◇ プロローグ 「親父、少女に会う」 ◇
――空は広大である。行く手を邪魔するものなど何一つなく、ただ広い。
その空を我が物顔で自由に泳いでいるのが入道たちである。
彼らは雲と同じ様に、大空を流れるが如くゆらゆらと泳ぐ事が生き甲斐であり、またそれが彼らの存在意義そのものであった。
だが、空を泳ぐだけの入道の中にも変わり者がいた。それが雲山という入道の親父である。
彼は人間の子供が好きであった。無垢で遊ぶ事しか知らない小さな生き物に対して、空を泳ぐしか能のない自分たちが持っていない、不思議な魅力を感じていた。
だが、彼が子供に対して出来ることは空の上からただ見守る事だけであった。子供らに近寄っていって、ましてや話をする事などは到底有り得なかった。
何故なら、彼はとても恥ずかしがり屋だったからだ。また子供たちからしても、大きな入道が自分たちに近寄ってきたら怯えてしまうだろう、という気遣いが雲山の中にあった。
この日も、雲山は風に乗って雲の中を漂いながらも、地上で遊ぶ無邪気な子供たちを静かに見守っていた。
男の子が何人かで“ちゃんばらごっこ”をしている様子を眺めていた雲山は、ふとその中の一人の男児が、服から何かを地面に落としたのを見た。
だが男の子は其れに気付かずに、友達と暫く木の棒を打ち合わせて、腕が疲れると「飽きた、飽きた」といい棒を道端に放り投げて家路に就き始めた。
雲山は男の子たちが去った後、ゆっくりと道まで降りてくると地面に落ちた“何か”を拾い上げた。それは、小さなお守りであった。
無病息災を願ったものか、古いお守りではあったが、それが男の子にとって大事な物である事は雲山には分かっていた。
だが、それを届けようにも困った。――何故なら、自分は恥ずかしがり屋だ。
更には、大きな親父の入道が後ろから追いかけてきたら子供は泣き叫んで逃げ去ってしまうだろう。お守りを届けるどころの騒ぎではない。
雲山はどうしたものかと困りつつも、取り敢えずこっそりと男の子たちを追いかけた。空を自由に飛べる雲山であるから、男の子たちは直ぐに見つかった。雲山は男の子たちに気付かれないようにと、地面まで降りてくると遠巻きに様子を伺った。
子供たちはわいわいと、他愛もない話をして巫山戯ながら道を歩いている。――さて、どうしたものか。雲山はお守りを手に握ったまま悩んだ。
「何を迷ってるのよ。早く届けてあげたら?」
ふと、横手から聞こえてきた声に雲山はハッとする。横に目線を動かせば、道端の岩に腰をかけている少女がそこに居た。
「あんた、そのお守りを届けたいんじゃないの?」
尼の格好をした少女は、腰まで伸ばした長い髪をそよ風に揺らしながら雲山に話しかけてきた。
雲山は、その厳つい顔をゆっくりと縦に振った。
「親父みたいな見た目して、何を怯えているのよ」
雲山は、入道である自分を見ても怖気付かずに話しかけてくる少女に対して驚きを感じながら、恐る恐る少女に近寄る。
「ん?何…?」
きょとんとする少女の耳元に、雲で形作られたその大きな口を近づけると雲山はコソコソと耳打ちをした。
「“恥ずかしがりだから、話しかけられない?”…何を乙女みたいな事いってるのよ…。ちょっとお守りを届けるだけじゃない」
雲山は、“簡単に言ってくれる”と首を横に振る。そして、少女に“自分が怖くないのか”と尋ねた。
「え?だってあんた、只の入道じゃない。私は、かの有名な白蓮様の一番弟子である一輪よ。あんたが襲ってきたとしても私の法力でイチコロだからね、怖くもなーんともないわ!」
“いや、元から襲う気はないが”と首を横に振って、雲山は更に耳打ちを続ける。一輪は、自分のような少女に対しても耳打ちをするほどに恥ずかしがり屋な、この入道の事を面白い奴だと感じ始めていた。
「へぇ、あんたは雲山っていうの。じゃあさ、雲山。私が貴方の通訳になってあげるわ。それで子供たちにお守りを届けにいきましょうよ」
雲山は一輪の提案に、顔を少し緩めて頷いた。尼の格好をした少女が相手ならば、子供たちも怯えることはないだろうと思ったのだ。
「じゃあさ、私を乗っけて子供たちの所まで送ってよ。実は、修行で巡礼に行ってきたんだけど足が疲れちゃってさぁ、だから帰る前にそこで座って休んでたんだ…ねぇ、いいでしょ?」
一輪の願いに、雲山は快く了解の返事をすると自分の手を大きく形どって、そこに乗るように一輪を手招きした。
「うわぁ、入道って変幻自在とは聞いていたけど…手をこんなに大きく変化出来るなんて!じゃあ、お邪魔するわよ」
一輪はぴょんと雲山の手に乗ると、そのふかふかとした感触を楽しんでいた。雲山は軽く手を握って一輪が手から落ちないようにすると空へと浮上していった。空へと飛んでから、雲山はふと疑問に思うことがあった。それを耳打ちにて一輪に伝える。
「…何?僧侶なのに、妖怪である自分を退治しなくていいのかって?」
尼の格好をして法力を使うと言っていた一輪は、仏門の人間である事は雲山にも一目瞭然である。それならば、妖怪を退治する事が仕事の一つである僧が何故、入道の自分を退治せずに話しかけてきたのか?其の疑問は当然であった。
その質問に、一輪は「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりに自慢げに答える。
「へへ、私の師事する白蓮様は妖怪にも理解のある御方なのよ。――私は昔から法力を使えたから、親から有名な僧がいる寺に弟子に入るように言われたんだけど……これを見て」
一輪は、腕をまくって手首に付けている金の輪っかを雲山に見せつけた。その輪は美しい輝きを放っており、雲山の目は一瞬その光に眩んだ。
「私、この法輪を握って産まれてきたんだって。すごいでしょ?――でもねぇ、偉そうな坊さんって“妖怪を倒せ倒せ”って五月蝿いのよねぇ。だから私、意見が合わなくて弟子入りする寺がなかなか決まらなかったんだ」
そういうと、一輪は法輪を人差し指にひっかけてクルクルと回しながら溜息をついた。
「私って、人間も妖怪もそんなに変わらないと思うのよね。だって人間にだって悪い奴はいるし、妖怪にだって良い奴はいそうじゃない?むしろ私が他人にはない法力を持ってるせいか、人間よりは妖怪の方が友達になれる気がするのよね。――まぁ、そんな話をしても“えらーい”坊さんたちは理解してくれなくってさぁ。でも!そんな中で白蓮様は話の分かる方だったのよ。むしろ、私の話に感心してくださって…それで現在に至るわけ」
雲山は、内心驚いていた。このような小さな少女が法力を使えるとは。――法力とは通常、長い苦行の果てに才ある僧が身に付けるモノである――だが、確かにその身につけている法輪からは神々しい輝きが発せられている。この一輪という少女は、天賦の才を持っているのだろうと、雲山は感心して唸った。
「あ、いたいた!さぁ、あの子たちの前に降りて!」
一輪の指差す先には、はしゃぎ疲れたのか、ただ黙々と歩く子供たちがいた。雲山は一輪の指示通りに高度を下げて、子供たちの前に回り込んで一輪を降ろした。
「うわぁ!入道だっ!…って一輪ねえちゃん、何やってんの?」
突然の入道登場に驚きの声を上げた子供たちだったが、近所の寺に住む一輪の姿を見てすぐに安心したようであった。
一輪は雲山の掌から華麗に飛び降りると「やっほー」と片手を挙げて挨拶しながら子供たちに近づいた。
「ごほん。この入道の雲山が、君たちの落し物を拾ってくれたのよ。……さぁ、雲山…ちゃんと前に出て手渡しなさいよ」
一輪に促され、雲山は恥ずかしそうにしながらも子供たちにすぅっと近づいてお守りを差し出した。
「あっ!これ…母ちゃんの…落としたのに気付かなかったや…」
「ほらほら、ちゃんとお礼をいいなさい」
驚きと安堵の表情を浮かべながらお守りを受け取った男の子は、雲山の厳つい髭面に少し腰を引きながらも、頭を下げた。
「ありがとう、ございました!」
その感謝の言葉を聞いて、雲山は恥ずかしさで顔を益々、強ばらせた。其の顔はまるで達磨大師のようになってしまった。
「ちょっと、雲山。お礼を言われてしかめ面にならないでよ!」
一輪のその言葉に、子供たちは笑った。けたけたと、自然に溢れた笑い声と笑顔。
それを見て、雲山も笑った。心が笑った。でも雲山のしかめ面だけは、何時もの厳つい面に戻っただけだった。
◇ 一章 「妖怪の住まう寺」 ◇
――その赤子、産まれ落ちたる時に両の手で法輪を持ち、その輪から後光を発したり。
まだ歩くことも覚束ない幼子が法力を使えるとあって、周りからは神童だ、仏陀の再臨だと持て囃される。当時、妖怪の支配する夜に怯えていた平民たちにとっては、その幼子の存在はまさに神様仏様の救世主だった。
――ついに十になる頃、人喰い妖怪を法輪の一撃によって仕留めたり。神童、妖怪を打ち倒しては何故か泪を落とすという。
その噂を聞きつけた有名な寺や朝廷の使節やらが、少女を弟子にしよう、召抱えようと集まってきた。だが、それらの話を聞いても少女は一向にその誘いを受ける気はなかった。
――神童の親御、ついには我が子というより、神や仏を見る目で少女を見はじめたり。自分の手元に置いておくが、もったいなきか恐ろしきか、早々に娘を送り出そうと躍起になり。
多くの誘いを断った少女が師事する事になったのは、最近になって寺を興した尼僧であった。親は是非とも我が子を高名な僧にしてくれと頼んで少女を見送った。
それは、一輪と雲山が出会う日のおよそ一年前。雨の降る日の出来事だった。
◇ ◇ ◇
雲山は一輪を寺まで送るために、人里から少し離れた山の麓にある寺院へと飛んできた。一輪の話によれば、この寺の尼は妖怪に対しても理解のある者だという事だが、やはり妖怪である自分としては寺に長居する事には抵抗がある。雲山は一輪を寺の前で降ろすと、再び空へ戻ろうとした。
「ちょっと!どこにいくのよ?せっかくだから貴方の事、白蓮様にも紹介してあげるわ」
一輪は雲山の腕をむんずと掴んだ。雲山は己の身体を雲と同じように変質させて逃れる事も出来たが、内心では妖怪の自分に臆する事なく接してくれる目の前の小さな尼僧に好感を抱いていた。だから、雲山は一輪の言葉に従って寺へと足を踏み入れた。
其の寺は、最近になって建立されたのか真新しい材木の香りがするものの、大変に造りの立派な寺であった。一輪は、雲山を引き連れて寺の敷地内にある武道場へと向かった。
武道場の開け放たれた扉からは、木剣がかち合う激しい音と、女のものと思われる威勢の良い掛け声が響いてきていた。
「ほら、見て。あれが私の師匠の白蓮様よ」
一輪が扉の陰から指差すのは、道着に身を包んだ尼僧であった。その手には木剣を持ち、まだ若そうな虎の妖怪を相手に打ち込みの練習をしていた。
「何?“なんで妖怪相手に剣術の稽古をつけているか?”――あの妖怪は星っていって、最近になって白蓮様が連れてきた妖怪なの。毘沙門天の代理になる為の修行をしてあげてるんだってさ」
一輪が説明をしたのと同時に、虎柄の髪の妖怪が手に持った木剣を取り落とした。からから、と乾いた音が道場内に響く。
「あっ…、すみません」
慌てて木剣を拾おうと身を屈めた星の事を、白蓮がそっと手を差し伸ばして止めた。白蓮の髪は一輪と同じように腰まで伸び、紫と黄土色が混じった不思議な色をしていた。正確にいえば、白蓮を慕う一輪が髪型を真似ているのであるが。
――その白蓮の動作には、星も自然と剣を拾う動きを止めてしまうような穏やかさが秘められている――そのように雲山は感じた。
「いいのですよ、星。疲れきった身体で稽古をしても為になりません。一旦休憩を挟みましょう」
「…しかし、毘沙門天様の代理になる為には、もっと修行をしなければ…」
「大丈夫。そんなに焦らなくても良いのですよ…。無理をして身体に障っては元も子もありません。さぁ、お茶でも飲んで一服しましょう」
星は息を切らしながら白蓮の手をとって立ち上がった。其の様子を扉の陰から見ていた一輪はグッと拳を握った。それを見た雲山はごそごそと耳打ちをする。
「え?“一番弟子の一輪よりも、星の方が手をかけてもらってる事を気にしてる?”…そんな事ないわよ!星は寺で妖怪を匿う為のお飾りなの。だから一番弟子である私の方が実力も信頼もあるんだから」
一輪は雲山に八つ当たりの拳を打ち込んだ。雲山はやれやれ、と溜息をつきながら一輪の拳を甘んじて受け止めた。
「あら?一輪、帰っていたのですか。そちらはどなたですか?」
「あっ、白蓮様!」
大声を出したせいで、こっそりと覗いて居たことがバレた一輪は、白蓮に話しかけられて慌てて平静を取り繕った。一方の雲山はというと、一輪の後ろに顔の半分を隠しながら白蓮と星に向けてお辞儀をした。
「ああ、こいつは入道の雲山。私の新しい友達です」
「あら、初めまして。雲山」
改めて白蓮に向けてお辞儀をする雲山を見ながら一輪は悩んでいた。自分の考えている事を白蓮に言うべきか否か。――本当ならば、自分の考えを雲山に話してから白蓮に尋ねようと思っていたのだが、三人が居合わせたこの機に話を決めてしまおうという風に考えた。
「ねぇ、白蓮様…この雲山を寺で住まわせてやってくれませんか?」
一輪は知り合ったばかりの雲山に不思議とこれ以上ない信頼と安心を感じていた。だから、ここで別れるのではなく、これからも一緒に寺で過ごして共に成長していきたいと感じていたのだ。
雲山本人に向かっては気恥ずかしくて中々言い出せなかったが、この師匠の前であると不思議と自分の心に仕舞い込んでいる思いが溢れるように口から出てしまう。
そんな弟子の言葉を聞いて白蓮は雲山へと顔を向けた。一輪の考えはともかく、本人の意思はどうなのかを聞かなければ話は始まらない。
「ふむ、雲山は私たちと共にこの寺で過ごしたいのですか?」
雲山は一輪の突然の提案に驚きながらも、白蓮の問いに対する答えを考えた。成り行きで寺までついて来てしまったが、いきなり寺に住むことになろうとは思ってもみなかった。だが、一輪には子供たちと交流させてくれた恩義を感じるし、その人柄も気に入った。特に、妖怪を誘致しようという他に類を見ないこの寺が、自分のような変わり者には合っているかもしれないと思い始めていた。
雲山は、一輪にこそこそと耳打ちする。それを一輪は白蓮に通訳する。
「え?“一輪に世話になったから、恩を返したい。是非、寺に住まわせてくれ?”……何よ、たったあれだけの事に恩だなんて…雲山は大袈裟ねぇ」
「そうですか…。私たちとしても妖怪の保護を目的として活動をしていますので、雲山さえ良ければ寺を自由に使ってくださって構いませんよ。よろしく、雲山」
「あ、聖の弟子の寅丸星です。雲山さん、よろしくお願いします」
白蓮と星に握手を求められた雲山は、一輪の陰から少し身体を晒すと、大きな手を作り出して彼女らと握手を交わした。
「それでは、星と共に僧房の方に居ますので、何かあったら呼びに来てくださいね」
「では、一輪に雲山さん。失礼します」
軽く一礼をした白蓮と星は道場を出て、僧の宿舎である僧房の方へと歩き去っていった。その後姿を少し寂しそうに見つめる一輪であったが、何より友達の在留許可が取れた事の方が嬉しかった。
「良かったわ、雲山。これからも仲良くしてね!」
一輪の言葉に、雲山は静かに、だが嬉しそうに頷いた。
◇ ◇ ◇
――稽古で流した汗を拭きながら境内を歩く星は、白蓮に質問をした。
「しかし、あの入道。一輪の事を随分と気に入っていたようですが、入道にしては珍しいですね?」
その質問に、白蓮は「確かに」と少し訝しむ様な表情で答える。
「そうですね。本来、入道とは空を自由気ままに泳ぐのが本懐であり存在意義である妖怪。それが、何故に一輪個人に固執するのかは分かりかねますが…。でも、どのような妖怪でも全て受け入れるのが私たちの選んだ道です。これからは、雲山も私たちの力となってくれる大事な仲間になるでしょう」
「ええ、私も早く毘沙門天様に認められて…山の妖怪たちに、此の寺が妖怪の味方である事を証明させてあげたいです」
何故、寅丸星が毘沙門天の代理になりたいのか。それは、白蓮の寺が複雑な立場にある事が生んだ事情であった。
本来、妖怪を退治する立場である寺という存在は、妖怪たちにとっては脅威としか感じられなかった。白蓮も“人間と妖怪の平等”を訴える思想の持ち主ではあるが、人間たちには公に妖怪を擁護しているとは言えない。だから、妖怪たちの中にも白蓮が本当に自分たちの味方なのか疑問視する者が多かった。
そこで、白蓮は妖怪の中でも真面目で優秀な虎の妖怪である寅丸星を、自分の信仰する毘沙門天の代理として奉る事で、妖怪たちに信頼してもらえるように考えたのだ。寺の本尊が妖怪であるならば、それは自分たちの味方であるに違いないと。
「ええ、星ならば必ず毘沙門天様も認めてくれると思います。あと少しです、頑張りましょうね」
「はい!頑張りましょう!」
◇ ◇ ◇
「はぁ~。最近、白蓮様とお話出来てないわ…。いや、やっぱり信頼出来る一番弟子は放っておいても修行をするって分かってくれているのよね」
道場を後にした一輪は、雲山に愚痴を吐きながら境内を歩いていた。
――一輪にとって白蓮とは、自分と同じ価値観を持った唯一の人間である。
産まれた時にその手に持っていた法輪と、自分の秘めている生まれついての法力の功罪か。――小さい頃から天才だ神童だと持て囃された一輪は、名のある寺院や大名から是非自分の所で修行をしてくれと引く手あまたであった。
だが、一輪には妖怪退治だけの為に自分の法力を使う事は我慢ならなかった。何故なら、自分の意識の中には人間と妖怪の境界が存在していなかったからである。
人間離れした力を持っているという点では、生まれついた法力を持った自分も同類である。人間に害をなすという点では、同じ人間同士でも殺生などいくらでもある。
その事から一輪は、妖怪を目の敵にして妖怪退治を尊ぶ寺院へと修行に行くことは気が乗らなかった。
そんな中、新興ではあるが高名な白蓮の元を訪れて、その『人間と妖怪は平等であるべきだ』という彼女の考えに一輪は深く感銘を受けたのである。
そして白蓮の元に弟子入りして一年。一輪は、自分こそが白蓮と同じ考えを持ち、また法力の実力が最もある一番弟子だという自負があった。だが、そんな自分が最近は新参者の星に追い抜かれているという危機感と苛立ちを感じていた。
「ねぇ、雲山。村の子供たちの所へ遊びに行きましょうよ。雲山に乗って空を飛ぶのって風が全身に当たって気持ちが良いのよね~」
彼女はそんな鬱屈とした気持ちを切り替える為にか、雲山を誘って村へ遊びに行こうとした。
「何?修行をしなくていいのかって?村の人たちとの交流も、大事な修行の一環なのよ!さぁ、出発~!」
一輪は雲山の掌に無理矢理に乗っかると、天を指さして雲山を促した。雲山は呆れたように溜息をつきながらも、しっかりと腕で一輪を守る形を取って大空へ飛び立った。
寺のある山からは、ぽつぽつと集落が見える。この辺りは農村が多く、寺のある山以外には平地が続く土地柄であった。その集落の一つへと向かう様に一輪が指示をすると、雲山はあっと言う間にその村の外れへと一輪を届けた。
「ありがとう、雲山!さぁ、一緒に遊びましょう…って」
一輪が振り返って礼を言おうとすると、雲山は空へと舞い上がって帰ろうとしている所であった。一輪は慌てて、空に居る雲山に向かって声を張る。
「ねぇ、なんで帰っちゃうのよ~!せっかく皆で遊ぼうとしてるのに~」
一輪の言葉に、雲山は目を瞑ってゆっくり首を横に振った。そして、手で“迎えに来る”という仕草をすると寺の方へと戻っていった。
「ちぇっ!恥ずかしがり屋にも程があるわねぇ~」
一輪は仕方なく、一人で村へと駆け足で向かった。この村にいる子供たちとは普段から良く遊んでいるので、一輪も心を弾ませながら子供の集まっている輪へと向かった。子供たちは走ってくる一輪に気付くと手を振って彼女を呼び込んだ。
「あ、一輪お姉ちゃん!こんにちは~」
「やぁ、みんな元気にしてた?」
「うん、お寺の人たちのお陰で妖怪にも襲われないしさ!」
「んだんだ~。おらたちも妖怪退治の時は応援するから、一輪ねえちゃんも頑張ってな~」
子供たちはそういうと、手に持った木の枝で妖怪役の子供に袈裟斬りを浴びせた。
「ぐわ~、やられた~」
妖怪役の子供が大げさに苦しみながら倒れるのを見て、一輪はむっと顔をしかめた。
「こらこら、妖怪だって生きてるのよ?悪い妖怪は私たちが退治してあげるけど、いい妖怪がいたら仲良くしてあげるのよ」
一輪の言葉を聞いた子供たちは、一瞬黙って顔を見合わせた。そして、一輪の言葉が何かの冗談なのかと思って笑い始めた。
「またまた、妖怪なんて人喰いの碌でもない奴らじゃんか」
「あ、もしかして!……この一輪ねえちゃんも妖怪の化けた偽物だな~」
子供たちは面白半分にぺしぺしと枝で一輪の袖を叩いた。一輪は困ってしまい、なんとか自分の考えを説こうと言葉を探した。
「待ちなさい。妖怪の中にもちゃんと仲良くなれるのが…」
「あ!そうだ!姉ちゃん、そういえば最近になってこの近くで入道を見た人がいるんだよ!」
「聞いた、聞いた!もしそいつを見かけたら、姉ちゃんの金の輪っかで倒してくれよ~」
「頼んだよ!」
子供たちの矢継ぎ早の言葉に、一輪は説得を諦めてその日は少しだけ子供たちと遊ぶと早々に帰る事にした。
一輪が村の外れまで戻ってくると丁度、雲山が空から降りてきて自分の手の上に乗るように促した。
「あ、迎えに来てくれたの…?ありがとう」
一輪を掌に乗せると、雲山は空へと浮き上がって寺へと飛び始めた。何やら元気のない一輪に向かって、雲山は心配になって“大丈夫か”と声をかける。
「え?元気ないって?そうね、ちょっとねぇ…」
歯切れの悪い返事をする一輪を気遣って、雲山は何時もよりゆっくりと飛んで寺へ戻ってきた。
寺に着くと、既に日は傾きかけて境内が夕日で真っ赤に染まっていた。地面に足を着いた一輪に、通りかかった白蓮が気づいて笑顔で近寄ってきた。
「あら、おかえりなさい。村の子供たちと遊んできたの?」
「え、ええ…」
一輪の元気がない事に気づいた白蓮は、訝しみながらも足早に僧房へと向かう一輪の背中を見守った。
「雲山、何か知っていますか?」
白蓮の問いに、雲山は静かに首を横に振ると一輪の後に続いていった。白蓮は「ふむ…」と一考して寺の境内から覗く村々の方へと視線を向けた。
◇ ◇ ◇
「お母さん、私…妖怪を殺すのは嫌よ」
――お前は、とてつもない才能を持った子なんだよ。早く偉いお坊さんの所へ弟子に入って、その才を活かしなさい。
「お母さん、私はお母さんと離れて暮らすくらいなら、妖怪退治の力なんていらないわ」
――そうねぇ、お前はもう一人前に妖怪退治が出来るのだから、都の貴族に召抱えられるというのもいいわ。そうすれば、一生安泰に暮らせるよ。
「お母さん、聞いているの?私はそんな気はないのよ」
――お前さんは、早く私なんかの手から放れていくべきだよ。私には正直な所、手に余る才能なのよ。
「お母さん、なんで私の言う事に返事をしてくれないの」
――あなたは、はやくえらいおぼうさんにでしにしてもらうべきですよ。
「お母さん、私は妖怪じゃないのよ。貴方の娘、一輪なのよ」
――あなたさまは、わたくしどものところにいるべきではない
「お母さん、なんで私の事をそんな目で見るの」
◇ ◇ ◇
その日の一輪は昨晩に悪い夢を見て寝付きが悪く、一日中ぼうっとしていた。一日の終わりに行う読経も、いつもは人一倍に集中して行う彼女にしては珍しく身が入っていなかった。それを見て心配した白蓮は、読経が終わって境内へ出た一輪に近づいた。
「雲山、夕餉の支度の為に薪を運んできてくれませんか?」
白蓮は雲山に薪を運んでくるように頼むと「少しお話をしましょう」と言って一輪を本堂へと連れていった。
一輪は「はぁ」と気の抜けた返事をすると、白蓮に連れられて寺の一番大きな建物である本堂へと向かっていった。
本堂は扉を開けて正面に、大きな毘沙門天の像が祀られており、外の音が聞こえない程に静謐な空間であった。白蓮は一輪と向きあって座ると、少しの間を置いてから静かに口を開いた。
「一輪、何か元気がない様に見えますが…昨日の村で何かあったのですか?」
一輪は昨日から塞ぎ込んでいた自分の悩みについて、師匠に打ち明けるかどうか悩んだ。しかし、その悩みは彼女の優しい笑顔を前にしていると、一輪の身体の中から飛び出したくて堪らないと暴れだす。
白蓮の優しい声に、一輪は一拍置いてから塞ぎ込んでいた感情を爆発させるように師匠に告白した。
人間と妖怪は変わらないということや、仲良くなれる妖怪もいるという事を説こうとし、子供たちに理解されなかった事。そして、それを伝えられない自分の無力さを感じた事をとうとうと話した。
白蓮は一輪の話に頷きながら傾聴をし、話が終わるとまた一つ大きく頷いた。
「なるほど…。確かに、人間と妖怪の共存は私と一輪の目指す共通の願いです。しかし…未だに人間たちの間では、妖怪に対する偏見は大きいのです。私ですらも、妖怪退治をしているという欺瞞で皆を騙している浅ましい僧なのですから」
「そ、そんな事…」
「ですが、いつの日か皆にも分かってもらえる日が来ると信じています。だから、今はまだ耐える時なのです。焦ってはいけません。私たちの行いで、皆の心を少しずつ変えていくのが一番の近道なのですよ」
「…白蓮様…」
一輪は、思わず落涙した。やはり、自分が信じられるのは白蓮のみなのだと改めて理解出来た。そして、自分の考えを貫く事が如何に大変で困難であるかを白蓮の言葉で胸に刻んだ。
「貴方のような子を弟子に出来て、本当にありがたく思っています。これからも、少しずつ妖怪と共に暮らせる世界に出来るように一緒に頑張りましょう」
白蓮はそう言って一輪をぎゅっと抱きしめた。一輪にとっては、実の母親よりも白蓮の抱擁が暖かく、守られているという事が感じられる。
白蓮の抱擁を受け、一輪の脳裏に親との別れの日が克明に想起された。雨の振る日、親に見送られて白蓮の元へ来た日。あの日から一輪が思うまいとして自らの心に封じ込めてきた考えが、白蓮の抱擁によって今、封を解かれた。
そう、一輪が人間と妖怪の共存を望んでいるのは自分の境遇と妖怪を重ねているからである。産まれついての法力と手に持った法輪のせいで、普通の人間からは釈迦や仏陀の様に扱われ、妖怪からは忌み嫌われている。その孤独とは、人間から嫌われた妖怪となんら変わりない。
一輪は突然に嗚咽を漏らし始めると、白蓮に向けてその思いの丈をぶつけた。
「白蓮様。わ、私…お母さんに…捨てられたんじゃないかって…思ってたんです。法力使えて…産まれた時にこんなものを持っていたから…化物みたいに思われてるんじゃないかって…だから…だから私…」
一輪は白蓮の腕の中で泣きじゃくった。普段は真面目で明るく、機転の利く優等生である一輪が、この時は年相応の少女のように泣いた。
「そんな事はありませんよ。貴方のお母様は、一輪…貴方の未来を想って私に大事な娘を預けて下さったのです。我が子を大切に思わぬ親などいません。だから、私も貴方のお母様に顔向け出来るように…貴方をしっかりと育てて、守る…そう心に決めているのですから…」
しかとその身を抱きしめながら頭を撫でる白蓮に、この寺に来てからの全てを吐き出すように泣きじゃくる一輪。その二人の姿を扉の向こう側で見ていた雲山も、また男泣きしていた。
雲山は、白蓮と共にこの一輪という娘を立派な大輪にしようと心に誓う。それが自分たち妖怪の為でもあり、希望になると確信したからであった。
◇ 二章 「灘の時雨」 ◇
――大海原に浮かぶ小さな島。そこで育った好奇心旺盛な少女は島の外に出ることを渇望していた。
もっと、広い世界を見たい。陸地はどういう場所なのだろう?地平線とはどういう景色なのだろう?
好奇心旺盛な少女の夢は、やがて叶おうとしていた。父親が商売で内陸に行く事になり、その付き添いで本土へ行ける事になったのだ。
まさしく、少女の夢は叶ったであろう。沖合で時化に巻き込まれて船が沈没さえ、しなければ。
◇ ◇ ◇
白蓮の寺に、使者がやって来た。一輪と星は何時ものように着崩した格好ではなく、法衣をきちんと身に纏い、正装をして白蓮の脇を固めた。
何故なら朝廷からの使者である。この日本という国の最高権力からの使者である。一輪も今までに経験が無いほど顔を強ばらせて面会に立ち会った。
「それで、私どもへの依頼というのは…?」
白蓮の言葉に、使者は巻物を広げて説明を始める。巻物には、この地方で一番大きな港とそこに広がる海が描かれている。狸によく似た恰幅の良い使者は、その海を指でなぞった。
「この海路、物資を運ぶに最適な場所である。しかしだ、ここに最近になって舟幽霊が現れた。こやつのせいで、帝に届ける物資を運ぶ船が沈まされておる。そこで、高名な僧侶である聖白蓮に舟幽霊の討伐を依頼しにきたというわけだ」
使者の説明に、白蓮は小さく頷くと巻物を受け取った。
「…分かりました。その依頼、謹んでお受けいたします」
「うむ、では討伐の為に必要な物資や輸送などの説明については、後ほど…」
使者が寺を去って面会が終了した後、白蓮は自室に戻って早速、巻物に書かれた依頼の詳細について調べていた。すると、そこにドタバタと騒々しく足音を響かせながら一輪が駆け込んできた。
「白蓮様!なんで、あの依頼を引き受けたんですか!?幽霊の討伐だなんて…」
「まぁ、廊下は走ってはなりませんよ、一輪。……それに、人間の害となる妖を退治するのは…寺の大きな役割の一つですよ」
白蓮の言葉に、一輪はぐっと唇を噛んで白蓮に噛み付いた。一輪の後ろに控えた雲山は何とか彼女を制しようとしているが、あまりの勢いにそれは叶わなかった。
「何でですか!話し合いもせずに討伐をするなんて、そんなのは他の坊主と変わらないではないですか!白蓮様なら分かってくれると…」
「一輪、言葉が過ぎますよ!」
騒ぎに気づいた星が、慌てて一輪を止めに入った。しかし、白蓮は落ち着いた様子で一輪を宥める。
「一輪……人間と妖怪は平等。ならば、多くの船乗りの命を奪った罪も、また平等なのですよ」
「ぐっ…でも…」
一輪は、後に続く言葉が見つからずに意気消沈する。星も一輪の身体から手を放して一安心と息を吐いた。
「星、私が討伐に出かけている間は寺の留守を頼みます」
「はい、お任せ下さい」
「えっ、私は…!」
愕然として星の顔を見る一輪に、白蓮はフッと笑顔になり納得いかない表情をする弟子へと笑いかける。
「一輪には、私と同行してもらいます。貴方の力を信頼していますよ」
だが、その言葉には今度は星が納得行かない様子であった。彼女は膝を畳につけて頭を下げると白蓮へ意見した。
「…聖。お言葉ですが、討伐に反対する者を同行させるのは…」
星の進言にも、白蓮はそれをやんわりと否定する。
「大丈夫、人にはそれぞれの役割があるのですから。星には寺の留守を、一輪には私の補佐を、それぞれの役割をお願いするわ」
師匠にそうまで言われては、二人とも引き下がるしか無かった。ようやく落ち着いた一輪を見て、雲山もホッと一息ついた。
「…分かったわ。白蓮様がそういうなら…」
「了解しました。出過ぎた真似をお許し下さい」
白蓮の部屋から出た一輪は、話を聞いて心配そうに近寄ってきた雲山に笑顔を向けた。
「聞いてた、雲山?私、白蓮様と一緒に妖怪討伐に行くことになったの。雲山、貴方もついてきてくれるよね?」
妖怪を討伐する事には、まだ納得出来ていない。しかし、白蓮に自分の力を必要とされている事が分かったのは、一輪にとっては素直に嬉しかったのだ。
雲山は彼女の問いに、“もちろん”と首を縦に振った。
◇ ◇ ◇
さて、幽霊退治の日。港には白蓮と一輪、それに一輪の法衣の中に隠れた雲山の姿があった。
それとは別に、誰しも名前を聞いたことがあるような寺の僧侶や、勇猛果敢で名の通っている武士たちが港に集まっていた。
「白蓮様、この人たちは一体なんです?」
「さぁ、使者の方によれば…幽霊退治に同行する方々だそうです」
この幽霊退治に集まってきた有象無象たちは、自分の名を売ろうという目的で白蓮の幽霊退治に同行を希望してきた者たちである。名前ばかり有名であるが、実際に妖怪退治の一つもした事がない紛い物たちであったが、その名前を利用して無理矢理に白蓮たちに同行してきたのだ。
ただ同行しただけであったとしても、朝廷の依頼である幽霊退治に同行したとあれば、その名前ははっきりと記録に残る。後は自分たちで好き勝手に琵琶法師を演じれば良いだけである。
「いやー、あんたが白蓮さんかい。噂には聞いているが、高名な尼さんだそうだね。危険な時は我々に任せてくれ、手を貸してあげよう」
「まあ、それはありがとうございます。私もまだまだ未熟な者ですから、いざとなったら皆さんの力を拝借させて頂きます」
不躾に話しかけてきた髭面の武士にも、白蓮は丁寧に挨拶をした。それを見て、一輪は不快な奴らだと坊主や武士に侮蔑の眼差しを向けた。
「さて、では早速出発しましょう。こんなに立派な舟を用意してもらってしまいましたし」
白蓮を先頭にして、一輪とその他大勢が朝廷の用意した舟に乗る。漕ぎ手も屈強な男が充分数だけ用意され、いよいよ大海原に向けて白蓮たちの舟は漕ぎ出された。
天気は曇りで、潮風が肌寒かったが水面は穏やかであった。一輪は、白蓮の身に何かがあったら自分の身を犠牲にしてでも守ろうという意気込みで、師匠の脇に控えた。
その他の有象無象は、舟の後方で自分が如何に素晴らしいかについて語り合っていた。しまいには、酒を呷る者まで出る始末だ。
舟が出航して半刻ほどした時、突然に海鳥の鳴き声が止んだ。海面も不自然に静かになって、海の底から何やら唸り声のような音がし始めた。
「お、おい!なんだ、なんだ!」
後ろの男たちは慌てふためいた様子で騒ぎ始める。一輪もごくりと生唾を飲んで全身を緊張させた。
「さて、来ますよ」
白蓮は何時もと変わらず、安心させるように笑顔を一輪に向けた。そして、すっと顔を近づけると耳打ちをする。
「海に落ちた人を、頼みますよ。一輪、雲山」
「えっ」
一輪が聞き返すと同時に、前方の海面から青白い光が浮かび上がった。それは、おどろおどろしいうめき声と共に海面から姿を現す。
海の底から姿を現したのは、全身を濡らして黒い髪を顔の前方に垂らした女だった。着ている白い着物も水で濡れてべったりと身体に纏わりついている。
「出ましたね、舟幽霊さん」
「来たか、ようやく…手応えのありそうな僧侶…お前を打ち破れば、私はもっと自由に動ける“格”になれる…沈め!」
舟幽霊は問答無用で大波を引き起こした。突如海面に現れた小山の様に大きな荒波は、白蓮達の乗った舟を木の葉のように吹き飛ばした。
「…?なんだ、あっけない…」
舟幽霊はがっくりと肩を落として水面の上で落胆した。せっかく、高名な僧侶が来るという情報を手に入れて待ち望んでいたというのに、こんなにあっけなく打ち破っては自分の霊格は上がりそうにもない。
一方で、舟を吹き飛ばされた一輪は空中で咄嗟に法衣を取っ払うと、服の中に潜んでいた雲山を外に出した。
「白蓮様はこうなる事を知っていた…。ならば私に出来ることは…雲山!頼んだわよ!」
一輪の考えは雲山にも伝わり、彼は身体を自由自在に引き伸ばせる能力を存分に発揮した。雲山の手は幾つにも増え、あまつさえ顔すらも複数に増殖された。そして、それらが海に投げ出された漕ぎ手や有象無象たちを掬い上げた。
一方の一輪は、手首から法輪を外すと右手で握りしめた其れを目の前に掲げる。
「はぁ!」
気合と共に法輪から発せられた虹色の光は、雲山の腕や手を保護するように壁となって、大波から彼らを守った。
漕ぎ手や有象無象たちは全員ものの見事に気絶しており、幸い雲山の姿に驚いて騒ぐ者はいなかった。
最後に、大事な相棒を空中で受け止めた雲山は、保護した者たちを一箇所に集めて自分の背中に載せた。
「…さて、と…。白蓮様は…!?」
法力で防御壁を作りながらも、一輪と雲山は白蓮の姿を探した。すると、次の瞬間。荒れ狂う波の合間から光り輝く大きな船が波を割って出現した。
「…なぁ!?何よあれ…?」
突然の船の出現に驚く一輪であったが、その船の頭に白蓮の姿を見つけた事で安心した。師匠の考えは分からないが、師匠の造り出した光り輝く船がただ単に舟幽霊を退治する為のものではない事は分かったからである。
「貴方はこの舟を探していたのでしょう?だから違う舟は全て転覆させてきた」
白蓮は船の上から、先程までの恨みがましい顔から今は驚きへと顔貌を変えた舟幽霊に語りかけた。舟幽霊は震える手で白蓮の造り出した船を指さした。
「その舟は……!ああ懐かしい……なんで」
舟幽霊は苦しそうに、しかし何か安堵したような複雑な表情で船を見つめる。
「私達を乗せてきた舟は、不慮の水難事故で沈んでしまいました。私の法力で新しい舟を創りましたが、これは特殊な舟で操れる者が居ません」
一輪には船の上から笑顔の白蓮が差し出した手が、まるで舟幽霊に止めを刺したように見えた。否、確かにそれが舟幽霊にとっての止めだった。
「この舟を操るのは貴方です」
その言葉を聞いて、舟幽霊は火に誘われる夏の虫のように白蓮へと近寄り、差し伸べられた手を握った。
この時、海原を恐怖で染め上げた舟幽霊は死んだ。そして、白蓮と志を同じくする者が誕生したのであった。
◇ ◇ ◇
港に帰って来た白蓮たちを見て、朝廷の使者たちは任務が達成されたという事を確信した。幸いにも死者も出なかったようであるし、出発した時の舟とは違う一際大きな船に乗って戻ってきた事以外は、文句のつけようがない勝利であった。
「皆さん、ご苦労様でした。如何でしたか、舟幽霊は?」
使者にそう聞かれた武士の一人は、しかし今しがた気を取り戻したばかりの故に言葉に詰まった。それを見て白蓮は、すっと使者の前へ身を出して口を挟む。
「皆さん、大変な戦いでしたね。しかし、なんとか舟幽霊も成仏させる事が出来て嬉しく思います」
白蓮の言葉を合図にして、皆が申し合わせた様に有りもしなかった激闘の記憶を語りだした。
「いやはや、危なかったですなぁ~。しかし、流石はかの白蓮殿。見事な手腕でした」
「ああ、俺も加勢したかったが…あいにくと弓矢は持ち合わせていなかったからなあ。舟幽霊の奴が近づいてきたら、この刀の錆にしてやったのだが」
「うむ、白蓮殿は妖怪退治の名手であるというのは、嘘偽りなかった!その武勇、小生もしかと確かめる事が出来ましたぞ」
その様子を見て、一輪は呆れるやら腹が立つやらであったが、なんとか我慢して白蓮の後ろに大人しく控えていた。
「ふむ、そうですか。やはり白蓮様に依頼をして良かった。では、報酬やらの話は…後ほど…」
とりあえず、白蓮たちは有象無象に軽く挨拶をして帰路につく事にした。
白蓮が指をぱちりと鳴らすと、皆を乗せて帰って来た大きな船が光り輝き始め、更には空へと浮かび上がった。
「な、なんと…。空を飛ぶ船を持っておられるとは…、流石は白蓮様ですなあ」
「いえ、ただの空飛ぶ船ですから。それでは皆様、お達者で」
白蓮はそれだけ言うと、一輪を引き連れて船の中に入っていった。船内には、白い着物を来た少女が待っていた。
「それでは、船長。私たちの寺まで航行をお願いします」
「…分かった」
白蓮の言葉を聞いて、舟幽霊は船を出航させた。
舟幽霊は海に縛られる事は無くなった。そして自分から、白蓮という新しい依り処へと歩み寄ったのである。
◇ 三章 「ムラサ」 ◇
――ざざーん、ざざーん
海は今日も何処からか何処かへと波を運ぶ。
自分はその波の及ばない海の底に沈んでいた。この海の底には思いのほか太陽の光は届かずに、ただ暗くて寒い世界が広がっていた。
こんな所には、自分だって居たくはない。でも、自分の足には見えない錨が括りつけられているように、この海から動くことが出来なかった。
――どんぶらこっこ、どんぶらこ
おやまあ、今日も舟が海の上をやって来た。
彼女は急いで海上へと上昇する。やっと、自分を迎えに来た舟かもしれない。この足に繋がれた錨を解き放ってくれる舟が。
だが、静かに海の上に佇む彼女の目には望んだものとは違う舟しか見えなかった。
彼女は怒りに任せて、手に持つ柄杓を振るう。哀れ、突然引き起こされた大波によって舟は海の藻屑となった。
――ざざーん、ざざーん
彼女は沈む。波の中へと。
彼女は沈む。仄暗い海の底へと。
◇ ◇ ◇
舟幽霊が寺へやって来てから一週間が経とうとしていた。だが、一輪は未だに舟幽霊と口を聞いたことがない。いくら話しかけようとも舟幽霊は一輪に返事をしてくれないのだ。
今日も、雲山と一緒に瞑想の修行を終えて廊下を歩いていると、丁度目の前の襖を開けて舟幽霊が現れた。その全身は、まだ水に濡れたようにじっとりと湿っており白い着物もぼろぼろで寺の景色には全くそぐわない。舟幽霊は一輪と目が合うと、無言ですぅっと後ろに下がった。
「あ、ねえ!せめて名前くらい教えてよ!」
襖の向こうへ戻ろうとした舟幽霊に対して、一輪が慌てて声を掛ける。舟幽霊は一瞬、身体を固まらせると、ゆっくりと一輪の方へと首を向ける。
「…ムラサ…」
その唇が動かして紡いだ言葉が、一輪にとっての彼女の名前となった。
「ムラサって言うんだ!ねぇ、私は一輪…で、この入道が雲山なんだけど…せっかく同じお寺に住んでいるんだから、もっと仲良くしようよ!」
追いかけようとする一輪に、しかしムラサはぴしゃりと襖を閉めて拒絶した。
「私は、その気がない」
襖越しに聞こえて来た声に一輪は立ち止まって、襖へと伸ばした手をゆっくりと下げた。
「…私、嫌われてるのかなぁ。雲山…」
肩を落とす一輪に、雲山が慰めるように肩を叩いた。
◇ ◇ ◇
晴天の日。寺では昼食の後に境内で木剣の素振りを行うのが恒例であった。白蓮が毘沙門天を信仰している事から、白蓮にとって武を鍛える事は良しとする考えである。
一輪も小さな手に木剣を握って素振りをする。その横でムラサも並んで辿々しく素振りをしていた。
白蓮は、その様子を見て満足げに頷く。寺に住んでいる人妖の中では星が最も剣術に長けているが、一輪とムラサにも剣の素養はあると白蓮は見込んでいた。
「姐さん、一輪と打ち合いの稽古がしたい」
突然、ムラサが白蓮に向かって呟いた。その言葉に、隣で汗を流して素振りを続けていた一輪も驚いて目を見開いた。
「ええ!?なんで、突然…」
「ムラサ、一体どうしたのですか?」
白蓮の問いに、ムラサは木剣で一輪を指すと目を覆う髪の合間から恨みがましさに満ちた瞳を覗かせた。
「こいつより、私の方が姐さんの役に立てる。それを今、証明したい」
ムラサはまるで親の仇でも見るような目で一輪を射抜いた。一輪は、あからさまに敵意を向けられて動揺する。何故に此れほどまでに敵意を向けられなければならないのか、それが一輪には理解が出来ない。
が、しかし。一輪にとっては自分に敵意を向けられた事よりも先に解決しておくべき事案があった。
「ちょ、ちょっと待って。ムラサ、貴方…白蓮様の事をなんて呼んだ…?」
その場違いとも言える質問に、全員がきょとんとしながらもムラサはぼそりと小声で答える。
「姐さん。」
その答えを聞いた一輪は、頭を殴られたように衝撃を受けてたじろいだ。そして、手に持った木剣でムラサを指して激昂する。
「ちょっと、何よその呼び方!すごいカッコいいじゃない!!一番弟子の私を差し置いてそんな呼び方、許さないわよ!」
「…なら、あんたもそう呼べば?」
ムラサはニヤッと挑発するような笑みを一輪に向ける。それを合図にして、お互いが一斉に木剣を振り上げた。
「てぇぇい!」
「…はっ!」
二人の木剣が頭上でかち合う。二人は痺れる手に喝を入れて、二合目の打ち合いの為に腕を振り上げた。
「そこまでッ!」
白蓮の喝が、二人の動きをぴたりと止めた。思わず、見ていただけの雲山もその声にびくりとしてしまうほどの迫力であった。
「二人とも、私闘で剣を振るうとは何事ですか!揃って座禅してきなさい!」
珍しく怒った白蓮の迫力に押されて、二人ともすっかりと争う気を無くした。剣を降ろして、苦にがしい顔で二人は顔を背けた。
白蓮に背中を押されて、とぼとぼと本堂へやって来た二人は本堂で正座をして手を合わせると黙想に入った。
「それでは雲山、私の代わりにお願いします」
白蓮は、雲山に警策を手渡して本堂を後にした。それは、すなわち雲山の裁量に合わせて警策を与える事であり、雲山が一輪たちに厳しくする事はないだろうという白蓮の配慮であった。
一輪とムラサは、隣合わせで座禅を組んで黙想していた。しかし、暫くすると一輪から口を開いた。
無論、座禅中に私語をすれば警策を頂く事にはなるが、雲山も聞こえぬ振りをして本堂にただ漂っていた。
「…ムラサ、貴方…なんでそんなに私の事が嫌いなの?私から酷い事した覚えなんてないんだけど」
その言葉を聞いて、しばらく無言を貫いた後に、ムラサも目を瞑ったままに口を開いた。
「別に何かされた覚えはないわよ。…ただ、生きているあんたが気にくわないだけよ」
「……まあ、幽霊にそんな事を言われちゃあ、しょうがないわね…」
それから、一時間ほど。二人は無言のままに座禅を終えた。二人はやはり無言のまま、本堂を後にする。
「二人とも、よく反省しましたか?」
本堂の外で待っていた白蓮に、二人は互いに目を合わせず返事を返す。
「はい。反省しました」
「すみませんでした」
反省はしたものの、和解をした訳ではないという事をお互いに強調する態度を見て、白蓮も困ったように首を傾げる。
「ねぇ、ムラサ。ちょっとお話があるから私の部屋までついて来てちょうだい」
「はい、姐さん」
そういって白蓮に連れていかれたムラサを見て、一輪は自分がまた蔑ろにされていると思って憤慨した。だが、そんな一輪の袖を雲山が引っ張って耳打ちをする。
「えっ?“白蓮様にムラサとの話を盗み聞きするように言われた?”本当に、白蓮様がそんな事言ったの?」
一輪はその言葉に疑問を感じながらも、雲山が嘘をつくような性格ではないと知っていたので白蓮の部屋へと足を運ぶ事にした。
白蓮の部屋につくと、一輪は忍び足で障子戸へと近づいて聞き耳を立てた。部屋の中では、白蓮とムラサが話をしているようだった。
「それで、ムラサ。…何故、一輪に対してあのような事を言ったのですか?私も貴方と一輪が喧嘩をしているのは見たくありませんよ」
白蓮の問いにムラサは暫く無言を貫いていた。だがそんな時に白蓮は、相手が答えるまでその優しい眼差しでじっと見つめてくるのだ。「あれで、結局は色々と喋っちゃうんだよね」と一輪は部屋の中の様子を想像しながら、口中で呟いた。
案の定、暫くすると障子戸の向こう側からムラサの言葉がぽつりと零れた。
「……だって…悔しいじゃない」
白蓮の言葉に返答するムラサの声は震えていた。それに気づいた一輪は、この場に居ていいものかと思い、雲山と目を合わせた。雲山もこのまま盗み聞いていて良いものかと複雑な表情であった。そんな二人の悩みをよそに、部屋の中では更に二人の会話が続いた。
「悔しい…とは…?」
再び部屋の中に無言が続いた。しかし今度は、ぱたぱたと畳に雫が落ちる音が障子戸の向こうから静かに聞こえてきた。其の音は、次第に間隔を短くしてムラサの言葉を待った。
「だって…だってさぁ…。私、お父さんと一緒に陸に行く途中だったのよ…それが、舟がひっくり返って…あっさり死んでさぁ…。だから……元気に生きてるあの子が、羨ましいのよ…私だって、私だって…もっと生きているうちに色んな所を見て、色んな事をして…。生きたかったのに…!」
ムラサはそこまで言うと、わっと泣き出した。泣きじゃくる声は、白蓮の胸の中に収められて少し静かになる。
「そう、そうね。貴方は、あの海からずっと離れられなかったのよね。もっと生きていたかったから、だからあの海に縛られていたのね」
「うん…。でも、姐さんのおかげで海から離れられた…。でも…でも…」
そこまで聞いて一輪は歯を食いしばり、ぐっと胸に拳を当てて法輪を握りしめた。――幽霊となって存在はしているが、それは人間としての生ではないのだ。自分や白蓮のような人間と一緒に過ごすことが、ムラサの心にとって負担になる事など、一輪は微塵も考えてはいなかった。
「貴方はもう、縛られた霊ではないのよ」
「でも、羨ましいのよ。法力もすごくて、姐さんからも信頼されてる一輪が…これから人間として過ごしていけるあの子が…たまらなく眩しいのよ…」
そこまで聞いて、一輪は耐えられなくなって静かにその場を離れた。雲山も普段より一層険しい表情で一輪に付き添う。
「そっか…あの子の気持ち…。考えられてなかったな、私…」
そう呟いた一輪に、雲山が耳打ちをする。一輪がムラサの事で気に病んで落ち込んでしまわないかを気遣ったのだ。
「え?大丈夫…、そんなに落ち込むほど、私はやわじゃないわよ」
だが、やはり一輪の足取りは重かった。人間と妖怪の平等を訴えて、単純に妖怪とも友達になれると思っていた自分の考えが、如何に浅はかだったかを一輪は思い知った。死んだ人間から見れば、生きている人間がどのように映るかなど、一輪は考えたことがなかったのだ。
◇ ◇ ◇
「水蜜!」
父の伸ばした手は、激流の中に巻き込まれて自分の視界から消え失せる。
「おとう!うわっ」
荒波が容赦なく幼い身体を海面へと叩きつけた。どちらにせよ、自分たちの乗ってきた船も一緒に波でひっくり返されているのだから、今さら海に投げ出されようが関係は無かった。
『なんで…!』
海水に口を塞がれながら、少女は叫んだ。
陸地まで、後少しだった。視界の向こうには夢にまで見た陸地が見えているのに。
『なんで…!』
突然の時化は、容赦なく少女の命を夢を、暗い暗い海の底へと引きずり込んでいった。
海という名の化物に飲み込まれた少女は、上も下も分からない状態で。ただ、まだ見ぬ陸地を夢見ていた。
「なんで…!」
叫んだ言葉は、寝室に響いた。外からは鳥たちの囀りが聞こえる。
ムラサは息を切らしながら、布団から身を起こして周りを見渡す。そこは数日前から泊まっている寺の一室であった。
「幽霊も、夢を見るのね」
自嘲気味に笑ったムラサは、布団を畳むと障子戸を開けて外へ出た。今日は快晴だ。
目的があるでもなく道場へと足を向けたムラサは、そこで白蓮と星の稽古が行われている様子を目にした。
二人が木剣を打ち合わせる様子を開け放たれた扉の陰から見つめるムラサには、何時もの様な陰鬱な雰囲気は感じられなかった。
白蓮には助けてもらった恩があるし、星にも特に抵抗はない。
だが何故だろう。あの一輪に対しては、何か二人の間に見えない壁があって、それが自分を苛立たせるのであった。
今のムラサには、自分からその壁を打ち破る力は、無かった。
◇ ◇ ◇
その日は、雲ひとつ無い快晴であった。修行を一通り終えて暇な時間が出来た一輪は、雲山と共にムラサの姿を探した。
二人は道場の外から白蓮と星の稽古を見学しているムラサを見つけると、後ろからそっと近づいて声をかけた。
「ねぇ、ムラサ」
「…何よ」
振り向いて睨みつけてくるムラサに向かって、一輪はにっこり笑って雲山を指差す。
「ちょっとさ、空を散歩しに行かない?」
「…はあ?」
呆気に取られるムラサの目の前で、雲山は自分の身体をむくむくと膨らませて、一輪とムラサの二人が乗り込めるほどの大きさに成った。
「雲山に乗って空を飛ぶと気持ち良いんだよ!ムラサも一回乗ってみなよ!」
「…私は、いいよ」
そう言って立ち去ろうとするムラサの手を取って、一輪は強引にムラサを雲山へと引き込む。
「ちょっと、何するのよ!」
「騙されたと思って乗ってみなよ!さぁ、雲山。出発よ!」
こくりと頷いて上昇し始める雲山に、道場内で稽古をしていた星が気づいた。彼女は木剣を放り出して道場から飛び出してくると、一輪たちに向かって叫んだ。
「ちょっと!こんな晴れた日に入道に乗るのは目立つから駄目ですよ!」
「あ、見つかった。雲山、逃げて!」
「むむ、こらー!」
空に飛び出して追いかけようとする星を、後ろから白蓮が肩に手を置いて止めた。
「聖…。いいのですか?」
「ええ、好きにさせてあげて」
星は白蓮の言葉とあれば引き下がるしかなく、自分の鍛錬の為に道場へと戻っていった。白蓮は、一輪たちの事を少し心配しながらも愛弟子の行動を黙って見守る事にした。
◇ ◇ ◇
雲山は青い空を何者にも邪魔される事なく飛んだ。その背中の上では一輪が楽しそうにはしゃいでいる。
「ね、風は冷たいけど日差しが強いから気持ち良いでしょ~」
「あ、ああ…」
その長い髪をなびかせながら、明るい笑顔で話しかけてくる一輪に、最初は無視を決め込んでいたムラサも少しずつ反応を返した。
眼下には小さく人間たちの集落が見え、近くの山々も遠くの海原も一瞥出来るほどの絶景が一輪とムラサの目の前に広がっている。
「すごい、景色だな。船を操ってる時は、景色が見えないから…初めて見る」
「ああ、そっかあ。船長は操舵に忙しくて景色が楽しめないんだ!損な役回りねぇ」
「…ふっ」
しばらく空を飛んでいると、やがて二人は無言になり、暫くただ景色を眺めていた。
「あのさ…、ムラサ」
「…なんだ」
一輪は、雲山の広い背中の上でうつ伏せに寝っ転がると、横で胡座をかいているムラサの瞳を見つめた。ムラサは何時も顔を隠している長い前髪が風で煽られて、その素顔を初めて一輪に晒している。
その顔立ちは、一輪とそう変わらない少女の様に見えた。そんな少女の姿をした舟幽霊は、果たしてどれ程の長い年月を海の底で過ごしていたのであろうか。
ムラサの顔をようやく見れた一輪は、飛びっ切りの笑顔になってムラサに語りかける。
「せっかく海から離れられたんだ。これから、私や白蓮様と一緒にさ……この世の色んな物を見ようよ!私も、まだまだ知らない場所とか知らない物を見たい。だから、ムラサと一緒に色んな世界を見たいんだ!」
そう言い放った一輪の言葉に、ムラサは思わず目をそらす。視線を外された一輪が、戸惑いを見せた瞬間。ムラサは再び顔を上げると改めて一輪の顔を見た。
「…ありがとう。私も…、私も色んな世界を見たいんだ」
「……!じゃあ、改めて…よろしくね、ムラサ!」
二人は、雲山の上で軽く握手をした。ムラサのひんやりとした手が一輪の手に重なった時、雲山の背中から小さな雲の腕が出現して、二人の握手した手を覆った。
「ああ、そうだ。雲山も一緒にだ!三人一緒で、行こう!」
「うん。そうしよう…」
ムラサは、少し気まずそうに握手した手を放すと、意を決したように一輪に頭を下げた。
「この前は、ごめんね。私、本当にあんな事を思っていたわけじゃないの。ただ、貴方が羨ましくて…」
剣術の稽古の際のいざこざについて謝罪するムラサに、一輪もバツが悪そうに頭を掻く。あの時は、自分も怒って剣を振り上げてしまったのだ。ムラサだけに謝られるとむず痒い。
「あっ…。何言ってるのよ!そんな事、誰も気にしちゃいないわよ!……えへへ、そうだ。じゃあ、お詫びにさぁ。白蓮様の呼び名を私にちょうだい」
「…呼び名?」
「うん、“姐さん”っていう奴。あれ、カッコいいじゃない。私も白蓮様の事を姐さんって呼びたいのよね~」
元々は白蓮を慕う心から、自然に出た言葉。ムラサは新しい友達と仲直りをするきっかけになるのならば、それを譲る事は苦では無かった。これも、白蓮からの贈り物なのではないかとすら思ったムラサであった。
「ふ…なんだそんな事…。じゃあ、それは一輪にあげるわ」
「ふふ、じゃあこれで仲直りね!」
二人は、今度は固く握手をした。そんな少女たちの会話を背中越しに聞いて、雲山は一安心と笑ったのであった。
その日、手を繋いで寺へと戻ってきた一輪とムラサを見て、寅丸星は首を傾げて聖白蓮はにっこりと笑った。対照的な二人の反応を見て、二人の少女は目配せをして笑った。
◇ ◇ ◇
少女は夢を見る。
それは、自分が父親と二人で人生の大半を過ごした小さな島での、幸せだった日の記憶。
「おとう、久しぶりだね」
浜に停めてある舟の上に一人の男がいる。漁に使う網を仕舞い込む父親に向けて、砂浜から村紗が声を掛けた。
「おおう、水蜜。つい先日に会ったばかりの気がするがの」
黒い肌に筋骨隆々の身体をあくせくと動かし、父親は網の手入れを始めた。彼は男手一つで村紗を育て上げた。その為には漁師だけでなく商人の真似事もしていた。――それが命取りになったのであるが。
「……そうだね。でも、今日はお別れを言いに来たんだ」
村紗の言葉に、父親は動きを止めてゆっくりと娘へ振り返る。
「そうか。遂に、お前とも会えなくなるか」
父は白い歯を見せて笑う。村紗は、この父親が自分の中に潜む幻影だと知りつつも、その別れを惜しんだ。
「分からない。私が成仏したら、また会えるかもね」
少しずつ、周りの景色が黒く塗りつぶされていった。白い砂浜も、海猫の鳴き声も、青い海も、限界を迎えたように崩れていった。
「水蜜が成仏する時は多分、俺も成仏して消えてしまうだろうさ」
「ごめんね、おとう」
「馬鹿、親として、これほど嬉しいことがあるかい」
最後まで残っていた父親も、静かに黒く塗りつぶされていく。やがて、村紗の心の中は真っ黒な空間が広がるだけになった。
これからは、そこにムラサの景色が描かれていくだろう。
「…さようなら」
呟いたムラサは、布団の中で目を開いた。清々しい朝であった。外では小鳥たちの囀りが聞こえる。
この日以来、ムラサは村紗の夢を見なくなったという。
◇ 四章 「入道屋一輪」 ◇
その日の寺は、活気に満ちていた。一輪とムラサも境内で仲良く並んで、ある人物の帰りを待った。
「あ、来たわ!」
白蓮が指を差した先には、空から寺へと降下してくる星の姿があった。彼女は、何時ものような質素な着物ではなく立派な召し物を身に纏って、左手に如何にも霊験あらたかな宝塔を携えていた。
星が寺の境内に降り立つと、白蓮を始めとした寺の仲間たちが彼女を祝福した。
「おかえりなさい、星。立派な姿になりましたね」
「ありがとう、聖。これで貴方に受けた恩を少しでも返す事が出来ますよ」
「おめでとう、それが毘沙門天様の宝塔なの?」
「ええ、ありがとうムラサ。これで、ようやく寺にも妖怪たちが寄りつくようになるでしょう」
「…おめでとう、って雲山も言ってるわ」
「ありがとう、一輪に雲山。これからも寺の為に尽力したいと思います」
そう、寅丸星は念願叶って毘沙門天の弟子になる事が出来た。そして、その証である宝塔を受け取り、代理として寺の本尊になるのだ。
其れに関して、一輪はといえば内心面白くなかった。結局の所、一番弟子である自分を差し置いて星が毘沙門天の代理として寺の本尊になるのだから、白蓮に対する貢献度としては追い抜かされた感は否めない。
だから、星の出世にも素直に喜べない自分がいた。また、そんな自分の嫉妬心に対して羞恥の心を持っているのが一輪のらしさでもある。
「さぁ、星の就任のお祝いに、お寺で祝賀会を開きましょう!」
白蓮の言葉に、ムラサは待ってましたと手を叩く。一輪は仕方無しに雲山と共に祝賀会の準備に取り掛かった。
今回の祝賀会では、近隣の村の者たちも招待しての大掛かりなものになる。妖怪を誘致するという目的が達成されると共に、人間との関わりも保っておきたいという白蓮の想いを色濃く反映したのが、この祝賀会である。
前々から下準備は整っていたので、一輪に残された仕事は雲山に指示して飾り付けをしたり、食事を運ぶだけであった。
「あら…?あの子は誰?」
祝賀会の準備に一輪やムラサが慌ただしく動く中、白蓮は寺の境内に見慣れぬ妖怪がいる事に気づいた。
「ああ、すっかり忘れていました。毘沙門天様から、何か用立てがある時に使うようにと一匹の妖怪をつけてもらったのです。ナズーリン、こちらへ」
星に呼ばれた鼠の妖怪は、白蓮の元にやってくると恭しく頭を下げた。その耳や尻尾から、鼠の妖怪である事は一目瞭然であったが、その妖怪からは一介の妖獣とは違った気位を感じさせる風格があった。
「毘沙門天代理の部下として配属されました、ナズーリンです。以後お見知りおきを」
「あらあら、御丁寧にどうも。毘沙門天様も気を使ってくださって…、うちの寺は自由に使ってくださって構わないわよ」
「はっ、では早速…祝賀会の手伝いでもしましょうか」
そういうと、ナズーリンの尻尾に引っ掛けられた籠の中から、小さな鼠が素早く散っていった。鼠たちは器用に境内の飾り付けを始めた。
「まあ、優秀なお子様ですね」
「別に私の子供じゃない、手下ですよ」
そういうと、ナズーリンは「では、境内を見回ってきます」といって白蓮の前から立ち去った。白蓮は感心したように作業を進める鼠たちを見守った。
「中々に優秀な妖怪のようです。私よりは雑務も得意なようですしね」
「そうねぇ、これから星には御本尊としての仕事があるから、他にあまり仕事も頼めないでしょうし。ナズーリンが来てくれて助かるわ」
白蓮は新しい寺の仲間たちに笑顔で歓迎の意を示した。小鼠たちは、そんな白蓮の笑顔を知ってか知らずか忙しなく動き回るばかりであった。
◇ ◇ ◇
夜になると、村の人々が寺に集まって祭りは大いに盛り上がっていた。『毘沙門天様、いらっしゃいませ』と書かれた横断幕が境内に釣り下げられ、主賓である毘沙門天――星が現れると人々は喝采を浴びせた。
「おおぉー!毘沙門天様ー!おらたちの村を守ってくださいませー!」
「いやー、あの宝塔の輝きを見ろよ!あの方がおられたら、妖怪など一瞬で倒してくださるに違いない!」
口々に褒め称える民衆に向けて、星はあくまでも厳格な表情を作って毘沙門天を演じた。あくまでも、毘沙門天の代理という事ではあるが、村人たちには毘沙門天そのものだと言った方が通りが良いので本人からも許可を貰って演じているのだ。
「はぁ、すっかり星が主役って感じねぇ」
一輪は誰に言うでもなく呟いた。いつも一緒であるはずの雲山は、祭りの場では流石に人目につきやすいという事で裏方に回って料理の仕出しを行っている。
「あら、どうしたのよ?柄にもなく落ち込んでさ」
後ろから声を掛けられた一輪は、さっと振り向いて目にした物に驚いた。そこには、髪を短く切って法衣を身に纏ったムラサが居た。その姿はまるで人間そのもので、この人ごみの中に紛れても違和感が無かった。長く垂れ流された髪と白い着物、それに常に濡れていた身体を一掃したムラサは、まるで別人だった。
「ちょっと、ムラサ。何その格好!?びっくりしたわ、まるで人間よ」
「ええ、聖に髪を切ってもらって法衣も借りたの。これなら祝賀会を一緒に楽しめるでしょ?」
そういったムラサは、干し柿を一輪に向けて放り投げた。一輪はそれを受け取ると、むしりと齧ってその甘味を味わった。
ムラサも、一口だけ干し柿を噛むと咀嚼しながら一輪に話を振る。
「で?星に対して嫉妬でもしてるの?」
「嫉妬、ねぇ…そうなのかなー。でも、妖怪の警戒心を解くには人間の私じゃ駄目って事は理解してるし、星がすごい努力をしてああなったってのは知ってるのよ」
ムラサはうんうんと頷いて、干し柿の二口目を齧る。一輪は騒がしい祝賀会の様子をぼうっと見つめながら、物思いにふけった。
その騒々しさの中で、一人の妖怪が仲間外れになっている事を思い出した一輪は、星に対する嫉妬など吹き飛んで突如として怒りだした。
「…っていうか…。ムラサもこうして人前に出れているのに、雲山だけが裏方っていうのは…なんか釈然としないなあ!雲山も人間たちと仲良く出来ないかしら?」
「あら、裏方っていえば…確かナズーリンとかいう妖怪も裏で仕事してるじゃない?」
「ナズーリンは、自分が裏で補助するのが好きな質らしいからいいのよ。でも雲山は本当の所、人間と仲良くしたがっているの。それが、人間の前に出れば妖怪って事で門前払いされちゃってさ。なんとかならないかしら?」
「うーん…、元人間である私の視点から見ても…入道がいきなりこの場に現れたら、この祝賀会は騒乱になって台無しになると思うわ」
ムラサもお手上げといった感じで、雲山を表舞台に出す良い方法は見つからなかった。そこで一輪は、白蓮ならば何かの智慧を持っているのではないかと思って白蓮の姿を探した。
「姐さんなら、何か妙案を下さるかもしれないわ。でも…どこかしら?」
「ああ、聖なら…確かあっちの方でおじさんたちと話してたわ」
「ありがとう!じゃあ、また後でね!」
ムラサの指差した方へ一輪は走った。一刻も早く、雲山の事を皆に紹介してあげたくて彼女の心は足をより一層早く動かした。
白蓮は各村の長たちと懇談していた。彼らとしても妖怪から自分たちを守ってくれる若い尼僧は垂涎の救世主として歓迎したい。だから、毘沙門天として現れた星も、高名な僧である白蓮も人間たちに人気なのだ。
そんな集まりの後ろからこっそりと近づいた一輪は、白蓮の背中をとんとんと叩くと小声で話した。
「あ、姐さん。ちょっといい?」
「?…すみません、皆さん。ちょっと席を外します」
突然、一輪に呼ばれた白蓮は、なにかしらと思って一輪と共に武道場の陰にやって来た。そこで一輪は、なんとかして雲山を人間たちにも周知させてあげたいという思いを白蓮に話した。
「どうにかして、雲山を村の皆にも打ち解けさせたいんです。どうにかなりませんか?」
「ふーむ、そうですねぇ」
白蓮は少し考えると、一輪に対して一つの案を出した。それを聞いた一輪は、これならば大丈夫だと顔をほころばせた。
「ありがとう、姐さん!じゃあ早速準備してくるわ!」
「ええ、くれぐれも雲山にきちんと説明してね」
一輪は、嬉しそうに料理の仕出しをしている雲山の元へ駆け足で向かった。
◇ ◇ ◇
宴もたけなわ、そろそろ祭りも終わろうとしていた時、白蓮が村人たちの前に出てきた。
「さて、皆さん。最後に我が寺の誇る世にも奇妙な大道芸をお見せしましょう」
酒に酔った大人から、騒ぎ疲れた子供たちまでが白蓮の言葉に耳を傾けて何が始まるのかと期待に目を輝かせた。
「さぁ、それでは…“入道屋”一輪の登場です!」
白蓮がぱぁっと両手を天に掲げると、夜空にきらきらと輝く美しい星が散りばめられた。白蓮の魔法による演出である。――これには大人たちも目を見張って拍手で沸いた。
そして、その眩しいほどの星空の中を雲山に乗った一輪が舞った。雲山に抱えられて舞いを踊る姿は、まるで空中を自在に飛んでいるように錯覚させる。その幻想的な景色に、人々は妖怪である入道が自分たちの目の前に現れている事を忘れた。
「あ、一輪姉ちゃんだー!何してんのー!?」
「おう!姉ちゃん、すげえじゃねえか!」
酔った大人や見知った子供の囃し立てるような声に、一輪は手を振って応える。そして、高度が下がった時を見計らって雲山から飛び降りると、上空に残された入道の親父を手差しした。
「さぁ私の友達、雲山入道の福笑いをご堪能あれ!」
一輪に紹介された雲山は、意を決して打ち合わせた通りに空中をしっちゃかめっちゃかに動き回る。そして、ぴたりと止まるとその顔をぐにゃりと崩して笑いを誘った。
厳つい親父の顔が道化のように崩れたのを見て、大人も子供も笑い転げた。更に雲山はおどけてひょっとこの様な顔になったり、逆立ちして跳ね回ったりと、とにかく頑張った。
その甲斐もあって、一輪と雲山の“入道屋”は大成功となった。お終いに、一輪が右手で雲山を平手打ちすると、親父は泣き顔になってそのまま空の彼方まで吹っ飛んでいった。それでこの芝居は幕である。
人々は、残った一輪に向かって拍手を浴びせる。彼女はお辞儀をしながら、オチの為に吹っ飛んで行った相方が戻ってくるのを待った。改めて、人々に向けて雲山を紹介する為に挨拶させようと思ったのだ。
「どうも、ありがとう!ちょっと、待ってね。今、雲山も来るから…」
そう言って、民衆に雲山が来るまで待って欲しいと伝えた一輪は、次に衝撃的な言葉を聞くことになる。
「え?あの入道、今から退治するんじゃないのか?」
人ごみの中から聞こえたその言葉に「えっ」と声を上げた一輪は、その意見が一人だけのものではない事に気づいた。
「なんだ、あれで本当に退治したんじゃないのか」
「入道なんて、気味が悪い…早く退治しておくれよ」
「見世物としては面白かったけどさ、早いとこ始末しとってくれ」
人ごみのあちこちから、そんな声が聞こえた。そして、その声はやがて民衆の総意となって、大きな「退治しろ」という声が寺に響いた。
「あ、え、その…」
その民衆の発する怒気に狼狽えた一輪は、しかし視界の端に一匹の入道が彼方へ飛び去って行くのを捉えた。
「あっ、雲ざ…」
「おい!姉ちゃん、このまま逃がしちゃまずいだろ!今すぐ退治してくれよ!」
「一輪姉ちゃん、どうしたの?早く追いかけて!」
思わず雲山を追いかけようとした一輪であったが、もしも改めて“雲山が自分の友達であると”この場で告白した場合。――この人間たちは、自分をどうするつもりなのであろうか――そんな考えが頭に過ぎった瞬間、一輪の身体は金縛りにあったように動かなくなっていた。
「一輪!」
そんな一輪に正気を取り戻させたのは、自分の腕をきつく引っ張ったムラサの声だった。
「ほら、雲山を追いかけるよ」
「え?」
耳元で囁かれた言葉に、一瞬呆けた面で聞き返した一輪であったが、白蓮と星がその場を落ち着かせようと民衆に何やら話しているのを見て状況を理解できた。
――寺の皆は、私と雲山の為に協力してくれているんだ。
そう思うと、一輪の足は自然と動き出した。皆が協力してくれているのに、自分が動揺して立ち止まっている訳にはいかない。
「さぁ、私の船で追いかけましょう」
寺の一角に停泊している空を飛ぶ船までムラサが一輪を引っ張ってくると、船はやや先走り気味に浮上を始めた。
「さぁ、雲山がどっちに行ったか分かる?」
「えぇ…はっきりとは分からないけど…多分、方角はあっちだったわ」
ムラサはパンと自分の両頬を叩いて気合を入れると「出発!」と発して舵を取った。空飛ぶ船は勢い良く空へと出航すると、ぐんぐんと加速して夜の空を往く。
◇ ◇ ◇
雲山は、夜の闇に溶け込もうとしていた。
土台おかしな話であった。入道である自分が人間たちと交流をしようなどと…。やはり、一輪が極めて特殊な少女であっただけなのだ。一輪からの折角の提案も、断ればよかった。自分のせいで寅丸星の晴れ舞台が台無しになってしまったかもしれない。
雲山は酷く後悔していた。
このまま、普通の入道の様に雲と共に大空を漂う、本来の在り方に戻ろう。人間は眺めているだけで充分良いものだ。関わろうとした自分が悪かった。
雲山は、紛れ込める雲がないか空を見渡した。
穴があったら入りたいという言葉のように、今の雲山は雲があったら紛れ込みたい気分であった。
しかし、雲山の目に留まったのは雲ではなく一隻の船であった。その船は高速で自分の方へと進んできている。船はあっと言う間に自分の目の前までやってきて、その甲板から一人の人間が飛び出してきた。
「うんざぁーーん!」
◇ ◇ ◇
なんでかしらね、あの日。あの岩に腰掛けて休んでいたのは。
方々の寺へ巡礼に行く修行だったのよ。まぁ、どこの寺も程度が低くってねえ。やっぱり姐さんの所で修行している私には退屈だったのよね。
だから、帰り道にどっと疲れが出ちゃって。座って一息ついていたら、その時よ。道の向こうから大きな入道がそろそろと近づいて来るじゃない。
良く見れば、手に小さなお守りなんか握ってさ。私は一発で分かったわ、さっき此処を通って行った子供たちにお守りを届けたいんだって。
え?普通、そんなの一発で分からないって?うーん、そうかしらねえ?ムラサは、もっと人の心を察するようにしなきゃ駄目よ。
あたた、そんなに怒らないでよ。でも、確かに雲山と私って以心伝心って時が良くあるのよね。何かを頼もうとしても言葉に出す前にお互いに行動してるし。まるで、手が四本あるみたいよ。
え?雲山は手を沢山出せるから、四本どころじゃないって?細かい事はいいじゃない、とにかく…それだけ私と雲山は気が合うって事!まぁ、どうせならもっと格好良い美男子とでも気が合えば良かったけど。
え?このまま雲山が見つからなかったら、新しく美男子とでも組めばって?何言ってるのよ、冗談じゃないわ。いくら顔が良くっても、気が合わなきゃ御免よ。それに、雲山って良く見ると“昔は男前”って顔してるわよ。
ちょっと、ムラサ。笑い事じゃないわよ!私は真剣に……。あ、あれ?なんで?
あ、ありがとう。うわ、なんでだろう。なんで涙が……。え?なんで、謝るのよ?
見つからなかった時の事を考えさせちゃったから、って…?ば、馬鹿ねぇ…私がそんなくらいで、泣くわけ無いじゃない。雲山が、もし居なくなったらって……そんな事、考えられないわよ…
◇ ◇ ◇
船から飛び出して来たのは一輪であった。ムラサが目を見開いて驚き、手を一輪に向けて伸ばしたが、心配には及ばず雲山はもちろん一輪の身体をしっかりと受け止めた。
「ごめんね、雲山。私が…無理に貴方の事を皆に紹介しようとしたから…」
雲山の大きな腕にしがみついて泣く一輪は、繰り返し謝罪の言葉を口にした。それを見て、雲山は己の愚かさを呪った。
この娘に寺へと連れて来られたあの日、自分は白蓮と共に一輪の成長を見守る事を誓ったのでは無かったのか。それを此の程度の事で逃げ出すとは、情けない。
そう、謝るべきは自分。この娘らが目指す人間と妖怪の平等に殉ずる覚悟があれば、些細な事で逃げ出す訳には行かないのだ。この雲山には、その覚悟が無かったのだ。
雲山は、そのように改めて自分の覚悟を決めると同時に、一輪の優しさに心打たれたのだ。いや、恐らくは白蓮や星、そして船を飛ばして一輪を此処まで連れてきたムラサ、皆がこの一介の入道の為に動いたに違いない。そんな寺の仲間たちの優しさに雲山は心打たれたのだ。
雲山は、一輪をそっと船まで運んで甲板に降ろすと、そっと耳打ちで先程の覚悟を告げた。
一輪は、泪の痕を頬に残した顔でしゃくり上げながら頷くと、こう言った。
「これからも、一緒に遊んでくれるよね?」
無論、雲山はゆっくりと首を縦に振った。
◇ 五章 「正義の威光は誰が為に」 ◇
妖怪が住む山というのは、それはまるで顕在する地獄のようであった。人間を攫い、食い尽くし、やがて人間に討伐される。
後に残るのは人妖問わずの死屍累々である。
彼女もまた、そこに居た。だから、生き残った自分の義務として、次こそは地獄を生み出すまいとした。
彼女は妖怪に規律をもたらした。それでも、人間からすれば随分と獣臭い戒律ではあった。だが、それによって彼女の住む山はある程度の平穏を保っていられた。
だが、その犠牲となったのは彼女である。彼女は封じ込めていた。規律と戒律を敷く為に、己の野性を――
◇ ◇ ◇
寅丸星が毘沙門天の代理として寺に座してから、ようやく山に住む妖怪たちは寺に顔を出し始めていた。もちろん、人間たちには公に出来ないので、人間に見つからないようにではある。寺に集まった妖怪たちは白蓮や星から勉学を学んだり、一輪やムラサと遊んだりして平和に過ごした。
ようやく、白蓮の目指す人間と妖怪の共存が、小規模ではあるが始まろうとしていた。
だが、白蓮も気付かなかった。“妖怪を受け入れる寺”の事を、“妖怪の味方である寺”だと曲解する者たちが居ることに。
「白蓮様!大変です!」
寺に近くの村の若い衆が駆け込んできたのは、小雨の降る夕刻であった。来訪に気づいた一輪は、慌てた様子の若者を見て只ならぬ雰囲気を感じ取り、すぐに白蓮を呼んで来る。
若い衆は息を切らしながら、駆け足でやって来た白蓮に縋るように訴えた。
「妖怪に子供が攫われたんだ!二人も、小さい坊主がよぉ!」
「な、なんですって…?詳しく、お聞かせ願いますか?」
白蓮は明らかに動揺しながらも、男に詳細を聞くために彼を落ち着かせようとした。白蓮の動揺も仕方ない。何故なら、白蓮たちが寺を建立してから妖怪による人攫いは一件も発生していなかったからである。
それは、山の妖怪たちが星を中心として無闇に人を襲う事を禁じていた事や、白蓮の威光も関係ある。だが、よりによって寺に妖怪を受け入れ始めた、この時期に人攫いが発生した事は白蓮たちの心にいいようの無い不安感を生んだ。
男の話によると、この近くの村で五歳と七歳の兄弟が外に出て遊んでいると、背中から羽を生やした妖怪がやって来て、あっという間に二人を空へと連れ去ったらしい。
更になんと、その妖怪は此の寺がある山の方角へと去っていったというのだ。
「…これは、やはり我々の山に住む妖怪による仕業かも知れませんね…」
「なんで…?折角、寺に妖怪が集まって戒律も浸透してきた時に…」
星と一輪は、青い顔で呟く。それを見て白蓮は、気を確かに保って仲間たちに声を掛ける。
「時間がありません。一刻も早く、子供を救出するのです。星は一輪と雲山、ムラサはナズーリン、私は一人で三手に別れて探索しましょう。さぁ、急いで!」
白蓮の言葉に、全員が間を置かずに小さく頷くと小雨の降り止まぬ空へと飛び出した。
「雲山、お願いね」
一輪の言葉に阿吽の呼吸で自分の身体を浮かせた雲山は、そのまま星と共に空へと舞い上がった。
「星、何か手がかりはないの?貴方、昔からこの山に住んでたんでしょ!?」
「く、すみません。私も暫く前から寺に入っていましたから、最近の妖怪には明るくないのです…」
「…もう!」
一輪、雲山と星の三人は山の左手から回りこむように眼下の森に目を配る。だが、鬱蒼と生い茂った緑に多い隠された山は、外から見ただけでは妖怪も子供も確認する事は不可能であった。
「仕方ないですね、森に入りましょう」
「了解、雲山!」
一輪の声に呼応して、雲山が木々の枝を避けて森の中へと入っていく。星もそれに続いて小雨が降る森の中へと身を投じた。
森は雨雲に加えて、天に蓋をするように生えた木々の枝葉で薄暗く視界が悪い。その中を一輪たちは可能な限りの速度で飛び続けた。
兎に角、時間がない。妖怪がもしも子供を食べる目的で攫ったのなら、既に喰われてしまってもおかしくない。だからこそ、一輪も星も焦っている。その中で、雲山だけが冷静に周りを見渡していた。
自分は一輪の補佐をする役目である。一輪がもしも、冷静さを欠いている時には自分が何時も一輪が担っている役目を代わりに担わなければならない。祭りの事件で反省をした雲山は、一輪の相棒として一回り以上の成長を見せていた。
そして、それが功を奏した。雲山は、木々の合間を何匹かの妖怪が駆け抜けて行くのを横目に視認した。
「待って星!雲山が見つけたわ!」
雲山の機微な動きから、言葉にするまでもなく敵の発見を理解した一輪は、星にそれを伝える。
星も一拍遅れて、その敵の影を捉える事が出来た。そして、何も言わずにその影へと猛進した。
今の彼女らには、喋る暇すら惜しい。とにかく、子供が無事である事を確認するまでは、一秒たりとも無駄にはしたくなかった。
「待て!貴様らっ!」
星の喝に、五つの黒影が動きを止める。その隙をついて、反対側の進路を一輪と雲山が防いだ。
「…天狗か!」
星は苦虫を噛み潰すような顔で、吐き捨てるように言った。目の前にいるのは五匹の烏天狗であった。その内の特に大柄な一匹が、両腕に幼い子供を抱えていた。子供たちは気絶しているものの、まだ命は奪われていないようであった。
「おや、寺の皆さんじゃないか…どうした?」
天狗たちは悪びれる様子もなく、挨拶でもするように星に話しかける。
「あ、あんたたち!どういう…」
「どういうつもりだ!!」
一輪の声を遮って、星の怒号が森の中に響き渡った。木に止まって雨を凌いでいた鳥たちが、声に驚いて一斉に飛び立った。星が今までに見せた事のない怒りの形相に、一輪と雲山も少しの恐怖を感じた。
「どういうつもりって…、妖怪が人間を攫って何が悪いんだ?まさか、人間の坊主よろしく俺たちを退治しようってのか?虎の妖怪よ」
怒りの炎を瞳に灯した星の射ぬくような眼光をもろともせず、天狗はにやりと笑いながら言い返す。一輪は、今まで真面目一辺倒で感情をさほど表に出さない星が、これほどまでに怒りを顕にする様子に慄いていた。
「今すぐに、子供を置いて、この土地から去ね…!さもなくば、この宝塔が貴様らを塵に還す事になる…!」
「あーらら、毘沙門天様が相手か。なんだ、つまらんなあ。妖怪寺が出来たから、安心して暴れられると思ったら、ただの人間かぶれの妖怪の集まりだったのか…お前ら、相手してやれ!」
そういうと、一際大柄な天狗は子供を抱えたまま飛び立った。そして、それを追いかけんと動き出した一輪と星に、それぞれ二匹ずつの下っ端天狗が襲いかかる。
「いかせねぇ!」
「へへ、毘沙門天がどんなもんだ!」
気勢をあげて手に持った長槍を振りかざす烏天狗の二匹に、星は一瞬だけ憐憫の眼差しを向けた。
「正義の威光を、その身に受けよ」
星が左手に掲げた宝塔から、眩い光の束が発せられる。それは、まるで飢えた蛇のように生きた動きで二匹の身体に喰らいついた。
「ぐ…」
「わ…」
断末魔とも言えない、僅かな声を残して二匹の天狗はこの世から肉体を消滅させた。後には黒い煤しか残らなかった。そして、その煤も小雨の地面に落ちると土と同化して消える。
「一輪、先に追います!」
星が一輪の方に声を掛けて、子供たちを連れていった天狗を追いかけようとする。残る二匹もそれを阻止しようと、星の進路へと向かう。
「あんたらの相手は、私たちよ!」
一輪は、そう叫ぶと法輪を握った右手を突き出した。それに呼応するように、雲山もまた拳を繰り出す。巨大化した雲山の拳が二人の天狗を殴り飛ばして、子供たちを追いかけようとする星の進路を確保した。
星と一輪は、目を一瞬合わせると顔を背けた。お互いにやるべき事は分かっている。星はいち早く天狗に追いついて子供を守る。そして一輪と雲山は、この手下たちを足止めする。
「あてて、入道なんかが味方してやがるのか…?」
「んん?良く見れば女は人間じゃねえか。これはご馳走がまた一つ増えそうだぜ」
天狗たちは、肩の骨を鳴らしながら刀と槍を構える。この天狗らは高度な妖術を使えるような類ではなく、まるで人間の山賊のように武器を使う事を得意としているようだ。
「甘く見られたものね…覚悟しなさい!」
一輪は法輪に力を込めて、二人の天狗の姿を見据えた。
「はぁぁあぁ!」
気合の咆哮と共に、一輪の法輪から虹色の帯が天狗たちに向かって放たれた。天狗たちは驚いて目を見開くと、咄嗟に身を捩って虹色の帯を躱した。
「くっ、こいつ法力が使えるのか?」
「餓鬼の癖に…あちち…」
帯が掠って脇腹が焼け焦げた天狗が、傷跡をさすりながら一輪を睨みつける。思わぬ手負いをしたせいか、天狗たちは完全に頭に血が上っているようだ。
「だが、もう見切ったぜ!」
「うりゃああ!」
再び一輪に向かって突進してくる天狗に向けて、彼女は再び法輪を構える。そして、気合と共に再び虹色の帯を天狗に対して発射する。
「はぁぁあああ!」
「見切ったと!」
「言っただろうが!」
二人の天狗はその帯を軽々と避けると、そのまま一輪に肉薄した。そして、振り上げられた得物の刃が一輪の身体に突き刺さる、寸前。彼らの身体を雲山の拳が粉砕した。
天狗たちの身体は、風に吹き飛ばされた木の葉のように宙を舞って木々に激突して沈黙した。
一輪の帯による攻撃を布石として、近寄ってきたところを雲山の拳が捉える。二人の長所と短所を補い合う素晴らしい連携であった。何より、驚くべきは二人が此れを打ち合わせなしに戦いの最中に以心伝心で行った事であろう。それ程までに一輪と雲山の絆は自然と深まっており、かつ生来の相性も良かったのである。
「ぐ…ぐえ」
「い、いてえ…」
二人の天狗は暫くは動けそうになかった。一輪は、法輪に再び力を込めると、この二匹を法力の縄で締め上げて地面に転がした。
「さて、こいつらはムラサたちに回収させるとして…早く星の加勢に向かいましょう!」
一輪の言葉に雲山は頷いて、彼女を乗せると全速力で星の向かった先に飛んでいった。
◇ ◇ ◇
森の中を二人の妖怪が駆ける。片方、天狗は脇に一人の子供を抱えて旋風を巻き起こしながら剣を構える。片方、虎柄の毘沙門天は左手の宝塔から聖なる光を放ちながら右手に宝棒を構える。
その戦いの場に追いついた一輪と雲山は、木陰からその様子を見守る。雲山はすぐに加勢に行こうと飛び出しかけたが、それを一輪が制した。
「いい?今出ていっても、子供を人質に取られたら手出しが出来なくなっちゃうわ。むしろ数の不利を悟って、その行動を取る可能性が高くなる前に……この距離から機を伺って私たちが子供を取り返すのよ。そうすれば星がアイツを倒してくれる」
一輪の冷静な判断に、雲山はこくりと頷いて了承した。やはり、大局的な見方を出来るのは一輪であり、自分はそれに従うのが性分に合っていると雲山は改めて思った。
確かに、星は戦いあぐねていた。子供を脇に抱えられては宝塔の攻撃も下手に命中させる事は出来ない上、もう一人の子供が何処に行ったのかが気になって動きも鈍くなっていた。
「天狗よ、何故だ!何故に人を攫ったのだ!」
星は苦戦を誤魔化すように天狗に向けて吠えた。天狗は高速で移動しながらも、星の問い掛けに応じる。
「それは、俺たちが妖怪だからよ。おかしなのはお前らだ、寅丸星!」
「…私の事を知っているのか」
星は宝塔の威光で天狗の移動速度を何とか殺しながら、宝棒での接近戦に持ち込もうと木々の合間を縫うように走る。天狗は星の追跡を邪魔させるように風で石や枝葉を吹き荒らしながら後退する。
「へっ、やはりお前は俺らの事など知らなかったか。俺たちはな、お前が寺へと入った後に妖怪の山を取り仕切っていた者だ」
「…そうだったのか…、それが何故!?山を仕切っていた者が人を攫うなどという…」
「馬鹿が。俺らはお前が山に敷いた取り決めを壊そうとしていたんだ。妖怪が人間を無闇に襲ってはならないなど、そんなのは狂気の沙汰。だが、俺たちの考えに賛同する者は少なかった…」
星の宝塔が天狗の足元を掬おうと地面を舐めるように焼き付ける。それを躱した天狗が巻き起こした旋風が星の身体を吹き飛ばそうとするも、彼女も咄嗟に横手に退避してそれをやり過ごす。そして、舌戦は続く。
「当たり前だ、私がどのような努力の果てに、今の秩序を作ったと思っているのだ。妖怪が人間を襲い、やがて退治されるという悪しき時代は終わりなのだ!このような事を続けていては、やがてこの世界から妖怪自体が消えてしまうぞ!」
「真面目な振りをした気狂い妖怪がっ!そうやって自分たちの存在意義を無くしていく事こそ、妖怪が世界から消えようとする原因となると、何故分からんのだ!」
天狗は口論にしびれを切らし、一転して星へ向かって突進した。星は宝塔の攻撃を辞めて、右手に握った宝棒の穂先を天狗の心の臓へ目がけて構える。
「死ねっ、虎!」
「やらせん!」
二人の掛け声と共に、二つの刃が空中で交錯した。星の宝棒は天狗の脇腹を掠める。一方、天狗の剣は宝塔から伸びた一閃の光線によって弾き飛ばされた。
「何ッ!?」
「もらったっ!」
星は宝棒を手放すと、天狗の脇に抱えられた子供へと手を伸ばす。だが、天狗も黙ってそれを見逃す訳はない。子供をぐいと自分の身体の内側に抱え込むと、星の伸ばした手を躱した。
「く、待て!」
得物を無くした天狗は、一旦逃げようと身を翻した。ここで逃してはならないと、星も追いかけようした。
「今よ!」
一輪の声と共に、天狗の逃げようとした先の木陰から雲山が飛び出した。その姿はまるで山の様に大きく、雷様の様な怒りの形相であった。
「ぬわっ!?」
これには天狗も驚いて、子供を抱える腕の力が一瞬ゆるんだ。その隙をついて一輪が天狗に向かって駆けた。
「喰らえーっ!」
一輪の法輪から発せられた眩い光は、天狗の視界を一瞬にして奪った。そして、天狗は思わず両手で己の瞳を守るように構える。手から転げ落ちた子供は、飛び込んだ一輪の腕に収まった。
「一輪、雲山!良くやってくれました!」
「話は後、早く倒して!」
ぬかるんだ地面にうつ伏せに倒れて顔を汚した一輪の叫びに、星も改めて天狗に厳しい目線を送った。
「さぁ、人質はいません…!覚悟しなさい…!」
宝塔を構えて迫る星に、天狗はジリジリと後退しながら手を前に突き出して“待った”を掛けた。
「ま、待ってくれ!もう一人の子供、俺が教えなければ決して分からないような所に隠して来たんだ。俺を此処で殺したら、この寒さだ。あの餓鬼は死んじまうぜ!」
天狗の言葉に、一輪も星も歯ぎしりをした。確かに、二人いた筈の子供は此処には一人しかいない。もう一人の場所をこの天狗から聞き出さなければ、子供の命に危険が及ぶのは確かだ。
「条件は、なんだ?」
「へへ、俺の命を見逃してくれるって約束してくれたら…教えてやるぜ」
星は一輪に視線を送った。一輪は、苦々しく唇を噛んで首を横に振った。一輪たちにとっては子供の命を助ける事が最も優先されるべき事である。ここで天狗を退治する事は、その目的ではない。
「分かりました。毘沙門天に誓って、貴方の命を取らないと約束しましょう。さあ、子供の所へ案内するのです」
「へっ、寅丸星。流石は山の奴らに人望があっただけある、話が分かる奴だぜ…。さぁ、ついてきな!」
そういってゆっくり歩き出した天狗に、一輪と星は法輪と宝塔をそれぞれ突きつけながら着いていった。雲山は、保護された子供を抱きかかえて一輪の頭の後ろを浮かびながら後に続いていった。
◇ ◇ ◇
「…助かりました。一輪、雲山。恩に着ます」
天狗の案内で子供の所へ向かっている途中、星が口を開いた。長時間を小雨に晒した身体は、ずぶ濡れになっていたが、その瞳は安堵感で輝いていた。もちろん、それは一輪や雲山も同じである。
「何を言ってるのよ。同じ寺の仲間じゃない、助け合うのは当然よ」
「そうですか、いえ実は……私は一輪から余り良く思われていないと、勘違いをしていました」
「んええ?そんな訳、ないじゃない!」
図星であった。だが、一輪は明るい笑顔を作って其れを誤魔化す。星は「ふふっ」と笑うと笑顔で、自分より頭ひとつ背の低い一輪の顔を懐かしむ様な表情で見る。
「昔話をしましょう。私がまだ、聖に出会う前の話です。この山には沢山の妖怪が住んでいて、近くに住む人間たちはその脅威に怯えていました」
「ええ…」
突然の昔話にも、それが単なる世間話ではないと星の表情が物語っていたので、一輪は真剣に話へ耳を傾けた。
「妖怪たちは本能のままに人間たちを襲いました。単に食料として、自分たちの存在意義として、理由は様々でした。でも、私は“それ”が原因で仲間も家族も故郷も、全て無くしてこの山に来たのです。最後は人間に退治されるのが妖怪の“存在意義”なのか?私はそれを疑問に思って、この山を変えようと思ったのです」
「そう、だったの…」
しとしと、と振り続ける雨は依然として霧のように細かく、星の話を邪魔する様な雨音は立てずに静かに地面を濡らし続ける。
「私は、人間と共存する道を皆に説きました。最初は気が触れた新参者がやって来たと相手にされませんでした。でも、それを続けているうちに共感をしてくれる仲間も現れたのです」
「仲間…か」
「ええ、今でこそ寺の皆が仲間ですが。山の仲間たちは私が齎そうとする秩序に期待を寄せる者たちでした。でも、今回の天狗たちのように…それを良く思わない妖怪たちも多かった。私もまだまだ未熟者ですから、その両者の間に生まれた争いの火種を消すことが出来ませんでした」
前方を先導する天狗の表情は背を向けている故に星たちには分からない。だが、この星の独白を聞いて今、何を思っているのか。その足取りは一定として変わらない。
「ついには妖怪同士での争いに発展しかけ、私もどうすれば良いか分からなくなった時。そんな時に聖が現れました。彼女はとりあえずの争いを治める方法として、私を自分の弟子にする事にしました。そして私の考えに深く共感し、共に望む世界を創る同志として迎え入れてくれたのです」
「…首謀者である星が寺に入ったら、ここぞとばかりに反対派の妖怪たちは暴れなかったの?」
「そこは聖が仲介に入ってくれました。私が毘沙門天の代理として寺の本尊の役割を果たす事が出来るまで、双方は矛を収めると。その後に、全ての妖怪が納得出来る形での決着をつける、と…。当時の妖怪から見ても、聖が本気を出せば両者が滅殺されるのは一目瞭然でしたから、皆は渋々と了解をしました」
「…それがこんな事に…だから、あんなに怒っていたのね?」
「ええ、恥ずかしながら…。――聖は、私を同志としてくれ…更には、私が今ままで抱え込んでいた感情も受け止めてくれました。妖怪の本能、妖獣としての野性…それらを抑え込んで理想に向かっていた私の心中を察して、そして受け止めてくれたのです」
「そう……やっぱり姐さんは、すごいなあ。だから皆に慕われるのね…」
一輪は自分が誉められた事のように、白蓮の施しに感謝する星の言葉に笑顔になる。それを見て星もまた、一輪との共感を得て笑顔になった。
「ええ、皆がそれぞれの訳あって聖の元に集まっていますが、共通するのは皆が聖に感謝をしている事だと思います。私も、彼女の理想とする世界を創る為に、この身を擲つ覚悟なのです…」
そこまで語った星が、次の言葉を紡ごうと口を開きかけた時、前を歩く天狗が突然に立ち止まってこちらへと振りかえった。
「皆さん、お話が盛り上がっている所で悪いんですが、餓鬼を置いて来た所に着きましたぜ」
天狗は大木の根元に出来た洞を指差した。そこには確かに人間の子供ならば入れそうな空間が出来ていた。
「私がこいつを見ています、一輪が助けてください」
星は鋭い目線で天狗の身体を射抜いた。彼も得物を取り上げられて反抗する術もないので、星に言われるでもなく大人しくしていた。
「おーい、助けに来たわよー!寺の一輪、私の事は知ってるでしょー?」
中は真っ暗で何も見えないので、一輪は木の洞に向かって声を掛ける。恐らくは子供が気絶からまだ回復していないのであろう。返事がないので一輪は手を伸ばして子供の身体を探した。
「あ!いたいた!引っ張り出すわよ」
一輪の両の手に子供が身につけていたであろう服の生地が触った。更に、その服を引っ張ると子供の体重が一輪の腕に負担を掛けた。
彼女は身体を洞に半分突っ込むように前かがみになると、その腕に子供を抱いた。
「さぁ、もう大丈夫よ。よっこい、しょっと!」
一輪は気合と共に腕に子供を抱えて洞から身体を出した。そして、子供の顔を見る。
「…えっ」
一輪、そして雲山の表情が固まる。
おかしい。子供の顔が、頭がない。
まだ白く細い首は、獣に喰いちぎられたようにあるべき頭部を失っており、その身体が生命体ではなく只の肉片と化している事を一輪に知らせた。
「なっ…」
頭の無い子供の亡骸を抱える一輪。その光景を見て呆気に取られた星は、天狗が一輪に向かって駆けた事に対する反応を遅らせてしまった。
「けっ、誰が子供を喰って無いなんて云った!?――兄弟を殺されて俺様が黙ってられるか!」
人間という生命に対する侮蔑と怒りの言葉を吐き散らしながら、天狗が一輪に向かって殴りかかった。
一輪は子供の亡骸を思わず地面に落とすと、無防備なその身体を天狗の拳に晒した。
「あっぐ!?」
強烈な拳を水下に見舞われた一輪は、身体を後方に浮かせて地面に転がった。子供を抱えたまま故に天狗の凶行に反応出来なかった雲山は、子供を地面へそっと降ろすと一生の不覚と言わんばかりに慌てて一輪を守る為、天狗と彼女の間に割って入ろうと突進した。
――ごぅ
天狗が雲山に向けて吹き掛けた息は、それはもはや小さな嵐であった。
突風に煽られた雲山は、入道という性質の弱点をつかれて後方へ吹き飛ばされてしまった。慌てて雲山が天狗に殴りかかろうとする。しかし其の距離は天狗が一輪を仕留めるまでには到底、拳が届かない距離であった。
「痛ったぁ…!」
地面に仰向けに倒れた一輪は、水下を強打された事により一時的な呼吸困難に陥った。故に、天狗が自分に馬乗りになる事を容易に赦した。
「せめて、貴様だけでも殺してやるわ!」
「ぐがっ…!あが…が…」
天狗は一切の躊躇いなく一輪の首を締め上げる。その両手はあと一瞬もしない内に、か細い一輪の首をへし折るであろう。
――その時、一輪は一匹の虎を見た。
この日本に虎など生息していただろうか?だが確かに、自分を殺そうとする天狗の背後から、一匹の大きな虎がこちらへ飛び掛かってきているではないか。
――ずぶり
その虎は、まずはその両の手を天狗の両肩にがしりと食い込ませると、万力の様に肉を締め上げた。まず、その動きで一輪の首を締める腕の動作を殺すと、間を置かずに鋭い牙が天狗の首筋に、ぶしりと食い込んだ。
天狗は断末魔を上げる事すら許されずに、目を上へぐりんと回転させて白目を剥く。首筋から吹き出す血は虎の顔貌を凄惨に彩った。
そこでようやく、一輪の目に映る虎が、寅丸星へと認識を改めた。飛び掛かった時よりまるで猫の様に散大していた彼女の瞳孔も、興奮が収まるかのように静かに元に戻っていった。
「星…」
地面に伏し、事切れた天狗の死体に一瞥をくれた星は、血で汚れたその口元をぐいっと袖で拭くと、肩を上下させ、息を切らし、疲れきった表情で一輪に向き直った。
「一輪…私が野性に戻るのは、これが最初で最後です…」
そこまで言うと、星はくらりと身体を傾けて意識を混濁させた。一輪はさっと手を出すが、それよりも先に雲山がその大きな腕で星の身体を受け止めた。
「…なんで、こんな事になるの…」
一輪は首のない子供の死体、苦悶の表情で果てた天狗、そして傷つき倒れた星へと視線を見やると、雲山に向けて語りかけた。
雲山は何も言えない。――自分は分かっていた。妖怪の全てが人間と共存出来るなどという事は、不可能であると。
だが、自分はその夢を追い求めるこの少女の力になると誓った。それだけに、少女に見せたくは無かった。この醜悪な殺し合いの世界を。
一輪は、感情が処理できなくなり、意味もなく嘲った。声を出さずに唇の端を釣り上げて笑った。
そんな一輪に雲山は無言でそっと寄り添うのであった。
◇ ◇ ◇
その後、ムラサの船に回収された一輪と星は寺への帰路に就いていた。子供の一人が喰い殺されるという最悪の結果には、ムラサやナズーリンも大変な衝撃を受けたが、それでも余りに落ち込んだ一輪と星を見ては自分たちがしっかりしなければと思い、二人を船で連れ帰る事にしたのだ。
一輪と星は船の中にある倉の中で床に黙って座っていた。雲山は、そんな二人を見守るしかなかった。船も二人を気遣ってか、極力船体を揺らさぬように何時もより静かに運行されていた。
「ねぇ、一輪…」
膝を抱えて、目に隈を作った星が切り出した。一輪は「なぁに?」と掠れるような声で返す。
「さっきの話の続き、していいですか?」
「さっき…って…姐さんの?」
「ええ」
星は、天狗に案内をさせている時に話した自分が白蓮に救われた話の続きを喋りたがっているようだった。何故、この時に喋りたいのかは分からないが、星も伊達や酔狂で話をしたいわけではないだろう。その様に悟った一輪は、星に話をするように促した。
「ええ、私も聖に受けた恩を貴方に話したいが為に、あの話をした訳ではないのです…。――私は聖から毘沙門天の代理という重役を担う事を提案された、これは貴方も知っていますね?」
「ええ、もちろんよ。そして、貴方はそれを成し遂げた」
「…そう、貴方はもしかしたら…私が聖から重用されていると勘違いをしているかもしれない」
「…参ったわね、もう正直に言うわ。…そう思ってた。そして、貴方の事を羨ましく思っていた」
「ですが…、私も貴方が羨ましいのです」
「…なんで、よ?」
雲山は少し、船の速度が収まったように感じた。もう少しで寺に着くのかもしれない。だが、二人の会話は滞りなく続く。
「私の担う“毘沙門天の役”が、妖怪である私にしか出来ないように…。一輪、貴方という人間が私たちの仲間に居るという事が、…“貴方にしか出来ない役”なのです」
「私にしか出来ない…役?どういう事?」
「そう。私たちが、いくら人間と妖怪の平等を訴えたとしても、それは妖怪側の勝手な主張。人間には関係の無い戯言なのです。そんな中に、貴方という…人間でありながらも同じ主張をしてくれる人がいる。それだけで、聖も私も皆…救われるのです」
「そんな、事…」
星は膝を抱えていた両手を解くと、一輪に身体を向けた。そして、その両手で一輪の手を握った。
「ですから、これからも私たちと共に歩んで下さい。今回は辛く悲しい事が起きてしまいましたが…私たちが諦めなければ、きっと…私たちの目指す世界は訪れるでしょう…!」
――星の手って、暖かいんだな。
握られた手を見つめて其の様に思いながら、一輪はもう片方の手で星の両手を包みこむようにして握手を返す。
「こちらこそ、よろしく…。私、自分勝手に物を考えていた。でも、こんな事が二度と起きないように…。これから……力を合わせて頑張りましょう」
「…ええ!」
星の返事と同時に、がくんと船が揺れた。どうやら、寺へ向けての降下を始めたようだ。
「…私、ちょっと甲板で外の空気吸って来るわ!」
「ええ、いってらっしゃい」
上階へと繋がる階段へと向かう一輪は、ふと気づいたように振り返ると星に言葉を投げかけた。
「そういえば、さっきの話!人間だったら、私だけじゃなくて姐さんもいるじゃない!でも、星の話…嬉しかったわ、ありがとう」
そう言い切って爽やかな笑顔で階段を昇っていく一輪。だが、彼女は知らなかった。自分の背後で、雲山と星が顔を見合わせて戦慄に顔を歪めていた事を。
雲山は一輪について行く為に階段を昇りながら、後ろを振り返って星と目線を交錯させる。そして、二人は自分の考えが互いに同じである事を、その目線で悟った。
――まさか一輪は、聖白蓮が人間ではない事を、知らないのか?
この日を境に運命の歯車は、少しずつ狂い始めた。
◇ 六章 「巡る思い、廻る血」 ◇
――何よりも強く、尊く、優しく、清く、正しく、愛していた。
彼女は自分の弟の話をする時に、必ず「身内の話なのですが」と言って、結局は彼の自慢話をするのが常であった。それほどまでに、彼女は弟の強さに惹かれていた。
自分も弟の様な素晴らしい僧になりたい。その様に決意した彼女は年齢も距離も乗り越えて、遠方の弟に再会して共に修行をした。
そう、彼女にとっては弟が全てであった。自分の依り処であった。それは、最早――自分自身であった。
なれば自分が死んだ時、人は死を恨めるであろうか。元々、心優しい老婆には何かを恨む事など出来なかった。それが例え、死という概念であったとしても。
故に彼女は、その概念を否定する事にした。自分が死なない事によって、弟が敗れ去った死という概念を否定しようとした。それが例え、人間ではなくなる外法無くしては成し得無い事だったとしても。
◇ ◇ ◇
あの凄惨な人喰い事件から数カ月。人々の心の傷は癒えねども、時は自然に流れていった。
事件には白蓮も相当に心を痛めたが、彼女を寺の仲間たちと共により一層、妖怪の説得へと駆り立てる事にもなった。
寺には山の妖怪が大勢、修行やら遊びやらにやって来て一輪やムラサもそれの指導にあたっていた。
「ふぅ、それにしても…本当に寺も活気づいて来たわね…。この調子で行けば…」
「まあ、焦らないでも大丈夫。妖怪たちには私たちの考えも伝わっているはずだよ。問題は、人間なんだけどねぇ…」
ムラサの言う事も分かる。だが、数ヶ月前に子供を殺された人間たちからすれば、今は妖怪など敵にしか見えないだろう。――その様に思っても、嬉しそうに妖怪たちに説法をするムラサに対しては口に出せない一輪であった。
「じゃあ、今日はこの辺で終わりにしましょう。それじゃあ、また明日ね~」
ムラサの合図で、妖怪たちは名残惜しそうに山へと帰っていく。朝になれば人間たちも寺へ用事が出来てやってくる可能性がある。妖怪たちに対する説法は、基本的には夜中に行われた。
「一輪、あんまり起きてると疲れちゃうわよ?雲山に任せて寝てきたら?」
「え、うーん。雲山、いいかしら?」
腫れぼったい目を向けられた雲山は、断るわけもなく静かに頷く。元より、この頃の一輪は頑張り過ぎて心配であった雲山は、ムラサの誘導に内心「よくやった」と親指を立てていた。
「じゃあ、おやすみなさ~い」
「おやすみ!」
あくびをしながら一輪が僧房に戻っていったのを見て、雲山とムラサは顔を見合わせる。そして、こそこそと白蓮の居る本堂へと足を運んだ。
本堂の前には、既に星が待っていた。ムラサはキョロキョロと周りを見渡すと、星に近づいていって小声で話しかける。
「…ナズーリンは?」
「彼女は私の代わりに夜の見廻りを引き受けてくれました」
「…なんだか、いつも悪いわね」
「それがナズーリンの性分のようですから…。さ、私たちは自分のやるべき事を成しましょう」
頷いたムラサは、ごくりと生唾を飲み込むと意を決したように本堂の扉へ手を掛ける。そんな仲間たちの行動を露とも知らない一輪は暗い僧房で一人、ぐっすりと眠りについていた。
◇ ◇ ◇
さて、更にそれから数カ月。寺における妖怪たちへの説法もすっかり山に浸透した様子で、白蓮たちは“過ち”が繰り返される事もないであろうと安心し始めていた。
ところが、ある日。雨がそぼ降る中を一人の青年が寺へ駆け込んできた。それに気づいた一輪は、同じように雨が降っていた“あの時”の事を思い出し、背筋にぞくりと悪寒が走るのを感じた。
「一体、どうしたの!?そんなに急いで?」
息を切らして口から白い息を吐く青年に対し、一輪は恐る恐る、しかし確かな口調で尋ねる。青年は目をぎょろりと一輪に向けると、その姿が寺の頼れる僧であると確認して安堵の溜息をついた。
「ああ、一輪ちゃんか…。大変なんだ、また里の近くに人喰い妖怪が現れたんだ!子供たちを家に入れて皆で追い返したんだけどよ…いつ、また襲いに来るか分かったもんじゃねえ…。白蓮さんに言って退治してもらうようにお願いしに来たんだ」
「……!分かったわ。姐さんに話は通しておく。だから、貴方は少し寺で休んでいって」
「ああ、白蓮さんに言ってもらうのは頼むよ…。でも俺もじっとしてらんねえ!今も村の皆が妖怪に止めを刺す為に山を歩き回ってるんだ、俺も加勢にいかなくっちゃ」
「…なんですって?」
白蓮の元へ踵を返しかけた一輪が、青年の言葉に驚いて振り向く。
「妖怪に止めを刺す為に…山狩りをしているっていうの?」
「ああ。幸い、不意をついて妖怪に毒矢を喰らわしてやったらしい。だから俺たちでも囲んじまえば矢で射殺せるかもしれないってよ。でも、心配だから白蓮様や一輪ちゃんにも頼もうって俺が走ってきたんだ」
「…今すぐに、その山狩りを中止させて!後は私たちがやるから!」
「んな事言われても…。今さら山に出ちまった連中は止められないしなぁ。とりあえず、俺は村に戻って長老あたりに中止を進言してくるわ。それじゃあ、頼んだぜ!」
「…ええ」
青年が背中を見せた瞬間、一輪は雲山を服の中から解放すると、彼の背に飛び乗って白蓮の居る本堂まですっ飛んでいった。
「姐さん!」
本堂に駆け込んだ一輪は、自分の慌てように驚いている白蓮に向けて、事の顛末を話した。白蓮は話を聞くと、温厚な表情を珍しく曇らせて寺の皆へ集合を掛けた。
「詳しい話は分かりませんが、いち早く我々でその妖怪を保護しましょう。害があるか無いかは、我々で判断する事にしましょう」
白蓮のその言葉に反対する者は居なかった。星は捜し物が得意だというナズーリンと組んで二人で、白蓮は一輪とムラサを引き連れて三人で、二手に分かれて妖怪の探索にあたる事にした。
「さぁ、それでは行きましょう。雨ですから、身体を冷やさないように注意してください」
白蓮の言葉に呼応するように、雲山がその身体を膨らませて三人の傘になるように頭上へと身を浮かした。
「ありがとう、雲山!さぁ、行きましょう!姐さん、ムラサ!」
一輪は右手に法輪を握ると、雲山の腕にちょんと乗っかって雨雲の広がる空へと上昇した。とりあえずは、人間の山狩りに発見されて殺されてしまう事を防ぐ為に、山狩りの集団を先に探す事にした。
「聖、あれが山狩りのようです」
「…意外と大所帯ですね」
ムラサの指差した先には、森の中をぞろぞろと歩き回る人間の集団が見えた。その数は優に三十は超える。数ヶ月前に子供が妖怪に殺された事件、それは人間たちの心に大きな傷と復讐の意思を“膿んで”いた。故に再び人喰い妖怪が現れたとなれば、近隣の村を巻き込んでの大騒動となるのは必至であった。
「かなりの意気を感じますね…。あれを口で止めるのは時間がかかりそうです。やはり先に妖怪を探しましょう」
白蓮の言葉に頷いた二人は、再び眼下の森を見渡しながら飛行を続けた。
「……あっ、姐さん!雲山が…!」
暫く探索を続けていると、一輪が声を上げて森の中の一点を指差した。雲山が何かを見つけ、それが一輪に自然と伝わった。一同が雲山の視線を追うと森の中にうずくまる何かを発見する事が出来た。
「…!行きましょう」
白蓮は我先にと、その妖怪の元へと飛んでいった。一輪とムラサが少し遅れて白蓮に追いつくと、そこには体中に何本も矢を突き立てられて衰弱した河童の姿があった。
「…?河童…?もし、大丈夫ですか」
白蓮が声を掛けると、河童は一瞬びくりと身体を震わせた後に恐る恐る白蓮の方へ顔を向けた。その姿は歳でいえば一輪とそう変わらない少女に見えた。だが妖怪である河童の事、実際には一輪よりもずっと長生きしてきた者であろう。
「ああ、人間かと思ったよ…。何か用かい?」
「貴方を助けに来たのです。さぁ、傷を見せて」
白蓮は有無をいわさずに、自らの身体を抱くようにして丸まっている河童の身体を治療し始めた。幸いに、農民の使った矢は返しのついていない様な粗悪品であったので、白蓮は矢を引きぬいて傷口を手当する事が出来た。
「あってて…、もっと優しく抜いておくれ…。ん、って…!おい!人間がいるじゃあないか!」
河童は一輪の姿を見て驚くと、白蓮の手を払い除けて一輪の顔を指差した。
「大丈夫、彼女は私の信頼出来る弟子の一人です。貴方の事を妖怪だと言う事だけで襲ったりはしませんよ…。そうそう、貴方は村の人に襲われたそうですが…、一体何をしたのです?河童の貴方が人間を好き好んで食べるとは思えませんが…」
その言葉に、河童はまだ疑いの眼差しを一輪に向けつつも思い出すように事件のあらましを語った。
「なに、私はただ子供たちと相撲を取っていただけさ。この近くに、“人間を襲わない妖怪”の事を匿ってくれる寺があるって噂を聞いたもんでさぁ、そこに行くついでだったんだが…子供たちと相撲を取ってただけで、いきなり大人たちが鍬持って追いかけてきて、しまいにはこの矢さ…全く、聞いていた話と随分違うじゃないか、ねぇ」
「…そう、ですか…。それは私たちにも責任があるかもしれません。無闇に人間に対する警戒心を持たない妖怪を集めてしまう事も、考えものですね」
「ん?するってぇと…。もしかしてあんたらが妖怪寺の人間かい?」
その言葉に一輪は少し不機嫌になる。妖怪寺なんて言われ方をしたら、まるで昔ながらに妖怪の根城になっている寺みたいじゃないか、と。
「姐さんの寺は妖怪寺なんかじゃないわよ!ちゃんと、人間と妖怪の共存を…」
「あ~あ~、悪かった!言い方がまずかったね。まぁ、最後にあんた達みたいなのと会えて良かったよ。はるばるやって来た甲斐が…あっ…た…」
河童は、そこまで言うと目を閉じて力なく地面に伏した。血止めをしていた白蓮が目を見開いてその身体を受け止める。
「…えっ?」
「あ。毒だ!姐さん、矢に毒が塗ってあるんだ!」
白蓮は地面に落ちた矢をさっと拾い上げると、その矢尻を凝視した。そして、再び河童の顔へと視線を移す。
「聖…こいつはもう…」
ムラサは青白く変色した河童の顔色を見て、もはや回復は見込めないと首を振った。だが、そんなムラサの言葉を否定するように白蓮は河童の額に手を置くと、一輪とムラサに向かって静かに口を開く。
「…私はこれから、この子に妖力を与えます。急いで星たちにも連絡を」
そう言うと、白蓮は地面に膝をついて正座をするように腰を降ろし、河童の身体を自分の両腕に抱いた。そして、目を瞑った白蓮の身体から紫の光が浮かび上がった。それは、草から滴り落ちる朝露の様に静かに河童の身体へと注がれていった。
「…?なんで、姐さんが妖力を…?」
「!…一輪…やっぱり…」
ムラサは一輪が、白蓮の事をまだ人間だと思っている事を再び認識して、なんとか取り繕おうと彼女の方へと視線を向けた。だが、ムラサの視線は一輪ではなく、彼女の背後の草むらへと注がれる事になる。
――がさっ
草むらからこちらを覗いていた村人の手から、鍬が取り落とされる。彼は目の前の光景を見て、口をあんぐりと開けて足をがくがくと震わせていた。
そう、最も信頼出来る妖怪退治の第一人者たる若い尼僧が、妖怪に向けて自らの妖力を分け与えている光景を見て。
「う、うわあああ!」
村人は絶叫を上げると、草むらの中に逃げ去っていった。その様子を、瞳を閉じて音だけ聞いていた白蓮の心中は如何程であっただろうか。
だが、この事態にも微動だにしない白蓮に代わって、彼女の愛弟子たちが青ざめた顔で慌て始める。
「姐さん、まずい!あの人、きっと皆を連れて戻ってくるよ!」
「聖、逃げましょう!今なら、その姿を見られたのは一人だけ。まだなんとでも誤魔化しが効きます!大勢の前で見られたら一巻の終わりですよ!」
雲山も焦った様子で二人に同調し、白蓮に対してこの場から逃げ去る事を促した。しかし、白蓮は微動だにせず妖力をその身から滴らせながら、傷ついた河童の身体を抱いていた。
「なりません。今、ここから私が逃げてしまえば…この子は死ぬでしょう」
そう言って、白蓮は腕の中に眠る河童を我が子を抱く様に優しく包んだ。
「姐さん、その子の為に…今まで苦労して積み上げてきた信頼を、水の泡にするっていうの?ここまで一緒にやって来た皆の気持ちは?星だって、貴方の為に…」
「待って一輪、聖にも…いえ、聖のこういう所に…私たちは惹かれていたんじゃないの…?」
ムラサは白蓮に向かって身を乗り出した一輪の身体を抱きしめるように止めた。だが、その様な言葉を紡ぐ彼女の唇も、怒りなのか悔しさなのか、小刻みに震えていた。
「ごめんなさい、皆。貴方たちだけでも逃げて下さい。一輪やムラサまでも人間たちの信頼を失う訳には行きません。…それに、元より皆を騙していたのは私…聖白蓮。いずれは露見する事です…、嘘をつきながら、自分の理想を追い求める事、それ自体が私の罪だったのです」
「そんなの…姐さん一人を悪者にして…身代わりにして、逃げられるわけないじゃない!」
「…あーあ、もう駄目ね。私も一輪に付き合うわ」
ムラサが場に削ぐわぬ気の抜けた声を出した瞬間、草むらを割って人間たちが駆け込んできた。その数は三十人よりも更に増え、下手をすれば百にも届かんという大勢。それらが、白蓮が妖怪を助ける姿を目撃したのだ。
「びゃ、白蓮様…それは…」
唖然とし、騒然とする民衆の中から一人の若者の声が届く。それに対して白蓮は、河童を抱きかかえたままにすっと立ち上がって、少し憂いを含んだ笑顔を民衆へと向ける。
「これが、私なのです。……今までお世話に…なりました」
そういうと、白蓮は踵を返して一輪とムラサに歩み寄った。そして「治療は終わりました」といって河童の身体を守るようにして、空へと浮かび上がった。
茫然自失のままに動けない一輪とムラサは、雲山に背中を持ち上げられて白蓮の後を追った。
残された人間たちは、愕然としつつ、目の前に起きた事実を受け入れ始めていた。
――こうして、美しく強い尼公は人々の心の中で死に、人間を騙し続けた妖怪の僧が産声を上げた。
◇ ◇ ◇
本堂の中では白蓮を中心として、一輪、雲山、星、ムラサ、ナズーリンが輪になって一様に暗い顔をしていた。
「これから、どうするのよ?」
一輪が重い口を開いた。白蓮の後ろでは助け出した河童が未だに目覚める事なく横たえられている。しかし、その生命には別状はないようで、静かに寝息を立てて体力を回復させているようであった。
「…恐らくは、人間の軍隊がこの寺に押し寄せてくる事になるでしょう…。その時は、私一人が捕まります。貴方たちは山へと逃げ込んで、私の教えを受け継いで下さい」
悲しむでもなく、虚しさを感じさせず。ただ柔らかい笑顔を湛えたままに白蓮が言う。そして、それを聞いた一輪はぎりっと歯ぎしりをすると、白蓮に向けて歯がゆさに歪んだ顔を向ける。
「何を言ってるのよ…姐さん!そんな事、私たちが許すとでも思っているの?私は姐さんが捕まるくらいだったら…人間と戦ってでも…」
「いけません!」
ぴしゃり、と白蓮の鋭い声が一輪の主張を退けた。白蓮は周りに集う仲間たちを見回して、諭すように語りかける。
「いいですか、幸いにして星は私の仲間だと言う事がバレている訳ではありません。そこで、星には毘沙門天として私を捕まえて人間たちに差し出して欲しいのです。そうすれば、この寺自体はお咎めを受ける訳ではなく、毘沙門天の加護を受けた寺として今まで通りの機能を果たせます…。後は、一輪やムラサは一時的に身を隠し、機を待って此の寺に集えば…皆で目標に向けて、また歩みだすことが出来るでしょう」
「…分かりました」
「星!?」
白蓮の言葉に頷いた星に、一輪が非難の声を浴びせる。しかし、その一輪の声に耳を傾ける事なく、ムラサも立ち上がって大きく伸びをすると諦めの言葉を口にした。
「さーて、じゃあ私も船で故郷の島にでも避難しておこっかなあ」
「ちょっと、ムラサ?貴方まで何を…」
一輪はあくまでも白蓮を守ろうと皆に訴えた。だが、そんな彼女に止めとなったのは…雲山の静かな頷きであった。
「嘘よ…雲山まで…。みんなぁ、姐さんに受けた恩を忘れたの?」
悲哀に満ちた声を出した一輪は、一同が拳を固く握って平静を装った事には気付けなかった。
「一輪、貴方に…話しておかなければならない事があります…」
「…何よ、何を言われたって…私は最後まで姐さんと共に往くわよ!」
一輪の叫びに対して、白蓮はそれに首を横に振ってやんわりと拒否する。そして、一輪の両肩を正面からそっと抱きしめた。
「一輪…、妖怪である皆は気づいていたのです。しかし、貴方だけに隠していた事が…あります」
白蓮は、意を決して愛弟子に自分の出生を語ろうとした。自分が死を恐れる余りに、妖かしの力を用いて若返りの法に頼った事。そして、その力を失う事を恐れるが余りに、妖怪の保護に努めてきた事。そして、その利己的な博愛がいつの間にか本当に妖怪の事を想う力となっていた事。だが――
「…姐さんが、人間じゃないって事?」
「!?――一輪、貴方…」
一輪からの意外な答えに、白蓮を始めとして一同は驚嘆した。一輪は目を潤ませながらもはっきりと白蓮の顔を見据えて、まくし立てる。
「一年以上も、姐さんの一番弟子をさせてもらったのよ。気づかない訳がないじゃない!でも、それが何なの?姐さんは私が最も信頼出来る人で、同じ考えの元に努力をしてくれる人で、私の大好きな姐さんなのよ!妖力を使って生を得ていたからって、姐さんは、姐さんじゃない!私には貴方を見捨てる事なんて出来ないのよ!」
「一輪、貴方……」
白蓮は愛弟子が自分を想い慕う心に、その揺るがないはずの決意が揺らいでいた。しかし、ぐっと目を瞑ると改めて決意を固めた。
「雲山、頼みますよ」
その一声で、一輪の身体を雲山の大きな腕がむんずと捉えた。白蓮と共に最も信頼していた仲間の突然の所業に、一輪は目を白黒させて事態の飲み込みに窮した。
「ちょっと、雲山!何をするのよ?」
一輪の抗議の声にも、雲山はただ黙して優しく、しかし確かに彼女の身体を拘束し続けた。
「…大将、お客さんだ。随分とお早いお着きのようだよ」
「もう…ですか。流石に早いですね」
子分の鼠を介して外の様子を伺い知っていたナズーリンの報告に、白蓮は軽く溜息をついて星へと視線を移す。星はごくりと唾を飲み込むと、覚悟を決めるように一回だけ瞼をきつく閉じた。
「さぁ、私を捕らえて…毘沙門天として妖怪を捕らえたと報告してください。…寺の事は頼みましたよ…」
「は…い」
掠れる様な声を搾り出して返事をした星は、宝塔を白蓮へと向ける。そこから静かに伸びた光の紐は、白蓮の身体の周りをくるくると廻った後に、やがてその身を縛った。
「嘘よ…、星!なんで貴方…」
力なく雲山の腕の中で呟いた一輪に目もくれず、星は紐の一端を握り締めると白蓮を前にして本堂から出て行った。
ムラサは正座したまま、耐えるように口を真一文字に結んでその様子を眺めていた。一輪は「なんで…」と何度も呟いて白蓮の背中を眺めた。
◇ ◇ ◇
武士たちは寺へ向けて歩みを進める。最近に起きた、妖怪が子供を攫って喰ったという騒動を受けて、この近くに駐屯させられる事になった武士たちは、まさか自分たちも頼りにしていた寺の僧侶が妖怪であるという報せに耳を疑っていた。だが、民衆たちの余りの剣幕に押されて半信半疑のまま仕方なく寺へと軍を動かしている。
「いや、しかし…あの尼さんが妖怪だとはねえ」
「まだ決まったわけじゃない。百姓どもが何か慌てて見当違いをしたのかもな」
そんな話をしながら大した警戒もせずに歩いていた足軽たちは、寺の方から歩いてくる人影を見た。
「おい!誰だ?」
「私は毘沙門天。貴方たちの大将にお目通り願いたい」
身体を縛られた白蓮を連れて、後光を光らせながら登場した星の姿に、足軽たちは腰を抜かして後方に控える大将を呼んだ。
大将は年老いてはいたが、狡猾で妖怪にも対抗しうるという事でこの隊を率いる事になった者である。その彼は毘沙門天の登場に臆せず、ゆっくりと兵たちを掻き分けて前へ出て来た。
「儂がこの隊を率いている者であるが…毘沙門天様。これは一体、どういう事ですか?」
「うむ、この尼僧が妖かしの手助けをしている破戒僧であった事が分かった。私としても、そのような者の寺に置いていたのは不覚であったが、責任を取ってこやつを捕らえて来たのだ」
「おお、というと…やはりこの尼は妖怪の手先だったのですか」
「…そうだ、この仏敵は己等で好きにするが良い。引き続き、私は寺で人間たちを見守る事とするので、それで手打ちとしてもらいたい」
「…分かりました。それではこの尼は儂らで預からせてもらいますぞ」
星は本当ならば、この武士たちを皆殺しにしてでも白蓮を助けたかった。だが、それは白蓮の望むところではない。妖怪たちの地位を向上させる為にも、人間たちに危害を加える事は許されなかった。
白蓮はひたすらに黙って前を見据えていた。星の手から紐が離され、武士たちの手に自分の身が囚われてもその表情を変える事は無かった。
「それでは」
短く言って寺へと飛び戻った星の表情は、武士からは伺い知れなかった。だが、恐らくはその顔は悲しみと悔しさに歪み、毘沙門天の精悍な顔立ちとは程遠かったであろう。
◇ ◇ ◇
――数ヶ月前、夜更けの寺にて。
本堂に訪れたムラサたちの顔を見て、白蓮は驚いた。此の様な夜更けに、一体なんの用事であろうか。
「どうしたのです?ムラサ、それに星まで」
「聖、貴方の耳に入れておきたい事が…いや、確認しておきたい事があるのです」
星は、一輪が白蓮の事を人間ではない事を知らないのではないか、そしてその事を白蓮はどう思っているのか尋ねた。白蓮は、微笑のままに彼女らへ向けて口を開く。
「…そう、ですか。やはり彼女は私の正体を…知らないのですね」
「ええ、妖怪である身ならば…聖の身体から発する妖気で分かりますが…一輪は人間です。しかも貴方の事を大変に慕っている。だから、貴方の事を人間であると信じているのでしょう。何故…一輪にご自分の事を話さないのです?」
星は追求するという風でもなく、ただ白蓮の意思を確認したいという口調で尋ねる。それに対して、白蓮は一昔を思い出すように天井に目を向けた。
「…最初は…一輪のご両親を説得する為に身分を隠していました。まさか、人間ではない者の元へ大事な娘を預ける親はいませんから…。でも、それは後から考えれば言い訳ですね…。私も、怖いのです。人間であるあの子に、自分の成り立ちを語る事で、あの子が私の元から去ってしまうのではないかと…」
「聖…」
「ふふ、一度は年老いて達観したつもりの私でも…まだ人間から嫌われたくないという浅ましく弱い心が残っているのですね。私は一輪に打ち明ける勇気が…ないのです」
白蓮の思いもよらぬ心情の吐露に、ムラサも星も…そして黙ってその様子を見ていた雲山も、誰も軽々しく口を挟める状態には無かった。
「そうですね…。丁度良い。貴方たちにお願いがしたかった事を今、言いましょう」
「…?なんでしょうか」
「恐らく…、そう遠くない日に…私が人間たちと争わなければならない日が…来ると思うのです」
「まさか、聖に限ってそんな事は…」
「いいえ、妖怪と人間の平等を訴える事はそう容易い事ではありません。いずれは、そうなる日が来るのです。そして、その時は…私一人を切り捨てて皆でこの寺を守って欲しいのです」
「!?何を言うのです?いざという時に、盾となるべきは私たちの役目ですよ」
星もムラサも、思わず声を上げて反対する。白蓮は、彼女たちがそういった反応をする事は分かりきっていた。だから、「落ち着いて」と言って更に話を続けた。
「幸いにして、今は星が毘沙門天として人々から信仰の対象となっています。だから、もしもの時には星が私を捕らえた事にして、非難や疑惑の目を私に集めて欲しい。そして…、貴方たちには此の寺と…山に住む妖怪たちと、私たちの理想…。そして、一輪の事をお願いしたいのです」
「…聖、貴方という人はどこまで…」
白蓮の前に座した仲間たちは、胸に去来する思いを言葉に出来ないで、ただ目の前に佇む聖人を見つめていた。
「あの子は人間なのです。だから、何があっても私たちの巻き添えや身代わりに死なせるような事があってはなりません。そして、もちろん貴方たちも死なせる訳にはいきません」
白蓮の決意の強さに、彼女らはただ同意するよりなかった。
「まあ、でも・・・そんな日は来やしませんよ。このまま、皆と理想郷の創世に向けて頑張るんです」
「そうね、でも一輪が寿命で死んじゃう前には成し遂げたいわね~。あの子、私と違って幽霊なんかにはなりそうにないもの」
「ふふっ、雲山も頼みましたよ。貴方が一番、ずっと長く一輪と一緒に居るのですから」
白蓮の言葉に、雲山は照れくさそうに顔を背けて頷いた。その様子を見て、皆の笑い声が夜中の本堂に響いた。
◇ ◇ ◇
――そういえば、幾月か前の夜。その様な話を聖とした。
星はあの日の白蓮の決意を見て、自分は最も深く敬愛する者を今、黙って人間たちに突き出してしまったのだと理解した。
だが、いくら白蓮本人が望んだ事とはいえ、今からでも取り戻したい衝動が抑えられないくらいに、星の胸中は後悔で一杯であった。その気持ちをなんとか抑えつつ、星は寺へと戻ってきた。
そして寺の本堂の大きな扉を開いた星は、そこで信じられない光景を見た。
山、山、山。妖怪の山であった。
見た限りでも数十は居る妖怪たちは、本堂へと入ってきた星へ視線を集めると、戦意を高揚させるように口々に「えいえいおう」と鬨の声を張り上げた。
「ムラサ、これはどういう事ですか!?」
星は慌ててムラサへと駆け寄った。彼女は自らの得物である柄杓を素振りして戦いに備えていた。そんな舟幽霊は「何か問題でも?」と言いたげに星へと振り返ると口を開く。
「どういう事って…?見れば分かるじゃない。逃がした山の連中の中で、聖を慕って取り戻そうって意気の奴が戻ってきたのよ」
「それは察せますが…!何故、貴方まで戦おうとしているのです?そういう妖怪たちを説いて生き延びる為に逃がすのが白蓮から言われた私たちのやく…」
そこまで言って、星は思わず言い淀んでしまった。ムラサの目から落ちた泪に、自分が流そうとして流せなかった泪を重ねたからであろうか。
「星…。お願いよ、私だって聖を…このまま人間たちに連れて行かれる訳には行かない…。寺を守るという役目は…貴方…寅丸星に背負って欲しい」
「私に…、私に一人で背負えというのですか?恩人と、そして仲間を見殺しにするという業を」
「貴方一人じゃない…。寺ともうひとつ、貴方には守るべきものがあるでしょう?」
ムラサは雲山に囚われたままの一輪へと目をやった。一輪はすっかりと意気消沈して、膝をついて妖怪たちの戦準備をぼうっと眺めていた。
「一輪…をですか」
「ええ、人間であるあの子を守るのは大変かもしれない。でも、それでも姐さんの意思を…出来るだけ汲みたい。そして、自分たちの気持ちにも素直になりたいのよ」
「…ずるいですね。毘沙門天という檻に収まった私には…出来ない所業です」
星はいたずらっぽく笑うと、戦準備に奔走する妖怪たちを背に本堂から出て行った。それは事実上、星が白蓮の命に背いた最初で最後の行動であっただろう。
彼女の意思に背いて、人間と戦おうとする者たちを見逃したのだから。
群れ離れて暗い境内を一人で歩く星に、背後からそっと近づく影があった。その者は足音も立てずにふと星の近くに現れると後ろから星に話しかける。
「ご主人、あれでいいのかい?人間たちと争う事になったら、大将の思惑は…」
「…それで、ムラサたちが勝利して聖が私たちの元に戻ってくれば、それで私はいい。彼女からどんなに失望されても、軽蔑されても…」
「…付き合いは短いけれど、君たちの仲間意識の強さには数多の鼠を従える私も、時々ついていけないよ」
「仲間意識、ですか…。私たちはただ、お互いに人として、妖として、尊敬をし合っているだけだと思います。それがナズーリンには、理解が出来ないのかもしれませんね」
「言ってくれるね、ご主人。それで、私にも何か厄介ごとを頼もうとしているんだろう?」
「ええ、その通り。流石ですね。…ムラサたちについて行って、その様子を私に教えて欲しいのです。もしも、聖の救出に成功したのならば、彼女が寺へと戻ってくる前に…私は一人でこの寺を出ていきます」
「ふーん、その時は毘沙門天様からの役目にも反する…。つまりは、私ともお別れというわけだね」
「そういう事に、なりますね…。ナズーリンには裏での仕事を多くしてもらって感謝しています。私は貴方の小さくも大きな功績を忘れないでしょう」
「大げさだなあ。それじゃあ、ご主人。彼らが出発したみたいだから、追跡するよ」
「え、鼠に偵察させに行くのではない?」
「鼠はご主人への連絡用に使って、自分の目で彼らの戦いを見届けるさ。なんて言ったって、聖白蓮が救出された瞬間に、私は君を独尊の信に背いた者として…罰しなければならないからね」
じゃり、と玉砂利を踏みしめる音が夜の境内に寂しく響いた。闇の中に消えていく“忠臣”に向けて、星は最後になるかもしれない言葉を掛ける。
「ナズーリン、貴方…私の為に…」
「そんなんじゃない。ただ、立場上で仕方なくご主人と戦う羽目になったら、返り討ちに遭ってしまう可能性が高いからね。できる事なら、私が寺に着く前に予定通り消え失せてくれていると嬉しい」
その声を最後に、ナズーリンは物音一つ立てずに姿を消した。星は百鬼夜行の掛け声を背後に聞きながら、寺の境内で一人夜空を見上げた。
◇ ◇ ◇
「っあ!やっと離してくれた!もう、雲山ったら…!!」
自分の身体を拘束から解き放った雲山に向けて、一輪は怒気をはらんだ罵声を浴びせる。しかし、対する雲山は今まで一輪に向けた事のないような憂いの瞳で彼女を見つめていた。それに気づいた一輪は、ぐっと押し黙った。
「……ねぇ、解放してくれたって事は…私もムラサたちと一緒に姐さんを助けに行っても良いって事?そうだよね、だって雲山と私が組んで…それにムラサたちも居れば姐さんを助ける事なんて簡単だもの!」
明るい希望の眼差しを自分に向ける一輪に対して、しかし雲山は頑なに拒否の意味を込めて首を横に振った。
「えっ?なんでよ…もしかして、雲山だけ行くって言うんじゃあないでしょうね?」
その言葉には、今度はしっかりと首を縦に振る。その雲山の姿に一輪は唇を震わせた。そして、自分の全身から血の気が引いていくのを感じた。
「ねぇ、なんで…?なんで私だけ仲間外れにするのよ…?私も姐さんの為に戦わせてよ…!…私が人間だから?皆が妖怪で、私だけが人間だから、それだから私を特別扱いするの?答えてよ、雲山っ!」
激昂した一輪の首筋に、一つの手刀が入った。一輪は脳を揺さぶられて一瞬にして意識を失う。
そして、其の身体が光の紐によって再び拘束された。
「…大丈夫、力を込めれば…それに応じて伸縮する紐ですから…一輪の身体が傷つく事はありません」
倒れた一輪の身体をそっと支えながら、寅丸星は雲山に言う。それを見て、雲山は“何故?”という眼差しを星へ向ける。
「…いってらっしゃい。貴方も戦いたい…いや、そうではないですね。一輪を、巻き込みたくないのですね。自分という妖怪が側に居ることで、彼女に人間たちの疑いが及ばぬようにと…ここで別れを告げるのですね」
雲山は驚いた。一輪に連れられて寺に来た時には頼りなく見えた虎の妖怪は、いつの間にか本物の仏の様に深い徳を得て、自分の考えをこうも察するまでに至っていたのかと。
「…皆が、別れを告げていきます。でも私は、まだ告げる訳には行きません。何があっても、この寺だけは守らなければならない。それが、聖との約束ですから」
雲山と星は、数秒間だけ視線を交錯させると、互いに静かに頷いた。そして、雲山は本堂を出て夜の空へと飛び立った。
「…聖、私にはどうしたら良かったのか分からないのです。やはり貴方が居なくては…皆は纏まらないのですね…」
星は一輪の華奢な身体をそっと床に降ろすと、布団代わりに座布団を身体の下に入れた。そして、自分は座禅を組んで事態の結末を待つことにした。
◇ ◇ ◇
人間の軍勢は、その中心に一人の女を配置して夜のあぜ道を行進していた。女は全身を光の紐によって拘束され、視線を地面へと落とし大人しく連行されていた。
「敵襲!」
誰かが発した言葉に、白蓮は「まさか」と口中で呟きながら天を仰いだ。すると、空から幾つもの影が軍勢を取り囲むように降り注いできた。
ばしゃ、ばしゃ
田んぼに両の足を着けた妖怪たちは、鋭い目付きで人間たちを睨みつける。
「あ、貴方たち…」
白蓮は驚愕に目を見開いた。自分が犠牲となり、逃がしてきた筈の妖怪たちが何故ここに現れたのか。
その答えは、ずいと前に出た――白蓮に救われた舟幽霊、村紗水蜜が口にした。
「私たちは聖白蓮に恩を受けし者。この場で聖を解放せよ。さもなくば、私たちがお前たちを、殺す」
「…!なんて事を…」
白蓮は後悔した。彼女は自分の仲間たちが持つ、自分へ感じていた恩義の大きさを見誤っていたのだ。止められた戦いが、流さなくて良い血が、ここに始まり流されようとしている。
「…ちっ、囲まれたか…しかもこの数だ…。尼さん、えらく妖怪どもに慕われていたようじゃの」
人間の大将は周りを見渡して自分たちの圧倒的不利を悟った。だが、その言葉には余裕が感じられた。
「よく聞けい!妖怪ども!!一歩でもその場を動いて見いぃ!この尼の命は此処で消える事になるぞ」
そう叫ぶと、大将は腰の刀を抜き放って聖の首筋へピタリとその刃を押し当てた。
「うぐ…」
気勢の良かった妖怪たちも、大将の言葉を聞いて足が止まった。もとより、人質は人間たちの側にあるのだ。妖怪たちは恩義に報いようと感情ばかりが先立ってしまい、この基本的な弱点を見落としていた。
白蓮は悩んだ。元より、自分の命は未来の為、そして仲間たちの為に捨てたもの。故に自分が人質にされても、自分に構わずに戦えという事は出来る。だが、それは彼女が最も避けようとした妖怪と人間の殺し合いとなってしまう。
この場合、自分が出来る最善の指示は「私を捨てて逃げなさい」であるが、その命令には死んでも従わないのが、今ここに集まった妖怪たちである事は白蓮にも遅まきながら理解出来た。
「皆、抵抗はしないでくれ…」
白蓮を助ける為に集まった者たちが、白蓮を人質に取られては戦える筈も無かった。ムラサの降伏を促す言葉を聞くまでもなく、妖怪たちは戦意を喪失して皆が押し黙って棒立ちになっていた。
「…よし、射れ」
大将の言葉と共に、長弓を持った兵たちが一斉に矢を番えて狙いを各々に合わせ始めた。
「!?何をするのです!」
白蓮が叫ぶのと同時に、矢が空を切り裂いて田の中に降り注いだ。その矢尻は妖怪たちの身体に突き刺さって彼らに激痛で苦しむ悲鳴を奏でさせた。
「止めなさい!彼らは何もしていないでしょう!?」
「動かなければ殺さないと言ったのは“あんたを”だけじゃよ、尼さん。儂らは何も反古にしてはおらん」
首にあてられた刃に臆せず激昂する白蓮に対して、大将は冷ややかな目で第二射の命を兵たちに出した。
「くっ、おのれ…こうなっては!」
白蓮は自らの妖力を解放して、星の作り出した光の紐を腕力で引きちぎった。そして、矢を番えた兵士たちに向かおうとする。
だがしかし、彼女の身体は紐とはまた別の拘束によってその場で固まった。
「な…?この力は…まさか…」
「そう、これだよ」
大将は左手に掌ほどの大きさの木片を握り、それを白蓮の背にそっと当てていた。白蓮はその木片を知っている。とても懐かしい、愛しい香りだ。
「それは命蓮の…!?」
「そう、あんたの弟である命蓮様の残した遺産だ。今回の討伐にあたり…儂は最初から寺の尼僧が怪しいと睨んでおった。だからあんたの出自を調べさせてもらい…最も効果がありそうな“逸品”を用意させてもらったわけだ」
「…弟の遺物を…此の様な事に使うなど…私は許せません」
「何を言っておる。妖かしの道に堕ちた姉の暴走を止める為に使われるのであれば、かの高名な命蓮様としても本望であろう」
白蓮が命蓮の“飛倉の破片”によって押さえつけられている間も、兵たちの放った矢は妖怪たちを貫いていった。しかし、その内の一匹たりとも避ける素振りすら見せぬ無抵抗ぶりであった。その様子には、流石に兵士たちも矢を放つ手に躊躇いを持たせ始めた。
「耐え…るのよ…」
霊体化すれば矢などは一切身体に通らないムラサも、それを言いがかりに白蓮を傷つけられる事を恐れて、甘んじて全ての矢をその身に受けていた。
ムラサの隣で一人の妖怪が息絶えて泥土の中に身を沈めた。それは、白蓮が全てを投げ捨てて命を助けた河童であった。彼女は、回復した後も白蓮に恩義を感じて寺に滞在し、そしてこの戦いにも身を投じた。
「こ、こんなの…無意味…すぎる…」
ムラサは薄れいく意識の中で自分たちの行動の意味を問うた。そして、その答えの無常さに力尽きたのか地面へとその身を横たえた。
◇ ◇ ◇
――そんな様子を、陰から見守る一人の妖怪がいた。
さてさて、私はどうするべきかだが…
どうやら彼女らの“聖白蓮救出劇”は、失敗に終わったようだ…。そうなれば、寅丸星はそのまま寺に残る事になり、私は引き続き彼女の監視を続ければいい…それだけだ。
私の本分は最後に美味しい果実を頂く事。その為にはこうして物陰から“仲間”の死を眺めつつ、優雅に状況分析をする事も苦ではない。
そう、だから私には“仲間”がいないのだな。あの時の“ご主人”の言葉を思い出すよ。
でも、何故だろうな。今はとても気になる。――今、私が出て行って『聖白蓮を救出したならば』この戦況は一気にひっくり返るのだろうかってね。
おかしいな。このまま白蓮を連行させれば星は寺へと残り、毘沙門天様の代理という尊き務めは果たされる。だが、ここで白蓮を助けてしまえば、その責を負って星は寺から出て行ってしまう。そうなれば、毘沙門天様の代理は居なくなって、自分としても面白くないはずなのに。
それなのに、何故だろう。ここで私が、不意を討って聖白蓮を解放させれば、枷が無くなった妖怪たちが逆襲に出られるという考えが浮かぶのは。
「…何故だろうな」
呟いて、ナズーリンは身を潜めていたあぜ道の窪みから飛び出して聖白蓮へと迫った。狙うは、その背中に押しあてられた木片である。それさえ叩き落とせば、白蓮は自由に動けるようになるのだ。
ナズーリンの右手に握られたロッドが振り上げられる。それに気づいた大将が右手の刀を振り回したのは、ナズーリンのロッドが振り下ろされるのと同時であった。
――がきん
何故であろうか。肉体労働などてんで苦手な自分が、ロッドで直接の殴打に向かうという愚行を犯したのは。
「…やっぱり、感情に任せて動くのは駄目だね。あくまでも冷静に戦局を見て動かねば…」
弾かれたロッドを見ながら、ナズーリンは自分の身体に打ち込まれる矢を呆然と見た。彼女は限界よりも早めに地面へと倒れる事にした。どうせ捕まるのなら、これ以上痛い目に遭うのはやられ損であるからだ。
◇ ◇ ◇
「これ以上は、耐えられません」
ぽつりと零した白蓮の言葉に、大将はニヤリと笑って木片で彼女の背中を小突く。
「どうしたのだ?もう降参かね?しかし、残念ながら妖怪たちはまだまだ息があるようで…」
「私も!…弟の遺物を壊したくは、ありませんから…」
言い放った白蓮の身体を、眩い閃光が包んだ。その白い光は妖かしの其れではなく、まごう事なき釈迦如来が纏ったであろう聖なる光であった。その光は、勢いを増すとやがて紫に変色し辺りに旋風を巻き起こした。
大将が手に持つ“飛倉の破片”がみしりと軋み、白蓮の光によって其の拘束力を失いかけている事を彼に知らせた。
「ま、待て!何をする気だ!」
「妖怪たちへの攻撃を辞めなさい。さもなくば、弟の遺品と貴方たち、そして私自身がこの場で砕け散って無に帰す事になるでしょう」
「わ、分かった…!おい、止めい!止めい!」
大将は白蓮の余りの迫力に怖気付いて、兵たちに弓を収めさせた。しかし、それは彼にとっては最善の選択であったろう。
「しかし聖白蓮。いくらなんでも、儂らも『脅しに負けて妖怪たちを逃がしました』という訳にはいかん事は理解してもらえると思う。ここは、全員を殺さずに封印という事で手打ちにしてもらえんか」
「封印…ですか…。致し方ありません」
白蓮は兎に角、此れ以上の生命が失われる事を畏れて大将の出した条件を飲んだ。かくして、妖怪と人間たちの白蓮を巡る戦いに終止符が打たれた。しかし、その代償は大きすぎた。
矢に全身を射抜かれて、未だに生命を維持していられたのはムラサを含めて幾数名のみ。あの河童を始めとした多くの妖怪たちは田園の中で命を落とし、その場に朽ちていった。
◇ ◇ ◇
寅丸星は、寺の入口に立っていた。鼠からの報告で、事の顛末は全て耳に入っている。だが、未だに信じられない。――これほどまでに最悪の結果に終わる事など、到底信じられる事ではない。
白蓮を救出する事叶わず、助けに行った妖怪の大半は討死に、生き残った者は封印される。そして、偵察だけだと無事を信じたナズーリンも重傷を負って捕まる。
何かの間違えであってくれと祈る星の目に、松明の明かりが連なってこちらへと向かってくる様子が見えた。それらが近づいて来ると、星は其れが人間の軍勢と、捕まった仲間たちである事を確認してしまった。
「失礼、何かうちの寺に用ですか」
星は先頭にいた男に話し掛ける。すると、男は縄で縛った妖怪たちを軽蔑し切った目で睨んで星に応対した。
「いえね、毘沙門天様には申し訳ないんですが…ここの寺の尼を助けようと妖怪どもが襲いかかって来ましてね。そいつらをひっ捕らえたから封印をしに来たのです」
「…うちの寺で封印を施すのですか?なんなら、私がやっても…」
「あ、いえ…毘沙門天様の手は煩わさせるなと、うちの大将から言われているので…。聞くところによると、寺に居た尼が残した船には、とある高僧が遺した“飛倉の破片”が使われているそうなんですよ。それを使ってこいつらを封印して来いって言われてるんで。その船を頂戴しに来ました」
兵たちは、有無を言わさずに寺へと入っていった。船といえば、聖がムラサの為に生み出した光の船がある。――そうか、あの船は命蓮様の飛倉の破片を使って作ったのか…――星はそう理解すると同時に、その封印が如何に強力なものであるかを悟った。
妖怪たちの列の中には、ムラサを始めとして山から寺に修行に来ていた妖怪たちの姿がある。その中でも、最後尾に繋がれているナズーリンの姿を見つけて星は思わず駆け寄りたくなった。
しかし、それは許されない。こうなってしまった以上、白蓮の意思を継いで自由に動けるのは自分だけなのだから。その自分が妖怪たちの仲間だという事実が陽の下に出る事は許されない。
ナズーリンは血だらけの身体をなんとか動かしながら寺の中を歩く。ふと、脇を見れば星が精悍な顔つきで妖怪たちの列を眺めていた。――ふっ、ご主人。無理をしているねぇ…私には分かるさ。その様な顔をしていても、心の中では涙を流しているのだろう?それが君なんだよ。
ナズーリンが心の中で呟いた皮肉が、星にも伝わったのだろうか。虎柄の毘沙門天が自分の方へと視線を移して、呆けたような面を見せる。だからナズーリンはもう一言だけ伝えてやった。――すまないね、ご主人。柄にもなく、失敗したよ。
「あったぞー、この船だ」
兵たちは寺の敷地に鎮座していた光の船を探し当てると、妖怪たちを船の中へと押し込んでいった。星は其の様子をただ見るだけであった。それが、彼女にとってどんな苦行よりも臓腑を抉られる様な苦痛を伴なう事は、想像に難くなかった。
◇ ◇ ◇
目覚めた時、自分の身体は紐で縛られて身動きが取れなかった。しかし、彼女はなんとか身体の自由を取り戻そうともがいた。
だが、その紐は暴れれば暴れた程、力を入れれば入れた程に伸縮して千切れる事が無かった。
「…どういう事よ…。どういう事よっ!!」
一輪は叫んだ。そして思い出していく。周りの皆が自分を助けようと、自分を遠ざけようとした事を。
「雲山!解いて!」
何時もなら、口に出す前に私が何を考えているか察知して、行動してくれるのに――そう思って叫んだ一輪は、雲山が今は自分の側に居ない事に気づいた。
「…なんでよ、雲山…ムラサ…星……姐さん」
ぽろり。一輪の柔い肌を伝って雫が床へと垂れた。星が気を使ったのだろう、本堂の中は不思議な光によって薄暗くほのかに暖かい。しかし、温度に関係なく一輪の心は寒さで凍りつきようとしていた。
だが、そこは普通の少女ではなく一輪であった。次第にふつふつと自分がやらねばならない事に対する意欲が湧いてきた。
「…私らしくもない…。こういう時は、こっちから無理矢理に行ってやるもんじゃない!」
一輪は突然、元気に声を上げると後ろ手に縛られた腕を必死に動かした。そして、右腕の手首に着けている法輪をなんとか右手の中へと滑り込ませた。
「…はぁぁあぁあ!」
気合の咆哮と共に、右手に法力を集めた一輪は、自分を縛る紐に向けて的を絞った。
――バシュッ
法輪から放たれた鋭い光の矢は、一歩間違えれば一輪の身体を貫いていた。しかし、彼女の正確な操作によって矢は紐だけを千切ると、虚空でその姿を消した。
「さーて、今からでも遅くないわ!姐さんを助けに行くのよ!」
一輪は本堂から飛び出すと、空に向かって大きく舞い上がった。
しかし、そのまま地面に転倒した。
「…あっ痛てて~。そうだ、雲山がいないんだった…なら、走ってでも追いつくわよ!」
一輪は地面に痛打した膝を摩りながらも、敬愛する白蓮を救うために寺の入口へと向けて走った。
◇ ◇ ◇
寺の入口へ向かう途中、ムラサの船がいつも停泊している鐘つきの横。そこで行われている行為に一輪は足を止めた。
見れば大勢の人間たちが集まって、妖怪を槍で小突いているではないか。彼女は、一体何故にこのような状況になってしまったのかは理解出来なかった。しかし、目の前にあるのは妖怪たち――しかも自分が苦楽を共にしてきた仲間たちが捕まっているという事実だけは理解できた。
「貴方たちー!その子たちを離しなさい!」
不意を討つ事や、交渉などという考えは一輪には毛頭無かった。兎に角、仲間たちを解放させるという一心で兵たちの群れへと法輪を構えて駆けていった。
「なっ!?一輪…?何で…」
星も一輪の登場には遂に声を漏らして驚愕した。だが、それよりも驚いたのは兵士たちの方である。弱った妖怪たちを封印する為だけの任務だと思っていたのが、何やら妖怪の仲間が自分たちへと向かって来ているのだ。その事実に、全員が恐怖で混乱状態となった。
「矢だ!矢を射れ!」
兵たちの中でも位の高い者が周りに命令をする。弓を番えた兵士たちは、一輪へと狙いを定める。
「いけない!一輪、逃げてーっ!」
縄に縛られたままのムラサも、矢に狙われた一輪の姿を見て大声を上げる。
「くっ、人間を殺すのは…」
一輪は構えた法輪をすっと下げた。無防備な彼女に向けて、矢が一斉に放たれる。
――ばしっ!
大きな腕が矢を一掃した。ムラサの服から飛び出した雲山は、ここぞとばかりに飛び出して矢尻の雨から一輪の身を守ったのだ。
「う、雲山!?もう…貴方、どこに行ってたのよ!」
「雲山、そうか…だから私、助かったのね…」
ムラサは自身がいくら矢に射られても耐えぬいた事が、服の中に潜ませていた雲山のお陰であった事に気づいた。
だがこれは、白蓮の救出の際に隙をつく為の準備であって、白蓮救出に失敗した時には雲山はひっそりとムラサの服から逃げ出す事も可能であった。つまり、雲山は自分だけが助かる事を良しとせずに、仲間と一緒に封印される道を選んでいたのである。
だが、それが功を奏して雲山は一輪の命を救う事が出来た。だが、依然として厳しい状況は変わらない。
「くっなんだ!?入道だとぉ…次っ!」
兵たちは慌てて第二射を撃つ為に矢を番える。雲山は一輪の傍らにぴったりと身を寄せると、何の攻撃が来ても彼女を助けると言わんばかりにその身体を盾にした。
「待って雲山!…私、戦う…皆を助けるわ…」
一輪はそういうと、法輪を再び目の前に掲げて人間たちの群れに狙いを定めた。
――いけない。それだけはいけない。
その様に思ったのは雲山と、星であった。
星は一輪の乱入に驚きながらも、自分の身の振り方について頭の中で考えが纏まらずにいた。
人間たちを殺すというのは白蓮が身を挺して防いだ忌むべき事。そして、自分がこの寺を妖怪たちの依り処として維持していくというのも白蓮に託された大事な使命。この二つの事を達成するには今、目の前で戦いに臨もうとしている一輪を自分が止めなければならない。
自分はまだ人間に毘沙門天であると信じられている。だから、一輪を止められるのは自分以外には居ない。
――優先すべきは、白蓮の思想と寺か――
「それとも…」
――仲間たちの自由と一輪の命なのか…――
星は思い出していた。天狗に子供が殺された日。あの日、一輪に言った自らの言葉を。
『一輪…私が野性に戻るのは、これが最初で最後です…』
そうだ、あの日を境に私は理に生きると誓ったのであった。ならば理とは?理想に殉じ、仲間を見殺しにする事が理なのか?
「行くよっ!雲山!」
星がハッと顔を上げると、一輪と雲山が人間たちに向かって駆け出していた。と言うことは、雲山は一輪に最後までついて行くという覚悟なのだろう。なれば…
――バシュ
光の渦が、一輪と雲山の行く手を阻んだ。
「な、これって…まさか…!」
一輪は振り返って、そこに自分の予想と同じ人物の姿を見た。そこには宝塔を前に構えて、光の渦を一輪へと向かわせた寅丸星の姿があった。
「星ッ!?裏切るの?」
「妖怪が、何を喚くか。毘沙門天が妖怪を退治する事は、なんの不思議もない、摂理に従った事。裏切るなどとは、誠に…誠に見当外れな言い草だな」
一輪は理解した。星を取り巻いていた状況。そして自分や寺、白蓮が置かれている状況が。最早、元通りに全員が幸せに暮らす事などは不可能なのだ。最早、再び全員が同じ夢に向かって進む事は不可能なのだ。
「ちっ、毘沙門天“風情”が何よ。仲間を傷つけたこいつらを、私は許さない!!」
一輪は自らの喉を傷つけようとするかのように、声を張り上げた。そして、その法輪から光の槍を星に向けて発射する。
「甘い!」
星は光の槍から身をひらりと躱すと、宝塔をより一層、天に向けて高く掲げる。すると、一輪と雲山を取り囲んでいた光が回転を早め、一つの輪となって二人を締め上げた。
「あっっぐ…!毘沙門天め…この恨み…この恨みは…忘れ…ないわよ」
地面に転がった一輪と雲山は、涙で滲んだ瞳で星を睨みつけ、そして気絶した。星はあくまでも毅然とした態度で一輪たちに近づくと、首根っこを掴まえてぐいと身を引き起こした。
「ほれ、妖怪を捕まえたぞ」
“毘沙門天”は仲間をぞんざいに兵たちに引渡した。兵たちは「毘沙門天様、流石でございます!」と土下座して感謝をすると、一輪と雲山を引き取った。
「さぁ、早く船に入れ!」
既に船の中へと連れ込まれたムラサやナズーリンと同じように、一輪も船の中へと押し込まれる。
「……そういえば、お聞きしたいのですが…。あの聖白蓮はどうしたのです?ここには見当たりませんが…」
星は平然とした顔で兵の一人に白蓮の所在を聞いた。仲間を売り、魂まで売ってまで殉じた白蓮が、あの妖怪の列には見当たらなかったからである。
「ああ、あの尼さんなら…確か魔界とかいう場所に封印する為に、御大将が京まで連れていきやしたよ。なんでも、本気を出したらあの尼さん…弟の遺物ですらも抑えられないらしいですから」
「魔界…ですか」
星は絶望した。魔界というのは、現世とは違う別次元の世界。最早、そこで封印を施されたのなら、一介の妖獣である自分には手が出せない。
そして、仲間は船に乗せられ封印される。そう、寅丸星は独りになった。昨日まで同じ理想に向かって心身を鍛えあった仲間たちはもう居ない。彼女は本当に、独りぼっちになった。
――これから、彼女は仲間を殺したという自責の念を抱いて、千年の時を生きるだろう。
「あの、妖怪たちは…どこに封印するのですか?」
「んー、本当は教えちゃいけないんですが…助けてもらったし、毘沙門天様には教えても害はないですよね。“地底”ですよ、地獄があるとかっていう地底。彼処に船の力を拝借して送り込むらしいです」
「地…底です…か。分かりました、それでは道中お気をつけて行きなさい」
「へぇ!ありがとうございます」
――一輪、あの少女は人間である。妖怪と同じように封印を施されては、時の流れが彼女を即身仏へと変えるだろう。
どこかで期待していた自分がいた。封印された仲間も、白蓮も、自分が救い出せて…再び何時もの日常に戻れるのではないだろうかと。
しかし、其れは到底無理な話であった。魔界も地底も、自分が手を出せる場所ではない。自分は、白蓮の言いつけ通りにこの寺を守っていくしかない。
本堂に帰って来た星は、その固く閉じていた口を開く。彼女の口の端からは鮮血が滝のように流れて彼女の真っ白な肌を赤に染めた。
平静を装う為に、正直で正義感の塊である彼女は己の舌を噛みちぎる痛みで、その試練を成し遂げたのだ。
――鮮血が床を濡らす本堂は、いつもよりも寂しく、静かであった。
◇ 七章 「大輪は雲海に咲く」 ◇
目を覚ました彼女の目の前には、心配そうに自分の顔を覗き込むムラサの顔があった。しかし、その顔は自分が目を覚ました事に気付くと、一転して怒りの表情に変わった。
「あっ、ムラサ…」
「一輪!なんで、なんでよ!!私たちが貴方を守ろうとして、色々と頑張ったのに…なんで出てきちゃって、しかも捕まってんのよ!!」
ムラサはどんどんと一輪の胸板を叩いた。その衝撃は雲山がさりげなく受け止めてはいたが、一輪の胸にはムラサの思いが充分伝わった。だが、だからこそ自分にも言いたいことはある。
「なんで、はこっちの台詞よ!なんで私を助けようなんて皆で頑張るのよ!私は仲間じゃなかったの?私だって一緒に姐さんの為に戦いたかったのに!」
「なんで、なんでよー!」
二人は暫く「なんで」を互いに繰り返しながら、やがて泣きながら二人で肩を掴み合って泣き崩れた。其の様子には、傷を負って疲弊した妖怪たちも声を掛ける事が出来ずに、ただ黙って彼女らを見ていた。
「…やれやれ、少しは静かにしてくれないかい?病人の傷に響くよ」
そんな空気を打ち破ったのは、ナズーリンの涼やかな一声だった。彼女は船倉の一角に横たわって息も絶え絶えに、しかし何時もの皮肉な眼差しで二人を見ていた。
「えっ、ナズーリン…!貴方も一緒だったのね…」
「ああ…、まだ身体が起こせそうにないから…このままで失礼するよ。…泣いてる場合ではない。我々がどこに封印されるか…それは分からないが、封印された先では皆で力を合わせて生き残らなければならない。我々にはまだ、やり残した事が残っているだろう?」
「やり残した事…。あっ!そういえば姐さんはここにいないの!?」
その一輪の問いかけに、一同はしんとなって俯いた。自分たちの不甲斐なさで白蓮を救う事も出来ずに、この人間の少女までも封印に付き合わされてしまったからである。
「…聖は、私たちとは別の所に封印されるみたいよ。……聖は特別だから」
「そんな……姐さん…」
実の母親のように、いやそれ以上に慕っていた白蓮と離れ離れになった事は、一輪を更に落胆させた。雲山はそんな一輪の心情を汲んで、複雑な面持ちながらも肩に手を置いた。
「…雲山…。うん、そうよね。私たちが落ち込んでる場合じゃないわ!封印なんて直ぐに解いて、姐さんを助けにいかなくちゃ、ね!」
「……やれやれ、元気を出せと言ったのは私だが…こうも元気になられるとはな…」
「いいじゃない、ナズーリン。私だって一輪が元気が無いのを見ると、悲しいもの。元気があった方が良いに決まってる」
こうして、船の中に漸く妖怪たちの笑顔が戻った。――その時だった。
――ごうん
船の全体を襲った鈍い音と振動が、彼らの全身を揺らした。そして、それと同時に今まで何処かへと向かっていた船の進行も止まったようであった。
――がちゃり
今まで、固く閉ざされていた甲板への扉が自然と開いた。つまりそれは、自分たちが“封印される場所”へと到着した事を示している。
「…さぁて、一体どんな所まで飛ばされたのかしらね」
「行ってみましょう」
妖怪たちは一斉に甲板へと飛び出した。数時間を船倉の中で過ごした彼らにとっては、例えそこがどこであれ、太陽や月の光が浴びられる場所であれば、砂漠で水を得た様に求めていたものを得られるはずであった。
が、しかし――彼らの目の前に広がったのは空を覆う岩盤に、地面のそこら中を川の様に流れる溶岩の河であった。
「こ、ここは…」
「知ってるの?ナズーリン?」
景色を見るなり絶句したナズーリンに、一輪が尋ねる。彼女は否定するように首と尻尾を横に振ったが、しかし「そうとしか思えない」と呟いて一輪に応える。
「ここは地獄だ。地下深くに眠る怨霊たちの集う場所」
「じ、地獄!?」
まるで説法の中でしか聞いたことの無い場所の名前に、一輪は驚く。しかし、ナズーリンは「事実だ」と付け足して説明を続ける。
「ここは灼熱地獄の近くだろうな。ここには生きている者など殆どいない。いたとしても…こんな場所に集まってくる妖怪たちだ、お里が知れるだろう」
「そんな…随分と酷いところに封印されちゃったみたいね…」
天を見上げた一輪は、自分たちが一体どこから地獄へとやってきたのか不思議でならなかった。天井を覆う黒い岩肌には、どこにも地上へと繋がるような穴は見られずに、ただその無愛想な風景を一輪の目に映しているだけであった。
「でも、来ちゃったものはしょうがないじゃない!暫くはこの船を住居にして、皆で協力して過ごすのよ!いいわね、ムラサ船長」
「船長って何よ…。まあ、その案には全面同意だけど」
「だって、此の船を操れるのは船長だけじゃない!とりあえずは、もっと住みやすそうな場所を探すのよ~!さぁ、皆!船に乗って乗って!」
元気良く妖怪たちを纏める一輪の姿を傍らで見て、雲山は感心していた。星だけではない、寺の少女たちは月日と共に本当に成長した。この環境でも明るく皆を纏め上げようとする一輪の気丈さに、雲山は感動を覚えていた。
――だが、彼女の身に起きる悲劇は、この時誰も予想だにしていなかった。
◇ ◇ ◇
連絡を受けたムラサが地獄の偵察から戻って来たのは、つい先程であった。船倉に転げ落ちそうになりながら駆け込んだムラサの目には、青白い顔で横たわる一輪の姿が映る。
「い、一輪!!大丈夫!?」
ムラサはその尋常ではない一輪の姿に動揺しながら、彼女に駆け寄って声を掛ける。一輪の傍らには雲山が心配そうな顔をしている他、ナズーリンを始めとした妖怪の仲間たちが手を持て余して立ち尽くしながら彼女の容態を心配していた。
「ムラサ船長、お静かに願うよ」
「あっ、ゴメン…。でも、ナズーリン…一輪の身に何があったの!?」
息も絶え絶えに、ムラサの呼びかけに応じることも出来ないほどに昏迷した一輪の容態は何が原因なのか分からない。ムラサもつい一時間程前に笑顔で挨拶をして、偵察に出て行った所だったというのに。
その疑問には、ナズーリンが考察交じりに答えてくれた。
「恐らく、と前置きさせてもらうが…。この地獄は見た通り太陽も何もない地下深くの世界…。妖怪である私たちは適応して何事もなく暮らしていたが…人間である一輪にとっては生きていける環境では無かったのだと思う。有毒な気体も発生しているだろうし、時間の感覚も何もない。身体にも精神にも適さない環境だからね…」
「生きていける環境では無かったって…、それじゃあ…一輪はどうなるのよ!?今さら、地上には簡単には戻れないわ…!くそっ、あの星が一輪を捕まえたりしなければ…」
ムラサの言葉に、冷静に考察をしていたナズーリンがその眉をぴくりと動かす。
「ちょっと待て、ご主人が一輪を止めていなければ、彼女は人間を殺していた所だったのだ。それが、“彼女たち”の望む所かね?」
「そんな事言って!一輪が死んだら聖だって悲しむし、一輪だって死にたいわけないじゃない!」
――どがっ
口論になりかけた二人を止めたのは、床を叩き割らんばかりの雲山の鉄槌だった。その音に二人は身体を跳ねさせて驚き、口論を辞めた。
「…ごめん、雲山」
「すまないな、感情的になりすぎた」
皆の見守る中、一輪はその身体から生気を無くして、今にもその生命の手綱を放してしまいそうに見える。大した薬も道具もない妖怪たちには、これ以上はどうしようもなかった。
そんな中を再び、ばたばたと階段を降りてくる足音が聞こえる。しかも、その数は一人や二人ではなく、大勢であった。
「…誰よ、静かに…って!」
ムラサが振り向いた先には、見慣れぬ妖怪たちが数十人。それも只ならぬ様子で立っていた。
「ほ、ほんとにアンタたち、誰よ…?」
「そりゃ、こっちの台詞よ。私たちは、この地獄に前々から住んでる者さ。最近、船に乗って新しい妖怪たちが来たっていうから、ご挨拶に来たのさ」
なるほど、目の前の見知らぬ妖怪たちは地上では余り見ない珍しい妖怪が多かった。
「それで?こっちはそれどころじゃないのよ」
「ああ、見りゃあ分かる。だから、それでいいよ」
そういうと、地獄の妖怪たちの長と見える土蜘蛛が、横たわる一輪の事を指差した。
「はぁ?一輪がどうしたのよ」
「いや、だからそいつを私たちにくれたら面倒見てやるよって話。どうせ、そいつ、もう持たないだろう?だったら生きた坊主を喰わないなんて損な話はないよ」
そう、地獄の妖怪たちは一輪を食料として自分たちに献上するように要求してきたのである。もちろん、これには船の仲間たちは誰ひとりとして容認の姿勢は見せられなかった。
「待て、そこで止まって今すぐに船から出な。このムラサ船長が、アンタ達の乗船許可は出した覚えがないよ」
「そんなら、私たちだってアンタらに地獄の入国許可は出した覚えはないねぇ」
土蜘蛛とムラサの間に鋭い目線の火花が散る。だが、そんな争いを中断させたのは、一輪の一際大きな咳き込みと喀血であった。
「くっ、一輪…!」
「ほら、私たちが手を下さなくたって、その尼さんは死んじゃうんだ。だから死ぬ前に私たちに渡しときなって」
「嫌よ!一輪は死なない!!死なせないわ…!」
「分からない子だねぇ!だったらどうやって助けるんだい!誰が!」
『私が助ける』
聞き慣れないその声に、一同が静まりかえって声の主へと振り向いた。
「う、雲山…なの?」
「ああ、一輪は…私が助ける。入道としての存在を失いかけていた、ただの雲と消え失せようとしていた私を救ってくれた一輪。今度は、私が救う番だ」
そう、今まで一輪に対してしか喋る事の出来なかった恥ずかしがり屋の雲山が、この場面でついにその声を衆目に晒した。そして、その言葉は誰の言葉よりも正確で堂々としていた。
「…入道、どうやって助けるってんだい?」
土蜘蛛も、入道の言動に興味を持ったのか休戦の構えを見せて尋ねる。
「私が、一輪の身体へと全身を浸透させ…そして一部での融合を計る。それで、一輪は…妖怪となる…」
「ばっ…!」
雲山の考えに、ムラサは驚きと困惑に満ちた声を上げた。
「ちょっと、雲山…貴方…!一輪を妖怪にしてしまおうって言うの!?」
「それしか…一輪が妖怪になるしか…生きる道がないのであれば」
その言葉に、一同は言葉を発さずに互いの顔色を伺った。確かに、何も手を打つ事がなく絶望していたのが先程までの自分たちである。しかも一輪を助ける手立てがないとすれば地獄の妖怪たちが彼女を食料として寄越すように要求してくる。この状況を打開するには、確かにそれしかない。
「で、でも…一輪の意思を聞かずに…そんな事…」
「…大丈夫、私が彼女に聞いてくる。それに…もし彼女が望まなくても、私には彼女を生き残らせる義務がある。その時は、全ての責任は私。彼女がその後に受ける苦しみも何もかも、私が引き受ける」
雲山の確固とした意思に、ムラサたちはそれを非難する事が出来なかった。自分たちも兄弟のように親しかった一輪であったが、確かに付き合いの長さで言えば雲山が最も長い。気付けば一輪の側には雲山がいつもいた。そしていつも彼女を守ってきたのが雲山であった。
雲山は周りの様子を伺って、一つ大きく頷くと、一輪の口へとその身体を滑り込ませていった。蒸気の様に変質した雲山の身体は、その形をまるで綿飴のように変形させて一輪の身体へと進入していった。
「仕方ない、いい見ものだ。嬢ちゃんが生き返るまで、ここで見させてもらうよ」
土蜘蛛がそう言って床に腰を降ろすと、他の妖怪たちも大人しく一輪と雲山の様子を見守る事にした。
◇ ◇ ◇
目が覚めると、自分は雲の上にいた。雲はまるで真綿のようにふかふかと、自分の身体を包んでいた。上体を起こして周りを見渡すと、そこは延々と雲が広がる空の上であった。
「何よ、ここは」
一輪は柔らかい雲の上で、弾力に足を取られて転ばぬように慎重に立ち上がる。上を見あげれば真っ青な空であるが、そこは普通の雲の上という訳ではなかった。もちろん、人間が只の雲の上に立てるという事自体が既に普通では無かったが。
「一輪、目が覚めたか」
その聞き慣れた声に振り向くと、彼女の目の前には雲山の姿があった。しかし、雲山は何時ものような雲が親父の形を取っている姿ではなく、肉体を持った仙人のような格好をしていた。
「雲山、どうしたの?その格好…」
「ここは、お主の心の中。そして、私はお主の身体の中に自分を広げさせてもらった。だから、こうして心の中で会話出来ている」
「ふーん、なんでそんな事したのよ?何時もみたいに耳打ちしてくれれば…」
そこでふと、一輪は自分がこの雲海の中で目覚める前の事を思い出した。――そう、自分は船の中で突然に胸が痛み出して意識が遠のき…
「…思い出したか?そう、お主は今、生死の境をさ迷っているのだ」
「う…嘘…そんな……」
「だが、安心しろ。その為に私がここまで来たのだ。…一輪、お主は…私の“核”となる部分を魂と同化させ……妖怪となるしか生き残る道はない」
雲山の言葉に、一輪は「えっ」と言葉を漏らしてよろめいた。突然、人間としての生を捨てて妖怪として生きる道しかないと言われれば、彼女の足が動揺に揺らぐのも無理はない。
「……どうだ?一輪の答え次第なのだが…」
雲山はゆっくり考えるようにと、一輪の事をじっと見守った。
一輪の頭の中ではあらゆる思いが交錯していた。妖怪となれば、人間よりも長生き出来る。つまり、それは白蓮を助けて再会する事が出来る可能性が大幅に増える。
もとより、妖怪にならなければ死んでしまうのであれば、拒否した時点で白蓮やムラサたちとも永遠に会えなくなってしまう。
だが、妖怪となり人間である事を辞めた瞬間。それは、即ち白蓮たちの仲間でいられなくなる事ではないのかという畏れが湧いてきた。星に言われた様に、自分は妖怪たちの中に交じり人間でありながら、人妖の平等を訴えていた事が稀有な存在であって、妖怪となってしまった一輪を皆が必要としてくれるか、という疑問が生まれた。
――いや、その二つの考えに板挟みになる以前に
自分が人間を辞めるという事は、それは一輪という人間が死ぬことと他ならない。妖怪となる事が、記憶や考えは一緒のままに生まれ変わる事と同義であるとしても、やはり自分は人間なのだ。おいそれと妖怪になる事には恐怖心がある。
「…結局は、人間のまま死ぬか。妖怪のまま生きるか。それに尽きるのよね…でも、雲山」
一輪に名前を呼ばれて、雲山は何事かと顔を向ける。彼女は雲山に不満があるとでも言いたい様に頬を膨らませて文句を言った。
「これじゃあ、公平じゃないわ」
「…何が、不公平だと言うのだ?」
「雲山、貴方が負う枷について、私にわざと話していないでしょう」
「…!」
雲山は口ごもった。まさか、この一輪は自分の心を読んでいるのではないかという程、的確な指摘であったが為だ。
「雲山の核を私の魂と結びつけるって事は、私が妖怪になった後…雲山は私の側から離れられなくなるって事でしょ?入道っていうのは本来、空を自由に風と共に泳ぐものだって姐さんが言ってたわ。変わり者の雲山は、私といつも一緒に居たけど…自主的に空を泳がない事と、魂を縛られて泳げなくなる事は、全く別の事よ」
「一輪、それは…」
「私を生き返らせる為に、雲山が不自由になる事はないわ。私だって誰かを生き返らせる為に、一生涯を外に出ずに部屋で過ごせなんていわれたら、それは辛いもの」
「一輪、私が入道としての意味を失う事…それは既に覚悟している事。いや、むしろお主を守ると誓ったこの心が、お主をこのまま死なす事の方が我慢ならんと叫んでいるのだ」
一輪と雲山は、しばらく雲海の中で無言のまま立ち尽くした。
少女と親父は随分と長い事向き合ったまま、時だけが過ぎていった。
「雲山の心ってこんなに広いのね、端っこが見えないくらい立派な雲海」
「一輪、お主の心はやはりこんなにも澄んでいるのだな。汚れ一つない美しい青空」
二人は握手を交わす。これが、人間と妖怪の不思議な二人組の最後の挨拶だ。これからは、二人で一緒。生涯を共に助けあって生きていく一組の妖怪となるのだから。
◇ ◇ ◇
「一輪っ!」
彼女が目を覚ますと、まずはムラサがその身体に抱きついてきた。彼女の黒い癖毛が一輪の顔を覆った。
「ふがが、ちょっと!痛い痛いってば!」
ムラサを自分の身体から引き剥がして身体を起こすと、周りを見渡した。船倉には多くの仲間たち、ナズーリンも居る。そして、何やら見慣れぬ妖怪たちも自分が再び目を覚ました事に感心しているのか軽く拍手をしていた。
「えっと…私…妖怪に、なったの?」
一輪は自分の両手をまじまじと見つめて信じられないと呟く。その見慣れた肌の下には自分の健康そうな血が通っていたし、特別に強大な腕力が得られたような節もない。
「一輪、君は雲山の身体を一部借りて妖怪になったようなもの。だから、普通の妖怪とは違って身体能力は人間の頃と変わらないと思った方が良い」
ナズーリンの説明に、一輪は「うん」と小さく頷いて元気良く立ち上がった。そして、右手に法輪を持つと、それを見せつけるように掲げた。
「身体能力なんて無くったって、私には此れが……あれ?」
景気付けに法輪に力を込めようとした一輪は、自分の身体から法力が生み出せない事に気づいた。
「あれ?なんで…」
「一輪…、君は妖怪になったんだ。だから人間の時に天性で備わっていた法力は失われてしまったようだね。これから、一から法力の会得に努めなければならないだろうね」
ナズーリンは言いにくそうに彼女の置かれた状況を、的確に説明する。一輪は、法輪をぐっと握り締めると、それを自らの手首へと戻した。
「安心しろ、一輪」
一輪のそんな不安を払拭したのは、耳元でささやいた雲山の言葉であった。
「大丈夫だ、一輪。お主が法力を使えない間は、いや使えるようになったとしても…私が責任を持ってお主に振りかかる全ての戦い、務めを代わりに果たそう。それが、お主を妖怪にした私の新たな責任だ」
「雲山…ありがとう」
一輪は生まれたときより、自分の身体の一部のように肌身離さず持ってきた法輪よりも、更に信頼できる仲間たちを得ていた。その事が彼女の、いつ壊れてもおかしくない柔い心を、厄災とも言うべき辛い境遇から守っていた。
「あー、盛り上がってる所で悪いんだが…」
一輪の見知らぬ妖怪の一人が、ムラサに向かって話しかける。どうも、その妖怪たちと自分の仲間たちは余り仲がよろしくない事は船倉内に漂う空気から一輪にも感じ取れた。
「何よ?アンタ達、まだ居たの?」
「そんな尖らなくたっていいじゃないか。まあ、その子は助かったみたいだし…邪魔しちゃ悪いから私たちはこれで帰るよ。何か困ったことがあったら、私たちに聞きに来な。地獄の事は大体分かってるからね」
そういうと、土蜘蛛を始めとした地獄の妖怪たちはぞろぞろと階段を昇って外に出て行った。一輪は結局、妖怪たちが何者なのか分からないままだったが、何やら助けてくれるそうだったので「どうも」と頭を下げて、それを見送った。
「…誰だったの?あの妖怪たち…?」
「ふん、気にしなくて良いのよ!…それより、一輪…本当に良かったわ…。雲山も、ありがとう」
ムラサは目を潤ませて二人の妖怪をじっと見つめた。そんなムラサの顔を見て、今まで何も感慨深いものはなかった一輪も思わず涙腺から涙が溢れてきた。
「ぷっ…一輪…何泣いてんのよ…うぐっ」
「ム、ムラサこそ…っ…泣いてるじゃない…」
一輪とムラサは泣き崩れた。一輪が妖怪になってしまった事への悔恨なのか、それとも友人が死なずに済んだ事への嬉しさなのか。二人の泣き声は暫く止む事はなかった。
真面目で、優しく、気高く、優秀で、落ち着いて、明るく、泣き虫で、清純であった人間の少女・一輪は死んだ。
雲の中に御座すは尊き一つの輪なり。――妖怪・雲居一輪はここに顕れた。
◇ エピローグ 「仲間たちへ」 ◇
その寺は尽く荒廃していた。建物も長年の風雨によって毀されて朽ち、当初は大勢で賑わっていた境内も今は、ただ無人の無残な姿を晒している。
千年程前、この寺は妖怪たちによって活気に満ち溢れていた。そして、人間たちも同時に寺へと足を運んで仏の力に肖ろうとしていた。
だがやがて、人も妖も寺を去っていった。今ではこの寺にはただ一人の妖怪しか生きるものの姿はない。
本堂に独りで佇む寅丸星は、千年間をこの寺を守る事に執着した。それが敬愛する師との最後の約束であったから。だが、そんな彼女の愚直に寺を守ろうとする心は、寺の求心力を集める為に良くは働かなかったのかもしれない。
結局、“あの日”から新しく仲間というものに出会う事もなく。ただ独りで寺を守り続けた。
星はやおら本堂を出て鐘つきへと向かう。決まって毎日の正午に鐘を突くことによって、彼女はかろうじて永い月日の中で自分を失わずにいた。
考えれば頭に浮かぶのは、師を守る事も出来ずに人間たちに引き渡した自分。仲間たちを助ける事より、寺を守る事を優先した自分。そして、あれほど可愛がって信頼していた兄弟子を死に追いやった自分。醜い自分。
「あ…」
気付けば、星は鐘を突き終わって呆然と立ち尽くしていた。あれから千年。本当に、あの時の選択は間違っていなかったのだろうか。星は毎日、頭の中で自問自答を繰り返していた。
結界によって外界との交流を断絶される様になっても、廃寺と言われても仕方の無いこの寺だけは守ってきた。何も代わり映えしない毎日。
そんな彼女の頭上に、突如として大きな影が降ってきた。
「?なんでしょう…」
星は辺りを暗くしたその影の正体を見るために、頭上へと目を向けた。
そこには、いつか見た船があった。
――地下から偶然にも脱出し、この寺まで辿りついた船は、千年の時の中で多くの仲間を失っていた。それでも、残った彼女たちにはやるべき事があった。だから、この寺へとやって来た。
「…信じられません…」
星は千年前の自分の判断が、まだ間違っていたと決めなくて済む事に感謝しながら、その船へと足を向けた。出迎える彼女たちの笑顔を眩しそうに見つめながら。
◇ ◇ ◇
聖白蓮は解放された。見知らぬ少女によって封印が解かれたのだが、彼女との会話によって昔の仲間たちが自分の解放に尽力してくれた事を知った。
その少女には突然に勝負を仕掛けられて敗れはしたが、元より勝負事に執着しない白蓮である。負けた事よりも自分を助けてくれた仲間たちに再会する事で頭が一杯であった。
彼女は全速力で魔界の空を駆ける。千年も封じられていた魔界ともこれでお別れである。
「まさか、千年も何もしてあげられなかった皆が…私を助けてくれるなんて…」
白蓮の頭の中には千年前の幸せな光景が浮かび上がってくる。
――ムラサに雲山、星…後は誰が来ているのかしら…ナズーリン?
そこまで考えて、白蓮の頭の中に一人の少女の顔が浮かび上がってきた。そう、この場にはいないはずであろう、自分の一番弟子の顔が。
「一輪…、あの後はどのような人生を過ごしたのでしょうか…。どうか、幸せな生涯を全うしてくれていたら、良いのですが…」
例え長く生きたとしても、一輪が亡くなってから既に900年は昔の話である。星やムラサに聞いても一輪の事を覚えているかどうかが白蓮の不安であった。
「おーい!聖ー!!」
ムラサの大きな声が、白蓮の視線を下へと向けさせる。そこには光る船に乗った仲間たちの姿があった。
「皆!よく無事で…!」
白蓮は腕を広げて甲板へと降下した、この時の為に一丸となって尽力してきた仲間たちはワッと沸き立って白蓮の元へと駆け寄った。
「聖、お久しぶりです…本当に良かった…ご無事だったのですね」
「ええ、ムラサ。ありがとう、立派になりましたね」
「…申し訳ありません。私がしっかりしていれば、もっと早くに貴方を解放出来たのに…」
「何を言っているのです星。貴方が寺を守っていたからこそ、皆が帰る所があるのですよ」
「……」
「あら、うんざ…」
目の前に見えた雲山に声を掛けようとした白蓮は、言葉を詰まらせる。雲山の背後、そこには皆の歓喜の輪から外れて一人佇む、ここにはいないはずの少女を見たからである。
「…いち…りん…?なんで…」
白蓮は口に手をあてて、一歩、また一歩と一輪へと近づく。そして、歩みを進める内に、この千年間で彼女の身に何が起きたのかを理解した。何故、ここに彼女が生きて存在しているのか。その答えは自分が過去に犯した過ちと良く似ているからである。
「…辛かった、でしょう…。私を、恨んでいるのではないですか?」
近寄ってきた白蓮の胸に、一輪は顔を埋める。そして、背中に腕を回すと力強く、その身体を抱きしめた。
「正直に言うわ。百年に一度くらい…私はもう…素敵な男の子と恋をする事も、結婚をして子供を産む事も、おばあちゃんになって死ぬ事も出来ないんだって…そう思って自分の身を殺したいと思った。…でもね、姐さんの事は一度も恨んだ事なんてない。雲山も、ムラサも、ナズーリンも、星も。皆みんな、恨んだ事なんて無かったわ」
そういって肩を震わせる一輪の頭を、優しく撫でる白蓮の顔は美しい笑顔を形どっていた。そこに流れる一筋の涙は、まるで夜空に落ちる流星のよう。
聖輦船の甲板に立つ妖怪たちが見守る中、雲居一輪は一同を代表してこの言葉を口にする。
「おかえり、姐さん」
「ただいま、一輪」
それを見て、雲山は笑った。心で笑った。
※このSSには一部、東方星蓮船「キャラ設定とエキストラストーリー.txt」より引用があります。
所々展開がやや急転するところが気になりましたが、素晴らしい作品だと思います。
寺組はいい面々だなぁ。
1000年は長いだろうなぁ…。
自分が泣いてる事さえ気付かないほどに、入り込めました。
あー!! 言葉が足りない! ただ、彼女らの道筋に幸あれ!!
物語後半が駆け足気味だったのが気になりましたが、素晴らしいお話でした。
命蓮寺の面々には、幸せになってもらいたいものです。
夢の途中で途絶えた村紗が、ムラサとなって新しい夢を持ち、一輪という友を得たのにはほっこりとしました。妖怪として正しくあろうとした天狗には同情さえしました。
傍観者に徹しきれなかったナズーリンの秘めた熱さには感動しました。白蓮の願いが無念に終わるのはただただ悔しかったです。
そして一輪が少しずつまわりと打ち解け、成長し、飄々とした少女から己の意思を持って飛び出すようになるのは素晴らしかったです。
東方星蓮船のエピソードとして、本当に壮大なストーリーを描いてありました。面白かったです。
一輪&雲山話はもっと増えてもいいはず、俺得的な意味で
登場人物はみんな素敵だったのですが、個人的には雲山が特に魅力的。
すばらしい作品をありがとうございました。
感 動 !
4.凪方風也さん
展開などについては、まだまだ勉強したいと思います。
自分の中では文量だけで壮大にしたくはないので、もっと文章を磨いていきたいと思います。
7.名前が無い程度の能力さん
そう言っていただけると長文に不安があったので助かります。
命蓮寺の面々は、書いている方としても段々と感情移入していきますね。良いメンバーです。
14.名前が無い程度の能力さん
一輪と雲山についてのお話は、あまり設定がない分に自分で広げやすいですね。
千年間の重みというものは、まだ表現出来ていなかったかもしれませんが、少しでも感じて頂けたなら幸いです。
18.vさん
いやはや、そこまでお褒めにいただけると作者冥利につきます。ありがとうございます。
“良い人”ってよく泣くと思います。だからこのSSでも登場人物が泣きっぱなしです。
20.名前が無い程度の能力さん
そうですね、小さな取っ掛かりから沢山の妄想が溢れてきましたよ。
今の幻想郷で平和に暮らせる人たちだからこそ、過去の話は好き勝手させて頂きました。
23.ずわいがにさん
各キャラクターの持つ魅力が多くて、書いている私も楽しかったです。それを共有して頂けたのなら幸いです。
特に天狗たちは完全な悪役と見られても仕方がないと思っていたので、心中察して頂いて彼らも報われると思います。
27.名前が無い程度の能力さん
それだけ長かったですからね~(笑)改めて読了ありがとうございます。
皆さんで一輪と雲山の魅力を表現していきましょう!
28.拠点防衛型コンビニ店員さん
読了ありがとうございます。自分でも読み返しでマウスホイールを回しすぎて指が疲れました。
雲山はあまり描写していませんが、ほぼ全編において一輪と共にいます。守り守られし大輪。その意味が表現出来ていれば…
29.名前が無い程度の能力さん
そう言って頂けると本当に嬉しいです。まあ私の妄想なのですが(笑)
少しでも多くの人と妄想を共感出来れば良いと考えております。
素晴らしいお話でした
取り敢えずこの涙をなんとかしてください
だからこそまだまだ読みたいという意味で一輪が妖怪になったあとの地獄での生活なんかも見てみたかった。
杞憂でした。
人間と妖怪の関係がうまく書かれていてよかったです。
これだから東方はやめられない。
原作での6ボス前の白蓮との会話で、一輪が出てこなかった事をこう解釈する所も巧いと思います。
“そこまで考えて、白蓮の頭の中に一人の少女の顔が浮かび上がってきた。そう、この場にはいないはずであろう、自分の一番弟子の顔が。”
この辺りとか読んでて普通に泣きそうになりましたw
こんな事書くのは二次創作作者としてのyunta-さんや東方原作、そしてzun氏に大変失礼だと思うし、あくまでジョークとして書きますけど、これが公式認定されたらいいなとかちょっと思ってしまいました。
それくらいに面白かったです。
星組で一番好きなキャラは白蓮、次点でムラサだったはずなのに、一輪が一番好きになりそうですよw二次創作だって分かってるのに!w
素晴らしい作品を読ませて頂いて有り難う御座いました。