いつだっただろう、私が此処を訪れたのは……
あの時の事は今でも鮮明に思い出せる。
暖炉に灯された火が少し大きめの部屋を優しく包み込む様に暖める。
冷えた身体に温暖な空気が触れ、肌に溶けてゆく
――初めは怖いもの見たさで訪れただけだった。
しかし、目の前に現れた館に私は運命的な何かを感じたのだった。
赤が、橙が、踊っている。
ユラユラと私を惑わす様に揺れる火は、催眠術でもかけるつもりだろうか?
――その時、あの少女と会ったのだ。少女と言っても中身は私より随分と年上だと言うが……
服に僅かに乗っていた雪は熱に抱かれて水へと姿を変え、それから服へと染み込み、やがて消えて行く。
湿った服と触れ合う、冷たいような温かい様などっちつかずの感覚はむず痒い。
――私は一目見ただけであの人に引き込まれた。
きっと彼女の中に私と同じ孤独を見たからだろう。
私はソファーへと腰を下ろし、冷えた身体と乾いた唇をテーブルに置かれた珈琲で癒やす。
――彼女の全てを見透かすかの様な赤色の目に、私は魅了でもされたか、それは脳裏に焼き付いて離れなかった。
珈琲の余韻を楽しむ様に一つ息を吐く。
やっぱり此処は落ち着く……
腕を組んで後ろに反ってうんと伸びをしてみると、ソファーの柔らかい感触が背中に伝わってなかなかに心地良い。
切り倒された木の様に力を抜いてそのまま身体を横たえる。
きっと私の芯は折れてしまったに違いない。
反発の少ないクッションに身を預けると、瞼が自然と降りてきて目を開けているのが辛くなる。
――あの少女は私を見ると、こんな所に人間なんて珍しい。
と表情こそ変えてはいなかったが非常に驚いていたのが印象的だった。
暖炉の中でパチパチとはぜる薪の音が静かな室内に響くのが聞こえる。
珈琲を飲んだばかりと言うのにソファーの腕の中で暖炉の声を聞いていると、意識が曇っていくのが分かった。
――殊に私の能力に関しての反応は大きかった。
世の中を諦観するかの様な眼差しもこの時ばかりは驚愕に満ち溢れていた。
僅かに漂う珈琲の芳香と薪の燃える臭いが鼻腔を満たす。
――そういえば、あの時も随分と雪が降っていたっけ……
紅茶でも一杯どうか?
という少女の誘いは、耐寒用の服を持っていなかった私にとってとても魅力的なものだった。
思考する事を放棄して時間の過ぎるままに任せてみる。
薪が燃えている以外に何の変化も無い空間の中で、私の呼吸する音がやけに大きく聞こえた。
時が経てば経つ程に意識が途切れ途切れになって行く。
その時、小さく扉の開く音と、澄み切った空気が暖かな空気が混ざり合うのを感じた。
「……また、あなたですか」
静寂に包まれていた部屋の中に小さな声が木霊する。
小さいけれども若い女性の澄んだ綺麗な声だった。
それは私の耳にも確かに届くのだが、私の意識を目覚めさせるには少々足りない。
この人は私が訪れるとなんだかんだ言っても相手をしてくれる。
人の部屋に勝手に入っているにも関わらず、色々と面倒を見ようとするのは、ひとえに彼女がお人好しだからだろう。
それを言えば本人はきっと否定するだろうけど……
朦朧とした意識の中で私は返事をする。
「勝手にお邪魔させてもらってるわ。駄目だったかしら?」
この部屋に入り浸る様になったのはいつ頃だっただろうか?
初めてこの部屋で紅茶を振る舞われた日からだった様な気がする。
まあ、此処以外の場所はほとんど知らないのだけれど……
「なかなかに図々しいお客様、……いや侵入者ですね」
おどけた口調で咎める様に言う女性に私は、ごめんなさいね
と気のない返事をする。
すると私の身体にふわりとした物が降りかかる。
ふさふさとした感触と肌触りから考えて毛布だろうか?
結構気が利くんだなあ……
感心する私をよそに彼女は私の頭の近く腰を下ろした。
「自分で珈琲まで淹れて……声を掛けてくれたら飲み物ぐらい出しますよ」
カチリという陶器の触れ合う音が耳をくすぐる。
何だろうと薄目を開けて見ると、女性が私の淹れた珈琲のカップを傾けていた。
冷めると勿体ないですから、と女性は言って湯気の出ている液体を少しずつ嚥下していく。
私としては色々と言いたい事があったが、ぼんやりとした頭では口に出す気は起こらなかった。
私は再び目を閉じる。むしろ開いていられなかったと言った方が正確だろう。
船を漕ぐ私に女性が何かを語りかけてくるが、飛び飛びになった意識のせいで全て右から左へと抜けて行くだけだった。
流石に申し訳ないし、何か返事をしなくてはと思い、口を開くが出てくるのは言葉にすらなっていない呻きだった。
そんな私がおかしかったのか女性が小さい笑うのが聞こえる。
何も笑わなくてもいいじゃないか、結構頑張ったのに……
少し傷つく。
そんな私を慰めるつもりなのか、あやす様に一定のリズムで肩を優しく叩かれる。
私のゆったりとした心臓の鼓動と同じリズムで肩に触れる手は、服越しであるにも関わらず、確かにその温度を感じたのだった。
揺りかごの中の様な心地のよい、その感触にどこか懐かしい感じを私は覚えるのだった。
子守歌が聞きたいなあ……
もうそんな歳ではないが、眠気のせいで気が緩んでしまったのだろうか?
肩を叩く感触につられて、ついついそんな事を考えてしまった。
すると女性は私の思いを汲み取ったのか、穏やかな音色を奏でてくれるのだった。
睡魔に邪魔をされて歌詞を聞き取る事は出来ないが残念だ。
甘い声が部屋に響いて私の耳へと伝わり頭をそっと撫でていく。
漂う歌声が心を包み彼女の温もりを伝えてくれる。
これじゃあ本当に揺りかごの中の赤子だなあ。
ふと、そんな事を思うと胸の奥から温かい様な冷たい様な言い表せないものが湧き上がってきた。
それが全身へと回るうちに、私の意識は少しずつ失われ、やがて完全に途切れた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
――彼女は来るのも突然だが、帰るのも唐突だ。
いつの間にか私も眠ってしまったらしく既に彼女の姿はなく、変わりに彼女に掛けたはずの毛布が私を包んでいた。
座った姿勢のまま眠ってしまったためか、身体のあちこちが固まっている。
眠い目を擦りながら毛布をくしゃくしゃに丸めて抱き締める。
人肌と同じ温度を帯びたそれは湯たんぽの様で、危うくもう一度寝てしまいそうになるのだった。
そういえば、以前知り合いに彼女を動物に例えると何だろうと話した事がある。
みんなは犬だと言っていたが、彼女は猫だと私は思う。
好きな時に居心地のよい場所に来てくつろいで帰って行く。
全くもって迷惑極まりない。
しかし、追い払う気にもならないのが事実だ。
それはきっと彼女の恵まれない過去のせいだろう。
直接話を聞いた事もなければ、風の噂に聞いた事もない。
だが、彼女の言葉や考え方などから推測する事は私にとっては実に容易い。
まあ私でなくても、彼女の力を考えればすぐに分かるだろうが……
私は背伸びをしながら腕を上へ伸ばして固まって身体をほぐすのだった。
――毛布を片付けて自らの部屋へと帰る。
暖房器具の無い廊下は冷えており、暖かい部屋にいた私は思わず身震いしてしまう。
私の部屋は近いが、意外と短時間の間に体温は奪われてしまった。
扉を開くと暖かい空気が私の身体を抱き締めながら出て行く。
せっかくの暖かい空気が逃げてしまうのは勿体ないと慌てて扉を閉める。
おかしいな?
確か……部屋を出るとき暖炉の火は消したはずだ。
だが、暖炉は赤々とした火を灯している。
火に照らされた席に着けば、机の上に何かが置いてあるのに気づいた。
それは一杯の紅茶。
うっすら湯気が出ているところを見ると淹れたてなのだろうか?
それとも……
カップを口へと運ぶ。
ほんのりとした甘さが舌に沁み入り身体の中へと溶けていく。
「おいしい……」
私の呟きは暖かな空気に混ざり行くのだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
――身に付けていた懐中時計をドレッサーへと置き、ベッドに身を横たえる。
スプリングの良く効いたそれは身を預けると雲にでも乗っている様に思えて、これ以上無いほどに至高の場所に思えた。
私はうつ伏せになっり、枕を引き寄せて抱き締める。
程良い弾力を持つ枕の感触を楽しむ一方で、私の口から出るのは溜め息。
今日は失敗したなあ……
何時もは休憩時間中にあそこに行く程度だったが、今日は久々の非番だったのでつい気を抜いてしまったのが悪かった。
まさか自分が眠ってしまうなんて露ほども考えなかった。
人の家で眠ってしまうなんて私としたことが大失態だ。
今日の自分を振り返ると思わず枕に顔を埋めて身悶えしてしまう。
出来る限りのフォローはしてきたがあまり効果があるとは思えない。
それからしばらく、寝顔を見られたか、私のイメージが崩れなかったか?
などと思考を巡らせてみたが、どれも今更如何ともし難い事だと気付くまで結構な時間が必要だった。
仰向けになって元に戻した枕に頭を乗せる。
またあそこに行っても大丈夫だろうか?
地底
他から嫌われ、爪弾きにされた者の集う場所。
これほど私に似付かわしい所も無いだろう。
地下で異変があったらしいが自ら地下に赴くのは何だか嫌な気がして解決しようとは思わなかった。
きっと今の主が居なければ、私はそこへ追いやられる事になっただろう。
ただ、どうにも見知らぬ場所への好奇心を抑えられず、気まぐれに訪れた時に知り合ったのがあの妖怪。
人の心を読むというその特性も私の力の前ではあまり意味は無かった。
元々、読まれて困る様な事は考えてはいないが、もし見られたくない事を考えたなら時間を止めて落ち着けばいい。
あの妖怪も「私の力が及ばないなんて珍しい」と随分驚いていたのを良く覚えている。
それから幾度となくあの妖怪の下を訪れたが、彼女は考えの読み切れない私とのやり取りは新鮮で結構楽しいらしい。
私としても、この能力を喜んでくれる人がいるのが、どうにも嬉しくてついつい暇を見つけて遊びに行ってしまうのだった。
――寝返りを打つ。
目を閉じて心を落ち着ければ、思い出されるのは今日聞いた子守歌。
あの時は意識がはっきりしていなかったと言うのに、何故かメロディーだけはしっかりと思い出しせた。
私は優しい音色に意識を預ける。
心のオルゴールが鳴り響いていた。
そして意表を突いた交わり。
そんな貴方の作品が大好きです。
今作も心臓をドキドキさせながら読ませて頂きました。
おもしろかったです。
心情描写、情景描写ともに素敵で、読み進めるうちにどんどん引き込まれました。
感情移入というかなんというか、文章に惹きこまれた感じです
いえ、文章自体は読みやすいし、雰囲気も素晴らしいのですが
キャラの思考に俺の理解が追いつけなかったと言いますか
ただ漠然と「あぁ、良かった」って感じですかね
なかなかしっくりくる賞賛の言葉が思い付かず、すみません;