引戸の開けられる硬質な音が響く。
暗がりから覗かせる顔はいつもと変わらぬ無表情。部屋の中に居る私に気付いてない。
夜目の利かぬあいつなら無理もない。身体性能が私とは掛け離れている。
見かけ通りの少女らしい弱さを声高に主張する華奢な手足。
日の射さぬ地の底でさらに薄められた血肉の透ける白い肌。
小突けば割れそうな、薄氷めいた輝きを覗かせる緑の瞳。
鮮やかには程遠い光を吸い込むくすんだ金の髪。
ただただ弱く脆く危うい妖怪。
水橋パルスィ。
「……――っ」
ちゃりと鳴る手枷の鎖の音にようやく少女は侵入者に気付いた。
「よ。邪魔してるよ」
手を掲げると睨まれる。無言で私を睨み続ける。
視線で射殺そうと頑張ってるのかとアホなことを考えてしまう程に睨んでいる。
もしそうだとしたら、アホどころか笑い話だ。あいつにゃ私は殺せない。
心構えの問題じゃなく、純粋な力の差で。水橋パルスィは星熊勇儀の足元にも及ばない。
それを理解しているのだろう。少女は私を無視する形で行燈に火を入れた。
ぼう、と広くはない部屋が照らされる。
畳の上に足を投げ出して座ったまま彼女を見る。
くちびるを擦っていた。ごしごしと、子供のように。
童染みているそれが、いやに艶めかしく見えてしまう。
少女を照らす行燈の薄明かり。それは、輪郭をもあやふやにさせる。
なにもかもがひどく曖昧で、夢の光景に酷似していた。
夢の中なら、よかったのに。
そうであったなら、どんなことでも出来たのに。
情動を誤魔化すように、口を開く。
「相変わらず、鍵を掛けてないねぇ」
ここは彼女の家。旧都に構える私の屋敷とは比べ物にならぬ小さな家だ。
私は幾度もここに足を運び、彼女の家に私のにおいを染み付けた。
今では、私が中に居ても少女は気付きすらしない。
「――壊されるとわかってて鍵を掛けるほど裕福じゃないの」
予期せぬ返事に口元が綻ぶ。今日も彼女の声は聞けぬものと覚悟していた。
憎まれ口でも声が聞けるのは喜ばしい。
「二・三度抉じ開けただけだよ」
「私はあなたと違って器用じゃないの。自分じゃ直せないから職人を呼ぶしかない」
ふぅん、そいつは悪いことしたかな。迷惑掛けるのが目的じゃあないしな。
懐から財布を取り出しぽいと少女に放る。
「悪かったね。手間賃だ、受け取っとくれ」
呑みに行くつもりで中身補充しといてよかったな。これで空じゃあ格好がつかない。
ばちりと胸元に衝撃。見下ろせば財布が落ちていた。
「施しなんて受けないわ」
ぎらりと行燈に照らされる緑の瞳。こいつが私を見る時は睨んでばっかだな。
施しってわけじゃなかったんだがねぇ。
曲解されちまったか――また。
私とこいつの関係は、破綻している。
互いに相手のことをなんにも理解しちゃいない。
わからないから傷つけるし、わからないから傷つけられる。
そんなことをずっと繰り返している。壊れた箱庭の中から出ようともしていない。
私はこいつに付き纏っているし、こいつは私のことを追い払わない。繰り返し、だ。
それでも、理解してないなりに慣れてはいる。
今は、何を言っても無駄だろうな。強情だから言うだけ逆効果だ。
怒り心頭といった風情で、彼女は私を完全に無視し窓を開ける。
見上げればまた、少女はくちびるを擦っている。
びゅうと吹く冷たい風。
…………幽かに香る、知ったにおい。
「水橋」
立ち上がる。触れるまで気付かなかった震えるその手を強く握る。
「どうしたのさ。なんかあったのかい」
「なんでもないわ」
嘘だ。
なんでもないのならなんで目を逸らす。
なんで、そんな荒んだ眼をしてるんだよ。
「地霊殿のになんかされたのか」
問えば、びくりと震える体。
――この、正直者め。
水橋の体についたにおいは地霊殿の主、古明地さとりのもの。
古明地。水橋と同じく心に関わる能力を持った妖怪。
「なにされた、水橋」
「なんでもない」
尚も水橋は嘘を重ねる。
くちびるを、擦っている。
「やめな」
両手を塞ぐ。
「くちびる、赤くなってんじゃないか」
誰かに、触られたのか。
水橋は、潔癖症なところがある。触れられることを極端に嫌っている。
私以外が触れれば、それだけで逃げ出してしまう程に。
「……触られたのか、古明地に」
「別に、触られてない」
安堵の息を――吐く。
こいつが、私以外の誰かに触れられるのがたまらなく嫌だった。
でもそれなら、なんで執拗にくちびるを擦ったのだろう。
何故薄い色のくちびるを、赤くなるまで擦ったのだろう。
また、嘘なのではないか。
古明地さとり。
あいつは、何を考えているのかよくわからない。
なんでも見透かすあの眼で、水橋の何を見たのか。
見て……何を、したのか。
「許せない」
意識せずに、口が開いていた。
「おまえに、なんかしたなんて許せないね。私のもんに手を出したのなら、絶対に許せない」
身の内から黒くドロドロしたものが溢れ出す。
止められぬそれはぐつぐつと煮え滾っていた。
「違う」
冷や水をかけられる。水橋は、目を逸らしたまま否定する。
「指、で――触られただけ」
それは、嘘を重ねたわけではないようだった。
何故触れたのかなんてわからないが、それ以上のことをされていないようだ。
もしそうだったなら、水橋とてここまで冷静ではいられないだろう。
でも、納得には至らない。何故、くちびるを。
「私の――ミス、よ。ただ、あいつの前、で――」
一度も私に目が向けられないことに気付く。
挨拶代わりに睨んだ後は、すぐに目を逸らしていた。
「知られたくない過去を、思い出してしまった、だけ」
ああ、つまり――――私がつけた傷に、触れられたのか。
古明地さとりは――心を読む妖怪。
あいつの前で、そんなことを思い出してしまえば……全てが曝け出されてしまう。
あいつは自分を恐れぬ者にはひどく優しい。水橋のように誰でも恐れず嫉妬する奴なんて多くはない。
だから古明地は、何考えてんだかさっぱりわからないくせに優しいから、きっと慰めようとしたのだろう。
水橋の心の傷を見て――慰めようと、くちびるに触れたのだろう。
それが、傷を抉る行為だとは気付かずに。
いつだったか、水橋のくちびるを奪った。
考えるよりも先に体が動いていた。
あの時の水橋の顔は、忘れられない。
深く、深く傷ついて――いた。
弁解のしようもなく、私が水橋を傷つけた。
あの時のことを、見たのか。
「そいつは――」
故に口から漏れるのは、
「――――妬ましい」
嫉妬だった。
なんとも羨ましく、妬ましい。
私が、望んでやまないこいつの心を見透かせるってんだから。
あいつは。古明地さとりは、私も踏み込めないこいつの心に踏み込んだ。
見えないのに。私がつけた傷だってのに、私には見ることは出来ないのに。
嫉妬せずには――いられない。
「星熊」
気配の変化を察し、水橋が身を捩る。強く腕を握ってそれを止める。
ああ、あの時と似てるもんな。あんたが怖がるのもわかるよ。
この状況は、あんたのくちびるを奪った時と、よく似てる。
「私も、見たかったよ。誰にも見せないあんたの過去。底の底に仕舞い込んだ、忘れられない心の傷」
さっと、緑眼が怒りの色を灯す。
「やめて」
掘り返すなと、強く緑眼が訴える。そいつは無理だよ水橋。
私は今、あんたの傷を底の底まで掘り返したくてしょうがないんだ。
「きゃ……っ」
短い悲鳴。
押し倒された水橋は私を睨みあげた。
無駄な抵抗だってわかってんだろ? こうなったら、私は止まれないって知ってんだろ。
昔、こうやってあんたを奪ったじゃないか。あの時だって、止まれなかったじゃないか。
「やめてよ、星熊」
「無理だよ――水橋」
畳に組み敷かれた水橋に顔を寄せる。顔を逸らされ、逃げられる。
その横顔に、何か冷たいものが当たる。
窓から吹きこむ冷たい風に雨が混じっていた。
雨が――窓際でこんなことをしている私たちを、濡らしていく。
「私は、あんたの傷を暴きたい」
呟きに、水橋は一際強く暴れ出した。
古明地にやられたときがそうだったように、触れられる痛みに慄いている。
「あなたにだって、触れられたくない傷くらいあるでしょ……!?」
私の、傷。
古い傷。新しい傷。
水橋につけられた、傷。
「――ああ、あるよ」
今でも、触れられれば泣き出す傷もある。
こうしている今も、痛い痛いと思わず庇う傷もある。
「……っ、だったら!」
「それでも」
遮る。
「私はおまえの全てを侵したい」
くちづけで、言葉を奪う。
深く、深く――消えないように、刻みつける。
いつか癒えて、消えてしまう傷なんて何の価値もない。
私が、水橋が互いに刻みつけ合うから、私たちは繋がっていられる。
この破綻した関係を……いつまでも続けられる。
くちびるを離すと、飛び出すのは罵詈雑言。
退け、放せと私を罵る。
やめろと言いながらも水橋は私を拒絶しない。
抵抗するだけで、追い払いは、しない。
折れると――知っているから。
縋り合わねば、支え合わねば立つこともままならぬと知っているから。
「おまえのこと、全部知りたい」
隅々まで、一欠片も残すことなく全てを。
私の知らないおまえなんて存在しないくらいに。
「おまえの弱さも、醜さも、汚さも、何もかもこの目に焼き付けたい」
「やめて……!」
弱々しい抵抗を捻じ伏せる。組み敷かれたままの水橋はどこにも逃げられない。
それでもごそごそと、暴れようとする。そんなもの、抵抗にもなってない。
体格差があり過ぎる。腕力差があり過ぎる。
そんな通り一遍の抵抗なんて、私には通じない。
どうしたよ、水橋。このままじゃ一方的だよ。
私が無傷で――あんたを甚振っちまうよ。
「やめないと、嫉妬を操ってやる」
望んだ言葉が耳に届く。
震える、か細くさえある声。
抵抗し私を傷つけようとする水橋の声。
「嫉妬心を操って、あんたの中をぐちゃぐちゃに掻き乱してやる」
私を止めるのにそれは十分な言葉だった。
「心の底まで暴いてあんたの傷を抉ってやる」
首筋に埋めていた顔を上げる。
私を睨む水橋の緑眼を見下ろす。
私だけが映る瞳を、私だけを憎む瞳を、見詰める。
「いいよ」
だから驚きでその色が失われてしまうことが惜しかった。
惜しみながらも私の口は止まらない。
「あんたにならいくら傷を暴かれたって構わない」
髪から滴る雨が顔に落ちても、水橋は見開いた目を逸らせなかった。
「瘡蓋を剥がして、血を零しておくれ。その細い指を傷口に差し込んで、抉っておくれ。
爪を立てて、ズタズタに引き裂いて、滅茶苦茶にして、消えない傷にしておくれよ水橋。
暴いて、晒して、解して、犯しておくれよ、パルスィ――」
微笑む。
優しくした筈のそれは、きっと歪んでいる。
でも、私は嘘が吐けないから。これが本心だから、隠さない。
「そうすりゃあ、おあいこだ」
「――――っ」
暴れ出す。恐慌するかのように彼女は私の下で暴れる。
私の傷を抉ると脅した少女が恐れ狼狽え必死に逃れようと暴れている。
「やめてよ――そんなこと、したくない……っ」
こうなることはわかっていた。
こいつが自ら私を傷つけるなんて出来ないって知っていた。
私を拒絶できない少女が――私を傷つけるなんて出来る筈がない。
「あなたを傷つけるくらいなら、なにも知らないままの方がいい……!」
だけど、あんたは十分私を傷つける。
「なんで、なんであなたは……! 私が、傷つけたくないから突き放してるって、知ってて……っ」
それがどれだけ残酷なことか知りもせずに、優しさを振りかざす。
どれだけ私が近寄ろうと、あんたは私に触れてくれない。
どれだけ私が踏み込もうと、あんたは拒絶すらしてくれない。
それがどれだけ私を傷つけるか、気付かないのかい?
「……気付いてよ、星熊……! 私は、私はこのままでいいのよ――変わりたくなんか、ない――」
本心で言っていると、覚る。私を想っての優しさだと知る。
それでも、それは優しくて――残酷だよ。
「私を傷つけてもいいから――あなたを傷つけさせないで」
馬鹿だなぁ。
私は、あんたに――暴いて欲しいのに。
傷を――――舐め合いたいと、望んでいるのに。
苛烈で、弱くて、優しくて、残酷なおまえだから、私は全てを投げだせるのに。
愛にも恋にも程遠い共依存。ただ都合がいいから寄り添うふりをしているだけ。
好きだと言うことさえ憚られる見苦しい縋り合い。
私にはもう、おまえしか居ない。
この目にはもうおまえしか映らない。
恋とも愛とも呼べぬ激情が、おまえだけに染められてしまっている。
だから。
暴いてやる。
晒してやる。
解してやる。
犯し尽くしてやる。
だから。
暴いてくれ。
晒してくれ。
解してくれ。
犯し尽くしてくれ。
全部終わったら。
全てを知り尽くせたら。
血塗れの身体を――舐め合おう。
癒すことなど出来ないと承知の上で寄り添おう。
「星熊――」
「それでも」
私たちは、傷つけ合い血を流すことで繋がっていられるんだから。
「私はパルスィが欲しい」
あぁ、弱いな勇儀。力で鳴る鬼ゆえに。
ゾクゾクするよ。
互いの小指を繋いでいる赤い糸で
互いの首を絞め合って、
互いの首に赤い躊躇い傷を首輪の様に残す
これこそ勇パル、魅せていただきました。
当人達が結末がどうであれ、納得出来るのであれば。
私にとっては、ビターというよりも苦い、という表現がピッタリくるお話でした。
こういう雰囲気好きなので、たまらんです。
だがそれが(・∀・)イイ!