神社。
「お」
何の変哲もない、昼下がりである。
「――みろみろ、ほら。」
「え?」
「ん?」
「ほら。茶柱茶柱」
魔理沙が言った。霊夢は横からその湯飲みをのぞいた。
「あ。ホントだ。縁起いいわねー。おめでと」
「チャバシラ?」
「おお。みろみろ、ほら。ぶっといだろー」
「……なに、これ……デガラシってやつじゃないの?」
「なんだ、お前、茶柱見たこと無いの? はーあ。遅れてるなー、都会派はー。さすが自称するだけあるな」
「……」
魔理沙が黙りこんだ。霊夢が横から言う。
「茶柱って言うのよ。それができると、縁起が良いって言われててねー」
「ふうん。そうなんだ」
「……おいおい、そんな分厚い魔道書の角でいきなり叩くとかないぜ」
「手が滑ったのよ」
「……ほおーう――あ! しまった! 私も手が滑った!」
「……ごう……」
「……」
「すまない、アリス。私の箒が不注意なせいで、柄の特に堅い部分が、うっかりお前の頭頂部にえぐるように直撃してしまうなんて……責めないでやってくれよな。こいつに罪はないんだ。悪いのは、そう――万有引力って奴だな。知っているか? 人と人の間には引力があるということを……」
「……」
アリスは黙りこんでいる。霊夢が横からふと言った。
「魔理沙」
「ん?」
魔理沙は霊夢を見た。霊夢が後ろを指さす。
「いえ。なんだかそこの人形たちが、あんたと話したがってるみたいよ?」
「ん? うおわっ!!」
魔理沙は素早く飛びのいた。さっきまでいたところに、槍が殺到する。
魔理沙は大袈裟に嘆いた。
「――なんてこった! 不意打ちだって!? お前ってやつはなんて大人げないんだ、アリス」
「霊夢っ! 教えないでよ!」
「いや、だって畳に血が飛びちったりすると困るしさ」
霊夢はしれっと言った。アリスは構わずに、魔理沙を見た。
「魔理沙……まったく、あんたときたら、こんな何の変哲もない昼下がりにも、なにかしら血を見ないとすまないようなのね……いいわ。よくわかったわ。それじゃあ望みどおり始めようか、楽しい“円舞劇”をよ……?」
「おいおい――私が何をしたって言うんだ? アリス。まるで意味が分からないぜ……まあ、あれだ。な、とりあえず、落ち着けアリス。そうだ、素数を数えるんだ。素数は、1と自分自身でしか割り切れない孤独な数字だ。私に勇気を与えてくれる――」
「アーティクル・――」
「おい人の話を聞けないヤツは」
「――んまあっ! なんて妬ましいの!?」
と。
「……」
「……」
「……」
すっとんきょうに響いた声が、その場にいた三人の視線を集めた。
アリスは、どこからともなく現れた無数の人形たちを宙に浮かべているし、八卦炉を構えて、隙をうかがいつつ説得を続けようとしていた魔理沙、待避して傍観を決めこもうとしていた霊夢もその場にいる。その各々の視線が向いた先には、きらきらと緑の目を輝かせ、胸の前で両手を組んで、まばゆいばかりに目を輝かせた妖怪がいた。
正確には、鬼の一種だった。
「え?」
「ん?」
「え? えーと……」
アリス、魔理沙に続いて、霊夢が言いかける。が、聞かずに妖怪は言った。
「はあっ……妬ましい。なんて妬ましい薫りなのかしら。えげつなく素晴らしいわね……まさに嫉妬の万有引力。思うに、出会いというものは引力なのではないかしら……君がわたしにどういう印象をもったのか知らないが、私は出会いを求めて旅をしている……」
紅潮した頬に手を当てて、妖怪は言う。うっとりと目を潤ませつつ、茶柱の立った湯飲みを見つめている。
「……」
えーと。
霊夢がそんな顔をした。なんだっけ、こいつ。
「ええと、たしか……はし、はしひめ?」
そう、『はしひめ』。橋姫とか言ったか、その名前と顔とを思い出して、霊夢は、ぽん、と手を打った。
「ああ。そうそうえーと、確か、はしひめの……ばるすい?」
「パルスィよ。発音には十分注意してね。ふう……それにしてもこれは見事な茶柱だわ……形、色、薫り、縁起の良さを露骨に主張してくる、ねたましさ……こんなにも太く逞しく黒々とそそり立っているだなんて、はためにはちょっと信じられないわ……どれ、味も見ておこう。ンッンー、煎茶だなこれは」
「おいおい。人の茶を勝手に飲むなよ……」
「……誰だっけ」
ようやくアリスが言った。
「ほら、地底の騒動のときにいたじゃない。洞窟の入り口当たりに」
「? ……あ。あー。あのーこう、なんだか、ひゅんひゅん分身してくる……」
「ふう。美味しい。ねえ、ところでこの茶柱が立ったクソ妬ましいゴミ虫ヤロウは誰?」
「うわ……答えたくないわ……」
「ふふ……そう。あなたね。やるじゃない、この嫉妬――久方ぶりに胸がパチパチ騒ぎましたわ。ああ、胸にわき上がるこの思い、まさに、嫉妬色のマスタースパークといったところ……ふう……まったくいい嫉妬をいただきました。ありがとうございます、それでは失礼」
折り目の正しいお辞儀をすると、橋姫は、そのまま境内の外へと去っていった。
沈黙が訪れる。
「……」
「……」
「……」
その場にいた三人ともが沈黙していた。
やがて、魔理沙が立ち直って、目をしばたいた。
「……ん? ――あれ?」
「え?」
「ん?」
「……なんだったっけな……ん? あれ? ところで、お前なにしてるんだ? アリス」
「なにって……」
アリスは、いいよどんで首をかしげた。
しばし八卦炉を構えた魔理沙と、人形を構えたままじっと見つめ合う。
霊夢が、ふと思いたったように湯飲みを啜った。
二人はそれで見つめ合うのをやめた。
「……まあ、座るか」
「……そうね」
そしてまた再び、何の変哲もない昼下がりが戻ってきた。
郷の外れ。
「はあ……。まったく良い天気ねえ。妬ましい……」
境内を後にしたパルスィは、太陽に指をかざし呟いていた。季節は初春、うららかなる、生命の季節である。
空から降る穏やかな日和り。まだ寒気の残る大気がほのかにぬるみ、ふりそそぐ陽光は、そよそよとゆるい眠気を誘っている。
「ふう……まったく胸くそが悪いわね……あの道に咲き誇る野の花も、艶やかに慎ましやかに咲き誇る花弁も……ああ、妬ましい――どれもこれも妬ましい。やっぱり、春はいいわねえ。どこもかしこも、匂い立つほどの嫉妬で満ち溢れているわ……ああ。妬ましい、妬ましいわ」
うっとりと呟きながら、道を歩く。そのぶらぶらと、後ろに手を組んで歩く姿は、まるで無邪気な童女を思わせるようだし、あるいは、年嵩の老女のようにも見えた。
妙齢の女性が、ふと懐かしい昔を思い出して、わざとそうしているかのように、不思議な色気が背に溢れている。
パルスィは、これでも、かつては嫉妬に狂う殺人鬼として、古代の京都に名を馳せた鬼である。
自分というものがありながら、余所の若女との浮気に及んだ夫への憎しみと、また、自分自身に対する強い自己愛の末に、女(おぬ)が転じて鬼(おに)になってしまった類の鬼である。今では、同じ鬼の間でも『低俗』と忌み嫌われるようなのが彼女であるが、もともと、『鬼』、とは彼女のように牙も角もないものを指して言うものだった。
『ああ……妬ましい』
その心というのは、基本的に、自分とあらゆる生命への憎しみで、いつもどす黒く塗りたくられているが、普段の彼女は今のようにニコニコと笑っている。それというのも、普段はこう、なんというか、可愛さ余って憎さ百倍というのか。
心にある憎悪や嫉妬が強すぎて、今のように、他の生命を、むしろ徹底的に慈しんでしまうようなところがあるのだった。嫉妬するべき対象に出会うと、憤怒の表情を浮かべて歯を軋らせるのではなく、逆に、頬を柔らかく緩ませるし、その頬は怒りではなく、興奮のために、ほんのり赤く染まってしまったりする。
「♪」
そういうわけで、今も道ばたの花に顔を寄せるパルスィの顔は、柔らかく微笑んでいた。うっとりと、花からの仄かな薫りを楽しんでいるようだが、これは実は激しすぎる嫉妬心のあらわれなのである。
「ふう……なんて小可愛らしい花なのかしら……思わず根から引きちぎってバラバラにしてやりたくなるわね。ああ、妬ましい……」
ぶつぶつと笑顔で呟いている。
「あら、あなたも花が好きなのかしら?」
急に、後ろから声が聞こえた。パルスィは、しゃがんだまま、後ろを見上げた。
見やると、少し離れて娘が一人立っている。
「おや、あなたはどなた?」
パルスィは言った。娘はにこにこと微笑んで言ってきた。
「ああ、失礼。ただの妖怪ですわ。いえ、すみません。花に寄せる貴女の顔が、あまりに綺麗だったものだから、つい声をかけてしまったの」
「まあ、ずいぶんと妬ましいことを言う人ですね? あなたこそ、野に咲く花みたいに、お綺麗で素敵な人のようですけれど……」
「ええ。だって、花を好む人はみんな素敵だわ。あなたも私も。あなたはどうやら人じゃないようだけれど、そういうところでは、そこらの人間なんかより、ずっと素敵なようね」
「まあ、本当妬ましいことを言う人ですね……」
パルスィは言った。日傘に若草色のマフラーをした妖怪は、微笑んだまま、片手に持った紙包みをちょっと掲げてきた。
「実は、買い物の帰りなのですけど、これから、私の家でお茶でも一緒にいかが? 今の時期は身体が冷えるからね。温かいお茶に、甘いお菓子が一番だわ」
「うーん。そうですね。せっかくのお誘いだけれど、遠慮しますわ。急で、ろくに身繕いも出来ていないし、ちょっと恥ずかしくて人様の家にお呼ばれ出来ません」
「ふうん? ずいぶん慎み深いんですね。残念。それじゃあ、また今度」
「ええ。あ。できれば菓子は宇治金時がいいわね」
「……うじきん? なにそれ?」
「あら、あなたは和食派じゃないの? 残念ね……」
怪訝そうに首をかしげた妖怪を置き去りにして、パルスィは道を歩きだした。妖怪も、すぐに反対へと道を歩きだす。
人里。
そもそも、パルスィには行く当てなどあったわけではない。彼女はただ、より嫉妬の影が多いほうへと、鋭敏にかぎつけて歩いてきただけだった。
(♪ ふん♪)
パルスィは、鼻歌交じりに郷の前に歩み寄った。そのまま、平然と町並みに入っていく。
通りは閑散としている。
パルスィは物珍しげな目つきで、脇の店やら看板やらを見ながら歩いた。まともな人間の里、というのは、実は目にするのも久しいので、つまらないものでも、それなりに楽しげに見えるのだった。だが尖った耳やら、人間の皮膚くらいなら簡単に引き裂ける尖った爪やらが合わさった様は、露骨に人外に見えている。
普通に人里に入ったら、奇異の目で見られるか、いぶかしまれそうなものだ。だが、パルスィは、さすがに長く生きている鬼だけあって、ちゃんと隠形の術というのを心得ている。こうして、人の間に入るときには、術を使って、正体を隠して歩くのである。もともとは、人間に紛れて、人間を襲うための術だが、さすがにそこまでやろうとは思っていない。
しばらく歩いていくと、ちょっと露店のある通りになど入ってくる。ここでは、人間の数が多く見受けられた。
「♪ ふん」
そのまま人の目にとまらず歩いていくと、不意に衝撃が足もとに返ってきた。
「うん?」
パルスィはよろける様子もなく、足もとを見下ろした。見事にすっ転んだ子供の姿を目に入れる。
(あら。美味しそうな子)
「大丈夫? ごめんなさいね」
パルスィは思いつつも、普通に手を貸して、子供を立たせてやった。指先が触れた拍子に、柔らかい肌の感触やら、もちもちした手足を感じとる。
パルスィの口のなかに、自然と生唾が沸いてくる。
(うーん。妬ましい。齧りたいわー)
パルスィの顔は、あくまで目をほそめ、まったく目の前の子供に不安を与えない穏やかな表情である。彼女の場合、目の前に喰われる人間がいるときにでも、こういう表情で相手を見るのだった。
「ああ、すみません! ほら、もう――」
慌ててやってきた母親に小突かれ、子供は去っていく。小さく手をふって、それを見送りつつ、ふとパルスィは軽く腹を押さえた。
かるく胃を捻られる感触と共に、腹が小さく鳴る。パルスィはへこんだ腹をさすった。
(お腹空いたわね……)
どこか食事処でもないかな。見回していると、いきなり後ろから声がかかった。
「ちょっと。そこの」
「……?」
パルスィは、後ろを見た。
見やると、異郷風の、ゆったりとした服を着こんだ人影が若干剣呑そうにこちらを見ているのが見える。人影、というか、どうも、人間ではなく妖獣かなにかのようだった。
人間の姿をとってはいるが、後ろに、豊満な尻尾を揺らしている。
「……見たところ、鬼のようだけど、こんなところで隠形なんて使ってなんのつもり? 掟を知らないのかしら? あんたがた地底の者は、許可無しに人里に踏み込んじゃならないのよ。今ここで、それを私に説明されるなんていうのも、もってのほかだけどね」
いきなり威嚇を含んだ口調で言ってくる。
パルスィは心の中で首をかしげた。
(なにかしら、この動物)
人里で、堂々と尻尾なんか生やしている輩に、そんなことを言われたくないものだ。周囲の人間がなんとも思っていないようだし、もしかすると、里に縁の深い輩なのかも知れないが。
パルスィは、狐っぽい動物を観察した。
(ふーむ)
胸に抱えた買い物包みが、ちょっと尖った印象を損なってはいるが、なかなか油断ない目つきだ。鈍く光って、こちらを射抜いている。
(あらー、なんだか因縁つけられてるのね。でも、どうしようかしら。地上の連中と、厄介ごとを起こすと、古明地さまに怒られてしまうし――。――ん……?)
パルスィは眉をひそめた。ちょうど、狐の傍に、小柄な娘がやってきたところだ。
こちらも、手には買い物袋を抱えている。頭には、猫のような黒い耳を生やしていた。
「藍様、どうかしたので?」
「ああ、橙。あなたはちょっと下がって――」
「まあぁっ!!」
いきなりパルスィは素っ頓狂な声をあげ、指を組んで目をキラキラと輝かせた。
「?」
狐が怪訝な目で見てくる。が、パルスィは構わなかった。
「う、あ、え。す、素晴らしいわ! な、なんて妬ましい!!」
「おい、ちょっと――きゃあ!?」
「この! この尻尾! 素晴らしいわ! 妬ましい! こんなにも、豊満で、ふくよかで、静かで、優雅で……はあ、う、う、美し妬ましいー……ああ、なんなのかしら? この、この妬ましい触り心地は……!」
「おい!? ちょっと、あなた――こら!! やめ――きゃあ! う、い」
「はあ、駄目、なに? もうなんなの? この――この――天にも昇るようなふくよかさ……! ああ、どんなに上質な毛織物であっても、この温もり、この言葉に言い尽くせない気品と、果てのない抱擁感は真似できないに違いないわ……ね、妬ましい……妬ましいわ! 妬ましい!!」
「ちょ、ちょっと、やめ……きゃ、わ、わ、ちょ、ちょちょっと! ええい、くそ! んお! だあ! ははは離せぇ!」
狼狽してもがく狐を、しかし、背後からしっかりと抱きしめて、パルスィは離さない。一応、はしくれであるとはいえ、鬼の一種だから、怪力なのだ。
もがくうっとりとした蕩けそうな忘我の表情で、パルスィは尻尾に頬ずりした。
「ああ……ふれあった場所から、快感が溢れ出るよう……少しでも気を抜くと、すっと川の向こう側へと渡ってしまいそうな……ああ、でも決して手放したくない……ねたましい。妬ましい。んふー。もふうー」
「こ、こ、このこの――。う、う、や、やめて! ひ、ひ――!」
狐はじたばたともがいた。
が、ぼすん! と、いきなり爆発音を残して、煙状になって、霧散した。パルスィはつんのめった。
「ん――あら? あれ?」
あとにはなにもない、空虚な手触りだけが残った。パルスィは、寂しげに目をぱちくりとさせた。
空を切った手が、わきわきとなる。
「? ――? ?」
「……ら、藍様が……逃げた……?」
パルスィが目をやると、先ほど妖狐と会話していた娘が、そこで呆然と呟いている。よほど信じられないものを見たのか、大きな猫のような目を、まん丸にしている。
その娘の頭に生える耳や、背中の尻尾を見た瞬間、パルスィの目は、またざわりと好奇の色を帯びた。
「……まあ……」
「――うい! ひっ!」
こちらの視線を浴びた瞬間、妖獣は、まるで総毛立つかのように、肩を強ばらせた。
なにか嫌なものを感じとったのだろう。後ろに伸びた尻尾が、二本とも立っている。
「ちょ、やめにゃっ! ――にゃああああああああああッ!! きゃあああああっ!」
「な、なんて、妬ましい! ……妬ましい! 妬ましく、愛苦しいッ!」
パルスィは叫んだ。
「この、この、この! この艶々の黒い毛並み! まるで、月の曇る夜の色のようで居て、またそこはかとなく、ほのかに夕暮れ空の暗い茜が、照り映えたかのような――ぜ、絶妙な色合いだわ! なんという黒! 妬ましい! 妬ましいわ! なんという小動物なの! けしからない! 妬ましく、かつ、けしからないわ……!」
「ヤメロォォッ! はなせー!! にゃッ、んにゃ、ぎゃっふぎー!!」
パルスィは、もふもふもふと暴れる猫の耳を触った。グレイト。すさまじい手触りである。
「ああ、この尻尾、この耳――どうやったらこんな絶妙な手触りが出せるのかしらっ、んん、もう妬ましい……はあ。んー。もふもふうー、もふもふうー、にくきゅうー」
「はなせえ! はなしてよーっ、こらー、聞けえー!! にゃ、ぎゃっ、にゃっ、にっ……! ――いやー! もーいやー! 藍様ー!! 助けてー! 助けてー! にゃー!」
ひとしきり鬼の怪力で押さえ込まれたあげく、そのまま存分に毛並みを味わい尽くされ、妖獣はやがてぐったりとなっていった。パルスィは、あきらめきった妖獣の頭をひとしきり鼻を押しつけて、かいぐりかいぐりしていたが、やがてその鼻の頭を上げた。
すん、となにかの臭いをかぎ取り、あたりを見回す。
「ん?」
パルスィは、眼をぱちくりとさせた。ふと腹を押さえる。
「あら。――ああ、そうだったわ。お腹空いてたんだったのよね。やあね。ちょっと夢中になりすぎちゃった」
妖獣から手を離して立ち上がる。ちょうど、いい匂いのする軒先が、少し離れたところで暖簾を垂らしている。
そちらに歩きだすパルスィの後ろで、「ちぇ、橙! 大丈夫!?」と、先ほどの狐が慌てた声を発しているのが聞こえた。
「ふぎゃあん。藍様ぁ。私、私ィ」「ああ、ごめんよ! 怖かったろう、すまないね、本当、ああ、泣かないでおくれよ――」
狐の動揺した声に、猫の泣き言が聞こえる。パルスィは、大して気にせずに、目的の店の暖簾をちらりと見てからくぐった。甘味処か。
「いらっしゃいませ!」
店に入ると、それなりに客が入っているのが見えた。適当に見回して、空いている席を見つける。
ちょうどよく一人ぶんの席を見つけて座ると、すぐに、目録と一緒に、お茶が運ばれてくる。パルスィは、目録を見て、ちょっと考えこんだ。
どれにするかな。表の様子を見て入っては見たものの、残念な事に、あまり好みの品は見あたらないようだ。
少し考えてから、パルスィは、団子と饅頭を頼み、それからのんびりと茶を啜った。ふうー、と息を漏らし、至福の表情に顔をほころばせる。
「ほう……ふぅ……妬ましい。なかなかに妬ましいわね、このお茶は……」
「うーん。甘味なんて久々に食べたけど、やっぱりいいわねえ」
「そうね。そういえば、地底には全然なかったものねえ……」
と、ちょうど真後ろの卓から会話が聞こえてくる。聞き慣れた単語を聞きつけ、パルスィは耳の先をぴくりと動かした。
(おや)
パルスィは、会話のほうに意識を向けた。会話は、だいたい背中越しに聞こえてくる。
「――ああ、そういえばそうだったかもね。そういやなんでかしらね?」
「うーん。まあ、あれじゃないですか。馬鹿みたいに酒飲む連中の巣窟ですからね。開いても、流行らないってこともあったんでしょうけど。お酒に甘いものなんて全然合いませんからね」
「それもそうかもねえ。そういえば、あそこの料理も、どうも、不味かったとは言わないんだけれど、どれもこってり濃い味風味ばっかりだったしね。考えてみれば、仏法者には肩身の狭いところだったわね」
(お仲間かしら?)
会話を聞きつつ、目だけ動かして、パルスィは耳をそばだてた。すぐ後ろの席の一行は、背中合わせに鬼がいることには、まったく気がついていないらしい。
暢気に会話を続けてい三人組を、パルスィは観察した。パルスィからは、ちらりとしか見えないが、向かい合わせになって座っている三人組は、ずいぶん個性的な一行だった。
(ふむ)
パルスィは唸った。三人のうちの一人は、この辺ではあまり見ない軽装をした、黒髪の娘である。
へんな形の白い服だ。パルスィの知識にはない服装だ。
それと向かいあって座っている二人組も、また、妙な恰好だ。一人は、上から下までを、頭巾を被った僧服姿で固めている(男物だが、なぜか)娘で、もう一人は、すらりとした背高の身体を、教典にあるような仏天風の恰好で身を包んでいる。
どうも妙な取り合わせだ。三人はけっこう派手な恰好をしているが、不思議と、あまり目立ってはいない。
見た感じ、三人ともが妖怪のようだった。どうも、そんじょそこらの妖怪とは感じが違って見えるが。
(うーん。あ。いい匂いね……)
パルスィは臭いをかぎ取って思った。三人とも、身に染みついたような、清らかな香の薫りがしている。
質の良い抹香かな、とパルスィは判断した。
(なんか身体が肉臭くないのよね。脂じみてないっていうか。あんまり人間を喰ってばかりいると、どうもそういうふうに、臭くなってくるものだけど――うーん。誤魔化した感じのしない、妖怪らしからぬ妖怪の薫りね。なかなかこういうのもいいじゃない? 清げな感じで、妬ましいわね、ああ妬ましい……思わず悪戯したくなっちゃうわね……)
胸をざわめかせつつ、笑って頬杖をついていると、会話の続きが聞こえてくる。
「聖も来ればよかったのにね。誘ったのに、来ないって言うし」
「姐さんは、私らみたいに安い人じゃないの。一緒に考えんなよ」
「うわあ……」
「あん? なによ」
「いえいえ、ナンデモナイデスヨ? まあ、うん。でもね、聖も昔はあれでけっこうですね――」
「お待たせしました」
と、会話に割り込んで、やってきた店員の腕が卓に注文の品を並べる。
(ほう……)
店員が去ると、パルスィは早速、いそいそと饅頭を切り分けた。
(ううん……これは――なかなかに、妬ましい――)
口元を軽く押さえて思いつつ、茶を啜る。もう一切れ、もう一切れ、とつい手が進んでしまった。
これは当たりを引いたようだ。しばしして息を吐き、パルスィは再びうっとりと笑った。
「ふう。素晴らしいわね……このふくよかに口のなかに広がる味わいは、茶の風味と合わさって初めて至高のあじわいを醸し出すことが出来る――いい仕事、いい嫉妬だわ。ふふ。妬ましい。私の幻想郷は、やはりここにあったようね……」
「――そういや、ネズミはどうしたのよ。声かけなかったの?」
「いえ。誘おうとは思ったんだけどね……姿が見えなかったのよ。どこに行ったのかしらね……」
後ろの席から、また会話が聞こえてくる。
「いや、そこは把握しておくべきなのでは? 一応、ショウさん彼女の上司でしょう?」
「そりゃあ一応はそうだけど……でも、ナズーリンは、私と違って一人でできる子だし、いちいち私が何か言わなくてもいいし……そもそもナズーリンは、ただ命令で私の下にいるだけであって、私の部下というわけじゃないし――ああ、もう……これじゃ私、一応でも上司なんて言えなくなってしまうわ……ああ、妬ましいわ妬ましい、まさにこの嫉妬は、嫉妬の廃仏毀釈令といったところかな……」
ふと沈黙が流れた。
「え?」
「え?」
「――え?」
後ろの席で、三人が顔を見あわせた。仏天姿の娘が、自分を見た二人を見返す。
見返された二人は二人で、眼をぱちくりとさせている。
「……なに?」
「え。いや」
「いえ……」
沈黙が流れる。再び匙を動かす音がした。
パルスィは、その後ろで一向に気にせず、甘味を楽しんでいた。
「またどうぞォ」
店員の声がした。パルスィは店の外に出た。
ふうーと満足げな吐息を漏らす。なかなかの店だった。
(また来ようかしらねえ。さて、どこに行こう)
思いつつあたりを見回す。とくに何をする、という目的もないから、このまま帰ってもいいのだが。
パルスィは少し考えた。とりあえず手近な石に腰を下ろし、辺りを眺める。
「ふう……」
(まあ、お腹も膨れたし、ちょっとぶらついて帰ろうかしらね……)
思いながら、通りの様子を眺める。隠行の術を使っているパルスィには、誰も気を止めない。
(……。ん?)
パルスィは、ふと気づいて、眼を止めた。
「……」
しばし沈黙する。
そして、はっ、とその顔が驚愕に強ばる。パルスィは目を見開いて、ある方向を見つめた。
そちらの方向には、一人の青年が座り込んでいるのが見える。青年は、とくにどこか変わったところがあるわけでもない、普通の青年だった。
道ばたの長椅子に腰掛けて、弁当を広げている。今は昼餉の時間なので、仕事を抜けてくるかなにかしたのだろうが。
特に目をひくところがあるわけでもない姿だが、パルスィは、血の気を引かせて、青年を見つめていた。
「……! なんて、こと……!」
パルスィは、愕然として言った。やがて立ち上がる。
血相を変えて、通りを横切る。そしてまたたく間に近寄ると、座っていた青年の肩をつかんだ。
青年は眼をぱちくりとさせた。あっけに取られたような顔で、パルスィを見た。
口の端に飯粒がついている。パルスィは、裂帛の気合いをこめて言った。
「あなた!」
「は?」
「あなた! それでいいの!? 本当に、それでいいの!?」
「え……?」
青年は言った。パルスィは、身をあとずさらせる青年に、さらに押しせまった。
「いいえ、いいわけがないわ。今のあなたは――人として、死んでいるも同然――だって、だって、あ、あなたの目には――無い、無いのよ――」
パルスィは青年に顔を近づけた。その目をのぞきこむ。
青年は思わず、という風に目を逸らした。パルスィは、その青年の顔をしっかりと両手で押さえ込み、離さない。
「何なんだよ……! なんだ、あんたいったい――」
青年は迷惑そうな声を上げた。だが、パルスィには効かない。
熱に浮かされたような口調で続ける。
「あなたの目には――嫉妬の光がない、他人を羨む光がない、疎む光がない、妬む心が――嫉妬の光が――ないのよ……ああ……なんて、空っぽ――」
パルスィは言った。目から涙をこぼして、首をふる。
急に泣きだされたので、青年は、ぎょっとしたようだ。たじろいだ様子で言ってくる。
「いやだから何を――?」
「ねたましくはないの……? 妬ましくはないの……? 妬ましくはないの……!? 妬ましくはないの!? あなたは妬ましくはないの!? この世界は――この世界は、こんなにも美しく――こんなにも、妬ましいもので満ちあふれているというのに――こんなにも妬ましく、愛おしいというのに! だというのに、あなたの目には、それがまるで映ってはいない……! いいえ、その目は何かを映してはいるのでしょう、でもそれは、何も映してはいないのと同じことなの! 何も、何も、何も見えていないのと同じことなの! ああ、なんて憐れなの……あなたはとても……」
パルスィの憐憫に満ちた眼差しに、男はさらにたじろいだ。引き込まれるように、パルスィの目を見つめる。
パルスィは不意に立ち上がった。腕を振る。
「あの空を見なさい! あの雲を! あの木々を! あなたはあれが妬ましくはないというの? あんなにも妬ましいものを――いえ。駄目よ、聞きなさい。いいかしら。嫉妬というものはね、人が生きていく上で欠かせないもの。樹や草にとっての水や日光と同じ。それがなくては、十分に育つことはできない。日の当たらない大樹の陰で生える痩せた木のようなものなのよ……! あなたにとっての大樹とは何! また日の当たる場所で咲く蒲公英とはなに!? そう……それは……このうつくしい世界そのもの……! さあ、よく目を開いて!! 聞きなさい! 耳をかたむけなさい! 聞こえるでしょう? この大地の声が、風の声が囁くのが――! ああ。妬ましい……妬ましい……世界は、世界はこんないも妬ましい! それが見えないのなら、聞こえないのなら……この目は、耳は、見えている意味がない! 聞こえている意味がないのよ!! さあ、聴きなさい、貴方にも今は、きっと聞こえているはず――」
「……あ、あああ――」
青年は唐突に叫んだ。その目に、ぽっと何かが灯っていた。
「ああ、あ、あ……」
青年は、がくりと膝を落とした。地面に手をついて、砂を握る。
「ね、妬ましい……」
青年は言った。声を震わせて。
「妬ましい……あああ、妬ましいいいいいいいい!!」
青年が声を限りに叫ぶ。パルスィはぐっと拳をにぎった。
「そう! それよ!」
「妬ましい!! 妬ましいいいいいいいい!」
「そう! そう、そうよ! その調子! 頑張って! できるできる! あなたならやればできる頑張れ頑張れ!」
「ね、妬ましい! なにもかもがみな、ね、妬ましいいいいい! ああ、どうして、どうして、どうして忘れていたんだろう、俺は、俺は、この気持ちを――!」
青年は顔を覆った。絶望したように。
その頬を、手についた砂が撫でる。青年はうめくように言葉を漏らした。
「ああ、妬ましい、土も樹も草も……なにもかもが……生命に満ちあふれている……いきいきとその手足を伸ばしている――それに比べれば、俺は、俺はなんだ……? 俺は一体何なんだ……? ああ、俺はその答えを知っているはずなのに、なぜ、口にできないでいるんだろう……そう、そうだ、本当はわかっている……俺は、俺は怖いんだ。この輝かしいものの中で、こんなにも卑小で、こんなにも醜悪で、こんなにも尊大な俺が……何であるかを認めるのが……口にするのが……怖くて……! そうだ、俺は……俺は……人間だ……! 人間じゃないか……! 俺は、人間なんだ……ああ」
青年は、両の目を滲ませた。その眉間が、捨てても捨てきれないほどの絶望に歪む。
「ああ、なんて、なんて深い絶望だ……ま、まるで、月の光のない夜に覗いた湖の、その深淵のように――ああ、暗い、暗い、暗い。ここは深くて暗い……! 妬ましい……何もかもが、妬ましく光り輝いて見える……お、俺は、今まで、こんなにも……多くのことを、多くの素晴らしいことを……見落としてきたのか……指のあいだから砂粒をこぼれ落とすように……こんなにも、あの空に輝く星々のように、こんなにも遠く広大に輝くものを……ああ……ああ……! うおおおおおおおおお! うおおおおおおおおおおおおお!!」
青年は叫んだ。声を張りあげて。
「そう、そうよ……」
パルスィは傍に歩み寄った。寄り添って、そっと青年の背に触れる。
青年は、顔を上げた。潤んだ目で、パルスィを見る。
「ああ、ああ、名もなき人よ……」
「パルスィよ。パルスィと言うの」
「パルスィさん……俺、俺……、ま、間違ってました……。何も見えていなかった……今までずっと、今、さっきあなたに出会うまで、こ、この二つの目は、まるで世界を見ていながら見ていない、歪な紅い筋の走るガラス玉が、ただおさまっているだけの、がらんどうだった――あ、あなたのおかげです、あなたのおかげで俺は――俺は、正気に戻った!」
「ええ。そう……」
パルスィは、青年の傍にかしずいた。そっとその頭を抱く。
青年もパルスィの抱擁を受けいれた。彼にも分かったのだろう。これが、邪な念の介するところでない、慈愛に満ちたものだということが。
青年はさめざめと泣き、パルスィの胸の中で、ぽろぽろと涙をこぼした。
「う、ううう……」
パルスィは、青年をそっと撫でた。囁くように言う。
「泣いては駄目よ……そんな風に、涙を流しては駄目……」
「う、う……ぱ、パルスィさん、でも、でも、俺、俺……く、悔しくて……あんまり……情けなくて……」
パルスィは慈愛に溢れた瞳で、青年の頭をかき抱いた。
「過去の過ちが許せないのね……未熟だった自分が、許せないんでしょう……ええ、大丈夫、あなたは、もう大丈夫。気づいたのよ、それでいいじゃない……」
「う、う、うう、う、う、うおおおおおおおおん! うおおおおおおおおおおん!」
青年は、さめざめと悔恨の涙を流し、叫んだ。パルスィは、優しくそれを抱きしめ、背をさすってやった。
その後方だった。
木の陰。
「なんてことなの……」
震える声で言う。目の前の光景を見て、呟く人影があった。
わざわざ、日向から陰に隠れるようにして、一人の娘が通りの様子を見ている。なにか人形のような娘である。
人形のような風変わりな服を着て、人形のように白い顔をしている。その手足も人形のように白かった。
娘の名前は雛という。妖怪の山に住む、厄神という神である。
普段はその行動の関係から、日中に出歩くことはないが、この日は、たまたま人里に下りてきていた。なぜかこの日は、人里の方角から、風に乗って強い厄の気配がしてきたためだった。
そして匂いを辿って来てみたら、案の定、この恐ろしい光景に出くわしたのだった。
目の前ではあいかわらず、青年と娘が寄り添い合っている。何事かと集まった人々で、人だかりもできていた。
(強い厄の匂いがするから……何かと思ったら……!)
雛は、歯がみした。予感が的中してしまったようだ。
「放ってはおけないわ……絶対に!」
雛は、憤然として木陰を抜け出した。通りを抜けて、歩み寄る。
「――ちょっと、あなた!!」
ふと、呼ばれて、パルスィはそちらを見た。見ると、どこから来たのか、娘が一人、こちらへ歩いてくる。
変わった出で立ちの娘だった。布切れやリボンの塊というのか、なにか、そんな感じの意匠の、妙にごわごわとした服を着ている。
お人形みたいね、とパルスィはちょっと思った。
(ふむ……なかなかに妬ましいかわいらしさね……)
珍妙な服の娘は、険しい顔をして、進み出てきた。人形のように可愛らしい顔が、今は冷たく厳しい表情を浮かべている。
どうも怒り心頭に達しているといった感じだ。娘の風変わりな恰好に、周囲の視線は、自然と集まった。
娘は、パルスィを睨みつけている。パルスィは首をかしげた。
(はて、なにか悪いことしたかしら……)
「おお、あれは……まさか、厄神様……?」
「厄神様……? あれが……?」
「え? 誰、あれ……?」
周囲ざわざわと囁き出すのが聞こえる。
厄神様? 誰だ? 馬鹿、知らないのか……。
「静まれ、皆の衆。そしてそれ以上その御方に近づくでないぞ」
ふと、威厳のある声が言った。人垣の中から、老人が一人進み出てくる。
杖を突き、髭を蓄えている、いかにもといった老人だった。
「おお、吾兵衛さん……」
「知っているのか……?」
周囲が問いかける。老人は重々しく頷いた。
年の割には、しっかりとした物腰と、厳しい眼差しで語り出す。
「説明しよう……そこにおわす御方こそは、お山に住んでおられる神様方の一人、厄神の鍵山雛様だ……雛様は、我等の身に捲きつく厄を司る神様であられる……夜の夜中に郷におり、ひっそりと人目を忍んで歩き、我等の身の回りに憑く恐ろしい厄を吸い取ってくださっている、それはそれは、ありがたい御方なのよ……だが、皆の衆、それ以上近づくでないぞ」
老人は、しわの浮いた顔を、苦渋に歪めた。ひそかな憐れみをこめて、厄神を見る。
「……我々の厄を吸い取ってくださるかわり、厄神様の、そのお身体の周囲には、常におびただしい量の厄が渦を巻いている……ただの人が近づけば、必ずその身に不幸を受ける。皆の衆、それ以上、雛様に近づいてはならぬぞ。己が身に、恐ろしい災厄が降りかかりたくないのであればな……」
「さ、災厄だって……?」
「まあ……」
「や、やだ……」
周りにいた数人の者が、畏れの目をむけて、厄神から距離を空ける。厄神は、その様子に気づいているようだが、何も言わない。
人垣が厄神を避けるように割れていった。厄神は、毅然とした横顔で立っている。
パルスィを、じっとにらみつけると、静かに口を開いた。
「あなた、橋姫ね。いったい地上になんの用事か知らないけど、余計なことをしないでくれるかしら」
パルスィは首をかしげた。
「余計なこと? なんですか、それ?」
「とぼけないでちょうだい。今、その子に憑いていた厄を取り祓ったでしょう。厄を集めて回るのは、私の役目よ。横から顔を突っこまないでちょうだい。厄というのはね。ただ取り祓うだけでは駄目なの。きちんと還元しなければ、どこか余所に飛んでいってしまうだけだわ」
「……よくわからないけれど。私は、ただ彼のことが、あまりに不憫に思えたから、こうしただけよ。嫉妬を忘れた心なんて、死んでいるも同然。何かに嫉妬していなければ、生きていても、死んでいるのと同じなの。彼の目には、その嫉妬の光がなかった……それはとても憐れで哀しいことだというのに……嫉妬のない人間は、嫉妬がないことがどういうことなのか、そのことにすら気がつかない……ああ、なんて不憫なの。とても見ていられない。こんなにも、こんなにもこの世界は妬ましいというのに。ねたましさで満ちているというのに。自ら、それを見ずに、盲目のままでいるなんて……ああっ! 耐えられない! とても!」
パルスィは、叫んだ。その指がばっと空を差した。
「そう! 草も、木も、あの空も、あの山も、私には、その全てがねたましくそして美しい! すべてはどこまでも憎らしく、そしてそれゆえに愛おしい……ああ、……見なさい、あの美しい空を! どこまでも澄み渡った、透明でうつくしい色を! どんなに緻密な画家の手にも再現されることはない、孤高の色を! すべてを包み込む、あのうつくしい色を! 見なさい、あの小さな花々を! 道ばたに咲いた、小さい花の一つ一つ、その儚げな愛おしさを……脈々たる生命の息吹を!! そう、私には、この世界が、いつも雨上がりに空の雲を巻いてかかる、あの虹のように美しく輝いて見えている……そう、うつくしく、光り輝いて見えている! そう、この世界はまるで宝石のよう、それ自体が一粒一粒の宝石のよう!」
パルスィは、歌うように言った。声高らかに。
恍惚とした表情で、胸に手を当てる。続けて歌うように言った。
「そう……この世の、こんなきらびやかさに比べれば、罪に穢れ、身を焦がすほどの憎悪にまみれたこの身は、まるで卑しいものに見える。うつくしく咲き誇る、桜の木の下でも、その根元に転がった咎人の死骸の中をはいずり回る蛆虫のように、惨めたらしく思えてならない! この世に光というものがある限り、私は、それに照らされる闇の中の影……あのうつくしいものたちは、あの光り輝くものたちは、私の泥にまみれた指先では、生涯かけても届くことはないでしょう! もし届いたとしても、その瞬間に、それは汚れてしまうでしょう! 決して触れられない輝き、見ているしかない輝き、すぐそこに、指先を伸ばせば届くところにいるというのに……ふふ、妬ましい。妬ましいわ。全てを慈しむように妬み、妬みねたみ、妬むことなど、決してやめることはできはしない……そう、生きとし生けるものは、何もかもが、こんなにも妬ましい……こんなにも輝かしく、こんなにも生命のひかりに満ちあふれていて――ああ、妬ましい妬ましいわ! 妬ましい! 妬ましいわ、全てが! 全てが妬ましい! そして、狂おしいほどに愛おしい!! そう、私はこんなにも私を妬ましくさせる全ての者が、愛おしくてたまらない……ああ、愛おしい、愛おしいわ……妬ましくて愛おしい……妬ましくて妬ましくて、こころが狂ってしまいそう……ふう、妬ましい、妬ましいわ……」
言いつつ、慈母の笑みを浮かべ、全てを包み込むように笑う。まるで、その笑顔は、蓮の池に咲く、観世音菩薩のそれのように、清らかなものだった。
「くっ……ざ、ざれごとをっこの――」
厄神がうめいた。だが、その後方で、どよめきが起こっていた。
「おお……見ろ、あの輝かんばかりの表情を……神々しい、ま、まるで女神だ……」
「おお女神さま……」
「おお……女神さま、女神様じゃあ」
歯がみしてうめいた厄神の横手で、なにか感銘をうけたらしい人々が、次々と口にする。手を合わせて拝む者までいた。
厄神は周りを見渡した。慄然として目を見開く。
「うう、そんな、そんなっ……?」
「さあ。あなたも。そろそろ、素直におなりなさい……」
パルスィは厄神に歩み寄った。厄神ははっとして、パルスィを見た。
パルスィは、その手を握りしめる。厄神は、怯んだ目をむけた。
パルスィの手に包み込まれる指先が、かたく強ばっている。パルスィは微笑んだ。女神のように。
「なっなにを……」
パルスィは、厄神に顔を近づけた。その瞳をのぞきこむ。
「いいえ……駄目よ。私の目はごまかせないわ。ふふ。そう、貴女の嫉妬は……とてもいい」
愛おしそうに細めた目を、かすかに潤ませ、パルスィは、ゆっくりと厄神へと身体を滑らせた。パルスィの肢体が近づくと、厄神は肩をびくりとさせた。
さんご石のような目は、まだ気丈に見張られていたが、パルスィの顔が迫ると、それも空気を求めるように顎先が上がった。
「う……い、いや……?」
その顎先を、細い指がとらえて、なぶるようにそっとなぞる。
パルスィは言った。囁くように。
「――そう、あなたのそれは――お人形のように、綺麗なそれは……虐げられた者の目をしている。ずっとずっと長い間、誰かに、何かに、蔑まれた者の目をしているわ……虐げられるべきでないのに、蔑まれるべきでないのに――声のない、負の感情を受け続け、抑圧され、鬱屈していった者の目。ああ、綺麗……。あなたの目は、とても綺麗だわ、お雛様……ああ、その心も、その身体も、そんなにも人の欲望に汚れているというのに。あなた自身は、何一つ穢れを知らないのね……ねたみさえ、憎しみさえ……。ああ妬ましい……私には……とても、貴女が妬ましいわ……」
そっと柔らかく、包みこむようにしてパルスィは厄神を抱きしめ、吐息をついた。
「その、小枝のように細い首をねじ切ってしまいたい……絹で折り合わせたような髪を引きちぎってしまいたい……白磁のような肌に、二度と消えないように爪を立てて、傷をつけてしまいたい……その桜色のふっくらとした唇から、あなたの吐息を胸一杯に吸いこんでしまいたい……、ふふ。あなたを……食べてしまいたいわ……ああ」
慈しむように力をこめると、厄神は、初な乙女のようにうつむいた顎を引いた。この行為に不快を感じていないことに、戸惑っているような横顔が、落ちつきなく瞳を彷徨わせる。
赤い瞳が、感情に濡れて、ひどく輝いている。無防備な表情が、まるでものを知らない子供のようだった。
パルスィは微笑んだ。手を取って言い聞かせる。
「ね……? 妬ましいのでしょう? 悔しいのでしょう? 偽らなくてもいいの。それは、恥ずかしいことではないのよ。誰もが卑しいというかもしれないけれど、嫉妬に狂いむせび泣くあなたの姿は、少なくとも、とても生きている……生を謳歌している。さあ、いいのよ。声高に叫んで……」
「ね、ね、――うう、ね……」
「ね?」
「ね、ね……」
「ね?」
パルスィは聞きかえした。ぽろぽろと、厄神の目から、ついに涙があふれ出した。
「ね、妬ましいい!! うう、ね、ねだましい、ねだましいわあああ……!!」
厄神は、パルスィにすがりついて号泣しだした。パルスィはさめざめと涙を流す頬に触れ、優しい仕草で撫でた。
「ああ、可哀想なお雛様……ああ、妬ましい、妬ましいわ……泣いてもあなたは妬ましい……涙に濡れても、あなたはうつくしい……こんなにも……」
「うっう゛、うう、わ、わたしもぉ。わたしも、妬ましいいいい……妬ましいいいいいいいいい……!」
「な、なんということじゃッあの厄神様が……あの、あの厄神様が……! 心を開いておる……! まるで、まるで、魂のそこから響くような慟哭の声じゃ……」
物知りの老人が叫んだ。それだけでなく、周りの人々も叫び出す。
「うう、な、なんだか、私たちまで哀しくなってくるわ……いえ、妬ましく……!」
「ね、ねたましい……俺もねたましいいいい!」
「ああ、わ、わたしもねたましいいいい!」
「わしも、わしもねたましいいいい! ねたましいいいいい!!」
叫び始めた人々が、一斉に号泣し始めた。子供も大人も老人も、男女の区別なく大声で泣いた。通りはあっという間に、種々さまざまの泣き声で満たされた。
「うおおおおおねたましいいい!! うおおおお!!」
「ね、ねたましいいいい!! ねたましいいい!!!」
人々は叫び、泣き続けた。おんおんと怨嗟の声とともに放たれる泣き声が、通り中に響きわたる。
その真ん中で、パルスィは雛の肩を抱いていた。
「さあ……涙を拭いて」
やがて言った。自分にしがみついていた厄神に、優しく手を貸し、立たせてやる。
「もういいでしょう……あなたは、もう嫉妬を知ったのだもの……この世界は嫉妬で満ちている、その事実に気づいたんだもの」
「うん……うん……!」
厄神は、ふれあったパルスィの手に自分の手を絡め、うなずいた。なぞるように指を閉じる。
そして、微笑んだ。なにか吹っ切れたような笑顔で。
「うん……わたし……私、もう自分を偽ったりしないわ……! 心のままに世界を妬んでみせる。光の下にいる奴らを妬んでみせる……。私……生きていくわ……この世界を……精一杯!」
涙に濡れた瞳を煌めかせて微笑む厄神に、パルスィはにこりと笑い返した。頷く。
そして、あたりを見回して、高らかに呼びかけた。
「――さあ、みんな! 一緒に歌いましょう……! 嫉妬の歌を! 素晴らしい、生命の歌を!! 魂の声を!」
パルスィの呼びかけに呼応して、泣いていた周りの人々も徐々に笑顔を見せ立ち上がった。
「ああ……歌おう。そうだ、歌おう! みんな、歌おう!」
「ええ! 歌いましょう!」
「ああ、歌おう! みんな! 歌おう!」
人々は頷き合った。
そして、人里中にうららかな歌声が響きわたった。
それから三日三晩のあいだ、その里では歌と笑いが途切れることはなく、誰もが幸せそうな顔をしていたという。
めでたしめでたし。
嗚呼妬ましい妬ましい
無言坂さんは素晴らしい作品書きますよね、でも少し飽き性なのかな?
面白かったです。でも、すまない。欲動完全開放、殺し殺されも禁忌に為らない乱交パーティーってある意味素晴らしいとか思った。
やべえ、橋姫でエロが一本書けるな。
あなたの書くキャラクターがずっと大好きなのですよ。
ああ妬ましい妬ましい
嫉妬すらできないおもしろさ。
妬んでるのに暗くないのが素晴らしかったです
SSでミュージアム見れるなんて夢にも思うかいw
やっぱり世界は妬ましいってことだね!
フリーダムだなあ。本当、自由奔放という言葉がよく似合うなあ、このパルスィは。
嫉妬によって光り輝く世界。素敵じゃない。
弁当食べてた青年は俺です、きっと