※今作は前作「宝塔の行方」の内容を少し受け継いでいます。もしよろしければ、拙作「宝塔の行方」をご一読頂けると展開が分かりやすいかと思います。
※霖之助の生い立ちについて、一部独自解釈が存在します。原作を重視される方は、一読する際にご注意ください。
金は天下の回り物だと言う。
その意味は、貨幣という価値を有する物は一つの場所には留まらず、使い使われ、様々な人の手に渡っていく、ということである。
ではそれでは、他の価値ある物ならばどうなのか。
例えば、それが十分な価値を有する宝物ならばどうだろう。
宝物ならば、それはきっと回り物では無いだろう。
貨幣であれば、生きていくために必要な日用品を得るために少なからず使用する必要がある。
しかし、宝物と言うものは高い価値を有するが蒐集品である。使う必要は必ずしも無い。使われなければ、それは回り物では無いのだ。
――だが、全ての『宝物』が、それに当てはまるわけでは、当然の事ではあるがないようだ。
◇ ◇ ◇
「ふむ?」
ふと、ナズーリンはどこかで感じた事のある感覚に声を漏らした。
――ナズーリンがいるのは、幻想郷の中でも滅多に生物の寄り付かず、かつ屈指の危険度を誇る場所である無縁塚だ。
そんな所にナズーリンが何の用があるのかと言えば、何の事は無い、宝探しに来ていたのだ。
ここは幻想郷の境界であるが故に危険である、だが境界であるが故に、外の世界からの貴賎様々な物が流れ着いてくる、と言う話を、誰ともなく聞いたのだ。
「ふんふん……」
くんくん、とナズーリンは鼻をひくつかせる。
ナズーリンがここ、無縁塚に最初に訪れた際にまず思った事は、『まるでゴミ置き場だ』であった。
それは雑多に散乱しているガラクタ――中には確かに貴重な物が混じっているのがロッドとペンデュラムから分かるが、それを補って余りある程のゴミが埋め尽くしているのだから、全体としてはやはりガラクタである――に加え、無縁仏と見える遺体まである。
まるでこの世の廃棄物全てが行き着く先がこの場所であるかのようで、匂いも正直洒落になっていない。
そんな中で、ナズーリンの嗅覚を的確に、かつ心地よく刺激してくる香りが、その不快臭に紛れて確かに漂ってくる。
「……ここか」
それは一見すれば、他の場所に積みあがっているのと同じただのゴミの山だった。
だが、その匂いは確かにそこから漂ってきていた。
匂いの源に近づいているためか、先ほどよりもはっきりとその匂いが感じられる。
それはナズーリンの好物である、牛乳の発酵食品に似ている香りだった。
それも、ナズーリンの普段食しているそれよりも芳醇な香りだ。
不快臭にも負けていない存在感を、ナズーリンはその山の中から感じていた。
「ふんふん」
がさがさ、とナズーリンはそのゴミの山を漁る。
何やら薄汚れた、元は煌びやかであったのだろう単衣、やけに古めかしい巻物・木簡、最早香りの欠片も残っていない香など、とても価値がある物とは思えない山の中を、ナズーリンは探っていく。
――大分、その山を崩した頃になるだろうか。
「……おや」
山を掘り返していると、ゴミの山の中から、薄汚れた木箱が転がり出てきた。
しかし、積み上げられた他のゴミとは違い、その木箱だけはどこかが壊れた様子が無い。
随分と頑丈に作られているようで、一見しただけで他の散乱している物とは違うことが分かる。
ナズーリンはその木箱を取り出し、ゴミの山から這い出た。
先ほどから感じていた香りは、間違いなくその木箱から漂ってきていた。
ゴミの山から取り出したからだろう、先ほどまでは微かだった香りが、今は格段に強くなっている事もそれの裏づけだろう。
ナズーリンは犬猫のように鼻が利くわけではないが、格段に強くなった香りのおかげで、木箱を開けずしてその中身を知ることが出来た。
どこかチーズに通じるものがある、乳製醗酵品の独特な香り。しかしチーズとは明らかに一線を画す、濃厚で芳醇なそれは、ナズーリンの食欲に大きな揺さぶりをかけてくる。
――ナズーリンは、この香りをちょっと前にも嗅いだことがあった。
「――へぇ。珍しいことがあったもんだね」
感動するように呟いてから、ふむ、とナズーリンは考える。
――『今回は』私が見つけた物だ。どう扱うのも私の自由だが、さて……。
『コレ』を見つけてナズーリンがふと思いついたのは、どこか気だるそうに、そして難儀そうにしている一人の男の顔だった。
ナズーリンがつい最近知り合った、悪い人物ではなさそうだが面倒そうな、面倒そうだが結局のところ人が良さそうな、寂れた店の店主だ。
また何か入用の物があれば来るといい、そうあの男は言っていた。
入用な物は何一つ無いが、あの男が珍しいと言った上で他人に譲った物がまた自分のところに戻ってきた、という話を聞いたら、一体どんな風に反応するのか。
「……一人で味わってもいいが……せっかくだ、驚かせてやる、というのも一興かね」
に、と、悪戯を思いついた子供のような表情を浮かべ、ナズーリンは無縁塚を後にした。
◇ ◇ ◇
「やあ、今日も暇そうだね、店主」
「……いきなりご挨拶だね、ナズーリン」
お昼を過ぎ、ちょうど午睡の時間に差し掛かった頃だったろう。
からんからん、とカウベルを鳴らし、今日初めての訪問者を、霖之助は読んでいた本から目を離して迎えた。
が、そんな事をのたまいながらやってきたのは、いつぞやのネズミ妖怪であった。
確かに今日は彼女が最初の訪問者ではあったが、仮にも店舗を構えている店主がそれを言われるというのは、霖之助でなくても吝かではないだろう。
「先に言っておくけど、僕は客がいないから本を読んでいるわけじゃない」
「あぁ、だから『暇そうだ』と言ったんだよ。そもそも『忙しい』って単語は、本を読んでる時間すらないくらい、君が仕事をしている場合に使うべきだ。しかしどう見てもそうは見えないからね」
「……」
けたけた、と意地悪そうに沈黙した霖之助を笑いながら、ナズーリンはカウンターの近くまでやってくる。
そしてその辺にあった椅子をずるずる引っ張ってきて、それにひょい、と飛び乗った。
――まあ、魔理沙みたいに商品に座らないだけ、全然マシだな。
そんな事をナズーリンを観察しながら思っていた霖之助だったが、そこで初めて彼女が何か木箱のような物を持っていることに気付いた。
「おや? ……ナズーリン、君は一体何を持ち込んできたんだい?」
「ああ、これかい? ……ふふ、何、ちょっと珍しいものを手に入れてね」
かたり、とナズーリンはその木箱をカウンターへと置く。
薄汚れてはいるものの、全く壊れた様子の無い木箱に、霖之助はおや、と首を捻る。
「これは……ただの木箱のようだが、造りに随分と年月を感じるね。その割には、妙に頑丈な作りになっているようだが……」
木箱を手に取り、様々な角度から霖之助は眺める。
霖之助の能力では、その木箱の名称、用途はやはり『木箱』、『物を入れておく』であり、只の木箱にしか見えない。
しかし、霖之助も呟いたとおり、その箱は造りが妙に古めかしい。
釘で止められている訳ではなく、木板を見事に噛み合わせて箱の形になっている。
また、箱の外側はそれなりに傷んでいるのに、壊れている様子は無い。
作りもさることながら、木箱を構成している木の板自体も十分な厚みを持った頑丈なものであることが伺えた。
「まぁ、それは『貴重』な物が入っているからね」
「ん? ……この箱には開けた形跡が無いんだが……どうして中身が分かるんだ? 例のダウジングロッドは宝物の中身まで分かるものなのかい?」
そういう霖之助の問いかけに、いや、とナズーリンは首を振る。
「流石にこういう箱の中身までは分からないよ。私が分かるのは宝物がある場所までさ。……何だい、君は鼻が利かないのか?」
「君は僕を純妖だと思っているのかい? 残念だけど僕は半分人間なのでね、君達みたいに特別鼻が利くということは無いんだよ」
「……そりゃ驚いたよ。私みたいな妖怪にあれだけの額を吹っかけるものだから、どんな欲深い妖怪なのかと思っていたんだが……まさか半妖だったとはね。……ふーん、なるほどね」
「――君も、純粋でない者を蔑視する方なのかい?」
ぽつり、降りた霖之助の呟きに、何気無くナズーリンは彼を見やった。
――一体いつ以来だっただろう。久しぶりにぞくり、と背筋を悪寒が駆け抜けた。
思わずぴーん、と尻尾が勢い良く立ってしまった。
霖之助が、ナズーリンを見つめる目。
それは、返ってくるであろう返答に僅かな希望を持ち、ナズーリンの返答を待っている、圧倒的な絶望の中に一縷の望みを待つ目なのか。
それとも、ナズーリンの答えなど必要とせず、ただこの慣れた問答と返答に虚無を覚えている虚空の目なのか。
いずれにせよ、深淵を映すような深い暗い目が、ナズーリンを射抜いていた。
随分長いこと生きてきたナズーリンだが、そんな目を見たことなど、記憶から発掘するだけでも相当な労苦を必要とするくらいの回数くらいしか無かった。
――これが、自分に比べて子供くらいの年月しか過ごしてこなかった半妖のする目だろうか。
まるでこの世の底全てを見てきたかのような虚無は、そんな幻想をナズーリンに抱かせた。
じぃ、と、得体の知れない目を向けられ続け、ナズーリンは慌てて言葉を紡いだ。
「い、いや。何、単純に驚いただけさ。――私達の寺院の主も、人間と妖怪の垣根を壊す事を理想としている方だ。その具現がいたとしても、驚きこそすれ、他に思う事は無いさ。他の奴らはどうか知らないがね」
「ああ、そうかい」
返ってきた霖之助の返事は、余りにも呆気の無いものだった。
別にナズーリンの返事などどうでもいいかのような、そんな返答。
本当にどうでもいいのか、霖之助はナズーリンの返答があった瞬間から、また目線を例の木箱へと戻していた。
――それが何だか、ナズーリンは気に食わなかった。
答えを求めるような問いかけをしてきて、それなのにその答えには一切の興味を示さない霖之助が、何故だか無性に。
――自分に興味が無い、そう言われているような気がして。
「……ふむ。とりあえず、僕にはこれを開けずして中を窺い知る方法は無いな。開けても構わないかい?」
「……ふん。好きにするといいさ」
その気に食わなさを隠すつもりもなく、ナズーリンは無愛想に返す。
ああ、とだけ霖之助も返し、早速工具をカウンターの下から取り出して、木箱の開封を始めた。
「……く。なかなかに……頑丈だな……」
予想以上に頑丈だったのか、霖之助は少々顔を歪めながら開封を進めていく。
しかし工具を使っている霖之助にとっては、いくら頑丈とは言え木箱である以上、開封まではやはり時間の問題であった。
「……っと。開いた……が、この匂いは……。ん? これは……醍醐?」
「ふふん。そうさ、この前君にオマケに貰った物とは違うがね。今日、たまたま私も手に入れてね。珍しい事があるものだと思って、君の所に持ってきたのさ」
「確かに珍しい。このクラスの物がこの短期間に、複数の人の手に渡るなんてのはね……。それが以前に同じ物を譲った事がある知り合いだった、なんて確率は、決し高くは無いだろうね」
霖之助は驚いたように、木箱の中を改めながら感嘆の声を上げる。
ナズーリンからすれば、正にしてやったりである。さっきまで不機嫌だったのだが、今ので大分相殺された。
これで霖之助が眉一つ動かさなかったら、不機嫌の余り店の中で少々暴れたかもしれなかった。
「……それで?」
「ん?」
「君が珍しい物を見つけた、という事は分かったんだが、これを僕の所に持ってきた理由がいまいち掴めない。君の好物なんだろう? 君だったら、誰かに見せる前に食べてしまうような気がするんだが……」
「失敬な。確かに好物だが、そこまで食い意地張っちゃいないよ。君に前貰った醍醐だって、余りにも貴重だったから時間をかけて味わって頂いたんだ。本当の意味で食い意地張ってるのは私じゃなくて、どっちかって言えば部下のネズミ達の方さ」
「ほう、そうだったのか。それは失礼した。……だが、やはり僕には、君がここに来た理由が掴めないな。まさか見せに来ただけかい?」
ことり。
霖之助は醍醐の入った木箱をカウンターへ置くと、言葉と共に理由を問うようにナズーリンへと視線を向けた。
――理由、か。
そう問われ、ナズーリンは逡巡する。
見せに来ただけ、と言われれば、それは完全にノーであるとは言えない。
元々の一番の理由は、外の世界でもこの幻想郷でも貴重だと言われている醍醐が、こんなにも短い間隔で人の手に渡るという事実を霖之助に示し、驚かせようとしていた事だ。それに間違いは無い。
だが、完全にそれだけか、と言われても、それもイエスと言い切れない。
驚かせようとした悪戯心と、少しだけ、醍醐を肴に共に愉しもうという心もあったのだ。
「――なぁ店主。君は平安の世に、醍醐の前段階である蘇がどんな風に上級貴族に食べられていたか、知っているかい?」
「ふむ……。蘇が税として納められていた、という話は聞いたが……食べ方までは聞いた事が無いな」
「蘇は当時は酒の肴だったのさ。藤原氏が権勢を極めていた頃の藤原長者は、蘇に糖蜜をたっぷりとかけ、肴として摘みながら酒を飲んでいたらしい」
「……当時の酒は今のような清酒ではなく、濁り酒が主流だったと聞くが……ただでさえ清酒よりも甘い酒を飲みながら、そんなものを肴にしていたのか? 考えただけで吐き気がするよ……」
本当に吐き気を感じているのか、思いっきり霖之助は顔を顰める。
無論、その意見にはナズーリンも同感だった。
「ああ、私も君と同意見だよ。そんな風な生活をしていたからだろう、当時の貴族たちは虫歯やら肥満やらが相当多かったそうだ」
「……なるほど。当時は今よりも大分人間の平均寿命が短かったらしいが、貧民層は衛生の悪さと栄養面の悪さで、貴族層はそういう食生活のせいで長生きが出来なかったんだろうね。納得したよ」
「全くもって同感だね。……まあ、そんな可笑しな習慣を真似ようとは思わないんだが、どうだい? これで一杯やらないかい?」
くい、杯を傾ける仕草をするナズーリンに、霖之助は一つ溜息を吐いた。
「なるほど、そういう訳でここに来たのかい。悪いがまだ営業時間中なものでね。まだお天道様が高いのをここに来る時に見てこなかったのかい?」
「へぇ、碌に接客も営業もしないこの店に営業時間なんてものがあったのかい? てっきりずっと開店休業だと思ってたよ」
「そんな訳無いだろう。確かに客の数は少ないが、来ないとも限らない。絶対来ないならともかく、来るかもしれない客を放って飲むわけにはいかないさ」
「……そうかい。分かったよ」
ふぅ、と溜息を吐くナズーリンを見て、霖之助は意外に思うと共に少し安堵する。
彼女は口が悪い時もあるが、やはりちゃんと話が分かる子であるらしい。
霖之助が礼を言う謂れは無いが、それでもちゃんと分かってくれた事に対して礼を言おうとして。
「じゃあ閉店まで待とうかね。せっかくこっちは酒まで手持ちしてきたんだ。付き合わないって言うなら、ちょっとこの店の中で運動でもさせてもらおうかね。……まぁ、ちょっと原型を残す程度の運動になりそうだけどねぇ」
――止めた。
結局、彼女も脅しを言う事と、その脅しのレベルは他の『話が分からない子』と同一であるらしい。
「……分かった。ぜひ付き合わせてもらおう。店を壊されては、いくらなんでも割に合わなすぎる」
「ふん、分かればいいさ。寧ろ閉店まで待ってやるんだ、感謝されてもいいくらいだよ」
「……それは素直に有難いね」
確かに、閉店まで待ってくれるという事だけは、本当に有難かった。
魔理沙や霊夢だったら、きっと待ってはくれなかっただろう。
何だかんだで、店を商っている霖之助の事を考えてくれているのだろう、そう霖之助は思った。
――無論、それについて礼を言うつもりは、その時には毛頭無かったが。
◇ ◇ ◇
陽が山浪の向こうに消えて、青い空の色が群青に染まっていく。
この日の香霖堂の閉店は、いつもの閉店時間より少し早かった。いつもは陽が完全に落ち、闇が空を覆い、灯りが無いと店主が本を読めなくなっていることに気付いてから、ようやく閉店の準備が始まる。
しかし、この日は既に香霖堂のドアには「閉店」の表札が掲げられており、今頃は店内で本を読んでいるはずの店主は、二人分の杯を持って縁側にいた。
「ほら、ナズーリン。君の杯だ」
「ああ、ありがとう」
霖之助は、既に縁側に座っていたナズーリンに杯を渡す。
霖之助自身は、メインの肴である、適度に切り分けた醍醐、そして霖之助が簡単に作った魚の干物のつまみをナズーリンの右隣に置き、更にその右隣に腰掛けた。
ちょうど気持ちいい風が吹き、ちりん、と風鈴を撫でた。
それが切欠になったかのように、ナズーリンが酒瓶を取り出した。
「さて、今日私が持ってきたのは単なる清酒だが……いける口かい?」
「ああ、問題ないよ。寧ろ洋酒よりは好きだね」
「そうかい。それは僥倖」
ナズーリンがまず自分の杯に注ぎ、そしてその注ぎ口を霖之助へと向けた。
甘んじて注いでもらう。
「……さて、それじゃあ開幕といこうか」
「ああ。とりあえず乾杯、かな」
からん、と二人の杯がぶつかり、軽い音が鳴る。
それから二人揃って、くい、と一回目の杯を空けた。
「――ふう。何だか自分の酒でない、というのも落ち着かないものだね」
「へぇ? どういう事だい?」
「いや。普段は魔理沙に霊夢――ああ、君にとっては白黒の魔法使いと紅白の巫女と言った方が分かるかな? 彼女らは食料を持ってくる事はあるが、酒はあまり持ってきたことが無くてね。それでもよくうちで飲んだりするものだから、いつも出す酒は僕のものなんだが、今日は違うからね。損をしていないんだから遠慮することは無いんだが、なんだか落ち着かなくてね」
「……ああ、あの二人か。なるほど、君は普段はあの二人に集られてるのか。災難だね」
「まぁね。慣れてはいけないんだろうが、もう慣れたよ」
今度は霖之助が酒瓶を取り、まずはナズーリンの杯に注ぐ。
注ぎ終わってから、自分の杯に注ぐ。
「ああ、悪いね。……さて」
酒を注いでもらったことに礼を言ってから、ナズーリンは服のポケットから何かの小瓶を取り出した。
白い粉末が入った、手のひらサイズの小瓶だった。
「? それは何だい?」
「ん? ああ、塩だよ。昼もちょっと話したけど、昔は蘇には糖蜜だったそうじゃないか。けど、私にはやっぱりチーズっぽいものには塩気だと思うからね。前に君から貰った醍醐も塩をかけてみたんだが、意外にいけたものでね」
ナズーリンは醍醐を一欠摘むと、塩を振り、それを口に運ぶ。
「――ん~。やっぱりこれだね、これ」
途端、普段の彼女の表情からは余り想像できないくらい、表情が満足そうに綻んだ。
縁側の足どころか、耳と尻尾もぱたぱたしている。
「ほう。……どれ、じゃあ僕も」
霖之助も醍醐を一欠取り、塩を振って口に含む。
――まずは仄かな塩味がし、すぐに独特の癖がある、濃厚な乳の味が口いっぱいに広がる。
蘇、特に生蘇は味としてはカッテージチーズに近いらしいが、醍醐はそれより段違いに濃厚でバターに近いチーズといったところか。
牛乳を煮詰めたものを熟成させているため、それだけでは余りにも濃厚でとても食べれたものではない、というのが、霖之助が真っ先に思った正直な意見だが、こういう風に切り分け、塩味で調味してあるものならば、確かに美味だ。
――だが、やはり蘇に糖蜜とは……。
「ふむ、美味い。……しかし、これよりは濃厚でない蘇であるとは言え、糖蜜をかけて濁り酒とは……味覚がおかしいとしか思えないね」
「ああ、本当にそう思うね。ただでさえこれだけ濃厚なものに甘いものをかけていたら、幽霊でももう一回死にそうなものだよ」
くい。
杯を煽り、ナズーリンは頷く。
例えは分かるのだが、果たして一度死んでいる幽霊が再び死ぬのだろうか。
そこまで考えて、霖之助は思考を止めた。
あくまで例えである事に対し、理論的な思考を持ち込むのは余りにナンセンスである事に気付いたからだ。
ごくり、霖之助は杯を傾ける。
心地良い熱さが、霖之助の喉を下りていった。
「美味い。……こう静かで落ち着いた酒宴と言うのもいいものだね。自分以外の誰かと飲んでいる時にこんな気分を味わえるとは、思ってもみなかったよ」
「私もどっちかと言えば、雰囲気を味わって飲む方が好きだからね。わいわい飲むのも悪くはないとは思うが、それは屋内で飲む時に限るね。こうやって外を眺めながらであれば、静かな方がいい」
「ああ、そうだね」
もう一つ、霖之助は醍醐をつまみ、塩を振って口に運ぶ。
以前、ナズーリンに譲った醍醐に霖之助は手をつけていなかったため、実際に食べるのはこれが初めてなのだが、なるほど、日本で古来に作られた乳製発酵食品の中で最上位に位置づけられるだけはある。
確かに癖はあるが、それに慣れてさえしまえば、その癖も含めて何とも後を引く味なのだ。
ナズーリンのようなネズミ妖怪でなくとも、ついつい食指が進んでしまうのも仕方ない。
そう、霖之助は杯を傾けながら自分に言い聞かせることにした。
「……なるほど。蘇を肴に酒を酌み交わした、というのも頷ける。濁り酒であったのはともかく、酒精との相性はいい」
「ああ、私も少し驚いている。前に君に貰った醍醐で酒は飲まなかったからね。まさかこれほど酒が進むとは思わなかった」
そう返すナズーリンは、既に三杯目を注いでいる。
杯自体がそう小さくは無いので、まだ始まったばかりで三杯目と言うのも随分なペースだ。
悪酔いしないといいが、と霖之助は思うが、自身も一気に杯を煽ると、それをナズーリンに差し出した。
「すまない、僕も一献頼めるかい?」
「ああ」
差し出された杯にも、ナズーリンは酒を注ぐ。
それを受け取り、揺れる酒面を眺めながら、霖之助はもう一口、それを飲み込んだ。
空はまだ山の際に茜色を残す群青色で、夜の帳が下りるのはまだ早い。
月も煌々とした明かりを照らしてはいない。
いつもよりも早い時間に始めた酒宴は、そのペースもいつもより早かった。
――何、多少ペースが早くとも、問題ないだろう。
久々に気分のいい酒宴なのだ、たまには細かい事を考えないで楽しむのも一興だろう、そう霖之助は思った。
「……醍醐をつまみに、静かな風景を愉しむ酒宴、か。滅多に無い機会を愉しめるという点は、正に醍醐味とでも言うんだろうか」
「ああ、上手い事を言うね」
に、と二人とも笑い合って、また杯を傾けた。
そして、今日も、夜は更けていった。
◇ ◇ ◇
「……」
「……ふぅ」
傾けていた杯に残っていた酒を全て飲み込み、霖之助は一つ溜息を吐いた。
酒宴が始まってから、もう二刻程が経っただろうか。
結局、霖之助とナズーリンは、彼女が持ってきた酒だけでなく、霖之助が新たに一升瓶を三本持ち出し、その全てを空にしてしまっていた。
明らかな許容量のオーバーである事は、誰の目に見ても明らかだった。
飲みすぎるということが殆ど無い霖之助にとっては珍しい事だったが、それだけこの酒宴が満足できるものであった証拠だろう。
だがやはり飲みすぎている、という事実は変わらないのか、霖之助は普段余り感じることのない浮揚感を感じていた。
ナズーリンもどこか焦点の合っていない目をしているような気がするが、彼女もきっと酔いが回っているのだろう。
その証左として。
「……なぁ、霖之助君」
お互いに会ってから初めて、ナズーリンは霖之助の事を名前で呼んだ。
「何だい?」
「……君は……自分が半妖である事を、気にしているのかい……?」
「……」
ふとナズーリンが告げた言葉は、さっきまで非常に良い気分だった霖之助の気分を、音がするかと思うくらい急激に落とした。
――店に来た時の問答か。
霖之助は、ナズーリンが突然そんな事を尋ねてきた原因をそう推測した。
――いや、正確には突然でもなかったように霖之助は思う。
ちょっと前から、妙に沈んだ顔をしているとは思っていた。何かを深く考えてるような、そんな表情だ。
何を考えているのかと思っていたが、まさかその事を考えていたとは霖之助は夢にも思っていなかった。
だが、彼女とは、回数にすればまだそんなに数多く接したわけではない。
また、霖之助の事を良く知っており、かつ良く会う子たち――この場合、霊夢や魔理沙、紫などだが――は、この話題を誰かに出すとは余り考えられない。
魔理沙に至っては、この話題を霖之助の前ですることを忌避している節すらある。
となれば、ナズーリンがその事について思考する原因として残るのはそれくらいだろう。
ある意味、自分の不手際ではあるが、結局のところ、やはり好かない話題は好かないのだ。
半妖が純妖や人間に劣るとは微塵も思っていないものの――。
「あ……いや、その、すまない。悪い意味で言ったんじゃないんだ」
あまり良くない感情が、酔っているせいか露骨に顔に出ていたのだろう。
霖之助を見たナズーリンが、彼女らしくなく、慌てた様子でぱたぱたと両手を振る。
「……」
「その……今日、ここに来た時……無遠慮に言い過ぎた、そう思ってね……」
――酔っているのか、妙にナズーリンはしおらしかった。
だがあの時、ナズーリンが霖之助に対し、それに対して何か特別霖之助の気に障る事を言ったわけではない。
ただ単に、霖之助がナズーリンに対し、機械的に確認の意味も為さない問答を行っただけで、彼女は単に驚いた、そう言っただけだ。
霖之助からすれば、それを謝られてもどうしようもない事ではあったし、そんな事があったのも、ついさっきまで思い出すことも無かった事だ。
ナズーリンが何を気にしているのかが、霖之助には分からない。
だから、その言葉に返す言葉も、定型文のようなものだった。
「……別に、気にしていないよ。何とも思ってないさ」
「……そうか……」
それきり、ナズーリンは黙ったままだった。
特に何か返ってくる様子が無かったので、霖之助はこの話題は終わったのだろう、そう判断した。
暫く、奇妙なくらい、二人は黙ったままだった。
さぁ、と二人の間を抜けていく風の音がやたらと大きく聞こえるくらい、その場は奇妙な静寂に包まれていた。
余りに静かだったので、霖之助はふとナズーリンへと視線を向けた。
ナズーリンは先ほどまでと同じ場所に、同じように座っていた。
違うのは、ナズーリンが表情を隠すかのように俯いていた事と、膝の上に乗せた両手がスカートの裾を強く握っていた事だった。
――霖之助がそんなナズーリンの様子を窺っていると、ふと、ナズーリンが口を開いた。
「……君は、その話題を出した人には……もう、興味が無いのかい……?」
「……何を言ってるんだい? 君は」
突然呟かれた言葉に、霖之助は首を傾げるしかなかった。
一体どこをどう飛躍したらその論理が出てくるのか。
アルコールが大量に入っているため、いつもより思考の鈍りが否めない霖之助ではあったが、それを差し引いても、ナズーリンの言っている事が全く理解できなかった。
今の彼女は、そもそも興味が無い相手と酒を酌み交わすだろうかという、至極真っ当な論理が浮いてこない程、実は酔っているのだろうか。
よく見れば、座っているナズーリンの体が微妙に前後に揺れている。船を扱いでいるのだ。
あまり話し方や仕草には出ていないが、相当酔っているのかもしれない。かく言う霖之助も、いつに無く酩酊しているのが自分でも分かるくらいなのだから、彼女がザルでない限りは、相当酔っていると見てよさそうだろう。
「……当たり前の事を聞くが……君は興味が無いような人物と酒を飲みたいと思うかい?」
「いや……そうは思わないが……」
「だろう? と言う事は、君の質問はこの酒宴が開かれた段階で既におかしい。……僕も、どうでもいい人と酒を飲むほど、お人好しでも暇人でもない。君に興味が有るか無いかで聞かれたら、それは有るに決まっているさ」
「……私が、どうでもいい訳じゃあないのかい……?」
――珍しく、らしくない事を言ってるな。
霖之助に尋ねるように言ってから、ナズーリンはどこか冷静なままの自分自身でそう思った。
きっといつに無く早いペースで飲んでしまい、酔っているからだろう。
そう思って――いや、それをある意味、免罪符にして――ナズーリンは、一連の問答をしている。
――さっきまで全く意識する事は無かったが、どうやらナズーリンは、霖之助のあの自分に興味のなさそうな目を相当気にしていたようだ。
酒が入る前までは何ともなかったが、酔いが回り、普段は毅然に、冷静に振る舞っている頑強な理性が僅かに緩んだ時に溢れてきた、僅かな歪みがそれだった。
他の誰か、それもまだ知り合って日にちも浅い相手が自分に興味があろうが無かろうが、ナズーリンにとっては殆どがどうでもいいことであった。
――この瞬間までは。
あの自分に向けられた目が、余りにも冷たかった。
それが、今この瞬間溜まらなく不安になったのだ。
――何故この気難しくて偏屈な半妖にはそれが気になるのか、それはナズーリン自身もよく分からないことだった。
「……だから言っているだろう。どうでもいい相手と飲む程暇じゃない、ってね」
「……そうか……」
繰り返し同じような事を聞かれたからだろう、霖之助は少々不機嫌にそう繰り返した。
だが、ナズーリンには、答え方などどうでもよかった。
ただ霖之助がノーとはっきりと言った、その事実さえあれば、今はそんな小さな問題なんか意識にすら上って来なかった。
――何だか、急に、眠くなってきた……。
「そうか……それは……何より……」
「? ナズーリン? どうした?」
今まで危うくバランスを保っていたナズーリンの体が、ぽて、と仰向けに倒れた。
何事か、と、少しだけ慌てて霖之助はナズーリンの様子を確かめる。
「……くー……」
「……何だ、寝てしまっただけか。全く、驚かしてくれる」
苦笑を浮かべ、霖之助は宴の後片付けを始める。
今まで共に杯を傾けた相手が眠り、肝心の酒も切れてしまった。
もはや一人で酒宴を続ける理由はどこにも無かった。
それに。
「……久し振りに愉しめた酒盛りだったかな」
使った杯を台所の水を張った桶に付けながら、ぽつりと霖之助は呟いた。
飲み会とは大人数で騒ぎながらするものである、という考えを持つ人であるならば、偶に思い出したかのように言葉を交わす以外は静かな、二人だけの小さな酒宴のどこが面白いのか、と問うかもしれない。
だが、霖之助にとっては、むしろこんな酒盛りの方が余程楽しめるのだ。
元来人が多いのが苦手である霖之助にしてみれば、自分以外の誰かと、静かに外の風景を眺めながら飲むと言う事自体が久し振りである上に、その良さが分かる相手と飲んでいたのだ。
今更一人で飲む気分になど、到底なることは出来なかった。
「よっと」
元の縁側に戻って来ると、霖之助はナズーリンを抱きかかえた。
想像通りの軽さを支えながら、霖之助は来客用の布団を用意すべく客間へと向かった。
◇ ◇ ◇
「昨日は世話になったね。礼を言うよ、霖之助君」
「ああ。次に来る時は、出来れば客として頼むよ」
翌日。
霖之助に一泊の礼と共に暇を告げ、ナズーリンが命蓮寺へと戻ると、いつもは多忙であまりゆっくりしているのを見かけない白蓮が、湯飲み片手に縁側でのんびりしていた。
「あら、ナズーリン。今帰りかしら?」
「ああ、まあ」
「……あんまり顔色がよくないみたいだけど……どうかしたのかしら?」
白蓮はそう尋ねる。
実際、ナズーリンとしても、気分は決してよくはなかった。
二日酔いとまではいかないものの、空を飛んでいて微妙にフラフラする程度には酔いが残っていたからだ。
――やっぱり昨日は少しやりすぎたかね。
後悔自体はしていないが、やはり酒には付き物のこの副作用には閉口せざるを得なかった。
「……ちょっと昨日、飲んでね。少し過ぎたみたいなだけさ」
「あら。という事は、あの巫女と魔法使いとでも飲んできたのかしら。どっちにしろ、ペースと量は考えないとダメですよ」
「ああ……。でも飲んだのはその二人じゃないよ。古道具屋の店主とさ」
「……えっと、あの宝塔を譲ってくれたっていう、あの?」
「そう」
共に飲んだ相手を告げると、白蓮の様子が何だかおかしくなった。
あらあら、だとか、まあまあ、だとか言いながら、ナズーリンの方を凝視している。
当のナズーリンには、一体何があらあらなのか全く分からない。
「……聖。さっきから何を言っているのか、私にはよく分かりかねるんだが……」
「ナズーリン、あなた、男性の家から朝帰りですか!?」
ふと大きな声で叫ばれた内容に、ナズーリンは最初目を白黒させた。
まず、『そんな大声で言う内容か?』からスタートし、次に言われた内容を吟味し、『ああ、まぁ外聞だけで言うならそうなるか』を通過。
そして。
「な……な、何を考えてるんだ!?」
そこから、『聖が何を想像してこんな事を言っているのか』に辿り着いた。
辿り着いて、ナズーリンは顔を真っ赤にして叫んだ。
皆まで言わずとも、白蓮がとんでもない勘違いをしている事が丸分かりであったからだ。
「いえいえ、全部は言わなくていいですよ。ナズーリンももう子供じゃないですしね」
「いや、だからそこから違うんだ! 私は霖之助君とはまだ何とも無くてだね!」
「あらあら、店主さんをもう名前で呼んでるんですか? 随分仲が良いんですね。……ああ、そうだ。今日のお昼はちょっと豪勢にしましょうか。ふふ、そう遠慮しなくてもいいですよ」
「ちょ、聖!?」
ナズーリンの言葉を全く聞く様子を見せず、白蓮はにこにこと寺院へと戻って行く。
その白蓮の後を、ナズーリンは焦りながら追いかけた。
このまま放っておけば、変に勘違いされたまま色々な人に言いふらされかねない、そう思ったからだ。
――今日も、幻想郷は平和であった。
素敵なナズ霖をありがとうございます。
そして、この話はまだ続いてほしいなぁ
冗談は置いといて
少人数で静かに飲むのは、良いですね。
二人の静かな語らいが、良い雰囲気を出していて、良かった。
しかし甘い酒に甘い肴…
これは頂けないな
前作も読みましたが、二人の間に漂う空気が感じ取れていいですね。
読了感も爽快ですし、独自設定という、霖之助がもつ陰惨な過去を
垣間見させる表現も興味深い…。続きを期待しちゃいますね、これはw
おもしろかったですよ!
なんで無縁塚に、それも開け口の無い木箱に入った醍醐が転がっていたのか謎が残りました。
でも、そんなの関係ないくらい今回もいい雰囲気でした。
この聖は赤飯炊いちゃって「今日はどうしたんですか?」とか星に絶対聞かれてそうだww
しかし俺は聞き逃さなかったぞ。「私は霖之助とはまだ何とも無くてだね!」
まだ!! まだと言ったか? ほほう……(ニヤニヤ)
ナズ「!?」
静かに飲むのも、大勢で飲むのもいいものです。
……とか未成年者が言ってみる。
やっぱりナズーリン相手が一番しっくりきます
醍醐食べてみたい。
まだまだいける
ニブチンなのにいろいろとフラグを立てまくるのって面倒だよね
見てる分にはたのしいけど ニヤニヤ