春の麗らの幻想郷。
山から麓を見渡せば、郷は新緑に覆われて、所々に美しい桜の色が混ざり――。
だのに、どうしたことだろう、山の麓の湖に突如現わる銀世界。
冬はとっくに過ぎたのに。
はてさて、一体どうしてこうなってしまった事か。
私はその一部始終を見ていましたが、まぁ、そう大袈裟に言う程珍しい事でもありません。
ああ、私ですか?
私は烏天狗の文様に仕えるカラスの一羽で、一番可愛く、カッコいいヤツです。
何、カラスの顔など見分けが付かぬ?
じゃあ、いつも文様の肩にとまっているあのカラスと言えば、人間にもお分かりか。
で、答えから言いますとね、氷の妖精チルノとうちの主人の戯れの結果でして。
なにぶん、氷精は氷や雪を撒き散らし、主人は風を吹き荒らすもんですから、辺り一帯猛吹雪。
巻き込まれると、私の美しい羽が滅茶苦茶になるわ寒いわで……。
やれやれ、全く迷惑でしかありません。
「あいたっ!」
「はい、残念。私の勝ちね」
ペチンと気持ちの良い音がして……ああ、どうやら決着がついたようです。
当然と言えば当然の話なんですが、普通、妖精なんかが天狗の主人に敵う筈はありません。
主人が本気で戦えば、とても面白い勝負にはならない筈なのですが、そこはちゃんといい勝負になるよう手加減してあげています。
すると、妖精もいい気になり、たまに勝っちゃう事もあるんです。
全く、そんな時の主人の嬉しそうな顔ときたら……。
ともあれ、弾幕ごっこが終わった事を確認し、かぁ、と、ほっと一鳴きして、私は主人の肩へと戻るのでした。
「しょうがないわよう、文の弾は見えにくいのよぅ」
「これでも見やすくしてるんだけど」
弾が当たったらしいおでこを手で摩って、痛そうにしながら妖精は負け惜しみを垂れます。
勿論、主人が本気なら、そんなもんで済む筈ありゃしません。
「見辛いのは卑怯よう、だからあたいは負けてない!」
「ああ、はいはい、それでいいよ」
妖精はちょっぴり涙目になりながら、大きく腕を振り上げて抗議します。
それに対して主人はただ、楽しそうに笑顔を浮かべたまんま、あっさり自分の勝ちを放棄してしまいました。
この妖精が潔く無いと思う方もいるでしょうが、いつもはきちんと負けを認める可愛らしさもあるのです。
ただ、今日の勝負は随分と白熱(むしろ白冷?)していたせいか、どうしても負けるのが悔しかったようで。
「じゃあ、あたいの勝ち?」
「あ、いやいや、私も負けてないから。この勝負は辛くも引き分けってことで」
「うーん、あたいは辛いのより甘いほうがいいな」
「じゃあ、甘くも引き分けってことで」
「最強のあたいと甘くも引き分けだなんて、文もなかなかやるわね」
「いえいえ、それほどでも」
きっとこの生意気で、負けず嫌いな所もひっくるめて、やっぱり、主人はこの妖精がお気に入りなんでしょう。
「あたいが最強だとして、文は二番を名乗って良いよ」
「それは出来ませんねぇ。天狗の中には、私よりも強い天狗がいーっぱい居ますから」
「むむむ?」
妖精は偉そうに腕組みをして、ちょっとだけ渋い顔を浮かべました。
主人ときたら、性格が悪いもので、妖精が悩む姿も好きなもんだから、わざとこんなことを言うんでしょうね。
だから、追い打ちでこういう事も言う。
「いやー、きっと貴方より強いわねぇ。私なんかと"引き分け妖精"では、とてもとても……」
「そ、そんなのやってみないと分からないじゃないの……」
途端に慌て始める妖精。
それを見て主人は、意地の悪い笑みを浮かべつつ、大袈裟に手を広げて、首を横に振ります。
「試すまでもないでしょうねー」
「いや! 今から文の山に乗り込んで、あたいの最強を証明してやる!」
「残念だけど、山には天狗以外入っちゃいけないルールがあるのよ」
「何よそのルール、初めて聞いたわよぅ。どうすれば良いのよ……」
もどかしそうに地団駄を踏む妖精をみて、ふと、主人は何かを閃いたような顔をしました。
ああ――残念な事に、主人の閃きは、もっぱら傍迷惑で良からぬ企みなのです。
「簡単ですわ。貴方が天狗になれば良いの」
「へ?」
……妖精はぼけっと目を丸くして、主人の顔を見ていました。
私もきっと同じ顔をしていたに違い有りません。
チルノと妖怪の山 ~最強天狗伝説 前編
いやいや、妖精が天狗になれるわけ無いだろう。
――と、考える方もいらっしゃるかと思いますが。
では、逆に問いましょう。
天狗になるには、一体何をすればよろしいのか。
答えは、天狗に天狗であると、認められる事です。
そもそも、天狗と言うのは多種多様でございまして、人間出身、山に住む狼、主人のような烏もいれば、狗鷲天狗なんてものもいます。
勿論、一人前の天狗と認められるには、それなりの実力と、辛く険しい修業が必要となるのです。
私もまた一人前の烏天狗になるのが夢ですが、最低限、人の姿に化けられるようになる事が、天狗道の門戸をくぐるための条件です。
私はきっと才能のあるカラスですから、五十ばかり生きて、そろそろ変化の術を覚えるに違いありません。
カラス仲間のあいだでも、主人の肩にとまるのを許されているのは、私だけなのです。
……にしたって、その私を差し置いて、妖精なんかが天狗になろうだなんて。
ねぇ?
「別にあたい天狗になりたくないわよ、最強の妖精だもの」
――とまぁ、本人も乗り気ではない事ですし、諦めましょう。
なんて、主人があっさり引き下がる筈もなく。
「妖精をやめる必要はないわよ。私だって、カラスだけれど、天狗でしょう?」
「あれ? 文ってカラスだったの? 天狗じゃないの?」
「あー、うん。つまりカラス天狗なの」
「どっちなのよ?」
「えーと、つまり……。最強の妖精よりも、最強の妖精天狗のほうが強そう」
「むむむ……。確かにそうかもしれないわね……」
何が確かになのか、さっぱり分かりません。
妖精も妖精ですが、合わせられる主人も主人です。
私は、かぁぁぁと、一鳴きしました。
「それにほら、天狗になったら、こんな高下駄履けるんですよ。履いてみたくありませんか?」
「うん……。うん!」
妖精は蒼い目を大きく見開いて、何度も頷きました。
私はこの足なので、靴も下駄も履いたことありませんし、窮屈で不便そうだとしか思わないのですが。
天狗以外には、気になる事柄なんでしょうか?
「今ならサービスで、この紅い頭襟も被れますよ。さあ、これでも天狗になりたくない?」
「なる!」
「うんうん、良いお返事で。それじゃ、早速山に行きましょう。善は急げといいますし」
「おー、いこういこう」
「さて、その前に一つ教えてあげる。貴方みたいな天狗になりたがっている可愛い子供を見つけたら、天狗は如何にするのか。それを教えてあげるわ」
そう言って、主人は妖精の小さな手をぐっと握りました。
「何すんの?」
「攫うのよ。天狗らしく、ね」
主人の体から、凄まじい風圧を感じて、天地がくるりと回ったのも一瞬。
次の瞬間には二人の姿は見当たらず、残ったのは遠ざかる妖精の楽しそうな悲鳴と、肩から落ちた私だけ。
かぁー。
§
今日はまだ、行き先がわかってるだけマシでしょうか。
何かを見つけた主人が突如加速して、置いてけ堀にされる事にも、慣れたもんです。
悲しいけれど。
私が二人に追いついた場所は、とある大天狗様のお屋敷の前でした。
大天狗様と一口にいっても、手がける仕事は様々で、報道を手掛けたり、出版を手掛けたり、はたまた警備を担当されたり……仕事が無い方もおられます。
確か、ここの大天狗様は、見習い天狗の修行なんかを手掛ける大天狗様でしたっけ。
はてさて、大丈夫なんでしょうかね。
「なんか大きくて、それにでっかい家ね」
「そういう感想、貴方らしくてとっても良いと思うわ」
「んん? なんか褒められてる感じがしない……」
大きいのは確かですが、大天狗様の屋敷としては、特に大きい訳でもなく、人里の稗田の屋敷と同じくらいでしょうか。
古めかしい門をくぐると、枯山水の庭が見えます。
……と言っても、どうも手入れがいまいちで、石のスキマのあちこちから、雑草なんかが生えていて、何だかだらし無い感じがしてきます。
「……う、なんだかお酒臭い家ね」
「これくらい普通ですよ、普通。慣れていかなきゃね」
「うー……平気よ、これくらい」
夫婦の天狗でなければ、どんなに広い家でも、大体一人で住んでるものです。
大天狗様の屋敷が広いのは、もっぱら宴会会場として機能するためでありまして。
酒豪の天狗や河童が、飲めや歌えやの宴会を何百年も続けてきたんですから、会場から酒の匂いが取れなくなるのも無理はありません。
「んで、どうしてあたいをこんなところに連れてきたの?」
「これからお世話になる大天狗様にお目通しをね。さて、初対面の人に会ったら、まずどうします?」
「弾幕ごっこね」
「ああ、かわいそうなチルノ……。貴方は何も悪くないわ。きっと巫女や泥棒が、周りのみんなが、環境が貴方をそんな風にしてしまったのね」
「なんかムカつく。……あたいだって本当は知ってるわよ、挨拶すればいいんでしょ」
ちょっとだけ顔を赤くした妖精は、さっさと呼びなさいようと、悪態をついて、恥ずかしさを紛らわせるのでした。
「大天狗様、いらっしゃいますか? 文々。新聞の射命丸です」
しんとした、少しの静寂の後、身の丈十尺もあろうかと言う大天狗様が、背を丸めて窮屈そうに玄関から出て来られました。
「おお? 文か。宴会でも無いのに、儂に用とは珍しいのう」
立派なお鼻も、真っ赤な顔も、まさに大天狗様と言った感じです。
その威厳に圧倒されて、私は思わず嘴をくっと、引き締めました。
それが普通の反応だと思うでしょう?
「わーっ! でっけー!! でかっ!」
でも、妖精は普通じゃありませんでした。
彼奴めには、怖いものってのが無いんでしょうか。
「……って、なんじゃこいつは?」
「ねえ、文、この爺ちゃんでかいよ! 赤いし! 鼻とか天狗みたい!」
「そりゃ大天狗様ですからね。ほらほら、挨拶」
あ、そうだった、とばかりに妖精は手をポンと軽く叩き――
「あたいチルノ! 最強の妖精なの」
と、右手を挙げて元気良く挨拶するのでした。
「さすが妖精、元気じゃのう……。儂は大天狗の大崎坊白山と言う」
「その鼻触っていい?」
「そいつは勘弁してくれんかのう……」
大天狗様はまだ事態が飲み込めていないようで、長い眉に隠れた小さな目を、妖精に向けたり、主人に向けたり。
しかし、これだけ無礼千万な振る舞いをされて、ちっとも怒りやしないのは流石に器が広い。
うんうん、まあ、相手は妖精ですからね。
「で、射命丸よ。一体何の用なんじゃ? 妖精なんか連れて来て」
「天狗になりたいそうなので、攫って来ました」
「ふふん、攫われてやったわ」
流石の大天狗様も吃驚したのか、小さい目がぎょっと開きました。
一方の主人と妖精は……何故、二人して得意げな顔をしているんですかね……。
「と言うことで、大天狗様。今日からこの子を天狗として修行させてくれませんか」
「はい、わかりました……と言うとでも思っておるのか」
温厚そうな大天狗も、主人の突飛な発想に少々不機嫌になってきたようで。
まぁ、そりゃあそうでしょう。
おちょくりに来たとしか思えないじゃないですか。
……思えないと言うか、そうなんでしょうけど。
「いくらなんでも、妖精が天狗になれると、思ってるわけじゃあないじゃろ?」
「いいえ? 妖精が天狗になっちゃいけないなんて掟はありませんわ。それに、ここ百年大天狗様ボヤいていたじゃないですか。入門者が少ないって」
「そりゃあそうじゃが。いくら少ないからって、妖精に修行をつける気は……」
ああ、大天狗様、天狗になりたい鴉が此処にいます! 此処にいますとも!
もしも喋る事が出来たなら、そう叫んでいたでしょう。
しかし、悲しいことに私の口から出るのは「かぁー」という、儚く切ない鳴き声だけで御座います。
「何よお爺ちゃん! あたいの強さを見くびってるわね」
「お嬢ちゃん。鼻っ柱が高いだけじゃ天狗にはなれんのじゃよ」
「お爺ちゃん程鼻は高くないわよう」
妖精は両手を腰にあてて、氷の翼をはためかせて浮かび、大天狗様の鼻先でぷうと顔を膨らませます。
大天狗様はいづらそうに白いお髭を、二度引っ張ると、はぁ、と深いため息を吐きました。
「例えお嬢ちゃんが本当に強かろうと、強いだけじゃダメなんじゃ」
それまで自信満々だった妖精が、急に静かになりました。
「……あたい最強だけどさ、頭の方には自信無いや。……妖精は、勉強する方がバカみたいに言われるから」
「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり。本当は儂が思っている以上に、お嬢ちゃんは賢いのかもしれん」
大天狗様は大きな手のひらで、妖精の頭をぽんぽんと、軽くなでるように叩きました。
「人妖が智慧を求めるのは、生きる意味を知らず、されど死を恐れるからじゃ。じゃが、妖精は死を恐れない」
「何を……。小難しい事言って、諦めさせようったって無駄よ」
「生命としての在り様が、人間とも、妖怪とも異なるんじゃ。やはり妖精は天狗にはなれんよ」
大天狗様の説法が、妖精なんかに理解出来るとは思いません。
それでも、押し黙ってしまったのには、何かしら通じる部分もあったからでしょう。
何だかんだ、この子は妖精としては賢く、強いのです。
そして激昂する事もなく、妖精相手にも優しく悟した大天狗様は、立派な方なのでしょう。
……ですがこれは。
この気持ちは何でしょうね。
まさか、いや――ああ、間違いない。
私は何てことを考えているのでしょう。
全くどこまで、無礼な烏なのでしょうか。
つまらんのです。
気にくわないのです。
どうにも面白くないのです。
そして情けないのです、腹が立つほどに。
桃太郎は、か弱い人間が鬼を倒すから面白いのであって、鬼が桃太郎を食ってしまえば、誰もその話を伝えたりはしないでしょう。
大天狗が妖精をやり込めたって、日常は何も変わりゃあしない。
妖怪がそんなつまらない、選択肢を選んで良いのでしょうか。
彦一に騙される天狗のほうが、今の大天狗様よりも、ずっと天狗らしいじゃありませんか。
……はぁ。
こんな事を考えてしまうなんて、一体誰の影響なんですかね。
さっきまで、妖精なんか天狗になれるわけがない、まして私より先に――と、嫉妬さえ覚えていた筈なのに。
きっと、今の私と同じように、つまらなそうな目をしている、主人の影響なんでしょうね。
何十年も仕えて、やっと、初めて、主人の心が読めたような気がしました。
ならば、このまま終わらせるつもりなんて、ないでしょう?
「あーあ、大天狗様ったら。いたいけな妖精さんをイジメちゃいけませんよ?」
「何を言うとる。儂はイジメてなんか……って」
「ひっく……えぅ……ぐっ……」
「お、おおい、お嬢ちゃん……。泣んでくれよ」
「泣いてないもん! ゴミに目に入っただけよ! ……ひっぐ……うぅ……」
目尻から氷の粒を零すことは、泣くとは言わないのでしょうか。
普通、凍った涙を流す事はないでしょうから、なるほど、新しい言葉が必要になるのかもしれません。
屁理屈ですけど。
「『大天狗様、妖精を泣かせる』ですか。うーん、イマイチですねぇ。弱い者いじめはいけませんねぇ」
「これ見よがしにカメラを持つでない! 大体、誰がそんな記事読むものかい」
「あら、大天狗様、それは誤解です。記事になんてするつもりはありませんわ。おほほ」
そうは言いつつも、主人はととんと軽いステップで後ろに下がり、二人が写真に収まるベストポジションを探しているわけで。
カメラ後ろからのぞく笑みが、本当に楽しそう。
もう、ほんと性格悪いんだから。
「あー! ちょっと文ぁ! こんな写真とらないでよぅ!」
「ねぇ、大天狗様、いいじゃないですか。小難しい事考えず、妖精と遊ぶのも良い暇つぶしになりますよ?」
「暇つぶししたいのは、儂じゃなくてお前じゃろう! 大体、天狗の修行は遊びでは――」
「いやいや、殆ど遊びみたいなものじゃないですか。私は楽しかったですよ、修行」
修行が遊びみたいなものとは。
うーむ、それなら私だってきっと、と、少し淡い期待が浮かびました。
……しかし、よく考えると、あの主人にとっての『楽しい』でしたね。
うむ……むむむむ。
「大体、そんなに厳しい修行なら、きっとすぐ音をあげるでしょう?」
「……まぁ、うん、そうじゃろう」
静かに頷くものの、大天狗様はどこか不安そうな……。
主人が強気だからでしょうか。
もしかして、妖精が修行を乗り越えてしまう勝算があるのでは、と、考えているのでしょうか。
これでも私は長年主人の側に仕えている分、あの妖精についても詳しいのです。
妖精にしては頭が良いといっても、所詮は妖精で御座います。
そこらの一般カラスよりかは、多少賢いかもしれませんが、天狗のような智慧が身につくとは到底思えません。
大天狗様と言え、こう優しい性格だと、主人のような悪どい天狗に気圧されてしまうもんなんですねぇ……。
私も気を強く持たねば。
「なら、そこまで付き合ってあげても良いんじゃないですか? それに、もしかしたら凄い才能があったりして? ねぇ、チルノ」
「そうだね、あたい最強だし、もしかしたら天才ってこともあるかもしれないわね」
「お前らと問答しとると、頭が痛くなるわい……」
主人の吹かせる追い風を感じたのでしょう。
妖精もいつの間にか落ち着きを取り戻し、腕組みをしてふんぞり返り、まるで小さな身体を大きく見せようとしている様でした。
「ああ、もう、わかったわかった。修行を受けさせてやろう。只の気まぐれでな」
「はいはい、判ってます、判ってます」
さしもの大天狗様も観念したように見えます。
大きく深いため息を吐いた後、うん、と一つ咳払いをして、威厳を取り戻しました。
「どうせすぐ音をあげるに違いあるまいよ。いやならいつだってやめていいんじゃぞ? お嬢ちゃん」
「へへん、お爺ちゃんなんかすぐに追い抜いてやるんだから。あ、お嬢ちゃんじゃなくて、チルノがいいな」
「ああ、よし、ではチルノよ。修行は明日からとするから、今日のところは帰りなさい。修行以外のことは、文が面倒を見てくれるそうじゃから、な」
「私がですか? そうですね、当然ですよね、私にお任せください」
「うん? ……なんじゃ、嬉しそうじゃのう。つまらん」
大天狗様の仰る通り、主人の顔は喜色ばんでいました。
一方、私の心中は複雑です。
妖精に修行を受けさせる大天狗様が見てみたい事は本当です。
しかし、先を越されて面白くない気持ちも消えた訳ではないのです。
「さて、チルノ。何事もまず外見からよ。見た目が変われば、中身も変わるものですから」
「ん、どういうこと?」
「見習いとは言え、天狗となったからには天狗らしい服装をしなきゃね」
「え、その帽子とか靴とか、ぽんぽんとか?」
「ふむふむ、ぽんぽん付いたタイプの帽子がお好みなのね。買ってあげる」
「やった!」
……ああ、なんと、なんと羨ましい! 私なんて煎餅の欠片くらいしか分けて貰った事が無いと言うのに。
「さて、それじゃちょっくらお買いモノに行きますか」
「うん、いくいく!」
「では、大天狗様。今日は失礼しますわ。明日からよろしくお願いします」
そう言うと、湖の時と同じように、主人は妖精の手を掴み、烈風と共に飛び去っていきました。
また私は置いてけ堀で。そろそろ拗ねますよ。
「なぁ、もしかしてあやつ、そういう趣味なのか……?」
また取り残された私の方を見て、大天狗様はぼそりと呟きました。
そうかもしれませんね。
§
文々。新聞 第百三十季 卯月の二
『山に新たな天狗見習い! その正体は妖精?!』
御存知の通り、野に棲む獣や人間に比べて、新しく妖怪が生まれる機会は少ない。
強い妖怪ほど生まれる妖怪は少ないが、特に博麗大結界で幻想郷が隔離されてからは、その傾向が顕著になった。
これは幻想郷に棲んでいる人間の数に対して、妖怪の数が多すぎるのが主たる要因である。
我々天狗も伝統的に、将来有望な人間の子供を攫い、英才教育を施して立派な天狗に育てたりもしたものだが、現在は幻想郷のバランスを考慮した結果、一時中止となって久しい。
仕様がない事とは言え、可愛らしい新入りの天狗を見なくなって寂しい思いもある。
特に天狗見習いの教育を行っている大天狗様(大天狗)は、宴会を開く度に寂しい寂しいと愚痴を零していた。
ところが昨日、そんな大天狗様の元へ入門者がやって来た。
これまで本紙でも何度か取り上げているため、御存知な読者の方も多いだろう、霧の湖に棲む、氷を使う妖精チルノ(妖精)である。
入門希望者が妖精と言う事で、初めは戸惑っていた大天狗様だったが、その冷たい身体の内に潜む熱意に感動し、本日から天狗としての修行を始める事と相成った。
写真は真新しい天狗の衣装を身に纏う、天狗見習いチルノの晴れ姿である。
「見て、このぽんぽん! ちょっとこそばゆいんだけど、可愛いでしょ?」(ぽんぽんとは頭襟から垂れ下がるアレ。所謂梵天の事である)
尚、この可愛らしい天狗見習いの修行以外での教育を本紙記者が担当することになった。
そのため、暫く本紙で特集記事として取り上げていく予定である。(射命丸 文)
§
「……しっかり記事にしとるじゃないか」
朝の新聞配達は私の大事な仕事の一つで御座います。
尤も、大半は主人が配ってしまうのですがね。
今日は主人の命令で、大天狗様に手渡しせよとの事。
新聞を届けると、大天狗様はその場でさらりと読んで、不安げにため息を吐くのでした
「しかも特集……。先が思いやられるわい」
「あら、流石大天狗様でいらっしゃいますね。幻想郷一早くて正確な、文々。新聞をご覧になっているとは」
噂をすれば何とやらで。
早々に新聞を配り終えた主人が、満足げな笑みを浮かべてやってきました。
「お前が届けさせたんじゃろ」
「どうでしょう、これを機に定期購読するのは?」
「結構じゃ。ところでお嬢ちゃんはどうした?」
「もうすぐ来ますよ。リボンの結びに納得がいかないそうで」
大天狗様は髭をいじりながら、ふむ、と、二、三回うなずき、微かに微笑んだように見えました。
それから一分と経たぬうちに、西の空から見知った妖精がやって来ました。
ただ、いつもと違うのはその色合い。
赤、白、青、黒。
小さな頭には、ちょっと大きい赤い頭襟。
いつもつけてる大きなリボンも、頭襟に合わせて赤いようで。
天狗の髪の毛と言ったら、大体、烏天狗の黒か、白狼天狗や老いた天狗の白髪ですから、妖精の水色の髪は、少々目立ちます。
主人に買って貰ったであろう真っ白な鈴掛(すずかけ)に、黒い袴を身につけて、氷の翼をはためかせておりました。
ああ、羨ましい。
若しも私が天狗になれたなら、どんな姿になるのだろう。
あの妖精くらいには、可愛らしい姿になれたなら、主人も構ってくれるかもしれませんね。
「おはよう、お爺ちゃん!」
「これ、遅いぞチルノ。天狗たるもの何事も素早くなければならん。」
「うん」
「返事は「はい」!」
「はい!」
「それと「おはよう、お爺ちゃん!」って挨拶は駄目じゃ。教えを乞うものとして、もっと言い方があるじゃろう?」
「あ、そうだ……。昨日、文に教えて貰ったんだ」
「……ほう、言うてみ」
妖精は大きく息吸いこみ、少々緊張した面持ちで、改めて大天狗様に向かいます。
不思議と私や大天狗様まで緊張してしまうのは、嫌な予感がするせいでしょうか。
「お早御座います、お師匠様」
……と、嫌な予感とは裏腹に、妖精はごく普通に、丁寧にお辞儀をしました。
当然と言えば当然なんですが、どうしてこう落ち着かないんでしょうね。
「どうして私のほうを見るんですか」
「いや、何かとんでもない挨拶でも、仕込んで来るんじゃないかと思ってたんじゃが」
「あやや、ご期待に沿えなくて申し訳ありませんでした。次は善処致します」
「……いや、沿わなくてよろしい。まあ、挨拶は合格としておこう。明日からは儂が起きるより早く来るように」
「はい! お師匠様!」
五月蠅いくらいに声を張り上げて、返事をするくらいですから、やはりどうしようもなく素直な性格なんでしょう。
天狗にもいろんな性格な方がおります。
主人のように真面目なんだか、捻くれてるんだか、判らない方もおりますし、酒が入るまで物静かな方もいます。
あるいはそんな方々にも、もしかしてこんな時代があったのでしょうか。
主人の修行時代の姿なんて、想像出来ませんが、言葉が喋れるようになったら、是非訊きたい事柄の一つです。
「さて、それでは早速修行を開始しようか」
「ねぇ、おじ……しょう様」
「うん、なんじゃ?」
「ずっと思ってたんだけどさ、修行って何をするの?」
「それをこれから教えるんじゃよ。まぁ、修行といったら、当然アレじゃよな」
「なあに、アレって?」
「まぁ、ついてきなさい」
……なにさ、大天狗様ノリノリでないですか。ねぇ?
なんだ、新聞もあながち間違いじゃあなかったんですね。
それにしても、果たして大天狗様の言う修行とは、一体何なのでしょうか。
――サアサ、かくして我々一同は、不安を胸に修行場所へと向かうのであります。
……となるかと思いましたが、誰も彼も、全然不安そうではありません。
主人はいつも通り笑顔を浮かべていますが、まったく何を考えているのか判りません。
大天狗様は腕組みをして、堂々と大股歩きで前を進みます。
その背中からは、どうにも楽しそうな気配が漏れているような気がなりません。
そして妖精は、まるで大天狗様の真似でもするように、腕を組んで大股歩きで進むのでした。
高下駄でほんの少し背が高くなって、いい気になってるのでしょう。
歩き出して(私は飛んでいますが)間もなく、向かっている先が判りました。
尤も、主人と大天狗様は、最初から判っていたんでしょうけれど。
ごうごうという、莫大な量の水の流れ落ちる音がだんだん大きくなって来たのですから、向かってる先は一つしかありません。
その落差から『九天』と名付けられた、幻想郷で最も巨大な瀑布に他なりません。
「古くから、修行と言ったらこれ。即ち滝行じゃ!」
「たきぎょう?」
「そうじゃ。どこまでも荒々しく、力強く。夏でも身の凍るような冷たい滝に挑む。これほど修行らしい修行はあるまい。質問はあるかね?」
「はい! ……何のために?」
「何のためにって……そりゃあ……」
しばしの沈黙。
「修行の答え――……それは自分で見つけるものじゃ。千の天狗がおれば、千の答えがある。儂はその手助けをしているに過ぎないのだよ」
「むむむ、なんだか誤魔化されているような気がする……」
「誤魔化してなんぞおらん! ……兎に角、一心不乱に打ち込めば自ずと答えも見えてこよう!」
「うー、うーん、はい! わかった!」
「とりあえず、川の先に太陽が並ぶ時間までやるとええ。丁度昼飯の時間じゃからな。腹一杯のお握りを用意して待っていよう」
妖精はまだ何となく納得がいかない表情を浮かべていました。
ううん、大天狗様の言わんとする事も判らなくはないんですが……。
正直、この修行に何の意味があるのかは疑問です。
とか考えていると、次に口を開いたのは主人でした。
「いやいや、ちょっと待ってください大天狗様。それは流石に説明不足では」
「そうかのう?」
「その説明だけだと、念仏を唱えながら滝に打たれるまぞひすとの姿しか思い浮かびませんよ。まぁ、そんな阿呆な真似をしたヤツなんて一人しか知りませんけど」
「あれもあれで答えの一つではあるが……」
……あれ? 違うんでしょうか。
私もてっきり、念仏を唱えながら滝に打たれるまぞひずむな修行を思い浮かべたのですが。
「いい、チルノ。どっかのまぞひすとみたいに、何時間も滝に打たれ続けて身体を壊すような真似をしちゃだめよ」
「うん? まぁ、最強のあたいが滝ごときに負ける筈はないんだけどね」
「……射命丸。お前さん、少し過保護じゃないかね」
その時でした。
滝の音をかき消すような、甲高く、大きな声が響いたのは。
――誰がマゾヒストだ! 聞こえているぞ、この放蕩烏め!
「あやや、聞こえていましたか。流石の地獄耳ですね」
「え? 誰?」
声のした方角は、滝の中腹あたりでした。
見上げると、滝から勢い良く、小さな白い影が飛び出し――それが、瞬きをする間も無く大きく。
そして、巨石でも落ちてきたんじゃないかと思うような、ずしんという重い音がすると、そこには一人の天狗様が立っておりました。
新雪のように白く輝く、銀の髪。
瞳は主人のように紅く、しかし鋭く。
左手に紅葉柄の白い盾、右手には何より目を引く、背丈ほどもある黒鈍色の大刀。
白狼天狗の犬走椛様でした。
「あらあら、お仕事サボって大丈夫なの? 椛。また白黒に入られるわよ」
「それでも廃刊寸前の弱小新聞記者ほど、せせこましくはないね。文。しっかし、こんな妖精の子供まで使ってネタ作りとは……いやはや、涙ぐましいね」
最も恐ろしい事は、言い争いをしている最中から、二人とも全く笑顔のままであることです。
会話の内容さえ耳に入ってこなければ、これは全く仲の良い二人の談笑にしか、見えないことなのです。
尤も、妖怪の山で二人の仲の悪さを知らぬ者はおりませんが。
主人の肩に乗っていると、あの犬走様の背丈ほどもある大刀が、いつ主人ごと私をを袈裟切りにするかと、恐ろしくて仕方がありません。
言い争いで済む日はまだ良いのですが、喧嘩になったときは全速力で逃げないと、吹き荒ぶ鎌鼬やら、岩をも切り裂く剣戟の嵐に巻き込まれるのです。
「全く、お前らと来たら……」
「あっ、大天狗様! 申し訳ありません、ご挨拶が遅れました……。お久しぶりで御座います」
言うや否や、犬走様は大天狗様に深く頭を垂れました。
私から見ると、主人と犬走様はまるで性格が真逆で御座います。
ただ、それでいて二人とも天狗らしい性格をしているのです。
主人が狡猾で好奇心が強い天狗像とするならば、犬走様は目上の方に従順で、義に厚く仲間思いな天狗と言って良いでしょう。
しっかし、なんででしょうね。
性格が合わないってだけじゃあないと思うんですが。
「ところで大天狗様。この子ですね。天狗になりたいって言う妖精は」
「ふふん、そーよ! 最強の妖精チルノとはあたいのことよ」
「噂通りの生意気だなぁ。おい、あんまり大天狗様を困らせるような事するんじゃないよ?」
犬走様は大刀の柄に両手を乗せ、顔だけ妖精にずいと顔を寄せて、私が先輩だぞと言わんばかりに威圧しました。
犬走様は主人よりも頭半分背が低く、天狗としては比較的小柄であります。
と言えど、犬走様のお勤めされている場所は、九天の滝――顕界と天狗界の境、言わば番兵とも言える存在です。
そんな犬走様に威圧されるのですから、流石の怖い者知らずでも、一歩、二歩、じりじりと後ろに下がるのでした。
「な、何よ……」
「私は犬走椛。山の自警団の一員――」
「――の、下っ端天狗」
「……やかましい。さて、貴方が本当に天狗になれるかどうかはさておき、この烏天狗みたいにはなるでないよ。悪い見本の見本市だからね」
「なら、文の教育はあたいが責任を持ってやるわ!」
一瞬呆気にとられた犬走様でしたが、すぐにあはははと大きな声をあげて笑い出しました。
そりゃあもう、腹を抱えて涙流しての大笑い。
何がうけたか判らぬけれど、つられて妖精も大笑い。
大天狗様も笑いを堪えておかしな顔に。
そして主人は笑顔のまま――。
「痛ーっ!」
妖精に拳骨くれてやりました。やーい、ざまぁみろ!
折角ですから、私も突いてやりましょう、えいえい。
「な、なんでこいつまで……!」
「あんまり調子に乗らないの! で、そこの笑い転げてくれてる天狗も、今なら良い見本になれるほど成長したのかしら?」
「はっ、あははっ……ひーっ……。……おほん、そりゃあ勿論。一つお手本を見せしようじゃないか。宜しいでしょうか? 大天狗様」
「構わんよ」
「では……」
犬走様は再び大天狗様に一礼すると、右手の大刀を順手に握り直し、続いて滝にも一礼しました。
明鏡止水。
例えるならば、この言葉がしっくりと来るでしょう。
静かに佇む犬走様を見ていると、轟々と唸る滝の音さえ、消えてしまった化のように思えました。
その身体が僅かにに沈んだ、次の一瞬――。
猛烈な風と共に、滝の中腹まで一気に飛び上がり――次の瞬間、瀑布は斬り裂かれていました。
落下する水と、露出した岩肌、その上に綺麗な線で斬り裂かれた瀑布があったのです。
ほんの一秒、いや、その四半分にも満たない瞬間の出来事でしたが、まるで立体的な写真でも見ていたかのように、私の目に焼き付いたのでした。
そうだ、そういや写真と言えば、主人ですが……ああ、やっぱりカメラ構えてた。
「いや、見事。腕を上げたのう」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じ奉ります」
この仰々しい言い回しが、犬走様らしいと言いましょうか。
ちょっとだけ誇らしそうな顔をしながら、妖精に話しかけるのでした。
「どう、見えたかい?」
「え、うーん、良くわからなかった……」
「えっと、今のは……。雨を斬れる様になるには、三十年と言ってね、滝を斬れる様になるには――いや、何でも無い……」
「あ、でも、あたいもその剣持ってみたい……かも」
「そう、ありがとう……」
どんな面白い小噺でも、理解されなければ寂しいだけです。
犬走様の渾身の一閃も、妖精相手には対象年齢が高すぎたようで……。
流石の妖精も気不味かったのか、柄にもなく気遣いなんて入れましたが、かえって犬走様を惨めにしてしまった気がしないでもありません。
「まぁ、椛。そう気を落とさないの、よしよし」
「よしよし、じゃない! このっ……嬉しそうな顔をして」
「で、チルノよ。この修行は滝を舞台に、培った技術を披露する演舞のようなものでな。氷の力は天狗の業とは違うが、今のお主の力を見せてくれ」
「はい! この滝より、あたいの最強の歴史が始まるのよ!」
――さて……。
この後に起こる悲劇を、この時誰が予期出来たでしょうか。
もしかすると、主人だけは知っていたのかも知れません。
もしも私が喋る事ができて、主人にそのことを訊いたとして、「知りませんでした」の一言で返される気がしますがね。
妖精は氷の翼を忙しなくはためかせ、滝煙を避けるようにして、ふらふらと飛んでいきました。
「何をふらふら飛んでおるんじゃ」
「水滴が身体について、凍るのよう!」
「なんか危なっかしいのう……」
妖精は滝煙に巻き込まれないくらいの高さまで浮かび、大きく息を吐いたり、吸ったり。
準備運動でもしているんでしょうか。
暫く腕を伸ばしたり、脚を伸ばしたり、無謀な妖精らしくもなく躊躇をしているようで、大天狗様もいらいらし始めました。
「いやならやめても良いんじゃぞ!」
「ちょ、ちょっと力を溜めてるだけよ! 度肝抜いてやるんだから! 見てろ-!」
妖精は、思い切り身体を左に捻ると、反動を使ってぐるぐると回転し――。
「フリーズ! アトモスフェア!」
バチバチと大気が弾けるような音をたて、離れてみている私達にもハッキリと判るくらい、強烈な冷気が妖精のほうから吹き荒びました。
滝煙も空気も凍りつき、妖精の周りは太陽の光を乱反射した結晶で輝き、良く見えません。
しかし、この力――本当に妖精の範疇に収まる力なのでしょうか。
「ほら、春のダイヤモンドダスト! 綺麗でしょ? どう?」
「滝には掠りもしとらんぞ!」
「ぬ、しまった。ぐぬぬ……! もう一回!」
哀れ、滝は射程距離外。
所謂、近距離パワータイプと言うヤツでしょうか。
今度は妖精、じっと、腕組みをして考えています。
「……やっこさん、今度は何か考えておるのう」
「ううむ、成る程。妖精にしては強い力を持っていますね。おつむは兎も角……」
犬走様と大天狗様が、意外と真剣に見つめる一方で、主人は――
「わくわく」
と、声に出して、わくわくしていました。
ああ、まるでいつも通りだ。
そう思うと、言いしれぬ悪い予感がしてきました。
主人がこんな風にわくわくしているときは、大体ロクでもない事が起こるのですから。
そのうち妖精は何かひらめいたのか、ポンと手を叩き、うんうんと二回頷くと、突如、滝の上へ向かって飛び上がりました。
「おーい、どこへいくんじゃ!」
滝の音と距離のせいで聞こえなかったのでしょうか。
妖精は呼びかけに応える事もなく、一直線に滝の上へと飛んでいきました。
「何をする気なんじゃ、一体」
「まぁまぁ、見ていましょうよ。大天狗様」
私は結構視力の良い方ですが、滝の上まで行くと、小さな妖精の姿は点にしか見えません。
天狗の方々は、もっと視力が良い筈なので、きっと見えているんでしょうけれど。
滝に変化が現れたのは、それから間も無くのことでした。
巨大な氷塊が、滝の上から落ち、ざぶんと大きな音を立て、それが、一つ、二つ、と数を増し――。
やがて滝壺を氷塊に埋め尽くし、滝壺に浮かぶ氷塊は更に周囲の水を凍らせて、川は見る間に凍っていくのでした。
最後には滝そのものが、巨大な氷柱へと変化していったのです。
これには流石の大天狗様も、犬走様も、言葉を失っていました。
「ほらー! 見て見て! あたいにかかれば滝だってコチンコチン! 文、見てた?」
「ええ、見てたわよ。凄いわねぇ、流石チルノねぇ」
「……でも、ちょっと全力出し過ぎて疲れた」
それでもふんぞり返る妖精を、主人は前から、後ろから、上から横から、激写します。
大天狗様と犬走様は、凍った滝壺の上を歩いて、下駄とか刀でこんこんと叩き、滝壺が本当に凍ってしまったことを確かめていました。
「いや、こりゃあ、おったまげた。凄いじゃないか、チルノ」
「うわぁ、私の家が丸見えだ……。本当に妖精?」
冷気の余波のせいか、滝壺の周りはダイヤモンドダストや雪やらに覆われて、すっかり冬景色になっていました。
「滝まで凍りついちゃってまぁ……」
「ふふ、負けてるんじゃないの? 椛」
「いや! 確かにインパクトはこっちのほうがあるけれど! 私の業には洗練された技術の美しさと言うか、ええと――!」
熱くなり始めた犬走様が凍った滝の氷柱を、どん、と、叩いてしまったその時でした。
……私たちは、この時、もう少し考えるべきだったのです。
せき止められた水が、一体どこに溜まっているのか――。
「あれ……? ごごごって何の音?」
「……あ、皆さん。急いで避難した方が良いですよ。危ないから」
「なんじゃ?」
見ると、いつの間にか主人は川縁の木の上にとまり、滝の上を指差しています。
滝壺に残っていた、私を含む一同は一斉に上を見ます。
そして三人が悲鳴をあげたのは、ほぼ同時でした。
ええ、そうです。滝の上にあっただろう、天然チルノダムが決壊したのです。
滝が凍結してからおよそ一分。
その間に蓄えられた水量と、砕け散った氷の塊が、とんでもない高さから降り注いで来たのです。
妖怪でもない私が当たったら――死ぬ!
私は必死で羽ばたき、犬走様は四つ足で滝壺を走りました。
そして、大天狗様は滝壺を二足で走って転び、妖精はオロオロして、鉄砲水に飲み込まれてしまいました。
「も、椛ぃ! 文ぁ! 助けてくれ! あーっ!」
「ぎゃー! 流される!」
「だ、大天狗様ぁ!」
主人と犬走様は、直ぐさま鉄砲水を追いかけました。
しかし、水の勢いが激しかったのもあり、追いつきはすれども引き上げる事が出来ず、
結局、二人を飲み込んだ鉄砲水は、更に運悪く川で遊んでいた河童を二人ほど巻き込み、下流にある霧の湖に注ぎ込んだところで、勢いを失いました。
§
「チルノ、お前はもう、滝行はええわい……」
「え、じゃあ合格? やった! あたいってばやっぱり最強ね!」
「どっちかと言えば禁止なんじゃが……。まぁ、うん、合格でいいか」
「ところでお師匠様、顔色悪いよ?」
いつも赤い顔を、寒さで青くした大天狗様は、毛布にくるまってガチガチと震えておりました。
一方、犬走様と主人は……少し離れたところで、何やら言い争いをしている様でした。
「文! ……お前ときたら、今日もまた私の仕事の邪魔をして!」
「仕事って、どうせ滝の裏で河童と将棋打ってるか、ごろごろしてるだけでしょ? だから今日は仕事を持ってきてあげたんじゃない」
昂ぶりやすい犬走様と、からかうような主人の声。
こうなると、次の展開は読めたようなものです。
「今日こそその捻くれた根性を叩き直してくれる!」
「弱い犬ほど良く吠えるわねぇ」
「狼だ!」
ほらね、空に飛び上がった二人が、目にも止まらぬ速さで闘い始めました。
全くもって、いつもの光景です。
「また始めおった……」
大天狗様は熱燗にした日本酒を、徳利のままゴクゴクと飲み干します。
すると、青かった顔が段々と赤味を戻していくのでした。
「あのな、チルノ。ここだけの話じゃがな。あいつら、本当は凄く仲良いんじゃよ。同じ年の同じ日、同じ刻に生まれたくらいだからな。
椛が滝に打たれ過ぎて熱を出した時は、青い顔した文が椛を背負って儂の家に飛び込んで来おった。
椛が死んじゃうって、泣き顔でなァ。あやつの泣き顔を見たのは、あれが最初で最後じゃった。
おおっと、儂がこんな事言ったなんて知れたら、どんな復讐されるか判らんな。絶対に言うなよ? 約束じゃからな」
「そんなの、見ればわかるわよ!」
何故か不機嫌になった妖精に、大天狗様はキョトンとするばかりでした。
まあ、私には判りましたけれどね。
§
文々。新聞 第百三十季 卯月の三
『鉄砲水に御用心』
本日午前。九天の滝で発生した鉄砲水は、大天狗一名、天狗見習い一名、河童二名を巻き込む被害を出した。
幸い巻き込まれた四名に怪我は無く、霧の湖に注ぎ込んだところで鉄砲水は勢いを失った。
鉄砲水に巻き込まれた夜吉さん(河童)はこう語る。
「妖怪の山じゃ日常茶飯事だぜ。でも、大抵どっかの河童の実験のせいで、天狗様のところで起きるなんて初めてだけど」
鉄砲水の発生するメカニズムは、流木や土砂が一時的に川を堰き止めて天然のダムが形成され、その後ダムが決壊を起こす事で発生する。
我々天狗は常日頃から、河川にそのような異常が起きていないか監視を行い、鉄砲水が起こる前に流木などを取り除く仕事も行っている。
そのため今回のケースのように、天狗の管轄する地域から鉄砲水が発生する可能性は低いのだ。
その上、本日の天候は快晴で、流木、土砂が溜まるような予期が出来る条件が無かったため、巻き込まれる妖怪が増えてしまったと言える。
こういう場合の鉄砲水が発生する原因としては、妖精の悪戯である可能性が高い。
妖精は晴れでも雨でも、夏でも冬でも関係無しに元気なので、巻き込まれたら運が悪かったと諦めるしかないだろう。
写真は鉄砲水に巻き込まれた後、焚き火にあたりつつ、お握りを頬張る大天狗様と、天狗見習いである。(射命丸 文)
(続く)
続きを楽しみにしてます。
面子全員が実に楽しそうで、ワクワクさせる作品でした。
後半が楽しみでしょうがありません。
これからもカラス君の一人称で進んでいくのでしょうか。次も期待してます!
完全な傍観者による一人称のせいか、それこそ新聞でも読んでいるかのようでした。
一人称の短所、他人の心情が表現し難い点を、長く一緒にいたお供が主人の心情を読み取る、
と言う表現である程度クリアしていたことに、なるほど、と感心しました。
でも一番可愛いのは大天狗様、異論は認める
大天狗様のキャラ付けがよかったです
続きがたのしみです。
登場人物が皆可愛らしくて頬がゆるみっぱなしです
後編も期待
やっぱあやもみ派の生き残る道はこれやな!!
続きも期待。
妖精天狗の氷芸、かわいいな。
どのキャラも、生き生きしていて、素晴らしいです。