退屈は人を殺せる。
ならば死神のお迎えを暴力でもてなして気持ちよく帰っていただくことをライフワークとしている天人はどうか。
答えは否。いくらなんでも、天人はそんな概念めいたものに殺されるようなやわな種族ではない。というか別に人だって本当に殺されるわけではないだろう。しかし、しかしである。
「あー……ひまー……」
だらけきった目の前の不良天人を見ていると、こう思わずにはいられないのである。
退屈は人を、天人すらも堕落させる、と。
うぁーっと、謎のうめき声を発しながら、自室の豪華な天窓付きベッドの上でごろごろする総領娘様。さて、この方は一応でも天人の一人であったはずだが、私の記憶違いだっただろうか。
「暇だわ、衣玖」
「総領娘様」
「何か面白いこと起こらないかなあ。なんていうかこう、ドーンと派手なの」
「総領娘様」
「地震起こすとかしたらまたあのスキマ妖怪に怒られるだろうし……」
「総領娘様」
「あ、でも、あいつと闘うのも立派な暇つぶしになるかもしれないわね。というわけでもっかい地震でも……」
「失礼します」
指を頭上に掲げて電流を放射。目標はもちろん、
「……痛いじゃない」
「そうですか? 総領娘様でしたらこの程度なんでもないと思いましたが」
「いや、さすがの私もいきなりはね」
「事前に予告はさせてもらいました。預言者らしく」
「うん、そういう問題かな? まあいいや。で、何?」
私の放った電撃にもまったく堪えた様子はなく、気だるげな目を向ける総領娘様。そこに天人の威厳はない。元々だろなんてことは言わない約束である。
「いえ、大したことではないのですが」
「うん」
「なぜ、私がここに呼ばれているのでしょうか」
別に私は比那名居家のお付きというわけではない。私の主はあくまで龍神様である。だから総領娘様に呼ばれる筋合いもなければ、それに私が応える義務もないのだ。それでも馳せ参じる律儀な私。決して暇なわけではない。
「んー。特に深い理由はないんだけど。強いて言えば、呼べば来てくれそうな知り合いってことで真っ先に思いついたのが、衣玖だったってわけよ」
まあそんなところだとは思った。
総領娘様が退屈しのぎに起こした異変以来、私たちの間には妙な縁が出来てしまった。有り体に言うと、自分で言うのもなんだが気に入られたということだ。
この比那名居家はいわゆる不良のレッテルを張られているとはいえ、歴とした天人の一族。そんな家の娘であるところの彼女に気に入られるということは、見方によっては喜ばしく、誇らしいことなのかもしれない。が。
「ふむ、なるほど承知。それで、ご用はなんでございましょう。正直呼ばれてからというものの、嫌な予感しかしないのですが」
「む。迷惑だっていうの?」
「迷惑というか、また七面倒くさいことになりそうだな、と」
「それ本人目の前にして言うことかな?」
「嘘はつきたくありません。預言者ですし」
私の嘘偽りない誠実な物言いに、総領娘様はなんだか不満そうに、腕を組んでう~んと唸る。そして何かに思い当たったようにふと顔を上げ、
「もしかして衣玖、私のこと嫌いなの?」
グリーンピースを残した人間を捕まえてその好き嫌いを問うのと同じノリで、総領娘様は私に尋ねた。
「そうですね……。グリーンピースは好きでも嫌いでもないですが。そもそも他のものと一緒に口に入るとその存在に気づかないことないですか、あれ」
「は? グリー……?」
「いえいえ総領娘様のことは、決して嫌いなどということは。確かに定期的に厄介事をもたらしてくれる面倒な不良天人ではありますが、人物的にはなかなかどうして、他の天人の皆様とは一線を画す感性をお持ちになっていて、とても魅力に溢れる方だと思っていますよ。もう少しその感性を有意義な方向へ向けていただくとなおよろしいかとも愚考しますが」
「なんか微妙にバカにしてない?」
自らも微妙な表情になりながら首をひねる総領娘様。ふむ。わざわざ三行も使ってまで褒めたというのにご満足いただけなかったのだろうか。
「えーっと、一応忠言しとくわ。正直すぎるのもあんまりいいことじゃないわよ」
「もったいなきお言葉」
「まあ嫌われてないんだったらなんでもいいけどね。で、衣玖」
「はい、なんでしょう」
「暇だわ」
話は振り出しに戻る。たとえ私が総領娘様がもつ規格外の感性を褒めちぎったところで、事態はなにも好転してはいない。その要因には、マッサージと呼ぶことはさすがにはばかれる強さの電流を浴びておきながら、なお暇と言い切る総領娘様の豪胆さが多分に含まれていると思うのだがいかがだろうか。
「と、申されましても」
「だって家にある本は暗記するくらい読んじゃったし、釣りって気分でもないしさー。あれそもそも魚がかかるの待つ時間がすごく退屈じゃない? 待ってる時間がいいんだって言う人もいるけど、私には理解できないわね」
「およそ天人とは思えない物言いですね」
「うっさいわね。太公望がなんぼのもんよ。糸垂らすだけ垂らして何も釣る気がないなんて正気の沙汰じゃないわ」
歴史上の偉人にも喧嘩を売る怖いもの知らずな総領娘様。向かうところ敵ばかりにならないか少々心配になる。
「では歌などはいかがでしょう。天人の方々が歌や踊りをこよなく愛す、雅な心をお持ちになっていることは、下界の誰もが知るところです」
「あー……歌ね……」
歌って踊れるという一昔前のアイドルのようなキャッチフレーズもまた、天人という種族を表す特徴の一つである(決してバカにしているわけではない)。
特に総領娘様のように見た目は可愛らしい娘なら、歌って踊る姿はまさにお茶の間を賑わすアイドルのごとく、大変に映えると思ったのだが。
「あまり反応がよろしくありませんね」
「いや、だってね? 一人で歌っててもなーんかむなしくなっちゃうのよね。踊りもそう」
ごろんと寝返りをうって仰向けになり、顔だけこちらに向けるという、天人どころか少女としてどうなんだと言いたくなる姿勢になった総領娘様。やはりその表情は浮かない。
「ふむ。歌はお嫌いですか?」
私の問いに、総領娘様は目を閉じて眉間にしわを寄せながらうーんと唸り、
「いや、別に嫌いってわけでもないんだけどね。ただね、歌う意味が見いだせないというか」
「そんな引退寸前のアイドルみたいなこと申されましても」
「もう一つ忠言。とりあえずアイドルに謝っときなさい。あんたアイドルにどんなイメージ持ってるのよ」
「歌う意味、ですか……ふむ」
歌にそれほど関心がない私には、そこはそんなに重要なことなのかと問いたくなるような、よくわからない悩みである。裏を返せば歌は、総領娘様の中でそう小さくはないウェイトを占めているのかもしれない。つまり、
「好きなんじゃないですか、歌」
私のストレートな指摘に総領娘様はガバッと起きあがって、
「ん? 好き……そうかなあ。あんまり意識したことなかったけど……んー。うん。んん?」
またまた腕を組んで思索にふける。そして納得したかと思えばまた首をひねる。とりあえず考え事くらい落ち着いて出来ないものか。
「ま、いいや」
思考放棄。それが彼女の聡明な頭脳が導き出した答えらしい。とりあえず五分ほど待った私の貴重な時間の返還を要求したいところである。
「歌も踊りもダメ、ということでしょうか」
「残念ながら」
「残念なのはどちらかというとこちらな気もしますが」
「あー、そんなこというんなら衣玖がなんか面白いことやってよ」
「面白いこと、ですか」
「そうそう。なんかあるでしょ?」
気だるさの中に若干の期待を混ぜた総領娘様の顔を見て、畏れ多いながら思う──青い。
笑いとは、練り上げられた芸と場の空気が見事にかみ合った瞬間もたらされる、一つの奇跡である。総領娘様がやったような、お笑い的にはおよそ最悪のフリから、そんな奇跡がどうして生み出されようか。
「総領娘様」
「おっ、なになに?」
「私の芸を見せるのはやぶさかではありませんが、その前に、不肖ながら笑いと空気の関係についての私の持論を、少し総領娘様にご拝聴いただきたく思います」
「えっ、持論? 笑いの? ええと、衣玖、それってどれくらいかかる?」
「いえ、要点だけですのでそれほど時間はとらせません。おそらく三時間もあれば語れるかと」
「うん、ごめん。私が無理いっちゃったね。だからその話はまた今度にしてくれるかな」
難しい顔をして自らのフリ(掛け言葉)を反省する総領娘様。謙虚な姿勢はいいことだが、語る気満々だったので少し残念ではある。
「ふむ。いい暇つぶしになると思ったのですが」
「いやその、ほら、お笑いの道は厳しそうだからね。暇つぶしなんて中途半端な気持ちで取り組んでいいもんじゃないのよ」
ほう。青いと思ったが、やはりそこは天人比那名居の娘。笑いの知識はなくとも、求道の険しさはしっかり捉えている。
「なるほどおっしゃる通り。さすがは総領娘様。比那名居の名にふさわしい箴言でございます」
「ま、まあね」
得意げに慎ましい大きさの胸をはる総領娘様。褒められたにも関わらず、どこかあせりが見えるのは気のせいであろう。
「しかしお笑い論がダメとなると……いよいよ手段は限られてきますね」
「意外と選択肢少なかったのね。ていうかもうそんなにせっぱ詰まっちゃってるんだ」
「何せここまで一歩も話が進んでませんからね」
「由々しき事態ね」
由々しき事態である。こうなっては仕方がない。できれば用いたくない案ではあったが──
「では総領娘様」
「うん」
「下界に降りてみるのはいかがでしょうか」
下界に降りてみると、辺りはすっかり暗くなっていた。人里の住民、つまり人間はもう眠りについているような時間であるが、しかしここは幻想郷。魔性の月明かりが照らし出す夜を往く、妖怪達の楽園である。それ故に幻想郷の夜を支配するのは、決して静寂などではない。人や草木は眠るかもしれないが、妖怪達にとってはこれからが、自らの存在を大いに主張する時間なのである。
「うーん、夜風が気持ちいいー!」
そんなわけで、妖が跋扈する幻想郷の夜空を私の前方で飛ぶ総領娘様のテンションも、先ほどとは打って変わってうなぎ昇りである。どれくらい上昇しているかというと、ドロワーズをこれでもかと見せつける宙返りを披露してくれるくらいにはハイである。天人でなくともはしたなさすぎる。
「衣玖ー! 遅い遅い!」
満面の笑みをたたえて、後ろ向きで飛びながら私の名を叫ぶ総領娘様。天人である総領娘様は別に夜の魔力の影響を受けるわけではないと思うが、よほど鬱憤がたまっていたのであろう。そのハシャぎっぷりはまさに幻想郷には存在しない砂浜でキャッキャウフフするバカップルの片割れそのもの。要するに見ていて恥ずかしい。まあ楽しそうでなによりではあるのですがね。
「総領娘様、慌てなくとも夜は待ってくれます。そもそも時間制限があるというわけでもありませんし」
下界に降りる前に、彼女の父親である総領様には許可を頂いている。曰く、「天子をよろしく頼む、マジで」。神妙な面もちで私の肩に手をおいてそうおっしゃった総領様の心中やいかに。決して花嫁を送り出す父親のそれではないことは確かであるが。なんにせよ、信頼されているというのは悪い気分ではない。
前方で華麗なテンエイティをキメていた総領娘様は、飛行スピードを落として言葉を返した。
「うん、それもそうね。いやー、最初からこうしていれば良かったのよ。衣玖ったら気づくの遅いんだから」
「ええ、本当に。いやいや私としたことがうっかりさんでしたね」
もちろんいの一番に浮かんだのがこの案であり、いの二番にボツにした案もまた、これだ。
自分を棚に上げて私をからかう総領娘様こと比那名居天子は、歴史が証明する生粋のトラブルメーカーである。以前総領娘様が起こした割とシャレになっていない異変は、有志という名の暇人達によって解決され、後始末には妖怪の賢者まで出てきたこともあって、なんとか事なきを得た。
というわけで、そんな前科をもつ総領娘様を下界にお連れするのはどう考えても面倒の種にしかならないとの判断で、私はもっとも手っとり早い案を破棄した次第である。結局私の力不足によって、第一の案はめでたくもなく再可決されてしまったわけだが。
「ま、結果オーライよ。気にしない気にしない。さーて、どこへ行こうかしら」
目を輝かせて、踊るようにホバーリングする総領娘様。気分の上昇はとどまるところを知らないようだ。
こうなっては仕方がない。とにかく私は、いざというときは総領娘様の歯止めになれるよう、しっかり見守ることとしよう。責任感の女、永江衣玖である。
特に行き先を決めず、総領娘様の気の向くままに幻想郷の空を飛び回っていると、
「……ねえ衣玖。なんか聞こえない?」
総領娘様は何かに気づいたように私に呼びかけた。飛行スピードを緩め、耳を澄ませてみる。
「……本当ですね。これは……歌かしら」
夜の闇を伝わってくるその音は、何かの鳴き声などではなく、リズムと意味を持った言葉で構成されているように聞こえる。幽かにしか聞こえてこないので、ある程度距離は離れているようだが、耳に届けられる音は確かに、歌と呼べるものだった。
「歌……ということは歌っている誰かさんがいるということ! 第一村人発見ね、行ってみましょう!」
そう言うやいなや、総領娘様は笑いをコラえようともせず、的に向かって一直線に飛ぶダーツのごとく、歌の聞こえる方向へと飛んでいった。
「……」
あっと言う間にグリーンピースほどの大きさになって見えなくなる総領娘様。一人おいてけぼりにされた私は、
「……ダーツが幻想郷の位置に刺さったらどうするのかしら」
とりあえずいらぬ心配をしてみた。
総領娘様を追って飛んだ先では、
「いーっぱーいおーっぱーいーぼくーげ・ん・きー」
一人の妖怪がいろんな意味で危ない歌を、先ほどの総領娘様に負けないくらいにご機嫌な様子で口ずさんでいた。
「衣玖、こっちこっち」
妖怪から少し離れた茂みの中で手を振る総領娘様の下に着地する。
「どうやら歌を歌っていたのはあいつみたいね」
「ふむ。あれは……夜雀?」
夜雀と思わしきその少女は、歌を歌いながら屋台車に大きな機材を運んでいる。そして屋台車にかけられたのれんと提灯には「八目鰻」の文字。
「ああ、きっと噂に聞く焼き八目鰻屋さんですね。今は開店の準備中でしょうか」
こんな時間に店を開くということは、おそらく妖怪がこの屋台に来店する客の主要層なのだろう(そうでなかったら余程の物好きな人間ね)。さしずめ妖怪の、妖怪による、妖怪のための赤提灯といったところか。
「ふーん、焼き八目鰻。変わったもの扱ってる屋台ね。それにつけても、変な歌」
「そういうことをいってはなりません。怒られますよ?」
「怒られる? 誰によ」
「いろんな人にです。むしろ私が怒ります」
謹んでお詫び申し上げます。
「衣玖が? なんで? んー、よくわかんないけどまあいいや──八目鰻、八目鰻かあ。うん、お腹も空いてきたしちょうどいいわ。ちょっと行ってみましょ」
ワクワクを百倍にして我パーティーの主役とならんとかなんとか言わんばかりに、足取り軽く屋台のもとへと歩いていく総領娘様。
「ふむ」
普段は時間を持て余した天人の例にもれず、のんびり暢気な生活を送る総領娘様であるが、何かに興味を向けたときの彼女の行動力は目を見張るものがある。あの異変の際にはその行動力が裏目に出て、結果総領娘様は痛い目にあったわけだけれど(あるいはそれも望むところだったのかもしれない)、指向性さえ間違えなければその天人には似つかわしくない彼女特有の性質は、立派な長所となりうる。彼女の父上はその性格に手を焼いているようだが、少なくとも私自身はそう考えている。
そんなわけで、先ほどの総領娘様への称賛も、決して百パーセント冗談や皮肉だったというわけではない。まああの様子では、本人に褒められた自覚はないのでしょうけれどね。
「……案外、大物になったりするのかもしれないわね」
スキップをしかねないほどに浮かれた総領娘様の背中を見ながら、そんなことを言ってみたり。
ちなみに私の予言(趣味)は、割と当たる。
「はしれっ、はしれっ、はしれっ、すすめっ、すすめっ、すすめっ」
忙しそうに動き回りながらもご機嫌そうに、先ほどとは違う歌を歌う夜雀。
それにしても、なぜこうも親近感の湧く選曲ばかりなのか。竜的な意味で。私は竜宮の使いだけど。
「いーそー……うん?」
そろそろ本気で怒られかねない歌を歌うのをやめ、こちらに気づいたように夜雀が顔を向ける。
「こんばんは。いい夜ね」
素敵なよそ行きスマイルを振りまいて挨拶をする総領娘様。
普段はあんなでも、彼女は一応立派な天人、やるときはやるのですよ。やるときが少しばかり少ないだけで。
それでいて禄でもないこと企んでいるときが少しばかり多いだけで。
「あいこんばんは。えーっと、お客さんかな?」
「そ。ここ焼き八目鰻やってるんでしょ? それ食べたいんだけど」
「おーよく来たね、いらっしゃい。今ちょうど準備が終わったとこなのよ。ささ、座って座って」
それでは失礼して、と案内された席に座る。総領娘様と私は屋台のカウンター席に案内されたが、周りの広場と呼べるほどに開けたスペースには、簡素なテーブルとイスがいくつか用意されている。まだ開店したばかりなので客は私たちだけだが、じきに焼き八目鰻の香ばしい匂いと赤提灯の灯りに惹かれた呑んべぇの妖怪たちが集まってきて、幻想郷の夜にふさわしい賑わいを見せるのだろう。
「んじゃお客さん。早速ご注文は……って決まってるか」
「とりあえず焼き八目鰻! 蒲焼きと白焼き一本ずつで!」
「だよねー。そっちのお客さんは?」
「では私も同じ物を」
「あいよ。お酒はどうする?」
「そっちはお任せするわ。とにかくまずは八目鰻よ。衣玖もそれでいいわね?」
「ええ。それでお願いします」
まいどーのかけ声とともに、手際よく調理にかかる夜雀の店主。
「じゃあ衣玖、かんぱーい」
「乾杯」
食前に出された、店主おすすめの焼き八目鰻に合うというお酒で、乾杯の音頭を交わす。アルコールが入る前だというのに、既に総領娘様はご機嫌の極みだ。
「お客さんたち、うちは初めて……だよ、ね?」
「ええそうよ。なんでそんなに自信なさげなのよ」
杯をくいと傾ける総領娘様の問いに、夜雀の店主は鋭い鉤爪の生えた手でいやー、と頭を掻きながら、どこか照れた様子で答えた。
「私ってほら、自分で言うのもなんだけど鳥頭なのよねー。夜雀だけに。せめて常連さんの顔ぐらいは覚えようとは努力してるんだけどね。いやいや間違えてなくてよかったよかった。あ、私はミスティア・ローレライ。ここの店主ね」
よろしくー、と人懐っこそうな笑顔を私たちに向けるミスティアと名乗った夜雀。そんな自己紹介の間にも、調理の作業は澱みなく進められている。
「ミスティアね。私は天子。比那名居家出身の天人よ。で、こっちは私の従者の」
「永江衣玖です。ちなみに従者ではありません、決して」
「そんな倒置法まで使って力いっぱい否定しなくても……」
私のいたって正確な自己紹介に不満げな顔を見せて一気に杯を空にする総領娘様。店主のミスティアはそんな総領娘様と私の顔をマジマジと見比べる。そしてこめかみを人差し指で押さえながらぶつぶつと私たちの名前を唱えたかと思うと、
「天子と衣玖……天子と衣玖ね──おっけー! お客さんたちの顔と名前、ふかくこころにきざみこんだよ!」
ふーっと額の汗を拭い、やりきった感を前面に押し出した表情を見せるミスティア。ちなみに注文の品はまだ完成していない。そしてミスティアの言葉にどこか不安を覚える。私たちの顔と名前合わせて四つ。後から全て思い出せるのだろうか。せめて十個は思い出せる仕様であることを祈るばかりである。
「ふふん、私の名前は覚えておいて損はないわよ」
「ふーん、そうなの?」
「そうよ、何せ私、天界に住む天人なんだから」
「へー。随分と高いところに住んでるんだねえ」
得意げに胸を張る総領娘様と、感心したようにしきりに頷くミスティア。噛み合っているようにみえてまったく噛み合っていないこの光景は、一つの完成された芸の域である。
「ほいお待ちどう。八目鰻の蒲焼きと白焼きだよ」
そんな奇跡を体現している間にも、調理自体はしっかりとされていたようである。
「おお……」
「ほう……」
目の前に出されたのは、タレの香ばしい匂いが食欲をいやがおうにも刺激する蒲焼きと、今すぐにでも箸を入れたくなる、真っ白でいかにもふっくらとしてそうな身をもつ白焼き。
「白焼きはお好みでワサビ醤油をつけてね。そのままで食べてももちろんおいしいけど」
「なるほど。では私は白焼きから。いただきます」
ミスティアからワサビ醤油とお箸を頂戴し、早速箸を入れる。ううむ、想像通りのふっくら加減。
「え、ちょ、私差し置いて食べ始めちゃうの? う、うん、まあいいけどっ。い、いただきます」
なぜか戸惑いと焦りをまじえながら、総領娘様も八目鰻に手をつける。どうやら蒲焼きから召し上がるようだ。
総領娘様はタレで茶色に染められた身を、私はワサビ醤油を少しだけつけた白身を、同時に口に運ぶ。
「……」
「……」
ここは一つ、口に入れた瞬間うま味が口いっぱいに広がるだの、身が口の中でほろほろと崩れて実に心地よい食感だの、料理漫画めいている気の利いたコメントをするのもまた一興だろう。しかし、この世にはそんな美辞麗句を並べ立てるよりも、もっとふさわしい言葉がちゃんと用意されている。
「──美味しい」
そう。それで十分。この幸福感を表すのに、他の言葉はいらない。
「うわ美味しい……美味しいよ衣玖」
「ええ、いや本当に……美味しい」
人間であろうと妖怪であろうと天人であろうと、本当においしいものを口にしたときは、これしか言えない。それほどまでに、見事な焼き八目鰻だった。脂がのっているようにみえて意外とあっさりしているので、自然に一口二口と箸も進む。
「ふふん、どう? うちの焼き八目鰻は。絶品でしょ」
どうだとばかりに胸を張るミスティア。
「うんうん、これは本当に美味しいわ! 下界の妖怪もなかなかやるじゃない!」
「ええ、正直これほどとは……。いや、脱帽です」
「お、おお? そこまで褒められるとは思ってなかったわ。うん、でも喜んでもらえたようでなにより」
褒められてまたご機嫌になったのか、再び歌を口ずさみながら、調理にとりかかるミスティア。私たちが焼き八目鰻を堪能している間にも次第に客は集まってきて、いよいよミスティアの八目鰻屋は幻想郷の夜にふさわしい賑わいを見せ始める。ミスティアも忙しそうだが、それでも楽しげなのは相変わらずである。
「歌がお好きなんですね」
お酒もいい感じに回ってきて、少し気分が良くなった私は、せわしなく手を動かすミスティアにふとそんなことを聞いてみた。ちなみに歌っている曲は、辛そうにしている神様にフランクな感じで謝るという、敬虔なのかどうかよくわからないものだ。どうやら今夜はとことん竜の気分らしい。
「みらくるぜんかいぱわーっと。んー。好きっていうよりもそうだねえ、歌はもはや、私の一部だよね」
「ふむ。自身の一部ですか」
「そうそう。人間を鳥目にするために歌って、楽しい気分を表現するために歌って、悲しいことがあったときは涙を流しながら歌って。それは私にとって、とても当たり前なことなんだよね。歌は私の命っていうか」
なんか今私めっちゃ良いこと言ったね──自分の言葉にご満悦な様子のミスティアを見て思う。
生命の本分が生きることであるように、竜宮の使いの本分が龍神様の言葉を届けることであるように、夜雀にとっては歌うことが、その本分なのだろう。そして彼女は、自分の存在を、ミスティア・ローレライを、その魂を以て歌いあげているのだ。ましてや今は妖怪が己の本分を一番発揮できる時間。歌に熱が帯びるのは至極当然のことである。
「なるほど、なかなかに興味深い話です」
「今のが? ふーん、お客さん変わってるね。まま、そんな難しげな話より、パーッと飲んで食べてよ。
お連れの人見習ってさ」
これはサービスだよ、と空になった杯にお酒を注いでくれるミスティアの言葉に、チラッと隣を見る。
「もぐもぐ」
「……」
「きゅーっ、ぷはぁ! 美味い!」
「……」
「ミスティア、もう一杯おかわり! あと八目鰻の串揚げ一本追加で!」
「総領娘様」
ある意味では総領娘様の有様は正しい。酒の席ではかくあるべし、まさに理想の酔っぱらいを体現しているかのようである。そのハマりようは、あるいはこれが天人の本分なのではないかと慮ってしまうほどである(あながち間違ってもいない気もする)。しかし、
「あなたは一応それなりの身分でいらっしゃるのですから、節度はわきまえたほうがよろしいかと」
「なによー。別にいいじゃない。今日は無礼講よ無礼講。ていうかまた何気に一応とか言ってるし。
まあいいや、飲も飲も」
不機嫌な表情から一転、またおいしそうにお酒を飲み始める。まあ、お酒に呑まれるようなタマでもないでしょうし、この様子だと他のお客さんの迷惑になるようなこともすまい。もう放っておいて、私も素直にこの席を楽しむとしましょうか。
臨機応変の女、永江衣玖である。
というわけで私も残っていた蒲焼きのほうをいただこうとすると、
「歌は命、か」
ふと隣の総領娘様が食事の手を止めて、ポツリとそんなことを漏らした。そしてしばし何か考えていたようだが、すぐに何事もなかったかのようにお酒を飲み始めた。どうでもいいが飲み過ぎである。
「それでお客さんたち、そんな高いところからどうしてわざわざここへ?」
屋台の周りに備え付けられたテーブルは満席になり、ちらほらと立ち飲みの客までいるくらい、満員御礼大盛況のミスティアの屋台。まさに呑んべぇたちの楽園といった様相である。
「ええ、暇を持て余してグダグダになっていた一人の天人の退屈をどうにかするために、ちょっと下界へ降りてみたのです」
「なんでそんなちょっとチクチクするような物言いなのかな。いや、いいんだけどね。本当のことだしね。ていうか今日の私ものすごく心広いね」
「ふーん。高いところってなんか楽しげだけど、退屈なんだ」
普段なかなか接点のない天界という場所に、興味津々といった様子で目を輝かせるミスティア。まるで総領娘様のようだ。いや、この場合総領娘様がミスティアのようだと言った方が正しいのか。あらゆる煩悩を捨て去った天人は、好奇心のような感情にも縁がない、そのはずなのだから。
ミスティアの言葉に総領娘様は頬杖をついて、また不機嫌そうな表情を浮かべながら愚痴を漏らした。
「そうそう。ほんっとうに退屈なところよ。食べ物はまずい桃しかないし、やることといったら釣りするか碁打つか歌って踊るか。いくらなんでも娯楽少なすぎでしょ! おかげで碁とか滅茶苦茶強くなっちゃったわよ!」
そもそも娯楽を求めてる時点で天人としては失格である。この辺りも、比那名居家が不良と評される所以だろう。
しかし総領娘様の碁の腕前は本物である。一度対局に付き合わされたことがあるが、置き石を九つもらっても、手も足も出なかった。一応私もそれなりの腕前があると自負していたが、上には上がいるという言葉の意味をこれでもかと思い知らされたものである。ちょっとだけ悔しかったので強さの秘訣を聞いてみたところ、
「んー。パターン化?」
それは違うとツッコみたかったが、負けた身なので何も言えなかった。
「……あの時ほど納得のいかなかったこともなかなかないわね」
「ん? 何か言った? 衣玖」
「いえ、この世に存在する理不尽について少々思索をば」
「ふうん? ま、いいけど──とにかく! 禄なもんじゃないわよ! あんなところにずっといたら、死神じゃなくて退屈に殺されかねないわ!」
どこかで聞いたような言い回し。お酒の力もあって、総領娘様の繰り出す不満と愚痴はとどまるところを知らない。
「ふーん。でも思う存分歌えるんなら、いいとこだと思うけどねー」
と、ミスティアが総領娘様の杯にお酒を注ぎながら、そんなことを言った。
「……えー? ほんとに何もないところよ?」
「何もなくても、私には歌があるからね。ていうか歌が歌えるんなら、どこであろうと、そこは私にとって楽園だよね」
そりゃ何かあるに越したことはないけどね──そう言ってまた歌を口ずさみだしたミスティア。
そんなご機嫌な彼女を見ると、今の言葉も決して強がりや虚言ではないのだろうと確信できる。
「うーん。わっかんないなーその気持ち。歌ってそんないいものかなあ」
「その辺は私が夜雀だからってのもきっとあるよ。ああ、でもさ」
「うん?」
納得のいかないご様子の総領娘様に、ミスティアは言った。
「誰かに聴いてもらいながら歌う歌は、もうほんと、最ッ高だよね」
赤提灯がほのかに照らし出すその笑顔は、この世で一番素晴らしいものを語るかのように、どこまでも幸せそうで、そして誇らしげであった。それは、天界ではなかなかお目にかかれない表情である。こんな顔するのはそれこそ、天界では総領娘様くらいだ。
そんなミスティアの笑顔を目にした総領娘様は、無言でお酒を飲みながら、また考え事をしだしたようだ。だから飲み過ぎである。
「ん? なにあれ」
物思いにふけっていた総領娘様が、何かに気づいたように声をあげる。指を差した広場の方向には、何やら道具を手に持った妖怪と、その周りを取り囲むように集まりだす屋台の客たち。
「ああ、からおけよ」
「からおけ?」
「そ。外の世界にはなにやら声を大きくする機械があるんだってさ。河童が言うには、まいくっていうらしいんだけど」
そのまいくから延びる線は、これまた機械のようなものにつながっている。それを見るに、そこから増幅された音が出るのだろうか。
「で、それ使って思う存分歌うためのお店があるっていう話を聞いて、そりゃ面白いってことでうちでもサービスの一環として始めたのよ。これが結構評判でさ。このからおけのために来るっていうお客さんもいるくらいよ」
やっぱりなんだかんだ言ってみんな、歌うの好きだよねー、と感慨深げに頷くミスティア。そんなミスティアをよそに、
「総領娘様?」
総領娘様は、歌声と手拍子を賑やかに響かせる群衆を、食い入るように見つめていた。
「え、あ、なに?」
私の呼びかけに、我に返ったようにこちらに振り向く。
「いえ、随分熱心にご覧になっていたものですから」
「ああ、うん。ちょっとね」
あはは、とどこか乾いた笑いを発して、また杯に手を伸ばす。しかし先ほどまでの静けさはどこへやら、総領娘様はどこかそわそわしてて落ち着かないご様子。ふむ。
「総領娘様、もしかして……」
「からおけに興味あるのかな、お客さん」
ミスティアの指摘に、総領娘様はブフッと口に含んでいたお酒を吹き出した。昨今では滅多にお目にかかれないベタベタのリアクションである。ついでにカウンターもベタベタである(うまいこと言った)。
「い、いや、別にそんなに興味があるってわけじゃないのよ? ただこういうサービスって珍しいなーとか、ちょっとだけ楽しそうだなーとか。うん、それだけよ」
「ふむ、なるほど。つまり要約すると『すごく歌いたい』と」
「どんな意訳よ!?」
ビシィと腰の入ったツッコミを放つ総領娘様。ほう、なかなかに見事なツッコミ。先ほどのリアクションといい、青いという評価は再考の必要があるかもしれない。
私が総領娘様を見直していると、ミスティアは何事もなかったようにカウンターを拭くというプロの仕事をみせながら、
「なになにお客さん。それならそうと言ってくれればいいのに。おっけーちょっと待ってて。まいく譲ってもらうようにお願いしてみるから」
「あ、ちょっと……!」
戸惑う総領娘様を置いて、ミスティアはやんややんやと騒々しい声が響く広場の方へさっさと行ってしまった。それを見送るしかなかった総領娘様はまたグイっといい飲みっぷりを見せつけて、ダンッと杯を叩きつけるようにテーブルに置いた。もう本格的に酔っぱらいにしか見えないが、それでも彼女は天人なのである、どうかその辺りゆめ忘れないでいてほしい。
「ああもう……! 何でこんなことになっちゃったのよ……」
「総領娘様が歌いたいって自分でおっしゃったんじゃないですか」
「いやまぁそうだけど……っていやいや言ってない言ってない」
これだけ飲んでもまだ正常な判断能力は失われていないらしい。それどころかノリツッコミという高等技術まで披露してくれた。その健闘をたたえて、心の中でサムズアップをしておく。
「うわ、本当にどうしよ。そもそも何歌えばいいのよ」
「自分のお好きな歌でよろしいのでは?」
「そんなこと言ってもねえ……」
「大丈夫ですよ、総領娘様の歌ならどこへ出しても恥ずかしくありません。もっと自信を持ってください」
「うーん、そうかなあ……あれ? 衣玖って私の歌聴いたことあったっけ」
「ありません」
あああ、と頭を抱え込んでテーブルに突っ伏してしまう総領娘様。いつもの自信満々な態度はどこへいったのか。意外とプレッシャーに弱いタイプだったようである。
と、ミスティアがニコニコとした表情で戻ってきて、
「まいくの番、譲ってもらえたよ。さあさあお客さん、その歌を愛する心の赴くままに、思う存分、歌っていってね!」
どうやら無事交渉成立のようである。その喜ばしい報告を聞いた総領娘様の顔はみるみるうちに青くなり、
「ちょ、まだ心の準備が──!」
「総領娘様、こうなったら覚悟を決めましょう。ここは一つ、比那名居の名にふさわしき美声を披露して、下界の群衆を虜にしてみせるのです」
「美声……? と、虜? ていうかこうなったのは結構あんたのせいな気が……」
「ほら、行こ。みんな次の人待ちわびてるよ。高いところに住んでる人だから歌もすごいって、向こうのお客さんたちに宣伝しちゃったんだから!」
「あんたもなに勝手にハードル上げちゃってるのよ!」
満面の笑みをたたえながら総領娘様の手をとるミスティア。天然とはいつの時代もげに恐ろしき存在である。
チラッと総領娘様がこちらを見た。その表情はまさしく、天に救いを求める哀れな民衆そのもの。何度でも言うが彼女はその天に住む天人である。
「ふむ」
総領娘様曰く、こうなった責任の一端は私にもあるらしい。総領様にも娘を頼むと言われた。そして、
「そう、ね」
何よりもこの私自身が、総領娘様の歌を聴きたくなった。だから──
「ここは、私の出番かしら」
一人頷いてから、真っ青な顔をしている総領娘様の元に歩み寄り、
「大丈夫」
総領娘様の手をとって、少しでも落ち着けるように語りかける。
「ミスティアも言ったでしょう? 難しいことは考えず、総領娘様の心のままに、楽しそうだと思ったその気持ちのままに、歌えばよいのです」
総領娘様が何かを為そうというときには、歯止めが必要な場合も多々ある。きっと総領様の言葉も、その役目を私に期待してのことだったのだろう。しかしここは、この場面は、違う。
「あなたのやりたいようにやりなさい。残念ながら正解率はイマイチですが、しばしば禄な結果を生みませんが、あなたはそれでいいのです。もし正答があるというのなら、その自由な在り方こそが──きっと何よりも正しい」
パーティーの主役がこんなところでウジウジしているのは実によくない。
総領娘様がいつものように、気ままに、傲岸不遜に振る舞えるよう、この私が今、成すべきことを成そう。
空気の読める女、永江衣玖である。
「というわけで預言者たる私が、一つあなたにアドバイスをば」
コホンと一つ、間を入れる。これからやることは、結構私にも気合いが必要なのだ。
では、心構えもできたところで──
「おもいっきり楽しんできてくださいませ。今宵の退屈を──完膚無きまでに吹き飛ばすほどに」
さてさて、上手く笑えただろうか。実を言うと、少しの不安が残る。
私は総領娘様のように上手くは、笑えないのである。
と、総領娘様は心底驚いたような顔を見せて、
「おお……衣玖のレア顔」
まったく場違いなことをおっしゃった。
「……人の渾身の笑顔を花の新種みたいに言うのはやめてください。まあとりあえず、リラックスは出来たようで」
「……あー、まあね。なんかまた変化球交えてけなされたような気もするけど、うん、なんか大丈夫っぽい」
「それは真に重畳」
よし、と頬を叩いて気合いを入れ直す。強く叩きすぎて若干涙が浮かんでいる総領娘様の瞳。
別に大舞台で歌うわけではないし、この経験を境に総領娘様の人生が劇的に変わるとも思えない。
ましてやこの歌で世界が救えるわけでも、異変が起こせるわけでもない。それでもその瞳は、
「見てなさい衣玖。私の美声で、みんなを虜にしてくるわ」
未知の体験への好奇心を、そして歌を聴いてくれる誰かの前で歌うことへの、少しの不安と大きな喜びを映し出しているかのように。
「はい、いってらっしゃいませ」
天人には似つかわしくない、されどパーティーの主役、比那名居天子にはあまりにふさわしい輝きを宿していた。
指笛や拍手を交えた歓声を飛ばす妖怪たちの間を通り抜けて、総領娘様は木材を加工して広場に設置された簡素な舞台もどきに上がる。そしてまいくを受け取り、音量を調節。
やや緊張した面もちだが、先ほどまでと違ってプレッシャーに圧されているというわけではなく、逆にこの状況を楽しんでいるようにも見える。その証拠にほら、一つ深呼吸を入れると、いつもの自信に満ちた表情を取り戻したではないか。
はやし立てていた周りの妖怪たちも、そんな総領娘様の様子を見てかシンと静まり返って、今はただ開幕の時を待つ。
そんな観客の期待に応えるように、総領娘様は目を閉じ、そして──
「────」
普段の総領娘様の姿を考えると、その歌い出しは意外なほど静かで穏やかなものだった。あまり屋台という場の雰囲気にはそぐわないようにも思えるが、しかし不思議と自然に、総領娘様の声はゆったりと染み渡るように、聴衆の間に響く。
「────――」
総領娘様が情感たっぷりに歌いあげるその歌に、バカ騒ぎが大好きなはずの酔っぱらいたちは、ただただ静かに耳を傾けている。
「うわぁ……すごく上手い。それに、とっても綺麗な声……」
「ええ、そうですね。ちょっとびっくりしました」
かくいう私とミスティアも、舞台から少し離れた屋台車で、少しの驚きとともに総領娘様の歌に聞き入っている。
「────――――」
目を閉じて魂のままに歌っているかのような総領娘様の姿は、いつものわがままなお嬢様を思わせる振る舞いとは全く違って、まさに彼女が正しく天人であることを思い出させる、ある種の神々しさを帯びていた。
「──――――――……」
少しの余韻を残し、総領娘様の歌が途切れる。さてこれで終わりかと、聴衆とともに私たちが拍手を送ろうとしたそのときである。
突然総領娘様は目を開いてまいくを放り投げたかと思うと、その体を揺らしながら、リズムよく手拍子を始める。そして、再び──
「──。────。──」
どうやら同じ歌のようであるが、先ほどの緩やかで神秘的な雰囲気からガラリと変わって、総領娘様は楽しげなアップテンポを刻む。
「────。──。────。──」
妖怪たちはそんな総領娘様の変わりように、最初はお互い顔を見合わせていたが、やがて待ってましたと言わんばかりに、総領娘様に合わせてその手を打ち鳴らし始めた。
「──。──。────。──」
まいくは手に持っていないはずなのに、総領娘様はこれまでと同じように、否、それ以上によく響く声を聴衆に届かせていた。その声に応えるように、次第に聴衆たちの合いの手も熱気を帯び始める。発火の時は、近い。
「──────。──。────」
天人にふさわしい神々しさはどこかへ行ってしまった。
しかし総領娘様は、彼女にふさわしい生来の活発さとやんちゃさをこれでもかというくらいに発揮し、とうとうその狭い舞台から飛び降りてしまった。総領娘様のお約束事を完全に無視したそのステージさばきに、聴衆たちはワッと歓声をあげ、一気にそのボルテージを爆発させる。
「あっはっは! なんか楽しくなってきたよ! こりゃ仕事なんかしてらんないね! どうせ誰も注文なんかしてないし!」
そう言って調理をほっぽり出して、再び大騒ぎを始めた聴衆の中に紛れ込むミスティア。私もいつの間にか、辺りに響く音に合わせて手拍子を刻んでいた。こんなに気分が高揚したのは本当に久しぶりだ。
「──。────。──────」
今や屋台の客の全員が、そしてどこからか歌を聞きつけた妖怪までもが広場に集まりだし、巨大な観客の輪を形成している。その輪の中心にはもちろん──
「──。────。──!」
指笛に喝采に手拍子、挙げ句の果てには箸で杯を叩く音まで聞こえてくる。そんな様々な騒音が無秩序に入り交じる異空間においてもなお、総領娘様の声はどんな音よりも大きく、高らかに響く。
「────。──!──────!」
「ふむ」
汗を振りまいて歌って踊り、初対面の聴衆たちとハイタッチまで決めてしまう。そんな、退屈を忘却の彼方に追いやり、幻想の夜にふさわしいステージを造り上げる総領娘様を見て、手拍子を刻みながら思う。
天人の本分など、私のような一介の竜宮の使いが考えることではないが、それでも私が個人的に総領娘様の──比那名居天子だけの本分を表すとするのなら。
「──!────!───!─────!」
それはすなわち、主役になること。
その自由すぎる振る舞いは、良くも悪くも周囲の全てを巻き込んで、大きな騒動を呼び起こす。そして自らはその嵐の中心で、傲岸不遜に音頭をとるのだ。
以前総領娘様が起こした異変だってそうだ。あの時も結局は、総領娘様に振り回されたその仕返しにとやってきた者たちを、全て総領娘様が迎え討つという、まさしく総領娘様を中心とした宴という名のお礼参りで幕を閉じたのである。
そして、今この瞬間も、
「───!────!─────!!」
博麗の巫女が何事かと飛んできかねないほどに、収拾のつかなくなった騒ぎの中心で。
「──!───――!!────――――!!」
彼女の過去と現在の名のとおり、天に地にとその歌を響かせるように。
幻想郷に蔓延する退屈を、今宵だけでも粉砕しようとするかのように。
そして今夜の主役は他の誰でもない、この私だと、幻想郷中に誇示するように。
「──!───!!─────!!─────────!!!」
総領娘様はその身で、その声で、その魂で、『比那名居天子』を歌いあげていた。
「────────。──────…………!」
歌の終わりを惜しむかのように余韻を残し、かつ潔くこの幻想のような時間に幕を下ろすように、音を切る。
そして月明かりがスポットライトのように照らし出す輪の中心で、総領娘様は優雅な一礼を以て、彼女のステージを締めくくった。
歌の余韻に浸るかのような一瞬の静寂。しかしそれはすぐに、割れんばかりの歓声と拍手で破られる。その惜しみなき賞賛に、総領娘様は満面の笑みで手を振って応える。その額には汗が玉となって浮かび、そして肩で息をしているようでもあったが、その表情は、見たこともないくらいの充実感に溢れていた。
鳴り止まない拍手の中、多くの妖怪にもみくちゃにされながら、総領娘様は屋台車に戻ってきた。途中、押すんじゃないわよだの、私は天人よもっと丁重に扱いなさいだの文句を吐いていたけれど、その笑顔はどうにも隠しきれないようであった。
「おかえりなさい」
今夜の主役の帰還を笑顔で迎える。
「ただいま~……。あー……しんど」
興奮と緊張の糸が切れたのか、ヘロヘロとカウンターのテーブルに突っ伏してしまう総領娘様。その姿からは、先ほどの見事なステージを披露した人物とはとても思えない。
「はい、お疲れさまでした。総領娘様」
「いやいやいや! すごいよ、すごすぎだよお客さん! 私もう鳥肌立ちっぱなしだよ! 夜雀だけに!」
ミスティアの絶賛の声に、顔は上げず、手をヒラヒラと振って応える総領娘様。あら、これは本当に限界なのかしら。それとも……
「あれ? お客さんもしかして、照れちゃってる?」
「照れてない!」
いちいち鋭いミスティアの指摘に、総領娘様はガバッと顔を上げる。その顔は耳まで真っ赤だ。これは決してお酒や興奮だけによるものではないだろう。
「でもほんと、すごかったよ。私びっくりしちゃった」
「……え。そ、そう?」
「うんうん。ねね、今度一緒に歌おうよ、二人ででゅおでも組んでさ!」
「あー……うん。考えとくわ。ちょっと今頭回らなくて、即答できる状態じゃないのよね、ゴメン」
「いいっていいって! でも、いつかいい返事聞かせてくれると嬉しいな」
えへーっと総領娘様に笑いかけるミスティア。総領娘様もやや力ないが、笑顔でそれに応える。
そしてバカ騒ぎを続ける客からの注文を受け、はいはいただいまー、とミスティアは足早に客の下へと駆けていった。
残された私と、心地よい疲労感に身を任せるかのように、カウンターの上に腕を組んでそこに頭を置く総領娘様。未だ興奮覚め遣らぬ様子の広場から切り離されたかのように、私たちを包む空気はいたって穏やかだ。この私が言うのだから間違いない。
「今夜はいかがでしたか?」
今度こそ本当に疲れきった様子の総領娘様に問いかける。
総領娘様は、その姿勢のまま顔だけをこちらに向け、今夜を振り返るように、
「……退屈だってことで下界へ飛び出してみたわけだけど」
ポツリポツリと、今の心境を語り始めた。
「下界の夜空を飛ぶのは、もうそれだけで気持ちよかったし、ミスティアの八目鰻もすごく美味しかった」
もちろんお酒も──そう付け加えた総領娘様の表情は今にも目を閉じてしまいそうなくらい、うつろだ。
「いろいろ話も聞けたし。あ、でもさ、衣玖」
「はい?」
「私の歌、本当に、良かった? みんなを虜に、できたかな?」
やや自信なさげに、先ほどの歌の感想を聞いてくる。気持ちはわからないでもない。きっとあの人数に歌を聴かせたのは初めてだろうし、もしかしたら誰かに歌を聴かせたことも、数えるほどしかないのかもしれない。
ふむ。ここは空気を読むまでもなく、素直な感想を言えばいい。それほどまでに──
「はい、とても素晴らしい歌でしたよ。この永江衣玖、いたく感動いたしました。それに総領娘様もお聞きになったでしょう。あの、万雷の喝采を」
私の賞賛の言葉に、総領娘様は無表情で呟くように言った。
「……ま、いいや、なんでも。あー、でもまあ、歌もけっこう、いいものかもしれないわね」
「ふむ、やっぱり歌はお好きだと?」
「それは、まだよくわからない。でもね、少なくとも、歌うことに意味なんて、いらなかった」
そう言っている間にも、どんどん声が小さくなっていく。
それでも、今の自分の気持ちを精一杯形にするかのように、総領娘様は言葉を紡ぐ。
「だってさ、みんなの前で歌ってるとき、意味なんて、考えなかった。無我夢中だった」
「ええ、本当に。夢のようなひとときでした」
果たして今交わした言葉を、総領娘様は後で覚えているだろうか。もしかしたらこの会話すらも、夢だと思ってしまうのではないか。それほどまでに、総領娘様の言葉は明瞭さを欠いていた。まあ、私がちゃんと覚えているから、別に問題はないのだけれど。
「それにね、みんなで一緒になって歌ってるとさ、今夜自分が退屈してたってこと、すっかり忘れちゃってたんだよ」
いよいよ耐えきれなくなったのか、総領娘様は目を閉じて、それでもそうとわかるくらいの満足気な笑顔を浮かべて、
「すっごく楽しかったんだよ、衣玖」
そう言ったきり、総領娘様は静かに寝息をたて始めた。
「ふむ」
羽織っていた羽衣を総領娘様にかけながら、私は先ほどのステージを思い返す。
下界に降りてひょんなことから歌を歌うことになった総領娘様は、異変こそ起こさなかったものの、それと見紛うような大きな嵐を呼んでしまった。結果、総領娘様の退屈は、聴衆が抱えていたかもしれない退屈ごと、根こそぎ解消されたわけである。
「下界に降りるという案も、あるいは英断だったということかしら」
いやはやと首を振る。私はもちろんのこと、きっと総領娘様だって、下界に降り立ったあの時点では、まさかこんなことになろうとは予想だにしていなかっただろう。本当、人生何が起こるかわからないものである。
「予想外といえば」
総領娘様の歌の実力もそうだが、やはり驚嘆すべきは、総領娘様の騒動を巻き起こす才能。
そして何よりも、周りを惹きつけてやまない、比那名居天子という人物の持つ不思議な魅力だろう。
「……素質は他の誰よりも見抜いていたつもりだったのだけれど。これは本当に冗談抜きで、私の想像の斜め上をいく、ものすごい大人物になってしまうかもしれないわね」
まったくこの方ばかりは、どうにも読み切れそうにない。
感嘆のため息を漏らしながら、総領娘様の顔をうかがう。そのものすごい大人物になるかもしれない天人の少女は、大舞台で歌う自分の夢でもみているのか、暢気で幸せそうな寝顔を浮かべていた。それを見て、思わず苦笑してしまう。
ま、いいでしょう。ここへ来るときに決めたことでもあるし、夢のようなステージを築いた今夜の主役がゆっくりと眠れるように。月と歌の続きを肴にお酒でも飲みながら、この宴の閉幕まで、見守るとしましょうか。
有言実行の女、永江衣玖である。
「おやすみなさい。よい夢を」
そして今も誰かが、月明かりが照らす舞台の上で、終わらない歌を歌い続ける。
そのステージに、退屈が入り込む余地なんてどこにもなかった。
なぜならそんなものはもう、傲岸不遜な天人らしくない天人が、完膚無きまでに吹き飛ばしてしまったのだから。
確かに天子は物凄く歌が上手そうですね。練習時間だけは圧倒的に多いだろうし。
めっちゃ良かったです!!天子は絶対に将来大物になると思う!!
あと、タイトルが上手い!
天子が歌っている所、あのシーンの雰囲気がちゃんと出てて良かったです!!
是非、続編をよろしくお願いします。
天子様は基本スペックめっちゃ高いと思います。
ただ、その高いスペックを写す鏡、自分以外の誰かがないだけで。
ミスティアは誰かが居らずとも歌うことが好きで、だから本物だと思うのですが、こうやって誰かに聞かせ、巻き込んで上げて行く天子も、良い在り方してると思いました。こっちは、歌うことに限らずですがw
歌唱シーンのイメージの映画を知らず、どんな歌なのかも分かりませんでしたが、この作品の雰囲気はとても好きです。
それにしてもミスティア、アニソン派かーw
衣玖さんに外れなしやなぁ。
いやしかし、緩急をつけた天子さんの歌唱シーン、お見事でした。
原作でも歌や踊りなどの天人基本スキルを誰かに披露する機会があるといいですね
感動したというか、天子の葛藤とかがすごく分かりやすく伝わってきて…
心温まりました。
衣玖さんも、一人称としてすごい役割を果たせるキャラだったんですね!
あと衣玖さんは本当空気嫁てるな
なんてエネルギッシュで最高な!! あの歌個人的に大好きです。
そして衣玖さんマジいいひと。
衣玖さんいいなぁ。大人の貫禄。
うし、堪能させてもらいましたー。にしても、タイトルが懐かしいなぁ……。
これも良いものだ