わたしは彼女の心に暗く棘のある花の、咲き誇るのを見たことがある。紅く蒼く煌めくそれらを、わたしは畏怖とともに覚えている。それはわたしの原体験であり、恐怖であり、そして思慕の所以でもある。そのことを思い出すたび、わたしたちは姉妹なのだと思う。例え片方は心を視、もう片方はその天敵であろうとも。わたしたちは姉妹なのだ。
わたしがやがて妹となる存在と出会ったのは遙けき昔、とある農村でのことだ。
乾いた冷たい風が吹きおろすため、作物がろくに収穫できないこともしばしばであり、人間がただ惨めで、卑屈であることしかできない土地柄にあって、いよいよ地養が乏しく、貧しいとされていた場所だった。そのため近隣の村々からは最貧の村と呼ばれていた。
別にどこかの物好きが、斯様な土地に村を立てようと考えたわけではない。歴代の統治者さえ望みなしであると捨ておいてきたような荒れ野であった。そんな場所に敢えて村を立てたのには当然ながら理由があった。
この村に限らず、元々寒さの厳しい土地柄である。ある程度は品種改良を重ねてきたとはいえ、ほんの僅かな自然の気紛れで、作物は容赦なく枯れ果ててしまう。それでも歴代の為政者たちは税を徴収せねばならず、農民たちとの軋轢に悩まされ続けてきた。そんな状況を打開すべくある為政者が一つの策を思いついた。何とも馬鹿らしいと思うのだが、人間というのは騙されてしまうものらしい。
その策とは故意に最貧の村を作るというものだった。免罪と引き替えに半ば強制で連れてこられた犯罪者たちを集め、作物のろくに育たない土地に住まわせる。子孫末代に至るまで土地を離れることを許さず、汚れた身分であると殊更に流布し、不作の時でも容赦なく税を取り立てたのだ。すると近隣の村や里も不平をもらさず、税を供出した。見下げ果てた身分のものに負けたくないという見栄らしい。また為政者はそういった感情を大いに喚起した。
馬鹿らしいと思う。税を供出したせいで少なからぬ餓死者が出るというのに。一部の為政者の掌に踊らされ、下々のものはそれさえも厭わなかったのだ。村同士は疑心暗鬼をむき出しにし、当然ながらそこに住むものたちさえも、鋭い棘を容赦なくぶつけあった。夫婦仲は険悪となり、子供は泣き叫び、赤子や老人たちが容赦なく捨てられた。
あるいはそんな感情の渦からわたしは生まれたのかもしれない。それ以前の記憶が全くないから。でもそんなこと構いやしなかった。わたしは薪や食料を求めて山に入ってくる人間にぬるりと姿を表し、その心を暴き立て、自らに写して、ありのままを少しだけ誇張してきかせてやった。隣家の娘への邪な思慕、ほんの少しだけ土地が広いだけで威張っているものへの嫉妬、子供のうち誰を捨てるべきかくじ引きで決めようとする不実さ。ありのままに語ると彼らは泡を食って逃げ出していく。わたしはそのような人間を見るのが大好きだった。心が満たされ、腹がいくらでも膨れた。妖力が増し、心の更に奥深くまで読めるようになったし、変化の術もいくらか身につけた。するとわたしはいたいけな少女の形を好んで取るようになった。それが人間を一番、驚かせることができるからだ。
結論から言えばわたしは些かやり過ぎた。心を読む怪物の噂が為政者のもとに届き、領民の気持ちを更に逸らす機会だと考えられ、一角の僧侶を送り込まれた。わたしは彼らの心を読み、慌てて土地を離れた。不意をついて驚かすのは得意だったけれど、修行を積んだ僧侶とまともに戦えるほどの強さは身につけていなかったからだ。
これからはもう少し気をつけて行動する必要がある。最小限の食事を採り、噂がこもらないうちに移動しながらそろそろと暮らすべきだと思った。そうして最初に辿り着いたのが、数々の噂に上っていた最貧の村であった。
ここにはどのような虚飾が満ち溢れているのかと、わたしは村の外れからこっそりと様子を窺った。すると驚くことに、村人たちはこれまでに訪れたどの村のものたちよりも肥え、血色も芳しかった。子供や老人たちさえ、それなりの栄養状況を保っていた。他の村が不作による飢饉に悩まされているというのに。
その理由は薪を求めて山に入ってきた人間の心を読んですぐに分かった。彼らは為政者から余裕で生活できるほどの食料を供給されていたのだ。あまつさえ酒や煙草、緑茶といった高級品でさえ嗜んでいることが分かった。
よくよく考えてみれば当然のことであった。寒く枯れた土地で本当に最貧を強いられているのならば、全てをかなぐり捨ててでも逃げ出すものが現れるかもしれない。それはやがて他の村に伝播し、支配構造を崩してしまうかもしれない。その代わりに甘い餌で釣り、最貧の村という実態が決して漏れないようにする。そのために村人は汚れていると殊更に飾り立てたのだ。そうすれば他村との交わりを断つことができる。犯罪者の末裔であるという謂われも偽りで、この村は地位が低いながらも支配階級のものたちで構成されていた。
なんともはやだ。わたしは心の中で呟き、山に入った。ここで幸福な最貧者から心をかすめ取りながら生きるのは危険だ。僅かな異変ですら、為政者たちは躍起になって排除するだろう。ここは税制が成り立つための、戦わざる砦だから。
それでも二、三人くらいなら問題ないだろう。そう判断するとわたしは身を潜める場所を探そうとして。血と生臭さを同時に放つ行き倒れの人間を嗅ぎつけた。獣に襲われたにしては妙な臭いだと思いながら近づき、わたしは思わず顔をしかめた。獣の仕業にしてはあまりに痛めつけらていたからだ。仰向けにするとその無惨はいよいよむき出され、無言でわたしに示してきた。
おそらく人間の女性に違いないそれは、全身に暴力の跡があった。道具を使ってつけられた傷も多かったから人間の仕業なのだと今更ながらに気付いた。誰かは分からない。おそらく複数の人間でよってたかってやったのだろう。顔はどす黒く腫れ上がり、半開きにされた口の中にはまともについている歯が一本もなかった。右目が抉り取られ、血が涙の跡のように固まっていた。
同種をここまで酷く壊せるなんて、なんともはやだ。あるいは数が多ければ、こんなことになって良いものが出てくるのだろうか。気違い沙汰だと思いながらもう一度だけ視線を寄せ、その体がぴくりと動くのを見た。これだけされても生きているなんて、人間は思ったよりもしぶといのだと、そんなことを考えながら力を向けた。これだけされた人間が何を考えているのか興味があったからだ。
そこにあるのは断片化されきった心と、補うように隙間を埋める灰色の虚無であった。要するに何も読めず、何も分からなかったのだ。人間は普通、死の間際に感情を爆発させる。悪あがきのように取り乱し、あるいは生涯ほどの想いを一度に体験する。その煌めきはあまりにも目映くて、とてもではないけれど一度には見切れないものなのだ。しかし目の前の女性には何もなかった。心なく、ただ力尽き果てたのだ。微かに安堵の匂いが感じられたけれど、そんなものは多者の他者になすりつけられた臭いのせいですぐに消えてなくなった。
得も言えぬ嫌悪感を覚えたけれど、同時に強い興味がわいた。どうすれば死の手前、一瞬の輝きすらも訪れないほどに心を壊すことができるのだろうか。人間を驚かせるよりも、そのことを探るのが先決だと思った。
だからわたしはそろりと村人たちの合間を縫い、情報を集めた。最初のうちはそれらの誰からも、凶暴の兆候は見られなかった。もちろん他の村と同じよう、喜怒哀楽は割と剥き出しであったけれど、それはどこでも同じであったし、食糧的に恵まれている分だけむしろ穏やかでもあった。夫は妻と子供を思い、妻は夫を立て、子供は拙いなりに大人になろうとしていた。一人の女性をあそこまで壊す残虐など感じられず、もっと特別な何かが起こったのであって、村人の仕業ではないのかもしれないとさえ考えるようになった。
そうしてようよう、冬も深まり始めた頃、ある単語が邪な感情とともに引っかかってきた。
それは祭りという言葉であり、濁った意図であった。この村では他村よりも下であることを示すため、祭の類は禁止されている。最貧の村であることが偽りならば、それ以外にいくらでも嘘があっておかしくはないけれど、しかし祭りはとかく目立つものである。そんなものを起こしても良いのだろうか。先行く男の心をより強く見据えると、答えはあっさりと出た。妻や子供を思いながら、同時に胸中をくすぶる暗い感情。そのどちらも併せ持ち、平然としているのが人間だと思うと、わたしの中に愉悦にも似た気持ちが沸いてきた。
人間というものは面白い。もっと知って、深く深く暴き立てて、驚かせて、より美味しく心を戴きたい。そのためには祭りの一部始終を観察し、心の狂い立つ様を観察するべきだと思った。
心を読めれば忍び込むことも、死角に潜むことも自由自在だ。わたしはなんら苦労することなく、村で一番大きな家の、隣に立つ倉らしき建物にこっそりと忍び込み、祭りが始まるのを待った。夜も更けた頃、暗い意識は示し合わせたように集まり、松明の光と欲望の灯を煌々と放ち始めた。やがて扉は開き、恰幅の良さそうな男ーー村長の息子であるようだったーーがまず入ってきた。その手は無骨な鎖をつかんでおり、その先には目隠しと手枷足枷をされた、未成熟の女性がいた。彼女の心はあまりにも分かりやすく恐怖に染めあげられており、そしてこれから起きることを何も知らないようであった。
続いて男たちがぞろぞろと登場し、あちこちに備え付けられていた燭台に火が灯されていった。女は手枷足枷、続いて目隠しを外され、建物の中にあって自由を取り戻す。安堵の息をつきかけ、しかし大勢の欲望に満ちた心に曝され、しゃっくりのような悲鳴をあげた。
男たちは女を捕まえる。そうして欲望をぶつける。それは股の間から強烈に放射されていて、わたしにとっては息苦しいほどだった。いつもはひそやかに隠されている心があまりにも剥き出しになり、容赦なくわたしに見せつけてくる。そう、彼らは見せたいのだ。迸る欲望を。だからこそ数を揃えて同じことに興じる。だからこそ祭りなのだ。限りなく外に解放されるのではなく、内にこもっていく解放。これもまた一つの祭りの形であることをわたしは男たちの狂騒、女の怯え方から学んでいく。束ねられた欲望は一つのうねりとなり、始まった頃には各々の中にあった少なからぬ良心や躊躇さえ押し流し、一つの情念に固着していた。女を捕まえろ、犯せ、痛めつけろ。
この中で異質なのはたったの三つだった。これらの行為を後学のために覗き見るわたし、怯え惑う心、そして一連の騒動を後ろのほうでにやにやしながら見守る祭りの主催者だ。彼はこの祭りを心の底から楽しんでいた。女が犯されることはもちろんのこと、狂騒する男たちにも限りない愉悦を浮かべていた。愚かさをあざ笑い、その上に虚栄心の城を築いていた。まるでわたしのように。いや、わたしよりも多くの心を一つにつかみ、貪っていた。わたしは一瞬、こいつがわたしと同種なのではないかと疑ったけれど、彼はわたしの心を読めなかった。この悪行を偏く暴き立てると強く念じてさえ、眉一つ動かさなかったからだ。
彼はこうなる状況に人々を誘導したのだ。そうして予想通りになったから喜んでいる。心を読むことなく知性だけで同じようなことを成し遂げているのだ。人間ながら怖ろしいなと一瞬だけ思った。
そんなことを考えている間にも祭りは次の段階に進みつつあった。女は随分と抵抗したけれど、男たちに捕まり、衣服を全てはぎ取られてしまったのだ。すると男たちの一人が服を脱ぎ捨て、上にのしかかった。荒い息と抗うような泣き声が混ざり、情念のこもった臭いが立ちこめ始めた。女は与えられる様々な刺激に嫌悪し、混乱し、怖気を発した。また同時に快楽を覚え、押し流されそうになっては必死に怒りや嫌悪を補強した。しかしそれも三人、四人と続くうちに弱くなり、後には諦念と快楽への屈服が勝っていった。祈りのような嘆きが時折混じりながらも、心は徐々に灰色へと濁り、ざらざらとして平板になっていった。心が壊れていく瞬間をわたしはありありと見て取っていた。こうやって壊すことができるのだと知り、わたしは興味津々で祭りを注視していた。この経験はわたしをより強くするのだと思った。人間の心をわたしは一秒ごとに学んでいた。もう少しで愉悦のために笑ってしまうところであった。それほどに人間は、人間は楽しかった。面白かった。面白くて涙が出そうだった。
そうして一刻ほどが立ち、祭りはふいに終わった。男たちは先ほどまでの興奮が嘘のように罪悪とやるせなさを心に浮かべ、衣服を着てそそくさと立ち去っていった。あとにはわたしと情欲の臭いにまみれた女、そして全てをじっくりと眺めていた主催者だけが残っていた。
女の心は壊れ、しかし微かな希望を帯びていた。これが終われば帰ることができると伝えられていたからだ。最後に残った男はゆっくりと近づき、よく頑張ったと声をかける。あと一人分に耐えれば、故郷に帰ることができると囁く。しかし女の安堵は一瞬でつんざくような悲鳴に変わった。男が右目を指でひっかけ、無造作に抉りだしたからだ。
新しくできた穴を使って行為を終えると、男は手の指を一本ずつ丹念に折っていった。次いで顔をぐしゃぐしゃに殴りつけ、歯を手で一本ずつ抜いていった。男の嗜虐はもはや空かと思われた女の感情を容赦なく引きずり出していた。あまりの痛みによる絶望で灼き尽くされ、その熱でわたしは焼かれるところであった。しかしそれも蝋燭の最後の炎であって。心は見る見るうちに凪ぎ、完全なる抜け殻だけがそこに残った。
男はそのことに心底の満足を浮かべると、次には暗く残虐な欲望を収めていた。妻と子供のことを愛しいとさえ考えていた。
わたしはこの祭りがそのために企画されたのだと知った。村の男たちのはけ口と称して、己が平常に暮らすために邪魔なものを凝縮してぶつけているのだ。全てが終わると男たちが入ってきて、顔をしかめながら女を運んでいく。嫌だけどここまで暴力を振るうことのできる主催者の男が心底怖ろしくて逆らえないからだ。
わたしは後を追い、女が投げ捨てられるのを確認すると虫の息である彼女に近づいた。人間は脆いように見えて意外と頑丈だ。ここまでされてももうしばらくは死ねないだろう。わたしに人間の心を見せてくれたせめてもの餞として、死にたいならばとどめを刺すつもりだった。
そのとき、女が腫れ上がった瞳を微かに開いた。そうしてわたしの顔を見て。燃え尽きたはずの心を華やかに燃え上がらせたのだ。故郷に置いてきた愛すべきもの。旅立ちの前にかわした濃厚な愛の言葉と行為。あまりにも強い祈りと助けを求めて必死に縋りつく願い。しかし次の瞬間にはわたしへの鮮やかな憎悪に変わっていた。わたしがあそこに潜みながら何もしなかったことを見抜かれたのだ。彼女はわたしと同じものだった。いや、死にゆく間際にそう成ったのだ。
まずいと思ったときには遅かった。わたしは彼女が持っていたあらゆる気持ちを爆発的にぶつけられた。心を読むわたしの能力はたやすく打ち破られ、それでも心は容赦なく投射された。彼女がわたしの中にするすると入り込み、わたしはもはや彼女でしかなくなっていた。
それから三月かけてわたしは全てを無に帰した。彼女の力を使えば簡単なことだった。まずはこの村の実態を暴き、他村の不満を殊更に煽り立てた。そうして彼らの心に、巧みに暗い感情を織り込んでいった。殺せ、犯せ、奪え。だから一月後、いくつもの村が共同してあの村に押し入ったとき、そこには阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。殺されない男はおらず、犯されない女はいなかった。子供は卑しい犯罪者の子孫だからと容赦なく駆逐され、かくして欺瞞の村は滅んだ。あまりにも暗い感情が村を包み込み、それがあまりにも心地よくて、美味しくて、わたしは村の外れでけらけらといつまでも笑い続けた。心を読めることの楽しみをわたしは味わい尽くしたいと思った。
復讐なんかどうでも良くて、だからわたしは農民たちを扇動し、この仕組みを作った為政者たちと戦争をさせた。残念ながら農民たちは負かされてしまったのだけれど、これだけの騒動が起これば、お上のお偉方が黙っているはずもない。為政者たちは領地や領民、各々の特権をはぎ取られ、腹を切ったり放逐されたりした。そうして全てが終わり、わたしはやるべきことをやり尽くした。
でも、これからだと思った。これからわたしは同じようにしていくつもの仕組みを破壊する。そうして心を食い、怖れに身を浸そう。怖れられれば、わたしは誰にも何もされない。安心して生きていける。何よりも楽しい。心を読んで、苦しめることは楽しい。さあ、行こう。
でも、どこへ行けば良いのかわからなかった。わたしはここ以外の場所を知らなかった。だから本当に途方にくれてしまった。誰かが助けてくれれば良いなと思ったけれど、でもわたしはそれを知らなかった。
助けて欲しかった。誰でも良いからわたしを支えて欲しかった。優しくして欲しかった。愛が欲しいと思った。わたしは誰かに愛されていたはずなのだ。どこかにわたしを愛してくれる人がいるはずなのに、どうしても思い出せなかった。だからわたしは必死に心を探り、縋り、見つけだそうとした。
それと同時、わたしは弾き飛ばされると思うくらいの衝撃を覚え、切れた糸のようにぷつりと意識を失った。
まるで長い夢を見ているようだった。わたしが積極的にことを成し、何かを滅ぼしてしまったような気がした。それが夢なのか真なのか、わたしは確かめようとして身を起こし。その視界の先に、何者かが倒れているのを見つけた。もしやあのとき壊された少女なのか。わたしはほんの一夜ほど意識を失っただけなのかもしれない。そう願いながら、わたしは彼女に近づく。
願いも空しく、彼女は全く別の存在であった。そこには些かの傷も見つけることができなかったからだ。しかしあの彼女と似ているところもあった。心がざらざらと濁り、いかなるものも読みとることができなかったのだ。
ことの次第を確かめたくて、わたしは彼女を揺り起こす。すると微かなうめき声をあげながら、ゆっくりと立ち上がった。その身にはやはり傷一つなく、その肌は雪のように白くてきめ細やかだった。器量の良い顔立ちだけれど、どこか異人じみた印象を受けた。
彼女はぱちぱちと目を瞬かせてから、わたしのことをじっと覗き込んできた。そしてわざとらしく柏手を打った。
「わたしはわたし。わたしもわたし。おかしいことになってるわ」
まるで謎かけのように言ってから、彼女は怖れる様子もなくわたしの顔を覗き込んできた。そしてはてなと首を傾げた。
「おかしいわ。わたしが何を考えているのか分からないなんて」
その物言いで、わたしは初めて彼女が何であるのか朧気に分かった気がした。しかし確信を持てなくて、わたしはかまをかけるようにして、自信を装って断言した。
「あなたは、わたしではないわ」
すると彼女は疑うようにわたしの瞳をじっと見据えてきた。
「それならば、わたしは誰? わたしがわたしでないのならば」
彼女はわたしと共にあり、峻別された何者かだ。だからこそ彼女はわたしを分かつことができない。それならばどうすれば良いのだろう。わたしではないわたしを他とする手段があるのだろうか。
その方法を、わたしはこれまで餌としか考えていなかった人間から見出すことができた。彼女がわたしに投射されたから、こんなことを考えついたのだろうか。そう思うと気分は良くなかったけれど、他に方法もなさそうだったので、わたしは人間の習慣に倣った。幸いにしてわたしは彼女にふさわしいものをすぐに思いつくことができた。
「あなたはこいしよ」路傍に転がるもの。心を投射しても、何も返ってこないもの。わたしの対存在、互いに羨み怖れるべきものとして、これ以上の名前はないと思った。そしてわたしは名前によって、彼女を明確に峻別することができた。「わたしはさとり」
「だから、わたしたちは違うものなの?」彼女ーーこれからはこいしと呼ぶべきものはしばし俯き、その考えを咀嚼したのち、小さく頷いてみせた。「なるほど。わたしはこいし、あなたはさとり。だからわたしはわたしじゃない。あなたなのね」
わたしは頷いてその思考が正しいことを示す。
「よく分かったけど、分からないわ」相矛盾することを言い、こいしと名付けた対象は腕を組み、首を傾げた。「わたしはどうすれば良いの?」
「知らないわ。わたしはあなたではないのだから」わたしは突き放すように言うと、素っ気なく付け加えた。「あなたは既に目的を果たした。あなたを苦しめたものたち、その仕組みは崩された。最早、何もすることがないのね」
「そうみたい。だから、わたしは訊ねるの。わたしより長く生きているあなたなら。わたしに何かを教えられるのではなくて?」
「知らないわ。わたしは人間の心を読み、脅かすことで糧を得る妖怪だから。それ以外の生き方を知らないのよ」
別にそれで困らないし、これからもそうして生きていくだけだ。ただし、ここに留まるのは危険すぎる。こいしとしてのわたしが、この辺りの秩序を完全に狂わせてしまったからだ。圧政による反乱と捉えられる可能性が高いけれど、裏に潜む魔を勘ぐられているかもしれない。
「ただ一つ言えるとしたら、近いうちにここを離れるわ」
「そう。なら、わたしも一緒に行く」
「どうして?」わたしは彼女に側にいて欲しくない。だから冷たく問い質した。「あなたはなにものからも自由なのに」
「だからこそよ。だから、一緒に行くの」そういって、彼女は屈託のない笑みを浮かべる。「わたしはあなたが好きだから」
「わたしはあなたのことが嫌いよ」いるだけでざわざわとして落ち着かない。それにわたしは彼女の言葉を信じられなかった。「わたしはあなたのことを一度見捨てたのよ? それでも好きと言えるわけ?」
「そうね、人間の気持ちならば怒ったかもしれない。でも、他人の心を読むことを知った今なら、そうした理由が分かる。むしろいま、心を読めないのが悔しいくらいだわ。どうしてわたしは力を失ってしまったのかしら」
「それは……」わたしにもよく分からなかった。でも、何となく推測はできた。いや、心の中ではそうだと確信しているから、きっとそうなのだろう。しかし、わたしは何故かそのことを彼女に話すことができなかった。「ごめんなさい、よく分からないわ」
「そう。でも、わたしはあの感覚を知っている。だからいつか、取り戻すことができるはずよ」
それは難しいだろうとわたしは思う。何故ならば、彼女は。こいしは、わたしの心の病みだからだ。わたしが忌むもの、嫌うものを想起し、切り離したものが、彼女だからだ。わたしから彼女を排除するために。わたしがわたしを取り戻すために。
わたしは心の目が閉ざされることを怖れる。心の読めないものを怖れる。わたしがわたしでなくなることを怖れる。だから彼女は、こいしは心の目が閉ざされている。読むべき心がない。自分が自分であると定義できない。即ちわたしの天敵なのだ。好きになれるわけがない。わたしの苦手なもの、嫌いなものを集めているのだから。
それなのに、わたしは何故か、手を伸ばしていた。切り離したいのに、退けたいのに、嫌ってしまいたいのに。わたしはこいしを厭い切ることができなかった。それは結局のところ、彼女がわたしの一部であるからなのだろうか。そこから逃れることはできないのだろうか。
「どうするの? 一緒に行くのでしょう?」
わたしがそう促すと、こいしは初めて戸惑う素振りを見せた。
「あなたはわたしが嫌いと言ったのに。どうして手を差し伸べてくれるの?」
「さあね。一人でいることに少しだけ飽きたのかもしれない」
もしかしたらそれは少しだけ本当だったのかもしれない。もちろん全てではないけれど。
「あのね、わたし……」こいしはわたしに何かを伝えようとして口ごもり。そっとわたしの手を握った。「わたし、心を読めるようになりたいわ。でも、もしかしたらあなたの心を読むのが怖くなるかもしれない」
その言葉は一つの嘘をそっとわたしに伝えていた。こいしはわたしのことを好きではないのだ。憎んではいないけれど、苦手ではあるのかもしれない。
「わたしも、そうなるかもしれないわね」
もしわたしが怖れたまま近くにいれば、こいしはずっと目を閉ざしたままだろう。だからわたしはこいしの手を払い、互いに孤独で生きていくのが一番良いのだ。そうして初めて、こいしは目を開くことができるのだから。
それでもわたしは、この手を離すのが怖いと思った。一人より二人が良いと思った。どんなに歪んだ関係であっても。歪な鏡に映ったわたしであっても。想起された幻であったとしても。いや、だからこそ怖いのかもしれない。離別は二つの道ではなく、一つの消滅でしかないのかもしれないのだから。
わたしはこいしと名付けた彼女に、わたしと同じであって欲しいのかもしれない。例え自己愛に過ぎないとしても、彼女にはいて欲しかった。
だから、手を離せなかった。
「では、行きましょうか」
「わたしたちがわたしたちでいられる場所へ?」
それはわたしたちにとって理想郷過ぎて。
そうであれかしと願っていても、頷くことはできなかった。
「ここではないどこかへ。今はそれで十分」
彼女は。もとい、こいしはわたしの言葉を噛みしめてから、小さく頷いた。
そうしてわたしたちは壊れゆく秩序に背を向けて歩き出す。その先に何があるかは分からないけれど、今はただ二人で歩いていたいと思った。
わたしがやがて妹となる存在と出会ったのは遙けき昔、とある農村でのことだ。
乾いた冷たい風が吹きおろすため、作物がろくに収穫できないこともしばしばであり、人間がただ惨めで、卑屈であることしかできない土地柄にあって、いよいよ地養が乏しく、貧しいとされていた場所だった。そのため近隣の村々からは最貧の村と呼ばれていた。
別にどこかの物好きが、斯様な土地に村を立てようと考えたわけではない。歴代の統治者さえ望みなしであると捨ておいてきたような荒れ野であった。そんな場所に敢えて村を立てたのには当然ながら理由があった。
この村に限らず、元々寒さの厳しい土地柄である。ある程度は品種改良を重ねてきたとはいえ、ほんの僅かな自然の気紛れで、作物は容赦なく枯れ果ててしまう。それでも歴代の為政者たちは税を徴収せねばならず、農民たちとの軋轢に悩まされ続けてきた。そんな状況を打開すべくある為政者が一つの策を思いついた。何とも馬鹿らしいと思うのだが、人間というのは騙されてしまうものらしい。
その策とは故意に最貧の村を作るというものだった。免罪と引き替えに半ば強制で連れてこられた犯罪者たちを集め、作物のろくに育たない土地に住まわせる。子孫末代に至るまで土地を離れることを許さず、汚れた身分であると殊更に流布し、不作の時でも容赦なく税を取り立てたのだ。すると近隣の村や里も不平をもらさず、税を供出した。見下げ果てた身分のものに負けたくないという見栄らしい。また為政者はそういった感情を大いに喚起した。
馬鹿らしいと思う。税を供出したせいで少なからぬ餓死者が出るというのに。一部の為政者の掌に踊らされ、下々のものはそれさえも厭わなかったのだ。村同士は疑心暗鬼をむき出しにし、当然ながらそこに住むものたちさえも、鋭い棘を容赦なくぶつけあった。夫婦仲は険悪となり、子供は泣き叫び、赤子や老人たちが容赦なく捨てられた。
あるいはそんな感情の渦からわたしは生まれたのかもしれない。それ以前の記憶が全くないから。でもそんなこと構いやしなかった。わたしは薪や食料を求めて山に入ってくる人間にぬるりと姿を表し、その心を暴き立て、自らに写して、ありのままを少しだけ誇張してきかせてやった。隣家の娘への邪な思慕、ほんの少しだけ土地が広いだけで威張っているものへの嫉妬、子供のうち誰を捨てるべきかくじ引きで決めようとする不実さ。ありのままに語ると彼らは泡を食って逃げ出していく。わたしはそのような人間を見るのが大好きだった。心が満たされ、腹がいくらでも膨れた。妖力が増し、心の更に奥深くまで読めるようになったし、変化の術もいくらか身につけた。するとわたしはいたいけな少女の形を好んで取るようになった。それが人間を一番、驚かせることができるからだ。
結論から言えばわたしは些かやり過ぎた。心を読む怪物の噂が為政者のもとに届き、領民の気持ちを更に逸らす機会だと考えられ、一角の僧侶を送り込まれた。わたしは彼らの心を読み、慌てて土地を離れた。不意をついて驚かすのは得意だったけれど、修行を積んだ僧侶とまともに戦えるほどの強さは身につけていなかったからだ。
これからはもう少し気をつけて行動する必要がある。最小限の食事を採り、噂がこもらないうちに移動しながらそろそろと暮らすべきだと思った。そうして最初に辿り着いたのが、数々の噂に上っていた最貧の村であった。
ここにはどのような虚飾が満ち溢れているのかと、わたしは村の外れからこっそりと様子を窺った。すると驚くことに、村人たちはこれまでに訪れたどの村のものたちよりも肥え、血色も芳しかった。子供や老人たちさえ、それなりの栄養状況を保っていた。他の村が不作による飢饉に悩まされているというのに。
その理由は薪を求めて山に入ってきた人間の心を読んですぐに分かった。彼らは為政者から余裕で生活できるほどの食料を供給されていたのだ。あまつさえ酒や煙草、緑茶といった高級品でさえ嗜んでいることが分かった。
よくよく考えてみれば当然のことであった。寒く枯れた土地で本当に最貧を強いられているのならば、全てをかなぐり捨ててでも逃げ出すものが現れるかもしれない。それはやがて他の村に伝播し、支配構造を崩してしまうかもしれない。その代わりに甘い餌で釣り、最貧の村という実態が決して漏れないようにする。そのために村人は汚れていると殊更に飾り立てたのだ。そうすれば他村との交わりを断つことができる。犯罪者の末裔であるという謂われも偽りで、この村は地位が低いながらも支配階級のものたちで構成されていた。
なんともはやだ。わたしは心の中で呟き、山に入った。ここで幸福な最貧者から心をかすめ取りながら生きるのは危険だ。僅かな異変ですら、為政者たちは躍起になって排除するだろう。ここは税制が成り立つための、戦わざる砦だから。
それでも二、三人くらいなら問題ないだろう。そう判断するとわたしは身を潜める場所を探そうとして。血と生臭さを同時に放つ行き倒れの人間を嗅ぎつけた。獣に襲われたにしては妙な臭いだと思いながら近づき、わたしは思わず顔をしかめた。獣の仕業にしてはあまりに痛めつけらていたからだ。仰向けにするとその無惨はいよいよむき出され、無言でわたしに示してきた。
おそらく人間の女性に違いないそれは、全身に暴力の跡があった。道具を使ってつけられた傷も多かったから人間の仕業なのだと今更ながらに気付いた。誰かは分からない。おそらく複数の人間でよってたかってやったのだろう。顔はどす黒く腫れ上がり、半開きにされた口の中にはまともについている歯が一本もなかった。右目が抉り取られ、血が涙の跡のように固まっていた。
同種をここまで酷く壊せるなんて、なんともはやだ。あるいは数が多ければ、こんなことになって良いものが出てくるのだろうか。気違い沙汰だと思いながらもう一度だけ視線を寄せ、その体がぴくりと動くのを見た。これだけされても生きているなんて、人間は思ったよりもしぶといのだと、そんなことを考えながら力を向けた。これだけされた人間が何を考えているのか興味があったからだ。
そこにあるのは断片化されきった心と、補うように隙間を埋める灰色の虚無であった。要するに何も読めず、何も分からなかったのだ。人間は普通、死の間際に感情を爆発させる。悪あがきのように取り乱し、あるいは生涯ほどの想いを一度に体験する。その煌めきはあまりにも目映くて、とてもではないけれど一度には見切れないものなのだ。しかし目の前の女性には何もなかった。心なく、ただ力尽き果てたのだ。微かに安堵の匂いが感じられたけれど、そんなものは多者の他者になすりつけられた臭いのせいですぐに消えてなくなった。
得も言えぬ嫌悪感を覚えたけれど、同時に強い興味がわいた。どうすれば死の手前、一瞬の輝きすらも訪れないほどに心を壊すことができるのだろうか。人間を驚かせるよりも、そのことを探るのが先決だと思った。
だからわたしはそろりと村人たちの合間を縫い、情報を集めた。最初のうちはそれらの誰からも、凶暴の兆候は見られなかった。もちろん他の村と同じよう、喜怒哀楽は割と剥き出しであったけれど、それはどこでも同じであったし、食糧的に恵まれている分だけむしろ穏やかでもあった。夫は妻と子供を思い、妻は夫を立て、子供は拙いなりに大人になろうとしていた。一人の女性をあそこまで壊す残虐など感じられず、もっと特別な何かが起こったのであって、村人の仕業ではないのかもしれないとさえ考えるようになった。
そうしてようよう、冬も深まり始めた頃、ある単語が邪な感情とともに引っかかってきた。
それは祭りという言葉であり、濁った意図であった。この村では他村よりも下であることを示すため、祭の類は禁止されている。最貧の村であることが偽りならば、それ以外にいくらでも嘘があっておかしくはないけれど、しかし祭りはとかく目立つものである。そんなものを起こしても良いのだろうか。先行く男の心をより強く見据えると、答えはあっさりと出た。妻や子供を思いながら、同時に胸中をくすぶる暗い感情。そのどちらも併せ持ち、平然としているのが人間だと思うと、わたしの中に愉悦にも似た気持ちが沸いてきた。
人間というものは面白い。もっと知って、深く深く暴き立てて、驚かせて、より美味しく心を戴きたい。そのためには祭りの一部始終を観察し、心の狂い立つ様を観察するべきだと思った。
心を読めれば忍び込むことも、死角に潜むことも自由自在だ。わたしはなんら苦労することなく、村で一番大きな家の、隣に立つ倉らしき建物にこっそりと忍び込み、祭りが始まるのを待った。夜も更けた頃、暗い意識は示し合わせたように集まり、松明の光と欲望の灯を煌々と放ち始めた。やがて扉は開き、恰幅の良さそうな男ーー村長の息子であるようだったーーがまず入ってきた。その手は無骨な鎖をつかんでおり、その先には目隠しと手枷足枷をされた、未成熟の女性がいた。彼女の心はあまりにも分かりやすく恐怖に染めあげられており、そしてこれから起きることを何も知らないようであった。
続いて男たちがぞろぞろと登場し、あちこちに備え付けられていた燭台に火が灯されていった。女は手枷足枷、続いて目隠しを外され、建物の中にあって自由を取り戻す。安堵の息をつきかけ、しかし大勢の欲望に満ちた心に曝され、しゃっくりのような悲鳴をあげた。
男たちは女を捕まえる。そうして欲望をぶつける。それは股の間から強烈に放射されていて、わたしにとっては息苦しいほどだった。いつもはひそやかに隠されている心があまりにも剥き出しになり、容赦なくわたしに見せつけてくる。そう、彼らは見せたいのだ。迸る欲望を。だからこそ数を揃えて同じことに興じる。だからこそ祭りなのだ。限りなく外に解放されるのではなく、内にこもっていく解放。これもまた一つの祭りの形であることをわたしは男たちの狂騒、女の怯え方から学んでいく。束ねられた欲望は一つのうねりとなり、始まった頃には各々の中にあった少なからぬ良心や躊躇さえ押し流し、一つの情念に固着していた。女を捕まえろ、犯せ、痛めつけろ。
この中で異質なのはたったの三つだった。これらの行為を後学のために覗き見るわたし、怯え惑う心、そして一連の騒動を後ろのほうでにやにやしながら見守る祭りの主催者だ。彼はこの祭りを心の底から楽しんでいた。女が犯されることはもちろんのこと、狂騒する男たちにも限りない愉悦を浮かべていた。愚かさをあざ笑い、その上に虚栄心の城を築いていた。まるでわたしのように。いや、わたしよりも多くの心を一つにつかみ、貪っていた。わたしは一瞬、こいつがわたしと同種なのではないかと疑ったけれど、彼はわたしの心を読めなかった。この悪行を偏く暴き立てると強く念じてさえ、眉一つ動かさなかったからだ。
彼はこうなる状況に人々を誘導したのだ。そうして予想通りになったから喜んでいる。心を読むことなく知性だけで同じようなことを成し遂げているのだ。人間ながら怖ろしいなと一瞬だけ思った。
そんなことを考えている間にも祭りは次の段階に進みつつあった。女は随分と抵抗したけれど、男たちに捕まり、衣服を全てはぎ取られてしまったのだ。すると男たちの一人が服を脱ぎ捨て、上にのしかかった。荒い息と抗うような泣き声が混ざり、情念のこもった臭いが立ちこめ始めた。女は与えられる様々な刺激に嫌悪し、混乱し、怖気を発した。また同時に快楽を覚え、押し流されそうになっては必死に怒りや嫌悪を補強した。しかしそれも三人、四人と続くうちに弱くなり、後には諦念と快楽への屈服が勝っていった。祈りのような嘆きが時折混じりながらも、心は徐々に灰色へと濁り、ざらざらとして平板になっていった。心が壊れていく瞬間をわたしはありありと見て取っていた。こうやって壊すことができるのだと知り、わたしは興味津々で祭りを注視していた。この経験はわたしをより強くするのだと思った。人間の心をわたしは一秒ごとに学んでいた。もう少しで愉悦のために笑ってしまうところであった。それほどに人間は、人間は楽しかった。面白かった。面白くて涙が出そうだった。
そうして一刻ほどが立ち、祭りはふいに終わった。男たちは先ほどまでの興奮が嘘のように罪悪とやるせなさを心に浮かべ、衣服を着てそそくさと立ち去っていった。あとにはわたしと情欲の臭いにまみれた女、そして全てをじっくりと眺めていた主催者だけが残っていた。
女の心は壊れ、しかし微かな希望を帯びていた。これが終われば帰ることができると伝えられていたからだ。最後に残った男はゆっくりと近づき、よく頑張ったと声をかける。あと一人分に耐えれば、故郷に帰ることができると囁く。しかし女の安堵は一瞬でつんざくような悲鳴に変わった。男が右目を指でひっかけ、無造作に抉りだしたからだ。
新しくできた穴を使って行為を終えると、男は手の指を一本ずつ丹念に折っていった。次いで顔をぐしゃぐしゃに殴りつけ、歯を手で一本ずつ抜いていった。男の嗜虐はもはや空かと思われた女の感情を容赦なく引きずり出していた。あまりの痛みによる絶望で灼き尽くされ、その熱でわたしは焼かれるところであった。しかしそれも蝋燭の最後の炎であって。心は見る見るうちに凪ぎ、完全なる抜け殻だけがそこに残った。
男はそのことに心底の満足を浮かべると、次には暗く残虐な欲望を収めていた。妻と子供のことを愛しいとさえ考えていた。
わたしはこの祭りがそのために企画されたのだと知った。村の男たちのはけ口と称して、己が平常に暮らすために邪魔なものを凝縮してぶつけているのだ。全てが終わると男たちが入ってきて、顔をしかめながら女を運んでいく。嫌だけどここまで暴力を振るうことのできる主催者の男が心底怖ろしくて逆らえないからだ。
わたしは後を追い、女が投げ捨てられるのを確認すると虫の息である彼女に近づいた。人間は脆いように見えて意外と頑丈だ。ここまでされてももうしばらくは死ねないだろう。わたしに人間の心を見せてくれたせめてもの餞として、死にたいならばとどめを刺すつもりだった。
そのとき、女が腫れ上がった瞳を微かに開いた。そうしてわたしの顔を見て。燃え尽きたはずの心を華やかに燃え上がらせたのだ。故郷に置いてきた愛すべきもの。旅立ちの前にかわした濃厚な愛の言葉と行為。あまりにも強い祈りと助けを求めて必死に縋りつく願い。しかし次の瞬間にはわたしへの鮮やかな憎悪に変わっていた。わたしがあそこに潜みながら何もしなかったことを見抜かれたのだ。彼女はわたしと同じものだった。いや、死にゆく間際にそう成ったのだ。
まずいと思ったときには遅かった。わたしは彼女が持っていたあらゆる気持ちを爆発的にぶつけられた。心を読むわたしの能力はたやすく打ち破られ、それでも心は容赦なく投射された。彼女がわたしの中にするすると入り込み、わたしはもはや彼女でしかなくなっていた。
それから三月かけてわたしは全てを無に帰した。彼女の力を使えば簡単なことだった。まずはこの村の実態を暴き、他村の不満を殊更に煽り立てた。そうして彼らの心に、巧みに暗い感情を織り込んでいった。殺せ、犯せ、奪え。だから一月後、いくつもの村が共同してあの村に押し入ったとき、そこには阿鼻叫喚の地獄絵図が広がった。殺されない男はおらず、犯されない女はいなかった。子供は卑しい犯罪者の子孫だからと容赦なく駆逐され、かくして欺瞞の村は滅んだ。あまりにも暗い感情が村を包み込み、それがあまりにも心地よくて、美味しくて、わたしは村の外れでけらけらといつまでも笑い続けた。心を読めることの楽しみをわたしは味わい尽くしたいと思った。
復讐なんかどうでも良くて、だからわたしは農民たちを扇動し、この仕組みを作った為政者たちと戦争をさせた。残念ながら農民たちは負かされてしまったのだけれど、これだけの騒動が起これば、お上のお偉方が黙っているはずもない。為政者たちは領地や領民、各々の特権をはぎ取られ、腹を切ったり放逐されたりした。そうして全てが終わり、わたしはやるべきことをやり尽くした。
でも、これからだと思った。これからわたしは同じようにしていくつもの仕組みを破壊する。そうして心を食い、怖れに身を浸そう。怖れられれば、わたしは誰にも何もされない。安心して生きていける。何よりも楽しい。心を読んで、苦しめることは楽しい。さあ、行こう。
でも、どこへ行けば良いのかわからなかった。わたしはここ以外の場所を知らなかった。だから本当に途方にくれてしまった。誰かが助けてくれれば良いなと思ったけれど、でもわたしはそれを知らなかった。
助けて欲しかった。誰でも良いからわたしを支えて欲しかった。優しくして欲しかった。愛が欲しいと思った。わたしは誰かに愛されていたはずなのだ。どこかにわたしを愛してくれる人がいるはずなのに、どうしても思い出せなかった。だからわたしは必死に心を探り、縋り、見つけだそうとした。
それと同時、わたしは弾き飛ばされると思うくらいの衝撃を覚え、切れた糸のようにぷつりと意識を失った。
まるで長い夢を見ているようだった。わたしが積極的にことを成し、何かを滅ぼしてしまったような気がした。それが夢なのか真なのか、わたしは確かめようとして身を起こし。その視界の先に、何者かが倒れているのを見つけた。もしやあのとき壊された少女なのか。わたしはほんの一夜ほど意識を失っただけなのかもしれない。そう願いながら、わたしは彼女に近づく。
願いも空しく、彼女は全く別の存在であった。そこには些かの傷も見つけることができなかったからだ。しかしあの彼女と似ているところもあった。心がざらざらと濁り、いかなるものも読みとることができなかったのだ。
ことの次第を確かめたくて、わたしは彼女を揺り起こす。すると微かなうめき声をあげながら、ゆっくりと立ち上がった。その身にはやはり傷一つなく、その肌は雪のように白くてきめ細やかだった。器量の良い顔立ちだけれど、どこか異人じみた印象を受けた。
彼女はぱちぱちと目を瞬かせてから、わたしのことをじっと覗き込んできた。そしてわざとらしく柏手を打った。
「わたしはわたし。わたしもわたし。おかしいことになってるわ」
まるで謎かけのように言ってから、彼女は怖れる様子もなくわたしの顔を覗き込んできた。そしてはてなと首を傾げた。
「おかしいわ。わたしが何を考えているのか分からないなんて」
その物言いで、わたしは初めて彼女が何であるのか朧気に分かった気がした。しかし確信を持てなくて、わたしはかまをかけるようにして、自信を装って断言した。
「あなたは、わたしではないわ」
すると彼女は疑うようにわたしの瞳をじっと見据えてきた。
「それならば、わたしは誰? わたしがわたしでないのならば」
彼女はわたしと共にあり、峻別された何者かだ。だからこそ彼女はわたしを分かつことができない。それならばどうすれば良いのだろう。わたしではないわたしを他とする手段があるのだろうか。
その方法を、わたしはこれまで餌としか考えていなかった人間から見出すことができた。彼女がわたしに投射されたから、こんなことを考えついたのだろうか。そう思うと気分は良くなかったけれど、他に方法もなさそうだったので、わたしは人間の習慣に倣った。幸いにしてわたしは彼女にふさわしいものをすぐに思いつくことができた。
「あなたはこいしよ」路傍に転がるもの。心を投射しても、何も返ってこないもの。わたしの対存在、互いに羨み怖れるべきものとして、これ以上の名前はないと思った。そしてわたしは名前によって、彼女を明確に峻別することができた。「わたしはさとり」
「だから、わたしたちは違うものなの?」彼女ーーこれからはこいしと呼ぶべきものはしばし俯き、その考えを咀嚼したのち、小さく頷いてみせた。「なるほど。わたしはこいし、あなたはさとり。だからわたしはわたしじゃない。あなたなのね」
わたしは頷いてその思考が正しいことを示す。
「よく分かったけど、分からないわ」相矛盾することを言い、こいしと名付けた対象は腕を組み、首を傾げた。「わたしはどうすれば良いの?」
「知らないわ。わたしはあなたではないのだから」わたしは突き放すように言うと、素っ気なく付け加えた。「あなたは既に目的を果たした。あなたを苦しめたものたち、その仕組みは崩された。最早、何もすることがないのね」
「そうみたい。だから、わたしは訊ねるの。わたしより長く生きているあなたなら。わたしに何かを教えられるのではなくて?」
「知らないわ。わたしは人間の心を読み、脅かすことで糧を得る妖怪だから。それ以外の生き方を知らないのよ」
別にそれで困らないし、これからもそうして生きていくだけだ。ただし、ここに留まるのは危険すぎる。こいしとしてのわたしが、この辺りの秩序を完全に狂わせてしまったからだ。圧政による反乱と捉えられる可能性が高いけれど、裏に潜む魔を勘ぐられているかもしれない。
「ただ一つ言えるとしたら、近いうちにここを離れるわ」
「そう。なら、わたしも一緒に行く」
「どうして?」わたしは彼女に側にいて欲しくない。だから冷たく問い質した。「あなたはなにものからも自由なのに」
「だからこそよ。だから、一緒に行くの」そういって、彼女は屈託のない笑みを浮かべる。「わたしはあなたが好きだから」
「わたしはあなたのことが嫌いよ」いるだけでざわざわとして落ち着かない。それにわたしは彼女の言葉を信じられなかった。「わたしはあなたのことを一度見捨てたのよ? それでも好きと言えるわけ?」
「そうね、人間の気持ちならば怒ったかもしれない。でも、他人の心を読むことを知った今なら、そうした理由が分かる。むしろいま、心を読めないのが悔しいくらいだわ。どうしてわたしは力を失ってしまったのかしら」
「それは……」わたしにもよく分からなかった。でも、何となく推測はできた。いや、心の中ではそうだと確信しているから、きっとそうなのだろう。しかし、わたしは何故かそのことを彼女に話すことができなかった。「ごめんなさい、よく分からないわ」
「そう。でも、わたしはあの感覚を知っている。だからいつか、取り戻すことができるはずよ」
それは難しいだろうとわたしは思う。何故ならば、彼女は。こいしは、わたしの心の病みだからだ。わたしが忌むもの、嫌うものを想起し、切り離したものが、彼女だからだ。わたしから彼女を排除するために。わたしがわたしを取り戻すために。
わたしは心の目が閉ざされることを怖れる。心の読めないものを怖れる。わたしがわたしでなくなることを怖れる。だから彼女は、こいしは心の目が閉ざされている。読むべき心がない。自分が自分であると定義できない。即ちわたしの天敵なのだ。好きになれるわけがない。わたしの苦手なもの、嫌いなものを集めているのだから。
それなのに、わたしは何故か、手を伸ばしていた。切り離したいのに、退けたいのに、嫌ってしまいたいのに。わたしはこいしを厭い切ることができなかった。それは結局のところ、彼女がわたしの一部であるからなのだろうか。そこから逃れることはできないのだろうか。
「どうするの? 一緒に行くのでしょう?」
わたしがそう促すと、こいしは初めて戸惑う素振りを見せた。
「あなたはわたしが嫌いと言ったのに。どうして手を差し伸べてくれるの?」
「さあね。一人でいることに少しだけ飽きたのかもしれない」
もしかしたらそれは少しだけ本当だったのかもしれない。もちろん全てではないけれど。
「あのね、わたし……」こいしはわたしに何かを伝えようとして口ごもり。そっとわたしの手を握った。「わたし、心を読めるようになりたいわ。でも、もしかしたらあなたの心を読むのが怖くなるかもしれない」
その言葉は一つの嘘をそっとわたしに伝えていた。こいしはわたしのことを好きではないのだ。憎んではいないけれど、苦手ではあるのかもしれない。
「わたしも、そうなるかもしれないわね」
もしわたしが怖れたまま近くにいれば、こいしはずっと目を閉ざしたままだろう。だからわたしはこいしの手を払い、互いに孤独で生きていくのが一番良いのだ。そうして初めて、こいしは目を開くことができるのだから。
それでもわたしは、この手を離すのが怖いと思った。一人より二人が良いと思った。どんなに歪んだ関係であっても。歪な鏡に映ったわたしであっても。想起された幻であったとしても。いや、だからこそ怖いのかもしれない。離別は二つの道ではなく、一つの消滅でしかないのかもしれないのだから。
わたしはこいしと名付けた彼女に、わたしと同じであって欲しいのかもしれない。例え自己愛に過ぎないとしても、彼女にはいて欲しかった。
だから、手を離せなかった。
「では、行きましょうか」
「わたしたちがわたしたちでいられる場所へ?」
それはわたしたちにとって理想郷過ぎて。
そうであれかしと願っていても、頷くことはできなかった。
「ここではないどこかへ。今はそれで十分」
彼女は。もとい、こいしはわたしの言葉を噛みしめてから、小さく頷いた。
そうしてわたしたちは壊れゆく秩序に背を向けて歩き出す。その先に何があるかは分からないけれど、今はただ二人で歩いていたいと思った。
何度も読み返してしまいました。
場面は、作者さんが平気でも苦手な人は居るのだから、物語の最初にして注意事項や
タグを付けるべきでしょう?
よって、この得点で
お見事でした
まあこの点数で
圧倒されましたよ。
次作も超期待。
でも100点入れちゃう。だって面白いんだもの。凄いと思っちゃったんだもの。
もう少し読みやすく書くよう努力して下さい。
それにしても、さとりって本当に心の妖怪なんですねぇ
妖怪がどうやって生まれるかを考えると、こいしの登場の仕方も「こういうのもあるのか」と驚きつつも納得しました
少女に乗っ取られる前の覚と、分裂したあとのさとりが
ある意味では同一じゃないからこそ、
この話にはタグがないのかなと思いました。