【prologue】
誰が言ったか――湯浴みは命の洗濯である……と。
全くもってその通りだと、霊夢は素直に思う。
特に今日の様な、真夏の陽炎漂う炎天下の下を小一時間ほど飛び続け、身に着けた巫女装束にたっぷり己の汗を吸わせた疲労困憊の身体にとって、熱い湯船に浸かると言う行為は、他の何にも代え難い心地よさを感じる。
汗の不快感で穢れた己の精神を、湯が全て洗い出してくれる気がするのだ。
「ふぃ~」
霊夢は湯船に身体を沈めて、一瞬止めていた呼吸から肺の空気、全てを吐きすほどの深い吐息をついた。
膝を伸ばし、両手を組み軽く伸びをする。流動する熱湯が裸身を包み撫でてゆく。
上を見上げれば、自分が五人居ても届きそうに無いほどの高い天井。浸かる湯船の大きさは、思わず泳いでしまいたくなるほどに広大だ。例え子供っぽいとは分かっていても。
「ほんっと、極楽極楽……」
今ひとたび霊夢は呟き、己の声が反響してくる様を楽しむ。
だが彼女の至福の一時を邪魔する横やりは、文字通り直ぐ横からやってきた。
「極楽ってねぇ。今まで五百年生きてきて、本当にお風呂場でつぶやいた奴って初めて見たわね」
「ん、そう? 魔理沙なんか、温泉に行くたびに毎回言ってるわよ」
霊夢の直ぐ横。まさに肌と肌を寄せ合う距離に、もう一人の入浴者が在った。
歳は十歳前後。霊夢より五、六歳は幼く見える。だがそれが決して実年齢で無いことは、彼女が背に生やした二枚の皮翼を見れば明らかだろう。
蝙蝠の羽に、ルビーを溶かしたような紅い瞳。唇から覗く二本の犬歯は、もう牙と呼んで良い長さ。そして肌は一度も日に当たっていない為か否か、病的なまでに白い。
――吸血鬼、レミリア・スカーレット。
ここ紅魔館の主であり。そして今霊夢が居るのは、その紅魔館にある大浴場だった。
普段レミリアが入浴する時には、恐らく何人かのメイドが付き従って湯浴みの手伝いをするのだろうが。しかし今は霊夢の要望と、レミリアの方もそうと望んだためメイドの姿は無い。この広大な面積を二人占めだ。
「私は、正直お風呂を心地良いなんて、思った試しなんか無いわね。面倒だし」
「その割には今日私が誘ったとき、二つ返事でお~け~したじゃない?」
「そんなの霊夢の裸が見れる、またとないチャンスだもの……。当然でしょ」
レミリアは本人の目の前で臆面もなく言い放ち、流し目を投げかけた。その仕草と幼い容姿とのギャップが凄すぎて、それが逆に反則的に色っぽい。
計算尽くだとすれば(実際霊夢はそう思っている)、さすがは霊夢の二十倍以上生きてきた妖怪だと言えるだろう。
(まあその辺がちぐはぐ差が、レミリアの魅力って言えば魅力なのかもね)
霊夢は心の中で褒め言葉をささやき、そして極楽気分に浸った精神を引き締め直すと、レミリアに言った。
「じゃあレミリアは、風呂自体は嫌いと?」
「ええ……濡れた翼じゃ早く飛ぶことも出来やしない」
言って、レミリアは湯船の中で翼を大きく、水を切るように羽ばたかせた。その飛沫をもろに浴び、霊夢は一瞬顔をしかめる。
「んっもう。んで、嫌いな理由はそれだけ?」
「ああ?」
レミリアが眉を潜める。気がつけばいつの間にか、霊夢とレミリアは顔を向かい合わせる格好に成っていた。
霊夢がわずかに目を細め、余裕を浮かべた表情でさらに問いかける。
「やっぱり吸血鬼って……水が苦手なのかなって思ってさ?」
「……なるほど」
わずかな沈黙の後、レミリアは肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
「いきなりやってきて、お風呂に誘ってくるから何かと思えば、今日の目的はそれ?」
「う~ん、目的ってほどのモノでは無いけどね。まあ大概そんな感じ」
そう言って霊夢は、ちらりと舌を出して笑った。
霊夢にしては珍しい、またレミリアにとっては初めて見る彼女の笑い方だった。
そもそもの発端は、今朝まで遡る。
【scene-zero】
「なあ吸血鬼って、ほんとに太陽が弱点だと思うか?」
神社の境内を眺めつつお茶をすする霊夢の横に座り、この真夏の暑さにあって、なお黒いエプロンドレスを崩さず着こなす姿が在った。
――霧雨魔理沙だ。
彼女の片手にはトレードマークの長い箒。朝っぱらからやってきて、他愛無いいくらかの雑談を交わした後、ふと霊夢に向かって問うた事がそれだった。
「ん、レミリアかフランがどうかしたの?」
口に湯飲みを運ぶ両手を膝に戻し、霊夢は面倒くさげに首から上だけ魔理沙に向き直る。
「どうって事は無いんだけど……ちょっと最近気になってさ」
ふ~んと適当に相づちを打ち、霊夢は空を見上げる。
まだ一日が始まったばかりだというのに、その日差しは容赦がない。そしてその日差しの中、一本の小さな日傘をさしてやってくる、知り合いの姿を思い出す
「フランはともかく。レミリアは日傘さして良く神社にくるじゃない?」
「そうそれ。その日傘なんだよ、私が疑問に思って仕方ないのは。陽が沈むと、当然真っ暗になって夜が来るよな」
「ええ暗くなって夜になるわね。当然ね」
「つまりさ、今私たちが見てる光景。これ全てが陽の光って訳だ。空気みたいに全身を包み込んでるだろ。それって自分の頭上……日傘だけで遮れるもんなのか?」
「実際遮ってるんだし、論より証拠じゃない?」
「ああもう。要領が悪いぜ霊夢」
「分かってるってば……」
もっともらしく反論したものの、霊夢には魔理沙が大体何を言いたいのか理解できている。
「つまり吸血鬼はほんとのところ、太陽を弱点としないんじゃないかって事でしょ?」
実のところ霊夢はその疑問について、レミリア自身に問いかけた事がある。まだ二人が出会って間もない初夏の頃、レミリアが初めて博麗神社を訪れたときのことだ。
『吸血鬼が昼真っから出歩いて平気なの?』
『日傘があるわ』
そうして当の本人に、しれっとした態度で言われてしまった。
そう言われれば霊夢としては「そう」と納得するしかなかった。もともと吸血鬼の生態など、さしたる興味も無かったが故に。
「太陽もそうだけど、さらに言えば水もだな」
魔理沙は霊夢からの答えに、そっけなく頷いただけで、次の疑問に移ってしまう。
「水? ああ……雨」
霊夢と魔理沙がレミリアと知り合って、暫く経ったある日のことだ。彼女の妹――フランドールが館から出ようとして、それをパチュリーが雨を降らして遮った事がある。
「本の記述によれば、正確には吸血鬼は流れる川を越えられないって事らしいがな」
そう言って魔理沙は指を一本突き出し、霊夢に向かって不適に笑って見せた。何か得意げに知識を披露するときの彼女の癖だ。
「流れる川って言うのはこの際、流動する水って言い換えても良い」
「なるほど……それで雨な訳ね」
「さて霊夢……ここまで言って何かピンと来ないか?」
「え?」
問われても、霊夢には何も思いつかない。
霊夢の勘の良さは随一と言われているが、その勘もこういう筋を追う、考察みたいな類にてんで効果がない。霊夢の勘というのはどちらかというと、感じたことが事実と合っていたという必然性と偶然性を結びつける類のモノだからだ。
「ヒント、紅魔館は何処にある? 私たちが初めて館に行ったときの道を辿ってみればいい」
「道筋って……もうすぐ夏だっていうのにあの寒い中、湖の上を飛んでって……あっ湖?」
そこで霊夢も気づいた。一体魔理沙が何を言わんとしているのかを。
そう紅魔館は湖に囲まれた場所に存在しているのだ。そこからレミリアがこの神社にやってくると言うことは、本当なら吸血鬼が渡れない、水の上を飛んでくるという事に他ならない。
「で、でもあれは湖であって川じゃないし……」
自分でも疑問を拭えないまま、霊夢は弱気の反論を魔理沙にぶつけた。
「川も湖も、流動してる事には変わらないじゃないか?」
そんなことは魔理沙に言われるまでもなく、霊夢にだって分かっていた。
分かっていたのだが……。
結局、魔理沙は回答を欲して霊夢に問うた訳ではなく、ただ魔法使いとしての興味の一つを霊夢に披露したかっただけなのだろう。
彼女にとってそれは、先の雑談の延長、それ以上でも以下でも無かった訳だ。
結局魔理沙は昼過ぎくらいまで、霊夢の所で話し込んだ後帰って行った。
魔理沙が話してくれたことは、霊夢にとってもやはりどうでも良いことだった。
だが、いつもなら何気ない日常の一つで終わってしまうはずの、その会話がなぜか気になった。
心の奥底に妙に引っかかって、どこか居心地が悪い。落ち着かない。
灼熱の太陽がやっと西の空に消えかけ、東の空に薄色の満月が見えかけた頃。それを見て、彼女はやっとそのもやもやの正体を確信した。
そして霊夢は地を蹴って空へと飛び出した。行き先はもちろん、もやもやの元凶が住まう館へと。
「ねぇ、レミリア。一緒に……お風呂入らない?」
【scene-one】
「なるほどね。あの白黒魔法使いの思いつきそうな事だわ。またパチェに釣られでもしたかしらね」
湯船の中で霊夢が話してくれた、今日の午前中の話を聞き終わって、レミリアは唇をとがらせた。
「そう言う訳よ。で、実際の所……どうなのよ」
「どうって……素直に答えると思ってるの?」
当然だ。己の弱点に関する真相を話すなど、それは相手に自分の生死を握られる様なものだ。
「なんでよ。本当に太陽も水も大丈夫なら、そう言えば良いじゃない。私がそれを知っても、現状よりあんたが不利になる様な事は無いでしょう?」
「嫌よ。話してもその奥をさらに勘ぐられるのがオチ」
昔在る人物が、次のような仮説を用いたことがある。
人間より何倍も強靱な妖怪が、あえて分かりやすい弱点を晒すのは、自分が本当に弱点とする物を覆い隠すためのカモフラージュに過ぎないのだと。
つまり吸血鬼は、人間には分かりやすい弱点をあえて流布することで、本当に自らが苦手とするモノを隠しているのでは無いか。
それを霊夢は知りたがっているのではないかと、レミリアは考えた。
だがレミリアの頑なな否定の意志を前にしても、霊夢に折れる気配はない。
「そこを何とかっ、ねぇ?」
普段は絶対にしないような、両手を顔の前で合わせて、霊夢は眼前の少女に頼み込む。
片目だけを閉じて小首を傾けるその仕草が妙に可愛らしく思えて、レミリアは少々困惑した。
いつもは空気の様にふわふわとして、こちらのアプローチには無頓着な、博麗霊夢という人間の巫女。それがなぜ今日に限って、こちらの事を気に掛けるのか。そしてその原因が自分の弱点についてときたものだ。
「霊夢……。どうしてそんなに拘るのよ? 貴女には知ったところでなんの良いこともないじゃない」
「ん~まあ。確かに私にとっては、どうでも良いことなんだけどさ」
そうつぶやいた霊夢の表情は、神妙なものに変わって、
「でもね、ハタから見てるとさ。昼真っから出歩いてるあんたって……危なっかして仕方ないのよ」
「え?」
視線があった。向き合った霊夢の瞳に、あっけに取られたレミリアの――自分の表情が映りこんでいる。
「もうね、ぶっちゃけて言っちゃうと。どうも私、あんたの事を凄く心配してるみたい」
自分が映った霊夢の瞳が瞬き一つで、優しい色を帯びていた。ふっくらと緩んだ頬は、もう長い間湯に浸かっているからなのか。普段の彼女のそれと比べても明らかに朱い。
「あんた私に会いに来るのに、無理してるでしょ。吸血鬼なのに……わざわざ私の生活パターンを乱さないように昼間に会いに来てさ」
そして、せっかく二人でどこかへ出かけたい霊夢が思っても、予期せぬ突然の大雨を心配して遠出には誘えない。それでなくてもふと、突風にでも吹かれレミリアの持つ日傘が飛ばされたり折れたりしようものなら……。
そう考えると必然と、霊夢が二人であえる場所は神社か紅魔館に限定されてしまう。
だが神社には魔理沙を筆頭に、いつも誰かしら来客があってレミリアだけに構っている訳にはいかない。紅魔館では霊夢はともかく、レミリアの方はとても二人でという気分にはなれないだろう。
思いがけない事実を目と鼻の先から伝えられ、レミリアは暫くぽかんと開いた口が閉じられなかった。自分が呆然としている事も忘れていた。
「そんなに驚いた?」
覗き込む様に顔を近づける霊夢に、レミリアははっと我を取り戻す。熱湯の熱さは実際自分の身体にいかほどの影響も与えないが、なぜか今は鼓動が速い。
「今の本当? 私と二人きりで出かけたいって?」
もしかしたら今の話し全部、霊夢が真相を聞き出すためにでっち上げた事なのではないか。
そんなレミリアの不安を知ってか知らずか。その不安をかき消すように、霊夢は笑った。
「だから……これ知ったところで、私には何の利点も無いんだってば。あんた自身が言ったのよ?」
「……」
少し遠回しな、霊夢の肯定の言葉。しかしだからこそそれは、ただ頷かれるより……ずっと信頼に満ちた説得力があった。
レミリアはずっと自分は、霊夢にとっては空気のような存在なんだと思っていた。自分だけではない。博麗神社に訪れる人妖、そのほとんど全ては彼女にとっては特別ではなく、日常という何でもない毎日を形作る空気のような存在だと。
唯一の例外と言えるのは、あの魔理沙くらいだろうか。そもそもあの魔法使いは付き合いの長さが他とは圧倒的に違う。
だから自分も魔理沙の様に、親しく霊夢が接してくれる様に成るまでは、まだまだ時間が必要だ。
レミリアはその時間を待つつもりだった。
待つのは得意ではないけれど……でも待つつもりだった。
本当に彼女――霊夢のことが……。
(好き……だから)
レミリアは深く感情を押し殺すように、大きなため息をついた。
恐らく霊夢の方からすれば、あまりのしつこさにどうしたものかと、ため息を付かれた様に見えただろう。
レミリアは緩む頬にこん身の力を込めて、いつもの澄ました表情を張り付けた。
そうして彼女は言った。
「分かった、話しても良いけど。一つ条件があるわ」
「ん、なぁに……。って聞き返してみたけど、大凡予想はつくわ」
「ええ多分、予想通りよ……。あなたの血、吸わせなさい」
そうしてレミリアは舌なめずり一つ、すっと霊夢の肩を両手で押さえ込んだ。
レミリアの行動をいち早く察して、飛び退いたつもりの霊夢だったが、あいにく此処が湯船の中だと言うことを完全に失念していた。
水中特有の浮力は霊夢の重心移動を不安定にし、彼女はとっさに手の平を底に着け身体のバランスを支えるしかなかった。
そして相手がそんな好機を絶対に逃すはずもなく。気づけば霊夢はレミリアに肩をしっかり掴まれ、真正面からしなだれ掛かられていた。
二人の肢体がぴったりと寄り添う。
息の掛かる距離に、レミリアの髪が、瞳が、そして唇があった。
「ちょ、ちょっとレミリアっ!」
「ふふ……。さすがの貴女も、純粋な身体能力……力任せじゃ私に敵わないでしょ? このまま首筋に歯を立たせてくれれば、私の本当の事を教えてあげるわ」
「絶対に嫌」
冷静な即答だった。
「どうしてよ~。さっきの状況からすれば、ここは今まで私に本音を隠してたあな貴女が、雰囲気に呑まれてぽろっと、うんとか言っちゃう流れでしょうが」
「流れとか雰囲気とかで、まだ人間やめるつもりはないわよ」
「さっきのあなたの推察だと、吸血鬼になろうが、今までと変わらない生活がおくれるんじゃない?」
「それとコレとは話が別よ」
「結局……自分で試してみる勇気はない訳ね」
「いいから早く離れなさいって」
霊夢の怒気をレミリアは涼しい顔で無視した。しかしその表情は、要求を突っぱねられたというのに、どこか嬉しそうだ。
「大丈夫よ。一つだけ自分の恥をさらしてあげるけど。私はね、今まで人間を吸血鬼に出来るほど血を飲み切れた試しがないの」
「……そ、それを信じろって言うの? この状況で?」
そもそも吸血鬼化出来ないほど血の飲めないという事は、逆に言えば鬼化できるほど血を吸われれば、レミリアでも出来ると言うことである。
それはつまり、牙を突き立てたままで血を抜かれ続ければ、吸血鬼になると言うことであって。そんな事は方法次第で、どうとでも成るだろうと霊夢は思うのだ。
「じゃあ信用できない? 私の事が?」
「そ、そういう訳じゃないけど……」
さっきとはうってかわって、悲しげな声で問うてくるレミリアの言葉に、霊夢は一瞬たじろいだ。
「いいの霊夢……うん。普通は……そう言うモノよ……ね」
そして霊夢が言葉に詰まっている内に、レミリアは一人納得し。
彼女はそっと、少しだけ名残惜しそうに、霊夢の身体から離れた。
「えっ……ええ? れ、レミリア?」
いきなり拘束が解かれたことに霊夢は驚いた。確かに離れろと言ったが、あまりにもさっきのレミリアとは感じが違いすぎる。
向かい合い、覗き込んだレミリアの表情。悲しげではあるが、どこか悔しさを含んだ歪な唇の形。
霊夢に拒否されたが故か。
(ううん……違う。もっとこうなんて言うか)
そこにはもっと自分自身への諦めというか、嘲りというか、自虐的な感情がくみ取れた。
いつも彼女が見せる、夜の王を自称する剛胆不遜さが完全に抜け落ちていた。
湯船に落ちる水滴と、波が漂う音だけがしばし二人の間を満たし。
レミリアの言葉は不意に訪れた。
「パチェがね……もうずっと昔に、吸血鬼って言う存在自体が幻想の産物に成り果てたんじゃないかって……言ってたわ」
「え、え? なにを……言ってるの?」
「太陽、水の流れ、十字架、クイ。それにニンニクとか鰯の頭……とか?」
眉を顰める霊夢をよそに、レミリアは言葉を羅列していく。そのどれもが吸血鬼にとって弱点や苦手とされるモノばかりだが、今呟く彼女の言葉は酷く単調で、それはまるで異国の理解できぬ言葉を聞くように霊夢の頭には入ってこない。
突然のレミリアの状況変化に、霊夢は思考が追いつかなかった。
長湯で、いよいよのぼせて来た感じのある霊夢に、レミリアの言は続いていく。
「本来これらは、数多の宗教で聖別されてきた物ばかりなの。そう言った類の物が、悪魔の一種である吸血鬼に、破邪の効力があると信じられてきたのは、もう当然の事なのよ?」
そこでようやく霊夢にも、話の筋道が掴めてきた。
霊夢自身……その神に仕えるとされる巫女なのだ。自分自身に全く自覚は無いとしても。
宗教の下、吸血鬼の弱点と信じられてきた物々。
しかしである。外界で長い年月が経つにつれ、その宗教自体がなにかしらの理由で滅んだとしたら?
その『教え』はさらに長い時の中で、人々の記憶から忘れ去られ、風化し。聖別されていた物々も次第に神霊的な効力を失っていく。
やがてそれが吸血鬼の弱点である事すら、忘れられたのだとしたら……。
「その忘れられた概念自体が幻想郷に入って来れば、弱点のない吸血鬼の出来上がりって事ね?」
霊夢は最後、レミリアの言葉を引き継ぐ様に自らその推察を閉じた。
「それ、パチュリーがあんたに言ったの?」
「ええ、そうよ」
それはほど遠い昔。レミリアとパチュリーがまだ出会って間もない頃に交わされた、遊戯にも等しい会話だった。
事あるごとに『ぶっちゃけ、なんで自分がそんな物にやられなくちゃいけないのか?』と、不平と垂らしまくるレミリアに、パチュリーが友人の事を思いやってというより、そんな事でいちいち読書の邪魔をされたくないが為に言った冗談だったのだろう。
言ったパチュリー自身、その推察には紙一切れほどの根拠も持ち合わせていなかった。
「パチェだってそんな戯れ言を、私がいちいち本気にするはずがないと知ってたからこそ、言えた冗談なんでしょうね」
それをもしレミリアが本気で実践して、火傷を負ったり、最悪灰にでもなったら、それこそ本当に冗談にもならない。
そう言って、レミリアは少し自傷気味に笑った。
だが霊夢は少しだけ思案めいた表情を見せると、首を横に振って言った。
「本当にそうかしら?」
「え?」
「私……パチュリーが言った事って、結構当たってるんじゃ無いかと思うのよね」
そうして霊夢は両腕を広げた。膝を無防備に崩し、ぺたりと湯船の底に座り込む。もし先ほどみたいにレミリアに襲いかかられたら、とっさに避けることすら出来ない。
「ねえレミリア。私は今、見たまま何も持たない無防備な状態よ。さっきみたいにあんたに迫られたって、ただ良いようにされるだけ。口で説得して、あなたの良心に賭けるしかなかったわ。確かに人並み外れた霊力はあるけれど、札がなくちゃその力を発動させる事なんて出来やしない」
言外に、一糸まとわぬ姿で二人きりになれるほど、彼女の事を気に掛け、信頼も置いていると告白しているのだが、レミリアはどうやら気づかなかった。
「それで……その普段私が使ってる札だけど。これだってもともとはただの紙に、ただ墨で文字や記号を書いただけのでしょ。でもその紙と墨で作られた物に、私はちゃんと霊力を宿すことが出来るし、それであんたの動きを封じる力を発動させる事も出来る」
そこで霊夢は一息。
「これって、そもそも……どうしてだと思う?」
「ど、どうしてって……言われても」
いきなり振られた問いに、今度はレミリアがあっけにとられた。
だがもともと霊夢とて、答えを期待して問うた事ではない。レミリアのぎこちなく浮かべた疑問符に構わず、霊夢は言葉を続けた。
「それは人間が……そう出来るって思ってるから」
「……んなっ、なによそれ」
あまりと言えばあまりの正解に、レミリアはとっさに抗議した。だが霊夢は、妙に自信たっぷりな笑顔で、彼女の不満をなだめてしまう。
「ふふっ、まあ私も正直なところ、理不尽なんじゃないかって思って、まじめに修行する気も起きないんだけどさ。でもね神霊の力って言うのは、そう言う物なの。私が、ううん世界中の人がそうだと信じる力、信仰心こそ私の使う札に力を与えてる。私と私の霊力は……言うならば器に、信仰力を入れる型みたいな物かしらね」
「……」
「つまり私が言いたいのは、パチュリーと同じ事。人間の信仰心って言うのは、バカに出来ない力。その信仰心が及ばなくなったものが、それまでの効果を失ってしまうのも充分あり得る話だって事」
だいぶん遠回しになったが、霊夢が言いたいことはレミリアに伝わっただろうか。
大丈夫。伝わっていると霊夢は思う。
なぜなら……さっき諦めの表情に染まっていた彼女のそれは、迷いを含んだ物に変わっているから。
「だからって……そう易々試せる訳無いじゃない」
レミリアは口を尖らせ、静かな口調であるが、はっきりとした否定の感情を露わにした。
「確かに……あなたやパチュリーの言ってる事が、思いの外に筋の通った推察だって事は認めるわ。だからって、日傘をささずに太陽に当たっても平気なんて事」
「そもそも私達からすれば、日傘なんて使ってる時点で充分胡散臭いのよ。ええ……もちろん百パーセント大丈夫って保証は無いわ。だから別にいきなり太陽に当たらなくても……もっと被害の小さい弱点から試していけば」
「そんな、どれだけ切り刻めば死ぬのか試してみよう、みたいな事がよく言えるわね」
そのレミリアの言葉と、鋭い視線は、したたかに霊夢の心を打ちのめした。
「あ、ご……ごめん。そういうつもりで言ったんじゃ」
「……ううん良いわ。私の方こそ……言い過ぎた。ごめんなさい」
恐らく、この普段から剛胆不遜が服を着て歩いているような少女に、きちんとした謝罪の言葉を投げられたのは、霊夢が始めてでは無いだろうか。
そうして次にレミリアは、言い訳の様に力無く言葉を放った。
「でも……そうね。もし本当にあなたと対等な位置で、太陽の下に立てるのだとしたら……。きっと楽しいでしょうね。二人きりの……」
「デート?」
レミリアが柄にもなく照れ、飲み込んだであろう言葉尻を霊夢が繋ぐ。
するとレミリアは何度か視線を泳がせた後、口を一文字に引き締め、すっと下を俯いてしまった。
そんなレミリアの姿を見て霊夢は思う。
自分はただこの少女と二人でデーとしたい。そう思うあまりに、魔理沙から聞いた話を、一つの話だけを根拠に、彼女を陽の当たるこちら側へ誘った。
今まで五百年の間、彼女が抱えてきた恐怖心や先入観の事など微塵も考えていなかった。
それは先ほどレミリアが自分の我が儘で、霊夢の血を吸おうとしたのと全く一緒だ。
吸血鬼に成らないと言ったレミリアの言葉を、霊夢が信じ切れないように、レミリアだって他人の言葉一つで、その身を危険に晒すことなど出来るはずも無い。
霊夢が血を吸われるのを拒んだとき。そこでレミリアがなぜ嬉しそうに笑ったのか、その理由が今わかった気がした。
(レミリアは……きっとその事を私に思い知らせたかったんだ)
多分、いやまず間違いなく、本当に霊夢の血を吸うつもりなど彼女には無かったのだ。
分かると同時に、霊夢の中に新たな愛おしさがこみ上げてきた。
彼女の不器用さに、子供っぽさに、純粋さに。そして……優しさに。
『もし本当にあなたと対等な位置で、太陽の下に立てるのだとしたら……。きっと楽しいでしょうね。二人きりの……』
霊夢の中で、さきほどのレミリアの言葉が何度も響き続ける。
自分だってその思いは同じだ。でも自分が彼女をその場所へ誘うには、自分にももう一つ……同じ場所に立てるだけの勇気が必要だと思った。
彼女を本当に信じる勇気が。
「ついつい長風呂になっちゃったわね。霊夢、もうそろそろ出ようか……」
話はコレで終わりと、レミリアがそう言いたげに霊夢に提案した。
だが霊夢は首を横に振った。
「霊夢?」
「ねえ……いいよ吸っても」
「…………え?」
「さっきの続き。レミリア、私の血……吸っても良いわよ」
「んなっ!?」
瞬間、レミリアの瞳が大きく見開かれた。彼女の大きく息を飲む音が、霊夢の耳にまで伝わってくる。
あっけに取られたレミリアの身体は、小さく竦み上がり、真っ直ぐ見つめ続ける霊夢の視線に耐えかねたように、そっぽを向く。
「どういう……風の吹き回しよ?」
子供が(実際外見は子供だが)精一杯強がるみたいに、やっとそれだけの言葉を発した。
「さっき私の血を吸わせて貰う代わりに、本当の事を話すって言ってたでしょ? 今さっきあんたは……あんたの知る限りの本当の事を、私に話してくれたじゃない。だから……約束」
「バカじゃないの。あんなの冗談に決まってるじゃない」
「うん知ってる。じゃあさ、そう言うのはもう抜きでさ、証明して見せてよ」
「しょう、めい?」
「ええ……あんたに噛まれても吸血鬼に成らないって話し。私のこの身体に教えてよ?」
少し荒げた霊夢の口調。レミリアはおずおずと言った感じで、顔を振り向き直した。
「霊夢……あ な た……」
レミリアの力無く垂れ下がっていた翼が、ぴくりと震えた。それに水面が震え、波紋が霊夢の下まで広がってくる。まるで黙視できない怯えを伝えるように、波紋は霊夢を包み拡散してゆく。
「私は信じるわ、あんたが言ったこと。それとも……やっぱりそれも冗談だったのかしら?」
「……」
「……」
長い沈黙が二人の間を支配した。
見つめ合ったまま、瞬きすら許されないどこか張りつめた空気の中、己の感情の昂りだけがだんだんと積もってゆく。
極限まで張りつめた緊張の糸。それを断ち切ったのは、やはり運命を操る側の少女だった。
「なら霊夢……。目、閉じなさいよ」
霊夢が無言で頷き、口をきつく縛り瞳に瞼を被せた。片手の拳を逆の掌で包み、まるで祈りを捧げるように胸元で組む。
頭をわずかに上に向かせ、広く首筋を晒した。
ちゃぷんと水面が跳ねる音が響き、空気が動くのが感じられた。波を立てながら、レミリアの気配がだんだんと近づいてくる。
冷たく感じた掌が霊夢の肩に触れ、それだけで喉が詰まりそうなほどの息苦しさを覚える。
己の身体に重なるように、レミリアが体重を傾けてくる。
「んっ」
霊夢が短く呻くと、間近で喉が唾を飲み込む音がした。それは果たして自分の音だったのか、レミリアのだったか。もしくは両方だったのかも知れない。
首筋にヒヤリとした感触と吐息を感じ、その感触は突然やってきた。
「ぐっ、ぅ」
激痛を感じたのは一瞬だった。直ぐに痛みは去り、代わりに柔らかい肉に堅く長細いものが進入してくる異物感を伝えてくる。
異物感はしばらく霊夢の内側をもぞもぞはいずり回った後、やがて安定した箇所を見つけ、徐々に異物感すらも感じなくなってしまった。
次に、意識ごとひっぱり出されるかのような感覚が肌に奔った。首筋の同じ場所に、何度も口づけされ、柔肌を吸われている感触。
いや実際に、吸われているのだから仕方ない。
霊夢の内にある紅い滴が、一口、二口、飲みほされる度に、彼女の頭の中で火花のごとく意識が快感に弾き消されてゆく。
(なんだか……私が……。私で無くなっていくみたい)
最初こそ正気を保とうと気を張ってきた霊夢だったが、血が抜け身体がその危険な快感に流されていく内、もうどうでも良くなった。
今はただこの倒錯的な状況に、身も心も全て委ねて、愛する人と一つに溶けてしまいたい。
「れみ……り……ぁ」
霊夢は自分でも気づかぬ内に両手をほどき、レミリアを背中から抱きしめていた。
霊夢が腕に力を込めると、彼女の翼はぴくりぴくりと小刻みに反応を示してくれる。
「ん……ぁ」
瞳を開いた。
霞掛かった視界の近く、紅い光が見えた。一つ、二つ、ルビーの様にきらきらと輝く筈のその宝石は、霊夢の意識を強く狂気へ誘っている様にも思える。
「レミリア……キス……して」
なんと口走ったのか。自分でもそれも理解できないまま、霊夢の意識は心の水底に沈んでいった。
【scene-two】
次に意識が目覚めた時、霊夢は暗闇の中に居た。
ぱっと目を見開いているが、瞼を閉じたままなのかも知れないと錯覚できるほどの、真の闇の中。
一片の光も差し込まない場所で、彼女の感覚では、自分が仰向けに寝かしつけられている事だけは分かる。
背中には柔らかいクッションの感触。沈み込んだ身体の心地よさが、そのクッションがさぞ高級品なのだろう事を、肌にダイレクトに伝えてくる。
そう。それが分かる様に、霊夢はやはり一糸まとわぬ格好だった。
「そっか……お風呂場の中で、気を失ったんだっけ」
心で呟いたつもりだったが、自然と言葉が漏れた。
「あ、やっと気がついた」
聞き慣れた声が、直ぐ近く、頭上から降ってきた。
それほど大きな声ではないが、それはこの闇を伝わるように、全く淀みなく霊夢の脳裏に響いてくる。
「レミリア……」
「ええ、私よ」
「ここは?」
「私の部屋……」
霊夢の静かな問いに、レミリアも小さな声で答える。まるでそれ以上の音がこの闇を壊してしまわない様に。今二人の間には、それだけの声があれば十分すぎるほどだった。
意識が戻るにつれ、闇の中からむわっとした湿気が伝わってくる。恐らく部屋を完全に閉め切っている状態だから、空気が停滞しているのだろう。
「あんたが……私を?」
「ええ……」
短いやりとりが続いた後、闇の向こうでレミリアがくすっと小さく笑ったのが分かった。
「咲夜がすごく呆れてたわ。そりゃあれだけ長い間湯船に浸かって、半分のぼせ上がってる時に、頭の近くから血を吸われれば……普通の人間なら気絶するわよね」
「なるほど……まだ頭の中くらくらしてるのはそのせいか」
霊夢はまず自分の右手の感触を確かめるように二度、拳を握ると、今度はその掌を首筋にあてがった。
――そこに、確かに丸く抉った様な傷痕が確かにある。
「普通の傷と同じよ。消毒してしばらく放っておけば、そのうち直るわ。本来は吸血鬼化すると、その再生能力で一瞬で消えちゃうんだけどね」
「……そう」
こんな目立つところに、明らかに噛まれた傷痕があったのでは、暫く人前には出られそうに無い。
「それで博麗霊夢? 我が眷属になり損ねた、今の気分はどうかしら?」
畏まってあえてフルネームでレミリアに呼ばれたのが、わずかにこそばゆい。あえて『なり損ねた』と皮肉るレミリアの言葉に親密感が沸いた。
「そっか。やっぱり私……成らなかったんだ」
「今貴女にこの部屋の闇は見通せない、それが何よりの証拠でしょ?」
「……そう、ね」
吸血鬼は闇を暗としない夜目がきく。こちらからは未だにレミリアがどこに居るのか把握出来ないが。恐らくレミリアからは彼女の表情や、視線、その裸身まで丸判りだろう。
(ちょっと……ずるいわね)
「ねえ霊夢?」
「うん?」
「なんでそんな残念そうな顔してるのよ」
「え?」
予想外なレミリアの問いに、霊夢の鼓動は小さく跳ねた。だがそれも一瞬だ。
霊夢はすぐに落ち着きを取り戻し、直ぐに先ほどから感じている気だるさに、また身体を任せる。
「そんなに私、残念そうな顔してる? そんなつもりは、全然無いんだけど」
むしろ吸血鬼に成らなかったことに安堵していると言うのに。レミリアが言ったことが確かだったことに、嬉しさも感じているというのに。
「それになんか今の霊夢、妙にしおらしいわ。いつもの貴女じゃないみたいよ」
「この……、私の普段をなんだと思ってるのよ」
「さぁ……そのまんまなんじゃない?」
言ってレミリアは笑った。やはり小さくくすりと。今度は霊夢も釣られたように微笑み返す。
「そうね。残念と言えば……今あんたの姿が見えないのは残念かも」
「私の方は……もう着替えてるわよ。寝間着だけどね」
「じゃあ……あんたの寝間着姿も見てみたいわ」
ふと会話が途切れて、直ぐ近くで何かがもぞりと動く気配がした。
ゆさゆさと一定の間隔で、背中のクッションが浮き沈みする。
そこで悟った。これはレミリアが霊夢の寝ているクッションの上を動き回っている為に、その浮き沈みが霊夢の背にまで伝わってきているのだ。
(ここ……もしかしなくてもベッドの上?)
気づいた瞬間。さっきよりも遠い場所で大きな音がした。
金属と金属が擦れ、外れる音。それが二度、三度。
そして柔らかな光が一陣の風を伴い、鍵の外れた音の向こう側からやってきた。
「んっ」
太陽ほどでは無いが、ずっと完全な闇にとけ込んでいた霊夢の網膜に、大窓の向こうから差し込む満月の光は強烈で、霊夢は瞼を再び閉じ、顔を背ける。
「月が……綺麗ね、霊夢?」
再び大窓の方を見据えた時、霊夢は見つけた。月の光を背景に膝をベッドの上について立つ――永遠に紅い、幼き月の姿を。
彼女はゆったりとしたネグリジェ姿だった。小さな彼女に似合うように、至る部分にこれでもかというくらいフリルが装飾されている。だが胸元から臍の下辺りに至る大部分はレースを編み込んでいて、その幼い容姿にアンバランスな妖艶さを醸し出している。
「あはは……。なんていうか、お風呂場で見た裸より、今のあんたのほうがエロいわ」
霊夢は苦笑い。あえて俗っぽい感想を漏らした。
俗な言葉の一つでも言わなければ、その眼前に広がる幻想的な美しさに、身も心も全て奪われてしまいそうだったから。
「一応……褒められと、受け取っておくわ」
「それにしても、あんたの部屋に窓があるとは意外。それも……こんな大きな」
窓の大きさは、レミリアが両手足を伸ばしきっても届かない大きさがあった。
霊夢は起きあがった。目の前の女王と同じく、膝立ちになり二つの月に導かれるように、そちらへ向かう。
「普段は鎧戸まで、完全に締め切ってるけどね。外に食事を探しに行くとき、気分次第でここから飛び出して行くときもあるわ」
「なるほどね……」
レミリアの直ぐ側にたどり着いたとき、霊夢は改めてその彼女の姿に魅せられた。
普段くすみ掛かった銀髪は、きらきらと月の光を跳ね返し白金が水面にたゆたっている様だ。絶妙の光源で怪しくぼんやり浮かび上がる、両の紅い瞳。霊夢はその瞳と視線を交わすたびに、すぅと胸の奥まで見透かされた気分になる。
霊夢はもう、己の全てを包み隠さず晒したいと思った。
「レミリア……あなたが好き……」
すとんと霊夢は内股でベッドに座り。さっきまでレミリアを見下ろす状態だったのに、今は逆に彼女を見上げる格好になった。
ゆっくり瞳を閉じ、顎を突き出し……霊夢はレミリアを待った。
程なくしてレミリアの指が、顎にひっかかる。
ふわりと肩越しに触れる、柔らかい絹の感触。柔らかく濡れた感触は、それほど待たずに霊夢の唇にへと訪れた。
我慢できずに霊夢は手探りでレミリアの背中を囲い、彼女を引き寄せた。唇同士がさらに強く、強引に、熱く引きつけられる。
先に舌の侵入を許したのは霊夢が先だったが、直ぐにそんなことはどうでも良くなるほど、二人はお互いの口内を貪り合った。
レミリアの唾液を、喉をならして飲み込む。霊夢の舌先がレミリア犬歯を、さきほど自分の肌を食い破り、血を啜った牙を探り当て舐める。
喉の先、胸の奥、臍の下辺りに熱がこもっていくのが判る。制御仕切れない、欲望と快楽が脳裏でごうごうと渦巻き、そのたびに理性が焼き付き、お互いの個を奪って一つに導いてゆく。
不意にレミリアが霊夢の腰に手を当て、その身体ごと自分の方に引き上げた。釣られるように霊夢は両腕をレミリアの首にしがみつかせた。
中腰の不安定な姿勢で、レミリアにぶら下がっている状態。
きりきりと背中に食い込むレミリアの爪の感触。どうせ背中なんて傷を付けられても、彼女以外見せる相手はいない。
(レミリアっ。もっと傷を頂戴。唇にも、首筋にも、背中にも。私のありとあらゆる場所に、あんたと触れ合った絆(しるし)を……刻みつけて)
思いの丈全てをぶつけるように、二人はお互いの身体に爪を立てた。引っ掻き、押しつけ、掻きむしる。
唇を赤く腫れるほど吸い、血が滲むほどに噛む。
満月の光に狂わされたかの様に、二人は互いの唇を求め合った。
ほんの偶然互いの歯が触れ合った時、申し合わせたかのように霊夢とレミリアは、お互いの唇を離した。
互いの唇に掛かる粘ついた橋は、やはり月の光を浴びてきらきらと銀色に輝いている。
荒い吐息を何度か。指一本離れていない距離で二人は見つめ合いながら、息が落ち着くのを待ち続けた。
「そう言えば……結局さっきの場所では、出来なかったものね」
「え、私……なんて言ったの?」
「気絶寸前に、私にキスをねだったの覚えてないのかしら?」
「……」
レミリアがそう言うと、霊夢は急に気まずそうに目を泳がせて、下を向いてしまった。
この状況で今更だと思うのだが。普段はひょうひょうとしていて、自分からふっかけて来るくせに、改めて他人から言われると羞恥心から固まってしまう。
博麗の巫女とは言っても、やはりその実は多感な年頃の少女に過ぎないのだろう。
今回の一件でレミリアが発見した、霊夢の新しい一面だ。
「ね、ねぇレミリア」
「なあに霊夢?」
「今更気づいたんだけど、私そう言えば此処に来るとき、着替え用意してくるの忘れてるのよね……」
まだ少し照れがあるのか。霊夢は俯きつつも、上目遣いでレミリアに話しかけてくる。
まあもっとも、それがレミリアにとっては凶悪に可愛くて仕方ないわけだが。
「ほんとに今更ね。そして今この場でそんな事言われても、確信犯としか思えないんだけど」
「た、確かにね」
「どうやら……ほんとのほんとに天然みたいね?」
言ったレミリアの瞳が、弓なりにしなった。
「だからねぇ……今日はここに、あんたの部屋に泊まっても良いかしら?」
「ええもちろん。なんなら……その首の傷が癒えるまで、ずっと居たらいいわ」
「ここに居たら、ずっと消えないわよ」
「え?」
「何でも無いわ」
本心をごまかした霊夢に、レミリアはあえて深く尋ねなかった。
レミリアにとって、それよりもまだやるべき事。やらなくてはならない事が残っているから。
自分の為に。そして、
(霊夢の為にも……。今度は私が……彼女を信じる番)
レミリアは霊夢の身体を解放すると、首だけ後ろを振り向き大窓を、その向こうにある月を見上げた。
「とは言っても霊夢。貴女がこの部屋で寝るには、少々暑苦しいでしょうね。吸血鬼の身体なら暑さは全然平気なのだけれど」
「その点に関してだけは、とても羨ましいわ」
「だからこの窓、開けたままで良いわよね。これなら貴女も少しは涼しい筈だし」
「ええ、そしてくれると助かるわ。でも今の季節だと……昼まで寝てたらひ……」
干物になりそうね。そう呟く途中で霊夢は絶句した。
慌てて辺りを見回す。
霊夢達が居るベッドは、その眼前の大窓に隣接する様に備え付けられている。
ベッドの大きさはかなりの大きさがあり、多分二人が大の字になって寝ても充分過ぎる。
しかしそう……二人の寝床は共にここになるのだ。
このまま寝ると言うことは、当然朝になれば……。
「なに焦った顔してるの?」
そんな霊夢の爆発しそうな不安をよそに、相変わらずあっけらかんとした口調と表情でレミリアが問うてくる。
彼女は気づいていないのか。いや普段はしっかりと鎧戸まで閉め切って用心している彼女だ。そんな単純な事に気づかない筈がない。
とすれば……行き着く結論は一つ。
「れ、レミリア……あ、あんた……」
強ばる霊夢の表情をレミリアは、冷たい掌で一掬い撫でつけ、今までに無いほど柔らかな笑顔を作って言った。
「お休みなさい霊夢。お互いに……良い朝を迎えられると良いわね」
【epilog】
ちりちり。ちりちり……と。
肌を焦がす強烈な熱さを感じて、霊夢は再び意識を覚ました。
昨夜の、目覚めた瞬間も変わらぬ闇の中とは逆に、今度はその強烈すぎる日差しに遮られて、目をろくに開けることすら出来ない。
どのくらい自分は眠っていたのか。その感覚は依然掴めないが、どうやら既に陽は相当高く昇っているみたいだと言うことは、体中玉のように浮いた汗が証明していた。
(これもう一度……お風呂借りなくちゃだめだわ)
あの後。霊夢とレミリアは互いに向かい合いベッドに寝転がりながらも、直ぐには寝付けなかった。
暫くはいろんな話をして、睡魔が襲ってくるのを待った。
レミリアは普段のクールなイメージからは想像できないほど、自分からいろいろな事を話しかけてきた。
気持ちは分かる。どんなに平静を装ったって、彼女だって不安なのだ。
いくら気持ちは、好いた人の言葉を信じられると言ったって、やはり今まで五百年間ついて回った太陽に対する恐怖は拭えない。
そんな恐怖をうち消すためか。レミリアは会話が途切れるつど、霊夢にキスをねだった。
ねだられる度に彼女を抱き寄せ、唇を重ね合い。そのうち抱き合ったまま、いつの間にか霊夢の意識は落ちていた。
だから霊夢は自分がいつ眠ったのか覚えてないし、その辺り自分と彼女がどうしていたのかも曖昧だ。
だけど……あれほどどうにかなってしまってもおかしくない雰囲気の中で、結局どうにもならなかったという自信はある。
もしなってしまったら、まるで二人の今生の別れに、一瞬儚く燃え上がる愛の証の様だと思ってしまうから。
(だから……大丈夫、きっと……レミリア)
そう思い、霊夢はゆっくり瞼を開いた。
――おはよう霊夢……気分はどうかしら?
起きたらまたお風呂に入ろう。また二人で……一緒に。
そうして、さっぱりしたら出かけよう。
自分が願った様に。
彼女の望んだ様に。
二人で手をつないで、いろんな場所に。
今までの分も取り戻すくらい、いっぱいデートしよう。
~End~
誰が言ったか――湯浴みは命の洗濯である……と。
全くもってその通りだと、霊夢は素直に思う。
特に今日の様な、真夏の陽炎漂う炎天下の下を小一時間ほど飛び続け、身に着けた巫女装束にたっぷり己の汗を吸わせた疲労困憊の身体にとって、熱い湯船に浸かると言う行為は、他の何にも代え難い心地よさを感じる。
汗の不快感で穢れた己の精神を、湯が全て洗い出してくれる気がするのだ。
「ふぃ~」
霊夢は湯船に身体を沈めて、一瞬止めていた呼吸から肺の空気、全てを吐きすほどの深い吐息をついた。
膝を伸ばし、両手を組み軽く伸びをする。流動する熱湯が裸身を包み撫でてゆく。
上を見上げれば、自分が五人居ても届きそうに無いほどの高い天井。浸かる湯船の大きさは、思わず泳いでしまいたくなるほどに広大だ。例え子供っぽいとは分かっていても。
「ほんっと、極楽極楽……」
今ひとたび霊夢は呟き、己の声が反響してくる様を楽しむ。
だが彼女の至福の一時を邪魔する横やりは、文字通り直ぐ横からやってきた。
「極楽ってねぇ。今まで五百年生きてきて、本当にお風呂場でつぶやいた奴って初めて見たわね」
「ん、そう? 魔理沙なんか、温泉に行くたびに毎回言ってるわよ」
霊夢の直ぐ横。まさに肌と肌を寄せ合う距離に、もう一人の入浴者が在った。
歳は十歳前後。霊夢より五、六歳は幼く見える。だがそれが決して実年齢で無いことは、彼女が背に生やした二枚の皮翼を見れば明らかだろう。
蝙蝠の羽に、ルビーを溶かしたような紅い瞳。唇から覗く二本の犬歯は、もう牙と呼んで良い長さ。そして肌は一度も日に当たっていない為か否か、病的なまでに白い。
――吸血鬼、レミリア・スカーレット。
ここ紅魔館の主であり。そして今霊夢が居るのは、その紅魔館にある大浴場だった。
普段レミリアが入浴する時には、恐らく何人かのメイドが付き従って湯浴みの手伝いをするのだろうが。しかし今は霊夢の要望と、レミリアの方もそうと望んだためメイドの姿は無い。この広大な面積を二人占めだ。
「私は、正直お風呂を心地良いなんて、思った試しなんか無いわね。面倒だし」
「その割には今日私が誘ったとき、二つ返事でお~け~したじゃない?」
「そんなの霊夢の裸が見れる、またとないチャンスだもの……。当然でしょ」
レミリアは本人の目の前で臆面もなく言い放ち、流し目を投げかけた。その仕草と幼い容姿とのギャップが凄すぎて、それが逆に反則的に色っぽい。
計算尽くだとすれば(実際霊夢はそう思っている)、さすがは霊夢の二十倍以上生きてきた妖怪だと言えるだろう。
(まあその辺がちぐはぐ差が、レミリアの魅力って言えば魅力なのかもね)
霊夢は心の中で褒め言葉をささやき、そして極楽気分に浸った精神を引き締め直すと、レミリアに言った。
「じゃあレミリアは、風呂自体は嫌いと?」
「ええ……濡れた翼じゃ早く飛ぶことも出来やしない」
言って、レミリアは湯船の中で翼を大きく、水を切るように羽ばたかせた。その飛沫をもろに浴び、霊夢は一瞬顔をしかめる。
「んっもう。んで、嫌いな理由はそれだけ?」
「ああ?」
レミリアが眉を潜める。気がつけばいつの間にか、霊夢とレミリアは顔を向かい合わせる格好に成っていた。
霊夢がわずかに目を細め、余裕を浮かべた表情でさらに問いかける。
「やっぱり吸血鬼って……水が苦手なのかなって思ってさ?」
「……なるほど」
わずかな沈黙の後、レミリアは肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
「いきなりやってきて、お風呂に誘ってくるから何かと思えば、今日の目的はそれ?」
「う~ん、目的ってほどのモノでは無いけどね。まあ大概そんな感じ」
そう言って霊夢は、ちらりと舌を出して笑った。
霊夢にしては珍しい、またレミリアにとっては初めて見る彼女の笑い方だった。
そもそもの発端は、今朝まで遡る。
【scene-zero】
「なあ吸血鬼って、ほんとに太陽が弱点だと思うか?」
神社の境内を眺めつつお茶をすする霊夢の横に座り、この真夏の暑さにあって、なお黒いエプロンドレスを崩さず着こなす姿が在った。
――霧雨魔理沙だ。
彼女の片手にはトレードマークの長い箒。朝っぱらからやってきて、他愛無いいくらかの雑談を交わした後、ふと霊夢に向かって問うた事がそれだった。
「ん、レミリアかフランがどうかしたの?」
口に湯飲みを運ぶ両手を膝に戻し、霊夢は面倒くさげに首から上だけ魔理沙に向き直る。
「どうって事は無いんだけど……ちょっと最近気になってさ」
ふ~んと適当に相づちを打ち、霊夢は空を見上げる。
まだ一日が始まったばかりだというのに、その日差しは容赦がない。そしてその日差しの中、一本の小さな日傘をさしてやってくる、知り合いの姿を思い出す
「フランはともかく。レミリアは日傘さして良く神社にくるじゃない?」
「そうそれ。その日傘なんだよ、私が疑問に思って仕方ないのは。陽が沈むと、当然真っ暗になって夜が来るよな」
「ええ暗くなって夜になるわね。当然ね」
「つまりさ、今私たちが見てる光景。これ全てが陽の光って訳だ。空気みたいに全身を包み込んでるだろ。それって自分の頭上……日傘だけで遮れるもんなのか?」
「実際遮ってるんだし、論より証拠じゃない?」
「ああもう。要領が悪いぜ霊夢」
「分かってるってば……」
もっともらしく反論したものの、霊夢には魔理沙が大体何を言いたいのか理解できている。
「つまり吸血鬼はほんとのところ、太陽を弱点としないんじゃないかって事でしょ?」
実のところ霊夢はその疑問について、レミリア自身に問いかけた事がある。まだ二人が出会って間もない初夏の頃、レミリアが初めて博麗神社を訪れたときのことだ。
『吸血鬼が昼真っから出歩いて平気なの?』
『日傘があるわ』
そうして当の本人に、しれっとした態度で言われてしまった。
そう言われれば霊夢としては「そう」と納得するしかなかった。もともと吸血鬼の生態など、さしたる興味も無かったが故に。
「太陽もそうだけど、さらに言えば水もだな」
魔理沙は霊夢からの答えに、そっけなく頷いただけで、次の疑問に移ってしまう。
「水? ああ……雨」
霊夢と魔理沙がレミリアと知り合って、暫く経ったある日のことだ。彼女の妹――フランドールが館から出ようとして、それをパチュリーが雨を降らして遮った事がある。
「本の記述によれば、正確には吸血鬼は流れる川を越えられないって事らしいがな」
そう言って魔理沙は指を一本突き出し、霊夢に向かって不適に笑って見せた。何か得意げに知識を披露するときの彼女の癖だ。
「流れる川って言うのはこの際、流動する水って言い換えても良い」
「なるほど……それで雨な訳ね」
「さて霊夢……ここまで言って何かピンと来ないか?」
「え?」
問われても、霊夢には何も思いつかない。
霊夢の勘の良さは随一と言われているが、その勘もこういう筋を追う、考察みたいな類にてんで効果がない。霊夢の勘というのはどちらかというと、感じたことが事実と合っていたという必然性と偶然性を結びつける類のモノだからだ。
「ヒント、紅魔館は何処にある? 私たちが初めて館に行ったときの道を辿ってみればいい」
「道筋って……もうすぐ夏だっていうのにあの寒い中、湖の上を飛んでって……あっ湖?」
そこで霊夢も気づいた。一体魔理沙が何を言わんとしているのかを。
そう紅魔館は湖に囲まれた場所に存在しているのだ。そこからレミリアがこの神社にやってくると言うことは、本当なら吸血鬼が渡れない、水の上を飛んでくるという事に他ならない。
「で、でもあれは湖であって川じゃないし……」
自分でも疑問を拭えないまま、霊夢は弱気の反論を魔理沙にぶつけた。
「川も湖も、流動してる事には変わらないじゃないか?」
そんなことは魔理沙に言われるまでもなく、霊夢にだって分かっていた。
分かっていたのだが……。
結局、魔理沙は回答を欲して霊夢に問うた訳ではなく、ただ魔法使いとしての興味の一つを霊夢に披露したかっただけなのだろう。
彼女にとってそれは、先の雑談の延長、それ以上でも以下でも無かった訳だ。
結局魔理沙は昼過ぎくらいまで、霊夢の所で話し込んだ後帰って行った。
魔理沙が話してくれたことは、霊夢にとってもやはりどうでも良いことだった。
だが、いつもなら何気ない日常の一つで終わってしまうはずの、その会話がなぜか気になった。
心の奥底に妙に引っかかって、どこか居心地が悪い。落ち着かない。
灼熱の太陽がやっと西の空に消えかけ、東の空に薄色の満月が見えかけた頃。それを見て、彼女はやっとそのもやもやの正体を確信した。
そして霊夢は地を蹴って空へと飛び出した。行き先はもちろん、もやもやの元凶が住まう館へと。
「ねぇ、レミリア。一緒に……お風呂入らない?」
【scene-one】
「なるほどね。あの白黒魔法使いの思いつきそうな事だわ。またパチェに釣られでもしたかしらね」
湯船の中で霊夢が話してくれた、今日の午前中の話を聞き終わって、レミリアは唇をとがらせた。
「そう言う訳よ。で、実際の所……どうなのよ」
「どうって……素直に答えると思ってるの?」
当然だ。己の弱点に関する真相を話すなど、それは相手に自分の生死を握られる様なものだ。
「なんでよ。本当に太陽も水も大丈夫なら、そう言えば良いじゃない。私がそれを知っても、現状よりあんたが不利になる様な事は無いでしょう?」
「嫌よ。話してもその奥をさらに勘ぐられるのがオチ」
昔在る人物が、次のような仮説を用いたことがある。
人間より何倍も強靱な妖怪が、あえて分かりやすい弱点を晒すのは、自分が本当に弱点とする物を覆い隠すためのカモフラージュに過ぎないのだと。
つまり吸血鬼は、人間には分かりやすい弱点をあえて流布することで、本当に自らが苦手とするモノを隠しているのでは無いか。
それを霊夢は知りたがっているのではないかと、レミリアは考えた。
だがレミリアの頑なな否定の意志を前にしても、霊夢に折れる気配はない。
「そこを何とかっ、ねぇ?」
普段は絶対にしないような、両手を顔の前で合わせて、霊夢は眼前の少女に頼み込む。
片目だけを閉じて小首を傾けるその仕草が妙に可愛らしく思えて、レミリアは少々困惑した。
いつもは空気の様にふわふわとして、こちらのアプローチには無頓着な、博麗霊夢という人間の巫女。それがなぜ今日に限って、こちらの事を気に掛けるのか。そしてその原因が自分の弱点についてときたものだ。
「霊夢……。どうしてそんなに拘るのよ? 貴女には知ったところでなんの良いこともないじゃない」
「ん~まあ。確かに私にとっては、どうでも良いことなんだけどさ」
そうつぶやいた霊夢の表情は、神妙なものに変わって、
「でもね、ハタから見てるとさ。昼真っから出歩いてるあんたって……危なっかして仕方ないのよ」
「え?」
視線があった。向き合った霊夢の瞳に、あっけに取られたレミリアの――自分の表情が映りこんでいる。
「もうね、ぶっちゃけて言っちゃうと。どうも私、あんたの事を凄く心配してるみたい」
自分が映った霊夢の瞳が瞬き一つで、優しい色を帯びていた。ふっくらと緩んだ頬は、もう長い間湯に浸かっているからなのか。普段の彼女のそれと比べても明らかに朱い。
「あんた私に会いに来るのに、無理してるでしょ。吸血鬼なのに……わざわざ私の生活パターンを乱さないように昼間に会いに来てさ」
そして、せっかく二人でどこかへ出かけたい霊夢が思っても、予期せぬ突然の大雨を心配して遠出には誘えない。それでなくてもふと、突風にでも吹かれレミリアの持つ日傘が飛ばされたり折れたりしようものなら……。
そう考えると必然と、霊夢が二人であえる場所は神社か紅魔館に限定されてしまう。
だが神社には魔理沙を筆頭に、いつも誰かしら来客があってレミリアだけに構っている訳にはいかない。紅魔館では霊夢はともかく、レミリアの方はとても二人でという気分にはなれないだろう。
思いがけない事実を目と鼻の先から伝えられ、レミリアは暫くぽかんと開いた口が閉じられなかった。自分が呆然としている事も忘れていた。
「そんなに驚いた?」
覗き込む様に顔を近づける霊夢に、レミリアははっと我を取り戻す。熱湯の熱さは実際自分の身体にいかほどの影響も与えないが、なぜか今は鼓動が速い。
「今の本当? 私と二人きりで出かけたいって?」
もしかしたら今の話し全部、霊夢が真相を聞き出すためにでっち上げた事なのではないか。
そんなレミリアの不安を知ってか知らずか。その不安をかき消すように、霊夢は笑った。
「だから……これ知ったところで、私には何の利点も無いんだってば。あんた自身が言ったのよ?」
「……」
少し遠回しな、霊夢の肯定の言葉。しかしだからこそそれは、ただ頷かれるより……ずっと信頼に満ちた説得力があった。
レミリアはずっと自分は、霊夢にとっては空気のような存在なんだと思っていた。自分だけではない。博麗神社に訪れる人妖、そのほとんど全ては彼女にとっては特別ではなく、日常という何でもない毎日を形作る空気のような存在だと。
唯一の例外と言えるのは、あの魔理沙くらいだろうか。そもそもあの魔法使いは付き合いの長さが他とは圧倒的に違う。
だから自分も魔理沙の様に、親しく霊夢が接してくれる様に成るまでは、まだまだ時間が必要だ。
レミリアはその時間を待つつもりだった。
待つのは得意ではないけれど……でも待つつもりだった。
本当に彼女――霊夢のことが……。
(好き……だから)
レミリアは深く感情を押し殺すように、大きなため息をついた。
恐らく霊夢の方からすれば、あまりのしつこさにどうしたものかと、ため息を付かれた様に見えただろう。
レミリアは緩む頬にこん身の力を込めて、いつもの澄ました表情を張り付けた。
そうして彼女は言った。
「分かった、話しても良いけど。一つ条件があるわ」
「ん、なぁに……。って聞き返してみたけど、大凡予想はつくわ」
「ええ多分、予想通りよ……。あなたの血、吸わせなさい」
そうしてレミリアは舌なめずり一つ、すっと霊夢の肩を両手で押さえ込んだ。
レミリアの行動をいち早く察して、飛び退いたつもりの霊夢だったが、あいにく此処が湯船の中だと言うことを完全に失念していた。
水中特有の浮力は霊夢の重心移動を不安定にし、彼女はとっさに手の平を底に着け身体のバランスを支えるしかなかった。
そして相手がそんな好機を絶対に逃すはずもなく。気づけば霊夢はレミリアに肩をしっかり掴まれ、真正面からしなだれ掛かられていた。
二人の肢体がぴったりと寄り添う。
息の掛かる距離に、レミリアの髪が、瞳が、そして唇があった。
「ちょ、ちょっとレミリアっ!」
「ふふ……。さすがの貴女も、純粋な身体能力……力任せじゃ私に敵わないでしょ? このまま首筋に歯を立たせてくれれば、私の本当の事を教えてあげるわ」
「絶対に嫌」
冷静な即答だった。
「どうしてよ~。さっきの状況からすれば、ここは今まで私に本音を隠してたあな貴女が、雰囲気に呑まれてぽろっと、うんとか言っちゃう流れでしょうが」
「流れとか雰囲気とかで、まだ人間やめるつもりはないわよ」
「さっきのあなたの推察だと、吸血鬼になろうが、今までと変わらない生活がおくれるんじゃない?」
「それとコレとは話が別よ」
「結局……自分で試してみる勇気はない訳ね」
「いいから早く離れなさいって」
霊夢の怒気をレミリアは涼しい顔で無視した。しかしその表情は、要求を突っぱねられたというのに、どこか嬉しそうだ。
「大丈夫よ。一つだけ自分の恥をさらしてあげるけど。私はね、今まで人間を吸血鬼に出来るほど血を飲み切れた試しがないの」
「……そ、それを信じろって言うの? この状況で?」
そもそも吸血鬼化出来ないほど血の飲めないという事は、逆に言えば鬼化できるほど血を吸われれば、レミリアでも出来ると言うことである。
それはつまり、牙を突き立てたままで血を抜かれ続ければ、吸血鬼になると言うことであって。そんな事は方法次第で、どうとでも成るだろうと霊夢は思うのだ。
「じゃあ信用できない? 私の事が?」
「そ、そういう訳じゃないけど……」
さっきとはうってかわって、悲しげな声で問うてくるレミリアの言葉に、霊夢は一瞬たじろいだ。
「いいの霊夢……うん。普通は……そう言うモノよ……ね」
そして霊夢が言葉に詰まっている内に、レミリアは一人納得し。
彼女はそっと、少しだけ名残惜しそうに、霊夢の身体から離れた。
「えっ……ええ? れ、レミリア?」
いきなり拘束が解かれたことに霊夢は驚いた。確かに離れろと言ったが、あまりにもさっきのレミリアとは感じが違いすぎる。
向かい合い、覗き込んだレミリアの表情。悲しげではあるが、どこか悔しさを含んだ歪な唇の形。
霊夢に拒否されたが故か。
(ううん……違う。もっとこうなんて言うか)
そこにはもっと自分自身への諦めというか、嘲りというか、自虐的な感情がくみ取れた。
いつも彼女が見せる、夜の王を自称する剛胆不遜さが完全に抜け落ちていた。
湯船に落ちる水滴と、波が漂う音だけがしばし二人の間を満たし。
レミリアの言葉は不意に訪れた。
「パチェがね……もうずっと昔に、吸血鬼って言う存在自体が幻想の産物に成り果てたんじゃないかって……言ってたわ」
「え、え? なにを……言ってるの?」
「太陽、水の流れ、十字架、クイ。それにニンニクとか鰯の頭……とか?」
眉を顰める霊夢をよそに、レミリアは言葉を羅列していく。そのどれもが吸血鬼にとって弱点や苦手とされるモノばかりだが、今呟く彼女の言葉は酷く単調で、それはまるで異国の理解できぬ言葉を聞くように霊夢の頭には入ってこない。
突然のレミリアの状況変化に、霊夢は思考が追いつかなかった。
長湯で、いよいよのぼせて来た感じのある霊夢に、レミリアの言は続いていく。
「本来これらは、数多の宗教で聖別されてきた物ばかりなの。そう言った類の物が、悪魔の一種である吸血鬼に、破邪の効力があると信じられてきたのは、もう当然の事なのよ?」
そこでようやく霊夢にも、話の筋道が掴めてきた。
霊夢自身……その神に仕えるとされる巫女なのだ。自分自身に全く自覚は無いとしても。
宗教の下、吸血鬼の弱点と信じられてきた物々。
しかしである。外界で長い年月が経つにつれ、その宗教自体がなにかしらの理由で滅んだとしたら?
その『教え』はさらに長い時の中で、人々の記憶から忘れ去られ、風化し。聖別されていた物々も次第に神霊的な効力を失っていく。
やがてそれが吸血鬼の弱点である事すら、忘れられたのだとしたら……。
「その忘れられた概念自体が幻想郷に入って来れば、弱点のない吸血鬼の出来上がりって事ね?」
霊夢は最後、レミリアの言葉を引き継ぐ様に自らその推察を閉じた。
「それ、パチュリーがあんたに言ったの?」
「ええ、そうよ」
それはほど遠い昔。レミリアとパチュリーがまだ出会って間もない頃に交わされた、遊戯にも等しい会話だった。
事あるごとに『ぶっちゃけ、なんで自分がそんな物にやられなくちゃいけないのか?』と、不平と垂らしまくるレミリアに、パチュリーが友人の事を思いやってというより、そんな事でいちいち読書の邪魔をされたくないが為に言った冗談だったのだろう。
言ったパチュリー自身、その推察には紙一切れほどの根拠も持ち合わせていなかった。
「パチェだってそんな戯れ言を、私がいちいち本気にするはずがないと知ってたからこそ、言えた冗談なんでしょうね」
それをもしレミリアが本気で実践して、火傷を負ったり、最悪灰にでもなったら、それこそ本当に冗談にもならない。
そう言って、レミリアは少し自傷気味に笑った。
だが霊夢は少しだけ思案めいた表情を見せると、首を横に振って言った。
「本当にそうかしら?」
「え?」
「私……パチュリーが言った事って、結構当たってるんじゃ無いかと思うのよね」
そうして霊夢は両腕を広げた。膝を無防備に崩し、ぺたりと湯船の底に座り込む。もし先ほどみたいにレミリアに襲いかかられたら、とっさに避けることすら出来ない。
「ねえレミリア。私は今、見たまま何も持たない無防備な状態よ。さっきみたいにあんたに迫られたって、ただ良いようにされるだけ。口で説得して、あなたの良心に賭けるしかなかったわ。確かに人並み外れた霊力はあるけれど、札がなくちゃその力を発動させる事なんて出来やしない」
言外に、一糸まとわぬ姿で二人きりになれるほど、彼女の事を気に掛け、信頼も置いていると告白しているのだが、レミリアはどうやら気づかなかった。
「それで……その普段私が使ってる札だけど。これだってもともとはただの紙に、ただ墨で文字や記号を書いただけのでしょ。でもその紙と墨で作られた物に、私はちゃんと霊力を宿すことが出来るし、それであんたの動きを封じる力を発動させる事も出来る」
そこで霊夢は一息。
「これって、そもそも……どうしてだと思う?」
「ど、どうしてって……言われても」
いきなり振られた問いに、今度はレミリアがあっけにとられた。
だがもともと霊夢とて、答えを期待して問うた事ではない。レミリアのぎこちなく浮かべた疑問符に構わず、霊夢は言葉を続けた。
「それは人間が……そう出来るって思ってるから」
「……んなっ、なによそれ」
あまりと言えばあまりの正解に、レミリアはとっさに抗議した。だが霊夢は、妙に自信たっぷりな笑顔で、彼女の不満をなだめてしまう。
「ふふっ、まあ私も正直なところ、理不尽なんじゃないかって思って、まじめに修行する気も起きないんだけどさ。でもね神霊の力って言うのは、そう言う物なの。私が、ううん世界中の人がそうだと信じる力、信仰心こそ私の使う札に力を与えてる。私と私の霊力は……言うならば器に、信仰力を入れる型みたいな物かしらね」
「……」
「つまり私が言いたいのは、パチュリーと同じ事。人間の信仰心って言うのは、バカに出来ない力。その信仰心が及ばなくなったものが、それまでの効果を失ってしまうのも充分あり得る話だって事」
だいぶん遠回しになったが、霊夢が言いたいことはレミリアに伝わっただろうか。
大丈夫。伝わっていると霊夢は思う。
なぜなら……さっき諦めの表情に染まっていた彼女のそれは、迷いを含んだ物に変わっているから。
「だからって……そう易々試せる訳無いじゃない」
レミリアは口を尖らせ、静かな口調であるが、はっきりとした否定の感情を露わにした。
「確かに……あなたやパチュリーの言ってる事が、思いの外に筋の通った推察だって事は認めるわ。だからって、日傘をささずに太陽に当たっても平気なんて事」
「そもそも私達からすれば、日傘なんて使ってる時点で充分胡散臭いのよ。ええ……もちろん百パーセント大丈夫って保証は無いわ。だから別にいきなり太陽に当たらなくても……もっと被害の小さい弱点から試していけば」
「そんな、どれだけ切り刻めば死ぬのか試してみよう、みたいな事がよく言えるわね」
そのレミリアの言葉と、鋭い視線は、したたかに霊夢の心を打ちのめした。
「あ、ご……ごめん。そういうつもりで言ったんじゃ」
「……ううん良いわ。私の方こそ……言い過ぎた。ごめんなさい」
恐らく、この普段から剛胆不遜が服を着て歩いているような少女に、きちんとした謝罪の言葉を投げられたのは、霊夢が始めてでは無いだろうか。
そうして次にレミリアは、言い訳の様に力無く言葉を放った。
「でも……そうね。もし本当にあなたと対等な位置で、太陽の下に立てるのだとしたら……。きっと楽しいでしょうね。二人きりの……」
「デート?」
レミリアが柄にもなく照れ、飲み込んだであろう言葉尻を霊夢が繋ぐ。
するとレミリアは何度か視線を泳がせた後、口を一文字に引き締め、すっと下を俯いてしまった。
そんなレミリアの姿を見て霊夢は思う。
自分はただこの少女と二人でデーとしたい。そう思うあまりに、魔理沙から聞いた話を、一つの話だけを根拠に、彼女を陽の当たるこちら側へ誘った。
今まで五百年の間、彼女が抱えてきた恐怖心や先入観の事など微塵も考えていなかった。
それは先ほどレミリアが自分の我が儘で、霊夢の血を吸おうとしたのと全く一緒だ。
吸血鬼に成らないと言ったレミリアの言葉を、霊夢が信じ切れないように、レミリアだって他人の言葉一つで、その身を危険に晒すことなど出来るはずも無い。
霊夢が血を吸われるのを拒んだとき。そこでレミリアがなぜ嬉しそうに笑ったのか、その理由が今わかった気がした。
(レミリアは……きっとその事を私に思い知らせたかったんだ)
多分、いやまず間違いなく、本当に霊夢の血を吸うつもりなど彼女には無かったのだ。
分かると同時に、霊夢の中に新たな愛おしさがこみ上げてきた。
彼女の不器用さに、子供っぽさに、純粋さに。そして……優しさに。
『もし本当にあなたと対等な位置で、太陽の下に立てるのだとしたら……。きっと楽しいでしょうね。二人きりの……』
霊夢の中で、さきほどのレミリアの言葉が何度も響き続ける。
自分だってその思いは同じだ。でも自分が彼女をその場所へ誘うには、自分にももう一つ……同じ場所に立てるだけの勇気が必要だと思った。
彼女を本当に信じる勇気が。
「ついつい長風呂になっちゃったわね。霊夢、もうそろそろ出ようか……」
話はコレで終わりと、レミリアがそう言いたげに霊夢に提案した。
だが霊夢は首を横に振った。
「霊夢?」
「ねえ……いいよ吸っても」
「…………え?」
「さっきの続き。レミリア、私の血……吸っても良いわよ」
「んなっ!?」
瞬間、レミリアの瞳が大きく見開かれた。彼女の大きく息を飲む音が、霊夢の耳にまで伝わってくる。
あっけに取られたレミリアの身体は、小さく竦み上がり、真っ直ぐ見つめ続ける霊夢の視線に耐えかねたように、そっぽを向く。
「どういう……風の吹き回しよ?」
子供が(実際外見は子供だが)精一杯強がるみたいに、やっとそれだけの言葉を発した。
「さっき私の血を吸わせて貰う代わりに、本当の事を話すって言ってたでしょ? 今さっきあんたは……あんたの知る限りの本当の事を、私に話してくれたじゃない。だから……約束」
「バカじゃないの。あんなの冗談に決まってるじゃない」
「うん知ってる。じゃあさ、そう言うのはもう抜きでさ、証明して見せてよ」
「しょう、めい?」
「ええ……あんたに噛まれても吸血鬼に成らないって話し。私のこの身体に教えてよ?」
少し荒げた霊夢の口調。レミリアはおずおずと言った感じで、顔を振り向き直した。
「霊夢……あ な た……」
レミリアの力無く垂れ下がっていた翼が、ぴくりと震えた。それに水面が震え、波紋が霊夢の下まで広がってくる。まるで黙視できない怯えを伝えるように、波紋は霊夢を包み拡散してゆく。
「私は信じるわ、あんたが言ったこと。それとも……やっぱりそれも冗談だったのかしら?」
「……」
「……」
長い沈黙が二人の間を支配した。
見つめ合ったまま、瞬きすら許されないどこか張りつめた空気の中、己の感情の昂りだけがだんだんと積もってゆく。
極限まで張りつめた緊張の糸。それを断ち切ったのは、やはり運命を操る側の少女だった。
「なら霊夢……。目、閉じなさいよ」
霊夢が無言で頷き、口をきつく縛り瞳に瞼を被せた。片手の拳を逆の掌で包み、まるで祈りを捧げるように胸元で組む。
頭をわずかに上に向かせ、広く首筋を晒した。
ちゃぷんと水面が跳ねる音が響き、空気が動くのが感じられた。波を立てながら、レミリアの気配がだんだんと近づいてくる。
冷たく感じた掌が霊夢の肩に触れ、それだけで喉が詰まりそうなほどの息苦しさを覚える。
己の身体に重なるように、レミリアが体重を傾けてくる。
「んっ」
霊夢が短く呻くと、間近で喉が唾を飲み込む音がした。それは果たして自分の音だったのか、レミリアのだったか。もしくは両方だったのかも知れない。
首筋にヒヤリとした感触と吐息を感じ、その感触は突然やってきた。
「ぐっ、ぅ」
激痛を感じたのは一瞬だった。直ぐに痛みは去り、代わりに柔らかい肉に堅く長細いものが進入してくる異物感を伝えてくる。
異物感はしばらく霊夢の内側をもぞもぞはいずり回った後、やがて安定した箇所を見つけ、徐々に異物感すらも感じなくなってしまった。
次に、意識ごとひっぱり出されるかのような感覚が肌に奔った。首筋の同じ場所に、何度も口づけされ、柔肌を吸われている感触。
いや実際に、吸われているのだから仕方ない。
霊夢の内にある紅い滴が、一口、二口、飲みほされる度に、彼女の頭の中で火花のごとく意識が快感に弾き消されてゆく。
(なんだか……私が……。私で無くなっていくみたい)
最初こそ正気を保とうと気を張ってきた霊夢だったが、血が抜け身体がその危険な快感に流されていく内、もうどうでも良くなった。
今はただこの倒錯的な状況に、身も心も全て委ねて、愛する人と一つに溶けてしまいたい。
「れみ……り……ぁ」
霊夢は自分でも気づかぬ内に両手をほどき、レミリアを背中から抱きしめていた。
霊夢が腕に力を込めると、彼女の翼はぴくりぴくりと小刻みに反応を示してくれる。
「ん……ぁ」
瞳を開いた。
霞掛かった視界の近く、紅い光が見えた。一つ、二つ、ルビーの様にきらきらと輝く筈のその宝石は、霊夢の意識を強く狂気へ誘っている様にも思える。
「レミリア……キス……して」
なんと口走ったのか。自分でもそれも理解できないまま、霊夢の意識は心の水底に沈んでいった。
【scene-two】
次に意識が目覚めた時、霊夢は暗闇の中に居た。
ぱっと目を見開いているが、瞼を閉じたままなのかも知れないと錯覚できるほどの、真の闇の中。
一片の光も差し込まない場所で、彼女の感覚では、自分が仰向けに寝かしつけられている事だけは分かる。
背中には柔らかいクッションの感触。沈み込んだ身体の心地よさが、そのクッションがさぞ高級品なのだろう事を、肌にダイレクトに伝えてくる。
そう。それが分かる様に、霊夢はやはり一糸まとわぬ格好だった。
「そっか……お風呂場の中で、気を失ったんだっけ」
心で呟いたつもりだったが、自然と言葉が漏れた。
「あ、やっと気がついた」
聞き慣れた声が、直ぐ近く、頭上から降ってきた。
それほど大きな声ではないが、それはこの闇を伝わるように、全く淀みなく霊夢の脳裏に響いてくる。
「レミリア……」
「ええ、私よ」
「ここは?」
「私の部屋……」
霊夢の静かな問いに、レミリアも小さな声で答える。まるでそれ以上の音がこの闇を壊してしまわない様に。今二人の間には、それだけの声があれば十分すぎるほどだった。
意識が戻るにつれ、闇の中からむわっとした湿気が伝わってくる。恐らく部屋を完全に閉め切っている状態だから、空気が停滞しているのだろう。
「あんたが……私を?」
「ええ……」
短いやりとりが続いた後、闇の向こうでレミリアがくすっと小さく笑ったのが分かった。
「咲夜がすごく呆れてたわ。そりゃあれだけ長い間湯船に浸かって、半分のぼせ上がってる時に、頭の近くから血を吸われれば……普通の人間なら気絶するわよね」
「なるほど……まだ頭の中くらくらしてるのはそのせいか」
霊夢はまず自分の右手の感触を確かめるように二度、拳を握ると、今度はその掌を首筋にあてがった。
――そこに、確かに丸く抉った様な傷痕が確かにある。
「普通の傷と同じよ。消毒してしばらく放っておけば、そのうち直るわ。本来は吸血鬼化すると、その再生能力で一瞬で消えちゃうんだけどね」
「……そう」
こんな目立つところに、明らかに噛まれた傷痕があったのでは、暫く人前には出られそうに無い。
「それで博麗霊夢? 我が眷属になり損ねた、今の気分はどうかしら?」
畏まってあえてフルネームでレミリアに呼ばれたのが、わずかにこそばゆい。あえて『なり損ねた』と皮肉るレミリアの言葉に親密感が沸いた。
「そっか。やっぱり私……成らなかったんだ」
「今貴女にこの部屋の闇は見通せない、それが何よりの証拠でしょ?」
「……そう、ね」
吸血鬼は闇を暗としない夜目がきく。こちらからは未だにレミリアがどこに居るのか把握出来ないが。恐らくレミリアからは彼女の表情や、視線、その裸身まで丸判りだろう。
(ちょっと……ずるいわね)
「ねえ霊夢?」
「うん?」
「なんでそんな残念そうな顔してるのよ」
「え?」
予想外なレミリアの問いに、霊夢の鼓動は小さく跳ねた。だがそれも一瞬だ。
霊夢はすぐに落ち着きを取り戻し、直ぐに先ほどから感じている気だるさに、また身体を任せる。
「そんなに私、残念そうな顔してる? そんなつもりは、全然無いんだけど」
むしろ吸血鬼に成らなかったことに安堵していると言うのに。レミリアが言ったことが確かだったことに、嬉しさも感じているというのに。
「それになんか今の霊夢、妙にしおらしいわ。いつもの貴女じゃないみたいよ」
「この……、私の普段をなんだと思ってるのよ」
「さぁ……そのまんまなんじゃない?」
言ってレミリアは笑った。やはり小さくくすりと。今度は霊夢も釣られたように微笑み返す。
「そうね。残念と言えば……今あんたの姿が見えないのは残念かも」
「私の方は……もう着替えてるわよ。寝間着だけどね」
「じゃあ……あんたの寝間着姿も見てみたいわ」
ふと会話が途切れて、直ぐ近くで何かがもぞりと動く気配がした。
ゆさゆさと一定の間隔で、背中のクッションが浮き沈みする。
そこで悟った。これはレミリアが霊夢の寝ているクッションの上を動き回っている為に、その浮き沈みが霊夢の背にまで伝わってきているのだ。
(ここ……もしかしなくてもベッドの上?)
気づいた瞬間。さっきよりも遠い場所で大きな音がした。
金属と金属が擦れ、外れる音。それが二度、三度。
そして柔らかな光が一陣の風を伴い、鍵の外れた音の向こう側からやってきた。
「んっ」
太陽ほどでは無いが、ずっと完全な闇にとけ込んでいた霊夢の網膜に、大窓の向こうから差し込む満月の光は強烈で、霊夢は瞼を再び閉じ、顔を背ける。
「月が……綺麗ね、霊夢?」
再び大窓の方を見据えた時、霊夢は見つけた。月の光を背景に膝をベッドの上について立つ――永遠に紅い、幼き月の姿を。
彼女はゆったりとしたネグリジェ姿だった。小さな彼女に似合うように、至る部分にこれでもかというくらいフリルが装飾されている。だが胸元から臍の下辺りに至る大部分はレースを編み込んでいて、その幼い容姿にアンバランスな妖艶さを醸し出している。
「あはは……。なんていうか、お風呂場で見た裸より、今のあんたのほうがエロいわ」
霊夢は苦笑い。あえて俗っぽい感想を漏らした。
俗な言葉の一つでも言わなければ、その眼前に広がる幻想的な美しさに、身も心も全て奪われてしまいそうだったから。
「一応……褒められと、受け取っておくわ」
「それにしても、あんたの部屋に窓があるとは意外。それも……こんな大きな」
窓の大きさは、レミリアが両手足を伸ばしきっても届かない大きさがあった。
霊夢は起きあがった。目の前の女王と同じく、膝立ちになり二つの月に導かれるように、そちらへ向かう。
「普段は鎧戸まで、完全に締め切ってるけどね。外に食事を探しに行くとき、気分次第でここから飛び出して行くときもあるわ」
「なるほどね……」
レミリアの直ぐ側にたどり着いたとき、霊夢は改めてその彼女の姿に魅せられた。
普段くすみ掛かった銀髪は、きらきらと月の光を跳ね返し白金が水面にたゆたっている様だ。絶妙の光源で怪しくぼんやり浮かび上がる、両の紅い瞳。霊夢はその瞳と視線を交わすたびに、すぅと胸の奥まで見透かされた気分になる。
霊夢はもう、己の全てを包み隠さず晒したいと思った。
「レミリア……あなたが好き……」
すとんと霊夢は内股でベッドに座り。さっきまでレミリアを見下ろす状態だったのに、今は逆に彼女を見上げる格好になった。
ゆっくり瞳を閉じ、顎を突き出し……霊夢はレミリアを待った。
程なくしてレミリアの指が、顎にひっかかる。
ふわりと肩越しに触れる、柔らかい絹の感触。柔らかく濡れた感触は、それほど待たずに霊夢の唇にへと訪れた。
我慢できずに霊夢は手探りでレミリアの背中を囲い、彼女を引き寄せた。唇同士がさらに強く、強引に、熱く引きつけられる。
先に舌の侵入を許したのは霊夢が先だったが、直ぐにそんなことはどうでも良くなるほど、二人はお互いの口内を貪り合った。
レミリアの唾液を、喉をならして飲み込む。霊夢の舌先がレミリア犬歯を、さきほど自分の肌を食い破り、血を啜った牙を探り当て舐める。
喉の先、胸の奥、臍の下辺りに熱がこもっていくのが判る。制御仕切れない、欲望と快楽が脳裏でごうごうと渦巻き、そのたびに理性が焼き付き、お互いの個を奪って一つに導いてゆく。
不意にレミリアが霊夢の腰に手を当て、その身体ごと自分の方に引き上げた。釣られるように霊夢は両腕をレミリアの首にしがみつかせた。
中腰の不安定な姿勢で、レミリアにぶら下がっている状態。
きりきりと背中に食い込むレミリアの爪の感触。どうせ背中なんて傷を付けられても、彼女以外見せる相手はいない。
(レミリアっ。もっと傷を頂戴。唇にも、首筋にも、背中にも。私のありとあらゆる場所に、あんたと触れ合った絆(しるし)を……刻みつけて)
思いの丈全てをぶつけるように、二人はお互いの身体に爪を立てた。引っ掻き、押しつけ、掻きむしる。
唇を赤く腫れるほど吸い、血が滲むほどに噛む。
満月の光に狂わされたかの様に、二人は互いの唇を求め合った。
ほんの偶然互いの歯が触れ合った時、申し合わせたかのように霊夢とレミリアは、お互いの唇を離した。
互いの唇に掛かる粘ついた橋は、やはり月の光を浴びてきらきらと銀色に輝いている。
荒い吐息を何度か。指一本離れていない距離で二人は見つめ合いながら、息が落ち着くのを待ち続けた。
「そう言えば……結局さっきの場所では、出来なかったものね」
「え、私……なんて言ったの?」
「気絶寸前に、私にキスをねだったの覚えてないのかしら?」
「……」
レミリアがそう言うと、霊夢は急に気まずそうに目を泳がせて、下を向いてしまった。
この状況で今更だと思うのだが。普段はひょうひょうとしていて、自分からふっかけて来るくせに、改めて他人から言われると羞恥心から固まってしまう。
博麗の巫女とは言っても、やはりその実は多感な年頃の少女に過ぎないのだろう。
今回の一件でレミリアが発見した、霊夢の新しい一面だ。
「ね、ねぇレミリア」
「なあに霊夢?」
「今更気づいたんだけど、私そう言えば此処に来るとき、着替え用意してくるの忘れてるのよね……」
まだ少し照れがあるのか。霊夢は俯きつつも、上目遣いでレミリアに話しかけてくる。
まあもっとも、それがレミリアにとっては凶悪に可愛くて仕方ないわけだが。
「ほんとに今更ね。そして今この場でそんな事言われても、確信犯としか思えないんだけど」
「た、確かにね」
「どうやら……ほんとのほんとに天然みたいね?」
言ったレミリアの瞳が、弓なりにしなった。
「だからねぇ……今日はここに、あんたの部屋に泊まっても良いかしら?」
「ええもちろん。なんなら……その首の傷が癒えるまで、ずっと居たらいいわ」
「ここに居たら、ずっと消えないわよ」
「え?」
「何でも無いわ」
本心をごまかした霊夢に、レミリアはあえて深く尋ねなかった。
レミリアにとって、それよりもまだやるべき事。やらなくてはならない事が残っているから。
自分の為に。そして、
(霊夢の為にも……。今度は私が……彼女を信じる番)
レミリアは霊夢の身体を解放すると、首だけ後ろを振り向き大窓を、その向こうにある月を見上げた。
「とは言っても霊夢。貴女がこの部屋で寝るには、少々暑苦しいでしょうね。吸血鬼の身体なら暑さは全然平気なのだけれど」
「その点に関してだけは、とても羨ましいわ」
「だからこの窓、開けたままで良いわよね。これなら貴女も少しは涼しい筈だし」
「ええ、そしてくれると助かるわ。でも今の季節だと……昼まで寝てたらひ……」
干物になりそうね。そう呟く途中で霊夢は絶句した。
慌てて辺りを見回す。
霊夢達が居るベッドは、その眼前の大窓に隣接する様に備え付けられている。
ベッドの大きさはかなりの大きさがあり、多分二人が大の字になって寝ても充分過ぎる。
しかしそう……二人の寝床は共にここになるのだ。
このまま寝ると言うことは、当然朝になれば……。
「なに焦った顔してるの?」
そんな霊夢の爆発しそうな不安をよそに、相変わらずあっけらかんとした口調と表情でレミリアが問うてくる。
彼女は気づいていないのか。いや普段はしっかりと鎧戸まで閉め切って用心している彼女だ。そんな単純な事に気づかない筈がない。
とすれば……行き着く結論は一つ。
「れ、レミリア……あ、あんた……」
強ばる霊夢の表情をレミリアは、冷たい掌で一掬い撫でつけ、今までに無いほど柔らかな笑顔を作って言った。
「お休みなさい霊夢。お互いに……良い朝を迎えられると良いわね」
【epilog】
ちりちり。ちりちり……と。
肌を焦がす強烈な熱さを感じて、霊夢は再び意識を覚ました。
昨夜の、目覚めた瞬間も変わらぬ闇の中とは逆に、今度はその強烈すぎる日差しに遮られて、目をろくに開けることすら出来ない。
どのくらい自分は眠っていたのか。その感覚は依然掴めないが、どうやら既に陽は相当高く昇っているみたいだと言うことは、体中玉のように浮いた汗が証明していた。
(これもう一度……お風呂借りなくちゃだめだわ)
あの後。霊夢とレミリアは互いに向かい合いベッドに寝転がりながらも、直ぐには寝付けなかった。
暫くはいろんな話をして、睡魔が襲ってくるのを待った。
レミリアは普段のクールなイメージからは想像できないほど、自分からいろいろな事を話しかけてきた。
気持ちは分かる。どんなに平静を装ったって、彼女だって不安なのだ。
いくら気持ちは、好いた人の言葉を信じられると言ったって、やはり今まで五百年間ついて回った太陽に対する恐怖は拭えない。
そんな恐怖をうち消すためか。レミリアは会話が途切れるつど、霊夢にキスをねだった。
ねだられる度に彼女を抱き寄せ、唇を重ね合い。そのうち抱き合ったまま、いつの間にか霊夢の意識は落ちていた。
だから霊夢は自分がいつ眠ったのか覚えてないし、その辺り自分と彼女がどうしていたのかも曖昧だ。
だけど……あれほどどうにかなってしまってもおかしくない雰囲気の中で、結局どうにもならなかったという自信はある。
もしなってしまったら、まるで二人の今生の別れに、一瞬儚く燃え上がる愛の証の様だと思ってしまうから。
(だから……大丈夫、きっと……レミリア)
そう思い、霊夢はゆっくり瞼を開いた。
――おはよう霊夢……気分はどうかしら?
起きたらまたお風呂に入ろう。また二人で……一緒に。
そうして、さっぱりしたら出かけよう。
自分が願った様に。
彼女の望んだ様に。
二人で手をつないで、いろんな場所に。
今までの分も取り戻すくらい、いっぱいデートしよう。
~End~
しかもレミ霊だなんて…嬉しいです
素敵な作品有難うございました
あなたの作品が再び読めて嬉しいです。
素敵なレミ霊をありがとうございました。
でも、甘いよ!これはバナナより甘いよ!
ごちそうさまでした(´∀`)
いいよねレミ霊。
紅魔郷の針巫女ED見てからずっと大好きです
ほどよい甘さでした。
呆れるぐらいで済ませちゃうんだ咲夜さん!
でも、誤字脱字が多かったかな
話の内容が真面目で風呂場や全裸だというのを忘れてた。
互いを信じようとする二人が可愛かったです。
誤字があったけれど、内容が私好みだったのでこの点数で。
良いレミ霊をありがとうございます。
終わり方が特に良かったです
ただ好きなふたりが幸せならそれでいいんや!
違和感を覚えるんですね。そして目がその部分を再確認すると同時に脳内で正しく
変換しようとして、意識が物語から若干離れてしまうのです。
一度や二度ならまあ、問題無いのですが、それが何度も続くとかなり苦痛に感じてくるのです。
それが、このような素晴らしいお話なら尚の事。
例えたった一人の読者からだとしても、そのおかげで作品が正当に評価されないのは
作者様にとっても、勿論私にとっても残念な事だと思い、このような野暮なコメントを書きました。
ご容赦を。
>まあその辺がちぐはぐ差が→その辺のちぐはぐさが、かな。
>霊夢に向かって不適に笑って見せた→不敵、ですね。
>昼真っから出歩いているあんたって……危なっかして→危なっかしくて、でしょうね。
>せっかく二人でどこかへ出かけたい霊夢が思っても→出かけたいと、かな。
>いつも彼女が見せる、夜の王を自称する剛胆不遜さが→四字熟語として使うなら傲岸不遜、ですかね。
>そう言って、レミリアは少し自傷気味に笑った→んーありなんでしょうけど、自嘲気味、の方が多く使われていますよね。
>きちんとした謝罪の言葉を投げられたのは、霊夢が始めてでは→初めて、ですね。
>波紋が霊夢の下まで広がってくる。まるで黙視できない→目視、でしょうね。文脈から考えて。
>「一応……褒められと、受け取っておくわ」→褒められたと、の方が自然かと
レミ霊は雨季のように絡みつく熱気、とはまさにこのこと。
久しぶりにあなたの作品にあえて良かった。
うーん、素晴らしい。
イメージだな。そこがいいんじゃない!!
なんともギリギリで素晴らしいお話だ!
なんという甘さ
>
>肌を焦がす強烈な熱さを感じて、霊夢は再び意識を覚ました。
なにこの描写。
これはアレですか。フラグですか。本塁打ですか。20%ぐらいですk(ry
堪能させてもらいました