上を見上げてみる、熱く輝く日の光もなければ、冷たく静かに輝く月の光もない、あるのはただ岩と土ばかり、視線を下ろしてぐるりと見回してみる、花が咲き乱れることもなければ緑の草木が生い茂ることもない、紅く染まった葉が落ちていることもなければ降り積もった雪が世界を白く染めることもない、やはりあるのは土と岩、そして見通せない暗い闇ばかり、そんなここは暗い暗い地の底、地の底には何もない、年がら年中一定の温度で保たれ、それはそれで住みやすいといえば住みやすいのだが、だからこそというべきか、地底に住む私たちは時折無性に地上のすべてに焦がれることがあった。
「不味い……な」
酒が不味く感じるときというのはそういう時で、そもそも酒が上手いと感じるときというのは仲間たちと楽しく飲んでいるときや四季の風情を肴にしているときで、今飲んでいる酒はそのどちらでもない人気のない場所でのただの一人酒、景色を楽しもうにもあるのは土と岩ばかりで楽しみようがない。
何となく一人で飲みたかったからそうしたのだが、それが間違いだったと思いつつも仕方なしにちびりちびりと酒をやる。
しかし、駄目なものは駄目、不味いものは不味い。
「あー、駄目だ、これじゃ酒に悪い」
「酒に悪いって何がかしら?」
不意に声をかけられ声がしたほうに振り向いてみると、見慣れない女の顔が一つあった。
その女は死人のようにやけに白い顔をしていたが、そこに死人特有の消えてしまいそうな儚さなどはなく、むしろ妙に強い存在感はどこか〝上のもの〟の風格さえ漂わせていた。
「何が悪いって、せっかくの酒を不味いと思いながらやるのは酒に対して悪いだろ」
「そういうものかしら?」
「そういうものなんだよ、っていうかお前さんは見慣れない顔だがどこの誰だ?」
「ただの嫌われ者よ、嫌われ者だから、嫌われ者ばかりのここに来てみたの」
彼女は、どこかさめた態度でそう返してきたきり、そのままどこか遠くを見つめて黙り込んだ。
『さめた態度』で気づいたのだが、どういうわけか急に少しだけ肌寒い、まさかこいつの態度のせいだったりするのだろうか?
「いやいや、そんな訳はないか」
「何がよ」
「いや、ただの独り言だ気にしないでくれ、ところでお前さん、自分のことを『ただの嫌われ者』だといったが、お前さんも知ってる通り、この地底にいるやつは皆そんなのばかりだ。そんな訳で、それじゃあ自己紹介にもなってない、ちなみに私は鬼の星熊勇儀だ」
「鬼? ああ、だから貴方は私を恐れないのかしら」
さめた表情がさらに冷たさを増したように感じた。
「私は〝白に閉ざすもの〟」
彼女がそう名乗ったとたんあたり一面が一瞬で白く塗りつぶされた。
そして次に身体の芯まで凍りつきそうな冷気があたりを支配する。
「これは、雪か? お前さんは雪女か何かか?」
「似たようなものよ、ところで貴方は何でそんなに嬉しそうな顔をしてるのかしら? 寒くて凍えそうで嫌にならない?」
どこか投げやりな口調のその問いに私は笑顔で答える。
「何で嬉しそうなのかだって? もう永いこと寒さも暑さも味わってなかったからねぇ、この雪の……いや、この白い世界の感覚はまさに冬の感覚だ。久方ぶりに四季の一つの感覚を味わえているのだから、そりゃ嬉しくもなる」
そう答えた後、私は手にしていた酒を煽ってみる。
「美味い」
冷えた身体を酒が熱くする。この感覚、この味が『冬の酒』だと思い出した私は嬉しくなってさらに飲む。
ふと彼女のほうを見てみると、そんな私の様子を彼女はきょとんとした顔で見つめていた。だから私は彼女に向かって杯を差し出し。
「お前さんもどうだ?」
とすすめてみる。
彼女は少しの間の後、杯を受け取り、私が注いだ酒を飲んだ。そして私たちはそのままなし崩し的に酒を飲み交わし始めた。
「そういえば、お前さん結局名はなんていうんだ? さっきのは名前じゃないだろう?」
「さっきのも一応ちゃんとした名前なんだけど、レティ、レティ・ホワイトロックよ」
「ホワイトロック……なるほど、確かに〝白〟と〝閉じる〟か」
「そういうことよ、ところで、結局なんで酒が不味くなったり美味しくなったりしたのか私には良く分からないのだけど?」
私はどんな時の酒が美味い酒かを答え、さっきまでの酒が不味く感じてたのは、四季を感じて酒を味わいたいのに、ここじゃそれが出来ないから欲求不満みたいなものだと答えた。
彼女は私の答えに「ふうん」と納得したのかしてないのか分からないような顔で頷きながら。
「冬なんて寒いだけで嫌じゃないの? 永いこと四季の感覚を味わえていないから飢えてるだけで、普通に暮らしてたら絶対に嬉しかったりはしないはずよ」
私は彼女の言葉を「いやいやいや」と首を横に振って否定する。
「そりゃあ、冬が嫌いなものもいるだろうが好きなものだっている。 冬にだって咲く花があるように冬を待ってるものはどこかに必ず居るもんだ」
「そうかしら?」
「そうさ、少なくとも私は冬を待ってる」
「そう……」
ふと彼女の顔を見てみると酒が回ってきているのか、真っ白だった肌に薄紅がさし、どこか嬉しげに微笑んでいるように見えた。
やがて用意していた酒が尽きお開きとなり別れるとき、彼女は何故か「ありがとう」と言って去っていった。
何がありがとうなのか良く分からないまま、それっきり私は彼女の姿を見ていない、ただ――。
「今日はやけに冷えるわね」
「ですね」
「今までこんなことなかったのにねぇ」
そんな声があちらこちらで聞こえる中、誰かがそれに気づき、そしてそれに続くようにしてみんながみんな上を見上げた。
「……雪?」
「え、何で地底に雪が?」
どこからともなく降ってくる白い粉、それが紛れもない雪なのだと気づいた地底のみなは驚きつつも久しぶりの〝冬〟の感覚に私と同じように嬉しそうな顔をしていた。
それ以降、冬になり雪が降り始めるとお祭りを始めるのがいつしか地底の慣わしになり、暦が冬に近づくとそわそわしながら雪はまだかと上を見上げるものたちが多くなった。
(なあ、私の言ったとおりだろ?)
私は、そんな言葉を誰に呟くでもなく胸の中でそっと呟くのだった。
四季の中で生きる日本人の業みたいなもんですかね。結構最近までレティさんは元気だったけど。
地三面の雪が、この話の経緯で降っていたりしたのだったららいいなぁ。
優しく、風情の女性たちですなぁ……