――うさぎはね、寂しいとすぐ死んでしまうの。
迷信なんかじゃないよ、ほんとだよ?
春の暖かくて優しい風が、そっと頬を撫でる。
永久から解き放たれたここ永遠亭にも、四季折々の鮮やかな色彩が再び訪れるようになった。
年中寒暖の差が緩やかな月の気候に慣れきった私にとって、幻想郷の季節の移ろいはとても新鮮に感じる。
新たな命の息吹が芽生える春は幸せに満ちているのに、何も変わらない自分の姿と比べてしまうとちょっと憂鬱。
皐月病と言う病気はどんな生き物も掛かってしまうものなんだと苦笑いしてしまう。
そんなある春の日のこと。
永遠亭の姫君である輝夜様から、私は小さな頼み事を引き受けていた。
「ねえ、鈴仙。中庭の桜が満開だから、夜桜を楽しみたいの。簡単なものでいいから、何かお酒にぴったりなお料理作ってくれない?」
「はいな、お安い御用です。それにしても夜桜なんて、風流でとても素敵ですね」
そんな姫様の願いを叶えるべく、私は台所で食材を見つめながら軽く思案していた。
月ではよく桃の花を見ながら宴会をしたものだけど、それはもう随分昔の話。
あの時は唐揚げや茄子の肉詰めだとか、結構ボリューム感たっぷりな料理が多かった気がする。
花より団子とも言うし、美味しいご馳走は花見の大切なお供なのだ。
でも自分で「風流」なんて言っちゃったし、折角だから春らしくてあっさりとした料理に挑戦してみようかな。
なめこにはたっぷりの大根おろしを和えて、薄口醤油で軽く味付けをして完成。
菜の花は昆布のダシでしっかりと味を馴染ませて、春の匂いがふんわりと香るようなおひたしに。
ふきと筍と豚肉の甘露煮、山椒とぜんまいをあしらった冷奴にお手製の焼きガンモ――
ちょっと味見してみる。
うん、なかなかに美味しくできた!
鈴仙流和の心が存分に散りばめられた自信作、絶対気に入って貰えるはず。
料理は好きだし得意な方だと自負していたのだけど、お酒に合いそうな料理と言うのは意外と思い浮かばないものだ。
私自身、お酒をあまり嗜まないからかもしれない。
用意しておいた漆塗りの重箱に出来上がった品を丁寧に盛り合わせて、日本酒と一緒にお盆に載せて台所から運び出す。
中庭に咲き誇る桜の大樹を横目に、母屋の離れにある姫様の部屋へ向かった。
春風に乗って、桜の花びらが舞い散る。
ゆらり、ゆらり。
離れの縁側で、お師匠様と姫様は二人で桜を眺めながら談笑していた。
姫様の小脇には私の名字の元になった花、優曇華の盆栽が置かれている。
私はその花が咲いているところを一度も見たことがないけれど
姫様のお詠みになられた詩によれば、優曇華の花が咲いて実をつけた姿はこの世の何よりも鮮やかで美しいとのこと。
お師匠様はどんな想いで私に優曇華の名字をくださったのか、ずっと聞いてみたくて……今だ聞くことができずにいて。
「お師匠様、姫様。お待たせして申し訳ありません。今日花見をすると知っていれば、もうちょっと色々用意できたのですが……」
「ううん、いいのよ鈴仙。わざわざありがとう。突然言い出したのは私だから、気にしないで」
笑顔で迎えてくれた姫様の横にお盆を置いて、花鳥風月があしらわれた重箱のフタを開く。
綺麗に盛り付けられた料理の数々を見るや否や、姫様がぱちっと手を合わせて嬉しそうに目を輝かせる。
「あら、とても美味しそうね! お酒のおつまみと言うより、料亭の懐石料理みたい。正直お夕飯の残り物かなあと思っていたのよ」
「折角の花見ですし、少し洒落たお料理でも作ってみようかなと思いまして。色々手を加えてみました」
そうこう私と姫様が話しているうちに、お師匠様が早速菜の花のおひたしにそっと箸を伸ばした。
ゆったりとした上品な仕草で咀嚼した後、我が意を得たりとばかりにこくりと頷く。
「ん、ちゃんと出汁が効いてて美味しいわ。こんな風流なお膳が用意できるなんて、鈴仙もようやく"わびさび"が少しは分かるようになったのね」
「ああもう、お師匠様ったらまた私を子供みたいに言うんですから!」
「だって鈴仙は『お師匠様の薬は苦すぎるんです。効果抜群とは言えもう少しまったりとした味にはならないんでしょうか?』とか真面目に聞いてくる子だしね」
お師匠様の話に、すかさず姫様が合いの手を入れる。
「そうよね。茶事の時に一番苦そうな顔をするのも鈴仙だもの。私も何だかんだで一番子供っぽいのは鈴仙だと思うわ」
「あんな苦味が美味しいなんて感じるくらいなら、私はずっと子供でいいですよ、もうっ!」
皆でくすくすと笑いあう。
心からの笑顔には、何の偽りもなくて。
私はここにいていいんだって、とっても安心する。
微笑の中にある、私の存在の証明。
私の一番大切なモノ――
「ところで……お師匠様に姫様。てゐを見かけませんでしたか?」
二人の杯にとっておきの日本酒を注ぎながら、姿の見えない白兎のことを訊ねる。
「てゐ、夕食の時はちゃんといたのにね。それから何処を探してもいなくて声を掛けられなかったの。やっぱりちゃんと事前に決めておいた方が良かったわ」
「突然思い立って行動に移してしまうのも輝夜らしいけど、てゐの自由気ままっぷりも何時ものことよ。まだ桜は散っていないのだから、明日明後日にでもまた皆で夜桜にしましょう?」
少し残念そうに呟く姫様を見て、慰めるように声を掛けるお師匠様。
一つだけフタが空いていないまま、ぽつんと残された重箱を見ているとちょっと悲しくなる。
てゐにも食べて欲しかったのに。
てゐが喜んでいる顔が見たかったのに……あいつったら本当気まぐれなんだから。
「そうですか……全くてゐったら、何処をほっつき歩いているのかしら!」
私はくいっとお酒を飲み干して悪態を吐く。
喉が熱くなって、けほっけほっとむせてしまう。
あの子はいつもそう。
私がどんなに心配しているかなんて、全く分かってない。
地上の兎達はよくあんないい加減なリーダーに付いていこうと思えるものだ。
でも、あの自由な生き方にはちょっと憧れてしまうところもあって。
それにてゐは……何かと優しい。
――同じ兎同士だからね、仲良くやろうよ。
月面戦争から逃げてきた私に、最初に優しく手を差し伸べてくれたのはてゐだった。
月の兎である私を邪険に扱うことなく、快く仲間として受け入れてくれた恩は一生忘れられない。
てゐは自由気ままでちょっと我侭そうに見えるけど、誰よりも私を気遣ってくれる。
たまに仕事に失敗してへこんでいると、真っ先に声を掛けてくれるし。
実は私より恥ずかしがりやさんで、ありがとうなんて言うとすぐ逃げてしまう。
何かと可愛げがあって、とてもお茶目さんなのだ。
嗚呼、どうしてこんなに楽しい一時なのにてゐったら!
勢いでぐいっともう一杯お酒を喉に流し込んだら、またむせた。
やっぱり私は、まだまだ子供みたい――
舞い踊るように、儚く散っていく桜の花びら。
赤い弧を描きながら、残像を残して。
ゆらり、ゆらり。
「――桜花 闇夜の空に夢の痕 愛しき人の春は何処へ」
姫様が澄んだ声で和歌を詠む。
しんと静まり返った空気に、儚く霧散する言の葉。
「輝夜の見てる夢、いったいどんな夢なのかしら? 私には貴女が内に秘めた想いは、何一つ変わっていないように映るけども」
「能力なんて使わずとも、詩に込められた想いは永遠のままよ」
「輝夜は簡単に言うけど、変わらずにいることは本当に大変。一つの想いを抱き続けて生きることは尚更ね」
「でも、最愛の人が好いてくれる自分であり続けたいと思うならば、永遠を手に入れることはそんなに難しくないと思うの。違うかしら?」
「うふふっ、その通りね。愛しい人には、ずっと好きでいて欲しいもの」
二人の会話を聞いていると、私は何時も段々といたたまれない気持ちになる。
お師匠様と姫様の間には、たった二人だけの世界があることを私は知っているから。
私が入り込む余地なんて、これっぽっちもない。
愛情、信頼とか感傷。あるいは追慕、その類。
二人が形作る絆はあらゆる感情を飲み込んだ最果てに生まれた、きっと私が知ってる言葉では表現できないもので。
誰も知らない、お師匠様と姫様だけの物語。
私には触れることすら叶わない。
とても羨ましくて、妬ましくて。
私はただ指を咥えて、俯いていることしかできず。
「……ちょっと、てゐを探しに行ってきます」
私は逃げるように、その場から立ち去った。
お師匠様と姫様が何か言ってたけど、聞こえないふりをして。
二人を見てると切なくなることなんて、もう慣れたと思っていたのに。
――どうして、こんなに胸が苦しいの?
母屋の縁側に、ぺたんと座り込む。
酔いはすっかり醒めて、心は寂しさで一杯。
慰めてくれるのは風薫る春の暖かさ。
春風は頬をかすめる涙を、そっと拭ってくれて――
――――ざーっ、ざざっ、ざざざざざざざ、ざざざざ……
涙を拭おうとしたその瞬間、頭の中にノイズだらけの音が入り込んできた。
月の兎はどんなに離れていてもテレパシーみたいに意思疎通ができるけど、時々こんな風に意識していなくても音が聞こえてきたりする。
混線中に聞こえてくるのは結局ところ、噂話の類ばかりだけど。
誰でも構わない。
声が聞きたくて、耳をピンと伸ばして月へ傾けた。
見上げた星空は、とても綺麗で。
そっとノイズの先に意識を繋ぐ。
「……地上に堕ちた月の兎さん。聞こえるなら……答えてよ。私ね、ひとりぼっちなの。まだ見ぬ貴女と、お話がしたいんだ」
私はびっくりして飛び上がりそうになった。
繋いだ声は混線ではなく、自分宛だったのだから。
「聞こえてるわ、こんばんは」
お月様に向かって言葉を紡ぐ。
今話してる相手はあの月の裏側で暮らしているんだなと思うと、ちょっと不思議な感じがする。
昔は私も、あそこに住んでいたのに。
「届いた! ハローハロー、チェックワンツー……チェックオッケー! こちらは暖かくて華爛漫、みんな春の陽気で仕事サボって転寝してるよ」
私が挨拶すると、嬉しそうな声が返ってくる。
ちょっと驕慢そうな、良く通る声色。
ひとりぼっちだと言う割には、随分と元気な口調だった。
「……貴女、ひとりぼっちなの?」
「うん、そうだったよ。だけどこうして貴女と繋がったんだから、もうひとりぼっちじゃない」
見ず知らずの兎は、私なんかよりずっと前向き。
でも私と話したいなんて言ってくれるだけでも、ちょっとだけ救われた気がする。
「そっか。私はね、寂しいよ」
ぽつりと呟いた本音。
寂しいなんて、そこら辺の小さな子供でも我慢してる類の感情だ。
それなのに、こうしてふいに寂しくなると胸が張り裂けそうになる。
別に普段気丈に振舞ってる訳でもないけど、強がってみてもどうにもならない。
寂しくなんかないって嘘を自分に言い聞かせてみても、余計に切なくなるだけ。
「地上で、たった独りだから?」
「ううん、私はひとりぼっちなんかじゃないよ。永遠亭の皆はとても優しいもの。でもね、寂しい。皆がいるのに、寂しいよ……」
「あ、でもそれ分かるなあ。私も友達は結構いる方だと思うんだけどね。周りの兎達とご飯を食べてても、話してても……楽しいんだけど何か寂しくなる時があるんだ」
こうして吐き出すだけでも、少し心が楽になる。
お互い境遇は違えど、抱く感情はとても似ているような気がした。
でも何故だろう……全然話したことのない相手なのに、こんなに共感できてしまう。
「もしね、あなたとわたし。同じ悩みだとしたら……この寂しさを解決する方法は、たったひとつしかないと思う」
「何々? もったいぶらずに教えてよ」
周りをきょろきょろと見渡す。
誰もいないことを確認してから、ひとつ深呼吸して息を整える。
そっと小さな声で、囁いた。
「……恋をすること、かな」
ぽっと顔が真っ赤に染まる。
だって、それしか思い浮かばないんだから!
お師匠様と姫様の関係は、恋愛なんて言葉で片付けられるような簡単な関係じゃないなんて百も承知。
だけど。
あれは私から見たら、やっぱり恋。
私だって最愛の人がいたら、絶対寂しくなんてならないはずなんだ。
「うふふっ、あはっ、あははははは! 突然何を言い出すのかと思ったら!」
「笑わないでよ! 私だって恥ずかしいんだから」
「ごめんごめん。もっとね、こう、後ろ向きな解決策だと勘違いしてた」
「でも、分かってても上手くいかないんだよね」
実行する勇気は、理屈を知ることと全く別問題で。
この世の中、理解していてもどうにもならないことばかりなんだから。
「好きな人とか……いないの?」
心の片隅から、ひょこっと顔を出して微笑むてゐの面影。
でもてゐは私のことなんて、きっと恋愛対象として見てくれてない気がする。
「いるけど、望み薄。大好きなんだけど言えないの。自信なくて……」
「奇遇だね、私もそんな感じなんだ。好きな人はいるんだけど相手はどう思ってるのか、分かるような分からないような感じ」
「あはは、お互い駄目じゃん」
「うん、ダメダメだー!」
何だかとってもおかしくて、くすくすと笑いあう。
何時の間にか、寂しさなんて消えてしまっていた。
別に恋なんかじゃなくても、寂しさを紛らわすことができる気がしてくる。
私の悩みなんて、そんな小さなことに過ぎないのかもしれない。
「おっといけない、私そろそろ仕事に戻らないと。また怒られちゃうよ」
ひとしきり笑った後、彼女はちょっぴり残念そうに呟く。
私もてゐを探しに行かなくちゃいけなかったんだけど。
そんなことはすっかり忘れてしまっていた。
「とても楽しかったわ。貴女と話してたら、寂しさなんて何処か行っちゃってた。本当にありがとう」
「うんうん、兎は輪になってないと生きていけないからね。助け合いが大切さー」
「また貴女とお話したいな。私、鈴仙って言うの。良かったら貴女の名前も教えて貰えると嬉しい」
一瞬間を置いて彼女は「うーん」と困ったような声を出す。
その理由は、私にも何となく察しがついた。
「私ね、名前はないんだ。そこら辺のしがない餅搗きだから」
玉兎は貴族にでも飼われてたりしない限り、名前なんてない方が普通だ。
それに月で罪人扱いの私と交信してるなんてばれたら裁判沙汰。
名前を持っていたとしても、教えられない事情があるのかもしれない。
「そっか。でもこれが最後じゃないよね? またお話できるよね?」
「うん、約束するよ。また寂しくなったら何時でも呼んで。テキトーに仕事しながらでもお喋りくらいはできるからさ」
折角友達になれたのに、これっきりになるのは絶対に嫌だったから。
また会える。それだけでとても嬉しかった。
「それじゃあ私も戻る。またね!」
「バイバイ、鈴仙」
ぷつん、と彼女と繋がっていた意識が途切れる。
素敵な夢から覚めた朝のような、ふわふわとしたやさしい気持ち。
彼女に分けて貰った温かい想いを、ぎゅっと抱きしめた。
永遠亭の周りを軽く探してみたけど、やっぱりてゐはいなかった。
片付けもあることだし、仕方ないので引き返すことにする。
離れに戻るとお師匠様と姫様はまだ夜桜を楽しんでいて、その隣には……てゐが嬉しそうにお膳の料理を食べている。
物の見事に入れ違いだったみたい。
「おかえり、鈴仙。それにしても春の山菜はとても美味しいね。私このふきの甘露煮がとても好きだよ」
「あ、それは嬉しいな。私それ一番の自信作だったの……いやそうじゃなくて! 貴女一体どこ行ってたのよ、全くもうっ!」
ぷんすか怒る私にも、てゐはけろっと何食わぬ顔。
よく見るとてゐが箸を伸ばしている先は、さっきほとんど手をつけなかった私のお膳だった。
「ちょっとそれ私のじゃない! ってもうてゐのは空っぽ……好評で嬉しいような、悲しいような」
「こんなに美味しいのに残すのは勿体無いかなって。まだちょっとしか食べてないから鈴仙も食べなよ」
「元から私の分だからそれ!」
てゐはおかずの筍をつまんで、あーんと口を大きく開けてひょいっと放り込む。
あまりにも美味しそうに食べてくれるので、怒る気もしない。
小さな仕草にいちいち愛嬌があるから、何気にずるいと思う。
「ほら、だからさっき探しにいかなくていいって言ったのに、鈴仙ったら無視して行ってしまうんだから。てゐは神出鬼没すぎるから探すだけ骨折り損よ」
「そんなに遠くには行ってない気がしたものですから、つい……」
「幸せは掴もうとすればするほど、するするとその手から離れていくものよ。てゐが見つからないのはそういうことなの。人目を避けること自体が能力の一種みたいなものだから」
お師匠様の回りくどい説明を聞きながら、隣にいる姫様がくすくすとおかしそうに笑いながら茶々を入れる。
「うふふっ、その幸運の素兎も夕食の時間になるときちんと戻ってくるわ? 宴会とか食べ物の類には随分と弱いのね」
「そりゃそうさ。兎だってお腹が空くんだし温かいご飯が食べたいからね」
えへんと何故か威張るてゐ。
確かに晩御飯の時、いつも一番最初に座って律儀に待っているのはてゐだけど。
「でも夕食当番は持ち回りなのにてゐったら、自分の時はいつも私に押し付けてるんですよ!」
「あら鈴仙、奇遇ね。私もいつも輝夜に押し付けられるのよ」
しれっとお師匠様が暴露してしまったので、てゐはしめしめと言った表情で何処吹く風。
姫様もさも当たり前と言った感じだし……困ったものだ。
「そ、そう言えば姫様も滅多に夕食を振舞ってくれませんね……」
「私は永遠亭の主なのだから全然問題ない。それにたまに気が向いた時はちゃんと作ってるじゃないの」
「そうそう、私だって兎のリーダーだから全然問題ないんだ。いつも山の幸一杯持って帰ってきてるしね」
「てゐあんたは余裕で問題あるでしょ!」
本当に仕方ないんだから、この白兎は。
でも悪びれた様子もなくけらけら笑うてゐは、間違いなく皆に幸せを運んでくれてるんだなと思う。
お師匠様も姫様も、そして私も……皆笑ってる。
笑顔でいられること、それはとても幸せなことだから。
幸せが胸いっぱい。
大切にぎゅっと抱きしめる。
でもそんな素敵な時間は綿飴みたいに甘く溶けて、なくなっちゃうとすぐ寂しくなってしまう。
――楽しい宴もたけなわ。
丑の刻を迎えたところで、夜桜はお開きとなり私達は眠りについた。
ぼんやりと見上げる、見慣れた天井。
夜桜の余韻がほんのりと残っていて、胸がきゅんと切ない。
楽しいことの後は、とても寂しい。
ううん。そうじゃなくても常日頃、寂しいけど。
私達は小さな幸せを糧にして、心の隙間を埋めながら暮らす。
誰かが構ってくれたり、可愛がってくれるとちょっとだけ気は紛れるから……兎は輪になって生きる。
でもね。
輪にならなくても。
大切な人と手を繋ぐだけで、寂しくなんてなくなる気がするの――
「……てゐ、起きてる?」
てゐは隣の布団で小さく身体を丸めている。
永遠亭はこんなに広いお屋敷なのに、私達はずっと共部屋。
そう決めたのはお師匠様でも姫様でもなく、てゐだと聞いた。
いつも飄々としてるてゐだって、寂しくなる時があるのかもしれない。
「……うーん、何?」
ごろりと寝返りを打ってこちらを向くてゐの顔は、とっても眠たそう。
大きな瞳はとろんとしたまま、今にもまぶたが落ちてしまいそうで。
「……寒いの」
「布団、重ねたらいいじゃん」
「そうじゃなくてね。寂しくて、身体が震えてしまうの」
「今日、あんなに騒いだのに?」
「うん……」
てゐは「そっか」と呟いた後、それ以上何も言わなかった。
「……そっち、行っていいかな?」
「うん、いいよ」
ゆっくりと身体の位置をずらして、布団の中に私のスペースを空けてくれるてゐ。
「ありがと。嬉しい」
そっとてゐの布団の中に入り込む。
ふんわりと優しい、人肌のぬくもり。
かすかな吐息。
とくん、とくん。
鼓動が聞こえる――
間近で見るてゐの横顔は、ほんのりと赤く染まっている。
真っ白な肌だから、余計に目立つ。
「あんまりこっち見ないでよ、気になるじゃないか」
「うふふっ。あー何てゐ、恥ずかしいの? 別に必ず上向いて寝なきゃいけない決まりなんてないでしょう?」
「だって鈴仙、目を瞑ろうとしないんだもん」
「気のせいよ」
夢見心地で、ついついじっと見つめてしまっていた。
ぷくーっと頬を膨らませて不服そうなてゐ。
「じゃあ私も鈴仙をじっと見つめたまま寝るよ」
「それは恥ずかしいからやだ」
「一体どうすればいいのさ!」
「気にしないでいいから、もう私だって眠たいわ」
てゐの腕に両手を添えて、瞳を閉じる。
ゆらゆらと伝うてゐの体温が、寂しい気持ちを優しく塗り替えていく。
「おやすみ、鈴仙」
名前を呼んでくれるだけでも、とっても嬉しくて。
繋いだ手を優しく握り返す。
「おやすみなさい、てゐ」
小さな布団の中で、丸くなって寄り添う。
幸せに包まれながら、眠りに落ちていく。
きっと素敵な夢が見られる。
そんな気がするの――
◇◆◇◆◇◆◇◆
夜桜を楽しんでから三週間後――
季節の変わり目は、各家庭に置かれている薬箱を確認・補充する仕事が待っている。
まず遠いところ……紅魔館とか博麗神社、魔法の森を回ってから人里を渡り歩く。
私は人見知りだから接客はご勘弁願いたいところなのだけど、霊夢とか知り合いと話すのは結構楽しい。
「さいしょはグー、じゃんけんっぽいっ! はい妹紅姉ちゃんの負けだから鬼決定! 妹紅姉ちゃん本当じゃんけん弱いよね、あははっ!」
「べ、別に私は手を抜いている訳じゃないのに……くそっ、さっさと捕まえてやるから早く散れっ!」
わいわいと楽しそうに騒ぐ子供達の声が寺子屋に響く。
元気を分けて貰える気がして、必ず最後はここに来るようにしている。
蜘蛛の子を散らすように逃げる子供達を何だかんだで楽しそうに追いかける妹紅を横目に、薬箱の中身を確認する。
「うん、やっぱり傷薬の類が結構減ってるみたい。いつも一杯に置いてるつもりなんだけどなあ」
包帯や絆創膏、湿布や塗り薬の類を丁寧に詰めていく。
どれも工夫がしてあって一般の市販薬より傷が治りやすくなる、さり気ないお師匠様自信の品々。
私も製薬のお手伝いをしてるから、胸を張って品を納めることができる。
「見ての通り子供達はわんぱくだから、擦り傷切り傷の類は日常茶飯事だ。でも永遠亭の薬師が作る薬は本当よく効くからとても助かっているよ」
「怪我をしないのが一番いいんですけどね」
「勉強もあれくらい熱心に取り組んでくれたらいいのだが……」
「はは、遊び盛りですしね。少しくらいのやんちゃは大目に見てやってください。それに、勉強好きな子だってたまには遊びたくなると思うんです」
私の仕事を見つめていた慧音先生が、思わず苦笑い。
お師匠様から知識を学んでいる私は、どちらかと言えば子供達の側なのかもしれない。
たまに思いっきり遊びたくなる気持ちは本当良く分かる。
でも私は志願して教えを請うているし、ずっと仕事に追われる毎日でもそれなりに楽しいけどね。
薬を使うにあたっての諸注意を簡単に記した用紙を添えて、薬箱を閉める。
里の仕事はこれでお終い。
帰りにちょっと買い物をして行こうっと。
「はい、終わりました! また足りなくなったり急患の時は遠慮なくどうぞ。妹紅に言ってくれたら永遠亭まですぐですしね」
「いつもありがとう。たまに代金でも受け取ってくれるともっとありがたいんだけど」
そう言いながら懐から封筒を取り出す慧音先生。
見返りなんて求めていないし、子供達の笑顔と「ありがとう」の言葉。
それだけで十分なのに。
お師匠様の受け売りだけど、他人のために働くことが地上の民の勤めだから。
「そんなもの受け取ったら私がお師匠様に怒られてしまいます。そもそもこの寺子屋だって、先生が無料で子供達に英知を授けているじゃないですか」
「学びを欲する子供達が教育を受けられない世界なんて、考えたくもないからね」
「私達は多分、そんな崇高な理想を持ってる訳ではありませんけど……幻想郷で生きる者としての勤めですから、お気になさらず」
「本当にかたじけない。八意の方にも礼を伝えておいてくれると嬉しい」
「はいな。それでは失礼します」
軽くお辞儀して、寺子屋を後にする。
遥か空の向こうに見えるお日様が優しい光を湛えながら、ゆっくりと地平線の彼方へ沈んで行く。
薄っすら赤と黒に染まった空に、ぼんやりと輝く満月。
帰路に付いた頃には夕日も陰りを見せて、辺りはすっかり暗くなっていた。
迷いの竹林の入り口に辿り着くと、草葉の陰からてゐがひょこっと顔を出してこちらを見ている。
私は何だかんだで里に用事を足しに出向くことは多いけど、てゐをこんな竹林の外側で見かけるのはちょっと意外だった。
もしかして迎えに来てくれたのかな……考えすぎかなあ。
「あ、てゐ! 貴女こんなところにいるなんて珍しいわね」
てゐが走り寄って来て、しげしげと私を見つめる。
「鈴仙さー貴女作業兎じゃないんだし、そんなにせっせと働かなくてもいいと思うんだよね。って言うか働きすぎ。見てると働いてばっかりなんだもん」
突然何を言い出すかと思えば、お説教のような何か。
せめて「仕事お疲れ様」くらい言ってくれたらいいのに。
悪態付くのはてゐの得意分野だし仕方ないけど、ちょっとだけ期待してしまった私の馬鹿馬鹿馬鹿。
「基本的に好きでやってることだしね。休みたい時はちゃんと休めるし、月でお餅搗いてるよりはマシかなと思うわ」
「でもさ、たまにぱあーっと遊びたくならないの? いい気分転換になるしさ。ね、どこか二人で遊びに行こうよ!」
子供のように純真できらきらした瞳で見上げられると、思わずどきどきしてしまう。
てゐはこうしてよく私を誘って連れ出そうとしてくれるし、その気持ちは本当に嬉しいのだけど……
それは何時からだったのか、よく覚えてない。
自分が抱く感情が恋なんだと気付いた瞬間、胸が苦しくて気が狂いそうになった。
――てゐと一緒にいることがたまらなく幸せ。
だけど。
てゐが傍にいてくれると嬉しいのに、一緒にいるのが怖くなる。
独りになった時の絶望感に近い寂しさ、孤独、その類。
負の感情が耐え難い苦痛を伴って、私の心を蝕んでいく。
誰かと寄り添って生きる幸せを知った代償はあまりにも大きかった。
ささやかな幸せを手にして。
がむしゃらに貪ったらそれでお終い。
後は悲しくて、寂しいだけ。
そんな日常の繰り返しに頭がおかしくなる。
幸せと寂しさ。
バランスとって相殺なんてできないの。
違う、それは嘘。
だって簡単なことじゃない?
ずっと傍にいてよって、お願いすればいい。
そうすれば、ずっと幸せなままだよ。
たったそれだけのことなのに、私は知らないフリをして仕事に打ち込む。
そんなのは逃げで、ただ告白する勇気がないだけ。
分かってる。分かってるのに――
「でももうすぐ晩御飯でしょう? それに私今日はまだ仕事残ってるし……また今度ね、ごめんなさい」
てゐ、本当にごめんね。
こうやって何もかも曖昧にしたまま、誤魔化してばかり。
嬉しいのも本当だし、それが怖いのも本当なんだよ。
一緒に過ごせる素敵な時間がとっても幸せだからこそ、後から襲ってくる寂しさに胸が張り裂けそうになるから。
「もーいつも鈴仙はそうやって断るんだから! 仕事終わり待ってもこれだし。いつも仕事仕事ってその言い訳はもう聞き飽きたよ」
ぷいっと顔を横に振って、ふてくされるてゐ。
返す言葉もない私は、俯くことしかできず。
でも、いつまでもてゐの気持ちをふいにしたくない。
多分今日だって、ずっと私を待っててくれたんだ。
それはきっと……私のためを想ってくれてるからで。
こんなに嬉しいことなんてないのに。
悲しい顔は見せたくない。
私にできることなんてたかが知れているけど、てゐの想いにちゃんと気持ちで応えたい。
嬉しいんだよって伝えたいから――
「ほら、今日私晩御飯の当番だからさ、てゐの食べたいもの作ってあげるからそれで勘弁してよ。遊びは……休みは事前に言って貰えたら取るから、今度必ず行こうね。約束する」
てゐの大きな耳がぴくんと動く。
珍しく少しだけ前向きな私の言葉に、一瞬耳を疑った感じ。
すぐにぱっと顔が明るくなって、いつもの天真爛漫なてゐの笑顔が戻ってくる。
「うん、仕方ないから今日はそれで手を打ってあげよう。全品私が指定できるとなると迷うね! 肉じゃが、きんぴらごぼうに炊き込みご飯……」
てゐは自分が食べたいメニューを嬉しそうに呟きながら、迷いの竹林の中へと駆け出した。
「待ってよてゐったら!」
「ほら早く帰ろう、私お腹空いたよー今日お昼ちょっとしか食べてないんだ」
てゐの喜びようは、まるで新しい玩具を買って貰ってはしゃぐ子供みたい。
そんな笑顔を見ているだけで、私もとっても嬉しくなる。
華麗なステップを踏みながら、幸運の素兎の姿は竹林の奥へ消えていく。
息を切らしながらようやく追いついた頃には、永遠亭までの道のりも後僅か。
てゐは私の両手が荷物で塞がっていることに気付くと、何も言わずに里で買った品々を包んだ風呂敷を持ってくれた。
「ありがとう。てゐ」
しれっとお礼を言ってから、空いた方の手でてゐの腕をぎゅっと掴んで引き寄せる。
優しく手を繋いで、驚くてゐに向かってにっこりと笑って見せた。
「な、何さ鈴仙……ちょっと恥ずかしいんだけど」
てゐの白い肌が、内側からほんのりと赤く火照る。
「駄目?」
じーっと上目遣いでてゐを見つめる。
だって二人っきりの時しかできないんだもの。
私だって恥ずかしいんだから。
「……鈴仙はずるいよね、こういうとこ」
「そうだね、そうかもしれないね」
求めるだけ求める癖に、相手にはあんまり何もしてあげられなくて。
自分の都合だけで仕事のせいにしたりとか、確かに私はずるい。卑怯だ。
傷付くことを恐れていてばかり。
そんな私だっててゐは受け入れてくれる。
本当はどう思っているのか聞いたことはないし、聞く勇気もないけれど。
でもてゐは素直な子だし、嫌だったら嫌って率直に言ってくれると思う。
だから遠慮なくこうして甘えられる。
私の我侭を「仕方ないなあ」って感じで呆れながら聞いてくれるてゐ、とっても素敵なんだから。
「そう言えば、今日は私午前中に一杯山菜を採ってきたんだよ。筍ご飯とかいいなあ」
「うん、それいいね! 旬だからきっと美味しいと思う」
「あれだよ、この前の夜桜でさ、鈴仙の料理の評判が良かったからね。永琳も輝夜も、また食べたいって言ってたから」
「褒めて貰えると嬉しいね。俄然夕食頑張る気がしてきた!」
「その調子でさ、私の当番もこのままずっと鈴仙がやってくれたらいい」
「たまには自分でやろうね、てゐ」
「やーだよっ!」
他愛もない会話がとても楽しくて。
小さな幸せを、ぎゅっとかみしめる。
繋いだ手と手。
指先から伝わるてゐの優しいぬくもりが、ふんわりと身体の芯を暖めてくれた。
嗚呼、こんな時間が永遠になってしまえばいいのに――
てゐのリクエスト通りに作った夕食を皆で囲む。
お師匠様と姫様、てゐに私。
和気藹々とした雰囲気は、いつも心に安らぎを与えてくれる。
小さな幸せは、こんなところにだってあるんだ。
何時にも増して美味しそうに食べてくれたてゐを見て、私も大満足だった。
食事の片付けが終わった後、今日里に出かけてた分できなかった仕事に取り組む。
お師匠様に頼まれている書類の整理や調査、不足分を製薬するための材料の下準備、カルテの記録等々。
作業量を見て軽く絶望する。
どう考えても徹夜確定っぽい。
でも、何か不思議と頑張れそうな感じ。
夕方にてゐから貰った幸せの余韻がふんわりと残ったまま、私を励ましてくれているような気がして。
ぱしんとほっぺたを軽く叩いて気合を入れてから、作業に取り掛かった。
――日付が変わる頃。
丸い窓から覗く満月から、小さな声が耳元に届く。
「こんばんは、鈴仙。また仕事かな?」
声の主は、先日の夜桜の時知り合った月の兎。
あれ以来、私達は頻繁に色々な話をするようになっていた。
「そうなのよ。今日は里の方でも仕事あったから疲れちゃった。でも元気。貴女はどう?」
「今日さー収穫するからって農作業にも駆り出されちゃって。朝から本当働き詰めで疲れたよ」
お互いの愚痴や日常の些細なこと。
語る言葉には負の感情なんてこれっぽっちもなくて。
彼女は鬱屈とした気分を見せることは全くないし、いつも淡々とした日常を面白おかしく聞かせてくれる。
「たまに肉体労働系だと疲れるよね。私今日結構歩いたから足が軽く痛い」
「そう言えば、今日は外で仕事だって言ってたね。たまに色々な人と話すのもいい気分転換になっていいよ。あ、でもお偉いさんはちょっと嫌かも」
「うんうん、滅多に会えない人と話できるし楽しいよね。それにね、今日は帰りに意外な人が迎えに来てくれたの!」
あまりにも嬉しくて、つい声が弾む。
「ああ、いつも鈴仙が嬉しそうに話す地上の兎さん?」
そんな浮かれた私に苦笑いしながら訊ねてくれる。
何だかんだで聞き上手だから、つい余計なことまで話したくなってしまう。
「そうそう! 仕事帰りなんだから『お疲れ様』くらい言ってくれたらいいのに、仕事してばっかりしてて楽しいの? なんて悪態付くんだから。
でもそれもね、てゐらしくて可愛いんだ。あれでもさり気なく私のこと気遣ってくれてるって分かるからね、嬉しいし」
「確かに鈴仙はいつもいつも仕事のことばかり話す気がするね、気のせいかな?」
「うん……そうだね。ずっとてゐと遊びに行ったことないし、今度はオッケーしようと思うの。お弁当作ってさ、どこかにピクニックに行きたいな。
てゐはいつも私の作った料理、本当に美味しそうに食べてくれるからすっごく嬉しいし! 幸せそうな顔を見てると私もつられて笑顔になっちゃうくらいだよ」
何故か一瞬しんと静まり返った後「ははーん」と彼女は悪ふざけを思いついた子供のようにせせら笑い、こう続けた。
「鈴仙さ。そのてゐって兎のこと、好きなんでしょ」
抱えていた書類の束がはらはらと地面に舞い落ちた。
自分の顔が真っ赤になっていく様が手に取るように分かる。
穴があったら入りたい。まさにそんな気持ち。
「そ、そんなことないって! てゐとは同じ兎だし良く話すし仲良しってだけで! ね、その好きだとか、そりゃあ好きだけど、友達としてって言うか……その…………」
「あははっ、当たりー! 公然と惚気られた後否定されても、全然説得力ないよ鈴仙」
「べ、別に惚気たなんてそんな……思ったこと素直に言っただけなんだから!」
慌てふためく私の声を聞いて、彼女はけらけらと笑う。
あまりに恥ずかしくなってきてしまい、思わず顔を覆った。
「別に隠さなくてもいいじゃん。最初話した時に好きな人いるって言ってたんだし」
「そう言えばそうだね……だけど、突然言われて、しかも当たってたら恥ずかしいに決まってるでしょ!」
「うふふ、確かにその通りかもしれないね」
自分でも言い出せない「好き」の言葉をこうもあっさり他人に代弁されてしまうと、酷く落ち着かない。
小さな声で、自問する。
――てゐのこと、好き?
うん、大好きだよ。
……ただ、余計に心が切なく疼くだけ。
床に散らばった書類をいい加減に拾い集めながら必死に平静を保とうと試みるも、やっぱり無理みたい。
「ごめんなさい。惚気、うざいよね」
「どうしてそんなことで謝るの? 全然大丈夫だよ。鈴仙のこと、もっともっと知りたいと思うからね」
「そう言って貰えると救われるよ、ありがとう。何かね、やっぱり普段言えないからなのかな。貴女に言われたら、急に心臓がどきどきしはじめたよ」
彼女は「いかにも生真面目な鈴仙らしいね」と言いながらくすくす笑っている。
そして意を決したように一呼吸置いてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そんなに好きなのにさ、どうしてその兎に気持ちを伝えられないの?」
――恥ずかしいから。
誤魔化してしまいたいだけなら、そんな言葉で十分なんだろう。
だけど、彼女には本心を知って欲しかった。
意見なんか求めてない。
ただ、聞いて貰いたくて。
「一言で言えば……怖い、からだと思う。もしふられてしまったら、今持ってる幸せさえ失ってしまう気がするの。なくなってしまうと、寂しさだけが残るでしょう? だから、怖い」
だって、今がとても幸せなんだ。
寂しくなる時だってあるけど、いつだっててゐが幸せを分けてくれるから心に灯がともる。
それがなくなってしまうなんて考えたくもない。
壊したくないの。
今の二人の関係がとても好きだから。
「親友としてはっきり言わせて貰うけどさ。鈴仙、怖がりすぎだと思う」
そんなこと、分かってる。分かってるよ。
私は臆病な兎。
でもどうしようもないの。
これでも精一杯強がってるつもりなんだから。
自信なくて……もう気が滅入りそうなくらいに。
彼女の言葉に、私は押し黙ることしかできなかった。
一瞬の間を置いてから、再び声が届く。
「だってね、鈴仙とそのてゐって兎の関係ってさ、そんな告白くらいで変わっちゃうものかな? 話聞いてるとね、素敵な絆で結ばれた二人って気がするんだけどな」
――確かにその通りだ。
私達の築いてきた絆は、告白なんてことくらいで揺らぐような脆い関係じゃない。
てゐと私だって、お師匠様と姫様みたいな素敵な関係になれるって信じてる。
「そうだね……私はてゐのこととっても信頼してるし、誰よりもてゐのこと分かってるつもり。もしふられても、はいお終いってことにはならないと思う」
「それならいっそ告白しちゃいなよ。勝算ないって訳じゃないんでしょ?」
勿論、勝算はある。と言うか高いと思いたい。
でも負ける確率だってゼロじゃないから。
一線を越えてしまった関係は元には戻らない。
告白したら最後「今まで通り友達同士でいよう」なんて私にはできっこないんだ。
ふられたってさらに想いは募るばかりで、好きすぎてもっと寂しくなるだけ――
「でも、でもね。もしふられちゃったら、今みたいに甘えることもできなくなっちゃうでしょう?」
「鈴仙さー弱気すぎなんだよ。好きなら何度だってチャレンジすればいいじゃん。相手に好きな人がもういるならともかくね。正直あんまり私も人のこと言えないんだけどさ」
彼女は自嘲気味に笑う。
そう言えば、恋愛に対しても同じような境遇だと以前から話してくれていた。
語る言葉には自分自身への戒めの意味も、多少なりともあるのかもしれない。
「大好きだから。てゐのこと、本当に大好きだから……こんなに怖くなるんだと思うの」
要するに、ただそれだけのこと。
所詮私は感情論でしか物事を考えられないんだ。
お師匠様みたいに理詰めで判断するなんてできない。
寂しいから。
構って貰いたくて。
こころとこころ。
繋がろうとするんだ。
ひとりぼっちだと悲しくてね、胸がぎゅーって苦しくなっちゃうの。
うさぎはそんな生き物。
寂しいと、死んじゃうんだから――
「私に悪戯してけらけら笑ってるてゐも、美味しそうにご飯食べてる幸せそうなてゐも、ちょっとふくれっ面なてゐも……みんな大好き。
必ず私と一緒にいると微笑んでくれる。私はそれだけで幸せなんだ。今以上のことを望むのは強欲だと思う」
だから。
今のままでもいい。
言えなくても構わない。
私は十分、幸せだよ。
「今を大切にしたいの。てゐと一緒に生きてる『現在』を。私、他に欲しいものなんて何もないよ。てゐが笑っててくれたら、それでいい」
それにね。
言葉にしなくたってきっと、てゐにはこの気持ち……届いてると思うの。
そうじゃなかったら、てゐだってこんなに優しくしてくれるはずないんだ。
今はただ、てゐが分けてくれる幸せを勇気に変えて。
くしゃくしゃになって笑いながら「大好き」って言える瞬間を夢見てる。
その夢はきっと叶うって、信じてるから。
「……そんなに想ってるなら、いずれ鈴仙も伝えられる日が来るのかもしれないね。好きってさ」
「うん、いつになるか分からないけど……伝えられるといいな」
きっとそう遠くない未来、いつになるか分からないけど。
いつか、想いを打ち明けられる日が来る。
怖くなくなる瞬間が、きっとあるんだと思う。
その時まで、私は私らしくありたい。
てゐが大好きって言ってくれる私のままで――
「でもさ、鈴仙って本当一途なんだね。聞いてるこっちが恥ずかしくなるくらい!」
少し茶化すような彼女の声に、また頬がほんのりと赤くなってしまう。
ちょっとしんみりとした空気があっと言う間に吹き飛んだ。
「こんな流れにしたの貴女でしょ! 私はただ素直に話しただけなのに」
よく考えてみたらこんなに真面目に恋話をしたことなんて、生まれて初めてかもしれない。
お師匠様や姫様に情事を問われてからかわれるくらいだったし。
ちゃんと真面目に相談すれば、姫様は真摯に答えてくれそうなものだけど。
お師匠様は……どうなんだろう。
「ごめんごめん、あまりにも鈴仙が健気で可愛かったから。それに私も今の話聞いてたら、色々思うことがあってね。話してくれて嬉しかったよ」
「私もね、貴女に話したら何かすっきりしたよ。胸のつかえが取れた感じ。聞いてくれて本当ありがとう」
心中が整理できたし、彼女に聞いて貰えて本当に良かった。
私の気持ちは何一つぶれてなんていない。
それが確認できただけでも、とても大きな収穫だった。
そのまま彼女と他愛もない雑談をしながら、残った仕事をてきぱきと片付けていく。
完全に徹夜だと思ってたのに、丑三つ時を回る頃には今日の分は全て終わってしまっていた。
お喋りに没頭しているうち、手元が勝手にてきぱきと動いてた感じ。
適度に気を抜きながら仕事すると、こんなに効率が良くなるんだと正直関心してしまう。
「うん、今日の仕事はこれでお終い! もうこんな時間だけど貴女は寝なくても大丈夫?」
「そうだねー私も今日はそろそろ寝るよ。今日は朝から仕事で疲れたしね」
大きなあくびをしながら、とろんとした声で彼女は言った。
今日は私も目一杯働いたから良く眠れそう。
「今日は色々ね、ありがとう。貴女に打ち明けられて本当に良かったよ」
「ううん、無理に聞いちゃってごめんね。でも、今日の鈴仙の話聞いたら、私も頑張らなくちゃって思えた。それが本当良かったよ。それに……」
「……それに?」
しんと静まり返った室内に、呼吸する音だけが響く。
青白く光る満月が、窓の外からそっと私を覗き込んでいる。
肉眼で見るとこんなに近く感じるのに、実際は遥か彼方。
それでも声だけはこうしてちゃんと届くのだから不思議なものだ。
「……鈴仙にね、会ってみたくなった」
その言葉には、何となくだけど躊躇いが感じられた。
いつもはきはきと明朗に話す彼女だけに、ちょっと意外。
月の兎が地上に降りてくるには許可が必要だ。
勿論掟を破ればそれなりの罰が待ち受けている。
一度穢れてしまったら再び月でまともに生活できる保障なんて、どこにもないのだから。
彼女が躊躇うのも当然のことだった。
「うん、会ってお茶してみたいね。こうして話してるだけでも楽しいのに、実際会ったらどんな感じなのかな……考えるだけで面白いね」
でもそれは叶わぬ夢。
私はもう二度と月の大地を踏むことはないだろう。
それに離れたくない。
大好きな永遠亭の皆と、ずっと一緒にいたい。
私の帰る場所はもう此処しかないんだから。
「冗談冗談、気にしないで。じゃあ私は寝るよ、またね!」
――またね。
それは不確定でも、次も会いたいと思ってくれてるってことだから。
楽しかったよって肯定してくれてる気がして大好き。
口に出すとほんの少し幸せになれる。
さり気ない魔法の言葉――
「うん、またね! おやすみなさい」
「おやすみ!」
繋がっていた意識がすっと途絶える。
別れ際は、やっぱり寂しい。
やっぱり楽しいことには、寂しいことが付き物なんだと思う。
片方だけを得るなんて、絶対にできないんだ。
そっと自室のふすまを開くと、てゐはすうすうと安らかな寝息を立てて眠っていた。
身体を目一杯大の字に広げて、布団から手と足がちょっとはみ出してしまってる。
ちょっとお間抜けな姿にくすりと笑ってしまう。
てゐを起こさないように、静かに着替えを済ませて布団に潜り込む。
仕事の疲れがどっと押し寄せて来て、すぐに睡魔が襲ってきた。
「今日は色々、あったなあ……」
ぽつりと呟いてから、ふとてゐの方を見る。
あどけない表情は優しい微笑みを湛えて、とても幸せそう。
そんなてゐの横顔を見ているだけでも、私も幸せになれる。
どんな夢を見ているのだろうか。
私の夢だったらいいな。
一緒にね、どこか遠いところに行くの。
向日葵畑の迷路に飛び込んで、てゐの手を引いていっぱいに走る。
帰れなくなってもいいって私が駄々をこねると、てゐは笑ってこう言ってくれるんだ。
――私は鈴仙のことも大好きだけど、永遠亭が好きだからさ。ね、帰ろ?
あはは、ちょっと妄想の類もいい加減にしないとね。
どちらかと言えば逆だよね。
私が引っ張られる方だ。
それも素敵。
布団からひょこっと出たてゐの掌に、そっと手を重ねる。
ふわりと伝わる優しい体温に、心が温かくなる。
うん。やっぱり私、てゐのこと大好きなんだ。
理由なんていらない。
それだけでいい。
おやすみ、てゐ――
◇◆◇◆◇◆◇◆
風薫る皐月。
葉桜も美しい新緑を輝かせて、春の終わりを告げようとしていた。
私は相変わらず仕事に追われる日々。
あ、でも今度てゐに内緒でお師匠様に休暇のお許しを貰ったんだ。
思い切ってピクニックに誘ってみようと思うの。
お手製のサンドイッチに摘み立ての新茶。
嗚呼楽しみ、きっと喜んでくれるはず!
何かと忙しいけど、小さな幸せに包まれた日々はまるで永遠みたい。
姫様の魔法はとっくに解けたはずなのに。
でも「変わらないこと」なんて、この世には存在しないんだ――
「うん、今日のお仕事はお終い。今貴女はどうしてる?」
綺麗な満月に向かって、私はぽつりと呟いた。
医務室には自分ひとりだけ。
基本的に夕食後のカルテ整理が最後のお仕事で、それが終わると後は自由時間。
てゐが居たらあれこれお喋りをしたり、お師匠様から薦められた本を読んだり、姫様に可愛がって頂いたり。
そして、最近は月の兎……つまりあの子と話をする。
大好きな永遠亭のこと、仕事の愚痴や月に居た頃の思い出話、それこそ惚気てみたりとか。
彼女と話すのがとても楽しくて、気がつけばそれは当たり前のようになっていた。
「今日はね『急患だ早く治してくれうおおお死んでしまう! 頭が、頭が割れそうなんだ!』なんて言いながら友達の魔法使いが飛び込んできたの。
とびきり苦い薬だよって言って飲ませようとしたら、突然けろっとして『あ、治った』とか言いだしてね。久し振りに話したけど相変わらず面白い子で楽しかったわ」
――てゐのことが好きだと告白したあの日以来、彼女と連絡が取れなくなった。
私と交信してることがばれて月で裁判にかけられてしまったのだろうか。
可能性が否定できないだけに、そう考えるととてつもない罪悪感に駆られてしまう。
でも、もしそうであっても彼女なら笑って教えてくれそうなものだ。
「ねえ鈴仙、今さーお偉いさんにつまんない説教受けてるよ。小難しい言葉並べちゃって意味が分からないよ、あはは」みたいな。
あの子はとても陽気で、辛いことだって面白可笑しく喋って笑い飛ばしてしまうような強い心の持ち主。
私と違ってはきはきとモノを言うから、もし惚気がうざいならうざいときっぱり言い切ってくれると思うし
理由も告げずにぷつりと連絡が取れなくなるなんてどう考えてもおかしかった。
何かあって、意図して意識が繋がらないように耳を塞いでいるとしか思えない。
それとも、もしかして……私のこと好きだったのかな、あの子。
それで私に合わせる顔がなくなってしまったとか。
いや流石にそれは考えすぎだし、自意識過剰にも程がある。
きっと、忙しいからとか機嫌が悪いとか。
底抜けに明るいあの子のことだ、傍から見ればどうでもいい理由に決まってる。
うん。そうに違いない。そう思わないとやってられない。
「……今日はね、てゐがカゴ一杯に木苺を摘んで来てくれたんだ。凄く甘酸っぱくてね、ちょっと病みつきになりそうな味なの。貴女にも食べて欲しいな」
声は届かない。
それでも、私は毎日こうして月に向かって日々の他愛もない出来事を語り続けた。
何事もなかったかのように、ひょっこりと彼女は戻ってきて笑顔で声を聞かせてくれる。
そんな気がするから。
嗚呼、心配だ。
確かめる手段もないから、私はこうして言葉を紡ぐことしかできなくて。
あまりに無力だと、ため息をついた。
「ねえ、どうして答えてくれないの? またねって言ってくれたの、嘘だったの? お願いだから、答えて……」
ひとりぼっちの室内に、虚しく響く私の声。
心の内側に寂しさがそっと影を落とす。
やだよ、こんな決別。
折角仲良くなれたのにさ、こんなのってないよ。
貴女はあの時「親友として」って言ってくれたよね。
私も貴女のこと、大切な友達だと思ってるんだよ。
それなのにさ、突然目の前から消えちゃうなんてひどいよ。
ぼんやりと月を眺めながら、ただあの子のことを想う。
せめて、声を聞かせて――
その刹那、澄んだ夜空に淡い青色の光を湛えた流れ星がキラリと輝いた。
咄嗟に手を合わせて、祈る。
――私の大切な人、皆幸せになれますように。
てゐ、お師匠様や姫様にあの子……みんなみんな、幸せになって欲しい。
寂しい想いなんて絶対して欲しくないから。
皆が笑いあって暮らせる、そんな世界になったらいいな。
流れ星はきらきらと瞬く星々の間を縫うようにして、美しい残像を残しながら地平線の彼方へ消えた。
願い事がちゃんとできただけでも、何か得した気分。
チェックしたカルテを引き出しにしまって、部屋の明かりを落とす。
今日は何しようかな、お風呂に入りながら適当に考えよう。
そう心の中で呟きながら、部屋を出ようとした瞬間――
「……あーあー、聞こえてるかな。もし聞こえてたら返事してよ、鈴仙」
ふいに、背中からノイズ混じりの声が聞こえる。
私は急いで窓側に駆け寄って、月に向かって叫んだ。
「聞こえてるよ! 貴女なの? 貴女なんだよね!?」
「うん、そうだよ。久し振りだね。鈴仙は元気そうで何より」
耳元に届く彼女の声は、変わらず元気一杯。
私の心配なんてこれっぽっちも気にしてなさそうな洒脱な感じは、いつもの彼女らしいまま。
「もう貴女ったら一言も言わずにいなくなっちゃうんだから、本当にひどいわ! 凄く心配してたんだからね。もう話せないんじゃないかって……」
怒りたい気持ちは確かにあるのだけど、それより安心したって気持ちの方がずっと強くて。
またこうして話をすることができて本当に嬉しい。
私はほっと胸を撫で下ろした。
「ごめんごめん、まさか一ヶ月も掛かるなんて思わなかったんだよ。あちこちに怪我するしさ。酷い目にあったよー」
彼女は本当に申し訳なさそうに謝る。
やっぱり月でトラブルがあったんだろうか。
もし私のせいだったら……なんて想像がちょっとだけ現実味を帯びて怖くなる。
「ねえ、大丈夫なの? 怪我は治ったの? 心配だよ……何があったのか、よかったら教えてくれないかな?」
すぐに彼女は答えなかった。
少しの間を置いてから、ゆっくりと口を開く。
「どうしても鈴仙に会いたくてね。地球に降りてきちゃった」
月から届いた言葉に、私は愕然とした。
一瞬思考が完全停止して、頭が真っ白になる。
「……本当、なの? 嘘じゃないよね?」
「うん、地球はもっと寒い場所だと思ってたけど暖かいね。まるで初夏のぽかぽか陽気さ」
彼女はあっけらかんと笑う。
罪を犯したなんて自責の念は、微塵も感じられない。
事の重大さに全く気付いていない素振り。
予想もしていなかった事実にどうすればいいのか分からず、思考がぐるぐると回り始める。
さっき見たのは流れ星なんかじゃない。
あの子が乗った月の羽衣の光だったんだ。
と言うことは……今彼女の居る場所は幻想郷なんだろうか。
ともかく、怪我をしてるんだ。
一刻も早く彼女の元へ――
「怪我は、怪我は大丈夫なの!?」
「それは全然平気さ。かすり傷くらい。しかし宇宙にはあんなにゴミが沢山浮いてるんだね。一体人間は何をやってるんだか――」
私は彼女が言い終わる前に、薬箱を持って部屋から飛び出した。
嫌でも自分の時を思い出す。
スペースデブリを通り抜ける時、あちこちに傷を負ったことは今でも忘れられない。
かすり傷なんて言ってるけど、ただ彼女は強がってるだけだ。
痛いだとか弱音を絶対口に出さないことは容易に想像が付く。
縁側を走りながら、必死に彼女に問いかける。
「今どこにいるのかな、周りに何が見える?」
焦りや不安、心配……沢山の気持ちがごちゃ混ぜになって、心がざわつく。
でも、今はただ現実を受け止めるしかない。
「えーっとね、暗くてよく見えないけど高台になってて……下は断崖絶壁だ。風がひゅうひゅう吹いてる。遠くに街の灯りが見えてね、すぐ傍は鬱蒼とした竹林が広がってるよ」
私はその場所に思い当たりがあった。
迷いの竹林から里の灯りが見える高台なんて、ごく限られた地域しかない。
多分、かつて私が月から逃げてきた時に降り立った場所と全く同じだ。
そんなに遠くない、むしろ近いことにほんの少しだけ安堵する。
「分かった、そこを絶対に動かないでね。すぐ行くから」
「うん、待ってる」
どうすればいいのかなんて分からないまま。
本来なら真っ先にお師匠様に相談すべき事柄なのだ。
月からの使者に怯えて暮らす毎日はもう考えなくていいとは言え、警戒するに越したことはないから。
万が一スパイだってこともありえなくもないし。
それにお師匠様が以前の私のように、必ず匿ってくれるとは限らない。
月から逃げ出してきた私と始めて会った時だって、相当警戒していたとてゐから聞いたことがある。
姫様を守るためならお師匠様はどんな手段だって行使するだろう。
勿論聡明なお師匠様のことだ。あの子がもし危険因子であったとしても、私の親友だってちゃんと説明すればきっと上手い案を授けてくれるに違いない。
そんなの分かってる。
でも放ってなんておけない。
私に会うためだけに、あの子は来てくれたんだ。
とんでもない危険を冒してまで。
真意は分からないままだけど……その気持ちだけは本当に嬉しかった。
今すぐにでも、彼女に会いたい。
あんなに分かり合える友達なんて、本当に始めてだったから。
私のこと、全て受け入れてくれた。
それでいてもなお、彼女はいつも笑ってくれる。
どんな辛いことがあったって、多分ああなんだろう。
いつも話をするだけで元気を分けてくれる、素敵な友達。
そんな親友が怪我をしてうずくまっているのに、ここで私が会いに行かなくてどうするんだ。
ぎゅっと拳を握り締める。
覚悟を決めて、暗闇に向かって走り出した――
◇◆◇◆◇◆◇◆
竹林の間から僅かに差し込む月の光だけを頼りに、暗闇の中を駆け抜ける。
息苦しくて足がもつれて転びそうになっても、無我夢中で走り続けた。
――頭に浮かんでは消える、溢れんばかりの想い。
朝が来ることさえ忘れて、二人でずっと、ずっと話してたね。凄く楽しかったんだよ。
貴女と私、二人だけの秘密も沢山作ってしまった。
てゐのこととかさ、貴女しか知らないんだよ。
だからさ、貴女には知って欲しいの。
私の未来――
でも貴女は馬鹿だ。
幾らなんでも月から降りてくるなんて、無謀すぎる。
たっぷりお説教してやるんだから。
どうせ笑って誤魔化されるんだろうけど。
これからどうすればいいかなんて、皆目検討もつかないまま。
今はただ……貴女が大した怪我じゃないことを祈るだけ。
迷いの竹林を抜けると、切立った崖の向こうに薄っすらと里の灯りが輝いている。
その遥か彼方、突き出した崖の先端に倒れている人影が目に映った。
月の光に照らされた長い耳のシルエット、間違いない。
息を切らしながら、最後の力を振り絞って必死に走った。
「大丈夫っ!?」
うつ伏せに倒れている兎は「うー」と間の抜けた声を出しながら、私の方を振り向いた。
「……遅いよ鈴仙。それにしてもひどいよね。こんなところに罠を仕掛けておく人間がいるなんて。
見事に引っ掛かってしまったよ。美味しそうな苺だったからつい手を出してしまった。思いっきり猛省中さ」
その声は子供みたいに無邪気で。
桃色のふわふわした真綿みたいな生地の服に、ぴんと伸びた私より小さな兎耳。
あどけない横顔は、純粋無垢な幼さを残したまま。
月明かりに照らされたその姿は、最愛の人――
「……てゐ?」
「うん、なんだい鈴仙。他の兎に見えるかい?」
目の前にいる兎は、てゐだった。
見た感じ、怪我を負っている様子はない。
まさかの可能性が頭をよぎって、思考が再びぐるぐると回りだす。
「ここら辺にね、怪我をした月の兎がいるはずなの。てゐ、貴女見かけなかった?」
訳が分からなくなったまま、くぐもった声で訊ねる。
てゐはすくっと立ち上がって、服についた砂利をぱんぱんと手で払いながら、私をじっと見つめた。
「鈴仙。実はね、それ私だったんだ。怪我してるなんて言わないと、鈴仙来てくれない気がしてさ」
てゐの言葉に、頭が真っ白になった。
呆然と立ち尽くして言葉を失った私に、てゐは語りかけるように言葉を紡ぐ。
「地上の兎だって、遠く離れた場所から意思を伝達することができるんだ。理屈は分からないけど、多分月の兎と同じ手段を用いてるんだと思う。
でも、そもそも生まれが違うから鈴仙には伝わらないんだとずっと思ってた。だけど、できちゃったんだ」
心の奥底から、ふつふつと感情が湧き上がってくる。
ねえ、てゐ。どうして貴女はこんな悪戯したの?
ずっと自分だけの秘密だった。
貴女に言えないから悩んでいた「大好き」の気持ち。
てゐだってことも知らず本人にずっと惚気てたなんて、恥ずかしすぎるよ。
それに、ちゃんと貴女の目の前で告白したかった。
素敵な言の葉で、この気持ちを伝えたかったのに。
それだけじゃない。
音信不通になってから、親友のことを憂いながら過ごした日々の寂しさ。
私がどれだけ心の支えにしていたか、貴女は全然分かってない。
ずっと信じてた。
私に嘘はつかないって。
そんな挙句、こんなに私を振り回して。
流石に悪戯にも程があるよ――
抑えきれない想いが堰を切って流れ出す。
今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えて、てゐを見返した。
「てゐの馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ! 本当っに馬鹿なんだからっ! 私の気持ちも知らないでこんなことしてさ、私がどれだけ心配したか全然分かってないでしょ!」
大声で怒鳴ると、てゐの耳がびくびくっと震えた。
本当に申し訳なさそうな表情で、力なく私を見つめている。
「ごめん。本当にごめんよ、鈴仙。心から悪かったと思ってる」
いつもの悪戯を笑って誤魔化すような、ちょっぴりふざけたような謝り方ではない。
てゐらしくない、しょんぼりとした声は心から反省しているんだとすぐに分かった。
私は心の中で一息深呼吸してから、ゆっくりとてゐに語りかける。
「てゐ、どうしてこんなことしたの?」
はやる気持ちを抑えて、気丈に振舞ったつもりだった。
きっと訳があるに違いない。
てゐは決して安易に人を傷つけるような子じゃないから。
それは一番私が分かってること。
そうでなくても、私が分かってあげなくちゃいけないんだ。
常にてゐの良き理解者でありたいし、間違っているなら正せばいいだけ。
「……あの日、夜桜の日さ。鈴仙が悲しそうな顔して縁側にぽつんと座ってるのを見て、悪戯のつもりで話しかけたんだ。通じると思ってなかったからさ、私もびっくりしてね。
声色が違って聞こえてたのは何故か分からないけど、地上の兎の声は月と太陽を通して届くから、多分そのせいかな」
てゐは里の方をゆっくりと眺めながら、淡々と語り始めた。
私はただ黙って、その話に耳を傾ける。
「あまりにも鈴仙が嬉しそうに私のこと話すから、言うに言えなくなっちゃったんだ。それでも、こんなに長く隠し通すつもりはなかった。すぐにばらしちゃうつもりだった」
背中を向けているてゐの表情は窺えないけど、軽く苦笑いしてるような気がした。
いつものように、私を励ますつもりの悪戯だったんだろう。
それは茶目っ気たっぷりなてゐが考えそうな行動ではあった。
素直じゃないけどさり気に優しくしてくれる、てゐらしい気遣い。
本当にただ、言えなかっただけなんだね。
やっぱりてゐに悪気なんてこれっぽっちもなかったんだ。
「でもね。あの時、私のこと……はっきり好きって言ってくれたよね。それ聞いたら、余計に言い出せなくなってしまってね。
よく考えごらんよ。『実は私でした』なんて今更言える空気じゃなかったじゃん……」
てゐにしても多少なりとも後ろめたい気持ちはあったのだろう。
軽いノリで仕掛けた悪戯がこんな大事になるなんて、思いもしなかったって感じなのかな。
「それにね、鈴仙が私のことあんなにも想ってくれてるなんてびっくりしたよ。薄々はね、感じてた。でもあまりに嬉しくてね、飛び上がっちゃうくらいに。
しかし実際、面と言われたらどうすればいいのか分からなくなっちゃって」
強張っていた顔が、自然と緩んで微笑みに変わっていく。
そして何だか少しずつ照れくさくなってきた。
あんな恥ずかしいこと、当人の前で話してたのかと考えると顔がほんのりと赤くなってくる。
いつも周りには笑いが絶えなくて、皆に幸せを振りまくような明るい性格。
決して弱音を吐いたりせず、どんな苦悩だって笑い飛ばして乗り越えてしまう強い意志。
口はお世辞にもあんまり良いとは言えないけど、いつだって優しくて。元気を分けてくれる。
月の兎だと思っていた彼女はてゐと似ていたからこそ、あんなに親近感が持てたのかもしれない。
「あの日さ、鈴仙こう言ったよね。『今が幸せだから、今を大切にしたい』って。私、ずっとその意味を考えていたんだ。どう受け止めたらいいのかなってね」
てゐはくるりとこちらを振り向いて、にっこりと微笑む。
くるくるとよく動く大きな瞳が、じっと私を見据えている。
見つめられるとどきっとして、思わず視線を逸らしてしまう。
「今のままでもいいのかもしれないよね。今が幸せなんだから。私もそれは鈴仙と同意見。小さな幸せに満足して生きることって本当大切なことさ」
そう言いながら、たたっとてゐがこちらに駆け寄ってくる。
私の顔を覗き込むようにじーっと見つめた後、小さくはにかんだ。
「でも、私は鈴仙みたいに言いたいことを伝えずにそのまま我慢するって言うのは性に合わない」
とくん、とくん。
心臓の鼓動が聞こえる。
この世界には私とてゐしかいない。そんな錯覚に頭がおかしくなりそう。
てゐがゆらりと顔を近付けてくる。
吐息が触れてしまうくらい近い距離。
透明な瞳を儚げに細めながら、優しい声を紡ぐ口をそっと近付けて――
「鈴仙。貴女のこと、大好きだよ」
そっと、唇を重ねられた。
綿飴みたいに甘くてふわりと広がる優しい味わい。
瞳を閉じて、ただその感触に心を委ねる。
大好き。
愛してるとか。
幸せ。
言葉なんかじゃ上手く伝わらない想いが、いっぱい――
一筋の涙が頬を伝う。
やだ。こんなに嬉しいのに……どうして泣いちゃうんだろう。
泣き顔なんて見せたくない。
でも目をぎゅっと閉じてるのに、涙が溢れ出てきちゃうの。
そんな突然なんてずるいよ、心の準備なんてできてる訳ないんだから。
それにキスの快感なんて知ってしまったら、小さな幸せで満足できなくなってしまう。
甘い吐息の香りに、心が幸せで満たされていく。
唇の先から伝わる優しい気持ち。
ずっと、ずっと……こうしていたい。
名残惜しそうに、てゐが唇を離す。
ふんわりと残る優しい口当たり。
春風に乗って、さらさらと消えていく。
「ほら、泣かないで。幸せが逃げて行っちゃうよ」
てゐがそっと身体を寄せて、ぎゅっと抱きしめてくれる。
でも涙は止まるどころか、留め止めもなく流れ続けた。
零れた雫はガラス玉のようにきらきらと輝いて闇夜を照らす。
「こんな時くらい、泣いたっていいでしょ? 嬉しいから泣くの。いけないことかな……」
「ううん、そんなことないさ。だけどね、笑ってる鈴仙の方が、やっぱりいいな」
「そっか。うん、そうだよね」
潤んだ瞳の先に映るてゐは、よく見ると顔がほんのり赤くなっていた。
何だかんだでやっぱり恥ずかしかったんだと思うと、自然と笑みが零れる。
ぐいっと涙を拭ってから、てゐのほっぺたに優しい口付けを落とす。
「あ、ちょっと何するんだよ鈴仙……恥ずかしいんだけど」
「お互い様でしょ?」
そのままてゐの首に手を回して、ゆっくりと耳元に顔を近付ける。
――信じ続けたら、必ず願いは叶うんだね。
いつか聞いて欲しいと願い続けてたこの想い。
やっと、貴女に伝えられる時が来たみたい。
切ない時も、悲しい時も、寂しい時も……いっぱい、いっぱいあって心が押し潰されそうな時もあったけど。
どこかで道を間違えたんじゃないかって、後悔したことも沢山あったよ。
でもね。
てゐ、貴女が勇気をくれたんだよ。
それだけじゃない。
素敵な笑顔に怒った顔。
信じ続ける強さ。
夢を語る声。
掛け替えのない言の葉。
両手で抱えきれないくらい、沢山の想い。
全部全部、貴女から貰ったんだよ。
私は幸せなうさぎ。
貴女のおかげで、ここまで来ることができたんだ。
もう怖くなんてない。
ずっと伝えられなかった言葉。
そっと空に解き放つよ。
「大好きだよ、てゐ」
たった一言なのに。
嗚呼、やっと言えた――
見果てぬ空の上。
そっと耳元で囁いた言葉は、春風に乗って。
ふわり、ふわり。
「し、知ってたさ。今更言われなくたって……その…………」
てゐの真っ白なほっぺたがさらに赤く染まっていく。
気恥ずかしそうに瞳を逸らしながら俯いてる横顔が、とても可愛い。
「あーてゐったらまだ恥ずかしいんだ。顔真っ赤だよ?」
お返しとばかりに茶化して、てゐのふわふわな耳に唇を押し付けた。
そのまま唇で優しく挟んでやるとぴくんとてゐの身体が震えて、私を抱きしめる手の力がほんの少しだけ弱くなる。
「だ、駄目だってば鈴仙! 一体何のつもり……」
「あはっ、冗談冗談。てゐったらこういうところは大人気ないって言うか、子供だよね」
ツンと不服そうなてゐと顔を見合わせると、ふいに笑いが零れる。
「一瞬どきっとしたじゃないか……キスする時だって心臓ばくんばくんだったのにさ!」
「私だってそうだよ! あんな突然なんて心の準備できてる訳ないじゃない!」
私が笑っているのを見て、てゐも表情を崩して笑った。
顔を見合わせて、くすくすと笑いあう。
嬉し泣きだって素敵だけど、やっぱり笑顔が一番幸せ。
こうしてずっと、笑っていたい。
「でも、鈴仙がちゃんと大好きって言ってくれて、本当に嬉しかったよ。幸せは自分で掴むものなんだ。待っててもさ、幸せはやって来ないんだよ」
掴むなんて強引な手段を取る勇気は私にはないけれど、想いを伝えることならできる。
たとえ小さくても、誰にも負けない想い。
少しずつ、少しずつだけど伝えるから。
小さな幸せでいいの。
てゐが傍にいてくれたら、他はもう何にもいらない。
今が幸せだよ。
だから、明日も明後日もその先もずっとずっと続くように。
私頑張るよ。だから笑ってて?
貴女の幸せが、私の幸せなんだから。
「うん、そうだね。私ちょっと、消極的かもしれないね。でも頑張るよ。もっとね、貴女のこと好きだよって言えるように」
「じゃあさ――」
てゐはそう言いながら竹林の方へ走って、木陰からそっと顔を覗かせて笑う。
「私を捕まえてごらんよ! 私は幸運の素兎なんだからもれなく幸せになれるよ。兎に適応されるか分かんないけどね」
貴女から十分すぎるほど貰ってるのに、そんなに幸せがいっぱいだったら寂しくなんてなくなっちゃうね。
もう寂しさに怯えて生きなくてもいいんだ。
怖くなんかないよ。
私の気持ち、ちゃんとてゐに伝わっていたんだから。
「あっ、待ってってば! もうてゐったらどうしていつも私を置いてくのよ!」
うん。と頷いてから、竹林の奥へ消えて行くてゐを追いかける。
真紅の瞳に映るその横顔は、とても嬉しそうに微笑んでいた――
◇◆◇◆◇◆◇◆
暦は水無月。幻想郷にも長い梅雨の季節がやってきた。
淡い藍色に染まった紫陽花が雫を受けて、寒そうに額を震わせている。
時刻は夕暮れ時。
私は雨音の奏でるハーモニーに耳を傾けながら、夕食の準備をしていた。
本日は永遠亭では珍しい、肉料理がメインディッシュ。
私達は普段菜食中心であまりお肉を口にすることがないのだけど、ちょうど今日は差し入れがあって最高級の霜降り肉を頂いてしまった。
地道な医療活動もようやく里の人達の生活の一部になったようで、こうしてお礼を受け取ることも何かと多くなった気がする。
少しは皆のお役に立てているのかと思うと、ちょっとだけ嬉しい。
牛肉は食べやすい一口サイズに切り分けて、炭火で軽く炙ってやるだけ。
素材の魅力を最大限に引き出すにはこれが一番いいんだ……単に面倒なだけとも言う。
夜桜の時以来料理がもっと好きになったけど、こうして毎日私が当番だと献立を作るのだって結構大変なんだから。
お醤油とみりんをベースにしたタレを作って、お肉の隣に大根おろしとカイワレを添える。
お好みですだちの輪切りを絞ってお召し上がりあれ。
後は手早くささっと作ったおかずを数品、さっとお膳に盛り付けた。
あっさりとした味付けのひじきの煮物にほうれん草のおひたし。
今日はこれくらいかな。やっぱりお肉があると豪華に見えるね。
炊きたてのご飯をおひつに盛って準備完了!
釜で沸騰させただし汁に合わせ味噌を溶かしながら、ふと窓から覗く景色を見つめる。
竹の葉に当たる雨粒の音は、まるで河のせせらぎみたい。
水無月の雨はどうしてこんなに大人しくて、とても優しい音色がするんだろう。
じめっとした感じがちょっと嫌だけど、寒い冬よりずっといい。
「……てゐ、そろそろご飯だよ」
ぽつりと呟く声は、雨音にかき消された。
当然てゐが夕飯の支度を手伝ってくれる訳ないし、こんな雨なのにどうせまた何処かほっつき歩いているのだろう。
――あの日以来、あの子……って言うかてゐの声は届かなくなった。
そりゃあてゐだった訳だし、こうして同じ屋根の下に住んでるんだからわざわざ交信して話す必要はない。
だけどあれはあれで直で繋がってる感じがして好きだったから、ちょっと寂しい。
「もう初夏だって言うけど、雨に打たれてたら風邪引いちゃうよ? 季節の変わり目なんだから、気をつけないとさ」
問いかけても返らない上の空。
お味噌汁に刻んだ新玉葱を入れながら、独り言を囁く。
繋がってないって分かってるんだけど……また聞こえてないふりしてるのかな、なんて思ったりする。
実はちゃんと聞いてくれてる気がして、つい話しかけてしまうのが癖になってしまっていた。
「あれかな、てゐもたまには大好きって言って欲しいと思うんだよね」
あれ以来、一回も大好きって言えてない。
怖いなんてもうないのに。ただ前よりいっそう恥ずかしくなった気がする。
正直本人が目の前にいると全然言える気がしない。
遠く離れてた方が実は言い易いんじゃないかと思えてくる。
でも――ちゃんと想いは伝わってる。その感触は確かにあるから。
言葉として届かなくても大丈夫。
だから全然寂しくなんてないよ。
確認の意味も込めて、こうして呟いてるだけ。
「だけどさ、てゐも私に言ってくれないよね。キスもしてくれないし。だからおあいこだね」
たまにはね、甘えたくなるの。
お互い恥ずかしがりやさんなのは全然変わらないよね。何だかおかしいよね。
だからこうして聞こえないところでいっぱいいっぱい言ってやるんだ。
「大好き、なんだよ……うん、大好き。てゐのこと、大好きだよ」
そう呟いて、完成したお味噌汁を器に盛り付けようとした瞬間――
「うんうん、私もお肉は大好きだよ」
突然聞こえてきたてゐの声に、思わず鍋を落としそうになる。
恐る恐る声のした方向を振り向くとてゐが立っていて、夕食の焼肉をぱくぱくとつまんでいた。
美味しそうに料理を頬張る顔は満面の笑み。
「ちょっとてゐ! 貴女いつからそこにいたのよ!」
「ん? さっきからずっといたよ? それはいいとして鈴仙。このお肉は美味しいね。口に入れた瞬間とろけてなくなってしまうよ」
全然よくない。てゐの神出鬼没っぷりにも程がある……私は小さくため息を付いた。
「……さっきからって、どのくらい?」
「さあね。でも鈴仙、独り言はやばい。今の鈴仙、完全に自分の世界入っちゃってたよ」
「別にいいじゃない誰も聞いてないんだから……」
「あははっ、私が聞いてるかもしれないじゃん。都合いいことはやたら耳に入ってくるものさ」
耳をひょこひょこと動かして、けらけらと笑うてゐ。
やっぱりその笑顔を見ると、怒る気なんてこれっぽっちも起きなくて。
「もういいっ! ほら、もうできるんだからお師匠様と姫様呼んで来て!」
途端に恥ずかしくなって大声を上げると、てゐもばつが悪そうな顔をしながら台所から出て行く。
姿が消えるのを見届けてから一息付いてお味噌汁をおたまですくっていると、たたたっと軽快な足音を立ててすぐに戻ってきた。
「私もさ、鈴仙のこと大好きだよっ!」
満面の笑みでそう言い残して、てゐは再び暖簾の奥へ消えていった。
――てゐさ、そういうところね。ずるいって言ってるんだよ。
何だかんだでちゃんと好きって言ってくれるよね。
恥ずかしいの、お互い様なんだから。
私だって、大きな声で言いたいんだよ。
でも、でも……いいよね。今は言えなくても、いいよね?
またこの前みたいに、胸を張って言える時が必ず来るから。
今度は笑って言うよ。
大好きって!
てゐ。
貴女のくれた小さな幸せ。
ずっとずっと大切にするから。
本当にありがとう――
乙女チックな鈴仙が可愛らしかったです。
にしても序盤~中盤辺りのムズムズする感じは異常。古き良き少女漫画って感じがしました
それにしたって甘酸っぱすぎるでしょう! こちとらもうなんか甘さに酔ってしまって酩酊状態ですよ。
てゐが告白して口付けた瞬間、「ヒュウ♪」と口笛吹いてしまいましたよ。ホントに。欧米かってんですよ。
何を言いたいかというと、100点じゃ足りないということです。
まるでネットで交流する現代事情のような関係。実は身近な人物でした!なんてホントにあり得る奇跡のような偶然。月兎なら色々違和感もあったでしょうが、案の定でしたね。
楽しくてもたまに寂しさを感じることは確かにあります、そこも共感。今で十分幸せ、でも想いを伝えればもっと幸せ。ハートフルラブコメディ、最高にご馳走様でした。
甘いなーとか思いつつ姫様が素敵過ぎて……。
ちゃんと花見ながら雅な会話出来る人って素敵です。
こんなに幸せ兎しているてゐは珍しいですね
ただ、地上の兎も遠隔通信が出来る、という設定が少々突飛だったかもしれません
それとなく伏線を忍ばせておけば、もっと良かったですね
御馳走様でした。
他の方も言ってるけど、うん、あれですね、古き良き少女漫画って感じが
とにかく素敵なお話をありがとうございました