お気に入りの服を着て、お気に入りの帽子を被って、お気に入りの歌を口ずさみながら、古明地こいしは家路を歩いていた。
雰囲気優先で音程はずれているが明るい歌。土地柄故に不恰好な形だが生暖かい風に揺れる緑の草花。軽やかな足取りは今にもスキップを始めそうで――この地下世界に太陽さえあれば、それは絵になりそうなほどに暖かい光景。
見上げても青い空や赤い太陽は無い。空を飛んでも感じるのは、どこまでも行けるような開放感ではなく“天井”に頭をぶつけないかという不安感。
そんな地下世界でも、彼女は明るく笑顔を振りまいている。
その軽やかな足取りが――ピタリと、止まった。
「……………………」
顔が斜め上へ向く。
見上げた視線の先には、“明るい”を通り越して“けばけばしい”看板。道を歩くのは脂ぎった中年の鬼や、艶かしい肢体を着物の隙間からわざとらしく覗かせる遊女の妖怪。この地下を照らす太陽などあるはずもないのに、今にも陽炎が浮かんでもおかしくないほどの熱気を感じさせる場所――繁華街。
普段の彼女にとっては用の無い場所だが、家から外へ出る際、そして外から家へ帰る際の道がそこにはあり……自然と通り過ぎる回数は多くなる。
だからもう慣れたはずなのに――ここを通る前に彼女はいつも一歩、立ち止まってしまう。
「…………よし」
それでも彼女の家――無数のペットと姉が待つ地霊殿に帰るためには、ここを通るしかない。だから彼女は小さく、それでいて力強く呟いて、繁華街に足を踏み入れた。
――視線。
太陽が無いこの地下でも時間の概念は存在する。だが昼間だというのに繁華街には妖怪が多く、先程までの軽やかさとは違う意味で早足になるこいしをまるで邪魔するように群れている。
――視線。
それでも出せるだけの速度を出し、右手で摘んだ帽子の縁でできるだけ顔を隠すようにして、こいしは繁華街を通り抜けて行く。この手の繁華街の常で、皆と酒を楽しむために陽気になっている鬼の類はそうして足早にただ通り過ぎていく存在を気にも止めず、遊女と遊ぶような妖怪はたいてい彼女と同じように目を伏せて足早に歩くから、こいしを気にかけるような妖怪が居るはずもない……中には酒癖の悪さで絡んでくる鬼も居るが。
――視線。
なのに、彼女は視線を感じる。一や二ではない、目の前から歩いてくる鬼が、ただすれ違っただけの土蜘蛛が、わざわざ振り向いてまで彼女に視線を向けてくる。突き刺すような視線を投げ掛けてくる。
――視線。
その視線の先にあるのは、こいしが身につけている“眼”。服の上を走る管が集まる先、胸の辺りに鎮座する半眼の目に、その視線は集まっていた。
――視線。
それだけなら無視することもできる。“すれ違った鬼がわざわざ立ち止まってこちらを注視している”、なんて気のせいだと言い張ることもできる。“ただこの眼が目立つから視線が集まっているだけだ”、と考えることもできる。
だが、こいしにはそれができない、“許されない”。何故なら――
――思念。
その視線と共に集まる、投げ掛けられる、突き刺さる……“心”を彼女は呼んでしまっているから。心を持つ存在の心を読むことのできる『覚り』妖怪の証である、胸元に鎮座異するその『第三の目』で視線と共に突き刺さる思念を読んでしまっているから、否定することができない。別に、読みたくて読んでいる訳でもないのに。
だから彼女はただ、目を伏せて足元だけを見て足早に歩いていく。早く家へ帰りたいと、早く繁華街を抜けたいと――早くこの妖怪達が居ない場所に行きたいと、そう考えて。
人が呼吸をすることを止められないように――心を読みたいと思わなくても、心を読みたくないと願っても『覚り』妖怪の能力がそれを許してくれないから、こいしは“読んでしまう”。
今、すれ違った赤ら顔の鬼が向けてくる、下卑た思念。近頃ご無沙汰なのか遊女を買うよりも酒の方が大事なのか、彼の頭の中でこいしは酷く“汚されて”いた。
――少し、足が速まる。
遊女ではないが綺麗に着物を着飾って歩く麗しい女性からは、突き刺さるような視線と共に敵意をもらう。
――足が、速まる。
買い物帰りに何かしらの用があってか帰り道だったのか、大根を覗かせた袋を片手に持って道を歩く地味めの服装をした女からは、睨みつけるような視線と共に僅かばかりの殺意。その思念の中では、包丁がギラリと光っていた。
――速まる。
気がついた時には、もう前から歩いてくる誰かのことも気にせずにこいしは走っていた。時折ぶつかりそうになり、ぶつかり、その度に謝りながらも緩めるどころかなお速度を上げて――こいしはただただ走っていた。
今度は、繁華街を抜けて地霊殿に辿りつくまで……一歩も立ち止まりはしなかった。
「お姉ちゃん――私、“閉じよう”と思うの」
家に帰った彼女は、帽子を脱ぎもせずに紅茶を飲んでいた。小さな丸いテーブルを前にして椅子に座り、爽やかな風味と僅かな苦味が走る、疲れた身体と精神を休めてくれる手製の紅茶を飲む……だが、それを作ったのは彼女ではなく目の前に同じようにして座る少女だった。
こいしはくりくりとした目で少女はじっとりとした目、こいしは明るい雰囲気を持ち少女は薄暗い雰囲気を持つ――容姿風貌の似ていない二人だったが、唯一“同一”と評していいほどにそっくりなものがあった。
それは、胸元にある『第三の目』。
そう、目の前で不機嫌そうな顔――本当に不機嫌という訳ではなく地なのだ――をして両手で包み込むようにして持つカップから紅茶を啜りながらも、心の中ではこいしの心に反応する彼女もまた『覚り』であった。
名は、古明地さとり……そう、彼女はこいしの姉である。
こいしはこの時間を気に入っていた。姉が淹れてくれた紅茶を飲みながら、『覚り』妖怪同士“ならでは”の――心だけで行う会話を楽しむ、そしてこれまた姉お手製のクッキーやビスケットを摘む。この時間はこいしにとって至福の時間であり……さとりにとってもそれは同様だった。
“話す”ことは特別なことではない……お互いを茶化したり、ペットの様子を尋ね答えたり、最近の流行についてお互いの意見を“述べ”たり――二人の特別な『会話術』を除けば、それはまさに他愛の無いお喋り。
そんな時間だからこそ、彼女は『覚り』でも読み取れない無意識で感じ取っていたのだろう――自分の提案を告げるなら、この時間が最も良いと。
だが、自らの覚悟の足りなさ故か……こいしがそれを切り出したのはお互いの紅茶にテーブルの上のクッキーがもう殆ど無くなってしまった辺り。
つい動揺してしまったのか、わざわざ口に出さなくても良いのに出してしまい、それも殆ど脈絡の無いものとなってしまい――そうして出したのが前述の言葉。
「お姉ちゃん――私、“閉じよう”と思うの」
『覚り』を驚かせるためには意識の外からの不意打ちや無意識の行動が基本だが……それを差し引いても、その言葉はさとりの心を動揺させるには十分すぎる威力を発揮した。
「……どういう意味?」
それがどれほどの威力だったかというと……手にしたカップを落とすようなことはしないが、彼女もまたこいしと同じように“心”ではなく“言葉”に出してしまう程だった。それも若干の震えと共に。
こういうところはやっぱり姉妹だから似ているんだろうな――そんなことをこいしは考える。
「どういう意味ですか」
言葉と同じほどに脈絡のないこいしの考えに、再びさとりが声を出した。震えはなくなっているが、それでもこいしの言葉は衝撃的だったのだろう――じっとりとした眼が僅かに見開かれている。
それが分かっているからこそ、こいしはつい笑ってしまう。
「分かってる癖に、『覚り』なんだから」
『覚り』妖怪なればこそ、相手が口にした言葉の真意を覚ることぐらい――それが無意識からの言葉でもない限り――簡単なことだった。現に今もさとりはこいしの本心を読んでいる、それでもそんな意味のない問いかけを発してしまうのは――自分が読んだ心が、にわかには信じ難いから。
『覚り』妖怪が『覚り』を否定する、それがこいしにはおかしく思えた。
こいしのそんな心を読んでようやくいつもの調子を取り戻したのか、さとりは質問を変える。
「……では、どうしてです?」
「“どうして”って、こうやって目をぎゅっとすれば簡単に――」
姉の言葉が『方法』を尋ねる“どうして”ではなく『理由』を尋ねる“どうして”だということは分かっていた。
ただ何となくからかいたくて、こいしは前者の意味で実演しようとする。両手を、自らの顔に埋め込まれた二つの眼球――ではなく自らの胸元に鎮座する『第三の目』へと近づける。
そう……こいしは『第三の目』を閉じると、そう言ったのだ。
それはつまり――『覚り』妖怪としての能力を棄てるということ。
「っ――そんな意味で言ったんじゃありません、私が聞きたいのは――」
「やだなぁ、分かってるよお姉ちゃん。でもね、日本語って難しいんだよ?」
「ならば――どうしてです?」
お互いにカップを持ったまま、心と言葉で探り合う。そのやり取りは、まるで姉妹らしくない。
それが少し哀しくて――だけど、こいしは続ける。
「お姉ちゃん……このままだと、私とお姉ちゃん、二人とも不幸になっちゃうよ?」
「そ、それは……そんなことは……」
語る言葉は少なく、だが『覚り』は言葉で表しきれない心を読める。
だからさとりは否定できない、こいしの心に浮かんだ『理由』は自分も薄々勘付いていたこと。その考え記が心に浮かんで――それはつまりこいしにその心を読まれるということで――すぐにさとりはその心を打ち消そうとする。それでも打ち消せない。
彼女もまたこいしと“同じ立場”であるからこそ彼女の苦しみが解っている、そして時に苦しみを分かち合っている。今、こいしの心に浮かんでいる苦い記憶は――ずっと昔に、いや、“ずっと昔からお互いに”体験してきたことだ。
慣れてしまえばそれはトラウマにすらならない、だが痛みはずっと心に残る。
こいしは薄く微笑んで嬉しそうに――本当に嬉しそうに言った。
「良かった、お姉ちゃんも同じこと考えてたんだ」
「いえ、これは――これは、その……」
しどろもどろになって、それでも否定しようとして――できない。
『覚り』同士の会話に、本質的に嘘や隠し事が混じることは有り得ない。お互いが『覚り』であるからこそ心に浮かんでしまった時点でそれを読まれることは防げない、それでもさとりは必死で否定しようとする。
すればする程に、妹の決心が強固なものになることが分かっていても。
その姉の心を読んで――こいしは、更に笑みを深める。
「お姉ちゃんだったら分かってくれると思ってた。自己を保つための努力、アイデンティティを確立するための努力……分かってくれると信じてた、だからね、お姉ちゃん――」
こいしはゆっくりと、両手を第三の眼に近付け、包み込むようにして握り、
「――今の『私』とは、これでサヨナラだよ」
ぎゅっと力を込めて――
「――ぇ」
パリン、と耳障りな音。
椅子から立ち上がって猛烈な勢いで“こいしの両手を自らの両手で掴んだ”さとりが、その際に床に落としてしまったカップが割れる音だった。
あれ、お気に入りのカップだったろうに――そんなことを考えながら、こいしは今にも泣き出しそうな姉の顔を見つめる。
「お姉ちゃん……?」
心の中でこいしは訂正した――姉はもう、泣いていた。こいしのその思考を読んでも、さとりは涙を拭うことすらせずに、第三の眼をぎゅっと握りしめる寸前で止まらせたこいしの両手にさらに力を込めて、言い放つ。
「だからって、だからって目を閉じることなんて――目を閉じればどうなるか、貴女も知っているでしょう!?」
「……薄々は分かってるよ。少なくとも、今のままの『私』では居られない」
だからこそ、こいしはサヨナラを口にした。もう、サヨナラをすると心に決めた。
「だったら、だったら――」
「良いじゃない、お姉ちゃん」
ゆっくりと、さとりの手の力にも負けずに自らの手に力を込めて、『第三の目』を握りしめようとする。必死になってさとりが力を込めても、基本的な体力差がここでは歴然とした有利不利をつける。
それほどに――こいしの覚悟は、凄まじかった。
「“心を読むことを嫌った妹は眼を閉じました。そうして変わってしまった妹はそれでも、同じような絶望を抱きながらも眼を閉じることをしなかった姉と共に、幸せに暮らていきましたとさ、めでたしめでたし”。本にすれば売れるくらいの境遇だよ、面白い話じゃない」
笑って――心の底から笑ってこいしはそう言った。
その笑顔に、言葉に、心には、一点の曇りすら認められない。
「そんなの、そんなの……」
だからこそさとりは否定する、
「お、お姉ちゃん……?
「そんなの――間違ってる!」
僅かな体力差をこいしを上回るほどの覚悟……妹の心を傷つけてしまうことも厭わない覚悟で埋める。こいしの両手が、今度はじりじりと『第三の目』から離れていく。
こいしが驚きの表情を浮かべる。驚きの言葉を口にする。
「なんで、なんでそんなに必死になるの!? お姉ちゃんだって、“分かっている”んでしょっ!」
「貴女の――こいしの覚悟は、素晴らしいものです。でも、それでも、私はそんな覚悟、絶対に認めません! お願いですから――
――私とキャラが被るからって大事な能力を棄てないでください!」
あと数日後に迫った幻想郷の大事なイベント、通称『異変』。
多少のいざこざはあれどそれ以上には発展せず、平和を謳歌する幻想郷ではあるが、そうなると逆にスリルを求めてしまうのは人間であれど妖怪であれど変わりは無い。そんな訳で、一定の期間を置いて催されるスリルを楽しむためのイベントが――『異変』なのである。
幻想郷の『抑止力』として君臨する『巫女』を巻き込み「幻想郷を大なり小なり揺るがす事件」を起こして、それを解決する『巫女』その他と戦う、もしくは異変の元凶その他と戦う――それはスリルに飢えた人妖達にとって最高のイベントだった。
そんなイベントであるから当然、地下世界が舞台となる今回の異変は地下世界の住人にとって大事なものであり、また出演する妖怪達にとっては大変に名誉のあること――そして自らの名を知らしめるためにも重要なイベントなのだ。
そんな異変に“出演”するのは、「心は乙女で外見は漢、持って生まれた体力で頑張る土工系アイドル」の鬼や、「特性的にツン100%で新しいツンデレを目指す」橋姫など、そうそうたるメンバーであり、「読心とアピールを組み合わせた全く新しいアイドル」である古明地姉妹――コンビ名『心読<ココヨミ>』が参戦するのもまた当然のことだろう。
そんなイベントを前にして、こいしは少し焦っていた。これまでは『覚り』の能力と姉妹キャラを売りに地下世界のアイドルとしてやってきた彼女達だったが、それも所詮は地下での話。
異変において大事なのは弾幕の美しさと“キャラ性”――つまり“キャラ被り”は致命的な弱点になる(時としてプラスに働くこともあるが)。ちなみに前述した鬼は、「先の異変に参戦した鬼っ娘と被るから」とあえて自分の内面に逆らって肉体改造に励んでいた、主にボインボインな方向に。
そんな状況においてこいしが考え出した作戦が、『第三の目を閉じること』だったのだ。
敢えて自らのキャラである『覚り』を捨てイメージの一新を図ると共に、姉とのキャラ 被りを防ぐ――そういうアイデア。
「お姉ちゃん……痛い」
「あ、ごめんなさい」
こいしの心を支配する“痛み”に気づき、ついでにもう『第三の目』を閉じはしないと考えていることも読んで、さとりは思わぬ程に力を込めてしまった両手を離した。こいしの方はというと、少し赤くなった両手を交互にさすって痛みを和らげようとしている。
そんな妹に対してまず姉の口から飛び出したのは、非難の言葉だった。
「まったく……いくら私達にとって大事な異変だからって、自分のアイデンティティを捨てることはないでしょうに」
さとりもこいし同様、キャラ被りの危険性は認識していた。が、『覚り』の能力を捨てるということはいろいろな代償を支払うということであり、そんなことを妹にさせるくらいならアイドルとしての地位を捨てた方がマシだとも考えていた。
そんな姉の心を読みながらも、こいしはなおも食い下がる。
「でもさお姉ちゃん、お空だってキャラが氷精と被るからって神様に頼み込んで『力』を譲ってもらったんだよ?」
さとりのペットであり、この地霊殿の中では古参の部類に入る地獄烏、霊烏路空の名前をこいしは口にする。
普段はぽややんとした頭の空であるが、彼女の本能がキャラ被りという危機を察したらしい。先の異変において重要な役割を果たしその地位を確立させた地上の神に頭を下げて、自己の能力を本質させながらも新しい力を得た。
「それでも頭は変わらずじまいでしたけどね。あと、“核の力を手に入れた私はさいきょーだ!”とか喚いていましたが、あれ結局被ってますよねキャラ。まぁずっと悩んでいた異変が起きる理由ができましたし、ボスとしてもいい感じのキャラにはなってますけど。」
――それでもやはり鳥頭なのは避けられない宿命だったか。
鳥だから仕方ないとはいえもう少し何とかしてほしいと、さとりは溜め息をつきながら思った。
「それにねそれにね、お燐だって猫キャラが被るからって“あっちが明るい芸風ならこっちは逆を求めてやる!”って言って死体なんか運び出したんだよ!」
「あれは彼女の元々の特性だと思いますよ」
お前火車じゃねーのかよ、とつい汚い言葉でツッコミを入れそうになってしまうさとり。
その心を読んだこいしも「あ、そうだったか」と今しがた気づいた様子で額に手を当てる。本当に気づいていなかった様子の妹に、鳥頭が感染したんじゃないかとついさとりは考えてしまう。
「……でもさお姉ちゃん、やっぱりキャラが被るのは不味いと思うんだよ。私達だって、いつまでも姉妹キャラだけじゃ食っていけない。いつかソロでやっていくことになるかもしれないし、違いってのを見つけないと駄目だと思う」
失礼なことを考える姉に対してむっとしながらもそれはスルーして反論するこいし。
「それにさ、お姉ちゃんは地霊殿の主人だから能力を捨てたら大変だけど、私だったら大丈夫じゃない。殆どお姉ちゃんのペットばかりだし、私だけのペットなんて殆ど居ないよ」
お前それは仕事を全部押し付けたいだけちゃうか、とつい訛りながらツッコミを入れそうになるのをぐっと堪えて、さとりは別口から攻めることにする。
「……『こいしちゃんに心まで見つめられ隊』は、どうするんです?」
「あ……」
『こいしちゃんに心まで見つめられ隊』、通称恋し――ではなく“こいし隊”はその名が示す通り、古明地こいしのファンクラブである。会員数は地下アイドル界の中でもトップクラスであり、その会員数は常に姉とデッドヒートを繰り広げている。
ちなみに古明地さとりのファンクラブは『さとりさんにいろいろ見せて蔑まれ隊』である――“見せて”とは心のことである、他意はない。
「確かに、アイドルとしての新境地を切り開く覚悟は素晴らしいことです。ですが、それは既存のファンを時として蔑ろにしてしまいかねません。貴女にそこまでの覚悟はありますか? 失敗した時のことも覚悟できていますか?」
正論。
いわゆる“イメチェン”というのは余程のことが無い限り成功はしない。例え成功したとしても、“前の”イメージは捨てなければならなくなる、時として前のイメージを黒歴史化してしまわなければならない程に――という真理を、前にさとりは地上で購入したとある魔法使いアイドルが著者の本で知った。
そんなさとりの正論に対して――だが、返ってきたこいしの答えは少々予想外のもの。
「………………もし、それで私のファンが減るなら――むしろ、それでいいかもしれない」
「――何ですって?」
そう問い返しつつ、こいしの心の中に浮かんだ情景をさとりは読む。
それは今日、地霊殿に帰ってくる前、こいしが通り抜けた繁華街の記憶。
すれ違った鬼等から投げ掛けられる、視線の数々。
「私ね、少し疲れたんだよ。私が心を読めるのを知ってて、下卑た映像を流し込んでくるファンとか」
「いわゆる『オカズ』というやつですね……私は慣れました」
同情し溜め息を吐きつつも、さとりは諦めたように言う。
むしろその被害はさとりの方が多い……ファンクラブの名前から推して知るべし。
「敵意とか」
「トップアイドルですからね、同業者からは恨まれるでしょう」
陰湿な考えを持たずとも、ライバルに対して何かしらの敵意を持つのは当然のことである。トップアイドルの宿命だ。
「他には殺意とか」
「ファンの方の奥さんや恋人と考えれば頷けますね」
これまた宿命である。
「妬みとか」
「……それは何となくパルスィの気がしますけど」
これはトップアイドルではなく地下世界の住人の宿命である。
「とにかくさ、“心を読むことに疲れて能力を捨て、新たな能力を身につけた妹”キャラで行こうと思うんだ。まさしく新境地の開拓ってやつね」
「“ついでにそれなら心を読まなくても済むようになるし”、ですか。むしろそちらが本音のような気がしますね」
本日何度目になるか分からない溜め息をつき、さとりは目を伏せる。
「とにかく、私は反対ですよ。大事な異変ですが、だからといって『第三の眼』を閉じて自らの能力を捨てるなんて――」
「あ、もう眼閉じちゃった」
「速っ!? どうやって!!」
驚いて目を上げるさとり。こいしの言葉通り、既に彼女の胸元に鎮座する『第三の目』は瞼を閉じていた。
いつの間に――そうさとりは驚いていた。『第三の目』を閉じることによって自らの感情にまで影響が及んだために今のこいしの心を彼女は読むことができないが、つい今しがたまで読んでいた心に「第三の目を閉じる」なんて思念は浮かんではこなかったのだ。
それなのに何故――心を読んで答えを悟ることのできなくなった姉に、こいしは口に出して説明した。
「無意識で」
「それは目を閉じてからの話でしょう!?」
いろいろとメタかった。
あまりにもメタすぎた所為で……こいしはふと、疑問を抱いた。
「……なんで眼を閉じた後のことを、お姉ちゃんは解ってるの?」
「――あ」
つい間の抜けた声を出してしまうさとり。
こいしは心を読めないのだからポーカーフェイスで押し通せば隠せたかもしれないのに、状況の急展開に驚いていたところの問いかけだったので反応できなかった。
『心』に関する能力を持っているのにこういうところは下手だなぁ、と先ほどの仕返しで失礼なことを考え――今は“読まれないから”無意味だが――ながら、こいしは思いついたことをそのまま口にする。
「もしかしてさ……お姉ちゃんも、目を閉じたことがあるの?」
「う……」
「そういえばさ、結構前に私とキャラが被ってるってファンに“思われて”悩んでたよね?
その後一日ぐらい部屋に閉じこもってことあったよね? もしかして――」
「……良く、分かりましたね。もう心は読めないはずなのに」
悪戯を見つけられた子供のように罰の悪い顔をして眼を逸らすさとり。それが妙に可愛らしく思えて、気がついたらこいしは彼女を抱きしめていた。
そんな無意識の行動に“二人が”気づいたのは、こいしのお気に入りのカップがさとりのそれと同じ末路を辿った音にはっとしてのことだった。それでもお互いに離れようとはしない。
「お姉ちゃんのことなら、能力無しでも解るよ。だって姉妹なんだもん」
「こいし…………」
「だからさ、心配しなくても大丈夫。『私』という存在が変わってしまっても、『私』がお姉ちゃんの『妹』だってことは、変わらないから」
安心させるように、腕に少し力を込めて本心からの言葉を彼女は口にする。
それが本心だと、能力が使えなくてもさとりには分かった。だから彼女は安心する、例え能力を捨てようと『こいし』は『こいし』だと――自分と違って、無意識の海に沈んでしまっても自我を保てると。
それならば何も言うことはない――そう、さとりは決心した。
「分かりました、もう私は何も言いません」
「――ほんと!?」
「はい、いろいろと大変なこともあるでしょうけど、私もペットも全力で貴女をサポートします。安心してください」
ずっと気がかりだったこと――姉が許してくれるのか――が解消できて、こいしの顔が綻ぶ。
だが、さとりは打って変わった様子で言葉を続ける。
「ですが……一つだけ、言っておかなければならないことがあります」
「……なに?」
姉のただならぬ様子に、何を言われるのかとこいしは不安を感じる。今までは心を読めるからそんな不安を感じる暇すら無かったのに、と新鮮な思いも抱く。
そうして、さとりが口を開いた。
「実は…………」
「…………実は?」
「実はその『第三の目』――慣れると意外と開閉は楽なんですよ?」
思わずずっこけそうになるこいし。腕の中に姉を抱いていなければそうなっていたかもしれない。
「…………お姉ちゃんがやったことあるんだからそんな気もしてたけど、そんなことでいいのかな『覚り』妖怪」
「いいんですよ、きっと」
こいしの言葉にさとりがクスクスと笑う。釣られてこいしも笑う。
こんなことなら、自分が今まで悩んできたことは何だったのかと。
「ま、そうだよね。世の中そんなもんだよね」
「そんなもん、ですよ」
そうして『第三の目』を閉じたこいしだったが……「そんなこいしたんも可愛い」とのことでファンは増え、むしろさとりのファン層からも数十人どころではない単位で奪っていったこともあり、「やっぱり止めておけば良かった」とさとりが嘆いたとか嘆かなかったとか。
ちなみに『第三の目』を閉じたこいしは、自らの設定を「心を読むことに疲れて能力を棄て、その影響で心を閉ざし感情の一部を失いながらも人の無意識に入り込むことができるようになった」というちょっと電波か中二が入ったモノにしたという。
結果、『異変』は滞りなく“解決”し、設定被りという悪夢もなく、“出演者”“観客”それぞれが満足して終わった。
そうして『異変』は終わったのだが……せっかく新しく能力(と設定)を得られたのに勿体無いと、こいしは昔の姉のように『第三の目』を開こうとはしなかった――「これ以上ファンを取らないでくれ」とさとりが泣きついたとか泣きつかなかったとか。
とにもかくにもそんな訳で『心読<ココヨミ>』は(主に名前と実情が合わないという理由から)解散することになり、今は新しいコンビ名を考えるかそれともソロ活動に移るかを真剣に検討中である。
そんな姉妹を、二人のファンは温かく見守っている。
――そんな幻想<ユメ>を、彼女は夢見ていた。
自分達は人気者で、こいしの『第三の目』はその気になれば簡単に開けられて、こいしは本質的には心を閉ざしていない――そんなユメから覚めたさとりは、少し狭いベッドの上に上体を起こした。
暖かい夢から覚めた、そんな気だるい感覚を冷たい空気が冷やしていき、意識を覚醒させていく。
冷え冷えとした寝室、普段なら当番のペットが起こしにきてくれるのだが、今日は早くに眼が覚めてしまったから、まだ来ていない。
だから“思い出す”には十分な時間の余裕があった。
「……………………」
夢のこと、過去のこと――妹のこと。
今まで見ていた夢は夢だというのにはっきり思い起こすことができて、それはあまりにも暖かで希望に満ち溢れていて――現実とは大違い。
その夢の中では、迫害されて地下に追いやられた記憶も、半ば追いやられるようにして地霊殿の主になった記憶も、そんな生活の中で『第三の目』を閉じて能力を棄ててしまい姉の力ですら心を読めなくなり、その寂しさから大量のペットを飼うようになってしまった過去も、無かった。
もちろん妹がふらふらと放浪するようなことも――姉に対しても貼り付けたような笑顔しか見せなくなった現実も、無かった。
「…………こいし」
妹の名を――例えそこに居たとしても、答えてくれるかどうかも分からない妹の名を呼ぶ。
それは彼女が無意識の中に居るから答えられないのかもしれないし、姉を嫌っているから無視しているのかもしれない。そうでないかもしれない……妹の心の中は、シュレディンガーの箱。開けてみなければ分からないし――開ける手段が無い。
本来なら開けるどころかすかすことすらできないその箱を、丸裸にできたのが『覚り』であったはずなのに。
「……こいし」
再び、名を呼ぶ……いや、呟く。
冷え冷えとした空気にそれは良く響いて、それでも届いてほしい存在に届かない、届いたかどうかすら分からない。
そもそも届いたとして――無意識の海を泳ぐ彼女がそれを認識できるか、それすらさとりには分からない。
宙に浮かび意識という海面を読み取るさとりと、その海面の下の無意識という海中に潜り泳ぎ続けるこいし……その海はどこまでも蒼く、それでいて透明度が無い。
どれだけ二人が近付こうと、姉が無意識の海に潜らなければ、妹が海面に上がらなければ、意思の疎通は図れない――そして、二人はそれをしない、できない。
「こいし」
それでも彼女はその名を呼ぶ。
ベッドの上で身を起こし、口を開いて、喉を震わせ、ただ三文字の名前を呼び続ける――いや、それはもう呼びかけではなく呟きに過ぎないのかもしれない。聴いてくれる存在も、答えてくれる存在も、居ないのかもしれないと彼女自身、分かっているのだから。
「……こいし?」
ならばその呟きに意味など無いはず――いや、そもそも意味とは何だろうか?
人の意識が作り出したものであるなら、その意識の海面の下を行く彼女にそんなものが意味を為すのだろうか。そもそも為すための“意味”とは何だ?
「こ、い、し?」
この呟きに意味はあるのだろうか、この思考に意味はあるのだろうか。
この名前に意味はあるのだろうか、この意識に意味はあるのだろうか。
この部屋に意味は、この家に意味は、この世界に意味は。
「――こいし!」
「そもそも姉妹という関係に意味があるのだろうか。そもそも――」
「“無意識”の能力で地の文に干渉するのは止めてそろそろ起きなさい、こいし!」
「あ、お姉ちゃんおはよ」
“二人で眠るには”狭いベッドの上、さとりの横でこいしは起き上がった。大きく伸びをしてわざとらしく欠伸を噛み殺している。そして姿勢を変えて、姉に向き直るようにする。
彼女の眼は開いているが、『第三の眼』は閉じていた。そこは夢でも現実でも変わらない。
「おはようこいし、今日も良い朝――といって言いのでしょうか…………そんなことより、もうとっくに起きていたでしょう?」
ほぼ変わり映えしない地下の天気よりも、そちらの方がさとりには気になった。何せ彼女が起きた時からこいしによる『地の文』への介入は始まっていたのだ。寝起き独特の気だるさがなければ、さとりにももう少しツッコミの入れようはあったのだが。
はたして、こいしは悪びれもせずに肯定する。
「うん、起きてたよ。だけどお姉ちゃんも早起きだね、昨日はあんなに激しかったのに、もういろいろ粘液が飛び散ってぐっちょぐちょ」
「そうですね、コンビ名とか貴方の芸風とかその辺で“激しい”議論をしていましたね。お互いに唾を飛ばして布団が少々“ぐっちょぐちょ”です」
どこかの中学生のようなセンスでエロい方向へと持っていこうとするこいしに対して強引なツッコミで軌道修正。最近悪化しつつある妹のボケと姉のツッコミで姉妹コンビ芸人でも目指そうかと彼女が考えた程だ。
「そうそうピロートークピロートーク」
「いろいろな意味で間違った言葉の使い方ですね…………そんなことより、今日は貴方のファンである『こいしたんと無意識に触れ合い隊』との交流の日でしょう? 悠長にしていていいんですか?」
辞書のところどころ、テストには役立たなさそうな単語に赤線を引いていそうなこいしの戯言を強引に打ち切って、ようやく覚醒しきった頭が思い出させたことを口にする。
こいしが『第三の目』を閉じて以来、彼女のファンクラブ会員は数を減らすどころか増やし、その魔の手はさとりのそれにまで伸びている。そんなファンクラブ会員との交流の日が今日だった。
そんな大事な日だというのに、こいしはまだ眠そうにしている。ぽわぁっと口を開けて、行儀の悪い呑気な欠伸。
「大丈夫だよ、まだまだ時間はあるし。ペットだって起こしに来てないんでしょ? そういえば、今日はどのペットだっけ……」
「……まぁお空でもない限り、起こし忘れているなんてことは無いでしょうね。確かに、少し早すぎたのかもしれません」
そう呟いて、さとりは上体を後ろへと倒し、二度寝の姿勢になる。
「うん、そうだねっ」
何故か嬉しそうな声を出してこいしも寝転がり――さとりの身体に抱きついた。そのスキンシップにはさとりも何も言わない。
こいしに抱きつかれたまま天井を見上げて、彼女は小さく呟いた。
「私は――」
「ん?」
特に誰ともない言葉のようだったが、こいしの耳がそれを聞き逃すはずもない。
それでも気にせず、彼女は続ける。
「私は……『第三の目』を閉じた時、すぐに後悔しました。心を読めなくなることではなく、自分の意識が無意識に摩り替わって、まるで誰も居ない何も見通せない夜の闇の中を一人、散歩するような感覚に包まれることに――不安を感じました」
「……ん、そうだね。お姉ちゃんの言ってる感覚、私も味わってるもん」
姉に抱きついていても、その感覚を思い出すことはこいしの顔を曇らせる。
こうしてしっかりと、全身を使ってしがみついていても、次の瞬間にはその身体が霧散しそうな――実際には自分の意識が消えてしまうような感覚を味わうかもしれない。ただ、最近は慣れてきたこともあってそうした能力の『暴発』が起きることは少なくなっているが。
「なのに貴方は、そうやって笑っていられるんですね」
それでも――時たま『第三の目』が開くと共にさとりに流れ込んでくるこいしの心の中で、それはトラウマとはなっていなかった。それが不思議だから、彼女は問いかける。
その問いかけにこいしは――普段、“役作りのために”浮かべている『貼り付けたような笑み』ではなく心から――笑って、事も無げに言った。
「だって、何かあってもお姉ちゃんなら絶対に護ってくれる――そう信じてるから」
信じてるから――その言葉に納得すると同時にそれが嘘ではないと、さとりには分かった。こいしの『第三の目』は今は閉じているが、それでも彼女には分かる。
そう、時として(アイドルとしての)方向性で口論になり、さとりの頭の堅さと嫌味と思いがけない緩さにこいしが笑顔を引き攣らせ、こいしの突拍子の無さと突拍子の無い設定に役作りのための放浪癖にさとりが頭を痛めても――二人は姉妹なのだ。
こいしの言葉に、さとりは楽しそうに笑う。過去の自分のことを思い出しながら。
「ふふ……私も、妹が護ってくれるなら目、閉じても良かったかもしれないですね。誰の心も読まずに、ペットの世話や地霊殿の仕事をこいしに任せて――」
「あ、ごめん、私にはちょっと荷が重い」
「…………」
その即答が嘘ではないことも彼女には分かった。
「でもねお姉ちゃん――」
「はい?」
「知ってた? ――私、アイドルも『覚り』も辞めたいって思ったこと、あるんだよ」
「そういう経験は私にもありますが……こいしは、どういった理由で?」
「アイドルを辞めたくなったのは、『第三の目』を閉じて無意識で行動しているはずなのに気づいたらファンからのラブレターを手に握らされていた時。『覚り』を辞めたくなったのは、それに気づいて『第三の目』を開いたら目の前にそのファンが居て思念を読んじゃった時」
「――それは確かにきついですね」
面白かったです
東方の、ましてや地霊殿の世界観としては一つの正解かもしれませんね。
この姉妹もかわいいけど、勇儀姐さんの肉体改造についてkwsk
何を言って(ry
でも面白いのは確かでした。
俺の心弄ぶやん?
とても面白かったです。
さて、俺も蔑まれ隊に入隊してくる。
申し込み用紙はどこかね?
右風と思ったら左風、踏ん張ったら右風に切り替わってたたらを踏む
でも不思議!悪くない!
面白いですね、がっくんがっくん、遅れてくる笑いが。
一番のツボはこいしちゃんがアイドルの話をしている時、字体が変わってない事に気付いたその瞬間でした。
最初読み始めたときは雰囲気からしてシリアスなんだろうなあと思っていたのに。
その後夢から覚めた辺りでヒィーってなって、そしてまた次でホッとしました。見事に手玉に取られてますね。
コメント始めの一文はまさにその時の自分の心境です。いやー、してやられた。
ギャグとシリアスでひっくりかえってもう……ww
おもしろかったですー。