ある夜のこと。
リグル・ナイトバグはコップの水を飲み干すと寝転んで、窓の外の深い夜に目をやった。外は満月らしく、木々を洩れた長閑な光が穏やかに部屋の中へ降り注いでいた。リグルは睡気の徐々に迫るのを感じつつ、背の高い木々が僅かな風にも応えてざわめくさまを、おぼろげながら眺めていた。
するとふと、窓の隙間から一匹の蝿が、よろよろと弱々しく飛び乍ら入ってくるのが目に入った。
リグルの注目は彼の方へ移った。それは彼女が蟲の妖怪で、同族として彼に親愛の情を覚えたからばかりではない。その醜い蝿は明らかに弱っていた。いや、瀕死なのに違い無かった。今まで途方も無い数の蟲を見て来たリグルには一目でわかった。蝿は窓の隅っこに止まった。
リグルは憐憫を感じた。夏には目にも止まらぬ速さで顔の近くを飛び回って、幸せを謳歌していた彼らも、寒さを迎えてはかくも哀れな姿になるものかと、自然の摂理とはいえその残酷さに、改めて深く感じ入らざるを得なかった。
蝿は少しでも暖かい場所を求めて、この部屋に入って来たのに違いなかった。そうしてしきりに手足を擦っては、首をきょろきょろと動かしたり、時には全く動かなくなったりして、いよいよお迎えの時かとリグルを心配させた。すると彼は不意に、何事も無かったかのように再び手足を擦り始めるのだった。
「こっち、おいで」
ほとんど無意識にリグルは呼びかけた。見ている内に、この蝿にますます愛着が湧いていたらしかった。蝿はぴくりと体を揺らすと、羽を震わせて窓から飛び立った。そうしてリグルのへその上辺りにぴとりと止まって、けだるそうに首を動かした。
リグルは首をもたげて、その姿を改めて見つめた。瞬間、彼女は息を呑んだ。蝿は闇に体を被われていたが、ちょうど顔の辺りが細く薄い月光を浴びてほの白く浮かび上がり、眩いばかりの美しさを放っていた。それは今までリグルが感じて来た蟲の美しさ、たとえば蛍の光るさまや秋の蟲の鳴き声といった類いとは、まったく異質なものだった。なぜなら彼は本来そのような美しさと無縁の、誰からも無条件に忌み嫌われる存在であるのに違い無いからだった。リグルは惚けた顔で蝿を眺め続けた。
蝿は再び手足を擦り始めた。眺めている内に、リグルはその美の源を知った。彼はその刹那を生きていた。そして、リグルが普段あれこれ思い悩むあらゆる事項に関して無知で、無関心だった。彼は死の恐怖からさえも自由なのだった。今仮にどのような天変地異が巻き起ころうとも、彼はその寿命が尽きるまで何も変わることなく、猶も手足を擦り合わせ続けるのに決まっている。そう感じさせるだけの力強い生命の美を、瀕死の蝿はその小さな体から、闇に向かって発していた。リグルは慄然とした。今自分の居る小さな部屋が、彼の生命を讃える小宇宙と化しているような感覚を、総身に感じた。
衝たれつつもリグルは、いつの間にやら妖怪と成り果てていた自分が、既にこの蝿の持つものを失っていることを悟った。しかし同時に、自分が彼と同属の存在であることを誇らしくも感じた。侘しさと爽々しさが交互に、胸を衝き湧き上がって奇妙な心持ちであった。彼女はそれから逃れる為に首を戻して、再び窓の外を眺め始めた。間もなく睡魔は襲って来た。リグルはまどろみ乍ら、へその上で蝿がくすぐったく動くのと、冷たい風が面を掠めるのとを感じた。
寝静まった部屋の中で蝿は、手足を擦り合わせ、首を回す仕草を止めなかった。すると月に雲が掛かって、彼を照らしていた柔らかな光はとうとう一筋も無くなった。部屋には冷ややかに澄み渡った冬の気配と、一定のリズムを刻んだ妖怪の寝息とが残された。そしてある瞬間に彼もぴたりと動きを止めて、それきりもう動かなかった。しかし彼は大きな瞳でもって猶も、彼の正面で微かに揺れる寝顔を見つめ続けていた。
自分にとっては、非常に大きな意味を持つ。
例え勘違いだと言われようと、当人にとってはまぎれも無く真実なんですよね。
リグルの気持ちがわかるとは言えませんが、彼女のその感受性には、
「うん、そうだよね」と、言ってあげたくなりました。
彼らも生きてるんですよね。
優しくて、儚くて、物悲しい話、堪能させていただきました。
蠅の死の間際にこそ生の輝きをみる
こういう静謐な雰囲気は大好きです
そんな記憶と似た風情のSSでした。