右、左と交互に突き出される足をぼんやりと見つめながら、溜息を吐く。
胸の奥の奥、心の最奥部から出た息は気管を通って口から吐き出されるまでに随分と重たいものになってしまうようだ。
こうやって人の集団の中を歩いていても私に声を掛けてくる人はいない。
そう今、私に友達はいない。
まあ、新参者の私に友達がいないのは当たり前の事なんだが……
分かりきっていることだけれど、やっぱり寂しいことに変わりはない。
知り合いと呼べる人はたくさんいる。もちろんおしゃべりだってすることもある。
けれども、所詮は知り合い程度の付き合い。
顔を合わせたら挨拶をして、適当な世間話をしてそれで終わり。
何のことはない社交辞令を交わすだけの間柄。
そんな人たちに私は不満こそないが、物寂しさを孕んだ不足感を覚えてしまうのだった。
――人里の道を行く。
両の脇に商店が立ち並び新鮮な野菜や果物、肉類等が並べられており、それを買い求める人々で賑わっている。
私もそんな人達と同じく買い出しに来た訳である。
道行く人々の明るい声が、無性に胸に迫るものがあって、買い物リストを頭の中で何度も確認してみたり、店の場所を脳内に地図を書いてみたりして
どうにか込み上げてくる寂寞の思いを紛らわせる。
どうにも沈みがちになるのはきっとこの空のせいだろう。
倦怠感に苛まれながら見上げた空は、薄い灰色の雲が覆っており、どこまで見ても一向に青い空は見えやしない
そのうち雨でも振って来やしないかという気にもなる。
肌に纏わり付く湿気た空気が鬱陶しい……
乱暴に頭を振れば少しはましになるだろうかと思ったが、ただ重たい頭に僅かばかりの鈍痛と目の回った浮ついた不快な感覚が加わっただけだった。
どうにも今日は調子が悪い……
こんな時は早く買い物を済まして家でゆっくりお茶でも飲むべきだろう。
そんな事を考えながら目的の店である八百屋に立ち寄る。
採れたてなのだろうか?
青々とした中々に見事な野菜が、山のように、とはいかないが結構な数並んでいる。これを使って料理すればきっとおいしい物が作れそうだ。
どんな料理を作ろうかと色々と思い描いていると少しだけ元気が出たような気がした。
それにしてもこれだけの野菜があれば、当然良い物と悪い物が混ざっているに違いない。
うーん、どれにしようか? どうにも目利きは苦手だ。
なんとか良いものを見つけようと大根を食い入るように見つめていたら、ふっと誰かが横に立つのを感じた。
その人から普通の人からは感じない圧迫感を感じて、どうにも気になってしまう。
気付かれないように気をつけながら、視線だけをそちらに向ける。
私の目に写るのはこの人里には不釣り合いな格好をした人物だった。
メイド服と言うのだろうか? 紺のドレスにうっすらと赤を帯びた白いエプロンをしている。
そこからほっそりとした足が覗いている。
上の方へ目を遣れば銀色の髪の毛が煌めいていた。
澄んだ雰囲気を漂わすこの人物を例えるなら…………
大根?
いや、我ながら流石に大根はないな……白のイメージが先行したのと手元にあった大根の仕業だろう。
自分の例えのセンスのなさに思わず頭を掻いてしまう。
「……声に出ているわよ」
不機嫌さを隠さない言葉に萎縮した私は謝ることもできずに、ただ手元の大根を忙しなく弄るだけ……なんとも情けない。
「まぁ、褒め言葉という事にしておきますか。大根はほっそりとしたのが美味しいしね」
そんな私の態度を見た横の人は、呆れたと言わんばかりの投げ遣りさで、そんな言葉を掛けてくるのだった。
女の人は私の手にある丸々と肥えた大根を横目に野菜を適当に見繕っていった。
私も慌ててそれに倣うのだった。
――先に会計を済ました私はやや離れた場所から彼女を眺める。
歳は私と同じくらいだろう、背は私より少し高い様に思える。
先程は思わず失礼な事を言ってしまったが、こうして見るとやはり大根はないだろう……
それに女性に向かって、大根呼ばわりとは普通ならあり得ないことだ……今日は本当に調子が悪いらしい。
「あんまり人をじろじろ見るのは感心しないわ」
突然、後ろから声をかけられ、思わず素頓狂な声と共に飛び上がってしまった。
振り返れば先程まで八百屋の店先にいたはずの人物が立っていた。
私は再び驚きの声を上げたのだった。
――ひんやりとした木の椅子の感触が伝わる。
外では雲が落涙し、地を濡らしている。
少し前に降りだしたそれは、私を里のとある甘味処に追いやった。
そう、目の前のこの人と一緒に。
十六夜 咲夜
彼女はそう名乗った。
どこぞの館でメイドをやっているらしいが、雨に気を取られ過ぎたせいかほとんどの情報は記憶から抜け落ちてしまった。
「運が悪かったですね」
「運が良かったわね」
わざとなのか、私の発言と逆の事を間髪入れずに言ってくる。
……でも、確かに雨に濡れる前に屋内に入る事が出来たの幸いと言えるだろう。
どうにも初対面の人と二人っきりというのは緊張するものだ。何を話したらいいのかまったく分からない。
無言の間が私を焦らせる。こういうときはどうしたらいいのだろう?
なんとかして話を続けないと……
一人焦る私を尻目に咲夜さんは頬杖をついて窓から外を眺めていた。
「……とりあえず何か頼みましょう」
昼食には物足りない気がするが、何も注文しない訳にはいかないだろう。
どうにか紡いだ言葉に、彼女は姿勢を正すと軽く笑みを作って
そうね
と同意をする。余裕そうな彼女に比べて私一人が空回りしているような気がしてならない。
なんだかなあ……
思わず出そうになる溜息を押さえ込んで、今度は私が窓の外を眺めるのだった。
――私はとりあえず餡蜜を頼んでおいた。
それにしても、こうやって外で食事をするのも久しぶりだ。
此方へ来てからは何かと忙しくゆっくりする暇なんてなかったし……
窓から目を離して店の中をぐるりと見渡す。雨のせいか中は閑散としており客もほとんどいなかった。
その客も衣服が所々濡れているのを見ると、私たちと同じように雨宿り目的と言ったところだろう。
そして客が少ないからだろうか、食事は直ぐに運ばれて来た。
食べやすいように小さく切られた彩り鮮やかな寒天に、添えられた餡と密豆の甘やかな香りが実に過激に胃を刺激する。
これはもう食べざるを得ないだろう。
いただきますの一言と同時に木製のスプーンで魅惑のそれを掬う。
一口食べれば優しい甘さが口に染み込み、食道から胃へと線のような甘さを残して消えてゆく。
けれども、それも決して不快になるような粘つく甘さではなく、寒天の程よい食感が歯に心地よい。
一口食べればすぐに次が欲しくなる。そんな味だった。
和菓子もなかなか侮れないな。
此方に来る前は洋菓子がほとんどで、和菓子など見向きもしなかった。
こう言うと意外かもしれないが、どうにも堅苦しいイメージがあって食わず嫌いの気があったのだ。
だが、こうして実際に食べてみれば、今までの自分が恥ずかしくなるくらいに、洗練された美味しさを持っていて、ただただ感心するしかない。
そういえば彼女は何を頼んだのだろうと思えば、黄金色のタレのたっぷりとかかった御手洗団子。
団子から仄かに立ち上る湯気が、金色のタレを絡め取って空中へと溶けていく。
此方まで漂ってくる甘い香りは私の鼻孔を満たし、肺へと至り体中へと行き渡る。
店の明かりに照らされて金の星をその身に浮かべて食されるのを待つ珠。
目の前のこれはどんな味を秘めているのだろうか?
……食べたい。
そう思わずにはいられなかった。
「貴方も食べる?」
団子を食い入るように見つめる私に気付いた咲夜さんは何とも魅力的な提案をしてくる。
「いいんですか! ……じゃなくて、気を遣わてなくていいですよ」
「沢山あるんだし、貴方こそ遠慮しなくても大丈夫よ」
と素敵な笑顔を私に向けてくる。それはとても綺麗で輝いて見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
ここは素直に貰ってもいいのだろうか?
いや、これはきっと社交辞令というやつだ。ここで断らなければ常識のないやつだと思われるかもしれない。
でも、本当に親切で言ってくれてると言うのなら、断るのは逆に相手の気持ちを無下にすることになってしまうし……
貰うべきか貰わざるべきか?
どうにも困ったことになった。
ぐるぐると廻る思考は一向に答えにたどり着かない……いや、きっと答えなどありはしないのだろう。
そんな自問自答に終止符を打ったのは、咲夜さんの手によって差し出された。団子の皿であった。
誘惑に負けて皿から一串頂いて、先端の団子を口に頬張る。
濃厚なタレは一瞬にしてその甘さで口内を満たし、それに包まれた人肌より少し温かい位の団子は弾力に溢れており、この上ない食感を与えてくれた。
あまりの美味しさと食べやすさに、二、三個目は早々に串から消えるのだった。
今更だが、もっと味わって食べれば良かったかな……
食べ終わってみると、なんだか口寂しい気がしてしまう。
どうにも名残惜しく、くるくると串を回して弄って見る。
すると、そんな私の前にすっと現れる新たな団子の串。
「咲夜さん?」
「食べないの?」
ニコニコともニヤニヤとも取れそうな表情を浮かべながら、私の前に団子の串を揺らす咲夜さん。
滴り落ちようになる、とろみを帯びたきつね色のタレが眩しい。
粘つく唾液が喉の奥へとゆっくり落ちていく。
「流石に二つは……悪いですって」
私の呼びかけにも彼女の表情はまったく変わらない。
煌くタレが私を誘惑する。これはどうにも目に悪い。
目を瞑ってみれば誘惑を振り切れるかと試してみたが、甘くていい香りがより強く感じられるだけで、逆効果だった。
結局、私は無言の圧力と甘い香りの誘いに乗って、目の前の魅惑のモノへと口を付けたのだった。
……それにしても、私ばかり貰うのも悪い気がするな。
何かをしてもらったらお礼をするのが普通だろう。
暫し思案したが上手い返し方が見つからない……
私の元にある物と言えば、食べかけの餡蜜だけ。
これで、大丈夫だろうか……
手元の餡蜜を一掬い、それを咲夜さんの前へ持って行く。
「何?」
「一口どうですか?」
笑顔を意識しつつ声を出す。
上手に顔を作れているだろうか?
薄っすら笑いを貼り付けた顔とは逆に心臓はいつもの何倍もの血液を送り出す。
力強い鼓動は全身の血管に余すところなく緊張を送り出す。
それは私の体を強張らせるのに十分な程の拘束力を持っているのだった。
「遠慮するわ」
「美味しいですよ」
案の定、辞退の言葉が返ってくる。ここまでは想定の範囲内だ。
おそらく、彼女は何を言っても断るだろう。ならば、逆転の発想で何も言わなければいい。
そう、此処からは無言の戦いの始まりだ。
腕を組んでだんまりを決め込む彼女。不機嫌なようには見えないが、もちろんうれしそうにも見えようはずもない。
しかしここで負けるわけにもいかない。何とかして、食べてもらわないと……
間が空いてしまったせいで私も引くに引けない状況なのだ。
腕の筋肉を振るわせながらもスプーンをどけない私。
……自分でやっておいて何だが、この腕の姿勢は予想以上に辛い。
ただでさえ、さっきまで野菜の詰まった袋を持っていたので腕が疲れているのだ。
その状態でこの姿勢はなかなか辛いものがある。徐々にスプーンが揺れ出す。
そして私の腕も、時計の針のように三時から六時へと向けて一分ずつ角度を下げていくのだった。
そんな私とは逆に彼女は、時間でも止められているようにまったく身動きをしない。
まさかとは思うが、目を開けたまま寝ているなんてことはないよなあ。
雨の音だけが私の耳に届く、店の中の会話は何故だか、まったくと言っていいほどに気にならない。
ただ、地面を打つ雨の音だけが私の耳に届くのだった。
――私の気力と腕の筋肉が萎えようとした時だった。
ついに微動だにしなかった彼女が動いた。
やれやれと言う言葉が似合うような渋い顔をしてはいるが……
「……分かったわ、私の負けよ」
「えっ、じゃあ」
「ええ、頂くわ」
咲夜さんは笑っているのか怒っているのか判断出来ない表情を浮かべながら腕組みを解いた。
それと同時に私も食べやすいように腕を上げる。
心なしか彼女の頬が赤く染まっているように見えるのは私の気のせいだろうか?
まあ、私も人のことをとやかく言えない程に赤い顔をしているのだろうけど。
「……い、いただきます」
「はい、どうぞ」
咲夜さんは人目が気になるのか、ちらちらと辺りを伺っている。
スプーンに口を近付けたかと思えば、遠退けたりと端から見たら挙動不審である。
そんな様子が何だが可笑しくて……
「……何も笑うところは無いわよ」
ついつい顔に出てしまったようだ。気を付けよう。
私に笑われたのが恥ずかしいのか、咲夜さんの頬は今度はしっかりと分かる程に赤みを帯びている。
そして、意を決したのか、真剣な眼差しをしながらスプーンを口に含む。
何をそんなに気張っているのか私にはわからないが……
「どうですか?」
「これ……予想以上に美味しいわね」
先程までの重々しい顔は何処へやら、一口噛むごとに頬が上がっていって、今ではすっかり笑顔である。
私も、自分が褒められたような気がして、ついつい内心はしゃいでしまう。
いつしか、窓の外から聞こえていた雨音も止んでいる。
ちらりと視線を向ければ、雨から解放された鳥たちが大空へと飛び立っていくのが見えた。
風に揺れる木の葉に残った雫が雲間から射す光に照らされて輝いて見える。
綺麗な景色を見られるのなら雨も悪くないなあ。
そう思った。
……そういえば前に、こういう時間を友達と過ごしたのはいつだっただろうか?
記憶を探しても一向に見つからない。
この世界に来る前にも学校に友人はいたがプライベートな付き合いはまったくなかった。
今思えば友人と呼んでいいか迷う。
ひとつ溜息をついて、頭を振る。そうして、私は無駄な思考をやめた。
――雨が上がる。
「そろそろ行く?」
「はい、そうですね」
短い間だったが私達の声の調子は軽い。
外から微かに聞こえる鳥の鳴き声が耳に馴染むように溶け込んできて心地が良い。
私は少しは彼女と仲良くなれただろうか?
彼女の中の私は友達と呼んで良いほどの位置につけたのだろうか?
……いや、きっとまだだろう。考えるまでもない。彼女にとって私はさっき会ったばかりの人間でしかないのだから。
少し話したからと言ってそう易々と心を通わせる事はないだろう。
私にだってそれくらい分かる。
そんな事を考えていると段々と暗い気持ちになってきた。
溜息を吐きながら、のろのろと席を立つ。
伝票を手に取ろうとしたが、今しがたあったはずのそれは机の上から消えていた。
確かに私の右隣に置いてあったはずだ……
「えっ、あれ!?」
位置的に伝票の管理は私の役割だろう。
思わぬ失態に焦る。慌てて辺りを見回すが、それっぽい紙は落ちていない。
……というかこれは私の責任なのだろうか?
半ば言い訳じみた考えが浮かんでくる。
まあ、咲夜さんのせいにする訳にもいかないよなぁ。
地面とほぼ平行になるように顔を下げる。髪やら服やらが汚れてしまうが、気にしている場合ではない。
「何を這いつくばってるの?」
伝票を探して机の下を覗き込んでいた私に冷ややかな声がかかる。
「あのー、えーっと」
とりあえず言葉を濁して時間を稼ぐ。
何とも気まずい沈黙。
……冷や汗が溢れてくる。初めての食事でミスを犯すというのは避けたい。私の失敗は即ち、連れの彼女の失敗。
彼女にまで恥をかかせる事態だけは回避したい。
私のせいで恥ずかしい目に会ったとなれば、今後に私に対する無意識の苦手意識を覚えてしまうかもしれない。
……それはとても悲しい。
絶対にそれだけは勘弁願いたい。
「何か落とし物?」
「えーっと、……お守りを、朝はあったんですけど」
心配そうに近付いてくる彼女に咄嗟に嘘を付く。
上手いとは言えないが口をついて出た言葉にしては悪くないだろう。
「あら、大変じゃない」
そう言って彼女は私と並んで床に手をつく。
「あっ、いえいえ、そこまで、別に大した物じゃなくって。此処で落としたかも分からないですし」
床は先程の雨のせいか、ひやりと冷たくて、手のひらから熱を奪っていく。
「そう……ごめんなさいね」
何故か頭を下げて謝る彼女。
ふと目に付いた彼女の手は、一度地面に触れただけにしてはやけに汚れていた。
謝るべきは私の方だろう。伝票を無くし嘘をついた私は罪悪感に苛まれる。
「本当に気にしないで下さい」
声が沈むのも無理ないことだろう。
「行きましょう!」
まだキョロキョロと地面の彼方此方に目をやっている咲夜さんの手首を引く。
「あのーお会計を……」
勇気を出して店の人に尋ねようとした私に声がかかる。
「お会計なら済ましたわよ」
「えっ! 本当ですか!」
嬉しそうな表情を私に向ける彼女。どこか、してやったり感を漂わせている気がする。
呆ける私の顔を見るのがそんなに楽しいのだろうか?
周りの人が笑っている声がやけに大きく聞こえる。多分、私のことを笑っているのではないのだろうけど……
どうにも居た堪れなくなって、未だにくすくす声を抑えながら笑っている彼女の手を引いて早足で外へと向かうのだった。
――先程までの雨が嘘のように明るい青空が広がっている。
道にできた水溜りが太陽の光を受けて湖面のごとく輝いている。
湿った空気独特の臭いが鼻をつくが、晴れた空を見ていればそれすら快いものに思えた。
現在、私達は店員さんの爽やかな声に送り出されて里の外れにいる。
咲夜さん曰く
「お会計は貴方がぼんやりしてる内に済ましたわ」
との事だ。
ぼんやりしている気はなかったのだが、こういうのは本人は気づかないものだし、きっと彼女の言うとおりなのだろう。
しかし、それならそうと言って欲しいものだ。そうすれば無駄なことをせずに済んだというのに。
まあ、気が付かなかった私も私だが……
と、ここでようやく咲夜さんの手を掴みっぱなしだったことに気付いて慌てて離す。
土に汚れていたはずのその手はいつの間に綺麗になっていたのだった。
里を出て少し歩く。横に立つ彼女との距離は近からず遠からずの微妙な距離だ。
水溜りを避けてひょんぴょんと軽くジャンプをしながら進む。
何の会話も無い時間だったが、不思議と緊張はほとんどしなかった。
風が吹いて木々が揺れる。そうして葉に残った水滴が宙へと飛ばされ、日の恵みをその身に受ける。
小さな星屑が舞う。
その中で、私たちは軽く挨拶を交わし離れていくのだった。
余計なおしゃべりは何もない。ただ一言を残して、帰っていく。
その言葉だけが、凛とした余韻を空へと響かせるのだった。
――布団の中で目を閉じる。暖かい布に包まれて、体の芯から温もりが広がっていく。それは布団へも広がり私を中心に暖かな空間を作る。
けれど、それだけ快適な空間を形成しているにも関わらず、一向に眠くならない。
寝返りを打ってみたり枕の位置を変えてみても何の効果も見られない。
目を閉じていても瞼の裏にチカチカと何かがちらついてどうにも気になる。
こういう眠れない日は昔のことを思い出す。
一人は慣れている。
今思えば、小学校の時から私の歯車は、ずれていたのかもしれない。
人と違う力を持っている。
誰しも一度は思い描く夢の話。
そんな夢物語の主人公のように特別な力を持っているのだ、という無意識の傲りはきっと人を気付かぬところで不愉快にしていたのだろう。
私がそれを自覚したのが中学の半ばだった。
誰しもが持つ人より上でありたいと言う当たり前の感情。それを制御することは幼かった私には到底無理なことだろう。
そう、それはきっと誰であろうと抑えられないはずだ。
決して虐められたり除け者にされた訳ではない。
けれども、確かに私への苦手意識は根付いているのだった。
誰も私に進んで声を掛けることはない。私は私で、人見知りする性格だったので一人机で本を黙々と読むだけ。そんな毎日だった。
学校での思い出と言ったら、机の天板の冷たい感触とみんなが話しているのを横で聞き耳を立てていたくらいだ。
これではいけない。
そう思って私も行動したことがある。
何の行事だったか、グループ分けがあったのだ。
よくある五人組を作れという話だった。
先生や親、自分より目上の人の言うことに従って行動してきた私にとって、自分から何かをする。それはとても恐ろしいことだった。
今にも胸の奥から熱い何かが噴出しそうで、喉の奥は火に炙られたかのようにジクジクと痛んだ。
内臓を押されるような感覚に耐えつつ私は近くの女の子に声を掛けた。
自分でも顔が赤くなっているだろうと分かるくらいに頭が火照っていた。
緊張する私とは裏腹に彼女は呼びかけになんでもないことのように快く応じてくれた。
その時の嬉しさは今でも鮮明に思い出せる。
しかし、そこから状況が変わった。
彼女といつも一緒にいる子達がやって来たのだ。それも四人。
私を置いて楽しそうに話しを始める五人。
彼女らにとってそれは当たり前の光景であろう。そうやっていつもと同じように行事も楽しくみんなで過ごす。当たり前の行動。
けれども、班は五人で作られる。
そして、彼女達に私を入れれば六人。
ああ、どう考えても邪魔者は私しか考えられない。
彼女達もそう思ったのか、私に向けられた物憂げな視線。
最初に話しかけた子はすまなそうな顔を私に向けている。
その視線に追われるように私は無言で、そっとその場を離れた。
どうしようもない悔しさ。心を殴られたような痛み。
そして、溢れる程に湧いてくる切なさだけが残るのだった。
――それから月日が経ち、私は高校生になった。
今度こそ自分を変える機会だと思った。
それなのに、どうにも私は運に恵まれていないようで、入学式の翌日から一週間ほど体調を崩して休んでしまった。
再び教室へと赴いた時に目にしたのは、楽しそうに話しをする幾つかのグループだった。
既に形成された集団。
私はどうしても、あの時の視線がちらつき、そこへ声を掛けることができなかった。
結局、私は空気になった。
休み時間はできるだけ気配を消して本を読んだり、机に突っ伏して寝たりした。
別に寂しいとは思わなかった。
いや、思わないようにした。
そんな私の唯一のアイデンティティが他の人には無い風祝の力だった。
他とは違うのだ、という思いだけが味気ない生活を耐える助けだった。
しかし、そんなほんのささやかな矜持すら、例の二人組に粉々にされてしまった。
全てを無くしたのは是か非か。
私はもう一度変わろうと思った。
――私は再び人里へと赴いていた。
昨日の雨のせいで地面は所々、泥濘んではいたが大半は元の固さを取り戻していた。生乾きで湿った空気が肌に纏わり付く。
これで、虹の一つでも架かっていたなら見栄えもするのだろうけど、生憎そんな洒落たものは見つけれなかった。
私が此処へ赴いた理由は二つ。
昨日、途中で雨に降られたせいですっかり忘れてしまったのだ。
何をかって?
もちろん牛乳を買う事だ。私も年頃の女子だ、大きく成長させたいという願いはある。
言うまでもないが身長の事だ。他意はない。全く。
もう一つは咲夜さんへのお返しだ。
昨日の昼の御代は結局、私の分まで彼女が支払ってくれたようだったのでこれはお返しをしなければと思うのだ。
此方は達成出来たらいいな、と言う程度に考えている。
昨日の今日だが、私としては出来るだけ早くお返しをしないと何だか気になるし、時間が空く事によってうやむやになるのは避けたい。
そんな風に今日の予定を頭の中で整理しながら道を行く。
すると視界の隅にちらりと映るものがあった。
そう、私の目に写るのは探していた人物の姿。白と蒼のコントラストが映える人物。
なんと運が良いのだろう、咲夜さんだ。
見たところ何かのメモを見ているようだ。買い物リストだろうか?
かなり真剣な表情で手元のそれを見つめている。
そんな様子を見ていると……なんというか、とても声をかけ辛い。
とりあえず顔を上げるのを待つべきだろうか?
恐らく咲夜さんが此方を見れば私の格好は目立つし、気が付いてくれるだろう。
そうなればこっちのものだ。
彼女の性格的に無視はしないだろう。挨拶の流れのままに昼食にでも誘えば上手く乗ってくれるはず。
……しかし道端で何もせずに立ちっぱなしというのもまずいだろう。
いかにも貴方が気付いてくれるのを待っていました。
みたいな感じに思われるのは照れくさいし、印象も悪いだろう。
今後のためにも避けたいところだ。
そう考えて、手近な店の商品を眺める振りをしながら横目に咲夜さんの様子を伺う。
……早く気付いてくれないかなと思う。
いい加減、人参を観察するのは飽きてきた。
それにしても、こうやって人を待つのは意外と緊張するものだ、心臓に悪い気がする。
ちらりと咲夜さんに気付かれないようにこっそりと伺う。
悪いことをしている訳ではないのに、なんだかいけないとこをしている気になる。
そのまま見続けていると彼女はメモを見つつ、くるりと私の居る方向と逆の方を向いて、そのまま歩き出した。
歩いていく後姿に迷いは一切見られず、惚れ惚れするほどに整っていて美しい。
などと考えているうちに彼女はどんどん離れていく。
……なんという事だ。まったくの想定外。まさかの行動で私の予定は早くも崩れ去った。
このままではまずい、早く次の行動を考えなくてはいけないだろう。
そう、こういう時こそ私から動かなければ……
そうでなければ、いつまで経っても変わることはできないだろう。
深く呼吸をすれば焦りが消えていく。新鮮な空気が肺を満たし全身に力が漲ってくるのが分かった。
そうして、私の脳は僅かの間に完璧な作戦を練り上げる。
名付けて「爽やかな同級生作戦」
そう、それは外の世界で何度か見かけた事がある光景。
ある時、私が朝学校へ向かう途中だった。
私の前を歩く女生徒、そこに私の後ろから女生徒のものと思われる名前を呼びつつ駆け寄る女の子。
その様子は朝の登校にふさわしい、実に穏やかなものだった。
それを真似るのだ。
この作戦のリスクは咲夜さんに慣れ慣れしい奴だと思われる事。
しかし、上手く行けば、お返しに昼食に誘い易くなるというメリットもある。
深く息を吸い込んで、頬を軽く叩いて、未だに自分から動くことを渋る心を奮い立たせる。
さぁ、やるぞ私!
心の中でそう呟いて、気合い十分に私は足を運び始めた。
けれど足取りは浮くように軽やかに。
点々残る水溜りを避けて、緩い地面から泥を跳ね上げないように気をつけながら駆ける。
そう、ただひたすらに彼女の姿を目指して。
……と思ったのだが……咲夜さん何処?
先程まで見えていたはずの姿は忽然と消えてしまったのだった。
道を見渡すがどこにも彼女の姿は見えない、見知らぬ人が行き交うだけだ。
見落としたなんてことはないだろう。第一、彼女の目立つ服ならば気付かない訳がない。
折角の作戦も意気込みも肝心の相手がいないのならば何の意味もない。
目標を見失った私の足取りは徐々に速度を落とし、やがて止まるのだった。
足先が妙な冷たさを感じる。見れば気を他へやっていたせいか、水溜りへ足を突っ込んでいた。
湿気た風が頬を撫ぜる。その生暖かさが心に染みる。
溜息をつく。胸の底から全ての空気を吐き出すように深く。
我が事ながら実に滑稽だった。一人であれこれと考えた挙句、結局空回り。
気分が悪い。やはり、慣れないことなどしない方が身のためなのだろうか。
水を吸った靴が足へとへばり付いて、染み込んでいる生暖かい水が不快だ。
もう一度、深く息を吐いた。その時、すっと顔の横に気配がして……
「こんにちは、えーっと、み……風祝さん」
耳元で聞こえた声に私は驚きの声を上げたのだった。
――爽やかな笑みを浮かべたその人物と向き合う。
「こ、こんにちはっ」
急に運動をしたからか?
「そんなに急いでどうしたの?」
人に注目されることをしたからか?
「いえ、特に急ぎという訳では……」
はたまた、驚かされたからか?
「そう、なら良かった。邪魔だったらどうしようかと思ったわ」
きっと全部のせいなのだろう。私の鼓動は、いつになく早かった。
「それじゃあまたね」
そう言って彼女は、また私に背を向ける。
「あっ、えっと、そのー」
上手く言葉が出てこない。喉の奥に引っ掛かったかのように出そうで出ない言葉に、私自身もどかしさを覚える。
そんな私の様子が気になったのか、彼女は振り返り心配そうな顔をしている。
「どうしたの? 何か用」
少し厳しめの視線を投げ掛けてくる。
……どうしよう。人を誘うのがこんなにも難しいとは思わなかった。
必死に頭を巡らして何か上手い文句を探すだが、急には思い浮かばないのだった。
けど、そんな私の思いが伝わったのか、彼女は穏やかな表情を浮かべ口を開いた。
「分かった……悩みがあるのね。私で良かったら聞くわよ」
……どうやら伝っていなかったようだ。
けれども
「えーっと、……お願いします」
私の返事は、はいだった。
――先日とは違う茶屋。咲夜さん曰く団子が美味しいらしい。
店こそ違うものの内装はそう変わったものではなく、幾分か席が少ない程度だ。
そして、時間帯が悪いせいか、どうにも人が疎らなのだった。
「それで?」
咲夜さんが私の言葉を促す。心配そうな表情が胸に痛い。
テーブルに置かれた透明なコップに手を伸ばす。僅かに表面に水が張り付いていて、ひんやりとした感じが心地良かった。
……それにしても、これは困ったことになった。
流れに任せて言ってしまっただけで、私にこれといった悩みなどない。
どうにかして捻り出すしかないだろう。水を少しだけ口に含んで、それを口内に広げる。
咲夜さんは、難しい顔をしている私を見て重大な悩みだと思ったのか徐々に顔が険しくなってきている。
ダメだ、早くなんとかしないと……
これ以上追い込まれる前に状況を打開しないと、どんどん状況が悪くなってしまう。
私の頭はいつもとは比べ物にならないくらいに回転をしている。勢いがあり過ぎてどうにも落ち着かない。
両手を組んでみたり、足を揺らしてみたりと、いろいろな動きをしてしまう。
「じ、実はですね! 洋菓子が食べたくて!」
苦し紛れに出た言葉でなんとか場を凌ぐ。
「洋菓子?」
私の口から出た言葉が意外だったのか彼女は怪訝そうな顔をしている。
何とかして間を持たせないといけない。私の頭はより回転を早める。口が追い着いてないのは、この際、目を瞑るべきだろう。
「ええ、洋菓子です。此方では何処にも売って居なくて……私は作り方知らないし、どうしようかと……」
とりあえず、口の動くままに言葉を並べてみる。
すると彼女は、うんうん、と首を何度も縦に振りるのだった。
……どうやら上手く誤魔化せた様だ。まあ、実際に食べたいという思いもあるにはあるので、まったくの口から出任せという訳ではない。
「そうね、確かに人里で売っているのを見たことないわね」
そう言って咲夜さんは腕を組み、なにやら考え事に浸っているようで目を閉じている。
そんなに真剣に悩まれるとなんだか申し訳ない気分になってくる。
コップの表面を小指で軽く一撫でする。
表面に付着していた水が集まり、大きな水滴となって滑り降りる。
変則的に道を変えながらゆっくりと下っていくそれを、じっと見つめる。
すると、コップの水滴が通った後の曇りのない所から彼女の顔が見えた。
それは何かを思い着いたのだろうか、笑みを浮かべている。
「森の人形遣いなら作れるんじゃないかしら? あの子、頼めば何だかんだ言いつつやってくれるし」
さも名案だろうと言いたげな表情をしながら、組んだ腕を人差し指で二の腕を、とんとん、と叩いている。
人形遣い……確か何度か会った事があるけど、わざわざ頼み事をするのは気が引ける。
「いえ、別にそこまでして食べたい程ではありませんし、気にしないで下さい」
コップとテーブルの間に水が溜まる。コップを持ち上げてみれば、綺麗な円を描いていた。
そう?
と言って納得したような、していないような複雑な表情を浮かべる咲夜さん。
私としても、洋菓子をどうしても食べたいという訳ではない。今日の目的はあくまでお礼だ。
「本当に気にしないで下さい。外にいた頃に良く食べて、久しぶりに食べたくなっただけですから」
「そういえば、外にいた時は――」
話題を変えようと外にいた頃の話をする。
幻想郷の住人は外の世界に興味があるのか、ないのかは知らないが、この手の話をとても聞きたがるのだ。
咲夜さんも例外ではないのか、楽しそうに相槌を打ちながら話を聞いてくれる。
だから、私も嬉しくてつい聞いてしまった。
――今思えば、止めて置けば良かったと思う。人の過去を詮索すること程、無粋なことも早々ないだろう。
「咲夜さんは昔はどんな風だったんですか?」
「私も外の出身よ。まぁ、特に面白い事もない生活だったわ」
その時、確かに彼女の眉が近づいた。
けれども、私は彼女が、私の話で喜んでくれたのに浮かれていて、それに気付くことはできなかった。
コップの水滴がスルリと流れ落ちる。最早、私が切欠を作らなくても自然と垂れる水。
それは、誰にも止めることのできない流れ。これを遮ろうとコップを手に取れば、それこそ、より多くの水滴が生まれ、落ちることになるだろう。
テーブルに溜まった水が当て所なく足を広げる。
私はそれを、そっと指で薄く引き伸ばすのだった。
「そうなんですか? 教えて下さいよ」
私と同じように外から来た人物。興味が湧かない訳はなかった。
彼女の渋る口をなんとか開かせようと思って、少々強めの口調で尋ねる。
それくらいのことで機嫌を損ねるような人ではないと、そう高をくくっていたのだ。私は。
「……そうねえ、貴方は人と変わった力があるのに、随分と素敵な生活を送れたのね。羨ましいわ」
――とだけ言っておきましょうか。
そう言って咲夜さんは再び目を閉じた。
腕を組み目を閉じる彼女に、私は何の言葉も掛けることができない。
そう、私は距離を測り間違えていたのだ。彼女との。
明らかに不機嫌な態度を見せた彼女に、やっと、私はいけないことを聞いたのだと気付いたのだった。
うな垂れる。
目に映るテーブル。
そこには、先程、私が水で描いた線が引かれている。私と彼女の間を隔てるように。
どうせなら、何かの絵にしておけばよかったな。
そう思った。
――無言の時間が過ぎる中、咲夜さんは何処からか取り出した懐中時計を示す。
「もう、こんな時間だしそろそろ行きましょう」
針は私の予想以上に進んでいた。ここに着いた時に見た位置より半周以上も進んでいる。
彼女が帰りたがっているなら、それを引き止めることはできない。むしろするべきではないと言うべきか。
私は無言のまま席を立つのだった。
――境内を掃除する。空を見上げて見ると太陽に雲が覆い被さりその姿を隠している。
風が吹いて集めた落ち葉を攫って行く。私は髪を抑えながらそれを眺める。
はあ、と溜息をつく。また集めなければならないと思うと中々に憂鬱だ。
煽られた葉が、軽快な音を立てつつ地面を転がっていく。
昨日のお礼を果たした私の心は、本来なら晴れているべきなのだろう。
けれども、生憎と、私の天気は曇天だった。
言うまでもなく、理由は決まっている。
咲夜さんに昔の事を聞いてしまったせいだ。
彼女にとってそれは地雷というものだったのだろう。
懐中時計を取り出した時の彼女の瞳には確かに暗い陰の残滓が見て取れた。
彼女の表情を思い出すたびに心が沈む。何か別のことを考えようと試みるのだが、そう上手くはいかないものだ。
散り散りになった落ち葉を追う。
一度集めたかと思えば、少し気を抜いていただけでこの有様だ。もう一度がんばろうと言う気は早々起きるものではない。
溜め息をつく。
私は謝るべきなのだろうか?
しかし、謝るという簡単な行為をしたところで済むことなのだろうか?
いや、きっと違う。そういう繊細なことは上辺だけで片付けれるものではない。
それに、わざわざ自分から話題にするべきでもないのだろう。
ならば何もなかったことにするべきなのか?
それが一番いいのかもしれない……
けれども、それでも、何かしないと私の気が済まない。
そんな、でも、でも、という議論が延々と頭の中で繰り返される。
不毛なやり取りを頭を振って吹き飛ばす。これではいけないと、別のことを考える。
落ち葉を掃き集めながら、今日の献立を思い描く。
……そういえば、また牛乳を買い忘れた。
今日の私はとことん失敗するようだ。
そしてまた、風が吹く。
再び舞い上がった落ち葉を眺める。
私の溜め息は地へと吸い込まれて行った。
――三度、私は里の地面を踏みしめる。
左手には牛乳の入った袋、同じ過ちは繰り返さないために今回は買うものは先に買った。
私が向かうべき場所は里の出口だ。
だが、今日に限っていろいろな物が気になってしまう。
あっちの店の野菜が気になったと思ったら、反対の肉屋を覗いてみたり。
私の足は様々に方向を転換して行く。
里の出口が近くなれば、反対の出口から帰ろうという気になったりと、自分でも良く分からないが驚く程に心は様相を変えるのだった。
ふらふらと心の赴くままに里を徘徊する。
気が付けば全ての店を見て廻る程に、たっぷりと時間を過ごしていたのだった。
そうして、辺りはやや明度を落とし、朱色に染め上げられ始めた頃、やっと私は里の外れへとやって来たのだった。
斜め後ろへと伸びる私の影を横目に見ながら歩く。空に浮かぶ雲の影の端と私の影の端が合わさっている。
こうしてのんびり影を眺めていると、朱の色がそのうち影まで染めてしまうのではないかという気になってくる。
風が吹く。木々がざわめく。そして、誰かの足音が聞こえる。
見れば里の外から誰かが歩いてくる。
ここ数日の間にずいぶんと見馴れたその姿の持ち主の名は、最早言うまでもない。
歩く彼女の姿は背筋の伸びたしっかりとしたもので、それを見た私のふらふらと揺れる足取りも芯が入ったかのように確かになったのだった。
彼女と距離が近付く。
なんと声を掛けたのものか、ほんの数秒の間に様々な言葉が思い浮かんでは消えて行く。
何一つ上手い言葉を思い付かないまま彼女との距離は近づく。
心の焦りに合わせて眼球もしきりに動く。
いつの間にか私の影は雲の影から切り離されていて、赤い地面に一人取り残されていた。
きっと私から話しかけるべきなのだと思う。
でも、どうしても私にその勇気は持てない。
下を向く。足取りは重くやがて止まる。
結局、私は自分から声を掛けることもできないし。かと言って、そのまま通り過ぎるとこもできないのだ。
横へと長く伸びた影に、彼女の影が繋がる。
そして、挨拶は彼女から。
「あらどうも、えーっと、か……かぜ、かざ……山の巫女さん」
……さては風祝という単語を忘れたな。
全然気にしてない、普通に暮らす人には馴染みのない言葉だし、何となく覚え辛い語感だというのは私自身が良く分かっている。本当に気にしてない。嘘じゃない。
むしろ、好都合だと言えるだろう。
あちらのペースに合わせておけば、余計なことを言わなければ失敗することはないはずだ。
「どうも、家政婦さん」
私は満面の笑みを浮かべながら言う。
何度やっても誰かに話しかけるのは、少しもなれないものだ。
緊張のためか、やはり声は硬く早口になってしまう。
「まぁまぁ、そんなに肩肘張らないでよ。良いものあげるから」
すっと差し出される紙の箱、白い色のそれはやや大きめであったが、咲夜さんが片手で持っていたのを見るとそれほど重い訳ではないようだ。
両の手でしっかり抱えるようにして受け取る。案の定、重量はさほど感じない。
確か西洋での贈り物はその場で開けるのが礼儀だったと聞いたような……
些か頼りない知識だったので彼女の顔を伺えば
「どうぞ」
と穏やかな声をかけてくれた。
それにしても、何が入っているのだろう。
逸る気持ちに煽られつつ箱を開く。
中には六つのケーキが入っていた。
出来立てなのだろうか、甘い芳香が鼻腔をくすぐり満たす。
「どうしたんです、これ?」
「昨日貴方が食べたいって言ってたから」
頑張って見たの、そう言って彼女は微笑む。
「こんなに沢山……ありがとうございます」
素直にそう思う。
苺の乗ったシンプルなものをはじめ、黒のスポンジと茶色の生クリームが交互に層を成しているチョコレートケーキからロールケーキなんてものまである。
一つ一つが違った種類でどれもが工夫を凝らされた一品で見ているだけでお腹が鳴りそうだ。
それにしても……私のためにわざわざ作ってくれたのだろうか。
六つも作るにはどれだけの手間がかかるのだろう。
菓子作りの経験のない私には想像できないが、ここまで本格的なものは、そう易々と作れるものではないことぐらいは分かる。
咲夜さんは、六という数字や悪魔がどうのと、いろいろと言っていたが、浮き立つ心のせいで何一つ頭に入って来ずまったく理解できなかった。
呆けている私を見て、彼女はやれやれと言った表情で首を二、三度振ると
「喜んでくれたなら幸いだわ」
と言って里のほうへと歩き出す。
早足に去って行く彼女に慌ててもう一度お礼の声を掛ける。
その言葉に彼女は片手を上げて答えるのだった。
彼女が離れて行く。その姿に向けて私は胸の横辺りで軽く手を振る。
夕日の光を受けて赤色に染まった彼女の背中に、私は呟く。
きっと、この距離では聞こえないだろう。それは分かっている。
木の葉の擦れる音に掻き消されるほどに小さい声。それでも、伝わるようにと願いながら……
……昨日はごめんなさい。それから、今日はありがとう。
彼女が視界から消えるまで私の腕は止まることはなかった。
――大きな扉を抜ける。
この紅いお屋敷は確か彼女がいるはずだ。
エントランス。巨大な蕾状のシャンデリアが圧倒的存在感を放っており、訪れる者の目を引くこと間違いないだろう。
赤い絨毯の敷き詰められた床は包み込むような感触が心地よい。
それにしても……一度は行ってみたいとかねがね思っていた西洋式のお屋敷。
こちらにやって来た時点で諦めていたのだが、こんな形で夢が叶うなんて思っても見なかった。
色々と探検してみたい気持ちはあるが、まあ、それは今は置いておくとしよう……
この手の中にある羊羹を渡すために私はここを訪ねてたのだ。
門の人に言付けしようかとも思ったが、こういうのは本人に手渡しに限る。
実際に来て分かったのだが、私はこうやって明確な目的があるとあんまり緊張しないようだ。
エントランスで待つように言われたのはいいが……手持ち無沙汰だ。
握りこぶしを作った左手を上へと伸ばす。他の指より少し薬指を浮かせて……
薬指の根元の近くへシャンデリアを重ねる。そう、これは……
「指輪……なんちゃて」
「寝ぼけてるの?」
声が掛かる。
目当ての人は正面の大階段の脇の扉から出てきた。
これは恥ずかしいところを見られてしまった。
取り繕うように慌てて軽く挨拶をすれば、咲夜さんは使用人らしい仰々しい挨拶を返してくる。
メイドとしてのあるべき姿なのだろうが、私からしてみればどうにもしっくりこない。
私が何となくそのことを仄めかせば、彼女は苦笑いをして見せるのだった。
「それで、今日はどうしたの?」
「昨日のケーキのお礼にと思って……」
朝早く里で購入した羊羹を差し出す。
「あら、気にしなくてよかったのに……でもありがたく頂くわ」
彼女は嬉しそうに声を弾ませながら両の手でそれを受け取るのだった。
そして、こっちよ。と私に声を掛け再び扉を開く。
私としてはすぐに帰るつもりだったのだが、無下に断るのも悪い気がして咲夜さんの後へと着いて行くことにした。
長い廊下を彼女の歩幅に合わせて付いて行く。
こうして豪華な洋館の中を歩いていると、まるで自分が良家のお嬢様にでもなったかのように思えてくる。
そんなくだらない妄想がおかしくって自分で笑ってしまう。
けれど、人生で一度くらいはこういうのも気分を味わうのも悪くないだろう。
「どうしたの?」
一人でにやにやする私を不審に思ったのか、咲夜さんが怪訝そうな顔で尋ねてくる。
「いやあ、なんだかこうして歩いているとお姫様にでもなったみたいで……」
他愛のない空想を人に話すのって恥ずかしいものだ。やめておけばよかったとちょっと後悔した。
私の言葉を受けた彼女は腕を組み、何やら思案顔をする。
ほんの少し考えを巡らせて、やがて口を開いた。
「お嬢様になってみる?」
「……どういう事ですか?」
「少しだけあなたの想像を現実の物にしてみるのも楽しいかと思ったの」
彼女は悪戯な光を目に宿し私の顔を見つめてくる。言葉を紡ぐ彼女の唇がとても艶めかしいものに思えた。
その目を見ながら小さく首を縦に振る。
「それでは参りましょう、お嬢様」
一つ一つの言葉を強くわざとらしく発音する彼女。
普通なら不快に思うだろうそれも私にはなんだか楽しく思えたのだった。
――彼女に案内された先は客間にしてはやけに小ぢんまりとした個室だった。
綺麗に整えられた調度品の数々や使われた形跡のないベッドなどからは生活感が感じられない。
「どうぞ、こちらに」
彼女は部屋の中央にあるテーブルの椅子を引き私へ着席を促した。
それに恐る恐る座りながら咲夜さんに声を掛ける。
「なんだか狭いけど、いい部屋ですね。」
「ごめんなさい。本当は客間に通すのだけど今日は突然だったもので……」
と申し訳なさそうに頭を下げてくるのを宥めるのに苦労した。
話を聞くところによると此処はどうやら彼女の私室らしい。
そう言われるといろいろと気になって来るものだ。
誰かの部屋に入るなんて初めてだし、色々と観察したくなってくる。
咲夜さんは部屋を見られたくないのか、私に何処からか持って来た紅茶を勧めるのだった。
茶菓子は私が持って来た羊羮だ。
紅茶に羊羮とは如何なものかと思う。
けれど、出された以上は頂くべきなのだろう。
澄んだ紅い紅茶を飲めば、ほんのりと甘い風味。砂糖を入れずとも十分な味だ。
お茶に詳しくない私にも素晴らしい物だと理解できる。
続いて羊羮を串に刺す。里でちょっと話題になったこともある品物だ。味は問題ないだろう。
けれど、洋風の皿に和風のそれはやっぱり不似合いで可笑しかった。
甘い香りを放つそれを口に含めば、純粋な甘さと独特な食感が舌で踊る。
「どうだった?」
私と同じように羊羮を食べながら彼女が問いかけてきた。
「紅茶も羊羮もどっちも美味しいですよ」
但し、別々に食べたのなら、という注意書きが必要だろう。
二つを合わせると美味しく頂けない味になっている。少なくとも私の口には合わない。
しかし、咲夜さんは僅かに頬を上げ美味しそうに食べているではないか。
ならば、此処は褒めるべきだろう。頭を回転させて褒め言葉を捻り出す。
「ほんのりと甘い紅茶の内包するお茶独特の渋味を、羊羮の濃厚な味が口内へと解き放って……紅茶の新たな可能性を引き出したと言っても過言ではないと思います」
「……過言でしょう。渋味を解き放ったら駄目じゃない」
この二つは合わないと思うわ。
そう言って咲夜さんはテーブルに肘をつけて、私に人差し指を向ける。
「……それで、どうだった?」
同じ問いを繰り返す彼女。さっきのが聞こえていないはずはない。
と言うことは、きっと何か意味があるのだろう。
これは……あれか、咲夜さんなりの冗談なのか?
そういえば同じ事を繰り返すのは笑いの基本だと聞いた事がある。
「どうだった?」
聞こえなかったの?
とでも言いたげな表情で彼女は再度、質問をしてくる。
これが所謂「振り」と言うやつだろうか?
ならば!
「ほんのりと――」
「それはもう聞いたわ」
にべもなく切り捨てられる私。
ぴしゃりと言われたその言葉は私の思っていた以上に心に響いたのだった。
私を見つめる彼女の視線は冷ややかな様に見える。
……やだ、なにそれ恥ずかしい。
「じゃ、じゃあ何のことなんですか!」
羞恥心に煽られて、きつめの声色になってしまった。
彼女にはそれが予想外だったのか驚いた様に、小さく身体を振るわせるのだった。
「何って……ケーキのことよ……」
ああ、なるほど。そういうことだったのかと今になってやっと理解する。
「とってもおいしかったですよ」
お世辞は僅かばかりも含まれていない。純粋な感想だ。
私がそう言えば、彼女は軽く俯き照れたようにはにかむのだった。
しかし、それも一瞬の事ですぐに顔を上げ、私の目を見る咲夜さんの表情は微笑に変わっていたのだった。
「そう、口に合ったのなら良かったわ」
そう言う咲夜さんの声には余裕の色が浮かんでいた。
「口に合いすぎてほっぺたが落ちそうでした。一人で四つも食べちゃいましたよ」
初めは一人二つずつの予定だったのだが、我が家の神様は両方共こってりした甘さは好きではないらしく一つで十分とのことで私に回って来たのだ。
四つ程度、私の胃袋にかかればなんて事はない。甘い物は別腹なのだ。
「そ、そう……脂肪という意味でほっぺたが落ちそうね」
「大丈夫です。乙女は太りませんから」
「あら、乙女なの?」
「えっ?」
乙女じゃないの私?
「太らないのが乙女だとすると、私はどうやら乙女じゃないみたいね」
彼女は私にお腹を摘んで見せてくる。
メイド服の上からなので正確には分からないが、私が見る分には……
脂肪じゃなくて皮膚を引っ張ってるだけだと思う。きっと。
「味見の時についつい、沢山食べちゃうのよね……」
溜め息をつく彼女はなんだか見ていられなくて……
私は意を決して立ち上がるのだった。
「そういう事なら私に任せて下さい。とっておきの方法がありますから」
「何? どうしたの?」
机を回り込んで彼女の手を取る。
私のとっておき……外にいた頃テレビで見たウエストを引き締める体操。
ラジオ体操第二をベースにアレンジを加えて作られたそれは私の主観だが、なかなかに効く。
「いいですか? 私の真似して下さいね。まずは腕は力瘤を作るようにして、腰は横にひねって下さい」
「こ、こうかしら?」
二人向かい合ってポーズをとる。
こうしてみると鏡みたいだ。
「ねぇ……これ腕要るの? なんか恥ずかしいんだけど……」
普段することのない姿勢はなんだかおかしく見えるものだ。
そのうち咲夜さんが私の動きに堪え切れなかったのか笑い始める。気づけば私も笑っていたのだった。
ひとしきり笑い合って、私はそっと溜息をついた。
――布団に包まる。
視界は黒色に染められている。
けれど、この視線の先には、木の天井がある。
腕を布団の外に出す。表面の冷たい感覚が手のひらに伝わってくる。
すーっ、と息を吸う。深く深く吸う。最奥部にまで届くような感じを思い描く。
限界まで吸ったら、そこで一度止める。そうしたら次は一気に解放する。
こうすると悪いものが全て外に出て行くような感じがするのだ。
頭を横に向ける。見えるのは先程と同じ黒色。
随分前に布団に入ったのだけれど、一向に眠くはならない。
その代わり頭だけは妙に冴えていているのだった。
私は少しでも変われただろうが?
話したいことは沢山ある。
料理を上手くつくれたこと。
境内の掃除が大変だったこと。
この前読んだ本が面白かったこと。
深爪してしまった。
躓いて転びそうになった。
そんなありきたりなことを誰かに聞いて欲しい。
誰かに一緒に喜んで、悲しんで、そして笑って欲しい。
本当はずっと、ずっと前から、もっと、もっと小さい頃から
憧れていたんだ。
けれども、強がりな私はそれを見ないようにひたすらに隠し続いていた。
それでも、一度見つけてしまえば、二度と無視することはできないのだ。
寝返りを打つ。
私の身体に温められて包み込むように凹んでいる布団から離れて、冷たいまだ膨らんでいる場所へと転がる。
落ち着く形を見つけようと身体を揺すってみる。
溜め息は出ない。
その代わり、どうしてか、ほんのりとした笑みが浮かぶのだった。
右も左も分からないこの場所で、楽しい日々を送れている。
それはとても幸せであると思う。
そんな日々をくれた彼女にはとても感謝している。
これからやってくる日々を思い描きながら私は瞼を閉じる。
彼女は私を友達と認めてくれるだろうか?
彼女は私の友達なのだろうか?
まだ、胸を張って言えはしないけれど、いつかはきっと聞いてみたい。
私を友達と言ってくれますか
もっとシンプルに行こうぜ、シンプルにさぁ。ねぇ、早苗ちゃん?
……でもなぁ、人の性格なんて他人がどうこう言って簡単に変わるもんじゃないし、
そんな性格の彼女だからこそ、頑張っている姿は心を打つし、応援したくなるのかも。
最後に、お話自体は良かったんですけど、流石にこれだけミスがあると
正当な評価は出来ないなぁ。
それでは小姑目線のツッコミをどうぞ。
ただ、そんな早苗さんが過去の自分と重なって見えて複雑というかなんと言うか。
この二人の作品はもっと流行ってもいいと思う。年上のお姉さん的ポジの咲夜さんのお陰で笑顔になる早苗さんとか可愛いじゃないか。
とりあえずこの早苗さんはsurfaceの「なにしてんの」を聞くといいよ!
でも、早苗さんは諦めずに変わろうとしている。
つい話を書く時も読むときも、自分は先の見えない不安を忘れてしまいがちになるんですが、
それは自分が未だ真正面から向き合えてないからなのかもなぁという個人的感想。
とても人間らしく繊細な景色でした。
彼女の目を通して見る景色は、いまとても美しい。良かったら自分とも友達に(ry
それは描写不足であり、コメントを見る限り最初から作者がこんな早苗が
見たいとしてその書き込みを放棄した結果だと思う。
別に便所飯をしてそうな早苗でもいいんだけど、もうちょっとその辺何とかならなかったのかと。
そっと背中を押してあげたくなる
咲夜さんと早苗さんは仲良くなれると思います。
要領が悪く繊細で内向的な彼女だからこそ、幻想郷でもっと素敵な出会いや景色に触れてほしいものです。
そして、咲夜さんやさしいw
繊細な子にこれだけ優しくなれる娘というのも、幻想郷では希少価値ものな気がして新鮮。
すごくおもしろかったです。心が暖かくなりました。
最後の早苗のセリフと題名が繋がってるって分かった時に自然と微笑んでました...うわ俺キメエw
心暖まる素敵な作品を書いてくださってありがとうございます(*´`)