「た~たら~♪ た~たら~♪
お~ど~ろ~け た~たら~♪
た~たら~ たた~ら~びっくり
こ~がさ~がや~ってく~る♪ た~たら~♪ ……」
人間の里に近い森の中。穏やかな風の吹く静かな夜に、不気味とは程遠い、可愛らしい歌声が響く。
押して駄目なら引いてみろ。
先人が残したこの格言に従い、多々良小傘は新たな驚かせ方を開発しようと躍起になっていた。
一般的に、一つの方法に拘らず様々な視点をもって検討していくことは重要である。しかしながら、彼女の類稀なるセンスによって生み出された代案は、あまりに唐突で妙ちくりんなものであった。
いきなり登場うらめしやー作戦が駄目なら、不気味な雰囲気でビクビクさせたらいいじゃない!
考え抜いた末思いついたこの発想に基づき、小傘は不気味な雰囲気を作り上げるべく、歌を練習し始めたのだ。
歌を用いた雰囲気作りというのは、大抵の場合かなり有効な作戦である。
辺りが静まり返った夜。ふと耳を澄ますと、少女の悲しげな歌が聞こえてくる。その途端に辺りはざわつき始め、風の泣き声とともに少女の歌声は少しずつ少しずつ、その距離を近づけてくる。怖くなって逃げ出しても、どれだけ走ってもその声からは逃れられない。心に生まれた不安とともに、あなたは正体の分からない何かから逃げ続ける。
やがてあなたは真後ろに何ともいえない悪寒を感じる。恐る恐る振り返ってみると、そこには薄い微笑を浮かべた少女が立っていた。
そういった雰囲気は、人を驚かせるのにまさにうってつけの状況であるといえる。しかしながら、ここでも彼女の持ち前のセンスがその計画を大きく妨げていた。いくら人気のない不気味な雰囲気の漂う場所であったとしても、この能天気でどこか愛らしい歌声を聞いて恐怖を煽られる者などいるはずもない。当然ながらこのような歌を考えつく彼女がその点に気づけるわけもなく、彼女は自分なりに考えて生み出した不気味な歌を一生懸命練習するのだった。
あんまり歌ったことなかったけど、歌うのって楽しいな。これで人間が驚いてくれたら、それこそ一石二鳥よね! よし、頑張るぞ! ええと、音程はこんな感じでいいから、あとはリズムとか抑揚とかも考えなきゃね。うーん、意外と難しいなあ……
こんなことを考えつつ練習を重ねて数日。初めはただ歌うこともままならなかった彼女も、次第にコツを掴みかけていた。いくら練習しても変えようのない、雰囲気ぶち壊しの歌声は別として。
静かな森で、試行錯誤しながら歌い続ける。
その夜も、そうやっていつもと同じように過ぎていくものと思われていた。
「およ? 新顔さんだったのかー?」
不意に聞こえた声に反応し、小傘は思わず体を震わせた。脅かす側が驚いてどうするんだと自分を叱責しながら、その声の主を探す。すると、彼女はちょうど自分の正面に見慣れない少女が立っていることに気づいた。
「あ、ごめん。邪魔しちゃったね。続き、どうぞ」
小傘と目が合うと、その少女は少し申し訳なさそうにこう言った。それを聞いて小傘はつい反応を鈍らせる。
小傘に限らず、こういった場面で「続きをどうぞ」などと言ってくるほうがおかしいと思うのは当然だ。余程自信がない限り普通見知らぬ相手の前で歌おうとは思わないし、かといって何もしないのは相手に悪いような気もする。
なんだか変な子だなあと思いながら、小傘は不思議そうな顔をし始めたその少女を眺めていた。
髪は短い金髪で、頭には赤いリボン。両手を広げたその姿は少々幼稚にも見えるが、その表情には恐れの類など微塵も存在していない。
彼女を見て、ああ、やっぱりこの子は妖怪だな、と小傘はすぐに判断した。そもそも夜遅くに人間の少女が森にいるはずもないし、仮に何かの事情でいたとしてもその心は不安や恐怖でいっぱいになっているはずだ。けれども、この少女を見る限りそういった感情は皆無で、寧ろ余裕に似たものさえ感じられる。この状況でそんな態度を取っていられるのは妖怪だけ、というわけだ。
「ねえ、歌わなくていいの?」
小傘がじろじろと眺めてくるのが不快だったのか、少女は少し困ったような顔でそう言った。小傘は少し慌てて彼女に答える。
「あ、うん、今日はもういいの。ねえ、ところであなたは誰? 私は多々良小傘。この森に住んでるんだけど、あなたもそうなの?」
「いや、住んではいないよ。ただいろんな所を放浪してるって感じかな。私はルーミア。よろしくね、小傘」
「うん、よろしく、ルーミア」
「ところで、なんでさっき歌ってたの? 静かな森にあんまりにも不似合いな歌声だったから誰が歌ってるのか気になったんだよね」
「えっ!? わ、私の歌、変だったかな?」
「んー、変じゃないけど、あの歌なら宴会の時にでも聴きたいな。夜の森であんな能天気な歌、合わないもん」
ルーミアはそう言うと悪戯っぽく小傘に笑いかけた。それは彼女なりの気遣いなのかもしれないが、彼女に能天気な歌声と言われた小傘はそれどころではなかった。
小傘は決して目的のために努力をしていないわけではない。彼女は彼女なりに思いついた最善の方法を常に最高の方法に出来るよう努力し、日々練習を行ってきた。だからこそ、それまでの努力が能天気な雰囲気を生み出していたと知り、彼女は大きなショックを受けていたのだ。
笑顔でいたルーミアも、小傘の尋常ではない落胆振りに気づいたらしく、その表情は心配そうなものに変わっていた。
「あ、いやその、歌が悪かったわけじゃないんだよ? ただその、せっかく静かな夜にあれはないっていうか……」
「ううん、いいの。私が悪いんだもん。私があんな変な歌考えなければ、こんな……」
俯く小傘にどぎまぎしながら、ルーミアはなんとか彼女の気持を落ち着けさせようと考えていた。初対面の相手をこれだけ落ち込ませてしまったのを、彼女なりに気にしているようだ。
あれやこれやと画策しながら、やがて彼女は小傘の目的を聞いてみることにした。そうすれば気も紛れるだろうし、事態を変えられるかもしれないと考えたのだ。
「あのさ、なんで小傘は歌を練習してたの? コンサートでもあるとか?」
「……ううん、違うの。私、人間を驚かせたかったんだ」
「人間を? なんで?」
「私ね、誰かがびっくりすると、うれしくなるんだ。なんていうか、心が満たされる感じ。驚いた時の感情を食べてるっていえばいいのかな」
「へえ。なんか小傘って、変わってるね」
ルーミアは何気ない様子で小傘にそう言った。
しかしながら、それに何気なく返そうとして、小傘は一瞬固まってしまう。
自分は、変わっているのだろうか。
化け傘としての意識を持ってからというもの、多々良小傘の興味は常に人間を驚かせることに集中していた。忘れ去られた化け傘は、人々の関心に飢えていたのだ。付喪神として生まれた彼女が最も効率よく人間の関心を得られる方法、それが人間を驚かせることだった。
どうやったら人々は驚いてくれるだろうか。その一心で、小傘は今まで努力を重ねてきた。そんな彼女だから、自分が妖怪として変わっているのかどうかなどと考えたこともなかった。
心に浮かんだもやもやを消し去ることが出来ないまま、小傘はルーミアに訊ねた。
「そ、そう? 私って変わってるかな?」
「うん、変わってる。せっかくの獲物を帰しちゃうあたりとか特に」
「獲物? 人間のこと?」
「うん。私だったら、びっくりしてる人間がいたら多分いただいちゃうなあ。一応表向きは食べちゃ駄目って言われてるけど、無防備な人間がいたら我慢なんて出来ないじゃん?」
「人間を? 食べるの?」
「もちろん。ただ誰でも食べるわけじゃないよ。食べてもいい人間と、食べちゃ駄目な人間がいるの。あと特別なのは、食べちゃうには惜しい人間かな。巫女とか魔法使いとか」
「そうなんだ。私、知らなかった」
「へえ、じゃあ小傘は人間食べたことないんだ。ねえ、今度食べてみる? この辺りにいてくれれば、いいのが獲れた時にでもご馳走するからさ」
そう言って微笑むルーミアの表情は、先程と何ら変わっていない。ただ、小傘が抱く彼女の笑みへの印象は大きく変わっていた。純粋な笑顔の奥に、先程は感じられなかった恐怖が垣間見える。そのような変化は、小傘自身の心の動揺と深く関わっていた。
妖怪が人間を喰う。その行為は妖怪として当然のことであり、驚くべきことではない。しかしながら、意識を持って以来心の捕食を続けてきた小傘にとっては、妖怪が人を餌とすることは十分衝撃的であった。
そして、この事実は彼女の心に広がる不安をより現実的なものへと変えてしまった。
もしかすると、私は本当に変なのかもしれない。
多くの妖怪が人間を捕食する中、彼女はその心を食べるという方法を取っている。それが正しいとか間違っているとか、そういったことを判断する事は誰にも出来ない。ただ、多々良小傘という妖怪の生き方が他の大多数の妖怪と異なっているという点は、最早確定していた。
もちろん、異なっているのが何らかの問題を起こすというわけでもない。今まで小傘はそうやって生きてきたし、上手く驚いてくれない事以外は何も問題を起こしたこともない。
ただ、彼女は怖くなったのだ。生まれてから一度も考えたことのなかった疑問が心を支配し、どうしていいのかも分からずにただ不安だけが募っていくというこの状況が、たまらなく嫌だった。
ルーミアの何気ない一言から生まれたこの不安は、いまや小傘の心全体に広がっていた。
「ねえ小傘、大丈夫?」
「え? あ、ああ、うん、平気」
ルーミアの声で、小傘は我に返った。その様子が気になって、心配そうにルーミアが訊ねる。
「あのさ、私何か変な事言ったかな? もし気を悪くしたなら謝るよ。ごめんね、小傘」
「ううん、ルーミアのせいじゃないよ。私、大丈夫だから」
「そう? ならいいけど……なんかあったら、またお話しようよ。私、なるべくこっちの森にも顔出すようにするからさ」
「うん。ありがとう、ルーミア」
「いいっていいって。それでは小傘さん、いい夜を」
そう気取った口調で言いながらお辞儀をすると、ルーミアはやって来た方向へと帰っていった。どうやら彼女の住処はそちらにあるようだ。
彼女を見送る小傘の心は、無限大に膨れ上がる不安を押しのけようと奮闘していた。
ルーミアとのやり取りで、自分が所謂普通の妖怪とは違う生き方をしていることは分かった。けれども、冷静に考えた小傘は他の妖怪と違うことがいけないというわけではない、ということもまた理解していた。単に妖怪と言っても様々な種族があるわけだから、人を食べない者がいても問題ではないはずだ。
しかしながら、小傘の不安感はそのような考察で落ち着いてくれるほど甘いものではなかった。
もしも人間を食べないことが妖怪として有り得ないのであれば、私の生き方もまた有り得ないのだろうか。
自分の妖怪としての生き方を今まで考えてこなかった彼女は、自分がその他大勢の妖怪達とは違うということがそのまま自己の否定に繋がっているように感じてしまっていた。
けれども、こういう事はいくら悩んでみても解決することではない。混乱しかけていた小傘の心も、そう判断する事は可能であった。
とりあえず、命蓮寺の皆に相談してみよう。皆から話を聞いて、それから悩もう。今の混乱した頭で悩んだって、いい考えなんか出てくるはずないもの。
そんな事を思いながら、小傘は自分の寝床に辿り着くなり布団に倒れるように寝転がり、そのまま眠りについた。
心を覆う不安と、一抹の希望を感じながら。
* * *
翌日の昼頃、小傘は命蓮寺に来ていた。
本当はもう少し早く来ようと考えていた彼女だが、寝付くのが遅かったせいか寝坊をしてしまったため、すっかり陽の昇りきった時間帯になってしまったのだ。
境内に着くと、彼女は早速誰か話を聞いてくれそうな人物を探した。すると、ちょうどよく正体不明の平安ガールがどこからか戻ってくるのを見つけた。
「おはよう、ぬえ」
「おはよう、小傘……って、もう昼間だよ」
「いや、寝坊しちゃって」
「いいねえ呑気で。こっちは朝から大変だよ、寺子屋でガキんちょ共と一緒にお勉強だもん」
「えっ? ぬえ、今寺子屋に通ってるの?」
「午前中だけね。少し前に悪戯が過ぎるって白蓮に怒られた時何か罰を与えないとって話になったんだけど、その時ムラサが『精神が未熟だから悪戯なんかするのよ。聖、いっそ寺子屋に預かってもらったら?』なんて言うもんだから皆が悪ノリしちゃったんだよね。まったく、えらいことになっちゃったよ」
「なんか、寺子屋が預かり所みたいになってない?」
「あはは、確かに。んでまた寺子屋のけーね先生が厳しいんだわ。ありゃあお仕置きモード・ひじりん級だね」
そう言って苦笑いを浮かべるぬえを見て、小傘の抱えていた不安は少しだけ和らいでいた。いつもと変わらないぬえのふざけた調子は、彼女にとっていい気分転換になっていた。
今なら、不安にも打ち勝てるかもしれない。そう考えた小傘は、寺子屋について一人語っていたぬえに思い切って訊ねてみることにした。
「でさー、あいつらってば私なんかよりもずっと悪ガキでさー」
「あ、あの!」
「ん? ああ、もしかして小傘、何か聞きたいことがあったの? ごめんね、私一人で話し込んじゃって」
「ううん、それはいいの。ところで、あの……ぬえは、人間についてどう思ってる?」
小傘の様子からかなり重い話をされるのではないかと身構えていたぬえだったが、彼女の言葉を聞いて笑いとともにその緊張を解いた。
「あはは、何それ、変な質問! 人間についてって、私にとって人間はどういう存在かっていう意味?」
「うん、そういうこと」
「そうだなあ……やっぱり、からかう対象でしかないね。ほら、得体の知れないモノを見てる時のあいつらの顔って最高じゃん?」
「……そう、だよね? 食べたいとか、思わないよね?」
「食べたい? 思わないけど……ねえ小傘、何かあったんでしょ? いきなりこんなこと聞くなんて、やっぱり変だもん。私でよかったら、話くらいは聞くよ?」
ぬえの浮かべた微笑は、いつもの彼女のそれとは全く違っていた。悪戯っぽいものではなく、どこか優しく、相手を気遣うような笑顔を見て、小傘は彼女に全てを話そうと考えた。
小傘の話を聞き、ぬえは唸り声を上げながら頭を捻っていたが、やがて少し残念そうに声を上げた。その表情から、彼女が至った結論はあまり芳しくないものであったことが伺える。
「あー駄目だ、分かんない! 小傘の気持は分かるよ、だって私も人間なんか食べないし驚かすの好きだもん。ただ、どうやったら小傘の不安をなくせるのかは分かんないんだよねー……」
「やっぱり、変なのかな?」
「いや、そんなことはないと思うけど、しかも私がそれ認めたら自分で変人宣言してるようなもんだし」
「あ、ごめん」
「いいっていいって。それより、どうすればいいかねえ……」
そう言ってぬえはまた黙り込み、解決案を画策し始める。そんな彼女を見て、小傘は少しうれしくなった。
自分には、割と境遇も似ていて、こんなにも想ってくれる仲間がいる。自分の生き方は妖怪として珍しいものかもしれないが、少なくとも一人ぼっちじゃない。それが分かっただけでも、ぬえと話せて本当によかった。彼女はそう、心から思っていた。
けれど、それで彼女の不安が消えてくれたわけではない。話せば話すほど、理解しようとすればするほどにその心には影が差し、彼女の思考は心身ともに見えない何かに支配されていった。
小傘にとって、自分が一般的な妖怪と比べて変なのかどうかという疑問は既にどうでもよいものとなっていた。
彼女が最も恐れていたこと、それは今までの自分を否定されることであった。
彼女は今まで、自らの生き方を疑うことも無く、ただ懸命に頑張ってきたつもりだ。忘れ去られるのが怖くて、一度でいいから誰かに気づいて欲しくて。そんな想いから考え出した、人間を驚かせるという生き方。それを否定されてしまったら、自分の存在自体をも、否定されてしまうことにならないだろうか。
もちろん、「多々良小傘は妖怪として珍しい生き方をしている」という事実は「多々良小傘の生き方はおかしい」という事実を導き出さないことくらい彼女も分かっている。妖怪だからと言って人間を必ず食べなければならないというわけではないし、食べようとも思わない妖怪がいてもそれを否定されるはずもない。
けれども、どんなに有り得ない事であろうとも、一度心に浮かんだ不安は、それが含んだ絶望の度合いが激しければ激しいほどその存在を大きなものへと変えていくものだ。現に、今の小傘は根拠のない不安に取り憑かれ、事態を冷静に判断することも出来ずにいる。
理屈ではない、しかし妙に実体のある漠然とした恐怖に、小傘の心は侵されていた。
「……うん、やっぱりこれしかないな」
ぬえの言葉で、小傘は我に返った。彼女が反射的に顔を上げると、ぬえの表情は先程よりは少し明るいものになっていた。おそらく早く小傘の不安を取り払ってやりたいと思っていたのだろう、彼女の反応を待たずにぬえは続ける。
「小傘、白蓮に相談するといいよ。さっきも言ったけど、私じゃうまく小傘の不安を取り除いてあげられそうにないの。でも、白蓮ならきっと何かいい案を考えてくれるはずだからさ」
「……もし、白蓮も答えを見つけられなかったら?」
「え? うーん、そうだなあ……その時は、いっそのこと一緒に夜の人里でも襲おうか? 人間をいっぱい驚かせればきっと不安なんてなくなっちゃうよ。ただ、後で酷いお仕置きが待ってそうだけど」
そう言って微笑むぬえを見て、小傘も思わず微笑を浮かべた。彼女なりの優しさに心を救われ、不安の色が若干薄らいだ表情で小傘はぬえの言葉に答えた。
「はは、そうだね。お仕置きは困っちゃうもんね。……ぬえ、ありがとう。私、白蓮に相談してみる。もし駄目だったら、その時は」
「うん、一緒にびっくり大作戦だね! ほら、元気出せ小傘!」
ぬえに背中をドンと叩かれて少しうろたえながらも、小傘の瞳は凛とした光を讃えていた。
ぬえの言うとおり、まずは白蓮に話を聞いてみよう。悩んだりするのは、それからだっていい。そう考えて、小傘は本堂へと向かった。
小傘の姿が見えなくなるくらいまで離れてから、ぬえは本堂の裏手へと走り出した。答えとして小傘に示してはいなかったが、彼女は彼女なりに、小傘の不安を消し去る方法を考えついていた。しかしながら、一人でそれを実行する事は出来ない。だから彼女は仲間達に協力を仰ぎに向かったのだ。
小傘の不安は、理屈から生まれたわけじゃない。理屈じゃない不安なら、それを癒すのも理屈じゃないんだ。
彼女が到達したその結論に基づき、彼女は仲間達の部屋へと急ぐのだった。
小傘が着いた頃、本堂は静まり返っていた。参拝に来るには半端な時間なため参拝客の姿は見えず、そこにいるのは本尊として静かに座す星と一人読経を続ける白蓮だけである。小傘の心の中とは正反対の静寂が、その空間には広がっていた。
覚悟を決めて、小傘は本堂に上がりながら声を発する。
「こ、こんにちはー!」
「あら小傘ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは白蓮、ご苦労様、星」
小傘がそう奥で座している星に言うと、彼女は少し笑みを浮かべて目を閉じたまま頷いた。白蓮はというと、いつもの優しい微笑を浮かべている。普段と変わらない二人の様子を見て少し安心した小傘は、早々に話を切り出した。
「あのね白蓮、実は今日は聞いてもらいたいことがあるんだけど……」
「あら、やっぱり何かあったのね」
「え? もしかして白蓮、気づいてたの?」
「なんとなくね。いつも小傘ちゃんは元気いっぱいで『うらめしやー!!』って言いながらやってくるのに、今日はなんだか寂しそうだったから」
「白蓮……」
「さて、ここじゃ少し話しにくそうね。星、私達は一度部屋に戻るわね」
「ええ。本堂はお任せください、聖」
星がそう言って頷くのを見て、小傘は白蓮に伴われて本堂を出て彼女の部屋へと向かった。その心中は決して穏やかなものではなかったが、白蓮の包容力の成せる業か、小傘は不安が和らいでいくのを感じていた。
「それじゃあ、早速話を聞きましょうか。小傘ちゃん、何があったのか話してくれる?」
部屋に着くと、白蓮は小傘にそう訊ねた。彼女の微笑みのおかげで、小傘は自らの抱えた不安をすんなりと話すことが出来た。
それを聞いた白蓮は、一瞬とても悲しそうな顔をした。いつもの優しい微笑ではなく、まるで救えなかった自分を責めるような、後悔と激情に塗れた表情。小傘が不安に取り憑かれているのは誰のせいでもないのだが、相手の苦しみを自分のもののように感じられる白蓮は彼女の心情を聞いて同情せずにはいられなかった。
なんとかして彼女を助けてあげたい。そう考えながら、白蓮はすぐにその表情を微笑みに戻した。感情を剥き出しにした状態では、彼女も話しにくいだろうと考えたのだ。柔らかい微笑のまま、小傘に話しかける。
「なるほどね。つまり小傘ちゃんは、『人間を食べない妖怪が珍しい』という言葉のせいで人間を驚かせる生き方が否定されてしまうと思っちゃったのね。そんなことは有り得ないって分かってるけど、その生き方は小傘ちゃんが生まれた時からずっと続けてきたものだから、それを否定されるのが怖くてたまらない。だから、理屈抜きで不安を感じてしまう。こういうことかしら?」
「……うん」
「よく話してくれたわ。辛かったでしょうに」
「ううん、平気。白蓮も、私の気持すぐに分かってくれてありがとう」
小傘の言葉に微笑を返した白蓮だったが、それ以上彼女は何も言わなかった。今まで多くの人々の相談に乗り、それをいつも見事に解決してきた彼女でも、小傘の漠然とした不安を取り除いてやる術を見つけるのは困難なようだ。その表情は微笑みこそ崩してはいないが、その奥にどこか悲しげなものを感じる。
その様子を見て、小傘は俯きながら声を漏らした。
不安に取り憑かれた彼女が、最後に縋った希望。それが、今目の前で崩れ去ろうとしている。辛うじて残っていた彼女の楽観的な部分は、白蓮の笑顔とともに消滅していく。
やっぱり、私は生まれたときから間違ってたのかな。
忘れられて寂しいとか、もう一度見て欲しいとか思ったことが、間違いだったのかな。
もし、そういうのが全部間違いだったとしたら――
――私なんて、生まれてこなければよかったのかな。
自らの心を支配する絶望に耐え切れず、小傘は泣き出した。その場にしゃがみ込み、声も上げずにただただすすり泣く。その様子を見かねた白蓮は、彼女を慰めようと必死になっていた。
「小傘ちゃん、泣かないで? あなたは悪くないわ。そう、誰も悪くないの。あなたを否定するものなんて、在りはしないのよ。だから、今まで通り元気に生きていれば、きっと」
「……でも、やっぱり怖いよ。自分の存在が否定されているかもしれないって考えちゃうと、どうしても怖いの。白蓮が言おうとしてくれてることは、よく分かるよ。私の不安が、普通なら杞憂に終わるようなものだってことくらい私も分かってる。でもね、私の不安は、そうやって理論立てられて生まれたんじゃない。もっと漠然としてて、根拠がないの。でも、どうしてか分からないけど、すごく実体があって、怖いんだ。
……ごめんね、白蓮。こんな相談したら、白蓮も辛いよね。私のせいで、嫌な思いさせちゃってごめん」
「そんなことないわよ? もし小傘ちゃんが直接相談してくれなくても、きっと私は小傘ちゃんを助けようとしたわ。だって、そんな悲しそうな顔、小傘ちゃんには合わないもの」
そう言って白蓮は小傘に微笑んでみせる。その笑みは先程までの悲しみが透けて見えるものとはまったく違う。
不安に駆られた少女をなんとか安心させようとする、優しい微笑み。いつもの温かさとは若干違ってはいるが、心地良いものであることには変わりない。
けれども、その微笑でさえも小傘の心の闇に光を灯すことは出来なかった。彼女の表情は先程と変わらず曇ったままで、頬を伝う雫も止まりそうにない。そんな彼女を白蓮はそっと抱きしめたが、彼女の震えは止まらなかった。
ああ、どうすればこの子の悲しみを癒してあげられるのでしょう。
彼女の肩を抱きながら、白蓮は一人途方に暮れていた。
白蓮の部屋に、少女のすすり泣く声が響く。
暫くそれが続いた後、小傘は枯れた声を振り絞って白蓮に告げる。
「ありがとう。でも私、やっぱり駄目だ。どうしてもこの不安は消えてくれそうにないよ。何を言われても、どんなふうに考えようとしても、きっとこの心は変わらない。だって、だって……」
「小傘ちゃん……」
「ねえ白蓮、正直に答えて? こんなにも不安が消えてくれないってことは、やっぱり……私の生き方って、間違ってたのかな?」
涙に紡がれた小傘の問いに、白蓮は答えることが出来ない。
当然彼女はその問いを否定しようとは思うのだが、何せその問いに理屈で答えるわけにはいかないのだ。頭ではわかっていても、心がそれを理解してくれないという状況では、理論などまったく意味を成さない。いくら道理を説いたところで、小傘の心は納得してくれないだろう。
唇を噛み締める白蓮を見て、小傘はついに声を上げて泣き出した。
あんなにも私を想ってくれた人が、答えを出せずにいる。それはやっぱり、私の生き方自体が間違っているという証拠なんだ。
ああ、皆に悪いことしたなあ。私が勝手に巻き込んで、皆に嫌な思いさせちゃっただろうな。
やっぱり、私なんていないほうがよかったんだな。
そういった想いが、小傘の心を巡る。絶望に包まれ、彼女はただ泣くことしか出来ない。その彼女を支える白蓮も、彼女の心を救えない悔しさを噛み締めながらただ共に泣いてやることしか出来ずにいるのだった。
その刹那、不意に部屋の障子が開いた。
二人が驚いて振り向くより速く、叫ぶような大声が部屋を包む。
「小傘! あんたはいらない子なんかじゃないよ!!」
「そうです! 小傘ちゃんは命蓮寺の、いいえ、皆のアイドルです! ですから、そんな寂しいこと言わないでください!!」
「ご主人様の言うとおり……なのか? まあいい。君は君で、好きに生きたらいいじゃないか。不安なんて、吹き飛ばせばいいだろう? 私達もいるんだから、そう落ち込むんじゃない」
「そうそう、生き方なんて、所詮は歩いてきた道でしかないもの。生き方があなたを示すんじゃなくて、あなたが生き方を示すのよ。人間を驚かせることは、こんなにも素晴らしい、そう胸を張って言えるなら、誰が見ても立派な生き方なんじゃないの? 大丈夫、船幽霊だって今立派に船長やってるんだから」
「そうね。今小傘がするべきことは、ただ頑張ることだけね。いつものように、一生懸命頑張ってるあなたを見たら、誰もあなたの生き方を否定なんてしないわよ。辛かったら、相談してね。皆でなんとかするから」
「そうだよ! 皆の言うとおり小傘はいい子なんだから、誰も否定したりしないよ! だから小傘、元気出して。小傘が寂しそうだと、私まで寂しくなっちゃうんだから!」
そう言ってぬえはいつもの子供っぽい笑みを浮かべる。涙で濡れた瞳で小傘が他の四人を見渡すと、星も、ナズーリンも、村紗も、一輪も、皆それぞれ優しい微笑を湛えていた。
ぬえが考えた、小傘を救うための作戦。それは、自分達の想いを形にし、彼女に見せるというものだった。
いくら言葉で小傘の心に入ろうとしても、今の彼女には意味がない。ならば、自分達の気持を見せるのはどうか。少なくとも、響くことのない言葉よりは効果があるのではないか。そう考えたぬえは、寺の仲間達に相談し、皆で小傘を励ますことにしたのだった。
一人一人が、想いを伝えるために言葉を紡ぐ。それこそが、最も効果的で素晴らしい方法だ。少なくとも、ぬえはそう確信していた。
仲間達の言葉を聞いた小傘は、はじめは状況が掴めずにきょとんとしていた。しかし、彼女達の想いに触れそれを理解すると、笑顔を浮かべて涙を流した。
先程のものとは違う色の涙。それは不安でも絶望でもなく、喜びからくるものであった。
ぬえ達の体当たりな方法は、どうすることも出来ないと思われていた小傘の心の奥底に届いたのだ。
再び泣き出した小傘に驚き、ぬえは思わず声をかける。
「だ、大丈夫!?」
「う、うん、平気。皆、ありがとう。辛かったけど、なんとか私、立ち直れそうだよ」
小傘の返事を聞いて、一同は喜びの声を上げた。ぬえ達は思い思いに声を上げ、白蓮は「よかった、よかった」と言って泣きながら小傘の頭を撫でている。
白蓮の撫でる手をくすぐったそうにしながらも、小傘は嫌がらずにそれを受ける。
ああ、私はなんでこんな馬鹿なことで悩んでいたんだろう。私には、こんなにも優しい仲間達がいるじゃないか。たとえ私の生き方が否定されても、彼女達は私の味方でいてくれる。私が彼女達に向けている想いと同じように、彼女達も私を想っていてくれているのだから。
何があったって、気にせず前向きに生きていけばいいじゃないか。辛いことがあっても、支えあえばいいじゃないか。だって私達は、仲間なんだから。
そんなことを考えながら、小傘はこの日初めて本当の意味で笑った。
「さて、小傘ちゃんも元気になったことですし、今夜はご馳走ですね! 最近懐石料理を覚えましたから、夕飯は小懐石といきましょうか。……あっ! ねえナズーリン、今閃いたんですが『寅丸星の星懐石』ってなんだかいい響きだと思いませんか?」
「ご主人様、馬鹿みたいだからやめてください。それに、まだお堂の開いている時間なんですから、早く戻られたほうがいいんじゃないですか?」
「ああ、そうでしたっ! では皆、私は本堂に戻りますね!」
「慌しいねえ……さあて、私は錨の整備に戻ろうかな。じゃあ小傘、またね」
「じゃあ私も部屋に戻ろうかな……あ、そうだ小傘、さっきの話の続きなんだけど、もしもいじめられたりしたら私に言ってね。雲山が『前回は雲山バスターまでしか教えられんかった。なあ一輪よ、小傘ちゃんに爆熱・雲山フィンガーくらいまで教えんでも大丈夫じゃったろうか? さでずむの危機に常に直面しているというのに』ってうるさいから。きっとあなたと稽古したくて仕方ないのよ」
「う、うん」
「よろしくね。それじゃあ、また」
星の退出を皮切りに四人が部屋を抜け、白蓮の部屋には白蓮、ぬえ、小傘の三人が残った。人数が減ったためだろうか、ぬえはどこか恥ずかしそうにしている。彼女なりの想いを打ち明けた相手が目の前にいるのは、やはり恥ずかしいのかもしれない。
そんな中、微笑んでいた白蓮がぬえに言った。
「ぬえ、明日からは寺子屋に行かなくてもいいわよ」
「えっ!? ど、どうして?」
「ふふ、いい事をしたから、罰はそれで帳消しです。ぬえ、本当にあなたのおかげよ。私からもお礼を言うわ」
「や、やめてよ白蓮、照れるじゃん」
「でも、本当にありがとう、ぬえ。私が元気になれたのって、やっぱりぬえのおかげだもん」
「なんだよ小傘まで、恥ずかしいじゃんか……」
そう言って赤くなるぬえを見て、白蓮はうれしそうに笑う。
「あらあら。それじゃあ、慧音先生には私から連絡しておくわね」
「あ、あのさ! あの……偶にだったら、行ってやってもいいって伝えてよ。あいつら、私がいないとすぐ悪戯するからさ、私が見ててやらないとけーね先生が大変だし、それに」
「まあ、もうすっかり子供達とお友達になったのね。それじゃ別れるのは辛いわよね」
「ち、違うよ! ただその、ええと……や、やっぱりなんでもない!」
また赤くなるぬえを見て、白蓮と小傘は顔を見合わせて笑った。ぬえは恥ずかしそうにしながらも、その口元は微笑んでいる。
ああ、なんだか家族みたいだなあ。あったかくて、優しい。出会ったのは偶然だったけど、私もここにいられて本当によかった。
みんな、ありがとう。
そう心の中で呟いた小傘は、この日で一番の微笑を浮かべていた。
* * *
「お~どろ~け お~どろ~け
う~ら~め~し~や~♪
た~たら~の こがさちゃんが
や~ってき~たぞ~お~♪ ……」
その日の夜。人里近い森に、不気味(本人談)で可愛らしい歌声が響く。昨晩の事が気がかりで丁度その近くを歩いていた宵闇の妖怪は、その明るい歌声を聞くと少し安心し、笑顔で彼女の下へと走り出した。
「ねえ、それやっぱり宴会芸でしょ」
「ええっ!? ルーミア、会っていきなりそれはひどくない?」
「いや、ごめんごめん。なんだか言わないといけない気がしてさ。あのー、小傘」
「うん?」
「昨日はごめん。私、小傘の気持全然考えないであんな事言って……辛かった、でしょ?」
「ううん、平気だよ。だって私、頑張ってるもん。私を支えてくれる仲間もいる。だから、私はもう大丈夫だよ」
そう言って微笑む小傘を見て、ルーミアはほっと肩を落とした。彼女にとっては、小傘がどうやって立ち直ったのかなどはどうでもいいことだった。無事に彼女が立ち直ってくれたこと、元気に微笑んでくれたことを喜びながら、ルーミアは笑顔で彼女に話しかける。
「そうか、そりゃよかった! でもさ、この際だからはっきり言うけど、正直その歌はどうかと思うよ」
「そうかな? 私は完璧だと思うんだけどなあ」
「あー、こりゃもう本人じゃどうしようもないね。小傘の絶望センスじゃ改善できないわ」
「ぜ、絶望センスとなっ!?」
「ねえ小傘、今からちょっと屋台につきあってよ。歌の上手い夜雀を紹介するからさ」
「夜雀って、鳥目にするっていうあれ? 目が不自由になるのは困るなあ……」
「いや、なんで能力使われる前提なのよ。大丈夫、私の友達だからきっと力を貸してくれるよ。あ、でも意外とあいつ気が短いから小傘並みに下手くそだと怒るかな……」
「あー! 今下手って言ったな!!」
「いやいや、事実だしこればっかりは仕方ない」
「もう怒った! ルーミア、早く案内してよ! その上手い夜雀ってやつをぎったんぎったんにして、私が下手っぴなんかじゃないって証明してやる!!」
「そ、その発想はなかったわ。まあいいや、楽しそうだし、行こうか!」
そう言うとルーミアは小傘の手を引っ張って歩き始めた。妙に奮起している小傘を見て吹き出しそうになるのを抑えながら、ルーミアは夜の森を歩いていった。
この後すぐに勃発した小傘とミスティアの大喧嘩の中で生まれた即興のシャウト・ファルセット・さでずむに魅入られたプリズムリバー三姉妹は、これを見事に楽曲として書き上げた。それを是非歌って欲しいという大勢の妖怪の願いに後押しされて、約一ヶ月後小傘・ミスティアの両名は三姉妹を演奏者とするびっくり系ロックバンド「唐傘ローレライ」を立ち上げる。後に若い妖怪達の間で社会現象とまでいわれるようになるこのバンドの誕生がこのような子供じみた小競り合いに由来していることは、彼女達を除いては誰も知らない。
特にルーミアは設定を守りつつ良い子になっていて可愛かったです。