人里離れた人気のない道。明かりといえば欠けた月の光だけの夜を一人の男が歩いてた。仕事というわけでもなく、単なる散歩である。
彼は人里からあまり出たことがなく、里の外がどうなってるのか気になっていた。昼間は仕事もあるので使える時間は夜くらいなもの。妖怪が出るから危ないと知ってはいるが、襲われたという話もぜんぜん聞かないので大した事ないのだろうと思っている。
そんな男を夜空から見下ろす一人の妖怪がいた。ご機嫌そうな鼻歌を歌う夜雀――ミスティア・ローレライが、
「おいしそうな男性(ひと)ね……。肉つきはよくないけど皮はよさそうね」
と今日の獲物のことを見つめてつぶやく。
自分のことが人間たちにも知られてきたようで、最近ご馳走らしいご馳走にありつけなかった。それもあってか今日は一段と張り切って息を吸う。
私の歌が聞こえますか? 私の声が聞こえますか?
あなたを誘うこの歌声が。
あなたの姿が見えるのよ あなたの声が聞こえるのよ
恐怖におびえるこの声が
男が足を止めた。聞こえる歌がどこから聞こえてくるのか気になったのか、回りをキョロキョロと見渡す。
声は聞こえども姿はない。そんな奇妙なことがあるのだろうか。
そしていつの間にやら月の明かりが弱くなっていき、自分の今歩いてきた道もよく見えなくなっている。だが、男は気がつかずに歌に聞き入りながら声の主を探す。
(うふふ、聞いてる効いてる)
ミスティアは歌で相手を惑わし、人を鳥目にする能力を持っている。その能力の効いている隙に人間を襲う。
こんなにもうまくいったのは久しぶりなんじゃないか、と忘れっぽい頭でミスティアは思った。最後に人間を襲ったこともよく覚えてないし、失敗したときのことなんてなおさらである。
彼の視覚がだんだんとなくなっていくのを陽気に歌いながら眺めるミスティア。彼は歌に気を取られていて、鳥目になっているのに気付かない。
(なんか可愛いわね)
と思いつつ彼にそっとそっと近づいていく。
気付かないかしら? ゆっくり近づく私の声が……
あなたが欲しいのよ その体、心もすべて私のものに
あなたは私のものに
(いい子ね。そうそう、私の歌を聴いていて……)
背後までやってきて、鋭い爪構える。十六夜月の明かりが爪先を怪しく光らせた。
歌以外の音を出さないようにゆっくりと、じっくりと彼に近づく。あなたに触れられる距離まであと三歩、二歩……一歩。
そして彼に抱きつくようにして、その爪を首に引っ掛けようとしたときに、
――綺麗な歌声だな。どんな子なんだろう?
「えっ……?」
彼の緊張感のない声が聞こえたかと思うと、間抜けな声を出してミスティアは歌と手を止めた。思わず能力も解除してしまい、彼の視界はぱっと元に戻った。月明かりが二人を照らすが、彼はまだ首もとの爪に気がついていない。
失敗だと思ってささっと逃げ出すミスティア。振り向きもせずに一目散に森を目指す。
羽ばたく音で彼が振り向いた後には、一羽の雀が飛んでいる影と自分が通ってきた道しか見えなかった。
「危なかったぁ」
さっきの場所から遠く離れた森の木の上までやってくると、ようやく安堵の声を出す。そして太い木の枝に座ってまた一息。
「綺麗な歌声……か」
さっきの獲物――彼に言われた一言を思い出す。その言葉に思わず手を止めたその理由を考えてみる。
「そんなこと言われたことなかったもんなぁ」
太ももにほほ杖をついてまたため息。
自分の歌は妖怪の中では評判はよくない。自分の能力が妖怪には効きづらいというのもあるが、古参の妖怪から言わせれば「最近の歌は雑音みたいだ」とか「何を言ってるのか分からない」という感想らしい。
別に古参妖怪の好きそうな曲も嫌いじゃないし、結構歌ったりする。屋台とかやってるときはそのほうが雰囲気が出るからそういう選曲をしたりもする。
それでも最近の曲や外の世界で流行った曲のほうが自分には向いてるし、そっちのほうが好みだ。相手を惑わしたり、鳥目にするときもそういう曲にする。
まあ、襲われてる側からすれば選曲や、歌のうまいヘタクソ、声の良し悪しなんてどうでもいいんだけどね。と思って一人で苦笑い。
だから自分の歌を良いと思ってくれたのはうれしかった。自分の歌を褒めてくれた妖怪なんて数えるぐらいだし、人間なんてそういう感想を持ったかも分からない。
「襲おうとした相手なのにね、うれしいとか思っちゃうなんて」
それでも褒めてくれたからといってお礼も言えず、代わりになにかできるわけでもない。命を助けてあげたらそれじゃ自分の空腹が満たされない。
「感想でおなかが膨れればなぁ……、そんな種族のほうがよかったのかな。あ~、それだとなおさら空腹かな。褒めてくれないし」
また大きなため息をつく。
「私の歌、褒めてくれた人なんて初めてだし、すっごくおいしいんだろうなぁ……」
おなかが空いてるのか、食事のことを考え出した。
「今度はおいしくいただきたいなぁ」
と言うと立ち上がって自分の住処に戻ろうとする。この時間だともうご馳走にありつくのは難しそうだ。普段どおりの食事にして、今夜も屋台をやろう。
大きく伸びをしてから、翼を広げて月夜に飛び立つ。そしてまた歌を口ずさむ。ハミングから始まり、自分の体を風に乗せると歌詞が始まる。
暗い月夜に 私はただ歌うの
あなたへの想いを 届かぬ思いをこの歌に乗せて
あなたは見えない 私の姿は見えない
でも歌だけ そう 歌だけを あなたに歌だけを聞いててほしい
何もしないで ただ耳をすましていて
私の歌声 それだけを聞いててほしい
あまり口にしない歌詞にふと思った。
(そっか、好きになっちゃったんだね。人間なのに……、襲おうとした相手なのにね)
「女将? どうしたい?」
「えっ? ああ、ごめんなさい。ちょっとボケーっとしちゃって」
八目鰻の屋台。人間が寄り付かないような場所でやってる屋台には当然、妖怪ばかりが集まる。今日も常連の人食い妖怪が、人の肉ではなく酒の肴に鰻を食べに来た。そして明日になったら忘れてしまいそうな話をする。
だが、今日のミスティアは忘れる以前に話が殆ど頭に入ってきてない。
「女将が歌も歌わずにボケーっとしてるとは珍しい。考え事かい?」
「……そんなところ」
いつもなら頼んでもない歌を歌い続けているミスティア。断れないサービスが今日はなく、常連の妖怪が違和感を感じている。
「こんばんは。今日も一杯呑みに来たんだが、いつもの歌がなくて探したぜ」
他の常連の妖怪がやってきた。この妖怪は耳がよく、いつも歌で屋台を探しているらしい。
「ごめんなさい、今更だけだけど歌おうかしら」
「『宵闇雀(よいやみじゃく)』を一杯」
ミスティアはにっこりと笑ってうなずくと、お酒を注ぎながら静かなメロディを口ずさむ。コップを渡すと、淋しそうな、それでも空を舞う鳥のような強いサビに入る。相手を強く思う歌詞と声に、常連の妖怪は話もせずに黙って聞いていた。
「今日の女将の歌、いつもと違うねぇ」
「そう?」
「いつもはご機嫌でトンチンカンな歌詞なのに、今日のはすっごく気持ちが伝わってくる」
お酒を受け取った耳のいい妖怪は観想を言うとようやくコップに口をつける。
「トンチンカンってなによ」
「ははは、でも今日の女将の歌、綺麗だったぜ」
綺麗……。そう言われてあのときの言葉を思い出す。
――綺麗な歌声だな。
(常連さんに言われるのもいいけど、あの人にもう一回言われたいかな)
一瞬だったあの瞬間。思い返すは永遠。あのときから何度も何度もリピートしてるあの言葉、今の自分だったらもう一回言ってもらえる。そんな気がした。
「女将ー、そろそろひっくり返さないと片方だけコゲコゲだぜ」
人食い妖怪のほうに言われてハッと現実に戻る。思い返す永遠もいいけど、時間は待ってくれないから一瞬を生きないといけない。今、売り物を焦がすともったいないからこれはどうにかしないといけない。
「あっと、ごめんなさい」
「女将もしかして……恋でもしちゃったかい?」
「おー、マジマジ? どんなヤツ?」
耳のいい妖怪は勘もいいのか。ミスティアは首を横に振るも、人食い妖怪のほうはそれでも聞いてくる。
「またまたぁ、女将は照れ屋なんだから」
でも、自分の恋した相手を言うことはできない。
自分やこの妖怪からすれば、相手は食料になる存在なのだから。そんなことを言ったら変に思われてしまう。
やっぱりこの恋はおかしいのか。ミスティアの悩みとは関係なく、月は傾いていく。
屋台をやりながらどうしたら彼に歌を聞いてもらえるだろう、どうしたら彼を自分のものにできるだろうと考えてみた。
これが妖怪同士、人間同士だったらもっと素直に答えがでたのかもしれない。同じ種族ならお互いを伝え合う方法があるから。でも、人間と妖怪ではその方法に差がある。人間と妖怪の関係というのは、襲われ退治される関係。本来は相容れぬ存在だ。
どちらかが特別な存在ならよかったかもしれない。人間寄りの妖怪、妖怪寄りの人間、そんなのも稀にいるというのを聞いたことがある。そんな存在になりたいと思ってはため息をつく。
そうして数日が過ぎて、月が半分しか見えない夜。再び彼を見つけたのだ。そのときにこう思ったのだ。
襲ってしまおう。
一方的でも彼を手に入れるにはそれが手っ取り早い。ずっと考えてたことだけど、自分は妖怪で彼は人間。妖怪が人間を襲うなんて当然。それは自分や彼が生まれる前から当たりまえだったこと。
私は何を悩んでいたんだろう。平和的に恋をしようなんて思っていたのがいけなかったのだ。妖怪なら妖怪らしくすればよかったのだ。
彼のよく見える範囲まで近づくと、またご機嫌な歌を歌う。
私の歌が聞こえますか? 私の声が聞こえますか?
あなたを誘うこの歌声が。
あなたの姿が見えるのよ あなたの声が聞こえるのよ
恐怖におびえるこの声が
歌が聞こえたのか、彼は足を止めた。視界がだんだん悪くなってきているようで、目をこすっては周りを見渡す。
(見えなくなってきてるでしょう? いいのよ……)
かなり視界が奪われてるようで、彼は一歩も動けずにいる。恐怖で顔色も悪くなってきている。そんな彼にミスティアは正面から近づいていく。それでももう見えないのだ。
(そうそう、私の歌だけ、歌だけを聞いていて……)
気付かないかしら? ゆっくり近づく私の声が……
あなたが欲しいのよ その体、心もすべて私のものに
あなたは私のものに
この世であなただけに上げられる暗闇。私とあなただけの空間。
あなたは私が見えなくてもいい、私があなたを見てるから。
あなたは私の歌だけを聞いていて、私はあなただけに歌うから。
両手で彼のほほに触れた。ここまで近づけばさすがに見えるだろう。彼はきょとんとした顔になった。
でもやっぱり自分を見てほしかった。
「やっと見てくれた。当然よね、私が見えなくしてたんですから……」
声の主が、暗闇を作っていた相手がこんな女の子だったとは思ってなかったのか、自分が今襲われているということが分からないようか顔をしてる。
「おいしそうな顔……大好きよ」
と二人だけの暗闇でつぶやくと、彼の顔は赤くなった。よく焼けた肉のように可愛く、おいしそうだった。
目を閉じて、唇をいただこうとしようとした残り数センチ。
後ろから殺気。
彼から離れて空中へ上がると、ミスティアのいたところを一閃。
「お前、大丈夫か!?」
殺気の正体は人里にいる半獣。
能力の聞かない状態での戦いはどうあってもこちらが不利。ここは逃げるしかないと判断し、追撃のレーザーをよけつつ森のほうへ飛ぶ。
次の晩のミスティアは不機嫌だった。
どうにもうまくいかない。邪魔をしてきた白沢が憎い。あいつも妖怪なのにどうして人間を守ろうとするのだろうか。人間を食べたいとは思わないのだろうか。そんなことを考えていたら腹が立ってきたのだ。
これが別の人間を襲おうとしたのなら、次の日も引きずらずに忘れたのだろう。襲ったのが、あの自分の歌を褒めてくれた男性(ひと)だったからこんなことを考えてしまうのだ。人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて地獄に落ちろ、という言葉を知らないのだろうか。恋路と言っても片思いだけど。
とにかく別のことを考えよう。いやなことを考えてるからいけないのだ。そう思って自分のレパートリーの中でも明るくて、歌っててもっとも気持ちがいい曲だ。
思いっきり息を吸っていつもより大きな声ではじめる。
最近歌ってる歌とは比べられないほどトンチンカンな歌詞とメロディ。ミスティア自信はすごく気に入っているが、他の妖怪からはかなり不評。屋台の売り上げにも影響が出るほどなので、こういうときじゃないと歌わなくなってしまった。
そんな歌を歌いつついつもの夜空を散歩する。あの人間は当然いない。……が人影を見つけた。
あの人以上にやせた男。どこを見てるのか分からないような目で、ふらふらとおぼつかない足取りで人里とは逆の方向に歩いている。それだけでもおかしいが、男の服装もおかしなものでここじゃまったく見ないような変な格好をしている。
「食べてもよさそうなの発見。腹ごしらえにはちょうどいいわ」
里の外にいる人間は食べてもよい。ただし、逆に退治されても文句は言わない。そんな決まりがここにはある。この時間に出かけるような人間は用心棒が付いてたり、人間らしからぬ強さを持ってたり、スペルカードルールにのっとって戦えるものかのどれかである。なのでミスティアのような実力に自信のない妖怪はこのような人間を襲うのだ。
その中でも特に襲いやすい例がこの男――外の世界から迷い込んできた人間である。
襲い易い上に、肉つきがよかったり、皮が柔らかかったりと人食い妖怪の中ではまさに鴨という表現がふさわしい相手である。ミスティアはこの『鴨』という表現が嫌いであるが。
ミスティアは早速ターゲットに人間を惑わし、鳥目にするときの曲を歌いだす。そのときの状況や行動に合わせて曲を変えるのがミスティアのこだわりだが、相手としてはそんなことを気にすることはできない。
その歌声に男はびくりと反応して、周りを見渡す。妖術の類に対する抵抗が弱いのか、すでに視界はかなり奪われてるようだ。『見えない』恐怖に脚は笑い出し、無意識に後ずさりしようとし、足元の小石につまずいてしりもちをついた。
(今日は邪魔もなさそうだし、簡単ね)
混乱する男の後ろにミスティアはゆっくりと降りた。男が立ち上がろうとしたとき、その首に手が回り、その喉に月光で綺麗に光る爪を立てる。
爪が光を反射しない紅い雨に濡れる。男はその紅い雨を口と喉から降らせて、暗闇を彩った。声になれない音と紅い雨音がしばらくして止み、男が水溜りに倒れる。
「そう……ホントは何も言わない。ただ、食われるだけなのよ」
雨に降られた物言わぬ男を見下ろしてつぶやく。
やっぱりあの男性が特別なのだ。襲われ、食べられるだけの人間が自分の歌を聴いてくれるわけがない。ましてや『いい声』なんて感想を持ったり、言ったりするなんて考えられない。
「さて、あの人じゃないけど……いただきます」
邪魔な服を裂いてまずは腕から。肉はやっぱり少ないが、皮はそこそこいけると思った。血行が悪いのか血はあまり飲めたものではない。骨も柔らかくてちょっと歯を立てただけで折れてしまった。
おかげで内を出すのは楽だったが、そこもあまりおいしくはない。どんな食生活をしてたらこんなにまずくなるのか、ミスティアには考えられない。
上の方は残して、もも肉へ。こちらは油が乗っててそこそこ。ダイエット中の妖怪には好まれないだろう。ルーミアは好きそうだからおすそ分けしようと思ったけど、どこにいるのか分からない。
「ごちそうさま……。残りは他の妖怪か野良犬にでもあげるわ」
と感情のない声で言い残し、雨の降った場所から飛び立つ。夜雀の羽が舞い落ち、紅く染まった。
「やっぱり、あの男性のほうがおいしそうだわ。こんなにまずいんじゃ、おなかは膨れないわ」
と一人で愚痴るとまたご機嫌な歌を歌いだす。また逢えるか分からない相手を想いながら。
押しても駄目なら引いてみろ。という言葉を思い出した。
いきなり襲おうとしたからいけないのだ。あの状況に持っていったとしても、はたから見れば自分たちは丸見えなのだ。だから妨害を受けた。里の人間だから前の男みたいにはいかないだろう。
今度は誘い込んで、妨害の入らない場所で襲おう。林の中なら元から暗く、鳥目じゃなくても見つかりにくいはずだ。
それを思いついたその日には彼を再び見つけることができた。本当にどうして、明かりも持たずにこんな夜を出歩くのだろうか、不思議に思うけど自分としては好都合である。これほど襲いやすい相手はいない。
今度こそと気合を入れて歌を歌いだす。今度はかすかに聞こえる場所から、徐々に自分のほうにおびき寄せるのだ。まだ鳥目にはせず、こちらに歩かせるのだ。
彼は足を止めるとまた回りを見渡す。今度はよく見えるはずだ。ミスティアのいる方に歩いてくる。
(そうそう……来て、私のところに)
彼との距離を維持しつつ、林に入る。彼も自分を追いかけて林に入ってくる。
明かりも持たずに、怖がりもせずに自分を探しに来てくれる彼。能力を使わなくても視界は悪い中、二人きりの鬼ごっこが始まった。
好きな人が自分を探してくれている。それだけでうれしかった。
(あせらなくて良いのよ。ね、私はここよ)
彼はたまに足を止めて声を探す。そういう時はミスティアが近づいて場所を教えるのだ。それに気付いて自分のところに歩いてくるとまた距離を離しておびき寄せる。
この鬼ごっこもずっと続けはいいかなと思う。鬼に捕まらないとゲームは終わらない。なら今宵はこれで楽しむのも一興。でもそれじゃ自分の空腹や気持ちが満たされない。
彼に触れたい触れられたい、その柔らかな肌をいただきたい、彼にもっと歌を褒めてほしい。いろいろな気持ちがミスティアの気持ちを高揚させる。
それでもあせらずに林の奥まで、奥まで誘って。そして一晩かけてじっくり味わうのだ。そう、あとちょっと。月明かりが届かなくなるほど暗い場所まで、あとちょっと。
(もう少し、もう少ししたらやさしい暗闇をあげる……。そうしたらあなたは私のもの)
彼が再び足を止めた。自分の歌声を見失ったようだ。ミスティアが歌いながら距離を縮めるが、彼は違う方向に歩き出した。
「違うっ! そっちは!」
ミスティアが歌を止めて叫ぶが、彼の姿はすでになかった。
物語のような崖。足元があると思って歩いていると、急にそんな場所がある。彼は歌声を見失って、自分の居場所も分からなくなって、戸惑いながら歩いて、そこから落ちたのだ。
ミスティアがやってくると、彼は気持ちよさそうに眠っているような顔をして倒れていた。頭からは血を流し、脚や腕が曲がらないはずの方向に曲がっている。
まるで作り話だ。彼もそんなことを自嘲しながら考えていたのだろう。彼はそうして笑っていたが、ミスティアは世界の滅びでも見てるような顔で彼を見ている。
「いや……、人間ってどうしてこんなに脆いの?」
彼の体を揺らすが、彼が自ら動く感じはしない。その顔も、流れている血も、おいしそうなものには見えなくなっていた。
妖怪は、妖怪が手をかけていない人間を食べることはしない。妖怪に教われてない死体を集める妖怪もいるが、それは食料にするためではない。妖怪を恐れる人間ほど妖怪にとっては美味なものである。だが妖怪を恐れない人間や、すでに魂のない人間はまったく味がしない。
そんなことも今のミスティアにはどうでもいいこと。自分のほしかったものがくだらない理由でなくなってしまったことばかり考えている。物言わぬ体にそれを聞いて答えを求める。
「ねえ、私の歌どうだった? 綺麗だった? そうだよね、誘われてへんなところに来ちゃうぐらいだもんね」
彼の体を強く、壊れるぐらいに抱きしめる。少し骨が折れた気がするが、もうすでに俺かけていた箇所だろう。普段は食欲をそそるその音も今は苦虫でしかない。
「やっと私のものになったと思ったのに……。ねえ、これじゃおいしくないじゃない」
こんなはずではなかった。本当なら今頃二人だけの暗闇で彼を手に入れているはずだった。さっきまであんなにもおいしそうだった彼、今はまったく魅力を感じない。
そしてなきだした。
さっきまで聞こえていた夜雀の陽気な歌はそこにはなく、歌とも声ともいえないなき声だけが林に響く。
少し月が傾いた。
なき疲れたミスティアと、冷たくなった彼を淡い月光が照らす。ミスティアが目を開けても目の前には自分の望まない姿になった彼。青白い顔は気持ちよさそうにしているが、それは自分の歌を聞いて笑っているのではない。
なら自分が歌えば、その歌で笑ってくれてることになるだろうか。ずっと歌い続けていればずっと笑っててくれる。ならそうしよう。
「聞いて、あなたのためだけに歌うから……」
彼を抱きかかえて、冷たいほほにキス。自慢の羽で夜空へ舞い上がる。今日も『真夜中のコーラスマスター』のコンサートが始まる。今日は特別公演だ。
今宵も夜雀の歌声が聞こえる。
いつもは陽気で、人間を魅了し、視界をなくすその歌声。
だが、今日は悲しく夜空に響き渡っていた。
暗い月夜に 私はただ歌うの
あなたへの想いを 届かぬ思いをこの歌に乗せて
あなたは見えない 私の姿は見えない
でも歌だけ そう 歌だけを あなたに歌だけを聞いててほしい
何もしないで ただ耳をすましていて
私の歌声 それだけを聞いててほしい
暗闇の中で 私は歌うから
あなたは聞いてて あなたを想うこの歌を
彼は人里からあまり出たことがなく、里の外がどうなってるのか気になっていた。昼間は仕事もあるので使える時間は夜くらいなもの。妖怪が出るから危ないと知ってはいるが、襲われたという話もぜんぜん聞かないので大した事ないのだろうと思っている。
そんな男を夜空から見下ろす一人の妖怪がいた。ご機嫌そうな鼻歌を歌う夜雀――ミスティア・ローレライが、
「おいしそうな男性(ひと)ね……。肉つきはよくないけど皮はよさそうね」
と今日の獲物のことを見つめてつぶやく。
自分のことが人間たちにも知られてきたようで、最近ご馳走らしいご馳走にありつけなかった。それもあってか今日は一段と張り切って息を吸う。
私の歌が聞こえますか? 私の声が聞こえますか?
あなたを誘うこの歌声が。
あなたの姿が見えるのよ あなたの声が聞こえるのよ
恐怖におびえるこの声が
男が足を止めた。聞こえる歌がどこから聞こえてくるのか気になったのか、回りをキョロキョロと見渡す。
声は聞こえども姿はない。そんな奇妙なことがあるのだろうか。
そしていつの間にやら月の明かりが弱くなっていき、自分の今歩いてきた道もよく見えなくなっている。だが、男は気がつかずに歌に聞き入りながら声の主を探す。
(うふふ、聞いてる効いてる)
ミスティアは歌で相手を惑わし、人を鳥目にする能力を持っている。その能力の効いている隙に人間を襲う。
こんなにもうまくいったのは久しぶりなんじゃないか、と忘れっぽい頭でミスティアは思った。最後に人間を襲ったこともよく覚えてないし、失敗したときのことなんてなおさらである。
彼の視覚がだんだんとなくなっていくのを陽気に歌いながら眺めるミスティア。彼は歌に気を取られていて、鳥目になっているのに気付かない。
(なんか可愛いわね)
と思いつつ彼にそっとそっと近づいていく。
気付かないかしら? ゆっくり近づく私の声が……
あなたが欲しいのよ その体、心もすべて私のものに
あなたは私のものに
(いい子ね。そうそう、私の歌を聴いていて……)
背後までやってきて、鋭い爪構える。十六夜月の明かりが爪先を怪しく光らせた。
歌以外の音を出さないようにゆっくりと、じっくりと彼に近づく。あなたに触れられる距離まであと三歩、二歩……一歩。
そして彼に抱きつくようにして、その爪を首に引っ掛けようとしたときに、
――綺麗な歌声だな。どんな子なんだろう?
「えっ……?」
彼の緊張感のない声が聞こえたかと思うと、間抜けな声を出してミスティアは歌と手を止めた。思わず能力も解除してしまい、彼の視界はぱっと元に戻った。月明かりが二人を照らすが、彼はまだ首もとの爪に気がついていない。
失敗だと思ってささっと逃げ出すミスティア。振り向きもせずに一目散に森を目指す。
羽ばたく音で彼が振り向いた後には、一羽の雀が飛んでいる影と自分が通ってきた道しか見えなかった。
「危なかったぁ」
さっきの場所から遠く離れた森の木の上までやってくると、ようやく安堵の声を出す。そして太い木の枝に座ってまた一息。
「綺麗な歌声……か」
さっきの獲物――彼に言われた一言を思い出す。その言葉に思わず手を止めたその理由を考えてみる。
「そんなこと言われたことなかったもんなぁ」
太ももにほほ杖をついてまたため息。
自分の歌は妖怪の中では評判はよくない。自分の能力が妖怪には効きづらいというのもあるが、古参の妖怪から言わせれば「最近の歌は雑音みたいだ」とか「何を言ってるのか分からない」という感想らしい。
別に古参妖怪の好きそうな曲も嫌いじゃないし、結構歌ったりする。屋台とかやってるときはそのほうが雰囲気が出るからそういう選曲をしたりもする。
それでも最近の曲や外の世界で流行った曲のほうが自分には向いてるし、そっちのほうが好みだ。相手を惑わしたり、鳥目にするときもそういう曲にする。
まあ、襲われてる側からすれば選曲や、歌のうまいヘタクソ、声の良し悪しなんてどうでもいいんだけどね。と思って一人で苦笑い。
だから自分の歌を良いと思ってくれたのはうれしかった。自分の歌を褒めてくれた妖怪なんて数えるぐらいだし、人間なんてそういう感想を持ったかも分からない。
「襲おうとした相手なのにね、うれしいとか思っちゃうなんて」
それでも褒めてくれたからといってお礼も言えず、代わりになにかできるわけでもない。命を助けてあげたらそれじゃ自分の空腹が満たされない。
「感想でおなかが膨れればなぁ……、そんな種族のほうがよかったのかな。あ~、それだとなおさら空腹かな。褒めてくれないし」
また大きなため息をつく。
「私の歌、褒めてくれた人なんて初めてだし、すっごくおいしいんだろうなぁ……」
おなかが空いてるのか、食事のことを考え出した。
「今度はおいしくいただきたいなぁ」
と言うと立ち上がって自分の住処に戻ろうとする。この時間だともうご馳走にありつくのは難しそうだ。普段どおりの食事にして、今夜も屋台をやろう。
大きく伸びをしてから、翼を広げて月夜に飛び立つ。そしてまた歌を口ずさむ。ハミングから始まり、自分の体を風に乗せると歌詞が始まる。
暗い月夜に 私はただ歌うの
あなたへの想いを 届かぬ思いをこの歌に乗せて
あなたは見えない 私の姿は見えない
でも歌だけ そう 歌だけを あなたに歌だけを聞いててほしい
何もしないで ただ耳をすましていて
私の歌声 それだけを聞いててほしい
あまり口にしない歌詞にふと思った。
(そっか、好きになっちゃったんだね。人間なのに……、襲おうとした相手なのにね)
「女将? どうしたい?」
「えっ? ああ、ごめんなさい。ちょっとボケーっとしちゃって」
八目鰻の屋台。人間が寄り付かないような場所でやってる屋台には当然、妖怪ばかりが集まる。今日も常連の人食い妖怪が、人の肉ではなく酒の肴に鰻を食べに来た。そして明日になったら忘れてしまいそうな話をする。
だが、今日のミスティアは忘れる以前に話が殆ど頭に入ってきてない。
「女将が歌も歌わずにボケーっとしてるとは珍しい。考え事かい?」
「……そんなところ」
いつもなら頼んでもない歌を歌い続けているミスティア。断れないサービスが今日はなく、常連の妖怪が違和感を感じている。
「こんばんは。今日も一杯呑みに来たんだが、いつもの歌がなくて探したぜ」
他の常連の妖怪がやってきた。この妖怪は耳がよく、いつも歌で屋台を探しているらしい。
「ごめんなさい、今更だけだけど歌おうかしら」
「『宵闇雀(よいやみじゃく)』を一杯」
ミスティアはにっこりと笑ってうなずくと、お酒を注ぎながら静かなメロディを口ずさむ。コップを渡すと、淋しそうな、それでも空を舞う鳥のような強いサビに入る。相手を強く思う歌詞と声に、常連の妖怪は話もせずに黙って聞いていた。
「今日の女将の歌、いつもと違うねぇ」
「そう?」
「いつもはご機嫌でトンチンカンな歌詞なのに、今日のはすっごく気持ちが伝わってくる」
お酒を受け取った耳のいい妖怪は観想を言うとようやくコップに口をつける。
「トンチンカンってなによ」
「ははは、でも今日の女将の歌、綺麗だったぜ」
綺麗……。そう言われてあのときの言葉を思い出す。
――綺麗な歌声だな。
(常連さんに言われるのもいいけど、あの人にもう一回言われたいかな)
一瞬だったあの瞬間。思い返すは永遠。あのときから何度も何度もリピートしてるあの言葉、今の自分だったらもう一回言ってもらえる。そんな気がした。
「女将ー、そろそろひっくり返さないと片方だけコゲコゲだぜ」
人食い妖怪のほうに言われてハッと現実に戻る。思い返す永遠もいいけど、時間は待ってくれないから一瞬を生きないといけない。今、売り物を焦がすともったいないからこれはどうにかしないといけない。
「あっと、ごめんなさい」
「女将もしかして……恋でもしちゃったかい?」
「おー、マジマジ? どんなヤツ?」
耳のいい妖怪は勘もいいのか。ミスティアは首を横に振るも、人食い妖怪のほうはそれでも聞いてくる。
「またまたぁ、女将は照れ屋なんだから」
でも、自分の恋した相手を言うことはできない。
自分やこの妖怪からすれば、相手は食料になる存在なのだから。そんなことを言ったら変に思われてしまう。
やっぱりこの恋はおかしいのか。ミスティアの悩みとは関係なく、月は傾いていく。
屋台をやりながらどうしたら彼に歌を聞いてもらえるだろう、どうしたら彼を自分のものにできるだろうと考えてみた。
これが妖怪同士、人間同士だったらもっと素直に答えがでたのかもしれない。同じ種族ならお互いを伝え合う方法があるから。でも、人間と妖怪ではその方法に差がある。人間と妖怪の関係というのは、襲われ退治される関係。本来は相容れぬ存在だ。
どちらかが特別な存在ならよかったかもしれない。人間寄りの妖怪、妖怪寄りの人間、そんなのも稀にいるというのを聞いたことがある。そんな存在になりたいと思ってはため息をつく。
そうして数日が過ぎて、月が半分しか見えない夜。再び彼を見つけたのだ。そのときにこう思ったのだ。
襲ってしまおう。
一方的でも彼を手に入れるにはそれが手っ取り早い。ずっと考えてたことだけど、自分は妖怪で彼は人間。妖怪が人間を襲うなんて当然。それは自分や彼が生まれる前から当たりまえだったこと。
私は何を悩んでいたんだろう。平和的に恋をしようなんて思っていたのがいけなかったのだ。妖怪なら妖怪らしくすればよかったのだ。
彼のよく見える範囲まで近づくと、またご機嫌な歌を歌う。
私の歌が聞こえますか? 私の声が聞こえますか?
あなたを誘うこの歌声が。
あなたの姿が見えるのよ あなたの声が聞こえるのよ
恐怖におびえるこの声が
歌が聞こえたのか、彼は足を止めた。視界がだんだん悪くなってきているようで、目をこすっては周りを見渡す。
(見えなくなってきてるでしょう? いいのよ……)
かなり視界が奪われてるようで、彼は一歩も動けずにいる。恐怖で顔色も悪くなってきている。そんな彼にミスティアは正面から近づいていく。それでももう見えないのだ。
(そうそう、私の歌だけ、歌だけを聞いていて……)
気付かないかしら? ゆっくり近づく私の声が……
あなたが欲しいのよ その体、心もすべて私のものに
あなたは私のものに
この世であなただけに上げられる暗闇。私とあなただけの空間。
あなたは私が見えなくてもいい、私があなたを見てるから。
あなたは私の歌だけを聞いていて、私はあなただけに歌うから。
両手で彼のほほに触れた。ここまで近づけばさすがに見えるだろう。彼はきょとんとした顔になった。
でもやっぱり自分を見てほしかった。
「やっと見てくれた。当然よね、私が見えなくしてたんですから……」
声の主が、暗闇を作っていた相手がこんな女の子だったとは思ってなかったのか、自分が今襲われているということが分からないようか顔をしてる。
「おいしそうな顔……大好きよ」
と二人だけの暗闇でつぶやくと、彼の顔は赤くなった。よく焼けた肉のように可愛く、おいしそうだった。
目を閉じて、唇をいただこうとしようとした残り数センチ。
後ろから殺気。
彼から離れて空中へ上がると、ミスティアのいたところを一閃。
「お前、大丈夫か!?」
殺気の正体は人里にいる半獣。
能力の聞かない状態での戦いはどうあってもこちらが不利。ここは逃げるしかないと判断し、追撃のレーザーをよけつつ森のほうへ飛ぶ。
次の晩のミスティアは不機嫌だった。
どうにもうまくいかない。邪魔をしてきた白沢が憎い。あいつも妖怪なのにどうして人間を守ろうとするのだろうか。人間を食べたいとは思わないのだろうか。そんなことを考えていたら腹が立ってきたのだ。
これが別の人間を襲おうとしたのなら、次の日も引きずらずに忘れたのだろう。襲ったのが、あの自分の歌を褒めてくれた男性(ひと)だったからこんなことを考えてしまうのだ。人の恋路を邪魔するヤツは馬に蹴られて地獄に落ちろ、という言葉を知らないのだろうか。恋路と言っても片思いだけど。
とにかく別のことを考えよう。いやなことを考えてるからいけないのだ。そう思って自分のレパートリーの中でも明るくて、歌っててもっとも気持ちがいい曲だ。
思いっきり息を吸っていつもより大きな声ではじめる。
最近歌ってる歌とは比べられないほどトンチンカンな歌詞とメロディ。ミスティア自信はすごく気に入っているが、他の妖怪からはかなり不評。屋台の売り上げにも影響が出るほどなので、こういうときじゃないと歌わなくなってしまった。
そんな歌を歌いつついつもの夜空を散歩する。あの人間は当然いない。……が人影を見つけた。
あの人以上にやせた男。どこを見てるのか分からないような目で、ふらふらとおぼつかない足取りで人里とは逆の方向に歩いている。それだけでもおかしいが、男の服装もおかしなものでここじゃまったく見ないような変な格好をしている。
「食べてもよさそうなの発見。腹ごしらえにはちょうどいいわ」
里の外にいる人間は食べてもよい。ただし、逆に退治されても文句は言わない。そんな決まりがここにはある。この時間に出かけるような人間は用心棒が付いてたり、人間らしからぬ強さを持ってたり、スペルカードルールにのっとって戦えるものかのどれかである。なのでミスティアのような実力に自信のない妖怪はこのような人間を襲うのだ。
その中でも特に襲いやすい例がこの男――外の世界から迷い込んできた人間である。
襲い易い上に、肉つきがよかったり、皮が柔らかかったりと人食い妖怪の中ではまさに鴨という表現がふさわしい相手である。ミスティアはこの『鴨』という表現が嫌いであるが。
ミスティアは早速ターゲットに人間を惑わし、鳥目にするときの曲を歌いだす。そのときの状況や行動に合わせて曲を変えるのがミスティアのこだわりだが、相手としてはそんなことを気にすることはできない。
その歌声に男はびくりと反応して、周りを見渡す。妖術の類に対する抵抗が弱いのか、すでに視界はかなり奪われてるようだ。『見えない』恐怖に脚は笑い出し、無意識に後ずさりしようとし、足元の小石につまずいてしりもちをついた。
(今日は邪魔もなさそうだし、簡単ね)
混乱する男の後ろにミスティアはゆっくりと降りた。男が立ち上がろうとしたとき、その首に手が回り、その喉に月光で綺麗に光る爪を立てる。
爪が光を反射しない紅い雨に濡れる。男はその紅い雨を口と喉から降らせて、暗闇を彩った。声になれない音と紅い雨音がしばらくして止み、男が水溜りに倒れる。
「そう……ホントは何も言わない。ただ、食われるだけなのよ」
雨に降られた物言わぬ男を見下ろしてつぶやく。
やっぱりあの男性が特別なのだ。襲われ、食べられるだけの人間が自分の歌を聴いてくれるわけがない。ましてや『いい声』なんて感想を持ったり、言ったりするなんて考えられない。
「さて、あの人じゃないけど……いただきます」
邪魔な服を裂いてまずは腕から。肉はやっぱり少ないが、皮はそこそこいけると思った。血行が悪いのか血はあまり飲めたものではない。骨も柔らかくてちょっと歯を立てただけで折れてしまった。
おかげで内を出すのは楽だったが、そこもあまりおいしくはない。どんな食生活をしてたらこんなにまずくなるのか、ミスティアには考えられない。
上の方は残して、もも肉へ。こちらは油が乗っててそこそこ。ダイエット中の妖怪には好まれないだろう。ルーミアは好きそうだからおすそ分けしようと思ったけど、どこにいるのか分からない。
「ごちそうさま……。残りは他の妖怪か野良犬にでもあげるわ」
と感情のない声で言い残し、雨の降った場所から飛び立つ。夜雀の羽が舞い落ち、紅く染まった。
「やっぱり、あの男性のほうがおいしそうだわ。こんなにまずいんじゃ、おなかは膨れないわ」
と一人で愚痴るとまたご機嫌な歌を歌いだす。また逢えるか分からない相手を想いながら。
押しても駄目なら引いてみろ。という言葉を思い出した。
いきなり襲おうとしたからいけないのだ。あの状況に持っていったとしても、はたから見れば自分たちは丸見えなのだ。だから妨害を受けた。里の人間だから前の男みたいにはいかないだろう。
今度は誘い込んで、妨害の入らない場所で襲おう。林の中なら元から暗く、鳥目じゃなくても見つかりにくいはずだ。
それを思いついたその日には彼を再び見つけることができた。本当にどうして、明かりも持たずにこんな夜を出歩くのだろうか、不思議に思うけど自分としては好都合である。これほど襲いやすい相手はいない。
今度こそと気合を入れて歌を歌いだす。今度はかすかに聞こえる場所から、徐々に自分のほうにおびき寄せるのだ。まだ鳥目にはせず、こちらに歩かせるのだ。
彼は足を止めるとまた回りを見渡す。今度はよく見えるはずだ。ミスティアのいる方に歩いてくる。
(そうそう……来て、私のところに)
彼との距離を維持しつつ、林に入る。彼も自分を追いかけて林に入ってくる。
明かりも持たずに、怖がりもせずに自分を探しに来てくれる彼。能力を使わなくても視界は悪い中、二人きりの鬼ごっこが始まった。
好きな人が自分を探してくれている。それだけでうれしかった。
(あせらなくて良いのよ。ね、私はここよ)
彼はたまに足を止めて声を探す。そういう時はミスティアが近づいて場所を教えるのだ。それに気付いて自分のところに歩いてくるとまた距離を離しておびき寄せる。
この鬼ごっこもずっと続けはいいかなと思う。鬼に捕まらないとゲームは終わらない。なら今宵はこれで楽しむのも一興。でもそれじゃ自分の空腹や気持ちが満たされない。
彼に触れたい触れられたい、その柔らかな肌をいただきたい、彼にもっと歌を褒めてほしい。いろいろな気持ちがミスティアの気持ちを高揚させる。
それでもあせらずに林の奥まで、奥まで誘って。そして一晩かけてじっくり味わうのだ。そう、あとちょっと。月明かりが届かなくなるほど暗い場所まで、あとちょっと。
(もう少し、もう少ししたらやさしい暗闇をあげる……。そうしたらあなたは私のもの)
彼が再び足を止めた。自分の歌声を見失ったようだ。ミスティアが歌いながら距離を縮めるが、彼は違う方向に歩き出した。
「違うっ! そっちは!」
ミスティアが歌を止めて叫ぶが、彼の姿はすでになかった。
物語のような崖。足元があると思って歩いていると、急にそんな場所がある。彼は歌声を見失って、自分の居場所も分からなくなって、戸惑いながら歩いて、そこから落ちたのだ。
ミスティアがやってくると、彼は気持ちよさそうに眠っているような顔をして倒れていた。頭からは血を流し、脚や腕が曲がらないはずの方向に曲がっている。
まるで作り話だ。彼もそんなことを自嘲しながら考えていたのだろう。彼はそうして笑っていたが、ミスティアは世界の滅びでも見てるような顔で彼を見ている。
「いや……、人間ってどうしてこんなに脆いの?」
彼の体を揺らすが、彼が自ら動く感じはしない。その顔も、流れている血も、おいしそうなものには見えなくなっていた。
妖怪は、妖怪が手をかけていない人間を食べることはしない。妖怪に教われてない死体を集める妖怪もいるが、それは食料にするためではない。妖怪を恐れる人間ほど妖怪にとっては美味なものである。だが妖怪を恐れない人間や、すでに魂のない人間はまったく味がしない。
そんなことも今のミスティアにはどうでもいいこと。自分のほしかったものがくだらない理由でなくなってしまったことばかり考えている。物言わぬ体にそれを聞いて答えを求める。
「ねえ、私の歌どうだった? 綺麗だった? そうだよね、誘われてへんなところに来ちゃうぐらいだもんね」
彼の体を強く、壊れるぐらいに抱きしめる。少し骨が折れた気がするが、もうすでに俺かけていた箇所だろう。普段は食欲をそそるその音も今は苦虫でしかない。
「やっと私のものになったと思ったのに……。ねえ、これじゃおいしくないじゃない」
こんなはずではなかった。本当なら今頃二人だけの暗闇で彼を手に入れているはずだった。さっきまであんなにもおいしそうだった彼、今はまったく魅力を感じない。
そしてなきだした。
さっきまで聞こえていた夜雀の陽気な歌はそこにはなく、歌とも声ともいえないなき声だけが林に響く。
少し月が傾いた。
なき疲れたミスティアと、冷たくなった彼を淡い月光が照らす。ミスティアが目を開けても目の前には自分の望まない姿になった彼。青白い顔は気持ちよさそうにしているが、それは自分の歌を聞いて笑っているのではない。
なら自分が歌えば、その歌で笑ってくれてることになるだろうか。ずっと歌い続けていればずっと笑っててくれる。ならそうしよう。
「聞いて、あなたのためだけに歌うから……」
彼を抱きかかえて、冷たいほほにキス。自慢の羽で夜空へ舞い上がる。今日も『真夜中のコーラスマスター』のコンサートが始まる。今日は特別公演だ。
今宵も夜雀の歌声が聞こえる。
いつもは陽気で、人間を魅了し、視界をなくすその歌声。
だが、今日は悲しく夜空に響き渡っていた。
暗い月夜に 私はただ歌うの
あなたへの想いを 届かぬ思いをこの歌に乗せて
あなたは見えない 私の姿は見えない
でも歌だけ そう 歌だけを あなたに歌だけを聞いててほしい
何もしないで ただ耳をすましていて
私の歌声 それだけを聞いててほしい
暗闇の中で 私は歌うから
あなたは聞いてて あなたを想うこの歌を