Coolier - 新生・東方創想話

あいのはなし

2010/05/23 17:53:14
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1:Iのはなし


 春も盛りに、麗らかな陽気が柔く辺りを包み込む、良く晴れた日のことです。こんなにも天気が良い日だというのに、妖精は草原に寝っ転がって空を見上げていました。
 かと言って日向ぼっこをしているようでも無く、むっつりとして天上のまん丸太陽と睨めっこをしています。
 喜色を浮かべ笑い声を交えながら談笑している妖精達が視界を横切っても、妖精は相変わらず小難しそうな顔。
 別に怒っているわけではないのです。
 彼女には一つ、無性に気になることが出来ていたのです。
 その疑念の契機を申し上げますと、昨日の夜に遡ります。妖精はその日、友人である妖精と妖精とチルノと妖精の四人と一緒に遊びました。
 住処に戻って、今日は楽しかったなあチルノちゃんが蛙を凍らせて……などと思いを馳せていたら、不意に当の疑問が脳裏を過ぎったのです。
 一晩寝れば忘れる、と揶揄されるほどに脳天気な妖精ですが、このときばかりは、それは川のせせらぎの如く静謐に、しかし決して止まることなく彼女の機微を掻き乱しました。
 そして非常に、妖精は頭の弱い種族ですから、当然一人でうんうん唸っても答えを導き出せる筈もありませんでした。
 清澄な青空とは対照的に、彼女の心はぐずつき模様。解へ逢着するか否かはさして重要な問題では無く、しかし導き出せないままでは溜飲の下らない思いが妖精の心へじわりと滲む。
 そうして、恐らく深奥にあるであろう答えをいつまでもいつまでも、妖精は水面で捜し続けておりました。
 
「おーい」
 
 そんな妖精に、手を振る妖精が一人。碧空と同じ色をした髪を揺らしては、陽の光輝に透き通った羽根を煌めかせています。
 昨日、妖精と共に遊んだ氷精チルノでした。
 暫時妖精は彼女に気づかないでいましたが、チルノが近付いてきて漸く、地にへばりつけていた背中を持ち上げ声を上げました。
 
「チルノちゃん」

 チルノは草原に降り立つと、怪訝そうな顔で妖精にずいと寄ります。

「何してるのよ、日向ぼっこ?」

 その問いに、妖精は返答に窮しました。
 端から見れば日向ぼっこをしていると見えるのでしょうが、彼女にはそのような気など毛頭無かったのです。また、考え事をしていると素直に答えるのも、それはそれでらしくないなと思い、気が引けるところがありました。
 
「うん、まあそんなところ」

 畢竟、羞恥心が勝り、妖精はそのように答えました。
「ふーん」と相槌を打つと、チルノは妖精の傍に寝転がりました。半ば面食らった顔つきで妖精がチルノを見ます。それに対して、彼女はにっと微笑みました。
「昨日みたいに、また蛙を凍らせに行こうと思ったけど」一つ大きな伸びをして、チルノは大きく息吐きました。「こんなに暖かいんだもん。日向ぼっこもありだよね」
 チルノの言葉に、妖精は空を見上げます。雲一つ無く太陽が一つ構えるのみで、清澄を湛えた空が、どこまでもどこまでも延びていました。
 体重を後方に、身体を草原に委ねても、妖精の視界は変わることが無く、やがて葉がこそばゆく彼女の耳をくすぐりました。
 ほの暖かい薫風がそよぎ、草木のざわめき、湖のせせらぎが耳朶を撫でる。自然はまるで母のように、優しく小さな妖精二人を抱き締めました。
 
「気持ちいいね」
「うん、何だか眠くなりそう……」
 
 その言葉通りに、チルノの声色はどこか意思を欠いた物になっていました。
 口数少なく――妖精とチルノは昵懇でいましたから、特に面と向かって話すことなど余り無いのです――てありましたし、妖精はこのとき、最前までの思考を中断しておりましたので、彼女自身にも、睡魔がじわりと襲いかかってきました。
 ぼうっと、頭の中は霞がかかったように不明瞭となり、瞼が無意識に閉じられていきます。現実と妖精を繋ぎ止めるのは、今や塵芥にも満たぬ一片の意識のみ。それもまた、睡魔の奔流にいとも容易く呑み込まれようとしていました。
 しかし、そうだ、と妖精ははっとしました。
 よく考えてみると、チルノの存在は、まさに妖精が思案を重ねている命題の渦中にいる存在でした。自分じゃあ想像することが出来ない世界に、チルノがいるのです。
 もしかしたら彼女なら、心のもやもやを取り払ってくれるかもしれない――妖精はそう思いました。すると、意識の一片は窮鼠猫を噛むかの如く、反逆の烽火を上げ始めます。たちどころに、その一片は二片となり、二片は四片となって、やがては睡魔を追いやり覚醒の息吹を無辺に行き渡らせました。
 
「チルノちゃん」

 がばと妖精は起き上がり、チルノを俯瞰しました。呻いて、彼女が眠たげに瞼を擦ります。

「ん……ごめんごめん、うとうとしちゃって」

 目を開いて、チルノの表情が少し強ばりました。驚きと恐れを浮かばせ、その相貌には、瞳孔を開き逼迫した妖精の顔が映し出されています。

「ど、どうしたのさ急に」
「あ、えっと……その」

 自らの相貌を自覚し妖精がどもるのと同時に、チルノが声を投げました。

「チルノちゃんに訊きたいことがあったんだ」

 妖精は相好を崩し、改まって答えます。「それを思い出したら、はっとなっちゃって」
「訊きたいこと?」反芻するチルノに、妖精は肯んじました。

「今まで気にもしなかったけど、考えてみたら不思議だな、って思ったの」

 チルノは首を傾げ、黙然とし妖精の二の句を待っているようでした。
 些少の重圧が妖精の口にのし掛かります。その重圧は、刹那に降りた沈黙でしたし、自身、らしくないなと思うことから醸成される羞恥でもありました。
 しかし、知りたい、という衝動がそれを凌駕します。覚醒の息吹は未だ落ち着くことを知らずに、妖精の気概をさざめかせておりました。
 
「あのね」
「うん」
「私は『妖精』。名前は、無い」
「そうだね、あなたは『妖精』で、名前は、無い」
「あの子は」妖精が、ふと目に入った妖精を指差しました。「『妖精』で、名前は、無い」
「そうだね、あいつは『妖精』で、名前は、無い」
「あの子だって――」湖の上に佇んでいる妖精を妖精が指さすと、咄嗟にチルノが頷きました。「『妖精』だね。そして、名前が無い……ねえ、何が気になるのか、あたい、さっぱり分からないんだけど」
 同じ言葉の連続に、チルノは気怠そうにしていました。
 それもその筈です。一握を除いて、妖精には名前というものが無い。それは原初より貫通されてきたことです。平生において、今や等式の如く絶対なものとして確立したそれを、つゆと疑う者はいないでしょう。ましてや妖精ならば尚更のことです。 
 ですが他方で、その秩序というものは常々妖精の周辺をついてまわっており、故に、懐疑を抱けば最も身近な議題でもあるのです。妖精はそれに疑念を抱いた。抱き、彼女はチルノに向けて口火を切ります。
 
「あなたは『チルノ』」
「うん」
「チルノは『あなた』」
「ん……」

 チルノの顔色に、次第と嫌悪が顕現してきました。しかし妖精は泰然として、確かめるように自分の言葉を噛み締めました。

「私は『妖精』で――」
「もう! 何なのよさっきから、同じことばっかり言って! ハッキリ言ってくれないと分からないわよ!」

 チルノは飛び起きると、きっと妖精を睨みました。
 睨んだ、とは言いますが、そこには一切の邪などございませんでした。友人であることに由来する、彼女なりの心配でありました。
 それを察した上で、妖精は決して自らの相貌を崩しません。いや、譬えチルノに邪があったとしても、彼女は自分の意思を曲げずにいたことでしょう。
 半ば達観した面持ちで、妖精は取り付く島も無い、まるで独り言のようにして呟きます。
 
「――『妖精』は、誰、なんだろうね」

 沈黙が、ゆくりと降りました。チルノの表情から鋭利たる棘が失せ、それから空を見上げます。

「誰、って……」呆れたような声色でした。まるで、妖精の疑問が愚問だ、とでも言いたげに。
「『私』がいないような気がするんだ」静謐に、しかし心底で必死に言葉を掻い摘みながら、妖精は続けます。

「私には名前が無いから、『妖精』としか名乗ることが出来ない。それは、チルノちゃんのようにたった一つの名前なんかじゃあなくて、私と同じような妖精が一緒になって使っている名前なんだ。だから、『妖精』は私”達”を指す名前。チルノちゃんのように『私』自身を指す言葉じゃない。それでね、考えてみたの。名前が無いこと。『妖精』と名乗らざるを得ないこと。今まで当たり前だったことについて、ふと考えてみたらさ、何だか『妖精』っていう大きな塊に『私』が溶け込んじゃっているみたいで……怖くなったの」

 妖精は急に、チルノのことが愛しくなりました。
『妖精』という『私』の集合体の一部となり、独自の『私』を見失った妖精にとって、チルノという名前を、集合体から独立し『私』を得た目の前の妖精に、妖精は救いを求めます。
 彼女は、始めからそのようにしたかったのかもしれません。自分の心を掻き乱す疑念の正体を暴くなどよりも、一個を構築する成分となった『私』を、チルノに掬い上げてもらいたかったのかもしれません。
 妖精の愛しい感情は、きゅうと彼女の心臓を抱き締めます。ただ、その愛しは愛しと良く似た何かでありまして、慕情の純然としたものではなくどこか淀んだ、物乞いの如く痛ましい惨めなものでございました。
 
「次チルノちゃんと逢う時、チルノちゃんは私のことなんか忘れているんじゃないかって思うの。だって私は『妖精』で、『妖精』は『私』じゃないから。チルノちゃんの記憶の中で『私』じゃない、他の『妖精』と混ざってしまうんじゃないかって。私さえも、記憶が『妖精』の中に溢れ出してしまって、思い出、忘れちゃうんじゃないかって……」

 目尻の裏から滲み出てくる涙を堪える手立てなど、妖精にはありませんでした。風が吹くように、至極自然に涙は妖精の瞳を濡らし、それから何事も無かったかのように頬を伝います。
 その滴の、刹那に薄れる温もりが、更に涙を誘発しました。涙は感情を纏い、最前の涙が遺した道程を辿ります。その感情の連鎖に打ちのめされ、とうとう妖精は、チルノの胸に顔を埋め嗚咽を漏らし始めました。
 
「嫌、だよ。忘れた、っく、ないの。大事な思い出、なのっ、っに、忘れちゃう、なんてっ」

 顔をぐちゃぐちゃに歪ませて、何度もしゃくりながら妖精は述懐しました。それを聞いてか、チルノは息を吐き、妖精の頭に掌を添えました。

「泣かないでよ……」
「ご、ごめっ、ん」

 困惑した様子のチルノの声に、妖精は些か理性を取り戻すと、彼女から体を離し、ごしごしと濡れた瞼を袖で拭いました。
 何とか落ち着こうと、深呼吸をするのですが、ひっくひっくとしゃっくりがそれを阻害します。そうしている内に、再び涙が折角乾いた妖精の目尻を濡らしました。その繰り返しです。「ああもう」と、その様を見てチルノが言うと、今度は彼女が、自らの胸に妖精を抱き寄せました。
 
「チルノ、ちゃん?」
「――名前が無いから」舌鋒鋭い一方で、チルノは腕を妖精の背に回し、ひしと衣服を掴んでいます。「だから、皆に忘れられちゃう、って? ……嘘だよ。だってあたいはあんたのこと、忘れていないよ」
 チルノから漂う冷気が、妖精の耳朶を撫でます。冷たいのですが、妖精はそれを温かいと思いました。
 喩え冷たくとも、そこにはチルノの優しさがしかと内包されているのです。冷気は、妖精の心をえいやと突く悲哀どもを取り払い、聖母の如く柔く、かつ、決して離さぬようにと包み込みました。
 チルノは続けます。

「そりゃあ、いつか凍らせた蛙がどんなだったかは忘れるけれど……あんたと他の妖精をごちゃごちゃにするほど、あたいは馬鹿じゃないわ。あんたと遊んだことはしっかと覚えている。覚えているから、例えばあんたがあたいのことを忘れても、あたいがあんたを忘れない。それに、あたいらは友達だよ? だっていうのに、忘れちゃうのはそれはおかしいじゃない」

 友達――チルノの発したその一言に、妖精は自らを苛む恐怖が瓦解するのを感じました。名前が無いだとか、『私』がいないだとか、『妖精』という集合体に溶け込んでしまったとか、そういったありとあらゆる命題と思考の集積を、その一言が易く跳ね除けてしまいました。
 友達だから。
 それが余りにも単純明快で、だから、今までずっと思い悩み、独立した『私』が存在しないが為に、いつか忘れられてしまうのではないかと恐れていた自分を馬鹿にしているようで、妖精はふふと笑みをこぼしました。
 
「そうだね」
「……あたい、変なことでも言った?」
「ううん。というより、私の方が変なこと、言っていたのかも」
「全くよ、わけ分かんないわ。『私がいない』なんて、何を言い出すのやらと思ったわ。あんたはここにいるっていうのに」

 確かにチルノの言う通り、わけの分からないものにしても、それは事実であるのだろうと、妖精は思いました。最前の『私』が存在しない感覚は、決して幻想では無かった、と。
 しかし、そこまででした。
 人間のように、複雑な思考を持ち合わせているのであれば、その最奥に辿り着くことが出来るのかもしれません。妖精が辿り着くことの出来なかった解へ、それも、絶対的な根拠を以って導き出せるのかもしれません。
 ですが、彼女は妖精です。譬えそれを突き付けられたとしても、思考の末、がんじ搦めになっていては、どこまで行っても『わけの分からないもの』でしかないのです。それよりも、妖精とチルノ、或いは、妖精と妖精の間にある、単に『友人』という皆目の結び目も無い一本の紐の方が、妖精からしてみれば、最も絶対なものであるのです。
 真っ赤になった双眸で、妖精はチルノを見上げました。「眼、真っ赤だね」と、チルノは笑いました。そんな彼女の笑顔と、後方に広がる碧空は、全て物に阻まれることなく、どこまでも抜けていました。丁度、後先顧みず悪戯を仕掛ける、能天気な妖精を体現しているような。
 何だか妖精は、チルノに要らぬ気遣いをさせて申し訳ない気持ちになりました。けれども、こうして考えた結果として、妖精は自分とチルノとの間を固く結ぶものに気付けたのですから、私事でありますが、この思案は無駄では無かったのかな、と思いました。
 しかし――大切なものに気付けたにしても、です。妖精は苦笑を見せて、声高らかに叫びます。決して響きを残すことなく、音は抜けに抜け、この無辺たる幻想郷を駆け巡っていきました。それが自然の声、総て妖精の声を代弁するかの如く。
 
「――もう、考えるのとか、こりごり!」






2:eyeのはなし


 ――あ。ありがとうございます。いえいえ。お茶請けなど、そこまで気遣わなくても結構です。そもそも私はここへ、お燐を連れて帰る心積もりで来たのですから。

 ――そんな。嫌だ、なんて一言もいってないですよ? 寧ろ私も、地上に出るのが近頃楽しくなってきましたから。というより、ここに来て、貴女に会うのが……でしょうかね? 
 心を視るに、貴女には私を嫌悪しているふうでは無いようですし。かと言って、好んでいる様子も無いのですけれど。そんな貴女の心に同調しているのでしょうか、ここは流れが非常に穏やかだ。だから私も、こうして人目を憚らずいられるのでしょうね。
 ――ふふ、大丈夫ですよ。居座ったりなんかしません。私達には地霊殿がありますから。今も、私の帰りを待ってるペットだっているのですからね。

 ――ついでに萃香も連れて帰ってくれないかしら、って? そう言う割には、結構、内心満更でもなさそうですけどね霊夢さん。
 でも鬼をペットにするのは面白そうですね。ですが、あれだけの力量です。私の下に置いては有り余るでしょうし、あの鬼自身も、貴女がいるここを気に入ってるようですからね。皆、人妖分け隔て無く接する貴女のことが大好きなんですよ。
 現にお燐も、もう少しここに居たいと駄々をこねていたではないですか。私だって、ここに長居するのは厭いませんし、ああやって幸せそうにしている彼女の願いを、どうして取り下げることがありましょうか。
 子煩悩? ……そうかもしれませんね。言い換えれば私は、ペットに愛をすがっているのかもしれません。『さとり』という身の上が如何様な影響を俗世間に及ぼすかは、貴女も知っての通りの事。
 そんな私を純粋な心で慕うペット達を、私は拠り所としているのかもしれませんね。
 ……ごめんなさい。何だか辛気臭い話をしてしまいました。軽妙に構えられず、何でも陰気に捉えてしまうのは私の癖ですね。
 ――ええ、だから嫌われるのかもしれません。まあ、これ以上言及すれば、私がまた陰鬱な方向に話を運びかねないので、ここは一杯で場を濁すことにしましょう。

 ――うん、美味しいです。霊夢さんの淹れてくれたお茶を飲むのは、これが初めてでしょうか?
 時として、緑茶を飲むというのは乙なものですね。普段は紅茶を主に嗜んでいるもので、ですから、世間一般の緑茶の味がどれ程の物か私には分かりませんが、霊夢さんのお茶は非常に美味しいと、良く分かります。
 ――ただ淹れているだけにしても、ですよ。手馴れているのでしょう、どの位の分量が最適なのか、体に染み付いているのでしょうね。私も、手前みそですがそのようなものですから。

 ――はい、何でしょうか。
 ――私に訊きたいこと、ですか? 構いませんよ、私の答える範囲ならば、答えてあげましょう。して、その訊きたいこととは? 
 ――眼が三つあるとどんな風に見えるのか、ですって? 別段変わり映えしませんよ。そもそも、この『第三の眼』は、対象の心を視る眼、言わば不可視な物を捉える眼であって、性能が一般における眼とは違うのです。
 ですから、その『第三の眼』を介して私に映るイメージというのは、双眸とは全くの別物として流れてきます。例えば、心の声、なんて言葉があるように、心を読む際には、『第三の眼』は心を声に変換させるし、記憶を掴むのなら、頭の中へと直接そのイメージを流し込むのです。丁度、想起するときに浮かび上がるイメージと似たようなものだと、そう言っていいでしょう。
 ……何やら不満そうな顔ですね。まだ何か、気になることでもありましたか? 
 そうじゃなくて――ふむ、成程、そういうことですか。霊夢さんは単に、眼が三つあるとどんな風に見えるのか、について疑問を持っていたんですね。私はてっきり『第三の眼』に言及していたのだと……失礼しました。

 さっき言った通り、私には眼が三つありますが、実際に一般の眼として働いているのは二つですから、二つ以上の眼を持った際にどのような世界を見るのか、それは確かに関心が持たれる事ですね。ところで、どうしてそのような疑問を持ったのですか? 
 ――外界には、眼が百個ある妖怪がいると紫に聞いたから……って、そのような妖怪がいるなどと初めて聞きました。
 しかしそれが紫さんからもたらされた情報となると、疑わしいものです。紫さんは胡散臭いと聞きますし、大体、そのような妖怪、地底では全く見かけませんからね。
 ――まあ、霊夢さんの言う通り、彼女は外の世界に精通していますし、私達は外界を見たことなどありませんから、一概に嘘だと断言することは出来ませんが……ですが、真偽の以前に、そのことについて考えるのは面白いかもしれませんね。
 眼が百個ある、とすると、体中に眼が存在するのでしょうか。
 ――そうですね。想像するだけで身震いしてしまいます。しかし、そうであるのならば、目線の高低が一様では無くなってしまいますね。頭の天辺から足の先まで眼があるようなものですから。
 それに、高低だけではなく、死角というものが存在しなくなってしまうでしょう。三百六十度、全てを見渡すことが出来るようになる。その際に、世界はどのようにして見えるのでしょうか?

 ……うーん、容易には想像できないものがありますね。そもそも、三百六十度の視界を持った動物なんて、私は知りませんし、目をそんな、百個なんて持つ生物が存在するなど先程の通り、知らなかったのですから。
 ――常識に囚われてはいけない、って……囚われていないにしても、このことを想像するのは難しいかと。そう言う霊夢さんは、どんなものだか想像ついたんですか? 
 ――ついてない? というより、考える気ありませんよね霊夢さん? 
 ……そこまで素直に頷かれてしまうと、怒る気にもなれませんね。
 ――便利そうだ、って――ああ、そうでした。そう言えば霊夢さんって、そんな方でした。余り物事を深く考えず、常々悠然と構えていて……馬鹿にしてるわけではありませんよ? 寧ろ羨ましいと思っていますが。私自身、世間体を気にし過ぎて、余計に思案を巡らせてしまう性質ですので。
 まあ、そんな話は置いておいて……私も、霊夢さんとは同意見です。
 外見上の問題はありますが、三百六十度、死角無しに全域を見ることが出来るのは、それは便利なことでしょう。眼が百個あるのなら、眼前に映る光景も、ひょっとすると五十倍美しく見えるのかもしれません。
 ですが……ですが、私は思うのです。顔に二つ、横に並んでいるから。前しかしっかり、見ることが出来ないから。私達はあらゆる事物を美しいと思ったり、愛しいと思ったりするのだろう、って。全てを見通せてしまっては、気持ちがあっちに行ったり、こっちに行ったりするじゃあないですか。
 そう考えてみれば、今こうして、霊夢さんと一緒にいるのが楽しいのも、この双眸のお陰なのかもしれません。
 ――ふふ、その通りです。無闇に目玉なんか増やすものじゃない……そう思って増やせる物ではないですけどね。


 ……あら、お燐。もう大丈夫なの? 
 ――そんなことを気にしているの? 正直、早く来過ぎてしまったみたい。日が入るまで、まだ時間があるみたいだし。だから私のことは気にしないで、うんと遊んでいらっしゃいな。


 ――ええ、お察しの通り……というわけで、もう少しここで寛がせてもらいますね。で、話は再び、百の眼をした妖怪のことですが――そうです、また、ですよ霊夢さん。

 後々になって、ひょっとすると、って思うところが出来たんです。それは一つ、三百六十度の視界がどんなものかとか、目線が無数に存在するとか、そういったことに対する思惟を挫折して生まれた考え方なんですけれど。
 丁度、何事にも悠然と構える霊夢さんのスタイルを踏襲してみました。
 ――いえ、ですから、何も考えてないって、馬鹿にしているわけじゃないですってば。

 で、その考えを言うと、百目妖怪も、見る景色は私達と同じなのではないか、と思ったんです。つまり、実際に目としての機能を持っているのは二つで、あとの九十八個はただの飾りだって、そういうことですよ。
 ――それは、彼が妖怪、それも、人を怖がらせる為に存在する妖怪だからでしょう。一つ目小僧なんかと同じです。人を怖がらせるにはどうしたらいいか……そこで、目を体の至るところにあるようにすれば、怖がるんじゃないかと、彼は彼なりにそう結論付けたのかもしれません。

 ――え? 私、ですか? 私は……『さとり』は、どうなのでしょうね。
 人を怖がらせる為に、『第三の眼』を持ったのでしょうか。それは初めて『さとり』になった方に訊かなければ何とも言えませんね。少なくとも私は、この『第三の眼』は誰かを怖がらせる為にあるのでは無い、と思います。
 もっと何か別の用途に、それこそ、動物や植物などといった、言葉を交わすことの出来ない者達と意思の疎通が出来るようにとか。
 ――まあ確かに、この眼のお陰で、私は周囲から疎まれているのですが…… 
 ――そうですね。百目妖怪も、実は怖かったのかもしれませんね。百個の眼を散りばめるより、心を見透かす眼を持っていた方が、ずっと相手を怖がらせることが出来ると知っていた。けれど、それは自分にとってすらも恐ろしいことで…… 
 ――そうでしょうか。そんな『妖怪の中の妖怪』なんて、堂々と言えた立場じゃあないですよ。
 妖怪にしては、私は余りにも打たれ弱い。周囲の蔑視に耐え切れず、種族の誇りとか一切を折って、地霊殿に篭りきりでいるのですから。そのような称号は、他の意気盛んな妖怪の方々に譲ることにしましょう。
 ――まあ、そうなんですけどね。ここまで色々話してきましたけれど、第一、百目妖怪の存在というのは私達にとってはおぼろげな話であって、私達はただその不確かな存在について、これまた空想を並べているだけのことで、深く追究する必要もない、取りとめも無いことですけれども。こうして空想を並べるというのも悪くは無いですね。それに、霊夢さんとゆっくりじっくりお話をすることが出来たので、楽しかったですよ。

 ――ときに、霊夢さん。私はこの通り『第三の眼』があるから、言いたいことは心に思ってくれるだけで伝わるのですが、にも関わらず、どうして霊夢さんは直接話そうとするのですか? 
 ――お燐が人型に変身する理由? それは……ああ、なるほど。そうでした、そうでした。すっかり『第三の眼』に囚われて、すぐ傍の幸福を見落としていたみたいです。ただ思うだけより、その思いを言葉に乗せて伝える方が、ずっと……ふふふ、今日は霊夢さんとお話をして、非常に有意義な時間を過ごさせてもらいました。ありがとうございます。 


 ――お帰りなさい、お燐。楽しかった? 
 ――そう。それは良かった。私も、とても楽しかったわ。
 それじゃあ、私達はそろそろお暇します。今日はお燐が――私自身もお世話になりました。また遊びに来ますね。もし良ければ、地霊殿にも遊びに来てください。その時は紅茶を振舞ってあげますから。
 ……行きましょうか、お燐。日が暮れる前に帰らないと、皆が心配してしまうわ。






3:愛のはなし


 何かが違うような気がした。

 それは露骨な差異ではなかった。いつものように、八坂神奈子は東風谷早苗が入れてくれた緑茶を貰うと、彼女に一瞥をくれた。「ありがとう」と、物静かな声で礼を言うと、柔く微笑んでくれる。その表情にも語調にも、一切の翳りなど存在していなかった。
 しかし、早苗はそこに違和を直感したのだった。長らく一緒に生活しているからなのかもしれない。彼女は生じた違和感に、いつもよりほんの少し長く、神奈子を注視した。やっぱり、何かが違う。
「どうかしたんですか」とは、その場では言わなかった。
 早苗が持っている盆にはもう一つ、茶の入った湯飲みが湯気を立ち込めていた。洩矢諏訪子に差し出す茶だ。冷めてしまうといけないから、早苗はすぐにこの違和について言及はせずに、何も言わず居間を後にする。
 神奈子は何も言わなかった。それもまた、いつも通りなのだが、違和感に気を立たせているからだろうか、その沈黙が、早苗にとっては妙に息苦しかった。

 ゆくりと襖を閉じる。
 静かだった。木々のざわめく音と、遠巻きに鳥が囀る程度で喧しくない。社は古めいた、懐かしいような香りがして、床を踏むたびぎぃぎぃと軋む。今まで十数年ここで過ごしているから、愛着がある。居心地のいい我が家だ。
 けれどもそんな居心地も、自分の波長と見事に同調しあっているそれも、僅少であるが乱れてしまっていた。数ミリにも満たないズレであろう。しかし早苗にとっては、それが何十、何百センチに広がっているように思えた。

 神奈子様に何があったのだろう――早苗はそう考えて、でも、と思った。でも、今朝――早苗が人里に、買い物へ出掛ける寸前――の神奈子様には、最前のような違和感は覚えなかった。
 とすると、自分が買い物に行っている間に、何かがあったのだろう。例えば、諏訪子様と喧嘩をしたとか――
 それは安直過ぎる、と、早苗はすぐに思惟を改めた。諏訪子様と喧嘩をしたのであれば、憤怒が露呈している筈だ。早苗は二人の喧嘩を何度も目の当たりにしているし、仲介を務めたこともあったのだ。
 それに、信仰が不足しているせいでも無いことも明らかだった。信仰を求め、幻想郷にやってきた当初はそれこそ、山に住む妖怪から反感を買ったり、麓の神社と一悶着起きたりもした。
 しかし、今となってはそれも無くなっており、麓に分社を建て、里に赴き布教を行うことで、守矢神社は経営に十分な信仰を得るようになっている。無論、自分の杞憂ではないということは、しかと感じた違和が証明していた。
 それらを考慮するに、この違和の根源は、神奈子の波長を乱す正体は、どうやら早苗の与り知らぬものであるようだった。
 色に出さないのは、語るに値しない些事なのか、それとも重大であるからと、変に気を遣っているのか――いずれにせよ、神奈子が何かを抱えているのは事実であり、さすれば、それが何であっても、彼女を支えていかなければいけない、と早苗は決意を固める。

 そこで彼女は、思案へと飛ばしていた意識を戻したのだが、どうやら諏訪子の部屋をいつの間にか通り過ぎてしまっていたようだった。踵を返し数歩戻って、早苗は部屋の前に立つ。「諏訪子様」と声を掛けると、障子越しに「いるよー」と間延びした声が返ってきた。
 両手で支えていた盆の体重をそっと左手一本に移し変えて、早苗は襖を開けた。
 諏訪子はうつ伏せになって、何か書物を読んでいた。傍らには同じような書物が十冊程積み上げられており、更に煎餅の乗った皿があった。

「ナイスタイミングだよ早苗、丁度喉が渇いてたんだ」

 諏訪子は起き上がって嬉しそうに声を上げ、早苗が手に取るよりも先に盆の上に手を伸ばし、湯飲みを持った。一口飲むと、煎餅を一枚手にとって早苗に渡す。一口サイズの堅焼き醤油煎であった。

「何を読んでいらっしゃるんですか?」
「外界の漫画だよ。紫から貸してもらったんだ」

 積み上げられた本に眼を向けると、確かに幻想郷には場違いな、異質な装丁がなされていた。そう感じて、すっかりここでの生活に慣れてきたものだ、と早苗は気づく。
 去年くらいまでは、これが周りに蔓延しているようなもので、当たり前であったというのに、今となってはかような風景も想像がつかなくなってしまっていた。
 諏訪子はまた仰向けになると、足をパタパタと動かし始めた。「無くて困るようなものじゃないけどさ、こうしてたまに読むと面白いねー」と言っては、時折小さく笑い声を零していた。
 そんな諏訪子の態度に、早苗は暢気だなぁ、と内心嘆息する。諏訪子は気付いていないのだろうか。神奈子の変化に、何かがいつもと違うということに。
 煎餅を一口齧って、早苗ははて、と思った。

「紫さんが来ていたんですか?」
「そうだよー、早苗が出掛けている間にね」

 諏訪子の返答を聞き、もしかしたら、と早苗の中に一抹の推測が浮かぶ。もしかしたら、その折に何かあったのではないか? そのことに意識が向かってしまって、「そう、ですか……」などと気の抜けた相槌を返す。
 諏訪子が、漫画から目を離した。
 早苗の方を見る。一拍遅れで、早苗がその視線に気付いた。先程とは打って変わった、些か気の篭った眼差しだった。

「……神奈子のこと?」

 今まさに考えていたことを突かれて、早苗はドキッとした。
「やっぱり気付いたか。そりゃあそうだよね。顔に出してはいないけどバレバレだってのね」諏訪子は苦笑を浮かべて、湯飲みに口を付けた。「小一時間ほどあんな調子さ、何あったか言おうともしないし、居心地悪くてこっちに引き上げてしまったわけ」

「今朝はあんなじゃあありませんでしたよね」
「うん。紫が来てからだね。何だか、話をしていたみたいだったけれど。大方、それで何か吹き込まれたんじゃない?」
「吹き込まれたんじゃない? って……」諏訪子の飄々とした口調に、早苗の表情が少しだけ強張る。神奈子のことに気を配り過ぎているせいか、些か神経質になっていた。それは語勢にも及び、諏訪子を咎める言葉が、今にも早苗の喉から飛び出ようとしていた。

「早苗」

 それを諏訪子が留めさせる。依然飄々とした、それでも双眸に宿るものは決して軽はずみなものでは無かった。
 ごろりと寝返って仰向けになる。大きく伸びをして、大の字になった諏訪子は、天井を仰いだ。流れ込む橙色の斜陽が、彼女の金髪を輝かせている。

「神奈子が何に対して、ああやって思い詰めているのかは私には分からないよ。もしかすると、私達がそんなので悩んでたの、って笑い飛ばせるくらい些細なことかもしれない。でも、そんなに些細なことでもさ、すぐにヒント与えたり、答え教えたりするのはズルだと思うんだよね、私。ほら、ヒントや答えって、一人で考えて考えて、それでも分からないときに貰うものでしょ? 要するに、敢えてすぐに手を出さないでおくの。気にしてないわけじゃあないんだよ。だから早苗も、神奈子を心配する気持ちは分かるけど、それ程真剣に――」

 諏訪子はそこまで言うと、笑顔を浮かべ早苗に視線を送った。当の早苗はというと、納得半分、不服半分で諏訪子の話に耳を傾けていた。「――考えるな、って言っても無理みたいだね。早苗には」
 思い詰めた様子の早苗を見、苦笑を浮かべる諏訪子。「申し訳ありません、諏訪子様。でも私、黙って見ているわけにはいきません」早苗は言った。確かに、諏訪子の言うことは筋が通っていた。しかし、どうしても早苗は、その考え方を許容することが出来なかったのである。
 困っている人がいるのなら、一番に手を差し伸べようとする。それが大切な人であるのなら尚更のこと。

「謝ることはないよ。私には私なりの、早苗には早苗なりのやり方があるってものさ。……ほらほら、そんなに心配してるんだったら行きな。行って、ドンと背中を押してやりなよ」

 力強く肯んじた早苗を、諏訪子は目を細めて見届けた。それから再び伸びをして、さっきまで読んでいた漫画を手に取る。
 早苗は静かに一礼をした。それに彼女が手をひらひらと振って応える。その表情は、本の下に隠れて見えなかった。
 木々がざわめいた。涼しい風が、この場を後にしようとする早苗の背中を撫でる。ふと目を瞑ってみれば、心の全てが洗われてゆくような、心地よい感覚だった。
 何も変わってはいなかった。木々のざわめきも、心地よく吹く風も、古ぼけた匂いも、床の軋みも……普段通りに流れていた。その普段通りが、今は何故だろうか、自分の足元をひしと支えているような、そんな心強さを彼女は覚えていた。


 早苗が居間に戻ってみると、相変わらず神奈子は縁側に腰掛け、茜色に染まった山々を遠望していた。
 襖の開く音にすら一瞥もくれない。最前まで心地良かった筈の静けさが、ここに入った途端ぐっと重圧を帯びたような気がした。
 早苗は躊躇うことなく前へ進み、そして神奈子の隣に座った。
 それでも彼女は早苗に目を向けることは無く、無機質な表情でじっと前だけを見据えている。
 見据えている、と言っても、心ここにあらず、と言った具合で、物思いに耽っているようだった。

「神奈子様っ」

 やや声量を大きくして、早苗は神奈子の名前を呼ぶ。その声に神奈子は、はっと吐息を漏らした。まるで、先程まで息をしていなかったかのように。
「早苗……」神奈子は早苗を見て苦笑いを浮かべた。「ごめん。少しボーっとしていたみたいね」
「ボーっとし過ぎですよ……ちっとも飲んでいないんじゃないですか? お茶」

 先程、自分が持ってきた湯飲みを、早苗が指差す。
 湯飲みに入った新緑色の液体は、八分ほど湯飲みをその色で満たし続けていた。立ち込めていた湯気は失せ、時折吹く微風に水面が小刻みに揺らめいている。
 神奈子は乾いた笑いをこぼすと、慌てた調子でそれを呷った。溜息を一つ吐いて、それから難しい顔をして押し黙ってしまう。
「神奈子様」元々神奈子は、自分や諏訪子に隠そうという魂胆で平然を装っているのだ。さすれば自分から聞き出す他には無い、と早苗は思った。「……今日の神奈子様、少し変ですよ? 何かあったんですか?」
 神奈子の表情が強張る。しかしそれも一瞬のことで、彼女はまた、乾いた笑いを漏らした。
 心の中を駆けずり回って漸く掻き集めたような、無理矢理出したような笑い声だった。

「変、だって? 何を言ってるんだ早苗。私は別に――」

「嘘です」ずいと、早苗は神奈子に迫った。逃さぬように、射抜くように、彼女は神奈子の双眸を捉える。神奈子の瞳の奥に小さく、自分の表情が映った。

「諏訪子様から聞きました。私が出掛けている間に紫さんが来たそうですね。その後から様子がおかしくなったとか……」

神奈子にも、早苗の瞳を通して自分の顔が見えているのかもしれない。次第に、彼女の表情から笑みが消え、緊張が消え、ただ憂愁の色だけが残った。

「私だってもう子供じゃない、この手で、神奈子様の手助けをしてあげたい……だから、一人で抱え込もうとしないでくださいよ……」

 感極まって、早苗は泣きそうになった。鼻がツン、として、目尻へ涙がせり上がって来る。
 そんな彼女の肩に、神奈子はそっと両手を添えた。憂愁さは払拭しきれないままだったが、そこには平生の優しさが存在していた。
 潤んだ瞼を擦って、早苗は景色を見やった。間もなく日が山に隠れる。天上は次第に、藍色が浮かび始めていた。

「で、何について考えていたんですか」
「些細な事さ」神奈子もまた、外を遠望した。「重箱の隅を突くような、考える必要も無いこと。でも、気になりだしたら仕方が無い。そんなことさ」
 一拍置いて、彼女は続ける。

「……早苗は、幻想郷が好きかい?」

 薮から棒の質問に、一瞬うろたえながらも早苗は即答した。
「好きですよ」心底から出た言葉だった。「ここはいい所です。緑が一杯あって、長閑で、暮らしている方々は……ちょっぴり変なところがありますけれど……とても気のいい人達ですし」
「そうか。早苗が気に入ってくれたのなら、意を決してここに引っ越してきた甲斐があるってものね」

 早苗にはその言葉が、意味深なものであるように聞こえた。まるで、自分が喜びさえすればそれで良いかのような。もしかして神奈子様は、幻想郷に来たことを後悔している? そんな考えが、早苗の脳裏を過ぎった。
「私も幻想郷が好きだ」神奈子がそう言っても、早苗の不安は取り除かれなかった。「でも」と、神奈子が言葉を続けたからだ。早苗の視線は、再び神奈子の方へと注がれた。

「私のそれは、よくよく考えてみたら、邪なもので一杯なんだろうな。純然とした愛ではない、所詮は下心が見え見えな恋でしか……」

 くく、と神奈子は自嘲気味に笑った。早苗は神奈子の真意をすぐに汲み取ることが出来ずにいた。最前に神奈子が言ったことが反芻される。重箱の隅を突くようなこと、考える必要もないこと。だから、汲み取れずにいるのだ。
 早苗は神奈子の横顔を見ていた。口に出したことで肩の荷が降りたのだろうか、いつか感じた違和感は無くなっていた。普段通りの神奈子だった。吹っ切れた様子で、半ば諦めきったような顔色で、彼女は藍色の空を見上げた。

「よく考えてみなよ、早苗。神にとって信仰は全てだ。信仰を失ってしまえば、神には何も残らない。命、と言っても過言ではないだろう。信仰は私を私たらしめるものだ。故に、如何なるときでも信仰が付き纏う。行動の一切に、私は『信仰のため』と理由を付けようとする。自分が自分であり続けるために、この力を失わないように……『愛してる』というには余りにも私利私欲に淀んでいる。結局の所、私はここに胡麻をすっているのさ。神様は、世界を愛することが出来ないんだよ」

 神は、世界を愛することが出来ない――果たしてそうだろうか、と早苗は思った。彼女の言う通り、よく考えてみる。神奈子の言葉を咀嚼してみる。
 正鵠は射ているような気がした。『神』は自らへの信仰を力にする。そもそも信仰が無くなれば『神』は『神』でなくなってしまうので、『神』は必死に信仰を集めようとする。だから、その行動の全てには、信仰を得るという、『神』のエゴが内在している。そこに澄み切った愛情は無い。畢竟、『神』は世界を愛することが出来ない……言われてみればそうであるような気がした。

「確かにそうかもしれませんね」

 だから早苗は肯定した。
 肯定した上で、思索を深め、再び言葉を紡いだ。

「でも神奈子様。思い悩む必要はありませんよ。譬え、『神』が世界を愛することが出来なくても、神奈子様は、『八坂神奈子』は、世界を愛することが出来るじゃあないですか。神奈子様は、神である以前に『八坂神奈子』なんです。『八坂神奈子』の気持ちが、神奈子様の本当の気持ちなんです。信仰のためとか、それは全部、『神』という属性が後から上塗りしたものでしかありません。確認しますけど、神奈子様は幻想郷を愛してるんですよね?」

 神奈子は目を丸くしていた。目を細め、意を得たと言わんばかりに喜色を浮かべた早苗に圧倒されているようだった。「あ、ああ……」多少どもりながら、神奈子はゆっくり頷く。

「それでいいじゃないですか。それは紛れも無く、神奈子様の本心から出た言葉なんですから。『神』がどれだけ上塗りしたって、それは決して変わることの無い真実ですよ!」

 がしと神奈子の両肩を掴んで、力説する早苗。神奈子は未だ呆然とした面持ちで、キラキラと輝く早苗の瞳に捉えられていた。
 空では、烏が群を成してカァカァと鳴いている。遠くからパタパタと足音が聞こえてくる。夕日色が失せ、星が瞬き始める……周りの全てが流転を始めた。神奈子から、ふぅ、と息が漏れる。その表情は自嘲も何も無い、本当の意味で清々しかった。
「そうだね――」神奈子がそう言ったのと同時だった。居間の襖が勢い良く開かれたかと思うと、そこからフラフラとした足取りで諏訪子がやって来た。思いっきり叩き付けたような音に、早苗も神奈子も肩を震わせて、同時に諏訪子の方を見る。

「早苗―。そろそろご飯にしようよー」

 諏訪子は力無くテーブルに突っ伏し、「お腹空いたー」と呻いた。そこで早苗は、夕飯の時間をとうに過ぎてしまっていることに気付いた。
 本来なら、帰宅してから早速、夕飯の準備に取り掛かるはずだったのだ。

「す、すぐに準備します!」

 謝るのも煩わしく、早苗は慌てて立ち上がると、どたどたと居間を飛び出していった。「今日の早苗は休む暇が無いねぇ……誰かさんのせいで」今や後方へとやった居間から、諏訪子の声が聞こえてくる。
「そうね、休む暇が無いわね」神奈子が返す。舌鋒は鋭く、謝るというよりは、寧ろ諏訪子を咎めているようだった。

「何さー。神奈子がうじうじしていたせいでしょ。早苗すっごく心配してたんだよ」
「それは認める。けれど非は諏訪子にもあると思うわ。一人だけ何もしないで寝転がって。私だけに責任を押し付けるのはどうかと思う」
「ぐ……! 何よ開き直って! そもそもの事の発端は神奈子にあるでしょ! そーいうの、逆切れっていうんだよ?」
「結局の所諏訪子も同じよ! 大体諏訪子はいつもそう! 信仰集めは私と早苗にだけ任せて、あんたはいつでも体たらくじゃない!」
「勝手に話を広げるな! とにかく今日は、紫の言うこと真に受けた神奈子が悪い!」
「自覚しなさい! 紫から借りた漫画に読み耽って、何もせずダラダラしていた諏訪子にも、早苗を忙しくさせた原因はあるのよ!」
「なにおう!?」

 行き交う二人の怒号は、早苗が調理をしている台所にも響いてきた。どっちもどっちだと思いますけどね――早苗は苦笑を浮かべながら、せっせと事を進めていく。
 二人の口論は更にエスカレートしていって、果てには轟音すら聞こえ始めた。それもまた、いつも通りである。
 何と言うことはない日常。そこに思いを馳せて、早苗は胸が温かくなるのを感じた。その胸の温かみが、早苗が幻想郷を心底から愛していると示す、何よりの証明であった。



「――それで、神奈子様は紫さんに何と言われたんですか?」
「ん? ……『貴女の抱いているそれは、本当に愛情でしょうか?』って訊かれたのさ。まあそう訊かれる前にも、『幻想郷には慣れた?』とか色々訊いてきたけどね」
「まあ、紫は幻想郷を誰より一番愛してるらしいからね。神奈子に中途半端に『幻想郷を愛してる』なんて使って欲しくなかったんじゃない?」
「……そうかもしれませんね」
「そしてあの件さ。『所詮、神々が此処に抱く感情は愛情のように純粋なものじゃない。信仰を求める利己心から来るものよ。”恋は下心、愛は真心”なんて、良く言ったものですわ』……ってさ。ホント、上手く言ったものだよ。”恋は下心、愛は真心”……なんてさ」
「まさか神奈子、真に受けたのその言葉?」
「真に受けても、受けなくとも……紫にそう言われて、余計なところまで考えを巡らせてしまったのさ。彼女の言う通り、私の感情は信仰を得たいとか、そんなエゴに塗りたくられているんじゃないか……そう考え込んだせいで、抜け出せなくなったみたいだね」
「なるほど……って、何かはぐらかされたような気がするんだけど」
「神奈子様も諏訪子様も、もういいじゃないですか。そんなことより、こうして微かな明かりの中で食事をするというのも、なかなか新鮮味があって良いですね」
「そうね。それに――今日は星がとても綺麗だ」

 神奈子の言う通り、今宵の空模様は清澄であった。星屑が各々心許ない光輝を掻き集めて、守矢の居間へそれらを降り注いでいる。山脈は暗闇に隠れ、おぼろげに水の音が聞こえる。九天滝の流れる音だろう。粛々とした外に、仄かな灯火の煌きも相まり、神秘的な雰囲気を醸し出していた。三人は互いに、知っている星座を見つけては指をさす。
 そうして三人の、少し違った一日は、結局の所いつものように、終わっていくのであった。
"あい"が大事だと、誰かが言っていたので、
それならばと、色々な"あい"について考えてみました。

叡智に溢れているわけではないし、
それを論理として揮う力もまだまだ未熟ですが、
ある事柄について思索を巡らすのは、好きです。
続くかもしれません。

ご読了、ありがとうございました。
碑洟
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コメント



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9.100名前が無い程度の能力削除
雰囲気に浸らせていただきました。和むなぁ。
単なるほのぼのでないところがまたいい味です。
10.100名前が無い程度の能力削除
前回然り、今回然り、
こうして作品を通してあなたの哲学を垣間見ることができるのは
一読者としても楽しく、面白く感じます。
I、eye、愛。そして、哀、会い。「アイ」は色んな解釈ができますね。
次回作も楽しみにしています。