「シュジャクが見たいのだそうです」
はァ――と私は気の抜けた声を上げた。
どうでも良いという訳ではない。それ以前に意味が解らない。
ごめんもっかい言って、と私は片手をかざした。上白沢慧音は素直に頷いて、もう一度、
「シュジャクが見たいらしいのですよ」
と言った。
「……えーと」
私は言葉に窮した。座卓の向こうで生真面目に正座をしている慧音を見遣り、とりあえず近くの川から汲んで来た水を一口飲んだ。
竹林にひっそりと構えたあばら屋である。唐突にやって来るなり「折り入って相談がある」などと言うものだから、客を持て成す用意などあろうはずもない侘び住まいで私と彼女はこうして水だけが寂しく載った座卓を挟んで向かい合っている。
「私の理解力が不足してるなら申し訳ないんだけどさ、もうちょっと解りやすく言ってくれないか」
「あ――はい」
すみませんと慧音は頭を下げる。どうにも堅苦しくて遣りづらい。
「先ほど説明した老人ですが、彼がどうしてもですね、死ぬ前にシュジャクを見たいと言うのです。それで、色々と考えた末に妹紅殿に――」
「あ、あーいやいや」
そうじゃなくてさ、と私は頭を掻いた。
「その汁気の多そうな単語は何なんだよ」
慧音はきょとんとした顔をした後、一拍置いて、
「ご存じない――のですか」
「ご存じないよそんなもん。何、シュジャクだっけ? 知らん知らん」
我が千年余の人生の中でそんな珍妙な単語に出会った覚えは一度たりともありゃしないよ――少しむっとした勢いでそう言うと、慧音はやけに不可解そうな顔をした。不可解なのはそんな謎ワードをさも一般常識のように織り込んで来る慧音の方だろう。
「はあ――ですが鳳凰はご存じなのですよね?」
「当然」
「では不死鳥は」
「無論知ってる」
「ではシュジャクは?」
「いや知らんて……んん?」
はたと思い当たって私は顔を上げた。
「ひょっとして――朱雀の事」
「スザク……ああ」
そうとも言いますね、と慧音はしれっとした顔で言い放った。
* * * * *
甕から柄杓でごくごくと水を飲んで大きく溜息を吐き、私は付き人か何かのように立つ慧音を振り返った。
「こんなとこまで着いて来なくたって逃げやしないよ」
「あ、いえ――そういう訳では」
恐縮する慧音の背を両手で押して居間へ戻る。我が家の台所は些か機能的に過ぎる為、易々と他人に開陳するのは少しばかり躊躇われる。平たく言えば空っぽである。お茶受けぐらいはあるかと探しに来たのだが、案の定だった。第一茶葉自体がない。そもそも客が来る事など想定していないのだから、まあ、当たり前と言えば当たり前の話だ。
それで、と言いながら座卓の前に腰を下ろす。慧音は再び対面に正座した。
「結局――簡単に言うと、もうじきお迎えが来そうな爺さんが居て? そいつが死ぬ前に朱雀を一目見たいんだと、そういう事かい」
「はい。先ほども言いましたが、彼は元々外の世界の人間で」
何とかというその老翁は幼い頃に天を舞う朱雀の姿を眼にし、その後を追って森へ分け入る内に幻想郷へと迷い込んでしまったらしい。爾来彼は過去を忘れてそのまま幻想郷に留まっている訳であるが、その神秘的な原体験だけは今でも忘れられないのだという。
面倒臭い爺さんだなぁと私は言った。
「今更怪鳥妖獣の類なんぞ珍しくもなかろうに」
「そういう事では――ないのだと思います」
「まあ、思い入れがあるってのは解るよ。それで? まさか爺さんの為に朱雀を探してるなんて言うんじゃないだろうね」
「彼の家族と約束してしまいましたので」
「……」
がくりと肩を落として、私はあんた馬鹿だろう――と溜息を吐いた。
「何だってそんな阿呆な事を」
「それは仁の心というもので」
「いつから儒学者になったんだよ」
似合いだとは思うけれど。思うけれど、そうじゃないだろう。
私もこの幻想郷に隠れ住むようになってからそれなりに経つが、朱雀の姿なんぞは一度たりとも眼にした覚えはない。そもそも、その老人の記憶だって怪しいものである。朱雀が見たいのハイ見つけましょうのと言って、そう簡単に見つかるほどレアリティの低い存在でない事には疑念を差し挟む余地もない。
いくら幻想郷と言えど、そう簡単に見つかるとは思えない。というより、見つからなかったのだろう。私と慧音はちょっとした知り合いというだけで、さほど親交が深い訳でもない。そんな私を頼って来る時点で、他の手段はまず試し尽くしたに違いない。
「言っとくけど、私は知らないよ」
何を期待されているのかは知らないが、知らないものは知らない。私は素直にそう言った。慧音を見ると、意外にも彼女は少し残念そうな素振りを見せただけで、あっさり「矢張りそうですか」とのたまった。
喧嘩を売りに来たのだろうかと短絡的に思う心を、「まあ落ち着きたまえよ」となだめる。喧嘩を売りに来たのでないならば、最初から私に他の何かを期待しているという事になる。
「で、私に何をしろって言うの」
「流石妹紅殿は話が早い」
「嬉しくないよ」
いいから話せとせっつくと、慧音は居住まいを正してから、実はですね、と言った。
「妹紅殿に――朱雀の振りをして頂きたいのです」
はァ――と私は気の抜けた声を上げた。
どうでも良いという訳ではない。それ以前に意味が解らない。
ごめんもっかい言って、と私は片手をかざした。上白沢慧音は素直に頷いて、もう一度、
「朱雀の振りをして頂きたいのですよ」
と言った。
「……」
朱に塗られた鳥の着ぐるみを身につけてばっさばっさと空を飛ぶ己が姿を想像して、私は両手で頭を押さえた。
「……どうかしましたか」
どうしたもこうしたもあるか。
「嫌だよそんなん。何で私が」
私は偽らざる気持ちを述べた。そんなもの、私でなくても空が飛べれば誰でもいいだろう。あれか、片っ端から声を掛けては断られ続けて私まで回って来たって事か。
「いえ、そういう事では」
「じゃあどういう事よ」
着ぐるみの寸法が私にぴったりだとでも言う気か。何で私の寸法を知ってるんだこの娘、怖っ。
「そういう事ではなくてですね」
「だから――」
「妹紅殿の術でですね、火鳥に変じて頂きたいのです」
「断る」
間髪を入れず私は言った。
即答されるとは思っていなかったか、慧音は少したじろいだように私を見た。
「そ――そこを何とか」
「悪いけど、他所当たってくれないかな」
ほら、つい最近はた迷惑な異変を起こした何とかっていう吸血鬼――と私は続けた。
「そいつのねぐらにゃ確か凄い魔女が棲んでるんだろ? 私なんかよりそういうのを頼った方がいいと思うよ、うん」
「……何故ですか」
「うん?」
「いえ――不躾なお願いをしているのは重々承知しているのですが」
「だったら諦めてくれないかな。別に深い理由なんてないけどさ、顔も知らん爺さんの為に骨を折ってやる理由だってない訳でね。大体、私の術は鳳凰であって朱雀じゃないし」
若干の沈黙があった。
私は水を飲む。慧音はおずおずと、外つ国の事はよく知らないのですがと言った。
「フェニックスというのも鳳凰とは別物なのでは? それに火の鳥という語は朱雀を指す事も――」
「細かい事はいいんだよ!」
「えええ」
流石は慧音、痛い所を突いて来る。とにかく駄目だお断りだと言いながら私は立ち上がった。
「ほれ、帰った帰った。藤原相談所はもう店仕舞いだよ」
「待って下さい妹紅殿、もう少し話を――」
「聞かない。引き受けない。私はこれから輝夜の部屋の入り口に黒板消しを挟む仕事があるから。ほらほら」
まだ何事か言おうとする慧音の背中をどんどんと押して、丁重に我が家からご退場頂く。玄関から押し出した所で引き戸を閉めて、ついでに心張り棒を噛ませた。
「……妹紅殿、どうしても――」
「駄、目。もうすぐ夜だ、さっさと帰りな」
それだけ言って、私は慧音の返事も聞かずにその場を去った。
「ったく……」
勘弁してくれよ、と言いながら私は部屋に戻る。
まだ二人分の温度を残す部屋に転がって、何とはなしに「広いな」と呟いた。何故だろうか、誰かを家に上げた後は決まってそう思う。
私は伸びすぎた髪を弄りながら、今晩の食事の事を考えた。
* * * * *
「……で、何故君がまたここに来てるのかね」
相変わらずきっちりと正座している慧音を見遣って、私は大きく溜息を吐いた。
「……すみません」
慧音は例によって見ているこちらが恐縮するほど堅苦しく頭を下げた。謝るくらいなら――と言いかけて私は言葉を飲み込んだ。こんな所で本気でヘコまれても困る。
先の相談から数日経った。一向に冴えない顔色をしている所を見るに、例の件は未だに解決していないのだろう。またぞろ厄介な事を言い出す前にとっとと追い返してやろうかと思ったが、やってくるなり差し入れだと渡された大量の野菜を思い出して止めた。大方先日垣間見た我が家の台所事情に戦慄を覚えた結果だろうが、何であれ食材を貰える事はありがたい。見渡す限りの竹の林などというおよそ人の暮らしてゆくに向かぬ場所に居を構えていれば、それは栄養も偏るというものである。心なしか顔色も青竹に似てきた気さえする。肉体こそ死なないが、肉はともかく竹と筍だけではその内精神がやつれてくる。よって私は長年禽獣を装って永遠亭の畑に一方的にお世話になっていたのだが、最近ではそこの兎共が何故だか向こうから生温かい笑顔で作物を提供して来る始末であり、そろそろ我が身の惨めさを誤魔化すのにも限界が近付いていた所である。そんな次第で、話ぐらいなら聞いてやるにやぶさかではないという寛大至極な結論の下に私は上げかけた腰を下ろした。
「実は――妹紅殿の助言に従って、紅魔館へと足を運んでみたのですが」
「こうまかん?」
「はい、件の吸血鬼の館ですが」
「ああ――」
本当に行ったのかよ。
「勇気があるねお前さん……」
「は?」
「ああいや何でも。それで?」
「駄目でした」
慧音はあっさり言った。
「駄目でしたって」
駄目だったのかいと言うと、慧音は「はい」と頷いて、駄目だったのですと答えた。
「魔女には会えなかったのです。門前で止められまして、そこの門番が言うには私宛に主人から伝言を預かっていると」
「主人ってのは――例の吸血鬼か」
「はい。何でも運命を操る力を持っているとかで」
「ふぅん」
私は見つけた枝毛を弄びながら、つまらん能力だなぁと呟いた。
「まあ――つまらないかどうかはともかく、吸血鬼は私の訪問を予見していたようなのです」
「それで、伝言ってのは?」
「『引き返した方がお前の為になるよ』と」
「それだけ?」
思わず問うと、慧音はそれだけですと返した。
「それで帰った訳?」
「はい。その門番は随分と温厚というか、話の解る妖怪でして、しばらく二人して伝言の意味を考えてはみたのですが」
慧音は水を一口飲んで続けた。「吸血鬼の言葉を無視して進むとなれば、矢張り主人が来館を歓迎していないという風に取れる以上、門番である彼女も私を侵入者と見做して迎撃せざるを得ないという事になりまして。私も立場上妖怪と諍いを起こす訳には行きませんから、結局そのまま帰って来たのです」
どの道諦めざるを得なかったという事だ。困ったものですと慧音は他人事のように付け足した。
なるほどねと私はしかつめらしく頷いてみせたが、正直な所を言えばそんな細かい事にはあまり興味がなかった。私が知りたいのはただ一つ、どうして再びここへ来たのかという事である。吸血鬼が何を視ようが何を嘯こうが、そんな事はどうだっていいし関係がない。
「で、結局私に頼ろうって?」
「……お恥ずかしながら」
慧音は土下座せんばかりに頭を下げた。
「ああもう、止めてくれよ。いくら頭を下げられたってお断りだよ」
「どうしても――ですか」
「どうしてもだよ。嫌なもんは嫌なんだ」
「妹紅殿……」
これほど断言しても、慧音は尚諦め切れないといった顔で私を見る。私の家だというのに、ひどく居心地が悪い。
「……何でそこまでするんだよ」
放っときゃ西向いちまうような爺さんなんだろうが。
「いけませんか?」
逆に問われて、私は言葉に詰まった。
慧音は続ける。
「ならばどうして――貴女はそこまで拒むのですか」
縋るような眼差しのまま、私の胸に刃を静かに突き立てた。
やめてくれ――そんな眼で私を見るな。
「……嫌いなんだよ」
私はたまらず言った。
「人間は嫌いだ。……関わりたくないんだよ」
慧音は――絶句したようだった。
そら見ろ。だから言いたくなかったんだ。
「も――妹紅殿、その」
「気を遣ってくれなくていいよ」
投げ捨てるように言いながら私は腰を上げた。「さて、帰りな。私は輝夜の部屋に夜な夜なくさやを投げ込む仕事で忙しいから」
私は前回同様無理矢理慧音を立ち上がらせて玄関まで押して行く。
「妹紅殿、待って下さい」
「待たない聞かない引き受けない」
「違います、そうではなくて」
慧音は曇った顔で肩越しに私を見た。
「……そうでは、なくて――」
「……」
黙り込めば空気の寒さが身にしみる。耐え切れなくなって、私は大きく溜息を吐いた。
「……お人好しってのは、馬鹿の別名だと思うよ」
言いながら、私はシャツの袖口から呪符を数枚抜き取って慧音に突き出した。
「ほら」
「――これは」
「炎を封じた符。……これで小細工程度は出来るだろ」
別にそのものである必要はないはずだ。耄碌した老人が相手なら、いくらでも誤魔化しようはある。その方法まで考えてやる義理はないけれど。
「妹紅――殿」
礼の言葉は聞きたくなかった。慧音の細い指が符を掴んだ事を確認して、私は今度こそ慧音を外へ放り出した。有無を言わさず閉めた戸の向こう側で、それでも律儀に頭を下げる慧音の姿が脳裏に浮かび、私は逃げるように踵を返した。
* * * * *
数日が経った。
朝も早くから輝夜と実に非生産的な運動に勤しんで、私は壮絶にボロボロな格好で家路を辿っていた。
見上げれば今日もまた曇天である。降りそうで降らない、而して晴れる事もしない人を苛立たせるツボを心得た空模様が数日前から続いている。雨が降ろうが槍が降ろうが竹林に引き篭もっているだけの私には関係ないと言ってしまえばそれまでだが、こうはっきりしない天気はどうにも好きになれない。肩をすくめて視線を戻すと、相変わらず能天気に遊んでいる妖精達が居た。
この竹林に隠れ住んで何年が経つだろうか。この一帯をねぐらにする妖精達は私がこうして鬼気迫る風体で道を行く度に怯えて逃げ惑っていたものだが、慣れというのは恐ろしいもので、今では全く脅威と見做されていないばかりか、こちらに向けて手を振る妖精まで居る始末だ。「あ、妹紅さんが行く」てなものである。今もまたそんな妖精にひらひらと片手を振り返しながら、永遠亭から逃げ出す際にくすねてきた季節外れの林檎をがぶりと齧る。不味くはないが美味くもない半端な味に顔をしかめていると、我が家の前に佇む人影が視界に映った。
声を掛けようか、それとも回れ右して逃げてしまおうかと考えている内に、彼女はこちらに気付いて頭を下げた。
「おはようございます、妹紅殿。外出されていたのですね」
「ああ、うん……オハヨウ」
「そ、そんな嫌な顔をしないで頂けませんか。今日は相談ではなくてですね、お礼と報告に」
胸に抱えられた野菜入りの袋を見ながらふぅんと生返事を返して私は引き戸を開け、まぁ上がりなよと言いながらすたすたと奥へ入って行った。それでは失礼しますという堅苦しい声が背中から聞こえた。
着替えを済ませて戻って来ると、慧音は居間に一人突っ立ったまま私を待っていた。
「座ってりゃいいのに」
言いながら腰を下ろすと、慧音はようやくいつものように正座した。
疲れないのだろうか。どうにも真面目過ぎるというか、きっちりし過ぎていると私は思う。言葉遣いにしてもそうだ。敬意を払ってくれているのは解るが、私としては老人扱いされているようであまり良い気分はしない。尤も、私がそう言うと慧音は決まって「礼儀ですから」と答えるので、最近はもう諦めかけている。
「ところでどうしたの、それ」
私は自分の手首を指でとんとんと叩いてみせた。服の袖から包帯が覗いている。一見して気付きにくいが、額にも巻いているようだった。
「怪我でもしたのかい」
訊くまでもない事を訊くと、慧音は何故か答えにくそうな顔をして、ええまあ、と言った。
「妹紅殿こそ」
「ん」
「また――戦われたのですね」
「うん」
今回は負けたわと言うと、慧音は何か言いたげな眼で私を見た。年中行事なのだからいい加減慣れてくれてもいいだろうに。
「ま、そんな事よりさ」
「……そうですね」
私が水を向けると、慧音は幾分明るい顔になって居住まいを正した。
「先日の件なのですが――何とか協力者が見つかりまして」
「へえ」
私は素直に驚いた。物好きな奴も居るものだ。「どこの誰だいそんな酔狂は」
「実は――河童なのです」
「河童ァ!?」
予想外の名前に、私は思わず鸚鵡返しに叫んだ。
「河童って――あの河童かい」
湖沼や河川で河童の姿を見なくなって久しい。とっくに絶滅したものだと思っていたが、こんな所で生きていたのか。
「ええ。彼らは妖怪の山を住処にしていまして、その内の一人が協力を約束してくれたのです」
「ほー……しかし妖怪の山って言うと、部外者は侵入禁止なんじゃなかったかい」
私に以前そう教えてくれたのは、他ならぬ慧音自身であったはずだ。疑問を率直にぶつけると、慧音はそうなのですと答えた。
「許可を得るのには苦労しました」
「苦労したって――」
真正面から許可を求めに行ったのか。
「はい。警備の白狼天狗と随分長い間根競べをしまして」
結果、監視付きで四半刻だけならば、という形で許可をもぎ取ったのだという。慧音は簡単に言うが、相手は石部金吉金兜を地で行く天狗共である。生半な苦労でなかった事は容易に想像出来る。
「……凄いな、あんた」
虚仮の一念何とやらとは良く言ったものだと思う。
「しかしどうして河童なんだい」
私は首を傾げた。河童の事は良く知らないが、印象としては朱雀なんぞとは対極にあるように思う。そう言うと、河童の技術力を借りたかったのだという答えが返って来た。
「技術力?」
「ええ。河童達は押し並べて手先の器用な、謂わば職人の妖怪なのです。その力を借りてですね、こう」
言いながら慧音は大きく手を広げて見せた。「このくらいの、大きな鳥のからくりを造りまして、その表面に妹紅殿から頂いた符を貼って飛ばそうという計画なのです」
「ははぁ」
なるほど、面白い事を考えたものだ。炎に包まれていれば遠目には細かな部分など判らないだろうし、まして相手は老人だ。通用する可能性は十分にある。
「河童ってのはそんなものまで造れるのかい」
「まあ、急造なので単に巨大な大砲のようなもので打ち出すという形式になるようですが、時間と材料さえあれば遠隔操作出来るようなものを造る事も不可能ではないそうです」
何とまあ。
「里の連中よりもよほど文明的じゃないの」
人里に下りた事はないからよくは知らないけれど。慧音は外の道具の模倣だという説もあるようですがと言ってから、とにかくと続けた。
「妹紅殿のお陰で何とかなりそうです。……本当にありがとうございます」
「あー……そう。そ、そういや爺さんの容態はどうなんだい」
人から感謝されるのは――随分と久しぶりだ。上手く返事をし損ねて、私は苦し紛れに話題を変えた。
「それが――芳しくないようなのです」
慧音は曇った顔を横に振った。
「医者の言うには、いつまで意識が持つかも判らぬ所まで来ているのだそうで」
「時間はもうないって事かい」
「はい。件のからくりは本日中には完成するという事ですので――明日の早朝には決行する予定です」
「そうかい。……成功を祈っておくよ」
私は素っ気なくそれだけを言った。
それ以上は言う義理もなければ、言える資格もない。
昼近くまで話し込んでから、慧音は「それでは」と腰を浮かせた。老人の家族や人里の協力者達との打ち合わせなど、色々とやる事があるらしい。引き止める理由もないので、まあ頑張りなよとだけ言って私は慧音を見送った。
「……どうしてそこまで出来るんだ、あんたは」
やがて林立する竹の向こうに消えた背中に、私はその場に木偶のように突っ立ったまま問い掛けた。
人間は――そんな綺麗なもんじゃないだろう。
答える者もないままに、私の声は風に巻かれて曇天へ吸い込まれていった。
* * * * *
闇の中に居た。
一条の薄明すらない。天地も左右も判然としない。
立っているのか。浮いているのか。それを感じる我が身は在るのか。
深き水底かも知れない。悪魔の腹の中かも知れない。いずれ何も判らない。
それでも、姿なき無数の気配がこちらを見つめているのは判った。
――嘘吐き。
誰かが言った。
――私を騙していたのですね。
誰かが言った。
――お願いだ、出て行ってくれ。
誰かが――言った。
――寄るな、化け物め。
――おのれ妖怪、化けの皮を剥いでくれる。
――後生ですから命だけは。
やめろ。
――気味の悪い娘。
――何とおぞましい。
――この女は災禍を呼び込みまする。
――疾く去ね、悪魔め。
――ここまでしても死なぬのか。
やめてくれ。
――あんたなんかを信じたのが間違いだった。
――死なぬ女の生き胆か、さぞかし高く売れるだろうぜ。
――お前に人間の気持ちなど解るものか。
――失せよ、妖物と交わす言葉などない。
――信じていたのに。
――二度と村に近付くな。
やめろやめろやめろ――。
――哀れな女よ。
「――あああああぁああぁああああぁぁぁぁッ!!」
絶叫と共に――私は闇から抜け出した。
しつこく手足に絡まる布団を壁に蹴り飛ばして立ち上がり、額に浮いた玉の汗を拭う。暗がりに何度も足を取られながら台所へ駆け込んで乾いた喉に水を流し込み、甕に両手をついたまま眼を閉じていると、狂ったように暴れていた心臓がようやく落ち着き始めた。
「くそ……」
私は力なく悪態を吐いた。自分の声さえ頼りなく霞んでゆくようだった。
起きるにはまだ少し早いようだが、もう一度眠る気にはなれない。外の空気を吸おうとして、私は先から聴こえていた耳障りな音が雨のそれだとようやく気が付いた。
覗いてみれば、外はいっそ笑い出したくなるほどの大雨である。
こんな所に飛び出した所でますます気分が鬱ぐだけだ。私はすごすごと部屋に戻り、その隅で両膝に頭を埋めた。
――胸糞の悪い夢だ。
お門違いの羨望。嫉妬、嘲弄、畏怖。侮蔑、怨憎、種々の欲念。
何も知らずに、知ろうともせずに、ただ己の感情を吐き出すだけの浅ましい人間共。
「……飽き飽きだ」
口中に苦く残る悪夢を吐き捨てて、私は薄闇の中でぎろりと両眼を開いた。
少しばかり死なないだけだ。いくらか下らない術が使えるだけだ。お前達と何が違うというのか。そう考えていた頃、私にとってこの世は生ける地獄だった。幾度も人の中で生きたいと望んだ。その度に裏切られ続けて来た。
――三百年。最早人中では生きられぬのだと、そう理解するまでにどれほどの失望と絶望を繰り返した事だろう。やがて私は悟った。あの薬を飲んだその瞬間に、私はもう、人とは呼べぬ何かになったのだと。
そうだ、私は人間じゃない。私は――蓬莱人だ。ならば浅ましく愚かしい人間などと、どうして共に生きる必要がある。哀れと言いたくば言え。化け物と呼びたくば呼べ。私はもう、何かに縛られる事はない。
そう考えるといつも心が落ち着いた。しかし今日に限っては、何故だかあの半獣の事が脳裏に浮かぶ。
「……慧音。あんたも――こっちの側の存在だろう」
何故だ。
どうして――あんたはそちら側に居る。
どうしてそこで生きていける。どうしてそこで笑っていられる。
苛々する。
ひどく不可解だ。ひどく不愉快だ。ひどく――。
「……馬鹿馬鹿しい」
私はもう一度吐き捨てた。
立ち上がって外を見る。豪雨に変わりつつある雨勢に反して、外は随分と明るくなっていた。
この天気でさえなければ、今頃は例の計画を実行している時間だろう。
『それが――芳しくないようなのです』
慧音の言葉をふと思い出す。
『いつまで意識が持つかも判らぬ所まで来ているのだそうで』
随分と曇った顔をしていた。
『明日の早朝には決行する予定です――』
雨音が、煩い。
「……まさか、な」
私はごろりと横になった。
関係ない。どうでもいい。好きにしろよと呟いた。老人の事も、慧音の事も――私の知った事じゃない。
* * * * *
強い風を伴い、季節外れの豪雨はますます勢いを増していた。どっちつかずの曇天が、溜めに溜めた雨水を一気に放擲しているかのようだ。
この分では、川は間違いなく氾濫しているだろう。しばらくは飲み水に困るな、と私はぼんやり考えた。
逃げ遅れた妖精が可愛らしい悲鳴を上げながら飛ばされていった。
「はは、馬鹿だな」
少し笑って、私は額に張り付いた髪を掻き揚げた。
「――馬鹿は私か」
天辺から爪先まで水浸しになって、私は一体何をやっているのだろうか。
体調の事など気にしないから、雨具の一つも持っていない。結果がこの有様である。無論解っていた事だが、ここまで濡れると流石に不快感は拭えない。
「よっ……と」
それでも、見ている者が居ないというのは気楽で良い。風雨にしなる竹から竹へはばかる事なく飛び移りながら、私は内心妙な開放感を覚えた。いくら迷いの竹林とはいえ深山幽谷ではないから、人間に遭遇する可能性は少なからずある。永遠亭の近辺ならば人が訪れる事はまず有り得ないが、そうでなければ矢張り人目を引くような行動は慎まなければならない。もう騒動は御免だ。ここから追い出されてしまったら――私はもう、どこで生きていけばいいというのか。
物思いに耽りながら竹を渡る内に、竹林も終わりが見えてきた。雨にけぶって見えやしないが、その向こうには人里があるはずだ。
慧音の話では――この竹林の外れから例のからくりを打ち上げるらしい。
進めば進むほど、雨に打たれれば打たれるほど、居る訳がないと思えて来る。とっとと引き返そうかと考えながら、それでも中途半端な道化にはなりたくなくて、私は結局雨をくぐって進み続けた。
人里からは丁度姿が隠せる竹林の外れ。
そこに――。
「おいおい……」
矢張りと言うべきか。まさかと言うべきか。
合羽を羽織って横殴りの暴雨と戦う慧音の姿が、そこにはあった。
気付かれぬように地面に降りて、私はそっと様子を伺った。
大砲に良く解らない改造を施したような、巨大な鉄の塊が台車に載っていた。筒の部分から話に聞いていた大きな鳥の似姿が上半身を露出させている。何本もの縄で砲身と車体を縛り、反対側の端を周囲を囲む竹に結び付けて固定していた。
里の人間と思しき男が二人、それに取り付いて何やら作業をしていた。その傍らに屈み込んで、三人とは対照的に雨風など意にも介さぬ態で工具を動かしているのが例の河童だろう。
「おい、お前達」
合羽の頭巾部分を抑えながら慧音が声を張り上げた。怒鳴らなければ声も届かない。
「もう十分だ、そろそろ帰れ。このままでは風邪で済まなくなるぞ」
「阿呆ゥな事を言わんで下さいよ」
背の低い方の男が背中を向けたまま怒鳴り返した。「こんな中にお嬢さん二人残したままスタコラ帰れますかって」
もう一人は何も言わないが、帰る気がない点では同じようだった。
「私達は平気だ。お前達よりよほど丈夫に出来ている」
「何を仰る。こういう仕事は男の役割てェのが昔からのお約束でしょう。大体先生、そう言いますけど貴方だって半分人間でしょうが。おまけにお月さんはとっくに姿を隠してるときた。尤も満月はまだまだ先ですが」
「わ、私は平気だと言っているだろう」
慧音が怒鳴る。「いいから帰れ! お前達にもしもの事があれば、私は里の皆に顔向け出来ん」
「そりゃこっちの台詞ですよ。先生にもしもの事があっちゃ、俺らァ良くて村八分ですぜ」
男は怒鳴り返す。隣の男が頷くように首を動かした。
「……お前達は……」
慧音は諦めたように首を振った。
――私は。
慧音との間に、巨大な壁が聳えているのを感じた。
それは硝子のように透明で、触れる事も出来ないけれど。黒と白の境のように、此岸と彼岸の境のように、決して越え得ぬものとしてそこにあった。
胸が苦しい。
息が出来ない。
同じように雨に打たれているのに。
同じように泥に塗れているのに。
どうして――私だけが、こんなに惨めなんだ。
――帰ろう。
このまま雨になぶられて、何も解らなくなる前に。
踵を返して去ろうとした刹那、「駄目だ」という河童の声が聞こえた。
「どうしました、にとり殿」
慧音が叫ぶ。にとりと呼ばれた河童はやおら立ち上がり、「敬語は止めてってば」と言った。
「ああ――申し訳ない。それで、にとり」
慧音は素直に従って言い直した。私は駄目で――河童なら良いのか。私は奇妙な悔しさを覚えて足を止めた。
「駄目なんだ。この雨で発射装置が完全にオシャカになってる」
「そ――それでは」
「完成を急いで防水を削ったのが裏目に出たな……これじゃ使い物にならないよ」
にとりはすまなそうな表情で首を振った。
慧音は絶句する。男達も愕然として腕を止めた。
「に――にとりさん、何とかならないのかい。もう猶予がねぇんだ。先生だって、今日まで必死で駆けずり回ってさ――」
「知ってるさ。だけどもう完全にイカれちゃってるんだよ。予備があるようなもんじゃないから、直すにしてもこの部分だけまた一から造り直さないと……」
「……」
男は二の句を継げずに黙り込んだ。代わって慧音が口を開く。
「それ以外に――方法はないのか」
「……ないよ。申し訳ないけど、徹夜でやっても丸一日はかかる。明日の朝には何があっても完成させるから、今日の所は諦めて――」
「っ……ではせめて私にも手伝わせてくれ」
「だ――駄目だよ! 私のねぐらじゃなきゃ造れないし、次に妖怪の山へ入ったら慧音、そりゃ今度こそ大問題だよ」
「しかし、明日の朝では……!」
慧音は尚も食い下がる。その姿が――私を激しく苛立たせた。
急激に、胸の内から熱い衝動が湧き上がる。
半ば無意識に竹藪を押し除け――雨が抉った地面を踏み付けて、私は四人の前に躍り出た。
全く唐突な闖入者に、背の低い男はびくりと肩を跳ね上げた。河童が「ひゅい」と妙に上擦った声を上げて大砲の影に隠れる。
「……何者だ」
長身の方の男が、勇敢にも三人を庇って私の前に立ちはだかった。喋れない訳ではないのかと私は場違いな感想を抱いて男を一瞥し、それから慧音の方へ向き直った。
「妹紅――殿」
何故ここに――呆気に取られた顔のまま慧音が問うた。
「どうだっていいだろ」
私は答えて髪を掻き揚げた。露出した額を雨が容赦なく叩く。
慧音の知り合いと判り、三人は一応の警戒を解いたようだった。
「――諦めなよ」
慧音は柳眉をしかめて私を見た。忖度せずに私は続ける。
「……見てたよ。もういいだろ。あんたはやれるだけの事をやったよ。あんたに落ち度は何もない。その上で起きた結果なら――それこそ、天命って奴だろう」
吹き荒れる風に、大砲を縛り付けた縄と竹がぎりぎりと悲鳴を上げている。雨の勢いは収まる事を知らない。強風に頭巾が外れ、雨が直に慧音の顔を打ち始めたが、慧音は意に介さず首を振った。
「……それは、言い訳です」
「慧音」
「少なくとも――私にとっては、言い訳にしかなりません。たとえ何も出来なくとも、出来る事を探す事だけは出来るはずです」
「自己満足だろう、そんなものは」
「そうかも知れません。しかしそれでも、それが実を結ぶ可能性があるならば無駄な事ではないでしょう」
「……あんたは……」
私は深く息を吐いた。
「……お人好しは、馬鹿と同義だ。あんた――馬鹿だよ。大馬鹿者だ」
数歩歩いて大砲を見上げる。火の皮を纏わぬ朱雀が虚しく出番を待っている。
「こんなことをずっと続ける気かい。何度でも。いつまでも」
そんな事が――出来る訳がない。
いつか崩れる。いつか潰れる。あんたが好きな――人間共の重圧で。
「人間なんて勝手なもんさ。いつまでも無遠慮に、どこまでも貪欲に求め続けるだけだ。応える事をやめた瞬間、掌を返して責め立てる。……そうなる前に」
やめちまえよと私は言った。
瞬間。
一際強く風が吹いて――何かが千切れる音がした。
あ、と誰かの声が聞こえた時には既に遅い。支える縄の切れた大砲は滑稽なほどにゆっくりと傾いてゆき、そして当然の結果として剥き出しの鳥を大地に叩き付けて動きを止めた。
眼を覆いたくなるような倒壊音と破砕音は、からくりが致命的なダメージを受けた事を確信させるに十分だった。
片側の翼が根元で折れ、そのまま胴体も腰の部分で真ッ二つに折れた見るも無惨な有様で、成り損ないの朱雀は慧音らをむしろ嘲笑うようにその足元に転がった。
「……そんな……」
男が潰されたような声を上げた。
狂ったような風雨の哄笑を背後に、それ切り慧音達は声もなく朱雀の残骸を見下ろす事しか出来ずに居る。
――見ただろう、慧音。
これが天命だ。
理不尽な事はある。どうしようもない事はある。
認めろ。諦める事は悪じゃない。
そうだろう。
でなければ――私は。
「……別の手段を考えよう」
協力者達を見渡して、慧音は言った。
「こうなってしまっては、この案はもう捨てるしかない。……考えよう。何か、まだ何かあるはずだ。諦めなければ、きっと――」
「慧音……!」
私は叫んだ。
何故だ。どうして諦めない。何が――あんたをそこまで動かすんだ。
「まだ解らないのか……終わってるんだよ、もう既に。諦めろ、現実を見なよ。……いや。成功するだの失敗するだの、そんなのはどうだっていい。もうやめなよ、慧音。あんたは半獣だ、人間じゃない。とっとと生きてとっとと死んでいく人間なんかに心を寄せたって、いい事なんかありゃしないぞ。あんたは――私と同じだ。あんたはこっち側なんだよ」
死に掛けの爺さんに夢なんぞ見させて何になる。それは――逃れられない業の入り口だ。
私は首を振った。
解っているのか。そうやって、これからどんどん人間共の願いを背負って行けばどうなるのか。
いずれ重さに耐え切れなくなる。いずれ心身が持たなくなる。そうして膝を折った者に人間は手など差し伸べない。待っているのは――手酷い裏切りだ。
「妹紅――殿」
「確かにそこはぬくいだろう。さぞや居心地がいいだろうさ。けどな、そいつは全部まやかしなんだよ。天国が地獄に変わる瞬間を私は何度も味わって来た。何度も、何度も何度も何度も何度も何度もだ。今なら戻れる、人間の為なんかに身体を張るのはやめろ。そんな下らない情で――」
「おいッ!!」
予期せぬ方向から怒声が響き、私は思わず言葉を止めてそちらを見た。
河童が立っていた。
何がそんなに怖いのか、ぶるぶると震える四肢を突っ張って、横殴りの豪雨を全身に受けながら私を睨んでいる。双眸が怒りに燃えていた。
「さ、さささっきから黙って聞いてりゃ、何なのさあんたは! よ、妖怪だったら人間を助けちゃいけないのか! 半獣だったら人を助けちゃいけないのか! 他人の為に何かをする事がそんなに悪い事なのかよっ!!」
「にとり……」
慧音が驚いたような声を出した。震える声で、震える身体で情けない虚勢を張る河童は、それでも眼光だけで鋭く私を射抜いた。
「私はなぁ、逃げたんだ! こっちへ来るなって石を投げたんだ! それでもこの人は、あ、頭から血を流して、全身に痣を作って、それでも自分を庇いもせずに、どうか力を貸して欲しいって言ったんだ! だから私はこの人の力になるって決めたんだ! 妖怪も人間も関係あるかッ! 誰かの為に何かをする事の、一体何が悪いって言うんだよ! これ以上私の盟友を馬鹿にするなら、わ、私は、私は! 私は、絶対に許さないぞッ!!」
にとりは――吼えた。刹那、雨の音も風の声も、その一切が消し飛んだように感じられた。
あんたも――なのか。
どうして他人の為にそこまで怒れる。あんたは河童だろうが。妖怪なんだろうが。どうして。どうしてだ。どうして――。
妹紅殿――と慧音が言った。風雨の音が戻って来る。私は何一つ言い返せぬままにそちらへ向き直った。
「妹紅殿。私は――貴女を否定出来ません。私などより遥かに長い時を生きて得た答えであるならば、それはきっと真実なのでしょう。その是非を語る事など、まして否と断ずる事など、この場の誰にも出来はしません。……貴女が受けて来た苦しみ。その十分の一、百分の一くらいは、私も解るつもりです。半獣の身となった時、私はこの世を呪いました。何が瑞獣か、何が吉祥かと。妖怪の子と排斥された事もあります。半端者と嘲笑われた事もあります。だから尚の事、私は貴女を否定する事など出来ません。貴女は――きっと、限りなく正しい。……ですが、それでも」
私は、私のしている事が間違いだとは――決して思いません。
慧音は河童と同じように、最初から最後まで、一度たりとも私から眼を逸らさずにそう言い切った。
「……妹紅殿。私は人を愛しています。そこには是も非もなければ、損も得もないのです。我が身も省みず力を貸してくれる人間が居る。そんな人間達を好きだと言ってくれる妖怪が居る。ただそれだけの事で、私は彼らの為に、心から何かをしたいと思えるのです。初めから嘘や裏切りを疑いながら、どうして他者を信ずる事が出来ましょうか。だから私は、そんな事は考えません。私はただ、今在る彼らと共に生きたい。そしてその果てに、たとえ悲しいすれ違いが起きたとしても。私は――決して諦めません」
「……あんたは……」
いつの間にか、慧音は私の手を取っていた。雨に体温を奪われて冷え切った両手が、それでも何か温かいものを私に伝えている気がした。
「妹紅殿から見れば、私はきっと青いのでしょう。甘いのでしょう。だから――人を愛せよなどとは言いません。私を信じて欲しいとも言いません。……ただ、妹紅殿。貴女が嫌った人間達の中に、例えただの一人でも、貴女の味方になってくれた人がいたのなら。その人の事だけは――どうか嫌いにならないで欲しいのです」
慧音は私を見ている。
にとりが、男達がこちらを見ている。雨の事など、誰もが忘れている。
――解ってるよ。
解ってるんだ、そんな事は。
何人も居たさ。裏切り者と罵られ、騙されていると決め付けられながら、それでも私を信じてくれた人間達は。けれど。
私はそれらを正視出来なかった。人間共という乱暴な枠の中に無理やり押し込めて、最初からなかった事にしていた。
だって。そうでもしなければ――あまりにも哀しいじゃないか。
私が去った後、あいつらは村で、里でどんな扱いを受けただろう。それを思うだけで心が軋む。何一つとして私は知らない。私に解るのは――少なくとも私が居た事で、確実に彼らの人生を歪めてしまったという事だけだ。
「……なあ、慧音」
「はい」
「私は化け物だよ」
「……貴女は人間ですよ」
「いくら殺しても死なないんだよ」
「それがどうしたと言うのですか」
「知られるのが怖い。人に裏切られるのが怖いんだ。人を裏切るのが怖いんだよ」
「……大丈夫ですよ」
私の手を取ったままで。
「その時は――私が貴女を護ります」
慧音は大真面目な顔でそう言った。
「……はっ、ははは。あんたが護ってくれるかい。こりゃいいや、あっはははは!」
私は大いに笑った。笑い過ぎて涙が出た。
「……教師の癖に、ばかだな、あんた」
ああ、そうか。
そんな――あんただからこそ。
慧音の両手をそっとほどいて、私は数歩後ろに下がった。
「おい、ちび河童」
「はぇ!? な、何だよッ」
唐突に呼ばれて、にとりがびくりと肩を跳ね上げる。
そのまま私は眼を瞑った。
気息を整える。
全身に力を巡らせる。
木生火。火剋金。火侮水。水虚火侮。生まれ生まれ生まれ生まれよ炎。
足元から火焔が巻き起こる。私を包んで朱の鳥となる。
うわッと男達の驚く声が聞こえた。慧音が何事かを叫んだ。
「あんたらも良く見ときな。藤原妹紅様のとっておきの大技を。フェニックス再誕――いや」
――朱雀再臨だ。
全身に漲る力に任せて――私は飛んだ。
空を蹴る。宙を舞う。
雨を吹き飛ばし風を我が物とし、炎を友とし願いを力として私は翔けた。
瞬きの間に竹林を抜けて人里へ至る。大気の裂ける音はまるで朱雀の鳴き声のようだ。
いつ以来だろうかと私は呟く。
敵の為でなく誰かの為に。
殺す為でなく生きる為に。
怒る為でなく笑う為に。
過去の為でなく明日の為に。
――見てるか、爺さん。
この紛い物の火の鳥を。
こいつは確かに偽物だ。嘘で固めた張りぼてだ。
けどな、それはこの世の何より優しい嘘だ。あんたの為に駆けずり回って作られた、馬鹿共の想いの結晶だ。
逝ッちまう前に――その眼に確と焼き付けろ。
長く長く火焔の尾を引いて、行く手を阻む豪雨を蹴散らし切り裂きながら飛ぶ。この程度の雨で消えるほど――安い炎じゃない。
言葉に出来ない無数の想いが私をただ前へ前へと突き動かしている。私は今どんな顔をしているのだろう。自分でも判らぬままに、私は人里の空を縦横無尽にただ飛び、舞い、翔ける。
最後に一際大きく火の輪を描き、私はそのまま天へと舞い上がった。
黒雲を突き破り、その向こう側へと飛び出し――そこに煌々と輝く太陽を見た瞬間、私は息をする事も忘れて動きを止めた。
――そうか。
そうなんだな。
見えないだけで。気付かないだけで。
黒き暗雲の向こうにも――いつだって陽はあるのだ。
人間だとか妖怪だとか、そうした事で悩み続ける自分が、途端にひどくちっぽけなものに思えた。
「くっ……くっくっく」
私は何だか吹っ切れて――腹を抱えて笑った。
今更、人の中で生きる事は出来ない。今更、人を信じ切る事は出来ない。そんな勇気は、矢張り私には持てないけれど。
――慧音。あんたがこの里で生きる為の手伝いなら――してやってもいい。
くっきり見えていた筈の太陽は、何故だか徐々に滲んでゆくようだった。
* * * * *
「あー……」
窓の向こうに広がる憎たらしいほどの青空を仰向けのまま見つめて、私は気の抜けた声を上げた。
「だらけてるねぇ」
上から声が降ってくる。いいだろ別にと答えて私は半身を起こした。
「まだ早朝じゃないか。ていうかね、さっきからうるさいんだよがちゃがちゃと。私の睡眠を妨害しに来たのかあんたは」
「あんたじゃなくてに、と、り。いいじゃんか、どうせいつも不摂生やってるんだろ。土産も持って来てやったんだから我慢してよ」
訳の解らない工具をどっさり抱えてやって来た河童は、こちらを見もせずに言い放った。人見知りの妖怪かと思えば、一転まるで居直り強盗のような図々しさだ。最も訳が解らないのはこいつ自身だと私は思う。第一、胡瓜ばかり山ほど貰っても、輝夜の寝込みを襲ってその口に詰め込めるだけ詰め込むぐらいしか用途が見出せない。尤も、私にそれを渡した時の断腸の思いだと言わんばかりの表情を見ては、こちらとしてもただ黙って押し頂くしかない。
「……何造ってんの」
何とはなしに尋ねると、にとりは待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせて、私には寸毫たりとも理解の及ばぬ世界の言語でべらべらと解説を始めた。ひとしきり聞いた後、私は深く頷いて言った。
「全然解らん」
「だと思った」
「何だと」
けらけらと笑って、にとりは帽子のつばを軽く上げた。
「まあまあ。私のクリエイティブなスピリットを感じて頂ければこれ幸い」
「栗だかエイだか知らんがさ……」
二度寝は望めそうにもないので、私はやむなく立ち上がって腰を伸ばした。にとりはそこで何かを思い出したように手を止め、私を見上げて「そうそう」と言った。
「例の爺さん――回復したってさ」
「は?」
「ばっちり見てたらしいよ、妹紅の朱雀。あれ見た瞬間、死に掛けてたのが嘘みたいに気力が戻って来たんだってさ。毎日竹林の方向いて遥拝してるって」
「な――」
何だそりゃ、と私は呟いた。にとりはどこか優しげな瞳で、命を救っちゃったねぇ――と言った。がしがしと頭を掻いたまま、私は何と言っていいか解らず黙り込んだ。呆れていいのか。喜んでいいのか。そもそもそんな資格はあるのか。
「難しい顔してるねぇ」
言って河童はがらくた弄りを再開した。「嬉しい時はさ。喜べばいいんだよ」
「……でも、私は」
何をした訳でもない。
「したさ」
はっきりとした声が私の耳朶に触れる。
「誇っていいんだ。妹紅は慧音を助けた。爺さんを、爺さんの家族達を救った。妹紅だから出来たんだよ」
流石は私の盟友だ。
ねじをきりきりと締めながら、にとりは当たり前のように言った。
「……盟友?」
「盟友の盟友は盟友だろ?」
当然だろうと言わんばかりの顔でにとりは私を見る。何と乱暴な論理だと思いつつ、私は何故か悪い気のしていない自分に気が付いていた。
「……めいゆう、ねぇ」
敷きっ放しの布団にごろりと転がって、私は再び仰向けに窓の外を見つめた。
* * * * *
昼近くになって玄関を叩く音が聞こえたので、私は相変わらずがらくたと格闘しているにとりを置いて玄関へ出た。
「こんにちは」
「やっぱりあんたか」
最近随分顔を合わせる事の多くなった慧音に片手を挙げて招き入れる。慧音は相変わらず堅苦しく頭を下げた。
「にとりはもう来ていますか?」
「朝も早くから叩き起こされたよ。何だ、二人して何かある訳?」
「大した事ではないですが――お邪魔します。にとりから聞いていませんか? 先日のお礼も兼ねて妹紅殿に昼食を振舞おうと、そういう話なのですが」
「……初耳だよ。ったく、あの河童……ま、そんなら大歓迎だ」
持つよと言って私は半ば強引に慧音の抱える荷物を奪った。
「あー……慧音」
恐縮そうにしている慧音を見て、私は足を止めた。
「はい、何でしょう」
「そろそろ、敬語を使うの止めてくれないかな」
「妹紅殿、それは――」
「……にとりが言うにはさ」
両腕に抱えた野菜を見たまま私は言う。
「盟友の盟友は盟友なんだとさ。……てことは、その。盟友の盟友は、盟友なんだろ。……だったら」
言葉が途切れ途切れになる。やっぱりいいやと言い掛けて、私は慧音と眼があった。
「――はい」
慧音ははにかみながら、善処しますと言った。
それがどうにもらしくて――私は思わず笑ってしまった。
置き去りにして来たにとりの呼び声が聞こえる。はいはいと返事を返して、私達は再び歩き出した。
了
まず、極端に改行が少ない箇所がありますよね。これって意図的なのかも知れないですが、
読んでて若干疲れてきます。
後は個人的な意見ですが、文章がくどく感じました。
語句の選択がとても的確で、会話文なんかもすごく上手だなぁ、と感じる反面、もう少し
そぎ落としてもいいんじゃないかな、とは思いました。
繰り返しになりますが、せっかく良いお話なのにもったいないなぁ、が正直な感想です。
>生半な苦労でなかった事は容易に→生半可な、ですね。それとも略語かな?
妹紅の心理状態がわかりやすかったし、少ない場面でもにとりがいい味だしてたと思う。
慧音はマジで嫁にしたいのに俺にはもったいなさ過ぎてそんなこと口にも出来ないレベル。にとりもすっごい良いやつだった。さりげなく妖精も可愛いv
読後感も非常にさっぱりしてて、今、なんだか爽快な気分でござる。
文章にも破綻が無いし、読み応えがありました。
改行が少ない、文章がくどいとおっしゃる意見もありますけど、私は全くそうは思わなかったですね。
むしろ、創想話全体の傾向としてやや軽めの文体が多くて物足りなく思うことがしばしばですので、くどすぎるぐらいくどくても良いと思いますよ。
内容はもう、個人的にすごく好きなタイプのお話でした。
個人的に、年長の妹紅が生き方に逡巡し、年若い慧音に諭されるという構図には違和感があるのですが、
このお話では慧音の青さ、妹紅の経てきた時間の長さも考慮した上での展開なので、十分に納得がいきました。
読後の晴れやかさといったらありませんね。
そしてなんといってもにとりの存在が魅力的でしたw
可愛すぎますよ、このにとり。