Coolier - 新生・東方創想話

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2010/04/28 19:51:25
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※作品集75「知音」を読んでいると、なぜルナサ×大妖精かが分かりますが、別に読んでなくても問題はありません。





1.歌姫の覚醒

「え、みすちーもう一回言ってもらっていい?」
 カウンターを挟んで給仕をしているみすちーに向かって、ルナサはそう問い返した。多分、端から見たら狼狽しきった顔だろうけれど、隠す余裕なんかあるはずがなかった。
「え?『多分、とてもいいと思うんだ』」
 新しい串を炭火の上に置くと、みすちーは少し間をおいてからそう言った。忘れっぽいあの娘にしては珍しく、話した中身通りの台詞が返ってきた。そのことに少し驚きはしたが、それはルナサが求めていた答えではなかった。
「いや、違う。その前」
「前って、何だっけ? えっと『今日は珍しく大人数なんだね?』」
 おいおい、どこまで戻ってるんだよ。まさか来店時まで戻るとは思わなかった。求めていた答えは、ほんの数刻前にみすちーが言った衝撃発言のことだったんだけど。
 夜雀であるみすちーじゃなければ、これは惚けているんじゃないかと疑うところだけど、彼女は本気だから本当に困る。愛嬌のある人の良さそうな笑みを浮かべて、みすちーはルナサの方を不思議そうに見つめていた。
 先程みすちーが置いた八目鰻の串から、タレの焦げるいい匂いがしてきた。それに釣られてチルノが涎を垂らしている。それを隣の席の大ちゃんが拭いてやっていた。その微笑ましい光景に、自然と口元が緩みそうになる。
 いけないいけない。必死に衝動を抑えると、ルナサはみすちーに向かって改めて口を開いた。
「新しい曲を書いたから、今度歌って欲しいと言ったよね、私は」
「そうだったね。だから私が『いいよ、どんな曲なの。楽しみだなあ』って言ったんだっけ?」
「そうそう。みすちーにしてはよく覚えていたわね」
 ルナサの言葉に、心外だという風にみすちーは少し口をとがらせる。
「酷いよルナサ。確かに私は忘れっぽいけど、仕事の時は別よ」
「ごめんごめん」
 いつものみすちーの様子を考えれば、仕方がないことだとは思うのだが、ルナサはすぐに謝罪した。
「で、何の話だったっけ?」
「結局覚えて無いじゃないか……」
 舌の根も乾かないうちにそれか。何となく釈然としない心持ちのまま、ルナサは核心部分に触れることにした。
「そのさ、『歌わせてみれば』って言ったよね」
「うん、言ったわよ」
「誰に?」
「え、大ちゃん」
 言ったんだ、やっぱり。
 話題に上がった当の本人はチルノの世話を焼きながら、暢気にお酌なんかをしているものだから、聞き間違いかと思ってしまったが、どうやら本当だったらしい。
「本気なの?」
「ん、本気よ。少なくとも、貴女や当人よりはよっぽどね」
 そう言ってみすちーは大ちゃんの方に視線を動かした。それに続けてルナサもそちらの方に顔を向けた。突然二人から見つめられたものだから、大ちゃんはよく分からずにキョトンとしていた。
「どうしたんですか、二人とも」
 どうやら先刻のみすちーの言葉は大ちゃんには届いていなかったようだ。それならば無かったことに出来る。ルナサがそんな風に思った矢先の出来事だった。
「ねえ、大ちゃん歌ってみる気はない?」
 みすちーはそう言って、あっさりとルナサの思惑を打ち砕くのだった。
「……はい!?」
 一拍おいて大ちゃんが間の抜けた返事を返す。そして、まったく理解出来ない様子で、みすちーに問い直すのだった。
「えっと、みすちー、歌うって誰が歌うの? もしかして、私?」
「そうそう」
「ふーん、そっかー。……って、えええええ」
 ようやく大ちゃんにも事の次第が伝わったようだった。しかし、伝わったといっても、何でみすちーがそんなことを言ったのか、理解は出来るはずもなく、混乱の真っ只中にあった。
 そりゃ当然か。そもそも大ちゃんが歌を歌っている所を、深い関係にあるルナサでさえ見たこともなかった。確かに、自分の演奏を聴いてもらって、助言をもらったりすると、とても的確に返ってくる。だが、それとこれとはまた別の話だ。名手が名評論家になり得ないのと同じように、名評論家が名手とはたり得ないのだ。
 そのことはみすちーも良く分かっていると思っていたのだが、何か彼女には腹案があるのだろうか。そんな風に思いながらルナサは、みすちーと大ちゃんのやり取りを静観することにした。
「ちょっと大ちゃん落ち着きなよ。はい、お水」
 驚きから回復できないまま息を荒くする大ちゃんに、みすちーはコップを差し出した。それを受け取ってゴクゴクと一息で大ちゃんは飲み干す。ふっと一つ溜息を吐くと大ちゃんは、相変わらず顔を赤くしたまま無言でみすちーにコップを返した。
 再びコップにタンブラーから液体が注がれる。大ちゃんは、それを躊躇することなく飲み干した。二杯飲んでようやく落ち着いたらしい。そこを見計らってみすちーが口を開いた。
「えっとさ、私がルナサ達の演奏に合わせて歌っているのはわかってるよね」
「あ、はい」
「最近、少し考えてたんだ。私の声と時々合わないことがあるんじゃないかって。私、アップテンポな曲の方が向いているのよね。種族的な意味で、それは大ちゃんも分かるでしょ?」
 そのことは、時折ルナサ自身も感じていたことだったので、納得することが出来た。どうやら、大ちゃんも同感だったのだろう。あっさりと首を縦に振った。
「そうだよね。特に、ルナサが作る曲って、落ち着いたものが多くってさ、あんまり感じが合わないところがあるんだよね」
「悪かったね」
 みすちーの言い分はわかった。だけど、そうだといって自分の曲について言及されて、黙っていられるほど大人でもなかった。会話に口を挟む気はなかったのだが、ついつい割り込んでいってしまった。
「いや、別にけなしたつもりはないって。それは個性なんだからしょうがないでしょ」
 みすちーはルナサの言い分を理解してのことだろう、すぐに苦笑いを浮かべ、少し首をすくめるようにしてそう言った。
「わかってる」
 複雑な表情を浮かべたまま、ルナサが沈黙するのに代わって、口を開いたのは大ちゃんだった。
「でも、それで何で私が歌うことにつながるんですか?」
 その大ちゃんの疑念は最もだった。ルナサもそこが知りたかった。どういう思考をすれば、歌ったことがない大ちゃんに歌わせようという気になるのだろう。
「え、だって大ちゃん声が綺麗だし、音感もいいから歌ってみたらいいかなーって思って。それに何よりさあ、今のルナサと一番息が合うのは、姉妹を除けば大ちゃん以外には考えられないしねえ」
 あっけらかんとしたみすちーの物言いに、ルナサも大ちゃんも思わずポカンとして見返すばかりだった。
 それにしても、もっと何か深い理由があるのかと思っていた分、肩すかしを食らったような格好になってしまった。
 じゃあ、何だ大ちゃんに歌わせるのは、私との相性のためなんだ。そう言われるのはかなり嬉しいけれど、そのためだけにこんな無茶を通させるわけにはいかない。
 きっといきなりの発言を整理するので精一杯なのだろう。大ちゃんは、少し俯いて黙り込んでしまった。それを横目に、ルナサはすっとみすちーの方を向くと口を開くのだった。
「ちょっと待ちなよみすちー。いくら何でも無茶苦茶だよ」
「え、何が?」
 ルナサの言葉にみすちーは、さも理解できないと言わんばかりに顔を歪めた。
 だけどそんなことにかまっている余裕など無かった。今この場で、そんな思いつきは否定しておかないと、苦労するのは大ちゃんなのだから。
「何がって、何もかもだよ。貴女だって一端の歌い手なら、経験のない者が、いきなり舞台で歌うって事の意味ぐらい分かるでしょ?」
 思った以上に厳しい声が出てしまったことに、ルナサは自分でも驚いていたが、それも仕方がないことだった。ここでルナサがあっさりと納得すればこの話は通ってしまうだろう。だったら反論するよりほかはないのだ。
 だけど。
「分からないわね。分かるはず無いじゃない。私は歌いたいから歌っているだけ。それが、たまたま貴女達と同じ舞台であるだけよ。だから道端だろうと、この屋台だろうと、歌うことには変わらないわ。だから、貴女の言うような舞台の意味なんてわからないわ」
 しかし、ルナサの言葉以上に、みすちーの声は厳しいものだった。反論を許さないとばかりに、誇らしげに胸を張ると、そう宣言していた。
 思ってもみなかったみすちーの激しい言葉に、ルナサは一瞬怯んだが、ここで引くわけにはいかなかった。
「そうね、貴女は歌いたくて歌っているんでしょう。その上技術もある。確かに貴女には何の問題も無いわね。でも大ちゃんはどうなの? 貴女が言うように音感があって、知識としてなら下手な妖怪達よりは遙かにあるわよ。でもそれだけ。ただの素人に毛が生えた程度のもの。そんな子に歌わせるつもり?」
「そうよ」
 すぐさま反駁したルナサに対し、冷然とみすちーは言い放った。
「だから何? 技術がない、素人だから、そんなもんは歌うのに一切関係ないよ。歌いたい人が歌いたいように声を張り上げて歌う。それでいいじゃない。何、つまんないことで悩んでるの?」
 熱っぽく語るみすちーに、ルナサは少し感心していた。だが、その言葉には一つ抜け落ちている点がある。それは、大ちゃんの意志は全く考慮に入れられていないということだ。
「でもさ、みすちー。一つ疑問なんだけれど、大ちゃん自身はどうなのよ。貴女が歌わせたいと思っても、あの子が歌わないって言ったらそれまでじゃない」
 ルナサの言葉にみすちーが唇の端を吊り上げた。そこにはいつもの彼女に似ない皮肉げな色があった。
「ふふ、そうだね。でもそれは貴女だって同じよね。貴女は大ちゃんのためって言い張るけど、それは本当に大ちゃんの願いなの? 貴女が自己満足で勝手に代弁してるだけじゃないの?」
「それは……」
 そのとおりだった。ルナサの言葉にも欺瞞がある。確かにみすちーの指摘するように、ルナサもまた大ちゃんの意見は聞いていなかった。
 それどころかルナサは、自分勝手に大ちゃんの保護者の気分になって、守ってやっているつもりになっていた。みすちーははっきり指摘しなかったが、言いたいのはそう言うことだろう。
 だが、ルナサはぶつけられた叱責を理解はしたが、納得することは出来なかった。
 ぶんぶんと頭を振って嫌な想像をかき消す。そんなことはない。慣れないことをやらせて大ちゃんに恥ずかしい思いをさせるよりはよっぽど良いはずだ。
 ルナサは気持ちを新たにすると、真っ正面にみすちー見つめた。しばらく無言のままカウンターを差し挟んで、ルナサとみすちーは対峙していた。
「だったら聞いてみようか。ねえ、大ちゃんはどうなの? 歌ってみたい?」
 ルナサの悩みを見透かしたようにみすちーはフフンと笑うと、大ちゃんの方に向き直り、そう尋ねた。
 ドキドキしながらルナサが振り返った先には、真っ赤に染まった大ちゃんの顔があった。
 あ、しまった。気付いたときには遅かった。
「はひ。歌ってみたいれすー」
 やけに陽気に答える大ちゃんを余所に、ルナサはみすちーに掴み掛からんばかりにルナサは立ち上がった。
「みぃーすぅーちぃー」
「何かなルナサ?」
 もの凄い勢いで強め寄ったはずだが、みすちーはしれっとした態度を崩すことはなかった。
 わかっているくせに。どう考えても大ちゃんはおかしいほどに酔っぱらっている。しかも先程まで普通に飲んでいたはずなのが、急激にだ。思い起こせばさっきのコップ、あれが怪しすぎる。
「貴女漏ったわね」
「何の事かしら。それはそうとこれで決まりね。大ちゃんには歌ってもらいましょう」
 白々しい口ぶりでそう言うと、みすちーはこの話は終わりとばかりに、新しい八目鰻を七輪の上に乗せたのだった。
 おいおいこれで話は終わりじゃないだろうな。
「ちょっと待ちなさい、酔わせて正常な判断が出来なくさせておいて、何が自分の意志だ」
 そんな風にルナサがみすちーに詰め寄っている間も、大ちゃんは、がんばりますよー、わたしはうたえますよー、と酔った勢いか、陽気に宣言してまわっていた。
 やれやれ、人の気も知らないで困ったものだなあと思っていた時だった。
「え、大ちゃん歌うんだ? ちょーたのしみだよ」
 その大ちゃんの声を聞きつけたのだろう、本当に楽しみだという顔をしたチルノが、二人の話に首を突っ込んでくるのだった。
「チルノお前は黙れ」
 ただでさえみすちーに対して苛立っているのに、脳天気なチルノの言葉を聞いて、思わずカチンと来てしまった。苛立ち紛れにそのままチルノを一喝する。
「あんたさあ、さっきから言いたいだけ大ちゃんのこと言ってくれてたけどさ、なにを知ってるのさ?」
 どうやら一喝されたことだけでなく、さっきまでの物言いに腹を立てていたらしい。売り言葉に買い言葉、チルノもルナサに負けず劣らずの調子で噛み付いてきた。
「はぁ」
 チルノの予想外の反撃にルナサは戸惑ってしまう。
「大ちゃんの歌、知らないんだろう」
「あ、う……」
 チルノの言葉はルナサの泣き所を確実に突いてきていた。そして、返答できずにもごもごと口を動かすことしかできない所に、更に言葉を続ける。
「きいたこともないくせに何であんなこと言えるのさ」
 本当にこいつには驚かされる。正直そう思った。確かに、大ちゃんが歌ったところは見たこともない。と言うか、何で聴いたことがあるんだ。
 そんな風に悩んでいたのが顔に出たのだろう。チルノは自慢げに口を開くのだった。
「昔あたいが眠れないときとかによく歌ってくれていたんだ。でも最近はあんたのせいでまったくきけなくなってたんだよ」
 何だろうこの敗北感は。何でも分かっているつもりだったのに、全然分かっていなかった現実を突きつけられた惨めさ。
 確かにチルノと比べれば、大ちゃんとの付き合いの時間はまだまだ短い。それでもチルノよりは深い仲になった。そう思っていたはずなのに。ルナサは冷水を掛けられた気分だった。
 知らず知らずのうちに鬱っけが外に漏れていく。いけないと思ったが、止められないままルナサは俯いていった。そこにチルノの遠慮のない言葉が飛ぶ。
「あんたさ、バカじゃないの?」
「ば、馬鹿って、何よ」
 まさか馬鹿に馬鹿と言われるとは思っていなかった。予想も付かないことを言われると戸惑うのは本当だな。そんな風に思いながら、ルナサは心外だというような目をチルノに向けた。だが、チルノはその視線を一笑に付すと言葉を続けた。
「あんたの前だからきかせなかったって、どうしてわかんないのさ。それこそあんたの言ってたようなわけなんて、とっくに大ちゃんはわかってるさ。あんたの音楽が大好きだし、あんたのそばにいるのがたのしいと思ってる。だから、大ちゃんはがまんしてたんだよ。でも大ちゃんはさ、大ちゃんはさ、歌うのが大好きなんだよ」
 チルノは少し泣き声混じりでそう言った。
 ルナサはその言葉に、再び鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。
 くらくらとした頭の中でその言葉が反芻している。
 大ちゃんが歌うのを我慢してたって。それは私のせいか。はは、そうか、ははは、あはははは。
 考えれば考えるほど自分が嫌になってくる。少し壊れ気味な思考のまま、ルナサはカウンターに突っ伏してしまっていた。
「はーい、チルノちゃんそこまでー」
 先程以上に鬱っけが止めどなく外に零れていたからだろう、みすちーがそれを察して中に入ってくれた。
 チルノはまだ言い足りなさそうな雰囲気だったが、みすちーがメッと叱ると、渋々引き下がるのだった。
「はいはい、ルナサも暗くならない。別に大ちゃんも悪気があった訳じゃないし、まあ気にしなさんな」
 みすちーがそう言ってフォローしてくれるが、一度下がってしまった気圧はそう簡単に上がるはずないじゃない。
 そんなルナサの様子を見て、みすちーが困ったなあと溜息を吐く。そして、ふと何かに気が付いたように手を打つと、大ちゃんの方を振り返った。
「そうだ。悪いんだけど大ちゃんちょっと歌ってもらえる?」
「はひぃ。いいれすよー。大妖精歌いまーす」
 その言葉に自然と頭が上がるのだから、現金なものである。
 ルナサが顔を上げたときにはすでに大ちゃんは席を立っており、覚束ない足取りで屋台の外に出ようとしているところだった。
 大丈夫かな、と手を差しだそうと立ち上がったところで、服の裾をみすちーに掴まれた。
 何、邪魔するの。思わず不満げな顔を見せるが、みすちーに無言でブンブンと首を振られた。
 どうやら黙って座っていろと言うことらしい。無理に振りほどいても良かったが、それも流石に大人げないので、腹をくくって成り行きに任せることにした。
 中に入れずに外のテーブルで飲んでいた酔客達が、突如外に出てきた大ちゃんの方を一斉に向いた。
 酔っぱらっているせいか大ちゃんは、そんな視線を全く気にしていないようだった。そのままフラフラとテーブル群の中央のスペースへと向うと立ち止まった。そこは、酔っぱらい達が気が向いたときに出し物を出来るように、みすちーがわざと座席を置いていないフリースペースだった。ルナサ達も気が向いたときにはそこで演奏をしたりする場所だった。
 そこに大ちゃんが立ったことで、大ちゃんは酔客達の注目を嫌でも集めていた。しかし、相も変わらず浮遊間を漂わせたままの大ちゃんは、酔客達にぺこりとお辞儀をすると、すっと背筋を伸ばし、大きく息を吸い込んだ。
 初めて聴く大ちゃんの歌には期待と不安が半々だった。正直に言えば、不安の方が大きかったのは否めない。
 しかし、その不安は単なる杞憂に過ぎなかった。
 大ちゃんが酔っぱらっていることもあり、必要以上に心配しすぎた面もあった。でもそんなルナサの心配を易々と大ちゃんは飛び越えていったのだった。
 初めて聴いた大ちゃんの歌声は良かった。柔らかく優しさを感じる声は、何処までも空に伸びていき美しかった。
 歌の方は聞き覚えのない歌だったが、遠くを旅人とそれを見送る者の交流を中心に、メルヘンさの中に広がりを感じさせる不思議な歌だった。
 横のチルノが嬉しそうにその歌を聴いていた。
 確かに、こいつの言うことは最もだったな。これを止めていたなんて、自分の不明に呆れてしまう。
 ふと、みすちーの視線を感じ、カウンターの方にルナサは振り返った。
「みすちー、知ってたの?」
 唇をとがらせたルナサの口からは、自然と拗ねたような声が出てしまっていた。
「それは半分正解で、半分不正解。というか、私も聴いた事はほとんど無かったんだけど、昔チルノが自慢してたから知ってたって所かな」
 気にした風もなくみすちーはそう言った。
「……で、どう? これでも反対する?」
 そして、一拍おいてからみすちーは続けた。
「降参。と言うか歌えるなら歌えるって最初から言ってくれれば良かったのに」
 恨みがましい声を上げるルナサに向かって、みすちーは軽く肩を竦めた。
「まあ、私が忘れてたってのもあるけれど、見せた方がわかりやすいじゃない。それに多分たがを外さないと、今の大ちゃんじゃ歌ってくれなかったと思うしね」
 結局それが原因かい。
 みすちーの相変わらずな物言いに、少し呆れたが、良いものを見せてもらえたと思えば、それも悪くないと思う。
 ただ、その手段が酔いちくれさせるってのは、ちょっとどうかと思ったが。
「そうね、でもあれはないんじゃない?」
 目の前で真っ赤な顔をしたまま歌っている大ちゃんを眺めながら、ぼそっと呟いた。
「結果オーライだから良いじゃない」
 その言葉を聞きとがめたみすちーは、それこそ自分の手柄のように言うのだった。
 まったく悪びれた様子のないみすちーの態度に、ルナサは大きな嘆息を吐いた。
 まあそうなんだけど、やった張本人が言うのは流石にどうかと思うよ。と内心思うのだったが、あんまりにも堂々としているので、悪態を吐くきっかけを失ってしまっていた。
 そんな風に二の句が継げないでいるルナサに対して、みすちーは調子よく言葉を繋いだ。
「じゃあ、明日からライブに向けてレッスンかな?」
 みすちーのその言葉に、ルナサはさっと表情を変えた。
 確かに、大ちゃんの歌を聴いた瞬間、その考えが頭をよぎったのは事実だ。だけど、ルナサはすぐに了承と、首を縦に振るわけにはいかなかった。
 なぜなら、たとえ大ちゃんの意志が、みすちーや、……チルノが言ったとおりだとしても、ちゃんと普通の状態で、面と向かって話さない限り納得できそうもなかったからだ。
「まだ駄目だよ。本当のゴーサインを出すのは、明日あの子の酔いが醒めて、素面の状態であの子の答えを聞いてからね」
 ルナサは居住まいを正してミスチーにそう言った。
 ルナサの態度と、口調に少しだけみすちーは敬意を表するような、素振りを見せたが、すぐに冷やかすように口を開いた。
「固いねえ」
 固いんじゃない、これはただの我が儘だ。
 それが分かっていたので、ルナサはみすちーの言葉を聞き流すようにして、ルナサは大ちゃんの方に顔を戻した。
 歌はクライマックスに近づいていた。
 この時間が終わることがとてももったいなかった。もっと聴いていたい。そんな風にルナサは思っていた。
 大ちゃんの口から先程まで滔々と流れていた歌声が止まる。
 一瞬の沈黙の後、大ちゃんを称える拍手喝采が沸き起こったのだった。
 その拍手に応えるように、大ちゃんはペコリとお辞儀すると、キョロキョロと誰かを捜すような素振りを見せていた。
 ん、と不思議に思っていると、みすちーに背中を押された。どうやら行けってことらしい。
 つんのめるようにカウンターから立ち上がると、その姿に大ちゃんが気付いてくれたらしい。満面の笑みを浮かべて、大きく手を振った。
 その動作に合わせて、酔客達からさらに歓声が起こる。
 気恥ずかしさよりも、嬉しさが勝った。ルナサは大ちゃんに答えるように大きく手を振り返しながら近づいていった。
 酔客達からやんややんやと喝采が上げられる。それは二人を冷やかしたものだか、それとも大ちゃんへのアンコールだか分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。
 とりあえず、お疲れ様と声を掛けたかった。それだけじゃない。良かったと、ただそれが言いたかった。
 だけど、その言葉を掛けることは出来なかった。
 それは、ルナサが辿り着く前に、大ちゃんが酔いつぶれて地面へ倒れ込んでしまったからだった。
「やっぱ限界だったかー」
 人ごとのようにそう呟くみすちーを振り返って軽く睨み付けると、ルナサは急いで大ちゃんの方に駆け寄った。
 というか、みすちーは一体全体何飲ませたのよ。
 そう内心毒づきながら、ルナサは倒れていた大ちゃんの背中に、手を回して抱え起こした。すると、その体からは、アルコールそのものといった匂いが漂ってきていた。
 よくこんな状態で歌えたわね。ルナサは妙なことに感心を覚えながら、酔いつぶれて眠ってしまった大ちゃんの顔を眺めていた。
 急に倒れたときには、止まっている心臓が動き出しそうなほど心配したが、こうして大ちゃんの温度を感じていると徐々に落ち着いてきた。幸い顔色も悪くないし、落ち着いて寝息を立てているところを見ると、特に問題はないようだ。
 多分、酔いの限界が来たのだろう。その上歌い終えたことの安堵感が重なって、緊張の糸が切れたんだと思う。
 そんな風なことを思いながら、ルナサは一つ苦笑を漏らす。そうして片方の腕を大ちゃんの腰に回すと、もう一方の手を膝の下に入れて両手で持ち上げた。いわゆるお姫様だっこの形で大ちゃんを抱えると、屋台の方へ戻るのだった。
「姉さん、大ちゃんは大丈夫?」
「ん、眠ってるだけだよ、心配はいらない」
 心配そうな表情で、近寄ってきたメルランにルナサはそう言った。その言葉に、妹を始め、チルノやそれこそ元凶であるみすちーも安堵した表情を浮かべていた。
 彼女たちに先に返ることを告げると、ルナサはふわりと星明かりの空に浮かび上がった。
 飛び立つ前にもう一度大ちゃんの顔を見る。相変わらず規則的な寝息を立てる大ちゃんを見て、ルナサは少しだけ心配になっていた。
 やれやれ、それにしても今晩のこと覚えてるんだろうかね。ちょっと不安になりながら、ルナサは大ちゃんを落とさないように、その細い体を抱えなおすのだった。
 そして、振り返りもせずに未だ喧噪が残るみすちーの屋台を後にしたのだった。



2.ヴァイオリニストの憂鬱

 大妖精が目を覚ますとそこはベッドの上だった。爽やかな風が吹き込むたびにカーテンが捲れ上がり、そこから零れてくる朝陽が眩しかった。
 あれ、ここは、えっとルナサさんの部屋よね。見知った天井を眺めながら、大妖精が体を起こそうとしたその時だった。
 痛い。
 じくじくとした痛みが、彼女を襲い、頭すら動かすことが出来なかった。
 え、何。何なのこの痛みは。私は、どうしちゃったのかしら。
 身動きが出来ないまま、掛け布団で顔を覆うようにして痛みを堪えると、大妖精は胡乱な頭のまま今の状況を整理することにした。
 そもそも何故自分はこんな所にいるのだろう。えっと確か昨日はルナサさん達のライブの後そのうち上げにミスティアちゃんの屋台に行ったんだっけ。
 それは覚えている。
「でも、何でルナサさんのベッドの上にいるのかしら?」
 大妖精の呟きに答えてくれる人は誰もいなかった。
 少し空しくなって小さく溜息を吐く。仕方がないので、頑張って記憶を辿ろうとするのだが、どうしても頭の中に靄がかかったようになって、何も考えることが出来なかった。そんな風に気怠さに包まれたまま、大妖精はしばらくの間ベッドに横になっていた。
 そうこうしているうちに、カーテン越しに入ってくる太陽の光が、徐々に明るさを増してきた。
 いくら恋人のものとはいえ、他人のベッドである。ダラダラとこのまま居座っていて良いはずがない。何しろルナサさんはもう起きているみたいだし。
 ふっと目線を横に向けると、空っぽの枕が二つ並んでいた。もちろん一つは自分が使っていたものだから、空なのは当たり前なのだが、もう一方の枕にも誰の頭もなかった。
 いや、朝日を受けてきらりと輝くものがある。大妖精が摘み上げると、それは綺麗な金糸だった。
 気が付くと大妖精はその枕を抱きしめていた。
 そこには、既にルナサさんの体温どころか、残り香すらなかったのだけど、何だか気持ちが昂ぶってしまって、どうしようもなかった。
 色々な感情が大妖精の中で絡まって、自分でも訳が分からないままに、そんな行動に出てしまっていた。
 しばらくの間、悶々としたまま顔を枕に埋めていた大妖精だったが、ガバッと顔を上げた。
 いけないいけない、いい加減にしないと。あまりと言えばあまりの自分の行動に呆れながら、大妖精は布団から這いずり出るのだった。
 しかし、体中を襲う倦怠感に打ち勝つことは出来なかった。立って歩くことは叶わずに、大妖精はベッドの脇にちょこんと座った。
 でもこれで一歩前進ね。そう思ってふと自分の身の回りを見返して、大妖精はあることに気が付いた。私、いつの前に着替えたんだろう。
 大妖精が今身にまとっているのは、いつもの水色のワンピースではなくて、ゆったりとした緑色のネグリジェだった。フリルがたくさん付いておりずいぶんと可愛らしい。
 屋台に行ったときにはちゃんとした格好をしていたから、その後よね、きっと。でも何で着替えているのかなあ。もしかして破っちゃったとか。
 流石に大妖精は不安になってきた。とにかくミスティアちゃんの所に行ってからの記憶がない。きっとそこで何かあったはずなのだ。
 何で思い出せないんだろうなあ。
 そんな風に、大妖精が思考の海でグルグルと同じ所を彷徨っていると、ようやく助け船がやってきた。
「あ、大ちゃん起きたみたいだね」
 音を立てずに開かれた扉から顔を出したのは、心配そうな表情を浮かべたルナサさんだった。その顔を見ただけで、ホッとしている自分がいることを、大妖精は改めて感じていた。
 ルナサさんは片手でお盆を持ったまま、器用に後ろ手で扉を閉めると部屋に入ってきた。珍しくルナサさんはエプロン姿だった。フリルも何もないシンプルなものだったが、それが何となくらしくて、とても自然な印象を受けた。
 お盆の上には朝食が乗っていた。焼きたてのパンに、瑞々しいサラダ、それに温かい湯気を立てている紅茶のカップが二人分。それをベッドの脇にあるテーブルに置くと、ルナサさんはカップを一つ手に取って、大妖精の横に並んで腰掛けた。
 何だかちょっと気恥ずかしくて顔を赤らめてしまう。そんな心の動揺を隠すように大妖精は頭を下げた。
「ルナサさん。おはようございます」
「はい、おはよう」
 ぺこりとお辞儀をする大妖精の姿を見て、ルナサさんは苦笑していた。
 あれ、何かまた変なことをしちゃったかな。
 訝しげな顔をしたのが伝わったのだろう、ルナサさんは、それを否定するように慌てて手を振った。
「いや、律儀だなと思ってさ」
「律儀ですか?」
 ルナサさんの言葉に軽く首をかしげる。朝初めてお会いしたのだから、当たり前に挨拶しただけなんだけどなあ。
「いや、昨夜あんな風になってたのに、今日はちゃんとしてるから、ちょっと吃驚しただけだよ」
 相変わらず不思議そうな顔をする大妖精に、ルナサさんはそう言った。
「私、やっぱり昨日の夜、何かやってしまったんですか?」
 そのルナサさんの言葉を聞いて、大妖精はがっくりと肩を落とした。想像してはいたものの、実際に指摘されるとショックなことは確かだった。
「あ、大ちゃん、覚えてないんだ」
「はい……」
「そっか……」
 どうやらあらかじめ予想されていたみたいで、大妖精の反応を受けたルナサさんの声には、驚きの色はまるでなかった。ただその奥には、微かだが残念そうな気配が感じられた。
「私、どうしちゃったんですか? 何だか気分がむかむかするし、頭も痛いんです」
「ああ、二日酔いだね」
 記憶はないわ、体調は悪いわで、気が滅入っていた大妖精が弱々しくそう言うと、ルナサさんはあっさりとそう宣告した。
「え!? 私、そんなに飲んだんですか?」
 二日酔いという単語を聞いて大妖精は驚いた。ルナサさんは事も無げに言い放ったが、大妖精にとっては大事だった。そもそも、そこまで大飲する性格でもない自分が何故そんなになるまで飲んだのだろう。その上、記憶までなくしてるんだから、どれだけ飲んだというのか。
「いやいや、大ちゃんが自分で飲んだ訳じゃないよ。みすちーに飲まされただけだから」
 まったく想像が付かず、大妖精がうんうん唸っていると、ルナサさんはそんな風に言った。
 しかし、ここでも問題が出てきた。
 ミスティアちゃんに飲まされたんだ。でもどうして彼女はそんなことしたんだろう。事実を聞かされたのとはいえ、大妖精は余計に疑問が深まってしまった。
 結局、顔に浮かんだ疑問符を解消できないままでいると、ルナサさんはしょうがないなあという顔を浮かべて口を開いた。
「まあ、その辺りの話はおいおいするからさ、とりあえず朝食を食べたら? 紅茶が冷えてしまうよ」
 そう言うと、ルナサさんは紅茶を一口啜った。
 せっかくの申し出を無碍にすることもないので、大妖精は小さく頷くとパンに齧り付いた。口の中にバターの香ばしい味わいが広がっていくのだった。
 お腹の中に何か入ると、どうしてこうも安心するのだろうか。ひとしきり朝食を終えると、先程までの不安がどこかに飛んでいってしまったような気がしていた。
 そんな大妖精の雰囲気の変化を感じたのだろう、ルナサさんは紅茶のカップをテーブルの上に置くと、大妖精の方に向き直った。
「さて、何から話せばいいのかな。大ちゃんはどのくらい覚えているの?」
 少し困ったような表情を浮かべてルナサさんはそう言った。
 覚えていることといえば、ルナサさん達の打ち上げに付いていって、ミスティアちゃんの屋台に行った所ぐらいしかなかった。だから、少し恥ずかしいけれど、出来ればそこであったことが知りたかった。
「えっと、ミスティアちゃんの所に行ったのは覚えているんですけれど、それ以外は何も」
「そっか……」
 大妖精がそう答えると、ルナサさんは少し苦みを含んだ複雑な表情を浮かべた。そして腕を組み、何処か逡巡しているような素振りを見せるのだった。
 ルナサさんの態度に余計に不安が煽られる。どうしよう謝った方が良いのかな。
 そんな風に大妖精が悩んでいると、何か決意したように頷くと、再び口を開いた。
「大ちゃんさ、歌うのは好き?」
「え!?」
 どうして。ルナサさんの突然の言葉に大妖精は驚かされた。それは、二重の意味での驚きだった。
 一つは、自分がお酒のせいで記憶をなくなった話なのに、まるで関係のない話が出てきた事への驚きであり、もう一つは、何故その話題が歌なのかという驚きだった。
 確かに歌うのは好きだった。でも、ミスティアちゃんのように人前に立って歌う技術もなければ、その度胸もなかったから、大妖精は別に人に言いふらしたりするようなことはなかった。 特に、舞台に立って演奏する機会が多いルナサさん達と知り合ってからは、なんとなく言いそびれてからは、余計に黙っていたのだった。
 別に恋人なのだから隠す必要はないんだろうけれど、何となく気恥ずかしさもあって黙っていたこともあり、自分からそのことを話せなくなっていた。そればかりか、歌うこともほとんどなくなっていた。
 昔歌ってあげていたチルノちゃんなんかは、知っているんだろうけれど、最近ではほとんど歌わなくなっていたので知っているものもほとんどいないはずだった。
 だからこそ、突然ルナサさんに歌の話を持ち出されて驚いたのだった。
 戸惑いを隠せないでいる大妖精にルナサさんは優しく微笑んだ。
「いきなりでごめんね。でも、大ちゃんの口からどうなのか聞きたいんだ」
 笑顔の中のルナサさんの瞳は真剣そのものだった。その真剣な眼差しを受けながら、大妖精はじっと考えていた。
 これは良い機会なのかもしれない。自分の気持ちを伝えるためには、ここを逃しては駄目だ。
「はい。好きです」
 だから、真っ直ぐに前を向いて大妖精はそう言った。その時のルナサさんの表情には一切の揺らぎがなかった。多分、大妖精の答えは分かっていたのだろう。
「そうなんだね」
 ルナサさんは一言そう返事をしただけだった。
 何気ない風を装っていたが、その声には深く、複雑な感情がこもっていた気がした。
 そんな簡単なやり取りを交わした後、しばらく二人とも黙って見つめ合っていたのだが、先に沈黙を破ったのはルナサさんだった。
 何で歌のことを黙っていたのか、その理由を聞かれるのかな、と思わず身構えてしまったが、そんなことはなかった。
「大ちゃんは、どんな歌が好きなの?」
 それは、音楽というものの虜であるルナサさんらしい質問だった。その言葉を聞いて、何故かホッとしたのは、きっと彼女から詰問されることを内心恐れていたからなのだろう。
 歌のことを話せなかったのは何故なのか。
 気恥ずかしいとか、技術がないとか、言い訳はたくさん出てくるが、突き詰めれば、ルナサさんを信じ切れなかっただけなのだ。
 たとえ、自分が下手な歌を歌ったとしても、きっとルナサさんなら笑って愛してくれたはずなのに、弱い自分はちっぽけなプライドを守るために、信頼しきれなかったのだ。身から出たさびと言われればそれまでだけど、そんな弱い心を改めてさらけ出すようなまねはしたくなかった。
 だから、本当は自分から切り出した方が良かったんだろうけれど、大妖精はそうすることが出来なかった。
「……えっと、私は落ち着いた歌が好きですね。子守歌とか、童謡みたいな、聴いていて気持ちが安らぐ歌が好きですね」
 少し声が詰まったが、大妖精はそう答えた。その答えにルナサさんは、満足そうに頷くのだった。
「歌と楽器と合わせるのだったら、どういう楽器との組み合わせが良いのかな?」
「そうですね、出来れば新しめのものよりは、古い楽器の方が良いですかねえ。勝手な印象なんですけれど、古いものの方が暖かいっていうか、音が優しくて柔らかい気がするんですよね。勝手なイメージかもしれませんけれど」
 後ろめたいせいだろうか、自分が饒舌になっているのを感じていた。密かな罪悪感があるけれど、ルナサさんも話に乗ってくれているので、これで良いのかな。よく分からないけれど。
 ルナサさんの様子は、大妖精の話に興味深そうに相槌を打っていたし、何より楽しそうだった。
「なるほどね。確かにそういうものかもしれない。そうだね、他には何かない?」
「他にはっていうと、どんなことですか?」
 大妖精の質問に少し考え込むようにしてから、ルナサさんは再び口を開いた。
「例えば、テンポの速さとか、音の高低とか、その他には……、そうだね歌詞の中身とかはどうかな」
 そう尋ねられれば、大妖精が答えるのは簡単だった。
「うーん、テンポはゆったりめの方が好きですけど、音の高低は特に好き嫌いはないですね。歌詞は、聴いていて惹き付けられるようなものや、物語性があるといい気がします」
 ルナサさんは、うんうんと頷きながら大妖精の答えを聞いていた。そしてしばらくそらで何か考えるようにしたかと思うと、得心したように一つ大きく頷いたのだった。
 何を納得されたんだろうか。ちょっと不思議に思ったが、ルナサさんが楽しそうだったからいいかな。大妖精はそんな風に思っていた。
 それよりも、こうやって歌の話をしている間中、ルナサさんが、自分の懸念していたことを何も問わなかった。大妖精にとってはそのことの方が大切だった。
 気にならないはずはないのに、何で聞かなかったのだろうか。もしかしたら全てお見通しで、あえて聞かなかっただけかもしれないけれど、きっと不器用で優しいあの人は慮ってくれたんだろう、色々と。
 その優しさに甘えながらも、昨晩何があったのか、それだけは聞いておかなければいけない。覚悟を決めて大妖精は尋ねた。
「ところでルナサさん」
「ん、なんだい大ちゃん?」
「結局、昨晩私は何をしたんですか?」
 そう尋ねると、ルナサさんはうっと言葉に詰まった。
 そんな反応を見てしまうと、聞かなければ良かったんじゃないだろうか、と大妖精は後悔してしまう。本当に何をやったんだろうか自分は。正直、怖い。
 とはいえ、尋ねてしまったものは仕方がないし、澄んでしまったことだから、どんなことであっても受け入れなくちゃいけない。大妖精は覚悟を決めた。
 ルナサさんはどう言えば良いか、少し迷っているような感じだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「えっと、簡潔に言えば、酔っぱらって屋台の前で歌った」
 ルナサさんの答えは簡潔で非常にわかりやすいものだった。
 ふーん。酔っぱらって、屋台の前で、歌った。
 ルナサさんが言った言葉を、区切りながら頭の中で反芻する。
 最初意味が分からなかった。いや、それぞれの言葉の意味は良く分かっているが、何故か上手く繋がらなかった。しかも、それをやったのが自分だと言うことも信じがたかった。
 しかし、じわじわと記憶が刺激され、断片的ながらいくつかの場面が切り取られたようにして浮かんできた。それらを繋ぎ合わせていったとき、遅まきながらようやく大妖精は昨晩自分が何をやってしまったかを思い出すことが出来た。
 そうだ、ミスティアちゃんに歌ってみないかって言われて、吃驚して、その後息を整えるために水を飲んだら、何だか気持ちよくなっちゃって、フラフラと外に出て、そして、ああ。
 大妖精は恥ずかしさのあまり顔から火が出るんじゃないかと思うほど真っ赤になっていた。
「そもそも、何でそう言う流れになったか、……その顔は思い出したみたいね」
 顔を真っ赤にして唸っていた大妖精を見ながら、ルナサさんはそう言った。
 大妖精は何とかコクコクと頭を振り、その言葉に同意の意思を見せたが、そう簡単に落ち着くことはできそうになかった。飲みかけだった紅茶を一気に呷る。
 少し咽せながら飲み干した。冷め切っていたけれど、芳醇な香りが少しだけ思考をまとめる助けとなってくれた。
 ふと、さっきまでのルナサさんとの話が思い浮かんだ。そして気が付いた。歌の好き嫌いのことについて聞かれたけれど、昨夜のミスティアちゃんの話を加えて考えれば、それは。
「もしかしてルナサさん……?」
「ん、ああ、思い出したんだったら、そっちについても聞かないといけなかったね」
 ルナサさんは一拍おいて、居住まいを改めると、大妖精に向き直って言葉を続けた。
「大ちゃん、私からも聞くよ。歌ってみる気はない?」
 ルナサさんの表情は真剣そのものだった。
 昨晩のルナサさんの姿が脳裏に浮かんだ。そういえば、あの時はルナサさんは賛成していなかったみたいだけれど、何で乗り気なんだろう。
 だから、大妖精はおずおずと口を開いた。
「ルナサさんは良いんですか?」
 そんな風に言ったとき、何故だろう、ルナサさんが一瞬傷ついたような表情を浮かべた。
 しかし、それも一瞬だった。すぐに優しいけれど、真摯な顔に戻るのだった。
「私のことは良いの。大ちゃんが歌いたいか、それとも歌いたくないか。それだけだよ」
 そして、かぶりを振ると、そんな風に言うのだった。
 ルナサさんの言葉には強い力があった。それは、相手任せにするのではなく、自分の意志で決めて欲しい、そんな思いが伝わってきた。
 だから、ここで決めなければならない。
 自分はどうしたいのか。
 本当に歌いたいのか。
 ただ歌が好きなだけのちっぽけな妖精が、大勢の前で歌っていいんだろうか。
 それでも、歌いたいならば、他人の意志ではなく、自分自身の意志によって決めなければならない。
 ルナサさんの気持ちはとても気になる。でも、それを理由に是非を決めてはいけないと、さっき暗に言われたじゃないか。だから。
「歌いたいです」
 だから、ルナサさんの視線から目をそらすことなく、大妖精ははっきりとそう言った。むしろ、その言葉に悲壮な気配を漂わせたのは、ルナサさんの方だった。
「覚悟は良い?」
 ルナサさんの声は、厳しいけれどまだ迷いが感じられた。
「はい」
 その迷いを払うように大妖精は強く答えた。
「じゃあ、明日からレッスンだね」
 そう言って笑ったルナサさんの表情は、一転して輝いて見えたのだった。


3.かしましの乙女達

 ルナサがみすちーに呼ばれたのは、大妖精の指導を始めてから、ちょうど一週間がたった日のことだった。
「いらっしゃい。調子はどう?」
 ルナサが屋台の暖簾をくぐり、長いすに腰掛けたところで、割烹着姿のみすちーから声を掛けられた。
「それは大ちゃんのこと? それとも私のこと?」
 脳天気なみすちーの声に何故か腹立たしくなって、ルナサは少し突っ慳貪な返事をした。
 機嫌が良くないことを察したのだろう。みすちーは困ったような表情を浮かべながら、ルナサの方におしぼりを差し出すのだった。
「その声だけで、何となく様子は分かるけどさ。何、やっぱり難しいの?」
 おしぼりを受け取りながら、ルナサは無言で首を振った。
 別にみすちーが想像しているようなことは全くない。むしろ逆だからこそ苛立ちがつのっているのだが、どうやらそこは察してくれなかったらしい。
 そんなルナサの反応を見て、みすちーはよく分からないという風に首を捻った。そして苦笑いのままルナサの手元にグラスを置くのだった。
 ルナサがいらないと制止をする間もなく、みすちーはグラスに日本酒を注いだ。そして、八目鰻の蒲焼きを一緒に出すと食べるように促すのだった。
 正直、ありがた迷惑とはこのことだと思う。ルナサは、目の前に置かれた晩酌セットを冷ややかに見つめながら、皮肉げに口元を歪めるのだった。
「別に、呼ばれてきただけで、今日は飲む気はないんだけど」
 相変わらず不機嫌な声を上げるルナサを黙殺して、みすちーは愛想笑いを浮かべた。
「そんなに言わないの、サービスしとくからさ。とりあえず、大ちゃんの調子は悪くないんでしょ? だったら何でそんなに機嫌が悪いのさ」
 だからこそ苛々しているんだけど。と口元まででかかったが、ルナサは何となく口に出すのも億劫で簡潔に呟くだけだった。
「別に」
「別にって、そんだけ苛々しといて、別にってことはないでしょ。何か感じ悪いよ」
 相も変わらず態度の悪いルナサに対して、みすちーも焦れてきたようだった。
 流石にこのままやり合ってもかまわないのだが、それこそ時間の無駄なので、ルナサは仕方なく口を開いた。
「じゃあ、言うけどさ。大ちゃんは頑張ってるし、思っていた以上に順調よ。だから、私はこんなところで遊んでる暇はないの、おわかり? 特に、少しでも歌と演奏を合わせた方が良いし、まだまだ指導しないといけないことがたくさんあるのよ。大ちゃんに付いている分、自分の練習時間も少なくなってるから、そっちもしないといけない。今だって、練習を見てもらうために、メルランやリリカに任せっきりなんだから、私は早く戻らないと」
 話を始めると感情が高ぶってしまったせいか、ルナサは言葉が止まらなくなっていた。一息にまくし立てると、乱した呼吸を整えるようにして席に座った。
 ルナサの長広舌を聞いている間、みすちーは一言も口を挟まなかった。
 しかし、目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、確かにみすちーは無言を貫いていたのだが、その視線はニヤニヤとルナサの方を凝視しており、それがいっそうルナサを苛立たせるのだった。
「何? その目は」
 ルナサがそのことを咎めるように眉を顰めるのだが、みすちーはまったく気にした様子はなかった。
「別にぃ」
 それどころか、ルナサの気を坂撫でるかのように、口調を真似しつつも、いっそういやらしく、みすちーは言葉を返すのだった。
「はっきり言ったらどう」
 自分がさんざんつれない態度をとっておきながら、相手にされると腹が立つのは何故だろう。ルナサはミスチーの態度に、少し治まりかけた苛々が再燃していたのを感じていた。
 しかし、一方でみすちーはどこか余裕を持ってルナサを眺めており、そこがいっそうルナサの気を逆撫でるのだった。
「んじゃ、言うけどさ。正直に言えばいいのに、大ちゃんを独り占めしたいから、早く帰りたいって」
 みすちーは特に何の感慨もなく、つまらなさそうにそう言った。その言葉にルナサは頭に上っていた血が、一気に引いていくような感覚を受けていた。
「な……、誰がそんなことを言ったのよ」
 ガタッと席を倒しながら、ルナサが立って反論をするのだが、みすちーは首をすくめながら苦笑した。
「え、だって、メルランやリリカに任せたくないって、要はルナサ自身が指導をしたいだけでしょ。まったく独占欲の固まりじゃない」
 淡々とそう言うみすちーの言葉は、思ってもいなかった自分の内心を当てられたみたいで、痛かった。
「だから私の練習もあるって」
 納得したくないとばかりに、ルナサは噛みつくように言うのだが。
「それはそうかもしれないけれど、ちゃんと時間を作れば出来るでしょ。それはただの言い訳じゃない」
 しかし、みすちーはとっくにルナサの言葉の裏など看破していて、即答で切って捨てた。目の端でみすちーを見る。
 先ほどから一切表情を変えずに、穏やかな顔を浮かべているが、もしかしたら自分より怒ってるんじゃないか。そんな風に思ったが、そう簡単に自分から折れる気にはなれなかった。悪いのが自分だとしても、負けを認めるようで嫌だったし、何よりも見透かされているようで、癪だった。
 負けが分かっているのに、振り上げた拳の置き所が見つからない。無駄な抵抗と分かっていたが、ルナサがなおも反論をしようと口を開いたとき、ようやく助け船が寄せられたのだった。
「はいはい、二人ともそれくらいにしなさい。いい加減話が進まないから。私たちだってそんなに暇じゃないのよ」
 ルナサの言葉を遮って、屋台の奥のカウンターから厳しい声が飛んできた。ルナサがそちらの方に目を向けると、金髪の西洋人形が立ち上がった。ふわりと肩のケープをなびかせながら、呆れたように腰に手を当てる。そうして厳しい視線をこちらに向けたのは、七色の人形遣いアリス・マーガトロイドである。
「あれ、アリス。それにブン屋、てゐまで。何でここに?」
 その横には、伝統の幻想ブン屋こと射命丸文と、ピンクのワンピースを身にまとった悪戯う詐欺の因幡てゐ、この二名がルナサの方を見ながら、ニヤニヤと杯を酌み交わしていた。
 ルナサは言葉を遮られたことよりも、その場にいるとは思っていなかった三名の存在に驚きの声を上げた。
「ごめんごめん、ちょっと熱くなっちゃった」
 アリスの言葉にみすちーが苦笑しながら謝罪していた。
「ライブの打ち合わせをするからって、呼んだのは貴女でしょ。それこそ当事者の一人であるルナサを怒らせてどうするのよ」
 アリスの言葉の中に、意外な単語があった。
「え、打ち合わせ?」
「何、聞いてなかったの?」
 ルナサの呟きに、アリスはじろりとみすちーを睨む。
「ごめん、忘れてたかも……」
 澄まなさそうに首をすくめるみすちーを見て、アリスは呆れたように頭を抱えた。
「それは貴女も悪いわよミスティア。ルナサだって焦ってるんだから、そのぐらいは察してあげないと。まあ、貴女は貴女の仕事をしなさい」
 そう言ってアリスは口を噤むと、すっとルナサの方に視線を動かしてから、再び口を開いた。
「それにルナサもルナサね、聞いてなかったとしても、ミスティアの発案で始まった話なんでしょ? そのくらい察しないと駄目よ。貴女のためでもあるんだからちょっとは考えて話を聞きなさい」
 さっきまでみすちーを叱っていた矛先は一転してルナサに向いていた。面倒くさがりのくせに、こういう世話焼きのところがアリスにはある。一方的とは言え、正論を吐くから受け入れざるを得ないし。ルナサは無言で席に座り、少しぬるくなった日本酒のグラスを呷るように傾けたのだった。
 それを見て満足そうにアリスが頷いて、彼女もまた自分の席に座り直したのだった。横のブン屋がそこに話しかける。
「あややや、流石アリスさん名裁きですなあ」
 冷やかすようなブン屋の声に、アリスはキッと睨み付ける。その視線にブン屋は口を噤むが、横を向いておおこわいこわいと小さく呟いているところを見ると、まったく反省している様子はなかった。
「まあ、この馬鹿ガラスは放っておくとして、私がここに呼ばれたのはね、衣装の件。メルランに頼まれたのよ、せっかくのライブなんだから、大妖精用のステージ衣装を作ってくれってね」
 そう言ってアリスは面倒くさそうに髪をかき上げたが、その目はやる気満々だった。
 確かにせっかくのライブだから、大ちゃんには綺麗な服を着てもらいたいってはあるなあ。そう思うと、少しだけ機嫌を直してアリスの方にルナサは向き直った。
「へえ、メルランが」
 感心したようにルナサが呟く。
「そうよ、どうせ姉さんは何も考えてないから私が動かないとってね」
 しかし、続けてアリスが言った言葉に、ルナサは複雑な表情で黙り込んでしまった。とりあえず、帰ったらお仕置きだな。
「……メルランの奴」
「冗談よ」
 歯噛みしながら手を振るわせていると、さらっとアリスは真顔でそう言い放った。
「おい」
「それに近いことは言われたけどね。まあ、それはそれにして、貴女は考えてたの?」
「うっ」
 再びアリスに問われて、言葉に詰まるルナサだった。その反応を見て、小さくアリスは溜息をついた。
「やっぱり考えてないじゃない。駄目よ、せっかくの晴れ舞台なんだから、ちゃんとしないと。とりあえず、舞台の構成を教えて、それに合わせて作るから。一応、少しだけどラフスケッチで何着か考えているから、これを見てもらえばいいわ」
 そう言って、アリスがカウンター越しにスケッチブックを差し出した。それを受け取ってパラパラとめくると、薄緑のパーティードレスのような服や、赤いレオタードのようなパンク服、オレンジのフリフリのミニスカート、蒼い軍服、中にはガーターベルトで胸を隠しただけという、かなり際どい格好の衣装まであった。
 ルナサは、思わず無言で見入ってしまったいた。アリスは少しと言ったが、かなり気合いを入れて作っているのは事実だった。スケッチブックから目を上げるとアリスと目があった。
「どうかしら? 手癖でやったところもあるから、あんまりちゃんとしてなくて心配なんだけど」
 アリスは何気ない風にそう言った。ただ、口ではそう言いながらも、とても手慰みにやったとは思えないほどの質と数に、ルナサは少し圧倒されていた。
「アリス、結構考えてるね」
 カウンター越しにスケッチブックを覗き込んでいたみすちーも感嘆の声を上げた。そのみすちーの言葉に賛同するようにルナサも頷いた。
「凄いな、ここまで考えてくれているとは思わなかったよ。この衣装が映えるようなライブにしたいね」
 正直に感嘆の声を上げたが、アリスの態度はつれないものだった。アリスの方を見ると、フフンと鼻を鳴らして口を開いた。
「そう? そこまで言ってもらうと嬉しいんだけど、この衣装はまだ完全じゃないの。まだどんなライブか分からなかったから、本当に取りかかるのは、貴女に予定を聞いてからと思ってね」
 そう言って、アリスは小さく笑った。その言葉を聞いてルナサは少し考え込むように腕を組んだ。
 ライブのセットか、確かにそれに合わせて衣装を変えるのは悪くない。
「そうだね、私たちの演奏と歌のバランスは半々かな。基本はバラード中心で行くから、衣装は大人しめの方が良いかもしれないね。一曲か、二曲は激しい曲を入れるから、一着は欲しいかな。後は、締めは、いつもの服の予定だから、三着ぐらいで良いかな」
「分かったわ。じゃあ、次に会うときまでに間に合わせるようにしておくわ」
「すまない」
 ルナサが頭を下げると、アリスは気にするなという風に手を振った。
「気にしなくて良いわよ。別に大したことはしていないし。人形作りの時に衣装はよく考えるから、そのついでと思ってやっただけよ」
 少しだけ頬を赤く染めながら、アリスはツンとした態度でそう言った。
 その言葉に、横で杯を傾けていたブン屋が、ケタケタと笑い出した。
「ほんとにアリスさんはツンデレなんですから、口ではそう言いながら、寝食を忘れて作っていたんじゃないですか? もしかして、自分で着てみたりして、私の歌を聴いてー、とかやってたんじゃないですか、鏡の前で」
 ブン屋はさらに杯を傾けながら、茶化したようにそう言った。少し頬が赤いのは酒が入っているからだろう。決して弱くないはずの烏天狗だが、ただでさえ滑らかな口が、今夜はよりいっそう軽やかだった。
「文、五月蠅いわよ」
「おお、こわいこわい。そんなに怒らないでくださいよ、軽い天狗の冗談じゃないですか」
 そう言って愛想笑いを浮かべるブン屋だったが、アリスの怒気は治まることがなかった。
「仕方がないですね。はい、じゃあこれで勘弁してください」
 そう言うとブン屋は懐から、写真を数枚取り出すと、アリスに差し出した。
「何、これ?」
 興味なさそうに写真を受け取ったアリスだったが、何枚か捲ったところで、ビクリとしてブン屋を見返した。
「何であんたが持ってるのよこんな写真を」
「それは撮ったからですが、何か?」
 しれっと言い放つブン屋に、アリスは白い目を向けるが、ぎゅっと写真を握りしめたままでは、迫力も何もなかった。
「どうやら気に入っていただけたようですね」
 にこやかなブン屋に対して、アリスは何か言いたげだったが、そのまま席に戻った。しっかりと懐に写真を入れていたのを、ルナサは見逃さなかったが、自分に矛先が向いても嫌なので黙っておいた。
 しかし、あの写真は何の写真なんだろう。そんな疑問を持ってブン屋の方を見ると、気になりますか、と言う風に愛想笑いを浮かべた。
 横の冷ややかなアリスの視線をよそに、ブン屋が口を開く。
「まあ、あまり気になさらないでください。それよりも先ほどの店主とのやり取りを見ていれば、歌い手の方の問題はなさそうですね。後は本番までにどれだけ仕上げられるかってところでしょうか?」
 そう言ったブン屋の言葉は、イエローペーパーとはいえ流石新聞記者というような洞察力を見せていた。その言葉に相槌を打つようにしてみすちーが無責任に
「さて、ルナサさん。私は、そこの店主に頼まれて、広報活動を請け負ったのですが、宣伝するに当たってですね、本当に大丈夫なのかってのは気になる所なんですよ。正直勝算というか、ちゃんと歌えるかどうか、私は知りませんので」
 丁寧なようだが、慇懃無礼な口調でブン屋はそう言った。
 語り口こそ丁寧だが、大ちゃんを侮るような物言いに少し腹が立った。
「大丈夫。心配せずとも、間に合うと思うし、責任を持って仕上げるよ」
 ルナサの言葉にブン屋は満足そうに口元をつり上げた。
 その態度を見て、挑発されたかな、と思わないでもなかったが、事実そう思っていたので後悔はなかった。
「それならばいいです。私は私の仕事をしましょう。こちらの方は全く問題ないですよ」
 いや、お前の所の新聞は誰も読んでないだろ。と心の中で思ったが、何故だかこのブン屋の情報伝達能力ってのは高いからそこだけは侮れない。
「そんなに褒めないでください、照れますよ」
 って、人の思考を読むんじゃない。この辺りが侮れないとお思いながら、フフンと自慢げに杯を呷るブン屋の様子を見ていると、横にいたてゐが口を開いた。
「で、私は何をすればいいんだい」
 それまで黙って好き勝手に飲んだり食べていたてゐだったが、とうとう口を開いた。それにしても、いったい誰がこいつを呼んだんだろう。
 ルナサの疑問が伝わったのかみすちーが口を開いた。
「私は、貴女は呼んでなかったんだけど」
「固いこと言いなさんなって、もうけ話のある所に因幡てゐあり、だよ。まあ、リリカの奴から聞いたんだけどね、何か面白いことやってるって」
 冷たく宣告するみすちーに、てゐは悪びれた様子もなくそう嘯いた。それにしても、ここでも姉妹の名前が出てきて、ルナサは驚く反面、ちょっと釈然としない気持ちになっていた。
「リリカの奴め……」
 心の中で恨み言を述べるつもりが、思わず口に出てしまった。その言葉を聞きとがめたてゐは、ルナサを笑い飛ばす。
「まあ、そう言いなさんな。私は使えるよ、人捌きや、会場整理、その他何でもやって良いよ。ただし貰うものは貰うけどね」
 やはりそこか、と思わないでもなかったが、ある意味この分かりやすさはちょうど良かった。
「ところで会場はどこを考えてるんだい、ルナサ」
「ん、あんまり考えてなかった」
 あっけらかんと答えたルナサに、てゐは一瞬失望の色を浮かべたが、すぐに気を取り直して口を開いた。
「永遠亭を使ってもらっても構わないよ。姫様や師匠の許可はしっかり取るし、月都万象展の実績もあるから、人を呼ぶ分にはちょうど良いんじゃないかな?」
 言葉巧みにてゐが永遠亭を薦めてくるのだが、すぐにはいそうですか、と頷くことはルナサには出来なかった。確かに、条件は悪くないのだけど。
「永遠亭か、考えたこともなかったけど、どうしようかなあ。確かに悪くないかもしれないけど、あんまり知らないところでやって、萎縮させてもいけないし……」
 結局、今のルナサにとって一番大事なのは大ちゃんのことだった。だから、てゐの申し出は嬉しかったが、やはり断ることにしよう。そう思ってルナサは口を開いた。
「せっかくだけど、今回は遠慮しておくよ。やはり慣れないところでいきなりやるのはちょっとね」
「気が進まない? んー、どこでするのさ?」
 残念半分、苛立ち半分でてゐがそう聞き返した時だった。
「じゃあ、うちを使いなさいよ」
 そう言いながら、暖簾をくぐって、屋台の中に新しい人影が入ってきた。
「げ」
「あら、いらっしゃいませ」
 正面にいたてゐは、すぐにその人物に気が付き、蛙が潰れたような声をてゐが出した。お客さんを迎えるみすちーの意外そうな声に導かれて後ろを振り返れば、そこには燃えるような赤いチェックのワンピースに、鮮やかな緑の髪を揺らした女がいた。泣く子も黙る花の大妖怪、風見幽香だった。
「どうも……」
 思わず迫力負けしてしまい、小さな声になってしまった。夏のライブの時などお世話になっているので、決して知らない顔ではないのに、何故かルナサはこの女性が苦手だった。花異変でやり合ったリリカですら、気楽に接しているのに、何で自分は上手くいかないのか、そこが不思議なところだった。
 幽香はルナサのそんな挨拶など気にした様子はなかった。
 しかし、ルナサが座るように少し横に詰めた席には座らずに、奥の席に向かっていった。やっぱり気を悪くしたのか、と思わないでもなかったが、それは違った。
 幽香は、肉食獣が強引に笑っているような、微笑みを浮かべたまま奥の席に向かうと、アリスの背後に立った。ちょうどブン屋と話していて、近づくまで気付いていなかったアリスも、そこまで来てようやく幽香の動きに気が付くのだった。
「あれ、幽香。珍しいじゃない」
 振り返って幽香に軽く会釈をするアリス。相変わらずの微笑みを浮かべたまま幽香は手を伸ばした。
「そうかしら?」
 そう言ってアリスの肩に手を乗せようとするが、ピシャリと払われていた。
「つれないわね」
「別に貴女にあげる愛想は持ってません」
 きっぱりとアリスはそう言った。幽香の方も気を悪くした様子はなく、手をわざとらしくさすりながら、再び私の横に来ると、席に腰を下ろしたのだった。
 そこにすかさずみすちーがグラスとつまみを差し出す。
「ありがと」
「ところで良いの、幽香?」
 みすちーの疑問に、グラスを呷りながら幽香は答えた。
「構わないわ、この子達がいつも夏にやっているのを、少し前倒しするだけだし。それに、あの妖精の子の歌だったら私も聞いてみたいからね」
 そう言った幽香の表情は穏やかで、本当にそう思っているような感じだった。何故かそれが嬉しくて、ルナサは少しだけ、風見幽香に親近感を覚えたのだった。
 そんな風に思っていたところで、幽香が不意に横を向かれたのでルナサは少し驚いた
「ところで、ルナサだったかしら? 貴女はどうなの」
「どう、とは?」
 幽香の言葉の真意が分からずに、怪訝そうな顔をするルナサに、彼女は続けた。
「どうやら、貴女はあの子のことが心配そうだけれど、私から見れば貴女の方が心配ね」
「私のこと? 何を……」
 予想だにしなかった幽香の同情の言葉だった。ルナサは分からないという風に、首を捻るが、それを見た幽香の表情は明らかに失望に変わっていったのだった。
「言われないと分からないようじゃ、貴女も大概ね」
 その言葉に同意するかのように、屋台中の溜息が重なった。
 正直、気分が悪い。目を吊り上げて、じろりと見渡すが、やはり呆れたように首を振られるだけだった。
「とりあえず、ルナサは自分の気持ちをよく考えた方が良いよ。そうしないと演奏にも絶対影響が出ると思うし。そのうちきっと分かると思うから、よく考えておいてね」
 その場を代表するような形で、みすちーはそう言った。
 正直、今のルナサにはその言葉の意味がこれっぽっちも分かっていなかったが、とりあえず渋々と首を縦に振った。
「あんまり納得してないみたいだけどね、まあいいか。どうする、ルナサ? まだ飲んでく?」
 みすちーの言葉に少しだけ考え込んでから、ルナサは首を横に振った。
 それを見てみすちーは仕方がないなあという風に苦笑し、首をすくめた。
「まあ、そうだと思ったけどね。そのうちまた打ち合わせをするから、その時は今度は四人でね」
「わかった」
 そう言うとルナサは立ち上がる。
「じゃあ、みすちーお勘定はここに置いとくよ、……いいって、色々お世話になってるんだから、そんな顔しない。じゃあ、アリスや幽香、ブン屋にてゐも、また」
 そう言うとルナサは後ろ手でバイバイしながら、少しどんよりとしたオーラを背負ったまま、屋台を後にした。
 まだ話したりないと言った視線を感じたが、それらを振り切るようにルナサは夜空に身を投げ出した。
 空を飛びながらルナサは考えていた。
 いったい何が問題だというのだろう。大ちゃんにただ良い歌を歌ってもらいたい、今はそれだけのために頑張っているのに、何故みすちーや幽香はあんな風に行ってきたのだろうか?
 確かに、あの日初めて大ちゃんが屋台で歌を歌ったときは、反対していたし、そんなことは無理だと思って接していた。だけど、今は違うし、はっきり大ちゃんの意志も聞いた。だから大丈夫のはずなのに、何でだ。グルグルと先ほどのやり取りが思い出されるけれど、ルナサの頭の中で、結局まとまることはなかった。
 そんなことを考えながら飛ぶと、あっと言う間に館にたどり着いていた。
 門の前で少し息を整える。こんな精神状態では、顔を会わせるのは難しそうだった。耳を澄ませば、まだピアノの音に合わせて、大ちゃんの声が洩れ聞こえていた。
 思わずふうと溜息をついたところで後ろから声を掛けられた。
「お帰り、姉さん。……その様子だと話は、色々と済んだみたいね」
 門の影にはメルランが佇んでいた。いつも陽気な表情には憂いの色が浮かんでいた。
 待っていたのか、と思ってよく見ると口に煙草が咥えられていた。咎めるような視線に気が付いたのだろう。メルランは苦笑しながら、手に持ち替えた。
「良いじゃない、家の中では吸っていないんだから」
「まあ、そうだけど」
「それはそうと、良いの、姉さん? このままで」
 またその話題だ。何故みんなぼやかして話しかけるのだろう。何か言いたいことがあるならばはっきり言えばいいのに。
「あのね、姉さんこればっかりは自分で気付いてもらわないと、無理な話なの」
 不満げな顔をしたのが伝わったのだろう。困ったようにメルランはそう言った。
「一応気にだけは止めておくよ」
 このまま話していても、屋台と同じ展開になりそうだったのでルナサは早々に会話を切り上げたのだ。
 そう言ってルナサは、メルランにさっと背中を向けて館に入っていこうとした。
「忠告はしたからね」
 背中にメルランの言葉を受けたが、ルナサは振り返らなかった。


4.幻想郷のシンデレラ

 太陽の畑の特設ステージ。その裏にある楽屋で、大妖精は数刻後に始まるライブに向けて準備をしていた。
 とはいえ、準備といっても何もすることはない。衣装はアリスさんが、ばっちり決めてくれたし、てゐちゃんに頼まれた八意先生が、のどのお薬を持ってきてくれたので、声の出も悪くない。楽器に関してはルナサさん達の領分だから、それこそ何も出来なかった。結局、大妖精は精神集中ということで、ここでぼんやりしているほか無かったのだ。
 それにしても、ライブに向けてのレッスンを初めて一ヶ月。あっという間にその日はやって来たものだと思う。想像していたよりも早く仕上がったというよりも、かなり見切り発車な気がする。
 事実、ライブまでの予定は二ヶ月はあったはずだった。それが一ヶ月前倒しになったのは、大妖精の歌を聴いたミスティアちゃんの鶴の一声ならぬ、雀の一言だった。
「これなら、もうステージでも良いと思うよ。ルナサもそう思うでしょ?」
 いきなりそう言われて、大妖精は驚いたのだが、最も驚いていたのはルナサさんだったと思う。私以上に反対したのだけれど、その場にいたメルランさんやアリスさん、それにチルノちゃんの賛成もあって、結局押し切られてしまった。
 確かに、練習を始めた頃に比べれば格段に上手になったと思う。こっそりと街頭で歌ったりして、度胸を付ける練習もしてきたから、昔に比べれば、人前で歌うことに関しては、多分大丈夫にはなった、はずだ。
 でも、不安は尽きない。やはり自分は素人で、ただの妖精だという気持ちが抜けないのだ。どんなに技術を付けても、やはり根幹は変わらないような気がする。逃げられるものならば、正直逃げたい。そんな風に思っていた。
 でも、逃げるわけにはいかない。だってそんなことをすれば、迷惑を掛けてしまうから。
 少しだけ顔を上げて視線をずらすと、そこには熱心にヴァイオリンの調律をしているルナサさんがいた。実際は霊体だからする必要はないそうなのだけど、やはりライブ前に触ってやることで、音の出が良くなる気がするそうだ。それだけではなく、落ち着かない時に心を和らげるのに、丁度いいらしい。これまで見た中で一番熱心にやっているんじゃないだろうか、そう思うほどルナサさんは一心にヴァイオリンに向かっていた。
 大妖精の視線を感じたのだろう。ルナサさんはこちらを向いた。いつも漂わせている凛とした雰囲気がまるでなかった。何というか、家を無くしてさまよっている野良犬のような、弱々しいオーラが感じられた。
 自分のせいなのかな、と思うのは思い上がりだろうか。でも、ライブの話を振ると途端に口が重くなるし、何も言わないながらも、自分を見つめるルナサさんの瞳は、心配だと訴えかけているのは感じられた。
 フッと視線が合う。その瞬間、ルナサさんは意を決したように唇を噛んだ。少しもごもごした様子から、大妖精は何か言いたいんじゃないかと、不意に感じた。それも、これまで堰き止められていたものが決壊して、何もかも吐露されるんじゃないかという予感だ。
 何を言われるか分からない恐怖と、何かがはっきりすると言う期待がない交ぜの中、大妖精はルナサさんの言葉を待った。
「大ちゃん、えっとね……」
 そして、重々しい口をルナサさんが開くのと同時に楽屋のドアが開いた。そこに姿を現したのは、空気を読まない闖入者、このライブの広報役を買って出ている、射命丸文さんだった。
「お邪魔しますよー。どうですかお二人さん。ライブ前のインタビューを頂きたいのですか」
 楽屋内に籠もっていた重い空気など、まったく気にしないとばかりに文さんは極めて明るくそう言った。
 ルナサさんが小さく舌打ちをするのをよそに、大妖精はホッとしたように息を吐いた。やはり不安の方が、大妖精にとっては大きかったのだ。
 ライブの前だし、後でも聞けるよね。大妖精は俯くと、言い訳のように心の中で呟いていた。
 大妖精のそんな思いなど、一切気に留めた様子もなく、文さんは滑らかな口を開くのだった。
「あやや、それこそ本当にお邪魔でしたか?」
 そう言って、文さんはいやらしく目尻を下げた。その言葉にルナサさんが渋面になる。
「そんなことはない。でも、開演前はあんまり気持ちを乱して欲しくないな」
 ルナサさんは話したくないとばかりにそう言ったが、文さんは全く気にした様子はなかった。それどころか、はいはいと愛想笑いを浮かべながら、あっさりと聞き流すと、大妖精の方に向き直った。
「大妖精さんはどうですか?」
 振られると分かっていたのに、やはり聞かれるとドギマギしてしまう。
 大妖精はコホンと一つ咳払いをして、息を整えると落ち着いて口を開いた。
「え、あ、うん、緊張してます。でも、今日は精一杯頑張りますので、文さんもしっかり聴いていってくださいね」
 多分、今言える最大限の台詞だと自分で思った。それは文さんも期待していた台詞だったようで、満足げに頷いた。
「これはご丁寧にありがとうございます。良い記事を書かせていただくつもりです。まあ、あんまりプレッシャーを掛けてもいけませんし、長居して馬に蹴られる趣味もありませんので、ぼちぼち退散いたしましょう」
 そう言うと文さんは、冷ややかに横で見つめているルナサさんの視線から逃れるように顔を隠すようにした。
「ああ、そうしてくれ」
 相変わらずルナサさんの言葉は冷たかった。そこまで言わないでもいい気がするけど、やっぱり開演前だから少し落ち着かないのだろうか。
「いやあ、嫌われたもんですね。まあ良いです。とりあえず、終わった後のインタビューはちゃんと受けてくださいね、ルナサさん」
 しかし、流石文さんだ。そんなルナサさんの態度にも、怖がった振りを見せながらも全然怯んだ様子はなかった。
「それは善処するよ」
「駄目ですよ、善処じゃなくて、了承してくれないと」
 誠意のない声でルナサさんはそう言った。誰が聞いても受ける気がないのは明らかだった。それに粘るあたり文さんのマスコミ根性も大したものだと思う。でもそこまでしないと、報道の現場にはいられないのだろうなあ。
「わかったよ」
 少し投げやり気味にルナサさんは吐き捨てた。やはり、いつものルナサさんとは違う。それは文さんも感じていたようだった。首をすくめ、一つ息を吐くと文さんは背を向けた。
「じゃあ、私は舞台の下から取材させてもらいます。撮影許可ももらってますので、良い写真が撮れたらお二人にも差し上げますよ」
 そして、文さんはそう言うと、肩越しに大妖精に向かってピースサインをした。
「あ、それはよろしくお願いします」
「では、ご健闘を祈ります」
 そう言うと文さんは一つ後ろ手に手を振りながら、ドアを開けて楽屋から出ていった。
 完全にドアが閉じ、文さんの気配が遠く消えていったくらいでルナサさんは大きな溜息をついた。
 それは、安堵のようでも自己嫌悪のようでもあった。ここ最近、ルナサさんの憂鬱の原因を、つかみ切れていない大妖精にとってはどうとも判断できそうもなかった。
 その後は、気が削がれてしまったのか、ルナサさんとはライブについて二、三言言葉を交わしたぐらいで、特に何もなかった。
 そうこうするうちに、衣装係のアリスが来てしまい、大妖精は最終準備に追われていったし、ルナサさんの方もメルランさんや、リリカさんとの打ち合わせに追われて、二人だけの時間を取ることが出来なかった。
 結局、改めてルナサさんは先ほど言いかけたことを言い直しはしなかったし、大妖精の方もそれを聞き返すことをしなかったので、聞きそびれてしまったのだった。
 しかし、大妖精はルナサさんに聞き返さなかったことを、後々まで後悔することになるとは、この時はまったく思ってもいなかった。

*  *

 ブン屋が楽屋から出て行った後、ルナサは一人自己嫌悪に陥っていた。
 何で自分はあんなに苛立っていたのだろう。さっきのだって、ただの八つ当たりにすぎない。ふと大ちゃんの方を向くと、気遣うような、何か言いたげな視線をルナサに向けていた。
 ああ、結局こうやって大ちゃんにまで迷惑を掛けている。
 それにしても、さっき自分は何を言いかけようとしたのだ。
 機を逸してしまったせいで、どこかに行ってしまった。せっかく大ちゃんに言わなければならないことが分かった気がしたのに。それもこれも、あのブン屋の馬鹿ガラスのせいだ。
 これまでみすちーや、幽香、メルランたちにちょくちょく突っ込まれていたことの答えが、ようやく出たはずだった。
 でも、本当に言って良いことだったんだろうか。
 きっとあのまま言っていたら、この後のライブに支障が出る。それだけは確かな気がする。
 やはり黙っておけるなら、黙っておいた方が良いのかもしれない。そう独りごちるとルナサは、ヴァイオリンに手を当てた。いつもなら心が落ち着いて、演奏に集中できるはずなのに、何だか今日は気だけが急いてしまって、上手くいかないような気がしていた。
 そんな時だった。
「ルナねえ、何をぼうっとしてるのさ、そろそろ開演準備に移動しないと。まずは私たちの演奏で場を引き締めるんでしょ。ルナねえが設定したんだから、しっかりしてくれないと困るよ」
 憎まれ口を叩きながら後ろから声を掛けてきたのは、末妹のリリカだった。
「珍しく真面目なことを言うじゃないか」
 普段なら憎たらしく思うはずの妹の軽口が、何だか今日はとても心地よかった。これまで重く感じていたものを一瞬取り除けるような気がした。
「あれ、ルナねえ、なんか元気だね。なんだつまらないなあ、メルねえから、聞いてたのとはだいぶ違うや」
「メルランがなんだって?」
 ルナサがそう聞き返すと、リリカは何故か少し怯んだような顔になった。
「え、『今の姉さんは独りよがりの土壺にはまって暗くなってるから発破掛けてきなさい』って。それにしても怖いよ、顔。そんなに睨まなくてもいいじゃない」
 またメルランの奴か。
 そう思ったせいだろうか、ルナサは再び心の気圧が一気に下がったような気がした。リリカが怖がったのも、多分その余波を受けたからだ。
 いかんな。せっかく軽くなりかけた心に、また重荷が積み上げられそうだった。ルナサは、それを吹き飛ばすかのように、ぶんぶんと頭を振った。
「何をしてるのさ」
 そんなルナサの奇行を、ジト目でリリカが見つつ言葉を続けた。
「でも、ちょっと安心した。やっぱりルナねえはリーダーだね。ちゃんと立て直してるんだもん」
「心配を掛けたみたいだけど、気にしなくて良いよ。私は、ちゃんとやってみせる」
 気安く話しかけるリリカの言葉に、まさか救われるとは思ってもみなかった。体に活力が戻って来るのを感じる。
 プリズムリバー三姉妹の長女としての自分、とりあえず、このライブはその仮面を被ろう。大ちゃんの初めてのライブを成功させるために、大ちゃんの恋人としてではなく、プリズムリバー楽団の長として、私は演奏しよう。
 多分、この選択は間違ってるんだろう。でもライブを成功させるためには、今の自分の精神状態ではこれしかないような気がしていた。
「じゃあリリカ、行こうか」
 そう言うと、ルナサはリリカと一緒にステージへと向かった。その途中にメルランが腕を組んで待っていた。ステージの上で見せる陽気さは一切なかった。
 メルランは、冷ややかな視線をルナサに向けた。
「そう、姉さんはそうするのね……」
 見透かしたようなメルランの言葉には、微かだが憐憫の情が含まれていた。
「色々気にしてくれたみたいだけど、もう時間がない。とりあえず今日のライブを成功させるためよ」
 ルナサがそう言うと、メルランは悔しそうに俯いた。ハラハラして二人のやり取りを見つめるリリカをよそに、ルナサはメルランの言葉を待っていた。
「姉さんが決めたんだったら、私から言うことは何もないわ。ハッピーなライブにしましょう」
 そう言って顔を上げたメルランの顔には迷いはなかった。悲壮な気配は漂わせていたが、いつもの明るさを感じさせる笑顔が浮かんでいたのだった。
 そして三人で舞台に立つ。気持ちは整えた。後は真打ちの登場を待つだけだ。

*  *

 伝統の幻想ブン屋、射命丸文はルナサや大妖精の取材を終えると、すぐに会場の方に降り立つ。ざっと見回した感じ、かなりのお客がライブ会場に集まっていた。
「ふむふむ、なかなかの客入りですねえ。急に告知したとはいえ、いつものライブ並みか、いやそれ以上でしょう。これだけ入っていれば、なかなかのものではないでしょうか」
 そんな風にブツブツと呟きながら、文は逐一メモを取っていた。とはいえ、情宣自体は文が主体となって動いているので、ある意味自画自賛に近いコメントではあるのだが、細かいことは結構どうでも良かった。
 それにしてもだ。
「とはいえ、てゐさんの働きも認めなければならないでしょうね。言葉巧みに人を動かすあの能力、侮れませんね。しかし本当に人を幸せにする程度の能力なんでしょうかね、あの兎は。なんというか、あらゆるものを騙す能力、って改名した方が良いかもしれませんね」
 そういって、くっくっくと文は笑った。
 文がこう言うのも仕方がない。確かにプリズムリバー楽団のライブと言えば、人妖問わず人気がある。それは疑いようのない事実だ。
 しかし、今回のメインは彼女たちではない。名も知れぬ大妖精が、歌い手としてデビューするライブである。当然、それで客を集めるのは難しいはずだった。だが、結果はこうである。
 文が情報をばらまい手必死に情宣したと言っても、たかがしれている。やはりこうなった要因は、てゐの力に寄るところが大きいだろう。
 てゐは、まずこのライブを行うにあたって、歌い手である大妖精の存在を隠すところから始めた。しかしただ隠すだけでは、いつもの演奏会と変わらないので、暗に新ボーカルの存在だけは明らかにするような形で隠したのだった。
 彼女曰く、下手に知らないものの名前を出すよりも、完全に隠し、希少性を煽っておくのが大事だということらしい。それだけでなく、それに合わせて群衆が気になるような情報を小出しにしながら、関心を煽ることで、広報活動は上手くいくとのことだった。
 それだけではない、口コミの力を上手く利用して、ねずみ算式に客を集めてきたのだ。それらを準備期間のない僅かな間でやってのけたのだから、流石の文ですら舌を巻く思いだった。
 それは配下の兎たちのおかげかもしれない。だが、どこぞの月の兎では、その兎たちを満足に操れないと聞く。それを考えれば、やはり因幡てゐという兎は侮れないな、と文は思うのだった。
「まあ、あの山の神様達と同い年ぐらいと言う噂もありますからねえ。かわいい顔してやり手な訳ですよ。それにしても……」
 ライブ会場を俯瞰しながら文は少し考え込むようにした。
 こうして見てみると、準備は上手くいっているのは、十二分に確認できた。多分、あの三姉妹の演奏も問題ないだろう。ちょっと長女が情緒不安定なところを見せているが、本番までにはきっと立て直してくるだろう。
「なんといってもプロですからね。ですが……」
 あの妖精はどこまでやれるのですかね。口には出さなかったが、文の懸念はまさにそこにあった。
 企画メンバー故に、歌い手が大妖精であることは、文はあらかじめ知っていた。だが、その実力のほどは全く以て掴めていなかった。
 それだけは、ルナサさんが徹底ガードしていましたからね。全く分からないのですよねえ。これだけ人を集めておいていまいちな出来だと、特集記事を組むわけにもいきませんし。本当に大丈夫なんでしょうかねえ、大妖精さんは。
 ま、駄目だったときには、ルナサさんとのゴシップをすっぱ抜かせていただくつもりですから、その点の心配はないのですが、やはり、出来ることなら歌姫誕生みたいな記事を書きたいものですね。
 そんな風に思いながら、文が開演前の会場をぶらぶらしていると、見知った顔に声を掛けられた。
「あれ、文じゃないの。あんたどこにでも現れるわね」
 ぶっきらぼうに声を掛けてきたのは、楽園の素敵な巫女こと博麗神社の貧乏巫女、博麗霊夢だった。
「霊夢さんこそ珍しいですね。あんまりこう言うところでお見掛けするような方ではないのに」
「……まあいいじゃない。色々あるのよ」
 そう言って口ごもる霊夢の後ろから新たな人影が現れた。
「甘みをおごってもらえるということで、早苗に着いてきただけだろう、お前は」
 呆れたようにそう言って出てきたのは上白沢慧音だった。
「また珍しい組み合わせですね、お二人が一緒なんて」
 文がそう言うと慧音は苦笑した。
「いや、単にお互い連れとはぐれただけだ。しょうがないのでぶらぶらとしていたら、お前を見かけたというわけだ」
「そうでしたか、いやあ人里の守護者が紅との密会、しかしそれは別の紅白とか、いい記事になると思ったのですがねえ」
 軽口を叩く文に、霊夢も慧音も同時に呆れたように溜息をつくと、同時に口を開いた。
「「色々と突っ込みどころが多いけど、とりあえずこいつとそう言うことになることはあり得ないから」」
「……息もぴったりじゃないですか」
 思わず同時に迫られて文は少し圧倒された。とはいえ、ここで引いてしまったら取材にならないので、文はライブの話題を振ってみることにした。
「それはそうとお聞きしたいんですが、今日のライブはどう思われます?」
「どうって、ああ、新しい歌い手とやら? どうかしらね、どうせ名前倒れなんじゃない。ま、どうでもいいけど、楽しけりゃいいのよ」
 霊夢の答えはサバサバしたものだった。まあ、この巫女はいつもこうなのであんまり参考にならない。困ったように慧音の方に目線を向けると、慧音は待ってましたとばかりに口を開いた。
「そうだな、私は結構楽しみにしているよ。いつものミスティアよりは、少しおとなしいという話も聞いているしな、しっとりめの曲などは期待できるんじゃないのかな」
 慧音の言葉に、文はフムフムと頷きながらメモを取る。
 流石先生ですね、と感心したように言ったことに霊夢が刺激されたのだろう。
「それよりあんたはどうなのよ?」
 文の方に話を振ってきた。
「いえ、私はどなたが歌うかは知っていますし、それに、新聞記者は主観がなるべく入らないのが良いと思いますので、コメントは差し控えさせていただきますよ」
 慇懃無礼にそう答えると、二人は辟易したような顔を浮かべた。あんたがよく言うわね、と霊夢が影で呟いているのを黙殺して、文が再び口を開こうとしたときだった。「けーねせんせー」と小さな子供達の声がした。
「おおすまない。どうやら連れが戻ってきたようだ。おい、霊夢、早苗の方も戻ってきたみたいだからそろそろ行こうか」
「わかったわよ。じゃあね文、あんまり人に迷惑掛けるんじゃないわよ」
「では失礼する」
 そう言って二人は観客の波の中に戻っていった。
「踏む、あんな小さな子供達までも集めているっていうのは、ちょっと驚きでしたね。いくら何でも危なくないのでしょうかって、まあ、博麗の巫女に、守矢の風祝、さらには人里の守護者。それにあの後ろ姿は、妹紅さんですか、あれだけいて襲う妖怪がいたらお目にかかってみたいぐらいですね」
 そうこうするうちに、観客のざわめきが徐々に絶えてきた。空を見上げれば夕陽が徐々に山の端に掛かっていく。これが完全員沈んだとき、ライブが開始されるのだ。
「さて、ぼちぼち私も移動しましょうか。なんといっても撮影班も兼ねていますので」
 そう言うと、文はステージに近づいていった。通りすがる観客達の盛り上がりが徐々に増していく。しかし、それに比して文の内心は冷めたものだった。
 口ではああ言っていたものの、ライブが始まるこの瞬間まで文は、広報担当をしていながら、全く大妖精に期待していなかった。結局、ルナサの恋人として七光りで舞台に立っているだけの普通の妖精。そんな印象を内心持っていたのだった。
 だから、せいぜい恥をかかないようにぐらいにしか思っていなかった。
 ようやく日が落ちて、スポットライトを浴びて、舞台にプリズムリバーの三姉妹が上がる。プリズムリバー楽団のテーマ曲である『幽霊楽団 ~Phantom Ensemble』が鳴り響き、ライブが始まった。
 演奏を聴く限り、文が事前に予想した通り、ルナサの調子はいつもは本番に合わせて調子を戻していた。じゃあ、後はその真打ち次第か、どうなることやら。文は皮肉げな笑みを浮かべたまま、舞台に注目していた。
 曲が終わる瞬間、スポットライトが消える。そして、再び着いたときには、シンプルなピンクのワンピースを身にまとった大妖精が立っていた。間髪入れず、演奏が変わる。
 ルナサのリードに合わせて、ヴァイオリンとリリカのピアノが重いリズムを刻む。それに合わせるようにして大妖精が口を開いた。
 その瞬間、文は周りの世界が一変したかのような錯覚を覚え、先ほどまでの侮りなどいっぺんに吹き飛んでいた。
 透き通る伸びやかな歌声とはこういうことを言うのだろうか。何事にも、斜に構えるような文の胸にまさかこうまで響くとは、自分でも思っていなかった。
 自然と涙がこぼれていた。 

*  *

 演奏する側でありながら、ルナサはどうしようもなく涙がこぼれそうだった。自分が作った曲のはずなのに、語りかけるような大ちゃんの歌声を重なると、これほどまでに胸を打つものになるとは思ってもみなかった。
 ちらりと、その姿を目の端に収める。ピンクを基調としたミニのワンピースは、シンプルだが可愛らしく、いつもとは異なる大ちゃんの魅力を存分に引き出していた。
普段、寒色の服が多いだけに、大人しめの印象が強く、地味に見える大ちゃんだが、今日は違った。スポットの光を浴びて歌う大ちゃんの姿は華やかで、文字通り妖精そのものであった。
 観客の耳目を集めることが出来たのは、アリスのあつらえた衣装のおかげだけではない。むしろ、横で演奏しているルナサでさえも感動させているその歌だった。
「やっぱり最初に『No Promise』を持ってきたのは正解だったな」
 そう独りごちると、ルナサは、転調に気を遣いながら、一気にヴァイオリンを弾き上げた。それまでバラード調だったものが、一転して民族音楽風に変化する。
 その変化に戸惑うことなく大ちゃんは付いてきた。それどころか、その前よりもいっそう声が伸びていた。特にサビの部分にある「君を、君を信じてる」と言うフレーズが、心地よく会場に響き渡るのだった。
 一曲目で観衆の心を鷲掴みにした後は、さらに畳み掛けるように、スケールの大きい『Miracle Sea』を選曲した。
 無拍子風の出だしと、熱さを感じるコーラスから始まった。とらえどころのない進行。まるで静かな海の中を漂うようなイメージの歌である。メロディに比して激しい歌詞は、ゆったりとしながら、徐々に輪郭を現していく。そして最後に「愛」というテーマに行き着くのを大ちゃんは高らかに歌い上げるのだった。
 さてこのライブは、当然ルナサが中心となって歌を作っていたから、曲数はルナサが一番多いのだが、何曲かはメルランとリリカも作っていた。特に、弦楽器中心でどうしても古典的な構成になるルナサに対して、メルランはアップテンポ、リリカは新感覚の曲を作りバランスを取っていた。
 硬軟取り分けたこのライブもいよいよラストが近づいてきた。残すところは二曲。どちらもルナサの作った曲だが、自信作だった。
 先に大ちゃんが歌ったのは、自分を好きになれない女の子の歌だった。ある意味、自分自身をイメージしながら作った歌になってしまい、かなり恥ずかしい思いをしたのだが、そんな歌を大ちゃんは良いと言ってくれた。
「この曲はどんなときにでも自分に合うような気がします。自分に負けそうなとき、そんなときに聴きたい曲だと思います。後、静かな曲なのに激しさがあってとても良いと思います」
 何だかとても気恥ずかしかったことだけを覚えている。
 そして最後の曲は『Empty a pocket』というのだが、いわゆる旅立ちの歌だった。何も持たずに今の自分を壊しながら、どんどん前に旅をしていこうという歌だった。
 それこそ、今回のライブのために書いたような曲だった。だから大ちゃんがこの曲を最後に選んでくれたときにはちょっと嬉しかった。 
 ライブの前に、ルナサは大ちゃんに何で選んだのか尋ねた。
 そうしたら、大ちゃんの答えは明確だった。
「だって、みんなで一緒に歌える曲じゃないです。周りながら歌えますし、聞いている人たちもみんなで『ラララ~』って、合いの手をうちながら、一緒になって歌いながら終わりたいんです」
「そっか、それはいいね」
 そう言うやり取りを交わしたのを、ルナサは思い出していた。
 大ちゃんがライブ前に話したように、今会場の観客は一体となって手を叩いていた。
 その中を、大ちゃんが舞台の上を縦横無尽に歩む。それに合わせてヴァイオリンを抱えたルナサ、アコーディオンに持ち替えたリリカ、そして相変わらずのトランペットのメルランの行進が行われていたのだった。
 止むことのない歓声の中、この行進は止めどなく続いていくのだった。

*  *

 あのライブから、大妖精の生活は一変した。
 それまでただの湖の妖精であったのが、ある意味幻想郷で知らないものはいないほど持て囃されるようになったのだ。
 ライブの成功自体も大きかったが、それに続いて出された、文さんの『文々。新聞』の号外に寄るところのものが大きい。
 何より、そこで踊った次の煽り文。
『幻想郷のシンデレラ、ここに誕生!!』
 なんだ幻想郷のシンデレラって。思わず呆れてしまうようなフレーズだが、ことのほか広まったようで、行く先々で使われて恥ずかしい思いをしたのだった。
 それだけではない、あれきりで終わるはずだった歌い手としての活動は、これからも続けることになってしまった。と言うよりも、やめるといる雰囲気ではなくなっていた。
 ライブの前までは、反対していたはずのルナサさんでさえ、次の曲を作る準備に入ってしまった。一番反対していた姉がそうなってしまったのだから、メルランさんやリリカさんが反対するはずもない。
 文さんやてゐさんを中心に、次はみすちーとのデュエットだとか、幻想郷ツアーをしようだとか、どんどん話が大きくなっていったのだった。
 自分はと言えば、そういうお祭り騒ぎのような雰囲気にただ翻弄されていたのだが、決してそれは嫌なことではなかった。そうすることで、ルナサさんと一緒にいられるわけだし、何よりもルナサさんが作った歌で、その横で歌えるという、最も幸せな時間を味わうことが出来たのだから文句はなかった。
 でも、そう言う生活を初めて半年が過ぎたころだろうか、ルナサさんの表情に時折昏い影が差すようになってきていた。
 リリカさんなどは、秋になったせいでただアンニュイなだけだよ、と軽く笑い飛ばすのだが、大妖精にはそう思えなかった。メルランさんに相談しようと思ったが、何故か上手く話す機会が得られずに、時間だけが過ぎてしまっていた。
 そんなある日のことだった。妖怪の山のライブを終えて、大妖精は一人で、九天の滝のそばを散歩していた。ちょうど紅葉が最も盛りの時期で、真紅の葉っぱが、ハラハラと滝に飲まれていく姿はとても美しかった。
「大ちゃんったら、結構ライブの後は一人でウロウロするよね」
 ぼんやりと滝を眺めていると、肩を叩かれた。振り返ると、そこにはルナサさんがいた。
「そうですか、別にそんなつもりはないんですけど」
「そう、じゃあここで何をしているの?」
「滝を見ながらぼんやりしてました」
 ぼんやりしながらライブの実感を味わっていたのだった。
「ぼんやりしすぎて風邪を引いても知らないよ」
 そう言ってルナサさんが私の横に座った。どうやら付き合ってくれるらしい。私も同じように腰を下ろすと、ルナサさんの肩にもたれかかるようにした。
「探しに来てくれたんですね」
「そうだね、邪魔したかな?」
 そう言ってルナサさんははにかんだ。
「いいえ」
 大妖精は首を振った。邪魔なんてことはなかった。出来れば、こうしてルナサさんと一緒にいたかった。
 ライブが終わって二人のんびりと秋の風景を見ている。たったそれだけなのに、何故かホッとしていくのだった。
 しばらく無言で滝を見続けていたのだが、徐々に言葉数が増えていった。その中で出てくるのは、、これまで歌った歌や、ルナサさんが作った曲の感想。そして、好きな音楽の話だった。
 気が付くとこんなに音楽の話をルナサさん説いている。出会いも音楽だったけれど、まさかこれほどまでに深い関係になるとは思っても見なかった。
「大ちゃん」
 そんなふうに大妖精が考えていると、不意にルナサさんが立ち上がった。
「はいっ」
 突然立たれてしまったので、危うく倒れてしまいそうになった。
「ちょっと、歩かない?」
「え?」
 大妖精の返事も待たずに、ルナサさんは歩き始めた。慌てて立ち上がると大妖精は急いで後を追った。
 ルナサさんが、思った以上に早足で歩くので、大妖精はついて行くので精一杯だった。
「ど、どこにいくんですか?」
 大妖精の言葉に、ルナサさんは答えなかった。相変わらずずんずんと山道を進んでいく。気が付くと山道は徐々に石畳に変わっていた。
「大ちゃん」
 不意にルナサさんが振り返った。ようやく止まってくれたと安堵をするが、すぐに不安に変わる。何故か知らないけれど、ルナサさんの顔を見ていると落ち着かなかった。
 そんな態度を見て、ルナサさんが少し唇を尖らせるようにして言うのだった。
「どうしたの大ちゃん。何か私おかしい?」
 おかしいと言えばおかしい。そもそもそう言う質問をする時点で、おかしいのだから。
「わかりません。ルナサさんが何を思っているかが」
「もしかして私が何かするとでも思ってる?」
 ルナサさんは不思議そうに聞き返した。
「別に、ルナサさんにだったら何をされても良いです」
 大妖精はきっぱりとそう言った。
 それは事実だったし、今すぐだった何でも出来る、そう思っていた。
「本当に?」
 ルナサさんの表情は、その口ぶりとは異なり、大妖精を信頼しきったものだった。
「……いえ、酷いことはしないでください」
「酷いことって」
「わかりません」
「わかりません……か」
 鸚鵡返しのようにルナサさんはそう言った。
 でも、大妖精の口調と、ルナサさんの口調には少し隔たりがあった。その隔たりが大妖精に不安を抱かせるのだった。
「馬鹿だな、大ちゃんは」
 そう言った、ルナサさんの表情は何故か、私以上に悲しそうだった。
「そうかもしれません」
「そんなことないよ。ねえ大ちゃん、ちょっと話を聞いてくれないかな?」
 大妖精は思い詰めたようなルナサの言葉に、ずいぶん前の記憶が少しずつ蘇ってくるのを感じていた。
「大ちゃん、私はね。貴女が歌えたことがとても嬉しかった。それまで、ただ聴いてもらうだけだったのが、一緒になって、何かを作り上げることが出来るようになったから」
 大妖精の困惑をよそに、ルナサさんは呟くように語り続けた。
「初めはね、私は貴女を守っているつもりで一緒にやってたの。でも、そんなことはなかった、貴女はどんどん上手くなっていったし、ある面では私たちより優れた音楽なったわ。今でも十分素晴らしい歌い手だと思う」
「そんなことないです」
 大妖精はそれこそ恐縮していた。まさか、ルナサさんからここまで褒められるとは予想もしていなかった。自分はただ、ルナサさんと一緒にやりたくて頑張っただけなのだから。
「いいえ、貴女は私の誇りよ」
 そう言ってルナサさんはしばらく大妖精を抱きしめた後、そっと体を離して、大妖精の顔を真正面から見た。吸い込まれそうなほど深い瞳に見とれていると、ルナサさんが口を開いた。
「大ちゃん」
 そして言った。
「私はしばらく貴女と演奏することは出来ないよ」
「え……?」
 ルナサさんの言っている意味が大妖精にはまるで理解できなかった。混乱している大妖精を無視するようにルナサさんは言った。
「私と一緒に音楽を続けることが、貴女にとってもうプラスではなくなってきたの。貴女だけでなく、私にとっても。下手をすれば傷をなめ合うだけの音楽になるかもしれない。ようやく前にメルランが言いよどんだ意味が分かった。本当はもっと早く気が付いて、私が変わるべきだったのに、それが出来なかったのは私の弱さ」
 自らを断罪するかのように、ルナサさんはそう言った。なんとかその言葉を否定しようとして、口を開こうとするのだが、何も言葉としては出てこなかった。
 それを見てルナサさんは、寂しそうに笑った。
「ありがとう大ちゃん。でも、今の貴女は、歌が好きで歌っているのではなくて、私と歌いたくて歌っているでしょう? それではいつか駄目になってしまうわ。だから、いったん距離を置きましょうってこと」
 そして一つ区切ってルナサさんは続けた。
「私のかわりの弦楽器には、幽香が来てくれるから、演奏については心配はいらない。今は人里にも、山にも色々な才能を持った者が多い。きっと貴女の助けになってくれるわ」
 そう言うとルナサさんは、衝撃のあまり立ちつくしてしまった大妖精を独り残し、山道を歩いていってしまった。追いかければ届くはずの背中が遠く、小さくなっていった。それは、まさに大妖精とルナサさんの心の距離そのものであるように思われたのだった。

*  *

 ルナサさんがプリズムリバーを離れてから、既に半年近くがたとうとしていた。あのころは秋だったのに、もう春だった。
 春の最初のライブを迎えて、大妖精は今日のライブで歌うのは最後にするつもりだった。ルナサさんの元を離れて歌うようになって、いくつか気が付いたことがある。歌うことは好きなのは確かだ。そして、色々な歌を歌う機会に恵まれたことは、確かに喜ばしいことだった。
 でも、自分が一緒に歌いたい。歌うときにそばにいて欲しいのは、ルナサさんだってことに。
 多分、この選択はルナサさんが離れていったことの本意とは、全く逆方向の決意なんだろう。
 それでも、これ以上大妖精は大勢の中の一人でいる自信はなかった。
 このことは、みすちーを始め、メルランさんやリリカさん、色んな方々に伝えた。
 リリカさんは強く反対したが。
「大ちゃんの意思を尊重したいと思う」
 と言うメルランさんの言葉に黙るほかなかった。
 みすちーや、アリスさんなども自分の歌を惜しんでくれたけれど、決意が揺らぐことはなかった。
 でも、最後にけじめとして大妖精は歌を作ろうと思った。
 これまで歌ってこれたことへの感謝の気持ち、そして今はそばにいないあの人への愛を込めて、歌を作ろう。
 リリカさんにお願いして、ピアノを習った。とても苦労したけれど、なんとか形になった。
 その産物として、以前リリカさんが作ってくれた『恐れないで / To love』と言う曲を弾き語りできたことは、とても嬉しかった。
 それこそ、ルナサさんのために歌いたかった曲だった。自分の知らないところで、色々悩んで、苦しんでいる人のそばにいることを恐れない。愛することを恐れない。そんな歌だった。
 でも、ルナサさんは側にいない。だから、私は歌を手放してでも追いかけたい。そう思うようになったのだった。
 いくつかの曲をやって、とうとう最後の曲に辿り着いた。本当は、初めてのライブの時にやった曲をしたかったが、それはやめておいた。歌いたい曲があったというのもそうだが、やはりあの曲は、ルナサさんが側にいてこそだと思ったからだ。
 メルランさんや、リリカさんが目を伏せながら舞台の脇に立って、自分を見送ってくれた。
 最後の最後に自分のためのステージにしてくれたことを感謝しながら、大妖精がピアノの前に座る。すぐに歌い始めてもよかったが、やっぱりそれはやめた。
「皆さんに聞いて欲しいと思うことがあります。私は、偶然こうやって皆さんの前で、こんな大きな舞台で歌うことが出来るようになりました。それは、ただ歌が好きで、なんの力もない妖精にとっては奇跡のような出来事でした。歌うたびに、皆さんが喜んでもらえる。一緒にやってくださっている音楽家の方々と何かを作り出す喜びを味わえる。とても楽しい時間でした」
 ここで大妖精は一端言葉を切って空を見上げる。しばらく沈黙が続くが、会場には水を打ったように沈黙が支配していた。やがて大妖精は再び口を開いた。
「だけど、私にとって大事な大事な人が側にいなくなってしまいました。その理由は、私には痛いほどよく分かるけれど、分かりたくありません。だから、私はこの歌を最後にして、あの人、ルナサさん、ルナサ・プリズムリバーを追いかけていきたいと思います」
 はっきりとした引退宣言だった。こんな私的な理由でやめると言ったら、きっと反発を受けるんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。相変わらず静かで、怒号の一つたりとも起こることはなかった。
 相も変わらず音がない。みんな呆れているのかな、そんな風に大妖精が思ったときだった。
 パチパチという小さな音が聞こえてきた。それは徐々に共鳴していって、会場全体へと広がっていった。
「あ、ありがとうございます、皆さん……」
 それまで我慢していた涙がとうとうこぼれてしまった。でもこれは悲しい涙ではない。喜びの涙だった。
 ポロポロとこぼれる涙を拭いながら、大妖精は口を再び開いた。
「この歌『何処へでも』は、そんな中出来た曲です。初めてピアノを弾いて、なんとか自分の気持ちを音楽に、そして自分の気持ちを詩に込めて作りました。聴いてください」
 そう言って大妖精はピアノに向き直った。そして、静かに息を吸うと、大妖精はゆっくりと鍵盤に手を添えた。
 落ち着いて鍵盤をなぞっていく。誰かを愛し、誰かに愛されることの喜び、それを踏まえて自分自身を愛してあげたい。そんな気持ちを込めて作った歌だった。
 ただそれだけを伝えたかった。ルナサさんによって導かれた音楽の道で、自分はこんなにも愛されて歌っています。だから、一緒にまた一緒に歌いましょう。そんな切なる願いがこもっていた。
 一番が終わったところで、伴奏をリリカさんに代わってもらい、大妖精は立ち上がった。そして舞台の中央へと移動する。最後だから自分を見て欲しいし、何よりも観客を目に焼き付けておきたかった。
 刻一刻と歌が最後に近づいていく、この歌が終わったときが、私の歌い手としての最後だ。そう思って声を張り上げて大妖精は歌った。
 最後のハミングを終え、最終フレーズまでを大妖精が歌いきる。その時会場に沈黙が降り立つ。そして、次の瞬間には爆発するような歓声と拍手が響き渡った。
 ああ、これで終わりだ、そう思ってもう一度舞台から客席を見たときだった。
『Empty a pocket』のメロディが流れてきた。聞き間違えるはずがない、この音色は、もしかして。そう思って大妖精が舞台の中央に向きなおった瞬間。
 スポットライトが舞台の中央に当たった。同時に「おおおおおおー」という怒号のような歓声が会場中から響き渡る。
 ルナサさんがヴァイオリンを構え、いつものように凛とした姿勢であのメロディを奏でていた。
「ごめん、大ちゃん。待たせたね。やっと気が付いた。君の言うように『帰る場所は、すぐそばにあった』。そんな簡単なことに気が付くまでにずいぶん遠回りしたよ」
 そう言ってルナサさんはいつものようにはにかんで笑った。大妖精はただ、ただ嬉しかった。感極まって言葉を返すことも出来ない。
「『何処へでも』か、良い歌だね……。ねえ大ちゃん、また、君の横で演奏させてもらっても良いだろうか?」
 大妖精は大きく頷いた。それを見て、ルナサさんは一言。
「ありがとう」
 そう言った。
「じゃあ歌いましょう。皆さんも一緒に歌ってください。ラストナンバー『Empty a pocket』」
 この後は、とにかく無茶苦茶だった。
 でも楽しかった。多分過去最高の盛り上がりを見せたんじゃないだろうか。
 いつもの四人に幽香さんも加わる。そこにみすちーも乱入してツインボーカルになったし。後は普段は入っていかない客席で歌ったりもしたので、本当に収拾がつかないんじゃないかと思った。それでも、こうして終わっているんだから、不思議なものだった。
 ライブの後の打ち上げでは、ルナサさんはメルランさんを代表にして、次から次にこっぴどく叱られていた。仕方がないこととはいえ、あれだけの数のお説教を受けると流石に大変だと思う。まあ自業自得だから助けてあげないけど。
 そんな風に思いながら、ちょっと拗ねた様子で大妖精は、お酒の入ったグラスを軽く傾けていた。
 ふと、そのグラスの中身を見ると、その中には煌々と大地を照らす月が浮かんでいた。遙かな遠くを見透かすようにして、大妖精は昏い天空を見上げた。
「月にでも歌を聴かせに行きましょうか、お姫様?」
 いつの間にか横にいたルナサさんに、そう声を掛けられた。ようやくお説教が終わったのかなと思ったが、どうやら勝手に抜け出してきたらしい。困った霊だ、と思ったけれど横に来てくれたので、大妖精は許すことにした。
 ルナサさんの言葉は冗談なのだろうけれど、それは魅力的だった。本気でやってみようかな、大妖精はそう思っていた。
 本当は、一区切り付いたらマイクを置くつもりだったけれど、こうなった以上まだまだ置けそうにもなかったし、置くつもりもなかった。だから、新しい冒険が必要だった。
 こうして、ただの妖精だったはずの大妖精は、幻想郷の歌姫として、地歩を固めていくことになった。
 初めはただ歌が好きというだけだった。
 次は、愛する人の側で歌う喜びを知った。
 しかし、喜びに耽溺することの怖さも知った。
 それと別れを。
 大妖精は、そっとルナサさんの手を握った。それに応えるように、ルナサさんもまた、大妖精の手をぎゅっと握り返してくれた。冷たいけれど暖かみを感じる手だった。
 再び戻ってきたこの暖かさを、大妖精はもう二度と離す気はなかった。
 こうして月夜の下、妖精と騒霊はいつまでも一つでいるのだった。
今回より、本名というかフルのHNの方で投稿いたします。暁で投稿していたものです。
とりあえず、長くなりすぎた気がします。その割にはグダグダしてるし。
冒頭にも書きましたが、ルナサと大妖精がくっついている設定は、拙作の『知音』の方で詳しく書かれています。
とはいえ読まなくても、話自体には関係ありません。
マイナーカップリング万歳なのですが、というわけで次はゆうかりんと早苗様の話が書きたい今日この頃。
久我暁
[email protected]
http://bluecatfantasy.blog66.fc2.com/
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コメント



0.450簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
ルナサの不器用な真面目さと、大妖精の包み込むような優しさと愛情が、とても素敵に書かれてて素晴らしいです。
8.100名前が無い程度の能力削除
これは良いな…
11.100名前が無い程度の能力削除
>「踏む、あんな小さな子供達までも~

文さん子供踏まんといて下さい。

ルナ大は良いものだ。
12.90名前が無い程度の能力削除
ルナ大は至高。
久我暁さんは東方野球ファンですか?
いや、これはどうでもいい話か。

ルナサが大ちゃんから離れてから帰ってくるまでの展開が
少し急だったように思いました。
まぁあんまり長くなってしまうのもあれなんですが。