心のうちを、誰にも知られたくないのです。そこはみにくい感情で埋め尽くされている。
幸せな家族。幸せな親子。幸せな兄弟、姉妹。幸せな関係。つまり手の届かないものだ。暖かな場所や、交わされる言葉。微笑み。
そうした一切合切に、いつも抱く感情がある。
古明地さとりは地霊殿の主である。今さら語るまでもないことを自覚せざるをえないのは、相対する者の表情がとても苦々しいものだからだ。何故か?
古明地さとりが、覚(さとり)であるからだ。覚は心を読む妖怪。実のところ表情などうかがうまでもない。その者が考えていることが、さとりの脳裏にそっくりそのまま流れ込んできているのだから。
「そう睨まないで欲しいものだわ。わたしにもどうしようもないのだから」
嘆息とともに告げる。
「それにわかるのは思考のごく表層。あなたの恥ずかしい秘密など、これっぽっちも知らないのよ?」
これは嘘だ。読もうと思えば読める。さとりは誰にでも同じことを言う。そして、誰もが嘘とわかっているだろう。
それでも一応程度、対面の女から表情の険しさがやわらいだ。
「わたしはもともと、こんな顔だわ」
対面の女、すなわち水橋パルスィはそっぽを向いて言った。さとりは反射的に言い返しそうになるのを我慢する――誰かれ構わず針ねずみみたいな態度をとっていれば、そうなるでしょうよ。
今日、この地霊殿にパルスィを呼び出したのは、そこを注意するためだ。
「橋姫、水橋パルスィ。また地底に降りてくる者を襲ったわね」
「……」
霊烏路空の地上侵略が、その地上からやってきた巫女に未然に阻止されてから、忘れられた地底はほんの少しの日の目を見ることになった。さとりがただの人間程度に思ったその巫女は地上で大層な人気者らしく、瑣末なことでも巫女にあやかりたがるものであるという。
巫女がどこそこへ行ったとなれば、その場所はたちまち食卓を彩る話題の種となる。そして稀に、巫女と同じ地を踏もうとする酔狂な者が現れる。その地が例え危険な場所でも。
地底はさほど危険ではない。
地霊殿の奥、旧地獄に立ち入らなければ。
そして、水橋パルスィのような住人が、来訪者にちょっかいを出さなければ。
「……すいません」
「わざわざ地底に来たがるのも理解はできないけどね。しかしあなた、本来は地底への案内役としてあの縦穴にいるのでしょう」
「顔が気に食わなかったのよ」
「黙って聞いてください。というか、嘘をおっしゃい。他に理由があるんでしょうに」
「ないわよ。心が読めているくせに、そういう言い方やめてくれる? イライラするわ」
地底に巣食う妖怪の中で、およそ彼女ほどわたしを嫌うものはいまい。そう思えるほど、パルスィは嫌悪に歪んだ顔を見せる。心を読む能力。嫌われるのは当然。ふた言念じて、無表情をつくる。
「……わざわざ地底と地上の仲を悪くしたいわけではないでしょう。放っておけばすぐに帰る旅人を追い返す必要もないのです。今後は手出しをしないでもらえませんか」
「いやよ。楽しそうにしてるやつがいたら絶対攻撃するわ」
つくったそばから無表情にひびが入った。強情にもほどがある。
「どうして」
「……だから。読めばいいでしょ、勝手に。言った通りのことだってわかる!」
うつむいていたパルスィが、再びさとりをにらむ。ぎらぎらと暗い輝きを放つ緑色の瞳が、さとりの第三の眼をにらんでいる。売り言葉に買い言葉で思いつくまま応酬しようとする心を抑え、さとりは努めて平静に言う。
「これでも覚はプライバシーに配慮する生き物ですよ。できる限りは」
「信じられると思ってるの? 街でどんな陰口を叩かれてるか知らないんじゃないでしょうね」
「そんなことはいま関係ないでしょう。わたしは覚という一個の妖怪としてではなく、地底の主として言っている! 今後は手出しをしないでいただく。さもなければ」
我知らず眉間にしわが寄る。パルスィも挑むような姿勢を崩さない。
「……なんだってのよ」
「あなたを縦穴に置いておくわけにはいかない」
「わたしを地底から追い出そうっていうの?」
「否、それでは地上にいさかいを呼ぶ。しばらくの間、地霊殿にて軟禁する!」
「あんたと四六時中一緒ォ……?」
パルスィが怒りの表情の中にうっすらと笑みらしきものを浮かべる。怒りに怒りが加わったようなものだが。
「死んでも、ごめんだわ」
チカ、と光が瞬き、過剰な音とともに弾ける。さとりは反射的に顔を背けた。目くらま
しの弾幕だ。
その一瞬でパルスィは姿を消していた。認めたくはないが鮮やかな手際だった。さとりはひと悶着を覚悟していたのに、完璧に虚を突かれてしまった……
「さとり様、ご無事ですかっ!」
物音を聞きつけて、護衛役のペットが駆け込んでくる。なんでもないと身振りで示してペットをあしらっているうちに、さとりは冷静になって思う。注意していたのに。売り言
葉を買ってしまった。
さとりはその日、妹にもペットにも指摘されたことだが、心ここにあらずといった体で過ごした。
寝室で自己嫌悪をかみ締める。寝台にうつぶせになって、頭をかかえていた。
パルスィは取り付く島もなかったが、自分はもっと冷静であるべきだっただろう。古明地さとりは地霊殿の主なのだから。しかし、パルスィの感情を理解し、落としどころを見つけることは容易とは言えない。
読心の結果から言って、パルスィは本当に気に食わないという理由だけで旅人を襲撃している。これはもうさとりが読心をやめられないのと同様、どうにもできないことだ。パルスィは橋姫なのだから。となれば、状況が落ち着くまではパルスィには旅人の通らない別の場所でおとなしくしてもらうしかない。
「だから……わたしの提案は妥当だった。もっと穏やかに切り出せていれば……」
思考が堂々巡りを始める。
もう夜半を過ぎている。寝るべきだと決め込んで、さとりは毛布を頭からかぶった。
暗闇の中、寝入るまでのわずかな時間さえもがさとりを悩ませた。
(パルスィめ。あんなにつんけんしなければ、わたしだって……もう少し……)
心配しているのは地底と地上の関係だけじゃないのに。
(……パルスィの、ばか)
心が読めたところでこんなものだ。古書を読み解くように、閃きと対象の熟知が要される。さとりにはどちらもが欠けている。
翌日、さとりはパルスィを捕らえなければならないことを思い出した。まだそれほど大事にはなっていない。わざわざ地底まで出張ってくる物好きどもも、それなりの力を備えているのだろう。しかしパルスィとて弾幕に秀でた妖怪であり、能力自体も侮れないものがある。放っておけばいつかは惨事を起こすのは遠くない。
「お燐、お空」
中庭で遊んでいたペット二匹を呼びつける。担架をかかえた小柄な赤猫が一匹、もう一匹は黒々とした髪と翼を持つ長身の烏。この地霊殿で最も危険な二匹である。そんな二匹が、遊びの手を止めて気軽に駆け寄ってきた。
「なんですかぁ、さとり様?」
お燐――火焔猫燐が快活な声で言う。猫に似た外見を持つ、火車である。死体や怨霊の扱いに長ける努力家で、弾幕戦ではからめ手を好む使い手と言える。タイプ的に似ているパルスィの裏をかくならば、このお燐が適役だろう。
「なにかご用でしょうか」
お空――霊烏路空が澄まし顔でお辞儀をする。地上侵略を目論んでいた、究極のエネルギーとやらを操る地獄烏である。いつの間にか主であるさとりも知らない進化を遂げ、能力の詳しいところはわからないが、パルスィの弾幕程度ならば正面から小細工抜きで打ち砕くパワーはある。
とはいえ、ペットだけに任せることはできない。さとり自身も、パルスィ捕縛に出るべきだろう。
「水橋パルスィを捕らえる。手伝いなさい」
「はいっ! お供します」
お燐とお空は即座に返事をした。優れた能力、そして忠誠。さとりが誇らしくさえ思っているペットだ。二匹とも用事をおおせつかったのが嬉しいのか、ハイタッチなどして気勢を上げている。
「よーし、死体運ぶぞー」
「死体燃やすぞー」
「……。生け捕りよ、生け捕り」
胸中でつけ足した――ただし、扱いさえ間違わなければの話。足りない頭で地上侵略を企むお空と、それを猿知恵ならぬ猫知恵で大事にしたお燐である。荒事でもなければ愛玩するしか使い道はない。
地獄の旧市街までの道すがら、お燐が不意に言った。
「さとり様、パルスィって昨日さとり様の部屋にいたあいつですよね」
「ええ、そうよ。別の妖怪と間違えないようにね」
「昨日、さとり様が元気なかったのと関係あるんですか?」
勘が鋭いやつだ。お空は昨日のことなど覚えていないのか、ただ興味がないだけか、余所見をしていた。さとりは答えに窮して沈黙し、それが逆に、心の読めないお燐にも容易に読める答えとなっていた。
一行はまず、水橋パルスィの住処へと向かった。住所は確認してあった。
地底で最も豪奢な地霊殿で暮らしているさとりからすれば、よそはどこもそうと映ったに違いないが、粗末な小屋である。それは木造二階建ての集合住宅で、築二十年ほどに見えた。
その二階の角部屋に、水橋と表札のかかっていることを確認する。
(お燐、お空)
含意をこめて、顎をしゃくる。二匹は心得たもので、すぐに行動に移った。お燐は扉の鍵穴に針金を差し入れて開錠を試み、お空は翼を生かして窓に回り込み、退路を断つ。さて、なんと声をかけるべきか、と考えたところで。
ガラスが割れる音がした。
「……!?」
さとりはぎょっとしてお燐と顔を見合わせる。と、部屋の中からどたどたと物音がして――鍵が外され、お空が扉から顔を出した。
「中にはいないみたいだよ」
無言でお空の頭をはたいて、さとりはため息をついた。
「まぁいないとは思っていたけど」
「あたし今なんで叩かれたの?」
「さすがお空だよ。かわいいよ」
さとりは気を取り直して水橋宅に侵入する。
水まわりはきれいに掃除が行き届いていた。狭い空間の中で不便がないように工夫が凝らされた台所。水垢ひとつない風呂場はせっけんのやわらかい香りがした。試しにと戸棚をひとつ開けてみると、大小の真っ白なタオルがきっちりと折りたたまれて詰められている。
さとりはパルスィの神経質そうな顔立ちを思い出して苦笑する。
「おや……」
「どしたんです?」
「いえ……ちょっと開かなくて」
さらに奥へと引き戸に手をかけて開こうとするも、なにかにつっかえる。金具が歪んでいるのか、すんなりと開いてくれないようになっていた。
「その扉、蹴りつけたような跡がありますね?」
お燐が指をさす。軽く足を振り上げたような位置に、へこみがあった。割れた戸板の創面は古く、昨日今日できたものではなさそうだった。他がきれいなだけに相当目立っている。開きにくいのはこれが原因だろうか。
それでも力を込めれば引き戸は簡単に開いた。その先は、おそらく元は整理整頓された部屋だったはずである。しかし、今はお空が外から窓を破壊したために、無数のガラス片が散らばる危険な部屋になっていた。
なんとなく生活感に欠けるが、そのように映るのは色調の暗さと飾り気の無さから来ているのだろう。
ガラス片を避けながら部屋の中をつぶさに見るが、特にめぼしいものはない。
「そもそもパルスィがいないとわかった時点で部屋の中に入る必要はなかったのでは」
「そうとも言える……探偵の真似事でしかなかったわね」
駄目元で来てみたが、逆にここにいなければ他に思い当たるところはなかった。さとりの知る限りパルスィの交友関係は絶無と言っていい。さとりとも仕事上のつながりで会うだけだ。
パルスィはいつもさとりを不機嫌そうに睨んでいた。彼女が地霊殿に仕事の報告に来たときも、逆にさとりが縦穴まで視察に出向いたときも、忘年会でうっかり隣の席に座ってしまったときも。
大抵の妖怪は、三度も会えばさとりと付き合うということに諦めが入る。さとりの前で
余計なことを考えなくなる。
そこをパルスィは、何度会っても。言葉にするならば、物欲しそうな目で、否、なにかを言って欲しそうな瞳で……それともあれは、なにかを伝えたいのか? さとりは心を読むほどには、他人の表情を読めない。せいぜい大まかな好悪の判別くらいか。
それでも、もし、さとりが感じた通りであるならば。言いたいことがあるなら、言えばいいのだ。人の読心任せにしていないで。
「お空はここでパルスィが帰ってこないかどうか見張っていて。もし帰ってきたらすぐに知らせに来て。ついでに窓を直しなさい」
「了解っ」
「お燐はわたしと一緒に旧市街を捜索よ」
「はーいっ。お空、しっかりやるんだよ!」
旧市街は先日の雪のおかげですっかり冬化粧を終えており、見ているだけで寒々しい。とても屋外で一夜を過ごせる状況ではない。お燐は続けて言った。
「あたいなら猫になってよそにお邪魔してコタツに入り込むことも容易ですが、パルスィはどうやら妖獣ではないから、それはできない」
さとりはそんなことをしていたのかと問うべきか迷ったが、話の腰を折るときではないので黙って聞くことにした。
「そして、パルスィは友達がいないんですね? ならば、旧市街でもまだ再開発の手が入っていない地区で、雨露をしのいでいるんじゃないかと思いますっ」
「なるほど」
案外理路整然とした推理に頷く。たしかにあそこならば、打ち捨てられた無人の家屋が少なくない。おたずね者が身を隠すにはうってつけだ。
とはいえ、パルスィにさとりの知らない交友関係があってもなんらおかしくはない。その場合はこの旧市街に潜んでいることになるが、しらみ潰しにするには人手が足りない。
そして、住民の協力を得られるかが問題になる。人手があったとして民家に一軒一軒入っていって調べるわけにもいかない。パルスィを匿われたらお手上げだ。
「……街でどんな陰口を叩かれているか……ね」
パルスィの嫌味な一言を思い出してしまう。
もちろん知らないわけはない。心が読めるのだから。さとりとの付き合いに諦めが入る――というのは、無心になるだけではない。さとりへの嫌悪をことさら隠さなくなるのだ。
為政者として、有象無象の心の声などいちいち気にも留めなくなって久しい。あんなものは虫の羽音と同じだ。なんの意味もない雑音が、右の耳から左の耳へ素通りしていくだけ。
しかし、ひとりの妖怪としてのさとりが、その雑音をどう捉えてきたか。
知らないわけがない。自分の心なのだから。
「さとり様……?」
お燐が心配そうにさとりを見上げて、そっと手を握ってくる。さとりは愛おしくなってお燐を抱きすくめ、その首筋に顔をうずめた。まだ旧市街のはずれで、人目を気にすることはなかった。
「あたいはさとり様の味方ですよ。絶対、なにがあっても!」
「大丈夫よ、お燐。あなたは優しい子ね」
泣いているわけではない。誤解されたくなくて、さとりはお燐の体を離した。
「行きましょう。再開発地区へ」
「……はいっ!」
お燐が元気よく返事をした。不安を易々と吹き飛ばしてくれるような、笑顔で。
道中、まばらな人影からの胡乱げな視線と思考に晒される。思えば街に来るのも久しぶりだ。これを恐れて、妹は第三の眼を閉ざした。さとりも姉でなければそうしていたのだろう。凍てついた冬の空気以上に、それは心を凍えさせる。
さとりは両の手を握り締める。胸を張り、大きく構える。たとえ虚勢でも……おそれて
いるのはお互いさまだ。
「さて、ここからどう探しましょう……再開発地区、狭いわけでもないし」
それでも旧市街全てを探索するよりはましだが――思わずついたため息が、白く濁っていた。人気が少ないように見えて、息を潜めて隠れている者の気配があるような気もする。ただの勘で、根拠は特にない。この中からいかにしてパルスィを探し出すか。頭のひねりどころだ。
「そこの足跡があやしいですね。まだ新しい」
「え? ……」
お燐があっさりと言って、地面の一点を指差す。雪の上に足型でも残っていたかと思えば、そこは舗装された道路の一部分で、さとりには足跡などまるで見えない。
「足跡、わかるの?」
「パルスィかどうかはわかりませんけど、昨日地霊殿に残ってたのに似ていますね」
歩き方とか、歩幅とか。お燐はこともなげに続けた。
どこをどう見たらそんなものがわかるのだろう……さとりは飼い猫がいつの間にか忍者になっていたような気分を味わった。
「……た、頼もしいわね。先導しなさい」
さも大物らしく見えるように薄く笑い、小走りになったお燐の後を追う。内心は焦っている――地霊殿を長く空けているわけにはいかない。長引けば、パルスィは変わらずに旅人を襲い続けるだろう。そしていつかは敵わぬ相手に挑み、敗れる。あるいはその相手は、あの巫女になるのかもしれない。そうなる前に捕らえて地霊殿で監視下に置く。不自由な思いを、そしてさとりと顔をあわせる事で嫌な思いもするだろうが、死なずには済む。
パルスィが死ねば、地底の住民たちは地上への反感を募らせるだろう。何故なら、原因を作っているのは、禁を犯して地底へ侵入している地上の者たちに他ならないからだ。
地底の妖怪は皆疎まれて自らを地底へと封じた。そして地底にひしめく怨霊を鎮める見返りに、地上の者を侵入させない約束を地上の大賢者と結んだ。地上の者たちだけがそのことを忘れ、今また物見遊山程度の気分で地底の領分を侵している。
地上から来た者を攻撃する理由にはなる。正当性さえあると、さとりも理解はしている。長い時間を経てはいるが、まだ地上を怨んでいる手合いも、少ない数ではないのだろう。
(パルスィ、あなたもそうなの?)
お燐が走る速度を落とした。さとりが辺りを見回すと、そこは背の高い、同じような倉庫が立ち並ぶ通りだった。持ち主もとうになく、壊す理由もないというだけでそこにある意味のない建造物。元は資材置き場にでも使われていたのか、倉庫の脇に腐った木材が放置されていた。
かつて地獄が地底にあり、最も繁栄していたころ、この一帯はひっきりなしに人が行き交っていたことだろう。地霊殿を構成する資材も、はるか昔ここで保管されていたのかもしれない。栄光の時代はこの再開発地区を置き去りにし、今はどこにあるのか。三途の川に新たにつくられた地獄か、その先の冥界か。それとも地底を脅かす地上にか。
他となんら変わりの無い倉庫の前で、お燐は立ち止まった。人気はまったく感じられないが、お燐にはそうではないのか。さとりは自慢のペットを信じ、息を切らしながら合図を送った。
お燐が再び音もなく駆け、扉を蹴り破った。そのまま倉庫の中へ飛び込んでいく。
さとりも追って倉庫へと入る。はたして、中には――
姿勢低く構え、好戦的な笑みを湛えるお燐と相対する、水橋パルスィの姿があった。昨日と同じ服が少し汚れていて、この倉庫で一夜を過ごしたことがうかがえた。
パルスィはお燐を見て何者かと戸惑っていたようだが、続いて現れたさとりを見て、ある程度のことを理解したようだった。
「古明地さとり……! わたしを殺しに来たの」
昨日と変わらない眼を向けてくるパルスィに、さとりはお燐の背中ごしに告げる。
「その……逆。あなたを殺させないために、ここに来た」
掲げるように、第三の眼を手のひらにのせる。パルスィと同様、いつでも弾幕を放てる構えをとる。
「意味がわからないわね。地底と地上の関係を守るために、わたしが邪魔なのでしょうが」
パルスィがしゃべる間に、さとりは素早く視線を走らせる。倉庫内は中を仕切るものが一切ない、一室だけの構造。中にはなにも置かれていない。出入り口はさとりたちが入ってきた、妖怪一人が通り抜けられる程度の扉だけ。資材の搬出口となっていただろう大扉は閉め切られている。
「できれば戦うよりも話し合いで解決したいのだけど」
お燐はじれったそうにしているが、さとりの命令があるまで動かない。
お燐の位置からも一息で飛び掛るには遠い。逃げられる心配はほぼないが、弾幕戦は避けえない距離だ。
「話し合ううちに、わたしの心に浮かぶ弾幕を見るのよね。手口は割れている」
「たしかに弾幕も見るけど」
さとりは既にパルスィの心を探っていた。パルスィの心の中は、どろどろとした感情を隠そうとする欺瞞と、一対二の不利な状況からの攻め手を考えあぐねる迷いが多くを占める。思考が読みにくい組み合わせだ。断片的な焦り、混乱。打算と疲労、そして……
おぼろげな弾幕。考えていることは不透明でも、弾幕は違う。記憶は次第にはっきりと、鮮明に美しい弾幕を映し出す。
心を読めても、結局なにを考えているかわからない。心の断片を読み上げ、おどかすことはできる。しかし、そんなことはパルスィを理解する助けにはならない。
パルスィを救わなければならない。そのためには、パルスィを説得しなければならない……そのためには、パルスィを理解しなければならない。
もっと広く、深く、パルスィの心を覗き込まなければ。
それは痛みを伴う行為だ。パルスィはさとりを憎んでいるのだろうから、その心の棘と毒がさとりに投影される。さとりはその痛みが怖い。だが、それでも!
「見せてもらうわ――」
覚悟を噛み、告げる。
そして両の眼と、第三の眼を大きく見開く。
ありったけの心を込めて、見つめる!
「――あなたの心を!」
叫ぶと同時、お燐が素早い身のこなしで飛び出す。妖精の怨霊を無数に呼び出し、渦状にパルスィを取り囲んで、その包囲を狭めていく。スプリーンイーター。お燐の得意技だ。
パルスィが身を翻し、怨霊の爆撃を回避する。お燐の速さには及ばないながらも熟達した動きで怨霊の間隙を衝き、さとりに鋭い弾を撃ち込んでくる。お燐にはかまわないつもりか。
「この際、見られる前に教えておいてあげる!」
パルスィの瞳が緑色に輝いた。彼女の背後で弾幕の花が咲いて、弾けるようにさとりを襲う。さとりはお燐やパルスィと違って避けるのは苦手だ。いくつかをすり抜け、いくつかを被弾する。お燐の舌打ちが聞こえ、大量の怨霊がさとりを守る壁となって現れた――しっかりしてくれとでも言いたげだった。だがさとりはお燐ほど素早く動けないし、なによりそれどころではない。
「あんたのことが心の底から気に食わないわ――大っ嫌いよ、古明池さとりぃっ!」
その言葉は。恐れたとおりに、被弾したいくつかの弾よりも、心に深く突き刺さる。
言葉は痛い。他者を傷付けようとする罵詈雑言はもとより、稚気さえ含まぬなにげない一言にさえも、心はときに悲鳴をあげる。言葉とは、触れえぬ心にただ一つ触れるもの。誰もが持つ恐るべきもの。
覚が恐れるもの――でも、逃れられないもの。
さとりは必死になって、パルスィの心のより深くへと飛び込んでいく。
己の心を高いレベルでの集中へと、研ぎ澄ませていく。
「想起せよ、汝が悪夢を」
第三の眼が、光を放つ――
…………
地底はわたしの嫌いなものでいっぱいだ。
太陽のない空、ぬるい風。こもった空気。時折り降る灰のような雪。街には陰が落ち、停滞しきっている。そんな中、幅をきかせる無神経な鬼たち。鬼と一緒になって騒ぐ考えなしの妖怪たちもたくさんいる。全部嫌いだ。鬼になどかなうはずもないから、見かけるたびに小さくなって、なるべく鬼の目につかないように通り過ぎる。
自宅――狭苦しい物置のような――の立て付けの悪い扉も嫌いだ。戸板を外してへし折ってやりたいが、冬も盛りのこの時期に追い出されてはたまらない。妖怪一人よりもたかが戸板一枚を優先する大家も嫌いだ。あの部屋に関する嫌いを数えたら両の手に余る。
通りを歩けば、きれいな装いの妖怪と行き遭うこともある。わたしの給与では手の届かぬような衣装だ。買ったって似合いやしないだろうけど、身に着ける想像をしては、我に返って落ち込んでいる。
朝はやくに鏡を覗き込むのも、嫌いなことのひとつだ。くせっ毛で伸ばせない、つやのない金髪に、おもしろみのない土気色の顔。眉と眉の間は自然と寄って、緑色の瞳はいつでも不安に揺れている。また仕事に行かなければならないからだ。地底には人間がいない。働かなければ食べていけない。
仕事と表現して、笑いたくなる。かつて地上につながっていた縦穴に突っ立っているだけの閑職だ。でも都合がよかった。
そこは、嫌いななにもかもから最も遠い場所だったから。
そこにいれば、わたしの手の届かないもののことを考えないで済む。鬼や土蜘蛛、大家、あのきれいな服のことも。
――そして、あんたのこともね? さとり――
「!!」
不意に語りかけられ、さとりは息を呑んだ。パルスィの心の情景が一転し、巨大な緑色の瞳だけが映し出される。眼球だけなのだから表情はないのだが、睨みつけられているようにも、蔑まれているようにも感じられた。
パルスィの心の原風景を、強烈な想念が覆っている。パルスィは、故意にこの映像を見せているのか。
血走った眼球が再び語りだす。
一番、嫌いなものがある。地霊殿だ。仕事の報告にと頻繁に行かざるをえない場所。
そこにはふたりの姉妹と数え切れないペットがいて、日々仲良く暮らしている。
古明地は代々地底を治める覚の一族。その当代さとり、つまり姉のほうがわたしの直接の上司だ。
覚は心を読む妖怪だ。第三の眼によって他者の感情を捉え、その脳裏の言葉を拾い、心を掌握する。
そんな妖怪と話すことは、不気味極まる。報告――本日も何事もありませんでした――の後にさとりは世間話をふってくるが、まともに返事をできた例がない。いや、必要ないのだ。わたしの心を勝手に代弁し、勝手に納得して、その話は終わりになるのだから。これで不気味に思わないのは、頭に脳みそが入っていない鬼か、脳みそに知性がない動物くらいのものだ。
けれどそれは、わたしにとってはただ不気味であるという、それだけのこと。
わたしが許せないのは。
心を読む、ということ自体だ。
一切の隠し事ができない。言葉を選ぶ間がなく、表情を作る隙もない。全てがありのままでいるしかない。
さとりと対峙すると、虚飾をはぎとられたわたしの心が、そこに晒しものにされている
かのように思えた。
そうして初めて知ったのだ。わたしの心がみにくい感情にまみれていたことを。
怒りではない。悲しみではない。憎しみではない。恐れではない。
嫉妬――――
途方もないほどのそれで、わたしの心はいっぱいだった。
あらゆるものへの羨望と、己を顧みたときの喪失感。他のものは、それに比べれば矮小に過ぎた。
たったそれだけがわたしの全てなのだと思い知る。この世に生まれてからわたしが育ててきたものが、こんな醜いものでしかなかったのか? こんな醜いものから、どこへ行こうが離れられないというのか? 誰かに心を開けば、こんなものを見せるしかないのか?
地霊殿なんかじゃない。わたしは、わたしが一番嫌いだ。
そして、そんなことをまざまざと見せつけるさとりが、もっと嫌いなんだ! 許せるも
のか? 誰に断りもなく、自分さえ知らなかった頭の中身を暴き立てるなどという行為
を? 今こうしている瞬間だって、あんたはわたしのなにもかもを見ている。それで、そ
の次の瞬間にはわたしの悪夢をわたしに叩きつける! あんたはわたしのなにもかもを理解するのだろう、でも覚えておくといい、理解しようとするその行為こそがわたしを侵襲していると!
「さとり様!」
お燐が叫ぶ。悲痛な声。
完全に動きを止めてしまっていたさとりに、弾という弾が降り注ぐ。お燐の亡霊も全て突き破られ、さとりは地に叩き伏せられた。
信じがたいほどの憎しみの投射。パルスィのトラウマは、さとりに直接つながるものだった……
パルスィが哄笑し、その姿をあざける。
「地霊殿の主、口ほどにもない! 得意のトラウマはどうした?」
パルスィもまた無傷ではない。さとりが心を読むまでの間、お燐はひとりで攻撃をするしかないが、弾幕は立ち向かってこないものを攻撃するには向いていない。お燐から逃げ続けるパルスィにいくらかの攻撃を成功させたお燐を褒めるべき状況だ。
さとりは――倒れたまま、それでも第三の眼だけはパルスィに向いていた。パルスィがそれを見て、顔をゆがめる。
「ふん……これだけ言ってもまだわからない? その眼を」
パルスィが足を持ち上げ、第三の眼を、踏み潰そうと――
「向けるなと言っているのよ!」
「やめろーっ!」
一息に踏み抜こうとした靴裏を、お燐は背中で受け止めた。第三の眼ごとさとりの体に覆いかぶさり、その身を盾とする。
「さとり様に……ひどいことはさせないぞ……!」
「ふぅん? いいわね、古明地さとり? 主人思いのペットがい――てッ!」
パルスィは再度、お燐を足蹴にする。苦悶を吐き、お燐はいっそう身を硬くする。
「ぐっ……ううう……ここまで、しなくたって、いいんじゃないの? お姉さん」
「わたしは自衛しているだけよ。殺されてたまるものですか」
「さとり様がそんなことをするものか! 水橋パルスィ、おまえはさとり様のことをなにもわかっていない!」
お燐は一瞬で激昂した。さとりがどれだけ地底のことを思っているか、気が済むまで聞かせてやりたい。けれど、言葉がのどにつかえてうまく出てきてくれない。物理的に踏みにじられているせいではない――さとりがどれだけ地底のことを思っているか。
どれだけ、地底の皆のことを。
「わからないわよ、覚じゃないんだから。言いもしないことをわかるなんて」
「いいや、わかる!」
即答に不意を衝かれたか、パルスィの足にかかる力が緩んだ。
「さとり様はパルスィ、おまえなんかよりもっと大きな罪を犯した者を許した。おまえだって許される! さとり様に聞いてみるがいい!」
「くだらない……知ったことか!」
三度、パルスィの足が持ち上がる。だが、同じことを繰り返されて隙を見つけられないお燐ではない。
さとりを抱えたまま地を転がって踏み付けを回避し、すばやく立ち上がる。焦りを浮かべた顔を期待するも、パルスィは余裕の表情だ。
(そうか、こいつは逃げるだけでいいのか)
これ以上はどうあっても不利だ。
パルスィは既に逃げ出すタイミングを計っている。
(どうする……どうすべきだ……!?)
覚を直接に滅ぼそうとするほどのトラウマを目の当たりにしたさとりは、途切れそうな意識の片隅で思う。
覚は、許されないのだろうか。この力がある限り。視覚が光を捉えて像を結ぶがごとく、当然のように見えているに過ぎない心を見ることが、許されないのだろうか。地上だけでなく、地底でも許されないのだろうか。
パルスィの心はさとりの全てを拒絶していた。憎悪に焦げ付くような感触が全身から消え失せない。
妹、こいしのことを思う。読心に耐える精神を持たない、弱い覚だと――内心は――思っていた。さとりはもう妹のことを蔑めはしまい。きっと姉よりももっと早いうちに誰か
を理解しようとして、絶望したのだろう。
妹のように第三の眼を閉ざせば、許されるのか。他者の心が生み出す、この途方もない恐怖から、解放されるのか。
(他人の心を恐れるなら、こんな能力が……なんの役に立つ?)
自問し、目蓋の重さに愕然とする。閉じてしまえば楽だ。いや、心の恐怖を再確認した今となっては、もはや閉じない理由がない。
誰も責めまい。皆に恐れられる第三の眼を閉ざし、ただの少女となって市井に混ざり、一生を終える。もう恐れることも恐れられることもない。ペットたちと言葉を交わせなくなるのは心苦しいが。
地底の統治は、鬼にでも引き継がせて。正直者の鬼たちにまつりごとが務まるだろうか。これも心配だ。他にも。他にも無数に抱えた問題がある。
けれどそれは……さとりひとりが、無数の心に怯えてまで、しなければならないことなのか。
目蓋が落ちる。視界に二度と払われない闇が侵食してくる。
――――…………
そのとき。
本当に閉じかける寸前の瞳が、鈍い光を捉えた。
(ああ……あれは)
無秩序な羅列のようで、計算されつくした数式のような。整地された都市と原生林を同時に想起させる、矛盾を抱えた輝き。
弾幕。パルスィの心に触れて、探し続けていた弾幕だ。
さとりにも見覚えのある弾幕が、パルスィの心の奥底に刻み込まれていた。そうなのではないかと思っていた。これは、あの人間のものだ。奔放で力強く、空の彼方まで広がっていくような、美しき弾の群れ。
自由な心の象徴。
あの迷惑な人間にも見習うべきところがある。自分の力に振り回されず、この世のなにものからも解き放たれて、まっすぐ心を伸ばしていくことができる。妖怪からすれば一瞬の命しか持たない、ちっぽけな生命なのに。
そんな人間にできるのならば……
さとりにもできるはずだ。妖怪は人間よりも遥かに長い時を生きる。あの人間と同じことができなくても、己を肯定できるなにかを、必ず見つけることができる。
それはきっと、パルスィ、あなたも……
決戦の弾幕を放とうとしていたその腕を、掴む。強張っていたお燐の顔が、歓喜と驚きに綻び、また同じ感情がさとりの脳裏に流れ込んでくる。
震える膝に活を入れ、立ち上がる。体は悲鳴をあげている。あれだけ被弾したのだから、これも当然か。
パルスィの心の声が聞こえる――はっきりと、聞こえる。あれだけ打ち込んだのに、何故?
「それがあなたの詰めの甘さ……」
動揺と困惑と、二分された感情が揺れている。
「詰めが甘いって、さとり様の第三の眼を潰そうとしたんですよ」
「……そうね。でも、命をとろうとはしていない」
さとりは両手を掲げて見せた。致命傷になる部位には、弾が当たっていない。
結果から言えばそうかもしれないが、とお燐は納得行かないような面持ちだ。
「わたしはその詰めの甘さを、あなたの優しさと言い換えてもいい」
「……ふっ、ふざけるんじゃ、ないわよ……っ、誰がっ、あんたに……そんなものを」
「ねぇ、パルスィ、わたしたち似たもの同士だって思わない?」
「思わない!」
「聞いて。あなたと同じで、わたしも自分が嫌いなの。誰かを傷つけてるって知りながら、なお心を読み続ける自分が」
即答してくるパルスィには苦笑いしそうになるが、こらえる。
伝わってほしい。それだけを願う。
「それが身を守る手段であったし、地底統治のためとか、理由はいくらでもあるけれど」
「そんなのは……言い訳だわ!」
「ほんとね。ごめんなさい、本心を話すつもりなのだけれど……心は欺瞞だらけなの。あなたの心を見て思い出した。だから、たどたどしくても、心は言葉で伝えたい」
パルスィの心は複雑怪奇で、すべてを理解することなど到底できそうになかった。
でもそんなことは、誰だって同じだ――お燐やお空の心も。妹の心も。
自分の心だって、自由にはならない。さとりはこれからパルスィに、本当は告げたくないことを告げる。
自分のためではなく。
パルスィのために、そうする。
「わたしはこの命が尽きるまで、第三の眼を閉ざさない」
「さとり……!」
パルスィの心がはっきりと失望を伝えてくる。パルスィにとって、それはもはや決別の言葉に等しい。
「わたしには、この力がどうしても必要なの。あなたに好ましいと想ってもらえなくても……憎まれても、捨てることはできない」
自分の言葉にさえも心が傷ついていることを自覚しながらも、もう止まれない。
止まってしまったら、二度と言えない。
「だから、これがあなたと話せる最後になるから――あなたの心をわたしが語ることを、許してください」
鼻の奥につんとした刺激とともに、なにかがせり上がってくる。漏れかかる嗚咽を懸命にこらえ、さとりは言葉を紡いでいく。
「どうかパルスィ、わたしを許さなくていい、許されるはずもない、けれど自分の心を責めないで。嫉妬は上へ向かう心、あなたが気づきさえすれば、きっといろんなことを変えていく力になる! わたしはあなたの心の中でその可能性を見た……嫉妬が生み出す美しいものを、あなたはすでに持っているのよ」
「やめろ、それ以上しゃべるな」
パルスィが激情のままに髪を振り乱して叫ぶ。さとりが語るのは、読心の結果。それをいまさら信じるには、絶望の期間があまりに長すぎたのか。
「もしそうなら、誰かがわたしを見たとして、そいつがわたしの何を羨む? わたしに可能性なんかない! わたしにあるのは自身の中でうずまく、何にもなれぬ嫉妬、それだけだ!」
絶叫とともに、パルスィはもう弾幕ともいえない無秩序な弾を放出する。弾はところ構わず炸裂し、余波だけでも吹き飛ばされそうな威力の破壊を撒き散らす。
お燐がさとりの前に立ちはだかろうとするが、さとりはそれを静かに制し、前だけを見据える。
「ならば、見せてあげるわ――」
理解しあうことはできなかった。さとりにはもう言葉は残されていない。
(それでも、あなたの心の枷となるものを取り除く!)
あとは、見せつけるしかない。
脳裏に刻まれた弾幕を、空間に描出する。完全を期して、パルスィの心象を描いてゆく。
それは、この世のなによりも美しい模倣。
大小の符と。
無数の針。
太極をかたどった玉。
そして、十重二十重の結界。変幻自在、規則的にして不規則、数々の異変を解決に導いてきた――
地上は博麗神社、楽園たる幻想郷の巫女、博麗霊夢の最強の弾幕!
「――あなたの、心を!」
符と針と玉がパルスィの弾幕すら飲み込んで、一気呵成に放出される。半狂乱になっていたパルスィも、ついに現れたトラウマに我に返って回避を試みる。
間断なく隙間なく、というわけではない。目にも止まらぬ速さでもなければ、かすめるだけで吹き飛ばされるような威力でもない。なのにパルスィは必死に弾を避け、またさとりも苦心して弾幕を編んでいた。
脳髄に痛みさえ感じるほどの緻密な計算なのに、その数式にどういう意味があるのかわからない。それらは後々意味を持つこともあれば、持たないこともある。個々の弾がどのような布石を成しているのか、さとりにはわからない。
それでもさとりは、飽くまでもそれを忠実に再現する。
さとりには理解できないそれへ、畏怖を抱くパルスィのために。
パルスィの足がついに止まる。符と結界に追い詰められて逃げ場をなくしていた。決着は今をおいて他にない。さとりは肉声を以てトラウマを決定づける叫びを放つ。
「想起――『夢想封印』!」
極彩色の虹の輝きがあふれる。輝きは尾を曳く七つの光弾となり、きらびやかな軌跡を残して、パルスィへ迷いなく突進していく。
光弾は無感情に炸裂し、標的を地に叩きつけた。
パルスィは、悲鳴をあげなかった。敗北を受容したのか、トラウマに声もなかったか。さとりにももう聞こえない状態だった。
(優れたものを羨まずにはいられないこと……嫉妬。始まりはそれでいい。少しずつでも、前に進めるのなら)
そうなれば、もうそれは嫉妬とは呼ばれないのだろうけれど。
倒れたパルスィから目を逸らすと、破壊し尽くされた倉庫内が嫌でも視界に入る。壁も天井も穴だらけだ。妖怪としては非力であるさとりやパルスィが暴れただけでこれでは、相当に老朽化していると見えた。もし暴れたのが鬼たちだったら、再開発地区は丸ごとなくなってしまうのではないか?
「さとり様、パルスィを殺したんですか?」
なにかヒントめいたものを感じていると、お燐が遠慮がちに声をかけてきた。驚きつつも(存在を忘れていた)呆れて答える。
「まさか。形はどうあれ、弾幕ごっこで妖怪を殺しはしませんよ」
「第三の眼を潰されそうになっておいて、弾幕ごっこですって? お優しいことですよ!」
「それにね、お燐。今回は、自分の能力を暴走させた部下をおとなしくさせただけ。ちょっと前の誰かさんの事件に似ていない?」
「んー……あー……それを言われると弱いんですが……って、暴走? 水橋パルスィが?」
「パルスィは嫉妬を操る力を持つ。嫉妬深いけど、普段はその嫉妬心を制御できるはずなのよ。それがあんなにも感情を剥き出しにするなんて……まぁ、カウンセラーを呼んでみなければ、はっきりしないことですが」
人差し指を立てて滔々と説明を続けていると、お燐こそが呆れたように肩をすくめた。
「ほんとうに、お優しいことですよ、さとりさま。大好きです」
「ありがとう。さあ、パルスィの身柄を保護しますよ」
お燐の猫車はこういうときに活躍する。
こうして古明地さとりは水橋パルスィを捕らえ、地底と地上の緊張を保つことに成功したのだった。
パルスィは地霊殿に軟禁され、季節が変わるまでの間を与えられた一室で過ごした。封印によって暴れることもできなかったが、封印がなくともそんな気力はなさそうだった。さとりは地上から呼んだカウンセラーからそのように報告を受けている。庭で中空をぼんやり眺めるパルスィを、たしかによく見かけた。
さとりはその日以降、激務に追われることになった。ちょっとした思いつきを試すだけのつもりが、周囲が予想外に盛り上がってしまったのだ。地霊殿の主として、地底が活気付くのは歓迎するところだ。いそがしくしているうちに、いつの間にかパルスィが出所する日を過ぎていることに気づいた。
二人は何ヶ月かを同じ屋根の下で生活したことになるが、お互いに顔を会わせることはなかった。
にわかな慌ただしさに追われるように、地底の季節は巡る。
エピローグ
短かったように思えた冬が明けて、地底は春を迎えようとしていた。
さとりは眼下の地獄のような光景を、満足そうに眺めていた。
(地獄のような、ですって! ここは昔、地獄だったのよ)
やぐらの上のさとりは皮肉を隠さずに哄笑した。地上から招いた見物客は、地霊殿の主のそんな姿を見てたじろいでいた。
笑いすぎて目じりに浮かんだ涙をぬぐい、再び地獄に目を向ける。かつて再開発地区と呼ばれた瓦礫の山に。
「あっはっは! 萃香、腕が落ちたかぁ? 地上はそんなにぬるいところだったか!」
地底で最大勢力を誇る鬼――その中でも図抜けた力を持つ星熊勇儀が高笑いしながら、彼女の必殺技・大江山嵐を発動させていた。吹き荒れる弾幕が再開発地区の建造物群を薙ぎ倒しながら、標的を追い回している。狙いが大雑把なのは性格なのだろうか。
対する妖怪もまた、鬼だ。地底の存在が思い出されるのに先んじて、逆に地上へ出て行った伊吹萃香である。勇儀よりもずいぶんと背の低い鬼だが、飛んでくる瓦礫を素手で粉砕して見せてその力をアピールしていた。
「言ってくれるねぇ。あんたこそ、相も変わらず力押ししか能がない!」
勇儀の挑発に怒鳴り返して、萃香は土煙の中に隠れる。ほどなくしてその中から、雄叫びとともに萃香が――見上げるほどに巨大になった萃香が現れ、平手を振り上げていた。
轟音とともにまたひとつ建物が圧壊した。勇儀は全身で平手を受け止めていたが。
「そっちも力押しじゃないか……」
観客のひとりがそう呟いていた。
「大成功って感じですか? さとり様」
そばに控えていたお燐が言う。
「ことが全て終わってもいないうちから言うのもなんだけど……大成功ですよ。あなたも試合に出場すればよかったのに」
「あんなとこに飛び込んだら死にます」
地霊殿主催・新春地底統一王者決定トーナメント。ネーミング自体は適当なそれが、この大会の名前である。旧地獄街道から再開発地区まで屋台や露店がずらりと立ち並び、お祭りのついでに大会があると言ってもよかった。
要は、全力で騒いで鬱屈した空気を一掃しようという試みである。
ちなみにこの大会、地底統一などと銘打ってあるが、参加者は地上からも募っていた。地上の人間や妖怪、果ては妖精に幽霊までありとあらゆる種族が集っていたが、決勝は見ての通り鬼対鬼という下馬評どおりの組み合わせである。
今回のルールでは、周囲の地形にいっさい気を遣う必要がない。それゆえに出力の高い大技を持つ者が有利なのだろう。
なぜそんなルールがあるのかと言えば、手っ取り早く再開発地区を更地にするためである。目論見どおり派手好きな参加者たちは思い思いに戦い、再開発地区を端から焦土に変えていった。既に再開発地区の面積を分け合った新事業がいくつも発足し、開発は一気に進む手はずになっている。
「そして、地上の者に地霊殿の――地底の力を見せつけることができる。まさに一石にて三羽の鳥を落とす妙手ですね」
さとりが自分を讃えると、お燐は苦笑をこらえきれなかったように吹き出した。
「でもあたいは、最後のはちょっと違うんじゃないかって思いますよ」
「どういうことです?」
「なんかもう、地底と地上はそういう関係じゃなくなっていくのかもって、思います。
いつかきっと」
お燐はトーナメント会場に背を向け、旧地獄街道を見渡していた。
たくさんの妖怪たちと、たくさんの人間たちがいる。
混ざり合って、区別がつかないほどに。
「ま、あたいはもとからそのへん、気にしてないんですけど。死体になれば同じだし」
「……その発言で多少遠ざかったわね。いつか」
けれど、夢のある話だ。そうなればいい。いつか……。さとりは素直にそう思った。
トーナメント会場では勝負を制した鬼が――暫定王者お空に襲われていた。これは地霊殿の仕込みである。最終的に統一王者の座も賞金(それなりに高額だ)も地霊殿に戻しておこうという作戦だった。先の一件で出番のなかったお空のストレス発散も兼ねている。
本来は普通に戦うはずだったが、お空が先走ったらしい。勢い余った王者らしからぬ奇襲に観客はどよめいていた。
「おくうー! そこだー! 膝いれろーっ!」
(どんどん遠ざかるな……)
声を張り上げてお空の応援を始めたお燐の後ろで、さとりは頭を抱えざるをえなかった。
新春地底統一王者決定トーナメント、およびそれに付属する数々のイベントが全てのプログラムを終了し、地底は祭りの後の心地よい余韻に包まれていた。
すっかり均された再開発地区の真ん中で火が焚かれ、歌ったり踊ったり、地底の者も地上の者も入り乱れて笑っている。トーナメント参加者もそこかしこに見られた。
さとりもまた例外ではない。地底で力を持つ種族の長たちや事業主などとの挨拶を終えた後は、妹とふたり、やぐらの上でくつろいでいた。
甘口の洋酒を傾けながら、遠くのかがり火を見やる。
点々と闇の中に浮かんでいるそれらが妙にきれいに思えて、さとりはため息をつく。
「さすがに今回は疲れたわ」
「お姉ちゃん、ずーっとかかりきりだったものね。お空がさびしがってたよ」
「暴走の原因はそれかしらね……」
また明日から残務に追われることになるだろうが、それよりも前にお空をかまってやる必要があるかもしれない。
洋酒をあおり、鼻息が熱いのを自覚しながら、妹に問う。
「こいし、あなたは今日……楽しかった?」
「うん」
妹はまったく間を置かずに首肯した。その傍らに浮かぶ第三の眼は閉じられており、こうしてその笑顔を見ていても、妹の考えていることはわからない。
「お姉ちゃんも楽しかったんでしょ?」
「わたしは……」
妹のように即答はできなかった。酒が入ってるからか、少し思考にもやがかかっているような気分だ。
「わたしは、地底のみんながすき」
少し考えてから言った。
「今まではあまり、自覚してなかったの」
「そうなんだ」
「みんながすき。だから、この地底をもっと楽しい世界にしていこうって思って。今日はその第一歩としては申し分ないわ。充実しているの――すごく楽しかったわ」
気がつくと、妹の姿は既になかった。お燐やお空のところへ遊びに行ったのだろう。
ただ、さとりはもういない妹の声を聞いた気がした。そう思えるようになったなら、よかったね、お姉ちゃん。
ひとりやぐらに残されたさとりは、ゆっくりと立ち上がった。目を細めて、下の景色を眺める。
「そんな世界にしていけたら、みんなも、わたしのことを……」
すきになって、くれるのだろうか。
声にはできず、口の中だけでその言葉をとどめる。
「そんな簡単には行かないでしょう。妖怪はそんなに単純じゃないわ」
突然の、聞き覚えのある声に。
さとりは顔を跳ね上げていた。
水橋パルスィ。忘れようもないその妖怪が、やぐらの上に浮遊していた。
数ヶ月ぶりに見る彼女は、すこしやせたようだった。それでもくすんだ金髪に神経質そうなあごの輪郭は、まぎれもなく彼女のものだった。
脈絡もなく現れたパルスィは、なんの気もなさそうにさとりを見つめている。ひと季節前のあの騒動などなかったかのような顔だ――が、どことなく険が抜けた表情だ。カウンセリングの成果なのだろうか?
そんななんでもない顔がかがり火に照らされていて、緑色の瞳が、まるで宝石みたいに光を反射していた。
「どうして、わたしの言おうとしたことがわかったの?」
まず聞くべきはそんなことじゃないだろう、とさとりの内なる声が言う。
「よく同じようなことを考えるからかな。どうしたら、みんながわたしをすきになって
くれるんだろうって」
パルスィは自嘲するように笑った。
「どうしたら、わたしは嫉妬されるんだろうって」
あの猫が言っていた通りだ。覚でなくても、心は読める。パルスィの心に浮かんだそ
の言葉の意味を、さとりは図りかねた。
相手の気持ちを考えること。その究極が、心を読むということ。
他者への愛が成す業。
「さとり、わたしは今日、あなたに謝りにきた。忙しそうだったから、今くらいしかタ
イミングがなかった……でも、その前に聞きたいことがある」
パルスィはやぐらに降り立った。同じくらいの背丈でまっすぐに前を見据えれば、自然に目と目がぶつかりあう。
「あなたは何故、この世界で疎まれ嫌われながら、他者をすきでいられるの? 他者があなたをすきになってくれる保証なんてどこにもない。あなたのその強さの源は、いったい、なに?」
長いときを経て覚の愛は、覚以外の存在にとって受け入れられないものとなった。
善意を善意と信じることができなくなってしまった世界で、さとりたち地底の妖怪はずっと生きてきた。
さとりは、その静かに停滞した水面のような世界に、一石を投じたい。
「わたしは強くなんてない。妹やペットたちに支えられてようやく立っていられる……あの子たちの心を信じるように、わたしは地底のみんなの心を信じたいの」
「そんなことが、できるの?」
「わからないわ」
首を振って否定する。
「信じられないかもしれないけど。そういうものをこそ、わたしたち地底の妖怪は信じ
るべきなのよ」
「……わたしにはわからない。今は、まだ」
「大丈夫よ。それは時に軽んじられるけど、ほんとうは一番大切で、一番身近にある。笑ってしまうくらい単純な、そんなものの話なんだから」
「大切で、身近で、単純?」
「わたしの隣にいる、あなたがすき。そういう気持ちのこと」
ただ単純に、善意を善意と受け取りあえば。本当に簡単に世界は変わるだろう。
まずはそれをさとりが実践してみせる。家族――こいしやお燐、お空たち――に教わり、博麗霊夢に気づかされたことを、また別の誰かに伝えていく。
パルスィの緑色の目が涙にぬれていた。泣き出すほどに弱くはなかったとしても。
「あり……がとう、さとり……わたし、あなたにひどいことをたくさん言ったのに」
目頭を覆うパルスィの肩にそっと触れて、思う。
これが始まり。今日この時こそが新たな地底の歴史を刻んでいく瞬間。
眼下ではかがり火の数が増え、星の海が地に降り注いだかのような光景にさとりはため息をついた。
地上にいたころを思い出す。明日は臨時で休みをつくり、みんなで地上の星空を見に行こう。
わたしとこいし、お燐にお空。数え切れないほどのペットたち。そして、パルスィ。
きっと、楽しいことだろう。
読了感謝します。
思ったように話をまとめられず、予想以上に長くなってしまいました。すいません。
地霊殿って市役所みたいなもの? という妄想からこんなものができました。
改行がきれいに揃わないのが慙愧に耐えません(^^;
ご意見・ご感想お待ちしております。
2011年9月10日、名前が検索しにくいことに気づいたので改名しました。
エムアンドエム(M&M)思ったように話をまとめられず、予想以上に長くなってしまいました。すいません。
地霊殿って市役所みたいなもの? という妄想からこんなものができました。
改行がきれいに揃わないのが慙愧に耐えません(^^;
ご意見・ご感想お待ちしております。
2011年9月10日、名前が検索しにくいことに気づいたので改名しました。
妬ましい程の笑顔が浮かびますね
橋姫様はやっぱり独りでは無いようです
さとり様の優しさとお燐の健気さとお空のうにゅっぷりに泣いた、やっぱ地霊殿好きだわ。
心を読む、ってのは相手の気持を考える能力、かぁ。良いも悪いも受け止められる器が無きゃ耐えられるんわ。な、さとり。
どちらもとても面白かったです。今後も超期待
なんか寂れた都市の新たな再建みたいな雰囲気が好きです
アパートの一部にケリをくれるパルスィが好きです