私、橙は八雲紫様の式の式であり、具体的には八雲藍様の式神である。
今日は藍様に呼び出され、私は今、彼女の結界修復作業に同行している。
別に、私は式であるから、仕事内容を藍様にプログラミングして頂ければ、彼女直々に教えを請う必要は無い。
けれども彼女は、同行せよと私に命じた。
いわゆる、上司と部下のコミュニケーションのつもりかもしれない。
藍様の上司はまったく部下に歩み寄らないから、それが反面教師となっているのかも、と私は内心思った。
「次は、山付近……一目見て、緩みまくっているな。紫様の気まぐれか、それとも山の妖怪連中が火遊びしているのやら…」
藍様がそう呟いた。
私は一目では分からなかったが、なるほど幻想郷の要たる結界に綻びが生じているようにも見える。
「火遊び、ですか」
と私は訊いてみた。
「ああ…まあ、そんな気がするというだけだ。本当にまずい事になるなら紫様が黙ってないさ。気にする事はない」
藍様の言葉は難解である。ただし、紫様に比べれば、まだ理解は及ぶ。
火遊びというのは、きっと言葉通りの火遊びでは無いのだろう。
山火事を引き起こすようなお馬鹿さんが妖怪の山に居る筈もないし。
なるほど、と私は分かったような顔して頷いておいた。
しばらく後。
私は暇していた。
というのも、藍様のお仕事されるのをひたすら見て学ぶだけだからである。
手足をずっと動かさないというのは、これは私みたいな低級の妖獣にとっては、案外どうしようもない気分になる。
ニャアアと叫んで野山を駆けずり回りたくなる。
(これだから化け猫あがりは)と、私は心の中で呟いた。
藍様の金色の尻尾が羨ましくなって、私は彼女を見ていられない気分になって、ちょいと目を逸らした。
青空が目に映る。
白い雲が過ぎ去っていくのが見えた。雲は妖怪も人間も、結界も、何もかもについて無頓着に、ただ流れていくようだった。
「さて、そろそろ終い…あ?」
藍様が、珍しく素っ頓狂な声を上げた。
私は彼女の手元に目を戻して、
「あ?」
私も同じような声を出してしまった。
一体どうしたことか。
空間がグラついているのだ。
藍様が叫んで「橙!」、気づくと私と藍様は足元に発生した結界の隙間に取り込まれていて、
「藍様、これは――!?」
歪んでゆく景色の中、青空と、それによく似た藍色の衣だけが、私の視界に映っていた。
さて、次の瞬間である。
どぼん、だとか、ばしゃん、だとか、そんな表現は生ぬるいダイビングも世の中に存在するのだと、私は確信した。
ズドンガボボボと忌まわしい水音と共に、私は水中に投げ出されていたのだ。
「あばばば、ごぼがぼ」
私というのはそもそも水が苦手である。猫だし。
その上、式神は水に弱いと相場が決まっている。
つまり水は天敵である。
私は泳げない。
「げろげろげろ」
水を吐きながら必死で手足をばたつかせる。
ざぶーん
大きな波に身体がさらわれ、
「……うう……」
どうにかこうにか、砂のある所に私は着いた。
水際から離れて立ち上がり、私は辺りを見回した。
藍様も、近くにいらっしゃる筈だと思ったのだ。私と同じく、結界の歪みに取り込まれたようだったから。
「あばばば、ごぼがぼ」
居た。
「ら、藍様ー!?」
私の尊敬する藍様とて、式神である事に変わりはないらしかった。
彼女も手足をばたつかせ、波に飲まれ、ぼろ雑巾のように陸に打ち上げられた。
「……う、うう、橙…」
くた、と藍様は仰向けに倒れこんだ。
介抱して差し上げようかと思ったが、藍様は手で「いい、いい」と私を制されたのでやめておいた。
辺りを見渡してみる。
空が、私の見たことのない色をしている。
深い、濃い青。
確か…井戸が高いか、低いか…どっちだったか忘れたが、とにかく、空の色には井戸が関係していると聞いたことがある。
井戸には深い浅い以外の評価方法があるらしい。こんな事ならちゃんと調べておくべきだったか。
話が逸れた。
それから、一面、空の彼方にゆるやかな曲線が見える。
私は、それを書物だかで読んだことがあるように思えた。
「……『水平線』……?」
それはそういう名前だったか。
「…『海』?」
ざざーん。
ざーん。
波音が、静かに響き渡っていた。
藍様のくしゃみと私のくしゃみも響いた。う、寒い。
パチパチと静かに音がする。
「やはり、ここは外の世界なのですか?」
やや日も暮れ、私と藍様は焚き火して座っていた。
「ああ。九分九厘間違いないな」
私の問いにそう頷き、藍様は遠くに目をやった。
私もそっちを見てみる。
さえぎる物一つない水平線。響く波音。
海。
幻想郷には存在しないもの。
「しかし、何でまたこんな事に…」
結界の外。幻想を否定した世界。
何でまた、私たちはこんな所に居るのだろう。
「……さあな」
藍様には見当がついているのか、いないのか。
私には分からないが、既に彼女は落ち着き払っていた。
「ただ一つ言えるのは、橙」
「はい」
「私たちはしばらく待機すべきだということだ」
「待機、ですか」
「うむ。…実はだね、情けないことに、」
「はあ」
私の相槌に、藍様は続けて言う。
「私は濡れた」
「私もびしょ濡れでした」
「海水でな」
「はい、海水で」
「さっきまで服を干してたもんな。…で、だ。剥がれてしまったんだ、私の式が」
「私もですね」
「うむ」
水に濡れると式神は、憑いている式が外れてしまう。
藍様も同じで…うん?
「つまりだな、私は今、結界・境界を弄れない。それは紫様に頂いた力だからだ」
「……待つしかない、と」
「……うむ」
私たちは、そうそう幻想郷には帰りづらいようだ。
紫様の助けを待つしかないとは。あの紫様の。
「藍様」
「何だい」
「砂浜にSOSって描きましょうか、大きく」
「……ああ、そうだな。暇だしな、そうしようか」
藍様は、どうにも疲れた顔をされていた。
多分私も同じだったろうな、と思う。
一日経った。
「空飛んでどっか行きませんか、藍様ー」
「あー空なー。北にむちゃくちゃ飛べば多分日本だぞー」
私と藍様は浜に寝転んでいた。
どうもここは小さな無人島といった所のようで、ぶっちゃけ私たちは暇を持て余していた。
「やー、人間の居るとこはヤです」
「私もだなー」
妖怪を恐れぬ人間なぞ、会いたくも無い。
いや、恐れないだけの人間なら幻想郷にも数人居るが。
外の世界の人間は違うという。
妖怪を恐れないばかりか、妖怪を見ないようになってしまったという。
まるで私たちなど最初から居なかったみたいに、私たちの存在などはなから幻だったという風に、忘れ去ってしまったというのだ。
…多分彼らに私が会えば、私はきっと水の中に居るような心地がするに違いなかった。
いくら手足をばたつかせようとも、まるで効果は無く、声も届かず。
寂しい気持ちになるのは抑えようが無いと思ったのだ。
「暇ですね」
「暇だな」
私たちはごろりと寝返りをうった。
二日経った。
「新しいスペルカードだぞー。ほれほれー」
「きゃー、怖いー。藍さま藍さま、それ何てスペルですか?」
「お、そうだな。… ― 椰子実『プリンセス孤島』― とか」
「だっせぇ!」
「はははは、ださいな、確かにな。よーし橙そこになおれ」
「きゃー怖いー捕まえてごらんなさーい」
私はダッシュで逃げた。椰子の実が連続で正確に自機狙いで飛んできた。
砂浜に大穴が開き、黒々とした深淵が次々に生まれていく。
「よーし橙、あの夕日に向かって走るんだ!」
「はい藍さま!うおおー」
私と藍さまは一緒に走った。島は狭いので私たちはすぐに水際に達し、そのままばしゃばしゃと海に足を踏み入れた。
水に浸かると私は力が抜けるのを感じた。
藍さまを見ると、彼女の尻尾はだらんと垂れ下がってしまっていた。
私の尻尾も同じだった。
「出るか」
「はい」
私と藍さまはうなだれて砂浜に戻った。
妖獣の我が身がうらめしい。
「…暇ですね」
「…暇だな」
三角座りでそう呟き合った。
三日経った。
「藍さま、私思ったんですがもう服いらなくね!」
「だよな!私も思った!」
「脱ぎますか!」
「脱ごうか!」
ぽーん
ぽーん
服が宙に舞う。
それからそのまま私は猫の姿をとった。
人型をとる必要性も感じられなかった。
藍さまを見るに、彼女も同じようで、金色の毛並みつややかな九尾狐のお姿に戻っていた。
そのまま二人して座り込んだ。
しばらくそのまま、海と空の青いのを眺めながら、私たちは黙っていた。
「藍様」
「何だ、橙」
「こんな時だから言う、っていうのもアレなんですが」
「?」
私は藍様のお顔を見上げた。
彼女は獣の姿をとっていても気高く見えた。
「私もいつか、藍様のように……あ、いや、やっぱ何でもないです。忘れてください」
…私は『私もいつか藍様のようになれるのでしょうか?』と、訊こうと思ったのだ。
でもそれを言おうとして、やめた。
私は藍様ほど賢くないし、殿方一人誑かしたこともない。妖力も弱い。
そんなこと、訊いてみるのはおこがましいように思ったのだ。
「…橙」
「は、はい?」
自分の考えに沈みかけていた。声を掛けられ、ちょっと慌てる。
「『青は藍より出でて藍より青し』というのを知っているか」
「青は…?いえ、存じません」
「青は藍より出でて藍より青し。青の染料は藍から取れるんだ。転じて、弟子が努力し、ついには師を越えることを言う」
「…はあ」
藍様の言いたいことがよく分からない。
「私はこの言葉が嫌いでね。青が藍より上等だと誰が決めた。藍良いじゃないか、藍」
どうも彼女は自身のお名前が嫌いではないらしい。
「だからな、私はこの言葉を曲解することにしたんだ」
「曲解、ですか」
「そう。つまり、青は、藍よりも青い。そして藍色は、青よりも『藍い』と」
「…。」
「良いじゃないか、青も藍も、どっちも、と」
そう言って、藍様は私の頭に前足を乗せた。
「あと、橙色も、な」
どうも撫でているつもりらしい。
(…なんだ)
私は何も言えなかった。
なんのことはない、最初から藍様は、私の言いたい事なぞお見通しだったのだ。
(橙、か)
私は青くなれるだろうか。または、橙くなれるだろうか。
何となく眩しくなってしまって、私はしばらく、藍様と目を合わせることが出来ずにいたのだった。
「あの、お邪魔して申し訳ないんですけど、貴方達」
突然、後ろから声がした。
「?」
私と藍さまが振り返ると、そこには私と藍さまが着ていた服が人の形で突っ立っていた。
…いや、その人の形は私と藍さまの服をはねのけた。
つまり、私達が放り投げた服は、その人影に引っ掛かっていたらしい。
勿論、ここに来てくださるのは一人しか候補がいない。
「ゆ、紫様!」
八雲紫様。
しかし何か様子が変…というか、威圧感があるというか…。
つまり怒ってらっしゃる。
「藍、あなた、また私のプログラム通りに動かなかったみたいじゃない。誰が、結界管理に助手なんか付けていいと言ったのかしら?」
藍さまは冷や汗している。
「何?ああ、その子に学ばせる為?ほお、勿論、幻想と現の境界が並の妖怪にとって安全でないことぐらい、十分理解した上で連れて行ったのよね?」
藍さまはこうべを垂れた。
私も一緒に紫様に謝った。
「…とりあえず、」
紫様は軽く息をついた。
「服を着なさい。話はそれからです」
お尻二百叩きというのは痛い。
ことに、大妖怪八雲紫様直々のお尻ペンペンというのはとても痛い。痛かった。
ちなみに藍さまは九百叩きされたという。おいたわしや。
まあ、逆に言えば、それだけで済んだ。
それだけで外の世界を(数日とはいえ)見られたのだから、まあ、安いものだ、と思えなくも無い。
「…ふむ」
さて、ここはマヨヒガ。私の住処である。
珍しく私は筆を持っていた。
「微妙な曲線、水平線。波打つ水面。…あとー、雲、と」
独り言を呟きながら筆を走らせていく。思い出を頼りに、絵を描いてゆく。
…人里に降りて買ってきた顔料が、そばに置いてある。
夜の海の藍色。
眩しい太陽の下の海、その青色。
どう使おうか、まだ決めていないけれど、橙色も勿論、揃えておいた。
いつか使えるだろうか。使えるといいな。
そんな事を、私は思っているのであった。僭越ながら。
とある後日。
八雲藍は、八雲紫と話をしていた。
「あの、助けて頂いてアレなんですが紫様、あの結界の歪み……あれはその、偶発的なものでは無いと思うんですが」
そう藍に問われ、紫はにぱ、と微笑んだ。
「確かに、事故にしては出来すぎね。妖怪が二人も、突然外の世界に出られるなんて」
「…。」
藍は不快そうな顔をした。お尻が痛むのだろうか。
紫は楽しそうに、続けて言う。
「ね、でも、たまには休暇も良いでしょう。成長のきっかけになる事もある」
「休暇したような気がしないのですが。私も、たぶん橙も」
「誰の休暇とは言ってないわ」
藍はため息をついた。
反して、その表情は妙に明るくもあったが。
今日は藍様に呼び出され、私は今、彼女の結界修復作業に同行している。
別に、私は式であるから、仕事内容を藍様にプログラミングして頂ければ、彼女直々に教えを請う必要は無い。
けれども彼女は、同行せよと私に命じた。
いわゆる、上司と部下のコミュニケーションのつもりかもしれない。
藍様の上司はまったく部下に歩み寄らないから、それが反面教師となっているのかも、と私は内心思った。
「次は、山付近……一目見て、緩みまくっているな。紫様の気まぐれか、それとも山の妖怪連中が火遊びしているのやら…」
藍様がそう呟いた。
私は一目では分からなかったが、なるほど幻想郷の要たる結界に綻びが生じているようにも見える。
「火遊び、ですか」
と私は訊いてみた。
「ああ…まあ、そんな気がするというだけだ。本当にまずい事になるなら紫様が黙ってないさ。気にする事はない」
藍様の言葉は難解である。ただし、紫様に比べれば、まだ理解は及ぶ。
火遊びというのは、きっと言葉通りの火遊びでは無いのだろう。
山火事を引き起こすようなお馬鹿さんが妖怪の山に居る筈もないし。
なるほど、と私は分かったような顔して頷いておいた。
しばらく後。
私は暇していた。
というのも、藍様のお仕事されるのをひたすら見て学ぶだけだからである。
手足をずっと動かさないというのは、これは私みたいな低級の妖獣にとっては、案外どうしようもない気分になる。
ニャアアと叫んで野山を駆けずり回りたくなる。
(これだから化け猫あがりは)と、私は心の中で呟いた。
藍様の金色の尻尾が羨ましくなって、私は彼女を見ていられない気分になって、ちょいと目を逸らした。
青空が目に映る。
白い雲が過ぎ去っていくのが見えた。雲は妖怪も人間も、結界も、何もかもについて無頓着に、ただ流れていくようだった。
「さて、そろそろ終い…あ?」
藍様が、珍しく素っ頓狂な声を上げた。
私は彼女の手元に目を戻して、
「あ?」
私も同じような声を出してしまった。
一体どうしたことか。
空間がグラついているのだ。
藍様が叫んで「橙!」、気づくと私と藍様は足元に発生した結界の隙間に取り込まれていて、
「藍様、これは――!?」
歪んでゆく景色の中、青空と、それによく似た藍色の衣だけが、私の視界に映っていた。
さて、次の瞬間である。
どぼん、だとか、ばしゃん、だとか、そんな表現は生ぬるいダイビングも世の中に存在するのだと、私は確信した。
ズドンガボボボと忌まわしい水音と共に、私は水中に投げ出されていたのだ。
「あばばば、ごぼがぼ」
私というのはそもそも水が苦手である。猫だし。
その上、式神は水に弱いと相場が決まっている。
つまり水は天敵である。
私は泳げない。
「げろげろげろ」
水を吐きながら必死で手足をばたつかせる。
ざぶーん
大きな波に身体がさらわれ、
「……うう……」
どうにかこうにか、砂のある所に私は着いた。
水際から離れて立ち上がり、私は辺りを見回した。
藍様も、近くにいらっしゃる筈だと思ったのだ。私と同じく、結界の歪みに取り込まれたようだったから。
「あばばば、ごぼがぼ」
居た。
「ら、藍様ー!?」
私の尊敬する藍様とて、式神である事に変わりはないらしかった。
彼女も手足をばたつかせ、波に飲まれ、ぼろ雑巾のように陸に打ち上げられた。
「……う、うう、橙…」
くた、と藍様は仰向けに倒れこんだ。
介抱して差し上げようかと思ったが、藍様は手で「いい、いい」と私を制されたのでやめておいた。
辺りを見渡してみる。
空が、私の見たことのない色をしている。
深い、濃い青。
確か…井戸が高いか、低いか…どっちだったか忘れたが、とにかく、空の色には井戸が関係していると聞いたことがある。
井戸には深い浅い以外の評価方法があるらしい。こんな事ならちゃんと調べておくべきだったか。
話が逸れた。
それから、一面、空の彼方にゆるやかな曲線が見える。
私は、それを書物だかで読んだことがあるように思えた。
「……『水平線』……?」
それはそういう名前だったか。
「…『海』?」
ざざーん。
ざーん。
波音が、静かに響き渡っていた。
藍様のくしゃみと私のくしゃみも響いた。う、寒い。
パチパチと静かに音がする。
「やはり、ここは外の世界なのですか?」
やや日も暮れ、私と藍様は焚き火して座っていた。
「ああ。九分九厘間違いないな」
私の問いにそう頷き、藍様は遠くに目をやった。
私もそっちを見てみる。
さえぎる物一つない水平線。響く波音。
海。
幻想郷には存在しないもの。
「しかし、何でまたこんな事に…」
結界の外。幻想を否定した世界。
何でまた、私たちはこんな所に居るのだろう。
「……さあな」
藍様には見当がついているのか、いないのか。
私には分からないが、既に彼女は落ち着き払っていた。
「ただ一つ言えるのは、橙」
「はい」
「私たちはしばらく待機すべきだということだ」
「待機、ですか」
「うむ。…実はだね、情けないことに、」
「はあ」
私の相槌に、藍様は続けて言う。
「私は濡れた」
「私もびしょ濡れでした」
「海水でな」
「はい、海水で」
「さっきまで服を干してたもんな。…で、だ。剥がれてしまったんだ、私の式が」
「私もですね」
「うむ」
水に濡れると式神は、憑いている式が外れてしまう。
藍様も同じで…うん?
「つまりだな、私は今、結界・境界を弄れない。それは紫様に頂いた力だからだ」
「……待つしかない、と」
「……うむ」
私たちは、そうそう幻想郷には帰りづらいようだ。
紫様の助けを待つしかないとは。あの紫様の。
「藍様」
「何だい」
「砂浜にSOSって描きましょうか、大きく」
「……ああ、そうだな。暇だしな、そうしようか」
藍様は、どうにも疲れた顔をされていた。
多分私も同じだったろうな、と思う。
一日経った。
「空飛んでどっか行きませんか、藍様ー」
「あー空なー。北にむちゃくちゃ飛べば多分日本だぞー」
私と藍様は浜に寝転んでいた。
どうもここは小さな無人島といった所のようで、ぶっちゃけ私たちは暇を持て余していた。
「やー、人間の居るとこはヤです」
「私もだなー」
妖怪を恐れぬ人間なぞ、会いたくも無い。
いや、恐れないだけの人間なら幻想郷にも数人居るが。
外の世界の人間は違うという。
妖怪を恐れないばかりか、妖怪を見ないようになってしまったという。
まるで私たちなど最初から居なかったみたいに、私たちの存在などはなから幻だったという風に、忘れ去ってしまったというのだ。
…多分彼らに私が会えば、私はきっと水の中に居るような心地がするに違いなかった。
いくら手足をばたつかせようとも、まるで効果は無く、声も届かず。
寂しい気持ちになるのは抑えようが無いと思ったのだ。
「暇ですね」
「暇だな」
私たちはごろりと寝返りをうった。
二日経った。
「新しいスペルカードだぞー。ほれほれー」
「きゃー、怖いー。藍さま藍さま、それ何てスペルですか?」
「お、そうだな。… ― 椰子実『プリンセス孤島』― とか」
「だっせぇ!」
「はははは、ださいな、確かにな。よーし橙そこになおれ」
「きゃー怖いー捕まえてごらんなさーい」
私はダッシュで逃げた。椰子の実が連続で正確に自機狙いで飛んできた。
砂浜に大穴が開き、黒々とした深淵が次々に生まれていく。
「よーし橙、あの夕日に向かって走るんだ!」
「はい藍さま!うおおー」
私と藍さまは一緒に走った。島は狭いので私たちはすぐに水際に達し、そのままばしゃばしゃと海に足を踏み入れた。
水に浸かると私は力が抜けるのを感じた。
藍さまを見ると、彼女の尻尾はだらんと垂れ下がってしまっていた。
私の尻尾も同じだった。
「出るか」
「はい」
私と藍さまはうなだれて砂浜に戻った。
妖獣の我が身がうらめしい。
「…暇ですね」
「…暇だな」
三角座りでそう呟き合った。
三日経った。
「藍さま、私思ったんですがもう服いらなくね!」
「だよな!私も思った!」
「脱ぎますか!」
「脱ごうか!」
ぽーん
ぽーん
服が宙に舞う。
それからそのまま私は猫の姿をとった。
人型をとる必要性も感じられなかった。
藍さまを見るに、彼女も同じようで、金色の毛並みつややかな九尾狐のお姿に戻っていた。
そのまま二人して座り込んだ。
しばらくそのまま、海と空の青いのを眺めながら、私たちは黙っていた。
「藍様」
「何だ、橙」
「こんな時だから言う、っていうのもアレなんですが」
「?」
私は藍様のお顔を見上げた。
彼女は獣の姿をとっていても気高く見えた。
「私もいつか、藍様のように……あ、いや、やっぱ何でもないです。忘れてください」
…私は『私もいつか藍様のようになれるのでしょうか?』と、訊こうと思ったのだ。
でもそれを言おうとして、やめた。
私は藍様ほど賢くないし、殿方一人誑かしたこともない。妖力も弱い。
そんなこと、訊いてみるのはおこがましいように思ったのだ。
「…橙」
「は、はい?」
自分の考えに沈みかけていた。声を掛けられ、ちょっと慌てる。
「『青は藍より出でて藍より青し』というのを知っているか」
「青は…?いえ、存じません」
「青は藍より出でて藍より青し。青の染料は藍から取れるんだ。転じて、弟子が努力し、ついには師を越えることを言う」
「…はあ」
藍様の言いたいことがよく分からない。
「私はこの言葉が嫌いでね。青が藍より上等だと誰が決めた。藍良いじゃないか、藍」
どうも彼女は自身のお名前が嫌いではないらしい。
「だからな、私はこの言葉を曲解することにしたんだ」
「曲解、ですか」
「そう。つまり、青は、藍よりも青い。そして藍色は、青よりも『藍い』と」
「…。」
「良いじゃないか、青も藍も、どっちも、と」
そう言って、藍様は私の頭に前足を乗せた。
「あと、橙色も、な」
どうも撫でているつもりらしい。
(…なんだ)
私は何も言えなかった。
なんのことはない、最初から藍様は、私の言いたい事なぞお見通しだったのだ。
(橙、か)
私は青くなれるだろうか。または、橙くなれるだろうか。
何となく眩しくなってしまって、私はしばらく、藍様と目を合わせることが出来ずにいたのだった。
「あの、お邪魔して申し訳ないんですけど、貴方達」
突然、後ろから声がした。
「?」
私と藍さまが振り返ると、そこには私と藍さまが着ていた服が人の形で突っ立っていた。
…いや、その人の形は私と藍さまの服をはねのけた。
つまり、私達が放り投げた服は、その人影に引っ掛かっていたらしい。
勿論、ここに来てくださるのは一人しか候補がいない。
「ゆ、紫様!」
八雲紫様。
しかし何か様子が変…というか、威圧感があるというか…。
つまり怒ってらっしゃる。
「藍、あなた、また私のプログラム通りに動かなかったみたいじゃない。誰が、結界管理に助手なんか付けていいと言ったのかしら?」
藍さまは冷や汗している。
「何?ああ、その子に学ばせる為?ほお、勿論、幻想と現の境界が並の妖怪にとって安全でないことぐらい、十分理解した上で連れて行ったのよね?」
藍さまはこうべを垂れた。
私も一緒に紫様に謝った。
「…とりあえず、」
紫様は軽く息をついた。
「服を着なさい。話はそれからです」
お尻二百叩きというのは痛い。
ことに、大妖怪八雲紫様直々のお尻ペンペンというのはとても痛い。痛かった。
ちなみに藍さまは九百叩きされたという。おいたわしや。
まあ、逆に言えば、それだけで済んだ。
それだけで外の世界を(数日とはいえ)見られたのだから、まあ、安いものだ、と思えなくも無い。
「…ふむ」
さて、ここはマヨヒガ。私の住処である。
珍しく私は筆を持っていた。
「微妙な曲線、水平線。波打つ水面。…あとー、雲、と」
独り言を呟きながら筆を走らせていく。思い出を頼りに、絵を描いてゆく。
…人里に降りて買ってきた顔料が、そばに置いてある。
夜の海の藍色。
眩しい太陽の下の海、その青色。
どう使おうか、まだ決めていないけれど、橙色も勿論、揃えておいた。
いつか使えるだろうか。使えるといいな。
そんな事を、私は思っているのであった。僭越ながら。
とある後日。
八雲藍は、八雲紫と話をしていた。
「あの、助けて頂いてアレなんですが紫様、あの結界の歪み……あれはその、偶発的なものでは無いと思うんですが」
そう藍に問われ、紫はにぱ、と微笑んだ。
「確かに、事故にしては出来すぎね。妖怪が二人も、突然外の世界に出られるなんて」
「…。」
藍は不快そうな顔をした。お尻が痛むのだろうか。
紫は楽しそうに、続けて言う。
「ね、でも、たまには休暇も良いでしょう。成長のきっかけになる事もある」
「休暇したような気がしないのですが。私も、たぶん橙も」
「誰の休暇とは言ってないわ」
藍はため息をついた。
反して、その表情は妙に明るくもあったが。
何か、後をひくというか、癖になりそうというか。
うん、不思議な食感の物語でした。
ただ、ちょっと橙の内面描写に違和感が。
緯度を井戸と勘違いしていたり、その他の描写からも、まだまだ幼い雰囲気なのに、
モノローグは随分大人びていると言うか……
あとは、二人が飛ばされた孤島の空や海、砂浜の匂いというか空気が、文章からもっと
感じられればなぁと。それこそ『愛より青い海』のように。
そうすれば私にとって、「青は藍より出でて藍より青し」の台詞がさらに印象深くなった気がします。
色々好き勝手なコメントを載せて申し訳ありませんでした。
良かったです。
……はずなのですが。全くすっかり、曲を忘れていたと後で気付くほど、それを口に出したくなる程素直な気分で和ませて頂きました。
二人が叩かれ損じゃ……とも思いましたが、思えば甘さだけではなく、しつけは必要なのですよね。
ゆかりん、橙に反面教師とか推測されちゃってましたが、三者三様の良さをなんだかしみじみと感じました。
きっと橙も、良い色になるに違いない。
ゆかりんの配慮が優しいけどとてもわかりにくくて、彼女らしいと思いました。
全体の雰囲気もとても自由な感じで楽しませてもらいました。