※関連「晩夏」「秋香」「モダン・ロマンス、ロータス・ロマンス」
~それは春の名残、夏への羨望。あるいは春そのものであり、夏への妬み~
ふと、早苗は懐かしい匂いを嗅いだ。
それは彼女を無性に焦燥させ、切なくさせる。
「公園の、タイヤの匂い……?」
公園の片隅に半分埋まったタイヤの、陽に焦げたような匂い。
その匂いがいつの間にか懐かしくなってしまったという驚き、焦り。
まだ陽炎の揺れるような季節でもないのに彼女がその匂いを嗅いだのは、きっと他の何かが揺れているから。
まして幻想郷には早苗を懐かしくさせるような公園もタイヤもないはずである。
揺れるのは散った桜の下に春香る、懸想の人への取り留めない思い。
早苗は地面に散らばる花びらを掃きながら、緑をつけたエドヒガンの木を見上げた。
春のうららかな陽気に乗って早苗の鼻をくすぐった匂いは間違いなく懐かしい匂い。
その匂いが散った桜の香りと混ざって早苗を物思いに耽らせる。
――天が二人を別つまで?
だとして、いつか訪れるその時がどうしようもなく怖くなって、早苗はすぐにでも霊夢の元へ走り出したくなる。
その衝動を抑え込んで深呼吸すると、あの懐かしい匂いは更に近くなっていた。匂いを辿るようにして早苗は振り向く。
「諏訪子さま」
「やっほ。見た目より重いね、これ」
「これ……タイヤ、ですよね?」
「そうだね。川を流れているのを河童が拾ったらしくて、もらってみた」
諏訪子が自分の身体の半分もあるタイヤを両手にして早苗に歩み寄る。
「川ですか。どうしてまた、ここまで持ってきたのですか」
「なんとなくだけど、ほら、懐かしいじゃん」
「ふふ、そうですね」
「不思議なのがさ、川下から流れて来たんだって」
「川下から?」
「そう。きっと海に繋がってる、そっちの方から」
海という言葉に早苗は目を細めた。
藍色に満ち満ちた水面は幻想郷ではお目にかかる事が出来ない。
妙に懐かしく、また切なく――。
するとこのタイヤは海から流れてきたのだろうか。おかしかったが、山から流れてくるのはもっとおかしい。
考えながら、早苗はただその黒くただれたタイヤを眺める。
「おかしな話ですね」
「でもさ、早苗。例えば中に幼子の入った桃が流れて来たとして、大事なのって何処から流れて来たかじゃないでしょ?」
「それもそうです」
「うん。だからさ、このタイヤは多分外の世界から流れて来たんだけど、大事なのはそこじゃないよ」
そう言って諏訪子は微笑んだ。
「もし少しでも懐かしいって思ったのなら、早苗も年をとったねって事」
「…………もう」
「あはは、思惑通り、なんて」
「ふふっ、大事なのはそこですか?」
「ホントはそこじゃなくて、ここ」
そう言って諏訪子が地面を指さす。特に何かがあるわけではない、桜の木の下。
「ここにタイヤを埋めたら、花見の時の特等席になるよ。まー、来年だけどね」
「そうですね」
諏訪子につられるように早苗は桜の木を仰ぎ見た。
早苗の視界に薄墨色の花びらなどは見当たらない。代わりに花びらたちは彼女の足元で土に抱かれて色褪せている。当たり前の現実が早苗の足元で儚げに飛散した。
物憂げな早苗の気を引くように諏訪子がタイヤを放り投げて、それが着地すると同時に花びらと、小枝が跳ねた。
音に気がついて早苗が振り向く。
諏訪子は早苗の事を気にかけない素振りで、花をつけたまま落ちていた木の枝を拾った。
「瓢箪桜、ね。もっともこんなに小さなひょうたんじゃ、ろくろくお酒も入らないけれど」
片手で枝に付いた桜の花をはじきながら諏訪子が笑う。
指先にはひょうたんの形をした萼筒が揺れていた。
早苗は微笑みを返しながら、あるいは千年もの間地面に根を張る瓢箪桜が、エドヒガンが白々しく思えた。
どの花もその年その年は儚げに咲いて儚げに散るというのに。
早苗も桜の木の一生を見届けるほど生きてきたわけではない。
だが少なくとも人間の一生とは、木の一生に例えるよりも花の一生に例えた方が正しいと思っていた。
咲いても、いきなり風が吹いたら散ってしまって、雨が降れば散ってしまって……そんなあやふやさが。
「どうしたの早苗? ぼうっとしちゃって」
「え、いえ。なんでもないです。……ただ、海が懐かしくなってしまって」
思っていた事をそのまま口にする事は憚られて、早苗はそんな事を口にしていた。
「海ね。海かぁ」
「はい、海です」
「川下から水が流れるなんて信じられないけど、もしそうなら川の水は海の水なんだよね」
「ふふ、そうなりますね。でも川の水がしょっぱいだなんて」
「まぁ、おかしいよねぇ」
「おかしいですけど、繋がっている事には違いないんですよね、きっと」
早苗はその言葉を噛みしめるようにして口にした。
自分とあの人とを重ね合わせて。
そうしたら、自分と霊夢と、どちらが海で、どちらが川なのだろう。ぼんやり、そんな事を考える。
離れていても、心は繋がっていると信じて……いるけれど確信出来なくて。
「そうだね。川下に海があるんだろうっていうのは、違いない」
「素敵、ですよね。そういうのって」
「うん。あー、そうだ。ところで早苗。この後暇?」
諏訪子が思いついたように口を開く。彼女は言ってから、タイヤにひょいっと飛び乗った。
「えぇ。特にお仕事もありませんし……」
早苗の返事を聞いて諏訪子が満足そうに頬を緩める。そして少し高くなった目線で、早苗の心を見通すかのように微笑んだ。
「これも異変って事でさ、調査してきてよ――」
一
「異変と言ったって……。まるで私をからかうだけみたい」
無論、早苗も諏訪子がからかい半分で言っている事は理解していた。
残りの半分が気晴らしをして来い、という意味である事も。
かと言って早苗も何をすれば良いのか分からず、ただなんとなく川沿いを歩いていた。
もちろんしたい事が無いわけではない。
早苗だって霊夢の声を聞きたいだとか、その手に触れたいだとか、あの黒い髪を梳きたいだとか、口にも出せないような願望だっていくらでも抱いていた。
彼女もそれを自覚しているからこそ、自分から霊夢の元へ訪れるのが気恥かしかった。
気恥かしさに覆われた下に本当の気持ちがあるのは間違いなかったけれど、それに素直になる事が何よりも気恥かしい。
早苗は川沿いを進みながらも、一切川の水面を気に掛けていなかった事を思い出した。
仮にも異変調査なのだから、と自分に言い聞かせ、立ち止まり、しゃがむ。
彼女が矛盾だらけの気持ちで触れた川の水は、裏腹に何の矛盾も孕んでいなかった。
川の流れはただ冷たく、その掌を撫でていくだけだった。
早苗が眺めた水面が揺れていた。
陽炎のように揺れていたのは、単純な愛しさだった。
ただひたすらに愛おしかった。
急に早苗は、霊夢への想いが川を流れる花びらと一緒に藍色の海へ流れ出てしまう気がして、ビクリとしながら手を引いた。
たった今まで川の水を触っていた指先には、桜の花びらがまとわりついている。
早苗は自分のアイの在り処がしりたくなって、流れていく花びらを、なんとなく追いかけようと思った。
二
それは霊夢にとって珍しい事では無かった。
ふと哀しくなる。
理由は取り留めなかった。
彼女にとって思い当たる節はいくらでもあって、だけどその細やかな理由の一つ一つを並べてみる事は出来ない。
例えば台所で料理をする時、例えば縁側で洗濯物を干す時、そんな些細な時にふと哀しくなる。
里に出向いて、親に手を引かれる幼子を見て哀しくなる。
自分の手を引いてくれる手が側に無くて哀しくなる。
母親の事……それを覚えていないのは、それが幸せなのだろうか。
「そうよ、知らなくったって、平気だもの」
平気だと口にしても、紫に化粧の一つも出来ないの? からかわれて、ふと哀しくなる。
「別にお母さんでなくたって、化粧の一つや二つ、教えてもらう事ぐらい……」
言って水面を見下ろす。
花びらが流れていた。
川沿いをぼうっと歩く。
霊夢のまだ見ぬ海に繋がるその川は彼女に薄れる記憶の母を思わせた。
海を知らない彼女は母なる海だなんて言葉を知らない。それでも、なんとなく、が彼女を引き寄せた。
霊夢は首を振って、化粧、化粧と思い返す。
「……早苗くらいか。頼りになりそうなの」
前に早苗の部屋に上がった時、化粧道具があった事を思い出す。
早苗に、化粧を教わって、それで紫を見返してやって――霊夢はそんな事を考える。
けれどもそれは考えるだけで終わって、何も残さない。いつもそうだった。
頭の中では、心の中では母親に甘えられるし、早苗にだって素直になれる。
それがかえって霊夢を切なくさせる。
自分が素直じゃないと分かっていて、しかしどうしようもない。
水面に映った自分の顔が、霊夢にはとても惨めに見えた。
彼女はしゃがんで、水面の自分の顔をはたいてみた。
手に触れた水が冷たく、跳ねた飛沫が冷たいだけだった。
ただひたすらに哀しかった。
掌には花びらが張り付いていた。それをふぅっと吹き飛ばして、カナしさと一緒に花びらが流れていくのを見送って、歩き出す。
自分に正直になれずに、辿りつく事のない海を目指して。
三
早苗は結界がどんな物かよく考えた事も無かったが、しかし今彼女の耳に飛び込む音は、あるいは結界のように早苗の足を止めさせた。
「……泣き声?」
川のせせらぎと共に微かに聞こえるのは間違いなく泣き声。
彼女には、誰かの泣き声を聞くという事も久しぶりだったように思えた。
そもそも知り合いの泣き声だなんてそうそう聞けるものではなくて、ましてや大切な人のだなんて――。
「霊夢さん」
そして早苗は向こう岸に霊夢がしゃがみ込んでいるのを見た。木に寄りかかって、膝を抱えて、頭の上で揺れる大きなリボンが、余計に彼女を儚く見せて。
そして同時に、ここが実際に幻想郷と、あちらの世界を隔てる境界のすぐ近くであると勘付いた。
自分と霊夢の場所が、一番近くなるように、霊夢の正面まで歩いていく。
霊夢がハッと顔を上げる。
「……さ、早苗」
霊夢は袖を手の甲にかぶせて、それで目元をこすって、早苗から顔を背ける。
「あ、あの!」
神様が巡り合わせてくれた、という言葉がまさにその通りで、びっくりして、早苗は咄嗟に霊夢の背中に声を投げかけた。
返事がなくて、ハッとして、それでも顔は上げたままだった。
アイの在り処がここだと気がついた。だから目を背けなかった。
「私……私、ダメな子なんです。霊夢さんの事が好きで、好きで、たまらないのに、なのに霊夢さんの事なんて、殆ど知らなくて。今、どうして霊夢さんが悲しんでいるのか想像も出来なくて……」
勢いに任せて口を開いてしまうと、溢れ出る思いはいくらでもあった。
「いつか離れ離れになってしまったらイヤで、だから綺麗なガラス細工を扱うようにしか貴方に触れられなくて。ほんとはもっと、力強く、抱きしめたいし、それから、それから……」
口にしてから恥ずかしくなって、早苗はどうしたらいいのかも良く分からなくなった。
「ずっと心で繋がっていたいって、そんな事を思っていたって、実際そうじゃなかったって気がついて、だから……だから今から貴方を抱きしめに行きます!」
霊夢の悲しむ理由を知らない彼女が出来る事はそれくらいだった。
突飛な言葉だと、それは早苗自身にも分かっていた。しかし自分に正直になったら、それ以外に出来る事は無かった。
川の流れは緩やかだった。光を反射する水面から川底が透けて見える。
早苗はスカートをたくしあげながら、川に足を入れる。海へと続く川の流れががひんやりとふくらはぎを撫でていく。
愛しいという想いが、滲み出ていくようだった。
四
じゃぶじゃぶという水の音を聞いて霊夢は顔を上げた。
「ちょ、ちょっと、早苗、何やってるの」
「い、言ったじゃないですか、それは……」
口ごもってしまう早苗を不思議に思いながら、しかし足を止めようとしない早苗を見て、霊夢も立ち上がらずにはいられなかった。
誰にも見つからない場所――だからこの場所が好きで、時折来ては涙を流した。
それなのに、泣き腫らした顔を早苗に見られるのは苦しくなかった。
「早苗、私……私」
霊夢が弱々しく川に足を踏み入れる。ひざ下で揺れる水面に、桜の花が踊っていた。
「あ、あの、私……」
そこで口ごもって、一度俯く。水面に映った顔が赤いのは、泣き腫らしたせいだけではなかった。
霊夢が意を決して、目をつぶる。
「私、もっとアンタに甘えたい! 甘えたいし、知りたい事だって、沢山ある。だから、もっと近くに……アンタを……」
今まで心の中に閉まっていた事も、全部早苗にぶつけてしまいたいとそう思った時、霊夢は心がすっと軽くなるのを感じた。
水が冷たいということがいやにはっきりと感じられて、目を瞑っているのに目の前に早苗が迫っているのを強く感じて、そうすると哀しさが川の流れにさらわれていく錯覚がした。
だから迂闊に水底の岩に足を取られて、水流に足を取られても怖くはなかった。
躓いて、目の前に手を伸ばして、その手が暖かい感触を感じ取って、身体を早苗に預けるのは怖くなかった。
~愛と哀、相容れないその色は藍。あるいはアイでいっぱいの海~
お互いが感じる熱は間違いなくお互いの体温で、それを自覚すると早苗も霊夢も頬が赤くなるのを防ぐ事が出来なかった。
川の中腹で、穏やかな川の流れに包まれて二人は抱き合っていた。
決して初めての事ではなかった。それでも、今までのいつよりも、お互いを近くに感じていた。
「……私、霊夢さんの全てが知りたい。悲しい事、嬉しい事、嫌な事、好きな事、それから」
早苗がそっと、霊夢の耳元で囁いた。吐息がそよ風のように柔らかく、霊夢の耳をくすぐった。
「私の事、どう思って下さっているのかだって、聞きたくなっちゃうんです」
「…………馬鹿」
「ふふ、酷い」
「ち、違うわよ、そういう意味じゃなくて」
消え入りそうな声は、早苗の耳にしか届かなかった。二人だけの世界がそこにあって、二人だけの空間には二人しかいない。
「…………好き、大好き、愛してる、愛してるから、愛してるからずっと側にいて。私を離さないで」
「頼まれたって離してあげません」
早苗がギュッと、腕に力を込める。霊夢がほんの少しだけ苦しそうに吐息を漏らして、負けじと早苗を抱きしめる。
「…………好きって、早苗に好きって、初めて言った」
そして霊夢がか細く、本当に小さな声で囁いた。
「あら、そうでしたっけ?」
「そうよ」
「ふふふ、おかしいですね。いつも私は、聞いていた気になっていました」
「な、なによそれ」
「文字通り、です」
「ま、間違っちゃいないけど。……というか、なんで私たち、こんなに必死になっちゃてんの? 馬鹿みたいよね、なんか……」
「……さぁ? でもたぶん、こうするべき、だったんですよ」
「分かんないよ」
そう口にした霊夢は、素直になるのも悪くない気がしていた。そしてそれは早苗も同じ。
「……ずっと一緒です。それこそ、死が二人を別つまで」
「きっとね」
死が二人を別つまで……早苗にはその時がいつ来ようと、それは些細な事でしかないように思えた。
――でもさ、早苗。例えば中に幼子の入った桃が流れて来たとして、大事なのって何処から流れて来たかじゃないでしょ?
諏訪子の言葉を思い出す。
その通りだと思った。
まだ僅かに木に残っていた桜のはなびらが二人に降りかかる。
霊夢の頬に張り付いた花びらを見て、早苗がクスリと笑った。
「ほっぺに付いた…………って笑わないでよ……もう」
霊夢が首を振りながら言う。それを見て、思いついたように早苗が悪戯っぽく微笑む。
「ちょっとじっとしてください」
言うと早苗は桜の花びらをまとった霊夢の頬に、唇を這わせる。
「く、くすぐったいって、馬鹿」
霊夢は言いながらも、早苗を抱きしめる腕を緩めようとはしなかった。
早苗が顔を離す。霊夢は早苗の小さな舌の先に白い花びらが乗っているのを見て、顔を真っ赤にした。それでもなお、早苗の瞳を見つめたまま。
霊夢に見つめられたまま、早苗はふと、懐かしい匂いを嗅いだ。
それらはそこかしこから漂う散ったはずの桜の香りと、霊夢の髪の香りと一緒に早苗の鼻腔をくすぐった。
「この匂い……」
「へ、変な匂い、私からする?」
「ふふ、違います。そうじゃなくって……」
ふと、早苗は懐かしい匂いを嗅いだ。
その匂いは川下から流れて来た。
それは恐らく海の方から、藍色の海の方から――。
何の匂いでもない。懐かしい匂い、が。
「そう、じゃなくて……?」
霊夢が首を傾げるのを見てから、早苗はその匂いを胸一杯に吸い込んだ。
「良い匂いだな、って」
早苗は呟いて、霊夢に微笑みかけた。
川の流れはとどまらずに二人のアイとカナしみを攫って行った。
海ではそれらが混ざらなくても寄り添って、満たされる水面の色は藍色に違いない。
俺だったら恥ずかしくて悶え狂ってるぜ!
前三作も含めて何度も読んでます。そしてそのたびに悶えてます。
「あるいはアイでいっぱいの海」
印象に残るタイトルなのです。
思いだして読み返して、今度は忘れないようにしますね。