スレドニ・ヴァシュター、美しき者なり
その靭やかな身、誰もが唾棄し侮蔑しながらそれを以て賞賛とす
「何だろ、これ」
十六夜咲夜がフランドールの部屋を掃除していると、文机の上にある帳面が目に入った。
他人との交流も増えたフランドールは、近頃精神が落ち着いてきている。保護者として妹の外出を禁じていたレミリアもそれを喜び、遂には五百年の軟禁を解いたのである。
フランドールは先ほど、美鈴を伴って博麗神社へと出かけていった。この機会に、長い間閉ざされていた部屋を心ゆくまで綺麗にしてしまおうと、咲夜は気合を入れて地下室へと降りてきたのだ。
「呪文? フランお嬢様が書いたのかしら」
何とはなしに興味を持った咲夜は、帳面を手に取りぱらりとめくる。
スレドニ・ヴァシュター、猛き者なり
その荒ぶる力、誰もが忌避し嫌悪しながらそれを以て羨望とす
文は一頁ごとに書かれているようだ。とりあえずの韻を踏んでいるそれは、詩のように読めなくもない。
「軟禁生活の手慰み、ってとこみたいね」
手に持っていたモップを壁に立てかけ、咲夜はぺらぺらと読み進める。
下らないと理解しつつも、フランドールがこの部屋の中で書き殴っていた内容に興味があった。一介のメイドに、吸血鬼の深い深い心の闇は未だに推し量れないのだ。
スレドニ・ヴァシュター、気高き者なり
その清き心、誰もが嘲笑し愚弄しながらもそれを以て敬愛とす
ひたすらに、このスレドニ・ヴァシュターとやらを賛美する文句が続く。だが容姿についての描写が極端に少なく、こいつが人間なのか妖怪なのか、それすらはっきりしない。だが、ここまでただひたすら賛美される存在に、咲夜はひとつ心当たるものがあった。
「神様、とか」
天下の吸血鬼がまさか正当な神を崇拝するとは思えない。
邪神だろうか。あぁ、そう考えるとしっくり来る気がする。
そして流し読み進めていった最後の頁。そこには今までとは違う形で、初めて具体的な内容が書かれていた。
獣の骨を握れ そして額衝け
スレドニ・ヴァシュターは妄信者を愛する
ただ祈れ さすれば救われん
咲夜は文机を見た。
確かにそこには、痩せこけて黒ずんだ白墨のような小さな骨が転がっている。何も知らなければ、ただのゴミとしてしか彼女の眼には映らなかっただろう。
咲夜は骨を手に取った。そして、フランドールがこれを握り締めながら、想像上の邪神について書き連ねている様を思い浮かべてみる。悪魔の妹はきっと、満面の笑顔であっただろう。ただひたすらに純粋で、濁りなきまま歪められた心。その奥底から彼女自身も気付かぬ間に発した、これはフランドールのSOSなのかもしれない。
ふっと息を吐き、咲夜は帳面を閉じて机に戻した。
もうこれは、彼女には必要ないはずだ。今のフランドールは、咲夜も知らぬ時代の平静を取り戻しつつある。もはやこのようなものに頼らなくとも、彼女は前へと進んでいけるはずだ。
この骨も捨ててしまおう。
そう思いながら机を離れ、咲夜がモップを手にした次の瞬間、
「―――― っ!」
急な目眩に襲われた。
視界が傾く。音が途切れる。足元すら覚束ない。
ふらり、と身体のバランスが崩れたことを感じた咲夜は、とっさに壁にもたれかかった。
壁に背を預け、荒く深い呼吸を繰り返す。
(疲れて、いるのかしら)
それでも立っていられず、咲夜はそのまま座り込んでしまった。手に持っていたモップがことんと落ちる。
しかし握っていた骨はまるで吸い付くかのように、掌に納まっていた。
メイド長たる咲夜は激務を激務と感じない性質である。「そういうヤツは大抵急にバタンと倒れるもんだぜ」とは白黒魔法使いの談であったか。
暫く時間を止めて身体を休めようかと、はっきりしない頭で彼女が思案する目の前で ――
巨大なシャンデリアが降り、帳面ごと文机を押し潰した。
ワインセラーで弾幕を放っても、これ程の音は出ないかもしれない。その暴力は、機能することを止めていた咲夜の鼓膜を呼び覚ますのに十分であった。
惨状を目の前にしながら不思議と冷静なままの頭で、咲夜は考える。今少しあそこを離れるのが遅ければ、時間を止める間もなく自分は圧死していただろう。目眩を感じて座り込んでいなければ、モップがけを再開した自分は今頃あの下敷きになっていたのかも。
咲夜はまじまじと掌にある骨を見つめた。
いつの間にか、目眩は身体から綺麗に消えていた。
◆ ◆ ◆
「あんた、十六夜咲夜、か?」
随分と表情がギラギラしているな、というのが小野塚小町の感じた最初の印象だった。
その日たまたま休暇であった彼女は、近頃話題になっているカフェでも冷やかしてみようかと人里を訪れていたのである。
そしてその先で、紅魔館のメイドとばったり出くわした。買い物帰りだったのか、籠の中にはいくつかの食材が入っていた。
「あら死神さん。お久しぶりね」
「あぁ、そうなるのかな。相席で構わないかい」
問い掛けの答えを待たずに、小町は席に着いた。
しかしまぁ、しばらく会わない間にこのメイドも変わったものである。
以前であれば、咲夜から受ける印象は捉えどころのないふわふわしたものだった。それが今や、顔面に太陽でも貼り付けたかのような圧倒的な熱を感じる。
どこか斜に構えたヤツの多い幻想郷で、ここまでの熱さを放つ者などいただろうか。
少なくとも小町には、心当たりはなかった。
咲夜の前に紅茶を置いたウェイトレスが、そのまま小町に注文を尋ねる。適当にメニューをめくり、オススメとあった宇治抹茶サンデーを小町は適当に注文した。
「なんだ、いいことでもあったのかい」
「えぇ、あったわ。とびっきりに素晴らしいことが」
咲夜は、その顔をぐりんとこちらに向けた。
「私は護られているの。偉大にして唯一の存在、スレドニ・ヴァシュターに。これほど幸せなことはないわ」
「スレドニ……なんだって?」
このメイドは何を言い出すのだろう。
咲夜が心の拠り所としていたのは、主であるレミリア・スカーレットだったはずだ。紅魔館の吸血鬼に仕える忠実な狗は、主のために全てを投げ打ってきた。心身から、おそらくは魂に至るまで。
その彼女が急に、得体の知れない存在に心酔しているのである。
小町にしてみれば、驚きを通り越して不気味であった。
「止めとくれよ、変な新興宗教とか起こすのは」
「新興じゃあないわ。吸血鬼も古くから信仰する存在よ。妹様が手帳に書き記していたの」
咲夜は椅子の背に身体を預けた。カフェの椅子は思ったよりも頑丈だったらしく、微かな軋みすら立てない。
その首に、小町は奇妙なネックレスを認めた。死を日常として見ている彼女にはすぐに分かった。
これは、獣の骨だ。
「私も最初は半信半疑だった。でも教えの通りにしていると良いことばかり続いて、私も本物であると信じざるを得なくなったわ。だって大きな事故に遭ってもかすり傷ひとつないのよ。体調も良くなっているようだし、あぁ、お嬢様や妹様も何だか心安らかに過ごされる時間が増えてきた気がするわ。パチュリー様も図書館からよくお出でになるようになった。美鈴も小悪魔も妖精メイド達も、ますますしっかりと館のお勤めに精を出してくれている。私だけじゃなくて、紅魔館全体が良い方向に向かっているのよ。これって素晴らしいことだと思わない?」
小町の注文した宇治抹茶サンデーを、先ほどのウェイトレスがテーブルに置いた。ことんという器の音が、小町の拡散していた意識を呼び戻した。
「へーへー。凄いんだねそのナンタラってのは」
「凄いなんてものじゃないわ! 私はこれを信じていれば幸福に生きていける!」
両手を大仰に広げ、メイド長は天を仰ぐ。しかしその目は、何も見ていないように見えた。
「意外だねぇ。あんたはあの吸血鬼お嬢様だけを信じていると思ってたけど」
「お嬢様への心はもちろん変わらない。いえ、むしろ今まで以上よ。お嬢様も信じていたものを、私も一緒に信じている! そうよ私は、真の意味でお嬢様の臣下となることができた!」
恍惚の表情のまま、咲夜は首元の骨を握り締め、おもむろに立ち上がった。
そしてそのまま膝を落とし、
「あぁ、スレドニ・ヴァシュター! 偉大なる闇よ!」
「え!? ちょっと咲夜、何を……」
衆目の中で躊躇うことなく、咲夜はどこかに向かって跪いた。ちょうど小町からテーブルを挟んだ反対側に隠れる形になり、その姿は見えない。
ぶつぶつと何かを呟く声だけが聞こえてくる。祈りを捧げているのだろうか。
「……どうしちまったんだよ、あんた」
サンデーは少しずつ溶け始めている。それでも手を付ける気になれず、小町はただ唖然としていた。
かちゃかちゃと食器の音が鳴る。他の席へ紅茶を給そうとしているのは、また同じウェイトレスだ。小さな店だ、ひとりで切り盛りしているのだろう。
五人分のカップをトレイに乗せたまま、彼女は真っ直ぐこちらへ向かってくる。
地面に蹲る咲夜には、気付かない。
このままだと、ウェイトレスは咲夜に躓き、そして。
「危ない!」
小町の想像通り、カップの立てる騒々しい音と共に、熱い液体が宙を舞った。
そのまま一瞬の通り雨となり、咲夜に向かって降り注ぐ。
「す、すいませんお客様! 大丈夫ですか?」
悪いのは明らかに、そんなところに平伏しているメイドの方だ。だがウェイトレスは、客商売の鉄則に則りとりあえず謝罪するしかなかった。
「おい咲夜、あんた何とも……え?」
慌ててテーブルを回りこんだ小町は、目を疑った。
零れたはずの熱い紅茶は、額づく咲夜だけを綺麗に避けてカフェのデッキを濡らしていたのだ。
「そんな、馬鹿な。時間を止めたってこんな……」
「言ったでしょう、死神さん」
ゆっくりと、咲夜が立ち上がる。骨を握り締めたまま。
「私は、護られているの」
浮かべた笑顔がぎらぎらと輝いた。
絶句する小町とウェイトレスを尻目に、メイド長は御代をテーブルに置き、立ち去ろうとした。
「あぁ、そうだ」
しかしくるりと振り向き、咲夜は手篭をごそごそまさぐる。
「はいこれ、貴女たちもよかったら」
そしてただ立ち尽くす二人に、それを手渡す。
掌をまじまじと見つめたウェイトレスは、ひゃっと小さく叫んでそれを投げ捨て、店の中へと逃げ込んでしまった。
小町もそれを見た。白くて小さな、獣の骨だ。まだ新しい。
「それじゃ、ご機嫌よう」
小町はやっぱり何も言えず、ただ咲夜の背中を見送ることしかできなかった。
抹茶サンデーはもう原形を留めていなかった。
咲夜は柔らかな風に舞うように、通りを歩いていってしまった。
◆ ◆ ◆
咲夜の妄信は、留まる所を知らなかった。
スレドニ・ヴァシュターの加護を得るには、獣の骨が必要だ。
初めは、彼女は紅魔館の周りで行き倒れた小動物の死骸を探すことでそれを調達していた。
しかしその内、それでは足りなくなってしまった。
ひとつ加護を受けたと感じる度に骨を新しいものに取り替えるので、咲夜の持つ骨は次々と消費されていってしまうのだ。フランドールの帳面にはそんなことは記されていなかったが、咲夜はその方が良い結果に繋がると信じた。
だから、獣の骨を積極的に集める必要が生じた。
茂みの中に簡単な罠を仕掛けてみることにした。イタチやモグラなどが次々に掛かった。それを手際よく絞めて解体し、骨だけを取り出してあとはその辺りに放っておく。すると死肉を漁る獣がそれに集まり、また罠に掛かるのだ。
そんな作業が生活の一部となって、何ヶ月かが経っていた。
「今日のステーキは一段と美味しいかったわ。また腕を上げたのかしら、咲夜」
「本当。食の細かったお姉様が、こんなに食べるようになるなんてね。そろそろ体重を気にした方がいいんじゃない?」
紅魔館の夕食の席には、今日も全員が揃っていた。
長い食卓の端に、吸血鬼姉妹が仲良く並んで座っている。その向かいには食事中も本を手放さない魔女。彼女の所作をマナー違反だと咎める者など、この館にはいない。
三人の後ろには、従者がそれぞれ控えていた。フランドールの後ろには美鈴が、パチュリーの後ろには小悪魔が、そしてレミリアの後ろに咲夜が立ち、給仕役に徹している。
誰もがそれぞれの幸せをきっと心の中で感じているであろう、というそんな表情で、席は和やかに進んでいた。
メインディッシュであったラムステーキの皿が下げられ、入れ替わりにデザートのクランベリータルトが運び入れられる。妖精メイドからそれを受け取った三人の従者が、血のように紅いタルトを主の食卓に音もなく差し出した。
小さく歓声を上げたのは、甘いものが大好きなフランドールである。
「そういえば、肉と紅いソースで思い出したけど」
その隣のレミリアが、何とはなしに呟いた。
「最近どうにも、紅魔館の周りが血生臭いのよね。比喩じゃなく本来の意味で」
「あらレミィ、それは花粉症かもしれないわ」
本の虫が顔を上げ、喘息持ちの自分のことは棚に上げて親友へ健康のアドバイスを始める。
「貴女が嗅いでいるのは自分の鼻血の匂い。鼻の粘膜が弱くなって、血管が切れやすくなっているのよ。マスクをすることをお勧めするわ」
「何それ、初耳なんだけど。花粉症で血の匂いが漂うなんて」
「幻想郷に入って花粉症が凶暴化したとかなんとか。あぁ、鼻うがいなども効果的ね」
「あのねぇ、吸血鬼が木の飛ばす粉なんかに負けるはずないでしょう」
いかにも呆れたという視線を、レミリアはパチュリーに投げる。
「でもお嬢様の仰る通り、最近この辺りなんかヘンなんですよね」
嬉しそうにタルトをつつくフランドールの後ろで、美鈴が言った。
「上手く表現できませんが、漂う気配が澱んでいるというか。匂いで言えば ――」
屍臭、と言いかけて美鈴は口を噤んだ。食事の場に相応しい言葉ではない。
「ねぇねぇ、どんな匂いなの?」
「静かにしなさい、フラン。ま、門番の言いたいことも分かるけど」
タルトを一かけ口に放り込み、レミリアは飼い犬に話を振った。
「咲夜はどう? 何か気付いたことある?」
紅魔館についての話題であれば大抵口を挟んでくる咲夜は、この時まで喋ろうとしなかった。
レミリアはそれを不審に思いながらも、彼女の番犬としての能力に期待し、尋ねたのである。
「それは多分、私のせいですわ。最近、教えに従って獣の骨を集めておりますので」
だから咲夜のその答えは、夕食の場を完全に凍りつかせた。
メイド長は完璧で瀟洒である。故に「殺す」という言葉は出さなかった。
「……貴女が? 何故?」
問うたのは魔女だ。
パチュリーにしてみれば、魔術のためにともっと惨い所業を行った経験など両手では数え切れない。だがそれだけに、一介のメイドが獣の骨を集める理由が気になった。
「あぁ、パチュリー様はご存じないのですね。お嬢様と妹様の運命を愛しておられる偉大なる名を。無理もありませんわ、私もつい最近知ったのですから。紅魔館の繁栄の真実を。吸血鬼の力の正体を。そして私もその一助となるべく祈りを捧げているのです。毎日毎夜、白い骨を握りながら」
まるで咲夜は歌うように、台詞をひと息で言い終えた。その手はいつの間にか大仰に広げられて、その目は遠いどこかに焦点が合わせられていて、彼女の意識がもはやこの広間にないことは明白だ。
「えっと、何を言っているのか分からないんだけど、咲夜」
レミリアは目を丸くしていた。咲夜の行動がどこか変なのは昔からだが、これは度が過ぎている。
「何よ、偉大なる名って。この私以上に偉大な存在がいるはずないでしょう」
「はーい! 私、私」
「私の運命を決められるのは、この私以外にいないわ」
べったりと口周りを汚しながら燥ぐフランドールをレミリアは無視した。
「咲夜、貴女が何のことを言っているのかは知らないけど、滅多なことは言わないで頂戴」
「滅多なこと、とは心外です」
咲夜は少しムッとして見せた。その表情は驚くほど似合っていなかった。
「妹様が帳面に書き記しておいででした。獣の骨を握り、祈れと」
「え、私?」
急に名前を出されたフランドールが、きょとんと首を傾げる。
「私はその通り実践しているのです。そうしたら全ての運命が好転致しました。お嬢様を輝ける未来へと導いている者の正体を、私やようやっと知ったのです。あぁ、偉大なるスレドニ・ヴァシュター」
ペンダントトップを愛おしそうに握りしめながら、恍惚と咲夜は朗じた。最後の方は、もうほとんど謡い上げるようだった。
その場の誰もが、自分の視覚認識を疑わざるを得なかった。
悪魔の傍に付き従う完全で瀟洒なメイド長は、喩えるならばその名の通りに月のようであった。それが今や、砂漠の太陽のように強く照る光を放射している。それは皮肉にも、紅魔館の住人たちが初めて見る十六夜咲夜の心の内面であった。メイドという仕事の性質上、咲夜は人前で自分を殺し切ることに慣れていた。レミリア達にしても彼女の心象など知る必要もなかったし、そも知ることはできなかったのである。
風もないのに灯が揺れた。
「それさぁ」
沈黙を破壊したのはフランドールである。
「もしかして私のノートに書いてあったヤツ? あれテキトーに書いただけだよ」
咲夜は表情を変えない。ただ、その眼の焦点が一気に無限遠まで延びた。
フォークを銜えながらフランドールは続ける。
「出れなくてヒマだった頃、思いつくままにちょちょいっとね。この間久しぶりに見つけたから、懐かしくなって読み返してみたけど、やっぱりなんか恥ずかしくなっちゃってさ」
口からぽろりとフォークが落ちる。皿とぶつかってガチャンと大きな音がした。
「ギュっとして壊しちゃったよ」
はにかむ様に笑うフランドールを、全員が言葉もなく見ていた。
だから、咲夜が瞬きすらしなくなったことに誰も気付けなかった。
「いやぁ、病んでるときってそういう変なことしちゃうもんだよね」
「……フラン。私の分のタルトも食べる? 私お腹いっぱいになっちゃって」
「お姉様、そういう気遣いって逆に不自然」
昔のことは気にしていないからいいの、とフランドールは笑った。
「ふむ、邪神を作るっていうのも面白いかもしれないわね。いっそのことレミィが先導して、邪神として祀り上げて信仰獲得してみるとか。守矢の巫女みたいにさ」
「ちょっと止めてよねパチェ。そんなことして私に何の利があるんだよ」
心底うんざりした顔で、レミリアは溜息を吐いた。
「信仰を得るというのなら、それは紅魔館の主たるこの私よ。どうしていちいち、得体の知れない神様捏造しなきゃいけないんだ」
そして後ろを振り向かずに、背後に控える狗に言いつける。
「いいこと、咲夜。あんたが何を勘違いしたのか知らないけど、妙な真似はすぐに止めなさい。あんたはこの私だけを信じていればいいんだから」
その言葉が終わろうかという段になって、美鈴がようやっと咲夜の顔を見た。
「え……」
そこに表情はなかった。
強いて喩えるならば、精一杯に積木を積み上げた子供が、目の前でそれを崩されたかのような。
部屋の温度がずんずんと低くなる。灯が一瞬だけ爆発して、火星の夜のように紅く部屋を映し出す。
その眩しさに、住人達は思わず目が眩んだ。声にならない咲夜の絶叫は、誰の耳にも入らなかった。
「まったくもう、これで少しは周りも落ち着くといいんだけど」
食欲を失くしたレミリアが、クランベリータルトの皿を向こうへやろうと伸ばした右手が。
ぼとりと落ちた。
「……………………え?」
感じた違和感に、視線を自らの胸にむける。
鋭い輝きを放つ刃がそこに生えていた。
真空に鮮血が噴出していくように、そこから自分が溶け出していくのが分かった。
椅子の背に縫い付けられた我が身を捩り、レミリアは首から上を何とか後ろに向ける。
己が親愛なるメイドが、既に投擲を終えた姿勢でそこにいた。
「嘘、でしょう、咲夜」
彼女の表情を伺うことができない。たぶん顔面を丸ごとどこかに落っことしてしまったのだろう。
ぼとり、ぼとりと、身体が手足の先から崩れ落ちていく音がする。
フランドールの座る隣の席からもだ。
咲夜に洒落のつもりで持たせていた祝福済みの銀のナイフは、吸血鬼の姉妹の心臓にこれ以上なく正確な一撃を加えていた。
「あ……。さく……や……」
明確に死を意識したレミリアが最期に持った感情は、怒りでも悔しさでもなく、悲しさであった。
そして咲夜は目の前で灰と化し溶けていく主を、里の八百屋の店先を冷やかすような眼でもって視認していた。
自分が何をしているのか、今一つ判然としない。自分を遠くから操っているかのような、そんな感覚。
突然、広間に殺気が満ちた。咲夜は反射的に時間を止めた。
既に彼女の周りを、無数の光の槍が囲んでいた。
「……あぁ、そうか。私」
これはパチュリーの魔術だ。スペルカードなどという生易しいものではない。飼い主の喉笛を噛み千切った狗を処分するための処刑台だ。
このまま時間停止を解除すれば、咲夜の身体は微塵も残さずに消滅するだろう。
「お嬢様。妹様。悪いのはお二人の方なのですよ。スレドニ・ヴァシュターを貶めるなど」
しかし、そんなものが何だというのだ。
咲夜は首元の骨を握り、その場に額づいた。
それさえ信じていれば、自分は救われる。どんな絶望だろうと、必ず払拭できる。
光の檻の向こうから、パチュリーが鋭い目で見据えている。美鈴と小悪魔が驚愕に満ちた目でこちらを見ている。
問題ない。すぐに彼女たちも、自分の正しさを知ることになるだろう。パチュリーの魔法さえも退ける、偉大なる加護を目の当たりにすれば。
咲夜はそう確信して、薄く微笑みながら時を再び動かした。
◆ ◆ ◆
「―― それは、貴女の妄想に過ぎなかったのですよ」
幻想郷から三途の川を越えた先、是非曲庁の一法廷。
四季映姫は、一つの魂を訥々と諭していた。
「いくら神が八百万存在する幻想郷だからといって、それ位のことで神は生まれません。巫女が形式に則って祀るならばともかく」
その魂にはブレがない。普通ならばゆらゆらとたゆたっているその表面は、何故だか卵のように滑らかだった。
「貴女は非常に身勝手な理由で、仕える主を手に掛けた。それは簡単に許される罪ではない。よって ――」
悔悟の棒が、最高裁判長によってびしりと向けられる。
「十六夜咲夜、貴方を地獄送りとする」
地獄へ通じる扉が大仰な音を立てて開いた。
咲夜と呼ばれていた者の魂は、しかし取り乱す様子など全く見せずに、すぅっと扉へと向かっていく。
この期に及んで、まだ救いがあると信じているかのようだ。
魂の放つ柔い光が地獄の闇に飲まれてしまった頃、映姫は溜息をひとつついて、傍に立っていた部下に話しかけた。
「友であった者が地獄へ送られるところなど、見たくはなかったでしょうに、小町」
「いえ、いいんですよ。これも仕事だし」
床に突いていた死神の鎌をひょいっと持ち上げ、小町は笑った。
「さてそれじゃ、次のやっこさんを運んでくるとしますかねぇ」
「……無理はせずとも、少し休んだらどうですか。今回の件を抜きにしても、貴女は最近働き過ぎですよ」
映姫の言葉は、純粋に労いのつもりだった。
近頃、小町のサボり癖がなくなってきた。それだけなら喜ぶべきなのだが、先週になって遂には休みまで返上し始めた小町が、上司として何だか薄気味悪かった。
「お気づかいは無用ですよ、四季様。何だか身体の調子がやたらといいもんで」
小町は振り返ることなく、そのまま渡しの方へと歩いて行ってしまった。
映姫としては見送るしかない。まぁ勤勉なのはいいことか、と己を納得させ、次の魂が運ばれてくるのを待つのだった。
「……………………やれやれ、四季様も結構見識が狭いねぇ」
自分の船に乗り込んだ小町は呟く。
漕ぎ出された小舟は、川の流れに乗るでも逆らうでもなく、ゆっくりと対岸を目指して進む。
「ふふ、本当にそんな存在があり得るのかどうか、四季様も試してみればいいのに」
小町が胸元から取り出したのは、小さな獣の骨だ。
それを掌で温めながら、小町は高く高く笑った。
「咲夜! あんたの言った通りだった! 四季様が否定しようともあたいは信じる! スレドニ・ヴァシュターは本当に存在する!」
ばちゃりと船縁を強く叩いた波にも、小舟はびくともしない。
それでも小町は、ぐらりと揺れた視界を無理やり波のせいにして、狭い船底に額ずいた。
決して晴れることはないと言われていた三途の川の霧が、その瞬間だけ奇麗に晴れた。
太陽はぎらぎらと水面を照らし続けていた。
「―― という運命が見えたから、そのノートはすぐに処分しなさい、フラン」
「やだー」
その靭やかな身、誰もが唾棄し侮蔑しながらそれを以て賞賛とす
「何だろ、これ」
十六夜咲夜がフランドールの部屋を掃除していると、文机の上にある帳面が目に入った。
他人との交流も増えたフランドールは、近頃精神が落ち着いてきている。保護者として妹の外出を禁じていたレミリアもそれを喜び、遂には五百年の軟禁を解いたのである。
フランドールは先ほど、美鈴を伴って博麗神社へと出かけていった。この機会に、長い間閉ざされていた部屋を心ゆくまで綺麗にしてしまおうと、咲夜は気合を入れて地下室へと降りてきたのだ。
「呪文? フランお嬢様が書いたのかしら」
何とはなしに興味を持った咲夜は、帳面を手に取りぱらりとめくる。
スレドニ・ヴァシュター、猛き者なり
その荒ぶる力、誰もが忌避し嫌悪しながらそれを以て羨望とす
文は一頁ごとに書かれているようだ。とりあえずの韻を踏んでいるそれは、詩のように読めなくもない。
「軟禁生活の手慰み、ってとこみたいね」
手に持っていたモップを壁に立てかけ、咲夜はぺらぺらと読み進める。
下らないと理解しつつも、フランドールがこの部屋の中で書き殴っていた内容に興味があった。一介のメイドに、吸血鬼の深い深い心の闇は未だに推し量れないのだ。
スレドニ・ヴァシュター、気高き者なり
その清き心、誰もが嘲笑し愚弄しながらもそれを以て敬愛とす
ひたすらに、このスレドニ・ヴァシュターとやらを賛美する文句が続く。だが容姿についての描写が極端に少なく、こいつが人間なのか妖怪なのか、それすらはっきりしない。だが、ここまでただひたすら賛美される存在に、咲夜はひとつ心当たるものがあった。
「神様、とか」
天下の吸血鬼がまさか正当な神を崇拝するとは思えない。
邪神だろうか。あぁ、そう考えるとしっくり来る気がする。
そして流し読み進めていった最後の頁。そこには今までとは違う形で、初めて具体的な内容が書かれていた。
獣の骨を握れ そして額衝け
スレドニ・ヴァシュターは妄信者を愛する
ただ祈れ さすれば救われん
咲夜は文机を見た。
確かにそこには、痩せこけて黒ずんだ白墨のような小さな骨が転がっている。何も知らなければ、ただのゴミとしてしか彼女の眼には映らなかっただろう。
咲夜は骨を手に取った。そして、フランドールがこれを握り締めながら、想像上の邪神について書き連ねている様を思い浮かべてみる。悪魔の妹はきっと、満面の笑顔であっただろう。ただひたすらに純粋で、濁りなきまま歪められた心。その奥底から彼女自身も気付かぬ間に発した、これはフランドールのSOSなのかもしれない。
ふっと息を吐き、咲夜は帳面を閉じて机に戻した。
もうこれは、彼女には必要ないはずだ。今のフランドールは、咲夜も知らぬ時代の平静を取り戻しつつある。もはやこのようなものに頼らなくとも、彼女は前へと進んでいけるはずだ。
この骨も捨ててしまおう。
そう思いながら机を離れ、咲夜がモップを手にした次の瞬間、
「―――― っ!」
急な目眩に襲われた。
視界が傾く。音が途切れる。足元すら覚束ない。
ふらり、と身体のバランスが崩れたことを感じた咲夜は、とっさに壁にもたれかかった。
壁に背を預け、荒く深い呼吸を繰り返す。
(疲れて、いるのかしら)
それでも立っていられず、咲夜はそのまま座り込んでしまった。手に持っていたモップがことんと落ちる。
しかし握っていた骨はまるで吸い付くかのように、掌に納まっていた。
メイド長たる咲夜は激務を激務と感じない性質である。「そういうヤツは大抵急にバタンと倒れるもんだぜ」とは白黒魔法使いの談であったか。
暫く時間を止めて身体を休めようかと、はっきりしない頭で彼女が思案する目の前で ――
巨大なシャンデリアが降り、帳面ごと文机を押し潰した。
ワインセラーで弾幕を放っても、これ程の音は出ないかもしれない。その暴力は、機能することを止めていた咲夜の鼓膜を呼び覚ますのに十分であった。
惨状を目の前にしながら不思議と冷静なままの頭で、咲夜は考える。今少しあそこを離れるのが遅ければ、時間を止める間もなく自分は圧死していただろう。目眩を感じて座り込んでいなければ、モップがけを再開した自分は今頃あの下敷きになっていたのかも。
咲夜はまじまじと掌にある骨を見つめた。
いつの間にか、目眩は身体から綺麗に消えていた。
◆ ◆ ◆
「あんた、十六夜咲夜、か?」
随分と表情がギラギラしているな、というのが小野塚小町の感じた最初の印象だった。
その日たまたま休暇であった彼女は、近頃話題になっているカフェでも冷やかしてみようかと人里を訪れていたのである。
そしてその先で、紅魔館のメイドとばったり出くわした。買い物帰りだったのか、籠の中にはいくつかの食材が入っていた。
「あら死神さん。お久しぶりね」
「あぁ、そうなるのかな。相席で構わないかい」
問い掛けの答えを待たずに、小町は席に着いた。
しかしまぁ、しばらく会わない間にこのメイドも変わったものである。
以前であれば、咲夜から受ける印象は捉えどころのないふわふわしたものだった。それが今や、顔面に太陽でも貼り付けたかのような圧倒的な熱を感じる。
どこか斜に構えたヤツの多い幻想郷で、ここまでの熱さを放つ者などいただろうか。
少なくとも小町には、心当たりはなかった。
咲夜の前に紅茶を置いたウェイトレスが、そのまま小町に注文を尋ねる。適当にメニューをめくり、オススメとあった宇治抹茶サンデーを小町は適当に注文した。
「なんだ、いいことでもあったのかい」
「えぇ、あったわ。とびっきりに素晴らしいことが」
咲夜は、その顔をぐりんとこちらに向けた。
「私は護られているの。偉大にして唯一の存在、スレドニ・ヴァシュターに。これほど幸せなことはないわ」
「スレドニ……なんだって?」
このメイドは何を言い出すのだろう。
咲夜が心の拠り所としていたのは、主であるレミリア・スカーレットだったはずだ。紅魔館の吸血鬼に仕える忠実な狗は、主のために全てを投げ打ってきた。心身から、おそらくは魂に至るまで。
その彼女が急に、得体の知れない存在に心酔しているのである。
小町にしてみれば、驚きを通り越して不気味であった。
「止めとくれよ、変な新興宗教とか起こすのは」
「新興じゃあないわ。吸血鬼も古くから信仰する存在よ。妹様が手帳に書き記していたの」
咲夜は椅子の背に身体を預けた。カフェの椅子は思ったよりも頑丈だったらしく、微かな軋みすら立てない。
その首に、小町は奇妙なネックレスを認めた。死を日常として見ている彼女にはすぐに分かった。
これは、獣の骨だ。
「私も最初は半信半疑だった。でも教えの通りにしていると良いことばかり続いて、私も本物であると信じざるを得なくなったわ。だって大きな事故に遭ってもかすり傷ひとつないのよ。体調も良くなっているようだし、あぁ、お嬢様や妹様も何だか心安らかに過ごされる時間が増えてきた気がするわ。パチュリー様も図書館からよくお出でになるようになった。美鈴も小悪魔も妖精メイド達も、ますますしっかりと館のお勤めに精を出してくれている。私だけじゃなくて、紅魔館全体が良い方向に向かっているのよ。これって素晴らしいことだと思わない?」
小町の注文した宇治抹茶サンデーを、先ほどのウェイトレスがテーブルに置いた。ことんという器の音が、小町の拡散していた意識を呼び戻した。
「へーへー。凄いんだねそのナンタラってのは」
「凄いなんてものじゃないわ! 私はこれを信じていれば幸福に生きていける!」
両手を大仰に広げ、メイド長は天を仰ぐ。しかしその目は、何も見ていないように見えた。
「意外だねぇ。あんたはあの吸血鬼お嬢様だけを信じていると思ってたけど」
「お嬢様への心はもちろん変わらない。いえ、むしろ今まで以上よ。お嬢様も信じていたものを、私も一緒に信じている! そうよ私は、真の意味でお嬢様の臣下となることができた!」
恍惚の表情のまま、咲夜は首元の骨を握り締め、おもむろに立ち上がった。
そしてそのまま膝を落とし、
「あぁ、スレドニ・ヴァシュター! 偉大なる闇よ!」
「え!? ちょっと咲夜、何を……」
衆目の中で躊躇うことなく、咲夜はどこかに向かって跪いた。ちょうど小町からテーブルを挟んだ反対側に隠れる形になり、その姿は見えない。
ぶつぶつと何かを呟く声だけが聞こえてくる。祈りを捧げているのだろうか。
「……どうしちまったんだよ、あんた」
サンデーは少しずつ溶け始めている。それでも手を付ける気になれず、小町はただ唖然としていた。
かちゃかちゃと食器の音が鳴る。他の席へ紅茶を給そうとしているのは、また同じウェイトレスだ。小さな店だ、ひとりで切り盛りしているのだろう。
五人分のカップをトレイに乗せたまま、彼女は真っ直ぐこちらへ向かってくる。
地面に蹲る咲夜には、気付かない。
このままだと、ウェイトレスは咲夜に躓き、そして。
「危ない!」
小町の想像通り、カップの立てる騒々しい音と共に、熱い液体が宙を舞った。
そのまま一瞬の通り雨となり、咲夜に向かって降り注ぐ。
「す、すいませんお客様! 大丈夫ですか?」
悪いのは明らかに、そんなところに平伏しているメイドの方だ。だがウェイトレスは、客商売の鉄則に則りとりあえず謝罪するしかなかった。
「おい咲夜、あんた何とも……え?」
慌ててテーブルを回りこんだ小町は、目を疑った。
零れたはずの熱い紅茶は、額づく咲夜だけを綺麗に避けてカフェのデッキを濡らしていたのだ。
「そんな、馬鹿な。時間を止めたってこんな……」
「言ったでしょう、死神さん」
ゆっくりと、咲夜が立ち上がる。骨を握り締めたまま。
「私は、護られているの」
浮かべた笑顔がぎらぎらと輝いた。
絶句する小町とウェイトレスを尻目に、メイド長は御代をテーブルに置き、立ち去ろうとした。
「あぁ、そうだ」
しかしくるりと振り向き、咲夜は手篭をごそごそまさぐる。
「はいこれ、貴女たちもよかったら」
そしてただ立ち尽くす二人に、それを手渡す。
掌をまじまじと見つめたウェイトレスは、ひゃっと小さく叫んでそれを投げ捨て、店の中へと逃げ込んでしまった。
小町もそれを見た。白くて小さな、獣の骨だ。まだ新しい。
「それじゃ、ご機嫌よう」
小町はやっぱり何も言えず、ただ咲夜の背中を見送ることしかできなかった。
抹茶サンデーはもう原形を留めていなかった。
咲夜は柔らかな風に舞うように、通りを歩いていってしまった。
◆ ◆ ◆
咲夜の妄信は、留まる所を知らなかった。
スレドニ・ヴァシュターの加護を得るには、獣の骨が必要だ。
初めは、彼女は紅魔館の周りで行き倒れた小動物の死骸を探すことでそれを調達していた。
しかしその内、それでは足りなくなってしまった。
ひとつ加護を受けたと感じる度に骨を新しいものに取り替えるので、咲夜の持つ骨は次々と消費されていってしまうのだ。フランドールの帳面にはそんなことは記されていなかったが、咲夜はその方が良い結果に繋がると信じた。
だから、獣の骨を積極的に集める必要が生じた。
茂みの中に簡単な罠を仕掛けてみることにした。イタチやモグラなどが次々に掛かった。それを手際よく絞めて解体し、骨だけを取り出してあとはその辺りに放っておく。すると死肉を漁る獣がそれに集まり、また罠に掛かるのだ。
そんな作業が生活の一部となって、何ヶ月かが経っていた。
「今日のステーキは一段と美味しいかったわ。また腕を上げたのかしら、咲夜」
「本当。食の細かったお姉様が、こんなに食べるようになるなんてね。そろそろ体重を気にした方がいいんじゃない?」
紅魔館の夕食の席には、今日も全員が揃っていた。
長い食卓の端に、吸血鬼姉妹が仲良く並んで座っている。その向かいには食事中も本を手放さない魔女。彼女の所作をマナー違反だと咎める者など、この館にはいない。
三人の後ろには、従者がそれぞれ控えていた。フランドールの後ろには美鈴が、パチュリーの後ろには小悪魔が、そしてレミリアの後ろに咲夜が立ち、給仕役に徹している。
誰もがそれぞれの幸せをきっと心の中で感じているであろう、というそんな表情で、席は和やかに進んでいた。
メインディッシュであったラムステーキの皿が下げられ、入れ替わりにデザートのクランベリータルトが運び入れられる。妖精メイドからそれを受け取った三人の従者が、血のように紅いタルトを主の食卓に音もなく差し出した。
小さく歓声を上げたのは、甘いものが大好きなフランドールである。
「そういえば、肉と紅いソースで思い出したけど」
その隣のレミリアが、何とはなしに呟いた。
「最近どうにも、紅魔館の周りが血生臭いのよね。比喩じゃなく本来の意味で」
「あらレミィ、それは花粉症かもしれないわ」
本の虫が顔を上げ、喘息持ちの自分のことは棚に上げて親友へ健康のアドバイスを始める。
「貴女が嗅いでいるのは自分の鼻血の匂い。鼻の粘膜が弱くなって、血管が切れやすくなっているのよ。マスクをすることをお勧めするわ」
「何それ、初耳なんだけど。花粉症で血の匂いが漂うなんて」
「幻想郷に入って花粉症が凶暴化したとかなんとか。あぁ、鼻うがいなども効果的ね」
「あのねぇ、吸血鬼が木の飛ばす粉なんかに負けるはずないでしょう」
いかにも呆れたという視線を、レミリアはパチュリーに投げる。
「でもお嬢様の仰る通り、最近この辺りなんかヘンなんですよね」
嬉しそうにタルトをつつくフランドールの後ろで、美鈴が言った。
「上手く表現できませんが、漂う気配が澱んでいるというか。匂いで言えば ――」
屍臭、と言いかけて美鈴は口を噤んだ。食事の場に相応しい言葉ではない。
「ねぇねぇ、どんな匂いなの?」
「静かにしなさい、フラン。ま、門番の言いたいことも分かるけど」
タルトを一かけ口に放り込み、レミリアは飼い犬に話を振った。
「咲夜はどう? 何か気付いたことある?」
紅魔館についての話題であれば大抵口を挟んでくる咲夜は、この時まで喋ろうとしなかった。
レミリアはそれを不審に思いながらも、彼女の番犬としての能力に期待し、尋ねたのである。
「それは多分、私のせいですわ。最近、教えに従って獣の骨を集めておりますので」
だから咲夜のその答えは、夕食の場を完全に凍りつかせた。
メイド長は完璧で瀟洒である。故に「殺す」という言葉は出さなかった。
「……貴女が? 何故?」
問うたのは魔女だ。
パチュリーにしてみれば、魔術のためにともっと惨い所業を行った経験など両手では数え切れない。だがそれだけに、一介のメイドが獣の骨を集める理由が気になった。
「あぁ、パチュリー様はご存じないのですね。お嬢様と妹様の運命を愛しておられる偉大なる名を。無理もありませんわ、私もつい最近知ったのですから。紅魔館の繁栄の真実を。吸血鬼の力の正体を。そして私もその一助となるべく祈りを捧げているのです。毎日毎夜、白い骨を握りながら」
まるで咲夜は歌うように、台詞をひと息で言い終えた。その手はいつの間にか大仰に広げられて、その目は遠いどこかに焦点が合わせられていて、彼女の意識がもはやこの広間にないことは明白だ。
「えっと、何を言っているのか分からないんだけど、咲夜」
レミリアは目を丸くしていた。咲夜の行動がどこか変なのは昔からだが、これは度が過ぎている。
「何よ、偉大なる名って。この私以上に偉大な存在がいるはずないでしょう」
「はーい! 私、私」
「私の運命を決められるのは、この私以外にいないわ」
べったりと口周りを汚しながら燥ぐフランドールをレミリアは無視した。
「咲夜、貴女が何のことを言っているのかは知らないけど、滅多なことは言わないで頂戴」
「滅多なこと、とは心外です」
咲夜は少しムッとして見せた。その表情は驚くほど似合っていなかった。
「妹様が帳面に書き記しておいででした。獣の骨を握り、祈れと」
「え、私?」
急に名前を出されたフランドールが、きょとんと首を傾げる。
「私はその通り実践しているのです。そうしたら全ての運命が好転致しました。お嬢様を輝ける未来へと導いている者の正体を、私やようやっと知ったのです。あぁ、偉大なるスレドニ・ヴァシュター」
ペンダントトップを愛おしそうに握りしめながら、恍惚と咲夜は朗じた。最後の方は、もうほとんど謡い上げるようだった。
その場の誰もが、自分の視覚認識を疑わざるを得なかった。
悪魔の傍に付き従う完全で瀟洒なメイド長は、喩えるならばその名の通りに月のようであった。それが今や、砂漠の太陽のように強く照る光を放射している。それは皮肉にも、紅魔館の住人たちが初めて見る十六夜咲夜の心の内面であった。メイドという仕事の性質上、咲夜は人前で自分を殺し切ることに慣れていた。レミリア達にしても彼女の心象など知る必要もなかったし、そも知ることはできなかったのである。
風もないのに灯が揺れた。
「それさぁ」
沈黙を破壊したのはフランドールである。
「もしかして私のノートに書いてあったヤツ? あれテキトーに書いただけだよ」
咲夜は表情を変えない。ただ、その眼の焦点が一気に無限遠まで延びた。
フォークを銜えながらフランドールは続ける。
「出れなくてヒマだった頃、思いつくままにちょちょいっとね。この間久しぶりに見つけたから、懐かしくなって読み返してみたけど、やっぱりなんか恥ずかしくなっちゃってさ」
口からぽろりとフォークが落ちる。皿とぶつかってガチャンと大きな音がした。
「ギュっとして壊しちゃったよ」
はにかむ様に笑うフランドールを、全員が言葉もなく見ていた。
だから、咲夜が瞬きすらしなくなったことに誰も気付けなかった。
「いやぁ、病んでるときってそういう変なことしちゃうもんだよね」
「……フラン。私の分のタルトも食べる? 私お腹いっぱいになっちゃって」
「お姉様、そういう気遣いって逆に不自然」
昔のことは気にしていないからいいの、とフランドールは笑った。
「ふむ、邪神を作るっていうのも面白いかもしれないわね。いっそのことレミィが先導して、邪神として祀り上げて信仰獲得してみるとか。守矢の巫女みたいにさ」
「ちょっと止めてよねパチェ。そんなことして私に何の利があるんだよ」
心底うんざりした顔で、レミリアは溜息を吐いた。
「信仰を得るというのなら、それは紅魔館の主たるこの私よ。どうしていちいち、得体の知れない神様捏造しなきゃいけないんだ」
そして後ろを振り向かずに、背後に控える狗に言いつける。
「いいこと、咲夜。あんたが何を勘違いしたのか知らないけど、妙な真似はすぐに止めなさい。あんたはこの私だけを信じていればいいんだから」
その言葉が終わろうかという段になって、美鈴がようやっと咲夜の顔を見た。
「え……」
そこに表情はなかった。
強いて喩えるならば、精一杯に積木を積み上げた子供が、目の前でそれを崩されたかのような。
部屋の温度がずんずんと低くなる。灯が一瞬だけ爆発して、火星の夜のように紅く部屋を映し出す。
その眩しさに、住人達は思わず目が眩んだ。声にならない咲夜の絶叫は、誰の耳にも入らなかった。
「まったくもう、これで少しは周りも落ち着くといいんだけど」
食欲を失くしたレミリアが、クランベリータルトの皿を向こうへやろうと伸ばした右手が。
ぼとりと落ちた。
「……………………え?」
感じた違和感に、視線を自らの胸にむける。
鋭い輝きを放つ刃がそこに生えていた。
真空に鮮血が噴出していくように、そこから自分が溶け出していくのが分かった。
椅子の背に縫い付けられた我が身を捩り、レミリアは首から上を何とか後ろに向ける。
己が親愛なるメイドが、既に投擲を終えた姿勢でそこにいた。
「嘘、でしょう、咲夜」
彼女の表情を伺うことができない。たぶん顔面を丸ごとどこかに落っことしてしまったのだろう。
ぼとり、ぼとりと、身体が手足の先から崩れ落ちていく音がする。
フランドールの座る隣の席からもだ。
咲夜に洒落のつもりで持たせていた祝福済みの銀のナイフは、吸血鬼の姉妹の心臓にこれ以上なく正確な一撃を加えていた。
「あ……。さく……や……」
明確に死を意識したレミリアが最期に持った感情は、怒りでも悔しさでもなく、悲しさであった。
そして咲夜は目の前で灰と化し溶けていく主を、里の八百屋の店先を冷やかすような眼でもって視認していた。
自分が何をしているのか、今一つ判然としない。自分を遠くから操っているかのような、そんな感覚。
突然、広間に殺気が満ちた。咲夜は反射的に時間を止めた。
既に彼女の周りを、無数の光の槍が囲んでいた。
「……あぁ、そうか。私」
これはパチュリーの魔術だ。スペルカードなどという生易しいものではない。飼い主の喉笛を噛み千切った狗を処分するための処刑台だ。
このまま時間停止を解除すれば、咲夜の身体は微塵も残さずに消滅するだろう。
「お嬢様。妹様。悪いのはお二人の方なのですよ。スレドニ・ヴァシュターを貶めるなど」
しかし、そんなものが何だというのだ。
咲夜は首元の骨を握り、その場に額づいた。
それさえ信じていれば、自分は救われる。どんな絶望だろうと、必ず払拭できる。
光の檻の向こうから、パチュリーが鋭い目で見据えている。美鈴と小悪魔が驚愕に満ちた目でこちらを見ている。
問題ない。すぐに彼女たちも、自分の正しさを知ることになるだろう。パチュリーの魔法さえも退ける、偉大なる加護を目の当たりにすれば。
咲夜はそう確信して、薄く微笑みながら時を再び動かした。
◆ ◆ ◆
「―― それは、貴女の妄想に過ぎなかったのですよ」
幻想郷から三途の川を越えた先、是非曲庁の一法廷。
四季映姫は、一つの魂を訥々と諭していた。
「いくら神が八百万存在する幻想郷だからといって、それ位のことで神は生まれません。巫女が形式に則って祀るならばともかく」
その魂にはブレがない。普通ならばゆらゆらとたゆたっているその表面は、何故だか卵のように滑らかだった。
「貴女は非常に身勝手な理由で、仕える主を手に掛けた。それは簡単に許される罪ではない。よって ――」
悔悟の棒が、最高裁判長によってびしりと向けられる。
「十六夜咲夜、貴方を地獄送りとする」
地獄へ通じる扉が大仰な音を立てて開いた。
咲夜と呼ばれていた者の魂は、しかし取り乱す様子など全く見せずに、すぅっと扉へと向かっていく。
この期に及んで、まだ救いがあると信じているかのようだ。
魂の放つ柔い光が地獄の闇に飲まれてしまった頃、映姫は溜息をひとつついて、傍に立っていた部下に話しかけた。
「友であった者が地獄へ送られるところなど、見たくはなかったでしょうに、小町」
「いえ、いいんですよ。これも仕事だし」
床に突いていた死神の鎌をひょいっと持ち上げ、小町は笑った。
「さてそれじゃ、次のやっこさんを運んでくるとしますかねぇ」
「……無理はせずとも、少し休んだらどうですか。今回の件を抜きにしても、貴女は最近働き過ぎですよ」
映姫の言葉は、純粋に労いのつもりだった。
近頃、小町のサボり癖がなくなってきた。それだけなら喜ぶべきなのだが、先週になって遂には休みまで返上し始めた小町が、上司として何だか薄気味悪かった。
「お気づかいは無用ですよ、四季様。何だか身体の調子がやたらといいもんで」
小町は振り返ることなく、そのまま渡しの方へと歩いて行ってしまった。
映姫としては見送るしかない。まぁ勤勉なのはいいことか、と己を納得させ、次の魂が運ばれてくるのを待つのだった。
「……………………やれやれ、四季様も結構見識が狭いねぇ」
自分の船に乗り込んだ小町は呟く。
漕ぎ出された小舟は、川の流れに乗るでも逆らうでもなく、ゆっくりと対岸を目指して進む。
「ふふ、本当にそんな存在があり得るのかどうか、四季様も試してみればいいのに」
小町が胸元から取り出したのは、小さな獣の骨だ。
それを掌で温めながら、小町は高く高く笑った。
「咲夜! あんたの言った通りだった! 四季様が否定しようともあたいは信じる! スレドニ・ヴァシュターは本当に存在する!」
ばちゃりと船縁を強く叩いた波にも、小舟はびくともしない。
それでも小町は、ぐらりと揺れた視界を無理やり波のせいにして、狭い船底に額ずいた。
決して晴れることはないと言われていた三途の川の霧が、その瞬間だけ奇麗に晴れた。
太陽はぎらぎらと水面を照らし続けていた。
「―― という運命が見えたから、そのノートはすぐに処分しなさい、フラン」
「やだー」
と思ったら伏せ字wwwwww
元ネタとなっているバンドや小説についてはわかりませんが、そうでなくても一本の作品として楽しめました。
冒頭からの謎の提示、読み進めさせる展開に切れ味のいい終わりと、素晴らしい内容でした。
幻想郷に住む人妖だからこそ、盲信や狂信はあり得るのかもしれない。そういった視点からの内容だったのかとも思いました。
個人的には、邪神というよりは感染、増殖する狂気のウィルス、みたいな印象を受けました。
物語の結末に関しては、お話の性質上問答無用で納得するしかないのでしょうが、
……うーむ、野暮は承知で言わせてください。
咲夜さん、貴方のお嬢様への愛情はそんなことで消えてしまうのか?
小町、君のサボタージュへの執念はそんなことで消えてしまうのか? と。
フランを、次に咲夜、小町を虜にしていったとも妄想できますな。
面白い。
だってほら、こんなにも幸と不幸を呼び寄せたんですから。
ありえない偶然を引き起こす、本人が意識しなくてももれだすようなレミリアの能力を殺した状態で話を進めるのも違和感が。
それらの理由づけが非常に弱くてただ咲夜が脈絡なく行動しているのが滑稽でしかなく、最後の前のどんでん返しもホラーというよりストーリーの不協和音にしか感じられませんでした。
最後の展開に無理矢理持っていったみたいな
具体的な形を持たない、どこからかゆっくりと近付く、魂を汚し、歪め、狩りたてるものについてのいくつかの短編を。