博麗霊夢は博麗の巫女である。
それは彼女が生まれる前から決まっていたことであって、どう生きようと変らないことであって、どう死のうと違えようのないことである。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
それは彼女がここ幻想郷を存続させるための要であることを意味していて、彼女がまごうことなき幻想の人として、魂の一片すらもその地を離れられないことを意味する。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
彼女がそれを自覚する頃には、すでに彼女にとって妖怪はおろか、神さえも恐るるに足るものではなくなっていて、ただ賽銭箱の中身だけが頭を悩ませる問題事であった。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
彼女がその肩書きに不自由を感じているとでも言えば、人間はぽかんとするだろうし、妖怪はけらけらと笑い転げるだろうし、神は額に手を当てるだろう。
彼女自身も馬鹿げた話だと思う。ここは幻想郷である。
自由不自由の次元ではない、しっちゃかめっちゃかのお祭り騒ぎの頻発地帯。
全くの無秩序などというわけではないが、ここで手に入らない類の自由が、『外』で手に入るとは、誰も思わないだろう。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
その事実はスキマ妖怪を大いに喜ばせたものだ。なにせ彼女には異質の能力がある。これ以上にはないというほど、博麗の巫女には適任な能力だ。
彼女ならば人間に傾倒して妖怪を滅ぼそうなどとは考えないだろうし、逆に妖怪に肩入れし過ぎて彼らを全くの野放しにすることもない。
空を飛ぶ程度の能力。彼女を彼女たらしめる能力だ。
彼女は一人なのである。誰と行動を共にしていようとただ一人だ。あらゆる存在から『飛ぶ』霊夢は、誰を意識して心を揺り動かされることもない。なににだろうと味方にはならない。わずかばかりの依存も、彼女にはない。
それ故に、何かに対して強い思いを抱くことのない彼女は、自身の境遇に満足することもなければ、不満を抱くこともないのだ。
完全な不動でなければ務まらない博麗の巫女は、彼女の天職と言っても過言ではないだろう。もともとお気楽だったスキマ妖怪は、さらに気を緩めたものだ。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
自覚に自覚を重ねた彼女は、けれども過剰な使命感に晒されることもなく、日々をのんべんたらりと暮らしていた。しかし、時を経ても何もかもが変わらないというわけでもなかったのだ。
高い高い柵に囲われた一本道を淡々と辿る彼女には、ぼんやりとした願望が生まれていた。
何かに後押しでもされない限り、立ち現われてはあっという間に霧散する、まさしく彼女そのもののような希薄な願望である。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
古くから定められたしきたりに縛られる彼女には、絶対に手を伸ばすことさえ許されない『外』に足の一歩でも踏み込んでやること。
誰も望んでいない役割を担わせた『博麗の巫女』と、自身の運命に本気で抗おうとしない『博麗霊夢』を例え一瞬でも、この身から引きはがしてやりたい。
そう、霊夢は思うことがったのだ。しかしそれはゆるりとぼんやりと、飴玉でも転がすようにお遊び感覚である。なにせ博麗霊夢は自身の願望だろうと強く思うことができない。それは何かに依存することになるからだ。そして、博麗の巫女は『外』に思いを馳せることなど許さない。博麗の巫女は幻想で在らなければならないからだ。
あがくことすら許されず、彼女はずっと彼女のままだ。
博麗霊夢は博麗の巫女である。
生温い空気が周囲を満たす昼ごろ。
陰鬱な曇天のもと、博麗霊夢は一人、博麗神社の境内にあぐらを掻く。
手に持った盃をぐいと一気に煽って、彼女は静かに目を閉じた。
傍らに転がったとっくりは既に空だ。湿気を多く含んだ、肌に気持ちの悪い風が凪いで霊夢の頬を撫でた。不穏な静寂の中、霊夢はただただ黙したままだ。
おや、と彼女は瞼をぴくりと動かす。何者かの足音が聞こえたのだ。
「なにカッコつけてるんですか、カッコついてないですよ、霊夢さん」
目を開けてみれば、祀られる風の現人神、東風谷早苗。守矢の少女が目の前に立っていた。美しく艶やかな緑髪を乱して、心なしか息を荒げている。
負けん気が強そうな目は少女というよりは少年のものだ。微かに上気した頬は、落ち着きや妥協とは無縁の、年相応の無鉄砲を印象付けた。
手には守矢特製の御幣。見れば腕には細かな痣や擦り傷があった。どうやらひらりふらりと散歩感覚でここまで辿りつけたわけではないらしい。
ちらと霊夢は目の前の少女を一瞥した。そして彼女がつける蛇と蛙の髪飾りを認めて、彼女に見せつけるように霊夢は顔をしかめる。
「いいでしょ、誰に迷惑かけてるわけでもなし。そういう気分だったのよ」
ふんと鼻を鳴らして霊夢は言う。その反応に、早苗も表情を曇らせる。
誰に迷惑かけてるわけでもなし、ですか。
早苗はぽつりと呟いた。それと同時にぎゅっと彼女の拳が固まるのを、霊夢は目に留めておいた。冷めた顔で、霊夢は言葉を重ねた。
「そうよ。何か私が間違ってる?」
「間違ってませんね」
「そうでしょ」
「でも、間違ってます」
「どういうことよ」
「貴女がそうやって、平然としていられていることですよ」
早苗は一度言葉を切って、それから、お分かりになりませんか、と続けた。
「わからないわね」
言ってから、霊夢はしみじみと意外に思う。私ったら随分と落ち着いてるのねえ。
存外、自分にも大物の貫禄があるのかもしれない。そう考えながらふと霊夢は自身の首筋に手を触れたが、傷がひりりと痛んで、気分が落ちるだけだった。
霊夢は己と対峙する少女を、注視する。自分を見下ろす早苗の睫毛が、細かに震えるのを見て、薄く開くだけの口を見て、ちょっとだが霊夢は可笑しく感じる。それが口元にでも出てしまったか、早苗は眉を顰めた。
「何を笑ってるんです」
早苗はぎこちなく無表情を偽ろうとしている。
「あんたの顔が面白かったからよ」
ふふ、と霊夢は乾いた笑い声を上げた。
「そうやって、何時までもふざけてられると思ってるんですか」
早苗は霊夢の前に、へたり込むようにして視線を合わせた。
「私も別にふざけてたかったわけじゃないわよ。ていうか、そういう早苗は、ちゃんと真面目な動機を持ってここにいるんでしょうね」
霊夢は頬杖をついて、小馬鹿にした声を守矢の少女にぶつける。
「ありますよ。ありますとも」
早苗は前のめりになって言った。その必死に輝く瞳が少し眩しくて疎ましくて、霊夢はゆるりと顔を逸らした。彼女の姿勢がいつの間にか正座になっているのを見て、思う。
本当に生真面目よねえ、貴女は。その上に頑固だ。そんなんだから、こんな面倒なことになるんだろうなあ。霊夢は心中に呟いた。
「私は異変を解決しに来ました」
緊張からか怒りからか、早苗の声は高ぶり震えた。
「貴女が起こした異変です」
その時、博麗と守矢の少女は目を合わせた。
己の願望が引き起こした異変に、けれども強気に立ち向かう目と、『幻想郷の住民』としての使命感と自身の意志に揺れる目だ。
どちらもがどちらとも頑なで不器用な目をしていた。
「貴女は幻想郷を危機に陥れたんです」
悔しそうに呻くように早苗は吐き捨てると、唇を強く噛んだ。
視線を落とす早苗の顔を下から覗いて、霊夢は言った。
「だから、なに?」
霊夢はそっと早苗の肩を押した。
「だから、どうしようっての?」
ゆるゆると頭を垂れた早苗に、霊夢は腕を組んで一声発した。
「あんたは異変を解決しに来たんでしょ?」
なにぼんやりしてるのよ。霊夢の声音はしだいに刺々しくなっていく。座り込んで動こうとしない早苗に非難がましい目を向けている。
「まさか、話し合いで解決しましょう、なんて言わないわよね」
早苗が叱られた子供のようにいつまでも黙っているのを見て、霊夢はため息を吐いた。
……お話にならない。
異変の元凶を眼前に控えて、なんだこの体たらくは。
『けじめ』をつけないと、異変がいつまで経っても解決しないじゃない。
霊夢はすっくと立ち上がって早苗に背を向けた。その背に早苗が言葉を浴びせる。待ってください!慌てた声は、みっともなくて縋るような声音だ。
「あんたが何をしなくたって、どうせじきに皆が来るわ。臆病者の甘ったれは家に引きこもって震えてなさい!」
茫然と立ちつくす早苗を視界の隅に捉えて、霊夢は若干、おぼつかない足取りながらも歩き出した。歩く彼女の胸には、ぐるぐると煩わしい感情が渦巻いている。
つい声を荒げてしまった自分が、霊夢は情けなくてたまらない。
萎える気持ちを無理くり奮い立たせて、博麗の巫女は考えた。どうやら彼女は使い物にならないようだ。彼女の姿を見た時、思いのほか早く事は済んでしまうものだ、と霊夢は安堵していた。しかし、やはりそう上手くはいかないか。
霊夢はすぐに気持ちを切り替えることにした。
指折り数えて、とりあえず来訪が予想できる名前を挙げていく。
まず魔理沙。元来力の弱い人間であるからか、その身に忍びよる危機というものに敏感で、その上に変ったことにはなんでも首を突っ込む好奇心や勇気を持ち合わせた彼女は、万が一にも友人の凶行を放っては置かないないだろう。
次に咲夜。彼女自身はどうとも考えなさそうだが、彼女の主は何か騒ぎが起こると、それに自分が除けものにされることをあまり面白く思わない。紅魔郷の因縁もある。あの二人は面白半分で異変の解決に乗り出すだろう。
たぶん妖夢。彼女の主は……、正直言って霊夢にはどんな思惑があるかわからない。あのたおやかな雰囲気と、どこか超然とした態度の裏に何があるのかは彼女には推し量れなかった。しかし、幽々子は八雲紫と親友である。紫が手を回す可能性は高い。
後は誰が来るか。……射命丸も来るだろう。こいつは異変の解決というよりは記事のネタを求めて飛んできそうだが。そして、と霊夢はもう一度ため息をついた。
東風谷早苗。星蓮船の一件は、自分から吹聴してまわっていたようだったが、その働きは確かに、霊夢から見ても異変解決の専門家を名乗るに足るものだったはずだ。
今回の異変も前回と変わらず、あのどこか空回った調子でここに乗り込んでくれるものと期待をしていたが、やはり『外』から来てまだ日が浅いか。
図太さというか、非常識の具合が、ここ幻想郷に住まう者としては足りない気がした。
まあ、これは十二分に予想できた展開ではあったが。
しかし、と霊夢は心中にうなだれるところがあった。
失望しているということは、希望を抱いていたというわけだ。
甘ったれはどっちかしらね。
古いしきたりに真っ向から抗って、博麗霊夢は異変を引き起こした。
何時、と断定するのは難しいかもしれない。なにせ彼女の起こした問題事とはひどく緩慢で、しかし今までに起きたどの異変よりも重大で深刻なものだった。
博麗大結界。
幻想郷を維持するために古くから、といってもこれは人間の尺度に当てはめてのことだが、とにかくずっと昔から張られていた結界だ。常識と非常識、幻と実体。それらを隔てる、幻想郷を幻想郷たらしめる結界。
博麗の巫女として生を受けた霊夢ならば、本来その生の限りを尽くして維持し続けなければならないその結界を、彼女は結果として崩壊寸前にまで追いやったのだ。
霊夢はその瞬間を思い出して、口の中に広がる恐怖と興奮の味を舌に感じた。
事は今日の明朝より始まった。ここ博麗神社でのことだ。
博麗霊夢は結界をただ緩めることなら、何度かやったことがある。寝てばかりのぐうたらな幻想郷の管理者を叩き起こすためだ。
それをやると、叩き起こされた彼女に自分がやった行為がいかに危険か、後にくどくどと叱られるのが常だが、その彼女もお遊びで結界に風穴を開けたりしているのだから、霊夢はわけがわからなかった。
その日に霊夢がやったことも、それ自体は平時と変りなかったのだ。
霊夢は何度となくやったように、ただ結界を緩めただけ。それもじわりじわりと常とは比べ物にならないほどに慎重にやったのだ。
しかし、常と違えていたのは結界のほうであった。別に風穴が開いていたわけではない。わけではないが、傷つけられ細工をされ、指でつつけば裂けてしまいそうなほどに脆くなった部分がその時、博麗大結界にはあったのだ。八雲紫も気づけないような、ごく限られた部分の、極めて精細な工作である。それも一か所ではなかった。
一つ、二つ、三つ、………。
いちいち場所を頭に思い浮かべるにも人間の霊夢には面倒な数だ。
合計三百七十八か所。結界中に仕掛けられた、『爆弾』の数である。
それは大結界そのものが正常に機能していれば、なにも問題はないだろう。しかし、その気になれば、もはやそこらの妖怪でも打ち破れるぐらいに脆い部分なのだ。
霊夢が意図して結界を緩めれば、どうなるか。
大結界中の『爆弾』全てが作動すれば、どうなるものか。
霊夢は乾いた唇を舐めて、その先にある世界を夢想したものだ。
可能な限り、慎重に、慎重に、慎重に。
老獪なねぼすけ妖怪に気取られぬよう、慎重に。
霊夢は高鳴る鼓動に、ぞわりと体中を奔るような興奮を抱いた。繊細で緻密で、抜け目のない作業のままに、彼女は忘れて久しい高揚感に酔った。
やがて。徐々に機嫌を悪くしていく空の下、雨でも槍でも勝手に降れとばかりに、霊夢が作業に没頭していた時。ついに異変は起こった。
霊夢は感じた。空気が軋んで、ぎいぎいと悲鳴を上げて、何年も何十年も何百年も前から博麗の巫女が大切に守ってきた大結界が、亀裂を走らせる様を。
爆発はまだたったの一か所だ。しかし、その重大性は八雲紫が冗談で行ったものとはかけ離れていることを、身に沁みて霊夢は理解していた。
急に風が吹き始め、ざわざわと周りの木々が怒り狂ったようにその体を揺らし始めた。霊夢の目の前の博麗神社もまた、がたがたと今にも倒壊しそうだった。
間違いない。間違いなく、幻想郷は崩壊に向かっていた。
博麗の巫女たる博麗霊夢にはこのただならぬ事態が手に取るようにわかった。
意外とちょろいじゃない。
博麗の巫女も、博麗霊夢も!
ざまあみろ。
笑った。霊夢はしかと自覚した。自分は笑っている。笑みを浮かべている。霊夢は両手で自身の顔を覆って、べたべたと撫で回して、それを確認した。
下卑た笑い声が口から洩れそうになるのを必死に抑えて、霊夢は自分の顔に爪を立てた。
そして、指と指の隙間から、霊夢は『外』を見ようとした。
幻想郷に生まれ、幻想郷に生き、幻想郷に死す博麗の巫女には決して立ち入れない世界を、結界を隔てずこの目で穴が空くほど見てやろうとした。
唾を呑みこんで、小刻みに震える肩を無視して、頬をわずかに引くつかせて。
しかし。
しかし、それは叶わなかった。ふと周囲を見渡せば、そこには常の幻想郷である。
彼女を急きたてるような風は止み、大木たちは巫女のことなど忘れたように知らぬ顔をしてただ泰然と屹立している。霊夢はぶらりと手を垂れ下げて、
何も思わなかった。
あっという間の出来事である。博麗大結界は完全なものとして既に修復されていたのだ。
幻想郷中のあちこちにしてあった細工もそうだ。残らず、平時の通りとなっていた。
いや、違うか。この幾重にも張り直された大結界。
以前よりも強化されてるじゃない。霊夢は力なく笑った。
これならば、また幻想郷に良からぬ感情を抱く者が出ても、まるで問題はないだろう。
より強固な檻に囲われた楽園は、きっと永久に変化を拒み続けられるであろうからだ。
『お遊戯もほどほどにね、霊夢』
耳元で声がした。囁くようでありながら、心の奥底にまで突き刺さるような声。
それが紫のものだと、すぐに霊夢がわからなかったのも無理はない。
それは彼女が知る幻想郷の管理者の声ではなかった。
卑小な獲物に牙をかけた、獰猛な恐ろしい妖怪の声音だったのだ。
全身に鳥肌が立つほど冷淡で、しかしたぎる憤怒を孕んだ声だ。霊夢は言葉が出ず、ぱくぱくと口を動かすばかりだった。手の指先がしびれて、満足に動かせなかった。
背後から、死人のように冷たい手が、霊夢の首を掴んだ。
霊夢は息が出来ない。何の境界を越えたのか、博麗霊夢は博麗霊夢らしからぬ狼狽振りであった。死ぬか。ごく自然に彼女はその可能性を心中に抱いた。
しかしその手は何をするでもなく、そのまま首を撫でるようにして離れていった。
だというのに胸が苦しい。がんがんと頭の中に大きな音が響いているみたいで、目眩がした。しかし恐怖からかその場に倒れることもままならず、朦朧とした意識のままに彼女は振り返った。
そこには誰もいなかった。
八雲紫は彼女を見限ったように、説教を垂れることもなく忽然と姿を消していた。
ぴりりと刺激が走って、その部位に手を触れてみると、血がついた。
霊夢はそこでようやく気付いた。浅くだが、首に傷をつけられたらしい。
霊夢は気力の限界に達して、その場にへたり込んだ。
手についた血を眺めて、彼女はぼんやりと思った。
これは自分がしでかしたことの深刻さを示唆しているのかもしれない。
スキマ妖怪の意地の悪いメッセージだ。
あと一歩。あと一歩であった。
あと一瞬の自由があったなら、幻想郷はその意味を失っていたかもしれない。
少なくとも『博麗の巫女』は、死んでいたのだろう。
まあ、その仮定こそ、今やただの幻想である。
霊夢は一笑して、それで済ました。
気づけば、霊夢は早苗に腕を掴まれていた。
「なによ、やる気になったの?」
霊夢は早苗を睨みつけるも、彼女はふるふると首を振るばかりだ。
「もう異変は解決したのに、勝負する必要なんてないじゃないですか!」
「異変が解決したなんて、誰がわかるのよ」
うう、と早苗は声を詰まらせたが、やがて涙を溜めた目を間近に近づけて言った。
「だって、だって、今日も幻想郷はいつもと変わりません!」
幻想郷はいつもと変わらない。その言葉は、霊夢の胸の内にずしりと重いものを感じさせた。自然と、長く深く霊夢は嘆息していた。
「これから変えるかもしれないわよ」
半ば脅すように、霊夢が強い語調で言った。
「何度でも言わせてもらうけどね。あんたは何をしに来たのよ。異変を察して、障害を蹴散らしながら、その元凶のもとに急いで、そいつをぶちのめして終り。それが異変解決のセオリーってもんでしょ。違う?」
腕を掴んで引きはがそうとするも、彼女の力は意外に強い。霊夢はしばらく頑張って、結局諦めることにした。
「異変を起こした奴が、あんたの目の前にいるの。わかる?」
早苗は黙っているが、物怖じしている様子もない。
「弾幕勝負をするか。とっとと逃げ帰るか、選びなさい!」
「お断りします!」
一喝する霊夢に、早苗は声を張り上げて応戦した。
今度怯むのは、霊夢のほうだった。その隙だ。音のした方をみると、御幣が投げ捨てられていた。気づけばいつの間にか霊夢はもう一方の腕をがっしと掴まれて、より一層早苗の拘束から逃れ難くなった。
「私が逡巡する理由、貴女ならお分かりでしょう!できませんよ、そんなこと!当たり前でしょう!」
霊夢は絶句して、
馬鹿じゃないの?
霊夢は早苗の言葉に、すっと目を細めてぐいいと彼女を引き寄せたかと思うと、思いっきり頭突きを見舞った。早苗から何か声が漏れたが、霊夢は気にせず言った。
「だから甘ったれだってのよ。いいから、弾幕勝負よ。弾幕勝負。馬鹿やって、ぶちのめされて、一緒に宴会して、それで全部忘れちゃうのが、この幻想郷よ」
それでいいじゃない。霊夢は消え入りそうな声で言葉を足した。
「駄目です!」
早苗は食い下がる。額を赤くしても、まるでめげる様子がなかった。
「駄目ですよ、霊夢さん。いつもならいいんです。いつもの異変ならそれでも。でも、これは駄目です。駄目でしょう!?」
早苗の指の爪が腕に喰い込む。痛い、痛いって。
「これは他の異変といっしょくたにしちゃいけません。例えそれで全部丸く収まるんだとしても、それで済ましてはいけないんです」
早苗は押し殺した声で、言う。
「それじゃ、貴女の気持ちが無駄になるじゃないですか」
早苗は霊夢から手を離した。彼女から解放されても、霊夢はその場にとどまっていた。
空を仰げば雨も降らなければ、晴れるわけでもない。どっちつかずな天気は変らなかった。
「霊夢さん。貴女は博麗の巫女だから異変を起こしたんですか、それとも、博麗の巫女が嫌だから異変を起こしたんですか」
「どっちも、かもねえ」
腑抜けた声を霊夢は上げる。そして小さく笑いを零した。
だって、可笑しい。霊夢はひどい虚無感に襲われてしまった。
ここで、自分は博麗の巫女が嫌だから異変を起こしたのだ、と言えたらどんなにか格好が付いただろう。いいではないか。生まれながらに役割に縛り付けられ、それを果たすことを義務付けられた少女。人間よりも妖怪よりも、神よりも幻想郷にとっては大事で、しかしそれ故に誰よりも幻想郷に縛られた存在。
字面にしてみれば、なかなか悲劇的ではないか。カワイソがりをするには、十分に過ぎるのではないか。言えよ、言え。言ってよ、頼むから。
楽園の素敵な巫女は、誰にも害されず憎まれず、穏やかに緩やかに生きて死ぬ。
そんな予定調和な人生の、何が面白いのか。
あんな異変を起こしておいて、なぜ自分はそう吠えたてることも叶わないのだろう。
空を飛ぶ程度の能力、か。
霊夢はつくづく思う。
博麗霊夢の能力は、かくも偉大であったというわけだ。
「だとしたらなおさらでしょう。霊夢さん、私も協力しますから、みんなに本当のことを話しましょうよ!」
霊夢は冷めた顔で、目の前で顔を赤くして熱弁を振るう少女を眺めた。その目には怒りもなければ悲しみもなくて、ただ、ぼんやりと思うだけだった。
ああ、うらやましいなあ。
「あんた、面倒よ」
霊夢の口が動いた。早苗が目を見開いて、身を硬くした。
「誰もねえ。そんなこと求めちゃいないの。異変が起きれば、そりゃ誰かが収めにくるわよ。そんでそいつは別に犯人さんのお話が聞きたいわけじゃないの。バカやらかした奴を懲らしめて、もう二度とそんな真似させないようにすることが大事なのよ」
ことさらに大仰そうに、霊夢は一枚、スペルカードを出した。
「あんたもそうすることになるの。身勝手な責任感、振り回さないでくれる?」
「あ、霊夢さん、ちょっと」
早苗は後ずさりしながらも、未練がましく説得を続けようとしたようだが、霊夢は淡々と宣誓した。声を張ってはいないが、よく耳に届く涼やかな声音だ。
「スペルカードは一枚。三十秒でいいわ」
とんとんと二度その場で跳ねた霊夢は、やがて三度目でふわりと宙に浮いた。そのままゆっくりと一回転して、手を大きく広げた。じめじめとした天候だ。空に飛ぶ彼女はにわかに身体が汗ばむ不快感に眉を顰めたが、文句を垂れる気にもなれず、さっさと事を始めようとした。早苗も宣誓をされてはそれに従わざるを得ないようで、慌てたように彼女の元に飛んできた。十分に高度を上げてから、霊夢はいきなり宣言する。
「夢想天生」
早苗はどんな顔をしたものか。瞑目した霊夢にはわからない。
まあ、相手はあの甘ったれである。自身から呼び出された八つの陰陽玉。それから放出され、四方八方から彼女に襲いかかる無限の札の弾幕。避けられることはないだろう。
己の能力を最大限に活用してあらゆるものから『飛んでいる』霊夢は、自らが作り上げた揺るぎない真の孤独の中、一人決めつけて笑った。
高速の何かが空気を切る音、衣服がはためく音。見知った誰かの訴える声。
一瞬とも思える時を過ごして、目を開けた霊夢の前には、誰もいなかった。彼女はその結果に薄く笑って、また来訪者の到来を待つことにした。
撃ち落とされた早苗は、強く唇を噛んで悔しさをまぎらわした。
上手いこと叩き出されたものだ。早苗は自分の目線の高きにある鳥居を睨んで、なんとか立ちあがった。地面に手を着いたせいだろう。肩に鋭い刺激が走って、少し涙が出たが、唇を引き結んで彼女は気丈に歩き出した。
弾幕勝負での敗北とは、掲示したスペルカードを全て攻略されるか、自身の気力が尽きるかである。早苗はまだスペルカードを攻略されていない。今、勝つ気力を奮い立たせれば、まだ負けではないのだ。再戦は出来る。
一歩、早苗は踏み出した。石の階段に思い切り打ちつけた、ふとももが痛んだ。また一歩踏み出した。今度は背に痛みが走った。情けない声が漏れて、嫌になる。
さらに一歩、もう一歩。全身が悲鳴を上げているが、そんなことは早苗の知ったことではなかった。早苗は歯を食いしばって着実に歩を進めた。
しかし、自分がこのような状態だからだろうか。仰ぎ見る鳥居はやたらに遠くに思え、その下に続く階段はずっとどこまでも延びているように思えた。
今回の異変は大変だ。星蓮船の時も楽ではなかったが、今回は特にそうだった。すでに満身創痍である。なにせ、まずは山の二柱の制止を振り切るのに力がいった。八坂神奈子はどしりと構えて、お前は行くなと融通が利かなかったし、守矢諏訪子はあの手この手で早苗の精神に負荷をかけて、なんとか思い止まらせようとしてきたのだ。
そしてようやく二柱から逃れられたと思ったら、お次は人妖たちだ。彼女たちの気迫は並大抵のものではなかった。仮にも早苗は現人神だ。結果だけみれば彼女の全勝だが、それでもあの猛攻には弱ったものだ。
早苗は常にはなかった、彼女たちの勢いを思い出す。
口ではふざけた体を装っていたが、誰も彼もが本気で早苗を足止めしようとしていた。
彼女は一様に主張したものだ。霊夢を守る、などとではない。自分こそが霊夢を打ち負かすのだと意気込んでいたのである。
魔理沙に射命丸、咲夜とレミリア。妖夢と幽々子。
しかし可笑しいのはその全員が全員、なぜに彼女のもとを目指すのか、彼女はどういうつもりで何をしでかしたのか。推測すらも語らなかったことだ。
矛盾を孕んでいるとも言えるかもしれない。
しかし現に彼女たちは霊夢を懲らしめることを目的としながら、その理由については口を噤んでいた。みな自分と彼女だけの問題として解決しようと言うのである。
端的に言って、彼女を庇おうとしていたのだ。
ふと早苗は想像した。
このことを霊夢に伝えたら、どう応えたものか。
それは自分が博麗の巫女だからだ、などと断じてしまうのだろうか。
早苗は彼女特有の、無感動で冷たくて、でもそれ以上に寂しげな目を思い返す。
今の彼女は、完全にとはいかないかもしれないが霊夢の『能力』を把握していた。そして、それでもなお、早苗は意志を違えず彼女の説得に尽力していたのだ。その結果は、まあ思わしくないものだったが。
早苗は奮起して飛翔せんとするも、駄目だ。
半端に浮かんで階段につんのめった早苗は、額をぶつけて悶絶した。いけない。焦ってはいけない。頭を抱えて早苗は思った。階段に座りこんで、早苗は気持ちを落ちつけようとした。
『貴女が起こした異変です』
早苗は自分が放った一言を思い返して、身体が震えた。
どうしてなのだろう。まるでわからない。
博麗の巫女だから異変を起こしたのか。
博麗の巫女が嫌だから異変を起こしたのか。
『どっちも、かもねえ』
霊夢は面倒臭そうに、そして少しだけ悔しそうに零した。
わからない。
わからないよ、霊夢さん。
どうして言ってくださらないんですか。
異変を起こしたのは貴女でしょ、と。
これも博麗の巫女としての務めだ、と。
一つの異変を知らずに起こし、そして解決された守矢の少女は、もはや自分のことなど頭の隅に追いやって、ただ博麗霊夢を想った。
前日のこと。守矢神社に珍しい客が来た。
『茶、だしなさいよ』
『いきなりそれですか……』
境内を箒で掃いていた早苗は、突然の博麗霊夢の来訪に困惑したものだ。いつもつまらなそうな顔をしている彼女は整った顔立ちをしているが、ちと気が強そうで、近寄りがたい雰囲気があった。ふと思い立ったので気軽に遊びに来た、みたいな言動は想像し辛かったのである。事実、彼女は誰とも馴れ合いはしない人だと噂に聞いていたりもしていた。とはいえ、その情報源は鴉天狗である。胡散臭くもあったが。
しかもその日の彼女といったら特に表情が険悪で、話しかけられるまで、彼女は喧嘩でも売りに来たのかと早苗は本気で思っていた。
自室にもてなす際にそれを口にしたら、それはあんたでしょ、と笑われてしまったものである。彼女は気楽に語るが、早苗にしてみればあれはちょっと思い出したくない失敗談だ。早苗は赤面したものであった。
『最近どうなのよ、あんた』
出された湯呑にもお茶受けにも手を伸ばさずに、霊夢はぶっきらぼうに訊いた。
どう、とは?唐突過ぎて早苗は最初、その質問が何を意味しているのかわからなかった。しかし落ち着いて考えてみれば、答えは明白である。
早苗は口を開こうとしたが、それよりも先に霊夢は言葉を続けた。
『最近じゃ異変解決に乗り出したり、ここにも結構馴染んできたんじゃないの?』
『あ、はい。そうですね。というより、私、来たばっかりの時ひどかったですよね……。ほんと、あの頃は失礼しました』
霊夢は謝罪を鬱陶しがるように手をぱたぱたと振った。
『今は……楽しいですよ。みなさん変ってらっしゃって、退屈しませんし。なによりここにいれば神奈子様や諏訪子様と一緒ですしね』
霊夢は早苗をじっと見つめていた。入念に何かを確認するように、なかなか視線を外さない。そうされるとつい早苗も対抗して見つめ返してしまって、しばらく二人で黙って睨み合っていたが、やがて霊夢が視線を逸らした。
『まあ、染まりすぎるのも問題だけどね』
わかる気がする。本当にここの者たちは、その精神の根幹はどうあれ、突飛な言動を取る者が多い。胸を張って言えるほどの日数ではないが、早苗もそれなりの時をここ幻想郷で過ごして、ようやく最近、それに合わせられるようになったぐらいだ。
ここでは常識に囚われてはいけないのだ。これは彼女の経験則からなる訓辞である。
『でも面白いですよ。この前の宴会とか、私あんなにはしゃいだの久しぶりだったんですから』
面白い、ねえ。霊夢はなぜかしんみりと呟いた。湯呑をちらと見て、しかし手は付けず、ちゃぶ台に頬杖をついて控え目に笑った。
『ここの生活に満足してるならいいけど、本当にそれだけかしらね』
早苗は首を傾げた。
『どういうことです?』
『なにか不満に思うこと、不安に思うこと、もっとあるもんなんじゃないかなあってね。外来人のあんたにはさ』
早苗がうまく反応できないで、微妙な相槌を打つと、霊夢は即座に言う。
『ねえあんた。悩み事があるなら今のうちに言っておいたほうがいいわよ。私が気乗りしてる時なんてめったにないんだから。博麗の巫女さんに相談があるなら今日限りよ』
早苗は少し驚いたものだ。失礼なことだが、彼女はこれほどに親切だったろうか、と意外に思ったのである。今までに何度となく早苗は霊夢と顔を合わせてきたが、その多くが弾幕勝負の場である。障害となるものは問答無用でぶちのめす非情な巫女。早苗にはそんな印象ばかりが色濃く残っていたのだ。
『あるんじゃないの?』
霊夢は勘が恐ろしく鋭い。彼女のわかったような口に早苗はどきりとした。持って生まれた才能と運だけで他を圧倒する努力知らずの巫女。そんな、評価しているんだか、けなしているんだかわからない説明は、これも山の天狗たちから聞いた話だ。
『まあ、あると言えば、ありますかね……』
『言いなさい』
有無を言わさぬ物言いである。ここまでされると親切心の押し売りだが、早苗は一考して、別に隠し立てが必要な話だとも思わなかったので、おずおずとだが口に出した。
『いえ、たまにちょっと気に罹るだけなんです。家族とか、友達とか、全部あっちにいるんで、元気にしてるかなあって』
霊夢がなにも言わないので心配になって、早苗はさらに言葉を続けた。
『甘えなんでしょうけど、どうしてもふと考えてしまうことがあるんですよ』
早苗は考え込むような霊夢の顔を、窺いながら訊いた。
『霊夢さんもいますよね?そういう人』
『いないわね』
淡白な答えだった。霊夢は湯呑の淵を指でなぞって、それを目で追っていて、視線をこちらに寄こそうとはしない。だがちらとだけ早苗の様子を窺って、彼女は笑った。
『そう思うべき人ならいるわよ。ただ、私には実際にそう思うことが出来ないだけで』
淡々と霊夢は言うが、その時の早苗の理解は及ばなかった。どういうことだろう。身を案じるような人が一人もいないってこと?そんなわけがない。単純に疑問に思って、純粋に納得がいかなくて、早苗は眉根を寄せた。
『ちょっと、意味がわからないんですが……』
『能力よ。私の。誰にも負けない最強無敵の能力よ』
『話が見えません……』
『私は透明人間だからねえ』
『大丈夫ですか、霊夢さん?』
冗談のように霊夢が支離滅裂なことを言うので、早苗はさらに困惑したが、彼女がくすくすと笑うのを見て、とりあえずむっとした。
『なんですか、もう。よくわからないこと言って。もしかして私のことからかってます?』
『今さら気付いたの?このバカ正直』
霊夢がひとしきり笑うのを待って、早苗がひとしきり文句を言い終わるのを待って、
その後だ。
『頑張れ』
去り際のことだ。霊夢が言った言葉である。早苗が、会話の後に霊夢がいそいそとせわしなく守矢神社を後にしようとするので、あれと思って訊いたのだ。
霊夢さん、無理矢理相談させておいて何も答えてくれないんですか?
早苗にはまだ幻想郷の住民に対して及び腰なところがある。異変解決の大義名分があればなんとか気がまぎれるのだが、普段はどうしても遠慮が先んじてしまう。
答えの要求は、そんな早苗のひそかな頑張りの末の言葉だったのだが、あまりにも報われない結末となった。頑張れ?
早苗は一拍置いて、眉を八の字にしてから、恐る恐る訊いた。
『それって、私の相談に対する答えだったりします?』
霊夢はころころ笑って、頷いた。早苗の肩を優しく小突いて言う。
『そうよ。当たり前じゃない』
『そうですか……ええと、ありがとうございます』
明らかに肩を落とした風の早苗に霊夢は言った。
『別に投げたわけじゃないわよ。ちゃんと本心から言ったわよ』
そう言われても。早苗の心には不満が消えなかったが、彼女はそれ以上喰い下がる気にはなれなかった。もとより人の意見など求めていなかったことを、思い出したのだ。
ただ、もうちょっとゆっくりしていってはいかがですか、とは訪ねてみた。彼女との会話を通して、早苗は霊夢と親睦を深めるのもいいかもしれないと思ったのだ。もちろん小狡い画策があったわけではない。彼女と今のように、いや今よりももっと親しく話す自分を想像して、それも楽しいんじゃないかなあと考えただけだ。
あのお二方はやる気満々のようだが、自分としてはいつまでも彼女と張りあっていてもしょうがないし。まあ結果的には、その日は誘いをきっぱりとお断りされてしまったのだが。
『今日は予定がぎっちぎちなのよ』
なのだそうだ。ならばその忙しい中、どうしてこの守矢神社くんだりまで来て与太話をしたのか。疑問は尽きなかったが、訊く前に彼女は飛んで行ってしまった。
早苗がまた掃除に戻った後だ。とんとんと、何者かに指で後ろから腰のあたりをつつかれた。振り返れば、早苗は少し驚いてしまった。
『なにか、企んでるねアイツ』
いつの間にか現れていた洩矢諏訪子は笑みを浮かべて言った。
『絶対になにかやらかす気だ』
きょろきょろと動く黒目がちな目は、まさしく蛙そのものだ。余計な感情など一切、切り捨てた油断のない目は、早苗にとっても非情に見えて少し怖い。
あれは獲物をしつこく追って喰い殺さんとする『狩る側』の目である。
小柄な体躯をぴょんぴょんと弾ませて、挙動こそ人間の子供かそこらの低級な妖怪を思わせるが、実際を言えば彼女ほど敵に回してはいけない存在を早苗は知らない。
土着神の頂点に立つ彼女は、言ってしまえば恐ろしい祟り神である。彼女に一度睨まれれば、その強大な力で捻りつぶされるか、策を弄され踊らされたあげく破滅するか。
いずれにせよ、ろくなことにはならない。そんな彼女の穏やかならざる一言に、早苗は霊夢を庇おうとしたが、その前に一つ考えた。
霊夢が全くの勘で物事を察するのであれば、諏訪子は豊富な知識と度を超えた観察力で隠された事実を引きずり出す。
彼女がそう言うからには、何かそれ相応の理由があるのだろう。しかし。
『いきなり出てきて、なんですか。霊夢さんはただ遊びに来ただけですよ』
やはり早苗は言った。願望に近いかもしれないが、早苗はそう信じていたのだ。だが諏訪子はそんな彼女に、けらけらと笑って応じた。
『霊夢が?遊びに?こんな山の上まで?』
陽気な笑い声を上げているが、注意してみれば目だけは変わらない。ぞっとするほど冷静な目だ。
『ないない。早苗はちょっと人が良すぎるね。すぐ騙されちゃうんだから』
早苗は口をへの字に曲げて、しかしそれは自分も意外に思っていたことなので反論できず黙っていると、諏訪子はやけに粘っこい声で言った。
『問題はそこじゃなくて、霊夢がなにをしに来たのかだよねえ。別にこれといったことを神社や早苗にしたわけでもないし、アイツ自身に訊いてもなんかふわふわしてて思考が読めそうにないし、ううん、どうしたものかなあ』
すっかり諏訪子は霊夢の行動の意味を探る気でいるようだ。目を輝かせて虚空を凝視して、会話にそこそこの間を空けたかと思うと、諏訪子は訊いてきた。
『早苗わかる?あいつに何か訊かれたりしなかった?』
『いえ、何も。全く、これっぽっちも』
早苗は平然と言ってのけたつもりだが、どうも声音がつんとしてしまって拗ねているようになってしまった。そんな彼女に諏訪子はため息をついて、心外そうに言う。
『早苗、なに怒ってるのよ。私は貴女のためを思ってアイツを疑ってるんだからね』
機嫌を直さない早苗に、諏訪子は口を尖らせてなお言う。
『大事な計画が余計な横やりで頓挫しちゃ、目も当てらんないでしょ?』
大事な計画。その一言に早苗は心中を淀ませる。その通りだ。早苗は改めて自覚する。自分はまた騒動を起こすかもしれないのである。始まりは本当に些細な願望であった。しかし、それをおせっかいな二柱に聞かれ、自分の弱い心を彼女たちに懐柔されたのが、事の発端であった。そして今やそれは大事な『計画』にまで発展してしまっている。
早苗は情けなく思う。こうして今なお計画を中止できない自分が、情けない。
いっそ、本当にさきほど来た霊夢にやっつけられた方がよかったかもしれない。
優柔不断で自己中心的な自分には良い薬だ。早苗は思った。
『あれは私の身勝手な願望です。私たちだけの問題ですよ。霊夢さんを巻き込まないであげてください』
でもお、と諏訪子は納得がいってないようだが、早苗の泣きだしそうな顔を見て、慌てて言った。
『わかった、わかったって。アイツは遊びに来ただけだよ、うん。そうに違いない。博麗神社はろくに参拝客も来ないそうだし、霊夢も死ぬほど暇だったんだよ。大丈夫大丈夫。もうわかったから、早苗も、さあ。ね?ちょっと落ち着こうよ』
早苗の周りをぐるぐる回って、諏訪子は珍しく必死だ。なんだか子供をあやしているような口調で複雑な気分だが、早苗は彼女からその言葉を聞けて安心した。
気になるんだけどなあ……。
諏訪子は呟いたが、早苗が見やると両手を上げて首を振った。
早苗は彼女を牽制してから、手に持った箒を見て、思い出した。自分が掃除をしようとしていたことである。さて、ようやく作業に戻れると早苗が考えて、
『残念ながら、そうも言ってられないね』
また邪魔が入った。気づけば、知らぬ間に目の前には女性が立っていた。こちらは諏訪子と違い、姿見からして威厳溢れる神である。八坂神奈子。豊穣の神にして武神だ。
それ故のことだろう。彼女を見るといつも早苗は言い寄れない安心感とともに、一抹の危うさを抱いてしまう。神奈子の、猛る獣のように燃ゆる目に不安を覚えてしまうのだ。
しかし、その度に神奈子はぽんと早苗の頭に手を置いて、優しく撫でるのだ。そうされると不思議なものである。早苗は絶対的といってもいい安堵に胸中が満ちるのだ。
他の者は、八坂神奈子と対峙すれば、みな山そのものに相対したがごとき威圧感を抱くそうだが、早苗にとっては彼女は母親のようで、一緒にいて安心できる存在だった。
『神奈子様、どういうことです?』
神奈子は早苗の長い髪を優しげに撫でた。口元にたおやかな笑みを絶やさず、言う。
『あの子ね、何日も前からここらを嗅ぎまわってるようだよ。人目も気にしてるようだったね。主にこっちと「外」の境界に興味があるみたいだ』
諏訪子が目をぎらぎらと輝かせた。思わずといった風に浮かべてしまった笑みを、早苗の視線を気にして手で隠すと、それをなんとか引っ込めてから声を張って言った。
『怪しいね。やっぱり怪しい!ちょっと天狗どもそそのかして動向探らせるよ』
『待ちなさい』
ぴしりと神奈子が言ったものだから、飛びかけた諏訪子は空中に留まって機嫌を損ねたように訊く。やや声のトーンを落とした、早苗には怖い声だ。
『なに?』
『もうやったわよ、それは。慌ててないで、あんたこそちょっと落ち着きなさい』
神奈子の元に駆け戻った諏訪子は、彼女に笑いかけた。早苗からしても容易に内に含まれた焦りが見える、おざなりな表情だった。もちろん目は笑っていない。
『それならそうと早く言ってよ。で、どうだったの?結果は』
神奈子は肩をすくめた。片目を閉じて、悪戯をごまかす子供のように言う。
『霊夢は例の仕掛けがあるところを見て回ってるみたいね。天狗たちの報告から確認できるだけでも、三分の一ぐらいはもうばれちゃってるよ。上手く細工をしたつもりだけど、案外気づかれるもんね』
諏訪子は、その言葉に怒るどころか、ついには本当に嬉しそうに顔を綻ばせた。
『あはは。ばれちゃったんだ。私たちも頑張ったと思うけど、やっぱ結界の専門家は違うねえ。それで、どうする?』
どう口止めする?諏訪子の残忍な笑みに、早苗は心中で覚悟を決めた。話の流れによっては、自分は彼女たちを敵に回すかもしれない。
早苗はまだ臆病なところがあったが、それでも自分のくだらない願望のために、関係のない誰かが危険にさらされるのを放って置くほど、救いようもないものではないつもりだった。
さてね、と神奈子は顎をさすって虚空を仰いだ。
『早急に手を打たなければいけないってわけでもないのよ。なにせあの子、仕掛け自体には全く手を出してないから』
諏訪子が首を傾げた。
『どういうことだろ?そんな修復不可能なほど痛めつけたかなあ。手間はかかっても、直せないようなもんじゃないはずなんだけど。もともとそんな上等な結界じゃないし』
『数が多すぎることに気づいて、あのスキマ妖怪の手でも借りようって魂胆かもね』
諏訪子が楽しそうに言った。
『それってまずいよねえ?あんなんが邪魔してきたら、本当に計画がおじゃんになる』
『そうね。一つ二つならくれてやってもいいけど、ダミーと一緒に本物まで一掃されたら、ちょっと面倒ね。少なくとも今までの苦労は水の泡よ』
諏訪子はぴょんぴょんと蛙よろしくその場で跳ねた。
『駄目、駄目。そんなのは許されないね!そんなのはつまらない!博麗の巫女は殺せないけど、脅しつけるぐらいはいいんでしょ?ちょっと今から交渉してくるよ』
神奈子が事もなげに言う。
『あの魔法の森の魔法使いとかどう?気持ちのいい奴で、私も気に入ってるんだけどね。大事な計画のためだ。交渉には使えると思うよ』
『神奈子様、諏訪子様』
早苗は言った。何時になく静かな、そして怒気に歪んだ声音だ。
二柱はぴたりと会話を止めて、彼女を見る。
『馬鹿なことをおっしゃらないでください』
神奈子と諏訪子はお互いに顔を見合わせると、神奈子はなにかを得心したように笑みを浮かべて、諏訪子は反対に表情を曇らせた。
大事な計画。大事な計画ですって?馬鹿な。あんなのはただの子供のわがままだ。
家族や友達に会いたい。
自分から決別を選んだ者の言葉とは思えない、甘えた願望だ。それを望んで枕を濡らしたところでなんだ。里の人々とのふとした触れ合いに、涙線を緩めたところでなんだ。当たり前のように、我慢すべきことではないか。
暮らしのなにに不満があるわけでもない。会う人々は皆良い人で、妖怪にはわけがわからないのもいるけれど、そんな彼らとも弾幕勝負でもして分かり合うのは楽しい。最初こそ戸惑いはしたけれど、ここ幻想郷は素晴らしいところなのだ。
幸せなはずだ。自分はきっと、恵まれている。こんな自分より深い孤独に苦しむ人なんて、幻想郷に限ってもたくさんいるだろう。
それなのに、自分のことしか考えず、胸を焦がす思いに身を任せて、自分は大馬鹿者だ。
二柱に提案されたときに、断ればよかった。
いつでも早苗が大切な人と会えるように、幻想郷と『外』にこっそり抜け道をつくってしまおう。
そんな馬鹿げた提案など、あの時笑って流してしまえばよかったのだ。
早苗が選択を誤ったばかりに、計画は実行に移されてしまった。
博麗大結界に抜け道を作る。意外と面倒なものだ、と諏訪子が漏らしていたのを早苗は思い出す。ただ単に風穴をあけるだけなら簡単だ。しかし、それでは巫女かスキマ妖怪にすぐばれる。
結界を跳び越えることならさらに簡単である。だがそれではずっと早苗が『外』に居る間彼女たちが必要になる。しかしそもそも彼女たちは、『外』で信仰が得られず、『外』で生きていかれないから幻想郷に来たのだ。それでは本末転倒だった。
後に神奈子が気づいた。これだけ大きな結界だ。いかにスキマ妖怪といえど、少しぐらいは意識の薄い部分があるのではないか。そこを神の業でもって細工すれば、あるいは。
いかにもざっとした計画だが、諏訪子に至っては完全にお遊び感覚であった。彼女たちは口には出さないが、もともとこの計画は結果よりも、その過程で早苗を元気づけるためのものだったように彼女は今感じている。計画の達成は、もとより誰にも期待されたものではなかったのだ。しかし、それがどうしたことか。
早苗はあれほど憎らしい奇跡を知らない。見つかってしまったのだ。
山ほどの『抜け道の予定地』を作って、博麗大結界を傷だらけにした後のことである。
失敗に次ぐ失敗の末、神奈子と諏訪子は発見してしまったのである。理想の抜け道と成り得る結界の綻びを。彼女たちは歓喜し、早苗にそれを伝え、残すはそれを完全な抜け道と成すための下準備と、ふさわしい安全な時期を待つばかりとなっていた。
そんな時だ。霊夢の訪問があったのは。
惜しいと思ってしまった。早苗は自己嫌悪で気分が悪くなる。惜しいと思って、あの時笑う霊夢に早苗は何も語らなかった。
あの時、自分は他人の迷惑も省みず、異変をも引き起こす選択をしてしまったのである。
身勝手だった。身勝手で、幼い決断だった。
それではいけない。いけなかったのだ。早苗はここにきてやっと決心がついた。
自分の甘えのせいで、誰かが苦しむなど、そんな馬鹿な話はない。
『止めにしましょう。もう、充分ですよ』
静寂。重い静寂があった。
神奈子は心の底から労わるように、訊いてきた。
『それでいいの?早苗は』
早苗はまっすぐ神奈子を見て、こくんと頷いた。
『神奈子様、諏訪子様、こんな私の我儘に付き合わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした』
深く深く、早苗は頭を下げた。
『いいよ、早苗。早苗は私たちの娘みたいなもんなんだから。遠慮しなくていいんだよ』
顔を上げると、早苗は神奈子に頭を撫でられた。ぐりぐりと、力任せで少し痛い。
本当に辛いなら、早苗だけでも『外』に返してあげられるわよ。早苗はもとは人間だからね。信仰がなくても人として生きていけるから、別にいいのよ。
神奈子は何時の日にかそう言った。一人涙する様を見られた時だったように思う。
母のように優しく、しかしどこか寂しげな神奈子の表情を思いだす。どうでもよさそうな顔をして、その実ちらちらと彼女の反応を気にかける諏訪子を思いだす。あの日あの時、早苗は笑って言ったものだ。
大丈夫です。神奈子様も、諏訪子様も、私は大好きだから大丈夫です。
その通りである。早苗は今度こそ、しかと自身の思いを捉えた。
もう間違えないと、早苗は心に誓ったのだ。
『まあ、いいけどねえ』
諏訪子はぶすっとつまらなそうな顔をしていたが、早苗と目を合わせると、やがて無邪気に笑いだした。
『なに泣いてんの、早苗?面白い顔になってるよ』
諏訪子の言葉に照れくさくなって、彼女から顔を背けると、諏訪子は回り込んではけらけら笑う。何度も何度もそんなことを繰り返すので、しまいには早苗は頭に来て、諏訪子を追いかけまわした。蛙のように軽快に跳ねてなかなか捕まらない彼女を、早苗はむきになって追い掛けてはすっ転んだりした。
そんな神と現人神の振る舞いとは思えぬ様に、神奈子は肩を揺らして苦笑した。
ちなみにその後の抜け道の予定地の所在だが、計画が破綻したその時には、神奈子も諏訪子もまるきり興味を失っていて、後は霊夢辺りに任せればいいんじゃない?などと言うのだから困りものであった。
しかし早苗一人では修復もままならず、やはり彼女も放置するしかなかった。
早苗はようやく立ち上がった。
痛みはもちろん収まらない。むしろさきほどよりも激しさが増しているように思えた。しかし早苗はぐっと堪えて、足を踏み込み、飛翔した。
飛べた。飛ぶことが出来た。早苗はそのまま階段のすぐ上を低空飛行して、鳥居をくぐった。そして転がり込むように、境内に乱暴に着地した。
息を整え、気持ちを落ち着かせて、自らの意思を正しく伝えるべく早苗は力強く立った。
「またあんたなの?」
見れば、目の前には博麗霊夢だ。腕を組んで、直立して、早苗に相対している。
「懲りないわね」
ふふ、と霊夢は乾いた笑い声を上げた。欠片も楽しそうではない。どちらかといえば困ったような、反応に迷ってとりあえず浮かべたような笑みであった。
「わからないんです、霊夢さん」
早苗は痛む身体を相手に悟らせないように、出来るだけ堂々と振る舞った。
「どうして霊夢さんは、こうなる前に、私に弾幕勝負をしかけなかったんですか」
霊夢は小首を傾げて、片方の眉を吊りあげた。それは発言の意図がわからない、という意思表示にも、お前がなぜ今ごろそんな話をするのかわからない、と嘲っているようにも見えた。
「なぜ異変を未然に防ぐのではなく、わざわざ自分で汚名を被ってまで、その存在をみんなに知らしめようとしたんです」
「自分で考えなさいよ」
霊夢は一言で切り捨てた。早苗はまるでめげずに答える。薄々、予想していたことなのだ。なぜ『博麗の巫女』が異変を起こしたか。その視点で考えるなら、こうだ。
「見せしめ、でしょうか」
心臓が早鐘を打つ。きりきりと胸が痛んで、苦しくてたまらない。しかし、早苗はその苦痛に真っ向から抗って、言葉を続けた。
「博麗大結界に手を出せば、どれほど大事になるか。そして異変の達成自体がどれほど困難になるか。それを貴女は見せつけたかったのではないですか」
霊夢は注意して見ていないとわからないほど、わずかに目を見開いた。自身の心情をごまかすように浮かべていた、彼女の笑みがすっと消えてなくなる。
「私もそうですが、神奈子様も諏訪子様も懲りない方です。今までに何度だって騒動を起こしています。未然に防いでいたのでは事の重大さが伝わらない。生半可な応対をしてはいつか幻想郷を危機に晒しかねない。貴女はそう考えたのではないですか」
息を一つ吐いて、早苗は結論付けた。
「霊夢さんは、博麗の巫女として、博麗大結界の存在の重要性を誰よりも知る者として。万が一にもそれが危機に晒されることを防ぎたかった。そんな真似をすれば幻想郷中を惑わせ、敵に回すことになることを、見せつけたかった」
あくまで、博麗の巫女としての動機付けであるが。
早苗が霊夢の反応を窺うと、霊夢の様子がおかしい。霊夢は、常の彼女にはない、苦痛に歪んだような表情だ。異様であった。目立った怪我などまるでないのに、本当に苦しそうである。やがて彼女が、言葉を紡ぐ。
「なるほどね」
低く唸るような声だ。自分の首筋をなでる霊夢は、眩しそうに目をすぼめて、早苗を見ていた。
「ご明察ね早苗。あんたの推測が正しければ、確かに全部説明がつくわ。どうして私はあんたたちをとっちめるんじゃなくて、自分で異変を起こしたか。なぜ結界を急いで脆く弱らせるのではなく、わざわざ時間をかけて紫に気づかれやすいように、一気に結界が崩壊してしまわないように注意したのか。全部、説明がついてしまうわね」
あっと早苗は声を上げた。霊夢の首を掴む手が、ぐっと爪を立ててそこから血がでてしまっていたからだ。早苗は思わず一歩近づいたが、それに合わせて霊夢も下がった。
「霊夢さん?」
霊夢は嘆息する。
「私は」
漏れ出した声は震えていて弱々しくて、およそ彼女らしくなかった。
「私はやっぱり博麗霊夢で、博麗の巫女なのね。いつでもどこでも、何をやろうとしても」
必死に感情を抑えつけた彼女の声音は、平時とは比べ物にならないくらいに押し潰れていて、聞くに堪えない。早苗は胸が締め付けられるようだった。
「霊夢さん、霊夢さん!落ち着いてください!」
意味があるのかないのか、わからない言葉を早苗はかけた。
「私も思ったわよ。おかしいなあって。この幻想郷をめちゃくちゃにしたいなら、もっといくらでもやりようがあったはずだもん」
霊夢は吐き捨てた。
「まあ、薄々気づいてはいたわよ。博麗の巫女としての意志が私の行動にははっきりと根付いていること。半端な真似して、あっさりばれて防がれて。それでほっとしてる自分を見つけちゃって。もしかしてこれって、これさえも『私』の行動じゃないのかなあってね」
早苗は口が出せない。語る霊夢はもはや彼女を見ていなかったのだ。何も彼女には見えていない。
「異変を起こした時、感情がむき出しになった自分が、私は本当に嬉しくてね。自分が取り返しのつかないことをしようとしてるとわかってても、泣きたいぐらいに気分が良かった。でも、それも今考えるとどうなのかしらね」
霊夢は自分の顔を隠したがるように、両手で覆った。
「八雲紫がいたのよ。境界を操れる八雲紫が。やけにタイミングが良かったわ。結界がやっと崩壊を始めた矢先に、アイツは私を止めた。私は生まれて初めて心の底から恐怖を感じて動けなくなった。異変を断念した」
早苗は拳を固めた。自分の足が、前にも後ろにも動かぬよう、じっと堪えた。
「アイツは何時からいたのかしら。何時から私の境界を操っていたのかしら。私が、私が、自力で打ち負かしたと思っていた『博麗霊夢』を、アイツは何時から操っていたのかしらね」
霊夢さん。早苗の呼びかけは、小さすぎて、彼女には届かない。
空を飛ぶ程度の能力。
ありとあらゆる存在から『飛ぶ』能力。
人間も妖怪も神も強く想うことができない能力。
あらゆる束縛から自由を得たが故に、そんな自分自身の枠から逃れられなくなった彼女は、定められた役割である博麗の巫女で在り続ける。
それは決して強制的などではなく、ずるりずるりと気持ちの悪い薄ぼんやりとした自由意志からなるものだ。だからこそやりきれない。
自分をがんじがらめにする運命に、声の限りを尽くして慟哭することも叶わない。
そんな『博麗霊夢』に、早苗は何を言えばいいのか。まるで思いつかなかった。頭の中をかき乱す激情が、彼女は煩わしくて嫌になった。
「私には結局、『私』なんていないのよね」
霊夢は両手を顔から離して、ぶらりと垂らした。
その表情に、早苗は悪寒が走る。それは『博麗霊夢』だったのだ。平時と変わらない、曖昧に笑って、適度に怒っては、意地悪を言ったり親切を言ったりもする彼女だ。
何者の味方にもならなくて、どっちつかずなその態度。その少女は誰よりも我を通しているようで、その実まるで自分がない。
「えーと、あはは。ごめんごめん」
早苗は、うまく言葉が出せず、唾を呑みこんでから、言った。
「なに、いきなり謝ってるんですか」
「いやあ……今、私柄にもなく取り乱しちゃったかなあって」
頭を掻いて、霊夢は決まり悪そうに笑みを作る。
「それが霊夢さんなら、それでいいでしょう」
早苗が言うも、霊夢は首を傾げた。微かに眉を顰めて、発言の意図がわからないらしい。
そう、演技しているのだ。彼女の鬱々とくすむ瞳を見つめて、早苗は断じる。
やがて霊夢は無表情を作る。どことなく疲れ切った顔色は取り繕えていないが。
「まあ、私の事はいいのよ。あんたのことよ」
霊夢は早苗を手で制すると、無理矢理に話を区切った。
「ええと、私が起こした異変に、負い目感じてるんだっけ?まあいい機会だから、一つ先輩がありがたい訓辞をくれてやろうかしら」
早苗は物も言わず、霊夢の言葉を待った。
「外にでたければ、でていけばいい。なんて気のいいことは私は言わないわよ」
霊夢はゆっくりと、早苗に歩み寄る。早苗はぴくりと身体を震わせたが、動かなかった。
「あんたはここにいなさい。ずっと、ここにいなさい。死ぬまでね」
博麗と守矢の少女は間近で目を合わせる。
どちらもがどちらとも、お互いを不器用ながら想う目をしていた。
「だってあんたは選んだんでしょう、いっぱい選択肢があって、その中からこの今を選んだんでしょう。だったら、づべこべ言わずに、この今を楽しみなさいよ」
霊夢の言葉に、早苗が息を呑んだ。
「大丈夫だから。ここはね、人間も妖怪も、神々だって恋する幻想郷よ。あんたがどんだけバカ正直の人見知りの寂しがり屋でも、ここの連中が無理矢理馴れさせてくれるわよ。だから、頑張んなさい。そしたらきっと、ここにだって大切な人ができるわよ」
「霊夢さん」
霊夢は笑っている。穏やかに、早苗を安心させようと笑っているのだ。しかし、それも『枠』の範疇を超えないものであって、どこか窮屈そうだった。
「霊夢さんも、私は大切です」
「あんたって、ちょっと優しくされるとすぐなびくのねえ」
早苗も笑ってみせた。彼女に比べれば、何十倍も簡単に出来る表情だ。
「さてと、これで今度こそ満足?」
「はい?」
「もう、うだうだ駄々こねないわねって訊いてんの。最初からずっとそうだったじゃない。あんた、自分の思う通りに行かないからって子供みたいに結末を拒んでたでしょ」
あ、早苗は呟いた、彼女の言わんとすることが、わかってしまったのだ。
「私がどうしてなにをやったか。もうわかったでしょ。私が何を望んでるかも。あんたのするべきことも、わかったんじゃないの?」
「異変は解決しないと、いけませんね」
霊夢は頷かずに、早苗から距離を取った。
「やっと、本番ね」
それは安堵に満ちた声だ。早苗は自身の胸を押さえて、何も言わなかった。
何も思わないことにした。
「ルールはさっきと同じってことで」
霊夢がふわりと浮かぶと同時に、早苗も飛翔した。身体は傷だらけだが、不思議と飛行の邪魔にはならなかった。早苗は彼女から目を離さず、高度を同じに保った。
「夢想天生」
博麗霊夢は目を閉じた。やはりいきなりの宣言だ。
夢想天生。
それは弾幕勝負のために編み出した技ではなく、もとより彼女の能力として存在していたものを、時間制限をつけてスペルカードにしたものだそうだ。
あらゆるものを寄せ付けない、彼女の能力の象徴とも言えるスペルカード。
早苗は意識を集中した。だが、すぐに戸惑ってしまう。しかと捕捉していたはずの霊夢の姿が、急に掠んでぼんやりとして見失ってしまったのだ。
視線を巡らせると、彼女はすでに背後に控えていた。彼女を取り囲んでぐるぐると回る八つの陰陽玉。それらがにわかに光を帯びて、札の弾幕を放出した。
しかしそれらは一列に連なっていて、追尾性能も大したものではない。さきほど撃ち落とされたばかりのスペルカードだ。早苗は冷静に可能な限り無駄なく動いてそれらを凌いだ。と、追撃が来ないのをいぶかしんで霊夢を見れば、何もしてこない。
ふと感づいて早苗が頭上を見仰ぐと、そこに今さっき避けた札の弾幕が寄り集まっていた。それらは密集して団子状になったかと思うと、いきなり弾けた。
早苗は驚いて動きを止めてしまう。さっきはこんなのなかったと思うんだけど……。
さきほどの夢想天生は、自動で弾幕を張って、自動で相手をたたき落とすだけの無意志なスペルカードだったはずだ。しかし、今回のこれは、何だろう。ほとんど自律している。
彼女が操っているんだろうか?
疑問を解決する間もなく、無数の紅い札が早苗の視界を覆い尽くした。一見豪雨のごとくただ降り注ぐだけのように思えるそれらは、一枚一枚がきっちりと早苗に狙いをつけて飛んでくるのだから始末が悪い。高速の札が、頬を掠めた。今足を引いたばかりのところをそれが走った。もはや目で追って避けていては間に合わない。早苗はとにかく無茶苦茶に飛び回った。あがいて、あがいて、霊夢の能力を超えるために、あがき尽くした。
どこにいますか、霊夢さん。
早苗は視線を走らせる。頬の血を拭って、ひたすらにがむしゃらに紅の札を避けて。
居た。最初はまるきり意識できなかった霊夢を、今や早苗は把握できた。スペルカードの限界が近いからかもしれない。
早苗は霊夢を目指した。四方八方から襲いかかる紅い弾幕にも怯まず、必死に空を走った。背を何枚もの札が削ったが、知ったことか。早苗は構わず突き進んだ。
早苗は霊夢の前に立った。すでにほとんど消えかけていた陰陽玉が、彼女から逃げるように消滅した。それと同時に、紅い札も消え去った。
霊夢は目を開けて、そして目を見開いた。
「あれ、攻略されちゃったの?」
早苗は笑って彼女の肩を小突いて、しかし疲れ果てて声が出なかった。
夕方頃だ。博麗神社である。
雲一つない空に夕日が映えるその時、博麗霊夢は境内にあぐらをかく。
傍らにはあちこちに傷を抱えた東風谷早苗だ。することがないのか、所在なげにふらふらと視線をさまよわせる。
「みなさん、来ませんね」
「来ないわねえ」
霊夢は呟く。頬杖をついて、大層不満げだ。
「きっとあんたが全員返り討ちにしたからよ。もう、本当に余計なことするわよねえ。これじゃいつまで経っても『異変』が終わらないじゃない」
「しょうがないですよ。私がここまで辿りつくのに、邪魔だったんですから」
早苗はぴんと指を立てて、自慢げに言ってのけた。
「異変解決はですね、異変を察して、障害を蹴散らしながら、その元凶のもとに急いで、そいつをぶちのめすのがセオリーなんです」
霊夢は早苗をじっと睨んで、ぷいと顔を逸らした。
「霊夢さん、霊夢さん」
早苗は彼女の横顔に声をかけた。
「なによ」
「私の能力が何か、知ってます?」
霊夢は考える間もなく、答えた。
「なんだっけ?」
早苗は苦笑した。
「奇跡を起こす程度の能力ですよ」
「……ざっとしてるわねえ。それが?」
早苗は霊夢の横に正座をした。
「奇跡とは、容易ならざること、在り得ざることが起きた時の表現でしょう」
「ま、そうね」
「起こしますよ。貴女に奇跡を」
霊夢は返事をしない。文句は言わなかった。
「私は甘ったれの未熟者ですから、まだ自らの能力でさえ理解が及びません。それ故に使いこなせません。でも、やりますよ。いつかは果たしてみせます。奇跡を起こします。貴女の満面の笑顔を、私は見てやるんです」
仏頂面でそっぽを向いたままの霊夢の前に、早苗は気丈に笑って顔を出した。
つられたように、霊夢は笑う。ぎこちなくて、まだ心からとは言えない笑顔。
「私、頑張りますよ」
霊夢は視線を迷わせて、たっぷりと時間をかけてから、一言だけ言った。
「えーと、頑張れ」
ただ、少々不完全燃焼というか……。作者さんがやりたかったであろうことは分かったんだけども、いまいちピンと来なかった。
守矢家に焦点がいってしまって、霊夢の周りが未解決――例えば紫のこととか、もう少し書いて欲しかったなあと。
12氏が若干触れていることなのですが、「不完全燃焼」というのか、作品は良くまとまっているのですけど、「外」「中」の対立がちょっとぶれているイメージがありまして、それが少し心残りであるかと思います。つまり、「中」というのが、古寂れた信仰・妖怪の世界(幻想郷)で、それがいわば「博麗霊夢」を偶像化することで成り立っているであろうことは分かりやすいのですが、外の世界が何に象徴されているのかが見えにくいと言う事です。見えないもの、作中でいえば「紫」が一つのキーになっているので、「紫」・「笑顔」・「『私』」をつないでいくと「外」と「中」の境目、つまり「博麗大結界」が見えてくるような、そんな構成にしているのでしょうか。そうだとすれば、もうちょっと外の要素を見えなくしても良いと思います。たとえば八雲紫の立ち回りを変えてみるとかですね。
とまれ、素晴らしい作品でした。あなたも負けずに"頑張"ってくださいね!では。
誤字?報告
いつの間にか現れていた守矢諏訪子は笑みを浮かべて言った。
守矢→洩矢
>18さん
ご指摘ありがとうございます。
そうですね。今更ですが、確かに話が練りきれてなかったように思いました。
努力します。
>17さん
>19さん
ありがとうございます。励みになります。
誤字は修正しておきました。やっちゃいましたね……。
やはり物語の消化不良な感じが残りました。
霊夢と紫の関係とか。
今は霊夢の異変は誰が為に、という言葉が浮かんでます。もっと読み込んできます。
その時その時の「自分にとって悪くない」ものを書き続けていって下さい。
「良いもの」がそのまま表現出来ないならば、後で濾過出来る程度にでも書いて行くと、
どんどん精錬されて、相対的にも「より自分にとって良いもの」が出来るのではないでしょうか。過去作は今の自分には合わないもの、だからまた書く、という。
……今回の時点で圧倒されてる俺の、その屍をさらに越えていけ的な。
明後日の方を向いたコメント、申し訳ない。
是非また、貴方の作品を読みたいと思いました。
やりたいようにやった筈なのに、気づけばそれも「博麗の巫女」として立派に役目を果たしたことになっていた。ただの偶然とも思えますが、やはり霊夢自身もそれで納得してしまいましたか。
時にヤケになることもあるしガス抜きも必要――それが許されない霊夢。しかし早苗ならなんとか霊夢を本当の笑顔に出来るんじゃないかと、期待せずにはいられませんなぁ。
消化不良起こしちゃってるのが残念。それだけ難しい、新しいテーマってことですね。
あなたなりのこのテーマへの解答が今度の作品で触れられたりしたら読者としては嬉しいし、楽しみにしたいと思います。
がんばってくださいね