頬に大きな傷を持った一人の男が木製の机に向かって作業をしている。狭い部屋だが、天井から吊り下がる裸電球は机上を照らすのに精一杯で部屋の隅まで光は行き届いていない。そのせいでいっそう窮屈なイメージだ。石造りの壁には陶器製の手、足、胴体、頭、様々なパーツが掛けられている。どれも幼い少女のものだ。床には削られた粘土の粉が、机の上にも乾いた粘土がこびりついている。
机の上で男は少女の顔を作っていた。手つきは熟練していて危なげが無い。しかしその表情は険しく、見ようによっては怒っているようにも見える。
突然、男がアイ・ホールを削っていた手を止め後ろを振り返った。荒い息で暗闇を凝視する。手に握ったやすりが小刻みに震え、額には玉の汗が浮かんでいる。
だんっ
空気を震わせ、やすりが机の上に斜めに突き立った。男は暗闇に背を向け、両手で頭を抱え込み、机の上に突っ伏した。
見渡す限りの鈴蘭畑。風と共に白い波がざわりと押し寄せ、甘ったるい毒を撒き散らして遥か彼方へと流れていく。空は重く垂れ込める鈍色の曇天。今にも降りだしそうだ。
誰も居ない鈴蘭畑。鳥はおろか虫の声すら聞こえない。ただざわざわとこの土地を支配する毒草の囁きだけが広い広い空間を埋め尽くしている。
白磁の肌。金糸の髪。硝子の眼。
孤独で排他的なこの場所に、ソレはひっそりと佇んでいた。
視界は毒で紫色に霞んでいる。このままではきっと瞳にも紫のもやが染み込んでしまう。それでは特注のグラス・アイが台無しだ。早くこんな場所から出ていきたい。しかし私の持ち主はよほどここが気に入ったようでなかなか動こうとしないのだ。私を膝の上に乗せ、両の腕でぎゅっと私を抱きしめたまま。服だって随分と汚れてほつれて古びて朽ちて、スカートの裾に施されていた薔薇の刺繍なんかはどんなに腕の良い考古学者でも判別する事ができないだろう。
鼻の頭に水滴が落ちてきた。「泣いているの?」「雨よ」心の中で問いかけてすぐに打ち消す。そういえば昔はよくこうやって私を抱きしめたままベッドの中で泣いていたけど、このお花畑に来てからは彼女の涙に服を濡らされた事がない。
昔を思い出している内に雨足は段々と強くなってきた。ぽつぽつからしとしと。しとしとからざあざあと。ああ、まただ。早く屋根のある場所へ行かないと体がダメになってしまう。彼女はきっと平気だけど、私の体はぐずぐずに溶けて土に還ってしまうのではないか。そうなれば悲しい。「そろそろお家に戻ろう?」これまでに何千回、今日だけで何百回同じ事を問いかけただろう。これまでの何千回、今日の何百回と同様に彼女は無言を貫いている。「はあ」と私は大きな溜め息を吐いた。実際はついた気分だけだけど……。いくら退屈でも、辛くても、持ち主と同じ時間を共有しなくちゃいけない。これが人形の運命。彼女が満足するまでここで彼女を慰めるとしよう。そしてお家に帰ったら素敵なドレスに着替えさせてもらって、また柔らかなベッドの上でつまらない愚痴を聞こう。
抜けるような晴天。でもここは紫の霧が日光をぼかしているから花曇。そう、まさに花曇だ。私は心の中でくすくすと笑った。この言葉を彼女に伝えられないのが残念だ。
自分で動く事のできない人形は、何もしないで退屈をやり過ごす事に長けている。背中に持ち主を感じ、目に映る物から想像を膨らませ、人間よりも遥かに簡単に不思議の国が作れるのだ。特にこの鈴蘭畑に来てからは空想癖に拍車がかかった気がする。この甘い匂いのせいだろうか。それともこの紫がかった視界のせいだろうか。何にせよ、この花畑の空気は人形に合っている。
滲んで大きさ三割増の太陽を何かが遮った。鳥?いや、鳥にしては大きすぎるし、シルエットもおかしい。おかしな何かはくるくると上空を旋回してから二メートルほど前方、私と彼女の前に着陸した。
やっぱり鳥じゃなかった。人みたいな……鳥みたいな……。
「なんだ。人間じゃないのかぁ」
鳥人間はがっかりしたように呟くと背中を向けてまた飛び去る素振りを見せた。
私は焦る。ここに来てから初めての人間に似た生き物。……このさい人型なら何でもいい。彼女もこれとお話しをすればお屋敷に帰る気になるかもしれない。何とか引き止めなくては。
「待って!」
……声が出たような気がした。出たような気がした。
訝しげに振り返る鳥人間。まじまじと彼女を見つめて、頭を振ると大きな羽を広げて今度こそ飛び去ってしまった。
毒霧の中を飛んでいく背中はすぐに視界から外れてしまった。
風が吹く。
鈴蘭が揺れる。
日がかげる。
すうっと頭上を大きな影が通り過ぎ、再び鳥人間が目の前に降り立った。
「こんな所にこんなに可愛い観客がいるなんて知らなかったわ」
どうやらさっきここに来たことはすっかり忘れてしまっているらしい。やっぱり鳥の頭は悪いんだ。
「ちょっと待ってね」
そう言うと鳥人間は喉に手を当てて、柔らかく、よく伸びる高音を出した。一定の間隔で音を上げ、暫く上げ続けたかと思えば段々と下げていく。発声練習なのだろう。その声は歌声、と言うより何かしらの楽器のようだ。それも今まで聞いた事の無い。弦楽器のような、笛のような、生き物をそのまま楽器に改造したような不思議な音。心なしか周囲の花びらが艶やかになった気がする。そして私自身もどこか体の奥の方で何かが渦巻くような、不思議な感覚に陥る。よく分からないけど気分も盛り上がってきた。これなら彼女も気が晴れるだろう。
「それでは、人間のおみそにはちょっとだけつらい、ミスティア・ローレライのソロコンサートをお楽しみ下さい」
長い調律の後、不思議な声の鳥は私を真っ直ぐに見据えてそう言った。
――
ひとしきり歌ってから、鳥人間はやって来た方角とは反対側へと飛んで行った。今までに彼女と一緒に聞いたどんな歌い手の歌より素晴らしかった。歌の前に聞いた声だけでもそうだったが、メロディが付き、リズムが付き、『歌』になった彼女の声は何かこう……ああ言葉に出来ない。冷めない興奮で体の内側から破裂してしまいそうだ。
……私と違って彼女は何も感じなかったようだ。前と同じようにじっと押し黙ったまま身動き一つし
ない。私はふう、と溜め息を吐いた。吐息の中にまで毒が混じっているようで不愉快だ。
変わらない景色。薄い紫色の瘴気に覆われた綺麗なお花畑。彼女はまだ動かない。人間の気はいつからこんなに長くなったのだろうか。
明るくなって暗くなって明るくなって……。曇り空の下、二週間ぶりくらいの鈴蘭以外だ。
どこからかやって来た金髪の少女はきょろきょろと辺りを見回し、私と彼女を見つけると鈴蘭の花を蹴散らしながら駆け寄ってきた。
「ねえ聞いて?」
目の前にしゃがみ込み、少女は口を開いた。背中から生えた木の枝のような羽を飾り付ける、色とりどりの水晶がしゃらりしゃらりと揺れる。
「お姉様ったらまた私に半分しかくれなかったのよ」
服とおそろいの赤い瞳が真っ直ぐに私を見つめる。ルビーみたいだ。……綺麗。
「お紅茶だってケーキだってお友達だって、いつも半分だけよ。今日だって私、もっといっぱい食べたかったのに咲夜がね……」
少女の両手が地面の鈴蘭を機械のように毟っている。本人は意識していないのだろう。ちぎれた花や茎が散らばる。周囲の毒気がよりいっそう増した気がする。
「……だから今日は出てきたわ。パチェもお姉様もなんであんなに丈夫なのかしら……」
足元から鈴蘭がなくなってしまっても細い指は土をえぐっている。白く小さな手の甲に、力を入れるたび筋が浮かぶ。それがなにかひどく恐ろしいものに見えた。
「……でも私は強いのよ? ほら、ここ、見える?」
おもむろに少女が土と鈴蘭の汁に塗れた手のひらを私に突きつける。草と土と、甘い毒の匂い。
「ここにね、『目』があるの。お姉様のも咲夜のもパチェのも美鈴のも、あなたのもよ」
そう言って少女は手を握っては開いてを繰り返す。
「私は何でも壊せるわ。……そう、何でも壊せるの! あなただってお姉さまだってバラバラよ!」
体が傾く。右腕を掴まれて乱暴に持ち上げられた。ただぶらぶらと揺れる事しかできない私に向かって少女は喋り続ける。
「壊せるけど、壊しちゃったら仕返しにならないわ。仕返しをするなら、今度は私がお姉様から半分を奪えばいいのよ!お姉様に見つかる前に、あなたを半分――」
少女はゆっくりと私の体に手をかけ……、
「貰っていくわ」
ごきり
太いつららが折れるような音がして、私の体は地面に投げ捨てられた。
曇り空を背景に私を見下ろす気の狂った少女。その左手に細い何かが握られている……ああ、私の手だ。肩から先。気がつくのに時間がかかった。考えてみれば自分の姿をまじまじと見たことは無かったな。ガラスの眼は動かないもの。
「ああすっきりした。お姉様によろしくね」
固く冷たい物が仰向けに倒れる私の上に投げ捨てられた。もう私に興味はないらしい。
右腕を抱えたまま私は夜を迎えた。彼女はまだ動かない。星は出ていない。背中に彼女は感じられない。月も見えない。眼窩に夜露が溜まり、溢れて頬をつたった。初めてのことだった。
……もう彼女は帰ってしまったのではないか。私を置いてお家に戻ってしまったのではないか。地面に横たわったまま何百度目かの不安を思い浮かべる。いや、まだ彼女は座っている。この場所が好きだから、ここから動くはずが無い。何百度目かの希望で打ち消してみる。おかしな話だが、『喪失感』で体がいっぱいだ。曇天に固定された私の瞳に蝶がとまった。
「こんばんわ。お嬢さん」
珍しく三日月の輝く夜に、足元から声が聞こえた。視線を送る。瘴気よりももっと濃い雰囲気。奇妙な形の傘を差した女性が立っていた。私は視線をまた夜空へと戻した。霞の向こうで小さく星が瞬いている。
「あら?どこを見ているのかしら」
視界いっぱいに女の人の顔が広がる。いつか彼女と一緒に読んだアリスの絵本に出てきたチェシャ猫のような不気味な笑顔だ。
「あなたの仕事は愛される事でしょう?」
覗き込んだまま女の人が言った。なにやらとても不快だ。綺麗な声なのだが、体の内側をざらざらと撫でるような気味の悪さがある。
体の下に手を回され、彼女にそうされていたように、取れた腕ごと私は抱きかかえられた。途端、私の背中を冷たい物が走った。
肩から腕がもぎ取られた時の鈍い衝撃。
自分の腕を持ち笑う少女を見上げた絶望感。
逃げなくちゃ。
女の人の腕から私は転がり落ちた。しかし、浮遊感のあと、私は地面ではなく再び女の人の腕の中へと落ちたのだ。わけがわからない。
「うふふふ」
私を抱いたまま女の人は悠然と歩を進める。毒が纏わりついては離れ、また纏わりつく。
「さあ、ここでしょう?」
紫がかった暗闇の中に浮かぶ彼女の背中。私とおそろいの金髪もすっかり色褪せてしまってみすぼらしい。風に吹かれてぼろぼろのドレスが揺れる。……見たくない。見ていたくない。何かが体の奥底から湧き上がってきた。
一際強い風が吹いた。
ぐらり
彼女の体が傾き、仰向けに倒れた。ドレスからはみ出る不自然に曲がった手足、球体関節。広がったブロンドの中に真白い逆さまの顔が浮かぶ。その硝子の眼と私の眼が交差する。
私は大きく息を吸い込んだ。体に毒が満ちる。甘い。甘い。ジンと頭の中が痺れて何も分からなくなる。目の前のソレは紫の霞に包まれて彼女に戻る。夜だもの。彼女が横になって眠るのはいつもの事……。
「これでも貴女は夢を見るのかしら?」
女性の言葉と共に私の中で何かがずれた。鈴蘭の毒が晴れ、彼女の青い眼が生気の無い、冷たいガラス玉に戻っていく。
私は毒を吸う。深く。
しかしおかしい。
グラス・アイを侵食する毒はすぐに消え、よりいっそう鮮明にソレを映す。
私はまた慌てて毒を吸い込む。さっきよりも深く多く。
それでも視界の紫はだんだん薄くなる。
口を大きく開けた。
必死に毒を取り込む。
体が毒で満ちれば満ちるほどソレは彼女の姿から離れていく。
……ここから毒が漏れているのだ。
残った左腕を動かす。自分の意思で。関節がぎしぎしと音を立てた。
私は膝の上の右腕を掴み、自分の肩に空いた穴へと押し付けた。小さな破片が散らばるが気にならない。勢い余って女の人の腕から滑り落ちた。地面にぶつかる衝撃がお腹から背中へ駆け抜ける。砕けた私の体が夜空に散らばった。関係ない。そんなことより毒を溜めなければ。私の存在意義がなくなってしまう。人に愛される事が人形の仕事、存在理由。彼女が人でないなら、この鈴蘭畑で共に過ごした彼女が人でないのなら、私は誰からの愛情を受けていた? 私はいつから存在していない?
ある晴れた日、人形を抱えた男が鈴蘭畑を訪れた。毒草たちは突然の来客にも動じることなく静かに揺れて、毒を振り撒いている。
鈴蘭畑のちょうど中心で、男は人形を下ろした。長い金髪、緑の眼、真白いドレス。今は亡き最愛の人に似せたビスク・ドールの頬を愛おしそうに撫でた後、男は視線を下に遣った。
地面に座り込む人形の、その腕に抱かれた小さな人形。赤いリボン、黒いドレス、青い眼。処女作にして、今は亡き最愛の人に送った人形だ。その表情には恐れと、疲労、そして若干の安堵と悲哀が混じっていた。
「これで、終りだ……」
首を振り、吐き捨てるように呟く。ガラスの瞳で宙を見つめる少女人形を一瞥すると、男は足早にその場を去って行った。
私は寂しかった。彼女が居なくなり、机の上に座ったまま誰からも相手にされない日々が続いた。
私のお父さんは何をするわけでもなく一日中机に伏せて泣き、泣き止めばお酒を飲み、そのまま眠る。時折彼女の遺品である私を戸惑うような目で見つめ、地下にある作業部屋へと引きこもってしまうのだ。室内であるのに雨が降っているような、そんな毎日が続いた。
ある日、真夜中に目を覚ましたお父さんは泣き腫らした真っ赤な目で私を見つめた。瞳は、暗い、暗い、絶望の色だった。そのまま私を見ながら何事かぶつぶつと呟くと、片手に酒瓶を持ったままふらりと立ち上がった。
「……守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るなそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな……」
血走った眼が私を見下ろす。ぐらぐらと揺れながらお父さんは大きく酒瓶を振りかぶった。そして振り下ろした。
しかし大量のアルコールで言う事の聞かない腕はぶれ、酒瓶は私ではなく机を思い切り叩き粉々に砕け散った。破片のうち一際大きな一枚がお父さんの頬を深く抉り後方へと飛んでいった。私は振動で机から落ち、血まみれの顔を押さえてもだえるお父さんのすぐそばに転がった。
床に横たわる私と、床に倒れるお父さんの視線は同じ高さだ。横転した拍子に至近距離で私と目が合うと、お父さんは顔を押さえたまま悲鳴を上げて作業部屋へ這って行ってしまった。
それからは時々、何かに怯えるお父さんの悲鳴が聞こえるだけで、私は床に転がったままただ作業部屋へと続く階段を眺めていた。
気がつけば私は二本の足ですっくと立っていた。ばらばらに壊れたはずの体は元の通りきちんとドレスの中に収まっている。左腕だってちゃんと動く。……動く? 私はいつから動けるようになったのだ。いつこんなに鮮明な景色を手に入れたのだ。
すっかり解毒されきってしまった私の目の前に、がらんどうの泥人形が転がっている。
「さあ、貴女には選択肢がある」
振り返り見上げると女の人が嬉しそうに笑っている。大きな大きな三日月を背景に、不気味な女の人は言った。
「一つ」
女の人が扇子で泥人形を指す。
「貴女を愛してくれた人を心に抱いて自分を存在させる。貴女の眼には貴女が滅びるまできっと甘くて、素晴らしい世界が広がるわ」
風が吹き鈴蘭が騒ぐ。
「二つ」
女の人は扇子で私を指した。
「貴女を恐れた人を心に抱いて自分を存在させる。貴女の眼は未来永劫確かな現実しか映さないわ」
私を創るお父さんの手。
私を撫でる彼女の指。
私を抱くお父さんの腕。
私に語りかける彼女の声。
私を睨むお父さんの目。
私を見ない人形の眼。
私に微笑む彼女。
私は大きく息を吸い込んだ。
「そう、正解よ」
女の人の声が聞こえる。
毒が……。
毒が満ちる。満ちた毒が体を駆け巡り、髪の毛一本に至るまで『命』が宿していく。私の中を満たした毒は地面に流れ込み、土地全体へ広がっていった。そして大地を満たし、また私の体の中へ。この上ない全能感が湧き上がる。
突風が吹いて鈴蘭畑がざわめく。
私は静かに右手を上げた。風が止み、鈴蘭が静まった。そのまま右手をゆっくりと下ろす。周囲の鈴蘭がいっせいに紫の瘴気を撒き散らした。
「上出来よ。好きに名乗るといいわ。新しい妖怪さん」
女の人はそれだけ言うと夜闇に裂け目を作り、その中へと消えていった。
私の名前はメディスン・メランコリー。人間に人生を左右され、夢を見ている全ての人形の薬になれますように。
机の上で男は少女の顔を作っていた。手つきは熟練していて危なげが無い。しかしその表情は険しく、見ようによっては怒っているようにも見える。
突然、男がアイ・ホールを削っていた手を止め後ろを振り返った。荒い息で暗闇を凝視する。手に握ったやすりが小刻みに震え、額には玉の汗が浮かんでいる。
だんっ
空気を震わせ、やすりが机の上に斜めに突き立った。男は暗闇に背を向け、両手で頭を抱え込み、机の上に突っ伏した。
見渡す限りの鈴蘭畑。風と共に白い波がざわりと押し寄せ、甘ったるい毒を撒き散らして遥か彼方へと流れていく。空は重く垂れ込める鈍色の曇天。今にも降りだしそうだ。
誰も居ない鈴蘭畑。鳥はおろか虫の声すら聞こえない。ただざわざわとこの土地を支配する毒草の囁きだけが広い広い空間を埋め尽くしている。
白磁の肌。金糸の髪。硝子の眼。
孤独で排他的なこの場所に、ソレはひっそりと佇んでいた。
視界は毒で紫色に霞んでいる。このままではきっと瞳にも紫のもやが染み込んでしまう。それでは特注のグラス・アイが台無しだ。早くこんな場所から出ていきたい。しかし私の持ち主はよほどここが気に入ったようでなかなか動こうとしないのだ。私を膝の上に乗せ、両の腕でぎゅっと私を抱きしめたまま。服だって随分と汚れてほつれて古びて朽ちて、スカートの裾に施されていた薔薇の刺繍なんかはどんなに腕の良い考古学者でも判別する事ができないだろう。
鼻の頭に水滴が落ちてきた。「泣いているの?」「雨よ」心の中で問いかけてすぐに打ち消す。そういえば昔はよくこうやって私を抱きしめたままベッドの中で泣いていたけど、このお花畑に来てからは彼女の涙に服を濡らされた事がない。
昔を思い出している内に雨足は段々と強くなってきた。ぽつぽつからしとしと。しとしとからざあざあと。ああ、まただ。早く屋根のある場所へ行かないと体がダメになってしまう。彼女はきっと平気だけど、私の体はぐずぐずに溶けて土に還ってしまうのではないか。そうなれば悲しい。「そろそろお家に戻ろう?」これまでに何千回、今日だけで何百回同じ事を問いかけただろう。これまでの何千回、今日の何百回と同様に彼女は無言を貫いている。「はあ」と私は大きな溜め息を吐いた。実際はついた気分だけだけど……。いくら退屈でも、辛くても、持ち主と同じ時間を共有しなくちゃいけない。これが人形の運命。彼女が満足するまでここで彼女を慰めるとしよう。そしてお家に帰ったら素敵なドレスに着替えさせてもらって、また柔らかなベッドの上でつまらない愚痴を聞こう。
抜けるような晴天。でもここは紫の霧が日光をぼかしているから花曇。そう、まさに花曇だ。私は心の中でくすくすと笑った。この言葉を彼女に伝えられないのが残念だ。
自分で動く事のできない人形は、何もしないで退屈をやり過ごす事に長けている。背中に持ち主を感じ、目に映る物から想像を膨らませ、人間よりも遥かに簡単に不思議の国が作れるのだ。特にこの鈴蘭畑に来てからは空想癖に拍車がかかった気がする。この甘い匂いのせいだろうか。それともこの紫がかった視界のせいだろうか。何にせよ、この花畑の空気は人形に合っている。
滲んで大きさ三割増の太陽を何かが遮った。鳥?いや、鳥にしては大きすぎるし、シルエットもおかしい。おかしな何かはくるくると上空を旋回してから二メートルほど前方、私と彼女の前に着陸した。
やっぱり鳥じゃなかった。人みたいな……鳥みたいな……。
「なんだ。人間じゃないのかぁ」
鳥人間はがっかりしたように呟くと背中を向けてまた飛び去る素振りを見せた。
私は焦る。ここに来てから初めての人間に似た生き物。……このさい人型なら何でもいい。彼女もこれとお話しをすればお屋敷に帰る気になるかもしれない。何とか引き止めなくては。
「待って!」
……声が出たような気がした。出たような気がした。
訝しげに振り返る鳥人間。まじまじと彼女を見つめて、頭を振ると大きな羽を広げて今度こそ飛び去ってしまった。
毒霧の中を飛んでいく背中はすぐに視界から外れてしまった。
風が吹く。
鈴蘭が揺れる。
日がかげる。
すうっと頭上を大きな影が通り過ぎ、再び鳥人間が目の前に降り立った。
「こんな所にこんなに可愛い観客がいるなんて知らなかったわ」
どうやらさっきここに来たことはすっかり忘れてしまっているらしい。やっぱり鳥の頭は悪いんだ。
「ちょっと待ってね」
そう言うと鳥人間は喉に手を当てて、柔らかく、よく伸びる高音を出した。一定の間隔で音を上げ、暫く上げ続けたかと思えば段々と下げていく。発声練習なのだろう。その声は歌声、と言うより何かしらの楽器のようだ。それも今まで聞いた事の無い。弦楽器のような、笛のような、生き物をそのまま楽器に改造したような不思議な音。心なしか周囲の花びらが艶やかになった気がする。そして私自身もどこか体の奥の方で何かが渦巻くような、不思議な感覚に陥る。よく分からないけど気分も盛り上がってきた。これなら彼女も気が晴れるだろう。
「それでは、人間のおみそにはちょっとだけつらい、ミスティア・ローレライのソロコンサートをお楽しみ下さい」
長い調律の後、不思議な声の鳥は私を真っ直ぐに見据えてそう言った。
――
ひとしきり歌ってから、鳥人間はやって来た方角とは反対側へと飛んで行った。今までに彼女と一緒に聞いたどんな歌い手の歌より素晴らしかった。歌の前に聞いた声だけでもそうだったが、メロディが付き、リズムが付き、『歌』になった彼女の声は何かこう……ああ言葉に出来ない。冷めない興奮で体の内側から破裂してしまいそうだ。
……私と違って彼女は何も感じなかったようだ。前と同じようにじっと押し黙ったまま身動き一つし
ない。私はふう、と溜め息を吐いた。吐息の中にまで毒が混じっているようで不愉快だ。
変わらない景色。薄い紫色の瘴気に覆われた綺麗なお花畑。彼女はまだ動かない。人間の気はいつからこんなに長くなったのだろうか。
明るくなって暗くなって明るくなって……。曇り空の下、二週間ぶりくらいの鈴蘭以外だ。
どこからかやって来た金髪の少女はきょろきょろと辺りを見回し、私と彼女を見つけると鈴蘭の花を蹴散らしながら駆け寄ってきた。
「ねえ聞いて?」
目の前にしゃがみ込み、少女は口を開いた。背中から生えた木の枝のような羽を飾り付ける、色とりどりの水晶がしゃらりしゃらりと揺れる。
「お姉様ったらまた私に半分しかくれなかったのよ」
服とおそろいの赤い瞳が真っ直ぐに私を見つめる。ルビーみたいだ。……綺麗。
「お紅茶だってケーキだってお友達だって、いつも半分だけよ。今日だって私、もっといっぱい食べたかったのに咲夜がね……」
少女の両手が地面の鈴蘭を機械のように毟っている。本人は意識していないのだろう。ちぎれた花や茎が散らばる。周囲の毒気がよりいっそう増した気がする。
「……だから今日は出てきたわ。パチェもお姉様もなんであんなに丈夫なのかしら……」
足元から鈴蘭がなくなってしまっても細い指は土をえぐっている。白く小さな手の甲に、力を入れるたび筋が浮かぶ。それがなにかひどく恐ろしいものに見えた。
「……でも私は強いのよ? ほら、ここ、見える?」
おもむろに少女が土と鈴蘭の汁に塗れた手のひらを私に突きつける。草と土と、甘い毒の匂い。
「ここにね、『目』があるの。お姉様のも咲夜のもパチェのも美鈴のも、あなたのもよ」
そう言って少女は手を握っては開いてを繰り返す。
「私は何でも壊せるわ。……そう、何でも壊せるの! あなただってお姉さまだってバラバラよ!」
体が傾く。右腕を掴まれて乱暴に持ち上げられた。ただぶらぶらと揺れる事しかできない私に向かって少女は喋り続ける。
「壊せるけど、壊しちゃったら仕返しにならないわ。仕返しをするなら、今度は私がお姉様から半分を奪えばいいのよ!お姉様に見つかる前に、あなたを半分――」
少女はゆっくりと私の体に手をかけ……、
「貰っていくわ」
ごきり
太いつららが折れるような音がして、私の体は地面に投げ捨てられた。
曇り空を背景に私を見下ろす気の狂った少女。その左手に細い何かが握られている……ああ、私の手だ。肩から先。気がつくのに時間がかかった。考えてみれば自分の姿をまじまじと見たことは無かったな。ガラスの眼は動かないもの。
「ああすっきりした。お姉様によろしくね」
固く冷たい物が仰向けに倒れる私の上に投げ捨てられた。もう私に興味はないらしい。
右腕を抱えたまま私は夜を迎えた。彼女はまだ動かない。星は出ていない。背中に彼女は感じられない。月も見えない。眼窩に夜露が溜まり、溢れて頬をつたった。初めてのことだった。
……もう彼女は帰ってしまったのではないか。私を置いてお家に戻ってしまったのではないか。地面に横たわったまま何百度目かの不安を思い浮かべる。いや、まだ彼女は座っている。この場所が好きだから、ここから動くはずが無い。何百度目かの希望で打ち消してみる。おかしな話だが、『喪失感』で体がいっぱいだ。曇天に固定された私の瞳に蝶がとまった。
「こんばんわ。お嬢さん」
珍しく三日月の輝く夜に、足元から声が聞こえた。視線を送る。瘴気よりももっと濃い雰囲気。奇妙な形の傘を差した女性が立っていた。私は視線をまた夜空へと戻した。霞の向こうで小さく星が瞬いている。
「あら?どこを見ているのかしら」
視界いっぱいに女の人の顔が広がる。いつか彼女と一緒に読んだアリスの絵本に出てきたチェシャ猫のような不気味な笑顔だ。
「あなたの仕事は愛される事でしょう?」
覗き込んだまま女の人が言った。なにやらとても不快だ。綺麗な声なのだが、体の内側をざらざらと撫でるような気味の悪さがある。
体の下に手を回され、彼女にそうされていたように、取れた腕ごと私は抱きかかえられた。途端、私の背中を冷たい物が走った。
肩から腕がもぎ取られた時の鈍い衝撃。
自分の腕を持ち笑う少女を見上げた絶望感。
逃げなくちゃ。
女の人の腕から私は転がり落ちた。しかし、浮遊感のあと、私は地面ではなく再び女の人の腕の中へと落ちたのだ。わけがわからない。
「うふふふ」
私を抱いたまま女の人は悠然と歩を進める。毒が纏わりついては離れ、また纏わりつく。
「さあ、ここでしょう?」
紫がかった暗闇の中に浮かぶ彼女の背中。私とおそろいの金髪もすっかり色褪せてしまってみすぼらしい。風に吹かれてぼろぼろのドレスが揺れる。……見たくない。見ていたくない。何かが体の奥底から湧き上がってきた。
一際強い風が吹いた。
ぐらり
彼女の体が傾き、仰向けに倒れた。ドレスからはみ出る不自然に曲がった手足、球体関節。広がったブロンドの中に真白い逆さまの顔が浮かぶ。その硝子の眼と私の眼が交差する。
私は大きく息を吸い込んだ。体に毒が満ちる。甘い。甘い。ジンと頭の中が痺れて何も分からなくなる。目の前のソレは紫の霞に包まれて彼女に戻る。夜だもの。彼女が横になって眠るのはいつもの事……。
「これでも貴女は夢を見るのかしら?」
女性の言葉と共に私の中で何かがずれた。鈴蘭の毒が晴れ、彼女の青い眼が生気の無い、冷たいガラス玉に戻っていく。
私は毒を吸う。深く。
しかしおかしい。
グラス・アイを侵食する毒はすぐに消え、よりいっそう鮮明にソレを映す。
私はまた慌てて毒を吸い込む。さっきよりも深く多く。
それでも視界の紫はだんだん薄くなる。
口を大きく開けた。
必死に毒を取り込む。
体が毒で満ちれば満ちるほどソレは彼女の姿から離れていく。
……ここから毒が漏れているのだ。
残った左腕を動かす。自分の意思で。関節がぎしぎしと音を立てた。
私は膝の上の右腕を掴み、自分の肩に空いた穴へと押し付けた。小さな破片が散らばるが気にならない。勢い余って女の人の腕から滑り落ちた。地面にぶつかる衝撃がお腹から背中へ駆け抜ける。砕けた私の体が夜空に散らばった。関係ない。そんなことより毒を溜めなければ。私の存在意義がなくなってしまう。人に愛される事が人形の仕事、存在理由。彼女が人でないなら、この鈴蘭畑で共に過ごした彼女が人でないのなら、私は誰からの愛情を受けていた? 私はいつから存在していない?
ある晴れた日、人形を抱えた男が鈴蘭畑を訪れた。毒草たちは突然の来客にも動じることなく静かに揺れて、毒を振り撒いている。
鈴蘭畑のちょうど中心で、男は人形を下ろした。長い金髪、緑の眼、真白いドレス。今は亡き最愛の人に似せたビスク・ドールの頬を愛おしそうに撫でた後、男は視線を下に遣った。
地面に座り込む人形の、その腕に抱かれた小さな人形。赤いリボン、黒いドレス、青い眼。処女作にして、今は亡き最愛の人に送った人形だ。その表情には恐れと、疲労、そして若干の安堵と悲哀が混じっていた。
「これで、終りだ……」
首を振り、吐き捨てるように呟く。ガラスの瞳で宙を見つめる少女人形を一瞥すると、男は足早にその場を去って行った。
私は寂しかった。彼女が居なくなり、机の上に座ったまま誰からも相手にされない日々が続いた。
私のお父さんは何をするわけでもなく一日中机に伏せて泣き、泣き止めばお酒を飲み、そのまま眠る。時折彼女の遺品である私を戸惑うような目で見つめ、地下にある作業部屋へと引きこもってしまうのだ。室内であるのに雨が降っているような、そんな毎日が続いた。
ある日、真夜中に目を覚ましたお父さんは泣き腫らした真っ赤な目で私を見つめた。瞳は、暗い、暗い、絶望の色だった。そのまま私を見ながら何事かぶつぶつと呟くと、片手に酒瓶を持ったままふらりと立ち上がった。
「……守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るなそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな眼で見るな守れなかったそんな……」
血走った眼が私を見下ろす。ぐらぐらと揺れながらお父さんは大きく酒瓶を振りかぶった。そして振り下ろした。
しかし大量のアルコールで言う事の聞かない腕はぶれ、酒瓶は私ではなく机を思い切り叩き粉々に砕け散った。破片のうち一際大きな一枚がお父さんの頬を深く抉り後方へと飛んでいった。私は振動で机から落ち、血まみれの顔を押さえてもだえるお父さんのすぐそばに転がった。
床に横たわる私と、床に倒れるお父さんの視線は同じ高さだ。横転した拍子に至近距離で私と目が合うと、お父さんは顔を押さえたまま悲鳴を上げて作業部屋へ這って行ってしまった。
それからは時々、何かに怯えるお父さんの悲鳴が聞こえるだけで、私は床に転がったままただ作業部屋へと続く階段を眺めていた。
気がつけば私は二本の足ですっくと立っていた。ばらばらに壊れたはずの体は元の通りきちんとドレスの中に収まっている。左腕だってちゃんと動く。……動く? 私はいつから動けるようになったのだ。いつこんなに鮮明な景色を手に入れたのだ。
すっかり解毒されきってしまった私の目の前に、がらんどうの泥人形が転がっている。
「さあ、貴女には選択肢がある」
振り返り見上げると女の人が嬉しそうに笑っている。大きな大きな三日月を背景に、不気味な女の人は言った。
「一つ」
女の人が扇子で泥人形を指す。
「貴女を愛してくれた人を心に抱いて自分を存在させる。貴女の眼には貴女が滅びるまできっと甘くて、素晴らしい世界が広がるわ」
風が吹き鈴蘭が騒ぐ。
「二つ」
女の人は扇子で私を指した。
「貴女を恐れた人を心に抱いて自分を存在させる。貴女の眼は未来永劫確かな現実しか映さないわ」
私を創るお父さんの手。
私を撫でる彼女の指。
私を抱くお父さんの腕。
私に語りかける彼女の声。
私を睨むお父さんの目。
私を見ない人形の眼。
私に微笑む彼女。
私は大きく息を吸い込んだ。
「そう、正解よ」
女の人の声が聞こえる。
毒が……。
毒が満ちる。満ちた毒が体を駆け巡り、髪の毛一本に至るまで『命』が宿していく。私の中を満たした毒は地面に流れ込み、土地全体へ広がっていった。そして大地を満たし、また私の体の中へ。この上ない全能感が湧き上がる。
突風が吹いて鈴蘭畑がざわめく。
私は静かに右手を上げた。風が止み、鈴蘭が静まった。そのまま右手をゆっくりと下ろす。周囲の鈴蘭がいっせいに紫の瘴気を撒き散らした。
「上出来よ。好きに名乗るといいわ。新しい妖怪さん」
女の人はそれだけ言うと夜闇に裂け目を作り、その中へと消えていった。
私の名前はメディスン・メランコリー。人間に人生を左右され、夢を見ている全ての人形の薬になれますように。
綺麗に鬱してるなあ
人形への薬って人間への毒と同じものだったりするんですかね。