紅魔館には――世間一般的にも――雨の日を嫌う者が多いけど、私は雨の日は朝から心が躍る。
忙しなく過ぎ去っていく時間が緩やかに流れていくような気がして一日得した気分になるし、その一方で、重く暗く垂れ込めた雲をふと見上げた時、物凄い速さで空を流れていたりすることもあって何だか面白い。
晴れの日は使えないお気に入りの淡い橙色の傘――咲夜さんから贈られたもの――が使えるのが嬉しい。雨靴を履いて水溜りに突入するのも何だか童心に返ったみたいで楽しい。緑の葉っぱやピンクの花などが描かれた、幾つかあるレインコートの中から、今日はどれを着ようか、と決める瞬間わくわくする。その植物の絵柄のレインコートを着て庭園で黙々と庭師の仕事をしていると、自分は根っからの庭師だなぁ、と感じる事が出来て満足する。
それに何より嬉しいのは、最近、この雨の日のささやかな楽しみを共有出来る人が出来た、ということだ。
前の自分には考えられないことだった。誰かと自分の感性を共有出来る日が来るなんて。
一人でも十分楽しかったけど、二人のほうがもっと楽しい。
自分一人で完結してしまっていた思いを他の人に伝えることが出来るのは嬉しい。
それはとても生産的だ。未来の二人をより良いものにしてくれる。共有という言葉をキーワードとして。
隣を歩く咲夜さんを、ちらりと窺った。
曇天に対抗するかのように空色の傘をさして、雨に濡れた赤薔薇を眺めている。
雨の日の庭園に誘うのは、これで何度目になるだろう。
初めの頃は、髪が広がるから……とあまり良い顔はしなかったけど――それでもついてきてくれたのは、付き合っていて、愛されているから、と自惚れて良いだろうか――二度三度と誘いだすうちに、だんだん嫌な顔はされなくなった。咲夜さんなりに、雨の日の楽しみ方を見出したらしい。
白薔薇の、ベルベットのように厚く瑞々しい花弁に無数の雨粒が溜まっては、つるりと零れ落ちている。私はそれを熱心に眺めた。幼い頃から、花弁に水滴がついているのを見るのが好きだ。それはとても現実離れした美しさで、触れるのがためらわれるように神聖で、零れ落ちる様は、何だか、とても……
「魔法みたい」
「え……?」
赤薔薇からこちらに視線を移した咲夜さんに「魔法みたいなんです」ともう一度言った。
「何が?」
「この、雨粒が」
「どうして?」
「どきどきするんです。花弁から雨粒が零れ落ちるだけなのに、それが何か特別なことのように思えて。こう、雨粒がつるりと落ちる瞬間、何かがぱっと生まれ出そうな気がして……それはとても綺麗な何かで、上手く言えないんですけど」
「……難しいわね。でも、とりあえず、綺麗な何かが生まれそう、っていうところは何となく分かるわ。綺麗な魔法を想像したんでしょう?」
無理に話を合わせるでもなく、私の言葉を理解不能と切り捨てるでもなく、感じたままの等身大の言葉を返してくれる咲夜さんが、とても好ましく思えた。
「そうです。例えば水のように透明な花が、滴から生まれるとか。……私は妖怪ですけど魔法使いじゃないから、こうして魔法を特別視しちゃうのかもしれません」
「魔法ねぇ……」
咲夜さんは花に溜まった滴を指先でするりと落とした。
滴は一瞬にして雨と交じり合い、薔薇が根を張る土の中に滲み込んでいった。
もちろん、滴に触れても魔法なんて発動しない。そんなことは分かっている。
だけど、ひょっとしたらひょっとするかも……という淡い期待があるので、私は絶対に触らない。
触れた瞬間、魔法へのきらきらとした期待と夢がなくなってしまうのは、つまらないから。
だけど咲夜さんは事も無げに触れた。魔法が発動するかしないか、そんなことは関係なく、ただ純粋に、目を惹かれたものを触りたくて触ったような、何気ない触り方だった。
つるりと指先を伝う滴は、でもやっぱり何だか雨の音とあいまって幻想的で、透明なぽつりとした水玉が卵を割ったみたいに音も無く落ちて行く様は、やっぱり魔法みたいだと思った。
視線を奪う、綺麗な魔法。……だけどもう少しだけ、その滴に触れずにいようと思った。
透明な花が、滴から生まれる……そんな魔法を、もう少しだけ夢見ていたかったから。
「……まぁ、魔法に憧れる人間は多いけど」
客観的な、感想めいた言葉。その中にはきっと、咲夜さんは含まれていないんだろうなぁ。
「咲夜さんは、持っている能力が魔法みたいですもんね」
「そう、思う?」
「違うんですか」
「そうでもないわね」
赤薔薇の花弁を弄びながら咲夜さんは言った。
「少なくとも、貴女が想像するような、美しい魔法ではないと思うわよ」
「でも、例えば、この花弁から落ちる滴や雨を、止まってる状態で見れるじゃないですか。水晶みたいに綺麗だと思うんですけど……」
そう言うと咲夜さんは少しだけ表情を緩めて、私を見た。表情を緩めても少し吊り気味の意思の強そうな目と眉をしているので、何だか「分かってないわねぇ」と窘められているような気分になる。
「そういうのはね、絵画とかで観られれば十分なのよ。そのためにあるんだから。……まぁ、私もね、能力を面白半分で使っていた頃は、魔法みたいだと思ったわ。無意味に時を止めて、世界の色々なものを観察したりした。死んだみたいに目をずっと開いている人間が興味深くて色んな目を観察したり、ムカつくやつを打ちのめしてみたり……」
「……何か、発想が怖いですね」
眉をひそめてみせると、咲夜さんはそれも織り込み済みだったのか、面白そうに笑った。
「でもね、そういうのもそのうち飽きるの。それに時が止まった世界は音がないから、自分が動かないと本当に静かで、何て言うのかな、音って、何かが動かないと発生しないんだなぁって、そんな当たり前のことをある日しみじみと感じたのよ。そして、その何かを動かすことが出来る時の流れというのは本当に凄いものだと思った。だから、時が止まらず流れ続けていることこそ、私にとっては最大の魔法なのよ」
穏やかな表情で、咲夜さんは言葉を選びながら言った。
私は時を止める術を持たないから、話を聞きながら、時の止まった世界を想像してみた。
何も動くもののない、音のない世界……。確かに、一度経験出来れば満足な世界かもしれない。
一人ぼっちなのは嫌だから、まず私は、誰の声も聞こえない世界に耐えられないだろう。
人の声も、鳥の鳴き声も、草木のさざめきも聞こえない世界なんて気が狂いそうになる。
無意味に歩き回って大げさに足音を立て、ぶつぶつ独り言を繰り返す自分が、容易に想像出来る。
そんな状態では、とても雨の滴を綺麗だなんて感じている余裕は持てないだろう。
「今想像してみたんですけど……」
「えぇ」
「やっぱり私も時は流れていたほうが良いものだと思います」
「そう。同じ感性を持っているのなら、嬉しいわ」
同じ感性。それはとても心地良く私の耳に届いた。思いを共有出来るのは、嬉しい。
それはとても小さく、断片的な共有かもしれないけど、そもそもすべてを共有する必要なんてないから、十分満足だ。
すべてを共有してしまったら、一緒にいる意味なんてなくなってしまう。
違う感性を持っているにも関わらず、ふとした瞬間、カチリとパズルのピースがはまったみたいに思いを共有出来るからこそ素敵なんだと、私は思う。
「……あぁ、でも、ちょっと同じではないかもしれないわね」
「え?」
そう言って思案顔になる咲夜さんを、びっくりして見つめた。
せっかく、共有という細い糸でお互いの心がつながったのに、その大切な糸をすぐさまナイフでぷつりと切られてしまったように思えた。途端に心細くなる。唐突に、ざあざあと雨の音が耳に流れ込んできた。それはとてもうるさく、不快な音に聞こえた。今の今まで気にもしていなかったのに。
美しく雨にけぶる世界が、ただの薄暗く、視界の悪い陰鬱な世界に見えてくる。周囲の劇的な変化に戸惑った。いや、変わったのは私で、こうして二人でいるにも関わらず、今はもう、この雨の世界に一人取り残されたみたいな気分になっている。
「何て顔してるのよ」
咲夜さんは、断ち切った糸をつまんで、端をぶらぶら揺らしながら言った……ように私には見えた。
「だって……」
何と言ったら良いんだろう……。とりあえずそのぶらぶら揺れる糸の端を子猫のように捕まえたいけど、そのための言葉を私は持たない。心の中に広がる風景を、思いを、上手く言葉にすることが出来ない。もどかしくて、うぅ……と低く唸った。
「私はそういう嫌な意味で言おうとしたわけじゃないんだけど……」
「だって、同じじゃないって、言ったじゃないですか」
唸ったときの表情のまま恨みがましく咲夜さんを見つめると、咲夜さんは表情を緩めて――今度は少し、意地悪そうに見えた――薔薇の花弁をいじった。中心に溜まっていた滴がだらしなく隙間から零れて、未練がましく咲夜さんの手のひらを伝っていく。
「そう言わないと、これから言おうと思ったことに、矛盾が生じるかもしれないと思って」
「矛盾、ですか?」
「えぇ。私、時は流れてこそだと、常々思うのだけれど……ねぇ、分かるでしょう?」
そう言って咲夜さんは私の腕を掴むと、瞳の奥底まで覗きこんできた。滴が、私の手のひらにも伝う。
目を射抜かれて上手く動けない身体を持て余しながら、薔薇の滴に触れた手で掴まれたら、滴の花を生み出す魔法の力が失われたりしないだろうか……と馬鹿みたいな心配をしてしまった。それは停止しかけた思考が最後の悪足掻きとして行った、現実逃避なのかもしれない。現実を直視してしまったら、きっと今すぐにでも私の顔は真っ赤に染まってしまうだろうから。それは恥ずかしいから、避けたい。
咲夜さんは、動かない私を見て笑った。今度こそ、誰が見ても意地悪な笑い方だった。
そうしてゆっくりと唇を開けて、空気を吸った。言葉を続けるために。
やめて、続けないで、と思うけれども、私は動けず、咲夜さんを見つめ続けた。
「あぁ、何だか……言うタイミングを逃しちゃったわ」
「え……?」
するりと私から手を離すと、咲夜さんは私から身体を離した。
え、え、と戸惑う私から視線をそらし、再び薔薇の花弁をいじり始めた。口元に笑みを浮かべながら。
「……楽しいですか?」
気を取り直した私が、むっとした口調で言うと「えぇ、楽しいわよ」と間髪入れずに返された。
「貴女と、こうして過ごす時間は。――時が止まってしまえば良いのにって、思うくらい」
気が緩んだ瞬間に、ふいに真面目な表情をして言われて、私は再び動けなくなった。むっとした表情が場違いに気付いたみたいに慌てて奥のほうに引っ込んで、代わりに戸惑いが表に現れた。顔を真っ赤にさせるほどの、羞恥心の大群を引きつれて……。
「……ずるい」
何か一言言ってやりたくて絞り出した言葉が、どこか媚びるような色合いを帯びていて、うろたえた。
「でもやっぱり時の流れは偉大なのよね。貴女の顔がほら、赤くなる様も見れるし。これって矛盾でしょ?」
「知りませんよ」
そんなふうに意地悪なことをするなら、絶対に言ってやらない。
私も、同じ矛盾を抱えているかもしれません、なんて。
失笑する咲夜さんはそれすらも、織り込み済みなのかもしれないけど……。
「機嫌損ねちゃった?」
「えぇ、おかげさまで」
「そう。なら機嫌直して欲しいから、私の傘にでも入る?」
「え、それって……」
悠然と笑って咲夜さんは軽く傘を持ち上げた。思ってもみなかった提案に、私もついに笑ってしまった。
火に入る虫のように傘を閉じてふわりと近付いて、傍にある咲夜さんの熱で、じりじりと身を焦がす。
薔薇の花を弄んでいた手で、髪に触れられた。その瞬間、今まで触れられていた薔薇に嫉妬した。
馬鹿らしい。自分で育てた花なのに……そう思いながらその感触に身をゆだねた。
「貴女を見るのは、本当に飽きないわ」
毛先を弄びながら咲夜さんは言った。なら、もっと私を見て欲しい。
庭園に行こうと誘ったのは私なのに、思考が矛盾し始める。何だか行く先を間違ってしまったみたいだ。だけど、方向修正する術はなく、きっと修正する必要もないんだろう。
キスの気配を感じて、そっと目を閉じた。
ぽつ、ぽつ、しとしと、ぱらぱら、心地良い雨音が鼓膜を揺らす。
自在に綺麗な魔法を使う――それ以外のもあるけれど――魔法使いは、こんなにも近くにいた。
そして、その描写から窺える作者様の感性は、私にとっては結構新鮮です。
美鈴を翻弄する咲夜さんのお話、楽しませて頂きました。
でも、やっぱり最後に主導権を握るのは、……美鈴なんだろうなぁ。
文章に嫌味が感じられずスラスラ読めて締め方も悪くないです。
雨と花を魔法と捕え解釈する事は俺には中々出来そうにもありません…
素晴らしい感性の持ち主なんですね。
読んで想起された映像が、筆者や他読者とほとんど同じ物になりそうなのは凄いですね。
関係ありませんが咲夜は時を止めた後にどうやって物を見るのでしょうね。
まぁ科学信仰の薄い世界ですから、魔法的なものとか見れるものは見れる、と言われたらそれまでですが。