄跡は、喰い合い殺し合いの渦巻く蠱毒(コドク)の壷だった。
燐も空も途中で抜けたが、残っているものはまだまだいた。
残った強者たちを屠って生き残った王者――蠱(コ)は、強い強い妖怪になっていて当然なのだ。
最初に昔の棲み家に行ってみようかと行動を起こしたのは、どちらだったかはもう忘れてしまった。
燐が声をかけたのかもしれないし、空がはしゃいで飛び出したのかもしれない。
どちらにしろ、記憶のおぼろげな空が燐の後ろについて飛んでいて、
敵が空の背後から現れたのだから、気付かなかった空の失態であることに変わりはないのだ。
「おくうッ!おくう大丈夫!?」
炎の海に林立する岩の向こうから、燐の必死な声が届いた。
地霊殿の柱ほどもある蠱毒の腕の一振りで、空と燐は完全に分断されてしまっていた。
空には燐の無事を知る術がなかったが、これだけ叫べるならきっと無事でいてくれているのだろう。
答えようと吐き出した息は、途中で遮られるハメになった。
ぶぅんと振られた蠱毒の尾が、空を掠めて岩を叩き割る。空を呼ぶ燐の悲鳴が聞こえる。
弾き飛ばされた空はなんとか空中で踏みとどまり、一声鳴いて無事を伝えると、改めて蠱毒の姿を睨みつけた。
地底のどの獣よりも大きい身体は、どの獣にも似ていない。
バラバラのパーツを寄せ集めたような歪な形は、噂に聞く妖怪鵺のように禍々しい。
強い妖怪なら持っていて然るべき知性が感じられないのは、燐によると怨霊に憑かれているからだという。
あまり利かない鼻にも感じるほどの強烈な血臭と、体毛が焼け焦げる臭い。
身体自体が燃えているのか、炎をまとっているだけなのか、ねじくれた身体の所々が炎を噴き上げている。
恨みと憎しみに燃えるガラス玉のような瞳が、呪い殺そうとしているような視線を投げつけてくる。
売られた喧嘩で勝てそうなものなら遠慮なく買う。
負けると分かっている相手とはやり合わない。
地獄で生き残るためには、勝てない喧嘩はしないのが鉄則。地獄時代に遵守した、空の信条。
明らかに後者である蠱毒の前では、とにかく燐と一緒に、一目散に逃げるしかない。
捕まったら死ぬ。殺される。久しく忘れていた危機感が、空の中に広がっていく。
血走った蠱毒の瞳が空に向けられ、臓物の臭いがする息を撒き散らしながら吼える。
それだけですくみ上がるほどか弱くはないが、どうしようもないほどに本能が警鐘を鳴らす。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、と。
早く燐と合流しなくてはと、迫る蠱毒の腕を全速力でかわして、燐の声がした岩の裏へ飛び込んだ。
「よかった、無事だったんだねおくう。」
そういう燐は無事ではなかった。
岩の陰にしゃがみこんで、笑顔を見せているが、ぎこちないのがすぐに分かる。
左足が切り裂かれていて、赤い血がさとりにもらったリボンを濡らしているのが見えた。
蠱毒の爪にやられたのだろう。奴がまとった炎は地獄の火よりも弱いらしく、火傷は見られない。
けれど、どくどくと溢れる赤い血が、決して浅い傷ではないと知らせていた。
「っ痛ー…さとり様にもらったもんだってのにさ…あーあ。」
燐が足に巻いたリボンを外し、包帯代わりに傷口に巻いていく。
髪を結っていたリボンも解いて、ぎりぎりと縛って止血をする。
「ははは、あたいとしたことがね。やっちゃった。」
違う。かわす時に空を庇ったからだ。
謝りたい、礼を言いたい、励ましたい、鼓舞し合って、早くあいつから逃げたい。
どれも、今の空には出来ないことだった。
燐は空中に浮けるし、飛べる。足が傷ついても逃げられる。
だが、あの蠱毒の攻撃をかわしながらだと、難しいのではと思った。
燐が全速力で飛んでも、鬼火を足場にした跳躍の速度には敵わない。
猫の状態になっても、人型のほうが力が強いらしいので大したアドバンテージにならないだろう。
精々攻撃が当たりにくくなるくらいか。それでも当たった時の衝撃は何倍も強くなるから帳消しになる。
「おくう、さとり様に知らせに行ってくれるかい?」
燐を置いて、空一人で。言外に燐はそう言っていた。
ここに燐一人を置き去りにして行ける訳がないじゃないか。
憤慨した空は、翼をばさばさやって、燐の肩をどすっと突いた。
燐が逃げられないなら、自分が囮になればいい。
蠱毒を引きつけているうちに、燐が飛んで逃げればいいのだ。
作戦を伝える術はないが、燐ならきっと分かってくれるだろう。
ぐずぐずしている暇はなかった。
空は燐の目の前を三回ほどくるくると円を描いて飛ぶと、一直線に蠱毒に向かっていった。
「おくう!ダメだよおくう!戻りな!!」
がーがーと、大声で鳴きながら蠱毒の前へ躍り出る。
臓物と血の臭いがする息が吹きかけられ、真っ赤な目が空を捉えた。
すかさずに振り下ろされる腕と、すぐそばを通り過ぎる熱風と炎。
小さい身体で蠱毒の周りを飛び回りながら、空は敵の気が自分から逸れないように、
燐がいる岩陰と反対の方向へと誘導していく。
理性を失っているせいか、怨霊の狂気に取り憑かれた蠱毒の攻撃は単調で、小さな空ならギリギリかわせる。
燐が音もなく浮き上がって、そろりそろりと蠱毒から離れていくのが見える。
(よし、このままもうちょっと行けば…)
ウウウゥォォォオオオオオオオオオオァァァアアアッ!!!!!
突然、大音声で蠱毒が吼えた。
真っ赤に血走った目を見開き、でたらめに振り回した腕と尾が、それぞれ燐と空の身体を打ちのめした。
どん、めき、と、危険な音が空の身体に響く。死が脳裏に閃く。それでも、意識は失わなかった。
目を開くと、最悪の光景が飛び込んでくる。
地面に倒れ伏した燐と、それに向かって腕を振り上げる蠱毒。
空が人に化けられたなら、燐を抱えて飛ぶことも出来ただろう。
空が人に化けられたなら、燐を庇って攻撃を受けることも出来ただろう。
空が人に、化けられたなら。
ああ、今出来なくて一体何になるのだ?
燐が殺されたら、一緒に遊ぶことも出来ない。
話せないし、抱きしめられないし、毛皮の感触だって確かめられない。
口喧嘩も出来ないし、『お燐』と呼んであげられない。
まだ何にもしていないのに、もう何にも出来なくなる。
冗談じゃない。
冗談じゃない、冗談じゃない!
今やらなくて、一体全体何になる!?
燐を失う訳にはいかない。燐を助けなくてはいけない。燐を、守らないといけない!
腹の底から、胸の奥から、魂が焼けるような、頭が真っ白になるほどの力が、空の中から溢れ出る。
喉から叫び声が迸る。
鴉の声から、人の声へ。
長く長く、絶叫であり産声である叫びが、灼熱地獄跡に響く。
蠱毒が動きを止めて、空の方を振り向いた。
猛る力を推進力へ変えて、獣さながらに吼えながら、空は全力で地面を蹴った。
+ + +
飛びそうになる意識を引き戻したのは、初めて聞く声だった。
誰、とは思わなかった。これは、きっと、空の声。
力は強いくせに不器用な、あの地獄鴉の叫び声だ。
喉を壊してしまいそうなほどの咆哮が途切れ、もう一度、空が叫んだ。
「おりーーーーーーーーーーーん!!!」
(あ、ちゃんと呼んでくれてる。)
死に瀕しているというのに、空の声を聞いた燐は、暢気にもそんなことを考えていた。
朦朧とした意識を繋ぎとめる、力強い声。燐を呼ぶ声。
炎の壁を突き破って現れたのは、長い髪に白いシャツに緑のスカートの、翼を生やした女の子――空だ。
きっ、と真剣な眼差しの空と目が合って、次の瞬間には、燐は空の腕に抱きかかえられていた。
「お燐、首、つかまってて。」
横抱きにされた燐が空の首に腕を回すと、だん、と踏み切り音が響き、即座に身体が浮き上がる。
大きな翼を広げた空は、蠱毒の尾をひらひらとかわすと、ぐんぐん高度を上げた。
投げつけられる岩をかわし、炎を突っ切り、蠱毒の攻撃範囲から離れていく。
「ありがと、おくう。」
「うん。」
本当に、心底嬉しかった。同時に心底安心した。
このまま空が人型になれなかったとしたら、それはずいぶん寂しいだろうと思ったこともあったのだ。
自分一人だけが空とは離れた、遠い場所まで来てしまったような、そんな不安もあったのだ。
それが、まさか自分の危機を救うために変化してくれるなんて。
力量的に問題なかったはずの空が化けられなかった原因は、ただもう一押しの切欠がなかった、それだけだろう。
蠱毒に立ち向かうことと、友達の危機が、良い切欠になっただけなのだろう。
自分以外の誰かの危機であっても、空は変化して駆けつけたかもしれない。
理性では分かるが、それでも嬉しいものは嬉しい。自然、口元も緩むというものだ。
まだ蠱毒の追撃があるかもしれないこの状況。
それでも燐は、すっかりいつもの精神状態に戻っていることに気がついた。
恐怖も危機感も、きれいさっぱり消え去って、空の腕の中の心地よさに目を細める。
余裕がないのか、無口な性質なのか、空はあれきり黙ったままだ。
上空を見据えて飛び続ける空の肩口に顔を埋めて、燐は思わず微笑んだ。
自分の相棒は、思った以上に頼もしい。
* * *
昔、空がねぐらにしていた洞窟は、今も大口を開けて空たちを迎え入れてくれた。
鴉の時よりずっと利くようになった鼻が、懐かしい匂いを吸い込んで、空の身体から緊張が抜けていく。
「ここなら多分、大丈夫だよ。」
黒い抜け羽が散らばる中に燐を降ろして、その身体をぎゅうっと抱きしめる。
柔らかくて温かい、燐の身体。生きている、燐の心臓の音。
とても一言で言い表せないような感情が、空の中に溢れていた。
生きている、逃げられた、抱きしめられる、怖かった、名前を呼べた、助けられた、よかった。よかった。よかった。
溢れる気持ちは、そのまま涙になってぼろぼろと空の頬を流れていく。
「…っく、ッ、……ぃん……っう、…ぉりんッ…っ……ぅぅ…」
「……あんたがそんなに泣き虫だったなんて、思わなかったよ。」
ぎゅうぎゅうと力を込めて、燐の肩口に顔を押し付けて泣きじゃくる空の背中を、燐はゆっくりと撫でてくれた。
温かい手のひらの感触に安心して、涙が止まらない。
戦闘で熱くなっていた頭が、別の方向に熱くなる。
「ほら、もう大丈夫だからさ。…そんなに怖かった?」
怖かった。心底、死ぬほど怖かった。
燐を失ったかもしれないと思うと、底抜けの恐怖に突き落とされる。
こんな恐怖は、地獄の底でだって感じたことはなかったのに。
「っ、こわ、かった……うっ、く、…ッ……お燐…ッ、死んじゃうかと…思っ、ッぅ…………」
牙も爪も炎も、血走った目も、のたくる尾も、燐を失う恐怖に比べればなんてことないものだった。
抱きしめる燐の感触が、優しい手が、声が、鼓動が、温もりが、これほど必要なものだったなんて。
燐が、燐こそが、絶対に失いたくない、絶対に守りたい、大切な、大切な――。
* * *
地霊殿に戻ってさとりの手当てを受けている間、空は燐の手を離そうとしなかった。
複雑に動かせるようになった指を絡めて手を繋いでいると、さとりの膝の上に匹敵する程、安心できたからだ。
きっと燐も同じように思ってくれているだろうという想像は、間違ってはいなかったらしい。
さとりは空を注意しなかったし、空を見て優しく微笑んでくれたから。
燐は体力の限界に来たのか、傷口の縫合が終わって包帯が巻かれる頃には、まぶたが落ちかかっていた。
毛足の長いカーペットの上に敷かれた真っ白なシーツの上に、ほとんど寝そべった状態で、腕に顔を半分埋めている。
簡易の治療場になったそこは燐と空の血で汚れていたけれど、肌触りがとてもよかったせいもあるだろう。
さとりの手がそっと燐の頭を撫でて、燐は緩慢なまばたきを繰り返した。
「ん、にゃ…さとり…さま……おくー……」
「はい、おやすみなさい、燐。よくがんばりましたね。」
「お燐、おやすみ。」
「……ん………」
ぴくんと耳を揺らして寝息を立てる燐の顔はいつもよりも幼くて、どこか脆く見える。
人に化けた自分の身体はさとりやこいしより、燐よりも大きくて、だからそう感じるのだろうか。
投げ出された、包帯に包まれた足の細さや、しなやかな首の頼りなさ、繋いだ手のひらの小ささ。
(まぁ、脆さ儚さで言ったらさとり様やこいし様の方が上な気がするけど…。)
「聞こえていますよ空。…まぁいいです。もう少ししたら燐をベッドに運んであげて?……今すぐは起きてしまうから。」
「はい、わかりました。」
「あなたも、本当によくがんばりました。燐を助けてくれてありがとう、空。」
さとりの手のひらが、空の頭を優しく撫でる。
鴉の時とは違った手の重みが、少しくすぐったいような感触が、心地いい。
空はぺたりと座り込んだまま、さとりを見上げて口を開いた。
話さなくても伝わるのは十分承知だが、せっかく話せるようになったのだから、自分の声で話したかった。
「さとり様、私、上手に化けれていますか?」
「まだ鏡を見ていないのね。…ええ、すらっとしていて、とても素敵よ。」
「本当ですか?…よかった。」
「それにしても、ずいぶん大きくなったわね。……ああ、いけないんじゃないわ。素敵だって言ったでしょう?」
「えと、私、とにかくお燐を助けたくて、夢中だったので…」
どうして自分が化けられたのかも、自分がどう化けたいと思ったのかも分からない。
助けたい、守りたいと、脳が焼けるほどに強く願ったことは覚えている。
でも、化ける瞬間のことは真っ白で、記憶に残っていなかった。
「……燐のため、ね。」
「はい。大事な、ともだちですから。」
眠る燐の手を握る手に、きゅっと力を入れて、無垢な寝顔に目を向ける。
燐の側にいるだけで、胸が熱くて、温かくて、幸せな気持ちになる。
それは以前からそうだった思うけれど、前よりももっと、素直にそう思えた。
ずっと燐のそばにいたい。
この気持ちを、一体何と言ったらいいのだろうか。『好き』では足りない気がしてならないのだ。
灼熱地獄の昔のねぐらで、燐に抱きついて泣いてしまった時の気持ちが蘇ってくる。
「……それは、『愛しい』というんですよ、空。」
「――愛しい。」
口に出して言ってみると、その言葉ははすとんと空の中に落ち着いた。
握った手とは反対の手で、燐の頬を撫でてみる。
(お燐は、私の――愛しい、人。)
確かめるように胸中で呟くと、えもいわれぬ幸福感が空の心いっぱいに広がった。
自然と頬がゆるんで、にやけているのが自分でも分かる。
嬉しさに思わず翼を広げかけ、燐が眠っているのだからと思い直して、羽ばたきたくなる衝動を我慢する。
指を伸ばし、さらりと燐の猫耳を撫でて顔を上げると、主は少し頬を染めていた。
「……もう、あんまりに熱くて妬けてしまうわ。」
ここはそんなに熱くないはずだけど、と空が首を傾げると、さとりは笑って空の髪を撫でた。
熱いのはあなたの心だと言うさとりの顔は、幼いヒナを見守る親鳥のように優しかった。
* * *
蠱毒はその日のうちに退治された。
空と燐が寝入ってから、また目覚めるまでの間にカタがついたのだという。
主が呼んだ一本角の鬼が一人で地獄跡へ向かって、しばらくして満足顔で帰ってきて、それで終わってしまったらしい。
あまりにあっけないものだった。
時折たずねて来ては地霊殿のエントランスで主と話す鬼を見かけるたび、空は思った。
自分にも、鬼ほどの力があったなら、あの時燐に怪我をさせるようなことにはならなかったのに。
力が、欲しいと思った。もっと強くなりたいと思った。
大切な人たちを、愛しい人を守りきれるだけの力と、強さが欲しい。
空は一つの誓いを立てた。
※ 4.
灼熱地獄の管理を任されるようになり、地獄鴉の中で一番強くなっても、空の誓いが果たされることはなかった。
どれだけ時間がかかるかは分からない。どれだけ時間がかかったのかも分からない。
けれど、その誓いはどれだけ時が流れようとも、空の記憶から消えることはなかった。
――いつか、自分がどんなものからでも燐を守りきれるだけの強さを身につけたら、この気持ちを伝えよう。
おしまい
面白かったです
これは良い燐と空の馴れ初め話。しっかり練られており、よく考えてあるなと思います。
ただ、最後の方がややあっさり気味に終わったので、もう少しだけ付け加えてくれたら個人的には良かったかも。
おりんくう?最高じゃないですか。
話もよく練られており違和感も殆ど感じずスラスラ読めました、次も期待させて頂きます
おりんくうだいすき
でも怪しいリンクはホイホイ押しちゃらめえぇぇ!
よいお話をありがとうございました。
あとがきがーww