急に温度が上がり始める五月の初旬。色だけは青々として立派な人工種の木の葉が茂る時期だが、季節の変わり目で体調を崩す人も多い。
「お疲れ様、帰っていいわよ」
「教えてあげるよメリー。それは来客に言う台詞じゃない」
秘封倶楽部が一人、私ことマエリベリー・ハーンは、現在風邪により自宅療養中である。
ひき始めはすぐに治ると思ったのだが、これが案外厄介で微熱がもう三日も続いている。
あまりの体のだるさに自主休講したのが昨日。この朝も寝覚めの気分が悪かったので、今日も家でゴロゴロしていようかと思った矢先にたった一人のパートナーの襲来である。
大事なことなのでもう一度言うと、襲来である。来訪ではない。
「今日は貴方とコント出来るほどの体力がないのだけれど」
「酷いなぁもう。金曜日だし泊り込みの覚悟で看病に来てあげたのに」
その前に授業はどうしたんだ。
ただ、その『覚悟』とやらは確かなようで、今、ベットで寝ている私の枕元に座ってにやついている宇佐見蓮子の足元には、2Lペットやらカップアイスやらその他駄菓子やら缶ビールやらが雑多に突っ込んであるビニール袋が置かれている。
…ん、ビール? 看病だよね?
「いや、そもそもその泊り込みに私の拒否権はないの?」
「えっ」
「えっ」
ぼんやりした頭で蓮子相手に反論するのが早くも面倒になってきたので、諦めて適当に話題をずらす。
「でも、流石にその量はどうかと思うの」
私は蓮子の足元のビニール袋を指さした。
「大丈夫、大体は自分で消費するから」
それはそれでどうなんだ。
「とにかく、私は出来れば静かに寝ていたいんだけど?」
「またまた。一日そんな事したら寂しくて死んじゃうよー?」
果たしてそれはどっちのことなのやら。
実際のところ来てくれる気持ちはありがたいのだが、あまり賑やかにされても困る。安心して休むのも難しい。
それに、家主が来客をほっぽって寝てしまうのは少々きまりが悪かった。
相手が蓮子なら尚更である。きまりが悪いどころか色々と危ない。冷蔵庫の中身とかプライドとか貞操とか。
「蓮子、病気って言うのはね。体のサインであると同時に、心のサインなのよ」
「うん?」
「だからね、体調を崩したときは、ここ最近で精神的に無理をしていなかったかなー、とか不安を抱えていなかったかなー、って自分で思い返すの」
「ふんふん」
「反省をして今後に活かすために、一人静かに瞑想する時間が必要なのよ」
ちなみにこれはデタラメではなく、プロセス指向の基本的な話でちゃんとした論拠がある。蓮子を追い出したいがための捏造では断じてない。
まあ、追い出したいがために引用したのだが。我ながら苦しい。
「でも、一日中そんなことしてるわけじゃないでしょう? ならいいじゃない」
正論だった。
私はやれやれと溜息をつく。
「まあいいわ。でも、ここにずっといるのも暇でしょう? 少し散歩にでも出たら?」
「またそうやって露骨に追い出そうとするー。私が合鍵持ってるの忘れたの?」
散歩の提案をしてあげただけなのに、まるで私が蓮子を締め出そうとしていると解釈されてしまった。
いや、実際そのとおりだからなんとも抗弁出来ないのだが。
流石に長いこと相方やってると、要らないところで意思疎通が出来てしまうようだ。実に不便である。
そろそろ追い出すことを諦めかけていたが、私は駄目元で最後の粘りを見せる。
「勿論覚えてるわよ、安心して出てらっしゃい。それに離れて様子を見れば、蓮子が居なくて私が寂しがるかどうか確認出来るでしょ?」
「おー、成程」
と、案外あっさりと納得してくれた。少しでも蓮子の賑やかオーラに当たる時間を減らしたい、という言外のニュアンスは向こうも感じ取っただろうが、もしかしたら向こうも時間をつぶす手段が欲しかったのかもしれない。
何せまだ午前10時である。夜まで居るとなれば、幾ら何でも病人相手ではやることも尽きる。
表向き建設的な意見を却下するのも躊躇われたのだろう、多分。
だがそれは私の巧妙な罠なのであった。
「じゃ、軽くジョギングでも行ってきます」
「そのまま帰宅してもいいわよー」
パジャマ姿なので玄関口に出るわけにもいかず、声だけで見送る。ドアが閉まって蓮子の気配が遠ざかるのを確認すると、私はのそのそとベッドから起き出した。
数秒の間ドアとにらめっこした後。私は徐に、鍵穴の上でかつてないほどに燦然と銀色に輝く鎖を持ち上げ、チェーンロックをかけた。
大勝利。
今度蓮子に昼飯でも奢ってやろうと思いながら、私は安らかに床に就いた。
何か声が聞こえた気がして目を覚ます。部屋に出来た日差しの影が少し濃くなっていた。
正午を回った辺りだろうか、と思いながら時計を確認しようと顔を上げると何故か隣に蓮子がいた。
「メリー、窓あいてたよ」
なんてこった。
「戸締まりはしっかりしないと。この世の中いつ誰が侵入してくるか分かったもんじゃないよ」
「…ええ、そうね。以後気を付けるわ」
色々と言いたかったがぐっと飲み込み、努めて冷静に対応しようとする。
完全に勝ったと思っていただけにショックが大きい。
…だが、どうしようもなかった。とりあえず追い出すのは諦めよう。
「まあメリーの仕事が杜撰なのは今に始まったことじゃないしね。許してあげましょう」
許すのは戸締りの不備か追い出しの件か。
十中八九後者(或いは両方)だろうが、蓮子も毎度のことで気にしていないようなので一安心である。素直に心の中で謝っておこう。
一息ついた後、さて、と蓮子が両手をあわせて言った。
「じゃあメリーも一眠り出来たみたいだし、熱を計りましょうか」
そう言うと、蓮子はスカートのポケットから我が家の体温計を取り出した。
あ、笑ってるけど目が怖い。やっぱなんか怒ってる。絶対怒ってるこれ。
「はい、あーん」
蓮子がケースから取り出した体温計で、横になっている私の頬をつつく。
「いや、口でするタイプじゃないんだけどそれ」
「じゃあどうするの?」
一瞬の逡巡があった。
状況から察するに、次に私の口が開く時が、蓮子の行動開始であろうことは想像がつく。
私は慎重に蓮子の手首をおさえた。
「体温計、貸してくれない?」
「どうして?」
顔に綺麗な笑顔を貼りつけたまま蓮子が問い返してくる。
しばらく、少女二人が笑顔で無言のまま体温計を奪い合うというなかなかにシュールな光景が繰り広げられたが、当人たち(主に私)は必死であった。
だがしかし、体勢的にも体力的にも私が勝てるはずも無く。
「えい!」
「ぐっ」
最終的に私の上に馬乗りになった蓮子が体温計を奪い取り、あり得ない速度で私のパジャマをボタン3つ分程はだけさせると、蓮子は私の腋に体温計をねじ込んだ。
よく分からない意地の張りあいのせいで二人とも息が荒い。
「いや、そんな勝ち誇った顔されても困るんだけど」
「メリーが悔しそうな顔するからだよ」
むぅ。
蓮子が必要以上にボタンを開けたせいで、見えてはいけなさそうなものも外気に当たりそうだったのだが今更元に戻すのも面倒だった。
この程度でもうお嫁に行けないー、とか言っていられるほどの純真な心はどこかに置いてきてしまったのである。
そしてその原因たる人物は今ベッドから降り、買出しの中身を冷蔵庫に突っ込んでいた。
もうこの子は私の家の調味料の配置場所とかも覚えてるんじゃなかろうか。
ピピ、という電子音が聞こえた。私は緩慢な動作で体温計を取り出す。
「はい、37.2度」
「それだけー? 熱に入らないよそんなの」
「それ以上にだるいし頭がぼんやりするのよ。少し大事をとってもいいでしょうに」
「メリーはひ弱だなぁ」
「都会人よ」
そんな会話をしながら、私はゆっくりとベッドから起きだした。
昼飯時である。折角だから、蓮子が用意してくれた(勿論買ってきただけであるが)弁当を少しいただこう。
そんなこんなで、カロリーを多少気にしつつも二人で昼食を終える。アイスは…やめておこう、胃が冷える。
再びベッドで横になった私の様子を見て、蓮子が「太…いや、その分胸に…」とかごちゃごちゃ呟いていたが気にしないことにする。
蓮子は部屋のベッドとは反対側にあるソファに座り、今後の活動予定について話し始めた。
始めの方は一応要点を抑えながら相槌をうっていたりしたのだが、食後特有の緩い眠気が襲ってくるにつれてそれも適当になっていった。
この状況でもやることはいつもと一緒だなぁと、大学のテラスでの光景を思い出しながら考える。
その「いつも通り」の光景にふと安心すると、蓮子の声は次第に子守唄のように聞こえてきて。
このまま寝てしまったら蓮子は怒るだろうか、まあ怒っても宥めればいいか、なんてくだらないことを考えながら、私は目を閉じる。
数分とせずに、私はまた深い場所に落ちていった。
暑い。
意識を取り戻した時の感想は、その一言につきた。
ごろん、と寝返りを打って目を開くと、部屋は既に橙色に染まっていた。
遠く、うねるような音。窓の外に目をやると、白い飛行機雲が鮮やかに浮かんでいた。
部屋の中に目を戻せば、ソファを占領して寝息を立てている蓮子の姿がうつる。
喉の渇きを感じて起きだそうとすると、もぞもぞと蓮子も動き出した。
「…むぅ、私のソファが溶けていく…」
「何言ってるのよ」
蓮子がソファから転げ落ち、そのまま私の足元まで転がってくる。
と、いきなり弾けたように覚醒した。
「ところでメリーさん、暑かったね。汗かいたー?」
どうとでも解釈出来る発言である。主に悪い方向で。
「メリーさんが汗なんてかくはずないじゃない」
「わぁ、メリーがいつも通り」
「喧嘩売ってるのね?」
おどけて逃げようとする蓮子の後ろ襟を指先で捕まえる。少し引き寄せてから私は立ち上がり、両手を後ろから蓮子の腰に回した。
ふわり、とお互いの汗の香りが混ざった。
「もしもしメリーさん、貴方今私の後ろにいるの」
「そうねぇ」
「構図だけ見ると凄く幸せなんだけど、なんだか凄く背筋が寒いのはなんでだろうね?」
「そうねぇ」
「…ジャーマンスープレックスとかしないよね?」
「そうねぇ」
私はゆっくりと深呼吸すると、ちらりと後ろのベッドの位置を確認して腕に力を込めた。
「飛龍原爆固め」
「メりょ」
蓮子がベッドに沈んだ。
蓮子が動かなくなったことを確認してから、私は居間に移動して冷蔵庫を開けた。
見事にぎっしりになった中身を見てしばらく開いた口がふさがらなかったが、冷蔵庫が長時間開放の警告音を鳴らしてきたところで我に帰り、とりあえず麦茶の入ったガラスポットを取り出して扉を閉める。
改めて見たらアルコール類の比率がおかしかった。あんなに買い込んでどうするつもりなんだ。
ベッドの近くまで戻ってくると、器用にも沈んだままの体勢を維持して動かない蓮子の首筋に、私はポットの端っこを当ててやった。
「…冷たい」
「ああ、死んでるのね…」
なんでやねん、と蓮子が手首だけで突っ込もうとするがバランスを崩して勝手に倒れ込んでいた。
定番のショートコントを終えた後、二人分のコップを出して麦茶を注ぐ。
風邪も相まってヒリヒリする喉の痛みを癒しながら、私は力尽きて動かない蓮子の姿を眺めていた。
ふと、なんとなく軽くなった自分の体を思う。
蓮子の遠慮のなさは今に始まったことじゃないし、強引なのもやることが稀に無茶苦茶なのもいつも通りである。
だが、今日は自分の体調のせいかそのことを強く実感した。
何も病人扱いをしろ、と思っているわけではない。ただ、こうも普段と同じに蓮子が振舞うのがなんだか不思議だった。
…ああ、もしかしたら。
「いつも通り」に過ごすことが、蓮子なりのおまじないなのかもしれない。
体調を崩しても、「いつも通り」だと思い込むことで元気になってくる。
当然限度はあるだろうが、病は気から。効果が全くないといえば嘘になる。
だとしたら―――なんて、蓮子らしい。
未来を見据え続けること。
それを嫌味なく、自然体で出来る蓮子がなんだか羨ましかった。
今日の蓮子が「いつも通り」だったならば。
それにつられてしまう私も、きっと似たようなものだったのだろう。
ふっ、と吐息が漏れた。私は、冷蔵庫を開けて缶ビールを2つ取り出す。
ようやく麦茶にありついてリラックスしている愛すべき相方に、感謝と労いの気持ちを込めて声をかける。
「蓮子」
「ん?」
私は缶ビールを掲げた。
「飲もうか」
蓮子は一瞬きょとんとしたが、すぐに満面の笑顔になった。
「うん」
「あ、でもこれ私が買った奴だからお金払ってね」
「よし、やっぱ帰れ」
くすりとした笑いと2828成分とほのぼのさがいい感じの混ざり具合ですね。
チェーンロックで勝利を確信するメリーと、窓開いてたよで平然と入ってくる蓮子のやり取りは思いっくそ吹きましたけどwそれと汗かいた発言自重w
なにはともあれ、いつも通りの二人が戻ってきて良かったです。
とか考えてたらこのSSが投稿された。どうりで来ないわけだわ。
あと蓮子さん、泊まり掛けと言うなら着替えも……ハッ、まさか最初から借りるつもりで!?
なにはともあれ、いつもの平和が戻って何よりです。メリーさん、作者さんお大事に……!
まったく夫婦にゃ敵わねえな
面白かったよ
ダウナー系ギャグというか、独特な雰囲気ですねぇ。